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再応答

 投稿者:海原健叡  投稿日:2015年 1月16日(金)20時25分24秒
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   失礼いたします。まず2015年 1月 9日(金)22時12分39秒 のアレクセイ様の書き込みに対して返答をさせていただきます。

>>さっそく拝読いたしました。ご論文を読ませていただき「やはり海原さまは、私の今のスタンスに不満を感じておられるのだろうな」という私の疑念の裏づけがとれました。

 拙論のご照覧ありがとうございました。おっしゃるとおり、ヘイトスピーチ規制の問題につきましては、私はアレクセイ様のお立場に賛成できないと考えております。

>>まず、ご論文で紹介されている「在特会による京都朝鮮学校襲撃事件」への判決の意味と、それに対する在特会およびそのシンパの無責任で欺瞞的な反論とその度し難い無反省については、まったくおっしゃられているとおりだと存じます。

 ありがとうございます。本当なら「書かずもがな」という話なのですが、先日のNHKクローズアップ現代に対する彼らの反応を見ても分かる通り出鱈目な主張でも物量で押し切ろうとする気配さえありますから、念のため詳細な検討を加えて形にしておきました。

>>そのうえで、貴兄は、このような無反省な輩に他者を傷つける言動(ヘイトスピーチ)を止めさせるには「法的規制しかない」と結論づけておられます。もちろん法的規制のリスクは百も承知しているが、ネット社会の進展によって人々が「個々の閉鎖的な(ネット上の仮想的)コミュニティー」にバラバラに閉じこもってしまい、相互の対話による問題解決がほぼ不可能となっている現状にあっては、そうした個々のコミュニティーの上位に立ってこれを統括する権力を持つ「国家」の(法的規制)力を利用するしかないのだと、大筋このような議論をなさっています。

 おっしゃるとおりでございます。分かりやすくまとめていただき感謝します。

>>私がこのように考えたのは、(1)真面目に「反原発」問題に取り組んでいる市民に対し「放射脳」などという侮蔑語を投げつけて恥じず、議論にも応じない無反省なある人物に対して、議論にならないからこそ、独りカウンター運動的な意識でネット上でケンカをふっかけた結果、近視眼的にそれにのめり込んでしまい、私自身、つまらない失敗をしてしまったことへの反省が、まずございます。(2)次には、2012年6月の衆院選において、小沢一郎・嘉田由紀子がタッグを組んだ日本未来の党のネットでの選挙運動が盛り上がりを見せて大きな期待を集めたにもかかわらず、結果は予想に反して惨敗だったということがございます。つまり、ネット上の常識的認識と世間の常識とにはかなりの乖離落差があり、そのあたりをよく案配して見くらべるバランス感覚も持たないと、現実を見誤って極端に走ってしまう怖れがあると、自身の失敗をも省みて、そう考えるようになったのでございます。

まず(1)の「つまらない失敗」とは件の弁護士とのトラブルのことでしょうか? それとも批判にのめりこんだことそのもの、という意味でしょうか? もし後者のことをおっしゃっているなら、一読者の私としてはアレクセイ様が失敗していたようには感じないのですが。もちろん、アレクセイ様がご自身の時間の使い方として優先順位や配分を間違ったということであれば全く異を唱えるつもりはないです。(2)につきましては、先月の衆院選で盛んにネットを利用していた次世代の党の壊滅的敗北も同じですよね。ネットは必ずしもリアルの勢力図を反映させるとは限らない。

>>よく言われるように、ネットというのは情報流通の速度が速く、しかも大量であり、さらには双方向的でもございますから、目の前の情報から距離をおいて、じっくりと考えるということが極めて困難でございます。
その証拠に、ネット上で何らかの運動に関わっている方のご意見というのは、他人に対して「今すぐ態度決定をせよ。いま動かない者は、悪に加担しているも同然だ」と迫るものが多く、貴兄のご論文にもその傾向がございます。

 確かにネットの言論というのは即決を迫るようなものが多分にあります。ただ、私が

http://igo-omishiriokio.at.webry.info/201501/article_1.html

 で「仮想敵」として想定していたのは、「反対論、慎重論も多い。これはヘイトスピーチを問題視する人間であっても同様であり、表現の自由に対する制約であるという点を問題視しているのである。」と書いたように、規制について反対論や慎重論を表明している人です。ですから、「今すぐ態度決定せよ」と迫っているわけではなくて、既に態度決定をしている人に対してその翻意を促すことが目的でした。


>>このように見てくると、たしかに「ヘイトスピーチ」問題は無視し得ない課題ではあっても、それは他の「難問」を差しおいてまで最優先されるような特権的なものではない、とも申せましょう。政治・社会的な問題に限定しても、それらの問題を担う方たちがそれぞれに「この問題の解決には、政治的強権的な解決しか残されていない」と主張する時、私たちは「では、ひとまず、すべて問題を強権的に解決しましょう」とするような選択が、はたして「現実的」であり「正しい」ものだと言えるでしょうか?


 ヘイトスピーチ問題が最優先の特権的な問題ではない、というのはおっしゃるとおりですし、すべて問題を強権的に解決するという態度は、たいていの場合に正しくはないでしょう。たいていの場合に、と留保をつけたのは、

http://igo-omishiriokio.at.webry.info/201501/article_2.html

 で述べたように、現存するあらゆる問題についていかなる対応をするのか(法規制すべきか、放置すべきか、言論による批判を加えるだけで済むのか)は実は誰にも分からない、というのが私の基本的な立場だからです。法規制では対応する必要はない、対応すべきでない問題も多々存在することは私も経験上分かっていますが、必ずしも常にそうなのかどうかは分かりません。


>>と申しますのも、個々の問題に取り組んでいる方たちが「国家による実力介入でしか、我々の取り組んでいる問題は解決しない」と考えて、それらの人たちがこぞって「国家の暴力」に頼りきれば、結局のところ国家は「全面的な白紙委任状」を受けるも同然になってしまい「あとで(次の段階の問題として)国家権力を厳しく監視しよう」と言ったところで、そううまくはいかないと思うからでございます。

 現行法制度を前提にする限り、国家は「全面的な白紙委任状」を受けるも同然になることはまずありえません。と言いますのも、個々の問題に取り組んでいる方たちが「国家の暴力」に頼るためには、立法という過程を経なくてはいけません。このときに議員の多数決が必要になります。ですから、個々の「運動家」がこぞって国家を頼ろうとしても、実際に国家がそれに「応えてくれる」場合は必ずしも多くはない。そして「応えてくれた」場合というのは、まさしく運動家の主張が民主主義的プロセスの中で認められたことを意味します。さらに事後的なチェックという点においては、私たちにはかなり広範な表現の自由が保障されていますし、またいざとなれば憲法訴訟を提起するなどの方法もありますから、実際には言うほど監視が難しいということはない、と考えます。これは、既に立法がなされていてそれに基づき行政府が動く場合でも基本的に変わりません。行政府は有権者の代表である国会議員の多数派によって運営され、また行政訴訟などの司法的チェックもあります。
 もちろん、だから絶対大丈夫、という話ではなく、国家の暴力を頼ることの是非は個別具体的に観察して判断すべきであり抽象的にその危険性を説いてもあまり意味がない、というだけのことです。


>>じっさい、貴兄自身「ヘイトスピーチ」問題がすべての難問に優先されるべきものであり、唯一絶対に「国家権力による実力行使」が妥当な最重要課題だ、とはおっしゃらないでしょう。そう言ってしまえば、貴兄自身が「視野の限定された、コミュニティー的正義の体現者」たちの仲間入りをしたことになってしまうからでございます。

 おっしゃるとおりです。一方で、「私にとって」非常に重要な問題というのは確かであり、それゆえに「私は」この問題について集中的に発言する、というのは矛盾はしていないと存じます。


>>貴兄の真面目さや真剣さは、もちろんよくわかっております。しかし、たとえばフランス革命において、権力者から人民の権利を勝ち取った革命家たちが、その後、反革命者を次々と血祭りに上げる恐怖政治家になってしまったという歴史の背理をご存知でございましょう。彼らとて、崇高な理想をもって献身的に革命に身を投じた。「もはや実力による権力奪取しかない。結局は力がなければ、どんな理想も実現できないんだ」という「現実主義」を選んで、暴力に手を染めた結果、今度は自身が、自身の理想に従って「実力=暴力」を行使し、行使し過ぎる化け物になってしまったのでございます。

 ありがとうございます。どうにも融通のきかない糞まじめなところがあり自分で崩そうと思っているのですが、なかなかうまくいかない(苦笑)
そしておっしゃる権力の危険性についてですが、まさしくそのとおりで、だからこそ人間は「立憲主義」や「三権分立」といったシステムを発明して、「表現の自由」を手厚く保障することで、権力が「善」を僭称して「最悪」に堕することのないような仕組みを作った。それで完璧、ということではありませんが、しかしいわゆる独裁者による専制の危険性は相当に軽減されていると私は感じます。一方で、「権力を行使しない」という選択が誰かの自由を奪う危険性も同様にある。それは私の最新の論考で「 規制をするのか。しないのか。どちらがより人々を幸せにするかは誰にも分からない。そして私たちは望むと望まないとにかかわらず、その結果について責任を負っているのである。それが民主主義国家における有権者ということなのだから。別の言い方をすれば、私たちは何かを積極的にする場合はもちろんのこと、何かをしないということについても「しないという立場」を選択した、ということにされてしまうのである。これは法的な擬制ではなく、どこまでも現実的な結論である。そして私たちの選択した「立場」が、何らかの規制やあるいは規制をしないということにつながる。そしてその結果が、誰かを救うこともあれば、誰かを不幸にしたり、ときに命を奪うことさえある(たとえば、高齢者の自動車運転のことを考えてみれば、今のところ高齢者への一括的な運転規制はされていないが、その結果として高齢者による自動車事故が最近増えているのである)」と述べたとおりです。


>>政治家でも、当初は高邁な理想を掲げ身ぎれいな活動をしていたのに、やがて「それでは実効的な政治活動が出来ず、理想が実現できない」と考えるようになり、世間並みに「金集めをしスポンサーを大事にする政治家」と変貌してしまうといったことが、ままございます。反権力的な政治家として知られた元社民党の辻元清美が、民主党政権時に大臣の椅子に座った結果「やはり権力を持たなければ、何も実現できない」と与党民主党に移籍してしまったのなどは、その典型的な事例でございしょう。「ミイラ取りがミイラになる」のですが、本人にはその自覚が、まず持てないのでございます。

 理想主義者が反転してただの現状肯定派になってしまうことはよくあります。なお、辻元氏につきましては、私は彼女の選択が必ずしも間違っていたとは思っておりません。「やはり権力を持たなければ、何も実現できない」と考えるのは政治家なら当然であり、権力が無くても言うべきことを言うというのが信条であれば、それこそ言論人なりジャーナリストなりになればいいと思うのです。結局のところ彼女への評価は、今後の実績を見て判断したいと思っています。そのうえで「権力掌握自体が自己目的化しているな」という評価になるかもしれませんが、「やはり権力を持たなければ、何も実現できない」という考えそのものは何ら間違っていないと思うのです。


>>要は、多くの難問は「実力行使」しないかぎり、話し合いだけではなかなか解決はしない、という「現実」なのでございます。それが、動かしがたい「現実」の現実性なのでございます。しかし、だからといって「実力行使」で問題を解決したらしたで、「実力行使」は別の重大問題を惹起してしまうのでございますね。

 はい。一方で、実力行使をしないことによって重大な問題を惹起することもある。そして、実力行使をすることによって惹起される問題とどちらがより重大なのかは、簡単には判断できず、それをどうにか判断するのが民主主義的な決定プロセスだ、というのが最新の論考での主張です。


>>しかし、だからといって、それを放置することも出来ませんから、それに取り組みつつ、その存在に堪えるしかない。「私にとっての難問」にとらわれて他が見られなくなり「ひとまずこの問題さえ解決すれば」と思った時に、人はまず「実力行使」を考える。しかし、そのとき人は、それによって発生する次の難問、他の問題については、じつのところ責任を感じてはいないのでございます。

 「そのとき人は、それによって発生する次の難問、他の問題については、じつのところ責任を感じてはいないのでございます」かどうかは、場合による、としか言いようがないと考えます。例えばヘイトスピーチ規制に賛成する人であっても、私をはじめ表現の委縮という問題に配慮している人は少なくはありません。
 もちろん、規制さえされればOKと考えている人もいるでしょう。しかしその場合には、必ず「規制されては困る」という人が現れます。そうした言論戦の中で、では規制しないという方向で纏まるか、あるいは規制方法を緩めるか、いずれにせよ何らかの結論が出る。これが民主主義的プロセスの「正統性」であり、規制するかしないかその判断の「正当性」を基礎づける。


>>「しかし、実力行使を断念して、問題の存在自体は認めて闘い続けろというのは、現実的には不可能なことなのではないか」という疑問はとうぜん出てまいりましょう。だからこそ、私は「被害当事者の実力行使」は時に必要なものだし、それは何よりも「避け得ないもの」として認めたのでございます。

 最新の論考でも少しだけ触れましたが、個人の実力行使が認められるのは正当防衛や自救行為といった限定された場合だけであり、これらは法律・判例によって認められています。また、不当な国家権力の行使に対して個人実力行使をすることも、抵抗権・革命権として認められる場合もあります。これは憲法学上の概念です。しかし、これらの場合以外で「被害当事者の実力行使」が認められることはありません。なぜなら、そもそも私人同士の実力行使は認めるべきではない、というところから近代国家は始まっているからです。もしこれを否定し、正当防衛等以外の場合にも「被害当事者の実力行使」を認めるのであれば、それはまさしくちゃぶ台返しになってしまいます。
 そもそも、正当防衛等以外でも「被害当事者の実力行使」を認めてしまうのであれば、在特会の朝鮮人学校襲撃も認めざるをえなくなってしまいます。なぜなら、彼らに言わせれば自分たちは在日特権の被害者に他ならないからです。こういった主観的な主張に基づく私的な実力行使を認めないという近代国家の理念は実に理に適ったものであり、反論の余地はないと私は考えます。

>>しかし、あえて申しますなら「ヘイトスピーチ」問題は、差別され侮辱されている被害当事者たちが「まだ、それに堪えて、問題と向き合っている」段階であって、「生存をかけての実力対決」を始めなければならない段階ではないのでございます。ですから、ここで我々が「国家の暴力」に頼っての解決に走るのは、良かれと思ってなされる、被害当事者を置き去りにしての「拙速」なのではないでしょうか?

 被害当事者が堪えて、問題と向き合っている、とは私には思えません、。それは朝鮮人学校側の勝訴のときのコメントからも伺えると思います。しかし、これは補足であって、私は当事者が「堪えて」いたとしても、それだけをもって当事者以外が法規制をするのは「拙速」だとは考えていません。なぜなら、被害当事者がとりあえずは「黙認」しているからそれでよい、ということにはならないからです。それは刑法においても親告罪とそうでない罪があることや、同意殺人や自殺幇助も犯罪になってしまうことを考えればお分かり頂けると思います。ことが正義や公共の問題になってきますと、直接の被害当事者がそれでよいと言っているから外野は黙っているべき、という話にはならないのです。もちろん、同意殺人が通常の殺人よりも遥かに刑が軽いように、被害者の意思も大きく考慮はされますが、それによって全てが決まってしまうわけではないのです。

>>たしかに「生存をかけての実力対決」が始まるには、それ以前に少なくない「犠牲者」が出ることでございましょう。私とて、それを必要な犠牲だと言いたいわけではございませんが、しかし、本当の難問が「国家権力を利用することで、犠牲なしに解決する」と考えるのは、誤認なのではないでしょうか。自身の死活問題については「自身の手による実力行使」も避け得ないけれども、そうではない難問にかんして「国家権力に頼る」ことは、目の前の問題を他所の問題へと変換して見せることでしかないのではないでしょうか?

 これも繰り返しになってしまいますが、国家権力に頼ることによって新たに起こる問題が、国家権力に頼らないことによって温存される問題と比べてより重大か否かはケースバイケースであり、それらの判断は民主主義的プロセスの中でするしかない、と考えます。


>>だからこそ私は、避け得ない「自己の直接関わる死活問題」ならば「実力行使」を認めはしても、それ以外の問題については、まずそれが本当に「自己の直接関わる死活問題」なのかを検討する冷静さが必要なのだと考えますし、もしもそれが「自己の直接関わる死活問題」でなかったのなら、「国家権力」を含む「実力行使」には慎重であるべきだと考えるのでございます。

 先に述べたとおり、自分に直接関わるかどうかはそれほど重要ではない、と私は考えています。付言しますと、アレクセイ様のお立場をとった場合、選挙権を持たない外国人や未成年に対する侵害についてはかなりの場合で黙認されることになってしまうと存じますが、いかがでしょうか。


>>それは、数限りなくある「非被害当事者的難問」の中から一つを選んで没頭献身した結果、他の難問については「私はこの問題を引き受けているので、他の問題にまでは、時間も頭もつかう暇がない」と、そのように考えてしまっているか否かでございます。
「なぜ、それ(ひとつか、いくつかをピックアップする)だけで済ませられるのか?」ということでございますね。例えば、私たちが数々の「非被害当事者的難問」すべてに公平に問題意識と時間を割いていたら(ある運動に百万円寄付するのではなく、百万の難問に1円ずつ寄付するとしたら)、それは「専門的運動家」から見れば、一見「何もしていない」ようにしか見えないでしょう。実際問題として、そのような力の分散は、運動にとって非効率的・非効果的ですから、それぞれが問題意識をしぼって「ひとつの問題」に取り組んだ方が良いというのが、一般的な現実的実利的な考え方でございましょう。
しかし、こうした問題意識のあり方は、そのまま貴兄の否定する「コミュニティー」的な閉鎖性へと接近してゆき「あいつらは何もわかってない」とか「あいつらは何もしていない」などという一方的な批判に典型される「独善」へと変貌しがちなのございます。

 最新の論考で述べたとおり、「私はこの問題を引き受けているので、他の問題にまでは、時間も頭もつかう暇がない」という態度は仕方がないと考えています。大切なのは、他の問題を捨象していることを自覚し、他の人たちも自分と同様にその人にとって重大ないくつかの問題で手一杯であり自分の方に関心を寄せてくれるかは分からない、というある種の謙虚さを持つことでしょう。


>>ですから、私は結論を急ぎませんし、人にもそれを求めないことにしました。「やるのかやらないのか」などと独善的かつ居丈高に、他者の生き方を評価したり批判したりするのではなく「やりたい者が自己責任において、問題に取り組んだら良い。それは立派な取り組みだが、しかしそれを他人に強いる権利は、彼にもない。自身の実行動を誇ることおいて、他者に生き方を強いる権利があると思った時、その人は、権力の魔性に取り憑かれたロベスピエールの末裔となってしまっているのだ」と考えるのでございます。

 最初の論考では、私は規制への慎重派や反対派を批判したことは既に述べたとおりです。そして最新の論考で述べたことは、結論を急がないという態度はそれ自体は全く問題ないが、それは実際には何らかの政治的機能をしてしまい、そしてその「結論を急がないという選択」をすることで私たちは「小さなロベスピエール」になることもある、ということです。


 ひとまず2015年 1月 9日(金)22時12分39秒のアレクセイ様の書き込みに返答させていただきました。2015年 1月12日(月)19時41分33秒のトゥー・テ・ビアンにつきましては、最新論考がそのまま返答になっているかと存じます。一点補足をしておきますと、最新論考は、私も在特会メンバーも同じ人間である、という近代的人間観を前提にしております。であるからこそ、彼らの行動を規制しようと思った私には、彼らに個人的実力行使をすることは許されず、あくまで国家を通した民主主義的プロセスの中で攻防を繰り広げなくてはならないのだ、という主張です。

https://mobile.twitter.com/kaibarakenei

 
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