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至福の時間

 投稿者:カムイ  投稿日:2010年 2月16日(火)23時54分29秒
  ★ 園主 さま


>カラオケ13時間!

先日は、二人で13時間耐久カラオケに挑戦し、何とかそれをクリアすることができるなど、楽しいひと時を過ごすことができました。
お誘いいただきまして誠にありがとうございました。


>私の場合、練習中の一般曲を除けば、あとはすべてアニメ特撮系ソング。しかも同じ曲はいっさい唄いませんでした。ただ、夜中の3時を超したあたりから喉に負担を感じ始めましたので、それ以降は「叫び系」や「高音系」は避けて、喉に無理のない曲で流しました。

カラオケの前日は、夜勤明けでしたので、お約束の午後4時まで少し仮眠することにしていたのですが、なかなか寝付くことができませんでした。まるで、子供が翌日の遊びのことを考える余り、寝付けないような感覚に浸っていました。
当日は、最初に決めていた場所が満席で待たされることになりましたので、急遽、場所を他に移すことになりました。そうして午後5時からですが、場所を代えてカラオケを開始することになりました。最初の2時間ぐらいは、寝不足気味で頭が重く調子がでませんでした。午後8時辺りを過ぎた頃になると眠気も治まり、夜中の3時頃までは練習中の曲を交えながら唄っていましたが、夜中の3時をピークに私の持ち歌が切れはじめたのと、またしても睡魔がおそってきました。同じ歌を唄うそんな私をよそに、アレクセイさんは次々と違う唄を選曲され熱唱されています。アレクセイさんは、新曲の習得にも余念がないようで、前(お正月休み)に練習中であったと聴き及んでいた曲以外にも、次々と新しい曲を披露されます。例えば、私が1曲仕上げてくる間に、アレクセイさんは3曲〜4曲程、レパートリーが増えているような感じでした。


>これまで、喉の限界を感じるまで唄ったことは一度もなく、4時間くらいなら1人ででも楽勝だったのですが、今回は1人に換算すると、おおむね5時間を超えたあたりから、喉に疲れが出てくるというのがわかりました(もちろん、体調や時間帯の問題もあるでしょうが)。ですから、今後は1人で5時間、2人で10時間を限界としてカラオケを楽しみたい。つまり、これ以上記録を伸ばすことは考えません。そんなことをやって、せっかく天の与えしこの「エンジェルボイス」を潰すわけにはいきませんからね(笑)。

カラオケの最中、私は生身の人間であることをすっかり忘れ(括弧に入れ)てしまい、喉の限界のことを考えていませんでした。ずっと声が出続けて、最後まで楽しめるだろうと淡い期待を寄せていたのですが、仰っているように10時間を過ぎた頃より声が伸びづらくなってきました。それでも、アレクセイさんの声量だけは衰えずに、最後まで大音量で通されていました。私はといえば、最後の方は、もう傾眠気味でして、脳内はエンドルフィン効果のような快感とは異なりますが、モヤモヤ感に苛まれていました。(笑)
熱唱される際のアレクセイさんのお声はよく響きますし、何よりも大音量が魅力的だと思います。また、曲を唄っている歌手の特徴をよく研究なさっているところもあって、随所にその遊びゴコロと申しますか、モノマネを取り入れたりもされてアレンジを加え、工夫を凝らしていたりしました。


私は、アレクセイさんとカラオケをご一緒できるようになってから、楽しく唄うことの喜びを教えていただけたと思っています。それまでは、「自分は音痴だ」と思い込んでいて、カラオケに行くことさえない日々を過ごしていました。ところが、どうでしょうか。腹の底から楽しみを味わいつくすといったら伝わるでしょうか。しかし、いくら愉しいといいましても、カラオケに逃避し過ぎては困り者にもなるわけですが、とにかく、日々の雑多な生活の緊張感から解放される方法がカラオケになってきております。
岡本太郎風にいえば、『カラオケは爆発だ!』でしょうし、また、ニーチェ風にいえば、『カラオケは陶酔だ!』と実感を込めて申し上げるまでに変化しつつあります。(笑)


これからも、よろしくお願いします。
 

カラオケ13時間!

 投稿者:園主  投稿日:2010年 2月15日(月)19時40分40秒
  みなさま、私先日、友人のカムイさんと2人で、自身のカラオケ最長記録をつくってまいりました。13時間でございます(笑)。

カムイさんは、一応土日が休みなのですが、金曜の晩から土曜の朝までの仕事もあるため、普段は月に一度くらいの間隔で、日曜のお昼すぎから夜9時ごろまでカラオケをいたします。まあ、だいたい8時間くらいでございますね。でも、それではちょっと物足りないということで、お正月休みに10時間やったのでございますが、この調子なら12時間くらいは楽勝だということで、そのうち限界に挑もうという話になっていたのでございます。

私たちは、主に大阪梅田のジャンカラに行くのですが、ジャンカラは大概の店の開店が午前11時で、閉店は翌朝の5時(日曜の朝は6時)なので、通常は最長で18時間が限界になってしまいます。で、ひとまずこの18時間に挑もうという話になっていたのですが、それだとどうしても土曜から日曜の朝までということになります。しかし、カムイさんは土曜の朝まで仕事なので、仕事明けに寝ないで徹夜のカラオケをするわけにもいかないし、体力的にも不可能。そこで、土曜の夕方4時から翌朝6時までの14時間コースを計画して出かけましたところ、土曜で込み合っていたため、結局部屋に入れたのは5時になってしまい、13時間コースとなったわけでございます。

結果としては、13時間完走いたしました。交互に唄って13時間というと、1人あたり6時間半。相方が唄っている間に、次の曲を選び、喉を潤し、食事をし、トイレに行き、コメントするなどしていましたから、休憩のための休憩は最後まで一切とっておりません。だから、単純計算すると、1人80曲くらい唄ったことになります。
私の場合、練習中の一般曲を除けば、あとはすべてアニメ特撮系ソング。しかも同じ曲はいっさい唄いませんでした。ただ、夜中の3時を超したあたりから喉に負担を感じ始めましたので、それ以降は「叫び系」や「高音系」は避けて、喉に無理のない曲で流しました。

これまで、喉の限界を感じるまで唄ったことは一度もなく、4時間くらいなら1人ででも楽勝だったのですが、今回は1人に換算すると、おおむね5時間を超えたあたりから、喉に疲れが出てくるというのがわかりました(もちろん、体調や時間帯の問題もあるでしょうが)。ですから、今後は1人で5時間、2人で10時間を限界としてカラオケを楽しみたい。つまり、これ以上記録を伸ばすことは考えません。そんなことをやって、せっかく天の与えしこの「エンジェルボイス」を潰すわけにはいきませんからね(笑)。





 さま


省察1

お願い

> 『省察1』に対しては、どうか逐語レスをなさらないでくさい。
> 僕は、アリョーシャから投げかけられた、「問い」に逐語レスしていません。
> 中途半端に目録のような『省察1』を書いたこと自体、論点逸らしになることを恐れます。
> 特に僕の信仰と信条の相克は、非常な難問であり、一生結論に至ることがないかもしれません。
> そのような、問題を雑に書き殴るわけにはいかないのです。


もちろん、淳さまの信仰や思想・信条の問題が、一朝一夕に「解答」の出るものだとは思っておりません。その意味では、答えを焦る必要はございません。ましてや、私への回答を焦ることなど無意味でございます。

しかし、ひとつだけ助言させていただきますと、信念にかんする難問は、いくら頭の中で捏ねくり回しても、そうそう進展のあるものではございません。むしろ、よく言いますように、書きながら考える、「手で考える」ということも重要なのではないでしょうか? 書くというのは、なにも「結論(結果)」を書くためだけの作業ではないのだと存じます。例えば、歌だって、唄ってみて初めて、自分が細部を曖昧にしか憶えていなかったことがわかる、というようなこともあるのでございますよ。だから、歌うためには、徹底して聞き込み、徹底して唄うのでございます(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

お願い

 投稿者:  投稿日:2010年 2月12日(金)05時16分9秒
  ★アリョーシャ

下記の『省察1』に対しては、どうか逐語レスをなさらないでくさい。
僕は、アリョーシャから投げかけられた、「問い」に逐語レスしていません。
中途半端に目録のような『省察1』を書いたこと自体、論点逸らしになることを恐れます。
特に僕の信仰と信条の相克は、非常な難問であり、一生結論に至ることがないかもしれません。
そのような、問題を雑に書き殴るわけにはいかないのです。
 

省察1

 投稿者:  投稿日:2010年 2月 8日(月)06時46分19秒
  ★アリョーシャ


棚卸しが終わって、ホッとする合い間もなく、一斉の価格改定作業と、ヴァレンタイン絡みでてんてこ舞いの日々です。まあ、酷い残業続きでヘトヘトです(苦笑)

僕が、応答したいと思う論点を簡潔に書き起きますね。次のレスでは、先般の「アリョーシャの問い」について逐語的な応答になるように勤めます。

――――――――――――――――――――――――――――――


*「個人の自由意志が最大限に尊重された社会を望む」というアナキズムの基礎的な土台となる信条と、「仏国土」という理想の間に存在する大きな隔たりについて。


*「信仰者」を自認する人は、論証が不可能な事柄についてこそ、懸命に命を賭けて「言葉」を尽くすべきであり、それは、美辞麗句や修辞を尽くして語るのではなく、ごく素朴な「言葉」をもって語るべきであるという点。


*信仰における「絶対」とは、宗教間の相対比較を繰り返して、「絶対」に至るのではなく、「絶対」とは常に、数学の公式と同様の正確さのように、独立して「在る」ものでなければならないという点。同時に信仰者が「絶対」に陥る恐れについて。(例えば、死ぬまでヴェイユが洗礼を拒んだように)


*色心不二と諸法実相について。


*イラク戦争勃発時において、一般的な創価学会員が、骨抜きにされた傍観者どころか、一部、積極的に戦争の正当性を訴えた点について。(僕にとって余りも衝撃的な事件だったのです)


*「まず先に個人としての信仰に基づく信念があり、その後に連帯があるべきだ」という点。


*実践レベルでのアナキズムと実践レベルでの日蓮の信仰について。




――――――――――――――――――――――――――――――

陽水の音楽については、簡単です。僕は、殆ど一部の例外を除いて歌詞を重要視しません。声も一つの楽器の一部として楽しみます。僕の聴く音楽の多くはインストなのです。
それに僕は、あの曲のCDを持ってませんでしたので、歌詞まで知りませんでしたが、歌詞は兎も角、音楽として素晴らしい曲ですよ。
 

なんだかなあー・・・。

 投稿者:園主  投稿日:2010年 2月 4日(木)00時15分39秒
  みなさま、本日も「mixi日記」の転載でございます。私は、下の「安治川事件」を、本日mixiの当該記事で知りました。

私の日記は「-----」で挟んだ部分で、そこにあるURLに示したmixiページに、下の「日刊スポーツ」紙の記事が紹介されておりました。mixiをやっておられる方以外には閲覧不能ですので、ここでは元記事をそのままご紹介しておきます。
なお、この記事には、私が日記をアップした段階で670を超す日記が書かれていましたが、現時点では1000を超しており、世間の関心の高さを示しております。



『    貴当選と引き換えに造反の安治川親方廃業日刊スポーツ - 02月03日 10:15

 貴乃花親方(元横綱)が当選した日本相撲協会理事選挙の結果が、親方の退職という前代未聞の事態に発展した。2日深夜、安治川親方(36=元前頭光法)が東京・江東区の大嶽部屋で会見し、突然の退職を表明した。立浪一門の宮城野部屋の部屋付き親方だったが、前日1日の理事選では一門外の貴乃花親方に投票した。その結果、同一門が擁立した前理事の大島親方(元大関旭国)が落選。同親方は同一門の「反省会」で造反を告白し、責任を感じて角界を去る決意をした。造反者追及の動きは厳しく、今後も退職者や一門離脱表明者が出てくる可能性もある。

 何か吹っ切れたような表情だった。日付が変わりかけた深夜、安治川親方が突然の退職を表明した。「選挙で、貴乃花親方を支持して1票入れました。大変迷惑をかけて、相撲協会を退こうと思いました」。立浪一門の宮城野部屋付き親方が、貴乃花グループの大嶽部屋で行った会見。横綱白鵬の兄弟子でもある同親方は「自分のけじめで退こうと思った」と言った。89年春場所初土俵。22年目の角界生活に、別れを告げた。

 立浪一門は1日の理事選に、現職だった大島親方(元大関旭国)友綱親方(元関脇魁輝)を擁立。一門の総票数は20で、当選ラインの10票を2人に振り分けていた。だが、同親方は同世代の貴乃花親方に共鳴。「勇気、心意気という言葉を聞いて、この人ならなんとかしてくれると思った。迷う部分もあったが、最後は頭より心が動いた」。一門の縛りと、相撲界改革への熱意に迷いながら、貴乃花親方に1票を投じた。

 その結果、大島理事が落選した。予想外の出来事に、同一門は選挙直後と、この日午前に緊急会合を開いた。目的は貴乃花に流れた「2票」を投じた“造反者”を捜すこと。約1時間半の会議で、同親方は自ら名乗り出た。「自分から名乗り出た。かなりの波紋を呼んだ。自分の気持ちに正直に、協会に変化があればと思って、入れた。個人の気持ちとしてはいいかもしれないが、一門という家族を乱すのはどうかと思った」。

 同親方は07年九州場所で引退後、年寄安治川を襲名した。「安治川」は同じ立浪一門になる伊勢ケ浜部屋の幕内安美錦所有の株。それだけに「借株という立場。借りている人に迷惑をかけた」という。借株の場合、選挙で誰に投票するかは、所有者に委ねるのが原則。安美錦の師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)は、大島親方の弟子だ。自身の意思による投票が、一門の理事を2から「1」へと減少させた。造反告白に、大島親方は「気にしなくていいよ」と言ったという。

 一門の存在意義が問われた今回の選挙には、貴乃花グループの「破門」もあった。貴乃花親方の波乱に満ちた「改革」への道は、1人の親方の人生まで変えてしまった。安治川親方によると、電話で退職の報告を受けた貴乃花親方は「びっくりしてました」という。造反者の追求は続いているだけに、今後も同じように退職や一門離脱を表明する親方が出てくるかもしれない。

 血を流さないと、旧態依然の体質を変えることができないのか。相撲界の将来を思って投じた1票。安治川親方は「いろんなことに変化を与えてくれると思う。徐々にという形で。支持して良かった、最後まで」と、すがすがしい表情で言い切った。1人の男が人生を懸けてまで託した思い。絶対に無駄にすることは許されない。【近間康隆】 』


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 いびり出し    2010年02月03日14:13


貴当選と引き換えに造反の安治川親方廃業
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1098391&media_id=8


こんな理不尽がまかりとおる世界で「イジメ殺人」についてのけじめがつけられなかったというのは理の当然。一門の「反省会」で裏切り者探しを行った結果、同親方がいたたまれなくなって引退を表明したとしても、「民主的な選挙」という形式を選んで選挙を行った理事会が「待った」をかけて、是が非でも引き止めるというのが筋ではないのか?

しかし、他の方も書かれているように、どんな世界にもこういう不合理は存在する。ことに「日本的なコミュニティー」では、そう。無論、mixiのコミュニティーだって同じで、正しい意見が批判的なものであった場合、コミュニティーの意思に逆らう、空気を乱す存在として排除されるのが当たり前になっているのだから、決して他人事などではない。
この記事に対して、現段階で六百数十という日記が書かれており、その大半が安治川親方に同情する内容なのだろうが、そのなかの半数は、立場が変われば、彼をいびり出す側に立っている人間であろう。その自覚が、今はまだ無いだけなのだ。

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【追加分】

と、ここまでをアップしようと思ったら、『安治川親方:一転して退職の意向撤回…「一門のご厚意で」』(毎日新聞 - 02月03日 22:14)という記事が出ておりました。そこで、次のような「mixi日記」をアップしておきました。
元記事を引用する気にもならないので、リンクだけでご勘弁下さいまし。これだと、いずれ記事が削除されて、リンク切れになってしまうのですが。


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 いびりは無かったことにしてください、ですか?  2010年02月03日23:15

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1099255&media_id=2

誰がそんな話、信じると思っているんだろうか?
世間をなめきっているのは、朝青龍だけじゃないってことか。

そんなもん、イジメがなかったら、安治川親方も引退まで決意なんかしなかったに決まっている。彼の独り相撲、思い過ごし的な言い方で責任回避しようなんて、本当に度し難い世界ですね、今の相撲界というのは。

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上の文中の『引退』は、正確には「退職」でございますね。記して訂正しておきます。

それにしても、こうなることまで計算してやったんなら、安治川親方も「天才的な策士」ってことになるのですが、さすがにそれはないでしょうね(笑)。





 Keenさま


おお、アリョーシャ復活

> また、園主さまの書かれていることに私も思うところがありました。
> 先日の三連休に初釜と初ライヴがありまして、ライヴの方は、英国のロックバンド「MUSE」の名古屋公演に行ってまいりました。大きな会場での映像や光線を多用したハデな演出が美しく、もちろん演奏も最高、大満足で今もまだ余韻に浸っております♪
> でも、実は人気海外バンドゆえにチケットはなかなか高額であり、行くかどうかはけっこうギリギリまで迷いました。山口に行ったばかりだし、贅沢かな〜、という気持ちも……しかし、今まではライヴに興味を示さなかったKeen Jr.が、急にMUSEなら行きたいと言い出しましたので、結局チケット二枚という、倍額の出費になってしまいました(笑)。
> それでも、やはり一人で行くのと二人で行くのとは大違いですし、Keen Jr.の記念すべき初ライヴ(※本当の意味での初。私の場合は新年初、というだけ)としても、ライヴ最強のMUSEは相応しい。今後、下手なバンドのライヴに満足できなくなる危険もあったりして〜(笑)。
つまり結果としては、「行ってよかった」と。

「贅沢」とは、本来「好ましいもの」なのだと存じます。しかし、それが誰かの犠牲の上に成立するものだとすれば、そこにある種の後ろめたさを感じるのは、人間として自然な感情だとも存じます。しかし、この世に、他人の犠牲なしに成立している「贅沢」なんてありえませんし、「贅沢未満」のものですら、何かしら他人の犠牲の上に成立っているのではないでしょうか? だとすれば、それを完璧に避けようとすると、人は死ぬしかない。しかし、それでは本末転倒だからといって開き直るというのも、また最低の誤魔化しでございましょう。
だとすれば、私たちにできるのは、そうした矛盾のはざまで悩みながら、すくなくとも自分の享受している「贅沢」を無にしないことだと存じます。つまり、「贅沢」に接することで自身を内面的に豊かにして、それを社会にさし返すのでございます。
ですから、私たちは「贅沢をしていながら、心だけは貧しい」という人間にだけは、決してなってはならないのだと存じます。また、その意味で「贅沢」が考え悩むための切っ掛けのになるのならば、それはそれで意味のあることなのでございましょう。


> 昨日お稽古があったので、改めて象牙の縞について尋ねてみましたが、先生にもわかりませんでした。私の先生は、高価な茶道具の蒐集に価値を見出すタイプではないので、そういうことにもあまり関心がないのかもしれませんが。お道具のことは骨董屋さんにきいた方がいい、と言われました。もっともだ(笑)。
> つまり、私が感じた反発とは、「道具自慢をしたいのなら、ちゃんと十分な裏付けを持ってやってくれ、ただ『これはいいものとされているから、いいものなのよ』とだけ言われても、それを鵜呑みにすることはできない」ということだったのだと思います。
まあ、確かに初心者の私にも、古びて品のある茶入れだなあと見えたので、いい品物なのでしょう。道具自体を否定するつもりはありません。でも、その高価な茶入れが、日頃お稽古で使っている安物の(?)茶入れを貶めるようなものであってはならないと思うのです。要は、お茶が入る器であれば用は足りるのですから。


『お道具のことは骨董屋さんにきいた方がいい』というのは、けだし至言でございますね(笑)。
人間は永遠の時間を生きているわけではないのですから、何でも知っているわけじゃない。何かの知識を得るために、別の知識を犠牲にしているのです。ですから、専門家が専門に関して深い知識を持っているのは、当然のこと。ただ、専門のない人が、いろんな知識を浅く広く知っているかと言えば、そういうことでもない。専門がないから研鑽しないという人の方が多い。だから、なまじ専門家が尊敬されるのですね。でも、だからといって私は、博覧強記や雑学博士を褒めているのではございません。あれはあれで一種の「専門」でしかないからでございます。

では、「専門」のない私たちが磨くべきものとは何か? 私はそれを「英知」だと存じます。何が正しくて何が間違っているのか、それを知識によらずとも感じ取れる心。「英知」とは、そういうものを言うのだと思うのでございますね。
また「知識に依存する者は、知識に脚を掬われる」というのが、私自身の論争経験からも言えることなのでございます。



 さま


自己省察の時間


このお書き込みに関しては、すでにホランドくんが私の意見を紹介してくれておりますので、ここでは割愛させていただきます。


応答責任と思考の過程

> 時間を空けてしまってすみません。
> 仕事も、無事に棚卸しが終わって、一区切りつきました。
> 仕事に関しても書きたいことは山ほどあるのですが、
> それは、話題を逸らすような卑怯な行為だと思いますのでココでは避けます。


べつの話をすることと話題をそらすことは、別問題でございましょう。このように外聞(見かけ)を気にすることに、さほどの価値があるとは思えません。もっと原理的に考える習慣が必要なのではないかと存じます。


> アリョーシャの投げかけた難問に対して、自分なりの完璧な回答を提示しようと思っていました。もちろん、それが正答であるとは限らないのですが、常に納得のいく応答を目指しつつ、未熟ながら思考の過程を徐々に書いていきたいと思います。


『自分なりの完璧な回答を提示しよう』とするのは、相手のためではなく自分のためでございますから、それは当然でございます。
むしろ私は、そのような「精神論」や「倫理道徳論」めいた話よりも、「厳格な数学」的な思考努力を期待いたします。
例えばそれは、シャーロック・ホームズの言う「全ての不可能性を排除した後に残ったものは、たとえそれが非現実的で不可能なものに見えても、それが真実だ」というような態度を申します。
もちろん、現実の思考法としてはそう上手くはいかない。しかし、ホームズがここで言っているのは、データの検討に当たっては、あらゆる立場や感情から自由でなければならない、ということでございましょう。すくなくとも、その気がない「条件付きの誠実」では、まともな思考は期待できません。それは「政治的偏見に依った学者の見解」などにも明らかなのではないかと存じます。


> もちろん、「アリョーシャの問い」は、メモ帳にコピペして、デスクトップに保存してあるので安心してください。


それをやると、それで安心してしまうということがございますので、十分注意なさってくださいまし(笑)。


> まだ僕は、このローズガーデンの敷居の高さを感じているんですよね。
> ミクシィみたいな閉鎖空間だと、平易な言葉で自由に書いていることも、
> ココにくると、異常にかしこまるんですよ。
> だから、身の丈に合わない言葉を連発してしまい、恥ずかしい思いをしてしまう。


そうでございましょうか? 私は、淳さまのmixi日記も拝見しておりますが、そこでもあまり意味のない権威的な物言いがあるように感じます。例えば、賃労働にかんするヴェイユの言葉の半端な引用とか、バレンタインデーを無造作に『俗人祭典』呼ばわりするとか。

Keenさまの書き込みにもございましたとおり、まともに考えれば、私たち自身れっきとした「俗人」なのに、それをバレンタインデーに限って見下すように言うのはフェアではございませんし、それに気づかずに言っているのであれば、それは考えが足りない。もちろん、バレンタインデーのあり方には批判されるべきところもございますから、根拠をしめして批判するのならいいのですが、何となく貶すというのはいけません。それでは、世間並みの「俗人」でしかなくなるからでございます。少なくとも私たちは「考える努力をしている俗人」でなくてはならないのでございます。

今回も少々厳しい言い方になりましたが、私が危惧するのが、淳さまの誠実さや純粋さが、凡庸な知識に汚されることなのでございますよ。「知識」は毒にも薬にもなるのだということを、くれぐれも忘れないでくださいまし。「得た知識をいったんは捨てる覚悟」を持たなければ、どうしても人は、つまらない知識に依存して思考を放棄してしまうものなのでございます。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

涼宮ハルヒの消失 ーー 象徴としての涼宮ハルヒ (後)

 投稿者:園主  投稿日:2010年 1月31日(日)22時02分12秒
  承前



 見てのとおり、キョンは「元の世界」に戻ることを選んだ。妄想的で悪夢的で非現実的な、あの「元の世界」に戻ることを切望して、それを選んだ。
 常識的に言えば、そんなわけのわからない世界へ戻ろうとする人間はいない。なにしろ命がいくつあっても足りない世界なのだから、そんな世界には誰だって戻りたいとは思わないだろう。しかし、キョンはその世界へ戻りたいと願った。読者も、キョンと同じくそれを望んだ。なぜか? それはキョンであれ読者であれ、本当は「元の世界」が「危険で不愉快な世界」などではなく「(安全を保障された)楽しい世界」なのだということを、事前に知らされているからだ。もちろん、キョンの場合は作中人物として、「元の世界」の安全性について自覚を与えられてはいない。ただ、表面的に「非現実で悪夢的な世界」だと認識しているだけで、そこが「エンターティンメントフィクションの世界」だという認識は(ひとまず)与えられていない。ただ、キョンは読者の期待に応えるようにして、本当は「元の世界=涼宮ハルヒシリーズの世界」が好きだという告白をさせられたのである。
 したがって、キョンの選択と告白は、読者の支持と共感を得るだろう。キョンの告白を、読者は自らの想いを代弁するものと感じるだろう。そのように書かれているのである。まただからこそ、この作品は人気エンターティンメントとなり得ているのである(この真逆を行ったのが、『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズのラストである)。

 しかし、ここで作者によって肯定されている読者の欲望とは、どういうものなのか? それが本稿における考察の眼目となる。これは、作品の良し悪しの問題ではない。問題は、この作品が体現する「世界」を支持した多く読者の「心理」の方にあるのだ。

 まずここで注目すべきは、主人公である涼宮ハルヒの奇天烈な性格だろう。ハルヒは常識的な日常に退屈して、超能力者や宇宙人といった非日常性に憧れ、それを欲している。しかしその一方、ハルヒは意外に常識的な人間で、本当はそんなものがそこいらに転がっているはずのないこと、自分がいくらそれを探し求めても一生それらの本物には出会えないであろうことを知っている。だから、キョンがハルヒに残り3人の隠されたプロフィールをバラしても、ハルヒはそれを本気にはせず、ここではないどこかに存在するかもしれない非日常の方を、SOS団の仲間と探そうとするのである。

 ハルヒのこうした設定を見ていて私が連想するのは、私が子供の頃に比べると、昨今は幽霊だのUFOだのUMA(未確認遊泳物体=ネッシーなど)だのを扱ったテレビ番組がめっきり減ってしまったうえに、それらを扱ったとしてもその扱い方が明らかに本気ではない(おふざけに過ぎない)というのを視聴者に臭わす態のものになってしまっているという事実である。私が子供の頃にやっていたテレビ番組(や、その手の雑誌記事など)は、制作者の本音はべつにして、表面上はそれらが「存在するかもしれない」というスタンスでの演出を行っていた。だから、大人の視聴者はべつにしても、子供の視聴者はそれらを真に受けて「もしかすると本当にいるんじゃないか」と思いながら、それらの番組を固唾を呑んで見入っていたのである。

 こうした番組が近年めっきりと減ってしまったのは、なぜか? それは「世界がすべて見渡せてしまう」という認識が一般化してしまって、そうした存在が生き残りうる「闇の領域」がすっかり失われてしまったからではないだろうか?
 じっさい、衛星軌道上に配置され全世界をその視野におさめている偵察衛星のカメラは、地上の人間の顔さえ識別するレベルだというのだから、ヒマラヤの奥地に雪男がいるのかいないのか、ネス湖にネッシーがいるのかいないのか、そんなことを調べるのは容易なことだろう。そして、実際にいるのであれば、その事実はすでに鮮明な証拠写真をともなってNASAから公表されていたことだろう。ところがそういう事実はまったくない。ということは、やはり雪男もネッシーも存在しなかったんだ、嘘っぱちだったんだ。そう認識されるだろうし、雪男やネッシーの仲間だったUFOも幽霊も、結局のところは嘘っぱちだったんだろうという「諦観」が一般化してしまった。その結果、その種のものを大真面目にあつかうテレビ番組もまた、死滅してしまったのではないだろうか。
 しかし、これはあまりにも寂しい現実である。なにも大人になってまでそういう「夢」を見させてくれとは言わない。けれども子供のうちくらいは、そういう夢を本気で見させてもらっても罰は当たらないだろう。そんな気持ちが、今のこの時代には薄く広く蔓延しているのではないか。出来ることなら、あの「夢見ることのできた時代」に戻りたい。そんな気持ちになるのは、自然なことではないだろうか。

 作者の谷川流は、1970年生まれで、私の8つ下である。だとすれば、彼の読者層よりもむしろ、世代的には私に近いのだから、谷川がこのような感慨を抱いていてもおかしくはないし、「夢のない時代」に育った読者たちが抱える無自覚な欲求不満に、谷川流の自覚的な欲望を体現した「涼宮ハルヒ」が強くうったえたとしても、何の不思議もないはずである。つまり、涼宮ハルヒとは、失われた「幼年期の夢」を取り戻そうとして足掻いている「満たされない子供」の象徴なのではないだろうか。

 いっぽう、キョンはどうなのかと言えば、彼は「そんなもん存在するわけないだろ」という「この時代の常識」を体現しながらも、じつは「幼年期の夢」の喪失状態に、無意識的ながら不満を抱いていた(飢餓感を抱えていた)「現代の若者」の代表する人物なのだろう(だからこそ、本名が無い)。彼は「幼年期の夢=涼宮ハルヒの世界」を心の奥底で求めていた読者が、滑らかに「ハルヒの世界」に参入するための「視点人物」なのである。キョン自身の言葉を借りて言えば『一つの学校に宇宙人だの未来人だのエスパー少年がフラフラしているような』バカバカしい世界を、「いくらフィクションだ小説だと言っても、あまりにもリアリティーのないマンガみたいな世界」だと否定的に評価しながら、そのいっぽうで「それでもいい。いや、むしろそういう世界を欲していたんだ」という読者の立場を代弁する、作中人物だったのだろう。

 だが、そのいっぽう、この作品はあきらかに「ビルディング・ロマン」つまり「成長物語」でもある。ハルヒは、自身の奇行につきあってくれる友達、一緒に遊び回れる仲間を得たことで、非現実な面白いことを外に探し求めるというスタンスから、自分で面白いことをやろうとするスタンスへと変化し始めている。対人類インターフェイス、平たく言えばロボットでいかないはずの長門さえ徐々にだが感情を得てきているように見える(まただからこそ彼女は、第4巻で暴走する)。また、キョン自身、年齢に似合わない悟りすました現実主義者のポーズを、この第4巻で脱却して、自分の本音を直視することになる。ーーつまり、5人の誰もが少しずつではあるが、大人へと変化成長しており、決して「永遠の楽園」の中に住んでいるわけではないのだ。

 話を涼宮ハルヒに戻すと、では彼女の奇天烈な奇人ぶり、徹底した自己中ぶりは、いったい何を意味しているのだろうか?
 思うにそれは、彼女が(家庭の事情によって)幼少時に「幼年期の夢」を奪われて育った人間であり、そのために、いつまでもそれを取り戻そうと足掻く結果として、いつまでも「子供のような態度」を採ることになったのではないだろうか。ハルヒは決して「子供」そのものではない、彼女にはちゃんと年齢相応の「常識」が備わっている。にもかかわらず、彼女が「非常識」なのは、常識を受け入れるために必要な、あるいは大人になるために必要な、「過程としての幼年時代」をちゃんと通過しなかったからなのではないか。
 だから、仲間を得てはつらつと「幼年時代」を生き直している今のハルヒは、やがて「幼年期」を卒業して普通の大人になるはずである。そして、その暁には、彼女はこの「常識的な現実世界」を受け入れることだろう。超能力者や宇宙人が存在しなくても、面白いものはいくらでも存在するのだという事実を受け入れる「大人」になるだろう。そして、その不可思議な能力を失うだろう。そのような力など不必要になるからである。

 つまり、作者谷川流が創造した「涼宮ハルヒシリーズ」とは、「幼年時代」の肯定、「幼稚であること」の肯定であり、それこそが「大人の世界」の肯定にもつながるのだ、という主張なのではないだろうか。
 「幼年時代」をきちんと通過した者だけが、本物の大人になれるはずだと、谷川流は自身の読者にそのようなメッセージを送っているのではないか。ーー私にはそう思えるのである。



  2010年 1月31日

初出:mixi日記「象徴としての涼宮ハルヒ(前後)」(2010年 1月31日)
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1402284424&owner_id=856746
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1402287504&owner_id=856746

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

涼宮ハルヒの消失 ーー 象徴としての涼宮ハルヒ (前)

 投稿者:園主  投稿日:2010年 1月31日(日)21時58分19秒
  みなさま、本日は「mixi」の方へ先行公開いたしました書評をご紹介させていただきます。未読の方にもわかるように書いておりますが、そのために一部ネタばらしになっている部分もございまして、なかなか難しいところでございました。とはいえ、本論を読んでからでも普通に楽しめる作品ですので、気楽にお楽しみいただければと存じます。

なお、みなさまへのレスは、また後日ということで、ご勘弁下さいまし。


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   涼宮ハルヒの消失 ーー 象徴としての涼宮ハルヒ

                                       アレクセイ(田中幸一)


  本稿では「涼宮ハルヒシリーズ」第4巻までの基本設定とエピソードを紹介しますので、未読の方はご注意ください。


 原作小説が9巻まで刊行されているベストセラーシリーズでありアニメ化作品も大ヒットして、今や若者の間でカリスマ的な人気を誇るのが、『涼宮ハルヒの憂鬱』に始まる「涼宮ハルヒ」シリーズである。その人気シリーズの、特に第4巻『涼宮ハルヒの消失』までを、今頃になって論じようという論者の立場を、あらかじめここで紹介しておきたい。

 まず、私は、ミステリを中心に小説に限らずにいろんな本を読んできた現在47歳の本読みである。ただし、活字本を読み出したのは遅く高校生になってからなので、児童文学やジュブナイル小説に分類される小説はほとんど読んでおらず、近年注目を浴びている「ライトノベル」もほとんど読んでいない。
 ではなぜ今回「涼宮ハルヒ」シリーズを読むことにしたのかと言えば、その動機の中心には「批評的な興味」があったと言えるだろう。近年、日本の現代批評の世界では、東浩紀の「美少女ゲーム批評」を発端にして、若者のオタク文化に注目するものが少なくない。もちろん、若者文化はいつの世にも、時代の空気を鮮明に反映するものなのだから、それ自体はおどろくに値しないのだが、哲学・思想・批評といったジャンルは、長らく「象牙の塔」的な権威をその身にまとってきたため、「薄っぺらな若者文化」に言及することなど、実際にはほとんど無かったのだ。しかし、ジャック・デリダの鍵概念である「脱構築」に端的に示されるとおり、ポストモダン思想は、そうした従来の「権威」を解体する方向で進んできたため、今では思想・批評が「通俗文化としてのサブカルチャー」に言及することも少なくはなくなってきた、と言うか、むしろそうしたものが人気を博している状況にある。
 私が、ライトノベルに興味をもったきっかけは、小説家で評論家でもある笠井潔が、ライトノベルを中心とした若者オタク文化(笠井潔の用語で言うと「ジャンルX」)に旺盛な興味を示し、積極的にこうしたジャンルの小説家を賞揚し始めたからである。とは言え、笠井潔や東浩紀、大塚英志といった評論家の評論書を読みはしても、ライトノベルそのものを読んでいない私としては、ひとまずそうした評論で言及されているライトノベルの代表作から読んでみるしかない。そんなわけで行き当たった作品のひとつが「涼宮ハルヒ」であった(これ以前に『イリヤの空、UFOの夏』を読んでいる)。

 私は現時点で、第4巻までしか原作を読んでいない。アニメ版はまったく観ていない。したがって、これからご紹介する読みは、あくまでも現段階でのものであって、このあと続けて読んでいけば、多少の解釈変更はあるかもしれない。しかし、私がここで紹介するのは、作品論でもなければ、ましてこの先の展開予想でもない。それは、当初の予定どおり、この作品がどのような時代精神を反映して生まれてきたのかというのを、ごく常識的に語るものでしかないから、この先を「涼宮ハルヒ」を読み進めていっても、根本的なところで解釈の変更が強いられることはないと考え、この段階で自説をご紹介することにしたのである。


                            ○


 第4巻まで読んだ感想を、簡記しておこう。作者谷川流の作家デビュー作である『涼宮ハルヒの憂鬱』は「第8回スニーカー大賞」に応募して、みごと大賞を受賞した作品である。最終選考では全会一致でこの作品に決まったというだけのことはあって、個性的な登場人物が活き活きと描かれており、かつ、SFとしても大変よく出来た、魅力的な作品である。第2巻の『涼宮ハルヒの溜息』は『憂鬱』の設定を展開した長編作品だが、単品として見ると「ハルヒとその仲間たちの愉快な日常」を描いて、ファン以外にはやや「ゆるい」という印象をあたえる巻だと言えよう。第3巻『涼宮ハルヒの退屈』は、書き下ろし1編をふくむ短編集で平たく言えば「エピソード集」。それなりに楽しめるが、やはり『溜息』と同様、第1巻の縮小再生の感は否めなかった。
 さて、問題は第4巻『涼宮ハルヒの消失』である。この長編は、シリーズ中で特に評価の高い巻であるとの風評を耳にしていたので、私もこの巻を読んだうえでその先を読むかどうかを決めようと思っていたのだが、結果として第4巻は評判どおりの傑作であり、私は今後続きを読むことにした。
 ともあれ第4巻『消失』は、ここまでの3巻の意味を語った「自己言及的作品」だと言えよう。だから、この段階でこのシリーズの意味を論じるというのは、決して必然性のない行為ではない。逆に言えば、この第4巻『消失』は、ファン以外にはやや冗漫と映るであろうそれまでの「ハルヒとその仲間たちの愉快な日常」描写の積み重ねがあって、初めて成立する態の極めて「批評的」な作品なのだ。


 主人公・涼宮ハルヒは平凡な日常に退屈し、超能力者や宇宙人といった非日常的存在との出会いを切望する「奇人」美少女である。そんな彼女と出会った、クラスメートの少年(シリーズの一人称の語り手)通称キョン(本名不詳)は、彼女の奇天烈さにうっかり興味を示したために、すっかりハルヒに気に入られてしまい、彼女が勝手に設立したおかしなグループ「SOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)」の一員にされてしまう。このSOS団は、彼とハルヒのほかに、ハルヒが勝手に占拠した文芸部の部室に付属していたような、ひたすらマイペースで読書をしている無表情な美少女・長門有希や、ハルヒが拉致してきた小柄・童顔・巨乳でおとなしく優しい性格の上級生美少女・朝比奈みくる、そしてすこし遅れてみずから入部してきたイケメンの同級生・古泉一樹の、総勢5人によって構成されることになる。
 見てのとおり、見事に個性的な面々が集まったのは、それがお約束であるばかりではない。キョンはやがて、彼とハルヒを除く3人が、ハルヒの望んだような「非日常的存在」であることを、それぞれから告白されて知ることになる。すなわち、長門有希は宇宙の彼方に存在する高度な精神生命体によって作られた送り込まれた対人類人型インターフェイス、要はハルヒを監視観察するために送り込まれたロボットであり、朝比奈みくるはまたべつの目的でハルヒを監視観察するために未来から送り込まれた未来人、古泉一樹はハルヒの無自覚な超能力の発動から世界をまもるために、超能力者「組織」から送り込まれた超能力者であるというのである。とうぜん、キョンは当初、そうした話を信じようとはしなかったが、ハルヒの周辺で発生する超常現象を目の当たりにするにいたって、嫌でも3人の自己申告をある程度は認めざるを得なくなってしまう。
 さて、ここで問題となるのは、ハルヒの秘められた超能力である。その能力についての3人の解釈は三人三様なのだが、簡単に言ってしまえば「世界改変能力」だと言えよう。要は、現実世界の欲求不満が高まると、その願望を達成するための「時空改変能力」が無意識のうちに発動されてしまうのだ。そこで3人はそれぞれの立場からハルヒを監視観察しているのだが、彼らのハルヒに対する態度として共通しているのは、ハルヒ自身にはその能力の存在を気づかせてはならないという点にある。ハルヒがそれを知ってしまったら、何をしでかすか想像もつかないからである。したがって、彼ら3人はハルヒに対しては普通の人間として接する一方、ハルヒをコントロールするための鍵となる存在として、キョンにはその正体を明かして協力を要請するのである。
 つまり「涼宮ハルヒ」シリーズとは、何かとんでもないことが起こらないものかと鬱々としていた少女が、愉快な仲間たちと出会うことによって面白いことをやろうと積極的に動きはじめた結果、しばしばハルヒのあずかり知らぬところで引き起こされる、非日常なドタバタ事件を描く物語なのである。

 そこで、第4巻『涼宮ハルヒの消失』が注目されるのは、そういう「シリーズ的世界」が突然「消失」して、キョンが「ハルヒに超能力がなく、ほかの3人も普通の人間」である世界に放り出され、「元の世界」へ戻ろうとする過程で、自分にとって「元の世界」の持つ意味や価値を問う、という点にある。これが、この『涼宮ハルヒの消失』は「それまでの3巻の世界」の意味を問い語る、まさに「自己言及的な作品」だとすることの謂なのだ。

 ハルヒが非日常を探し求める「奇人」である一方、彼女の奇行に巻き込まれる語り手キョンは、平たく言うと「常識人」である。さらに言えば、高校1年生にしては「醒めた少年」であると言えよう。そんな彼が、常識はずれのハルヒの行動に巻き込まれるままになっているのは、彼自身の自己申告によると、SOS団の一員として、魅力的な朝比奈みくる先輩に日常的に親しく接する機会が恵まれるから、ということになっている。つまり、ハルヒには迷惑をかけられるばかりで、決して好きでハルヒとつるんでいるわけではないというのである。したがって、常識人キョンにすれば、宇宙人だの未来人だの超能力者だのに取り囲まれて過ごす、非現実的な状況は御免こうむりたい。朝比奈さんと楽しく過ごせるのであれば、彼女が未来人であるという設定など、何の価値もないし未練もない。個性的な面々と楽しくも平凡なスクールライフをおくる。それが理想である。と、キョン自身はそう思い込んでいたのだ。

 ところが、その夢想がいきなり実現してみると、彼はそこに安住できない喪失感にとらわれて「元の世界」への復帰を目指す。新しいその世界では、長門有希はただの無口な読書少女であり、朝比奈みくるは面識のない上級生、当初「消失」したと思われていたハルヒと古泉は、隣接高校の生徒になっていた。
 キョンは「クラスにハルヒが存在する、元の世界」へ復帰するためのきっかけを求めて、ついには4人を捜し出すのだが、そこで再開した4人は前述のとおり、いずれも「ただの人(=人間)」だった。だから、もしも本気でキョンが「個性的な面々と楽しくも平凡なスクールライフをおくる。それが理想である。」と思っていたのなら、この世界にとどまりこの世界に馴染んで生きていけば、それで何の問題もなかった。むしろ何かと問題が発生したのは「元の世界」の方だった。キョンは「悪夢」から醒めたつもりで、「新しい世界」で生きていけば良かったし、それがまた「常識人」たる彼にはお似合いだったと言えよう。
 しかし、彼は文字通り「命を賭して、元の世界への復帰」を願い目指した。なぜか? それは彼が彼自身に問わねばならない、謎であった。



『 俺の記憶だけを残して、それ以外を、自分を含めたすべてを変えてしまったのだ。
 数日間俺を悩ませていた、この疑問の答えだって今なら自明だ。

 ーーなんでまた俺だけを元のままにしておいたのか?

 答えは単純、こいつは俺に選択権を委ねたんだ。
 変えた世界がいいか、元の世界がいいか。俺に選べというシナリオだ。
「ちくしょうめ」
 選ぶもくそもあるか。
 確かにSOS団だけなら修復可能だとも。ハルヒと古泉は別の高校にいるが、そんなもんたいした障害にはならん。学外活動にしてしまえばいいだけだ。いつもの喫茶店で溜まり場とする謎のサークルにしちまえばいい。そこでもやはりハルヒはわけの解らんことを言い倒すだろうし、古泉は笑っているだけだろうし、朝比奈さんは狼狽しているだろうし、俺は仏頂面で遠い目をしているという情景が目に浮かぶ。そして長門も、あの情緒不安定な性格のままでそこにいることだろう。黙って本を読みながら。しかしな――――。
 それは俺の知っているSOS団ではない。長門は宇宙人ではなく朝比奈さんも未来人じゃなくて古泉も単なる一般人、ハルヒにも不思議な力は全然ないという、まことに常識的な、単なる仲良しグループでしかない。
 それでいいのか。そのほうが良かったのか。
 俺はどう考えていたんだ? ハルヒの巻き起こす色んな出来事、非常識な事件の数々に、俺はどう思っていた?
 うんざりだ。
 いい加減にしろ。
 アホか。
 そろそろ付き合い切れねえぞ。
 「・・・・・・・・・」
 心臓が強烈に痛む。
 心ならずも面倒事に巻き込まれることになる一般人、ハルヒの持ってくる無理難題にイヤイヤながら奮闘する高校生。それが俺のスタンスのはずだった。
 それでだ、俺。そう、お前だよ、俺は自分に訊いている。重要な問題だから心して聞け。そして答えろ。無回答は許さん。イエスかノーかでいい。いいか、出題するぞ。

 ーーそんな非日常な学園生活を、お前は楽しいと思わなかったのか?

 答えろ俺。考えろ。どうだ? お前の考えを聞かせてもらおうじゃねえか。言ってみろよ。ハルヒに連れ回され、宇宙人の襲撃を受け、未来人に変な話を聞かされ、超能力者にも変な話を聞かされ、閉鎖空間に閉じこめられたり、巨人が暴れたり、猫が喋ったり、意味不明な時間移動をしたり、ついでに、それらすべてをハルヒに包み隠さなければならないというシバリの効いたルールで、不思議な現象を探し求めるSOS団の団長だけが何も知らない幸福状態、張本人なのに気づけないってこの矛盾。
 そんなのが楽しいとは思わなかったのかよ。
 うんざりでいい加減にして欲しくてアホかと思って付き合いきれないか。はん、そうかい。つまりお前はこう思っていたわけか。

 ーーこんなもん、全然面白くねえぜ。

 そうだろ? そういうことになるじゃねえか。お前が真実ハルヒをウザいと感じて、ハルヒの持ち出してくるすべてが鬱陶しいんだとしたら、お前はそれらを面白いなどと思わないよな。違うとは言わせねえぞ。明らかだろうが。
 しかしお前は楽しんでいた。そっちのほうが面白かったんだ。
 なぜかと言うか?
 ならば教えてやるよ。

 ーーお前はエンターキーを押したじゃねえか。

 緊急脱出用プログラム。長門の残したやり直し装置。
 Ready?
 その設問に、お前はイエスと答えたんだ。
 だろうが。
 せっかく長門様が世界を落ち着いた状態にしてくれたのに、お前はそれを否定したんだ。四月に涼宮ハルヒと出会ってからこっちの、クダランたわけた世界のほうを肯定したんだよ。一つの学校に宇宙人だの未来人だのエスパー少年がフラフラしているような、妄想みたいな世界に戻りたいと思ったんだ。
 なんでだ、おい。お前はいつもブツブツ言ってばかりだったんじゃないのか? 己の不幸を嘆いてばかりじゃなかったのか?
 だったらよ、脱出プログラムなんぞ無視してりゃよかったじゃないか。そっちを選べば、お前はハルヒとも朝比奈さんとも古泉とも長門とも、普通の高校生仲間として知り合えて、ハルヒ先導のもと、それなりに楽しい生活が送れただろうさ。ハルヒに何の力もなく、日常が歪みだすような現象とは無縁のな。
 そこではハルヒは偉そうにするだけのただの人間で、朝比奈さんは未来人なんていう特殊属性を持っていない愛らしい萌えキャラで、古泉は背後に変な組織のない一般的な高校生で、そして長門もおとなしい読書好きの少女で変な使命を持つこともなく変な力を発揮するわけでもなく誰かを監視したり誰かさんを守っていたりすることはなく、そうだな、いつもは無表情なのにしょうもないジョークに不意に笑ってしまった後に赤くなるような、時間をかけて少しずつ心を開いていくような、そんな奴になっていたかもしれないんだぞ。
 そういった別の日常をお前は放棄しやがった。
 それはなぜだ。
 もう一度訊くぞ。これで最後だ。はっきり答えろ。
 俺は、迷惑神様モドキなハルヒと、ハルヒの起こす悪夢的な出来事を楽しいと思っていたんじゃないのか? 言えよ。
 「あたりまえだ」
 俺は答えた。
 「面白かったに決まってるじゃねえか。解りきったことを訊いてくるな」』(P209〜214)



 長々と引用したが、ここまでが本編原作を未読の読者に対する紹介・前振りだということでご勘弁願いたい。そして、ここからが本論の本編である。




(以下は「涼宮ハルヒの消失 ーー 象徴としての涼宮ハルヒ(後)」につづく)
 

応答責任と思考の過程

 投稿者:  投稿日:2010年 1月29日(金)04時59分0秒
  ☆アリョーシャ


時間を空けてしまってすみません。
仕事も、無事に棚卸しが終わって、一区切りつきました。
仕事に関しても書きたいことは山ほどあるのですが、
それは、話題を逸らすような卑怯な行為だと思いますのでココでは避けます。

アリョーシャの投げかけた難問に対して、自分なりの完璧な回答を提示しようと思っていました。もちろん、それが正答であるとは限らないのですが、常に納得のいく応答を目指しつつ、未熟ながら思考の過程を徐々に書いていきたいと思います。

もちろん、「アリョーシャの問い」は、メモ帳にコピペして、デスクトップに保存してあるので安心してください。


☆ホランドさん


まだ僕は、このローズガーデンの敷居の高さを感じているんですよね。
ミクシィみたいな閉鎖空間だと、平易な言葉で自由に書いていることも、
ココにくると、異常にかしこまるんですよ。
だから、身の丈に合わない言葉を連発してしまい、恥ずかしい思いをしてしまう。

まま、二月のシフトもヴァレンタインデーががあり、タイトなのですが、
少しづつでもアリョーシャの問いに対するメモを書き溜めておきたいと思っています。

じゃあ、今日も頑張ります。
 

ブラックボックス

 投稿者:ホランド  投稿日:2010年 1月22日(金)20時48分19秒
   みなさん、こんばんは! 新年の決意にもかかわらず、新年のご挨拶以降初めての書き込みが、今日になってしまいました。ゴメンナサイ。書くからには何かネタを思うのですが、なかなかこれというのが無くて・・・。(^_^;)
 で、これはちょっと迷った(躊躇した)話題なんですけど、やはり失踪したミステリ作家多島斗志之さんのことについて、書かせていただくことにします。

 多島斗志之は、ベストセラー作家ではありませんし寡作気味ですが、かならず高い水準の作品を書く良心的な作家として、マニアや評論家の間では常に評価の高い作家で、『密約幻書』と『不思議島』で直木賞候補にもなっている実力派です。
 昨年暮れに家族や出版社に、自殺をほのめかす内容の手紙を残して失踪し、現在にいたっても、まだ発見されていません。多島さんの失踪後、ご家族が一般からの情報提供を期待して立ち上げたブログ『父、多島斗志之を探しています。』によると、多島さんはかなり前から周到に失踪の準備をしていたようで、ある意味では冷静な行動をしていたようにも窺えるのですが、肝心の動機については、ご家族の方は「納得できない」とのご説明です。

 じつは園主さまは昔、多島斗志之さんに直接会ってお話をうかがったことがあるそうです。ちょうど『密約幻書』が直木賞の候補になった後だということですから、1990年頃になると思いますが、多島さんが関西出身・関西在住であったことから、当時、園主さまが所属していた神戸を拠点とするミステリサークル「畸人郷」の神戸例会に多島さんを招いて、お話をうかがったそうです。
 当時、園主さま自身は多島さんを「冒険小説系の作家」だと思っていたので、さほど興味はなかったそうなんですが、多島さんご本人については「片目を失明しておられるということと関係があるのかどうかはよくわからないけど、ちょっと陰のある、もの静かで誠実そうな人」だという印象を受けたそうで、今回の失踪の第一報である「完全失明の怖れが出てきたため、失明後に家族の世話になるのを拒否して失踪した」という内容に接した時は「真面目な多島さんらしいなあ」と思ったそうです。

 で、ここでご家族が不満を漏らされている多島さんの失踪動機の問題になるんですが、それは前記のブログから、ご家族が多島さんの失踪に初めて気づいた昨年「12月18日」についての記述を紹介することで説明に代えます。



 『父の母(祖母)に連絡。
  電話がつながらない理由を尋ねる。
  しかし祖母がかけてもつながらずで不安がよぎる。
  さすがに何かあったと思い自宅に向かうと、既に家は引き払われていた状態。
  時を同じくして、息子・娘宛の手紙が届く。
  親族一同に電話するも、皆にも同じような内容の手紙が届いていた。


  手紙の内容は以下の通り。(本文より一部抜粋)


  実は、ひと月ほど前から左目(見えていたほうの目)の
  不調を感じていたが、突然悪化した。
  右目のときの経験から判るのだが、失明は確実だ。もう手遅れだ。
  この歳になっての両眼失明は、人の手助け無しには日常生活すら送れない。
  そういう状態で生きることを私は拒否する。
  視力が完全に失われる前に、すべてを整理して、
  自分の人生を終わりにすることにした。
  これが届くころには、京都の住まいを引き払い、
  家財を全部処分して部屋を明け渡している。

  いつかこういう日が来ることは何年も前から予測できていたので、
  すでに準備は整えてあった。
  ただし、場所も方法も知らせない。
  うまくゆけば、誰にも発見されないままになるだろう。
  もはやこの世にさほど未練はない。
  だから、悲しむべきことではない。


  ----そしてこの後、自宅の契約の話や、転出届けなどの話が続きます。


  手紙にはこのように書いてありました。
  最初読んだときは、あまりに淡々と書かれた文面に
  まるで現実味を感じることができず、
  フィクションのようにしか受け取ることが出来ませんでした。
  実際そうおっしゃっている方もいましたが、物語の一部というか。
  こちらの感情を一切寄せ付けない文章に、
  何故か「あぁ、そうか。もうダメだ。」と
  受け入れざるを得なくなってしまう感じでした。
  しかし、何度も何度も読み返すうちに、
  あまりの身勝手さに徐々に怒りの感情がこみ上げてき、
  そもそも失明するって誰が決めたんだ、という部分にたどり着きました。
  父は、ひと月ほど前から病院の定期健診には顔を出しておらず、
  目の状態が良くないことも、もう手遅れであることも、
  すべて憶測にすぎないようです。
  ならば、全ては思い込みから始まったことであり、
  もし自殺の動機が「失明」からくるものであるならば、
  父の行動は絶対に間違っています。』


 つまり、一見、淡々と冷静に我が身を処したように見える多島さんの行動は、根本的なところで被害妄想的なものにとらわれた軽挙妄動に近いものだった、というのがご家族の意見なんですね。

 で、ボクとしては、ここでは出来るかぎり客観的にこの問題を考えてみたい。もちろん、多島さんに無事に帰ってきてもらいたいし、失明も免れてほしい。誰も責める気なんかありませんが、ただ「ご無事を祈っております」と言って口を拭っているのも偽善的な感じがするので、自分の思うところを書くことにしました。


 園主さまのお話によると、その昔、約20年前に多島さんと会った当時、多島さんは奥さんや子供さんと同居なさっていたみたいなんですが、失踪当時は一人暮らしをしていらしたみたいで、今回の件ではどこにも奥さんの名があがっていません。奥さんがどうなさったのかを詮索してもしかたないんですが、多島さんが一人暮らしであったことと今回の失踪とは、とうてい無関係とは言えないと思います。
 多島さんの「完全失明の怖れ」については、どこまで信憑性のあるものなのか、ご家族に疑義のあるとおり疑いの残るところですが、当事者である本人もそれなりに調べたはずだとも思いますから、ご家族のおっしゃる『ひと月ほど前から病院の定期健診には顔を出しておらず、目の状態が良くないことも、もう手遅れであることも、すべて憶測にすぎないようです。』というのも、憶測に過ぎないのかも知れません。つまり、多島さんは多島さんなりに、ほかの病院などで診てもらっていて、その感触があったのかも知れない。

 ボクが特に引っかかるのは、多島さんが置き手紙に自殺をほのめかしながら、はっきりとそう表現しなかった(書かなかった)ために、ご家族に一縷の望みを残し、結果としてご家族をいつまでも宙ぶらりんの蛇の生殺し的な状態に放置してしまったことです。これでは、ご家族が多島さんの行動に怒りを感じるのも当然でしょう。
 先日、テレビドラマ『相棒』で「娘を誘拐されながら、事件の時効成立でその遺体さえ見つけることができなかった遺族が、遺体を見つけるただそれだけのために狂言誘拐を仕組む」というお話がありました。これは愛する家族の安否が知れないままに長期間放置された家族の、想像を絶した苦衷を描いて秀逸な「社会派作品」でした。――――つまり、ボクがここで言いたいのは、自殺のために失踪するのなら、せめてそれを明示すべきだった、ということです。「私は自殺する。うまくいけば死体は見つからないだろうが、生きている可能性はないので、私を捜す無駄はしないでほしい」と、そう書けば、ご家族の気持ちも多少なりともマシだったんじゃないかと思うんです。じっさい、ボクを含む他人の多くは、失踪から1ヶ月を超えてしまった今となっては、多島さんが元気な姿で帰ってこられることに大きな期待を持ってはいないでしょう。しかし、それでも簡単に諦めるわけにはいかないご家族の立場には、いたたまれないものを感じます。2003年5月20日午後3時ごろ、行方不明になった吉川友梨さん(当時9歳)の情報提供要請ビラやポスターが、毎年、友梨さんの年齢を書き換えながら、ご家族によって作成されているのを目にすると、本当にいたたまれない気持ちになります。でも、友梨さんの場合、その怒りの矛先は誘拐犯人に向かいますが、多島さんの場合、ご家族の怒りは多島さんに向かうしかないんですね。もちろん「いかに冷静そうに見えても、やはり多島さんは追いつめられた心理状態にあったんだ。人が想像するよりもずっと以前から」という考え方もあるでしょう。だから、多島さんを責めることは出来ない、と。だとしたら、ご家族にはどこにも救われる道がありません。
 ただ、ご家族には嫌な想像かも知れませんが、やはりボクが引っかかるのは、多島さんがご家族に残した手紙が、あのように妙に淡々とした、思いやりに欠ける文面であった点です。いくら自殺を考えている人のそれだとしても、あまりにも家族への思いやりに欠けるのではないか? だとすれば、――――多島さんはもともとご家族に対し、配慮する気がなかったのではないか? 完全失明して家族に迷惑をかけるのが嫌だったのではなく、家族の世話になることそのものが嫌だったということだったのではないか? そう考えれば、すくなくとも多島さんの言動に一貫した意味を認めることもできる。でもそれは、あまりにも寂しい家庭内事情ってことにしかならないんですが。

 今回の失踪事件に接してボクが考えたのは、「人の幸福」ということです。若くして片目を失明するというハンデを負ってしまったとはいえ、実力派の作家として世間にも認知されていた人が、完全失明という恐怖にさらされた時に、家族に無条件に頼ることのできなかった、その孤独。それを思うと、やはり人の幸せというものは、小さな日常の中にあるんだなと思うし、特にこれといって悩みもないまま平凡な日常をおくっている我が身の幸福に感謝しなければいけないとも思いました。「平凡な日常」って、現代の日本では、案外「非凡」なものなのかも知れませんね。お金も才能も地位も名誉も、あるに越したことはないし、ぜんぜん無いと困るでしょうが、一番大切なのはそれらでは購えない、小さな何かなのではないでしょうか。





 カムイさま

賀春

 ご挨拶がすっかり遅れましたが、本年もよろしくお願いします。――――と申しますか、園主さまをよろしくお願いいたします。このところは、すっかりカラオケおじさんですからね。長時間のカラオケにつきあわせて申し訳ありません。(^_^;)


> 新たに光回線を導入された機会に、新マックを購入なさったとのことで、その環境にも慣れましたら、またパワフルなお書き込みを再開されますよう、是非ともお願いします。


 園主さまの場合、「笠井潔の没落」以降のミステリ界にはあまり興味が持てないようで、そのぶん執筆意欲が減退したみたいですね。ただ、淳さんへの書き込みでも明らかなように、今でも空理空論ではない議論については好きみたいなので、またそういう話題を振ってみてください。カムイさんも遠慮なく、ここ「アレクセイの花園」に書き込みをしてくださいね。(^-^)



 Keenさま

Keen賀新年(お約束)

非登場人物の弁

事の顛末

おお、アリョーシャ復活


 昨年暮れの「中井英夫十七回忌法要」では、もうすこしで園主さまの山口リサイタルに、みなさん巻き込まれそうになったみたいですね(笑)。
 園主さまの話によると、もしかすると次の法要は三十三回忌になるかもしれないとのこと。それだと16年後で、園主さまも還暦を超えている! 陳腐な表現だけど、ホントに「光陰、矢の如し」ですねー。(^-^;)

 今年も、Jr.さま共々、よろしくお願いいたします。(^-^)



 婆やさま

わらひ

 情報のご提供、ありがとうございました。

 野嵜健秀さんについては嫌な記憶しかありませんから、ご紹介先はちらっと見ただけで済ませました。感想は園主さまとだいたい同じです。ホントに困った人ですね。
 ボクに関して、あれこれ園主さまを誹謗中傷し、ほかのサイトにまで嫌がらせの書き込みをしてましたが、あの当時「アバター」なんて言葉が無かったとはいうものの、常識があればわかることを「ダブハン」とか言って、ただ攻撃がしたいためにあんなことに精力を傾注しちゃう野嵜さんって、不幸な、って言うか、愛に恵まれなかった人なんでしょうね。

 ところで、婆やの書き込みのタイトルは『わらひ』と、野嵜さんと同様「旧かな遣い」なんですが、もしかすると婆やさまも旧かなの愛好家なのでしょうか? そういう人にとって野嵜さんの存在は、ずいぶん傍迷惑なものだったでしょうね。ああいう人が悪目立ちしたために、「旧字旧仮名」自体に悪印象を持ってしまった人も少なくないんじゃないかなあ。すくなくとも、ネットの世界では。あんな人が「旧字旧仮名は論理的だ」とか言っても、そう言ってるおまえはどうなんだってことになるのは、目に見えていますからね。(^-^;)



 さま

大恩に報じるということ。

私を害する音調

人徳

自己省察の時間


> 貴方の誠実な問いかけに感謝しています。
> 僕は、この難問によって、信仰上の「信」への揺らぎではなく、
> 「信仰者」としての存在のあり方に揺らぎを覚えました。

> 日蓮聖人は、諸宗に公場対決を幾度と無く要求し、
> 諸宗の僧侶は逃げ回りました。
> 不肖にも、日蓮聖人の弟子を名のる以上、
> アリョーシャの問いかけに逃げるわけにはいきません。

> ただ、非常な難問ですので、自己省察に時間を要します。
> 今月は、仮棚卸し、本棚卸しが立て続けにあり残業続きで多忙です。
> どうか時間的な猶予をお許しください。

> 逃げませんので。


 園主さまが、このご文章を読んで、こう言ってました。

「日蓮に公場論戦を挑まれて諸宗の僧侶は逃げ回った、というのが日蓮正宗や創価学会の主張だけど、それは本当なのか? 実際のところ、確信に凝り固まった人と議論しても無駄だから、相手にしなかったというだけの話ではないのか? 日蓮正宗であろうと創価学会であろうと、自身の宗派が唯一絶対的に正しいと主張はしても、それを客観的に論証した試しはない。結局のところ、信仰はやってみないと確信は得られないのだという主張は、論証はできないというのと同義だからな。だとすれば、宗教間、宗派間における正邪論争に、いったいどれほどの意味があるのか? 結局は『朝までテレビ』とかいった論争番組と同様、確信に凝り固まった決めつけの激しい、頭の悪くて声のでかいやつが勝つことになるんじゃないか。だとすれば、根本的な前提認識がちがっている宗派間の正邪論争なんて無意味だからやらない、というのは、極めて論理的な態度のなのではないか。――――と、こう考えることができる。しかし、日蓮正宗僧侶や創価学会員はもちろん、その偽善や非論理を批判する淳さんにも、そのように当たり前に考えることができない。なぜかと言えば、ある決まり文句が、無条件の事実だと認識・妄信されているからで、議論がそこからしか始まらず、前提条件そのものは視野に入ってこないからだ。そして、そこが最大の問題なんだな。哲学の基本的態度は、自明の前提に問いを伏して、徹底的にその根拠をもとめて思考することだと思う。例えば『私とは何か?』『世界とは何か?』『時間とは何か?』『存在するとは、どういうことなのか?』。こういうラディカルさが哲学の身上なんだが、淳さんの態度は、未だ信仰者的な思考放棄のうえにあぐらをかいたものだと言わざるを得ない。信仰者だから疑わない問わない考えないというのなら、半端に哲学なんか齧って、自身の無思考のアリバイ作りなんかするべきではない。自分は非論理を生きているんだと、自覚して生きるべきであろう。それが真の宗教者だ。――――しかし、そう覚悟した人は、他人のそういう態度を否定批判できない。他人に論理的態度を求める権利を失うのだということ、自覚しなくてはいけない。そこまで行って初めて妄信者ではなくなるんだ。もちろん、世の信仰者の99パーセントまでは、無自覚な妄信者なんだがな」


 園主さまのこのご意見で、淳さんに関してボクが思い当たるのは、言葉の遣い方に妙な間違いがある、という点です。
 これは、園主さまが「ジャーゴンを振り回すな」とか「言葉の権威に頼るな」と言われていることに通じると思うんですが、例えば、上の書き込みのタイトルひとつ見ても、『大恩に報じる』『音調』『人徳』『自己省察』という具合に、日常生活ではほとんど使わない大仰な言葉(特に倫理系の言葉)が多いですよね。淳さんの場合、趣味のことを書く時は、ぐっとくだけた感じになるから、こういう書き方しかできないわけじゃないはずなんですが、真面目な話になると、どうもこういう「硬い表現」を濫発してしまいがちです。でも、こういうのは「時候の挨拶」と同様、そつはないかも知れませんが、自分の頭を使わないでもそれらしく書けてしまうという点に問題があるんです。だから、あまりこういう「型に依存」してはいけない。
 それに、そういう言葉を使いすぎるから、時々、妙な誤用をしてしまう。例えば、上の「音調」。

> 下記の大変見苦しい悪文、これこそまさに恥ずべし、といった感じです。不特定多数の人間に言葉を発する以上、表現は、音調として聞き苦しいものであってはならないと思います。
> 冒頭の「が」の連発などは、恥ずかしくて目も当てられない。

と書かれているとおり、淳さんはご自身の文章表現が「熟れていない」という点を問題にしているのですが、その場合「音調」というのはおかしいでしょう。話し言葉に関してだって、普通の場合「音調がおかしい」とは言わない。むやみに声のキーが高いとか低い人がいたとしても「音調がおかしい」とは言いません。ましてや、無音の文章の巧拙に関して「音調」というのは、間違い以外の何ものでもないでしょう。だから、園主さまも『いやまあ、私も文章は下手でございますから、お互いに後で自己嫌悪にならないで済むような「上手な文章」を書けるように努力いたしましょう。しかし、それより大切なのは、やはり中味。言葉の正確な使用でございましょう。』と、巧拙以前の問題に注文をつけたんだと思います。
 あとひとつ実例を挙げておきますと、淳さんは「(誰某は)苦衷にある」というような表現をなさいますが、これは「苦境にある(=シンドイ状況に身をおいている)」の、変に凝った間違いだと思います。「苦衷」とは「苦しい心のうち(苦しい胸の内)」のことであって、大西巨人風に言えば「人は心のうちには入れない」。「苦衷」とは察したり察せられたりするものであって、その中にいたりいなかったりするものではないんですね。しかし、問題なのは、そんな誤用そのものではなく、普通の人はこんな「凝った誤用」はしないという点なんです。つまり、端的に言えば、やたら小難しい言葉を振り回すから、それを使いこなせないで、おかしな誤用をしてしまうのだということであり、そこに園主さまが見ている根本的な問題とは、淳さまの「権威従属的傾向」なんだと思います。

 これはボクからの提案なんですが、淳さんはこれからしばらくの間、専門用語や難しい言葉や哲学者の名前などをいっさい使わずに、文章を書くよう努力してみてはいかがでしょうか。まさに小中学生のように文章を書く。そうすれば、ご自身の「思考の裸像」を見ることもできると思いますよ。



 園主さま

カラオケ!

 ノーコメント。(^-^;)


法華折伏 破權門理

> もしもここで国主が日蓮を宗教的国家指導者に取り立てて、日蓮の言うとおりに「邪宗を弾圧廃棄」していたらどんなことになっていたか、そうした「政教一致」が好ましいものになっていたと、淳さまは本気で信じることができますでしょうか?


 この問いに対する、無宗教者の答えは、言うまでもなく「不幸な結果になって、日蓮は後世に悪名を遺したことだろう」ということになるでしょうね。また、こうした厳しい(ご都合主義ではない)現実認識を前提としないかぎり、淳さまの理屈は、当たり前の論理的説得力を持たない妄信者の妄言として、その域を出ることは金輪際ないでしょう。
 淳さまは「自己省察」をすれば、いずれ何らかの答えが出るかのような言い方をなさっていますが、まず現実を直視し、現実を押さえないかぎり、どんな思考も無内容な堂々巡りをくりかえすしかないと思います。「自己省察」というのは、決して「外の現実から目をそむけて、内面に引きこもる」ということではないんですからね。

 ――――今回は、かなりきつい言い方になっちゃいましたが、園主さまのような婉曲な(!)言い方では、たぶんわからないと思うんですよ、ボクは・・・。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい!(ハート)
 

自己省察の時間

 投稿者:  投稿日:2010年 1月16日(土)07時25分21秒
  ☆アリョーシャ


貴方の誠実な問いかけに感謝しています。
僕は、この難問によって、信仰上の「信」への揺らぎではなく、
「信仰者」としての存在のあり方に揺らぎを覚えました。

日蓮聖人は、諸宗に公場対決を幾度と無く要求し、
諸宗の僧侶は逃げ回りました。
不肖にも、日蓮聖人の弟子を名のる以上、
アリョーシャの問いかけに逃げるわけにはいきません。

ただ、非常な難問ですので、自己省察に時間を要します。
今月は、仮棚卸し、本棚卸しが立て続けにあり残業続きで多忙です。
どうか時間的な猶予をお許しください。

逃げませんので。


☆KEENさん


いやいや、駆を実践してるのではありませんよー。
いま、叔母の家に居候しているのですが、
生活費は入れているものの、なんせメシが出てきます。
恵まれていること、この上なしです。
 

おお、アリョーシャ復活

 投稿者:Keen  投稿日:2010年 1月14日(木)12時29分30秒
  久しぶりにここ花園も、それらしくなってきましたね(笑)。

淳さんは、駆のラ・ヴィ・サンプルを実践されていたんですね〜、それは気づきませんで、失礼(笑)。パリの駆の部屋では、コップの水に氷が張ってましたっけ。それで枕の下にはリボルバー……ああ、駆は屋外でも寒い部屋でも、薄着でした。くれぐれも、そこまで忠実には実践なさいませんように。特にリボルバー!(^_^;)

また、園主さまの書かれていることに私も思うところがありました。
先日の三連休に初釜と初ライヴがありまして、ライヴの方は、英国のロックバンド「MUSE」の名古屋公演に行ってまいりました。大きな会場での映像や光線を多用したハデな演出が美しく、もちろん演奏も最高、大満足で今もまだ余韻に浸っております♪
でも、実は人気海外バンドゆえにチケットはなかなか高額であり、行くかどうかはけっこうギリギリまで迷いました。山口に行ったばかりだし、贅沢かな〜、という気持ちも……しかし、今まではライヴに興味を示さなかったKeen Jr.が、急にMUSEなら行きたいと言い出しましたので、結局チケット二枚という、倍額の出費になってしまいました(笑)。
それでも、やはり一人で行くのと二人で行くのとは大違いですし、Keen Jr.の記念すべき初ライヴ(※本当の意味での初。私の場合は新年初、というだけ)としても、ライヴ最強のMUSEは相応しい。今後、下手なバンドのライヴに満足できなくなる危険もあったりして〜(笑)。
つまり結果としては、「行ってよかった」と。
園主さまが書かれていた、

> なんだか、矢吹駆がやっていた「シンプルな生活」みたいですが、淳さんの場合は、日蓮ーヴェイユの線からなのでしょうね。

> 思うに、淳さまが考えなければならないのは「衣食住についての贅沢に反して、音楽や書物を楽しむ贅沢が、なにゆえに倫理的に正当化されているのか?」ということでございましょう。後者の方がいかにもエリート的で「かっこいい」ということ以外に、いったいどのような本質的な差があるのか?

ということで言うと、私の場合は淳さんと逆の罪悪感があって、つい音楽や書物をガマンしてしまう、ガマンし過ぎて病気にもなってしまった(とも言える)という事情があります。育児に追われていた頃、着せて食べさせて寝かしつけているだけでは、私の魂が飢えてしまったように思われます。今はもう元気になったので、成長したJr.とともに趣味の世界を満喫するつもりではあります。(^^)

また、初釜の方でも気づきがありました。
こちらは友人に宛てて書いたメールの一部をそのまま写しておきます。


「私の場合、初釜といっても、奈々村久生のように麗しい着物姿ではもちろんなく、
十七回忌と同じスーツ姿で参加した初心者です。
私の先生の師匠である大先生の初釜に、孫弟子としてついて行ったので、
他のお弟子さんたちは皆すでに免状を持ち、自ら教えてもおられるようなベテランばかり。
私は覚束ない作法で、しっかり恥をかいてきました。
しかし、そんなお立派なお弟子さん方であっても、懐石料理をいただく時には、あれ?というような
食べ方であったり、知識が表層的なのか?私のちょっとした疑問に答えて頂けなかったりなんかして。
古い象牙に走っている縞模様が、価値が高いそうなのですが、それが年月の経過で浮き出てくるものなのか、
それともはじめからそういう材料を使っているのか、知りたかったのですが…
なんというか、私がこの年になるまで茶道を始めることができなかった、ある種の「嫌さ」を思い出しました。
わけもわからずに型を押しつけられたくない、高級なお道具の値段自慢ならいらない、という反発です。
ちなみに、今の私の先生は「本物」なので、楽しくお稽古しています。(^^)
やはり物事の本質をしっかりとつかんでいる人は少ないのだなあ、と改めて思いました。」


昨日お稽古があったので、改めて象牙の縞について尋ねてみましたが、先生にもわかりませんでした。私の先生は、高価な茶道具の蒐集に価値を見出すタイプではないので、そういうことにもあまり関心がないのかもしれませんが。お道具のことは骨董屋さんにきいた方がいい、と言われました。もっともだ(笑)。
つまり、私が感じた反発とは、「道具自慢をしたいのなら、ちゃんと十分な裏付けを持ってやってくれ、ただ『これはいいものとされているから、いいものなのよ』とだけ言われても、それを鵜呑みにすることはできない」ということだったのだと思います。
まあ、確かに初心者の私にも、古びて品のある茶入れだなあと見えたので、いい品物なのでしょう。道具自体を否定するつもりはありません。でも、その高価な茶入れが、日頃お稽古で使っている安物の(?)茶入れを貶めるようなものであってはならないと思うのです。要は、お茶が入る器であれば用は足りるのですから。
 

法華折伏 破權門理

 投稿者:園主  投稿日:2010年 1月13日(水)20時12分6秒
  みなさま、昨日に続いての書き込みでございます。淳さまの書き込みに触発され、それに応答しようとして書き始めたのでございますが、やはり私は、こういうギリギリの議論が好きなのでございますね(笑)。





 さま


大恩に報じるということ。

> 僕は、恐らく「終生の請願」として、アリョーシャを折伏したいと思っています。僕は、冗談を言っているのではなく真剣です。それは、僕という人間の成長を通して、アリョーシャが亡くなるまでにいつかと…。


冗談ではなく、それはうれしいお言葉でございます。しかし、それは私も同じでございますし、私ならば「淳さんを日々折伏しております」と書くことでございましょう。つまり、私の他者に向けて公開された言動というのは、多かれ少なかれメッセージ性を含んでおり、それはすなわち「折伏」に違いないからでございます。
もちろん、ここで言う「折伏」は、「摂受」と同じでございます。「それは間違いだ」と言うかわりに「こっちの方が正しいよ」と言ってるだけなのでございますね。いずれにしろ物理的強制が出来ないのであれば、「折伏」と「摂受」に大差はなく、一言でいえば「説得」のバリエーションに過ぎないからでございます。

例えば、昨日の書き込みで私は、掲示板荒らしの野嵜健秀さまに関して、


> そんなわけで、いまだに昔同様、まともな人には理解されないのを知りながら、相変わらずの健筆を振るっておられる野嵜健秀さんの精力にだけは、心からの敬意を表したい。その精力を善用をしていただければ言うことはないのですが、いまさらそれを言うのも野暮というものでございましょうし。
> せめて野嵜さんにも、私のカラオケのような趣味があれば、その根深いルサンチマンもすこしは薄れるのでしょうが、多分に権威主義者である野嵜さんには、カラオケなんていう軽っぽい趣味は持てないのでございましょうね。もちろん、自身の音痴に気づく耳を持っていれば、ストレスの発散どころではないという場合もあるのではございますが(笑)。


と書いておりますが、これは何も野嵜さまだけに向けて書かれているわけではなく、人間一般の普遍的な「煩悩=執着=とらわれ」について、一般に向けて反省を促しているのでございますね。なかば無駄だと思いつつも、でございます。
ですから、これは多少の表面的違いこそあれ、淳さまへのメッセージと受け取っていただいてもよいものであり、決して人ごとではないのでございます。

端的に申しますと、淳さまは何を根拠にして「日蓮仏法を絶対視できるのか?」ということでございます。それは詮ずるところ「世界に対する根深い恐怖と怒り」に発した「執着=依存」でしかないのではないか、そんな「絶対」でも無いことには救われないという気分に発した、客観的には無根拠な個人的な感情なのではないか。それをさも客観的な根拠があるもののごとく人に勧めるのは「悪」なのではないか。――――そう思うのでございますね。どうして、そう「断言」できるのか、と。


> 「真の信仰者」を目指す人は、ある程度、原理主義的にならざるを得ないと感じています。公明党が、イラク戦争を支持したあのとき、皮肉にも政教が決定的に分離した瞬間でした。僕は、アナキズムに多大な興味関心を抱きつつも、「政教一致して何が悪い」「王仏冥合すべし」と真剣に思っている人間ですから、やはりあの決定的な大謗法を、いつまでも執拗に破折しなくてはならない。


私は「政教一致」は間違いだと存じます。それが個人レベル、たとえば政治家個人のレベルなら、それは間違いではないでしょうが、それは所詮「言行一致」でしかございません。つまり、「政教一致」というのは、「個人」レベルの話にはとどまらず、自ずと「組織」なり「国家」なりの話(言葉)とならざるを得ない。つまり、その組織や国家のなかで「これが正義なのだ」と公認するなり強制するなりのことをして、初めてそれは「政教一致」ということになるのでございます。しかし、淳さまはその一方で、


> 「連帯」ならまだしも、それが組織化されたら、途端にそれが必然的に腐敗を免れないことを僕は確信している


とおしゃっており、これは明らかに矛盾でございます。
つまり、淳さまは「政教一致」という人間認識において誤認を含んだ政治理論を、「日蓮仏法の用語」だからという理由で延命させるために、「個人の心がけ」レベルと「政治手法」レベルとを、無意識に混同して正当化しておられるのでございますよ。


たしかに日蓮は、時の権力者に「邪教を捨てて、唯一正しい教えである法華経(=この場合は日蓮仏法)を従って政治を行え」と諫暁(=折伏)いたします。しかし、時の国主はこれを入れなかった。だから、日本には仏罰としての三災七難が仏法に説かれるとおりにきそい起こった。――――というのが、日蓮およびその信者の言い分でございますが、そんなものは結果論であり後づけの理屈でしかなく、一般人の「そりゃあ、たまたまそうなったんでしょう」という理解を積極的に否定する証拠を持ち合わせてはおらず、結局のところは単なる「自己正当化」の「自己慰撫」を一歩も出ておりません。

たまたま国主諫暁がうまくいかなかったからこのような理屈が出てきただけで、もしもここで国主が日蓮を宗教的国家指導者に取り立てて、日蓮の言うとおりに「邪宗を弾圧廃棄」していたらどんなことになっていたか、そうした「政教一致」が好ましいものになっていたと、淳さまは本気で信じることができますでしょうか?

私はそうした意味で、日蓮の仏法が国家権力と結びつかなかったのは必然であり「天の配剤」であった、日蓮にとっての天の計らいであったと思っております。
日蓮とは、常に弱者少数者の側にあって、強者多数者からの迫害に遭いながらも抵抗をつらぬく、そんな存在としてこの地上に遣わされてきた存在だったのだと思いますし、私はそんな存在として日蓮を愛するのでございますね。
ですから、私は法華経が絶対的に正しいとは思いませんし、法華経を絶対正義だと信じていた日蓮の認識や理論が正しいとも思いません。ただ、旃陀羅の子として弱者の苦しみを忘れることなく、逆境の中で傲慢な権力者を批判し続けた「人」としての彼を愛するのであり、彼はそういう「人」としてそのまま「菩薩」であり「仏」だと考えるので、仏法で言うところの超越的存在としての「菩薩」や「仏」だと考えているのではございません(凡夫即菩薩)。


> 御書の教学的記述は難解です。無論、我見が立ち入ることは、非常な恐怖です。

> 先日購入したヴェイユの『神を待ち望む』も読んでいますが、本質的に仏法とは相容れないキリスト教的世界(カソリック/創造主の存在)の手紙に依拠した書物ですので、彼女の純度に感動を覚えつつも、「キリスト教的心性(隣人愛など)」の信仰姿勢で、日蓮の仏法に臨まないように自分を注視しながらの慎重な読書です。

> 哲学書も手をつけていますが、これも信仰者としては、かなり慎重にならざるを得ません。下手をすると日蓮聖人の仏法を「生命哲学」などという、安っぽいもの貶めかねないからであり、仏法を「哲学的見地」から解読しようとする試みに堕しかねないからです。
> 仏法は、超越論的です。仏智は、人智を遥かに超えるものであり、それが信行学を通して己心に宿るものだと信じていますし、最近、行学に励みだしてから、仕事を通じて、非常に人智を超えているとしか思えないようなことがあります。四ヶ月を経ても一偈も記憶できなかったという周利槃特ですら、阿羅漢果を得たといいます。仏智は、まさに量りがたいものです。


『我見』が立ち入らないなどということが、果たして可能なのでしょうか? 「仏法」を含む「他者の意見」に耳を傾け、誠実に応答することはとても大切でございますが、自身(=私=我)を放棄しないかぎり「我見」から自由になることはあり得ない。しかし、そうなったら、もうその人は単なる無責任な「妄信者」であり、淳さまが嫌う『脳内お花畑な』人々(=従順無私な創価学会員)と、いったいどこがどう違うと言えるのでしょうか?

もしも淳さまが心底「仏法は絶対正義」であり「哲学は人間的思考の粋」であって、当然より深く正しいのは「仏法」の方であると確信なさっているのであれば、「哲学」を読むなどという「寄り道」だか「お遊び」をするのは、論理的におかしいのではないでしょうか? そうでなくとも人生は短いというのに、どうしてそんな暇があるのです?


> 創価学会員は、あまねく数十万の無辜のイラク人の命に対して罪障消滅の唱題を欠かしてはなりません。それを彼らは、愚かにもすぐに忘れてしまう。僕は、罪障消滅なしに、臆面もなく、脳内お花畑な「世界の平和」を勤行で祈念する欺瞞を許すことが出来ない。僕は、まず、父母の多大な恩に報じるために、罪障消滅(懺悔)の題目をすすめていこうと思っています。


私たちはすでに、そしていつも償いきれない罪障に塗れております。その罪障を消滅させるための題目(を唱えること)が必要なら、淳さまにも本を読んでいる暇など本当は無いはずなのに、そのあたりの辻褄はどのようにして合わされているのでしょう?

繰り返しますが、「仏法は絶対正義」だと「信じている」のであれば、「哲学」など読まなくても良いという立場(=創価学会員的立場)も当然選び得ますし、逆にあえて仏法の理論(=絶対正義の理論)は横へ置いておいた上で「哲学」の方を突き詰めていっても、最後は「絶対真理=仏法」に接近できるはずだから、それでもかまわないんだという立場(哲学する立場=迂回的真理探究)を選ぶこともできるはずでございます。ところが、淳さまの立場は、両者のどちらでもない極めて中途半端なもので、結果としては「仏法」と「哲学」の両方に対して不誠実なものになってしまっているのではないでしょうか?

そして結局のところ、こうした不徹底さ(=論理的不誠実さ)というのは「信じてもいないものを、信じていると信じたい(仏法のきれいな側面だけを見ていたい)」という単なる「願望」に発し、それに執着依存しているだからだ、としか私には思えません。

それに、日蓮仏法を「絶対正義」として、それを根拠に創価学会・公明党を批判するだけなら、それは「冨士大石寺顕正会」などと、いったいどれだけ違うというのでしょう?


> 如何なる宗教団体にも所属せずに、原理原則を守り信仰を保つということは、大変難しいことです。


私は「原理原則」だの「絶対的真理」などというものは、ついに人間の手には届かないものだと思っておりますし、その意味で「無神論者」でございます。
ただし、「原理原則」や「絶対的原理」というものが無価値だと言っているのではございません。人間は、それらのものから必ず逸脱してしまう「不完全な存在」だからこそ、自己を律する価値として、平たく言うならば「目指すべき(そして、達しきれない目標としての)理想」として、それらを必要としているのだと思うのでございます。

ともあれ、「原理原則」や「絶対的原理」が可能なものだと考えればこそ、人は人間の不完全性を憎悪し、結局は人間が人間であるが故に憎悪の対象とせざるを得なくなります。ですから私は、世界認識の基底に「すべてよし」という覚悟が是非とも必要だと思うのでございますね。「人間は理想を目指す努力をすべきであるけれども、それができないのが人間である」という苦い現実を直視する覚悟が必要なのでございます。


> カイシャに忠実になるのではなく、与えられている仕事に対して忠実であることは、信仰上とても大切なことだと、最近感じています。


こうした言葉にも、私は無根拠な「妄信」を感じます。なぜならば、『与えられた仕事』が一般に正しいなどという保証はどこにもないし、「仕事」とはしばしば「悪への加担」であるという現実があるからでございます。
人は理想を目指さなければならない。だから「悪としての仕事」は拒絶しなければならない。しかし、人間は生きるために、しばしば悪に手を染めなければならない存在であり、その定義に例外はございません。どんな聖人君子も、その人自身にすれば「聖人君子」などではあり得ないはずでございます。なのに「信仰」などの「権威」が「仕事は大切だ」とひと言保証してくれれば、それで『与えられている仕事に対して忠実であることは、信仰上とても大切なこと』だなどと簡単に言えてしまう。そこでは、やむを得ず「悪としての仕事」に手を染めざるをえない人々、つまり自分自身をふくむ普通の人間の「仕事」の現実が、完全に消去されてしまっている。これはまさに、妄信の妄信たる所以でございましょう。

「哲学」が教えているのは「真理とは簡単なものではない」ということであり、「現代哲学」が教えているのは「真理という慰安所を求めてはならない。そうした罠から私たちは自由でなければならない」つまり「自由に思考し続けるという努力を放棄してはならない」ということでございましょう。

私が、淳さまの文章を読んでいて思うのは「妄信者というものは、言葉に酔って、その正確な意味を考えようとはしない」ということでございますね。つまり、宗教的あるいは哲学的な「ジャーゴン」が「真理性を保証する道具=権威」として扱われており、中味が問われていない、ということでございます。例えば、


> 「最後のニュース」は、真に偉大な歌ですね。


という評価でございます。ここで言う『真に偉大』とは、どういうことなのか?


   『最後のニュース』 歌・作詞作曲:井上陽水

  闇に沈む月の裏の顔をあばき
  青い砂や石をどこへ運び去った
  忘れられぬ人が銃で撃たれ倒れ
  みんな泣いたあとで誰を忘れ去ったの

  飛行船が赤く空に燃え上がって
  のどかだった空はあれが最後だったの
  地球上に人があふれだして
  海の先の先へこぼれ落ちてしまうの

   今 あなたに Good-Night
   ただ あなたに Good-Bye

  暑い国の象や広い海の鯨
  滅びゆくかどうか誰が調べるの
  原子力と水と石油達の為に
  私達は何をしてあげられるの

  薬漬けにされて治るあてをなくし
  痩せた体合わせどんな恋をしているの
  地球上のサンソ、チッソ、フロンガスは
  森の花の園にどんな風を送ってるの

   今 あなたに Good-Night
   ただ あなたに Good-Bye

  機関銃の弾を体中に巻いて
  ケモノ達の中で誰に手紙を書いてるの
  眠りかけた男達の夢の外で
  目覚めかけた女達は何を夢見るの

  親の愛を知らぬ子供達の歌を
  声のしない歌を誰が聞いてくれるの
  世界中の国の人と愛と金が
  入り乱れていつか混ざりあえるの

   今 あなたに Good-Night
   ただ あなたに Good-Bye


見てのとおりこの歌詞は、人間の愚かさに対して「〜なの(ですか)?」という問いを重ねて発することにより「告発している」ように見えますから、いわゆる左翼的な立場の人からは支持されやすい「わかりやすい」曲のように思われがちでございます。
しかし、この曲は「最後のニュース」と題されておりますし、ポイントは繰り返しの『今あなたにGood-Night/ただあなたにGood-Bye』の部分でございましょう。最初に『今あなたにGood-Night』と優しくささやきかけておいて、すぐさま『ただあなたにGood-Bye』と落とす。つまり、これは「人類よ、安らかに眠りなさい。永久にさようなら。これは最後のニュ−スなのです」と脅している作品だと理解することが十分に可能ですし、重ねられた「〜なの?」という問いの答えは、結局のところ「人間はついにその愚行を乗り越えられずに繰り返し、滅亡するだろう」であり、そんな諦観の裏返しとしての皮肉が効いている作品、と読むべきなのではないでしょうか?

少なくとも私は、そのような「皮肉な作品」として『最後のニュース』を評価したのであって、「左翼的告発歌」として評価したのではございません。ですから、『最後のニュ−ス』を「おもしろい作品」だとは思っても『真に偉大な』作品だとは思わないのですが、淳さまは『真に偉大』という言葉に、どのような意味を込めて評価なさったのでございましょうか?


私を害する音調

> 下記の大変見苦しい悪文、これこそまさに恥ずべし、といった感じです。不特定多数の人間に言葉を発する以上、表現は、音調として聞き苦しいものであってはならないと思います。
> 冒頭の「が」の連発などは、恥ずかしくて目も当てられない。

> 推敲…二度心がけます。


いやまあ、私も文章は下手でございますから、お互いに後で自己嫌悪にならないで済むような「上手な文章」を書けるように努力いたしましょう。しかし、それより大切なのは、やはり中味。言葉の正確な使用でございましょう。特に気をつけなくてはならないのは「大げさな形容詞の濫用(=権威主義的表現)」でございます。例えば『真に偉大な』とかね(笑)。


人徳

> 本当に、面倒くさいだけで、禁欲家を気取ってるのではありません/苦笑。
ましてや、矢吹駆を、ゴニョゴニョ…。


私はこの書き込みを読む前に、Keenさまの、


> 他の地域はどうかわかりませんが、当地では、今朝の積雪がうそのように溶けていく陽差しの午後になりました。
> 淳さん、凍死してませんか?(笑)とりあえず安物のヒーターでいいから、早く買いに行きましょうね〜。


という書き込みへのレスとして、


> なんだか、矢吹駆がやっていた「シンプルな生活」みたいですが、淳さんの場合は、日蓮ーヴェイユの線からなのでしょうね。

> 思うに、淳さまが考えなければならないのは「衣食住についての贅沢に反して、音楽や書物を楽しむ贅沢が、なにゆえに倫理的に正当化されているのか?」ということでございましょう。後者の方がいかにもエリート的で「かっこいい」ということ以外に、いったいどのような本質的な差があるのか?

と書いておりました。


> 仕事は、まだ張り詰めた緊張状態にありますが、これもまた「鍛えの場」ですから、
> 徐々に跳躍の足場を固めて、頑張っています。

> やはり、苦と楽は表裏関係にあるようで、達成感なりやりがいもあって、
> ときに、徳に恵まれた方に助けられています。

> 人間は、造作の美醜とは無関係に、何か「徳」を備えた雰囲気をもった方がいるものです。


ここにも注文をつけさせていただきます。

淳さまは、「人」を感情で評価しすぎるところがございます。つまり、感情的であり、その意味で「自分に甘い」ということでございますね。
たとえば、その「徳のある人」の「徳」の中味とは何なのかと、そう問うてみたことがございますか? その徳が「漠然とした徳」にとどまっていた場合、どこまで逆境に通用するのかと考えたことがございましょうか?

「人徳」などという漠然としたものを、漠然としたままに高く評価し、それを追従してしまうからこそ、そうした人が状況に流された時には「あの人が言っているんだから間違いないよ」という思考放棄が正当化されてしまいます。それは創価学会をはじめとした宗教団体などではとくに顕著であり、「池田(大作)先生」に直接会い、その「人徳(と感じられたオーラ的なもの)」に接した結果「この人は本物だ」と確信してしまう「妄信者」がどれだけいるものか、それを知らない淳さまではないはずでございます。
つまり、「人徳」などと評されるものは実に「不確実」なものであり、その多くは、それを持っているとされる者に属するのではなく、しばしばそれを感じる者の感情の側に属するのでございますね。ですから、たしかに「優しい人」や「いい人」や「思いやりのある人」なのかも知れませんが、それを「人徳のある人」などと殊更にジャーゴンで修飾して、崇めたいという自分の勝手な欲望のために「祭り上げる」べきではないのでございます。「言葉」は正確に、過不足なくつかうべきなのでございます。


ともあれ、見てのとおり私の場合は、「摂受」の形を採っておりますけれど、けっこう「折伏」なのですよ、本質的には(笑)。



 Keenさま


事の顛末

> 近年、園主さまが年賀状を出す習慣を止めていらっしゃるのは知っていましたが、今年に限っては、つい出したくなってしまったのでした。来年は、マックちゃん2世の力で「カラオケ年賀状」ができるかも?(笑)


あてにはせずに、ご期待ください(笑)。


>>> 非登場人物の弁

>> となれば、一番現実的な答えは「Keenさまが署名し忘れた色紙があった」ということになりましょう。しかし、これではまったく面白くございませんので、ここは「妖幻ブックブログ」にふさわしい解釈をいたしましょう。
>>
>> 年始早々なんでございますが――――、近いうちにKeenさまが事故か病気で亡くなられます。そうこうしているうちに「妖幻ブックブログ」に掲載されたあの「色紙の画像」から、べつの方の名前が消え、次はその方が不慮の死を迎え、その後また一人の名前が消え・・・。
>>
>> 題して「妖幻ブックブログの怪」でございます。いかがでございましょうか?(笑)

> ――そして誰もいなくなる、のでしょうか(笑)。最後には「中井英夫」の文字も消え去り、白紙の色紙だけが残る。しかし、術士・アレクセイは事前に秘かに復活の呪文を施しており、甦った面々は秋芳洞に集結、地下の鍾乳洞で声高らかに純正音律を歌いあげるのだった……


やはりKeenさまは、私の「秋芳洞特別リサイタル」を観たかったのでございますね(笑)。


> ちなみに、「幻妖ブックブログ」ですね、正確には。


えっ、私のパソコンで見ると「妖幻ブックブログ」となっておりますが、これも「妖幻ブックブログの怪」でございましょうか!?(って誤摩化してもダメか/笑)


> 実はあの後、本多正一さんに直接メールして伺ってみたところ、色紙は何枚か余分に作っていて、当日欠席だった東さんと宇山夫人に送ったのだそうです。余分の色紙は、その場では全員の署名があるか確認しなかったでしょうから、運悪くその一枚が記入漏れだったのでしょうね。本多さんからは「まあお気になさらず」とのお言葉をいただきましたが、せっかくの記念品に入り損ねたのは……(T-T)


次の機会に書き込ませてもらえばいいじゃないですか(笑)。
バラしますが、沢田さんなんて、実際には法事前日の12月9日に竹本さんにサインをもらっておきながら、12月10日の中井英夫の命日の方が有り難みがあるからって、嘘の日付を書いてもらっていた。それに、本多さんだって、中井英夫の亡くなったのが12月10日で、ちょうど『虚無への供物』の物語が開幕する日と一緒だったという「暗合」に心うたれたのは良いとして、その後しばらく、中井英夫の本を刊行する際には、刊行日の日付をわざわざ中井英夫の命日や誕生日にするなんてことをやって、私から「また偽暗合ですか」なんて突っ込まれてたんですよ(笑)。
だから、実際に参加していたんだったら、後で書き込ましてもらえばいいんですよ、その権利は十分にある。形式的にはスッキリしないかも知れませんが、事後的にいなかったことになってしまうよりはいいんじゃないですか?(笑)





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

人徳

 投稿者:  投稿日:2010年 1月13日(水)17時53分22秒
  ☆KEENさん


>淳さん、凍死してませんか?(笑)とりあえず安物のヒーターでいいから、早く買いに行きましょうね〜。



お気遣いありがとう御座います。

本当に、面倒くさいだけで、禁欲家を気取ってるのではありません/苦笑。
ましてや、矢吹駆を、ゴニョゴニョ…。

まま、この程度の寒さというのは、厚着してれば、なんとか快適に過ごせるものです。
なんせ、ひざ掛けには、毛布というありがたみが御座いますから、「足るを知る」といった感じで。

仕事は、まだ張り詰めた緊張状態にありますが、これもまた「鍛えの場」ですから、
徐々に跳躍の足場を固めて、頑張っています。

やはり、苦と楽は表裏関係にあるようで、達成感なりやりがいもあって、
ときに、徳に恵まれた方に助けられています。

人間は、造作の美醜とは無関係に、何か「徳」を備えた雰囲気をもった方がいるものです。
 

私を害する音調

 投稿者:  投稿日:2010年 1月13日(水)16時27分12秒
  ☆アリョーシャ


下記の大変見苦しい悪文、これこそまさに恥ずべし、といった感じです。不特定多数の人間に言葉を発する以上、表現は、音調として聞き苦しいものであってはならないと思います。
冒頭の「が」の連発などは、恥ずかしくて目も当てられない。

推敲…二度心がけます。
 

事の顛末

 投稿者:Keen  投稿日:2010年 1月13日(水)15時07分54秒
  他の地域はどうかわかりませんが、当地では、今朝の積雪がうそのように溶けていく陽差しの午後になりました。
淳さん、凍死してませんか?(笑)とりあえず安物のヒーターでいいから、早く買いに行きましょうね〜。

☆園主さま

>年賀状にくわえて、こちらにまで毎年ご挨拶いただき、誠にありがとうございます。
>私は今年も年賀状を1枚も書きませんでしたが、そのうち新しいプリンタ(とスキャナー)をつなぐでしょうから、来年は年賀状が出せるはずでございます(笑)。

近年、園主さまが年賀状を出す習慣を止めていらっしゃるのは知っていましたが、今年に限っては、つい出したくなってしまったのでした。来年は、マックちゃん2世の力で「カラオケ年賀状」ができるかも?(笑)

>>非登場人物の弁
>となれば、一番現実的な答えは「Keenさまが署名し忘れた色紙があった」ということになりましょう。しかし、これではまったく面白くございませんので、ここは「妖幻ブックブログ」にふさわしい解釈をいたしましょう。

>年始早々なんでございますが――――、近いうちにKeenさまが事故か病気で亡くなられます。そうこうしているうちに「妖幻ブックブログ」に掲載されたあの「色紙の画像」から、べつの方の名前が消え、次はその方が不慮の死を迎え、その後また一人の名前が消え・・・。

>題して「妖幻ブックブログの怪」でございます。いかがでございましょうか?(笑)

――そして誰もいなくなる、のでしょうか(笑)。最後には「中井英夫」の文字も消え去り、白紙の色紙だけが残る。しかし、術士・アレクセイは事前に秘かに復活の呪文を施しており、甦った面々は秋芳洞に集結、地下の鍾乳洞で声高らかに純正音律を歌いあげるのだった……
ちなみに、「幻妖ブックブログ」ですね、正確には。

実はあの後、本多正一さんに直接メールして伺ってみたところ、色紙は何枚か余分に作っていて、当日欠席だった東さんと宇山夫人に送ったのだそうです。余分の色紙は、その場では全員の署名があるか確認しなかったでしょうから、運悪くその一枚が記入漏れだったのでしょうね。本多さんからは「まあお気になさらず」とのお言葉をいただきましたが、せっかくの記念品に入り損ねたのは……(T-T)
 

大恩に報じるということ。

 投稿者:  投稿日:2010年 1月13日(水)10時08分44秒
  ☆アリョーシャ


「最後のニュース」は、真に偉大な歌ですね。
僕も大好きです。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

カイシャでは、日蓮聖人の御書を拝読し、一人涙しています。いま、叔母宅に居候させてもらっているのですが、僕の部屋には、エアコン/ストーブがありませんので、朝晩は、白い息でPCに向かうのですが、佐渡御書を拝するに、その想像を絶する激烈な状況に思いを馳せ、自らの余りにも恵まれた環境に恥ずかしい思いさえします。別に僕は、安っぽいエセ禁欲主義者を気取っているのではなくて、買いに行くのが面倒なだけなのですが。


「行学たえなば仏法はあるべからず」
「愚人に誉められるは第一のはぢなり」
「詮ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん」


「真の信仰者」を目指す人は、ある程度、原理主義的にならざるを得ないと感じています。公明党が、イラク戦争を支持したあのとき、皮肉にも政教が決定的に分離した瞬間でした。僕は、アナキズムに多大な興味関心を抱きつつも、「政教一致して何が悪い」「王仏冥合すべし」と真剣に思っている人間ですから、やはりあの決定的な大謗法を、いつまでも執拗に破折しなくてはならない。それこそが、創価学会から受けた大恩に報じることだと思っています。創価学会員は、あまねく数十万の無辜のイラク人の命に対して罪障消滅の唱題を欠かしてはなりません。それを彼らは、愚かにもすぐに忘れてしまう。僕は、罪障消滅なしに、臆面もなく、脳内お花畑な「世界の平和」を勤行で祈念する欺瞞を許すことが出来ない。僕は、まず、父母の多大な恩に報じるために、罪障消滅(懺悔)の題目をすすめていこうと思っています。

如何なる宗教団体にも所属せずに、原理原則を守り信仰を保つということは、大変難しいことです。(仏法)原理にしたがえば、折伏は自然と歓喜をもって行じなくてはなりませんが、なんせ「連帯」ならまだしも、それが組織化されたら、途端にそれが必然的に腐敗を免れないことを僕は確信しているからです。僕は、恐らく「終生の請願」として、アリョーシャを折伏したいと思っています。僕は、冗談を言っているのではなく真剣です。それは、僕という人間の成長を通して、アリョーシャが亡くなるまでにいつかと…。加え、御書の教学的記述は難解です。無論、我見が立ち入ることは、非常な恐怖です。


先日購入したヴェイユの『神を待ち望む』も読んでいますが、本質的に仏法とは相容れないキリスト教的世界(カソリック/創造主の存在)の手紙に依拠した書物ですので、彼女の純度に感動を覚えつつも、「キリスト教的心性(隣人愛など)」の信仰姿勢で、日蓮の仏法に臨まないように自分を注視しながらの慎重な読書です。

哲学書も手をつけていますが、これも信仰者としては、かなり慎重にならざるを得ません。下手をすると日蓮聖人の仏法を「生命哲学」などという、安っぽいもの貶めかねないからであり、仏法を「哲学的見地」から解読しようとする試みに堕しかねないからです。
仏法は、超越論的です。仏智は、人智を遥かに超えるものであり、それが信行学を通して己心に宿るものだと信じていますし、最近、行学に励みだしてから、仕事を通じて、非常に人智を超えているとしか思えないようなことがあります。四ヶ月を経ても一偈も記憶できなかったという周利槃特ですら、阿羅漢果を得たといいます。仏智は、まさに量りがたいものです。


カイシャに忠実になるのではなく、与えられている仕事に対して忠実であることは、信仰上とても大切なことだと、最近感じています。

仏法者は、何をもっとも恥ずべきか、何をもっとも怖ずべきか、思念しています。
やはり、御書(法)に拠りつつ学ぶよりほかありません。
 

カラオケ!

 投稿者:園主  投稿日:2010年 1月12日(火)22時17分39秒
  みなさま、このところ(と言っても、正確には特にこの1年)私の凝っているのが、カラオケでございます。音楽を聴く趣味はまったくないのですが、子供の頃から唄うことが大好きでカラオケも大好きだというのは以前にご報告をいたしましたし、一昨年11月に職場移動があってからは車通勤となったため、電車のなかでの読書ができなくなった反面、音楽を聞く時間が増えたので、カラオケ用の新曲開発が進んだという話も、すでに書いたはずでございます。そんなわけで数年までなら、年に1曲ふえれば良い方だったレパートリーが、昨年からは月に2曲程度のペースで増えることになったのでございます。
当然、一昨年までは、古いアニメソングや昔の歌謡曲が中心だったのでございますが、最近はその気になれば何にでも挑戦できるほどの(音楽を聴く)時間的余裕が出来ましたので、そうなると負けん気の強い私でございますから「アニソン中心だと思ってバカにするなよ。ほかの曲だって唄おうと思えばここまで唄えるんだけど、あえて好きなアニソンを唄っているだけなのだから」ということを示すために、あえて新しめの人気歌手のヒットソングや新しいアニメソングにも挑戦し、今では「60代から10代にまで対応できる」と豪語できる状態になっております。もちろん、何でも見境なく唄うということではなく、私の趣味に合っていてしかも唄い甲斐のある曲という限定はございます。まあ、古い曲は幼い頃に耳にはいっておりますから、さほど難しいことではございませんので、練習曲はもっぱら新しいものが中心となっております。

一昨年以前にそうした感じで練習した歌手と言えば、中島みゆきと井上陽水、ザ・ブルーハーツやポルノグラフィティーなどがございますが、前者は「誰でも知っていて、唄いこなせれば驚かせることができるだろう」という判断から選んだものであり、後者は友人が好きで唄っていたので「じゃあ、それに挑戦してみようか」という感じで練習をしたのでございますが、このあたりは私が音楽シーンに関していかに無知かがよく顕われていようかと存じます。

で、一昨年以降もこうした感じで、尾崎豊は「歌詞は好きじゃないけど、曲は悪くないし、ウケるんじゃないかな」と考えて練習をはじめたり、友人が好きな松任谷由実を練習したりしておりましたが、先日より新しいパソコンを導入して以降、そうした状況がガラリと変わりつつあるのでございます。
と申しますのも、古いパソコンは調子が悪うございましたので、画像サイトは観なかったのでございますが、光回線を導入した新しいパソコンでは画像サイトも安心して観ることができますから先日初めて「YouTube」を観、そこでたいていの音楽が聞けることを知ったからでございます。
最初は、長い間見ることのかなわなかった、田中麗奈主演の「なっちゃん」CFや『海のトリトン』のオープニング、金田伊巧のオープニングアニメを観て感動したりしていたのでございますが、これでなら古くて見られないものばかりではなく、たいがいの曲が聴けるというのに気づいたのでございますね。ですから、いままでなら気になっていてもCDが手に入らず諦めていたようなものが簡単に聴けるようになり、また気になる曲だけれどCDを買ってまで細かく確認するつもりはないといったものまで容易に試聴できるようになった結果、唄いたい曲がいっきに増えたのでございます。

ちなみに一昨年の11月以降、に習得した曲は、

 ・ 尾崎豊(「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」「15の夜」「卒業」)
 ・ 松任谷由実(「あの日にかえりたい」「卒業写真」)
 ・ 忌野清志郎(「雨上がりの夜空に」「Oh ! RADIO」)
 ・ 井上陽水(「最後のニュース」)

などのメジャー(一般人向け)曲ほか、(私の持ち歌でアニメ『GTO』の主題歌だった「ヒトリノ夜」を唄った)ポルノグラフィティーが担当したアニメ『鋼の錬金術師』の主題歌「メリッサ」を、ある年下の友人が好きだと聞いて興味を持ちCDを買った結果、同作品の主題歌・エンディングの中から、

 「メリッサ」ポルノグラフィティー
 「UNDO」COOL JOKE
 「READY STEADY GO」L'Arc〜en〜Ciel
 「リライト」ASIAN KUNG-FU GENERATION
 「I Will」Sowelu
 「消せない罪」北出菜奈

を習得。
これで気づいたのは、最近のアニメ主題歌は一般の人気歌手が唄っており、良い曲ならアニメファンにも普通の人にも受け入れられるという事実です。で、私は、最近の人気アニメで、良い(唄いたくなる)曲で、人気歌手が唄っている曲をピックアップすることになりました。

そうしたラインで注目したのが、『鋼の錬金術師』と同じ時間帯に放映された一連のアニメの曲。

 「invoke」(t.m.revolution『機動戦士ガンダムSEED』)
 「あんなに一緒だったのに」(see-saw『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』)
 「青空のナミダ」(高橋瞳『BLOOD+』)
 「語り継ぐこと」(元ちとせ『BLOOD+』)

このほかに、友人がCDを貸してくれた『コードギアス』のアルバムから

 「COLORS」(FLOW『コードギアス 反逆のルルーシュ』)
 「シアワセネイロ」(ORANGE RANGE『コードギアス 反逆のルルーシュR2』)

を練習中で、このへんになってくると、ラップまで絡んでくるので大変でございます(笑)。
ちなみに、この友人はカラオケは好きではないけれど、ジャニーズ、特に「SMAP」や「嵐」「TOKYO」が好きで「これを聞け」とマイセレクションCDを焼いてくれたのですが、私は「私は音楽は聴かない人間だ。その私に聴けと言うことは、唄いこなしてみせろという挑戦と同じ。ならば、みごと唄いこなしてみせよう!」と頼まれもしないのに、嵐の「ギミック・ゲーム」とTOKYOの「太陽と砂漠のバラ」を練習し、ひととおりは唄えるようになりました(笑)。

このほかにも、最近習得した曲や練習中の曲でアニメ系のものとしては、

 「星間飛行」(ランカ・リー=中島愛『マクロスF』)
 「アンインストール」(石川智晶『ぼくらの』)
 「ひぐらしのなく頃に」(島みやえい子『ひぐらしのなく頃に』)
 「エンジェル★ろっけんろー」(エンジェル隊『ギャラクシーエンジェルX』)
 「1st Priority」(メロキュア『ストラトス・フォー』)
 「ザ・リアル・フォーク・ブルース」(山根麻衣『カウボーイ ビバップ』)

など。このへんになると、もう十分に同時代に対応しているのではないかと存じます。

もちろん、新しい曲だけではなく、気になっていた昔の曲も開拓中で、例えば、

 「勇者王誕生!」(遠藤正明『勇者王ガオガイガー』)
 「嵐の中で輝いて」(米倉千尋『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』)
 「いつか空に届いて」(椎名恵『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』)
 「HEART TO HEART」(彩子『勇者警察ジェイデッカー』)
 「FLYING IN THE SKY」(樫原伸彦『機動武闘伝Gガンダム』)
 「Get Wild」(TM NETWORK『シティーハンター』)
 「愛よ消えないで」(小比類巻かほる『シティーハンター』)

などがございます。
また、ポルノグラフィティのヒット曲「アゲハ蝶」「サウダージ」、森山直太朗の「さくら」、平成版『子連れ狼』の主題歌で小椋佳の「子らよ」なども練習中。

ここに挙げたのは、ここ数年(大半は、ここ2年)に憶えた曲でございますが、自信の持ち歌と言えば、やはり子供の頃や若い頃に聞き、口ずさんできた曲が多く、

 「海のトリトン(GO!GO!トリトン)」(ヒデ・夕木『海のトリトン』)
 「デビルマン」(十田敬三『デビルマン』)
 「今日もどこかでデビルマン」(十田敬三『デビルマン』)
 「あしたのジョー」(尾藤イサオ『あしたのジョー』)
 「ルパン三世のテーマ(その2)」(チャーリー・コーセイ『ルパン三世』)
 「宝島」(町田よしと『宝島』)
 「小さな船乗り」(町田よしと『宝島』)
 「めぐりあい」(井上大輔『機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編』)
 「いつもあなたが」(TETU『装甲機兵ボトムズ』)
 「メロスのように -LONELY WAY-」(AIRMAIL from NAGASAKI『蒼き流星SPTレイズナー』)
 「疾風ザブングル」(串田アキラ『戦闘メカ ザブングル』)
 「ダンバインとぶ」(MIO『聖戦士ダンバイン』)
 「キューティーハニー」(前川陽子『キューティーハニー』)
 「エースをねらえ!」(大杉久美子『エースをねらえ!』)
 「キカイダー01」(子門真人『キカイダー01』)


など(もっとも、女性ボーカルの曲は、カラオケで「キー変更」ができるようになって初めて、満足に唄えるものになったのでございますが)。
こうした曲に加えて、近年おぼえた曲のなかでは、前述の「メリッサ」(ポルノグラフィティー)、「あんなに一緒だったのに」(see-saw)、「青空のナミダ」(高橋瞳)などのほか、

 「いまがその時だ」(水木一郎『チェンジ! 真ゲッターロボ』)
 「魂のルフラン」(高橋陽子『劇場版 新世紀エヴァンゲリオン』)
 「BEYOND THE TIME~メビウスの宇宙を越えて~」(TM NETWORK『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』)

などが「自信曲」レパートリーに加わるという感じでございましょうか。

こうして見てまいりますと、やはり近年のアニメソングは女性ボーカルが圧倒的に多く、数少ない男性ボーカルもソロボーカルというのが極めてすくないため、男性ファンには歌いにくい曲が多いということになります。しかしまた、私が女性ボーカルの曲を歌えますのは、カラオケではキー変更ができるからであり、それさえうまくやれば、たいがいの曲がキーに無理なく唄えましょう。

そこで、キー変更のコツなんでございますが、これは「男性は女性よりキーが低いからといって、単純にキーを下げれば良いというものではない」ということでございます。というのも、高音が魅力の曲のキーを下げて唄うと、曲自体の迫力が無くなってしまってしまう。しかし、逆にキーをいくらか上げてやると、男性はそのキーに合わせ1オクターブ下げて唄いますから、ちょうどいい具合になったりするのでございますね。
例えば、私は大杉久美子の「エースをねらえ!」や前川陽子の「キューティーハニー」を唄う場合「+6」で唄います。このくらい上げても、ただ聴いている分には音楽のキーが上がっていることは、まったく気になりませんし気づかない人の方が多い。しかし、バックコーラスに女性の声が入っている場合は、こんなに上げてしまうとその声が異様なものになってしまうので、女性コーラスが強く入っているものは、せいぜい「+3」までに止めるべきでございましょう(例えば、松任谷由実の「まもってあげたい」等)。また、どんな女性歌手の曲でも「+6」で良いのかと言えば、もちろんそんなことはありません。例えば、「青空のナミダ」(高橋瞳)なら「+3」、「星間飛行」(中島愛)なら「+4」、「ザ・リアル・フォーク・ブルース」(山根麻衣)や「ダンバインとぶ」(MIO)なら逆に「−3」。中島みゆきの「地上の星」は原曲キーで楽に唄えますが、ほかの曲はそうはいかないなど、曲にあわせてキーの調整を試してみる必要がございましょう。私は、音楽には詳しくないので、正確な理論的説明はいたしかねますが、実用面では実証済みでございますから、ぜひ一度お試しになってくださいまし。

さて、ここまで長々と自慢たらしく「これは唄える」なんて話を書いたからには、もちろん最後にはこの台詞で締めくくらせていただきます。

   「私は誰の挑戦でも受ける」(アントニオ猪木)

私が強いのは「論争」だけではございません。論争の方は、そろそろ面倒になってきましたが、カラオケの方は一人で5時間、二人で10時間というのが、今のところの最高記録でございますが、ただ唄うだけなら、まだまだ唄うことが可能で、ただこれくらいになると歌う曲が無くなってくるし、帰らないといけない時間にもなりますので「今日のところは、このへんにしといたる」ということで引き上げるだけ。徹底的にやるという意味では、論争の場合と何ら変わってはいないのでございます(笑)。



 カムイさま


賀春

>新年 明けましておめでとうございます

> 昨年は、私の個人的な懸案事項に、何かとアドバイスを賜わりましてありがとうございました。正確には、一昨年から困難事が発生し、その当初よりお世話になりっ放しで、ご迷惑をかけているところです。


わざわざ新年のご挨拶、ありがとうございます。
こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。


> アレクセイさんの常に冷静かつ周囲の情況を配慮したご助言は、私が課題解決を図る上で、最善の決断に至るように導いてくださる手となりました。それは、あたかもインフラ整備に行き詰った場合の最適の指南書の如く、私が行動する際の糧になり、アレクセイさんのその言葉の効果は絶大なのでした。だから、たとえそれが良薬で苦くても、いざ服用し喉元を通過した後には、病態が改善する方向へ向かいました。そうしたように、アレクセイさんのアドバイスを自分なりに噛み砕きつつ、また、その副作用にも注意しながらですが、ご教示の数々を授かりました次第です。


大した助言はしておりませんが、ただ私の場合、ほかの人は思っても口にしない助言をしますから、その点で役に立ったのではないかと存じます。


> とにかく、私にとっての昨年は、何かと辛抱を強いられた年でした。そうして我慢を続けなからも、考えることを諦めなければ、薄曇の中から徐々にですが光が漏れ出し、目指すべき道が示されるように変化していくことが、実感として伴ってくるようになりました。これも、ひとえにアレクセイさんのご助言があってのことです。いつも仰っていただいている、「あきらめずに、しぶとく」をモットーに頑張っていく所存です。色々と貴重なアドバイスをいただきまして本当にありがとうございました。


ええ、「筆舌に尽くしがたい苦境」と言っても決して過言ではない状況で、本当によく頑張られたと存じます。この経験は間違いなく、カムイさまの一生の宝となりましょう。「地獄を見た」人というのは、私自身も含めて一万人に一人もいないのでございますから、自信を持ってくださいまし。


> ところで、アレクセイさんは、昨年末より蔵書の整理・整頓などで、お忙しく過ごされたことかと存じます。その蔵書の大半が、二階の各居室に置かれているとのことで、しかも部屋の壁や床がご本で見えなくなるぐらいの超ド級の書籍群らしく、想像を超えるほどのご本の数量には、お話を聞くだけでも圧倒されてしまいました。アレクセイさんが沢山のご本を所蔵なされていると聞き及んでいましたが、私は、このお話をうかがうまでは、それなりの居住空間のある書斎の中で、ソファーにゆったりとくつろぎながら読書なさっているイメージがあったものですから、度肝を抜かすぐらい驚いた次第です。(笑)


蔵書家の読書家というと「優雅に本を読んでいる」というイメージを持つのが一般の方の常なのかもしれませんが、本コレクターというのは基本的には「蔵書と闘う人(そして、いずれ敗れ去る人)」なのでございますよ(笑)。


> それから、新たに光回線を導入された機会に、新マックを購入なさったとのことで、その環境にも慣れましたら、またパワフルなお書き込みを再開されますよう、是非ともお願いします。


どこまでご期待に添えますか、ともあれ頑張りたいと存じます。
ところでそれはそうと、次の目標は「12時間」越えでございますね(笑)。



 Keenさま


Keen賀新年(お約束)

> 園主さま、ホランドくん、皆さま、遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
> まだ松の内なので、ぎりぎり新年のご挨拶はできますよね?
> 園主さまには、マックちゃん2世が無事導入されたご様子、こちらもおめでとうございます。
> 私は相変わらずの骨董XPのため、パソコンをさわる機会が激減したままですが、今年もよろしくお願いします。


年賀状にくわえて、こちらにまで毎年ご挨拶いただき、誠にありがとうございます。
私は今年も年賀状を1枚も書きませんでしたが、そのうち新しいプリンタ(とスキャナー)をつなぐでしょうから、来年は年賀状が出せるはずでございます(笑)。

ちなみに、新しいパソコンは快調でございますが、ソフトがかなり換わっているうえに、おなじソフトでもバージョンが全然ちがいますから、なかなか思うように使いこなせません。そこで今は、初心にもどって、その種の解説本を買ってきて読んでいるところでございます。


> 先月の中井英夫十七回忌山口旅行では、楽しい時を過ごすことができました。ありがとうございます。当初、まさか自分も参列することになるとは思いも寄らず…お話をいただいてからはずっと夢見心地で、そろそろ1か月経とうかという今日に至っても、あれは本当に現実に起こったことなのかと、つい疑いたくなってしまうのです。

これは、次の「非登場人物の弁」につながる書き込みでございますが、ここで私が「はて、Keenさんは山口にお出ででしたっけ?」と竹本健治的健忘症でお答えしたら、本気で泣かれるかもしれませんね(笑)。


非登場人物の弁

> 「それでも生きて語れ 」文中の園主さまのリンク↓

(2) 中井英夫の十七回忌法要に参列。

> をたどってみたところ、不思議な現象に行き当たりました。
> 写真で紹介されている、参列者のサイン色紙に私の署名がない…???
> 私が一般人なのを考慮して、写真を編集して消して下さったのかと思いましたが、数えてみると、他の方々の分は全部写っているんですね。では、中井英夫ファンにあるまじき、あまりにも下手くそな字なので、そこだけ削除されたのだろうか?あるいは、もっとシンプルに、私が書き漏らした一枚があったのだろうか…?
> 当日は13人分の色紙しか作りませんでしたから、この写真の色紙は、本多夫妻がお持ちのうちの一枚を東さんに進呈したものなのでしょうか。(単にメール添付画像かな?)色紙が配られた時、13人全員の署名がそろっているかどうか、各自数えて、確認して受け取ったはずですが、いずれにせよ、私の署名のない一枚があるということですね。
> 私の手許にある一枚には、ちゃんと13人分の署名があります。もちろん、自分のものも。

> それとも、あれはやはり、夢だったのでしょうか…


たぶん、上のサイトに掲載されているのは、本多さまが東さまに送った写真でございましょう。しかしそれでも、Keenさまの署名がないのはおかしい。
本多さまなり東さまが、Keenさまの署名だけを消したということはあり得ない。なぜならば、あそこには私をふくめ一般のファンが署名しておりますが、そちらは削除されていないし、もとより事前に画像のアップにかんしての問い合わせがあったわけでもございませんからね。

となれば、一番現実的な答えは「Keenさまが署名し忘れた色紙があった」ということになりましょう。しかし、これではまったく面白くございませんので、ここは「妖幻ブックブログ」にふさわしい解釈をいたしましょう。

年始早々なんでございますが――――、近いうちにKeenさまが事故か病気で亡くなられます。そうこうしているうちに「妖幻ブックブログ」に掲載されたあの「色紙の画像」から、べつの方の名前が消え、次はその方が不慮の死を迎え、その後また一人の名前が消え・・・。

題して「妖幻ブックブログの怪」でございます。いかがでございましょうか?(笑)



 婆やさま


わらひ

> 吉報です。
> ノズラーの蔑称で、オタクから冷たい支持を受けてきた相模原の無職 野嵜健秀 が、口喧嘩をして粉砕されました。
> 生意気にもブログで、あれこれ言っていたことは、嘘八百だったのです。

> ここに、記録がありますので、どうぞ皆様、この馬鹿を嘲笑のうえ、役立たず無知野郎の正体を周知頂きたくお願い申し上げます。

>  kirokuroちゃんねる
>  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/music/23922/1234954545/

>  「本物」とはかういふことだ
>  http://pu-lab.sakura.ne.jp/blog_dive/2009/12/feynman.html

>  野嵜さんのための「論理」入門
>  http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding


わざわざご報告、ありがとうございます。
この掲示板が以前、野嵜さま他1名(氏名失念)によって「掲示板荒らし」の被害に遭ったことをご存知で、ご報告くださったのでございますね。まあ、野嵜さまがいまだに私を誹謗する文章をアップしておられますからご存知なのでしょうが、野嵜さまに名指しで敵視されるというのは、私にとっては身の誉れだと申せましょう(笑)。

うえにご紹介いただきましたページをざっと拝見しましたが、専門的なお話も多く、私には細かく読み込んでまでついていく気力は起きませんでした。
ただ一読して思いますのは、野嵜さまは「昔とぜんぜん変わっていないな」ということでございます。

と申しますのも、私もその昔は毎日のように膨大なログを生産することで有名だったのでございますが、この2年ほどはそういう気力がはっきりと減退してしまいました。なぜそうなってしまったのかと自分なりに考えてみますと、その最大の理由は「笠井潔の失墜」でございましょう。私が本を読んだり文章を書いたりする契機として、笠井潔という否定的存在はたいへん大きゅうございました。
文章を大量生産していた頃から私は「自分の文業として、プロの文筆家にも誇れるのは、笠井潔批判であろう」と言ってまいりましたが、一昨年の「『容疑者Xの献身』論争」で笠井潔が大みそをつけて業界内で大顰蹙を買ったのが大きかった。もはや笠井潔が、文筆業界で権力を振るうことはないというのがハッキリした途端、まったく意識はしませんでしたが、私の文筆意欲も減退したようでございます。

ま、そんなわけで、いまだに昔同様、まともな人には理解されないのを知りながら、相変わらずの健筆を振るっておられる野嵜健秀さんの精力にだけは、心からの敬意を表したい。その精力を善用をしていただければ言うことはないのですが、いまさらそれを言うのも野暮というものでございましょうし。
せめて野嵜さんにも、私のカラオケのような趣味があれば、その根深いルサンチマンもすこしは薄れるのでしょうが、多分に権威主義者である野嵜さんには、カラオケなんていう軽っぽい趣味は持てないのでございましょうね。もちろん、自身の音痴に気づく耳を持っていれば、ストレスの発散どころではないという場合もあるのではございますが(笑)。

ともあれ、野嵜健秀さまのような方にも生き場所のあるこの世界この時代というのは、たいへん素晴らしいものなのだと存じます。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

わらひ

 投稿者:婆や  投稿日:2010年 1月10日(日)15時56分7秒
  各位

 吉報です。
 ノズラーの蔑称で、オタクから冷たい支持を受けてきた相模原の無職 野嵜健秀 が、口喧嘩をして粉砕されました。
 生意気にもブログで、あれこれ言っていたことは、嘘八百だったのです。

 ここに、記録がありますので、どうぞ皆様、この馬鹿を嘲笑のうえ、役立たず無知野郎の正体を周知頂きたくお願い申し上げます。

  kirokuroちゃんねる
  http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/music/23922/1234954545/

  「本物」とはかういふことだ
  http://pu-lab.sakura.ne.jp/blog_dive/2009/12/feynman.html

  野嵜さんのための「論理」入門
  http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding
 

非登場人物の弁

 投稿者:Keen  投稿日:2010年 1月 7日(木)16時58分4秒
  「それでも生きて語れ 」文中の園主さまのリンク↓

(2) 中井英夫の十七回忌法要に参列。

をたどってみたところ、不思議な現象に行き当たりました。
写真で紹介されている、参列者のサイン色紙に私の署名がない…???
私が一般人なのを考慮して、写真を編集して消して下さったのかと思いましたが、数えてみると、他の方々の分は全部写っているんですね。では、中井英夫ファンにあるまじき、あまりにも下手くそな字なので、そこだけ削除されたのだろうか?あるいは、もっとシンプルに、私が書き漏らした一枚があったのだろうか…?
当日は13人分の色紙しか作りませんでしたから、この写真の色紙は、本多夫妻がお持ちのうちの一枚を東さんに進呈したものなのでしょうか。(単にメール添付画像かな?)色紙が配られた時、13人全員の署名がそろっているかどうか、各自数えて、確認して受け取ったはずですが、いずれにせよ、私の署名のない一枚があるということですね。
私の手許にある一枚には、ちゃんと13人分の署名があります。もちろん、自分のものも。

それとも、あれはやはり、夢だったのでしょうか…
 

Keen賀新年(お約束)

 投稿者:Keen  投稿日:2010年 1月 7日(木)16時02分27秒
  園主さま、ホランドくん、皆さま、遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
まだ松の内なので、ぎりぎり新年のご挨拶はできますよね?
園主さまには、マックちゃん2世が無事導入されたご様子、こちらもおめでとうございます。
私は相変わらずの骨董XPのため、パソコンをさわる機会が激減したままですが、今年もよろしくお願いします。

先月の中井英夫十七回忌山口旅行では、楽しい時を過ごすことができました。ありがとうございます。当初、まさか自分も参列することになるとは思いも寄らず…お話をいただいてからはずっと夢見心地で、そろそろ1か月経とうかという今日に至っても、あれは本当に現実に起こったことなのかと、つい疑いたくなってしまうのです。
なぜなら…

(この続きは、また今度書きますね!)
 

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