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 神聖喜劇 ーー カトリック界の東堂太郎

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 3月 6日(月)15時41分42秒
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 神聖喜劇 ーー カトリック界の東堂太郎
 ーー 西山俊彦『キリスト教はどんな救いを約束しているのか 愛の福音が真価を発揮するための一石』

 (https://www.amazon.co.jp/dp/4286177513/ref=pdp_new_dp_review
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すごい本である。十年に一冊どころではない。まずはそう断言しておこう。

その証拠の一つとして挙げられるのが、本書が自費出版系の文芸社からの出版という事実である。「なんだ、自費出版か」と思った人もいるだろうが、事実の意味するところは、その逆である。

著者は、カトリックの学者として立派な肩書きを持ち、平和運動家としての実績もあり、これまでキリスト教系の出版社から何冊もの著作を刊行している人である。
しかし、著者の誠実な論理性と剛直な精神は、カトリック界の保身的組織防衛主義に発する欺瞞に対する呵責のない批判としてあらわれ、その結果、近年その著書の刊行が困難を極めた結果、キリスト教界とはしがらみのない文芸社が、中身本位で著者に手を差し伸べ、本書の刊行がなったのだ。

つまり本書は、カトリック界が世間に知られたくない事実を、明晰な文章によって赤裸々かつ論理的に語った「内部批判」の書なのだ。
昔ならば、著者はカトリック教界から破門され、本書は「焚書」にされ、証拠隠滅の憂き目にあっただろう。そんな重要貴重な本なのである。

『本書主題の提起展開は、直接的には、宗教集団、世界最大のそれの信憑性を問うものである。』(P462)

著者は、敬虔なキリスト教信者として、カトリック教会が正しく機能しているのか否かを検証し、誤っているところは謙虚に正すべきだと、当たり前の主張をしているにすぎない。
しかし、カトリック教会の誤りがその「教義」にまで至り、その教義を認めなければ「破門」にするとまで規定されている現実があるために、教義を厳格に思考すべき神学者ですら、その誤りを公然と指摘することは出来ないのだ。
それこそ、自身の信仰に、理路整然とした正統性と自負を持たないかぎり、世俗的評価や栄達を棄てる覚悟がないかぎり、カトリック信者としては「死刑よりも恐ろしい破門」の脅しには抗えないのである。

しかし、本書の著者は、カトリックの公式見解の一つである「刷新と現代化」の正統的立場から、それを実践しようとしない、組織防衛第一の保守主義による欺瞞的な世俗迎合主義を、真正面から論理的に批判する。だから、カトリック界は、教職を退き一信者として「正論」を投げかけてくる著者を公然と処分することが出来ず、徹底的に無視することで抹殺しようとしている。
これが本書成立の背景である。

私は、本書で初めて著者西山俊彦を知った。そして、その論理的かつ剛直な精神に、私が「心の師」と仰ぐ小説家大西巨人に通ずるものを感じ、その奮闘に、大西の代表作『神聖喜劇』の主人公である陸軍二等兵・東堂太郎のそれを重ねて読んだ。

東堂太郎は「軍隊」の中で、その理不尽・不条理に対し、博覧強記と論理性をもって抵抗する。
先の戦争における日本の「軍隊」の現場が、いかに歪んだ権威主義と精神主義の「特殊空間」の様相を態していたとしても、そこには厳然と「軍規」が存在し「理想」や「あるべき姿」が各種の文書となっていた。藤堂太郎は、そうしたものに通じ、それを根拠に「軍隊」の歪みに敢然と抵抗したのである。

戦後の軍隊小説としては、野間宏の『真空地帯』という名作がある。『真空地帯』では、「軍隊」は人間を非人間へとスポイルしてしまう特殊空間としての「真空地帯」として描かれる。つまり「軍隊」は「世間(軍隊の外の世間一般)」とは本質的にちがった特殊空間であったと主張されているのであるが、大西巨人はこれに異を唱えた(『真空地帯』論争)。軍隊もまた「世間」の一部であり延長でしかなく、本質的な違いはない。むしろ、「軍隊」は「世間」に伏在している問題性を剥き出しにしてみせる場所であり、その意味で「軍隊」の問題を描くことは、世間一般の、そして人間一般の問題を描くことに他ならないと主張し、その実証作として、埴谷雄高の『死霊』と並び称される、戦後文学の巨峰『神聖喜劇』を、20年の歳月を費やして完成させたのである。

さて、本書『キリスト教はどんな救いを約束しているのか』の著者西山俊彦を東堂太郎に擬するならば、東堂太郎の「軍隊」は西山にとっての何にあたるのか? 無論それは「カトリック教会」である。
「カトリック教会」は、ローマ教皇(法王)を頂点とする位階制をもった、権威主義的な縦割り組織であり、その意味でも「軍隊」に似ていると言えよう。どちらも「抗命」を絶対に許さず、刑罰をもってそれに報いる、法権力組織である。そうした意味でも「カトリック教会」は、「宗教的特殊空間」であるよりは、「世俗的権威主義組織」に極めて近いし、それは教義的にも当然なのである。
どういうことかと言えば、人間は「すべて例外なく原罪を帯びている」というのがキリスト教の根本教義なのだから、ローマ教皇であろうが、大司教であろうが、高名な神学者であろうが、彼らもまた「原罪」を帯びており、そのために「誤り」も犯す。そして、そんな「人間」たちによる組織である以上、歴史も証明しているとおり、「カトリック教会」もまた多くの「通俗的な誤り」を犯すのである。

しかし、そのカトリック教会が、近代にいたって「教皇無謬論」などというものを「教義」化してしまった。
ローマ教皇が、教皇として世界の信者に発する教義的決定の指導は、聖霊の導きによって「誤ることがない(絶対に正しい)」というのを「カトリックの正統教義」として決めてしまい、これに従わない者は「破門」するとしたのである。

本書の著者が、本書において中心的に取り上げるのは、この「教皇無謬論」の問題であり、「教皇無謬論」を後ろ盾として、近代において教義化された「聖母マリアの無原罪の御宿り」と「聖母マリアの(肉体をともなった)被昇天」説である。
キリスト教に興味を持つ(私のような)非クリスチャンだけではなく、非カトリックのキリスト教徒の多くが、首を傾げるこれらの教義が、カトリックにおいてどのように正当化されているのか、そしてその正当化がいかに非論理的で裏づけの無い根拠薄弱なものであるのか、言い変えれば「信憑性」のない「自慰的」規定であるのかを、著者はカトリックの教義に準じて、理路整然と論証していく。
そして、それに対してカトリック教会は、ただ傲慢かつ不誠実な「無視」で応じている。これが「(現代)カトリック教会の隠された現実」のひとつなのだ。

著者西山俊彦の奮闘は、まさに「神聖喜劇」である。
彼は現代における「神の道化師」なのであろう。

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「年間読書人 Amazonレビュー」リンク集

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)15時08分45秒
  みなさま、本日は、私が「年間読書人」名義でAmazonに書いたレビューの内、こちらでまだご紹介していなかった「キリスト教関連書」をご紹介させていただきますとともに、下のとおり「Amazonレビュー」のリンク集をアップさせていただきました。

なお今回、当「花園」内にアップした「キリスト教関連書」ページの末尾に収録した「関連書」リンク集には、小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』を含めておりませんでしたが、宗教関連書ということで、ここでは「キリスト教関連書」のリンク集の方へ収めさせていただきました。リンクの修正をするのが大変なので、各ページのリンク集については今回はそのままにし、次回からはこちらでいきたいと存じます。
また、リンク集の補足については、新たなレビューがいくつか貯まってから、今回のようにまとめて補足したいと存じます。

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(キリスト教関連書)

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・ 同年生まれで、同じようにアニメ好きだった、小谷野敦について ーー 小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』
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・ コップの中の神学論争
 一一 岩下壮一『信仰の遺産』Amazonカスタマーレビュー
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(その他)

・ 万人に秘められた、暴力性の現実 ーー 笠井潔・野間易通『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』& 鹿砦社特別取材班編著『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター - しばき隊の実態』
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(初出:2016/12/30)

・ 言葉の螺鈿細工による奇跡の匣 ーー 竹本健治『涙香迷宮』
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(初出:2016/3/19)

・ 同年生まれで、同じようにアニメ好きだった、小谷野敦について ーー 小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』
https://www.amazon.co.jp/review/R1AFJMWQ9T36IE/ref=cm_cr_rdp_perm
(初出:2016/2/18)

・ 急ぐことと待つこと ーー 米澤穂信『王とサーカス』
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(初出:2015/12/21)

・ 「中立的判定者」という自己誤認 ーー 高橋哲哉『「中立的判定者」という自己誤認』
https://www.amazon.co.jp/review/R3TVXPMX9HXDPG/ref=cm_cr_rdp_perm
(初出:2015/9/17)

・ 日本で現出したオーウェル的悪夢 ーー 吉村萬壱『ボラード病』
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http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2285

・ イデオロギー的レヴュアーの反応 ーー 高橋哲哉『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』
https://www.amazon.co.jp/review/R32LSW0BXGW3FR/ref=cm_cr_rdp_perm
(初出:2014/5/8)

・ 文学的?ーー 高橋哲哉『国家と犠牲』
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(初出:2005/9/18)
 

稲垣良典批判 ーー カトリック保守派の最悪の部分

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時11分59秒
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 稲垣良典批判 ーー カトリック保守派の最悪の部分
 ーー 稲垣良典『カトリック入門: 日本文化からのアプローチ』

https://www.amazon.co.jp/review/R2HR1WYPI24ABW/ref=cm_cr_rdp_perm


党派意識に凝り固まったカトリック信者は論外として、まともに文章が読める人ならば、本書の酷さは一目瞭然である。
具体的に言えば、本書における著者の「誤摩化し」「論理的一貫性の無さ=不誠実性」「偽善的なへりくだりのポーズ=内心の高慢」等々だ。

著者は、トマス・アクィナスの膨大な主書『神学大全』の全訳に貢献した、日本における中世哲学界の「重鎮」ということになり、その点では現在の日本のキリスト教界では大先生ということで、だれも名指しで批判するものはいない。
しかし、本書を読めば、著者の学問的業績や肩書きは別にしても、カトリック信仰を語るカトリックの指導者・理論家の一人としては、とうてい高く評価できるような人物でないことは明らかだ。
それが、カトリック信者でもなければクリスチャンですらない、つまり「(日本の)キリスト教界のしがらみ」に縛られることなく、自由に評価を語れる「客観的第三者」には、容易に見てとれる事実なのである。

本書の問題点としての「カトリック信仰と日本的霊性との薄っぺらな通底視」「歴史的事実の無視と無反省と牽強付会」「偽善的な謙遜に隠された、高慢に発する被害者意識の発露としての怒り」など、著者の物言いは、およそカトリックの理論家が犯す「護教的欺瞞」の典型例だと呼んでいいだろう。
いくつか本文を引用して、実証的に解説していこう。

(1)『ここで「カトリシズムと日本文化」という問題を提起し、日本文化という「場」で育った心を持つ日本人がカトリシズムを受容することを妨げる要因をつきとめようとするに当たって、私は恐らく読者が予想されているであろう事柄に立ち入らない。そうした事柄とは西洋の歴史のなかで「カトリシズム」という名前に付着させられた「反(アンチ)キリスト」の業とも言うべき堕落や逸脱の数々である。思いつくままにそれらを枚挙すると、(1) 聖書の軽視、(2) 教皇権威の絶対化、(3) 秘跡(サクラメント)の魔術化、(4) 宗教裁判、(5) 免罪符、(6) 十字軍、(7) 聖母礼参、等々。』(P13)

まず「はじめに」で、このように予防線を張っている。「カトリシズムと日本文化」の話を議論するのだから、西洋での過去の話は基本的にやめておきます、ということだが、日本人がキリスト教、なかんずくカトリックを受容しない理由の大きな要因は、カトリックによる『(4) 宗教裁判、(5) 免罪符、(6) 十字軍』などの「権威主義的かつ暴力主義的な独善(神の名による生殺与奪の独占)」という歴史的事実を知っているからに他ならない。
日本人の心性は、カトリックの教会絶対主義(教皇無謬説など)が象徴する「唯一神の絶対権威主義」には、基本的に馴染まない。山川草木あらゆるものに魂が宿っており、それぞれが小さな「神」として生きているようなアニミズム的世界の「緩さ=寛容さ」に馴れた「日本的霊性」からすれば、カトリック的な「慇懃無礼で問答無用な権威主義」は、とうてい馴染めるものではないのである。

そもそも、上の引用文の言い回しにも、著者のカトリック的「独善」が、よく表れている。
曰く『「カトリシズム」という名前に付着させられた「反(アンチ)キリスト」の業』。これは「以下に列挙された問題群は、基本的にはカトリックの問題ではなく、アンチキリストの問題でしかないのに、その無理解の故に、一緒くたにされて、着せられた汚名である」という、著者の「無反省」な本音としての「被害者意識」を露呈させている。
著者の独善的な「カトリックは、本質的に間違っていないし、間違ったこともない。ただ、個人が間違うだけだ」という「カトリックの自己正当化」論は、もちろん本書の中に頻出しており、ぜんぶ引用していたら切りがないほどだ。

(2)『カトリシズム、というより近世のカトリック教会が科学の発展を阻害したという、いわゆる「宗教と科学の闘争の歴史」は、現在では「歴史」というよりは反キリスト教的な啓蒙主義というイデオロギーの宣伝(プロパガンダ)に過ぎないことが明白になっているので、ここでは問題として取り上げない。』(P56)

著者は何ら具体的な根拠を示すこともなく『啓蒙主義というイデオロギーの宣伝(プロパガンダ)に過ぎないことが明白になっている』と書いているが、これは意図的な決めつけによる大嘘であり、「カトリックの歴史」を知らない一般読者や一般信者に向けての、プロパガンダ(政治的宣伝)であり「デマゴギー」に他ならない。
それは、第255代ローマ教皇(在位:1846年6月16日 - 1878年2月7日)ピウス9世の『誤謬表』という、歴史的事実にも明らかである。
『1864年の回勅『クアンタ・クラ』に付属する形で発表された『誤謬表』(シラブス)へと受け継がれていく。これは自然主義や合理主義、自由主義など近代思想・文化を否定する内容で、教皇庁と近代社会との断絶は決定的になった。』(Wikipedia)というもので、当然のことながら、それは近代の申し子である「自然科学」をも否定したものであり、その反動性ゆえに一般的影響力は別にしても、多少なりとも「科学の発展を阻害した」というのは間違いない事実だ。驚くべきことに、これは中世の話ではなく、近代における歴史的事実であり、著者の稲垣は、こんなことなど百も承知で、臆面もなく大嘘をつける「カトリック保守派の最悪の部分」なのである。

(2)『(※ローマ教会およびローマ教皇(法王)の絶対的権威を主張するカトリックを、キリスト教本来の在り方ではないと見る人たちから)カトリック信者は自分たちの教会を「神の国」「天の国」と同一視し、キリスト自身の神的な生命(いのち)によって生きる「聖なる」キリストの神秘体だと主張しているのか。信者はキリストを頭とする体の部分ではあっても、この世を旅する人間である限り常に悔い改めを必要とする必要とする存在であることを忘れたのか??このような反発を呼び起こし、批判を浴びるのではないか。
 実を言うと、この種の批判は、人々の目に映る現象としてのカトリック教会としては、常に誠実かつ真剣に受けとめるべき戒めではあるが、本質としての教会を理解しえないところから出てくる批判である。』(P272)(※は、引用者補記)

(3)『この絶対的な矛盾とも見える信仰の逆説(パラドックス)がカトリシズムの特徴であり、近代思想に対する知的な挑戦である。』(P274)

この(2)にも、著者の「傲慢(「自分は分かっており、世間が分かっていないだけ」という上から目線)」と「本質的無反省」は明らかだろう。著者は、カトリックとして『常に誠実かつ真剣に受けとめるべき』だとすることを、自ら『誠実かつ真剣に受けとめ』て『戒め』ることなど決してないだろう。
それは(3)の「カトリック的開き直り」の論理にも明らかだ。私はこれを「カトリック的ダブル・スタンダードの詭弁」だと表現しているが、論理的に説明できないことを「逆説」だと強弁あるいは(チェスタトン的)レトリックを駆使して身をかわし、そのあげく『近代思想に対する知的な挑戦である』などと宣う「厚顔」さは、相当なものだと言わざるを得ない。

こんな、稲垣だからこそ「建前と本音」は、こんな具合に、露骨である。

(4)『私は神学者ではなく、まして聖書学者ではないから、これは「信仰の知解」をほそぼそと続けてきた「スコラ哲学者」の胸に浮かんだ思いに過ぎないのかもしれない。』(P184)

(5)『「私は正しく私の時代のキマイラです」と敢えて言い切った彼(※ベルナルドゥス)は、自分は(※信仰的探求者であって)学者ではない、という姿勢を終生貫いたが、そのことは彼が十二世紀に輩出した多くのヒューマニストの中の最も卓越したひとりであり、また神学の歴史の中で画期的な位置を占める神学者であることをいささかも妨げるものではない。』(P247)

要は、ご「自分は神学者でも聖書学者ではないけれども、カトリック神学の中核であるトマス神学の権威であり、その意味で卓越したカトリック思想家のひとりである。それはまた、自分が中世哲学学会の中で画期的な位置を占める学者であることをいささかも妨げるものではない」とおっしゃりたいのである。

本書において、著者である稲垣良典の「鼻持ちならない高慢さ=イエスの説いたへりくだりの、本質的欠如」は、ごく普通の読書家にとっては、容易に読み取れるところである。
しかし、カトリックに所属する「党派的人間」には、それを語れないだけではなく、むしろ「同業者」的な「提灯持ち」評価さえ恥じないでやれるのだ。だが、あるいはこのあたりが「日本的なカトリック性」だと言えるのかも知れない。

ともあれ、こうした「現実的な問題点」を「人々の目に映る現象としてのカトリック者としては、常に誠実かつ真剣に受けとめるべき戒め」としてほしいところだが、まあ多くは期待できないだろう。だが、誰かが指摘しておくことに意味はあろうから、このような批判文を書かせていただいた次第である。

ちなみに、稲垣良典は本書で、岩下壮一やチェスタトン、ベネディクト16世(ヨーゼフ・ラッツィンガー)などの「カトリック保守派の論客」に対して好意的(かつ党派的)に言及しているが、私(年間読書人)は、稲垣が序文などを書いている岩下壮一の『信仰の遺産』(岩波文庫)『カトリックの信仰』(ちくま学芸文庫)や、ベネディクト16世の評伝『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』(今野 元・東京大学出版会)などについてもレビューを書いているので、他のキリスト教関連書のレビューと併せてご参照していただだければ幸いである。

『 神と出会う時、わたしたちはあらゆる点でわれわれよりも無限に優越しているものに直面することになる。神をそのようなものとして理解しない限り??したがって、これと比べれば自分は無に等しいと考えない限り??神を知ったことには全然ならない。われわれは、傲慢である間は、決して神を知ることができない。傲慢な人はいつも事物や人びとを見下している。見下している限り、自分の上にあるものが目に入らないのは当たり前である。
 そこから恐ろしい疑問が起こってくる。どこから見ても明らかにプライドによってむしばまれている人びとが、自分は神を信じていると言い、また自分は非常に宗教的な人間だと自認しているのは、いったいどういうわけなのか。そういう人たちは自分の頭ででっち上げた神を拝んでいるのすぎない、とわたしは思う。彼らは、自分がこの空想の産物である神の前にあっては無に等しいことを、理屈では、認めている。だが、腹の中では、「神はわたしの言行を嘉し、わたしがふつうの人たちよりもはるかに立派であることを認めておられる」と、いつも考えているのだ。つまり、彼らは神に1ペニーの空想的謙遜を支払うことによって、同胞に対する1ポンド分の据傲を手に入れているのである。キリストが、わたしについて宣教し、わたしの名によって悪霊を追い出してもなお、世の終わりに、「われなんじらを知らず」と言われる者たちがいるであろう、と語った時、彼の念頭にあったのはそういう人たちではなかったかとわたしは思う。』
  (C.S.ルイス宗教著作集4『キリスト教の精髄』P195~196)


 2017年2月6日(初出)

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【関連レビュー】

・ 稲垣良典批判 ーー カトリック保守派の最悪の部分
 ーー 稲垣良典『カトリック入門: 日本文化からのアプローチ』Amazonカスタマーレビュー
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無信仰者から見た、ムラ内論争 ーー ウィリアム・ウッド『異端の反三位一体論に答える―『エホバの証人』を中心として』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時09分12秒
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 無信仰者から見た、ムラ内論争
 ーー ウィリアム・ウッド『異端の反三位一体論に答える―『エホバの証人』を中心として』

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結論から先に言っておくと、本書は「キリスト教ムラ内用の本」であり、関係者には大層重要な問題を扱った本だが、部外者には「話にならない議論」の書である。

本書の議論の前提となる「三位一体」論を、簡単に説明しておこう。

カトリックやプロテスタント諸派といった、一般的に言って「キリスト教正統派」にあたる人々が信奉している教理に「三位一体論」というのがある。
これは、キリスト教の「神(主)」は「父(エホバ・旧約聖書に描かれた唯一神)と子(イエス・キリスト)と聖霊」という「三つの位格を持っていて、このように違った現れ方をするが、別存在ではなく、一体の存在である」という「神秘的教説」だ。

「聖書」というのは、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書(当然、キリスト教側の呼び名)」と、ユダヤ教の分派であるキリスト教が独自に作った「新約聖書」の二部からなる本で、なんでこんな面倒な構成になっているかと言うと、それはユダヤ教の分派であるキリスト教の側からすると「イエスは、旧約聖書でその出現が予言されていたキリスト(救世主)である」という立場を採っているからだ。
つまり「イエスの生涯」や「パウロのイエス・キリスト論」などを収めた「新約聖書」の正統性を担保するための、古い権威ある書(証拠)としてユダヤ教の聖典が「旧約聖書(古い契約の書)」として、聖書に収録されているのである。
もちろん「旧約聖書」のどこにも「ナザレにイエスという男が現れるが、それがキリストである」とは書かれていない。「こんなふうな感じのキリストが現れるよ」という預言がいくつかなされているだけなのだが、「それがイエスのことだ」と後で主張したのが(ユダヤ教の分派として出発した)キリスト教なのである。

ただ、この主張には、少々問題がある。
と言うのも「旧約聖書」には、「神は、イスラエル民族の守護神である、エホバのみである(神はただ一人であり、それ以外は偶像=偽物の神)」と語られているので、イエスを「神から遣わされた、救世主という名の神の僕(あるいは預言者の一人)」と認めるだけなら良いのだけれど、イエスを「主(わが神)」とまで認めてしまうと、「旧約」の「エホバ=唯一神」論から外れて「二神論」になってしまい、ユダヤ教の教義からすると「イエス・キリストは偶像である」と言うことになってしまう。

さらに「新約聖書」には「聖霊」という、よくわからない「神のはたらき(っぽいもの)」まで登場して、それも「神」だと言われている。

こうなると、ユダヤ教からすれば、イエスを主(神)として「新しい契約」だなどと主張するキリスト教は、単なる「多神教」であり「唯一神信仰に違背する、偶像崇拝の異端だ」と言うことになってしまう。

そこで、キリスト教の側は「いや、我々の信仰は、多神教ではなく、唯一神信仰です。父と子と聖霊は、別々の三つの存在ではなく、旧約聖書の教えるとおりの、一つの神なのです。ただ、三つの位格をもって表れる(人間にはそう見えるだけ)なのです」という、私のような無信仰者には「後づけの強弁」としか言えない理屈を、長い間の正統教義論争を通して練り上げ、最後は「それを信じる者だけが、正統なキリスト教信者である(それ以外は異端だ)」と、教会会議で決めてしまった。
で、その「決まり」に従っているのが、今の「正統派キリスト教諸派」であるカトリック(および東方教会)やプロテスタント諸派なのだ。

このように、「三位一体論」というのは「キリスト教(イエスは主である)は正しい・教会会議で決まったことは正しい」ということを大前提とする「無理のある教説」なのだ。

そして、そういう正統的キリスト教諸派に対し、「神はエホバだけ」であると「旧約聖書」の記述に準じて主張するのが、新顔の「エホバの証人」なのである。

本書は、エホバの証人よる反「三位一体論」(「三位一体論」批判)に反論すると同時に、この批判に動揺するであろう、キリスト教の教義にも歴史にもあまり詳しくない、キリスト教の一般信徒へ向けて書かれた「正統派の三位一体論」の入門書なのだ。

『エホバの証人は、三位一体の教えを、複雑で、わけのわからない教えとして攻撃します。そして、自分たちこそ神を理解し、誰にでも神のことをわかりやすく説明できると言います。しかし、実際に、彼らは偉大なる神を人間レベルに引き降ろして、小さくしているのであって、結局のところ、多くの謎を作り出しているのです。』(本書P142)

キリスト教正統派に比べ、後発のエホバの証人は、歴史がないからこそ、歴史的にでっち上げられた三位一体論の無理を指摘することで、正統派を批判できると考えたわけだ。これは、議論の聞き手を「キリスト教徒以外」にまで広げれば、正しい戦略であろう。
しかし、彼らとて「自身こそ正統的な神のしもべだ」と考えているからこそ、自身の立場の正統性を担保するために、(内部的権威づけとして)「聖書の権威」に頼ろうとする。自身たちの「正しい読み」を示そうとする。だか、そこが弱点に転化してしまう。

と言うのも、「聖書」とは「キリスト教主流派が、自身の正統性を示すために、でっち上げたり、各種文書を取捨選択して、編纂した書物」なのだから、もともと、主流派=正統派の解釈を正当化するように作られている。
だから、「聖書の権威」を認めるという枠内において、それをエホバの証人の立場に引き寄せようとすれば、原理的に無理が生じ、そこを正統派に突かれて反論されてしまうからだ。

つまり、三位一体論だけがおかしいのではない。もともと神だのキリストだのといった超自然なお話そのものに、論理的な無理(原理的非論理性=無前提的決定)があるのだ(事実、キリスト教は「神は人間の知性では、完全には理解できない。三位一体の教説も、信じることが前提となった議論である」と認めている)。
その「根本的な無理」は黙認しておいて、「一部の無理=三位一体論」を批判したところで、所詮つじつまは合わない。もともと、三位一体論とは「つじつま合わせの産物」なのだ。
その結果、デタラメな「聖書的ダブルスタンダード」に開き直る、老獪な正統派の方が「デタラメなりのつじつま合わせ」が出来ているということになってしまう。

事ほど左様に、「三位一体論」をめぐる批判反批判とは、どっちにしろ部外者には、目くそ鼻くそを嗤う、非論理的論争でしかないのだ。

だが、キリスト教の歴史や神学、聖書学などにほとんど馴染みのない(聖書を通読した事のない人も多い)「大半の一般信者」を動揺させないためなら、こういう「部外者」には馬鹿馬鹿しい議論も「内部政治」的には極めて重要なのであり、こうした「政治性」こそが、キリスト教神学の本質だと言っても、あながち過言ではないのである。

ともあれ、本書を誉める人は、キリスト教正統派に所属する人であり、党派的に誉めているに過ぎない。
彼は間違いなく「客観的第三者」ではない。

数少ないであろう一般読者(無信仰の読者)は、自身の立場を明示しないで、信仰書を語る(評価する)論者やレビュアーは、信用しない方がいい。宗教者は「隠し事が多い」のだ。

 2017年2月3日(初出)

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万人に秘められた、暴力性の現実

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時07分42秒
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 万人に秘められた、暴力性の現実
 ーー 笠井潔・野間易通『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』
 ーー 鹿砦社特別取材班編著『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター - しばき隊の実態』

https://www.amazon.co.jp/review/R2KOFJRL5W1U9X/ref=cm_cr_rdp_perm
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※ 本稿は、笠井潔・野間易通『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』と、鹿砦社特別取材班編著『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター - しばき隊の実態』の二著を中心に扱ったものであり、両著のAmazonレビューとしてアップしております。

『反差別と暴力の正体』が暴露したのは、リベラルな反体制運動としてのSEALDsやしばき隊などの市民運動が、その陰に暴力性(テロリズムの肯定)を隠し持っていたという「残念な事実」です。
同書を読んで痛感させられるのは、人間が組織的に動く場所においては、人間の暴力性というのは多かれ少なかれ発現せざるを得ず、その例外は無いという「残念な現実」だと言えるでしょう。

笠井潔と、しばき隊の創設者と呼んでよい野間易通との往復エッセイ集である『3.11後の叛乱』は、当然のことながら「反原連・しばき隊・SEALDs」とつづく、新しいかたちのリベラルな市民運動を肯定的に評価し、一方『反差別と暴力の正体』の方は、そうした新しい運動の陰にも隠されていた暴力性を暴いて、これを批判したものだと言えます。そして両著のAmazonレビュー欄もまた、そうした「政治的闘争の場」と化している観があります(後者支持が優勢だが)。

しかし、『反差別と暴力の正体』が暴いたのは、単に「反原連・しばき隊・SEALDsの隠された暴力性」ではなく、「すべての人に伏在する、人間の根源的暴力性の存在」なのではないでしょうか。
つまり、思想の左右に関わらないのはもちろん、どんな思想や理想・理念を持っているかにも関わりなく、すべての人間があらかじめ秘め持っている暴力性の存在事実なのではないか、ということです。
だからこれは、私自身を含め、すべての人にとって、決して他人事ではない。

どんな理想を掲げている人であろうと、どんな思想を持ち、心からそれを信じていようと、すべての人には暴力性が伏在しており、現実の難問にぶち当たった時に、それが鎌首をもたげてしまう。「この場合、多少の暴力はありだろう(正当化されるだろう)」と考えてしまう。
そして、そうした暴力性というのは、人が二人から始めて集団化するのに比例して、その発現率を高めてしまいます。
くり返しますが、そこでは思想の中味は基本的に関係がない。

では、我々はばらばらの個人として生きればいいのかというと、それは不可能です。人間は社会的な動物だからです。だからこそ私たちは、暴力性を完全に排除することが出来ない。だからこそ国家や戦争を超えることが出来ないのではないか。

私たちは、自分が個人に止まり目立った誤ちを犯さないからといって、集団化による誤ちを犯した人たちを、他人事のように上から目線で批評批判して済ませるわけにはいきません。私たちすべての人間は、間違いなく集団化とその暴力性の恩恵を被りながら生きているからです。

近年キリスト教の問題に興味を集中させている私が、この問題に興味を持つのも、それはこれが「すべての人間」にかかわる問題、つまりクリスチャンをはじめとする全ての信仰者にもかかわる問題だと見たからです。

なぜ、愛と赦しを説くキリスト教が、多くの異端者や異教徒を虐殺する蛮行を犯したのか。
それは彼らもまた人間であり、その限界を、信仰を持ってしてもついに乗り越えられなかったからだと、そう考えるからです。

今は、暴力では対抗できないライバルとしての「国家」が存在するから、その暴力性は前面に出てこないけれど、イスラームであれキリスト教であれ、その暴力性の実力が諸国家の暴力性をしのぐようなことになれば、その暴力性は必ずやまた発現されることでしょう。これは宗教・信仰もまた、思想や理想や理念などと同様に、人間の潜在的本質としての暴力性を乗り越え得ないからです。

では、我々はこの難問に、どのように立ち向かえばよいのか?
その答は、私にはありません。
ただひとつ言えることは、私たち自身の中に伏在する暴力性を、すべての人が自覚し、それと向き合うことが、まずは必要であり、すべてはそこからしか始まらない、ということです。
自身を、暴力性とは無縁な理想を信奉する(無欠な正義の)人間だと思い込んでいるかぎり、その人が自身の暴力性と対峙することが不可能なのは、理の当然なのですから。

『反差別と暴力の正体』の中味にそって言うと、ここには「暴力肯定の新リベラル左翼(反原連・しばき隊・SEALDs)」対「反暴力の旧来の反体制言論左翼(鹿砦社)」という図式が描かれていますが、これまでの議論でも明らかなように、この図式は、人間の普遍的かつ本質的な暴力性の問題を度外視した、表面的かつ一方的な議論にすぎません。「非暴力」を自称しながら「反原連・しばき隊・SEALDs」を批判する側にも、必ずや「語られない暴力性」が大なり小なり存在していることでしょう。その一端が、Amazonレビューの場にもささやかながら発現しています。

笠井潔と野間易通の共著が成立したのも、両者が「反新左翼」という立場で共通したからです。
笠井は、連合赤軍の総括殺人事件を左翼運動に伏在する本質的な問題として捉え、それを乗り越える試みとして『テロルの現象学』を書いて、自らも関わった左翼運動の難問を総括したと主張し、自分以外の大半の左翼活動家たちは本質的総括をやらないまま文化左翼として延命したと批判しました。その代表が、坂本龍一や糸井重里、高橋源一郎などだと、事あるごとに批判しています。
だから笠井潔は、SEALDsやしばき隊を評価しつつも、彼らと連携する左翼文化人や知識人、例えば小熊英二などを批判していますが、その批判の根拠は小熊が高橋源一郎らとも共闘する、同系統の無反省な文化左翼だという位置づけにあります。

知ってのとおり、SEALDsを中心としたリベラルな新社会運動は、旧来の「新左翼セクト」の運動への浸透を警戒し、これの排除に腐心しています。
国会前デモや沖縄での反米軍基地運動でも、新左翼セクトが暴力的な扇動を行い、運動のヘゲモニーを握ろうとしているのが迷惑でしかない、あくまでも自分たちはリベラルな運動に徹したいのに、という趣旨のことを、野間易通をはじめとしたSEALDsやしばき隊のメンバーは語っています。
しかし、暴力悪は、何も新左翼セクトにだけあるのではなく、彼ら自身にもあったことが『反差別と暴力の正体』で暴かれました。結局のところ、彼らの新左翼排除は、暴力の排除ではなく、運動におけるヘゲモニーの争奪戦にすぎなかったということが明らかになったのだと思います。

これは、笠井潔の文化左翼批判と同じで、結局は「あいつらは間違っており、自分が正しい」というアピールによるヘゲモニー争奪戦と同型なのでしょう。だからこそ、笠井潔と野間易通の共著は成立した。

しかしながら、笠井潔は『テロルの現象学』で「自分は左翼運動に内在する暴力性を剔抉し、他の文化左翼はそれをしなかった」と批判したのだから、自身が高く評価したSEALDsやしばき隊でも、同様の内ゲバ的テロリズムの存在が明らかになった以上、笠井はこれの徹底的総括を行わないでは済まされないでしょう。
その意味では、私は古い笠井潔ファンであり「笠井潔葬送派」として、笠井潔の態度に注目したいと思っています。

ともあれ、私が本稿で言いたいのは、SEALDsやしばき隊が隠し持っていた暴力性は批判されねばならないものではあれ、それは「敵」を批判する行為としてではなく、「自身の醜い似姿」を批判するものでなければならない、ということです。
で、なければ、いつかは自分も、同じことをすることになるからです。

 2016年12月30日(初出)
 

エリ・エリ・レマ・ サバクタ二

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時04分32秒
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 エリ・エリ・レマ・ サバクタ二
 ーー ボストングローブ紙〈スポットライト〉チーム著『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』

https://www.amazon.co.jp/review/R3TVSFD4V5U1MJ/ref=cm_cr_rdp_perm6)


クリスチャンが全人口の1パーセントしかいないといわれる日本では、本書の持つ意味が十全に理解されないのは、むしろ当然なのでしょう。一般的な日本人の感覚からすれば「警官だって裁判官だって、盗みもすれば痴漢もする。もちろんそれは職業倫理に反する行為であり、なにより犯罪なのだから許されるものではないが、彼らだって同じ人間なのだから、一定数の犯罪者が生まれ含まれるのは致し方ない」ということになるだろう。だから、カトリックの司祭(神父)が、信者の子弟に手を出す児童虐待の罪を犯したと聞いても「そういう奴もいるだろう」くらいの感覚だろうと思います。そして、その判断は、たぶん正しい。

しかし、警官や裁判官と違って、司祭は「職業」ではなく、神の「召命」であり、神に与えられた「使命」ですから、クリスチャンの感覚としては、決して「職業」ではないし「職業論理」を問うて済む問題でもありません。司祭の児童虐待は、単なる「不道徳」や「犯罪」ではなく、その司祭の「背教」であり、さらにはそれに止まらず「教会の絶対的権威=カトリックの教義」にかかわる問題でもあるのです。だから、キリスト教圏では、この「スポットライト」事件の持つ意味は、一般的な日本人が感じる程度のものではないのです。

言い変えるならば、日本人の中で、この事件の持つ「重い意味」を完全に理解できるのは、クリスチャンだけだとも言えるでしょう。だからこそ、クリスチャンの中には、この問題を直視しようとする人もいれば、「その事件のことなら知ってるから、わざわざそんなスキャンダラスな本を読んだり、映画を観たりなんかしないし、人に奨める気もないよ」と、その現実から目を逸らす人も少なくないはずです。

私の前にレビューを書いているBoba氏は、本書を「原因」と「実益」という視点から読んで『最大の疑問「何故教会でこんなに多くの虐待(レイプ)が?」という疑問は解消できなかった。司祭の独身・禁欲だけが理由ではなくもっと根源的な理由があるのでは。と言うことでモヤモヤ解消せず★3。』と書いておられます。
これは「事件の再発防止」という現実的観点からすれば、とうぜん感じられるところでしょう。しかしながら本書は「分析・批評」の書ではなく、「ルポルタージュ」であり「事実報告」の書であって、Boba氏の期待は、むしろ今後の専門家の研究に委ねられるべきでしょう。私達はまず、この痛ましくも重い「現実を直視する」ことから始められなければならないのであり、本書はそのために書かれた本なのだと思います。

『修道士から転じて心理療法士になったA・W・リチヤード・サイプは言う。
「これは大変な難問です。なぜ司祭たちが、未成年者に対して性的な振る舞いをするのか。答えは、〝現代社会の反映〟で片づけてしまうより、はるかに複雑なのです。人々は、複雑な要素が絡み合う現実と向き合うのを好みません。しかしこれは、複雑な要素が絡み合う現実なのです。原因は、ひとつじゃありません。司祭職は、権力があり忍耐強く清らかで生産的な文化であるとともに、深い深い闇の面を抱えていると、理解せねばならない」』(本書P255)

私たちは、安易に他者の与えてくれる正解を求める前に、まず自身の目で現実を直視なければならない。そして、それをすれば、イヤでもまず自分の頭で、その謎を問うことでしょう。クリスチャンならば「神よ神よ、なぜ彼らにあのような罪を許し、多くの子供たちが苦しむに任せたのですか? 私たちは、この忌まわしき罪を犯した者たちを、どのように裁き、どのように赦せば良いのでしょうか?」と真剣に問うことでしょう。
しかし、いずれにしろ、イエスの教えた「罪人への赦し」は、ロウ枢機卿がしたような「事件の隠蔽」や「誤摩化し」ではありえません。それは所詮「アメリカ人初のローマ法王」の地位をその射程内に入れていたロウ枢機卿(ヨハネパウロ二世の側近)の「保身」のための、方便としての「教会の権威」防衛意識でしかないからです。

ボストンは、アイルランド系移民が街を形成した同質性の高い、いわゆるムラ的な側面の強い街、市民の三分の一がカトリック信者だというアメリカでも有数のカトリックの街です。当然、この事件をスクープした「ボストン.グローブ」誌の地元出身の記者たちも、そうしたカトリック信仰・文化のなかで育ってきており、熱心な信者ではなくても、心のどこかにカトリックへのシンパシーを感じていました。それが事件を追って被害者との面談をくり返す中で、被害者たちと同様に、決定的に裏切られたと感じたのです。
映画版の方では、マイク・セレンデス演ずるマーク・ラファロ記者が、後半で同僚に次のように苦しい胸のうちを吐露します。
「俺も子供の頃は教会に出入りしてたんだ。行かなくなった理由はつまらないことさ。でも、心のどこかで、いつかは俺も教会に帰っていくようになるんじゃないかと思ってた。それが決定的ぶち壊された」(評者の記憶に基づく)

私はクリスチャンではないし、今は信仰者ですらないけれども、ラファロ記者と同様、心のどこかで「帰るべき場所」を求めている潜在的信仰者だからこそ、信仰に興味を持ち続け、キリスト教にも批判的ではあれ興味を持って研究しているのでしょう。

果たして神は、そんな「神の正義を信じる人たち」と「自分たちの信仰を正義だと信じる人たち」の、どちら側に立っているのでしょうか?

私は是非、自身をクリスチャンだと明かした上での、クリスチャンの勇気ある意見を聞きたいと思います。
そのためにも、多くの日本人クリスチャンに、本書を強くお奨めしたい。カトリックだけではなく、プロテスタント系信者にも。
権威あるキリスト教系出版社が刊行する本の中だけに「神の真実」があるわけではない、のではないでしょうか。

 2016年4月21日(初出)

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・ 確信的保守主義政治史学者による転向左翼的保守主義教皇の擁護論
 ーー今野元『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』Amazonカスタマーレビュー
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・ まごころを、君に(若松英輔の問題点)
 一一 若松英輔『吉満義彦一一詩と天使の形而上学』Amazonカスタマーレビュー
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・ スピリチュアルな時代の「教祖の文学」
 一一 若松英輔『霊性の哲学』Amazonカスタマーレビュー
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言葉の螺鈿細工による奇跡の匣 ーー 竹本健治『涙香迷宮』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時03分23秒
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言葉の螺鈿細工による奇跡の匣
ーー 竹本健治『涙香迷宮』

https://www.amazon.co.jp/review/R3ICBYH0Y8YJDV/ref=cm_cr_rdp_perm


「面白い」などというありふれた言葉の対象とはならない、脅威の一書。

小説は「面白くなければならない」というのは、俗説である。
実際、人が何を面白いと思うかは千差万別であり、面白さとは実質的に内容規定など出来ず、せいぜい「知的に快感を惹起する特性」というくらいのことしか言えない。したがって、昨今流行の「通俗的娯楽性」だけが面白さではない。人によってはピカソも面白いし、別の人にとってはホーキングが面白い。

そうした意味でなら本書も「面白い」のだが、その面白さは「超人的に圧倒的なもの」として、「面白い」という言葉を超えてしまっているところがある。
ここに差し出されたものは、名匠の超絶技巧によって造られた精妙巧緻・至微至妙な、七色に変幻する言葉の螺鈿細工、つまり「いろは歌」暗号による驚異の匣である。

読者は、本書を手にとって、ただただ圧倒されるといい。
「こんなものを書ける人が存在したのか」と、目眩をともなう溜息を禁じ得ないであろう。

本書は間違いなく、日本の本格ミステリ史に残る、暗号ミステリの歴史的傑作である。


 2016年3月19日(初出)
 

フランシスコに神の祝福あれ ーー ロバート・ドレイパー『ビジュアル 新生バチカン 教皇フランシスコの挑戦』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時02分8秒
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 フランシスコに神の祝福あれ
 ーー ロバート・ドレイパー『ビジュアル 新生バチカン 教皇フランシスコの挑戦』

https://www.amazon.co.jp/review/R2QYHVAHN6536L/ref=cm_cr_rdp_perm


アメリカのCNNが「アカデミー賞受賞作、聖職者の虐待描くもバチカン紙は評価」(CNN.co.jp 2016年3月3日(木)17時23分配信)と題するニュースを配信した。その冒頭部は次のとおりである。

『バチカン市国が発行する新聞オッセルバトーレ・ロマーノは3日までに、カトリック教会の聖職者による性的虐待事件を暴く新聞記者を描き、先に米アカデミー賞の作品賞などに輝いた映画「スポットライト 世紀のスクープ」に触れ、反カトリック教会的な作品ではないと内容を評価する立場を示した。』

これを読んだ多くのカトリックは「ああ、フランシス教皇の率いる、今のバチカンだからこそ、こういう映画を積極的に評価したんだろうな」と気づいたことだろう。

保守的で権威主義的だったが世間的には人気の高かったヨハネ・パウロ2世の時代には、こうした問題は抑え込まれていたが、次の保守的だが学者気質で政治力に乏しいベネディクト16世の時代になって、こうした各種の問題がいっきに表面化して、同教皇を異例の生前退位に到らせる。

このようなカトリック教会の危機的状況をうけて教皇となったのが、本書『ビジュアル 新生バチカン 教皇フランシスコの挑戦』の主人公で、現教皇のフランシスコである。

どちらかと言えば地味な彼は、教皇になった後、その庶民的な親しみやすさを纏いながらも、バチカンの旧弊で権威主義的な体質の改善に大胆に取り組んだ。その苦労は、外部の者の想像を絶するものであろうが、それでも彼の勇気ある行動が、カトリック教会への人々の親しみと信頼を取り戻すために大きく貢献しているというのは間違いのない事実だろう。

バチカンの歴史は、改革と反動の繰り返しであり、フランシスコの努力がこの先、彼を継いだ教皇たちによってどのような道を辿るかは、予想のかぎりではない。
しかし、自身もまた間違いを犯す一人の人間であることを謙遜に認めつつ、いま現に貧しい者によりそって行動する彼の姿は、必ずやカトリック教会の歴史に、ひとつの希望の光として遺されることだろう。

他のレビューを見てもらえばわかるように、私はキリスト教の信者ではないし、特にカトリックには批判的な人間だが、写真と文章によって本書に描き出されたフランシスコの姿には、感動の涙さえ禁じ得ない。
たぶん我々非クリスチャンも、宗教指導者というものの理想として、フランシスコの示したような、温かくて強い、そんな姿を心のそこで期待しているのだろう。
フランシスコの健康と活躍の長からんことを心から祈りたい。


 2016年3月5日(初出)

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客観的立場を装って書かれた、党派的カトリック思想家擁護論 ーー 半沢孝麿『近代日本のカトリシズム―思想史的考察』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)10時59分13秒
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 客観的立場を装って書かれた、党派的カトリック思想家擁護論
 ーー 半沢孝麿『近代日本のカトリシズム―思想史的考察』

https://www.amazon.co.jp/review/RK81LHXKA2H5L/ref=cm_cr_rdp_perm


端的に言ってしまえば、本書は『東京大学の学生時代、カトリック研究会に所属した経歴を持つ信者』である著者による、一般には忘れ去られているに等しい、近代カトリック思想家の擁護論的(護教的)再評価の書である。
著者は、思想史家としての客観性をしきりに自己主張しているが、本書の中では「著者紹介」を含めて、著者が「カトリック信者」であることがまったく明かされておらず、この一点を捉えても、著者の客観性の担保は極めて疑わしいと言わざるを得ない。

実際、本書で扱われているカトリック思想家は、吉満義彦、田中耕太郎、岩下壮一の三人(著者の出身大学の先輩)であり、補論として、この三人が批判したプロテスタント思想家である内村鑑三が論じられているが、これらを通読して明白なのはその「党派性」である。
つまり、吉満と岩下については、客観的には戦争傍観的あるいは戦争協力的と評価されている点について、内面分析的手法でもっぱら擁護論が語られ正当化がなされている一方、おなじカトリック思想家でも田中耕太郎の場合は、その思想的弱点が、プロテスタントからの転向後もそのまま温存されたプロテスタント性として批判されている。もちろん、プロテスタントである内村鑑三に関しては、世間一般の高い評価に注文をつけることを目的とした論考である。

著者は、序章の中で、これまでの一般的な近代日本思想史では顧みられなかった部分について、あえて新しい視点を提供することを目的としたため、これまで一般には高く評価されなかったカトリック思想家については、本人の意図に内在的に論じたというようなことを語っているが、要はこれは党派的な「つもりだった」論だということである。
したがって、吉満や岩下に関しては、これまで指摘されてきた弱点や問題点については、著者は自分の任ではないと言及を避けている。そのため、本書だけを読めば、吉満や岩下が何の問題もない、素晴らしい思想家のように読めてしまうが、これは片手に握った「不都合な事実」をあえて後ろに隠した著者のレトリックのせいだと正しく認識すべきだろう。

近年、わが国の経済的行き詰まりに伴って、保守主義や反知性主義と呼ばれるものが目立ってきており、また海外では宗教原理主義が力を盛り返しているのと時を同じくして、いったんは過去の人となった岩下壮一を中心とした近代的カトリシズム(反現代カトリシズム)の再評価の動きが表れてきたようだが、本書はそうした動きの先鞭をつけた著作として「保守的カトリック信者」から、過剰に高い評価を受けているようである。
しかし、じっさいに読んでみれば、同党派読者にはありがたい本ではあっても、プロテスタントはもとより私のような非信仰者には、極めて凡庸な「党派的著作」としてしか評価しえない。つまり、カトリック信者か保守主義者以外、本書をことさらに高く評価する者はほぼいない、と言って良かろう。本書の著者と同様に、自身の信仰を隠して絶賛する類いの党派的レビューには、くれぐれも注意すべきである、とあえて蛇足しておこう。


 2016年3月2日(初出)

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 一一 若松英輔『霊性の哲学』Amazonカスタマーレビュー
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・ コップの中の神学論争
 一一 岩下壮一『信仰の遺産』Amazonカスタマーレビュー
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同年生まれで、同じようにアニメ好きだった、小谷野敦について ーー 小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)10時57分17秒
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 同年生まれで、同じようにアニメ好きだった、小谷野敦について
 ーー 小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』

https://www.amazon.co.jp/review/R1AFJMWQ9T36IE/ref=cm_cr_rdp_perm


小谷野の著書は初めて読んだが、なぜこれまで読まなかったのかがよくわかった。要は、氏の著書のタイトルが、おおむねその内容の透けて見えすぎる、薄っぺらなもの多かったからだ。

意見あるいは評価が分かれる物事について考えたり意見表明したりする場合は、双方の「良質な意見」を参照すべきだと、私は当たり前に考えている。しかし、小谷野の著書のタイトルを見ていると「こういう 本を読む人は、お手軽に自分の不満を慰撫してくれる、お手軽な本音語りが読みたいだけなのだろう」と感じ、どうせ自分とは反対の立場の意見を読むのなら、もっと骨太で迫力のあるものを読みたいと思うから、私はこれまで、小谷野の本には手を出さなかったのだと思う。

今回、初めて小谷野の本を手に取ったのは、本書が宗教の問題を扱いつつ、それを突き放すというユニークな立場を採っていたからである。
私は数年前からキリスト教に興味を持って、素人研究を重ねている。もともと私は宗教的なもの、というよりも超越的なものに興味があったのだが、根が真面目で堅実な性格のせいか、論理的整合性があり、かつ客観的証拠が提示されないかぎり、本来、人生を賭してかかるべき信仰というものを、安易には受け入れられはしないし、受け入れるべきではない、と考える。私は、そのような、ある意味では、完璧主義的宗教原理主義者なのだ。だから、たいがいの宗教家、信仰者には厳しい。
つまり、小谷野が興味が持てないがゆえに「興味が持てなくて何が悪い」と被害者意識的に、安易と思える宗教礼賛者を批判するのに対し、私は宗教に重大な価値の可能性を認め求めるがゆえに、現実の宗教宗派には、今のところ、いずれも不満であり、ゆえに批判的な非信仰者に止まっている、という、小谷野とは真逆に近い立場なのである。

そんな私が近年、キリスト教に興味を持ったのも、比喩的哲学体系と理解されかねない(つまり、宗教ではなく哲学の一種と理解されかねない曖昧さを残す)仏教とはちがい、明確に「神の実在」を認める(がゆえに、誤魔化しの効かない)キリスト教において、それでも多くの優れた知識人がこの宗教に帰依したのには、それなりに合理的な根拠があったからではないかと期待したからだ。
…しかし、そんな期待は今のところ満足させられてはおらず、この調子では私は不本意にも、非信仰者のまま死ぬことになりそうである。

で、そんな私からすれば、小谷野の議論は所詮、薄っぺらで何が悪いという、自己正当化の議論でしかない。
わからないのだから否定はしないと言いながら、わからない自分の感性への懐疑を欠いているがゆえに、宗教を認めようが認めまいが、いずれにしろ小谷野の議論は、批評的に薄っぺらなのだ。評価すべきは、世の優等生的な宗教論に「優等生はうさんくさい」と注文をつけた点だけだと言ってよいだろう。


  2016年2月18日(初出)
 

スピリチュアルな内面主義による、カトリックにおける「教会」の形式権威主義批判 ーー 若松英輔『イエス伝』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)10時55分38秒
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  スピリチュアルな内面主義による、カトリックにおける「教会」の形式権威主義批判
  ーー 若松英輔『イエス伝』

https://www.amazon.co.jp/review/R1DMOMICNEDBHO/ref=cm_cr_rdp_perm


非クリスチャンである普通の日本人にとっては、無理なく読める「イエス論」である。
しかし、だからといって、本書がキリスト教界において、ましてや、カトリック界において「当たり前」に受容されるようなものではないということを、非クリスチャンの読者は、まず知っておいた方が良い。

本書の帯にもあるとおり、著者は『私のイエスは「教会」には止まらない。』と言い切っているが、これはカトリックの正統教義に反する考え方であり、昔で言えば「異端」認定されて当然の「非正統的教会論」なのだ。ローマ教皇を頂点とするカトリック教会においては「教会はキリストの体」であり、キリスト信仰とは、教会に連なってこそ初めて可能なものなのである。
もちろん、ここで言う「教会」とは、無教会主義の内村鑑三や著者の若松英輔が言うような、単なる「キリスト者の集まり」ではなく、「天上の教会の地上における反映である、公同の(カトリック)教会」を具体的に指している。だからこそ、カトリック教会の外に、真正なキリスト信仰があり得るという考え方を、カトリック教会は基本的には認めないし、そのことは著者の若松英輔も、当然承知の上での「批判」なのだ。

しかし、こう書いたからと言って、私が、カトリック教会の立場から、若松を批判しているのだと勘違いされては困る。私自身は、若松のようにカトリック信徒でもなければクリスチャンでもないし、信仰者ですらないから、「キリストの権威の抱え込み」でしかない「カトリックの教会論」には、若松同様に反対なのである。

ただし、だからと言って、私が若松の「イエス論」や「キリスト教論」を支持しているのかと言えば、そんなこともない。
私は、若松の論説の中にも、クリスチャン特有の「手前味噌」や「ご都合主義」を見て、それを批判せずにはいられない。わかりやすい問題点を具体的に挙げれば、

(1) 相矛盾する記述を含む四福音書から、自身の立場に応じて、都合の良い部分を引用切り貼りする手法。
(2) 聖書学の知見を、自分に都合のよい部分だけ採用し、学問的客観主義に徹する態度を「字面主義」だと軽んじ、自らの「読み(解釈)」が「深い」と一方的主張する身勝手さ。

だと言えるだろう。

(1)については、神学書を齧ったことのある人には、もはや説明するまでもない周知凡庸の事実であり、このような現実があるからこそ、キリスト教には、カトリックとプロテスタントといった単純な分類には収まらない「無数の立場」が存在する。右は聖霊に憑かれて異言を発することが頻繁なペンテコステ派的な立場から、左は理性と信仰の調和を目指した果てのほとんど無神論的呼ばれる近代主義的立場まで、数えきれない「会派」が存在するのである。
で、本書における著者若松英輔の立場も、こうしたグラデュエーションの中の、わりあい穏健な中間的位置に過ぎない。
聖書の「恣意的な切り貼り」を認めるかぎり「いろんなイエス」や「いろんな教会」が存在可能であり、言い変えれば「好みに合わせて、何でもあり」ということになってしまうのである。

(2)について言うと、若松は本書で次のように書いている。

『 聖書学者の真摯な探求が明らかにする史実が、信仰者の伝統と異なるという理由で否定される。あるいは信仰者たちの伝統を、聖書学者が、学問的根拠が薄いと批判する。こうした関係のもとでは、どこまで行っても何も生まれはしない。
 史実が、彼方なる世界への窓となるとき、あるいは、彼方からの光が学問を照らすとき、それぞれの意味と意義が一層明らかになり、まったきものへ近づいてゆくのではないだろうか。』(50P)

一見ごもっともな正論だが、これは「信仰的暗黙の前提」が共有されてこその「キレイゴト」でしかない。つまり、ここでは「究極的には、学問と信仰は、神の真理において合致する(=まったき真理に到達する)」という「予定調和」が前提されており、「学問と信仰が究極的に合致せず、相互否定的に対立する」という「リアルな現実」が無視されているからだ。

そもそも、いったい誰が「史実が、彼方なる世界への窓となった」とか「彼方からの光が学問を照らした」などと「断定する権威」を有しているのだろうか。そうした判断すらも(教皇無謬説的独善を認めないかぎり)「人それぞれ」だからこそ、「学問的客観性」が求められたのではなかったか。

では、なぜ若松はこのような「修辞的キレイゴト」を語るのか?
それは、若松がキリスト教信仰を否定することも棄てることもしたくない反面、「カトリック正統主義(保守派)のごとき独善的立場」を選ぶにはあまりにも世俗にまみれており、いまさら「八方美人的な霊性主義」を棄てることは出来ないからである。だからこそ、彼は彼の「霊性主義」の範囲内で「キリスト教」を無難に位置づけようとするのである。

実際、本書の中でも2カ所で肯定的に引用されているカトリック神父で神学者の岩下壮一は、その引用文から理解されるような「若松英輔的霊性主義者」などではなく、ごりごりの「カトリック教会絶対主義者」であり、無教会派の内村鑑三やその弟子である塚本虎二を、カトリック教会の伝統と権威において、露骨な上から目線で嘲弄しつづけた人物なのである(岩下壮一『カトリックの信仰』参照)。
もちろん、若松はそうした事実を百も承知していながら、そういう部分には口をつぐんで、自身と岩下の「教会論」が矛盾しないがごとき印象を与える「恣意的な切り貼り」をしているのである。

つまり、ごりごりの原理主義者に比べれば常識的に見えるが故に、受け入れやすく感じられる若松の「霊性主義に基づくイエス論」も、その「信仰理解におけるご都合主義」という点では、同じ穴の狢でしかないのだ。

結局のところ、若松英輔によって批判される「カトリック的教会権威主義」も、若松自身の「霊性主義的イエス論」も、リチャード・ドーキンス的に無慈悲な『神は妄想である』という「見たくない可能性」を前もって回避したところでの、「究極的探求の数歩手前での足踏み」でしかない。

純真なクリスチャンに対して「神は妄想である」という言い方は、あまりにも無慈悲で挑発的に過ぎるかも知れない。しかし、本気で神を信じるのであれば「神は、実効性のあるフィクション」かも知れないという「可能性」に、正面から挑むことは不可能ではあるまい。

聖書学者は「信仰者たちの伝統を、学問的根拠が薄いと批判する」のではない。まずは、自身の信仰的願望を封印して「客観主義」に徹しようとするのである。
しかし、そう決意しながら、それに徹しきれないのが、人間である聖書学者の現実でもあろう。私は、そこまでやった上での彼らの「人間的弱さ」を批判しようとは思わない。むしろ、そんな彼らの血のにじむような「禁欲的探求」を、「字面主義」であるかのごとく薄っぺらに描写して恥じない、若松の独善を批判したいのである。


  2016年1月3日(初出)

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 ーー今野元『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』Amazonカスタマーレビュー
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https://www.amazon.co.jp/review/R2TF6G73ZEVM9Q/ref=cm_cr_rdp_perm

・ まごころを、君に(若松英輔の問題点)
 一一 若松英輔『吉満義彦一一詩と天使の形而上学』Amazonカスタマーレビュー
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2334
http://www.amazon.co.jp/review/R1F59Z7ARMD9NK/ref=cm_cr_rdp_perm

・ スピリチュアルな時代の「教祖の文学」
 一一 若松英輔『霊性の哲学』Amazonカスタマーレビュー
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2333
http://www.amazon.co.jp/review/R38980VO3W4QZD/ref=cm_cr_rdp_perm

・ コップの中の神学論争
 一一 岩下壮一『信仰の遺産』Amazonカスタマーレビュー
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2332
http://www.amazon.co.jp/review/R3DRJEPW0TYJYI/ref=cm_cr_rdp_perm
 

確信的保守主義政治史学者による転向左翼的保守主義教皇の擁護論

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)10時54分24秒
  /


 確信的保守主義政治史学者による転向左翼的保守主義教皇の擁護論
 ーー 今野元『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』

https://www.amazon.co.jp/review/R2TF6G73ZEVM9Q/ref=cm_cr_rdp_perm


本書の内容は、タイトルのとおりです。
著者は「あとがき」にも書いているとおり、「伝統」を重視し「現代化」を好ましく思わないギリシャ正教に連なる「愛国的」な人で、そうした立場から、第2バチカン公会議に象徴されるカトリックの近代化・リベラル化に抵抗して保守反動との批判を受け続けた前ローマ教皇ベネディクトゥス16世(ヨーゼフ・ラッツィンガー)を感情移入的に擁護し、その敵対的ライバルであったハンス・キュンク(本書では「キュング」と表記)を、終始目の敵にして扱き下ろしています。
具体的に言えば、キュンクによるラッツィンガー批判には厳しく論拠を問う反面、ラッツィンガーの発言の矛盾には親切に解釈的フォローを入れるという具合です。

著者の頻用する言い回しは「抑々(そもそも)」で、これは著者の「還元主義的単純化」思考を端的に表しており、著者はカトリック的ダブルスタンダード(あるいは二枚舌)を「単純な善悪二元論ではない」というかたちで擁護しながらも、自身はかなり単純な「左翼・保守」などの二元論にたって、左翼・リベラル・庶民派などをベタなまでに「悪役」に仕立てています。
つまり、批評的言説としては、極めて薄っぺらであり党派的なものでしかありません。すくなくとも、この値段で「東京大学出版会」から出すような本だとは思えません(庶民がありがたがる綺羅びやかな法衣の権威を高く評価する著者らしい、価格と版元だとは言えるでしょう)。

一般の、つまり非クリスチャンにわかりやすく言えば、著者の今野元は「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーと思想的に近い(似通った)人だと言えるでしょう。
ただ、さすがに通俗書とは違って、よく調べて書いており、著者自身の語る「評価」を差し引けば、事実関係の勉強にはなるし、ベネディクトゥス16世に典型されるキリスト教保守派がどの程度のことを考えているのかもよくわかって、とても参考になったとは言えるでしょう。


  2016年1月2日(初出)

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【関連レビュー】

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 ーー今野元『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』Amazonカスタマーレビュー
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 一一 若松英輔『吉満義彦一一詩と天使の形而上学』Amazonカスタマーレビュー
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急ぐことと待つこと ーー米澤穂信『王とサーカス』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)09時03分54秒
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 急ぐことと待つこと
 ーー米澤穂信『王とサーカス』

https://www.amazon.co.jp/review/R1DSKVKCZX6GC3/ref=cm_cr_rdp_perm


期待以上の出来でした。特に、テーマの生かされた、ラストで示される犯人像がすばらしく、笠井潔の名作『バイバイ、エンジェル』に通じるものがありました。

本作のテーマを「他者の現実的悲劇を報ずることの、ジャーナリズムにおける正当性」の問題だと限定的に理解する読者は少なくないでしょうが、本書のテーマの射程はもっと遠く広く「善かれと思ってなされるすべての行いが、必ず一部の誰かにとっては迷惑であり悪でしかないという現実。にもかかわらず、私たちはより善きことをなさねばならないという決断において、ある意味、冷たい(避けられない犠牲を容認する)心を持たないではいられない」という、苦い人間認識が示されていると見るべきでしょう。

また、これは「面白い娯楽作品を提供すること、享受することの、負の現実的側面」の認識という作者自身のジレンマにも直結する、誠実な問題提起だと言えるでしょう。

作者のこの生真面目な誠実さに最大の敬意を表しつつ、ここでは世界の現実と向き合って闘った神学者カール・バルトの『急ぐことと待つこと』という言葉を贈りたい。
私たちは、このいかんともし難い現実に対して、つねに今ここで対処しなければならない。しかし、それが人間のすることであれば、当然その不完全性によって悲劇を招くこともある。だがしかし、そこで絶望するのではなく、私たちはそれが真に結実する時を「待つ」心(希望)を持つべきなのです。作中でも描かれているとおり、それが開き直りや傲慢に陥らないよう、最大限に「気をつけ」ながら。


  2015年12月21日(初出)
 

「中立的判定者」という自己誤認 ーー 高橋哲哉『沖縄の米軍基地 ─「県外移設」を考える』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)08時56分6秒
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 「中立的判定者」という自己誤認
  ーー 高橋哲哉『沖縄の米軍基地 ─「県外移設」を考える』(Amazonカスタマーレビュー)

https://www.amazon.co.jp/review/R3TVXPMX9HXDPG/ref=cm_cr_rdp_perm


高橋哲哉らしい、倫理的かつ論理的な、およそ「泣き落とし」の欠片もない、好著である。

「日本の国土の0.6パーセントの土地(沖縄の面積)に、在日米軍専用施設の約74%が集中している」この不公平な現実に、沖縄県民の全員ではなくとも、多くの者が不安と不満と怒りを感じている。そして、そんな不公平な負担を沖縄に押しつけたうえで、ほとんど無負担で日米安全保障条約の恩恵を被っているのが、われわれ「本土」人である。

本書に関するレビューのいくつかに見られた、誤った本書理解は、著者の高橋哲哉の立場が「沖縄の声」に対して、受動的に応じるものだという理解だ。だが、それは違う。
高橋はあくまでも、沖縄に不合理で非倫理的な負担を強いている「本土人」の一人として、「主体的」に「米軍基地の移設を受け入れ、その負担を本土で引き受けるべきだ」としているのである。

したがって、「基地があっても良いとする沖縄人の声」を含む「多様な(沖縄の)声」を、高橋が無視したり単純化したりしているわけではない。高橋の主張とは、あくまでも「沖縄の人が沖縄に集中する弊害の多い米軍基地を拒絶するのは当然であり、安保を支持し享受するわれわれ本土人が、沖縄にそんな基地を押しつけておくのは、不合理で非倫理的だ」という主体的な主張であり、「自身の在り方(矜持)」を問うものなのである。
したがって、高橋は、沖縄人でも本土人でもない、この問題に責任を負わない「中立的な評論家」として語っているのではない。

しかし、本書のレビュアーの中には、自分が「中立的な評論家」だと思い込んで、その立場で本書を評している者がある。しかし、それは端的に、本書を理解できていない人としか呼べない。

沖縄人の読者は別にして、本書が差し向けられた「本土」の読者は、現に今も、沖縄に理不尽な負担を押しつけている(主体)者として、「米軍基地は、とうぜん本土で(われわれが)引き受ける」と声をあげられるか(それとも、黙って現状を沖縄に押しつけておくのか)と、個々に問われている。その事実だけは、決して読み落としてはならない。

沖縄の現状を学ぶのも良い。多様な声に耳を傾けるのも良い。しかし、それで「頭でっかちなコメント屋」になり、自己満足の惰眠を貪ることは、責任を引き受ける主体としての矜持ある日本人には、許されていない。われわれ「本土人」は単なる「中立的判定者(批評家)」ではないのだ、ということを決して忘れてはいけない。
本書が求めているのは、「レビュアーごっこ」ではなく、「本土人としての倫理(矜持)と行動」である。

私個人として言うなら「ひとまず、大阪に米軍基地を移設せよ」の一語である。


  2015年9月17日(初出)
 

新年のご挨拶

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 1月 1日(日)11時53分31秒
 

        ☆  ☆ 謹賀新年 ☆  ☆


みなさま、あけましておめでとうございます。おかげさまで当『LIBRA アレクセイの星座』も、つつがなく16周年17年目を迎えることが出来ました。

ご承知のとおり、近年はここ「アレクセイの花園」を放置状態にしておりますが、昨年もAmazonレビューなどはいくつか書いたりしてもおります。

そこで論じられているのはキリスト教関連書が中心となりますが、それは私の興味が、宗教の世界や内面の世界に引き籠るということではなく、この現実世界を動かしている人間という「困った」存在を、より深く理解し、この世界に抗いたいという気持ちがあるからでございます。

もちろん、私に世界を変える力などございませんが、しかし「困った」世界に呑み込まれない人間でありたい。世界の外には立てないにしろ、完全には呑み込まれないことで、抵抗したいと思っているのでございます。
笠井潔・野間易通『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』と、鹿砦社特別取材班編著『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター - しばき隊の実態』の二著を中心に論じた文章を、一昨日、Amazonレビューとしてアップしておりますが、ここにも私のそんな気分が現れていると思います。
つまり「絶望的なまでに(私を含めた)人間はどうしようもない存在である。しかし、にもかかわらず、そのどうしようもなさを自覚できるという事実においてのみ、人間はその現実に抗うことが出来るのではないか」。そんな気分でございます。

ともあれ、ここ「花園」は「変わらずにここにいる」場所でありたいと思っております。

https://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A1I26S3JX8IQRG/ref=pdp_new_read_full_review_link?ie=UTF8&page=1&sort_by=MostRecentReview#R2KIYIUXPTU09G

 

謹賀新年

 投稿者:ホランド  投稿日:2017年 1月 1日(日)11時28分55秒
   みなさま

 あけましておめでとうございます。

 昨年も近年のどおり、ボクは書き込みが出来ませんでしたし、園主さまももじもじくんさんの書き込みへのレスだけで、その1回をはさんで、また新年の挨拶になってしまいました。
 そんなに多くはないにしろ、もしかしてここ「アレクセイの花園」の新しい書き込みに期待して下さっていた方がいたら、ごめんなさい。

 ただ、どういうことなのか、「花園」に書き込みできないことへの焦りや申し訳なさみたいなものは、昨年よりはずいぶん薄れているように思います。そしてそれはただ「花園」への書き込みだけではなく、書くことへのこだわりそのものが薄れてきているように感じます。
 以前なら「書かねばならない」ことがたくさんあったけど、今は自分のなかに「今あえて書かなければならない」ほどのことが無くなってきた。もちろん、意見はいろいろあって、訊かれればそれなりに意見表明をすることは出来ますが、それはあえていま自分が発しなければならない言葉のようには思わなくなったんですね。それよりも、もっと知りたい、知ってこの世界の難問を解き明かせないまでも、爪を立てたい。そんな気分が強いのです。
 つまり、以前なら書くために読んでいたところが少なからずありましたが、今はそういう部分が薄れてきました。
 決して現実逃避的に書物の中に埋没するというのではないつもりなんですが、焦って安易な言葉を発することを自制できるようになってきた。
 これは歳をとったということかも知れませんが、悪い変化だとは、すくなくとも自分では感じていない、そんな今日この頃です。

 最後になりましたが、2017年がみなさまにとって素晴らしい一年でありますよう、心よりお祈りいたします(^-^)。
 

勝者の歴史

 投稿者:園主メール  投稿日:2016年11月18日(金)12時41分17秒
  みなさま、ひさしぶりに当「花園」へお書き込みをいただきましたので、そちらのご紹介と、書き込みを下さいました もじもじくん様へのお返事を書かせていただきたいと思います。

「新年のご挨拶」以来の書き込みが11月も半ばを過ぎるという体たらくで、私自身こちらへの書き込みの習慣もすっかり失ってしまっておりますし、またご投稿のチェックも怠っていたのでございますが、先日より当掲示板のトップ画像が反映されないという不具合が発生しておりましたので、その原因を探るべく本日「管理画面」を確認しましたところ、ニフティーの「ホームページサービス」が終了した関係での「新しいサービスへの移行」問題が、今回の不具合に関連していることが判明しました(トップ画像の保存先が、このホームページのサーバだったため、リンクが切れて反映されなくなったと判明。この確認作業の際に、新しいご投稿のあることに気がつきました)。

ホームページに移行問題については、ニフティーからだいぶ前に通知メールが届いていたのですが、なにしろ長い間ホームページを弄っていなかったものですから、メールを受け取った時は、ホームページと当掲示板(非ニフティー)とを混同して、移行の手続きは必要ない(私には関係ない)ものと勘違いをしておりました。
ですから、掲示板のトップ画像が反映されなくなって、初めてその原因確認の必要を認め、その結果、ホームページ移行の問題が関係していることに気づいたのでございます。

実際のところ私自身は、ホームページも概ねその使命を終えていると思っているのでございます。しかしながら、この掲示板の書き込みからのリンクも少なくございませんので、いちおうは移行手続きをする予定なのですが、なにしろ私こういう手続きがかなり苦手ですので、実際にどのような結果になるかは定かではございません。移行がうまくいかなかった場合は、この掲示板にアップされたもの以外(つまり、ホームページのみにアップされている拙論)は読めなくなるのでございますが、その場合は悪しからずご容赦ください(実際、移行してもURLは変わるでしょうから、おのずと古いリンクは切れたままになってしまいます)。

ともあれ、最近ではごくたまに「年間読書人」名義で「Amazonレビュー」を書いておりますので、よろしければそちらもご覧いただけると幸いでございます。



★ もじもじくんさま

空の境界

はじめまして。
当掲示板へのご投稿のアップが大幅に遅れてしまい、大変失礼いたしました。
広告等の迷惑投稿が多いので自動採用にはしていないのですが、見てのとおり、私自身めったに書き込みをしなくなったことから、ご投稿の有無を管理画面でチェックする習慣も無くなってしまい、今日までご投稿の存在に気づかなかったのでございます。
今日、管理画面をひさしぶりに確認したのも、数日前から掲示板トップの画像が反映されない不具合が生じていたためで、それを何とかしようと管理画面を開いた結果、貴兄のご投稿を発見した、という経緯でございます。

今回のお返事を読んでいただけたら本当に嬉しいのでございますが、ご投稿からすでに2ヶ月以上経っておりますので、折角のご投稿を当方が意図的に採用しない(無視した)のかと貴兄に誤解やご失望を与えたままになったとしたら、私自身、胸のいたむ思いでございます。もし、この書き込みをお読みになられましたら、短文でも結構ですので、是非またお書き込みを下さいまし。


さて、拙論『空虚に巣食う魔 一一 笠井潔と『空の境界』』をお読みくださり、ありがとうございます。
前書きにも書きましたが、現在この論文は(私自身にも)読めない状態になっておりますので、そうなる前に、一部とは言え読んでいただけて、本当の良かったと存じます。

貴兄のご意見には、全面的に賛同いたします。特に、

> その一方で、あの本はあれで良いのだと思います。あのおかしい文章が歪んだ世界をまがりなりにも作っていて、一部の人間が一時の間だけそこに入り込むことができるのでしょう。ガラクタにはガラクタなりの面白みがあるのです。
> 正しく書かれた文章だけに価値があるのではないのだと思います。空の境界に価値があると思っているのではありませんが、あの変な文章を中学生の自分は確かにエンターテインメントとして楽しんでいました。

という結論部分でございます。

たしかに、下手な文章でも、不正確な、一般的には意味の通らない文章でも、それが楽しめるものならば存在価値がございますし、人間の価値観というものは無限に多様ですから、どんな文章だって楽しめる人はいて、どんなものにも一定の価値が存在するのは間違いありません。
もちろん、その文章が社会的なリスクを多く含んでいれば、それとの兼ね合いで存在価値を否定される場合もございましょうが、それはその文章が「まったく無価値だ」という意味ではなく「多少の存在価値はあっても、存在リスクの方が圧倒的に大きいから、存在しない方がいい」というマイナス評価をされているだけでございましょう。

例えば「意味の通らない文章」の価値と言えば、「シュールレアリスム文学」が即座に思い浮かびます。
ふつう『解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい』(ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』より)などと言われても、論理的には「意味不明」でございます。しかし感覚的には「何かを訴える新しさ」があって、人を惹きつける表現であることは間違いありません(当然、まったく評価できないという人も大勢いるでしょうが)。
もちろん、シュールレアリスム文学においては、「意図的」かつ「美的」に、このような「非論理的」な文章が構築されているのでございますが、奈須きのこの『空の境界』の文章が「意図的」なものであるかどうかはいささか疑わしいと申せましょうし、私は「半ば意図的で、半ば下手なだけ」だと考えております。つまり「凝った表現をしようとして、不十分な表現になってしまった」文章だと判断するのでございます。

しかし、その文章的「おかしさ=狂い」が、意図的なものか偶発的なものかは、すくなくとも一般読者には関係がございません。単なる「失敗表現」が「シュールで面白い」という結果を惹起する場合は、当然あるからでございます。
(なお、当然のことながら『空の境界』には「反社会的な反価値」はございませんから、そちらでの問題にはならないと存じます。ちなみにそうしたものの例としては、マルキ・ド・サドの文学や、次元は違えど様々な反倫理的・反社会的表現がございましょう)

このようなわけで、私は決して『空の境界』に「存在価値」がないと言いたかったのではありません。あくまでも「奈須きのこ自身は、凝った文章を書いたつもりなのだろうが、それは一般的な(技術的な)意味では破綻した下手な文章の一種でしかない(いかに一部の読者を楽しませようと)」ということであり、私がこのようなことをわざわざ書いたのは、笠井潔が(奈須きのこの)こういう文章で書かれた作品を絶賛するのは「主張に一貫性がない」と批判するためでしかございませんでした(笠井は、岡嶋二人の作品を捉えて「小説はプロットではなくて、文体である」と概ねそういう趣旨の主張をしましたが、それでは奈須きのこの文体を、なぜ問題にしないのか、と言いたかったのでございます)。

> 奈須きのこの文章が下手(下手どころか酷すぎる)という評価、尤もと思います。
> 当時は熱中していたものの、3年生に上がって以降読み直したことはおそらくありませんでした。
> 今から2年ほど前、当時あれだけ面白かったのだからもう一度読み直してみようかという気になり久しぶりに本を開いてみました。
> 読めませんでした。この読めない、という感覚は皆さん同じなのではないかと思います。もうこの文を面白いと思う段階は過ぎ去ったのだなと寂しく思いました。

このお話は、私にも経験のあることで、まったく同感いたします。
私の場合、活字本を読みはじめたごく初期の高校生の頃、若桜木虔という作家のジュブナイルSF『アンドロイド・ジュディ』という作品を読んで、たいへん感動いたしました。そのあと続けて同じ作者の作品をいくつか読みましたが、それらの作品は「面白さ」において『アンドロイド・ジュディ』にはとうてい及ばなかったので、この作家の作品は読まなくなりました。しかし『アンドロイド・ジュディ』だけは別格に面白いという気持ちは、ずっと残っていたのでございます。
で、数年後か十数年後だかは忘れましたが、その本を古本屋でみつけてひさしぶりに読んで見たのですが、その「凡庸さ」にびっくりしてしまいました。「オレはこれに、あれだけ感動したのか?!」と愕然とさせられたのでございます。
こうした経験は、なにも小説にかぎったことではありません。子供の頃に視て、怖くて仕方がなかったホラー系のテレビドラマや映画は、大人になってから見ると、ぜんぜん怖くなくて「これのどこが、あそこまで怖かったのだろう?」と逆に考えさせられました。
で、その答は、文学論などでもよく言われるとおり「作品とは、作品テキストと読者の接触面で形成されるものであって、テキストだけでは作品は存在し得ないのだ」という、当たり前の現実でございます。

読む者がいなければ、作品に描かれた「作品世界」はどこにも「生じ」ません。テキストが人間の「脳という受像機」に反映されたところで「作品」というものは初めて「発生し存在する」のでございます。ですから、この「受像機の性能や癖」によって「作品は千変万化する」のでございます。つまり「作品」には「唯一の実体(真理)」というものはない。あるのは「唯一のテキスト」であってそれは「作品が描く世界」とはイコールではないのでございますね。

したがって、どんな作品にも、楽しめる人もいれば、ぜんぜん楽しめない人もおります。それは間違いのない事実でございますから、どんな作品でも楽しめる人が楽しんで読んだらいいじゃないかと、私も思います。

ただし、だからと言って「すべての作品は等価だ」と言えるかというと、私はその考えを支持いたしません。やはり「作品」を含むすべての物事には、そうした「個人」の次元の存在価値とは別に、たしかに「社会的位相」における存在価値の(差異の)問題がある、と考えるからでございます。

ですから、私は『空の境界』を楽しむ読者がどんなに多く存在しても、それ自体はそれで結構なことでございますから、それに注文をつける気はまったくございませんでした。
しかし、多くの人が支持することが、必ずしも社会的あるいは客観的に正しいとは限らないと考えますし、笠井潔の「主張の一貫性の欠如」は評論家のそれとして社会的に容認されるべきではないと考えましたので、それを批判するための前段として、『空の境界』の「文章」を「一般的・社会的・客観的」に分析しただけなのでございます。

> そもそもなぜ私が空の境界について調べていたか申し上げます。
> あの当時、様々なものが流行しました。現在もしぶとく残っているものもあれば見る影もないものもあります。
> ただし、サブカルという、濃いが消費人口は少ない世界に限定して考えています。
> 空の境界は、実は流行ったというほどではありませんでした。クラスのオタク的人間が全員読んでいたかというと、そんなことは全然ありませんでした。おそらく読んでいる人の方が稀でした。
> しかし、奈須きのこのいるTYPE-MOONから出ているFateシリーズは現在でもかなり幅を利かせていて、アニメもいろいろとやっているはずです。
> 涼宮ハルヒ、灼眼のシャナ、ひぐらし、インデックスなどがちょうど私の時代にあたっていました。
> これら4つはすべて、現在では顧みる人はほぼないと思います。
>
> ほとんどの作品は、一時的に盛り上がって消費されるだけで消えてゆきます。
> ところが一部の作品は、サブカルでも、長く残ることができる場合があります。
> それがなぜなのだろうと思い、いろいろ調べていたのでした。

それは興味深いテーマでございますね。
私の考えでは「人気が長引く作品には長引く作品なりの、人気が一過性で終る作品には一過性で終る作品の、理由がある」と当たり前に考えますが、しかしその理由とは「必ずしも作品に内在する条件のみではない」と考えます。つまり、地域的、社会的あるいは時代的といった「背景要素」が少なからず影響しているのは間違いないと存じます。

例えば、Fate、涼宮ハルヒ、灼眼のシャナ、ひぐらし、インデックスなどの作品が発表された、「国」「地域」「社会的背景」「時代」などが違っておれば、ヒットする度合いがそれぞれに違っているでしょうし、長く生き残る作品やその度合いも違ってくると存じます。仮にこれらの作品が、実際よりも10年遅く書かれていたなら、ここまではヒットしなかったかも知れないし、残った作品も違ったかも知れない。

つまり、何が「長生き」するかは「作品に内在する条件」のみでは決定されず、受容する「社会の側の条件」によって大きく左右されると思うのでございますね。
ですから「なぜFateだけが生き残ったのか?」という問題を解くためには、(厳密を期するならば)たいへんに(無限に)広範な問題領域の検討が必要になるでしょうし、それは私が現在興味を持っております「キリスト教」の問題とも同様だと存じます。つまり「なぜキリスト教は、今のような形において、今まで生き残ってきたのか?」という問題でございますね。

「キリスト教の歴史や神学」などの研究をいたしますと、いま現在生き残っている「正統教会」が真の意味での「正統」でもなければ「論理的に(唯一)正しい」わけでもないという事実がわかります。
近年の研究によれば「初期キリスト教最大の異端」とされてきた「グノーシス主義キリスト教」は、必ずしも怪しげな主張をしていたわけではなく、むしろ(後の)正統教会である「パウロ主義のペテロ系教会」の教義の問題点を鋭く追及して、ちがったキリスト理解を主張した党派だったと言えるのでございます。
しかし、結局のところ、グノーシス派は正統教会の批判と弾圧をうけて壊滅し、その教義を記した神学書は徹底的に焼かれてしまい、今に残るのは「正統教会側の言い分だけ」という状態で、ながらく一方的に非難否定されてきたのでございます。
ところが、20世紀半ばになって、砂漠の洞窟でたまたまグノーシス関連の文書が発見されます。それが「ナグ・ハマディ文書」であり『新世紀エヴァンゲリオン』でも名称が使われた「死海文書」なのでございますね。これらの資料に対する研究が、20世紀後半から今世紀にどんどんと進んで、斯界では「グノーシス主義」に対して「正統教会」が貼付けた「偏見と誹謗に満ちたレッテル」がかなりのところ剥がされてきたのでございます。
「正統教会」はまさに「勝者の歴史」を一方的語ってきたのでございますが、歴史資料がこれを「客観的に是正」し始めているのでございます。

これと同じで「何が生き残るのか」の問題は、必ずしも「正しい」ものや「優れた」もの、あるいは「強いもの」が生き残るとは限らない。
強靭な巨大爬虫類である恐竜が死滅したのに、弱小な哺乳類がいまに生き残ったように、様々な条件が複雑にからみあった結果として「今の状態」があるのであって、原因は単純ではありません。これは「Fate」も「キリスト教」も「哺乳類」も同じなのでございますね。


さて、その後、拙論『空虚に巣食う魔 一一 笠井潔と『空の境界』』を、全文お読みいただけたのかどうか。
前記のとおり、現在は拙論をお読みいただけない状態になっており、できれば元の状態に戻したいのですが、古い文章の再掲載を、手間かけてまでするのはいささか面倒と感じており、結果としてどうなるかは、現時点では「定かではない」と予防線と張っておきたいと存じます(笑)。
もしも、再掲載ができない場合は「作品との出逢いは一期一会」だったとお諦めいただければと、先回りして言い訳させていただきたいとも存じます。

この書き込みをご覧になられたら、ぜひ「読んだよ」というだけでも結構ですので、またお書き込みを下さいまし。
心より、またのお出でをお待ちしております。




それでは、みなさま、本日はこれにて失礼いたします。

http://ホームページ『LIBRA アレクセイの星座』(リンク切れ中)

 

空の境界

 投稿者:もじもじくん  投稿日:2016年 9月10日(土)23時01分33秒
  はじめまして。
本題に入る前に。ずいぶん以前から続いているホームページなのですね!昨今はブログ(しかしすでに絶滅した)やSNSなど様々なサービスの登場によりかつて隆盛を誇った古き良きホームページの命運はいまや風前の灯、WWWの片隅で今日もひっそりと徒花を咲かせ(一種の定型文なので後略)
このようなページを維持する労苦は察するに余りあります。

さて当方、空の境界について久しぶりに調べており、このホームページにたどり着いた次第です。
まだアレクセイさんの書かれた文章の一部しか読んでおらず、そのような中での書き込みのお行儀が悪いのは承知しておりますが、力の入った長い評論ですのできちんと読むのは時間がかかるということでどうかお許しください。

私が空の境界を読んだのは中学生の時でした。計算すると2007~2009年のどこかになるので、まだ講談社文庫から出版されたばかりの文庫版を読み漁っていたことになります。
オタクへの道を歩み始めたクラスメートに勧められ、空の境界を知りました。
当時はたいへん面白く読んでいました。様々な設定や、派手なバトルなどが、中学生のうぶな心にはとても魅力的に感じられたのでしょう。
今は大分おさまりましたが伝奇好きなのです。

奈須きのこの文章が下手(下手どころか酷すぎる)という評価、尤もと思います。
当時は熱中していたものの、3年生に上がって以降読み直したことはおそらくありませんでした。
今から2年ほど前、当時あれだけ面白かったのだからもう一度読み直してみようかという気になり久しぶりに本を開いてみました。
読めませんでした。この読めない、という感覚は皆さん同じなのではないかと思います。もうこの文を面白いと思う段階は過ぎ去ったのだなと寂しく思いました。
文章に関してはご指摘の通りで、ちぐはぐな記述はまさに枚挙に暇がないという言葉が適切かと思います。

あるレビューサイトに、空の境界に関して、

ファンの人と批判している人がどちらも相手側に対して、
「(これがつまらないという人は、またはこれが面白いという人は)読解力がないからだ」
という論旨が多かったのには苦笑いしてしまった。


と書いてあり、おそらくその通りなのだろうと思いました。
まず、全く読解力が欠けていれば、あの話を頑張って読んでも話の筋や意味を全然理解できないだろうと思います。
一方で、ある程度品質の高い文章にたくさん触れていたら、あんな珍妙な文章は違和感が多くて読む気にならないのだと思います。

中学に上がったばかりの私は、全然読解力がなかったわけではないが、文章を読んだ経験が少ない、という中間の段階だったからこそ、この本を読めたのだと思います。
その一方で、あの本はあれで良いのだと思います。あのおかしい文章が歪んだ世界をまがりなりにも作っていて、一部の人間が一時の間だけそこに入り込むことができるのでしょう。ガラクタにはガラクタなりの面白みがあるのです。
正しく書かれた文章だけに価値があるのではないのだと思います。空の境界に価値があると思っているのではありませんが、あの変な文章を中学生の自分は確かにエンターテインメントとして楽しんでいました。

そもそもなぜ私が空の境界について調べていたか申し上げます。
あの当時、様々なものが流行しました。現在もしぶとく残っているものもあれば見る影もないものもあります。
ただし、サブカルという、濃いが消費人口は少ない世界に限定して考えています。
空の境界は、実は流行ったというほどではありませんでした。クラスのオタク的人間が全員読んでいたかというと、そんなことは全然ありませんでした。おそらく読んでいる人の方が稀でした。
しかし、奈須きのこのいるTYPE-MOONから出ているFateシリーズは現在でもかなり幅を利かせていて、アニメもいろいろとやっているはずです。
涼宮ハルヒ、灼眼のシャナ、ひぐらし、インデックスなどがちょうど私の時代にあたっていました。
これら4つはすべて、現在では顧みる人はほぼないと思います。

ほとんどの作品は、一時的に盛り上がって消費されるだけで消えてゆきます。
ところが一部の作品は、サブカルでも、長く残ることができる場合があります。
それがなぜなのだろうと思い、いろいろ調べていたのでした。
 

新年のご挨拶

 投稿者:園主メール  投稿日:2016年 1月 1日(金)20時47分43秒
 

        ☆  ☆ 謹賀新年 ☆  ☆


みなさま、あけましておめでとうございます。おかげさまで当『LIBRA アレクセイの星座』も、つつがなく15周年16年目を迎えることが出来ました。

特にここ数年は、ここ「アレクセイの花園」を放置状態にしておりましたが、昨年は断続的とは言え書き込みも出来ましたし、ここ「花園」にはまだご紹介していないAmazonレビューなどもいくつか書いたりしております。それらの紹介も含めて、読書をしながら書きたい時にはいつでも書けるという手応えがございましたので、今年もそんな感じでやっていければと思っております。

このようなわけで、今年も皆様のお力添えをいただきながら、昨年並かそれ以上に、数よりも、中身の充実した書き込みができればと思っておりますので、本年もご支援のほど、なにとぞよろしくお願い致します。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

謹賀新年

 投稿者:ホランド  投稿日:2016年 1月 1日(金)20時37分42秒
   みなさま

 あけましておめでとうございます。

 昨年も例年どおり、ボクは書き込みが出来ませんでしたが、昨年は園主さまもひさしぶりに論争的な文章も書かれておられましたし、今年もまた安心してサボらせていただこうかなと思っています。どうもすみません (^_^;),

 最後になりましたが、2016年がみなさまにとって素晴らしい一年でありますよう、心よりお祈りいたします(^-^)。
 

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