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国家と犯罪と有責性

 投稿者:園主メール  投稿日:2012年 5月17日(木)14時51分17秒
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  みなさま、本日は、日垣隆の旧著『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫)について論じてみたいと存じます。

日垣隆については、私は8年前に、

・ 文学賞にジタバタ ――フジ産経・文春系作家、日垣隆の場合
 (http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/intell_higaki.html

という文章で、日垣が『産経新聞』に書いた「文学賞にあたふた」と題する短文を、批判しております。

拙文の副題にも明らかなとおり、私は当時、日垣を「フジ産経・文春系作家」と認定して敵視しておりますが、この認定は必ずしも正確ではございません。と申しますのも、日垣隆は、東北大学在学中『日本共産党指導下の日本民主青年同盟系学生自治会の委員長』を務めたりしており、もともとは「左翼」に属する人物なのでございます。
しかしながら、その後『朝日新聞のコラム「天声人語」(小池民男による執筆のもの)、産経新聞や正論といった既存のジャーナリズム、さらに評論家の佐高信、石原慎太郎、検察庁、みずほ銀行などを批判、イラク戦争に反対、日本共産党の市田忠義に一定の評価を与えるなど、従来の左右対立図式には当てはまらない立場をとる。』作家になりました。『ただ、日垣自身は、自分自身の思想的立場を『保守』と表現している。』という事実もあって、「左翼」と呼ばれることもある私の目に日垣隆の現状が「フジ産経」や「文藝春秋」、あるいは「新潮社」に近い「保守系作家」と映ったのは、故なきことではなかったかとも存じます。(※『』内の引用は、ウィキペディアより)

ともあれ、8年前の私が、日垣隆に反感をもったのは、日垣がこの年「第三回新潮ドキュメント賞」を受賞することになる『そして殺人者は野に放たれる』を刊行して話題となり「犯罪者への厳罰主義」「犯罪被害者(および被害者家族)の権利主張」を煽っていたと見たからでございましょう。

端的に申しまして、私は「犯罪者への厳罰主義」や「犯罪被害者(および被害者家族)の権利主張」といったものが、好きではございません。
もちろん、卑怯かつ非人間的な犯罪者に対する怒りや憎悪は人後に落ちないつもりでございますが、そうした「個人的な感情」を「国家」や「政治制度」によって慰撫してもらおうとか、してもらって当然だとする姿勢が、好きではないのでございます。

つまり私に言わせれば「国家は、国家運営という枠内でしか、犯罪者の処遇を考えない。決して、被害者や被害者家族のために、犯罪者を罰するのではない。しかし、それが不満なのであれば、自分で犯罪者を処罰すれば良い。国家制度の枠内での処罰が不満だというのであれば、自身が国家の庇護の枠内に止まって、安全に犯罪者を間接的に攻撃(復讐)するのではなく、自らも国家の枠内から外れて、自己責任で犯罪者に対して報復すれば良い。それが出来ないのに、自己満足を求めるような過大な要求を国家に求めるのは、覚悟のない甘え(べったりの依存)でしかない」というようなことなのでございます。

ここで勘違いしてもらっては困るのは、私は「国家の不(十分)作為」を擁護しているのではなく、「国家」を「国民に奉仕するもの(国民の味方)」だとする「建前的前提の自明視を否定している」のでございます。
「国家とは、国民への協同奉仕装置」などではなく、それを装った「国民を構成要素とする、制度維持装置」であり、「国家は、国家のために国民を温存利用する、自己保存制度」なのだと、私は、なかば国家を敵視しております。
言い換えれば、国家が「国民に奉仕するもの(国民の味方)」ものだなどという「きれいごと」に無思考に乗っかっている人たち(国民)は、常日頃「あるべき国民の権利」に対しても無思考・無責任であり、国民全体の権利についてはろくすっぽ考えたこともないくせに、自分の権利が侵害された時だけ、「建前」を振りかざして「権利以上のもの」要求して騒ぐだけの、ご都合主義的な人たち(豚のような大衆)だと、私は見ているのでございます。

こうした彼らの「要求」が、自分たちで主張するほど切実なものなのであれば、当てに出来ない「国家」などに頼ることなく、自ら国家制度の枠内から踏み出して、憎い加害者に「私的に報復する」ことも出来るはずだ。それが出来ないのは、その人が口先でだけ大げさなことを言ってるだけで、結局は「被害の大きさ」や「被害の回復」よりも、従来どおりの「国家の庇護」を選んでいるとしか言いようがない、と斯様に思うのでございますね。

つまり、ここで私が言いたいのは、「犯罪者の悪質性」の問題以前に、国家を通して「他人の手」で「自分たちの望み」どおりに「犯罪者を厳しく罰して欲しい」と望むのは、本質的に無責任な「一方的な甘え(べったりの依存)」でしかない、ということのでございます。

ですから、日垣隆のように「被害者家族の悲劇性」ばかりを強調し、お涙ちょうだい的に「読者の感情に訴える」ことで「制度依存的報復」を自明化するような欺瞞的言説(としての「犯罪者への厳罰主義」や「犯罪被害者(および被害者家族)の権利主張」)には、与し得ないものを感じるのでございます(そもそも、殺人事件の場合、被害者=死者の、加害者=生者への意思表示はあり得ず、おのずと事後の権利主張もあり得ない。したがって実際には、被害者家族という第三者の権利主張があるのみとなる)。

「敵討ち」は、「返り討ちにあうリスク」を引き受けたところにこそ成立するものであって、そのリスクを引き受け得ないで「国家権力(他者)への丸投げ」を望む「高みの見物」者が、「他人の手を借りた報復」を声高に叫ぶことの「恥を知れ」と言いたいのでございますね。

もちろん、私のこの主張は「犯罪被害者家族」には過酷なものかもしれませんが、「被害者家族になるまでは、何も考えていなかった」彼らには、この機会に「国家による刑罰」ということの意味を、すこしは考えていただきたいのでございます。

なぜならば、こういう「国家と個人の関係」問題を考えたことのない人こそが、戦争になったら「お国のために、戦争に行くのは当然」みたいな、安直な「ギブ・アンド・テイク」を主張するものだからでもございます。
しかし、「国家と個人」の関係は「対等」ではなく、「個人が主であるべきでありながら、実質は覇権の凌ぎ合い関係」なのでございます。

                          ○

さて、ここからは日垣隆の『そして殺人者は野に放たれる』の内容にそって、考えてみたいと存じます。

本書で、中心的に論じられているのは「刑法39条」の問題。
特に、その「第2項」の「心神耗弱」による「限定責任能力」の問題でございます。

【刑法39条】
 1 心神薄弱者ノ行為ハコレヲ罰セズ
 2 心神耗弱者ノ行為ハソノ刑ヲ減刑ス

第1項は「心身薄弱=心神喪失」者は「責任無能力」として「罰せず」という規定でございます。
簡単に申しますと、意識や思考能力を「喪失」した状態で犯された犯罪行為は、そこに「故意(自由意志)」が存在せず、「過失」や「事故」の類いであるから、犯罪として罰することはしない、という規定でございます。

そして、問題の第2項は、病気や薬物などの何らかの理由によって、犯行時、意識や思考能力を「弱らせていた(低下させていた)」ことにより、「故意(自由意志)」が完全には認定できないため、その責任能力は限定的にしか認め得ないから、その点に配慮して「刑罰を軽減する」という規定でございます。

では、なぜ「第2項」が問題になるのか?

そのわかりやすい例を挙げますと「覚醒剤をうった男が、幻覚にとらわれて通り魔殺人事件を起こした」とか「飲酒による酩酊状態でケンカをして、とっさに相手を刺し殺した」とかいった事例、あるいは「先天的な反社会的気質の持ち主による常習的犯罪」などが、それでございます。

「覚醒剤」や「飲酒」によって、犯行時「心神耗弱」の状態にあったと判定されれば、「しらふ」で同じ罪で罪を犯した場合より、刑が軽減されるのでございます。
しかし、これは一般的な市民感覚としては、納得できない部分がございましょう。
なぜならば、強制的に「覚醒剤」を射たれたり「酒」を飲まされたというのであればいざ知らず、本人が進んで摂取し、進んで「心神耗弱」状態になったのであれば、その状態については、本人が全面的に責任を持つべきであり、問題を「犯行時のみ」に限定すべきではないと考えられるからで、私も同様に考えます。

つぎに「先天的な反社会的気質の持ち主による常習的犯罪」でございますが、これは非常に難しい問題でございます。
と申しますのも、こういう「反社会的異常性格者」とは、一種の「先天的障害者」であり、「覚醒剤や飲酒による選択的異常」ではなく、その異常性そのものは、本人の責任ではないからでございます。
しかし、こうした人が犯罪を犯した場合、犯罪時は「いつも心神耗弱」であり、つねに罪が「軽減」されるか「不起訴」扱いになるため、結果として彼らは、すぐに再犯が容易に可能な状態に戻されてしまうのでございますね。

で、一般的な感覚からしますと、たしかに「先天的異常(反社会性)」は本人の罪ではないとしても、現に犯罪を起こし、再犯を起こす可能性が高い彼らを「野放し」にするのは、国家が「反社会性」を保証しているようなものであるから、刑務所に入れられないのであるならば、彼らを何らかの「保護施設」に収容すべきである、ということになりましょう。
まだ犯罪を犯していない者を「犯罪を犯しそうだから、社会から隔離せよ」という「予防検束」の思想は、現代社会の良識では認められるものではございませんが、「すでに現に犯罪を起こし、その犯罪誘因を保持したままの、同人物」を、そのまま社会に戻すのは危険極まりないから、そのリスクを回避しえる範囲で、最低限そうした「反社会的人間」を社会から「隔離保護」すべきだという発想は、十分に理解可能でございましょう。
じっさい、本人の責任ではないとは言っても、先天的に盲目だとか癲癇を持っているといった人たちは、その故に運転免許を制限されたりしているのですから、先天的に反社会的性格を持った人たちが、一定の「自由の制限」を受けるのは、社会制度の枠内ではやむを得ないことと考えられるからでございます。

しかし、日垣隆が『そして殺人者は野に放たれる』で紹介しているとおり、日本では、罪を起こした「心神喪失者」や「心神耗弱者」を罰しないかわりに、医療的保護的にフォローするための設備が、まったく整備されておらず、そこが問題になるのでございます。
本来、こうした「刑罰ではなく治療(保護)を」というかたちでの「人道的措置」を保証するための設備が整っていてこその「責任ある人道的措置」のはずが、それを欠いたまま「罰せず」とやってしまうために「無責任な人道的措置」になってしまっている現実が、日本にはある。
つまり、問題は「人道的理想」と「現実的対応」の懸隔がありすぎて、そこが問題となっているのでございます。

もちろん、三権分立である以上、裁判は「行政的対応の遅れ」を理由に、加罰の程度を案配することは出来ません。行政的フォローがあろうと無かろうと「罰せられないものを罰するわけにはいかない」というのは当然のことでございますから、この現実的矛盾を解消するためには、行政による施設整備か、法改正しかないのでございますが、これがどちらも容易なことではないというのは、ご理解いただけましょう。

また、日垣隆が本書で大きく採り上げている問題として「精神鑑定」の問題があり、これも「理想と現実の懸隔」の問題だとも申せましょう。
と申しますのも、「心神喪失」や「心神耗弱」の問題というのは、あくまでも「医学的な問題」であって、元来、裁判官の守備範囲ではありません。そのため、検察側が描く「被告による具体的な犯行状況」だけではなく、被告の「内面(犯行時の自由意志)」を判断するために、検察官・弁護人・裁判官それぞれの立場から、必要に応じて「精神鑑定」がなされ、しばしばバラバラな鑑定結果が「専門家」から提出されるのでございます。

で、問題は、「精神の専門家」は「精神科医」でございますから、彼らが鑑定をするわけでございますが、彼らは「鑑定家」である前に「医師」でございますから、どうしても「病者の側」に立って考えるため、「鑑定の公正中立性」が、原理的に確保しにくい、ということなのございます。
また、特に「殺人事件」などの場合、犯人は犯行時、多かれ少なかれ「異常な精神状態」におかれておりましょうし、もしも「完全に冷静に殺人を犯した」とすれば、それはそれで「異常」だということになりますから、どっちにしろ「凶悪犯罪者」というのは「心神耗弱」と鑑定されがちで、その結果、その犯罪が「凶悪異常なものであればあるほど、逆に犯行時の責任無能力が認定されがち(=不起訴になりがち)」ということになりがちなのでございます。「まともな精神状態で、見も知らぬ人を何人もも殺したりできるわけがない」ということになり、時に「狂気の連続殺人者」は、精神異常者として「無罪」になったりするのでございます。
つまり、この場合も「精神鑑定」をおこなった精神科医は「善かれ」と思って「責任無能力」の鑑定をいたします。じっさい、異常な犯罪を犯した犯罪者をよくよく鑑定すれば「異常が見つからないわけがない」ので「異常を異常と診断するのは当然」ということにもなる。

しかし、その結果、無罪になった殺人者は、医療的保護的に施設に収容されてフォローされることもなく、比較的短期で一般社会復帰してしまい、しばしば再犯するのでございますね。
で、この「再犯」の問題は、あくまでも「行政的問題」であって、精神鑑定者の責任ではないということになり、ここにも「人道的理想」と「現実的対応」の懸隔があらわになってしまうのでございます。

したがって、現状では「正常=有責」と「心神喪失=無責」の中間と考えられているの「心神耗弱」は、「なかば異常=なかば有責(なかば無責)」ということになるのでございますが、しかし原理的に考えますと「人間というのは、多少なりとも異常」であり「常時完全無欠の正常人などというものは、存在しない(それはフィクションである)」のですから、「犯行時の、ある程度の精神的な異常性は、むしろ正常の範疇」と考えるべきなのでございましょう。
その意味で私は、日垣隆が訴える「常時完全無欠の正常人」というフィクションに依拠した「39条第2項」の削除(廃止)には賛成なのでございます。


さて、本書で日垣隆が主張している、注目すべき「精神鑑定」の問題点は「精神鑑定は、あくまでも、犯行後の裁判の時点での被告を調べて、犯行時の被告の心身状態を、推測するものでしかない」という点でございます。
つまり、平たく言ってしまえば、精神鑑定は、精神科医による「たぶんこうだっただろう推理します」という「解釈論(個人的推理)」でしかない。だからこそ、「いろんな推理、解釈が出る」ことにもなるのでございます。

ですから、「精神鑑定」とは、本来なら「参考意見」に止めるべきものであって、被告の「犯行時の精神状態」は、あくまでも「検察弁護双方の立証」をもとに裁判のなかで「判定」すべきものなのですが、現状では「精神鑑定」が「印籠」的に扱われ過ぎている、というのが日垣隆の主張するところであり、事実そういう(安易と取れる)事例はたくさんあるのでございましょう。しかし、これは裁判官側の言い分もございましょうから、私は現段階では何とも判定いたしかねますものの、日垣隆の報告が大筋で事実であると仮定すれば、彼の主張は正しいと存じます。
「餅は餅屋」と言っても、その「持ち屋(精神科医)」にだって「過去のことはわからない」のですから、「犯行時の状況」の認定は、あくまでも裁判での立証に沿って「総合的」判断されるべきであり、むやみに「精神鑑定」を権威化すべきではないと思うのでございますね。


さて、以上は「裁判」のあるべき姿を考えたのですが、次は「被害者家族」でもなければ「裁判制度」でもなく、「犯罪者」自身の視点から、その「責任能力」の問題を考えたいと思います。

ここまでを読んでいただきますと、私は「犯罪者」に対して寛容であり、彼らを擁護しているように見えるかも知れません。しかし、それは間違いでございます。
私は、「被害者家族」の感情や、「裁判制度」の問題を論じてきただけで、「犯罪者」自身が「どうあるべきか」については、まだ何も書いておりません。それを、これからここに記しますが、私の考え方の基本は「主体的応報主義」でございます。

つまり、「被害者家族」がどう言うかに関係なく、また「裁判制度」の問題に関係なく、犯罪行為を為し、他者に被害を与えた者は、それ相応の、つまり「同等以上の償い」を「自ら選び、背負うべきである」ということでございます。

で、この主体的「応報性」を前提として、それを自ら選べない人間については、仕方がないので、次善の策である社会的フォローとして、国家が「応報」的刑罰を与えるのもやむを得ない、と考えます。

ただし、「応報」と言っても、単純に「目には目を(殺人には死刑を)」といった、単純なことではございません。
例えば、「終身刑」や「賠償のための強制的生涯労役」や「収容期間の短縮禁止」などといったこともありだと存じます。
「被害者家族」が「死刑」を望んでも、そんな意見には関係なく、犯罪者に「死にも伍する刑」を課するのでございます。

これは、ある意味、非常に過酷で残酷な措置だと言えるでしょうが、まさに私はそれ(自己処罰)を「犯罪者に求めている」のでございます。
なぜなら、「心神喪失者」であろうと「心神耗弱者」であろうと、そうした「非社会的弱点」をもった彼らが、それでも社会の中で「一人前の人間」として生きようと思うのであれば、自身の弱点まで含めて、その行為責任を引き受けなければならない、と考えるからでございます。

もちろん、知的障害者には、そうした意思決定すらなしえず、それを求めることは困難なのですから、そこはもう「社会的補助と社会的制限をワンセットで課す」しかないでしょう。

日垣隆も申しておりますが、私も「犯罪者の人権」とは「人並みに刑罰を受ける権利=人権」の保証があってのものだと思うのでございます。言い換えれば、責任の取れない者が「権利」を制限されるのは、「社会」の中ではやむを得ないと思うのでございます。なぜならば「社会制度」が保証する「人権」とは、所詮は「フィクション」だからで、だからこそ「フィクション」を成立させるには、その担保としての「有責性を内在した人間」性が必要だと思うからなのでございます。

私の考えの基本にあるのは、あくまでも「主体性」でございます。
「責任」というのものは、「国家=法律」や「被害者家族」などといった「他者」の要請によって問われるべきものではなく、あくまでも「行為者」が主体的に担うべきものであり、それから逃げる卑怯者は、他者からの「応報的な処罰」を甘受すべきである、と考えます。
これは、言い換えれば「どんな犯罪であれ、やましくなければ、自分の論理で徹底抗戦せよ。たとえ、そのことで殺されることになろうとも」というもので、これが「自分の行為に責任を取る」ということの「原型」だと考えるのでございます。

以上、いささか未整理な部分もございますが、みなさまに「有責性」の問題を、すこし本質的に考えていただく叩き台になれば幸いと存じます。




★ カムイさま


記録更新前の脳内達成レベル

> カラオケの最長時間記録更新は、私の脳内想定の範囲内では達成しているんですが、事実、まだ挑戦していません。
> 記録の挑戦には、年内中にご都合がつけばということで、愉しみは後に置いておきたいものですから。(*^_^*)

ええ、その日を楽しみにしております(笑)。



★ ホランド


「脳内密室」講義

>  もちろん、「好き嫌い」と「良否是非善悪」は截然と区別できるわけではありませんが、その区別を「想定する」ことすら出来ない人が意外に多いという事実をふまえれば、やはり“「好き嫌い」と「良否是非善悪」は区別されなければならない。”と、わかりやすく語らなければならないのでしょうね。たとえ、そうした冷徹な語り方を「好まない」人が多かったとしても、です。

そうだな。
「好き嫌い」と「良否是非善悪」の境界の問題を、真剣に考えたことのある人なんて、千人に1人もいないだろうからなあ。
でなきゃ、その区別がまったくついていない、能天気な素人レビューを公開する人が、あんなに多いわけがないし、twitterが流行ることもないだろう。考えていたら、気安く呟くことなんて出来ないからな(笑)。





それでは、みなさま、本日はこのあたりで失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
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