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★アリョーシャ&kamuiさん
>私が連絡を取るのを待たずに、定期的に現状報告をなさって下さいまし(ビシッ)。
さてさて、鬼の監察官に定期報告でもショーかなー。
体調は元気元気!週2〜3回の仕事をこなし、あとは音楽と読書三昧ですのん。
ホランドさん推薦の『幽霊人命救助隊』がドツボり、一気に読み進んでます。
「成程、それで、僕にこの本を…」
読書感想文はもう少しまってくださいねー。
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『良人の部屋』でのアリョーシャの「濃い情」に依拠した𠮟咤に、僕自身も励まされています。
そそ、遅読ながら、サイードの『知識人とは何か』も中盤(110項)にさしかかってますが、
kamuiさんの実践にも深く通底するような本ですよ。
「よっ!言いえて妙なり!」
と叫びたくなるよな断章に満ちています。何よりペダンティックな文章じゃないし、具体例(知識人とその生き様)を提示して、「知的態度」について論究しているんで、比較的わかりやすいです。無論、安直に判った気になるのが一番危険ですが。。。
サイードは、一般的に「職業人」として、認知される「知識人」、つまりアカデミックな分野で、権威的な肩書きを持つ人々ではなく、「知的な態度とは如何なる様態を指すのか」という点に絞られて書いています。
サイードのいう「知的な態度」を十把一絡げに語ることは出来ませんが、他者との堕落した共生(結託)を断固として峻拒し、結果として殆ど、どん底ともいうべき貧困生活を微塵も恥じない、大西巨人が如くの「かっこ良さ」に相通じる断章に遭遇すること暫しで、赤ペン持っては、カキカキしています。
サイードは、ジュリアン・パンダを援用して、知識人と一線を画する存在として、『俗人集団』を挙げ、『彼らは、物質的な利益とか個人の栄達に関心をよせるだけでなく、機をみるに敏で、世俗の権力におもねる凡庸な人たちである』(p30)とし、それに対置するかたちで、知識人を『形而上的で高尚な理念に衝き動かされつつ、公正無私な真実と正義の原則にのっとって、腐敗を糾弾し、弱きを助け、欠陥のある抑圧的な権威にいどみかかるときなのだ』(p30)としています。
さてさて、これって、まさにkamuiさん(知識人的態度)と経営陣(俗人的態度)との対決じゃないですか?
なんか実に今回のkamuiさんの闘いが如何に知的奮闘に基づいた行動かよく整理され理解できます。
歯に衣着せぬ言論を展開するアリョーシャにも重なる断章も沢山散りばめられていますよ。ここでは、「知識人」に特化して引用しますが、非常に理解しやすい言葉で記述されています。しかし、下記の引用にもあるように、知識人とは『安易に理解』されるような『甘い罠』に引っかからないよう努める個人をいうのでしょう。ですので、いずれも箴言でありながら、実践するということが如何に困難であるかは、kamuiさんの闘いをみるに明らかですね。
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『知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを、表象=代弁し肉付けし明晰に言語化できる能力に恵まれた個人』(P37)
『聴衆に迎合するだけの知識人というものは、そもそも存在してはならない。知識人の語る言葉は、総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快であったりするものだのだ。』(P39)←まさにアリョーシャ/笑
『知識人の表象とは、懐疑的な意識に根差し、たえず合理的な探求と道徳的判断かへと向う活動そのものである。またそうであるがゆえに、知識人たらんとする個人は人々の記憶に刻まれたり、危険な目にあったりするわけである』(P50)
『知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間で』(P66)
(アドルノを援用して)
『(知識人の表象の核には)、どのような場所にも安住できず、成功という甘い罠にはまらないように警戒を怠らない知識人の意識である。(略) 成功した状態とは、安易に理解されることのないように意識してつとめる状態をいう』(P99)
『知識人のいだく希望とは、自分が世界に影響をおよぼすという希望ではなく、いつのひか、どこかで、誰かが、自分の書いたものを自分で書いたとおりに正確に読んでくれるだろうという希望なのだ。』(P100)←アリョーシャの心象そのものじゃないかな。
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