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みなさま、私、先日『名のみ語り継がれてきた傑作』と呼ばれた本格ミステリ、ヘレン・マクロイの『幽霊の2/3』(創元推理文庫)を、新訳文庫の刊行を機に読みました。ちょうどそれを読んでいる最中、東京から古書目録『月曜倶楽部』35号が届いたのでございますが、そこには某古書店が『幽霊の2/3』の初訳単行本(昭和37年)を、なんと4万円で出しておりました。
昭和37年(1962)と言えば、私が生まれた年でございまして、この度の新訳が刊行されるまでに約半世紀をけみしております。この長いブランクは、いったい何を意味するのか? つまり『幽霊の2/3』は、不遇の傑作なのか、それとも読めないが故に過剰な評価をうけているに過ぎない作品なのか? それにしても、4万円出してでも読もうかという人がいる以上、それなりによく出来た作品なのではないか? ――そんな期待と不安をもって、本作を読み進めたのでございます。
その結果はどうであったか? いつもどおりに結論から申し上げますと、たいへん丁寧に作られた本格ミステリである、けれども、今どきの一般読者にはまったく物足りない、本格ミステリマニアだけがことさらに評価したがるであろう、善くも悪くも「通好み」作品であり作品に過ぎなかった、といったところでございます。つまり、この作品の翻訳本が約半世紀にわたって公刊されなかったのは、商業的にみれば、致し方のないところであったということなのでございます。
お話は、ある人気小説家を囲むこじんまりとしてパーティーで、その小説家が毒殺されるという、一見したところは典型的な「フーダニット」「ハウダニット」の古典的探偵小説、つまり「誰が(犯人)」「どのようにして(手段)」毒殺を敢行したのかという謎を読者に問う作品のように見えるのでございますが、実はさにあらず。本作の真の勘所は「人気作小説家の正体」にあるのでございますが、私がさほどの本格ファンではないせいもあってか「いつになったら、殺人事件の状況分析・推理に展開が見られるんだろうか」と思って読み進めているうちに、小説家の身元に関する情報が少しずつ語られてゆき、最後は、人気小説家の殺害をめぐる「関係者のすっきりしない言動の謎」が、人気小説家の正体が判明することで、すっきりと解きあかされるという結末を迎えるのでございます。つまり、この作品は「フーダニット」「ハウダニット」ではなく、じつは「ファイダニット(なぜ殺したか=動機)」の作品であり、「小説家の正体」こそが事件の核心だったのでございますね。
たしかに、謎が解きあかされ、この作品が「ファイダニット」の作品だとわかって後で作品全体を見渡すと、伏線がきちんと張られている、たいへん丁寧に作られた本格ミステリであるということがわかるのでございますが、――しかし、冒頭から人気小説家をめぐる関係者それぞれの思惑が順に描かれていき、パーティーの席で小説家が「手段不明の毒殺」に遭ったとなれば、一般読者ならずとも普通の本格ミステリ読者ならば、その「フェアプレイ」への期待からして、「フーダニット」「ハウダニット」の作品であることを期待し、その点に着目しながら本作を読むのは当然のことであり、当然の(作者への)期待だったと言えるのではないでしょうか。
ところが、作者はその「読者の当然の期待」を裏切って、「よく出来たファイダニット」を書いた。この結果にたいして多くの読者が「(予想外れ、ではなく)期待外れ」を感ずるのは当然で、言わば「日本料理を食べに入った日本料理店で、最高のフランス料理を供されたとしても、それでは納得がいかない」というのと同じようなことなのでございます。
もちろん、この作品を「フーダニット・ハウダニットに見せかけた、ファイダニットだったのであり、作者は巧みに読者を欺いただけであって、ミステリにおいては、その手際は誉められこそすれ非難されるべきことではない」というような擁護意見の提出も予想できましょう。しかし、本格ミステリにおける「欺瞞」とは、単なる欺瞞ではなく、「(一定の)フェアプレイを前提とした欺瞞」でなければなりません。つまり、「フーダニット・ハウダニットに見せかけた、ファイダニット」を書くのであれば、「作者は、この作品がフーダニット・ハウダニットだとは言っていませんよ。ファイダニットかもしれないという伏線は、十分に張っていますよ」という「欺瞞の正当化」がなされていなければならないのでございます。ところが、残念ながら本作では、それが十分になされていたとは言えず、まただからこそ、多くの読者には釈然としないであろう結末となってしまっているのでございます。
したがいまして本作は、クリスティーやクイーンのそれようなソツのない完成度の高い、一流の作品を期待する一般的な読者向きではございません。この作品を楽しめるのは、そういう誰でも褒められるような作品を褒めるのではなく、マニアにしか褒められないような作品を、「良いところ探し」をしてでも特権的に褒めて見せたいという、本格ミステリマニア向けの作品だと言うべきでございましょう。
そんなわけで、本文庫解説においてミステリ評論家の杉江松恋が、
『(※ 第七)章の終わりでウィリングがある問いを口にした瞬間に、『幽霊の2/3』という作品は上辺の装いをかなぐり捨て、真の姿を明らかにする。なるほど、そういう作品だったのか! 本書を一九五六年当時に読んだ人たちは、どれだけびっくりしたことだろうか。刊行から半世紀以上が過ぎた現在でも、まったく鮮度の落ちない謎だ。ここにきて物語は、まったく先の読めないものになる。序盤の展開から読者が立てた予想は、おそらく全部外れるはずである。』
と書いて、(全十四章の)第七章において、作者から読者に対し「フェア」に作品の方向性が示されるかのように書いておりますが、この書き方は正確ではございません。
たしかに、そのあたりから物語は「被害者である人気小説家の正体」をめぐる方向へと移行していくのでございますが、それは読者からすれば、それが「フーダニット・ハウダニット(=犯人は誰で、どのような殺害方法を用いたか?)」である結末に到るために必要な「ひとつの過程」に過ぎない、という印象しか与えないからでございます。つまり、「被害者である人気小説家の正体」をめぐる方向への物語の進展が、そのまま物語の真の姿である「ファイダニット(=なぜ殺したか?)」の方向性を十分に示すものにはなり得ていないのでございますね。
また、そんな不備な本格ミステリであるからこそ、本作は『ここにきて物語は、まったく先の読めないものになる。』、言い換えれば「物語半ばに到っても、真の謎の在りかを示す方向性すらが判然としない」ままで、しかも『序盤の展開から読者が立てた予想は、おそらく全部外れるはずである。』という、要はミステリマニアを含む何ぴとに対しても、初めから終盤まで「正しい推理の方向性が閉ざされたまま」の本格ミステリ作品だということになってしまうのでございます。
したがいまして、同じ文庫解説で、
『 誤解を恐れずに言ってしまえば、ヘレン・マクロイは、生涯を通じて評論家的な気質から脱却できなかった作家だ。(中略)創作と評論は執筆活動の両輪をなすものだったのである。
そうした傾向が、作家としての過小評価につながった可能性は否めない。マクロイは四十年以上に渡って創作を行ったが、長編は二十七と意外に少ない(結婚生活を優先し実作から離れた期間があったせいもある)。また、女性で初めてアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の会長を務めた重要人物でありながら、長編・短篇部門のいずれでもMWA賞を受賞しておらず、書評活動によって一九五三年に評論賞を獲得しているだけなのである。本国でもマクロイ単体での研究書は著されてはおらず、正当な評価がなされているとは言いがたい。「本の話」や「出版の話」をテーマとする『幽霊の2/3』のような作品は、彼女の特性をもっとも如実に示すものである。本書の刊行をきっかけに、とりあえずまずわが国でヘレン・マクロイの再評価は進むことを祈りたい。』
と持ち上げてみても、そこに「再評価の核となる実質」は、何も語られていないと申せましょう。
『正当な評価がなされているとは言いがたい。』とか『本書の刊行をきっかけに、とりあえずまずわが国でヘレン・マクロイの再評価は進むことを祈りたい。』などという「紋切り型の褒め言葉」は、自分は理解者であり褒めるけれども、自分がマクロイの再評価のために研究書を著するまでのことはしない(そこまで評価してはいない)と語っているも同然の、じつに無責任な「美味しいとこ取り」の域をまったく出ないものなのでございます。
そして、このような日本のミステリ評論家のマクロイ評価が、アメリカのミステリ作家やマニア以上に的確なものであるという根拠を、私は、杉江の解説はもとより、本作『幽霊の2/3』の中にも、ついに見い出すことはできなかったのでございます。
補足しておきますと、杉江松恋はこの「解説」における自分の評価が、多くの人に支持されない少数意見だと思って書いたのではないと存じます。たぶん「マクロイを読もうというほどの読者」にならば、共感支持される評価を語った、つもりなのでございましょう。そして、その見通しは極めてただしいと、私も斯様に評価いたします。
つまり、杉江松恋のマクロイ評価は、最初に申しました『今どきの一般読者にはまったく物足りない、本格ミステリマニアだけがことさらに評価したがるであろう、善くも悪くも「通好み」作品であり作品に過ぎなかった』本作を、『本格ミステリマニアだけがことさらに評価したがるであろう、善くも悪くも「通好み」』という側面においてのみ語ったものであり、その範囲においては正しかったのでございます。
どんな「ジャンル」にも、そのジャンルの中だけでありがたがられる批評というものはございまして、それはそれで、それなりの存在価値がございます。「本格ミステリ批評」もあれば「ハードSF批評」「美少女ゲーム批評」もある。「自由主義批評」あれば「社会主義批評」も「独裁主義批評」も現にございまして、それはその「ジャンルの中(圏域)」においては、おおむね好意的にうけとられ、ありがたがられ、商業的にも成立しております。
――しかし、批評というものは本来、「身内で頷きあう」ためのネタなどではなく、「自閉した内部の球体の外壁に亀裂を入れる、外部からの衝撃であり閃光」であるべきなのではないでしょうか。
またしかし、そのような批評は、商業ベースには乗りにくい。そういう冷徹な批評は、笠井潔風にいえば『市場のヤスリにかけられて』、商業ベースには乗らなくなってしまいがちなのでございます。そして、笠井潔自身「本格ミステリ界」での発言の場が減ったのも、新本格主流に対し「(否定的な)本音を語る」ということをしたから、「新本格」体制を支持する人々の形成する「市場のヤスリ」にかけられてしまったのだとも申せましょう。「市場」とは、斯くも正直なものなのでございます。
★ Keenさま
> Happy Birthday
> 園主さま、お誕生日おめでとうございます。
ご丁寧に、ありがとうございます。
> 今日は私が一番好きなサッカー選手であるトマシュ・ロシツキー(イングランド・アーセナル所属、チェコ代表)の誕生日でもあるのですが、彼は先月、ケガによる長期離脱から実に20か月ぶりに復帰しまして、今は元気にプレイしています。一時は引退説も流れたものでしたが、私もしつこく待っていた甲斐がありました。(^0^*
>
> 園主さまも近頃はネット上にはあまり姿を見せておられないようですが、光導入の暁には、批評活動も(ケンカも)カムバックされるのでしょうか?心待ちにしているファンも多いのではないでしょうか?
どうでございましょうか?(笑)
私もそろそろ歳でございますから、喧嘩をするのも少々面倒くさくなって参りました。もともと、相手には何も期待できないと承知した上での喧嘩だとしても、だからこそ、それをやるには非常なエネルギーが必要なのでございます。
まあ、私が喧嘩をしなくなった今も、私に変わるような人は、プロアマを問わず出現していないという事実ひとつ取ってみても、私がそうした意味では間違いなく「非凡」であったことは、証明されたも同然と言って良うございましょう。
最近では、千街晶之が同人誌上で笠井潔を批判して「黒千街」などと呼ばれておりますが、言い換えれば、まともな、真っ正直な批評は、プロにはできないという証拠なのでございます。
> 私たちのセカイ
> 蓮池透さんは、実にフェアで、視野の広い方ですね。蓮池さんのような特殊な立場ではなくても、私たちの普通の日常においても、このような見方に示唆されることは多いように思いました。
そうでございますね。
蓮池が『これまでは(※ 私が対話したのは)家族会や救う会の関係者といった、いわゆる「同じ陣営」の人たちばかりだったので、私には自由な対話というのはなかったのかもしれません。』と申しておりましたとおり、人は「垣根を超えて」対話しなければならない。たとえそれが「喧嘩のような論争」になったとしても、スピーカーのように一方的に自分たちの主張を垂れ流すだけの自己満足的状況よりは、それははるかに有意義であり批評的であり、人間的な言論だと申せましょう。
偶然ですが、今日書きました文章も、ポイントはそこにあるのであって「『幽霊の2/3』は、それほどの傑作じゃない」という点にはございません。しかし、党派意識に凝り固まった方は、そのように理解するのでございましょうね(笑)。
それでは、みなさま、おやすみなさいまし。
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm
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