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同じ人間として

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年 2月17日(土)21時53分26秒
  みなさま、Coelian Pantherさんが書き込みを下さったので、2日連続の書き込みでございます。こんなことは、いったい何年ぶりでございましょうか?
かつては、ほぼ毎日更新していたこともございましたが、ここ十数年は年に数回ということが続いておりましたから、2日連続というのは、二十数年ぶりとかいったことになるかも知れません。誠にありがたいことでございます。
もし、まだROM専の方がいらしたら、どうぞ勇気を出して、書き込みをして下さいまし。



Coelian Pantherさま


こんばんは^^

> 本当におっしゃる通り、連中のやってる事はとても幼稚であり、何よりも当の『ベトナム』や『チベット』の方々に対して、大変失礼な事だと思っています・・・
> 『ベトナム』にとって、『ライダイハン』はとても深刻な問題です。
> 『チベット』にとって、『Free Tibet』はとても重要な主張です。
> しかしあの連中にとってはあくまで「『従軍慰安婦』の反論の具としての『ライダイハン』」、「『中国侵略』の反論の具としての『Free Tibet』」でしか無いのです。
> 連中が本当にチベットの事を想っているのであれば、今でもmixiやTwitterで『Free Tibet』という言葉が溢れている筈です。
> ところが今では、その欠片すら目にしないのです。

まったくでございます。
ネトウヨたちが、ベトナムやチベットの不幸を「利用しているだけ」だというのは、誰にも否定できない事実でございましょう。

> あの当時、チベットの方々は、心から日本人の事を『真の友』だと思っていました。
> ところがこれが、ただ単に「日本の自己弁護の為の、一過性の物だった」と知った時、チベットの方々はどう思うでしょうか?
> これはチベットの方々にとって、とても失礼な行為だと、そう思います。
> 日本の自己弁護の為に、引き合いに出される『チベット』や『ベトナム』の方々が、気の毒でなりません・・・

ええ、日本人としては、ベトナムやチベットの方に申し訳ない。

ただ、実際のところ、ベトナムやチベットの方たちの少なからぬ人が、ネトウヨの応援に対し、どこまで本気で『心の友』だと思っていたかは、私は定かではないという疑いもございます。

と言うのも、ベトナムやチベットの側でも、海外からの応援がありがたいし嬉しいというのは確かでございますが、果たしてそれが『心の友』認定するほどのものだったかというと、それはあやしいとも思うのでございます。

例えば、多くの日本人は、台湾の人たちが日本を誉めてくれると、うれしくなって台湾に親近感を持ちます。「台湾の人たちは、日本を正しく理解してくれている」と考えて喜びます。
しかし、これは「友情」なのか?
これは単なる、心理的な「ギブ&テイク」ではないのか?

自分の立場を肯定し誉めてくれたということだけで、相手を『心の友』とまで呼ぶのは、すこし安易なのではないかと、そう思うからでございます。
そして、これはベトナムやチベットの方たちについても、同じなのでございます。

私たち日本人が、ネトウヨの醜行について、主体的に「ベトナムやチベットの方たちに申し訳ない」と思うのは、正しいことでございます。
しかし、その申し訳なさから、ベトナムやチベットの方たちを安易に単純化し美化して見てしまうというのもまた、違うと思うのでございます。

残念ながら、たぶん、ベトナムやチベットにも「ネトウヨ」的な人間は、必ずいると思うし、立場が変われば、同じような醜行を行ったと思うのでございます。
そして、こう考えることは、決してベトナムやチベットの方を貶めることではなく、同じ人間として冷静に見ることだと思うのでございます。





それではみなさま、本日はこれにて失礼いたします。

http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

 

こんばんは^^

 投稿者:Coelian Panther  投稿日:2018年 2月16日(金)21時16分28秒
  アレクセイさん、こんばんは^^
この度は大変、お騒がせいたしました^^;
レスもありがとうございます^^
アレクセイさんも、お元気そうで何よりです^^

本当におっしゃる通り、連中のやってる事はとても幼稚であり、何よりも当の『ベトナム』や『チベット』の方々に対して、大変失礼な事だと思っています・・・
『ベトナム』にとって、『ライダイハン』はとても深刻な問題です。
『チベット』にとって、『Free Tibet』はとても重要な主張です。
しかしあの連中にとってはあくまで「『従軍慰安婦』の反論の具としての『ライダイハン』」、「『中国侵略』の反論の具としての『Free Tibet』」でしか無いのです。
連中が本当にチベットの事を想っているのであれば、今でもmixiやTwitterで『Free Tibet』という言葉が溢れている筈です。
ところが今では、その欠片すら目にしないのです。
あの当時、チベットの方々は、心から日本人の事を『真の友』だと思っていました。
ところがこれが、ただ単に「日本の自己弁護の為の、一過性の物だった」と知った時、チベットの方々はどう思うでしょうか?
これはチベットの方々にとって、とても失礼な行為だと、そう思います。
日本の自己弁護の為に、引き合いに出される『チベット』や『ベトナム』の方々が、気の毒でなりません・・・
 

「誇り高き人間主義者」と「心卑しき国益主義者」との戦い

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年 2月16日(金)20時18分6秒
  みなさま、現在この掲示板は「投稿モード」を採用しておりますため、ご投稿は即時に表示されない設定となっております。
自動にしておきますと、販促宣伝投稿や、片っ端から投稿しているとおぼしきちょっとおかしなアピール投稿が、そのまま反映されてしまい目障りだからでございます。

とは言え、この度はCoelian Pantherさまにご投稿をいただきながら、ご連絡をいただくまでの数日、ご投稿に気づかないという失態を演じてしまいました。
管理画面で頻繁に投稿の有無をチェックしていれば良かったのですが、近年、投稿が無いのが常態化しておりましたので、下手をすると1ヶ月以上も投稿チェックをしないことがございます。
そこで、大変申し訳ないお願いなのでございますが、ご投稿いただいた際は、この掲示板の一番下にある「管理者へメール」のリンクボタンから、メールをいただけますと比較的早くご投稿を反映し、レスも早く付けさせていただけますので、たいへんお手数だとは存じますが、ご投稿に併せてのメールでのご連絡をお願い致します。



Coelian Pantherさま


こんばんは^^

この度はご投稿の掲示板への反映が遅れてしまい、ご心配をおかけいたしました。
本当に申し訳ございませんでした。

> お元気ですか^^

ありがとうございます。おかげさまで私は変わらず元気にさせていただいております。
貴兄もお変わりないようで、たいへんうれしく存じます。

> YouTubeで『ライダイハン』の動画を、観たのですが・・・
> 事実は事実なんだろうけれども、ただ、コメント欄が「真にベトナム人を想っての韓国批判」じゃなくて、一様に「日本人の為の、ベトナムを利用しての韓国批判」に終始してたのが、何とも残念ですねぇ^^;

ベトナム戦争時の韓国軍による残虐行為を告発するベトナムのテレビ番組を、ネトウヨが嬉しげにYouTubeに転載して、「日本のこと(従軍慰安婦問題)などを言う前に、お前らがベトナムに謝罪したらどうだ」などと書いて喜んでいる問題でございますよね。

> 要は、少し前の『フリー・チベット』と同じで、「真にチベット人を想っての行動」では無く、「ただ単に中国を叩きたいが為の、チベット利用」みたいなもんです^^;
> その証拠に、今はもう『フリー・チベット』なんて言葉自体が、忘れ去られてしまってますよね^^;

まったくでございます。
日本が一方的に中国を侵略し、「南京大虐殺」だけではなく「三光作戦(※日中戦争下、日本軍が行った残虐で非道な戦術に対する中国側の呼称。三光とは、焼光(焼き尽くす)・殺光(殺し尽くす)・搶光(そうこう)(奪い尽くす))」などの残虐行為をしたことを誤摩化すために、チベットへの中国の暴政や残虐行為をあげつらったのと、まったく同じパターンであり、「盗人猛々しい」とは「日本のネトウヨ」のことを言うのでございましょう。

> まぁそれが結局、『ネトウヨクオリティー』と言えばそれまでなんですが、「日本の面子を保つ為の、第三国を利用しての中韓批判」と言うのも、ネトウヨ連中の恥ずかしい所の様に感じます・・・

結局、自国の恥ずべき「犯罪的行為」を誤摩化すために、他国の犯罪的行為をあげつらうというのは、小学生がイタズラをして先生に怒られた時に「Aくんもやってた。Bくんもやっていた。僕だけ怒られるのは変だ」と言って自己正当化しようとしたりするのとか、あるいは、自分がクラスメートを差別したことを先生に叱られた時に「でも、Aくん(いじめた相手)のお父さんは在特会の会員で、外国人の人を差別していじめているから、Aくんが差別されるのは自業自得です。差別されたくなかったら、親に差別を止めさせてから言ってほしいです」などと言い訳するのと、同レベルですよね。

こんな明らかに「幼稚低能なレベル」のことしか出来ないというのは、まさにおっしゃるとおり『ネトウヨクオリティー』ということでございましょう。

まったく恥ずかしい行ないであり、まともに知性のある人なら、こんな幼稚なプロパガンダには引っかからないのでございますが、ただ、物知らずの若年者の中でも、何らかの劣等感を抱えていて、人のうわてに立ちたいとばかり願っているような病んだ人が、こんなものにも感化される怖れがあるというのも、また事実でございましょう。

ネトウヨのこうした行為自体が「日本の恥」であるのは無論のこと、こうした行為はまた「日本の恥さらしであるネトウヨを再生産」しているところに、この問題を看過できないところがあるのでございましょうね。

私たちとネトウヨとの戦いは、「誇り高き人間主義者」と「心卑しき国益主義者」との戦いだと存じます。

> また、遊びに来ますね^^

ええ、是非ともよろしくお願い致します。
またのお出でを、心よりお待ちしております。



それではみなさま、本日はこれにて失礼いたします。

http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

 

こんばんは^^

 投稿者:Coelian Panther  投稿日:2018年 2月13日(火)19時47分51秒
  アレクセイさん、お久しぶりです^^
お元気ですか^^
そう言えば先程、YouTubeで『ライダイハン』の動画を、観たのですが・・・
事実は事実なんだろうけれども、ただ、コメント欄が「真にベトナム人を想っての韓国批判」じゃなくて、一様に「日本人の為の、ベトナムを利用しての韓国批判」に終始してたのが、何とも残念ですねぇ^^;
要は、少し前の『フリー・チベット』と同じで、「真にチベット人を想っての行動」では無く、「ただ単に中国を叩きたいが為の、チベット利用」みたいなもんです^^;
その証拠に、今はもう『フリー・チベット』なんて言葉自体が、忘れ去られてしまってますよね^^;
まぁそれが結局、『ネトウヨクオリティー』と言えばそれまでなんですが、「日本の面子を保つ為の、第三国を利用しての中韓批判」と言うのも、ネトウヨ連中の恥ずかしい所の様に感じます・・・
また、遊びに来ますね^^

http://ostkapital03.bbs.fc2.com/

 

あの頃の

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年 1月 9日(火)21時33分40秒
  みなさま、新年早々、お二人ものから、ここ「花園」にご挨拶をいただけるとは、本当に何年ぶりのことでございましょうか。本当に本当に、ありがたいことでございます。
こうしたしみじみとした感慨は、やはり長くやっていればこそのことなのでございましょうね。



オロカメンさま


新年、あけましておめでとうございます。

ようこそ、おいでくださいました。
すでに「mixi」の方では、過分なほどにイイネやコメントをいただき、私も頻繁にコメントをさせていただいて、たいへんお世話になり、お騒がせをしておりますが、わざわざこちらにまでご挨拶にお出でいただき、まこと恐縮至極でございます。


> ぼくは20代の頃から十数年間『アレクセイの花園』ROM専でずっと拝読させていただいておりました「隠れファン」だったのですが、ふとしたきっかけで園主様とお近づきになることができましたので、一応、こちらでもご挨拶させていただこうかと。

ここ「アレクセイの花園」を毎日のように更新し、もっとも閲覧数が多かった頃は、日に300ほどの閲覧がございましたが、その中で書き込みをしてくださるのは、本当にごく一部の方でございました。いわゆる「ROM専」の方が多かったわけでございますが、その日かぎりの、いわゆる通りすがりの人が日に100人もいようとは思えませんから、一日に何度も閲覧して下さる方を計算に入れても、百数十人の「ROM専」の方がいらっしゃったのだと存じます。

そんな方が、ここ「花園」を覗きながら、どんなことを思っておられたのかというのは、私の想像を超えておりました。
継続的に読んで下さるのなら、基本的には好意的に読んで下さっているのだろうとは思いながらも、やはりそのお気持ちを推し量ることは困難であり、いつも気軽に書き込みをして欲しいなあ、と思っておりました。

ところが、昨年思いもかけず「mixi」を再開することになり、まさかそこで、かつての「花園」を長期にわたって読んで下さった方に出会えようとは、想像だにしなかったことでしたし、あちらでも書きましたとおり、それは涙が出るほどのうれしい出逢いでございました。

なにしろ十年以上(?)もろくに更新していないここ「花園」でございますから、私の気分としては、もう誰もここを気にはしていないし憶えてもいないだろう、「去る者は日々に疎し」に近いものなんだろうなと、そう思っておりました。ですからこそ、かつての「花園」の読者に直接出逢えて「あの頃のあれやこれやは、完全に無に帰したわけではないんだ」と、なんだか救われたような気分になったのでございます。

私の書くようなものは、活字にして残しておくようなものではありませんが、それでもその時々、これだけは言っておかなければならない。俺が言わなければ、だれも代わりに言ってくれるような者はいないという、一種の使命感ようなものを感じながら書いていたのは事実でございます。ですから、その言葉が、すこしでも人の心に残るようなものであったというのは、本当にありがたいこと、むしろこちらが感謝したいほどのことだったのでございます。

オロカメンさまは、「mixi」の方で毎日なにかしら書いておられますし、なによりあちらなら必ずそれを読んでくれるマイミクさんたちがおられますから、あちらを活躍の舞台とされるのは当然と存じますが、もしも他では書けないことや、書けない「量」のことがございましたら、どうぞ遠慮なく、こちらへなんでもお書き込みくださいまし。
どんなお書き込みにもそれなりに対応してみせるのが私の売りでもございますから、それなりのレスは必ず返させていただきたいと存じます(笑)。

もうかつてのようなにぎわいを取り戻すほどのパワーは今の私にはありませんが、「アレクセイの花園」も、歳を重ねた分、昔は書けなかったようなことを書き、枯れた味わいでも出せればと存じます。

ともあれ、「mixi」の方ともども、末永くおつきあいいただければ幸いでございます。
どうか、よろしくお願い致します。



それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

 

新年、あけましておめでとうございます。

 投稿者:オロカメン  投稿日:2018年 1月 9日(火)19時28分5秒
  新年、あけましておめでとうございます!

昨年、ミクシイにて園主様にマイミクにしていただきましたオロカメンと申します。
うわぁ~、恐る恐るですが、こちらは初投稿です!
(ちなみにハンドルネーム"オロカメン"の元ネタはジョージ秋山先生の漫画『デロリンマン』の中のキャラクターに由来してます♪)

ぼくは20代の頃から十数年間『アレクセイの花園』ROM専でずっと拝読させていただいておりました「隠れファン」だったのですが、ふとしたきっかけで園主様とお近づきになることができましたので、一応、こちらでもご挨拶させていただこうかと。
(新年のご挨拶としては、遅すぎですんません……)

ということで、本年もどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m
 

謹賀新年

 投稿者:ホランド  投稿日:2018年 1月 6日(土)23時38分37秒
   みなさま

 あけましておめでとうございます。

 昨年中も、もう当たり前のように書き込みが出来なくてゴメンナサイ。
 まして今年は、園主さまと首を並べて、年末のご挨拶も出来ず、新年のご挨拶も遅れてしまい、もう言い訳のしようもない体たらく。本当にゴメンナサイという他ありません (^_^;)。

 ただでさえ近年は、年末年始のご挨拶だけになってしまい、ボクが何者なのかもわからない方も少なくないと思いますが、いちおうボクは、ここ「アレクセイの花園」の園主さまの「助手」ということになっておりますので、新しい方や通りすがりの方は、そんな感じでユル~くご理解いただければ幸いです。

 最後になりましたが、2018年がみなさまにとって素晴らしい一年でありますよう、心よりお祈りいたします(^-^)。



 Coelian Pantherさま

こんにちは^^

 はじめまして!
 上のご挨拶にも書きましたとおり、ボクはここ「アレクセイの花園」で園主の助手をしております、ホランドと申します。以後お見知りおきをお願い致します。

 イメージとしては、この掲示板のトップ画像に描かれた少年の、向かって右側とご理解ください。??と言いましても、なにしろ2001年からの掲げたままのトップイラストですので、実年齢はそれなりです (^_^;)。
 左側の方は、双子の兄弟のナイルズで、この掲示板の初期にはボクと一緒に助手をしてたんですが、「花園」を旅だって、もうひさしくなります。
 ボクとナイルズの名前(ハンドルネーム)については、トマス・トライオンの『悪を呼ぶ少年』および、そこに登場する双子の名前をニックネームに持つ双子の少年が登場する竹本健治の『匣の中の失楽』の双子の兄弟から来ていますので、機会があったら読んでみて下さいね。

 園主さまとはmixiでお知り合いになったとのことですが、園主さまと末永く仲良くしていただければと、ボクとしてもうれしいです。
 プラモ作りや対戦ゲームがお好きだと、園主さまから聞かされておりますが、ここ「アレクセイの花園」は話題フリーなので、プラモのことやゲームのことも遠慮なくお書き込みいただき、楽しいお話をお聞かせいただければと思います。
 どうぞ今後とも、ここ「アレクセイの花園」をよろしくお願い致します(^-^)。

 

新年のご挨拶

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年 1月 6日(土)22時51分15秒
 

        ☆  ☆ 謹賀新年 ☆  ☆


みなさま、あけましておめでとうございます。おかげさまで当『LIBRA アレクセイの星座』も、つつがなく17周年18年目を迎えることが出来ました。

まずは、今年は少々ご挨拶が遅れてしまいましたことを、お詫びいたしたいと存じます。
じつは昨年暮れの30日に、同居で私と二人暮らしをしている母がインフルエンザで倒れ、急遽入院することになりまして、そのごたごたに気が取られていたというのが一点。一昨年7月から再開したmixi(http://mixi.jp/show_profile.pl?id=65880466)の方で、年末年始もそれなりにちょろちょろと書いていたことから、「花園」の方での年末年始のご挨拶をうっかり失念していた、ということもございます。この点については、まったく言い訳のしようもなく、園主としてお恥ずかしいかぎりでございます。

mixiの方は、マイミクの書き込みが目に入ったり、mixiニュースを見たりして、それに刺激されて、ついつい短文を書くことにもなるのですが、外部刺激がない「花園」の方では、なかなか積極的に書くということが出来ず、不本意ながら、mixiで書いた文章の「ログ保管場所」扱いになってしまっております。

もちろん、私個人の愛着はここ「花園」にございますし、mixiは「仮の住まい」という認識でしかないものの、実際には今後も「花園」を「ログ保管場所」という状態に甘んじさせざるを得ない状況は続くものと思われます。

たとえ数人単位とは言え、いまだにこの「花園」を覗いて下さっている方がいらっしゃるのは私も承知しておりますし、そういう方には、本当に涙が出るほどの感謝の念を禁じ得ません。
また、そうでありながら、そのご期待に添えない私の怠惰と非力を申し訳なく思うのですが、どうか、今のこのペースをお許しいただきたいと、伏してお願いするしかないところでございます。

言い訳や泣き言に近い「新年のご挨拶」になってしまいましたが、もしも可能であるならば、どうぞ今後も、この「アレクセイの花園」をお見守りいただければと幸いでございます。



Coelian Pantherさま


こんにちは^^

わざわざ新年のご挨拶をいただき、ありがとうございます。

mixiの方では、マイミクリストからケーリアンさまの名前が消えてしまい、寂しい思いをしております。
どうか、近況などお教えいただければ、幸いでございます。
この掲示板だけでは、個人的なことも書きづらいでしょうから、よかったらいつでも私の携帯メールアドレスに、ご連絡ください。

今年も無理のない程度に、ゆるりとおつきあいいただければ幸いでございます。
本年も、どうぞよろしくお願い致します。


http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

 

こんにちは^^

 投稿者:Coelian Panther  投稿日:2018年 1月 4日(木)14時37分1秒
  新年、おめでとうございます^^
今年も、宜しく御願い致します^^

http://ostkapital03.bbs.fc2.com/

 

ケーリアンさん、ようこそ。

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年12月28日(木)12時29分10秒
  ケーリアンさま


こんにちは^^  

ようこそ、おいでくださいました。
今年から再開したmixiで、初めてマイミクになっていただきましたが、残念ながらmixiは引退なさるということですので、よろしければ、こちらに気軽に書き込みにおいてでいただければ幸いと存じます。

どうぞ、これからもよろしくお願い致します。

http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

 

こんにちは^^

 投稿者:Coelian Panther  投稿日:2017年12月27日(水)14時46分4秒
  ケーリアンです^^
こちらにも、遊びに来ました^^
mixiでは終わりですが、こちらでは始まりですね^^
これから、宜しく御願い致します^^

http://ostkapital03.bbs.fc2.com/

 

ルイスの悪魔堕ち(憑き)、あるいは自己賛美とルサンチマン

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 6月 6日(火)15時45分27秒
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 ルイスの悪魔堕ち(憑き)、あるいは自己賛美とルサンチマン
 ーー C.S.ルイス『悪魔の手紙』Amazonカスタマレビュー

    (https://www.amazon.co.jp/dp/4582765653/
    (https://www.amazon.co.jp/review/R1QIEPRBKKD2C0/


本書のカスタマーレビューの中では、「Amazon カスタマー」氏の『「乾杯の辞」にルイス自身の偶像崇拝が垣間見える』が際立って優れており、その指摘には大筋において共感同意する。これは凡百のクリスチャン読者には書き得ない、本質的な批評だ。

その上で、非クリスチャンである私がつけ加えられることは、「乾杯の辞」に表れたルイスの問題点は、果たしてルイス個人の『偶像崇拝』の問題なのか、という疑問だ。
言い変えれば、これはキリスト教そのものの問題点が、ルイスという優れた護教的作家においても「乾杯の辞」という形で、思わず露出してしまっただけではないのか、という疑いである。

「悪魔の手紙」本編の方は、悪魔の口を借りて語ることにより、嫌味なくキリスト教を賛美する「護教的作品」になり得ている。
自分の口では憚られる「自慢話」も、敵の口を借りて反語的に語ることで、嫌味な自慢話には聞こえなくなってしまうからだ。
まさに、魅力的な悪役(悪魔)の活躍こそが、主人公(神)の輝きを、より引き立てるのである。

もちろん、このような手法を使えば誰にでも「(キリスト教的)自己賛美」が出来るなどということではない。こうした手法が十二分に成功したのは、ルイスの「人間の弱さ(の現実)」に対する鋭過ぎるまでの洞察があったればこそである。

しかし、そんなルイスをもってしても、現実のだらしない人間たち(主に庶民)とその社会を目の当たりにすると、本音では、口を極めて貶したくもなる。
だが、弱者をこそ愛し救おうとする、というキリスト教の建前があっては、自身のそうしたルサンチマンを剥き出しで解放するわけにもいかない。
そこで「そういう汚れ役は、私にお任せあれ」と登場したのが、ルイスの旧友であった、悪魔スクルーテイプだった。

彼は言う。「私は悪魔としての自論を展開しながら、貴方の代弁者としてお役に立てます。なにしろ悪魔は、本質的な悪でなどなく、所詮は貴方の神の仕事を、究極的にはお助けする、哀れな存在でしかないのですから」。

この甘言に乗って、ルイスは「乾杯の辞」を書いてしまった。
そして、慧眼なクリスチャンからは「これはちょっとマズいな」ということになってしまった。
だから、この問題は、ルイス個人の問題として処理されねばならない。いくらルイスが著名人であり、利用価値の高い護教家であろうと、彼とて人間であれば(ローマ教皇でもないのに)「不可謬性」など持ちあわせるわけもないのだから、彼の「大衆憎悪」は、彼個人の問題であるとして処理されねばならないのだ。

そして、こうした問題処理の仕方は、ローマ教会、カトリックの歴史のなかで、伝統的にくり返されてきたことであって、何も目新しいことではない(かの天使博士トマスですら、一部の見解に間違いがあったと非難された)。
仮にローマ教会自体が、ルイスと同様の「反近代主義」や「反民主主義(階級社会擁護)」のかたちで大衆(社会)憎悪を表明してきた事実があるとしても、ルイス個人の問題まで教会が引き受けるわけにはいかない。なにしろ教会は「不可謬」だからである。

しかし、こうした世俗的自己正当化のドタバタ芝居を見て、腹を抱えて笑っているのは、他でもないスクルーテイプだというのは、もはや指摘するまでもなかろう。

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 一一 岩下壮一『信仰の遺産』Amazonカスタマーレビュー
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日本語で読める、貴重な一次資料集

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 5月30日(火)01時02分22秒
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 日本語で読める、貴重な一次資料集
 一一 ハインリヒ・デンツィンガー
      『カトリック教会文書資料集 信経および信仰と道徳に関する定義集』

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私はクリスチャンではないし、特定の信仰を持たない者だが、キリスト教に興味を持って、数年来、素人研究をしている。
まずは、カトリック、プロテスタント、非キリスト教徒を問わず、片っ端からキリスト教関係の日本語書籍を読みあさってみた結果、自ずとハッキリしたことは、キリスト教信仰の捉え方は、その論者の立場に大きく依存しているという、当たり前の事実だ。

殊にカトリックの場合は、教義の解釈をバチカンが独占しているために、異端認定や教会からの排斥の覚悟無くしては、すでに確定した教義を批判的に論じることは出来ないから、カトリック信者の著作は、イヤでも「眉に唾して」読まなければならないということになる。

しかし、キリスト教の歴史の大半は、ローマ教会を中心としたものであり、言い変えればカトリック教会の歴史なのだから、カトリック信者の書籍や資料を避けて通るわけにもいかない。
したがって、カトリック信者の著作を読む場合は、著者がいかに「学者」ぶっていたとしても、彼が「護教家」であることを充分意識しながら読まなくてはいけないし、客観的資料と見える「一次資料の引用」も、恣意的な切り出しではないかと疑わなければならない。
周知のとおり、キリスト教における説教では「聖書の恣意的引用」は家常茶飯であり、そうした習慣は「学術書」の形態をとっている著作においても、十分に疑ってかかるべきなのだ。

しかしまた、こういう読書は無駄に疲れるという事実も否定できない。すべての著者に対して「著者はこう断言しているが、それは本当に歴史的事実なのか?」「この資料の引用は、恣意的なものではないのか?」と常に疑いながら読むというのは、決して楽なことではないのだ。

だからこそ、一次資料を読むというのは、非常に重要だ。だが、ヘブライ語やギリシャ語は無論、英語すら満足に出来ない者としては、一次資料は不本意ながら翻訳に頼るしかない。だがまた、一次資料を読もうという奇特な読者は限られているので、そうそう一次資料の翻訳書は出ない。
そんな中で、カトリック教会の歴史的な「生の声」を翻訳で伝えてくれる本書は、極めて貴重であるとともに、レビュアー「ostrichはOsterreichではない」氏も語っているとおり、非常に興味深く、面白い。

他の論者の考察を通してカトリック教会の現実を推理的に評価するのではなく、一時資料にあたり、直接自分の目で判断し評価できるのだから、自立的かつ客観的判断を重視する人間に、こうした一次資料が面白くないわけがない。

例えば、この資料集を通読すれば、不可謬であるはずのローマ教会の教令が、時代と状況に応じて、都合よく変わっていくのがハッキリとわかるし、それはローマ教会自体認めている。
では、この明らかな「矛盾」をどう正当化しているのだろうか。

本書P695「事項索引」の「教会の教導職の確実性」の「総論」から引用してみよう。

『(全教会の首位である、ローマ)教会には不可謬性が(キリストから)与えられている』
『教会が誤った(ことがある)という主張』は『排斥』される。
『教導職の文章に疑わしい点が含まれている場合は、その真意を汲み取るべきである』

これはどういう意味か。
要は、後の目から見たら、明らかにおかしなことや間違ったことを言っている様に見えても、ローマ教会の教導職は不可謬なのだから、間違うわけはないので、当然その『真意』は別にところにあったのだと「好意的に解釈しなければならない」、という意味だ。こんなことを、臆面もなく主張しているのである。
世間では通らない、こんな甘ったれた理屈も、ローマ教会は不可謬だということを前提にする「カトリックの信仰」の世界では、堂々と通用する、のだ。

で、現代日本人が読めば自ずと眉を顰めざるを得ないこういう部分を、当然のことながら、カトリックの護教的理論家はあえて紹介しようとはしない。逆に、現代日本人が好意を持ちそうな部分だけを「恣意的に引用」して、それがカトリックの不変の本質であるかのように論じがちなのだ。

だから、キリスト教の「歴史的現実」をリアルに知りたいと思う者は、キリスト教徒であるか否かにかかわらず、この貴重な一次資料集を読むべきであろう。

決して安くはない本だが、その情報量と価値も半端ではない。
小さめの活字による横書き2段組み。本文だけで600ページを超える辞典のごとき菊版の大冊は、読み通すのにそれなりに時間もかかるが、読み通したならば、聖書を通読したときの「これが聖書なのか!」という感想に似た、「これがカトリック教会なのか!」という、知的に展望の開かれる快感を、きっと味わうことが出来るだろう。

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・ まごころを、君に(若松英輔の問題点)
 一一 若松英輔『吉満義彦一一詩と天使の形而上学』Amazonカスタマーレビュー
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・ スピリチュアルな時代の「教祖の文学」
 一一 若松英輔『霊性の哲学』Amazonカスタマーレビュー
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 神聖喜劇 ーー カトリック界の東堂太郎

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 3月 6日(月)15時41分42秒
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 神聖喜劇 ーー カトリック界の東堂太郎
 ーー 西山俊彦『キリスト教はどんな救いを約束しているのか 愛の福音が真価を発揮するための一石』

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すごい本である。十年に一冊どころではない。まずはそう断言しておこう。

その証拠の一つとして挙げられるのが、本書が自費出版系の文芸社からの出版という事実である。「なんだ、自費出版か」と思った人もいるだろうが、事実の意味するところは、その逆である。

著者は、カトリックの学者として立派な肩書きを持ち、平和運動家としての実績もあり、これまでキリスト教系の出版社から何冊もの著作を刊行している人である。
しかし、著者の誠実な論理性と剛直な精神は、カトリック界の保身的組織防衛主義に発する欺瞞に対する呵責のない批判としてあらわれ、その結果、近年その著書の刊行が困難を極めた結果、キリスト教界とはしがらみのない文芸社が、中身本位で著者に手を差し伸べ、本書の刊行がなったのだ。

つまり本書は、カトリック界が世間に知られたくない事実を、明晰な文章によって赤裸々かつ論理的に語った「内部批判」の書なのだ。
昔ならば、著者はカトリック教界から破門され、本書は「焚書」にされ、証拠隠滅の憂き目にあっただろう。そんな重要貴重な本なのである。

『本書主題の提起展開は、直接的には、宗教集団、世界最大のそれの信憑性を問うものである。』(P462)

著者は、敬虔なキリスト教信者として、カトリック教会が正しく機能しているのか否かを検証し、誤っているところは謙虚に正すべきだと、当たり前の主張をしているにすぎない。
しかし、カトリック教会の誤りがその「教義」にまで至り、その教義を認めなければ「破門」にするとまで規定されている現実があるために、教義を厳格に思考すべき神学者ですら、その誤りを公然と指摘することは出来ないのだ。
それこそ、自身の信仰に、理路整然とした正統性と自負を持たないかぎり、世俗的評価や栄達を棄てる覚悟がないかぎり、カトリック信者としては「死刑よりも恐ろしい破門」の脅しには抗えないのである。

しかし、本書の著者は、カトリックの公式見解の一つである「刷新と現代化」の正統的立場から、それを実践しようとしない、組織防衛第一の保守主義による欺瞞的な世俗迎合主義を、真正面から論理的に批判する。だから、カトリック界は、教職を退き一信者として「正論」を投げかけてくる著者を公然と処分することが出来ず、徹底的に無視することで抹殺しようとしている。
これが本書成立の背景である。

私は、本書で初めて著者西山俊彦を知った。そして、その論理的かつ剛直な精神に、私が「心の師」と仰ぐ小説家大西巨人に通ずるものを感じ、その奮闘に、大西の代表作『神聖喜劇』の主人公である陸軍二等兵・東堂太郎のそれを重ねて読んだ。

東堂太郎は「軍隊」の中で、その理不尽・不条理に対し、博覧強記と論理性をもって抵抗する。
先の戦争における日本の「軍隊」の現場が、いかに歪んだ権威主義と精神主義の「特殊空間」の様相を態していたとしても、そこには厳然と「軍規」が存在し「理想」や「あるべき姿」が各種の文書となっていた。藤堂太郎は、そうしたものに通じ、それを根拠に「軍隊」の歪みに敢然と抵抗したのである。

戦後の軍隊小説としては、野間宏の『真空地帯』という名作がある。『真空地帯』では、「軍隊」は人間を非人間へとスポイルしてしまう特殊空間としての「真空地帯」として描かれる。つまり「軍隊」は「世間(軍隊の外の世間一般)」とは本質的にちがった特殊空間であったと主張されているのであるが、大西巨人はこれに異を唱えた(『真空地帯』論争)。軍隊もまた「世間」の一部であり延長でしかなく、本質的な違いはない。むしろ、「軍隊」は「世間」に伏在している問題性を剥き出しにしてみせる場所であり、その意味で「軍隊」の問題を描くことは、世間一般の、そして人間一般の問題を描くことに他ならないと主張し、その実証作として、埴谷雄高の『死霊』と並び称される、戦後文学の巨峰『神聖喜劇』を、20年の歳月を費やして完成させたのである。

さて、本書『キリスト教はどんな救いを約束しているのか』の著者西山俊彦を東堂太郎に擬するならば、東堂太郎の「軍隊」は西山にとっての何にあたるのか? 無論それは「カトリック教会」である。
「カトリック教会」は、ローマ教皇(法王)を頂点とする位階制をもった、権威主義的な縦割り組織であり、その意味でも「軍隊」に似ていると言えよう。どちらも「抗命」を絶対に許さず、刑罰をもってそれに報いる、法権力組織である。そうした意味でも「カトリック教会」は、「宗教的特殊空間」であるよりは、「世俗的権威主義組織」に極めて近いし、それは教義的にも当然なのである。
どういうことかと言えば、人間は「すべて例外なく原罪を帯びている」というのがキリスト教の根本教義なのだから、ローマ教皇であろうが、大司教であろうが、高名な神学者であろうが、彼らもまた「原罪」を帯びており、そのために「誤り」も犯す。そして、そんな「人間」たちによる組織である以上、歴史も証明しているとおり、「カトリック教会」もまた多くの「通俗的な誤り」を犯すのである。

しかし、そのカトリック教会が、近代にいたって「教皇無謬論」などというものを「教義」化してしまった。
ローマ教皇が、教皇として世界の信者に発する教義的決定の指導は、聖霊の導きによって「誤ることがない(絶対に正しい)」というのを「カトリックの正統教義」として決めてしまい、これに従わない者は「破門」するとしたのである。

本書の著者が、本書において中心的に取り上げるのは、この「教皇無謬論」の問題であり、「教皇無謬論」を後ろ盾として、近代において教義化された「聖母マリアの無原罪の御宿り」と「聖母マリアの(肉体をともなった)被昇天」説である。
キリスト教に興味を持つ(私のような)非クリスチャンだけではなく、非カトリックのキリスト教徒の多くが、首を傾げるこれらの教義が、カトリックにおいてどのように正当化されているのか、そしてその正当化がいかに非論理的で裏づけの無い根拠薄弱なものであるのか、言い変えれば「信憑性」のない「自慰的」規定であるのかを、著者はカトリックの教義に準じて、理路整然と論証していく。
そして、それに対してカトリック教会は、ただ傲慢かつ不誠実な「無視」で応じている。これが「(現代)カトリック教会の隠された現実」のひとつなのだ。

著者西山俊彦の奮闘は、まさに「神聖喜劇」である。
彼は現代における「神の道化師」なのであろう。

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「年間読書人 Amazonレビュー」リンク集

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)15時08分45秒
  みなさま、本日は、私が「年間読書人」名義でAmazonに書いたレビューの内、こちらでまだご紹介していなかった「キリスト教関連書」をご紹介させていただきますとともに、下のとおり「Amazonレビュー」のリンク集をアップさせていただきました。

なお今回、当「花園」内にアップした「キリスト教関連書」ページの末尾に収録した「関連書」リンク集には、小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』を含めておりませんでしたが、宗教関連書ということで、ここでは「キリスト教関連書」のリンク集の方へ収めさせていただきました。リンクの修正をするのが大変なので、各ページのリンク集については今回はそのままにし、次回からはこちらでいきたいと存じます。
また、リンク集の補足については、新たなレビューがいくつか貯まってから、今回のようにまとめて補足したいと存じます。

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(キリスト教関連書)

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(その他)

・ 万人に秘められた、暴力性の現実 ーー 笠井潔・野間易通『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』& 鹿砦社特別取材班編著『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター - しばき隊の実態』
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https://www.amazon.co.jp/review/R2KIYIUXPTU09G/ref=cm_cr_rdp_perm
(初出:2016/12/30)

・ 言葉の螺鈿細工による奇跡の匣 ーー 竹本健治『涙香迷宮』
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(初出:2016/3/19)

・ 同年生まれで、同じようにアニメ好きだった、小谷野敦について ーー 小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』
https://www.amazon.co.jp/review/R1AFJMWQ9T36IE/ref=cm_cr_rdp_perm
(初出:2016/2/18)

・ 急ぐことと待つこと ーー 米澤穂信『王とサーカス』
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(初出:2015/12/21)

・ 「中立的判定者」という自己誤認 ーー 高橋哲哉『「中立的判定者」という自己誤認』
https://www.amazon.co.jp/review/R3TVXPMX9HXDPG/ref=cm_cr_rdp_perm
(初出:2015/9/17)

・ 日本で現出したオーウェル的悪夢 ーー 吉村萬壱『ボラード病』
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・ イデオロギー的レヴュアーの反応 ーー 高橋哲哉『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』
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(初出:2014/5/8)

・ 文学的?ーー 高橋哲哉『国家と犠牲』
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(初出:2005/9/18)
 

稲垣良典批判 ーー カトリック保守派の最悪の部分

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時11分59秒
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 稲垣良典批判 ーー カトリック保守派の最悪の部分
 ーー 稲垣良典『カトリック入門: 日本文化からのアプローチ』

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党派意識に凝り固まったカトリック信者は論外として、まともに文章が読める人ならば、本書の酷さは一目瞭然である。
具体的に言えば、本書における著者の「誤摩化し」「論理的一貫性の無さ=不誠実性」「偽善的なへりくだりのポーズ=内心の高慢」等々だ。

著者は、トマス・アクィナスの膨大な主書『神学大全』の全訳に貢献した、日本における中世哲学界の「重鎮」ということになり、その点では現在の日本のキリスト教界では大先生ということで、だれも名指しで批判するものはいない。
しかし、本書を読めば、著者の学問的業績や肩書きは別にしても、カトリック信仰を語るカトリックの指導者・理論家の一人としては、とうてい高く評価できるような人物でないことは明らかだ。
それが、カトリック信者でもなければクリスチャンですらない、つまり「(日本の)キリスト教界のしがらみ」に縛られることなく、自由に評価を語れる「客観的第三者」には、容易に見てとれる事実なのである。

本書の問題点としての「カトリック信仰と日本的霊性との薄っぺらな通底視」「歴史的事実の無視と無反省と牽強付会」「偽善的な謙遜に隠された、高慢に発する被害者意識の発露としての怒り」など、著者の物言いは、およそカトリックの理論家が犯す「護教的欺瞞」の典型例だと呼んでいいだろう。
いくつか本文を引用して、実証的に解説していこう。

(1)『ここで「カトリシズムと日本文化」という問題を提起し、日本文化という「場」で育った心を持つ日本人がカトリシズムを受容することを妨げる要因をつきとめようとするに当たって、私は恐らく読者が予想されているであろう事柄に立ち入らない。そうした事柄とは西洋の歴史のなかで「カトリシズム」という名前に付着させられた「反(アンチ)キリスト」の業とも言うべき堕落や逸脱の数々である。思いつくままにそれらを枚挙すると、(1) 聖書の軽視、(2) 教皇権威の絶対化、(3) 秘跡(サクラメント)の魔術化、(4) 宗教裁判、(5) 免罪符、(6) 十字軍、(7) 聖母礼参、等々。』(P13)

まず「はじめに」で、このように予防線を張っている。「カトリシズムと日本文化」の話を議論するのだから、西洋での過去の話は基本的にやめておきます、ということだが、日本人がキリスト教、なかんずくカトリックを受容しない理由の大きな要因は、カトリックによる『(4) 宗教裁判、(5) 免罪符、(6) 十字軍』などの「権威主義的かつ暴力主義的な独善(神の名による生殺与奪の独占)」という歴史的事実を知っているからに他ならない。
日本人の心性は、カトリックの教会絶対主義(教皇無謬説など)が象徴する「唯一神の絶対権威主義」には、基本的に馴染まない。山川草木あらゆるものに魂が宿っており、それぞれが小さな「神」として生きているようなアニミズム的世界の「緩さ=寛容さ」に馴れた「日本的霊性」からすれば、カトリック的な「慇懃無礼で問答無用な権威主義」は、とうてい馴染めるものではないのである。

そもそも、上の引用文の言い回しにも、著者のカトリック的「独善」が、よく表れている。
曰く『「カトリシズム」という名前に付着させられた「反(アンチ)キリスト」の業』。これは「以下に列挙された問題群は、基本的にはカトリックの問題ではなく、アンチキリストの問題でしかないのに、その無理解の故に、一緒くたにされて、着せられた汚名である」という、著者の「無反省」な本音としての「被害者意識」を露呈させている。
著者の独善的な「カトリックは、本質的に間違っていないし、間違ったこともない。ただ、個人が間違うだけだ」という「カトリックの自己正当化」論は、もちろん本書の中に頻出しており、ぜんぶ引用していたら切りがないほどだ。

(2)『カトリシズム、というより近世のカトリック教会が科学の発展を阻害したという、いわゆる「宗教と科学の闘争の歴史」は、現在では「歴史」というよりは反キリスト教的な啓蒙主義というイデオロギーの宣伝(プロパガンダ)に過ぎないことが明白になっているので、ここでは問題として取り上げない。』(P56)

著者は何ら具体的な根拠を示すこともなく『啓蒙主義というイデオロギーの宣伝(プロパガンダ)に過ぎないことが明白になっている』と書いているが、これは意図的な決めつけによる大嘘であり、「カトリックの歴史」を知らない一般読者や一般信者に向けての、プロパガンダ(政治的宣伝)であり「デマゴギー」に他ならない。
それは、第255代ローマ教皇(在位:1846年6月16日 - 1878年2月7日)ピウス9世の『誤謬表』という、歴史的事実にも明らかである。
『1864年の回勅『クアンタ・クラ』に付属する形で発表された『誤謬表』(シラブス)へと受け継がれていく。これは自然主義や合理主義、自由主義など近代思想・文化を否定する内容で、教皇庁と近代社会との断絶は決定的になった。』(Wikipedia)というもので、当然のことながら、それは近代の申し子である「自然科学」をも否定したものであり、その反動性ゆえに一般的影響力は別にしても、多少なりとも「科学の発展を阻害した」というのは間違いない事実だ。驚くべきことに、これは中世の話ではなく、近代における歴史的事実であり、著者の稲垣は、こんなことなど百も承知で、臆面もなく大嘘をつける「カトリック保守派の最悪の部分」なのである。

(2)『(※ローマ教会およびローマ教皇(法王)の絶対的権威を主張するカトリックを、キリスト教本来の在り方ではないと見る人たちから)カトリック信者は自分たちの教会を「神の国」「天の国」と同一視し、キリスト自身の神的な生命(いのち)によって生きる「聖なる」キリストの神秘体だと主張しているのか。信者はキリストを頭とする体の部分ではあっても、この世を旅する人間である限り常に悔い改めを必要とする必要とする存在であることを忘れたのか??このような反発を呼び起こし、批判を浴びるのではないか。
 実を言うと、この種の批判は、人々の目に映る現象としてのカトリック教会としては、常に誠実かつ真剣に受けとめるべき戒めではあるが、本質としての教会を理解しえないところから出てくる批判である。』(P272)(※は、引用者補記)

(3)『この絶対的な矛盾とも見える信仰の逆説(パラドックス)がカトリシズムの特徴であり、近代思想に対する知的な挑戦である。』(P274)

この(2)にも、著者の「傲慢(「自分は分かっており、世間が分かっていないだけ」という上から目線)」と「本質的無反省」は明らかだろう。著者は、カトリックとして『常に誠実かつ真剣に受けとめるべき』だとすることを、自ら『誠実かつ真剣に受けとめ』て『戒め』ることなど決してないだろう。
それは(3)の「カトリック的開き直り」の論理にも明らかだ。私はこれを「カトリック的ダブル・スタンダードの詭弁」だと表現しているが、論理的に説明できないことを「逆説」だと強弁あるいは(チェスタトン的)レトリックを駆使して身をかわし、そのあげく『近代思想に対する知的な挑戦である』などと宣う「厚顔」さは、相当なものだと言わざるを得ない。

こんな、稲垣だからこそ「建前と本音」は、こんな具合に、露骨である。

(4)『私は神学者ではなく、まして聖書学者ではないから、これは「信仰の知解」をほそぼそと続けてきた「スコラ哲学者」の胸に浮かんだ思いに過ぎないのかもしれない。』(P184)

(5)『「私は正しく私の時代のキマイラです」と敢えて言い切った彼(※ベルナルドゥス)は、自分は(※信仰的探求者であって)学者ではない、という姿勢を終生貫いたが、そのことは彼が十二世紀に輩出した多くのヒューマニストの中の最も卓越したひとりであり、また神学の歴史の中で画期的な位置を占める神学者であることをいささかも妨げるものではない。』(P247)

要は、ご「自分は神学者でも聖書学者ではないけれども、カトリック神学の中核であるトマス神学の権威であり、その意味で卓越したカトリック思想家のひとりである。それはまた、自分が中世哲学学会の中で画期的な位置を占める学者であることをいささかも妨げるものではない」とおっしゃりたいのである。

本書において、著者である稲垣良典の「鼻持ちならない高慢さ=イエスの説いたへりくだりの、本質的欠如」は、ごく普通の読書家にとっては、容易に読み取れるところである。
しかし、カトリックに所属する「党派的人間」には、それを語れないだけではなく、むしろ「同業者」的な「提灯持ち」評価さえ恥じないでやれるのだ。だが、あるいはこのあたりが「日本的なカトリック性」だと言えるのかも知れない。

ともあれ、こうした「現実的な問題点」を「人々の目に映る現象としてのカトリック者としては、常に誠実かつ真剣に受けとめるべき戒め」としてほしいところだが、まあ多くは期待できないだろう。だが、誰かが指摘しておくことに意味はあろうから、このような批判文を書かせていただいた次第である。

ちなみに、稲垣良典は本書で、岩下壮一やチェスタトン、ベネディクト16世(ヨーゼフ・ラッツィンガー)などの「カトリック保守派の論客」に対して好意的(かつ党派的)に言及しているが、私(年間読書人)は、稲垣が序文などを書いている岩下壮一の『信仰の遺産』(岩波文庫)『カトリックの信仰』(ちくま学芸文庫)や、ベネディクト16世の評伝『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』(今野 元・東京大学出版会)などについてもレビューを書いているので、他のキリスト教関連書のレビューと併せてご参照していただだければ幸いである。

『 神と出会う時、わたしたちはあらゆる点でわれわれよりも無限に優越しているものに直面することになる。神をそのようなものとして理解しない限り??したがって、これと比べれば自分は無に等しいと考えない限り??神を知ったことには全然ならない。われわれは、傲慢である間は、決して神を知ることができない。傲慢な人はいつも事物や人びとを見下している。見下している限り、自分の上にあるものが目に入らないのは当たり前である。
 そこから恐ろしい疑問が起こってくる。どこから見ても明らかにプライドによってむしばまれている人びとが、自分は神を信じていると言い、また自分は非常に宗教的な人間だと自認しているのは、いったいどういうわけなのか。そういう人たちは自分の頭ででっち上げた神を拝んでいるのすぎない、とわたしは思う。彼らは、自分がこの空想の産物である神の前にあっては無に等しいことを、理屈では、認めている。だが、腹の中では、「神はわたしの言行を嘉し、わたしがふつうの人たちよりもはるかに立派であることを認めておられる」と、いつも考えているのだ。つまり、彼らは神に1ペニーの空想的謙遜を支払うことによって、同胞に対する1ポンド分の据傲を手に入れているのである。キリストが、わたしについて宣教し、わたしの名によって悪霊を追い出してもなお、世の終わりに、「われなんじらを知らず」と言われる者たちがいるであろう、と語った時、彼の念頭にあったのはそういう人たちではなかったかとわたしは思う。』
  (C.S.ルイス宗教著作集4『キリスト教の精髄』P195~196)


 2017年2月6日(初出)

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【関連レビュー】

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無信仰者から見た、ムラ内論争 ーー ウィリアム・ウッド『異端の反三位一体論に答える―『エホバの証人』を中心として』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時09分12秒
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 無信仰者から見た、ムラ内論争
 ーー ウィリアム・ウッド『異端の反三位一体論に答える―『エホバの証人』を中心として』

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結論から先に言っておくと、本書は「キリスト教ムラ内用の本」であり、関係者には大層重要な問題を扱った本だが、部外者には「話にならない議論」の書である。

本書の議論の前提となる「三位一体」論を、簡単に説明しておこう。

カトリックやプロテスタント諸派といった、一般的に言って「キリスト教正統派」にあたる人々が信奉している教理に「三位一体論」というのがある。
これは、キリスト教の「神(主)」は「父(エホバ・旧約聖書に描かれた唯一神)と子(イエス・キリスト)と聖霊」という「三つの位格を持っていて、このように違った現れ方をするが、別存在ではなく、一体の存在である」という「神秘的教説」だ。

「聖書」というのは、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書(当然、キリスト教側の呼び名)」と、ユダヤ教の分派であるキリスト教が独自に作った「新約聖書」の二部からなる本で、なんでこんな面倒な構成になっているかと言うと、それはユダヤ教の分派であるキリスト教の側からすると「イエスは、旧約聖書でその出現が予言されていたキリスト(救世主)である」という立場を採っているからだ。
つまり「イエスの生涯」や「パウロのイエス・キリスト論」などを収めた「新約聖書」の正統性を担保するための、古い権威ある書(証拠)としてユダヤ教の聖典が「旧約聖書(古い契約の書)」として、聖書に収録されているのである。
もちろん「旧約聖書」のどこにも「ナザレにイエスという男が現れるが、それがキリストである」とは書かれていない。「こんなふうな感じのキリストが現れるよ」という預言がいくつかなされているだけなのだが、「それがイエスのことだ」と後で主張したのが(ユダヤ教の分派として出発した)キリスト教なのである。

ただ、この主張には、少々問題がある。
と言うのも「旧約聖書」には、「神は、イスラエル民族の守護神である、エホバのみである(神はただ一人であり、それ以外は偶像=偽物の神)」と語られているので、イエスを「神から遣わされた、救世主という名の神の僕(あるいは預言者の一人)」と認めるだけなら良いのだけれど、イエスを「主(わが神)」とまで認めてしまうと、「旧約」の「エホバ=唯一神」論から外れて「二神論」になってしまい、ユダヤ教の教義からすると「イエス・キリストは偶像である」と言うことになってしまう。

さらに「新約聖書」には「聖霊」という、よくわからない「神のはたらき(っぽいもの)」まで登場して、それも「神」だと言われている。

こうなると、ユダヤ教からすれば、イエスを主(神)として「新しい契約」だなどと主張するキリスト教は、単なる「多神教」であり「唯一神信仰に違背する、偶像崇拝の異端だ」と言うことになってしまう。

そこで、キリスト教の側は「いや、我々の信仰は、多神教ではなく、唯一神信仰です。父と子と聖霊は、別々の三つの存在ではなく、旧約聖書の教えるとおりの、一つの神なのです。ただ、三つの位格をもって表れる(人間にはそう見えるだけ)なのです」という、私のような無信仰者には「後づけの強弁」としか言えない理屈を、長い間の正統教義論争を通して練り上げ、最後は「それを信じる者だけが、正統なキリスト教信者である(それ以外は異端だ)」と、教会会議で決めてしまった。
で、その「決まり」に従っているのが、今の「正統派キリスト教諸派」であるカトリック(および東方教会)やプロテスタント諸派なのだ。

このように、「三位一体論」というのは「キリスト教(イエスは主である)は正しい・教会会議で決まったことは正しい」ということを大前提とする「無理のある教説」なのだ。

そして、そういう正統的キリスト教諸派に対し、「神はエホバだけ」であると「旧約聖書」の記述に準じて主張するのが、新顔の「エホバの証人」なのである。

本書は、エホバの証人よる反「三位一体論」(「三位一体論」批判)に反論すると同時に、この批判に動揺するであろう、キリスト教の教義にも歴史にもあまり詳しくない、キリスト教の一般信徒へ向けて書かれた「正統派の三位一体論」の入門書なのだ。

『エホバの証人は、三位一体の教えを、複雑で、わけのわからない教えとして攻撃します。そして、自分たちこそ神を理解し、誰にでも神のことをわかりやすく説明できると言います。しかし、実際に、彼らは偉大なる神を人間レベルに引き降ろして、小さくしているのであって、結局のところ、多くの謎を作り出しているのです。』(本書P142)

キリスト教正統派に比べ、後発のエホバの証人は、歴史がないからこそ、歴史的にでっち上げられた三位一体論の無理を指摘することで、正統派を批判できると考えたわけだ。これは、議論の聞き手を「キリスト教徒以外」にまで広げれば、正しい戦略であろう。
しかし、彼らとて「自身こそ正統的な神のしもべだ」と考えているからこそ、自身の立場の正統性を担保するために、(内部的権威づけとして)「聖書の権威」に頼ろうとする。自身たちの「正しい読み」を示そうとする。だか、そこが弱点に転化してしまう。

と言うのも、「聖書」とは「キリスト教主流派が、自身の正統性を示すために、でっち上げたり、各種文書を取捨選択して、編纂した書物」なのだから、もともと、主流派=正統派の解釈を正当化するように作られている。
だから、「聖書の権威」を認めるという枠内において、それをエホバの証人の立場に引き寄せようとすれば、原理的に無理が生じ、そこを正統派に突かれて反論されてしまうからだ。

つまり、三位一体論だけがおかしいのではない。もともと神だのキリストだのといった超自然なお話そのものに、論理的な無理(原理的非論理性=無前提的決定)があるのだ(事実、キリスト教は「神は人間の知性では、完全には理解できない。三位一体の教説も、信じることが前提となった議論である」と認めている)。
その「根本的な無理」は黙認しておいて、「一部の無理=三位一体論」を批判したところで、所詮つじつまは合わない。もともと、三位一体論とは「つじつま合わせの産物」なのだ。
その結果、デタラメな「聖書的ダブルスタンダード」に開き直る、老獪な正統派の方が「デタラメなりのつじつま合わせ」が出来ているということになってしまう。

事ほど左様に、「三位一体論」をめぐる批判反批判とは、どっちにしろ部外者には、目くそ鼻くそを嗤う、非論理的論争でしかないのだ。

だが、キリスト教の歴史や神学、聖書学などにほとんど馴染みのない(聖書を通読した事のない人も多い)「大半の一般信者」を動揺させないためなら、こういう「部外者」には馬鹿馬鹿しい議論も「内部政治」的には極めて重要なのであり、こうした「政治性」こそが、キリスト教神学の本質だと言っても、あながち過言ではないのである。

ともあれ、本書を誉める人は、キリスト教正統派に所属する人であり、党派的に誉めているに過ぎない。
彼は間違いなく「客観的第三者」ではない。

数少ないであろう一般読者(無信仰の読者)は、自身の立場を明示しないで、信仰書を語る(評価する)論者やレビュアーは、信用しない方がいい。宗教者は「隠し事が多い」のだ。

 2017年2月3日(初出)

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万人に秘められた、暴力性の現実

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時07分42秒
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 万人に秘められた、暴力性の現実
 ーー 笠井潔・野間易通『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』
 ーー 鹿砦社特別取材班編著『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター - しばき隊の実態』

https://www.amazon.co.jp/review/R2KOFJRL5W1U9X/ref=cm_cr_rdp_perm
https://www.amazon.co.jp/review/R2KIYIUXPTU09G/ref=cm_cr_rdp_perm


※ 本稿は、笠井潔・野間易通『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』と、鹿砦社特別取材班編著『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター - しばき隊の実態』の二著を中心に扱ったものであり、両著のAmazonレビューとしてアップしております。

『反差別と暴力の正体』が暴露したのは、リベラルな反体制運動としてのSEALDsやしばき隊などの市民運動が、その陰に暴力性(テロリズムの肯定)を隠し持っていたという「残念な事実」です。
同書を読んで痛感させられるのは、人間が組織的に動く場所においては、人間の暴力性というのは多かれ少なかれ発現せざるを得ず、その例外は無いという「残念な現実」だと言えるでしょう。

笠井潔と、しばき隊の創設者と呼んでよい野間易通との往復エッセイ集である『3.11後の叛乱』は、当然のことながら「反原連・しばき隊・SEALDs」とつづく、新しいかたちのリベラルな市民運動を肯定的に評価し、一方『反差別と暴力の正体』の方は、そうした新しい運動の陰にも隠されていた暴力性を暴いて、これを批判したものだと言えます。そして両著のAmazonレビュー欄もまた、そうした「政治的闘争の場」と化している観があります(後者支持が優勢だが)。

しかし、『反差別と暴力の正体』が暴いたのは、単に「反原連・しばき隊・SEALDsの隠された暴力性」ではなく、「すべての人に伏在する、人間の根源的暴力性の存在」なのではないでしょうか。
つまり、思想の左右に関わらないのはもちろん、どんな思想や理想・理念を持っているかにも関わりなく、すべての人間があらかじめ秘め持っている暴力性の存在事実なのではないか、ということです。
だからこれは、私自身を含め、すべての人にとって、決して他人事ではない。

どんな理想を掲げている人であろうと、どんな思想を持ち、心からそれを信じていようと、すべての人には暴力性が伏在しており、現実の難問にぶち当たった時に、それが鎌首をもたげてしまう。「この場合、多少の暴力はありだろう(正当化されるだろう)」と考えてしまう。
そして、そうした暴力性というのは、人が二人から始めて集団化するのに比例して、その発現率を高めてしまいます。
くり返しますが、そこでは思想の中味は基本的に関係がない。

では、我々はばらばらの個人として生きればいいのかというと、それは不可能です。人間は社会的な動物だからです。だからこそ私たちは、暴力性を完全に排除することが出来ない。だからこそ国家や戦争を超えることが出来ないのではないか。

私たちは、自分が個人に止まり目立った誤ちを犯さないからといって、集団化による誤ちを犯した人たちを、他人事のように上から目線で批評批判して済ませるわけにはいきません。私たちすべての人間は、間違いなく集団化とその暴力性の恩恵を被りながら生きているからです。

近年キリスト教の問題に興味を集中させている私が、この問題に興味を持つのも、それはこれが「すべての人間」にかかわる問題、つまりクリスチャンをはじめとする全ての信仰者にもかかわる問題だと見たからです。

なぜ、愛と赦しを説くキリスト教が、多くの異端者や異教徒を虐殺する蛮行を犯したのか。
それは彼らもまた人間であり、その限界を、信仰を持ってしてもついに乗り越えられなかったからだと、そう考えるからです。

今は、暴力では対抗できないライバルとしての「国家」が存在するから、その暴力性は前面に出てこないけれど、イスラームであれキリスト教であれ、その暴力性の実力が諸国家の暴力性をしのぐようなことになれば、その暴力性は必ずやまた発現されることでしょう。これは宗教・信仰もまた、思想や理想や理念などと同様に、人間の潜在的本質としての暴力性を乗り越え得ないからです。

では、我々はこの難問に、どのように立ち向かえばよいのか?
その答は、私にはありません。
ただひとつ言えることは、私たち自身の中に伏在する暴力性を、すべての人が自覚し、それと向き合うことが、まずは必要であり、すべてはそこからしか始まらない、ということです。
自身を、暴力性とは無縁な理想を信奉する(無欠な正義の)人間だと思い込んでいるかぎり、その人が自身の暴力性と対峙することが不可能なのは、理の当然なのですから。

『反差別と暴力の正体』の中味にそって言うと、ここには「暴力肯定の新リベラル左翼(反原連・しばき隊・SEALDs)」対「反暴力の旧来の反体制言論左翼(鹿砦社)」という図式が描かれていますが、これまでの議論でも明らかなように、この図式は、人間の普遍的かつ本質的な暴力性の問題を度外視した、表面的かつ一方的な議論にすぎません。「非暴力」を自称しながら「反原連・しばき隊・SEALDs」を批判する側にも、必ずや「語られない暴力性」が大なり小なり存在していることでしょう。その一端が、Amazonレビューの場にもささやかながら発現しています。

笠井潔と野間易通の共著が成立したのも、両者が「反新左翼」という立場で共通したからです。
笠井は、連合赤軍の総括殺人事件を左翼運動に伏在する本質的な問題として捉え、それを乗り越える試みとして『テロルの現象学』を書いて、自らも関わった左翼運動の難問を総括したと主張し、自分以外の大半の左翼活動家たちは本質的総括をやらないまま文化左翼として延命したと批判しました。その代表が、坂本龍一や糸井重里、高橋源一郎などだと、事あるごとに批判しています。
だから笠井潔は、SEALDsやしばき隊を評価しつつも、彼らと連携する左翼文化人や知識人、例えば小熊英二などを批判していますが、その批判の根拠は小熊が高橋源一郎らとも共闘する、同系統の無反省な文化左翼だという位置づけにあります。

知ってのとおり、SEALDsを中心としたリベラルな新社会運動は、旧来の「新左翼セクト」の運動への浸透を警戒し、これの排除に腐心しています。
国会前デモや沖縄での反米軍基地運動でも、新左翼セクトが暴力的な扇動を行い、運動のヘゲモニーを握ろうとしているのが迷惑でしかない、あくまでも自分たちはリベラルな運動に徹したいのに、という趣旨のことを、野間易通をはじめとしたSEALDsやしばき隊のメンバーは語っています。
しかし、暴力悪は、何も新左翼セクトにだけあるのではなく、彼ら自身にもあったことが『反差別と暴力の正体』で暴かれました。結局のところ、彼らの新左翼排除は、暴力の排除ではなく、運動におけるヘゲモニーの争奪戦にすぎなかったということが明らかになったのだと思います。

これは、笠井潔の文化左翼批判と同じで、結局は「あいつらは間違っており、自分が正しい」というアピールによるヘゲモニー争奪戦と同型なのでしょう。だからこそ、笠井潔と野間易通の共著は成立した。

しかしながら、笠井潔は『テロルの現象学』で「自分は左翼運動に内在する暴力性を剔抉し、他の文化左翼はそれをしなかった」と批判したのだから、自身が高く評価したSEALDsやしばき隊でも、同様の内ゲバ的テロリズムの存在が明らかになった以上、笠井はこれの徹底的総括を行わないでは済まされないでしょう。
その意味では、私は古い笠井潔ファンであり「笠井潔葬送派」として、笠井潔の態度に注目したいと思っています。

ともあれ、私が本稿で言いたいのは、SEALDsやしばき隊が隠し持っていた暴力性は批判されねばならないものではあれ、それは「敵」を批判する行為としてではなく、「自身の醜い似姿」を批判するものでなければならない、ということです。
で、なければ、いつかは自分も、同じことをすることになるからです。

 2016年12月30日(初出)
 

エリ・エリ・レマ・ サバクタ二

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時04分32秒
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 エリ・エリ・レマ・ サバクタ二
 ーー ボストングローブ紙〈スポットライト〉チーム著『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』

https://www.amazon.co.jp/review/R3TVSFD4V5U1MJ/ref=cm_cr_rdp_perm6)


クリスチャンが全人口の1パーセントしかいないといわれる日本では、本書の持つ意味が十全に理解されないのは、むしろ当然なのでしょう。一般的な日本人の感覚からすれば「警官だって裁判官だって、盗みもすれば痴漢もする。もちろんそれは職業倫理に反する行為であり、なにより犯罪なのだから許されるものではないが、彼らだって同じ人間なのだから、一定数の犯罪者が生まれ含まれるのは致し方ない」ということになるだろう。だから、カトリックの司祭(神父)が、信者の子弟に手を出す児童虐待の罪を犯したと聞いても「そういう奴もいるだろう」くらいの感覚だろうと思います。そして、その判断は、たぶん正しい。

しかし、警官や裁判官と違って、司祭は「職業」ではなく、神の「召命」であり、神に与えられた「使命」ですから、クリスチャンの感覚としては、決して「職業」ではないし「職業論理」を問うて済む問題でもありません。司祭の児童虐待は、単なる「不道徳」や「犯罪」ではなく、その司祭の「背教」であり、さらにはそれに止まらず「教会の絶対的権威=カトリックの教義」にかかわる問題でもあるのです。だから、キリスト教圏では、この「スポットライト」事件の持つ意味は、一般的な日本人が感じる程度のものではないのです。

言い変えるならば、日本人の中で、この事件の持つ「重い意味」を完全に理解できるのは、クリスチャンだけだとも言えるでしょう。だからこそ、クリスチャンの中には、この問題を直視しようとする人もいれば、「その事件のことなら知ってるから、わざわざそんなスキャンダラスな本を読んだり、映画を観たりなんかしないし、人に奨める気もないよ」と、その現実から目を逸らす人も少なくないはずです。

私の前にレビューを書いているBoba氏は、本書を「原因」と「実益」という視点から読んで『最大の疑問「何故教会でこんなに多くの虐待(レイプ)が?」という疑問は解消できなかった。司祭の独身・禁欲だけが理由ではなくもっと根源的な理由があるのでは。と言うことでモヤモヤ解消せず★3。』と書いておられます。
これは「事件の再発防止」という現実的観点からすれば、とうぜん感じられるところでしょう。しかしながら本書は「分析・批評」の書ではなく、「ルポルタージュ」であり「事実報告」の書であって、Boba氏の期待は、むしろ今後の専門家の研究に委ねられるべきでしょう。私達はまず、この痛ましくも重い「現実を直視する」ことから始められなければならないのであり、本書はそのために書かれた本なのだと思います。

『修道士から転じて心理療法士になったA・W・リチヤード・サイプは言う。
「これは大変な難問です。なぜ司祭たちが、未成年者に対して性的な振る舞いをするのか。答えは、〝現代社会の反映〟で片づけてしまうより、はるかに複雑なのです。人々は、複雑な要素が絡み合う現実と向き合うのを好みません。しかしこれは、複雑な要素が絡み合う現実なのです。原因は、ひとつじゃありません。司祭職は、権力があり忍耐強く清らかで生産的な文化であるとともに、深い深い闇の面を抱えていると、理解せねばならない」』(本書P255)

私たちは、安易に他者の与えてくれる正解を求める前に、まず自身の目で現実を直視なければならない。そして、それをすれば、イヤでもまず自分の頭で、その謎を問うことでしょう。クリスチャンならば「神よ神よ、なぜ彼らにあのような罪を許し、多くの子供たちが苦しむに任せたのですか? 私たちは、この忌まわしき罪を犯した者たちを、どのように裁き、どのように赦せば良いのでしょうか?」と真剣に問うことでしょう。
しかし、いずれにしろ、イエスの教えた「罪人への赦し」は、ロウ枢機卿がしたような「事件の隠蔽」や「誤摩化し」ではありえません。それは所詮「アメリカ人初のローマ法王」の地位をその射程内に入れていたロウ枢機卿(ヨハネパウロ二世の側近)の「保身」のための、方便としての「教会の権威」防衛意識でしかないからです。

ボストンは、アイルランド系移民が街を形成した同質性の高い、いわゆるムラ的な側面の強い街、市民の三分の一がカトリック信者だというアメリカでも有数のカトリックの街です。当然、この事件をスクープした「ボストン.グローブ」誌の地元出身の記者たちも、そうしたカトリック信仰・文化のなかで育ってきており、熱心な信者ではなくても、心のどこかにカトリックへのシンパシーを感じていました。それが事件を追って被害者との面談をくり返す中で、被害者たちと同様に、決定的に裏切られたと感じたのです。
映画版の方では、マイク・セレンデス演ずるマーク・ラファロ記者が、後半で同僚に次のように苦しい胸のうちを吐露します。
「俺も子供の頃は教会に出入りしてたんだ。行かなくなった理由はつまらないことさ。でも、心のどこかで、いつかは俺も教会に帰っていくようになるんじゃないかと思ってた。それが決定的ぶち壊された」(評者の記憶に基づく)

私はクリスチャンではないし、今は信仰者ですらないけれども、ラファロ記者と同様、心のどこかで「帰るべき場所」を求めている潜在的信仰者だからこそ、信仰に興味を持ち続け、キリスト教にも批判的ではあれ興味を持って研究しているのでしょう。

果たして神は、そんな「神の正義を信じる人たち」と「自分たちの信仰を正義だと信じる人たち」の、どちら側に立っているのでしょうか?

私は是非、自身をクリスチャンだと明かした上での、クリスチャンの勇気ある意見を聞きたいと思います。
そのためにも、多くの日本人クリスチャンに、本書を強くお奨めしたい。カトリックだけではなく、プロテスタント系信者にも。
権威あるキリスト教系出版社が刊行する本の中だけに「神の真実」があるわけではない、のではないでしょうか。

 2016年4月21日(初出)

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 ーー ボストングローブ紙〈スポットライト〉チーム著『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』Amazonカスタマーレビュー
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・ 確信的保守主義政治史学者による転向左翼的保守主義教皇の擁護論
 ーー今野元『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』Amazonカスタマーレビュー
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 一一 若松英輔『吉満義彦一一詩と天使の形而上学』Amazonカスタマーレビュー
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・ コップの中の神学論争
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言葉の螺鈿細工による奇跡の匣 ーー 竹本健治『涙香迷宮』

 投稿者:園主メール  投稿日:2017年 2月10日(金)11時03分23秒
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言葉の螺鈿細工による奇跡の匣
ーー 竹本健治『涙香迷宮』

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「面白い」などというありふれた言葉の対象とはならない、脅威の一書。

小説は「面白くなければならない」というのは、俗説である。
実際、人が何を面白いと思うかは千差万別であり、面白さとは実質的に内容規定など出来ず、せいぜい「知的に快感を惹起する特性」というくらいのことしか言えない。したがって、昨今流行の「通俗的娯楽性」だけが面白さではない。人によってはピカソも面白いし、別の人にとってはホーキングが面白い。

そうした意味でなら本書も「面白い」のだが、その面白さは「超人的に圧倒的なもの」として、「面白い」という言葉を超えてしまっているところがある。
ここに差し出されたものは、名匠の超絶技巧によって造られた精妙巧緻・至微至妙な、七色に変幻する言葉の螺鈿細工、つまり「いろは歌」暗号による驚異の匣である。

読者は、本書を手にとって、ただただ圧倒されるといい。
「こんなものを書ける人が存在したのか」と、目眩をともなう溜息を禁じ得ないであろう。

本書は間違いなく、日本の本格ミステリ史に残る、暗号ミステリの歴史的傑作である。


 2016年3月19日(初出)
 

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