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『蟹工船』と日本共産党

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年 7月19日(土)23時52分7秒
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   みなさん、こんばんは! 小林多喜二によるプロレタリア文学の名作『蟹工船』なら、誰もが教科書で習って、タイトルくらいは知っていますよね。ところが、その「読まれざる名作」が、ご承知のとおり、昨年後半からこっち、大ベストセラーになって、出版社各社が文庫本を復刊・増刷しているというんです。

 この『蟹工船』ブームは、どうやら若者プレカリアートの象徴的存在になったと言ってよい、元「ミニスカ右翼」雨宮処凛が、対談かなにかで、今の派遣社員の若者がおかれている労働環境を、小林多喜二が『蟹工船』に描いた悲惨な状況に見劣りするものではない、というようなことを話したのが切っ掛けで、若者の間でにわかに脚光を浴び、書店の即応的な売り込みも功を奏して、人気作家 東野圭吾(テレビドラマ『ガリレオ』の原作者)の新作とも肩を並べるほどの、本物の大ベストセラーになってしまった、という経緯のようです。

 で、話はここには止まりません。本年7月12日付けの『読売新聞』には、『「蟹工船」追い風』『共産党員9000人増』という見出しで、次のような記事が出ました(下は、前日の「gooニュース・YOMIURI ONLAIN」からです)。



『   蟹工船ブームも背景に? 共産党の新規党員9千人増加

                         2008年7月11日(金)21:13


 共産党の第6回中央委員会総会が11日、党本部で始まり、志位委員長は、新規党員が昨年9月の第5回総会時から約9000人増えたことを明らかにした。
 同党によると、党員数は1990年の50万人をピークに下落に転じ、2000年以降は38〜40万人で横ばいで低迷が続いていた。しかし、昨年9月の第5回総会以降、毎月連続して1000人規模で増え、計9000人増加したという。
 志位氏は幹部会報告で「(小林多喜二の)『蟹工船』が若者を中心にブームとなり、マルクスに関心が集まり、テレビ局は『資本主義は限界か』という企画を立てる。共産党がこれまで体験したことのない新しい状況だ」と指摘。さらに年内に2万超の新規党員を獲得する目標を掲げた。(以下略)』



 『1990年の50万人をピーク』に『2000年以降は38〜40万人』で横ばいって、たったの10年で5分の1にあたる党員を減らしたってことでしょう。これはハッキリ言って、激減ですよね。でも、その明白な低落傾向に歯止めを掛けたに止まらず、逆に昨年9月以降の1年弱で9000人増と言うんだから、これはこれですごい。

 新聞が『蟹工船』の影響か、って書いていますが、たしかに思いつく要素は、それくらいしかないですよね。共産党が、なにか目新しいことをやったなんて話は、とんと聞きません。

 つまり、推測ではありますが、――長らく「どの政党にも期待できない」と諦めていた若者たちが、『蟹工船』に収められた同作や「党生活者」などの作品を読んで、初めて、昔の「革命政党たる日本共産党」の姿を目の当たりにし「もしかすると、共産党なら、世の中を変えられるかも知れない」という期待を抱いて、共産党に入党しはじめた、ってことなのではないでしょうか?


 でも、もちろん多くの大人たちが考えているように、問題は、そう簡単なものではありません。平たく言えば、今の日本共産党と昔の日本共産党は、同じではない。「暴力革命」路線についての「綱領」ひとつ取ってもみても、ハッキリと変わっているはずです。
 無論、今のご時世に「暴力革命」なんて、決して歓迎されるものではないですが、虫けら扱いで使い捨てにされている若者たちならば、「暴力革命」に希望を見い出すことだって、あり得ないことではありません。むしろ、そうした過激路線に惹かれたからこそ、社民党や民主党ではなく、共産党だったということなのではないかと疑われる。

 ただ、今の共産党が、こうした若者の期待にどれだけ応えられるかというと、それは大いに疑問だと言わなければなりません。

 昨年のベストセラーで、元日本共産党のナンバー4であった筆坂秀世の『日本共産党』(新潮新書)によれば、戦後の日本共産党は「獄中不転向の闘士」である「天皇 宮本顕治」の独裁(トップダウン)体制が、宮本の老齢で身動きが取れなくなるまで続き、その後は、宮本にまったく頭の上がらなかったナンバー2の不破哲三 前中央委員会議長が、党付属シンクタンクである「社会科学研究所所長」に就いて、表面上は一線を退いた現在も、宮本直伝の独裁体制を堅持していると言います。

 つまり、そんな硬直した組織に、イマドキの若者がどこまでついてきてくれるのか、ということですね。それに、少なくとも昨年夏までは、党員の高齢化が進み、地方末端組織の平均年齢は60を超えるというようなことも書かれていましたから、そこに「若い血」が入るのは、組織として喜ばしいことではあるけれど、40万人の年寄り組織に約1万人の若者が入ったということは、「41人クラスに、若者はたったの1人」という割合になってしまいます。もちろん、党員の増加は、地方よりも都会中心なんでしょうが、それにしたって、そんなに極端に割合が変わるわけではありませんから、そんな大勢の年寄りの中に、若者がポツンと入って、本当に活躍することができるのか、という疑問が浮かんできます。


 もちろん、ボクは「だから共産党には期待できない」と言いたいのではなく、若者が大量入党したこの機会に、共産党は旧弊な部分、改めるべき部分を改めて、若者たちが生き生きと活躍できる組織になってほしいと思うんですね。
 「言うは易く、為すは難し」だというのは重々承知していますけど、この機会を逃したら、もうホントに、共産党が復活する機会は、永遠に遠ざかってしまうかも知れません。

 ボクは日本共産党の支持者じゃないけど、共産党がホントに庶民のために闘える政党になるのであれば、これを応援するのに吝かではないつもりなのです。だから、どうかこの千載一遇のチャンスを、自ら潰すようなことだけはしないでくれと、そう祈らずにはいられません。





 さま

私も抱えた常なる自らへの私憤

実践としての知的態度

> さてさて、鬼の監察官に定期報告でもショーかなー。
> 体調は元気元気!週2〜3回の仕事をこなし、あとは音楽と読書三昧ですのん。
> ホランドさん推薦の『幽霊人命救助隊』がドツボり、一気に読み進んでます。

> 「成程、それで、僕にこの本を…」

> 読書感想文はもう少しまってくださいねー。


 「一気読み」をなさっているということは、最近、感じることのなかった種類の「面白さ」を感じていただけたということですよね!

  やっぱり、難しい本ばかり読んでたから、ちょっとノリが悪かったのであって、必ずしも心身の不調から来る無感動ではなかったということなんじゃないでしょうか。すこし安心しました(^-^)。


> サイードは、一般的に「職業人」として、認知される「知識人」、つまりアカデミックな分野で、権威的な肩書きを持つ人々ではなく、「知的な態度とは如何なる様態を指すのか」という点に絞られて書いています。


 つまり、「世間で言うところの、知識人」ではなく、「真の知識人とは」という話ですよね。


> 『聴衆に迎合するだけの知識人というものは、そもそも存在してはならない。知識人の語る言葉は、総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快であったりするものだのだ。』(P39)←まさにアリョーシャ/笑


 そうですね。サイード自身、アメリカで比較文学の教授をしていながら、パレスチナの声を代弁したために、イスラエル・ロビーが巨大な影響力を持つアメリカでは、時に「テロリスト教授」と誹謗され、「キチガイ」呼ばわりされることも、決して珍しくはなかったそうですからね。

 真実を語ることは、時に、――と言うよりも、しばしば、多くの「既得権益者」の怒りを買うんだ、ということでしょう。
 もちろんそれは、少数の権力者や有力者ばかりではなく、その場の「多数派一般人」であることも珍しくない。

 例えば、少数犠牲者の上に成立した、一見「豊かで平穏な社会」について、「じつは、その豊かさや平穏さは、少数犠牲者の存在から目を逸らすことによってのみ保たれているものなのだ」なんて「真実」を語り、告発したりすれば、その「真実を知り語る人=知識人」が、多くの人に憎まれるのは必定でしょう。「本当の事」を言うからこそ、憎まれるんです。


> 『知識人のいだく希望とは、自分が世界に影響をおよぼすという希望ではなく、いつのひか、どこかで、誰かが、自分の書いたものを自分で書いたとおりに正確に読んでくれるだろうという希望なのだ。』(P100)←アリョーシャの心象そのものじゃないかな。


 そうでしょうね。上で言う「多数派」の承認支持を取りつけるためではなく、そこから排除された「少数派」を励ますものとして発せられる「真実の言葉」。それが、サイードの言う「知識人」の言葉なのではないでしょうか。



 Keenさま

 ご無沙汰しております。お元気でいらしたようですね(^-^)。

おおっ!

> 園主さまの近刊情報に思わず飛び込んで来てしまいましたっ!
> 中井さんの「新刊」が出るんですね〜……じーん。
> 楽しみにしています♪


 中井英夫の新刊『幻戯』の刊行は、すこし遅れて8月5日となりましたが、それにしても、もう間もなくですよね。
 Keenさまなら、当然ぜんぶ読んだことのある作品ばかりでしょうが、今回のは編集構成に凝ったものみたいですから、どんな切り口の中井英夫ワールドが展開されるのか、そこが見どころと言えるでしょうね。


> で、近日中に『キララ、またも探偵す。』の感想文を書こうと思っています。園主さまにはずっと前に予告していたことですが……サッカーと家庭の両立で手一杯でしたので、これから書きます〜。


って、ことでしたが、そうこう言っているうちに、竹本健治の新刊が出ました!


 『せつないいきもの』(光文社ノベルス)


 「牧場智久の雑役シリーズ」第2弾で、「青い鳥、小鳥」「せつないいきもの」「蜜を、さもなくば死を」の3編が収録されています。

 それにしても、竹本さんって、タイトルをつけるのがうまいですよね。―― でもなあ、このシリーズで、どこまで「せつない青春」を描けるのやら・・・。表紙の写真や帯の惹句は、完全にそっちを思わせるんだけど、信じていいのだろうか?


 さて、中井英夫・竹本健治ときたら、3人目はもちろん、笠井潔!


>> ・ 笠井潔『青銅の悲劇 瀕死の王』(講談社・7月28日頃)
>> 「本格ミステリ大賞」を受賞の、あの凡作『オイディプス症候群』につづく、シリーズ第6弾だそうでございます。

> 出版順序ではそうなりますが、内容の方は時代設定からもわかるように、いわゆる「駆シリーズ」の後日談ということになります。
> 『メフィスト』誌上で部分的に読んでいるのですが、例によって大幅に加筆・訂正されているでしょうから、連載当時に「ええ〜っ!?」と感じた部分がどうなっているのか、見届けようかと思います。
> しかし凶器のレベルの厚さって……置き場所に困るし、お値段も張りそうですねえ。私も図書館にリクエストしてみようかな〜、まあ、同士が誰か先に入れてくれるでしょうが。


 たしか中井さんのエッセイに「老いたるアリョーシャ」ってのがありましたけど、「歳をとったナディア」に「歳をとった矢吹駆」が「日本で」ってところが、それだけで、なんだかなあー・・・と。


洞爺湖の風景

> 洞爺湖サミットが閉幕しました。
洞爺湖といえば→青函連絡船洞爺丸→洞爺丸沈没事故→中井英夫『虚無への供物』(講談社文庫)と、最近、洞爺湖という文字を見るたび、聞くたびに連想していたのでした。

> というのも、先月秋葉原で起きた無差別殺傷事件について、精神科医の斎藤環が読売新聞のインタビューに答えた記事 『「オタク」なりきれず孤独感』に、『虚無への供物』の影を見たからなのです。


 「秋葉原通り魔事件」と『虚無への供物』を、斎藤環の「過酷な現実から逃避しそこなった者の犯罪」という見地から結びつけたご意見ですね。

 「現実と虚構」「観念と現実」といった、世界解釈における「ニ分法」というのは、ボクたちが考えているほど、確たるものなのか?
 ボクたちは、自分だけは現実を見て、現実を生きているつもりでいるけれど、ボクたちが見ている現実というのは、いつでも「限定された現実」であり、それがまたしばしば「環境管理型権力」によって「ソフトに管理され、気づかぬ視覚限定を通して見た現実」であったりし、その意味ではそれは「編集された現実としての虚構」だとも言えるのではないでしょうか。

 「現実と虚構の交錯するフィクション」である『虚無への供物』が、読者をクラクラさせるのは、笠井さんも言ってたとおり、その一瞬、読者に「現実」を垣間見させる力を持っているからなのかも知れません。



 kamuiさま

小さな覚悟と大きな未来

> 世間の評価など気にせずに、筋を通した生き方をすればするほど孤立してしまいますが、それはさほど気にならなくなりました。だから、結果など恐れずに自分の信念に従って行動できればいいのですが、世間のぶ厚い壁に容赦なく阻まれてしまいます。
> 「もっと馴れ合いましょう」と誘惑する世間へのレスポンスとして、「私は私の道を行く」と言い切っても、相手にはそれが開き直りとしか受け止められていない寂しさ。拒むというより、じゃれあうのが嫌いなだけなのですが、それが私を孤独へ向かわせてしまいます。どこまで行ったら出口が見えるのでしょうか。
> この先、たとえ一人だとしても、現実にはしっかりと目を向けて対処していき、決して観念の中だけで自己満足するような人間にはなりたくありません。


 たぶんこれは、ご自分に言い聞かせている言葉なのでしょう。そう簡単に、ここまで覚悟できるものではないですからね。むしろ、ホントの気持ちは、なにか事あるごとにグラグラ揺れて、一進一退をくり返しているのではないかと拝察します。

 でも、そうした動揺や迷いは、決して恥ずべきものではありません。今、kamuiさんがおかれている状況におかれれば、誰だってそうなるんですから。
 だから、大切なことは、現にそんな過酷な状況を生きているという、その事実なんだと思います。その事実の積み重ねが、kamuiさんを少しずつ成長させているのだと、ボクは確信しています。



 園主さま

平和運動家論争(増補改訂版)

掲示板「田中荘新館」への初投稿


 掲示板「田中荘新館」の方での議論は、どうやら片づいたみたいですね。

 園主さまが、あちらの管理人であるinti-sol氏に「貴方は『問答有用』掲示板の管理人である「問答有用管理人団」の一人、またはそのものなのでしょう?」と質問したところ、inti-sol氏は「それに答える必要はない」と回答を拒絶しましたが、やはりinti-sol氏が(少なくとも過去には間違いなく)「問答有用管理人団」の一人であったことが、tpkn氏によって暴露されたんですからね。――つまり、熊谷伸一郎氏とその周辺は、例外なく、その「隠蔽体質」を共有しているというのがハッキリした、というわけです。

 ちなみに、そんな「貴重な証言」をくださったtpkn氏も含めて、やはりあちらの掲示板の住人というのは、敵も味方も似た者どうしって感じは否めません。悲しいかな、あちらの人たちには、人間としての「品格」が欠落しています。どっちもどっちで、匿名だと「恥知らず」になれる人たちなんですね。



『 議論をするときは、論旨と論拠とを明確に述べ、当否の判断はこれを第三者に任すということであって欲しい。論旨と論拠とがハッキリ、しっかりしておれば、議論は自ずからにして決する。その際他を貶しめ、己れを誇称するような言葉は附け加えない方が却って目的に適うと思う。
 往年河上肇、福田徳三の両氏が、たしか資本蓄積論について論争したことがある。この時、河上氏はその論文中で、しきりに自分の議論の優越を主張し、論争は自分の勝ちだといった。それに対して福田氏は、勝ち負けは行事がきめる。相撲取り自身が言うべきことではない、といった。
 議論全体の当否は別とし、この点だけについて言えば、福田氏に賛成である。仮りに土俵上の力士が、行事の軍配を待たず、揉み合いながら、或いは土俵を割りながら、自分で「勝った、勝った」と連呼したとしたら、可笑しなものであろう。
 しかし各種の論争文を見ると、今日でも、議論をしながら自分で勝名乗りをあげているものが少なくない。そうしてその効果は多くの場合、期待に反する。それは自信溢流の結果であるか、或いは却ってインフェリオリティ・コムプレックスの変形的表現か。いずれにしても無益なことである。』

             (小泉信三「論争と勝名乗り」全文、『平生の心掛け』所収)



 ちなみに、「自信溢流」とは「自信過剰」、「インフェリオリティ・コムプレックス」とは「劣等感」のことです。



『 インフェリオリティー・コンプレックス

心理学で、劣等感のこと。コンプレックス。
劣等感
inferiority feeling ; inferiority complex
 容姿,体力,知的能力,性格,血筋,財産,社会的地位などの点で,自分が他者よりも劣っているという感情である。客観的に他者よりも劣っているということよりも,主観的に劣っていると思い込むことにより生じる。劣等感がコンプレックスを形成すると劣等感コンプレックスとよばれる。アドラーは劣等感(コンプレックス)と優越感(コンプレックス)を相互補償的な関係で捉えた。』



「夢見る批評家」が見落とす「現実」


 要するに、EQ3氏は、昨日今日の知り合いじゃなく、初めて読まされたわけでもない園主さまの論文における、『』(引用符)と「」(強調符)の使い方を混同し、見当違いな批判をした、ということですよね。


 でも、これだけじゃあ、ちょっと閲覧者のみなさんに不親切だから、ボクが少しだけ補足しておくと、――ここで園主さまに批判されている、EQ3氏の論文「鮎川哲也『青いネッカチーフ』――知られざる実験作」の主旨は、一般には、そして当たり前に読めば「駄作・失敗作」としか読めない鮎川哲也の『青いネッカチーフ』に関し、あえて過剰な「裏読み」を施すことで「(単なる駄作・失敗作ではなく)実験作だったと理解することも出来る」と主張した論文なんですよね。


 で、こうしたご自身のスタンスを、EQ3氏は『もちろん、これが深読みのしすぎで、(…)という考えが正しいという可能性もあるだろう。しかし、より楽しいのは、(…)夢のある見方がどちらなのかは、言うまでもないはずである。』あるいは『もちろん、これが牽強付会で、(以下、ほぼ同文)』と書かれた。
 つまり「当たり前に失敗作だと理解するより、じつは実験作だったのだと考えた方が、夢があるし、前向きだろう」と主張なさったんですね。

 それに対し、園主さまは「それは、夢があるとか、前向きだとか言うことではなく、物事を見たいように見る、自堕落な自己肯定でしかない。そんなことだから、論敵の論文を客観的に読むことが出来なかったのだ」と批判なさったわけなんですね。


「現実の殺人」と「虚構の殺人」の相克と一致

> でも、こう言うと、必ず「しかし、法律の是非を個々人が判断して、それに従ったり従わなかったりしたら、それらは法律として機能しなくなり、社会は無政府状態の混乱に陥るしかない」なんて言う人が出てくるんだな。――しかし、これは間違いだ。

> なぜならば、国法というものは、国家が独占する暴力(国家権力)によって国民に「強制されるもの」だからこそ、99%の国民には「抗い得ない強制力」として機能するんだ。
だから、ハッキリとした悪法に抗える者もごく少数なら、悪法とは言えない法律にあえて抗うような酔狂な人は、望んだって、なかなか出てはこない、ということになる。

> だからこそ、悪法だと思えば、抗うべきなんだ。抗うべきであっても、実際に抗える人は稀だからこそ、「悪法とは抗うべきもの」とまで言っておいても、なんら問題はないんだよ。
> 国民がバラバラに、国法に反して行動する「アナーキーな状態」なんて、望んだって、なかなか実現するものではないんだ。――反抗者は、いつだって少数派なんだよ。


 「悪法に従うことは、悪である」という、ご自身の考え方についての注釈です。


 そうですね。権力者の側、体制の側の人間というのは、何かあるとすぐに「そんな権利を認めたら、みんなが好き勝手やって、世の中がめちゃくちゃになってしまう」なんて言いたがるけど、人間というのは、基本的に「社会的な動物」であり、善かれ悪しかれ「個人主義」を貫けない「群れの動物=大勢順応型」なんだから、よほど現状がひどいものでないかぎりは、そうそう『万人は万人にとって狼である』(ホッブス)みたいなことにはならない、ということですよね。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。
 
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