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迷えるイエスと迷える悪魔の対話

 投稿者:園主メール  投稿日:2015年 1月 9日(金)22時12分39秒
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  みなさま、私、昨年の大晦日に「映画『フューリー』における信仰告白」という書き込みをさせていただきましたが、この拙文にご文章を引用させていただいた、宮崎県延岡市の「日本基督教団 延岡使徒教会」(http://www1.ocn.ne.jp/~totoro/second/)の牧師・沼田和也さまと、ここのところ楽しく議論させていただいております。

もちろん、議論の中心は「キリスト教信仰」の関してでございますが、この沼田さまは私より十歳下ですが、もともとたいへんな読書家のようで、例えば、かつて中井英夫や澁澤龍彦を愛読し、笠井潔や竹本健治、あるいは矢川澄子や森茉莉といった作家まで読んでおられ、そのいっぽうドストエフスキーやキルケゴールといったキリスト教系作家は当然のごとく読んでおられる上に、専門の神学的教育を受けておられるのですから、今の私と話が合わないはずがございません。
さらに申しますと、沼田さまは昔はプラモ作りにハマったこともあれば、マンガやアニメも広く楽しんでおられたようで、好きだったアニメ作品として『少女革命ウテナ』という一筋縄ではいかない作品名を挙げておられました(笑)。
そんなわけで、話題の要はもちろん「キリスト教信仰」でございますが、それをめぐって如上の作家たちや作品を、フランクに語り合っているのでございます。

このような対話が可能なのは、もちろん沼田さまが信仰一世(両親はクリスチャンではない)で自身の生活と思考の中から信仰の道に入った方で、つねに考えること(反省)を自身に課し、「妄信」や「思考停止的信仰」に陥らぬよう、日頃から自覚的に努めておられるからでございます。
そのような次第で私は、私の「信仰に対する問題意識」を、沼田さまの「信仰の問題」としても一緒に考えていただけるだろうと、私の考える「キリスト教信仰あるいは信仰そのものへの疑問」を、忌憚なくぶつけさせていただいているのでございます。

もちろん、私の信仰に対する疑問に対し、沼田さまが明確な答を与えて下さるわけではございませんし、二人で話し合えば何らかの展望が開けるなどというほど甘いテーマでもないのでございますが、「信仰」の問題というのは「世界をどのように認識するのか」という認識論の問題でもございますから、こうした議論は、どんな時代にも常に、反省的になされつづける必要のあるものなのだと、私は斯様に考えるのでございます。

なお、この対話は、沼田牧師のブログ「トトロに棲む牧師から」(http://d.hatena.ne.jp/nobeoka_apostolos_ekklesia/)の日記コメント欄に私が書き込みをし、それに沼田さまがコメントを返すという形式で行われており、かならずしも新しい日記のコメント欄へのコメントが、新しいコメントだとは限りません。個々のコメント欄での話題にあわせて適宜コメントし、そこでのやり取りが継続したり完結したりいたしますから、私のコメントを時系列にそって読もうとすれば、日記のコメント欄を行ったり来たりしなくてはなりませんが、今のところ四つの日記のコメント欄にコメントしているだけですので、この四つの日記とコメント欄を日記の日付順にお読みいただければ、全体の把握は充分に可能だと存じます。よければご笑読くださいまし。

・ 『フューリー』に関する覚え書き。(2014-12-06)
http://d.hatena.ne.jp/nobeoka_apostolos_ekklesia/20141206/1417878271

・ 近視眼(2014-12-31)
http://d.hatena.ne.jp/nobeoka_apostolos_ekklesia/20141231/1420013369

・ 受動態の能動(2015-01-03)
http://d.hatena.ne.jp/nobeoka_apostolos_ekklesia/20150103/1420255324

・ イエスの迷い(2015-01-06)
http://d.hatena.ne.jp/nobeoka_apostolos_ekklesia/20150106/1420529249



★ 海原健叡さま

おめでとうございます

新年のご挨拶、ありがとうございます。
私は本年も年賀状を1枚も書かずに済ましました。年賀状を書かなくなって、もうかれこれ20年ほどになるでしょうが、最近は携帯メールをやり取りする友人数人にだけ、極めて簡単な年賀メールを送って済ませております(笑)。
ともあれ、本年もよろしくお願い致します。

> ご丁寧なお返事、ありがとうございました。あれから色々と思うところも多かったこともあり、一年ぶりに論文という形で自分の考えをまとめてみました。アレクセイ様のお返事に対する私なりの返答でもあります。よろしければ御笑覧くださいませ。
>
> ネットと権力と近代の再構~在特会を巡って~
> http://igo-omishiriokio.at.webry.info/201501/article_1.html

さっそく拝読いたしました。
ご論文を読ませていただき「やはり海原さまは、私の今のスタンスに不満を感じておられるのだろうな」という私の疑念の裏づけがとれました。そこで、ご論文にたいする感想とあわせて、私のスタンスについて、もうすこし詳しく説明させていただきたいと存じます。

まず、ご論文で紹介されている「在特会による京都朝鮮学校襲撃事件」への判決の意味と、それに対する在特会およびそのシンパの無責任で欺瞞的な反論とその度し難い無反省については、まったくおっしゃられているとおりだと存じます。
そのうえで、貴兄は、このような無反省な輩に他者を傷つける言動(ヘイトスピーチ)を止めさせるには「法的規制しかない」と結論づけておられます。もちろん法的規制のリスクは百も承知しているが、ネット社会の進展によって人々が「個々の閉鎖的な(ネット上の仮想的)コミュニティー」にバラバラに閉じこもってしまい、相互の対話による問題解決がほぼ不可能となっている現状にあっては、そうした個々のコミュニティーの上位に立ってこれを統括する権力を持つ「国家」の(法的規制)力を利用するしかないのだと、大筋このような議論をなさっています。
それがご論文の眼目である、下の結論部分でございます。


『 ユルゲン・ハーバーマスはインターネットに新しい公共圏の可能性を夢見たが、21世紀初頭の現在、日本のネット状況は全体として見ればハーバーマスの理想とはいまだ相当に離れていると言わざるをえない。それどころか、事態はもっと悪い状態だとさえ言えないだろうか。一部の知識人層が有益な交流をするすぐ隣で、あるユーザー達は特定民族の排除を叫び、それは正しいことだという認識を相互に再強化していく。またその隣で、あるユーザーたちは憲法を守り自民党に反対することが正義であると盲目的に叫び、やはりその認識を相互に再強化していく。こうして「反省の機会を奪われた」無数のユーザー達は、自分の所属するネット上の小さなコミュニティーを世界の全てであると思い込み始める。そしてその認識の下、他のコミュニティーに所属するユーザーとふと接触した瞬間にときに戸惑い時にスルーし、そして時に攻撃に走る。
 「コミュニティー」という言葉を私が使っていることから既に予測している人もいるかと思うが、「反省の機会を奪われた」ネット環境の中で生まれたものは無数の「疑似共同体」である、というのが私の考えである。それも近代国家の出現以前の、強力な同調圧力をもって個人を抑圧する共同体に近い存在である。いわゆるネトウヨやそれらがネットを飛び出した存在だと言える在特会を見れば、決して大げさな分析ではないとお分かりいただけるはずだ。ロレンス・レッシグは、18世紀は共同体、19世紀は近代国家、20世紀は自由市場、そして21世紀はアーキテクチャが個人を支配し自由を制限する、と分析した。インターネットというアーキテクチャは、皮肉にも18世紀的な共同体を(疑似的にであれ)21世紀に復活させてしまったのである。

 ここでようやく冒頭の話に戻ることができる。国家権力が危険であるというのは近代主義の大前提であり、そのため国家による規制には注意を払わなくてはならない、というのも常識である。しかし、強力な近代国家の出現には、共同体による恣意的な支配から人々を解放したという側面が確実に存在する。そのうえで、強力な国家権力をいかにしてコントロールするかという問題が「次の段階」として生じたのである。今私たちが考えるべきことは「次の段階」のことではない。21世紀に亡霊のように蘇った共同体が個人を弾圧する状況の中にあってまずすべきことは、正しくこの亡霊を葬り去ることである。すなわち歴史の繰り返しであり、国家権力の再構築に他ならない。
 もちろん「次の段階」の話も忘れていいわけではない。国家権力というのは極めて兄弟で危険なものなのである。それが暴走をしないように注意して注意しすぎるということはない。しかしそれは、国家権力の発動を極限まで抑え込むということを意味しない。必要な規制は必要なのである。それを恐れ、あくまで国家権力の危険性を原理的に訴えヘイトスピーチ規制に反対するのであれば、それはネトウヨや在特会といった共同体によるマイノリティーに対する抑圧を是認することに他ならない。彼らを言論の力によって思いとどまらせることが不可能なのはもはや明らかである。国家による規制をしないのであれば、もはや彼らを止める方法は一つしかない。しばき隊に代表されるカウンターと呼ばれる、これもまた強力な共同体の圧力をもって対抗するしかない。かくして、それこそ18世紀のように共同体同士の争いが起こるのである。そのような社会を私たちは望むのだろうか。
 私にはどう考えてもそのようには思えないのである。だからこそ声を大にして言いたい。恐れながらでもいい、国家権力を再構築しよう。そして恐れるのであれば、私たち自身が国家権力をコントロールできる近代的個人に今度こそなろう。しばしば「近代をやりそこねた」と揶揄される日本で、新しく近代を始めよう、と。』


まず、なぜ私が「目の前の状況」の一種である「ネット言論」から距離をおこうとしたのかですが、これは貴兄も書かれているとおり、ネットを通して世界を見ていると、しばしば遠近感が狂ってしまって、ひとつの問題に縛られ、ある意味では依存的なまでに特定のテーマにのめり込んでしまう怖れがあると、強く感じたからでございます。だから、ネットの外から、ネットの中でいろいろと語られる問題意識を相対化してみようと考えたのでございますね。

私がこのように考えたのは、(1)真面目に「反原発」問題に取り組んでいる市民に対し「放射脳」などという侮蔑語を投げつけて恥じず、議論にも応じない無反省なある人物に対して、議論にならないからこそ、独りカウンター運動的な意識でネット上でケンカをふっかけた結果、近視眼的にそれにのめり込んでしまい、私自身、つまらない失敗をしてしまったことへの反省が、まずございます。(2)次には、2012年6月の衆院選において、小沢一郎・嘉田由紀子がタッグを組んだ日本未来の党のネットでの選挙運動が盛り上がりを見せて大きな期待を集めたにもかかわらず、結果は予想に反して惨敗だったということがございます。つまり、ネット上の常識的認識と世間の常識とにはかなりの乖離落差があり、そのあたりをよく案配して見くらべるバランス感覚も持たないと、現実を見誤って極端に走ってしまう怖れがあると、自身の失敗をも省みて、そう考えるようになったのでございます。

よく言われるように、ネットというのは情報流通の速度が速く、しかも大量であり、さらには双方向的でもございますから、目の前の情報から距離をおいて、じっくりと考えるということが極めて困難でございます。
その証拠に、ネット上で何らかの運動に関わっている方のご意見というのは、他人に対して「今すぐ態度決定をせよ。いま動かない者は、悪に加担しているも同然だ」と迫るものが多く、貴兄のご論文にもその傾向がございます。

もちろん、ヘイトスピーチの問題は、ある意味では喫緊の課題だと申せましょう。ですが、それは「原発」問題や「安倍政権の外交防衛」問題、「国家機密法」問題、「国内における経済格差」問題なども同様で、そうした問題に真摯に取り組んでおられる方にとっては「他の問題に関わっている暇がないほど、重大で喫緊の課題難問だ」ということになりましょう。もちろん、問題は国内だけではございません。「イスラム国」問題、「新東西冷戦」問題、「エボラ」問題といった新しい問題だけではなく、「パレスチナ」問題のように長年解決していない難問が山ほどございます。また、そうした政治・社会問題とは別に、個人の次元では「今日の仕事」「明日の食事」「来週のテスト」といったことも、リアルな死活問題であったりいたします。
このように見てくると、たしかに「ヘイトスピーチ」問題は無視し得ない課題ではあっても、それは他の「難問」を差しおいてまで最優先されるような特権的なものではない、とも申せましょう。政治・社会的な問題に限定しても、それらの問題を担う方たちがそれぞれに「この問題の解決には、政治的強権的な解決しか残されていない」と主張する時、私たちは「では、ひとまず、すべて問題を強権的に解決しましょう」とするような選択が、はたして「現実的」であり「正しい」ものだと言えるでしょうか?

私自身も「話にならない相手には、実力を行使するしかない」と考えてしまい、つまらない私闘にハマってしまったという苦い経験がございますから、真面目で真剣な方たちが、言わば思い詰めて「実力行使しかない」と主張する気持ちはよく理解できますし、「実力行使」という選択を必ずしも否定はいたしません。
貴兄は『しばき隊に代表されるカウンターと呼ばれる、これもまた強力な共同体の圧力をもって対抗するしかない。かくして、それこそ18世紀のように共同体同士の争いが起こるのである。そのような社会を私たちは望むのだろうか。』と書いて、こうした「犠牲を伴う私闘」をまず避けるべきものとしておられますが、革命に代表されるように、それも時には必要なのではないかと思うのでございます。

と申しますのも、個々の問題に取り組んでいる方たちが「国家による実力介入でしか、我々の取り組んでいる問題は解決しない」と考えて、それらの人たちがこぞって「国家の暴力」に頼りきれば、結局のところ国家は「全面的な白紙委任状」を受けるも同然になってしまい「あとで(次の段階の問題として)国家権力を厳しく監視しよう」と言ったところで、そううまくはいかないと思うからでございます。
じっさい、貴兄自身「ヘイトスピーチ」問題がすべての難問に優先されるべきものであり、唯一絶対に「国家権力による実力行使」が妥当な最重要課題だ、とはおっしゃらないでしょう。そう言ってしまえば、貴兄自身が「視野の限定された、コミュニティー的正義の体現者」たちの仲間入りをしたことになってしまうからでございます。

貴兄の真面目さや真剣さは、もちろんよくわかっております。しかし、たとえばフランス革命において、権力者から人民の権利を勝ち取った革命家たちが、その後、反革命者を次々と血祭りに上げる恐怖政治家になってしまったという歴史の背理をご存知でございましょう。彼らとて、崇高な理想をもって献身的に革命に身を投じた。「もはや実力による権力奪取しかない。結局は力がなければ、どんな理想も実現できないんだ」という「現実主義」を選んで、暴力に手を染めた結果、今度は自身が、自身の理想に従って「実力=暴力」を行使し、行使し過ぎる化け物になってしまったのでございます。
政治家でも、当初は高邁な理想を掲げ身ぎれいな活動をしていたのに、やがて「それでは実効的な政治活動が出来ず、理想が実現できない」と考えるようになり、世間並みに「金集めをしスポンサーを大事にする政治家」と変貌してしまうといったことが、ままございます。反権力的な政治家として知られた元社民党の辻元清美が、民主党政権時に大臣の椅子に座った結果「やはり権力を持たなければ、何も実現できない」と与党民主党に移籍してしまったのなどは、その典型的な事例でございしょう。「ミイラ取りがミイラになる」のですが、本人にはその自覚が、まず持てないのでございます。

要は、多くの難問は「実力行使」しないかぎり、話し合いだけではなかなか解決はしない、という「現実」なのでございます。それが、動かしがたい「現実」の現実性なのでございます。しかし、だからといって「実力行使」で問題を解決したらしたで、「実力行使」は別の重大問題を惹起してしまうのでございますね。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか?
ひとつは、問題状況に取り組みつつも、その問題の存在に堪え続ける、ということでございます。
問題は「解決して当たり前」ではなく、「完全には解決しないのが当たり前、存在するのが当たり前」なのです。
しかし、だからといって、それを放置することも出来ませんから、それに取り組みつつ、その存在に堪えるしかない。「私にとっての難問」にとらわれて他が見られなくなり「ひとまずこの問題さえ解決すれば」と思った時に、人はまず「実力行使」を考える。しかし、そのとき人は、それによって発生する次の難問、他の問題については、じつのところ責任を感じてはいないのでございます。

「しかし、実力行使を断念して、問題の存在自体は認めて闘い続けろというのは、現実的には不可能なことなのではないか」という疑問はとうぜん出てまいりましょう。だからこそ、私は「被害当事者の実力行使」は時に必要なものだし、それは何よりも「避け得ないもの」として認めたのでございます。

つまり、人が生きていく上で、個々に直面した避け得ない問題については、それが死活問題であるかぎり、最後は生存権をかけての「実力行使」しか、選択肢がございません。しかし、「被害当事者の避け得ない実力行使」にいたる以前に「暴力対決は避けるべき」というロジックで「国家の暴力」に頼ることは、はたして「避け得ない選択」だと言えるでしょうか?

在日外国人への正視に耐えないヘイトスピーチに対し、心ある日本人(真の愛国者)が日本人としての堪えがたい恥辱をおぼえ、差別者たちに怒りをおぼえるのは、当然のことでございましょう。そして、在日外国人たち自身の動きとは無関係に、日本人としてこの問題を「被害当事者による、最終的な暴力対決」になるまえに解決してあげたいと考えるのも当然でございます。
しかし、あえて申しますなら「ヘイトスピーチ」問題は、差別され侮辱されている被害当事者たちが「まだ、それに堪えて、問題と向き合っている」段階であって、「生存をかけての実力対決」を始めなければならない段階ではないのでございます。ですから、ここで我々が「国家の暴力」に頼っての解決に走るのは、良かれと思ってなされる、被害当事者を置き去りにしての「拙速」なのではないでしょうか?

たしかに「生存をかけての実力対決」が始まるには、それ以前に少なくない「犠牲者」が出ることでございましょう。私とて、それを必要な犠牲だと言いたいわけではございませんが、しかし、本当の難問が「国家権力を利用することで、犠牲なしに解決する」と考えるのは、誤認なのではないでしょうか。自身の死活問題については「自身の手による実力行使」も避け得ないけれども、そうではない難問にかんして「国家権力に頼る」ことは、目の前の問題を他所の問題へと変換して見せることでしかないのではないでしょうか?

だからこそ私は、避け得ない「自己の直接関わる死活問題」ならば「実力行使」を認めはしても、それ以外の問題については、まずそれが本当に「自己の直接関わる死活問題」なのかを検討する冷静さが必要なのだと考えますし、もしもそれが「自己の直接関わる死活問題」でなかったのなら、「国家権力」を含む「実力行使」には慎重であるべきだと考えるのでございます。

他人の問題に心を痛めて、なんとかしてあげたいと考えることは、崇高と呼んで良いほどの感情なのですが、しかし、それでもそれは「自己の直接関わる死活問題」ではないし、別問題が派生することも覚悟の上で、それでも避けられないものとして「実力行使」を選ぶのだとしたら、その選択権は「被害当事者」にしかないのだと、私はこのように考えます。

だからこそ、私たちが「非被害当事者」として難問に関わる場合は、そこで「国家権力の利用」という「伝家の宝刀」に頼るべきではない。すくなくとも被害者自身がそれしかないと、避け得ずに主体的に動き出した段階でないかぎり、非被害当事者は非当事者として、その「個々の実力」の範囲(責任の持てる身の丈の範囲)において出来ることを、難問の存在に堪えながら、やり続けるべきなのではないかと、斯様に考えるのでございます。

ちなみに、私たちが「非被害当事者」として、「個別の問題」に過剰にのめり込んでいるか否かを判定するための、ひとつの思考実験がございます。

それは、数限りなくある「非被害当事者的難問」の中から一つを選んで没頭献身した結果、他の難問については「私はこの問題を引き受けているので、他の問題にまでは、時間も頭もつかう暇がない」と、そのように考えてしまっているか否かでございます。
「なぜ、それ(ひとつか、いくつかをピックアップする)だけで済ませられるのか?」ということでございますね。例えば、私たちが数々の「非被害当事者的難問」すべてに公平に問題意識と時間を割いていたら(ある運動に百万円寄付するのではなく、百万の難問に1円ずつ寄付するとしたら)、それは「専門的運動家」から見れば、一見「何もしていない」ようにしか見えないでしょう。実際問題として、そのような力の分散は、運動にとって非効率的・非効果的ですから、それぞれが問題意識をしぼって「ひとつの問題」に取り組んだ方が良いというのが、一般的な現実的実利的な考え方でございましょう。
しかし、こうした問題意識のあり方は、そのまま貴兄の否定する「コミュニティー」的な閉鎖性へと接近してゆき「あいつらは何もわかってない」とか「あいつらは何もしていない」などという一方的な批判に典型される「独善」へと変貌しがちなのございます。

ですから、私は結論を急ぎませんし、人にもそれを求めないことにしました。「やるのかやらないのか」などと独善的かつ居丈高に、他者の生き方を評価したり批判したりするのではなく「やりたい者が自己責任において、問題に取り組んだら良い。それは立派な取り組みだが、しかしそれを他人に強いる権利は、彼にもない。自身の実行動を誇ることおいて、他者に生き方を強いる権利があると思った時、その人は、権力の魔性に取り憑かれたロベスピエールの末裔となってしまっているのだ」と考えるのでございます。





それではみなさま、お休みなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
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