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「問答無用の法学」論

 投稿者:園主メール  投稿日:2015年 1月24日(土)09時24分2秒
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  ★ 海原健叡さま

法とは権威主義でフィクションである

おつきあい、ありがとうございます。
今回は、海原さまの特殊性の一端を明らかにしていただけたようで、とても興味深うございました。
「海原さまのおっしゃる『法学』」が、どのようなものなのかが、やっと明らかにされてきたのではないかと存じますし、そこから海原さまの「個人性」も、自ずとあぶり出されてきているものと存じます。

さて、その特殊性の問題点をハッキリさせるために、海原さまの「独特な誤解」を順次解いてまいりましょう。

> 「トゥー・テ・ビアン」に書かれていることを私なりに要約いたしますと、「理想主義ばかりを追い求める運動家は、現実を無視し、自分自身の利己性に無自覚なまま独善的な正義を振りかざし結果として理想主義者自身が最悪の形の抑圧者になることが往々にある。だからそうならないように、人間の実際の生活に根差した地に足のついた個人的動機を重要視しなくてはいけない」ということだと存じます。

せっかくのご要約ですが、これは間違いでございますね。
『理想主義ばかりを追い求める運動家は、現実を無視し、自分自身の利己性に無自覚なまま独善的な正義を振りかざし』となさっていますが、私がすこしも「理想主義」は否定しておりません。
私が問題にしているのは「理想主義の見せかけによって糊塗された、個人的動機」でございます。つまり「公然と語られる動機、あるいは建前としての金看板としての理想主義」に被われ隠された「個人的な動機」の質の問題でございます。

言うまでもなく、他人を数多く巻き込もうとする運動においては、誰しも、その動機や目的が立派なものであるかのように装います。したがってそれが、しばしば理想主義的なかたちを採るというのは、「政治家の政治公約」や「企業理念」なんかを見ていても、よくわかりますよね。
しかし、彼らの「本音」が「公言している動機(建前)」と同じであるという保証などありません。政治家の語る言葉が、どれもそれなりに「ご立派」であるにもかかわらず、彼らがみんな「人間愛にあふれた理想主義的な人格者」であるなどということは、ありえません。彼らの多くは、有権者の支持を取り付けるべく、しばしば自分には出来ないという自覚があることまで「公約」したりします。それは、ほとんど「ペテン」に近いものですし、そういうことがよくあるからこそ、有権者は政治家の公約を鵜呑みにしないのです。

しかし、上の政治家の場合は、自覚的に「建前と本音」を使い分けているのですが、中には「自分を語っているきれいごとを本気で信じているのも関わらず、じっさいに彼を駆り立てているものは、じつは別の個人的事情にある」というような場合が、ままあります。そしてこれが、そのわかりにくさの故に「難問」ともなる。
例えば、「親による虐待経験を、無意識のうちに、別のものに投影しての、理想主義」であったり、「自身の不遇感を、慰めるための、極端に走る英雄主義」であったり、といったことでございます。
この場合、彼は、ある意味では本物の「理想主義」や「英雄主義」に駆動されているとも言えるわけではございますが、その根底にあるのが「ルサンチマンという感情」であるために、その行動が「自制・自省を欠いて」極端化しやすい。彼の「個人的な動機」が、「高邁な理想という金看板」によって完全に被われ、自他に見えないこそ、彼は「正義は我にあり(敵は悪だ)」と、自分の行動を無邪気に全肯定してしまうからでございます。
そして、そうしたものの悲惨な実例が、前に書きました「ロベスピエールを首魁とするジャコバン党独裁」であったり「連合赤軍による総括殺人」などでございます。

したがいまして、私が「トゥー・テ・ビアン」で申し上げたのは「自身の表面的な動機の是非だけではなく、自分でも見えにくい個人的な感情に対する、反省的検討の必要性」でございます。
例えば「自分はたしかにヘイトスピーチ反対という、多くの人が共感できる立派な動機に拠って意見表明をしている。しかし、なぜ自分が、いろんな問題の中からこの問題を選んだ上で、法規制をいう強硬な立場を性急に採るのかは、その理想からだけでは説明できない。ということは、その強硬さや性急さというのは、べつの個人的な感情の発露なのではないか? それによって自分は、もしかすると、その理想主義にはそぐわない、バランスを欠いた選択をしているのではないか」と反省してみることが、極端に走って行動を誤らないためには必要なことなのでございます。

つまり、私が言いたいのは『人間の実際の生活に根差した地に足のついた個人的動機を重要視しなくてはいけない』というようなこと(日常性の強調)ではありません。
「地に足がついた」とかつかないとかいったようなことではなく、「自身の現実」を冷静に直視して内観し反省する作業が、道を誤らないためには必要だ、ということでございます。

たとえば、海原さまの場合でしたら「自分の思考の根底には、学んだ法学の枠組みがある」ではなく、「なぜ法学に依存するのか」でございます。
言うまでもなく、法学を学んだ人は山ほどおりますが、それらの人たちの誰もが「法学的発想」の特別な優越性を認めるわけでもなければ、それを自己の思考の根底的な枠組みとして採用するわけでもございません。むしろ海原さまのように、それをご自分から喧伝される方は、プロの法学者や法律家以外では珍しいとも申せましょう。では、その「珍しい選択」は、何に由来するのか。
それを反省してみる必要があるのでございますね。

> ここで語られている「個人的動機の重要性」とは、教条主義的理想主義に陥っている運動家の言わば自己反省ツールとしての重要性であります。笠井潔の(初期の)小説や論考は、自身の過去の思想、活動に対する反省から始まっている、というのはアレクセイ様も何度も書かれていたことだと思います。
 こうした自己反省ツールとしての重要性は私も賛成するのですが、その機能をそのまま他者を評価し批判することに転用するのは、そもそも違う話です。

これも、まったく誤解か、被害妄想でございます。
私が申しますのは「いかに立派な目的であろうと、その実現手段が、強硬なものであるときは、なぜそうなるのかという反省が必要である。それによって、思わぬ行き過ぎを防ぐことが出来る」ということであり、つまりこれは「助言」であって『批判』ではありません。

海原さまが、私の「助言」に対して「私が性急に法規制を求める具体的な根拠はこれこれであり、決して個人的なルサンチマンなどの発露ではないと思います。その意味では、囲碁界での挫折体験といったことは関係がないと思っています」と説明すれば、それが真相を射抜いているかどうかは別にして、本人ではない私は「そうですか」としか言いようがないのでございます。
しかし、海原さまは私の「個人的事情の検討」要求に対して、「国家観の違い」とか「法学的発想の有無」とかいった「思想的な立場の違い」を強調されるばかりで、いっかな「個人的な事情の検討」をなされないので、私は逆に「自覚の有無にかかわらず、そこが触れたくない部分」であり「強硬な手段選択の拠ってきたるところ」なのではないかと疑うのでございますよ。

> 他人を評価するにあたって、その動機というのは基本的には関係がない、というのが私の立場です。『ねじまき鳥クロニクル』で牛河というキャラクターが、「ろくでもない動機からすばらしい成果が生まれることもあるし、素晴らしい動機から屑のような成果が生まれることもある」という趣旨の発言をしていましたが、まさしくそのとおりで、私にとって大切なのは他者が具体的に何をしてどのような結果を出したかであって、その内心の動機などどうでもいい。動機を問題にするときもあるにはありますが、それは「屑のような成果を生んだ」他者を断罪・批判する場合です。そのとき、動機の内容如何によっては情状酌量もありうる、というだけです。

『ねじまき鳥クロニクル』で牛河というキャラクターの語る「結果論主義」というのは、物を深く考えたくない人間には便利な「よくある意見」以上のものではございません。
たしかに「結果が出てしまえば」、まずはその結果責任が問われるのは当然ですが、しかし、「悪しき動機が、良い結果ではなく、それ相応に悪しき結果をうみがち」というのは当たり前の話ですから、「結果が出てしまって、取り返しがつかなくなる」前に、その「動機」の是非を反省検討するというのは、ごく当たり前のことでございます。
例えば、これも前に書きましたが「ドイツ国民によるナチス選択」も、結果が出る前のもっと早い段階で、その「隠された心性」の危険性が検討されるべきだった。

つまり、海原さまのおっしゃる「結果論主義」というのは、問題の半面しか見ておらず、不適当に現実を単純化した「ちょっと気が利いた風の意見」でしかないということでございましょう。現実は、そんなに単純でも簡単でもない。もっと複雑で面倒くさいものなのでございますよ。

> アレクセイ様も
>
>> いいえ、下らなくはありませんよ。大切な人がヘイトスピーチや差別の対象になる立場の方なのであれば、海原さまが「ヘイトスピーチ」に「急迫不正な侵害」という切迫感を持たれるのは、当然でございます。
しかしまたそれは、「被害当事者(およびその近親者)の意見」としては納得できますが、「法規制」という「すべての国民に関わる問題」の理由としては、やはり「弱い」と言わざるを得ません。
>
> とおっしゃっているのは、やはり「動機」は法規制の理由になるとお考えのようにも読める。

もちろん、なります。ただし、その「動機が適正であれば」ですが。

> ここでハッキリさせていただきたいのは、個人的動機というもののアレクセイ様の中での位置づけです。「心情の問題として納得は出来」るかどうか、つまりは間違った意見を言った人間の情状酌量事由になるとお考えなのか、あるいは、そもそも個人的動機そのものが主張の内容の正当性を基礎づける場合がある、とお考えなのか、あるいはこれら二つとも違うのか。

両方でございますね。おもに前者ですが、例外的に後者の場合もあるかも知れない。
「あなたの気持ちはよくわかる。その感情はやむを得ない部分が多く、その言動はいちがいに責められるべきものではありません。しかし、その行動が公に悪影響を与えるものであれば、その感情は公正な理由にまで昇華されないかぎり、それそのものとして正当な根拠とはなりません。だから、あなたは行為を改めて、その心情を正当に訴えるべきです」というようなことでございます。

> ちなみに、当事者の個人的動機を重要視する、ということであれば、以前、国家と犯罪と有責性http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2210 で
>
>>「敵討ち」は、「返り討ちにあうリスク」を引き受けたところにこそ成立するものであって、そのリスクを引き受け得ないで「国家権力(他者)への丸投げ」を望む「高みの見物」者が、「他人の手を借りた報復」を声高に叫ぶことの「恥を知れ」と言いたいのでございますね。
もちろん、私のこの主張は「犯罪被害者家族」には過酷なものかもしれませんが、「被害者家族になるまでは、何も考えていなかった」彼らには、この機会に「国家による刑罰」ということの意味を、すこしは考えていただきたいのでございます。
>
> 「被害者家族になるまでは、何も考えていなかった」とおっしゃっていたのはなんだったのだろうか、と思うのであります。これはここ最近の議論の中でアレクセイ様が被害当事者の意識をまずは考え外野は冷静になるべき、という主張とも矛盾しているとも思うので、これも聞いてみたいとろこではあります

ここには何の矛盾もありません。
例えば、ここに「妹をからかわれ苛められた少年」がいたとします。彼は頭に血が上って、妹をからかい苛めた少年を半殺しの目にあわせたとします。この場合「加害少年の気持ち」はわかりますから「結果だけを見て、それ相応の罰を与えろ」というのは妥当ではない。つまり情状酌量の余地がある。ですから私は、「動機がどうであろうと(動機の内容に関係なく)、その加害少年は結果に対する責任を全面的に負うべき」と主張するような「結果論主義者」に対しては「いや、彼の気持ちもわかるはずです。ですから、そこを勘案して、罪一等減ずるべきでしょう」と言うでしょう。
しかしまた、その少年に向かっては「君の気持ちはわからないではない。しかし、君のやったことは明らかにやり過ぎであり、その結果が動機によって正当化されるわけではない。たしかに、妹さんを苛めた相手も罰せられるべきだろうが、それにはそれ相応の罰であるべきであって、君のように感情に走って盲滅法にやってしまうことは許されない。例えば、仮に君の妹さんが他の女の子に何気なく発した言葉が原因で相手が自殺したとする。その時、その兄がそれを理由に妹さんを殺したら、君はそれは当然だと考えられるか? つまり、人間が感情にとらわれるというのは、ある程度はしかたないけれども、それが無条件に容認されるわけではない。ならば、人間はある程度は自分で感情をコントロールして、妥当な対応が出来るように日頃から訓練をしておかなければならない。そうでないと、感情垂れ流しでやり過ぎてしまうんだ。その点で、これまで君はそういう努力をして来なかったんだから、反省すべき点は多々あるんだよ」と説諭するでしょう。これは、ごく当たり前の態度で、どこにも矛盾はない。

「加害少年の気持ちを考えない人」たちに対しては「彼の心情に注目して配慮すべき」と加害少年を擁護する一方で、少年本人に対してはその「感情垂れ流し」を「反省すべきである」と反省と自覚を促す。
つまり、私の向いている方向、語りかけている相手が違えば、その「強調点」が違ってくるのも当然だという、ただそれだけの話。無論これは「一面的な対応ではない」ということであり、「矛盾」などではないのでございますよ。

>>『既にかなり報道されています』と言っても、それは決して、一般に対して「この問題は、直ちに法規制しないといけないね」と思わせるほどのものではなく、この問題に対してそうとう集中的に興味を持っている人以外には『かなり報道されてい』るなどという認識はないでしょう。
>
> 私が法規制と根拠となると考える事実は三点。
>
> ①在特会がヘイトスピーチをデモやネットで行い、それが国内外で問題視されている。
> ②在特会はヘイトスピーチが高じて、朝鮮人学校を襲撃するという現行刑法・民法上違法な行為を行った。
> ③在特会は②で敗訴判決を受けても何ら反省をせず、それどころか出鱈目な判決解釈をネットを通じて流し、シンパもそれを鵜呑みにしている。
>
> という点です。このうち①②については新聞報道もされてしましたし、1月13日のNHKクローズアップ現代でも特集をされました。これでも報道が不十分だと思われるなら、それはもはや価値観の問題ですからこれ以上は論じません。

「法規制」のポイントは「妥当性の有無」でございます。
つまり、ある言動が「倫理的に好ましくないもの(一般に人を不快にさせる言動)」であるとしても、それらがそうした理由によって、例外なく「法規制」されるべきではない。「倫理的に好ましくないもの(一般に人を不快にさせる言動)」の多くは、それこそ「モラル(倫理)の問題」であって「犯罪」ではないからでございます。

言い換えれば「モラル(倫理)」というのは、基本的に「多様」であり、それは出来るかぎり「法規制」の対象にすべきではない。人間というのはもともと多様な存在であり、その「モラル」においても「多様」であるのが当たり前であるからです。だから人は、他人の「異色性」に対して、寛容であるべきでございます。
例えば、囲碁界においては、海原さまの立場は一般に入れられないものでした。しかし、それが「言論」の範囲に止まるかぎり、海原さまの意見自体(その異色性)は認めなくても、存在は認められるべきなのでございます。「あいつのいうことは鬱陶しくて、みんなを不快にさせるから、あいつを強制的に排除しよう」というような考え方(単色主義)は、社会をぎすぎすしたものにするだけだからでございます。

しかし、その人の「異色性」が、多くの人たちに対して、実害をあたえる態のものだったりすれば、それは「法規制」の対象にもなるでしょう。そこで問題はその「線引き」という微妙なものとなりますので、感情的で性急な対応ではなく、慎重な検討反省を経た上での対応でなければならないのでございます。

で、『①②については新聞報道もされてしましたし、1月13日のNHKクローズアップ現代でも特集をされました。これでも報道が不十分だと思われるなら、それはもはや価値観の問題ですからこれ以上は論じません。』とのことですが、「報道されたから、ただちに法規制されるレベルだと判断し得る」ということはありません。
報道は「そこに倫理的問題がある」として「問題提起」をするのが主目的であり「何らかの対応が必要だ」とは言っても「法規制しかない」とは言いませんし、言ったとしても、それは所詮「一つの意見」として「参考」にはすべきでしょうが、「報道」による意見は「特別に有価値」だということでもありません。
また、これは前に書いた「中国の領土的海洋侵出問題におけるネトウヨの強硬対策指向」と同質という点でも説得力がありません。多分、報道量ならこちらの方が圧倒的に上でしょうが、だからといって単純に「強権的対策こそが正しい」ということにはなりません。

もちろん、自明の前提として、私も「ヘイトスピーチは止めさせなければならない」と考えてはいます。しかし、それがそのまま「ただちに法規制して、強制的に止めさせるべき」という極論にはならない。性急な強攻策には同意できない、というだけの違いでございます。
例えば、「差別」一般というものは「止めさせねばならない」ものでございます。しかし「差別」は人間の本質に深く根ざしたものでもあり、その意味では無くなるものではないですから、「何がなんでも止めさせる」として「強硬手段」に出れば、弊害の方が大きくなるので、その「兼ね合い」が問題になるのでございますね。
そして、その「兼ね合い」を勘案するが故に「極端な強硬手段」を選ばない者に対して、強硬派がよく言う「おまえたちは、問題の存在を容認してるも同然だ」というのは、間違いなのでございます。「極端に走らない」のは、あれこれに配慮して「難しくも最良のバランス」を考えるからであり、その意味で「単細胞の決断主義ではないから」なのです。

>  このうち私が特に問題視するのは③です。現行法上ヘイトスピーチは規制されていないとはいえ、それが特定の個人に向けられれば刑事、民事で違法になります。特にデモは今回のことからも顕著なように、それがそのまま特定個人への攻撃(現行法上でも違法)へと流れていきやすい。実際、デモについては既に現行法上一定の規制がされていますが、その根拠は「デモは集団であり暴徒化しやすい」というものです。ですからそれについては最低限自制しないと、再度違法な行為が行われるおそれが高い。しかし、当の在特会はそうしたことへの反省は全く見せていない。ここが一番の問題だと私は考えております。であれば、少なくともデモについてはヘイトスピーチを禁止するしかないと考えます。

ここで語られていることは、(1)ヘイトスピーチデモに連動する各種の行為が「すでに法規制の対象になっている」つまり「ヘイトスピーチ自体は、そうした従来の法規制の網からは外されていた」という事実。(2)ヘイトスピーチ自体も規制しないと、従来の法規に触れる行為が出てくる『おそれが高い』、そっちに『流れていきやすい』から、そうなる前に予め規制しておくべきという「予防規制」の論理。(3)彼らは『反省』していない、という「内心までも問題にする心理主義」。この3点でございます。

まず(1)について言いますと、ヘイトスピーチの法規制は、まず「ヘイトスピーチそのものの問題点」を検討すべきであって、付随行為は、それに応じた法律で適宜対応すべきだということでございますね。「あれとこれは関連あるから、あれがダメならこれも法規制すべきだ」という発想では、法規制の対象は際限なく広がってしまい、「線引き」が出来なくなるからでございます。

(2)についても同じ。『流れていきやすい』『怖れが高い』から「予防」すべきという考え方も、自由の制限は「必要最低限度」という「自制」を持たないと、際限なく広がってしまって「予防検束(やる前に、ふん縛っておけ)」という論理になって、人の「自由」を不当に侵害することになってしまいます(米国では「9.11」に絡んで、この悪夢が現実化してしまい、今になって問題視されてします)。
「法規制」とは、基本的に「完了した行為」に対して設定されるべきであり、「まだ為されていないこと」を対象とすべきではないのです。
したがって『実際、デモについては既に現行法上一定の規制がされていますが、その根拠は「デモは集団であり暴徒化しやすい」というものです。』というのは、間違いです。
これは「国家権力側の本音」ではありましょうが、そんな「想像」だけで「自由の侵害」をするわけにはいかない。では「デモに対する現行法上の一定の規制」とは何か。それは「大人数で歩いて、道路を占拠すれば、一般の道路交通使用の妨げとなる」ということを「建前」としています。だから「他の人にあまり迷惑をかけない範囲で、あなた方の権利を行使して下さいね」ということで「一定の制限」がなされている。つまり「予想や想像」ではなく「行為に(必然的に)伴う弊害」を根拠として「一定の規制」が「適法化」されているのです。

(3)については、ある行為を罰する場合、罰を与えた結果として、その者が「反省するか否か」は問うべきではない。そもそも、反省しない者には反省しないだけの罰が科せられるのですから、その上で反省しないのなら、それはもう済んだ話として仕方がないのでございます。
もちろん、良くないことをして罰せられたのなら「(主体的に)反省すべきであり、した方が良い」に決まっていますが、「内心の自由(思想信条の自由)」や「表現の自由」は、文字どおり「基本的な人権」であって、それは最大限尊重されなければ、みんなが困るし、海原さまも困るでしょう。
つまり、人は他人の「行為」に対して、「適法妥当」な範囲で「処罰する」ことは出来ますが「思想信条信念にまで干渉することはできない」。ただ、裁判の段階で「反省」が「情状判断の材料」とされ、「反省が促されるだけ」なのでございます。

> このとき、必ずしも刑事罰で対応する必要はなく、行政上の過料などで対応するのでもいいかと思います。それが実行性が無ければ刑罰なども考慮することになりますが。なお、出版物や映像についてはひとまず私は規制反対です。

これは「ヘイトスピーチは法規制の対象なのか?(法規制の対象とすべきか?)」という「議論」の本質を、表面的に誤摩化すものでしかありません。

「どのように規制し、どのような処罰を与えるべきか?」という問題は、まず、その行為が「法規制すべき(処罰すべき)対象である」と確定した後に、『次の段階』として検討すべき事項であって、「ゆるい(あるいは、限定された)規制だから、その行為を気楽に規制対象と考えても良い」ということではないのでございます。

>> いや、海原さまが「法学」という学問を、正しく有効に使えるのであれば、それをわれわれ素人でも納得できるように説明してくださることによって、それは「信念」の問題などではなくなります。
「私は法学の専門家だ」「法学という学問を全否定するのか」「あなたはアナーキストか」と言われましても、これはもう、無内容な「権威主義的決めつけ」でしかございませんでしょう?
>
> 率直に申し上げて、私の最新の論考(http://igo-omishiriokio.at.webry.info/201501/article_2.html)でご納得いただけないのであれば、それはもうどうしようもございません。

どうしようもないのなら仕方ありません。海原さまが「囲碁界の改革」を諦めたのと同じでございましょう。
くり返すまでもなく、私は海原さまのご意見には『納得』しかねます。

> アレクセイ様は法学的な専門知の欠如以前の問題として、「ルール」というものに対する常識的な(私にとっては、ですが)認識を欠いていらっしゃいます。

「海原さまの立場」からすれば、そうでございましょうね。

> 悪霊 あるいは 不可視の獄http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2313 で、
>> ともあれ、事実として「国家」は「人々」のために作られたものではないし、「国家」の運営において「いかに人々を効率よく支配管理するか」という側面において、現実には、「共同体」のそれよりも「ソフィスティケートされた権力行使」がなされるようになっただけ、それに我々が馴らされて、「共同体の野蛮な権力形態」を「現実にその権力下にあった人たち」以上に「悪く見ているだけ」だとも申せましょう。
>
> とおっしゃっていますが、まず、私が論じているのは「国家」全般ではなく「近代国家」です。そのうえで、「近代国家は人々のために人々が自ら作ったものであり(社会契約)『共同体』の支配よりはマシである」という、価値判断の下に作られています。この価値判断そのものが妥当かどうかは別として、こうした価値判断の下に近代国家や近代法が作られているということは、端的な事実なのです。

まさに、私が問題にしているのは、そうした「近代国家主義法学者の党派的価値観」の「客観的妥当性」なのでございますよ。
彼らが、そのように思い込み、あるいはそのように決めて、そうしたんだから「仕方ないじゃないか」というのでは「議論」は成立せず、あとはそれを、一方的に「間違っている」と否定して「強制的に改めさせるしかない」ということになりますが、私はそのようなやりかたは採らない「言論人」なのでございます。

例えば、キリスト教徒に対する「本当に神は存在すると思いますか? 存在しない可能性はありませんか?」という問いかけについて、「彼らの信仰は、神はいるという価値判断の下に成立しています。この価値判断そのものが妥当かどうかは別として、こうした価値判断の下にキリスト教信仰が成立しているということは、端的な事実なのです。」と言っても、それは何の意味もありません。
私は、そんなことは先刻承知の上で「あなたは、その価値判断が絶対間違いないものとして絶対的な確信を持ち、疑ったことなど一度もないのですか? クリスチャンとは全員、そういう絶対的確信者なんですか? そうではないでしょう? では、そこに検討されるべき原理的問題は、まだ残されているのです」と言っているのですから。

したがって私は「神の実在」を疑うように、「近代国家は、前近代の共同体よりも、素晴らしい」という「近代国家主義法学者」の「イデオロギ-」を鵜呑みにはいたしません。もちろん「近代国家主義法学者」の見方の方が現実に即しているのかもしれませんが、それは必要な検討を経た上で、個々が判断すべき事柄であって、「近代国家主義法学者」の「イデオロギ-」を鵜呑みにしなければならない義理など少しもないのです。

> それでも、想像するにアレクセイ様は、「それは実態を見ていないフィクションであり無根拠な決めつけ、権威主義だ」とおっしゃりたいのだと思います。

そう言いますね。
「キリスト教における神の実在」が「自明な事実」ではないと考えるのと同様に、「近代国家主義法学者のイデオロギー」についても「自明な事実」だとは認められません。

> しかし、乱暴な発言だと思われるでしょうが、「フィクション」「無根拠な決めつけ」「権威主義」は実は法学の、と言うよりも、およそルールというものの本質なのです。ここが分かってらっしゃらない。

ほほう。そう来ましたか。それは面白い。

「法学」は「ルール」の一種であり、「ルール」とは本質的に『「フィクション」「無根拠な決めつけ」「権威主義」』とお認めになった上で、その「ルール」を「黙認しろ」とおっしゃるんですね?
しかし、それは無理でしょう?(笑)

『「フィクション」「無根拠な決めつけ」「権威主義」』なものとしての「ルール」とは、もちろん「真理」でも「正義」でもなく、単なる「契約」なのですから、その「契約内容の妥当性」を検討しないかぎり、それを承認することなど到底できません。「盲判」など押せるわけないのでございます。

>  例えば、もう20年近く前のことになりますが、神戸で起きた児童惨殺事件の犯人が中学二年生男子(当時)だったことに衝撃を受けて作られたテレビ番組の中で、参加者の若者が「っていうかなんで人殺しちゃいけないんですか?」と質問を発して会場が騒然となったことがありました。それを発端に、「なぜ人を殺してはいけないか」という議論が起こり、論断誌でも何度も特集を組まれましたが、皆が納得できる解答もついぞ出ないまま、この議論は飽きられていった、ということがありました。
 なぜ「なぜ人を殺してはいけないか」という疑問に誰も満足に答えられないのか。理由は簡単で、そもそも人を殺してはいけないなどという客観的な根拠は存在していないからです。

それは単なる「決めつけ」でございますよ。
答が簡単に得られないから「そこにはもともと解答などなかったのだ」という安易な「決めつけ」をし、それで安心をしているだけでございます。

たしかに「解答」が無い場合もあるでしょう。しかし、「これだけやったら、もう絶対に答は残されていない」などという「限度」など、もともと存在いたしません。
昔にはわからなかったことが、知識の蓄積によって分かるようになることもあれば、千人寄っても分からなかったことが、ある一人によって解かれてしまうこともあるのです。
もちろん「なぜ人を殺してはいけないのか」というテーマも、昔からいろんな解答が与えられており「解答がない」というわけではありません。ただ、特権的に唯一の正解というのが特定されていないだけで、すでにそれは提出されているかも知れないし、これから提出されるかも知れないし、本質的に解答は複数あるのかも知れない。
しかし、このように厳密に考えていくのが嫌な人は「わかりやすい飴玉」を欲して「客観的な根拠は存在していない」などと決めつけるのです。

普通に考えて「無いことの証明」というのは出来ません。例えば「神は存在しない」という証明は出来ない。それは「神」をどう定義するかの「定義の問題」でもあるし、認識主体としての人間の能力の限界をどう考えるかの「限界設定の問題」でもあるでしょう。そしてその「設定」自体、唯一の「解答」は確証で来ていないのです。
つまり「ごく普通の意味合いで言えば、神と呼ばれるものは、存在していない可能性が高い」と言うのが精一杯なのです。しかし、だからといって「神」というものが、人間の歴史に今も昔も大きな影響を与えつづけている以上、現在の文脈において、「神の存在」の意味を論ずるのは避けられないことであり、意味のあることなのでございます。

で、これは「殺人行為の否定」という「倫理問題」でも、まったく同じであり、「解答は無い」と決めつけて安心したい人もいるでしょうし、それで済むと思っている暢気な人もいるでしょうが、多くの人にとっては、それは、それでは済ませられない「難問」なのです。

> ただ、私たちの社会がそういったルールを選んだ、というだけです。選んだ理由は、そういうルールがあった方がいいという「価値判断」によるものです。

したがって、これも単なる「決めつけ」にすぎません。しかも無自覚な「循環論法」です。
というのも、「なぜ、私たちはそのルールを選んだのか」「なぜ、そういうルールがあった方がいいと思うのか」という「根拠の妥当性」が、ここでは完全に看過されているからでございます。

そして、そうした「根拠」は、時に「自然法」や「自然権」として語られたり、「動物としての生存本能」であったり「社会的功利主義」として語られたりして、それぞれになるほどという部分がございますが、そのなかの「これが正解」ということは、人間自身には決められない。しかし、決められないから存在しないということではないし、それを検討することが無意味だとは言えないのでございます。なぜならば、人間は難問に取り組むのは面倒だからと思考停止に陥りがちですし、思考停止に陥ると、すでに検討済みであったはずの落とし穴にまで落ちてしまうからでございます。

> もう一つ別の例で説明しましょう。サッカーでは、「キーパー以外の人間はボールを手で触ってはいけない」とルールで規定しています。これについて、「なぜボールを手で触ってはいけないか」という問いを立てても無意味であることは明らかです(そうじゃないルールのスポーツはいくいらでもある)。「なぜ、サッカーではボールを手で触っていけないとルールで決めているのか」という問いであれば、一応は答えることもできます。しかしこの答えも結局は「その方が面白いから」という価値判断に行きつきます。これまでの様々な名勝負や名プレーを紹介しながら、このルールがいかにサッカーを面白くしている(とファンやプロは感じている)かを説明することはできますが、それでも「いや、俺はそんなルールがゲームが面白くするとは思えない。あんたが挙げた事例はちっとも面白いとは思えない」という人がいた場合、もうお手上げです。この場合、その人にはラグビーをやってもらうのがお互いにとって幸せでしょう。

これは、完全に的外れな喩えでございますね。
サッカーのルールが恣意的なものでしかないのは誰の目にも明らかでございますが、「国家」や「法」というものは、海原さん自身もお認めのとおり、もともと在りもしなかった「権威」を「虚構」してまで、それが「非恣意的な権威=根拠のある権威」であると、人々を欺きます。
「(近代)国家」や「法」が、人々から認められている「権威」とは、元来それらが「人々のために作られた擬制である」ということなのですが、それが多くの場合、現実には「嘘(フィクション)」つまり「実質の伴わないもの=建前どおりではないもの」でしかないのです。
ですから、「サッカー」の公明正大な「ルール」とは違い、「国家」や「法」という「ルール」の場合は、「インチキ」や「誤摩化し」「ペテン」が始終紛れ込んでくる「プロセス的現実体」なのだと考え、その「金看板としての建前」を鵜呑みにするのではなく、たえず厳密に実態を「チェック」していかなければならない。これは、少し前には海原さん自身も認めておられていた、当たり前のことなのです。
そして、私が行っているのも「国家や法の側=国家権力の側、の建前」を鵜呑みにせずに「チェックする」という、ごく当たり前の行為なのでございます。

>  つまりルールというものは、身も蓋もない言い方をすれば「そのルールがあった方がいいと思う人間たちが作り出した共同幻想、フィクション」にすぎないのです。ですから、「なぜそのルールがあった方がいいと思うのか」、すなわち「前提となる価値観」を説明することはできますが、それで納得できないのであればもうお手上げ。

と、ここにも「論理のすり替え」がございます。
「国家」や「法」が『そのルールがあった方がいいと思う人間たちが作り出した共同幻想、フィクション」にすぎない』のだとしても、その場合「共同の幻想・フィクション」は、それを共有する者の間でしか、それは無条件には受け入れられない、という意味になる。しかし、現実はどうしょう?
「サッカー」のルールに魅力を感じない人は、サッカーを見なければ良いだけ、他にラグビーでも野球でもバレーボールでも、選択の余地は無限に等しく存在するし、一定のルールを前提として成立する「サッカー」という競技を「くだらん」「ぜんぜん魅力を感じない」とするのは、個人の勝手(自由)であり、それで「サッカー」ファンから罰せられなければならない謂れはありません。
しかし、「国家」や「法」は、その下にある者を否応なく、暴力を用いてまで、そのルールに従わせようとします。「サッカーなんか馬鹿らしくて観られない」と言うのは自由ですが、「今の政治は気に入らないから、税金は払いません」ということは許されないのです。

ですからこそ、「国家」や「法(律)」に関しては『納得できないのであればもうお手上げ。』では、現実には済ませてもらえない。
「国家」や「法」という「強制する側」は、「納得できないのであれば、どうぞご自由に」とは言わず、「じゃあ、力づくで従わせよう」というつもりだから、気楽に『お手上げ』なんて言いますが、現実はそれとは逆に「手を下す」のです。
だからこそ私たちが、自身がその下に否応なくおかれることになる「国家」や「法」を厳密に検討し、必要な注文をつけ、必要な修正をさせようとするのは、当然のことなのですね。また、それを認めないような「国家」や「法」には、構成員に主体的服従を求める資格はないのです。

> アレクセイ様も、信念や価値観をお互いにぶつけあっても無意味であるということはお認めだと思います。お互いに出来るだけ関わらないように生きるか、あるいは片方が殲滅されるか、どちらかしかありません。ちなみに、現在欧米諸国とイスラム原理主義者の間で起こっているのは、まさしくルールを巡る価値観を共有しない人々同士が互いを殲滅させようとしている、という事態に他なりません。

だからこそ「信念や価値観をぶつけあい」ではなく、相互に「信念や価値観の妥当性を検討反省する議論」が必要なのでございますよ。
「権力の側」も「反権力の側」も、自己の「信念や価値観」を盲目的に絶対化すれば、動物的闘争の世界に落ちてしまう。ライオンと馬が対話できないのと同じようなことになってしまう。しかし、人間どうしは「ライオンと馬」ではないのでございます。

> さきほどあげた「なぜ人を殺してはいけないか」という議論ですが、この議論が華やかなりし頃もついぞ殺人罪についての見直しなどされず、誰かが殺されれば発見した市民は通報し、警察が捜査をし、検察は起訴をし、裁判所は有罪判決を下していました。結局、ルールを受け入れるか否かは、最後は理屈ではなく「直観」だということなのです。そしてその直観は、価値判断に起因する。このあたりのことは、法学をまったく知らない人々も、たいていは「皮膚感覚」で分かっています。乱暴な言い方ばかりになりますが、法学と言うのはこの価値判断になんとか理屈付けをする試みに他なりません。ですから、確かに法学の説明と言うのは相当にややこしいから「理解」するのは難しい場合はあるのですが、「納得」できないというのであれば、もはやどうしようもないのです。繰り返しますが、これはルールというものの本質なのです。

この議論でのポイントは、『直観』や『皮膚感覚』というもの「実在」でございます。
つまり「ルールというのは、実質的な根拠を持たない、相互間の約束事だ」と言ったところで、その「ルール」とは、何もないところに虚構された「空中楼閣」などではなく、明確な定義こそ出来ていないものの、『直観』や『皮膚感覚』というものを呼び起こす、何らかの「根拠が存在する」ということなのです。

ですから「『直観』や『皮膚感覚』というものを呼び起こす、何か」という「実在」の本質や意味を看過して「ルールはフィクションである」などと言うのは、それこそ「無根拠なフィクション」なのでございますよ。

>  ですから、「共同体よりも国家がマシとは限らない」「場合によっては被害者の実力行使も認める」とおっしゃるアレクセイ様は、そもそも近代法の前提となっている価値観を共有しないのですから、必然的にアナーキストであるしかない。そういえば、「場合によっては被害者の実力行使も認める」というのはテロリズムを擁護するロジックでもあるわけですが、アナーキズムとテロリズム、これらは確か初期の笠井潔の主要テーマでしたよね? 無意識のうちにアレクセイ様がこの2つを内在化されているのだとしたら、なんとも皮肉な話ではあります。

したがって、これも「論理の飛躍による、単なる決めつけ」以外の何ものでもありません。

なにしろ「共同体よりも国家がマシとは限らない」というのは、単なる「知的検討」でしかないし、「場合によっては被害者の実力行使も認める」というのは「正当防衛」や「革命権」といったかたちで海原さま自身も「近代的なルール」の内であるとお認めになっている。
それなのに、同じことを私が言うと「テロリズムの論理」だなどという「為にする批判」に化けてしまって、およそ、論理的一貫性がない。
こんなことになってしまうのは、海原さんが「結果を急ぐあまり、知的検討を半ば放棄して、感情的な飛躍論理を振り回しているだけ」だからなのでございます。

> 「無意識」と書いたのは、ご自身がその自覚をお持ちでないからです。はっきり言わせていただけば、「近代国家や近代法を支えている価値判断とそれに基づくロジック」と「自分の近代国家や近代法に対する価値観とロジック」との区別がついてらっしゃらない。これはたとえば、国家と犯罪と有責性http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2210 の中で
>
>>「国家は、国家運営という枠内でしか、犯罪者の処遇を考えない。決して、被害者や被害者家族のために、犯罪者を罰するのではない
>
> という、およそ近代刑法学の大前提と全く逆のことを、さしたる根拠もなく言い切ってしまうことにも表れています。これは「アレクセイ様の国家観、刑法観」ではありましょうが、「現実の国家観、刑法観」ではありません。事実、たとえば刑事訴訟法には被害者参加制度が平成20年に導入され、訴訟における被害者の重要性は近年増すばかりです。

こんなことで「国家」や「法」が無条件に「国民」を尊重していると思えるなんて、あきれて物が言えません。
これもすでに説明済みですが、「近代国家」が相手にするのは、「共同体」が相手にしていたのよりもずっと広範な地域と多数の人間であり、その「支配管理」の方法も、「共同体」のそれよりは、『脱人称化』し『ソフィスティケート』し「透明化」されております。
で、そうした「ソフィスティケート」の一例が、まさにこの「被害者参加制度」です。
この部分を譲っても、べつに「支配管理」の大勢に影響はない。むしろ「損して得とれ」で、こういうことで「皆様本位の我が国家」というアピールして、もっと肝心なところで「問答無用」を押し通せるのなら、そのくらいのそろばんはとうぜん弾きます。

もちろん、こういう政策の現場で働いている人たちは、心から「国民のために」と思ってやっているのかもしれませんが、権力の上層部にある人たちは「そこだけ」を見て判断をしているわけではありません。全体を見渡して、損得出し入れを総合的に勘案し、最終的に「自分に得になるようにする」というのが、権力者の当然の判断です。
もちろん、この場合の「権力者」とは、「政治家」であったり「官僚」であったり「財界人」であったり、場合によっていろいろですが、彼らが「権益」をともなう「権力」を欲しているのならば、そうした総体的判断をするというのは、当然のこと。「アメと鞭」のバランスを考えない「アメだけの権力者」など存在いたしません。

> 権威主義を何よりも嫌うアレクセイ様には、こういう話はどうしてもご納得できないかもしれません。

いや、そういうレベルの問題ではないのです。

> しかし、そもそも法やルールというものは、各人の自由な考えに基づく勝手な行動を許さない、というところにその存在価値があります。

それは、私も認めますよ。しかし「法やルール」が、そのメンバーに絶対服従を要求するには、その前提として、その「法やルール」が、そのメンバーによって事前に承認されておらねばならず、それが充分になされていない「法やルール」に従わねばならない義務はない。

私のように考えない海原さまのような方なら、「ユダヤ人の人権を認めるな」とか「朝鮮人の人権を認めるな」などという「法」が「賛成多数」で決められれば、「悪法でも法律は法律なので、自分もユダヤ人(朝鮮人)の人権は認めない」などとおっしゃるのでしょうね。

> 実はこれこそが「法学評論」が存在しない最大の理由でもあります。

これも単なる「決めつけ」。
「法」や「法学」もまた、当然のことながら、「批評」の対象になっております。
『法学評論』という雑誌はないかも知れないし、「法や法学を論評する文章」が書かれても、それは(専門家の間での)慣習上「法学評論」という呼び名が採用されてはいないのかもしれませんが、「法あるいは法学」に関する「評論」文は、いくらでも存在します。
例えば「法哲学」書などというのは「法学評論」に他なりません。

> 法というのは、そもそもが人為的に意図的に造られた権威なのです。ですからその権威の具体的なあり方(個々の条文や個別の裁判所の判断)について批判をするのは構いませんが、権威そのものに疑いの目を向けるのであれば、それは法というものの存在自体をまるっきり否定してしまうことになる。

したがって、これも「論理の飛躍」でしかございません。
現に存在するのは、個々の「国家」であり、個々の「法律」であり、そこには当然のことながら「ピンキリ」がございます。そして「権力というのは腐敗するもの(人間は易きに流されがち)」であり、「国家」や「法」というのは、しばしば恣意的に歪められがちなものなのですから、大概の「国家」や「法」について、それを「鵜呑み」にせず、厳しい検討(批判)を加えるというのは当然の手続きで、それは何も「国家や法を否定する」ことにはならないのでございます。

> 法学というのはそれ自体が権威主義をそもそもの前提としているところが、他の文系の学問分野と大きく異なるところです。

いやいや、この言い方もおかしい。
「法」というのは、「権威」が無くては機能しないものなのです。だから、いかにしてそれに「信頼に値するルール」としての「権威」を与えるかが「法学」のテーマであって、「法なら(何でも)権威がある」とするのが「法学」などではありません。
ただ、「法学者」はしばしば「権力者の御用学者」になりやすい(神学者がしばしば護教論者であるように)。つまり、何がなんでも権力者の恣意を「法的に正当化する」のを仕事と心得るような法学者も、それは大勢いるでしょうが、すべての法学者がそういうものだということではない。多くの法学者は「より人々と社会のためになる法とは、どのようなものか」を考え、「そうした法をどのように根拠(基礎)づければ、その法はより広範な権威を得ることが出来るのか」と考えていることでしょう。

海原さまのおっしゃるような「法学者の党派的立場」もありましょうが、それが「法学の全体像」であるわけがありません。そんなに単純で薄っぺらものなら、「法学」は今のような「権威」を認められてはおりませんでしょう。

> しかしアレクセイ様ご自身は、自分はアナーキストでもないし、法学を否定するわけでもない、とおっしゃる。だから私は正直困っているわけです。

困る必要は、まったくありませんよ。
私は、基本的には「近代国家」体制が「よりマシ、ではないか」と考えております。
しかし、それは「完璧」でもなければ「自動的に公正に機能するもの」でもありませんから、「近代国家」や「法」というものを、より良く機能させたいがために、それを批判的に検討しているだけなのでございます。
ですから、こんなに「近代国家」や「法」を重視しておる人間を「アナーキスト」だなどと呼ぶのは、とんだお門違いなのでございます。私は「国家」や「法」の重要さを認めればこそ、厳しく注文をつける「主体的な近代国家主義者」に他ならないのでございます(笑)。

> 国家や法を否定しているということをお認めになるか、あるいは近代国家や近代法の価値観を受け入れて自説を修正していただくか、2つに一つです。

したがって、私は「国家や法」を否定などしていません。また、基本的に「近代国家や近代法の価値観を受け入れて」いるからこそ、その主体者として、それらを批判的に検討しているのですから、私のこの立場や自説を『修正』する必要もありません。

そうではなく、海原さまの「近代国家や近代法の価値を、無条件で肯定(崇拝)し、個々の国家や法も無条件で受け入れないかぎり、その人はアナーキストである」という「妄信」を『修正』すべきなのでございますよ。

> そして前者であれば、もはや議論は成立しないことが明らかになります。後者であれば、議論は可能です。

そんなわけで、私の論理的解答では、海原さまの「恣意的な二者択一」のどちらにもなりませんね。これは困った(笑)。

> あえて辛辣な言い方を選ばせていただきます。今のアレクセイ様は、「国のやることは何でも嫌いだが、さりとて国を解体せよと喝破もできない、二昔前に姿を消した反抗左翼」そのものです。

ああ、この程度の「ネトウヨ」並の認識が、海原さまの「二者択一式単純論理」による「左翼」観なのでございますね。

私には、ご自分を「アナーキスト」であると言ったり「保守」だと言ったりする海原さまの「左翼」観が、まったくの無内容な「非歴史的な思い込み」にしか見えません。
このように曖昧で恣意的な定義で良いのであれば、私を「アナーキスト」でも「テロリスト」でも「インベーダー」でも、それは何とでも呼べて愉快なことだと存じます。

> 「国のやること何でも嫌い」では、

そんなわけもないのに、自分の頭の中の思い込みと決めつけだけで、自己完結なさっている。

> ヘイトスピーチ規制の必要性として今後いかなる根拠を私が出しても納得いただくことは難しい。

いや、今回の3点の根拠も含めて、これといった根拠は未だに示されないままだと存じます。

> アレクセイ様の批評に感心してコンタクトをとらせていただいた私としては、とても残念です。

私も、なぜか今回はご理解いただけなくて、残念でございます。

> では本日はこれで。議論が継続できることを願っています。

ええ、また、面白いご意見をお聞かせください。





それではみなさま、お休みなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
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