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二つの『ぼくらの』 ーー原作マンガ版とアニメ版の相克

 投稿者:園主メール  投稿日:2011年 6月 1日(水)22時43分19秒
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   二つの『ぼくらの』 ーー原作マンガ版とアニメ版の相克


                             アレクセイ(田中幸一)


     (※ 原作マンガ批判論です。
       かなり挑発的ですので、冷静に読めそうにない方はご遠慮下さい)


鬼頭莫宏によるマンガ『ぼくらの』は、『月刊IKKI』(小学館)に2004年1月号から2009年8月号まで連載され、 2007年には森田宏幸監督の手によってテレビアニメ化された作品である。

私は、この作品の連載、アニメ放映当時は、その存在をまったく知らず、最初に知ったのは、アニメ終了後に、友人がカラオケで歌った、印象的なアニソン(「アンインストール」)の番組としてであった。
先日たまたま、会社の後輩が『ぼくらの』ファンで、原作マンガもアニメDVDも持っていることを知り、貸してもらうことになった。
私は、前記のカラオケの友人から「このアニメは、原作には無い、救いのあるラストに改変して、原作ファンから叩かれたらしいですよ」という話だけは聞いていたので、会社の後輩にはどちらを先に鑑賞すべきかと尋ねたところ、彼は「原作の方がいいので、アニメを先に観た方がいいでしょう」という助言を受けて、その順に二つの『ぼくらの』の楽しんだ。

アニメ版は、緊張感のある素晴らしい作品だったが、いかんせん最後がいかにも無理のある「まとめ方」だと感じられ「なるほど、こういうことか」と納得したのだが、いざ原作マンガを読み終えてみると、これは原作を改変しようと考えたアニメ監督森田宏幸の方が「まとも」だと確信するにいたった。
平たく言ってしまえば、原作は「軍事オタクの扇情的な戦争正当化論マンガ」だからだ。
「戦争の現実」を誠実に思考したことのある大人なら、こんな作品をそのまま容認することなど、とうてい出来ない話だったからである。

                     ○

原作マンガを一読すれば、作者が「軍事オタク」であることは、誰にでも容易に看取できる。
それは何も、コミックスにおまけで収録されている「兵器エッセイ」を指して言うのではなくて、「作中における、軍人の描き方」が「紋切り型の立派な軍人像」を一歩も出るものでない事実などから、そう評価するのである。
言うまでもないことだが、兵器に魅力を感じるからといって、「軍事オタク」であるとは限らないし、「右翼」的だとか「戦争肯定論者」だなどとは言えない。かく言う私自身「戦車好き」なのだ。

だが、原作者鬼頭莫宏の場合、単なる「兵器好き」には収まっておらず、積極的に「殺人集団としての軍隊」を正当化しようとしているのが読み取れる。
もちろん、まんざらバカではないから、ネトウヨのような幼稚な「軍隊必要論」や「軍隊賛美」の連呼などしないが、自分の立場を批判的に検証する「自己批評性」は持ち合わせておらず、「戦争否定論者」の論理はあくまでも否定されるのを前提として、作中に持ち込まれているだけ。最初から結論は出ており、その意味でこの原作には、本質的な「思弁性」は無い。もちろん、あるように見せかけられてはいるが、それは「子供騙し」であると言っても過言ではない。
つまり、この原作に「第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞」を与えた選考委員は、子供並みの読解力しかなかったということである。


本作の「軍隊軍人賛美」シーンを、具体的に挙げる必要は無いだろう。
地球の命運を賭けて戦う子供たち(主人公たち)の健気な姿に、大人であり軍人である自分たちが遅れを取るわけにはいかないと、敵の怪物(巨大メカ)特攻的な攻撃を仕掛けて死んでいく軍人たちの勇姿は、充分に感動的ではあるものの、所詮は「紋切り型」の域を一歩も出るものではない。
若い読者ならば、こういう「感動的なシーン」に出会ったことが無いから免疫も無いのだろうが、私くらいの歳(当年49歳)になれば、アニメを見ているだけでも、こんなシーンにはいくらでも出会ってきた。例えば『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)なども、その典型的作例だ。

ちなみに、アニメ版の監督森田宏幸は、私の2つ年下で、アニメーター出身の演出家。当然、アニメーターになる前は、私と同時代に同じような作品を観てきただろうし、『さらば宇宙戦艦ヤマト』のラストにおける「特攻」をどう評価するかといった問題や、富野喜幸(現・富野由悠季)や安彦良和が『機動戦士ガンダム』で描こうとした「戦争のリアル」について、考えもしただろう。
富野喜幸は、ヒーローとしての戦士ではなく人間としての戦士を描こうとしたし、敵には敵の正義があることを描きつづけてきた。また、安彦良和は、最初の『機動戦士ガンダム』以降に若いスタッフによって制作された「リアルな軍隊ものとしてのガンダムシリーズ」を「軍事オタクの作品」だと吐き捨ててもいる。
つまり、アニメ監督森田宏幸の中には、こうした経験と思考の蓄積があり、それだからこそ安彦良和の言葉をなぞるようにして「原作(『ぼくらの』)が嫌い」と発言するにいたったのであろう。

もちろん原作者鬼頭莫宏の場合も『ヒーローとしての戦士ではなく人間としての戦士を描こうとしたし、敵には敵の正義があることを描き』出している。その点は評価してしかるべきであり、一般的には、その点が評価されたと見て間違いないだろう。
例えば、『ぼくらの』のウィキペディアでは、原作を『近未来の日本を舞台に、謎の超技術で作られた巨大ロボットを操り、地球を守る為に戦う少年少女たちが主人公である。物語は1話ごとに1人の子供に焦点を当てた連作形式で構成される。極限状況に直面する子供たちは、自らの人生、家族や社会とのつながり、生命の意味などを問い直してゆく。』と紹介しており、この評価は決して間違ってはいない。

しかし、問題は、この作品の「狙い」はそこに止まるものではなく、明らかに作者の意図は「敵を殺すことの正当性」を示すところにあるのだから、この原作マンガをきちんと評価しようと思えば、そこを避けて通るわけにはいかない。
アニメ監督森田宏幸のやったことも、『ぼくらの』の別バージョンを作ることによって、創作的に原作マンガを批評批判することにあったと言えるだろう。それはクリエーターとして、しごく真っ当な「反骨心」でもあれば、原作付きアニメの伝統でもある。

アニメ作品が多くのスタッフによって作られるものである以上、基本的には集団芸術であり、「原作」は素材のひとつであって、決して「神聖犯すべからざる聖典」などではない。もちろん、原作ファンにとっては、原作は「聖典」であり、原作を歪めるものは「死に値する大罪」であると認識されても、なんの不思議もない。
実際、『コーラン』を批評的にパロディー化した小説『悪魔の詩』を書いたことで、著名な英国人文学者サルマン・ラシュディーは、イラン最高指導者であったホメイニ師による死刑宣告を受け、以降、隠遁生活を余儀なくされたし、実際、各国の翻訳者・出版関係者を標的とした暗殺事件も発生した。
要は「神聖冒瀆」というのは、「芸術」や「批評」の本質的属性のひとつであり、その意味では、あらゆる「正統」「権威」の敵とされがちなものなのである。


では、アニメ版の監督森田宏幸が批判的に乗り越えようとした、原作における「敵を殺すことの正当性」論とは、どのようなものなのであろうか。

原作における「敵を殺すことの正当性」の論理は、大方の場合は「身近な大切な人を守るためには、仕方がない(選択の余地がない)こと」というレベルで、理論的にではなく「実感的(感情論的)」に語られている。
しかし、さすがにこれだけではとうてい「敵を殺すことの正当性」という普遍一般論の担保にはならないし、ましてや「軍隊」の積極的な肯定論を、説得的に語ることも出来ない。
そこで原作者の鬼頭莫宏も、なんとか「理論的」にもそれを語ろうとしており、それが直接的に表現されているのが、原作マンガ第6巻(P43~63)における、ジアース搭乗員の一人である切江洋介少年と田中美純 航空国防軍一尉の、次のような会話である。


切江
「でも、やっぱりぼくには人を殺せるだけの覚悟は、ありません。
 それが自分のすべきことなのか…」
田中
「そう… 困ったわね。」
(中略)
「でも、切江くんが戦わないと、ご両親や友達のいる、この世界自体がなくなっちゃうのよ?」
切江
「わかっています。でもぼく、自己保全みたいな意識が希薄なんだと思います。
 国家間の戦争や個人の争い、競争、よりよい伴侶の獲得、子孫の繁栄、
 多分、普通はあたりまえのその感覚がよくわからないんです。
 人として…生物として、おかしいのかもしれません。
 ぼくが守ることになる人達っていうのは、本当に守る必要がある人達なのか、
 こっちが負けて向こうが勝っても、たいした違いはないんじゃないかって」
(中略)
「ぼく、アクション映画って苦手なんです。派手な戦闘シーンとかが嫌いなわけじゃないんです。
 ああいう映画ってたいてい、一般の人達が巻き込まれて犠牲になるじゃないですか。
 それも別にいいんです。そういう事態になれば実際に起こりえるわけだし、それをあえて避けるのもおかしい気がするから。
 でも、観客はたいてい、巻き込まれて犠牲になる群衆に関心をもたないですよね。主人公達が死んでいくことには過剰に反応するのに。
 ぼくにとっては主人公達の死と、画面の端で描かれる群衆の死は同じなんです。
 虚構の中でそれぞれ意志をもち生活をしている人。違いがないはずなんです。
 でも、主人公が途中で出会った女の人と笑いながらエンディングを迎えるとハッピーエンド、主人公が死んじゃうとバッドエンド。
 その感覚がわからないんです。途中で群衆が一人でも犠牲になっていれば、それはぼくにとってバッドエンドです。
 そのバッドエンドの中での違いは、その虚構の主人公が、虚構の群衆の死にイタミを感じてエンディングを迎えるかどうか。
 でも、たいがいはそうじゃないですよね。
 どうして、そういうヒーロー型の主人公はエンディングで笑っていられるだろう? どうして観客はそれをハッピーエンドと思うんだろう?
田中
「言ってることはわかるかな。
 切江君の言ってることは、虚構の中の敵役や敵といったものにも、適用されるんでしょ?」
切江
「はい。」
田中
「映画とかを純粋に娯楽のものとして捉えるなら、嘘でもいいからハッピーエンドっぽく見せかけたいわよね。
 その虚構の世界のどこかで、誰かがその事件のせいで泣いていたとしても、それを描かなければ、問題としては提起されないし。」
切江
「ぼくはそれが嫌なんです。
 もし、それを普段からみんなが認識できるなら、現実のいやな問題も、もっと少なくなると思うんです。
 自分は正義かもしれないけど、相手も正義かもしれない。
 自分は悲しいかもしれないけど、相手も悲しいかもしれない。」
田中
「だから、戦えない?
 そうね。大体の人間は自分の身内や、その帰属社会に対して甘いわね。
 あの(※ 畑飼)先生の言ってたように、自分の行動や選択の責任を自分の外に求めようとするし。
 他者の視点に立つことのできない人間は、無思考に身内を守ることを選択するわね。私はそれでも構わないけれど、切江君は納得できないわけでしょう。
 軍人ってね、結構、切江君の言っているようなことを考えるのよ、意外かもしれないけど。
 切江君の問題では、もうひとつの地球が対象になっているけど、普段の私達軍人は、もうひとつの国…、敵性国家が対象よね。
 特に今の時代、想定敵国の軍人と会うことは日常だし、そういう人の家族にも会うことがあるのよ。
 そして思うのよ。自分はいつか、この人を殺す時がくるかもしれないって。
 この家族に自分はうらまれることになるかもしれない、なんて。
 それでも、私はいざとなったらためらわずに、その人を殺せる。
 どうしてだかわかる?
 切江君、残念だけど、テレビやマスコミが言ってるように、命の価値はみんないっしょ、なんてことはあり得ないわ。
 大局的に見ればそうだとは思うけど、人間が個人感情を持つ以上、個人の視点では等価にならない。
 それでも一緒と言える人は、自分の命のことは別にしてるのね。
 命が大切、というのは全くその通りだと思う。
 でも、その大切さには順番がつく。
 イルカの死を悲しんでも、家畜の死にいちいち涙を流す人はいない。
 それは、そこに順番をつけているからよね。
 だから知人の死と他人の死、どちらかを選択しなくてはいけなくなったら、私は迷わず他人の死を選ぶ。
 逆説的だけど、生命は所詮、ホロンとして、全体として、存在するものでしょう。
 2人のうち、どちらかが生き残っても、全体としてたいした違いは生じない。それは切江君の言うとおり。
 切江君は、自分と誰かと、どちらかが死ななければならないとしたら、自分の死を選ぶわけでしょう。
 その価値観は当然、身内にも適用される。
 切江君のそのやさしい気持ちはわかるよ。でもそれは、切江君の考えるようなことを、わからない、理解しようとしない人達への反動から出ている感じがするの。
 私の意見は、表面的にはそいういう切江君の嫌いな人達と同じなんだけど、ちょっとちがうの。
 私たちは生まれながらにして、生命に対して業と責任を背負っているの。
 他者の命の可能性を摘み取らずに生きていける人はいないわ。
 植物を食べ、動物を食らう。
 キリストもおシャカ様もそれは同じ、他の生命の上に成り立っている。
 安易な生命賛美をする前に、そういうことに向き合わないと。
 特に今は、次の日に生きていることが簡単になりすぎて、みんな忘れている。
 豚を食べる、ということがどういうことか。
 命の重さはいっしょと言いながら、自分が日々生きている中で、どれだけの命が消費されているか。
 それは他種の生命に限らず、同種の人間に対しても言えることよ。
 自分が生きていることによって、他の誰かが死んでいるかもしれない可能性。
 切江君なら考えれば、わかるわね。
 本当は大人がちゃんとそういうことを語るべきなんだと思うけれど、みんな我が身かわいさに、そういうことは言わないから。
 あなたがここにあるのは、あなたとあなたの祖先が、たくさんの生命の上に成り立っているから。
 それが、生きているものが生まれながらに背負っている業。
 私は命を軽んじているわけではないのよ。
 もちろん無益な殺生はいけないことだと思う。
 でも、自らの身内の生存のための殺生は、闇雲に卑下されるものではないと思う。
 だからこそ私達は、その犠牲になってきた命の分まで、しっかり生きなくてはいけない。
 それが生きるものの責任。
 自分の命は自分だけのものでないのよ。自分の命を支えてきてくれた、無数の生命達の姿でもあるの。
 あなたの好むと好まざるとにかかわらず、もうすでに生命の犠牲の上にある。
 だから、そのことに感謝して、その犠牲の上にある自分を有効に使いなさい。
 この業と責任は、生まれた時から避けることはできないから。
 それでも甘えた生き方をするとか、好きで生まれてきたんじゃないとか、そんなことを言うようなら、自ら死を選ぶべき。
 その甘えた自分の犠牲になる生命を少しでも減らすために。
 少し話がそれるけど、私ね、今までに本当に沢山の人に迷惑をかけて生きてきたのよ。
 でもその人達に償うのは無理。取り戻せないことがいっぱいあるから。
 だからせめてもの償いは、今のこの自分にできる精一杯のことを、誰かのためにすることだと思っているの。
 まあ、つまりは、自分で納得できる生き方をすることね。
 納得できない?」


まったく納得できない。
こんな子供騙しのペテンでは、文字どおり「子供」しか騙せない。

長々と引用したが、ここを読んでもらえば、物事を考える習慣のある大人なら、田中一尉の口を借りて語られた「敵を殺すことの正当性」の論理が、極めて浅薄で、およそ「論理」の態を成していない、デタラメだというのが理解できるだろう。

そして、そうしたことの読み取れる「大人の読者」の中には、どうして原作の読者は、この程度の「説得」に「落とされてしまった」のかと不審に思う人もあるかもしれない。だが、原作の読者は基本的に「子供」であり、「人間の歴史」も「戦争の悲惨な現実」も知らずに、「物語的に美化された戦争」にシンプルに感動できる人たちなのだ。もちろん、ここで言う「子供」とは、年齢的なことを言っているのではない。

現在生きている「成人日本人」の大半は、戦争(戦場)の経験を持たないし、歴史小説やマンガを読むくらいのことはあっても、例えば「歴史修正主義」という言葉が何を意味するのか、専門書を読んでまで学んだ者は、千人に一人もいないだろうし、それは原作『ぼくらの』の読者についても同じだろう。つまり、年齢的に「成人」読者であったとしても、「人間の歴史」も「戦争の悲惨な現実」を積極的に学んでこなかった大半の大人もまた、この問題に関して言えば、「子供」の読者となんら選ぶところはないのである。

また、このシーンが「内容」以上の説得力を持つ別の理由としては、マンガ的な「見せ方」「コマ割り」による「演出の問題」がある。
つまり、「これは事の本質を語ったセリフだよ」と言うところでは、田中一尉は読者の方に目を向けて、いわば「決めセリフ」的かたちで語るし、当然、コマも大きくなり、セリフのサイズも大きくなっている。
この形式的演出によって、マンガや映画の形式に馴らされてきた読者は、それが「物語の中での特権的セリフ」であり「正義として語られたもの」と、無意識のうちに受け入れさせられてしまうのだ。


では、具体的に、田中一尉による「敵を殺すことの正当性」の論理のペテンを暴いていこう。

切江の「基本的には、敵も味方も同価値であり、敵を殺すことに客観的な正当性など無いのではないか?」という理屈は、極めてラディカル(本質的)なもので、まったく正しい。
このラディカルな見解に対する田中一尉の、あるいは作者による相対化は、極めて「姑息」である。

まず、作者は、切江を特殊に、あるいは病的なまでに繊細な一種の「変わり者」であり、一般化し得ない存在として描き、彼の意見も「特殊な立場の特殊な人間の中でしか妥当性を持たない、特殊な意見」という「印象作り(印象操作)」に励んでいる。
例えば、切江が「アクション映画における、その他大勢の登場人物に対してまで、命を感じてしまう過剰さ」を描き、一方、自身について『多分、普通はあたりまえのその感覚がよくわからないんです。/人として…生物としておかしいのかもしれません。』などと語らせて、その「異常性」を印象づけている。
さらには、田中一尉に『切江君のそのやさしい気持ちはわかるよ。でもそれは、切江君の考えるようなことを、わからない、理解しようとしない人達への反動から出ている感じがするの。』と、一面的な「憶測」を語らせることで、切江の意見が、まるで「自分勝手で鈍感な人類に対する、ルサンチマンの裏返し(の報復衝動)」であるかのような「印象操作」をしてもいる。
もちろん、切江の考え方にそういう側面が皆無だとは言わないけれど、しかし、切江の意見は、決してそういう「個人的事情」に収まりきるものではない「普遍性」を持ち合わせており、だからこそラディカルたり得るのである。

また、作者の「姑息さ」として、まず切江が語りそれを田中一尉が否定するという「順序」において、いかにも「後者が優位であるかのように見える」という錯覚を利用し、さらには、最終的には切江が戦いを選ぶことによって、さも田中一尉が切江の理屈を論破しきったかのような「形式」を与えている点を指摘することも出来る。
しかし、ここでの議論において、内容的には明らかに、切江の立論の方が本質的かつ誠実な一貫性を持っている。

田中一尉の言葉を逐語的に追っていこう。

> 大体の人間は自分の身内や、その帰属社会に対して甘いわね。

ここまでは、いちおう正しい。つまり『大体の人間は自分の身内や、その帰属社会に対して甘い』し、それは作者自身「軍事オタク」として「軍人」や「軍人の論理」に「甘い」ことからも、実証的に確認される事実である。

> あの(※ 畑飼)先生の言ってたように、自分の行動や選択の責任を自分の外に求めようとするし。

そう。この作品の狙いである「敵を殺すことの正当性」の論理も『自分の行動や選択の責任を自分の外に求めようとする』ものだと言えよう。
曰く「私たちは、他者を殺さないかぎり、生きてはいけないという業を持つ」。
つまり「殺生の業」は、私たちの「(自由意志の)外」にあって、私たちの生き方を拘束する権利を持つものだという理屈も、その一例である。

> 他者の視点に立つことのできない人間は、無思考に身内を守ることを選択するわね。私はそれでも構わないけれど、切江君は納得できないわけでしょう。

ここでのペテンは『他者の視点に立つことのできない人間は、無思考に身内を守ることを選択するわね。』と語らせることで、「他者の視点に立つことのできない人間」だけが「無思考に身内を守ることを選択する」かのように印象誘導をしている点にある。
だが、実際にはそうではない。
現実の「軍人」がそうであるように、「身内を守る」ために「他者の視点に立ってみる人間」など、いくらでも存在するのだ。
つまり「他者の視点に立ってみる」というのは「技巧(テクニック)」であって、それ自体は「思考すること」そのものではないし、「技巧」に「善悪」はない。
言い換えれば、「他者の視点に立てる者」が、そのまま「他者を尊重する者」ではない、ということだ。
他者を蔑ろにするために、方法的・技巧的に「他者の視点に立ってみる」者など、いくらでもいるのである。
しかし、ここでの田中一尉の語りは、その事実の反面を意図的に隠蔽して、さも「他者の視点に立てる者は、他者を尊重できる立派な人間」であるという「誤認」へと読者を誘導しており、次の言葉への伏線ともなっている。

>  軍人ってね、結構、切江君の言っているようなことを考えるのよ。意外かもしれないけど。

まず『軍人ってね、結構、切江君の思っているようなことを考えるのよ。』ってのは「嘘」である。
「嘘」と言って言い過ぎなら「意図的な誇張」である。
単に「軍事オタク」である作者が「これくらいのことは考えていて欲しい」と思っているだけで、「軍人一般」が切江のような哲学的思弁を持ったりはしない。そんなことをする人は、そもそも軍人にはならない。
もしも考えるとすれば、それは作者がそうであるように、自分たちを正当化するために必要な思弁として、考えざるを得ないだけ。まず結論ありきの、自己正当化のための思弁である。

> 切江君の問題では、もうひとつの地球が対象になっているけど、普段の私達軍人は、もうひとつの国…、敵性国家が対象よね。
> 特に今の時代、想定敵国の軍人と会うことは日常だし、そういう人の家族にも会うことがあるのよ。
> そして思うのよ。自分はいつか、この人を殺す時がくるかもしれないって。
> この家族に自分はうらまれることになるかもしれない、なんて。

ここに最も重要な「重要なペテン(すり替え)」がある。

切江の思弁が問題としているのは「個人としての、誠実な思考と態度選択」であって、決して「この地球」と『もうひとつの地球』などといった、限定的な「二者択一問題」ではない。
作者はここで、切江の「個人としての誠実な思考」の問題を「同等の地球対地球」という政治的図式にすり替え、問題を「個人の倫理的思考」から逸らしてしまっている。

例えば、それまでの戦闘で死んだ、他のジアースの子供たちは「個人的に、自分が大切に思っている人達を守るため」に「殺人」を引き受け、「他者を犠牲にすること」を「個人的に引き受けた」。これは、あくまでも「個人の選択の問題」であり、自由な主体としての個人の選択自体は「やむを得ないもの」として、ある意味「善悪の彼岸」にある。「殺人」も「他者を犠牲にすること」も、それ自体は「悪」であるけれども、「罰」を受ける覚悟があるのであれば、人間には「悪を選択する自由」があるのである。
つまり、子供たちの「悪の選択」は、あくまでも「個人」の内的選択であって、「惑星間」や「国家間」や「民族間」の問題として「一般論化」して良い問題ではないのだが、作者はここで、その「すり替え」を行なっているのである。

また、ここで作者は、「軍人」が敵の家族に憎まれる「苦しみを引き受ける」覚悟をしているということをアピールすることで、読者の「同情」を誘っている。
しかしこれは、言い換えるならば「苦しみさえすれば、敵を殺すことは許される」という、甘えた態度でしかない。
一種の「自己憐憫」であり「自己陶酔」の、独り善がりな「自己正当化」でしかないのである。

個人的には何の恨みもない敵とその家族を、自分が「進んで(選択的に引き受けて)」殺し、苦しめるのであるから、こちらが苦しむのは当然のこと。苦しまない方が異常なだけなのだ。

それに、子供たちは「止むに止まれず」戦い殺したけれども、「軍人」は「敵を殺すこと」を「職業」として、その自由意志に基づいて「選択した」のだから、同列に扱うことなど出来るわけがない。子供たちとは違って、本当の嫌なら「軍人」を辞めれば済むことなのに、それを続けるのは、彼らの「苦しみ」など「自己申告」ほどのものではない、と言ってもいいのである。
つまり、田中一尉のここでの言葉は、「避け得ない戦いを強いられて子供たち」からするならば、「平和ボケの論理」でしかないのである。

> それでも、私はいざとなったらためらわずに、その人を殺せる。
> どうしてだかわかる?
> 切江君、残念だけど、テレビやマスコミが言ってるように、命の価値はみんないっしょ、なんてことはあり得ないわ。
> 大局的に見ればそうだとは思うけど、人間が個人感情を持つ以上、個人の視点では等価にならない。
> それでも一緒と言える人は、自分の命のことは別にしてるのね。
> 命が大切、というのは全くその通りだと思う。
> でも、その大切さには順番がつく。
> イルカの死を悲しんでも、家畜の死にいちいち涙を流す人はいない。
> それは、そこに順番をつけているからよね。
> だから知人の死と他人の死、どちらかを選択しなくてはいけなくなったら、私は迷わず他人の死を選ぶ。

「なぜ、敵を殺せるのか?」??それは「人間の感情という現実」において「命の重さには順番(序列)がある」からだと、田中一尉は言う。

しかし、「個人の感情」の話でいいのなら「イルカの死は悲しまなくても、家畜の死は悲しむ」人だって大勢おり、一言で言えば「命の序列」など、人それぞれでしかない。つまり、客観的な「命の序列」など「存在しない」からこそ「命は平等」だと言えるのである。
そして、「切江の論理」は、こうした「客観性」に立脚して「敵の視点に立つ」点にあるのであって、「個人的主観的な感情や価値観で選ぶしかない」などという「自堕落な自己肯定」など、そもそも議論の対象にもならないのである。
したがって、

> 大局的に見ればそうだとは思うけど、人間が個人感情を持つ以上、個人の視点では等価にならない。
> それでも一緒と言える人は、自分の命のことは別にしてるのね。

というのも、ペテンである。

『自分の命のことは別に』しなくても『それでも(※ すべての命は)一緒』だと言える。
「個人的」には、そう言いたくないけれども、客観的には「一緒」なのだ。そう言うしかないのだ。
しかし作者はここで、そういう「自己を甘やかさない思考者・発言者」を、「偽善者」であるかのごとく「印象操作」して、貶めているのである。

> 逆説的だけど、生命は所詮、ホロンとして、全体として、存在するものでしょう。
> 2人のうち、どちらかが生き残っても、全体としてたいした違いは生じない。それは切江君の言うとおり。

「だから、それぞれが、自分を生かすために、他者を殺しても良い」ということにはならない。

作者はここで「個人の感情」を優先しながら「個人の倫理(理性)」については無視するという「独善」を振り回している。
たしかに、客観的には、どちらが生き残っても同じだけれども、そのために「他者を犠牲にすることの、倫理的な負い目(良心の痛み)」を、作者の代弁者である田中一尉は、「厚顔無恥」にも完璧に無視している。

> 切江君は、自分と誰かと、どちらかが死ななければならないとしたら、自分の死を選ぶわけでしょう。
> その価値観は当然、身内にも適用される。

ここでも作者は、読者を「誤解」へと誘導している。

田中一尉のこの言葉は、切江が「身内(他者)を殺すくらいなら、自分が死ぬ」という「やさしい」人間であると語っているばかりではなく、他者(もうひとつの地球)のために自分たちの地球人類(身内)まで道連れにして「自死」しかねない「危険人物」扱いにもしているのだ。

だが、切江の「個人としての倫理」は、決して単純に「国家レベル」や「惑星レベル」にまで、一般化され肥大させられるものではない。
ここでも田中一尉は、「個人の問題」と「国家間(あるいは、それ以上)の問題」を同列に扱うという「すり替え」を行なっているが、所詮これは、作者による詐術でしかない。

また仮に、切江が「向こうの地球」が生き残ることを選んで戦わなかったとしても、それは「この地球」を道連れにして自殺したことにはならない。ただ、彼が「個人的に自死を選んだ」ことによって、「このゲームを仕掛けた存在」によって「この地球」が殺されるに過ぎない。それを「自殺の道連れ」であるかのように言うのは、事実の誤摩化しであり、ペテンでしかない。
「君が戦わないということは、君がこの地球のすべての人を殺すということなのよ」という「筋違いの脅迫」でしかない。
それは、先の大戦において、若者たちを「特攻」へと追い込んでいった「軍部」の論理でしかないのである。

> 切江君のそのやさしい気持ちはわかるよ。でもそれは、切江君の考えるようなことを、わからない、理解しようとしない人達への反動から出ている感じがするの。

これが「理解者ぶったペテン」であることは、先に示したとおりである。
そもそもこのように言って、切江の論理の「一般的妥当性」に疑義を挿むのであれば、田中一尉は最後に、

> 少し話がそれるけど、私ね、今までに本当に沢山の人に迷惑をかけて生きてきたのよ。
> でもその人達に償うのは無理。取り戻せないことがいっぱいあるから。
> だからせめてもの償いは、今のこの自分にできる精一杯のことを、誰かのためにすることだと思っているの。
> まあ、つまりは、自分で納得できる生き方をすることね。
> 納得できない?」

などと付け加えるべきではない。
なぜならば、この「告白」が意味しているのは、「田中一尉の誠実さ」などではなく、「自らもまた、負い目の反動として、歪んだ論理を正当化しているに過ぎないのかも知れない」という「当然の疑い」も持つこともなく、他人のそれだけは疑う「愚かな人間」であるということを、自己暴露するものでしかないからである。

> 私の意見は、表面的にはそいういう切江君の嫌いな人達と同じなんだけど、ちょっとちがうの。
> 私たちは生まれながらにして、生命に対して業と責任を背負っているの。
> 他者の命の可能性を摘み取らずに生きていける人はいないわ。
> 植物を食べ、動物を食らう。
> キリストもおシャカ様もそれは同じ、他の生命の上に成り立っている。
> 安易な生命賛美をする前に、そういうことに向き合わないと。
> 特に今は、次の日に生きていることが簡単になりすぎて、みんな忘れている。
> 豚を食べる、ということがどういうことか。
> 命の重さはいっしょと言いながら、自分が日々生きている中で、どれだけの命が消費されているか。
> それは他種の生命に限らず、同種の人間に対しても言えることよ。
> 自分が生きていることによって、他の誰かが死んでいるかもしれない可能性。
> 切江君なら考えれば、わかるわね。
> 本当は大人がちゃんとそういうことを語るべきなんだと思うけれど、みんな我が身かわいさに、そういうことは言わないから。
> あなたがここにあるのは、あなたとあなたの祖先が、たくさんの生命の上に成り立っているから。
> それが、生きているものが生まれながらに背負っている業。
> 私は命を軽んじているわけではないのよ。
> もちろん無益な殺生はいけないことだと思う。
> でも、自らの身内の生存のための殺生は、闇雲に卑下されるものではないと思う。
> だからこそ私達は、その犠牲になってきた命の分まで、しっかり生きなくてはいけない。
> それが生きるものの責任。
> 自分の命は自分だけのものでないのよ。自分の命を支えてきてくれた、無数の生命達の姿でもあるの。


「安易な」自己正当化である。
「自分たちの命が、多くの命の犠牲の上に成り立っている以上、それを無駄にしないためにも、私たちは精一杯生きなければならない。たとえ、悪ではない敵対者を、次々と絶滅させ続けてでも」という「狂人の論理」である。
この程度の薄っぺらな議論の中で引き合いに出されたのでは、『キリストもおシャカ様』も、いい面の皮である。
ちなみに、

> 私は命を軽んじているわけではないのよ。
> もちろん無益な殺生はいけないことだと思う。

というのは、当たり前の話である。
ただ、「自分たちに有益な殺生は、正当化される」と、いかにも「軍人」らしい自己正当化を、

> 自らの身内の生存のための殺生は、闇雲に卑下されるものではないと思う。

などといった「誤摩化しに満ちたレトリック」で、遠回しに語っているだけ、である。

> あなたの好むと好まざるとにかかわらず、もうすでに生命の犠牲の上にある。
> だから、そのことに感謝して、その犠牲の上にある自分を有効に使いなさい。

「誇大妄想」的な議論の果てに、あなたも『自分を有効に使いなさい。』ときた。
まるで、「殉教」を要求する「狂信者」そのものである。

> この業と責任は、生まれた時から避けることはできないから。
> それでも甘えた生き方をするとか、好きで生まれてきたんじゃないとか、そんなことを言うようなら、自ら死を選ぶべき。
> その甘えた自分の犠牲になる生命を少しでも減らすために。

ますます「狂人のうわ言」は、ヒートアップする。
そもそも「自分たちが生きるためなら、他者を殺して生き残るのが正しい」などと、絵に書いたように単純な「自己中心論」を語っている「世界に甘えきった人間」が、他人の「甘え」を云々するのは、ただでさえおこがましいというのに、『そんなことを言うようなら、自ら死を選ぶべき。』とは、どういうロジックか?
こういうのを「盗人猛々しい」と言い、「倒錯の論理」と言うのである。

ともあれ、この田中一尉の理屈からすれば、自らの甘え(人類の独善)を直視して、まず「自分たちは、他者を犠牲にしてまで、生き残る価値のある存在なのか」と思考した切江の方が、よほど「言考一致」の誠実な人間だということになるはずなのだ。

> 少し話がそれるけど、私ね、今までに本当に沢山の人に迷惑をかけて生きてきたのよ。
> でもその人達に償うのは無理。取り戻せないことがいっぱいあるから。
> だからせめてもの償いは、今のこの自分にできる精一杯のことを、誰かのためにすることだと思っているの。
> まあ、つまりは、自分で納得できる生き方をすることね。
> 納得できない?」

この部分は、先に書いたとおりである。
自身の「負い目」のために、壮大な「自己正当化論」を妄想的に捏ち上げたあげく、客観的に状況を思考し抜こうとした切江に対し、「みんなのために死になさい」と説得しているのだから、田中一尉がここで語ったことは「狂人のわがままなお説教」と評価するしかないだろう。


さて、原作『ぼくらの』で語られた「理論的」な「敵を殺すことの正当性」の主張は、これが限界である。

後はまた「子供たちの悲劇的状況」を盾にとって読者を扇情的に誘導するも、否応なく「個人的な選択」の話へと後退していくしかない。所詮は「大切な人を守るために、やむを得ず、相手を殺す」という「個人的選択」以外には、「敵を殺すことの正当性」など語り得ない。「一般論」として、それを語ろうとしても、田中一尉による「狂人のわがままなお説教」以上のことは、ついに最後まで語り得なかったのだ。

                     ○

このような原作マンガに対して、アニメ版の監督森田宏幸は、次のように語った。

『この「ぼくらの」が、ある一定のファンの人たちに支持されていることを尊重し、かつ原作を支持しない人たちをも納得させるために、私が出した結論は「ジアースに乗ったパイロットは死ぬ」という戦いのルールは変えない。それを変えてはこの原作をアニメーション化する意味はない。かわりに、まわりの大人たちや、主人公の子供たちを取り巻く社会の描き方を変えるということです。私が鬼頭さんに頼んだのは、いわゆるセカイ系と呼ばれる作品群は、少年少女と世界状況を直接結びつけ、あいだに介在する社会を描かない。ぼくらのでは社会を描かせてくれ、と頼んだのです。』
                           <「ぼくらの」8話によせて>


ひところ流行った「セカイ系」作品論では、新海誠のアニメ『ほしのこえ』、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』などを代表的作例として、一時期、集中的に現れた「少年少女の周辺的日常世界と世界状況を直接結びつけ、中間的に介在するはずの(実)社会を描かない」作品群を、「セカイ系」と呼んだ。

アニメ版の監督森田宏幸は、原作『ぼくらの』をこの「セカイ系」の文脈で捉え、そこに「中間的(実)社会」の抜け落ちているが故に、「個人のやむ得ざる選択」と「軍隊的戦争肯定論=生きるためならば、殺人も罪ではない(論)」が「短絡」させられてしまい、それがもっともらしく描けてしまっている、と見たのではないだろうか。

その結果、原作では「娘への愛情表現に不器用な軍人」であった古茂田孝美の父を、穏健良識派の「政治家」へと設定変更して、原作では描かれなかった「政治的現実世界」を作品のなかに取り込み、ただ軍人さんたちが精一杯子供たちをバックアップして頑張る「勇ましい大人たちの物語」だけではなく、「汚い政治的駆け引きの渦巻く大人の世界」をも描こうとした。その試みは「十全に成功した」とは言えないものの、原作にはない「厚み」をアニメ版に与えた。

しかし、こうした「政治」関係の改変よりもむしろ、森田宏幸監督の試みとして興味深く思ったのは、原作版では前述のとおり、度し難いまでの「軍人」さんとして描かれていた田中美純一尉を、真逆のキャラクターとして描いて見せるために、彼女の「過去」をめぐる、ユニークなオリジナルキャラクターたちを導入した点だ。

原作では、単純に「荒れた過去の果てに、幼子を施設に置き去りにして軍隊に入った」とされた田中一尉であったが、アニメ版では「穂走会の昇り竜」と呼ばれたヤクザ蓮木一郎が、28歳の時、当時16歳の高校生だった田中を見初めて結婚し、一児を授かったものの、その後間もなく、子分の敵討ちに出向き、敵討ちを果たすも蓮木自身も死んだため、田中美純は、子供にまで報復の類が及ぶのを防ぐために、泣く泣く幼子を親類に預けて、自らは軍隊に入った、という設定になっているのだ。

つまり、アニメ版の田中一尉は、結果として子供を人の手に預けたとは言え、本人には何ら非がなかったと言えるし、彼女が愛した男・蓮木一郎は、元来その非凡な「人徳」において『若年ながら独自の存在感を発揮し、数々のヤクザの抗争を無血で手打ちさせることに成功する』、戦わないヤクザとして異彩を放った人物なのである。ただ、最後は「政治家と結んだ卑劣なヤクザを倒すために、ただ一人、自分の身を犠牲にしたヤクザ」でもあり、蓮木の「非戦主義」は、臆病の故でも、我が身を惜しむためのものでもなかったことが示されている。

そして、「ジアースの15人」の子供たちの一人で、蓮木との間の子である宇白順に、実母であることを隠して近づいた田中一尉は、国内外の政治関係の手先と思われる正体不明の男たちに襲われた子供たちのために、暴力団「穂走会」の元構成員で、田中の夫である蓮木一郎を「若」と呼び心から慕っていた榊原保に、子供たちの身辺警護を依頼する。榊原は『蓮木の敵討ちを果たし、殺人罪で懲役20年の判決を受けたが、模範囚として10年で出所した。出所後早々に子供たちの身辺警護を依頼される』ことになったのである。
で、この榊原保もまた、非常にユニークな人物であり、良い意味での「ヤクザ者」なのだ。
彼は、若い頃こそ、お調子者の陽気な男という印象だが、義理人情に固い、それでいて飄々とした「古いヤクザ=侠客」である。
例えば榊原は、子供たちの戦いを見守るために、避難勧告の出ているジアースと敵メカとの戦闘地区に止まって、まだその場に止まってい頑固オヤジのおでん屋台に入る。そこへ、住民の避難誘導に駆け回る警察官が来て「何をしてるんだ。早く非難しろ」と怒鳴りつけると「あたしらのことより、あっちでおばあさんが倒れてたよ。そっちを助けた方がいいんじゃないですか」と言って警察官を追い払った後、警察官をバカにするニュアンスなしに「おまわりさんも大変だねえ」と漏らして見せるような男であった。

つまり、蓮木一郎や榊原保などの「ヤクザ」や、住民の避難誘導に駆け回る「おまわりさん=末端警察官」は、原作『ぼくらの』からすっぽり抜け落ちていた「中間的(実)社会」を象徴する人たちなのである。

彼らは、ただ単に「自分と身近な人のため」に戦うのでもなければ、「天下国家」や「この地球」のために戦うのでもない。
彼らは、その両極端を橋渡しする、「中間的(実)社会」の象徴的な存在として配置された。
「軍隊」とは違って「個人の侠気」において「個人」として戦う「ヤクザ」であり、「天下国家」ではなく「わが町の人々」を守るために駆け回る「おまわりさん」なのである。

戦っているのは、なにも「この世界」の命運を担った子供たちだけでもなければ、「国家国益」レベルで思考する「軍人」だけでもない。
彼らこそは「大義名分」や「悲劇性」を振りかざそうとはしない、「隠れたヒーロー」なのである。

このような人たちを配置することで森田宏幸監督は、「世界」や「大義」のレベルで思考することが、本質的思考だと勘違いした人たち(原作者や原作支持者)を批判したのである。彼らの、自覚なき幼い「観念論」を、「現実の物事は、そんなに簡単じゃないし、一面的でもない」と批判した。

たしかに「15人の子供たち」が「身近な大切なものを守るためには、敵を殺すしかない」という選択肢を選んだとしても、それは「責められない選択」である。しかしそれは「責められない選択」でこそあれ、決して「正しい選択」ではなかったのだということを、ここで示したのであろう。

やむを得ない事情があろうと、やはり殺人は殺人であり、その「罪」は避け得ないし、避けるべきではない。
もちろん、口先だけで「罪(痛み)を担う」などと言うことは、自他に対する欺瞞でしかない。
本当に罪を担う気があるのであれば、決して自身の選択をやむを得ないものとして正当化したり、意見の違う者に説教をたれて自己正当化しようとしたりはしなかったはずだ。
原作版の宇白順が、そうであったように。

ともあれ、このような批判を浴びた後の「原作のラスト」は、子供騙しのラディカリズムを体現した「自分たちの地球を守るために、敵の地球の人類を全滅させる虐殺」を自覚的に選んだ末の、「15人全員死亡」という「悲惨なラスト」を迎える。

アニメ版では、永遠に繰り返される「淘汰ゲーム」は、町洋子と宇白順によって食い止められ、からくも宇白可奈だけが生き残って、過酷な運命と闘った子供たちの「物語」を語り継ぐ、という形で決着がつけられる。
本論の冒頭でも書いたとおり、このラストは、アニメ版の方向性を支持する私にしても「やはり無理がある」と感じるくらいだから、原作ファンからすれば「テーマの重さから逃げた」と取られても仕方のない「不十分さ」は、たしかにあったと思う。

しかし、アニメ版のラストに比して、原作のラストの方がラディカルであり、「テーマの追及に徹した」ものだと考えるのは、浅薄である。
「生き残るためには、敵を殺すしかない。最終的には、敵を全滅させるしかない」ということで、敵を一人一人殺していくところ描いていくというのは、単に「当初の方針を、無反省に推し進めているだけ」だからである。

原作者は、戦いの中で何度か「敵の顔」を描いている。これは「敵も同じ人間」であるという事実に向き合っている、ということをアピールする部分だろうが、レヴィナスの「顔」ではないけれども、人は他人の顔を直視したって、相手を殺すことは出来るし、実際問題として、原作者は「原作のラスト」における宇白順による「敵の(異世界)地球人の虐殺」において、虐殺される人たち一人一人の「生と死」を、こちらの人間と同等のレベルで描いているわけではない。
そこに描かれているのは、宇白順が「虐殺の痛みを引き受けるために、一人一人殺していくことを、あえて選んだ」という「同情をひく」描写があるだけで、読者に「一人一人の生と死」を突きつけたわけではない。所詮は、宇白順を「悲劇のヒーロー」として描いたに過ぎないのである。

しかし、冷静に考えてみればわかることだが、宇白順のやったことは、いきなり異星に巨大戦闘メカで降り立ち、問答無用でその星の住人たちを虐殺していった、ということでしかない。
つまり、行為としては、昔ながら侵略異星人そのままの行為をしているだけだし、それがたとえ「自分たちの星の人を生かすため」であったとしても、それは『宇宙戦艦ヤマト』で描かれたガミラス星人・デスラー総統のやったことと、何ら選ぶところはないのである。

つまり、原作『ぼくらの』は、ラディカルな思考実験と描写において、人間が生きることの現実を描き出そうとしたが、結局は、その「非現実的(非社会的)観念性」に脚を掬われ、『宇宙戦艦ヤマト』が最後に提起した「たとえ避けられない状況であるとしても、我々が(努力し模索)しなければならないことは、戦うこと(殺し合うこと)ではなく、愛し合うことだったんだ」という「難問提起」を放棄して、あっさり「侵略宇宙人の立場に居直る」ことでしかなかったのである。

アニメ版『ぼくらの』のオリジナルキャラクターとして登場した蓮木一郎が『ヤクザの抗争を無血で手打ちさせる』異能の持ち主として描かれていたのは、それが「目指されるべきもの」であるとアニメ版の監督森田宏幸と考えたからであろう。森田の中には、『海のトリトン』から『宇宙戦艦ヤマト』『無敵超人ザンボット3』などを経て『機動戦士ガンダム』へと受け継がれていった「意志」が、受け継がれている。

たしかに「滅ぼすか滅ぼされるかの二者択一」においては「和解」を持ち出すことは「逃げ」であろう。
けれども、それなら切江が模索した「自死」は、決して無視できない「もうひとつの選択肢」である(この選択肢を選んだラストとして、政治的殺人(テロリズム)のリアルを描いた、伊藤計劃のSF小説『虐殺器官』がある)。

残念ながら、アニメ版『ぼくらの』では「滅ぼすか滅ぼされるかの二者択一」において「滅ぼす」のでも「滅ぼされる」のでもなく、また第三の選択としての「自殺」をも選ばず、「滅ぼすか滅ぼされるかの二者択一」という設問自体を破壊して、設問に対する回答を回避してしまった。

しかし、「誤った設問」には「回答拒否」が「正解」である場合もある。
というのも、悪魔はしばしば「誤った設問」によって、人に道を誤らせる、ということをするからである。

例えば、先の大戦において、我が国の軍部政府は、日本が降伏すれば、鬼畜米英が本土に乗り込んできて「男は皆殺し、女は辱めをうける」から、降伏という選択肢はあり得ず、日本国民が選ばなければならないのは「敵殲滅か一億玉砕の二者択一」であると唆かして、無用の死者を大量に出すことになってしまったのである。

『ぼくらの』に描かれた「極限的二者択一」という「思考実験」が、無意味だとは思わない。
しかし、それは所詮「思考実験」に過ぎず、それを直接的に「現実」問題に対応するものだとするのであれば、私たちは「恣意的に狭められた選択肢」という罠の中に、むざむざ追い込まれるのは、正しい態度選択ではない。

現実とは、いつでも「形式論理」を乗り越えていく不確定な状況なのだから、私たちは「人間としての英知」を絞って、ゴルディアスの結び目の断ち切り方を探すべきなのだ。

私たちは、悲惨な状況が描かれていれば、それが「現実的」かつ「本質的」な描写であり、真実探求の態度だと思い込んでしまうような「お子様」であってはならない。
たとえ結果として「十全の回答」が得られないとしても、私たちは「自分を生かし、人をも生かす」という「理想」を放棄してはならない。
問題を「単純化」した上で、ラディカルぶって見せても、本質的な思考からすれば、それが斯くも「逃避的な態度」でしかないのは、歴然としているからである。


アニメ版『ぼくらの』の目指した方向は、決して間違ってはいない。
間違っていたのは、自堕落な「バンザイアタック(自爆攻撃=特攻)」をラディカルな態度だと勘違いしていた、原作の方なのである。

私たちは「美しく特攻」する前に、精一杯「自他を生かす」努力に、もがき苦しむべきだ。
たとえ、「十全な回答」には到れなくても、その「不完全な回答」にいたる「過程」にこそ、人間の「尊厳」は輝くからである。


 2012年6月1日



【参考・引用資料】

・ ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/ぼくらの)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ぼくらのの登場人物)

・ ブログ「全てが台無し―雑記帳―」の日記「「ぼくらの」が面白い」(2007/06/14)
http://dynasick.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_ddb4.html

※ アニメ版の監督森田宏幸氏のブログとtwitterは、あえて読みませんでした。
  あくまでも、私が作品から読み取ったものを語りたかったからです。
  結果として私の「読み」が、森田氏の語るところと食い違っていたとしても、
 それは私の「読み違い」を意味するものではなく、私と森田氏の「解釈の差」だと考えます。
  それは私が、作者に「作品解釈の特権」を、認めてはいないからです。


初出:mixi同名日記(2011年06月01日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1730638331&owner_id=856746
 
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