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トゥー・テ・ビアン

 投稿者:園主メール  投稿日:2015年 1月12日(月)19時41分33秒
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  みなさま、本日は、先日より海原健叡さまとの間で交わされている「ヘイトスピーチとその法的規制の是非」問題にかかわる「社会的問題との向き合い方」の問題について、さらに論じてみたいと思います。これは、実質的には海原さまへのさらなる応答になっているものと存じます。

すでにお書き込みいただいておりますとおり、海原さまも「ヘイトスピーチに対する法規制の必要性」を主張するに到る『前提として語るべき話がまたかなり長く』あって、それを語って下さるそうですので、それについてはまた、そのお話を待って応答したいと存じますが、ここではもっと私の個人的な経験に基づく、今の私の基本的な考え方をご紹介したいと存じます。

海原さまが基本的な考えをおまとめになった論文である、

> ネットと権力と近代の再構~在特会を巡って~
> http://igo-omishiriokio.at.webry.info/201501/article_1.html

についての私の応答は、前回の書き込みである、

・ 迷えるイエスと迷える悪魔の対話(2015年 1月 9日付)

の、海原さまへのレスの部分で大筋は示しておりますが、そこでは書き尽くせなかった、『ロベスピエールの末裔』という言葉で表現した部分。具体的に言えば、

> 貴兄の真面目さや真剣さは、もちろんよくわかっております。しかし、たとえばフランス革命において、権力者から人民の権利を勝ち取った革命家たちが、その後、反革命者を次々と血祭りに上げる恐怖政治家になってしまったという歴史の背理をご存知でございましょう。彼らとて、崇高な理想をもって献身的に革命に身を投じた。「もはや実力による権力奪取しかない。結局は力がなければ、どんな理想も実現できないんだ」という「現実主義」を選んで、暴力に手を染めた結果、今度は自身が、自身の理想に従って「実力=暴力」を行使し、行使し過ぎる化け物になってしまったのでございます。

という側面について、もっと詳しくご紹介したいのでございます。

私の古い読者の方なら、私がここで何を語ろうとしているのか、大筋で予想することが出来るかも知れません。
そう。私が如上のようなことを語る場合に、意識的あるいは無意識に踏まえているのは、笠井潔の小説『バイバイ、エンジェル』であり、その評論バージョンと言って良いであろう『テロルの現象学 観念批判論序説』でございます。

笠井潔は前記の二著において、自身の「新左翼運動とその挫折体験」の反省と乗り越えを期しました。そして『バイバイ、エンジェル』では、ドストエフスキーの『悪霊』を直接的なモデルとして「革命観念という悪霊に憑かれた人たち」を描き、これを批判しました。
これは「人民解放としての革命」という「理想としての観念」に取り憑かれた結果、その理想主義者がその理想主義の故に、いつしか「人民」を憎悪するという「観念的倒錯」にとらわれて人民抑圧者に転じてしまうという背理を描いています。
そして、こうした背理の典型的な事例が、前述のフランス革命におけるロベスピエールを首魁としたジャコバン党の独裁による恐怖政治であり、ロシア革命を経てのソビエト共産党による一党独裁政治だと申せましょう。笠井潔は、こうした問題に連なる日本での新左翼運動の悲惨な結末として「連合赤軍あさま山荘事件」の仲間殺し(総括殺人)の問題を主題化しております。

「あさま山荘」事件にいたる、国家権力からの敗走の過程で、連合赤軍メンバーは「革命に命を捧げた戦士としての覚悟を問う」というかたちで、命を賭しての戦いを継続する覚悟に疑いの持たれた仲間を「総括」するとして、結局は何人も殺すことになりました。これは彼らが「あさま山荘事件」で逮捕された後になって明らかにされた事実でございます。
どうして「人民解放」「国家権力からの自由」といった「理想」に献身的に身を投じた理想主義的な若者たちが、このような悲惨な末路をたどったのか? 「ひとつ間違えていたら、自分自身、仲間を殺していたかも知れないし、殺されていたかも知れない」というところから、笠井潔は自己反省的に取り組んだのが「観念批判」であり、その成果が前記の二著だったのでございます。

私が笠井潔のこの二著から学び、それでも自分自身それに似た轍をしばしば踏みながら経験したことへの反省として「理想主義的運動」者に対して言えるのは、「理想主義者ほど、絶望的なテロリストに転じやすい存在はいない」ということでございます。

理想主義者というのは、その社会的な「理想」に従って、何らかのアクションを起こします。彼の敵は、当初はその「社会的理想」に対して、積極的に反している者たち。例えば「民族差別主義者」などがその典型でございましょう。
理想主義者たちは、その理想主義の故に、当初はそうした敵に対しても「言論をもって対処するという理想」を実践いたしますが、しかし、その理想はしばしば、身も蓋もない現実、度し難い現実の前に挫折いたしします。そして、やがて「いくら理想を口にしたところで、目の前の不幸や理不尽を正せないのならば、そんなものはマスターベーションに過ぎない。だからこそ、我々は現実の結果にこだわりたいし、その正義実現のためには、ある程度の行為は、必要悪として許される。例えば、限定的な暴力も、正義の実現のためなら許されるはずだ」と考え始めるのでございます。
そして、その典型的な実例が「暴力革命」であり、その縮小版が「法規制」だとも言えるでしょう。前者は「国家」を敵とし、後者は「反理想者」を敵とするもので、その規模には明らかな違いがあるものの、いずれにしろ「話し合いや説得」ではなく「力ずくでの排除」を意図している点では、まったく同じなのでございます。
ただ、前者は、自分の手を汚し自分が傷つく覚悟を必要としますが、後者は「国家」がそれを肩代わりしてくれるという点において、その「暴力性」や「汚れ」が目立ちにくくなってもいるのでございます。

しかしまた、理想主義者たちの「理想」が、まだ「国家権力」や「積極的な反理想者」に向かっているうちはマシでございますが、理想主義者たちの理想実現の困難性が、彼ら自身の目にも明らかとなってきて、彼らが焦りを感じるようになってきた時に表れてくる危険な徴候こそが「大衆蔑視」でございます。

先日のあるテレビ番組で、先の衆院選における安倍自民党の勝利とその後への危惧を検討するものとして、ル・ボンの古典的名著『群衆心理』を紹介して「時代に流される大衆」の危険性への自覚を求めて、警鐘を鳴らしておりました。
私もこの番組とほぼ同じような方向性での問題意識(大衆は「貧するは鈍する」だ等)を持っており、この番組には大筋で共感的ではございますが、しかし、そこにはあからさまには語られないかたちでの「大衆不信」があったのも否定できない事実でございましょう。

つまり「理想と問題意識と見識」をもつ「知識人」は、「大衆の無知・無自覚・主体性の欠如」を、自らと比べて、否応なく「否定的に評価している」のでございますね。
で、そうした「優越意識」が追い詰められると「理想のために立ち上がらない者は、理想の敵である」というかたちに過激化し、もはや「平凡な日常性の中に埋没してある大衆」は「敵も同然」としか見なされなくなってしまうのでございます。
当初は「弱者のために」「抑圧された人民のために」という「理想」に発していた彼らの行動も、やがて「理想主義的潔癖症」として、病的なまでの先鋭化し、狭隘な暴力主義へと転化していくのでございます。

例えば、新左翼セクト、東アジア反日武装戦線「狼」による「三菱重工爆破事件」に代表される連続企業爆破事件では、その企業で働いているというだけで、社長も平社員ももろともに爆殺の標的にされてしまい、果てはその爆破に巻き込まれた通行人さえもが「日本国家によるアジア侵略の元凶である企業」街で働いている同類として、その巻き添え的被害(加害)も正当化されうるなどとまで語られたりしたのでございます。
このように、「理想」というものが現実の前に追い詰められていきますと、「理想」はどんどんと先鋭化していき、やがては「本当の仲間・同志以外は、すべて抹殺すべき敵」であるという「テロリストの論理」に行き着いてしまうのでございます。

そんな「理想主義的テロリスト」たちの「大衆憎悪」正当化の論理を、笠井潔は『バイバイ、エンジェル』の中で、ある革命家の口を通して、次のように語らせております。


『「……私は、あらゆる革命の敗北の、その究極の根拠を発見したのです。
 なぜ、一切の革命は常に絶対に敗北するのでしょうか。歴史は、敗れた革命の残骸で埋めつくされているではありませんか。なぜ、革命はいつだってまるで悪い運命に呪われているもののように絞殺され続けてきたのでしょうか」
 「なぜです」と日本人は陰気な声音で尋ねた。
 「理由は、そう、わかってしまえば実に簡単なことなのです。それは、革命のなかにいつも解き難い矛盾と背理が含まれていたからです。革命は、胎内に敵対者の罠をはらんでいたのです。その罠とは、〈革命は人民による人民のための事業である〉という愚昧な命題です。この命題こそが、革命の敗北の根拠なのです。革命そのものとこの命題のあいだにあるものは、決して解くことのできない矛盾と撞着だけです。
 そうです。革命と人民は本質的に無関係です。いいえ、あらゆる歴史の現実が露骨に示しているのは、革命の最悪の敵が人民そのものであったという事実なのではありませんか。革命の真の敵は、刑務所や軍隊や政治警察や武装した反革命ではなく、……人民という存在だったのです。乳臭い牝牛みたいに愚かな善意で目を曇らせた革命家たちは、いつもこの露骨な真実に無自覚でしたが、人民はその小狡い臆病な獣の本能で熟知していました。人民の熱狂的な支持と拍手のもとで、あるいは保身のための無言の加担によって、無数の革命家たちは投獄され拷問され虐殺され続けてきたのです。(以下略)」』

『 〈人民〉とは、人間が虫けらのように生物的にのみ存在することの別名です。日々、その薄汚い口いっぱいに押しこむための食物、食物を得るためのいやいやながらの労働、いやな労働を相互の監視と強制で保障するための集団、集団の自己目的であるその存続に不可欠な生殖、生殖に男たちと女たちを誘いこむ愚鈍で卑しげな薄笑いにも似た欲情……。この円環に閉じこめられ、いやむしろこの円環のぬくぬくした生温かい暗がりから一歩も出ようとしないような生存のかたちこそ、〈人民〉と呼ばれるものなのです。つまり人民とは、人間の自然状態です。だから、あるがままの現状をべったりと肯定し、飽食し、泥と糞のなかで怠惰にねそべる豚のように存在しようと、あるいは飢餓のなかで、その卑しい食欲を満たすため支配的な集団にパンを要求して暴動化し、秩序の枠をはみ出していくように存在しようと、どちらにせよただの自然状態であることに変わりはありません。
 だから人民は、本質的に国家を超えることができないのです。国家とは、自然状態にある個々の人間が、絶対的に自己を意識しえない、したがって自己を統御しえないほどに無能であることの結果、蛆が腐肉に湧き出すように生み出された共同の意志だからです。制度化され、固着し、醜く肥大した観念、生物的生存と密通し堕落した観念、これが国家だからです。』
                 (笠井潔『バイバイ、エンジェル』より)


『人民』あるいは「大衆」は、「理想主義的な運動家」のような「積極的な理想」を持ち合わしてはおらず、むしろ日々の生活と楽しみに汲々としており、そこからは一歩も出てこられない存在です。だからこそ、意識の高い「革命家」や「知識人」からは区別されて、『人民』や「大衆」と一括りにして呼ばれているのでございます。
しかし、だからこそ彼らが「日常の中の小さな幸せ」に汲々としているというのは、彼らの存在の基本様式であって、それを否定してしまっては、もはや「人民の味方=大衆の味方」であることは出来ません。
「私たちは、人民大衆の味方であり、彼らの平穏な生活を守るために闘います」と「理想主義的運動家」たちが宣言する時、彼らは彼らの守るべき「人民大衆」が、彼らに味方することや守ってくれることは無論、彼らを支持してくれることすら、期待してはならないのです。なぜなら、そのような明確な「政治意識と行動」は、「人民大衆の人民大衆たる所以に反する、意識的な政治性」だからでございます。

なのに、『バイバイ、エンジェル』に登場する、ある革命家は「理想の故に人民大衆を抹殺すべし」という「観念的倒錯」にとらわれてしまった。
たしかに、これはフィクションでございましょう。しかし、このような「感情」は、「理想主義的な運動に深くコミットしている者」にとっては、決して縁遠い感情ではないはずなのでございます。

そして、この革命家にむかって、元革命家の名探偵矢吹駆は、次のように辛辣な批判の言葉を突きつけます。


『君は、自分のことを無私の革命家だと信じているだろう。確かに君は殉教の聖女を思わせる。しかし、とんでもない話だ。君の魂は傷ついた自尊心から流れ出す血と膿で溢れ返っている。なぜ君は人民を、生活者を、普通の人間たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されねばならないのだと君はいう。嘘だ。君はただ、普通に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。(中略)殉教者こそが高利貸よりも計算高く自分の所有物にしがみつくのだ。高利貸が積みあげた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫で回まわすように、殉教者は自分の正義、自分の神を舐めまわすのだ。高利貸が、財産を奪うならむしろ火刑にしてくれと騒ぐように、殉教者は自分の財産、自分の所有物である正義の方がよほど大切なんだ。喜んで火刑にもなるだろう。ギロチンにもかかるだろう。守銭奴が一枚の金貨にしがみつくように、君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ。(中略)君はなぜ怖いんだ。ほんとうの勇気があるなら認めてしまうんだ。君が、いや僕たちが、彼ら以下であるという事実を。彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。それを認めてしまうんだ。その時にこそ、微かな希望が、救済の微光が君を照らすだろう。そう、希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、バリケードの日々を昏倒するまで生きることだ。太陽を直視する三秒間、バリケードの三日間を最後の一滴の水のように味わいつくすことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬだろう。しかし、怖れを知らぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい。』(同上)


笠井潔がここで示した「解決的認識」は、しかし、かなり観念的であり神秘(的超越)主義的ででもあるでしょう。だから、この「答」には納得できないかも知れませんが、すくなくとも告発の前半部分は「理想主義運動家」たちにとって充分に有効な、自己検討材料になるのではないかと、私は考えます。

そして「ヘイトスピーチに対する法的規制」の問題に立ち返って申しますならば、私はヘイトスピーチに耽溺する在特会会員などの「人種差別主義者たち」もまた、哀れな「人民大衆」の一人に他ならないのだ、と考えるのでございます。
「人民大衆」とは、その視野の狭さのゆえに「理不尽と不幸」を自ら引き寄せてしまう「小さな存在」なのです。けれどもまた、そこにこそ「リアルな人間の現実」があり、そこにこそ私や貴方の出自もあるのでございます。
ですから、そんな「哀れな人民大衆」を憎んではならない。それがどんなに困難なことであったとしても。


『「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 /そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。(彼らは)自分が何をしているのか知らないのです。」』
                 (新共同訳「ルカによる福音書」23-33~34)


「理想」が実現しないことに絶望しなければならないのだとしたら、「人民大衆」あるいは「人類」は否定され抹殺されなければならないでしょう。
しかし、彼らの愚かさをなんとかしたいと、その解きえない難問に取り組みつつ、その解決の無さ、問題が問題として存在し続ける現実を肯定することでしか、「理想」は「理想」と呼ぶに値するものであり続けることは出来ないのだと、私は斯様に考えるのでございます。

矢吹駆は申します。
「トゥー・テ・ビアン(すべてよし)」。



★ 海原健叡さま

ありがとうございます
続きです

> お忙しい中、早速お読み下さったうえご丁寧な返信までくださりありがとうございます。私の意図を完全に汲み取ってくださり嬉しいです。また、アレクセイ様のお立場も改めてよく分かりました。その上で私からも再度申し上げたいことがございますが、これは前提として語るべき話がまたかなり長く

> (返信をするにあたって)またかなり長い話が前提としてありますので、まずそちらの話を独立してブログの方にアップしたいと思います。そのうえで、それを引用しながらあらためてこちらに返信を書かせていただく、という形でよろしいでしょうか?
それでよろしければ、少々お待ちくださればと思います。反論、というよりも、アレクセイ様とは異なる価値観、国家観の提示といった内容になるかと思います。

了解いたしました。
私の現時点での考え方は、本日の書き込みでおおむね書けたと思いますので、ご参照くださいまし。
国家論などについては、またご意見をうかがったうえで、個別に私なりの考えをご紹介したいと存じます。





それではみなさま、本日はこれにて失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
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