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人間不在地帯 一一 映画監督 藤原敏史の世界 【第3回(最終回)】

 投稿者:園主メール  投稿日:2013年 1月17日(木)23時30分54秒
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  人間不在地帯  一一 映画監督 藤原敏史の世界 【第3回(最終回)】



                                    田中幸一(アレクセイ)


 前回第2回では、『福島第一原発事故で避難を余儀なくされた地域に取材した日仏合作のドキュメンタリー『No Man's Zone 無人地帯』』を撮って「反原発」派の旗幟を鮮明にするその一方で、放射能を怖れる一般の人たちを「放射脳」と呼んで揶揄することを恥じない「映画監督 藤原敏史」と、同じく「反原発」のテーマを掲げたフィクション映画『希望の国』を撮った園子温監督を比較して、両者の根本的なスタンスの違いを示した。

 要は、弱者の立場に立つ園子温監督とは好対照に、藤原敏史監督にとっての「被災地」とは「自己顕示の道具(おいしい題材)」でしかない、ということだ。
 だからこそ藤原にとって「被災地以外」とは、彼が「被災地」の権威を振りかざし居丈高に「論評する対象」でしかないのである。「被曝を過剰なまでに怖れる人たち」を「放射脳」と読んで恥じないのも、藤原敏史にはそうした人たちが単なる「馬鹿(人間以外)」にしか見えず、決して「原発行政の被害者」とは映らないからなのだ。

 つまり、藤原敏史の頭には「わかっている自分と、その自分を頼ったり誉めたりする人々」と「それ以外」の二極しかない。当然のことながら、前者には「真理」があり、後者には「暗愚(誤読誤解)」でしかないということになる。じつに幼く単純な「図式的世界認識」なのである。
 そしてこれは、藤原敏史の頭には「政治的党派理論(一面的形式論理)しかなく、人間が不在」だということである。彼は「人間」の視点から「左翼的」発言をするのではなく、「私は正しい」という「自身の立場(空疎な自己愛)」から「人間(他者)」を「否定」しているに過ぎない。

 例えば、次のような発言がある。


【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
まあねぇ。現状、原発なしに我々の現在の生活水準を維持するのはもの凄く無理がある、っていう自分達の責任をヌキにした「脱原発」を言われたって、まともな人は誰も本気に出来ないわけですから。 RT @minako_genki: こういう人って、もう少し深く考えてみて欲しい。↓



 藤原が「放射脳」という「蔑称」を、どういう人たちに向けているかは、ここにも明らかだ。
 藤原は、「原発即時停止派」がどのような理論的裏づけが持ってそう主張するのかについてはまったく顧慮せず、『自分達の責任をヌキにした「脱原発」』を「無責任に言っている」だけだと決めつけている。こんな「私だけは現実を把握しているから無茶は言わないが、原発即時停止派は馬鹿だ」式のことを「無責任」に語り、一方でその「無根拠な自信」だけに依拠して「真の反原発派」映画監督みたいな顔をしているのが、藤原敏史なのだ。

 案の定、こういう藤原への批判は、数多くあるようで、下はその一例である

 ・ まとめ「細野サポーター、大企業サポーター」(http://togetter.com/li/410623

この方の、罵詈雑言はちょっと見ものなので、まとめて見ました。
細野モナ男、瓦礫汚染拡散大臣に期待しているそうです。
政府は大企業を保護しないと経済がなり行かないという、一昔前のレーガンのサプライサイドを信じていらっしゃるよう。
BPの原発に比べればあんな小さなスピルでも、$4.5 billionの賠償金をかされたので、裁判をされるのはよほどこわいのでしょうね。


 それにしても、藤原敏史という「人」は、いったいどういう「精神構造」をしているのであろうか?

 もちろん、私は藤原のように「素人精神病理学診断」など、しようとは思わない。私はあくまでも常識の範囲内で、誰もが「藤原のツイート文(の文体)」に感じている「違和感」について、文学的修辞を用いて、わかりやすく説明するだけである。


                        ○

 「藤原敏史の精神分析」に入るまでに、本稿第2回を読んだ、藤原敏史の感想を紹介しておこう。
 本稿が「デタラメで採るに足らない」と断言するのは、あの藤原敏史であらば当然であるとしても、驚くべきは、第2回で自分と比較された園子温監督の作品『希望の国』までも『駄作』だと貶して見せていることだ。ここまでくると、まさに藤原の「正気」を疑わなければならなくなってくる。


【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@Drog16 なんで『希望の国』が出て来るんだ(爆笑)。こいつがバカなのは分かりきっているとはいえ→@alekseytanaka 園さんには悪いけどあの映画は福島で友達と話す時の「ネタ」でしかありません。一緒にされては困るくらいにバカげている。


【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@alekseytanaka 君の病的な自慢したくてしょうがない、しょうがない、っていうコンプレックスの自己投影では、園子音の「希望の国」がひどい駄作である、って話も「自慢」に見えてしまうんですね。あの…精神科に行って下さい。@Xiuringringdayo @Drog16


【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@alekseytanaka 「希望の国」がひどい映画だという話が、どうやったら「自慢」になるのか、是非説明して下さいwww ああ馬鹿丸出しだこいつwww @Xiuringringdayo @Drog16



 大の大人が公然と、こんな「やつあたり」や「負け惜しみ」をするなどとは、多くの人には、にわかに信じられないだろう。藤原敏史を「頭がおかしい」んじゃないかと疑っている私ですら、この発言には心底驚かされた。
 もはや藤原の「精神分析」は、比喩的なそれではなく、本物の精神科医へ委ねるべきなのかも知れない。だが、ご本人にはその気がないようなので、ここでは一般的な議論としての「藤原敏史の精神分析」を試みたい。


 藤原敏史の顕著な特徴としては、まず、

 (1) 自慢話が多い
 (2) 自分を誉めないものは「敵」とみなす「敵味方二元論的思考」
 (3) 権威主義

などの諸点が見られる。
 これらの特徴の要となるのが、藤原敏史の「自己中心的思考」であると見ていいだろう。

 前にも示したとおり、藤原敏史は自身のブログに自己紹介として『日本ではまったく有名でない映画監督・藤原敏史』と書いている。ここには明らかに「日本ではまったく有名でない(けれど、海外では有名なんだよ)」と、訊かれてもいない「自慢話」が含まれている。要は、有名であろうがなかろうが、職業を紹介するのであれば「映画監督」だと書けばいいだけなのだが、わざわざこのように「反語的な自賛形容」をつけたのは、藤原敏史にとっては「ブログの中身」よりも「自身が有名であるのを訴えること」の方が重要だと感じられたからであろう。

 もちろん藤原は、自身が『日本ではまったく有名でない映画監督・藤原敏史』と書いたことが「どうして有名自慢になるのか、なる訳ないだろう」と反論しているが、彼は「映画監督」であるにもかかわらず「反語表現」や「暗示」ということが、まったく理解できないようだ。
 それにしても、藤原は自分でこのように「自慢好き」を否定したしりから、下のような「自慢」をして見せるのだから、空いた口がふさがらないとは、このことであろう。


【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@Drog16 …っていうか、なんの史料もなく推論ってwww せめてリベラシオンとユニタとNYタイムズの絶賛の評と、WSJのインタビューくらい読んでからにして欲しいですなぁ(しかしイタリア共産党に絶賛されつまったぜw)@alekseytanaka @fumichani



 本稿が『なんの史料もなく推論』していると言いたいようなのだが、藤原の数々のツイートや自己紹介文が『史料』(「資料」の返還ミスだろう)ではないとでも言うのだろうか?

 しかし、これも藤原敏史の「権威主義的思考」を考慮すれば、彼がこう主張する理路も理解できないではない。要は「新聞や専門誌などの記事」などが資料の名に値するのであって、それ以外のものは資料ではないという「感覚」なのだろう。


 それにしても、こういう「自慢話」を聞かされて、「当たり前の読者」がどのように感じるのか、藤原にはそのことがまったく想像できないらしい。
 こういう話は普通、自分の口から語るものではない。語りたくても自分からは語らないで、それとなく暗示するか、周囲の者に語らせるという配慮をするのが、「普通の人」の「感覚」だろう。なぜ、そのように回りくどいことをするかと言えば、たとえその人がいかに有名人であり、立派な業績を残した人であったとしても、人は(特に日本人は)「自慢話」を嫌うからである。つまり「謙譲の美徳」という美風が、いまも生きているからだ。
 ところが、藤原敏史には、そうした「感覚」が完全に欠落している。もちろん、藤原が自覚的にそうした「文化」を否定しているのなら、それはそれでかまわないのだが、藤原の場合は「天然」であり、どう見ても「見境なく自慢をしている(本能のままに自慢話を垂れ流している)」ようにしか見えない。

 そもそも「有名」であることや「高評価」といった「自慢しうる要素」というのは、「他者の評価」だからこそ価値がある。
 人間だれしも多少は「自身の美点」を認めてはいるだろう。こうした「自己肯定感」は、人間の自然かつ健康な心のあり方で、なんら恥ずべきことではない。
 しかしながら、そうした「自己(高)評価」は、「当たり前(普遍的)」なことだからこそ、他人に語っても「無意味」なのだ。つまり、人に「自己愛」を語っても見せても「この人、何の根拠もない自慢話をして、頭がおかしいんじゃないの。うざい奴」と思われるのが関の山なのである。また、だからこそ人は、「有名」であることや「他者の高評価」といった「自慢」しうる要素を示すことで、他者からの敬意を勝ち取ろうとするのだが、示すべきが「他者の評価(客観的高評価)」だからこそ、それを自分の口で(主体的に)語ることは、その効果を減殺させることにもなるのだ。

 考えても見て欲しい。藤原敏史のように『これでも世界で屈指の映画批評家の絶賛だけは毎度毎度とりつけている映画作家なんです』とか『せめてリベラシオンとユニタとNYタイムズの絶賛の評と、WSJのインタビューくらい読んでからにして欲しいですなぁ(しかしイタリア共産党に絶賛されつまったぜw)』などと自分から言ってしまう人間と、そういうことはまったく口にせず、有名人ぶったり威張ったりしたところがまったくないのに、あとで知ったらすごく有名な人だったというような人なら、ほぼすべての人が後者を尊敬するし敬意を払うだろうろうし、前者については「馬鹿じゃないの」と反発すら覚えるだろう。
 こんなことは「普通の人間」にとっては「当たり前」な話なのだが、藤原敏史には、この「基本的な人間感情(と、その理解)」が欠落している。だからこそ、あのような「自分に不利益をもたらすしかない」であろう「異常なまでの自慢話」が平気で出来るのである。
 わかりやすく言えば、「藤原敏史の自慢欲望」とは「場所を選ばずにさかる犬の性欲」と、まったく同じレベルの「他者の視線を欠いた」ものなのである。

 藤原敏史の「異常性」は、このように「他者の視線を欠いた」という点にあるし、裏返せば「極端な自己中心的思考」ということになる。


                        ○

 こうした「異常性」は、例えば、藤原の「精神病理学的知見への執着」などにも見られる。

 藤原敏史の職業は「映画監督」であり「評論家」であって、「精神科医」でも「精神病理学者」でもない。評論家として「精神病理学的知見」に興味を持ち、それを参照することは珍しくはないけれど、藤原のように、あたかも自身が「精神科医や精神病理学者」のごとく振る舞う人間など、普通はいない。

 じっさい、藤原の語る「精神病理学」話を読んでみると、彼が「専門用語(ジャーゴン)」を振り回し、論敵を「病人扱い」するばかりで、まったく「精神病理学」の何たるかを理解していないことがわかる。
 第1回でも紹介したとおり、多少なりとも「精神病理学」をかじっていれば、「素人診断」が如何に間違いかというようなことは、容易に理解できるはずである。しかし、藤原敏史には、それがまったく理解できない。
 そもそも、人の年齢を20も30も読み違えたあげく、私を『ボクちゃん』などと若造扱いにしてみたり、前記のとおり「わざわざ馬鹿にされるだけの自慢話」したりするというのは、常識的な範囲においてすら「人の心が読めていない」証拠である。そんな人間が「精神病理学」の本を読み齧ったくらいで、他人の「精神病理を診断できる」などと思うことの方が、よほど「ビョーキ」なのである。

 それにしても、藤原敏史はなぜ「精神病理学的知見」に「執着」するのだろうか?

 まず考えられるのは、

 (1) 精神病理学という学問の「学問的権威」

であり、次には、

 (2) 精神病理学が「人の心」に対する「上位的視点」に立つもの

という点が挙げられよう。つまり「人の心を支配する道具」になりうる(と考えうる)ものなのだ。
 だからこそ、「自己中」の藤原敏史は、「精神病理学」を振り回したがる。「精神病理学」に限らず「鬼面人を脅かす」態の半端な知識を振り回して、その種の知識を持たない人を圧倒し、信服随従させようとするのだ。


 しかし、藤原敏史のこうした「精神病理学的議論」など、所詮は「子供騙し」でしかない。いわば、藤原の「文体」は「細切れかつ出来の悪い、法水驎太郎の長広舌」とでも喩えられよう。

 「法水驎太郎」とは、戦前の推理小説家 小栗虫太郎の代表作『黒死館殺人事件』などに登場する「名探偵」である(現役推理作家の「法月綸太郎」とは無関係)。法水の特徴はその「推理の衒学趣味的長広舌」にある。
 『黒死館殺人事件』について、「wikipedia」には、次のとおりある。


基本的な筋は、前作『聖アレキセイ寺院の惨劇』を解決した名探偵・法水麟太郎(のりみずりんたろう)が、「ボスフォラス以東に唯一つしかない…豪壮を極めたケルト・ルネサンス様式の城館(シャトウ)」・黒死館で起こる奇怪な連続殺人事件に挑む、というものである。(略)黒死館を舞台として、ファウストの呪文とともに繰り広げられる奇怪な殺人劇が、降矢木家に襲いかかる・・・

しかしある視点から見れば、そうした筋立て自体はほんの付け足しに過ぎない。本書全体の9割以上は、事件解決とは何ら関係しない神秘思想・占星術・異端神学・宗教学・物理学・医学・薬学・紋章学・心理学・犯罪学・暗号学など広範にわたる夥しい衒学趣味(ペダントリー)で彩られており、本来は裏打ちとなるべき知識の披露が全体に横溢し作品の装飾となるという主客転倒を見せている。

これは衒学趣味の単なる披露ではなく、
主観の多様な解釈によって客体は多様に変化をおこす(すなわち客体自体に意味特性は存在しない)という世界観の表現と、単純な実体を装飾によって豪華絢爛にみせたいという本人の希求にもとづいている。


 つまり、法水驎太郎は「事件における特定事象を、物理的に分析するのではなく、その博識によって異化する」のである。
 一見したところ、暗く謎めいた事件とは言え、所詮は「物理的な殺人事件」でしかないものが、名探偵法水の「語り(騙り)」によって「この世のものならぬ、幻想的かつ哲学的事象」へと異化されるのを、読者は目の当たりにする。それが『黒死館殺人事件』の面白さなのだ。
 『黒死館殺人事件』における、小栗虫太郎の「得意な文体」や「法水驎太郎のペダントリー」がどのようなものであるかは、「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/1317_23268.html)を参照してもらえば、一目瞭然であろう。

 さて、言うまでもなく『黒死館殺人事件』における「法水驎太郎の衒学的推理」は、所詮は「娯楽フィクションにおける修辞的工夫」に過ぎない。だが、「藤原敏史の精神病理学的な知ったかぶり」は、リアルな人間、しかも「敵」に向けられるものだ。

 「法水驎太郎の衒学的推理」の「異化効果」の面白さは、例えばマルセル・デュシャンの作品が持つ「異化効果」を考えるとわかりやすい。単なる「小便器」を『泉』と名づけて美術館に展示する。このとき人は、この「意外極まりない組み合わせ」によって「小便器」が「小便器でないもの」に異化される「斬新かつ異様な感覚(世界が違って見える感覚)」を覚え、それを「面白い」と感じるのだが、「法水驎太郎の衒学的推理」の価値も、これと同様のものと言えよう。

 しかし「藤原敏史の精神病理学的な知ったかぶり」には、小栗虫太郎やデュシャンのような「知性のユニークな捻り」も無ければ「ユーモア」も無い。ただ、権威主義的に「精神病理学用語」を振り回して、そんなものに興味のない人を圧倒し、相手の意思を制圧しようとするだけなのだ。つまり『単純な実体を装飾によって豪華絢爛にみせたいという本人の希求にもとづいて』、薄っぺらな知識(蘊蓄)をひけらかしているだけなのだ。
 そして、そうした「蘊蓄=権威主義的レトリック」の煙に撒かれてしまった人が、藤原敏史を「賢いと勘違い」してしまうのである。


 しかしまた、こうした「衒学による威圧」というのは、ありふれたものでもある。例えば、ひと昔前の「ポストモダン思想ブーム」の頃には、それにかぶれた若者たちが、生半可な知識を「衒学趣味的」振りまわして見せる風景が、あちこちで見られた(これは成長過程にある若者の「背伸び」として、むしろ微笑ましいものだろう)。また「オタク」と呼ばれる人たちは、自分の好きなジャンルや好きな作品について、極端に些末な部分にまで知識を収集し、それを仲間内で披瀝し交換することで、お互いに承認を与えるといったことをした。そこでの会話は、ある意味で「衒学的」と言って良いものだっただろう。

 このように「衒学趣味」というのは、「承認欲求」を満たすものとして発露されることが多い。要は「私は、こんなに賢いんだ。だから私を認めよ」という半ば自覚されない欲求に促されて、人は「衒学趣味=知ったかぶりのひけらかし」に走るのである。

 しかし、こうした「露骨な衒学趣味」というのは、通常なら成長にしたがって次第に影を潜めていく。なぜならば、多くの人は、その成長過程において、親や友人や社会から、一定の「承認」を与えられることで、己の「承認欲求」をある程度は満たして、それを抑制しコントロールできるようになるからである。
 言い換えれば、いつまでも「露骨な衒学趣味」を振り回していると、その人は周囲から尊敬されるどころか「幼稚な人だ」と見られてしまう可能性が高い。だから、真っ当に成長した大人であれば、子供じみた「承認欲求」をにじませた「露骨な衒学趣味」や「自慢話」を、理性的に抑制回避するのである。

 ところが、こうした「理性的抑制」が、藤原敏史の場合には、まったく働かない。

 これまで示してきた、いくつもの発言からも明らかなとおり、藤原はその「自己顕示欲」に促されるままに「自慢話」を垂れ流しては、まったく恥じることを知らないし、それが他人の失笑を買う態のものだとも、まったく気づいていない様子なのである。
 つまり、藤原敏史は「他人の視線の内面化」が、まったく出来ていないのである。藤原は「自身の欲望に促されるまま」に他者に向けて「承認要求」の言辞を弄する。まるで「求めれば、応じてくれる」とでも信じているかのように、「私はこういうすごい人間だから、あなた方は私をすごい人間だと評価し、そのように遇しなさい」という発想で「自慢話」をしてしまう。そんなことをすれば、相手が自分のことを「こいつ馬鹿じゃないの(うざい奴)」と思い、逆効果になるのではないかなどと疑うことすらないようなのだ。

 そして、そんな藤原敏史の「自分語り(ナルシス・トーク)」は、予想どおりに次のようなものである。


【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@yamagaa27 あはは、「豪快ぶりつつ、すごく人に気を遣ったり。優しい子」って僕そのものですよ。もっとも僕の場合はこれ、完全に「天然」であるようです。『無人地帯』のいわき試写の時に主催者に言われて初めて自覚したw @fumichani @alekseytanaka


 だが、その一方、自身の「問題性格」についての、内心での気づきの存在も示されている。


【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@yamagaa27 (続き・なんせ「承認願望が満たされない」なんて経験がこれまでほぼ皆無でして…天真爛漫に放任された末っ子の典型なんですよね~。むしろ勘違いで自分を褒める人に喧嘩売っちゃうタイプなんて@alekseytanaka には理解不能だろうなw) @fumichani


 ここには「自慢話」にからめて、自身が疑われやすい「承認欲求の強さ」への「予防線」が張られている。つまり「自分は、承認願望が満たされた人間であり、天真爛漫なだけですよ」という臆面もない「自己申告」である。
 しかし、『末っ子』で『放任』されていたが故に、充分に「承認願望」が満たされなかった、というパターンも多々あろう。要は「親にかまってもらえなかった」というだけかも知れないのだ(普通、末っ子は「放任」ではなく「過保護」になりがちなものなのである)。

 じっさい、藤原敏史の「問題性格」をして『天真爛漫』だと、奇麗な言葉で肯定的に評価するのは、ほとんど「ご本人だけ」なのではないだろうか?
 とにかく「自慢話の多い」藤原に対し、私は「名のある人で、貴方を公然と評価している人って日本にいるの? いるなら名前を挙げて教えて欲しい」という趣旨のことを尋ねたが、この質問への回答は無い。もちろん、彼の周囲には彼の「才能」を認める人はいるだろうが、彼の「人間性」を公然と(つまり、責任を持って)高く評価できる人間がそれほどいようとは思えないのである(もっとも、藤原敏史は「お金持ちの子弟」かもしれない、とは思う)。

 もちろん、藤原敏史も社会人であり、本を書いたり映画を撮ったりしているのであるから、自分でも言っているとおり、周囲には『すごく人に気を遣ったり』して、言わば「ネット上とオフとで、態度を切り替えている」のであろうが、その「自制(自己コントロール)に閾が、きわめて低い(他者への配慮が、「即物的利害関係のある身辺」に限定されている)」というのは、上に示した藤原自身の発言に明らかであろう。一般論としても、利害関係のない人や目下の者に対して威張り散らす人間というのは、往々にして利害の絡む近親者や上司などには、一転して極めて愛想がいいものである。

 また、問題性格者とは、精神異常者や精神病者ではないから、「映画が撮れない」ということはないし、お金があって「題材が良ければ、題材に価値のある映画」にもなるだろう。素人でも「美しい風景写真」なら、わりと簡単に撮れるのと同じことである。


 さて、藤原敏史のこうした「自制心の無さ=未熟さ」は、一体どこから来るのだろうか?

 普通に考えれば、それは藤原の「精神的未熟さ」に由来するものと見ていいだろう。
 本人が自慢しているように、彼が映画監督として一定の評価を得ているのであれば、彼はもっと「心に余裕のある人間」になっていてしかるべきである。ところが、藤原敏史の場合は、海外でいくら高い評価を受けようと、国内で充分に高い評価が得られていないことが、いかにも不満そうである。だからこそ『日本ではまったく有名でない映画監督・藤原敏史』などと、言わでもがななことを書いてしまう。

 藤原敏史のこうした「自制心の無さ=未熟さ」は、本人にとってもマイナスであろうに、藤原はそれを「自制」することができない。
 例えば、私とのtwitterでの一連のやり取りでも、私の立論を支持する人が登場すると、藤原は相手の言葉にはいっさい耳を傾けず、相手を私の「同類」であり「病人」であるかのごとく決めつけて、「しつこく」罵倒し始める。その「見境のない」態度には、しばしば「狂気」すら感じられる。

 ここで、藤原敏史の「異常さ」を批判する人のほぼ全員が指摘することとして「藤原敏史は自分の問題点を、そのまま敵に投影している」という点に注目しなければならない。

 藤原敏史は、「ネトウヨ」でも私でもいいけれど、「敵認定」した相手に「満たされない承認欲求」を見、そのことを指摘することが多い。
 「ネトウヨ」に「承認願望」を見るのは、昨年話題になった安田浩一の「講談社ノンフィクション賞」受賞作『ネットと愛国』(講談社)でも指摘されているとおりで、今となっては「常識的な見方」であると言えるだろう。しかし、論敵を「ネトウヨそっくり」と認定したり「満たされない承認欲求にとらわれた人間」だと片端から決めつけてゆく議論の「紋切り型」に、理性的な判断を見ることは、とうてい不可能である。だからこそ、多くの人は「藤原は、自分のことを、相手に投影している」と指摘することになるのである。
 言い換えれば、藤原敏史がどういう人間なのかということは、藤原自身が「敵」にむけて発する言葉の中に、そのまま表れている可能性が高いのだ。


【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@alekseytanaka とりあえず、あなたのあまりに幼稚な自我の自己投影は、これまでも分かってるように誤謬・誤読の虚偽捏造につながるだけだから、やめた方がいいですよ。悪いけどあなた人間として低レベル過ぎます。@yamagaa27 @Drog1602 @fumichani

【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@fumichani @yamagaa27 さらに読み込めば、自己愛が肥大するあまり、他者を貶めてはそれによって自分の優越感を担保したいだけの@alekseytanakaの歪んだ動機も、精神科医でなくたってたいていの人間は見抜く事ができるでしょうね。 @leokogai

【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@yamagaa27 しかも本の話とか言いながら、この変質者(って言っていいでしょ、明らかに病的だもん)@alekseytanakaって読解力も自分の肥大した自己愛で徹底的に歪められて、話す価値ないじゃないですか。 @fumichani @leokogai @drog16

【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
@Drog16 ざっと目を通しましたが、要するに@alekseytanakaクンにとっては福島県で実際に事故の被害に遭った人たちは「人間ではない」という文章ですね、これ。彼が認識出来る人間とは、自分自身と自分の病理でアイデンティファイ出来る相手だけ、ってことなんでしょうw


 こんな具合である。

 藤原敏史のツイートは「ネトウヨ」そっくりな「下品な決めつけ」ばかりだが、その藤原が「敵」を「ネトウヨと同じ」と認定する時、そこには「言われる前に、先に言ってやれ」というパターンを見ることも、容易に可能だ。
 だとすれば、藤原敏史の「精神病理学的知見への執着」は、じつのところ「それが自分に適用されることへの怖れに発する予防線」だと見ることも出来るし、それで腑に落ちる部分が少なくないはずだ。

 つまり、藤原敏史自身が「精神病理学的」現象としての「問題性格者」的な人間であるからこそ、自身を「精神病理学的」に分析されるのを怖れ、先回りの予防線として、自分を「精神分析」しそうな「敵」に対し「精神病理学的問題人物」というレッテルを貼って回ろうとしているのではないだろうか。
 平たく言うと「相手がキチガイなら、そのキチガイが私をキチガイ呼ばわりしても、私がキチガイだということにはならない」という、幼稚な自己正当化の論理である。そしてここでも、藤原敏史の「二元論」が顔を出す。「私は正常で、私を誉めない者(批判者)は異常者である」という、幼児性の二元論だ。

 藤原敏史のような性格では「生きづらい」だろうというのは、想像に難くない。
 実際、彼はこれまでにも多くのトラブルを引き起こしている「有名人」のようだし、そのために『日本ではまったく有名でない映画監督』とならざるを得なかった部分もあるのではないだろうか。

 彼が、自分で言うほどの「高評価」を海外で得ているのであれば、その評価はおのずと国内の評価にも繋がっていくはずだ。それでなくても、日本人は「海外の権威」が好きなのだし、映画関係者もその種の「話題性」を求めているはずだから、藤原自身に何も問題が無ければ、その海外での評価は、日本国内でも大いに喧伝されたはずである。
 ところが、それがまったく見当たらない。業を煮やしてご本人が「自家宣伝」しないかぎり、誰も藤原敏史の海外での実績や評価を知らないし語らない。それはなぜか?

 この場合、いちばん簡単な答えは「海外の評論家は、藤原敏史の作品は知っていても、藤原その人までは知らないし、彼の日頃の言動など知る由もない。ところが、国内の映画業界関係者なら、藤原の日頃の言動に接する機会があり、作品の評価は別にしても、藤原敏史という問題性格者は敬遠すべしと考えうるから」ということではないだろうか。
 経済的に藤原に依存している映画関係者でもないかぎり、彼を敬遠するというのは、いかにも自然な態度である。

 藤原敏史自身に、多少とも自己を客観視する能力があって、自身の問題点を多少なりとも自覚しているとしたら、他人には意地でもそれを認めないとしても、本人の中ではそれなりの「悩み」として存在しているはずである。誰でも、生きづらい自分の性格に「何も感じない」などといったことはない。
 しかし、自分の性格に問題を認めた場合、それを「改善」しようとするかと言えば、そうとは限らないし、むしろ逆にその問題点を「合理化」あるいは「正当化」しようとするような場合が少なくない。そして、自己の性格的な問題点を「合理化」あるいは「正当化」しようとする場合の、もっとも有効かつ合理的な道具となるのが「精神病理学的知見」である。

 つまり、「精神病理学にいちばん詳しいのは、精神病理学者と精神病患者(またはその予備軍)である」ということだ。

 前にも書いたとおり、「評論家」などの場合、その職業的必要性から「精神病理学的あるいは精神分析的知見」を援用しようと、それを参照する場合が少なくない。しかし、身内に病人でも抱えているのでないかぎり、一般の者がそのような専門知識に興味を示すことは、ほとんどないと言っていいだろう。
 藤原敏史の場合は「評論家」として「精神病理学」に興味を持ったのだとも考えうるが、単に職業上の必要で「精神病理学的あるいは精神分析的知見」を参照する人間ならば、その限界をも自覚し、決して「診断ごっこ」などはしないはずだ。
 ところが、藤原敏史の場合は「精神病理学的あるいは精神分析的知見」を、自己の性格の正当化と、敵の人格攻撃のために、安易に利用している。そこでは「批評家としての自制心や倫理」が機能していない。

 つまり、精神的に健康な者が、職業上の必要などから「精神病理学的あるいは精神分析的知見」を学ぶ場合なら、その「濫用」を自身に厳しく戒めるだろう。それは、多くの評論家がそうであるし、何よりも専門家である精神科医や精神病理学者自身が「知識の、人への図式的適用」に慎重なのではないだろうか(つまり、ダメな医者学者ほど紋切り型診断をし、優秀な医者学者ほど個々の事例に即して慎重に対応するのではないだろうか)。

 では、藤原敏史の場合は、どうしてこのような慎重さに欠けるのだろう?
 それは、彼の場合「精神病理学的あるいは精神分析的知見」に示されるものが、決して他人事ではなく生々しい「自分の問題」であるからこそ、適切な「距離」が取れず、その結果、そうした知見を「濫用」してしまうから、なのではないだろうか。

 つまり、彼は、その性格的な問題の存在にも関わらず、いやその「問題の大きさ」の故に、「自分」自身には目を瞑って「他者を診断する側=医師の側」に立とうとしてしたのではないだろうか。
 言い換えれば、藤原敏史は「自身に問題を抱えるからこそ、外(他者)に問題を見出して攻撃することで、自身の正常を逆証明しようとしている人」であり、比喩的に言えば「精神科医になったつもりの、白衣を着た患者」なのではないか、ということである。
 このように考えれば、彼の「自己投影」的発言の多さも、スッキリと呑み込めるのである。


                        ○

 では、こんな藤原敏史のような人物を、「毒舌だが、頭の良い、正義の人」と評価するのは、いったいどういう人たちなのだろう。

 まず「毒舌だが」という正当化は、「党派」的な思考から出てきている部分が大きいのではないだろうか。
 私自身そうだが、藤原敏史のtwitterホームやブログを初めて見たときは「ああ、反原発的な映画を撮ってる人なんだな。それにネトウヨや安倍晋三を批判しているようだから、左翼的で、弱者の側に立つ、ひとかどの真っ当な人なんだろう」という印象を受けた。twitterやブログに書かれていることを読んだのではなく、ざっと眺めた「大雑把な印象」で、そのように判断したのである。
 だが、これが間違いであった。少なくとも藤原のツイートを数日分でも読んでいれば、私は彼を『真っ当な人』だとは判断しなかったはずである。

 私と藤原がぶつかる最初の切っ掛けが「ネトウヨの評価の仕方」であることは既に説明したが、要は、いくら「敵」であったとしても、言って良いことと悪いことがあるし、出来ることと出来ないことがある、ということだ。
 例えば、私が「オタクか否か」「少年愛趣味者か否か」は、私の藤原敏史批判には、まったく関係ない。だが、藤原は、拙論に対して正面から反論しないで、そのようなことだけを読み齧りでtwitterで挙げつらっては、自慰に耽っているのである。

 見てのとおり、私も藤原と同様、「精神病理学的」な表現は使うけれども、それが「医学的に正しい」ものだとは思っておらず、あくまでも「常識の範囲の心理分析」でしかなく、「頭がおかしい」といった表現も「世間一般的な表現」の範囲を出るものではない。つまり私の場合、自身の「精神病理学的表現」は、一種の「比喩的表現」にすぎないのだと自覚している。だから、藤原敏史のように、


【藤原敏史 @toshi_fujiwara】
内科医でなくても風邪くらい見分けがつくのと同様、共依存に特徴的な症状くらい誰でも見抜けます。主治医の先生に聴いてご覧なさいwRT @fumichani これだからバカは困る。未だに専門家でもないのに「病理」だの「共依存」ですか。 @alekseytanaka


などと、身の程知らずの「知ったかぶり」はしない。

 人は多かれ少なかれ「共依存」的な関係を他者と結んでいる。だから、誰しもそうした側面が「まったくない」とは、なかなか言えない。例えば、上のように書いている藤原敏史のホームを見てみれば、彼が「やまがー」(@yamagaa27)という人と「共依存」的な関係にあることが、容易に見てとれよう。
 つまり、こんなものは「共依存」でも何でもないのである。単に「意見が合う」とか「気が合う」「好意を持って接している」「仲間」といったことにすぎないのだ。
 だから、こうした「ありふれた人間関係」を、比喩的に「共依存的関係」とでも呼ぶのなら、それは間違いとは言えないだろう。だが、そんなものを「素人でもわかる共依存だ」などと言ったら、それは明らかな間違いであり、専門知識の「濫用」であり「誤用」にしかならないのである。

 閑話休題。
 ともあれ、初めから藤原敏史の発言を、ひととおり読んでいたならば、私は彼を「真っ当な人」だとは判断しなかったはずだ。表面をざっと撫でて「反原発」「反ネトウヨ」「反安倍晋三」的な単語の存在だけで、うっかりと藤原を「真っ当な人」だとは判断してしまったのである。
 しかし、このような「誤った判断」は、忙しい現代人にはよくあることだ。出逢う人ひとり一人の中身を、いちいち吟味している暇はないので、どうしても「表面的な分類記号」だけを見て「この人とはわかり合えそうだ(わかり合えそうにない)」と判断しがちなのである。

 したがって、藤原敏史の言動を細かくチェックしていないであろう「多くの人」は、当初の私と同様の「誤解」を、藤原に対して持っている可能性が高い。ざっと見て「なんだかケンカばかりやってるけど、こういう立場の人なら、きっと悪い人ではないのだろう」と判断し『毒舌だけど』というエクスキュースを自身に与えてしまうのである。


 では、藤原敏史の印象である「毒舌だが、頭の良い、正義の人」の「頭のいい人」というのはどこから出てくるのか、これは前述のとおり、藤原の「博覧強記的な衒学趣味」がもたらす「誤った印象」だ。

 たしかに藤原はいろいろそれなりに勉強しているし、筋の通った意見を表明してもいる。その意味では、平均以上の「知能」はあるのだろう。だが、藤原の意見は、ある意味では「左翼党派」的に凡庸なもので、特に見るべき「(人間的)深さ」はない。
 その「一方性(一面的わかりやすさ)」の故に、同じ党派に属する者にはウケはいいが、それ意外の者には魅力のない「凡庸な意見」にすぎないのだ。

 例えばそれは、彼の「ネトウヨ」批判にも見てとれる。
 彼のネトウヨ批判は、ネトウヨを嫌う人たちにすれば「痛快」なものであるはずだ。しかしそれは「否定的決めつけ」が強いからこそ、わかりやすく「痛快」であるにすぎないのだとも言えよう。

 つまり、藤原敏史の意見というのは、「党派的色眼鏡」を通して見れば「痛快」であり、しかも「衒学的装飾」に満ちているが故に、見かけ上「賢そう」な文章に見えるのである。
 藤原を「頭が良い人」と見る「誤解」は、このようにして生成される。


 さて、残る「正義の人」というのは、どうだろう。無論これもまた「党派的色眼鏡」によって、生み出されるものでしかないというのは、もはや説明するまでもないだろう。


 このようにして、「誤解」にもとづく「藤原敏史(無)理解者」が、twitter上などでは生産される。それが藤原のフォロワーだと思えば、大筋で間違いではないはずだ。
 彼らの大半は、当初の私と同様に、藤原自身にはさほど興味がなく、ただ、一応「有名人」で「同党派」だからといった程度の「表面的な判断だけ」で藤原をフォローし、あとは藤原のツイートをろくに読んでもいない人たちなのだろう。


 では、そういう「浅い関係の人」ではなく、前述の「やまがー」(@yamagaa27)のような「深い関係の人」はどうなのだろう。
 これは単純に「似た者どうし」と考えればいい。藤原敏史と、その「人間性」において「似た」人たちなのだ。だから、藤原がどういう人間かを詳しく知ってもなお、藤原に問題点を見ることはなく、むしろその問題点を「自身のもののごとく正当化したがる」のである。
 だが、その一方、頭の出来やパワーでは、大概の場合、藤原の方が上だろうし、藤原は「お山の大将」タイプだから、彼とうまくつきあおうとすれば、おのずと「子分」の立場に甘んじざるを得ないだろう。だから、藤原敏史の周辺には、利害で結ばれた者か、藤原の縮小再生産的な「子分」や「信者」しかおらず、対等な(公然と藤原を批判できるような)「友人」というのは、ほぼいない、と見てもいいのではないかと思う。


                        ○

 藤原敏史の本質は「人間不在」なのだ。藤原が「どのような人間」かを知りたければ、彼が「誰かとやりあっているツイート」を読むだけで良い。しばらく読んでいれば、藤原の書いていることが、単なる「党派的意見」であって「人間不在の党派イデオロギー」でしかない、ということが容易に理解できよう。


 そして、藤原敏史の発言を読む場合、注目すべきはその「発言内容」そのものよりもむしろ、その「臭い」だ。
 おなじ「内容」を書いても、書き手によって、大きく「臭い」が違うのは、その「文体」に書き手の「人柄」が滲むからに他ならない。つまり「文は人なり」である。

 私が、本稿で書いたのも、そうした藤原敏史の「臭い」の成分分析であり、この「腐臭の根源」を捜す道行きである。

 私が読者に、是非とも考えて欲しいのは「人を、見かけで判断してはいけない」という、当たり前のことである。
 それは単に「人相風体」の話ではなく、この場合は、表面的な「主義主張」のことである。

 藤原敏史は、私のことを「オタク」だとか「少年愛の変態」だとか言って嘲笑う。彼にそれが可能なのは、私がそれを「何ら恥じるべきではない趣味」として堂々と「公言」しているからだ。
 頭の悪い敵対者たちは、私のこういう「見かけ」で私を否定できると思い込んで、私がちらつかせるエサに食らいついてくる。こうした「頭の悪さ」において、「ネトウヨ」と藤原敏史は、まったく同レベルなのだ。


 「左翼」というのは、「左翼だから偉い」のではない。「左翼のための左翼」の欠陥は、ソ連でも日本でも歴史的に証明済みの事項である。
 ならば、「左翼」はどうあるべきなのか?
 その答えは「他者の痛みに敏感な人間だからこそ、弱者の立場に立たざるを得ないので、おのずと左翼的にならざるを得ない」という「左翼」である。「左翼」とは、斯くあるべきなのだ。

 そうではない、「左翼のための左翼」であったあろう男の末路を、先に触れた『ネットと愛国』の安田浩一は、その前著『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社文庫)のなかで、次のように紹介している。


 労働運動出身者といえば、日本有数の(※ 中国人)研修生受け入れ機関である日中技能者交流センターの元会長で、現在は顧問を務める槙枝元文を挙げなくてはならない。〝ミスター日教組〟とも呼ばれ、八〇年代には総評議長をも経験した、あの槙枝である。
 槙枝が創設し、現在も役員のほとんどが労組関係者で占められる同センターは、「団体管理型」の草分けともいえる存在で、これまでに一万人近くもの研修生を中国から受け入れてきた。しかしご多分に漏れず、これまでにも最低賃金法違反、長時間労働、強制帰国など、(※ 同センターの)加盟企業で多くの問題が発生している。
 研修生の支援団体である「外国人研修生権利ネットワーク」(本部・東京)では同センターに対し、「日本の労働運動のリーダーたちによって設立された団体で、労働権の侵害が起きている現状を看過するわけにはいかない」という要請書を提出したこともあるほどだ。
 私は、あるパーティーで、槙枝に遭遇し、研修生問題について問い質したことがある。しかし槙枝は「そういう話、よく知らないんですよ。何も問題がないとは言わないが、今後も制度は続けていかないと」と、まるで他人事のような物言いを返しただけだった。
(同書P75~76)


 弱者としての「生徒」や「労働者である教員」のためではなく、また世間の「労働者」のためではなく、自分自身のために「弱者の味方=左翼」を演じてきたような「偽者」の末路とは、こうしたものだ。

 つまり、藤原敏史が、表面上は「左翼」であったり「反原発の映画監督」であったとしても、そんな「見かけ」には大した意味はない。
 藤原は、「オタク」を差別し「変態」を差別し「病者」を差別し「被曝を怖れる人たち」を「放射脳」と侮蔑して恥じない、単なる「傲慢な差別主義者」に過ぎないのである。

 藤原敏史にとっての「左翼」や「反原発の映画監督」などという「表面的属性」は、藤枝元文の「ミスター日教組」や「総評議長」といった、かつての「表面的属性」と、まったく同じ性質のものでしかなく、彼らの「人間性」を、なんら表象するものではないのだ。

 だから、そんなものに惑わされてはいけない。

 藤原敏史という「人間」の本質を知りたければ、彼の文章を読めばいい。ひとつふたつでは気づかなくても、ある程度読んでいけば、その独特の「臭い」に、すべての読者が気づくだろう。「表面的属性=偽装」に惑わされることなく、その「臭い」の意味を素直に受け取った者は、きっと本稿と同じ結論に達するものと、私は確信している。

 人間、最後は「人柄」なのだ。

 弱者の側に立つような人なら、鈴木邦男がそうであるように、私は「右翼」であろうと評価する。反対に、たとえ「左翼」であろうと、藤原敏史のような人間を、私は決して評価しないし、出来るわけもない。

 読者の多くが気づくように、本稿は「当たり前の話を、当たり前に書いた」に過ぎないのである。



(※ 拙稿の連載を始め、藤原敏史のツイートへの返信に、拙稿のURLを添付しはじめて以来、しばしば藤原からブロックをされているので、藤原のツイートの詳細情報が採りにくくなっている。そのために引用したツイートにURLを示せなかったもののあることを、ここでお断りしておきたい。ともあれ、藤原敏史のログ消去は、さほど先の話ではないだろう)



 2013年 1月17日


【あとがき】

 藤原敏史の「頭の悪さ」と見当違いぶりは、本稿に対する「作品も観てもいないくせに、作品を論じている」という非難にも明らかだ。普通に日本語が読める読者であれば、本稿が、藤原敏史作品を論じたものではなく、「藤原敏史という人物」論じた「人物論」であることは、一目瞭然だろう。「出来損ない」だという評価は、「作品」ではなく「人物」に向けられている。

 そのうえで、読者諸兄のお願いしたいのだが、藤原敏史の映画作品の評価は別にして、「藤原敏史という人物」を誉めている「名のある人物」が、日本人でも外国人でもいいが、一人でもいるのなら、その人物の名を是非ご教示願いたい。私は、その方に、「藤原敏史という人物」のどこが評価できるのかを、是非ともお尋ねしたいと思うのである。
 
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