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法とは権威主義でフィクションである

 投稿者:海原健叡  投稿日:2015年 1月22日(木)20時53分54秒
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   早速のお返事ありがとうございます。ひとまずまだ議論が不可能だと断ずる段階ではない、と判断いたしましたので、続けさせていただきます。

>>私の、海原さまによる「法学」的議論に対する評価が、お気に召さなかったようでございますね。お気に触ったのならお詫びしたいと存じます。

 いえいえ、全く謝っていただくことではございません。

>>私の偽らざる(忌憚のない)評価であって、その評価内容自体はどうにも変えようがございません

 おっしゃるように本音の評価であればそれは変えようがなく、また、本音であればこそ相手の感情をときに害することもある。これは言論の基本でございます。ですから、ご意見を撤回されるとか、あるいは意見は撤回しないが表現が侮蔑的すぎたと反省したということがないのであれば、謝罪などもとより要求する気もありませんので、変にお気を遣わせてしまってこちらこそ謝罪いたします。

>>「個人的動機」の重要性については、「トゥー・テ・ビアン」で縷々説明しておりますので、もう一度お読みになっていただけないでしょうか。

 再読いたしました。「トゥー・テ・ビアン」に書かれていることを私なりに要約いたしますと、「理想主義ばかりを追い求める運動家は、現実を無視し、自分自身の利己性に無自覚なまま独善的な正義を振りかざし結果として理想主義者自身が最悪の形の抑圧者になることが往々にある。だからそうならないように、人間の実際の生活に根差した地に足のついた個人的動機を重要視しなくてはいけない」ということだと存じます。ここで語られている「個人的動機の重要性」とは、教条主義的理想主義に陥っている運動家の言わば自己反省ツールとしての重要性であります。笠井潔の(初期の)小説や論考は、自身の過去の思想、活動に対する反省から始まっている、というのはアレクセイ様も何度も書かれていたことだと思います。
 こうした自己反省ツールとしての重要性は私も賛成するのですが、その機能をそのまま他者を評価し批判することに転用するのは、そもそも違う話です。他人を評価するにあたって、その動機というのは基本的には関係がない、というのが私の立場です。『ねじまき鳥クロニクル』で牛河というキャラクターが、「ろくでもない動機からすばらしい成果が生まれることもあるし、素晴らしい動機から屑のような成果が生まれることもある」という趣旨の発言をしていましたが、まさしくそのとおりで、私にとって大切なのは他者が具体的に何をしてどのような結果を出したかであって、その内心の動機などどうでもいい。動機を問題にするときもあるにはありますが、それは「屑のような成果を生んだ」他者を断罪・批判する場合です。そのとき、動機の内容如何によっては情状酌量もありうる、というだけです。アレクセイ様も

>>そして、その「それ相応の個人的事情」によっては、海原さまが個人として「法規制という強攻策を選ぶ」というのも、心情の問題として納得は出来、それはいちがいに責められないことだと、私は斯様に考えるわけでございます。

 とおっしゃっているのは、海原の発言には合理性が無くそもそも認められないが動機によっては情状酌量してやろう、というお考えなのでしょうか? それならそれで私と立場は全く同じです。しかし、

>>いいえ、下らなくはありませんよ。大切な人がヘイトスピーチや差別の対象になる立場の方なのであれば、海原さまが「ヘイトスピーチ」に「急迫不正な侵害」という切迫感を持たれるのは、当然でございます。
しかしまたそれは、「被害当事者(およびその近親者)の意見」としては納得できますが、「法規制」という「すべての国民に関わる問題」の理由としては、やはり「弱い」と言わざるを得ません。

 とおっしゃっているのは、やはり「動機」は法規制の理由になるとお考えのようにも読める。
 ここでハッキリさせていただきたいのは、個人的動機というもののアレクセイ様の中での位置づけです。「心情の問題として納得は出来」るかどうか、つまりは間違った意見を言った人間の情状酌量事由になるとお考えなのか、あるいは、そもそも個人的動機そのものが主張の内容の正当性を基礎づける場合がある、とお考えなのか、あるいはこれら二つとも違うのか。
 ちなみに、当事者の個人的動機を重要視する、ということであれば、以前、国家と犯罪と有責性http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2210 で

>>「敵討ち」は、「返り討ちにあうリスク」を引き受けたところにこそ成立するものであって、そのリスクを引き受け得ないで「国家権力(他者)への丸投げ」を望む「高みの見物」者が、「他人の手を借りた報復」を声高に叫ぶことの「恥を知れ」と言いたいのでございますね。
もちろん、私のこの主張は「犯罪被害者家族」には過酷なものかもしれませんが、「被害者家族になるまでは、何も考えていなかった」彼らには、この機会に「国家による刑罰」ということの意味を、すこしは考えていただきたいのでございます。

 「被害者家族になるまでは、何も考えていなかった」とおっしゃっていたのはなんだったのだろうか、と思うのであります。これはここ最近の議論の中でアレクセイ様が被害当事者の意識をまずは考え外野は冷静になるべき、という主張とも矛盾しているとも思うので、これも聞いてみたいとろこではありますが、議論が錯綜するとまずいので、ひとまず私が気になっている論点として先出しするにとどめておきます。

 前後しますが、
>>『既にかなり報道されています』と言っても、それは決して、一般に対して「この問題は、直ちに法規制しないといけないね」と思わせるほどのものではなく、この問題に対してそうとう集中的に興味を持っている人以外には『かなり報道されてい』るなどという認識はないでしょう。

 私が法規制と根拠となると考える事実は三点。

① 在特会がヘイトスピーチをデモやネットで行い、それが国内外で問題視されている。
②在特会はヘイトスピーチが高じて、朝鮮人学校を襲撃するという現行刑法・民法上違法な行為を行った。
③在特会は②で敗訴判決を受けても何ら反省をせず、それどころか出鱈目な判決解釈をネットを通じて流し、シンパもそれを鵜呑みにしている。

という点です。このうち①②については新聞報道もされてしましたし、1月13日のNHKク
ローズアップ現代でも特集をされました。これでも報道が不十分だと思われるなら、それは
もはや価値観の問題ですからこれ以上は論じません。
 このうち私が特に問題視するのは③です。現行法上ヘイトスピーチは規制されていないとはいえ、それが特定の個人に向けられれば刑事、民事で違法になります。特にデモは今回のことからも顕著なように、それがそのまま特定個人への攻撃(現行法上でも違法)へと流れていきやすい。実際、デモについては既に現行法上一定の規制がされていますが、その根拠は「デモは集団であり暴徒化しやすい」というものです。ですからそれについては最低限自制しないと、再度違法な行為が行われるおそれが高い。しかし、当の在特会はそうしたことへの反省は全く見せていない。ここが一番の問題だと私は考えております。であれば、少なくともデモについてはヘイトスピーチを禁止するしかないと考えます。このとき、必ずしも刑事罰で対応する必要はなく、行政上の過料などで対応するのでもいいかと思います。それが実行性が無ければ刑罰なども考慮することになりますが。なお、出版物や映像についてはひとまず私は規制反対です。

>>いや、海原さまが「法学」という学問を、正しく有効に使えるのであれば、それをわれわれ素人でも納得できるように説明してくださることによって、それは「信念」の問題などではなくなります。
「私は法学の専門家だ」「法学という学問を全否定するのか」「あなたはアナーキストか」と言われましても、これはもう、無内容な「権威主義的決めつけ」でしかございませんでしょう?

 率直に申し上げて、私の最新の論考
http://igo-omishiriokio.at.webry.info/201501/article_2.html)でご納得いただけないのであれば、それはもうどうしようもございません。さらに言えば、アレクセイ様は法学的な専門知の欠如以前の問題として、「ルール」というものに対する常識的な(私にとっては、ですが)認識を欠いていらっしゃいます。

悪霊 あるいは 不可視の獄http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2313 で、
>>ともあれ、事実として「国家」は「人々」のために作られたものではないし、「国家」の運営において「いかに人々を効率よく支配管理するか」という側面において、現実には、「共同体」のそれよりも「ソフィスティケートされた権力行使」がなされるようになっただけ、それに我々が馴らされて、「共同体の野蛮な権力形態」を「現実にその権力下にあった人たち」以上に「悪く見ているだけ」だとも申せましょう。

 とおっしゃっていますが、まず、私が論じているのは「国家」全般ではなく「近代国家」です。そのうえで、「近代国家は人々のために人々が自ら作ったものであり(社会契約)『共同体』の支配よりはマシである」という、価値判断の下に作られています。この価値判断そのものが妥当かどうかは別として、こうした価値判断の下に近代国家や近代法が作られているということは、端的な事実なのです。
 それでも、想像するにアレクセイ様は、「それは実態を見ていないフィクションであり無根拠な決めつけ、権威主義だ」とおっしゃりたいのだと思います。しかし、乱暴な発言だと思われるでしょうが、「フィクション」「無根拠な決めつけ」「権威主義」は実は法学の、と言うよりも、およそルールというものの本質なのです。ここが分かってらっしゃらない。


 例えば、もう20年近く前のことになりますが、神戸で起きた児童惨殺事件の犯人が中学二年生男子(当時)だったことに衝撃を受けて作られたテレビ番組の中で、参加者の若者が「っていうかなんで人殺しちゃいけないんですか?」と質問を発して会場が騒然となったことがありました。それを発端に、「なぜ人を殺してはいけないか」という議論が起こり、論断誌でも何度も特集を組まれましたが、皆が納得できる解答もついぞ出ないまま、この議論は飽きられていった、ということがありました。
 なぜ「なぜ人を殺してはいけないか」という疑問に誰も満足に答えられないのか。理由は簡単で、そもそも人を殺してはいけないなどという客観的な根拠は存在していないからです。ただ、私たちの社会がそういったルールを選んだ、というだけです。選んだ理由は、そういうルールがあった方がいいという「価値判断」によるものです。

 もう一つ別の例で説明しましょう。サッカーでは、「キーパー以外の人間はボールを手で触ってはいけない」とルールで規定しています。これについて、「なぜボールを手で触ってはいけないか」という問いを立てても無意味であることは明らかです(そうじゃないルールのスポーツはいくいらでもある)。「なぜ、サッカーではボールを手で触っていけないとルールで決めているのか」という問いであれば、一応は答えることもできます。しかしこの答えも結局は「その方が面白いから」という価値判断に行きつきます。これまでの様々な名勝負や名プレーを紹介しながら、このルールがいかにサッカーを面白くしている(とファンやプロは感じている)かを説明することはできますが、それでも「いや、俺はそんなルールがゲームが面白くするとは思えない。あんたが挙げた事例はちっとも面白いとは思えない」という人がいた場合、もうお手上げです。この場合、その人にはラグビーをやってもらうのがお互いにとって幸せでしょう。


 つまりルールというものは、身も蓋もない言い方をすれば「そのルールがあった方がいいと思う人間たちが作り出した共同幻想、フィクション」にすぎないのです。ですから、「なぜそのルールがあった方がいいと思うのか」、すなわち「前提となる価値観」を説明することはできますが、それで納得できないのであればもうお手上げ。アレクセイ様も、信念や価値観をお互いにぶつけあっても無意味であるということはお認めだと思います。お互いに出来るだけ関わらないように生きるか、あるいは片方が殲滅されるか、どちらかしかありません。ちなみに、現在欧米諸国とイスラム原理主義者の間で起こっているのは、まさしくルールを巡る価値観を共有しない人々同士が互いを殲滅させようとしている、という事態に他なりません。
 さきほどあげた「なぜ人を殺してはいけないか」という議論ですが、この議論が華やかなりし頃もついぞ殺人罪についての見直しなどされず、誰かが殺されれば発見した市民は通報し、警察が捜査をし、検察は起訴をし、裁判所は有罪判決を下していました。結局、ルールを受け入れるか否かは、最後は理屈ではなく「直観」だということなのです。そしてその直観は、価値判断に起因する。このあたりのことは、法学をまったく知らない人々も、たいていは「皮膚感覚」で分かっています。乱暴な言い方ばかりになりますが、法学と言うのはこの価値判断になんとか理屈付けをする試みに他なりません。ですから、確かに法学の説明と言うのは相当にややこしいから「理解」するのは難しい場合はあるのですが、「納得」できないというのであれば、もはやどうしようもないのです。繰り返しますが、これはルールというものの本質なのです。

 ですから、「共同体よりも国家がマシとは限らない」「場合によっては被害者の実力行使も認める」とおっしゃるアレクセイ様は、そもそも近代法の前提となっている価値観を共有しないのですから、必然的にアナーキストであるしかない。そういえば、「場合によっては被害者の実力行使も認める」というのはテロリズムを擁護するロジックでもあるわけですが、アナーキズムとテロリズム、これらは確か初期の笠井潔の主要テーマでしたよね? 無意識のうちにアレクセイ様がこの2つを内在化されているのだとしたら、なんとも皮肉な話ではあります。
 「無意識」と書いたのは、ご自身がその自覚をお持ちでないからです。はっきり言わせていただけば、「近代国家や近代法を支えている価値判断とそれに基づくロジック」と「自分の近代国家や近代法に対する価値観とロジック」との区別がついてらっしゃらない。これはたとえば、国家と犯罪と有責性http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2210 の中で

>>「国家は、国家運営という枠内でしか、犯罪者の処遇を考えない。決して、被害者や被害者家族のために、犯罪者を罰するのではない

 という、およそ近代刑法学の大前提と全く逆のことを、さしたる根拠もなく言い切ってしまうことにも表れています。これは「アレクセイ様の国家観、刑法観」ではありましょうが、「現実の国家観、刑法観」ではありません。事実、たとえば刑事訴訟法には被害者参加制度が平成20年に導入され、訴訟における被害者の重要性は近年増すばかりです。
 権威主義を何よりも嫌うアレクセイ様には、こういう話はどうしてもご納得できないかもしれません。しかし、そもそも法やルールというものは、各人の自由な考えに基づく勝手な行動を許さない、というところにその存在価値があります。実はこれこそが「法学評論」が存在しない最大の理由でもあります。法というのは、そもそもが人為的に意図的に造られた権威なのです。ですからその権威の具体的なあり方(個々の条文や個別の裁判所の判断)について批判をするのは構いませんが、権威そのものに疑いの目を向けるのであれば、それは法というものの存在自体をまるっきり否定してしまうことになる。法学というのはそれ自体が権威主義をそもそもの前提としているところが、他の文系の学問分野と大きく異なるところです。

 しかしアレクセイ様ご自身は、自分はアナーキストでもないし、法学を否定するわけでもない、とおっしゃる。だから私は正直困っているわけです。国家や法を否定しているということをお認めになるか、あるいは近代国家や近代法の価値観を受け入れて自説を修正していただくか、2つに一つです。そして前者であれば、もはや議論は成立しないことが明らかになります。後者であれば、議論は可能です。
 あえて辛辣な言い方を選ばせていただきます。今のアレクセイ様は、「国のやることは何でも嫌いだが、さりとて国を解体せよと喝破もできない、二昔前に姿を消した反抗左翼」そのものです。「国のやること何でも嫌い」では、ヘイトスピーチ規制の必要性として今後いかなる根拠を私が出しても納得いただくことは難しい。アレクセイ様の批評に感心してコンタクトをとらせていただいた私としては、とても残念です。

 では本日はこれで。議論が継続できることを願っています。
 
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