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映画『フューリー』における信仰告白

 投稿者:園主メール  投稿日:2014年12月31日(水)16時09分10秒
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  みなさま、大晦日でございますね。と申しましても私は特別なことは何もいたしませんが、12月に入ってから急に映画館に通っており、昨日で3本の新作映画を観てまいりました。それぞれ、上映回数が縮小されており、はやく観ておかないといけなかったからでございます。
その3本とは『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』『インターステラー』『フューリー』で、本日は、昨日観てまいりました『フューリー』(http://movies.yahoo.co.jp/movie/フューリー/349750/)について書いてみたいと存じます。

この映画には、第二次世界大戦の重戦車を代表するドイツのタイガー1戦車の本物が、映画史上初めて登場するというので、かつて戦車好きのモデラーだった私としては、ぜひ観ておきたかったのでございますが、結果から言うと、実物のタイガー1には意外にもほとんど感慨はございませんでした。やはりこれは、私が好きになったのは、優れたモデラーが作った「模型作品としてのタイガー1」であって、即物的な実物ではなかったからだというようなことだったのでございましょう。

しかしながら『フューリー』は、人間ドラマとしてはそれなりにきちんと描かれており、楽しく観ることが出来ましたし、ラストショットは戦争の悲惨さを象徴的に示して、きわめて印象的でございました。
しかしまたその一方、作品として戦争の現実の汚さや悲惨さを語り、主人公たちも敬虔なクリスチャンである新兵の若者にそんな現実を教えようとする古参兵でありながら、結局はみな理想的なまでの善人ばかりで、映画のクライマックスでは彼らが不自然なまでに自己犠牲的な点には、「戦争の悲惨な現実を描く」という(ひとつの)テーマとの齟齬が感じられて、いまいち納得できない部分が残りました。

しかし今朝になって、登場人物(通称バイブル)が作中の重要な場面で引用した、聖書「イザヤ書」の一節(6-8、イザヤの派遣)を確認すべく、ネット検索しましたところ、キリスト教信仰の視点から『フューリー』を評価している、下のようなブログを見つけました。
昨日の私は、こうした視点に気づかず、あくまでも『フューリー』を「戦争映画」としか見ていなかったのですが、この映画は「信仰告白」的な映画だと評価することもできるというのが、よくわかったのでございます。


『イザヤの派遣。聖餐の血の分かち合い。鉄の教会、鉄の棺。ヨハネの黙示録。映画冒頭の(青)白い馬は死を。ラストの白い馬は勝利や栄光か。
『フューリー』で、「バイブル」がイザヤ書6:8を暗唱。すると、今まで信仰には一切ふれなかったドンが突然「イザヤ6章8節」と聖書箇所を答える場面。彼らは何者に呼び出されて、ここに踏みとどまるのか。教会の隠喩としての戦車。死屍累々の「派遣」。遠い声ではなく間近の呼び出し。
殺戮されるドイツ兵側からしたら「?」でしかない。でも、ドイツ兵も米兵も「グローバルに/平等に」見渡す視点からこの映画を観ても、たぶんあんまりおもしろくない。欺瞞かどうかはいったん脇に置いて、とことん近視眼に、わたしならとくにこの「バイブル」という男に密着したい。
Fury's Director Explains the Film's Theology | RELEVANT Magazine
監督のDavid Ayer によれば、社会を守るために神から呼び出され、しかもその結果社会から孤独へと引き離されねばならない兵士の姿が、イザヤ書6章8節の神による呼び出しとそれへの応答に関連させて描かれているという。
「バイブル」というニックネームを持つキャラクターを演じたShia LaBeoufという役者は、この役を演じるに当たり、予備役のチャプレンがどんなミニストリーの働きをしているのか、実際にその姿を追ったようだ。
「バイブル」がこの映画の良心や葛藤の中心的人物であるようなことを、彼は説明している。
『フューリー』は、マクロなレベルで見たら英雄のアメリカ兵たちがファシストのSSたちから勝利を勝ち取ったというような、安っぽい英雄譚に見えなくもない。(たった一人生き残ることになる)新兵の目線から見たベテラン兵士たちの生き様というのも、『プラトーン』などで既視感がある。
それはそれとして、そういう全体像を見渡すのではなく、スクリーンに顔がくっつかんばかりに観る。すると、イザヤ書6章8節を、倫理をいくらでも踏み破ることもできる状況で、どう自分への言葉として聞き取るのかというドラマとも見える。歴史全体とかではなくて、その極小部分でしかない、しかしその人なしにはまた歴史も成立しない、一人ひとり固有の来歴を持つ人格。そういう人間が孤独に、しかも他人との極限の関係において、どのような信仰へと啓かれてゆくのか。』

『フューリー』に関する覚え書き。(ブログ「トトロに棲む牧師から」より全文)
http://d.hatena.ne.jp/nobeoka_apostolos_ekklesia/?date=20141206#2

つまり、この映画は、この罪に汚れて悲惨な「地上」における信仰者のあるべき姿の「寓話」という側面があるのでございます。
戦車(通称フューリー号)の指揮官で、数々の戦いを生き抜き、部下を守り抜いてきた歴戦の闘士である現実主義者らしいドンが、どうして最後は犠牲的な決死の戦いにその身を投じたのか。その疑問に答えるものとして『今まで信仰には一切ふれなかったドンが突然「イザヤ6章8節」と』仲間(通称バイブル)の引用した聖書の言葉の箇所を指摘ことで明かします。そのバイブルが引用した部分とは、次のようなものでございます(「新共同訳」)。

 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
 「誰を遣わすべきか。
 誰が我々に代わって行くべきだろうか。」
 わたしは言った。
 「わたしがここにおります。
 わたしを遣わしてください。」

つまり、イザヤが神の声に自ら従ったように、ドンも軍の命令を『遠い声ではなく間近の呼び出し』として受け入れ、その決死の選択をしたのだと、ここで理解できるのでございます(※ なお、旧約聖書の神は、時に自身を「我々」と複数形で語ります)。

じじつ、ドンはそのずっと前のシーンで、新兵のノーマンに語ります。「理想は平和だろう。しかし、歴史の現実は残酷だ」あるいは「この戦争は間もなく終るだろう。しかし、それまでにまた、多くの者が死ぬだろう」。これらのセリフは一見したところ、古参兵のごく当たり前の現状認識に聞こえるでしょうが、これらもキリスト教信仰の視点から読めば「平和は神の国にしかない。地上の現実はいつも残酷で悲惨だ」「間もなく神の国は到来するだろう。しかし、それまでに多くの兄弟たちが悲惨な死を遂げることになる。しかしまた、彼らは神によって最後は救われる」。このようにドンが世界を「終末論」的に理解していたとすれば、彼の自己犠牲的選択も「信仰者」のそれとして理解できるし、それが傍目(非信仰者の視点)には理解不能(説得力に欠ける描写)と思えるのも、当然なのでございます。

また前記の「印象的なラストショット」、死守すべき十字路の中央に取り残されたフューリー号の残骸とそれを取り囲むドイツ兵の屍体の山は、戦争の悲惨さを描いてピカソの「ゲルニカ」を彷彿とさせると同時に「十字架につけられたイエス」の姿とその「贖罪」を連想させますし、そこから一人生き残って後日救出された新兵ノーマンは「イエス・キリストの3日後の復活」の寓意とも解釈できましょう。しかし、この復活は、決して喜び(栄光)に満ちたものではなく、むしろフューリー(怒り)をも感じさせる暗いものでございましたから、ここにこの作品における「人間的な葛藤」が描出されていたのだとも評価できましょう。

このようなわけで、上記のブログの牧師さんがおっしゃるように、この映画は「キリスト教信仰の寓話」として観なければならないのかも知れません。そうでないと「ドイツ兵の立場は、どうなるんだよ」ということになってしまいます。イザヤ書を含む「旧約聖書」は、あくまでも神に選ばれたる神の民たるイスラエル(ユダヤ民族)の視点から描かれており、そのために異邦人(非ユダヤ人)は神の意志のよって、情け容赦なく虐殺されたり滅ぼされたりします。だから、非クリスチャンや非ユダヤ教徒が「旧約聖書」を読めば、ずいぶん酷い話としか思えませんが、あれはあくまでも「信仰の立場」から読むべきもの(寓話とは言いきれないが)であるのと同じように、本作『フューリー』におけるドイツ軍の立場も、旧約聖書における「異邦人」と同様だと見るべきなのでございましょう。

したがって、この映画は「Yahoo!レビュー」が示しているとおり、非クリスチャンの日本人には極めて理解しにくい作品なのでしょうが、キリスト教的な基礎教養のある西欧では、ぐっと高く評価される可能性のある作品なのだとも申せましょう。

機会があれば、ぜひご覧いただきたい作品でございます。




★ 海原健叡さま

在特会のことなど

毎度お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。

> 前回のお返事でキリスト教神学についてご教授くださりありがとうございました。キリスト教神学については全くの無知で、ジャック=デリダの脱構築の思想(これとてまったく理解しておりませんが)を理解するために不可欠である、という程度の認識しか持っておらず、どこか遠い世界の話だと感じていましたが、アレクセイ様の「まずは盲信するしかない」というお話で、なぜ自分がそう感じたのか少しわかったような気がします。とはいえ実際の理由のほとんどはただの不勉強ですので(笑) 私も時間ができましたら自学してみようかと思いました。

私も、いったんは信仰を持った、いや、持とうとして持てなかった人間として、信仰が持てる人の心理に興味があった。「なぜ、無根拠に信じられる(妄信できる)のか?」ということでございますね。そこから「宗教」への学的興味を持ち、以前はオウム真理教を中心としたカルトに関する本を読んだのでございますが、今回はかの「不信心の保守派クリスチャンにして左翼弁護士」との絡みで、正統派の「世界宗教」のキリスト教の理論部分に興味を持ったのでございます。

> なお件の弁護士は、なぜか私をツイッターでフォローしており、アレクセイ様とのトラブルをある程度知っていた私は、そっとブロックしたのでございました(笑)

あれは粘着質の変態でございますから、自分が攻撃した人間の周辺にまで目配りを怠らないのでございます。彼のストーカー気質は「弁護士」という職業には合っているのかもしれませんね(笑)。

> さて話は変わりますが、以前アレクセイ様も問題視していた在特会に対して、最高裁が朝鮮学校の生徒らに1200万円あまりの損害賠償をするよう判決を下しました。我が国は人種差別撤廃条約を締結しているものの、それを実現するためのいわゆる「ヘイトスピーチ規制法」整備されておらず、既存の刑法や民法に抵触しない限りは取り締まりはできませんでした。今回は朝鮮学校の生徒らに対する行為が民法に抵触するということで、その賠償額の算定の際に条約の趣旨が考慮され、このタイプの訴訟にしては高額な賠償額に決定しました。

存じております。この判例が一定の抑止力になれば良いのでございますが。

> ここのところネトウヨや比較的「右寄り」の一般人はおろか、メディアや政治家でさえも在特会を支持するかのような言動に出ており、相当に日本社会がまずい状況になっていると感じていましたが、ようやく是正の兆しが見えた思いです。今回の判決に安心せず、在特会やヘイトスピーチを社会的に是正していくよう、私も微力ながら働きかけたいと思い、決意表明もかねて書き込ませていただきました。

ええ、同感でございます。
私は今の日本の状況を「貧すれば鈍する」だと考えております。大衆の多くは、物質的に貧しくなると、心まで貧しくなって他人を妬み嫉み、人の脚を引っぱろうとする。それが近隣諸国民への憎悪の正体なのではないでしょうか?
昨日たまたま、大阪梅田の古書店街を冷やかしたのでございますが、未読であるライヒの『ファシズムの大衆心理』を見かけ、買おうかどうか迷いましたが、他に読む本がたくさんありますし、すぐに売れるような本でもないしと、結局は自制いたしました(笑)。

> それにしてもネトウヨというのは匿名と思われていましたが、最近は在特会はじめ顔と名前を出してある程度所属を明らかにする人も出てきており、前述のように政治家までネトウヨ化しておりますから、この匿名性については少し考えてみるといいかもしれません。私は、以前アレクセイ様が定義していた「思想らしい思想が無いのに攻撃的」という部分に加えて、「時流に乗ることしかできないヘタレ」という視点を導入してはどうだろう、と考えています。だからある程度ヘイトスピーチが許される社会になってきたら、急に生き生きと固定アカウントや実名を使いだす、ということですね。何が恐ろしかと言えば現安倍政権周りがまさしくこうした人々で溢れているということなのですが。

私の視点から申しますと「時流に乗る」というよりも「時流に流されている」ということなのではないでしょうか。ひと昔前なら、自己愛的な自己実現の方途が見出せずに「自分探し」したような人たちが、今は流行に流されて「自己・国家同一化」しているのではないかと思います。つまり、かつての暴走族の「巨大なペニス」がバイクだったように、彼らにとっては「神国日本」が「巨大なペニス」なのでございます。

> と、好きに書かせていただきました。この話題にはアレクセイ様はうんざりしているかとも思いますが、私は微力ながらしつこく付き合ってみようと思っています。

いえいえ、決してうんざりしているわけではございませんが、もともと私は短気で、無駄なケンカに巻き込まれてしまうタイプなので、目の前の状況からは一定の距離をおいて考えることを、自分に許容しているのでございます。
例えば、ヘイトスピーチに体する法的規制の問題ですが、世界基準からすれば、日本でも規制がなされても良い(なされるべきだ)というような考え方が、はたして正しいのか。たしかに目の前で「糞を喰え」などと悪罵されている罪もない在日外国人の皆さんの気持ちを思えば、法的規制も止むなしと考えるのは自然な感情でございましょう。
しかし、例えば「児童ポルノ規制」などの問題でも「大人の欲望ために消費されている子供たちの悲惨な現実」を考えれば法的規制も止むなしというのが、世界基準の方向へと進んでいる、今の日本の現状でございます。そして、例えば先日、沢渡朔の伝説的写真集『少女アリス』のスペシャルエディションが、オリジナル写真集から数十年ぶりに刊行されましたが、これとて「今のご時世では、少女ヌードと分類されるような作品は削除されるのではないか」などと事前に危惧されていたのでございます。たしかに、子供を性の対象として食い物にすることは許せません。しかし、では、少女のヌード写真は「芸術」ではありえないのか? たとえそれが芸術だったとしても、犠牲者を独りでも出さないためには、法規制すべきなのか?
このように考えていくと、法規制による人権の保護というのは、際限の無くなる可能性がございますから、やはり慎重であるべきだと思うのでございますね。
被害者の苦しみを思い共苦することは素晴らしいことでございますが、しかし、そこだけに視点を縛られてしまう感情論は、時に極めて危険だとも考えますので、私はヘイトスピーチにはとうぜん反対しながらも、その法規制には慎重にならざるを得ないのでございます。




それではみなさま、良い新年をお迎えくださいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
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