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新年のご挨拶と近況報告

 投稿者:園主メール  投稿日:2014年 1月 1日(水)17時28分24秒
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        ☆  ☆ 謹賀新年 ☆  ☆


みなさま、あけましておめでとうございます。おかげさまで当『LIBRA アレクセイの星座』も、つつがなく13周年14年目を迎えることが出来ました。

またもや、ひさしぶりの書き込みが、新年のご挨拶になってしまいました。まことに申し訳ございません。
私、この半年はネット落ちをしておりました。この状態が今しばらく続くと思いますが、復帰する予定ではございますので、なにとぞよろしくお願いいたします。


さて、「ネット落ち」に関して事情説明をいたしますと、一昨年はネトウヨイジメが祟って「mixi」を強制退会になり、一時はここ「花園」に復帰したのでございますが、その後は「twitter」の方へ活動の場を移しました。twitterについては、昨年の新年のご挨拶で、私は次のように書いております。

> twitterの弱点は長文が書けないということでございますが、長所は誰とでも容易につながれるという点でございましょう。これは短文ゆえの長所でございましょうね。もちろん、他人との接触が増えるということは、私にとってはトラブルも増えるということでございますが、これは望むところでございますから、その結果、twitterにハマったというわけでございます(笑)。

私が一昨年から「mixi」や「twitter」でネトウヨなどとのケンカを再開したのは、4年来の懸案であった「村上芳正画集」の刊行が決まり、責任者としての言動を慎む必要が薄れたからでございます。それまでは、私の言動が原因で村上芳正の展覧会の開催や画集の刊行に差し障りがあってはいけないと、私なりに数年間、言動を慎んできたのでございますが、弥生美術館での回顧展の開催と、国書刊行会からの本格的な画集の刊行が決定し、私自身があれこれ働かなくても、言わば「お任せ」で事が進んでいく状態になったからでございます。
もちろん、私が個人として好き勝手に発言する場では、極力、村上芳正に関しては言及しないようにしてまいりました。万が一にも、私個人の言動とは無関係な村上芳正方面に飛び火してはいけないという配慮は、なおもあったからでございます。

しかしながら、昨年の

・ 人間不在地帯 一一 映画監督 藤原敏史の世界
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2256

などによる「藤原敏史批判」でいささか深追いをしたために、思わない方面から矢が飛んできて、それが村上芳正展や画集の刊行に絡んできそうになったので、これはマズいと判断し、ネット落ちして展覧会の終了と画集の刊行を待つことにしたのでございます。

結果としては、おかげさまで弥生美術館における『三島由紀夫の最後の装幀画家 村上芳正展』は昨年9月29日をもって3ヶ月に渡る会期を盛況のうちに終了し、画集『薔薇の鉄索 村上芳正画集』(国書刊行会)も昨年7月に無事刊行することが出来ました。

しかしながら、展覧会開催直前の6月下旬に、私の藤原敏史批判をめぐって、高島章という弁護士(twitterID @BarlKarth)に、私のtwitter上での藤原敏史へのカラカイが名誉毀損にあたり、そんな「犯罪者」が展覧会を主催する側で関わったり、画集を刊行したりして良いのか、美術館や出版社の方に忠告してやろうかというような趣旨のイヤガラセ的警告を受けたのでございます。
もちろん、彼が弁護士の肩書きを振りかざしてイヤガラセの電話をしたところで、私の素行とは基本的には無関係な、村上芳正の展覧会や画集がポシャることはなかったとは言え、関係者にいらぬ心配や迷惑をかけるのは私の本意ではなかったため、画集が刊行され展覧会が終わるまではネット落ちして謹慎しようと決め、twitterアカウントも消したのでございます。

なぜ、私がこの高島章弁護士からこのようなイヤガラセを受けるようになったのかを、すこし説明いたしましょう。
先にも書きましたとおり、私は藤原敏史を批判しておりました。理由は藤原が「原発事故による放射能被害」を深く憂慮する多くの人々を「放射脳」などと呼んで揶揄しバカにし、同時に「内部被曝問題」を過小評価しようとする政府・電力会社のお先棒を担いでいたからでございます。
藤原は、基本的には「左翼」に分類される人物でございますが、思想の左右に関係なく、人として問題のある人物で、この名前でネット検索すれば、藤原敏史の問題発言やその常軌を逸した言動を批判非難するページが山ほど出てまいります。そうした批判非難がどれもすべて正しいものだとは申しませんが、それらをざっと見ていただければ、藤原がどういう人物であるかは大筋で理解していただけることでございましょう。

さて、問題の高島章の方でございますが、彼はクリスチャン(プロテスタント)で左翼弁護士という、なかなかユニークな人物であり、同じ「左翼」とは言え、藤原とは必ずしも協調できる立場の人間ではなく、事実、藤原敏史の「御所外苑道路を散歩中、たまたま今上天皇と行き遭って立ち話になり、先の戦争に関して遺憾の意を示す言葉を直接賜った」とするツイートを紹介して『正気とは思えない』などとからかいバカにしており、私も当初はてっきり藤原批判者だと理解していたのでございます。
ところが、私を含む藤原敏史批判者の藤原への揶揄がエスカレートしていった時に、高島章弁護士はいきなり、その一人に対して「貴方は犯罪者だ」と断罪したのでした。たしかに、その人も含め私たち藤原敏史批判者の多くは、藤原の無反省とその悪罵に業を煮やして、目には目を的に、もはや批判とは言えないような揶揄嘲笑に傾いていたことは否定できません。ですから、それを戒めること自体は結構なことなことなのでございますが、高島章弁護士の異常なところは、自身、藤原敏史を「珍しいカブトムシを観るように観察しよう」などと明らかにバカにしたことを書いていたのに、自身のツイートに関しては『バカにしたことはない』などと公然たる「大嘘」をついて自己正当化をした点でございます。
たしかに高島章弁護士の揶揄嘲笑には「目的語」がありませんでした。藤原敏史の前記のようなツイートを紹介した後『正気とは思えない』とツイートしても、このツイート自体には目的語はないため、必ずしも藤原敏史のことを言ったのではない(その証拠はない)という、見え透いた「法的抜け穴」をもって『バカにしたことはない』などという大嘘をついたのでございます。
そこで私は、高島章弁護士のこの臆面もない「大嘘」を批判して、たしかに法的な言い逃れにはなるだろうが「貴方の内心の神に恥じないのか」と批判したのでございます。

また、この高島章弁護士というのは、じつに鼻持ちのならない「自慢話好き」の「権威主義者」でございます。
例えば、彼のtwitterIDは、「20世紀最大の神学者」と呼ばれるカール・バルト(Karl-Barth)をもじったものなのでございますが、このtwitterID(@BarlKarth)の由来を、本人が語っている文章が下でございます。


・ 私の名前の由来(http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/20050324
         ブログ『弁護士 Barl-Karthによる peace-loving 日記』より
                  (http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/

これひとつ読んでも、その鼻持ちならなさはご理解いただけると思いますが、高島章弁護士は私とのやり取りの中でも「(文春新書や集英社新書などは通俗本だから読まない)自分が読むのは岩波新書やクセジュ新書などだ」みたいな、じつに薄っぺらな「教養自慢」をしたり、折に触れて「キリスト教神学に関する知ったかぶり」をしたりするのでございます。しかしそれでいて、中身のある「神学」論は語れず、私が「私は法学や神学の素人なので、説明なしに『自然法』などの専門用語を使って簡単な説明をされても理解できません。貴方も専門家なら、素人にでもわかるように説明してくれませんか。twitterは字数制限あって書きにくいというのなら、私の掲示板を使っていただいてもかまいません。そこで議論をしようじゃありませんか」と誘ったのですが、二度ほどいったんは議論に応じると応えておきながら、結局は「やっぱり止めておく」と説明を拒否したのでございます。
つまり、高島章弁護士が、キリスト教神学やバルト神学に詳しいのかどうかは、じつのところよくわからない。彼がクリスチャンであるというのは事実だとしても、自分で詳しいと自慢しているだけで、実際のところはまったく不明なのでございます。

そこで私は、ネット落ちしている間に多少なりともキリスト教神学、とくにバルト神学について勉強して、高島のような「嘘つきプロテスタントクリスチャン」が、いったいどの程度の神学的知識を持っているのかが判断できるようになろうと思ったのでございますね。
で、バルトの伝記や入門書を読んでみたのでございますが、なにしろキリスト教についてはまったくの素人で、基本的な知識もございませんから、バルト神学をある程度でも理解しようと思えば、まずキリスト教がどういう宗教でその歴史がどういうものかということから勉強しければ、いきなり「神学」を理解しようなどというのは無理だと気づいて、キリスト教の入門書から始めることにしたのでございます。

もちろん私も、そればかり読んでいるわけではございませんし、関連図書というのは手を拡げだすと切りがないのでございますが、もともと私は「宗教」の問題に興味がございましたので、キリスト教をいうものを勉強してみると、これがなかなか興味深く、結果としては、すっかりハマってしまったのでございます。と言うのも、仏教をふくむ日本でメジャーな宗教・信仰の多くは、基本的には、勉強すれば理解が多少なりとも深まるものという構えがございます。ところが、キリスト教の場合は「いくら勉強しても信仰は深まらない。聖霊の働きにより回心がおこって、理論を超越した確信がもたらされないかぎり、信仰は本物にはならない」のだというものなのでございますね。つまり、基本的には「(人間)理性否定」であり、理性で「論理的に矛盾していると感じられるところにこそ神の絶対性があり、それをどこまでも限定的な人間の知性では理解できないだけなのだ」という理屈なのでございます。キリスト教の教えというのは、このように「合理的」ではなく「不合理」であり「不合理故にわれ信ず」という態のものなのでございます。そして、この開き直りとも思える構えこそが、キリスト教という宗教の強さの秘密なのでもございましょう。神は絶対的に正しく、神の被造物でしかない人間は神に比べて当然不完全であるので、人間はただ神に従うしかない、というのが、キリスト教の基本的な構えなのでございます。

私はこうしたキリスト教の基本的な構えをとても興味深いと思いましたし、「神は死んだ」と言ったニーチェや、ハイデガーなどの哲学者と同時代に生きて、それらの「最先端的思弁」に触れながらも、さらには二度の大戦の悲惨な現実と格闘しながらも、あえて「反知性的な信仰こそが、正しいキリスト教信仰」であると(知性主義の自由主義神学を批判)したカール・バルトという神学者に、高島章弁護士という三流のクリスチャンへの反発とは別に、本格的に興味を持ったのでございます。

高島章弁護士は「自分が本を出すのなら、新教出版社かなw」などと冗談めかした「身の程知らずの自慢」もしておりました。で、私が興味をもって調べてみると、この出版社は日本でカール・バルトの翻訳書を中心的に刊行しているプロテスタント系の出版社だとわかりました。たしかに、ここから本が出せるというのなら、高島には自慢に値する神学的知識があると評価できましょうが、私が見るところ、高島章弁護士には「死ぬまでそれは不可能」であり、例のよっての無根拠な自慢話に終わるものと存じます。

ただ、バルトとプロテスタント関連の勉強をするための新教出版社の本を読んでおりますと、唯一私の知っている文筆家の名前をしばしば目にすることになりました。彼の名前は「佐藤優」。日本に「諜報活動」という意味で「インテリジェンス」という言葉を定着させた人でございます。
彼は元外務省職員の官僚で「北方領土返還」問題にたずさわっていた人でございますが、当時自民党議員であった鈴木宗男とともに「贈収賄」「背任」などの疑いで東京地検特捜部に捜査立件されて有罪を受け、その後、文筆家に転じて、現在はベストセラー作家の一角にいる人でございます。
このあたりの事情に関する本人の説明は、毎日出版文化賞と新潮ノンフィクション賞を受賞した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮文庫)に詳しいのでございますが、佐藤優は「同志社大学神学部」卒というユニークな経歴の持ち主で、プロテスタント神学について半端ではない知識を持っており、だからこそ文筆家に転じてからは、自らが信奉するチェコの神学者(で、バルトの友人でもあった)フロマートカの自伝を翻訳して新教出版社から刊行するなどしているのでございます。

で、この佐藤優という人がまたユニークな人で、物事の基本的な考え方が常人とはかなり違っている。そこで多くの人は、彼にちょっと「変わった人」という印象を持つのでございますが、私の見たところ、彼のユニークさは、彼の「敬虔な(本物の)信仰」の故なのではないかと思うのでございます。
つまり、彼は敬虔なクリスチャンとして「最後の審判」を信じておりますし、最後の審判における神の判定基準とは「信仰の有無であり深さ」しかないという絶対的事実なのでございます。生きている間にいくら「善行」を行おうと、それが信仰に基づくものでなければ、最後の審判では何の足し前にもならない。したがって、彼が愛国者(パトリオット)として国益のために働いたというのも、究極的には「神の意志」の実現の一端としての働きであり、だからこそ彼はそのことで自分が「世俗的な評価や利益」に預かろうとはコレっぽっちも思っていなかった。その意味で彼は、一見したところ、白々しいほどに「無私で謙虚」な人のように「見えた」(この点で、高島章弁護士とは正反対)。これが今のところの、私の「佐藤優」理解でございます。

このように、クリスチャンとしてナチスドイツと戦ったカール・バルトや、愛国者としてインテリジェンスの世界で活躍しながら最後は国家に切られた佐藤優などのユニークな存在に根底に見られる「信仰と知性と社会的現実の、三つどもえの相克」というのは、私がこれまでバラバラに探求してきた問題を総合するものとして、とても興味深く、当面はこっちの方をもっと勉強してみたいと思ったのでございます。しかし、そのためにはここ2年間のように「ネトウヨや藤原敏史とのケンカ」などというつまらない「暇つぶし」をやっている暇はないということになり、村上芳正展が無事終了したらネットに復帰しようと考えていたのを予定変更して、いまだネットに復帰していなかったのでございます。

とは言え、それなりに勉強が進みましたたら、私の付け焼き刃の「キリスト教およびカール・バルト神学に関する知識」を、自称「キリスト教神学に詳しいクリスチャン」である高島章弁護士にぶつけて、指導を賜りたいと思っているのでございます。どこまで行っても、所詮は信仰を持たないものの「キリスト教理解」を、「神学に詳しいという現役クリスチャン」にぶつけて「深イイ話」をお聞かせいただければ、たいへん勉強になるのではないかと考えているからなのでございます。

読んでおきたいキリスト教およびバルト神学関係の本は手元に山積みになっており、どの段階で高島章弁護士に教えを乞うことになるかは、いまだ定かではございませんが、その日を楽しみに勉強に励んでいるというのが、私の今日この頃。そんなわけで、いずれここ「花園」で、私と高島章弁護士の「神学論争」をお見せできるかも知れません。高島さんが、また議論を拒否しなけばの話ではございますが(笑)。



こんな調子で結局は相変わらずの私でございまして、ここ「花園」も留守にしがちな園主ではございますが、本年も「アレクセイの花園」を温かくお見守り下さいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
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