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「議論」とは何か

 投稿者:園主メール  投稿日:2015年 1月20日(火)10時50分25秒
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  ★ 海原健叡さま

どこどこまでも......

> 拙論をお読みくださり、またご丁寧な返答ありがとうございます。当方としましては、前回のような「立場の違いの確認」といったことに留まらない、明確な反論の準備が今回はございます。アレクセイ様が望まれている「私がヘイトスピーチ問題にこだわる理由」の説明もそこで行うつもりです。同時に、そういった個人的動機を語ることを私が忌避する理由も。

了解いたしました。
今度こそと期待しておりますので、具体的で現実に即したご説明をお願い致します。

>  しかしどうにも申し訳ない、と思いますのは、アレクセイ様はネットから距離を置いてらっしゃったところに、なかば無理矢理に面倒な論争に巻き込んでしまったということです。

いえ、私は現在はすでに『ネットから距離を置いて』いるということはございません。その主たる理由は、懸案だった画集が無事刊行されたからでございます。

しかしまた、「つまらない失敗」をくり返すことはしたくありませんから、「ネトウヨ」同様に「信念に凝り固まって、思考が硬直している人」つまり海原さまの言葉でいえば「コミュニティー的な視野狭窄に陥っている人」と、無益な議論をするつもりもありません。
そもそもそういう人との議論とは、「議論」の名に値しないものと存じます。それは単に、双方が自分の意見を表明し合っているだけのもの(独白対独白)か、あるいは「一方通行」でしかないと考えるからでございます。

それに私はもともと「議論」好きですので、「議論」自体を忌避するつもりはありません。私が時間の無駄だから忌避したいと思うのは、前期のとおり「独白対独白」や「一方通行」で、喩えて言えば「妄想性精神疾患者との議論」みたいなものです。相手に「議論」する準備や能力が無いとわかったなら、それ以上の対話継続の努力は無益であり、意地になっても仕方がないということでございますね。

これは私が最近ときどきやっている、クリスチャンとの議論も同じです。
「神を信じている」という人に対して、私は「信じられない。なぜなら神の存在を確認できないからである。ドーキンスも言っているとおり、確認できないものは『妄想』かも知れず、妄想に人生を委ねることは出来ないからである」と説明します。
ここで相手が「いや、私には神の存在が直観的に実感できる。その実感が何よりの信仰の根拠であり、人は自分の実感を拠り所にせずには生きることは出来ない」と説明すれば、私は「それはそのとおりですが、しかし現実には、まったく違った他の神を実感するという人がいるのも同等の事実ですし、いわゆる病的妄想と見なされている人も大勢いますが、そういう人たちの実感や確信と、あなたの実感や確信とは、厳密には区別できません。そのあたりをどう考えるのですか?」と問います。すると相手は「他の人たちの実感やそれに基づく確信を否定することは出来ません。しかし、少なくとも私は、神への確信によって社会生活が営めなくなるような障害を負っているわけでも、論理的思考が不可能になっているわけでもありませんから、その現実の枠内で、自身の実感を信じて、神を求めていくしかありません。あなたが神を実感できないのなら、それはそれで仕方ありません。あなたと私では、現実認識の前提条件が違っているのですから」と言ったとすれば、私はそこで退き下がらざるをえないでしょう。なぜなら、「神」が「特定の人にしか認識しえないもの」だとしたら、それを感じることが出来ない私は、これ以上、その「特定の人(この場合は、そのクリスチャン)」との間では「議論」は成立しないからです。
いっぽう、別のクリスチャンは「私も神の存在に関して確信があるわけではありません。ですが、私自身の神を求める心は否定できないし、そもそも神の存在しないような世界はあまりにも救いがないから、私は神を信じてその可能性に賭けたいし、その価値はあると思います」と言うのなら、私は「あなたのおっしゃることは、無いと困るから、あると信じたいということでしかありません。しかし、無いなら無いということを前提として、この世界に向き合うべきなのではないでしょうか?」と言うでしょう。すると相手は「神が存在しないという前提で世界の現実を直視すれば、それはあまりにも絶望的で救いの無いものでしかなく、それそのものと向き合うということ自体、現実の世界の悲惨を直視することを避けた上での、楽観論なのではないでしょうか? そんな実効性のない楽観論にすがるくらいなら、神の可能性に賭けた方がよいとは思いませんか」と応えたとします。すると私は「確かにそうかも知れませんが、それは世界の現実の悲惨さというものを、どの程度のものと見積もるかの問題でもあるでしょう。だとすれば、まず世界の現実とキリスト教の信仰がどこまで向き合っているのかを問題とすることは可能でしょう」ということになり、さらに各論的な「議論」が可能となるでしょう。

つまり、「議論」というのは「議論が可能となる共通認識」を前提としますから、その「共通認識」が確認できないならば、それ以上は「議論」にならないし、「共通認識」が確認できれば、その部分に関して「議論」を続行することは可能だ、ということなのでございます。
私が海原さまに「具体的な現実に即して」というのも、そこにしか「共通認識」は見出せないと考えるからで、「信念」は「議論の対象ではない」と考えるからでございます。

> もしアレクセイ様がご迷惑でなければこの後も応答を続けたいと思いますが、打ちきりをお望みでしたらご遠慮なくおっしゃってくださいませ。その場合は私は私で、アレクセイ様への反論を含んだ論考をブログにあげるとは思いますが、あとは読者に判断してもらうということで、しつこくこの話題でアレクセイ様に絡んだりあるいはアレクセイ様が逃げたなどと吹聴することは決していたしません。

したがって『アレクセイ様が望まれている「私がヘイトスピーチ問題にこだわる理由」の説明もそこで行うつもりです。同時に、そういった個人的動機を語ることを私が忌避する理由も。』ということであれば、海原さまの次の「具体的なご説明」に期待いたしますし、それを読んでみて、それがやはりこれまでのような「空理空論」の類いであれば、これはもう「議論」の成立しない相手なのだと判断して、対話を打ち切るしかないと存じます。
ですから、次回こそは、私の期待に応えて、誰もが「議論」の前提と出来る「共通認識」に立脚したご意見をお聴かせいただきたいと存じます。

> 率直に申しまして、アレクセイ様と忌憚の無い議論を交わすのはワクワクするのですが

恐縮です。

> 今回のお返事を拝読しましてもやはりアレクセイ様はネットの議論に前向きではないことが分かりまして、このまま続けていいものか迷っているところです。

問題は、海原さまのおっしゃる『ネットの議論』とやらが、「議論」の名に値するものなのか、ということなのでございますね。
昨日の「悪霊 あるいは 不可視の獄」で私は『大切なことは「相手を言い負かす」ことではなく、まず「事実に沿って誠実に語る」ことではないでしょうか。たとえそれで「相手が意見を改めなくても」でございます。』と書きましたとおりで、ただ相手を言い負かすために「あれがダメならこっちでどうだ」式の「内容空疎な意見表明」、たとえば海原さまが紹介されていた「ネトウヨ」の言説のようなものは「議論の対象ではない」というだけでございます。

> もしよろしければ今後ともよろしくお願いいたします。私も決定的な対立や断絶を恐れないので、全力で誠実に本音を叩きつける腹積もりです。

ええ、全力で「テクニックを駆使する」のではなく、全力で「腹蔵なく(自他に忌憚なく)語る」といったご意見をお待ちしております。そうであれば、「議論」が成立するか、文字どおりの『決定的な対立や断絶』が確認され「議論」の前提となる「共通認識の不在」が明らかになるだけだと思います。

言うまでもなく、肝心なのは、「感情的な」という意味での『決定的な対立や断絶』の確認ではなく、「客観的・論理的な」という意味での『決定的な対立や断絶』の確認なのでございます。
これは前述した「神を実感できる人と出来ない人」の間の「認識論的に、決定的な対立や断絶」というような意味でございます。つまり「感情的な」という意味での『決定的な対立や断絶』など、じつは「議論」以前の「別の話」なのでございます。





それでは、みなさま、本日はこれにて失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
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