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★アリョーシャ
お久しぶりです。
これだけ間をあけてしまったのには、それなりの理由があります。
年始にアリョーシャから長文の激励&アドヴァイス・メールを頂戴して、
”「言葉の運用」に厳格であることこそが、自他共に誠実さを表すことなんだ”
と自分に言い聞かせるうちに、何も書けなくなりました。
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
最もベタなウィトゲン・シュタイン哲学の命題ですが、
むろん、僕は彼の深甚な哲学の真意を心得ているわけではありません。
しかし僕は、この命題に反駁するように、多くの「語りえぬもの」について
いかにして「わからん」のか「沈黙」を破り、
敢えて公けに「語る」勇気と気概を持たなくてはならないのかもしれません。
「完結した結論」を提示しようとする努力から何も書けない自分より、
未熟ながらも「思考の過程」を恥をかきながら書けるようにならなければ。
幸い僕にとって「花園で書く」という行為は、
取りも直さず、アリョーシャの「情の濃い指弾」に晒されることになりますので、
少なくとも、僕に自己修正能力(反省力)が微塵でもあれば、
ささやかであっても、成長を期待することが出来るでしょう。
ただ悲しいのは、推敲を心掛けて自らの文章を客観的読者として目にするとき、
その「凡庸な退屈さ」に反吐がでるのです。
それもこれも、意識下に秘された「過大な自尊心」と「過剰な自意識」ゆえでしょう。
といのも僕には「私は何者かである(筈だ)」という鼻持ちならない選民意識が確かに存在し、
結局「私は何者で無かった」と認めざるを得ない根拠の数々にアタマをもたげるのです。
どだい大したことが書けない人間なのだから、
抽象化された観念や想念ばかりに耽溺してないで、
もっと身近な生活の話から僕は書き始めることが大切でしょう。
だって身近な生活の一瞬一瞬にこそ、
自らを問われる現実に即した思想的課題が山積している筈ですから。
「どれだけ本を読んだか」というよりも、
「いかに現実を生きたか」のほうが、遥かに人間の真贋を決する問題だと思うのです。
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