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☆園主さま
>まさに、私たちの今の現実は、『虚無への供物』が描いた「現実の殺人と虚構の殺人の相克と一致」という問題を、そのままのかたちで再現しはじめたのかも知れません。
さすがは園主さま、うまいこと言うなあーと思っていたのでした。さっき書き忘れました、ごめんなさい。
いつも私がモヤモヤと、うまく言語化できないでいるところの思いを、園主さまは批評家の言葉で簡潔に表現して下さるんですよねー。おかげさまでスッキリできます。(^-^)
☆ホランドくん
>「秋葉原通り魔事件」と『虚無への供物』を、斎藤環の「過酷な現実から逃避しそこなった者の犯罪」という見地から結びつけたご意見ですね。
私も斎藤環の記事を読んだ当初はなるほどなあ、とは思ったものの、そこから即座に『虚無への供物』を連想したわけではありませんでした。あれ、この感じはどこかで知っているぞ、なんだったっけ……ああ、そうだ!てな具合でした。
つまり『虚無への供物』が予言書のごとくに、今日の事件や人々のあり方を内包していると感じたわけです。
> 「現実と虚構」「観念と現実」といった、世界解釈における「ニ分法」というのは、ボクたちが考えているほど、確たるものなのか?
> ボクたちは、自分だけは現実を見て、現実を生きているつもりでいるけれど、ボクたちが見ている現実というのは、いつでも「限定された現実」であり、それがまたしばしば「環境管理型権力」によって「ソフトに管理され、気づかぬ視覚限定を通して見た現実」であったりし、その意味ではそれは「編集された現実としての虚構」だとも言えるのではないでしょうか。
私が最近よく見ているNHK『爆笑問題のニッポンの教養』という番組で、松岡正剛が出演した「世界は編集されている?」という回がありました。公式サイトの内容紹介では、個性とか概ねその良い面について書かれていますが、確か番組内では情報操作の危険についての言及もあったと記憶しています。
先日、友人と全く同じモノ(シチュエーション)を見たにも関わらず、互いの認識がまるで違っていたことに驚いた、ということがありました。自分にとっての現実は、他人のそれとは別物だと思い知らされました。
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