新着順:50/2127 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

悪霊 あるいは 不可視の獄

 投稿者:園主メール  投稿日:2015年 1月19日(月)21時09分22秒
  通報
  ★ 海原健叡さま

再応答

「再応答」ありがとうございます。
「再応答」の前提をなす海原さまの「国家論」である『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』も拝読いたしましたので、これらのご意見を前提として、私の意見を書かせていただきます。

まずは、これまでの流れを以下のように整理しました。

(1)海原健叡  「在特会のことなど」
(2)アレクセイ 「映画『フューリー』における信仰告白」 ※ 海原氏へのレス部分
(3)海原健叡 「ネットと権力と近代の再構~在特会を巡って~」「おめでとうございます」より)
(4)アレクセイ 「迷えるイエスと迷える悪魔の対話」 ※ 海原氏へのレス部分
(5)アレクセイ 「トゥー・テ・ビアン」
(6)海原健叡 『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』「同題」書き込みより
(7)海原健叡 「再応答」


さて、今回の私の応答は、主として(6)『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』と、(7)「再応答」になりますが、随時それ以外にも言及しながら、海原さまのご意見全体への応答とさせていただきたいと存じます。

                   ○

まず最初に指摘しておきたいのは、海原さまの(3)(6)(7)を読んでも「なぜ、海原さまが、ヘイトスピーチ問題に、こだわるのか」という点については、やはり「何も書かれていない」ということでございます。

海原さまはこれらの文章で「ヘイトスピーチは正されなければ喫緊の問題である」「私は、ヘイトスピーチ問題に、集中的にこだわる」という説明をなさっており、これは「客観的な事実」でございますが、「なぜ、海原さまにとって、それ、なのか?」という「個人的な動機」には、まったく言及しておられません。

しかし、そここそが私の議論のポイントであり、それへの「応答」が期待したのですが、この点でまったく残念でございました。
私が(5)「トゥー・テ・ビアン」で論じているのは、「一見文句なく正しそうな言動」も、その底には「個人的な問題(事情)」が伏在しており、それが時に判断を誤らせて、しばしば「正義の名の下に」バランスを欠いた極端としての「暴力」が正当化されてしまうこともあるので、「なぜ、彼は、それを、選んだのか」という「個人的(内面的)事情」は看過しえない、ということなのでございますね。

そうした観点から、まず、(7)「再応答」での次のご質問について、お答えしておきましょう。

> 「つまらない失敗」とは件の弁護士とのトラブルのことでしょうか? それとも批判にのめりこんだことそのもの、という意味でしょうか? もし後者のことをおっしゃっているなら、一読者の私としてはアレクセイ様が失敗していたようには感じないのですが。もちろん、アレクセイ様がご自身の時間の使い方として優先順位や配分を間違ったということであれば全く異を唱えるつもりはないです。

私の「つまらない失敗」とは、かの弁護士(高島章)に「それは犯罪です」と言われて、「これは犯罪かも知れないが、必要な犯罪だ」と言い返せないことをやってしまったということ。それが「つまらない失敗」でございます。
具体的にご説明いたしましょう。私は、原発事故による残留放射能問題に真摯に取り組んでいる人たちに対して、「放射脳」という蔑称を冷笑的投げつけていた「ある人物(藤原敏史)」を批判しました。もちろん、当初は紳士的かつ論理的にでございますが、これに対して彼は最初から不誠実かつ冷笑的、簡単に言えば「2チャンネルの匿名カラス」的な返事しか返してきませんでした。それで私もだんだん頭に血が上ってきて「こいつとは議論にならないが、このまま看過する気にも到底なれない」とケンカを始めたわけでございます。で、その過程で私の立場に賛同する者も出てきて、私に加担して彼を攻撃するようになったのでございます(もちろんあちらにも応援者はいました)が、そうした人たちによる攻撃の中で、彼の住所を特定してそれを晒すということまでなされるようになりました。これは冷静に考えればやりすぎだし「フェアなケンカ」とも言えないのでございますが、当時の私は冷静さを欠いておりましたから、そういう行為を咎め戒めることもせず、ただ「ザマあ見ろ」と冷笑していたのでございます。
そんな調子ですから、私自身の彼への「悪口」も、「事実」ではあれ、彼の「名誉を毀損する」ことを目的としたものにまで発展しておりました。そんな折、かの弁護士が自分の言動を棚上げにして(詳しくは→http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2279)、いきなり、かの人物の住所を晒した人に対して「それは犯罪です」とツイートしたので、私は「こいつ、いきなり何を言いだすのか」と驚き、住所を晒した人物を擁護しようとしたのですが、所詮それは私のやっていることもまた「犯罪」であるというのを認めるにも等しい行為だったのだと、今ならそう申せましょう。
問題は、「放射脳」発言の彼が「実名」投稿者であったという点でございます。「2ちゃんねるの匿名カラス」なら住所の晒しようもないし、公然と「人間のクズ」「社会不適応者」などと罵倒したところで、「法的」な「名誉毀損」罪は成立いたしません(個人が特定されておらず、実質的被害は発生しないため)。しかし、彼が実名であったために、我々の言動は明らかに「犯罪」だったのであり、その点だけをとり上げれば、かの弁護士のいうことは、まったくの「事実」だったのでございますね。
しかし、私がかの弁護士を許せないと思ったのは、彼自身は明らかのその「放射脳」発言者を指してキチガイ呼ばわりしていたにも関わらず、その「主語」を明確にしないことで責任逃れしていた点でございます。つまり、かの弁護士は、実質的には私たちと同じことをしておきながら、自分は弁護士らしく「法の抜け穴」を利用して姑息にも責任逃れした上で、われわれ公然たる罵倒者に対してヌケヌケと「それは犯罪です」などと宣ったのでございます。
しかし、犯罪は犯罪でございますし、この場合「必要な犯罪」とも申せません。あきらかに私は感情的になって、この人物が「実名」であったことを失念しており、「実名」であることへの配慮を欠いて、卑劣な「匿名者」に対するのと同じような調子で、この人物を攻撃してしまったのでございます。言い換えれば、不必要かつ不用意な「過剰攻撃」をしてしまったのでございますね。
ですから、私はかの弁護士の「姑息さ」を容認する気はさらさら無いものの、自分が、頭に血が上って「つまらない失敗」をしてしまったという事実は認めざるを得ず、頭を冷やして反省する必要を認めましたし、また当時は私は画集『薔薇の鉄索』の監修者としてその刊行に責任のある立場だったのですが、かの弁護士が「犯罪者が公刊書に責任者として関わるのはいかがなものか。版元に連絡した方が良いのではないか」などと、およそ「筋違いのイヤガラセ(を煽る)」ツイートを始めましたので、万が一にも私の個人的な言動が、画集の刊行に差し障りとなってはいけないと判断し、一時ネットから撤退したのでございます。

以上が「件の弁護士」に関する一連の流れでなのございますが、そもそも私が「放射脳」発言者に対するケンカにのめり込んだのには、その前提となる「私の心理状態」があったと、今は自己分析いたします。
私には昔からずっと「地位・肩書き・権威といったもので、自分の発言を飾りたくない。また数の力に頼りたくもない。自分は一個の無名者であり、言論の中身で勝負する人間だ」という自負がございましたので、「同じことを言っても、有名人の発言は有り難がられ尊重される」といった「つまらない現実」に乗りたくはなかったのでございますね。ですから、そういうものは徹底的に拒否したのでございますが、しかしまた、その無名性の故の、自身の発言力の限界も認めざるを得ませんでした。「地位・肩書き・権威を持たない無名者の発言」というものは、残念ながらその影響力があまりにも小さい。ですから私はそこで「責任の持てる個人の言論に徹することを自分に課そう。その限界に甘んじよう」と考えたのでございますが、しかし、その覚悟にも関わらず「個人的言論の限界」をひしひしと感じ、「権威に拠らない純粋な言論の限界」をそこに見るからこそ、ならば個人に徹する者として、自分自身が直接接触することになる「ネトウヨ」や、かの「放射脳」発言者などに対して、「私闘」を挑むことにしたのです。たとえそれで世の中が変えられなくても、私は私一人の力の及ぶ範囲において、私一個の責任において「一人一殺」的に「敵」を叩いていこう。「それが私の社会貢献だ」と考えたのでございます。
しかし、こうした考えの中には「現実に対する否定しがたい諦念」のあったことは明らかでしょうし、だからこそ、その憂さ晴らし的に「不必要な私闘」にのめり込んだという側面も否定できません。
けれども、私が「個人の言論」においてできる「小さな貢献」は、なにもこのように殺伐としたものでなければならないはずはなかったのでございます。

私は「反権威」にこだわりました。これは私の骨がらみの指向である「判官贔屓」であり、それはたぶん自分がもともと「味方もいない寄る辺なき存在」であるという、子供の頃に自己意識に由来します。始終、近所のガキ大将たち泣かされていた、まるでのび太のようだった私は、私のような「小さな存在」に寄り添ってくれるドラえもんのような存在を求めていました。ですから、自分が大人になると、そのような存在になりたいと思ったのでございますね。そして、ドラえもん(そして当時のヒーロー一般)には「実力」はあっても「権威」はない。「権威」ではなく純粋に「実力」で問題を解決した。そして、私にとって選択可能な正しい「実力」とは、「言論」しかなかったのでございます。


さて、ここで海原さまへの応答に戻ります。
私はこのような人間ですからこそ、海原さまの今の気持ちが多少はわかる気がいたしますし、その危険性も感じるので、そのように性急に「暴力」に頼ることには、賛成できないのでございます。
要は、いまの海原さまもまた「言論の限界」につきあたってそれに絶望し、その自然な流れとして「暴力に解決を求めているだけ」だとしか思えないのでございますね。

以前、海原さまは「囲碁界の問題」について、言論で深くコミットされていましたが、結局はそれが実質的な功を奏することはなく、その結果、ブログのタイトルも『好きなように生きます』となって「囲碁界の問題」から距離を措くことになりました。しかし、それで本当にお気持ちの整理が出来たとは、私は思わないのでございます。なにしろ「囲碁界」という「海原さん個人にとっては重大問題」への執着を不本意に断念した後、次の大きな課題が今回の「ヘイトスピーチ問題」であり、こちらは「極めて公共性の高い問題」で、「囲碁界の問題」ではまったく考慮の他だった「法的強制」も視野に入ってきたのでございますから、海原さまが「今度こそ、何がなんでも解決したい」という気持ちになっても不思議はありません。

しかし、こうした流れにおいて「ヘイトスピーチ問題については、法的規制をしてでも」と考えてしまうことは、危険でございます。もちろんこうした意識の流れは半ば無意識的なものでございましょうが、「ヘイトスピーチの法規制」問題について考える時、それと比較考量して検討すべきは「他の社会的問題における法規制の是非」であるべきであり、それらとの兼ね合いでございましょう。
また「国家による法規制」という伝家の宝刀に頼るからには、「国家権力それ自体の問題性」の重みをもっと慎重に具体的に考量した上で、それでもやはり「ヘイトスピーチの法規制」が「どんなリスクを伴おうとも、現時点で避けられない選択」なのか、ということをよくよく考えなければならないと思うのでございますね。
しかし、海原さまの「国家論」には「国家それ自体の問題性」の、リアルな考察がまったく無いのでございます。

(3)の「ネットと権力と近代の再構~在特会を巡って~」を見てみますと、海原さまがここで主張なさっているのは「ヘイトスピーチの問題は、法規制によってでも、まず解決されねばならず、それによって派生的に表れてくる国家権力のリスク問題については『次の段階』として対処すれば良い」ということです。
で、このような「順序」がどこから出てくるのかと申しますと、それは次の部分でございます。

> 国家権力が危険であるというのは近代主義の大前提であり、そのため国家による規制には注意を払わなくてはならない、というのも常識である。しかし、強力な近代国家の出現には、共同体による恣意的な支配から人々を解放したという側面が確実に存在する。そのうえで、強力な国家権力をいかにしてコントロールするかという問題が「次の段階」として生じたのである。今私たちが考えるべきことは「次の段階」のことではない。21世紀に亡霊のように蘇った共同体が個人を弾圧する状況の中にあってまずすべきことは、正しくこの亡霊を葬り去ることである。すなわち歴史の繰り返しであり、国家権力の再構築に他ならない。

『しかし、強力な近代国家の出現には、共同体による恣意的な支配から人々を解放したという側面が確実に存在する。そのうえで、強力な国家権力をいかにしてコントロールするかという問題が「次の段階」として生じたのである。』
この「断定」に、いかほどの現実的根拠がありましょうか? 強力な近代「国家」は『共同体の恣意的な支配から人々を解放した』という『側面』がある、という言い方には、あきらかに「共同体の支配力」を奪ってしまうような『強力な近代国家』には「それ以外の(悪しき)側面」も多くあったということであり、その「強力さ」とはつまるところ「共同体よりもずっと広範な、人々への支配力」ということでございましょう。

つまり、「国家」は『人々を解放する』ために生まれたのではないし、そのために「共同体」をその支配下においたのでもございません。「国家」とは「超共同体的な権力形態」であったり「共同体の合同による権力形態」であったりするだけで『人々を解放した』という側面もあれば「人々から(共同体からの脱落などの)逃げ場所を断ってしまった」という側面もございます。

ともあれ、事実として「国家」は「人々」のために作られたものではないし、「国家」の運営において「いかに人々を効率よく支配管理するか」という側面において、現実には、「共同体」のそれよりも「ソフィスティケートされた権力行使」がなされるようになっただけ、それに我々が馴らされて、「共同体の野蛮な権力形態」を「現実にその権力下にあった人たち」以上に「悪く見ているだけ」だとも申せましょう。
例えば、現在の日本人の多くは「日本ほど人権の守られている国はない(少ない)」と思っていますが、「先進国」の多くの人たちは、しばしば「日本は人権意識の低い国」と見ており、それが「女性や子供の人権」でもあれば「在日外国人の人権」の問題(在日外国人の奴隷労働問題など)として、国連などからもしばしば是正勧告を受けているのでございます。
もちろん、外からの評価がいちがいに正しいとは申せませんが、人は自分のおかれた状況を「比較的恵まれている」と考え(不正義を容認し)たがるというのは、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』を踏まえて『黒人の間で通常「アンクル・トム」は「白人に媚を売る黒人」「卑屈で白人に従順な黒人」という軽蔑的な形容を意味する』(wikipedia)といったようなことと、基本的には同じなのでございます(黒人奴隷の多くが「うちのご主人さまは比較的立派な方であり、自分はまだ恵まれている方だ」と感謝していた、という主観的誤認の問題)。

したがいまして、「国家権力」が「共同体権力」よりも「マシ」であると一概には申せませんし、『人々を解放した』とも申せません。「その規模に応じて、やむなく支配管理の方式が変わっただけ」そして「新しい支配形式の方が『よりマシ』と思い込まされているだけ」だとも言えるのでございます。

ですから、海原さまのように「近代国家」を「よりマシ」なものとして、権威づけることは出来ません。「近代国家」よりも低劣な「共同体権力」もあったでしょうし、「国家権力」よりもずっと素晴らしい「共同体権力」もあっただろうということしか言えない。
したがって「近代国家による支配は、共同体権力の支配よりは、マシ」というロジックの上に『次の段階』扱いされ(先送りされ)た「国家権力リスクへの監視抑制」という「順序」も、無根拠なのでございます。

つまり、海原さまによるこの「順序」は、「権力を利用したい」と考えている海原さまの、「ひとまず」その「国家権力を肯定しなければならない。あとで注文はつけるとしても」という「自己都合」の反映された、恣意的な「順序」でしかないのでございますね。
したがって、「まず国家による法権力を利用してから、次に付随的問題に対処すれば良い」という「順序」はなんら正当化されえず、「国家による法権力は、利用する前に慎重な検討を必要とし、利用してしまってからでは取り返しはつきにくい」という「順序」で考えられるべきかも知れないのでございます。
無論、私の立場は後者の「慎重論」であり、それは「国家権力は、共同体権力からの解放者である」といった「国家権力の側からの、一方的な見取り図」を信用していない者の、リアリズムなのでございます。


つぎに、私の(5)「トゥー・テ・ビアン」を受けての、海原さまの(6)『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』でございますが、ここでなされているのは、「法学」的な「国家像」によって「現実の国家(支配)」を正当化し、さらに「法学」的に『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』として「その法権力執行の責任を、広く国民全体におし拡げて、具体的な権力執行当事者の責任を実質的に空無化する」ことなのだと申せましょう。

私が(5)「トゥー・テ・ビアン」で、「権力の魔性に憑かれた者(の独善)」という意味に限定して使った『ロベスピエールの末裔』という言葉に対し、神原さまはそれを(6)『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』において「民主主義国家においては、法的には、何を選択しようとしまいと、そのことによって、国民はみな、国家暴力に関する共同責任を負ってしまうのだ」というロジックによって「みんなが小さなロベスピエール」だと鋳直し、「現に法権力を執行しようとする者」の「個別的責任」を曖昧化しようとなさっています。
しかし、『国家』も「法」も、彼や彼女といった具体的な「人間」によって担われているものであって、その事実を忘れてはなりません。現に、それを担う者が変われば、同じ法律下でも、執行のかたちは変わるのでございます。

たしかに「法学」どおりに「理想的」に「国家」が運営できるものなら、国民はその権力に対して「等しく責任を負わなければならない」ということにはなりましょう。
しかし「法学において語られる国家」とは、「国家はかくあるべし」という「理想像」であって「現実の国家」ではございません(つまり、摩擦や空気抵抗といった現実を考慮しない運動方程式のようなもの)。平等に選挙権があると言っても、それは現に「(是正できない)一票の格差」の問題などのいろんな現実問題があって、とうてい「公平な権利には公平な責任を」とは言いがたい。しかし、一票の価値の低い選挙民は、その分「納税を軽減される」などの手当てがあるでしょうか? ございませんよね。そういう「建前どおりにいかない現実」をいちいち認めて対処していたら「国家は回らない」というのが、「国民の権利」に優先される「国家(権力者)の論理」の現実なのでございます。

他の例を挙げましょう。「政府のやったことは、国民全体の責任。なぜなら、その政府を選挙で選んだのは国民なのだから」というのが「国家の論理」でございますが、しかし「政府」つまり国民にとっての「国家権力」が、国民に公約したことをそのまま実現した上での結果にならば、国民も責任を持たなくてはならないでしょうが、実際には「国家」や「政府」の都合での「公約の不履行」や「公約違反」を、やむを得ないものとして国民が?まされているのが、現実の政治なのでございます。例えば「原発問題」「米軍基地問題」もそうですし、かつての「太平洋戦争」や「イラク戦争」なども、それは「国民の選択」であるよりは「プロパガンダ(政治的宣伝)」によって「国家によって国民が選ばされた選択」という側面が否定しえず、これを「みんなの責任です」などと平準化するのは「国家権力側の欺瞞」に他ならないのでございます。

つまり、海原さまが『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』と言う時、それは「民主主義国家というのは、国民全員が、他者を抑圧する権力の、平等な主体者たらざるを得ない、悪しき政治形態であり、しかもそれが宿命的に避けえない、よりマシの政治権力形態である」と主張なさっているわけなのでございますが、これはまさに「実体的権力者に都合のよい、単純化された法学的国家像」に過ぎないのでございます。



私は、海原さまの(a)「ヘイトスピーチは法的規制しかない」、(b)「法規制に対する反対論や慎重論は、実質的にはヘイトスピーチの容認にしかならない」という「(ロベスピエール的)強硬論」に対して、「本当に、そうなのか?」ということを問うたのでございます。しかし、これらに対する明確な答は、まったくございませんでした。

では、海原さまが(3)「ネットと権力と近代の再構~在特会を巡って~」、(6)『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』、(7)「再応答」などで、何を書かれていたのかと申しますと、あくまでも「一般論」としての「国家権力の行使は、民主主義国家においては、国民の付託を受け、その責任においてなされる、避けえない、唯一正当な暴力行使である」ということでしかなく、「国家権力の現実」は『次の段階』どころか、まったく不問に付されているのでございます。

なぜ神原さまは『法学』にこだわるのか? なぜ『民主主義的プロセス』という言葉を濫発するのか?
それは、どちらも「現実」とは切れたところの「議論」でしかないからでございます。

「国家権力の現実」の問題と直面するならば「法学ではこうだから」とか「民主主義的プロセスとは、得てしてそういうもの」といったような絵空事では済まされません。なぜなら、そこに「現に、権力によって、権利を侵害された人」と「権利侵害(加害)を合法化しようとする、国家権力(者)」が存在しており、「国民みんなの責任です」とか「民主主義のプロセスですから仕方ない」では済まない、「個別性」「個人性」があるからでございます。

周知のとおり、ヒトラーによるナチスドイツ政権もまた、正当な「民主主義的プロセス」を経て成立したものであり、それがアウシュビッツの象徴されるホロコーストの惨禍を結果いたしました。
そんな政権を選んでしまった当時のドイツ国民には、この結果に対する「一定の責任」があるのは事実でございましょう。しかし、ヒトラーとて「ユダヤ人を虐殺して根絶やしにする」ことを「公約」として、国民に選ばれたのではございません。多くのドイツ国民はユダヤ人に反感を持っており、ユダヤ人の社会進出にたいして抑制的な政権を歓迎したという程度のことなら事実でしょうが、まさかヒトラーが「あそこまでやるとは思ってもみなかった」というのも確かなはずでございます。ですから、ホロコーストの責任を、当時のドイツ国民に対し「全員平等に課す」ことは、明らかに間違いでございましょう。

したがって「その政権を、民主主義的手続きにおいて選んだのは国民なんだから、その結果責任も国民全員で平等に担わなければならない」などという「現実を曖昧化する言説」は、決して許されてはなりません。
ヒトラー政権ならずとも、現存する多くの「独裁国家」でも「国民の負託を受けた指導者が、合法的に国家の指揮を執っている」という「建前」になっているのでございます(他国がそれを認めていないだけ)。
つまり「民主主義プロセス」なるものが、必ずしも「国民の主権」を保証しているとは限らない。大切なのは「建前」や「形式」などではなく、「現実」であり「事実」がどうなのか、なのでございます。

このようなわけで、残念ながら海原さまの「民主主義的プロセスを経てなされる国家権力の執行責任は、国民全体に平等にある」とか「権力執行にともなうリスクについては、事後的に対応すべき問題」といった議論は、「法権力を利用したい者の側の(目先の実利探求的)論理」でしかなく、それは限りなく「国家権力の側の(やり逃げ的無責任)論理」に似たものになってしまい、「(権力執行当事者の)個人としての責任」を曖昧化してしまうものにしかなっていないのでございます。

海原さまは、(6)『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』での、

> 警察官が特殊な権力を振るえるのは、あくまで法律を根拠とする。そして法律を作るのは国会議員であり、そして議員は有権者によって選ばれる。警察官に限らず執行官も自衛隊も全て権力の正当化根拠は、有権者が(間接的にであれ)作った法律である。有権者=みんなの信託を受けそのコントロールの下にある人間だけが、限定的に権力という実力を行使することが認められるのである。このように権力と言うものは脱人称化されソフィスティケートされた実力であるため、人々はそこに一定の信頼を置く。「暴力」という呼称は似つかわしくない、と考えるのである。

というご自身の否定的認識を、そのままご自分でも再演なさっています。
つまり、海原さまが一連の議論でなさっているのは、「国家による暴力」の『脱人称化』であり『ソフィスティケート』であり「透明化」にほかならないのでございます。

しかし、「現実の国家権力(の暴力)」は、『脱人称化』されねばならないほどの「個人性・個別性」を持っておりますし、『ソフィスティケート』されねばならないほど時に「野蛮」であり、「透明化」されねばならないほど、しばしば「露骨」なものなのでございます。
なのに、その現実を避けて通るような「国家論」は、「本音の国家論」ではなく「建前の国家論」でしかないのだと申せましょう。

そして、そんな「建前の国家論」に依拠した「法権力利用の妥当性」の主張は、うさん臭すぎて、私にはとうてい信用できないのでございます。

ひとつ「思考実験」をしてみましょう。
仮にここに「悪逆非道で更正不可能な殺人鬼」がいたとします。彼が国家権力に逮捕されれば確実に「死刑」になります(少なくとも、今の日本では)。この犯罪者はあまりにも悪逆非道であり、国民の大半はその感情の問題(あるいは、社会的効率の問題)として「死刑も止むなし」と考えます。
しかし、その死刑執行を「あなたがその手でやってください。こいつは柱に縛るつけ麻酔で眠らせてあるから、まったく抵抗は出来ません。あなたはこの包丁で、こいつの心臓でもどこでも何度か刺すだけで、簡単にこいつを殺せますから」と言われた時、彼はその「妥当な死刑執行」に抵抗を感じないでしょうか? 「私はやりたくない」と考えたりしないでしょうか?
誰が実際に「権力執行」しようと、殺人鬼の罪が変わるわけではありませんし、権力執行の正当性(合法性)が変わるわけでもありません。
しかし、「国家権力」という名の「誰か他の人」が「手を汚すのは平気」だが「自分が手を汚すのはいや。私の家族が殺されたのなら話は別だけど、他人のこと(被害)でそこまでは出来ない。それなら金を払って、公務員に『汚れ仕事』を代行してもらうよ」というのが、「民主的なプロセスにおける権力執行」の「実態」であり、「国家権力とは、個人が手を汚さないという形式での、きれいに飾られた暴力」なのでございます。

そして、もちろん「ヘイトスピーチの法規制」というのも、これと同じでございます。
「ヘイトスピーチ」の被害当事者でない者が、「ヘイトスピーチ」に対して「法規制」を求めるというのは、「自分の手を汚してまで、それを止めなければならないほどの、切迫性は感じていない」ということであり「税金で、誰か他の人がやってくれるのなら、それに越したことはない。なにしろ目的は良いんだし、我々は税金を払ってるんだから、それくらい要求する権利はある」ということなのでございます。

「ヘイトスピーチ問題」が喫緊の問題であることを、私も否定しません。
しかし「ヘイトスピーチへの法規制こそが、喫緊に必要な対処」なのでしょうか?
もしも「そうである。それしかない」とおっしゃるのであれば、そのご意見に沿った、もっと具体的な根拠説明をしていただきたいと存じます。
「ヘイトスピーチには法規制しかない」という「個人的な意見」を正当化するために、「国家権力」自体を『脱人称化』し『ソフィスティケート』し「透明化」するなどというのは、事の遠近大小を見失った、とんでもない倒錯でしかないと私は考えます。

そして、もしも海原さまが「国家権力が直接的に関わっている、他の、喫緊の社会問題」、例えば「死刑制度廃止問題」(なにしろ今にも命が失われる)などに関わっていたとしたら、そして、そうした「国家権力が直接的に関わっている、他の、喫緊の社会問題」について誠実に思考したことがあったなら、自らの手で「国家権力」を『脱人称化』し『ソフィスティケート』し「透明化」したりするような「具体的な現実を置去りにした空理空論」を弄ぶようなことはしなかったのではないでしょうか?

では、なぜそんなことになってしまったのかと言えば、それは海原さまご自身が「対ヘイトスピーチというネットコミュニティー」の安住者となって「他の問題」に対しては、盲目かつ無責任になっていたからでございましょう。
そうした意味では、海原さまご自身、ご自分が批判なさっていたような「コミュニティーの囚人」でしかないのでございます。


海原さまと「ネトウヨ」とのtwitterでのやり取りを拝見いたしますと、それはかつての私の姿そのものであり、当然、その場における海原さまの気持ちもわからないではございません。しかし、大切なことは「相手を言い負かす」ことではなく、まず「事実に沿って誠実に語る」ことではないでしょうか。たとえそれで「相手が意見を改めなくても」でございます。

今回の私とのやりとりにおける海原さまの「論理展開」は、「まず結論ありき」であり、さらには、かつて笠井潔が口にした『理屈なら何とでもつけられる』といった、小才子的な知的不遜さが感じられます。
私としては、こんなものではなく、もっと「ヘイトスピーチ問題」への取り組みを避けえないものとして選んだ本人にしか語りえない「真の動機」を知りたいのでございます。「後づけの理屈」では、人を煙に巻くことは出来ても、納得させることは出来ないのではないでしょうか?
私が「当事者ならば仕方ない」という留保をつけるのも、そのあたりを考慮するからなのでございます。





それではみなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
》記事一覧表示

新着順:50/2127 《前のページ | 次のページ》
/2127