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★ 淳さま
> 有り難う御座います。
> サーヴァントにならない為に。
> 時計の針を修正する
職場に入って1週間ほど経ったところでございますが、どんな具合でございましょうか?
まだ、右も左もわからず落ち着かない日々を送っておいでだと存じますが、それは誰もが通過する経路でございますから、あまり深刻に考えないで「何もかも時間が解決してくれる。馴れれば何とかなる」くらいに気楽に構えるようになさって下さいまし。
今日ご紹介した『反骨 鈴木東民の生涯』の中に、東民がオーストリアに移住した一人娘マリオンに宛てた手紙が紹介されております。前後の説明文と共にご紹介いたしましょう。(※ マリオンは、東民がドイツ人の妻ゲルトルートとの間にもうけた一人娘。日本で成長し、やがてドイツ系アメリカ人ウエルナーと結婚して一子ローラントをもうけ、その後オーストリアに移住した)
『 六八年六月、東民はオーストリアのマリオンにつぎのような手紙を送っている。ルビをふっているのは、外国暮しが長い娘への思いやりである。(※ ここでは漢字に振られた、ひらがなルビを省略しています。)
「ぼくは十七日に釜石に来ました。十八日から市会が開かれています。富士製鉄は釜石市と釜石湾を独占しようとしているので、わたしは富士製鉄とたたかっています。昨日、富士製鉄社長の永野重雄が釜石に来ました。たたかいははげしくなるでしょう。資本主義がどんなに人間の幸福をうばい、人間の生活をしいたげるものであるかは、今の釜石を見ればよくわかります。
ローラントのラテン語は心配する必要がないと思います。まだ若いのだから、勉強さえすれば、必ずよくなります。一年や二年の落第はなんでもありません。もし十年落第したら、他人よりも十年長生きすればとりかえせるでしょう。からだを丈夫にしてゆっくりと勉強することです。学生生活を長く経験することは人間の幸福です。いそいで大学を卒業しても、途中でくじけたり、死んだりしてはなんにもなりません。ローラントが大森の学校を飛び級したのは不幸でした。学問は金もうけとはちがうから、ゆっくりと勉強すべきものです。他人が一年で卒業するところを、二年なり、三年なりかかっても、すっかり学問を身につけることができれば、その方がどんなに幸福だかしれません。それは勝利を意味します。ラテン語ぐらいのことでノイローゼになってはいけません。
二十八日に学生運動(シュトウデンテン・レヴォルテ)について、ここで講演します。学生がエスタブリシメントに対してたたかっていることを、ぼくは正しいと思います。現在の社会の制度と道徳を破壊しなければ、人類の進歩はありません。日本の大学はほとんど全部授業を休んでいます。人類のよりよい進歩のためにはやむをえないことです。オーストリアでも近いうちにレヴォルテがおこるでしょう。おこらなければなりません。それは歴史の必然ですから。現在は社会主義も共産主義もその方向をまちがえているから、それをたてなおさなければなりません」
七十三歳の父親から三十九歳の娘にあてた手紙だが、情愛ばかりではなく、主張のこもった、日本人の親子の間では、きわめて珍しい手紙といえる。』(文庫版P369〜370)
要は、目先のことにとらわれて物事の本質的な部分を見失ってはならない、ということでございます。これは仕事も同じ。就いたばかりの仕事が上手くいくとかいかないとか、人間関係が難しいとか難しくないとか、人はどうしても目先の問題にとらわれがちで「自分が現在、社会や時代の中で、どのような位置に立っているのか」というような「大所高所からの視点」を見失いがちでございます。しかし、ひとたび大所高所からの視点を取り戻せば、たいがいの問題は「時間が解決してくれるもの」だとわかりますし、それでも解決しないような、自然消滅を待っていられないような切実な問題があるのならば、ホランドくんも書いていましたとおり、そんな仕事・職場は辞めてしまえば良いのでございますよ。
仕事を辞めたからといって、人はすぐに飢えて死ぬわけではございませんが、仕事を辞めてしまう、何もかも投げ出して退避する、テーブルをひっくり返して開きなおるといった「選択肢」を見失って、仕事や職場にしがみついた人は、しばしば唯一の選択として自殺を選んだりしてしまうのでございます。
職場で嫌なことがあれば、それを「労働者の置かれた現実を体験できる、よい機会だ」と考えれば、そんな経験もまったくの無駄にはなりませんし、そのような客体化によって、主観の自閉地獄に追い込まれることを防ぐこともできましょう。
「ものは考えようだと言われても、そう簡単にできることではない」というのは確かに正論ではございますが、それが出来ないで無益に苦しむのは自分自身なのでございますから、できない難しいなどという泣き言を他人に言っても無意味でございます。自身の人生を充実させるためにも、自身の苦しみを「他人の苦しみを実感するための経験」だと変換しうる人間のみが、他人のことを他人のために、真に語りうるのでございます。
★ Keenさま
> ありゃ
>> 私もそろそろ歳でございますから、喧嘩をするのも少々面倒くさくなって参りました。もともと、相手には何も期待できないと承知した上での喧嘩だとしても、だからこそ、それをやるには非常なエネルギーが必要なのでございます。
>いかにも。私も「全く、よくやるよなあ〜」と、半ばあきれつつ、残りは尊敬の念をもって見ておりましたから。(^_^;)
それでも、そういう場合に行き当たれば、やっぱり今後も私は、喧嘩をすることでございましょう。なにしろ私は、これまでだって自ら進んで喧嘩をしたつもりは毛頭なく、自分の意見を言ったら相手が絡んできたので反論したという、いわば受け身でしか喧嘩をしたことがない、と思っているのでございますからね(笑)。
> 批評界の事情はよくわかりませんが、たとえ同人誌上であっても、そうやって笠井さんを批判する人が出てきたというのは、やはり、園主さまが長年孤軍奮闘されてきたことの結実なのではないでしょうか。笠井さんの影響力、支配力が衰えただけかもしれませんが…
いや、もちろん私の地道な活動が大きいのでございますよ(笑)。
ただミステリ界には、その事実を公に認め得るだけの、器の人間がいないだけなのでございます。だって、ちょっと前までは、陰では笠井潔の悪口を言いながら、表ではおべんちゃらしか口に出来ないような人たちばかりだったのでございますからね(笑)。
ま、ともあれ、このまま笠井潔がフェードアウトしたのでは面白くない。私の執筆意欲減退の一端は、笠井潔の露出度の低下にあるとも思われますから、ここは笠井潔に何としてでももうひと暴れしてもらい、ぬるま湯のミステリ界を引っ掻き回していただきたいものでございます。
笠井潔の評論が恣意的なものであり、しばしば問題が多いものなのだとしても、笠井潔という存在がミステリ界のぬるま湯を引っ掻き回すことそれ自体に関しては、十分に批評的な価値があると思うからでございます。――と申しますか、ミステリ界の平穏と笠井潔の活躍のどちらを採るのかと言われれば、私は迷わず後者を採ります。ミステリ界の平穏など、読者である私には一文の価値もございませんし、なにより私は、もっとも古い笠井潔ファンなのでございますから、古豪「ルサンチマン笠井潔」の活躍を願わないではいられないのでございます(笑)。
> おめでとうございます!
> ※パソコンが遅いので、また途中で止まってしまって、こんな時間になってしまいました〜(T-T)
ホランドくんから報告がございましたとおり、私、光回線を導入するための契約を済ませました。遅くとも年内には導入が実現いたしますし、そんな折も折、つい先日、iMacの新型が発売開始されましたので、もうこれしかないという気になっております(笑)。
ちなみに、今年は中井英夫の十七回忌。私も命日に、山口へ墓参りに行く予定でございます。
★ ぞんびいかさま
> 安心しました。
> 奈須きのこ氏の文章に対するアレクセイさんの意見を見て安心しました。
>
> 自分も友人に勧められて読んでみたところ彼の文章には違和感を感じずにはいられませんでした。
はじめまして。お書き込み、ありがとうございます。
おっしゃっておられるのは、拙論、
> 「空虚に巣食う魔 ―― 笠井潔と『空の境界』」
のことでございますね。
この論文は、当然の事ながら、多くの奈須きのこ(TYPE-MOON)ファンの顰蹙を買い、とても反響の大きかったものでございます(笑)。
『安心しました。』とのことですが、このお言葉は、私としてもたいへん嬉しゅうございます。と申しますのも、私は先日『批評というものは本来、「身内で頷きあう」ためのネタなどではなく、「自閉した内部の球体の外壁に亀裂を入れる、外部からの衝撃であり閃光」であるべきなのではないでしょうか。』(2009年10月4日付「騙せば良いというものではないし、褒めれば良いというものでもない。」より)と書きましたとおり、多数意見に疑義を呈する立場こそが批評の批評たる面目であると考えますし、それは多数意見に圧倒されて畏縮している少数意見を励まさんとする立場でもあるからでございます。
私は「庶民の側に立つ」ことを信条としておりますが、それは「弱者少数者の側に立つ」ということではあっても、「大衆の側に立つ」ということではございません。私の「大衆嫌い」は骨がらみであり、その意味では私は、鈴木東民を同じ「貴族主義」者なのでございます。
ま、それはそれとして、ぞんびいかさまの『安心しました。』というお言葉が嬉しかったのは、私のような人間のものでも、少数者の側に立って堂々と語られた言論は、少数者を励ますものなのだという事実を、具体的な言葉として確認できたからでございます。
私はこれまで、弱者少数者の側に立って苦闘を繰り広げてきた先達の言葉に励まされてまいりました。ですからこそ、それには遠く及ばずとも、少しでもそのようなものに近づき貢献したいという気持ちがあって、ここまでやってもまいりました。だから、私の努力が空回りではなかったと確認できたことが、とても嬉しかったのでございます。
本日ご紹介した『人身御供論 通過儀礼としての殺人』の中で大塚英志が、『かつて癒しのための〈熊〉を必要とした者も、立場が変われば誰かにとっての〈熊〉たりえたり、〈熊〉を手渡せる人たりうる』と書いていたとおり、私も、仮面ライダーや南方熊楠や大西巨人やノーム・チョムスキーから与えられてきた励ましの一端を、ぞんびいかさまに伝えることができたというその事実が、何より嬉しかったのでございます。
ですから、私がぞんびいかさまに期待するのは、今度はぞんびいかさまが、そういう励ましを人に与える人になってほしいということでございます。
私たちは、いつでも弱者少数者の立場に立っているわけではなく、多くの場合、強者多数者の立場に立っているのでございますから、その時に、その優位に胡座をかいて弱者少数者を見下すような、醜態だけは曝すまい。そんな時にこそ、弱者少数者の意見に真摯に耳を傾け、彼らの発言権を盾となれるような人間になって欲しいのでございます。そこにこそ、私の励ましの真価もあるのでございますから。
それでは、みなさま、おやすみなさいまし。
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm
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