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「公理」は否定できない

 投稿者:海原健叡  投稿日:2015年 1月24日(土)16時39分30秒
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   こちらこそお付き合いありがとうございます。意見の擦り合わせができそうなポイントが見当たりましたので、少し希望が出てまいりました。とはいえ馴れ合いも媚びもするつもりはないですし、もちろんアレクセイ様もそんなものはご期待しないでしょう、そういうところに私は惹かれたのですから。ですので、引き続きお説の間違いは遠慮なく指摘させていただきます。

>>つまり、私が言いたいのは『人間の実際の生活に根差した地に足のついた個人的動機を重要視しなくてはいけない』というようなこと(日常性の強調)ではありません。
「地に足がついた」とかつかないとかいったようなことではなく、「自身の現実」を冷静に直視して内観し反省する作業が、道を誤らないためには必要だ、ということでございます。

 基本的に同じことを言っているうもりだったのですが、了解しました。ただ、それを前提にしても私の考えとしましては、「それは自己反省の話であり、他人がどうこう言う必要はない」というものです。

>>たとえば、海原さまの場合でしたら「自分の思考の根底には、学んだ法学の枠組みがある」ではなく、「なぜ法学に依存するのか」でございます。
言うまでもなく、法学を学んだ人は山ほどおりますが、それらの人たちの誰もが「法学的発想」の特別な優越性を認めるわけでもなければ、それを自己の思考の根底的な枠組みとして採用するわけでもございません。むしろ海原さまのように、それをご自分から喧伝される方は、プロの法学者や法律家以外では珍しいとも申せましょう。では、その「珍しい選択」は、何に由来するのか。
それを反省してみる必要があるのでございますね。

 なぜ「反省」する必要がある、とアレクセイ様は「助言」されるのか。それは、私が法学に依存するあまり不合理な発言をしている、という「行動結果」があるとアレクセイ様がご判断されているからでしょう? 非専門家の私が思考の根底的な枠組みとして法学を採用していたとしても、私の行動結果がアレクセイ様のお気に召すものであれば、こういう「反省」の必要性を「助言」することはなかったはずです。であれば、そもそも動機の検討などというのはやはりオマケでしかない。

>>私が申しますのは「いかに立派な目的であろうと、その実現手段が、強硬なものであるときは、なぜそうなるのかという反省が必要である。それによって、思わぬ行き過ぎを防ぐことが出来る」ということであり、つまりこれは「助言」であって『批判』ではありません。

 一般論として、強硬な手段には行き過ぎの危険が伴うし、それを反省することが必要なのはまったくおっしゃるとおりです。しかし、そのときに相手に「反省が必要だ」とただ言ったところで、相手(この場合は私)からは「私は反省したうえで強硬手段を主張しているのだ」と返されるだけです。そのときに再反論として国家の危険性を強調するのはお粗末すぎるというのが私の一貫した主張であります。なぜそれがお粗末なのかは最新の論考で触れたとおりですが、二年前に書いた記事でも同じことを論じているのでよろしければ参照くださいませ。→http://igo-omishiriokio.at.webry.info/201301/article_1.html

>>海原さまが、私の「助言」に対して「私が性急に法規制を求める具体的な根拠はこれこれであり、決して個人的なルサンチマンなどの発露ではないと思います。その意味では、囲碁界での挫折体験といったことは関係がないと思っています」と説明すれば、それが真相を射抜いているかどうかは別にして、本人ではない私は「そうですか」としか言いようがないのでございます。
しかし、海原さまは私の「個人的事情の検討」要求に対して、「国家観の違い」とか「法学的発想の有無」とかいった「思想的な立場の違い」を強調されるばかりで、いっかな「個人的な事情の検討」をなされないので、私は逆に「自覚の有無にかかわらず、そこが触れたくない部分」であり「強硬な手段選択の拠ってきたるところ」なのではないかと疑うのでございますよ。

 はっきり申し上げますが、囲碁界の挫折体験うんぬんについてはあまりにも馬鹿馬鹿しいので反論しなかっただけです。私のブログやTwitterを読んでいただければわかりますが、私が囲碁界で「挫折」したのは2014年の年明け頃ですが、そもそもそれまでの間にも私は結構色々な問題に首を突っ込んでいました。例えば上にあげた体罰の問題もそうですし、2012年には文楽に対する大阪市の補助金削減の問題についてもかなり熱心にコミットしました(ちなみに文楽問題は囲碁の問題とパラレルだと感じてのコミットでしたので、動機は囲碁だと言えます。挫折はまだしてませんでしたが)。それから改憲問題についてはブログ初期から今に至るまで継続的に発言しています。そういえば2011年には東浩紀氏の宇野常寛氏に対する不当なバッシング(と、私は感じました)に言及して、東氏にブロックされたりもしました。
 今思いついただけでも、これくらいあります。つまり囲碁で「挫折」する2014年までの間に、既に私はかなり色々なことに首を突っ込み、ときに「強硬」な意見を出し反発も受けてきました。今回の在特会の問題についても、そのうちの一つでしかない、というのは、昔からの私の知人やブログ・Twitterの読者であればすぐ分かることですし、少し面倒でしょうがブログを遡っていただければお分かりになるかと思います。もちろん、今回の在特会の問題も含めて、それぞれの問題にコミットした理由にはそれぞれに個人的動機はありますが、それは当然のことでございましょう? ちなみに、ブログタイトルを変えた2009年の後、2012年にははてなに囲碁ブログを別に作ったりもしました
http://d.hatena.ne.jp/kaibarakenei/20120326
 というわけで、 悪霊 あるいは 不可視の獄
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2313

>>さて、ここで海原さまへの応答に戻ります。
私はこのような人間ですからこそ、海原さまの今の気持ちが多少はわかる気がいたしますし、その危険性も感じるので、そのように性急に「暴力」に頼ることには、賛成できないのでございます。
要は、いまの海原さまもまた「言論の限界」につきあたってそれに絶望し、その自然な流れとして「暴力に解決を求めているだけ」だとしか思えないのでございますね。
以前、海原さまは「囲碁界の問題」について、言論で深くコミットされていましたが、結局はそれが実質的な功を奏することはなく、その結果、ブログのタイトルも『好きなように生きます』となって「囲碁界の問題」から距離を措くことになりました。

 というのは、全く事実に基づかないアレクセイ様の思い込みです。ちなみにブログタイトルを変更して、囲碁以外にもう少し広く発言すると宣言したのは2010年の初春。
http://igo-omishiriokio.at.webry.info/201003/article_6.htmlこれはちょっとプライベートで起こったことが原因になっています(もし知りたいということでしたらメールで送りします、こちらに書くにはあまりにしょうもない話なので(笑))。しかし、これ以降も2014年までの間に囲碁については発言していたのは上記のとおりです。


>>それで本当にお気持ちの整理が出来たとは、私は思わないのでございます。

 というのは確かなのですが(もちろん、未練が無いわけではないです)、

>>なにしろ「囲碁界」という「海原さん個人にとっては重大問題」への執着を不本意に断念した後、次の大きな課題が今回の「ヘイトスピーチ問題」であり、こちらは「極めて公共性の高い問題」で、「囲碁界の問題」ではまったく考慮の他だった「法的強制」も視野に入ってきたのでございますから、海原さまが「今度こそ、何がなんでも解決したい」という気持ちになっても不思議はありません

というのは、事実に基づかないアレクセイ様の思い込みを基に作られた架空の「ストーリー」です。「助言」させていただくなら、なぜこんな「ストーリー」を作り上げてしまったのか、それこそアレクセイ様は「反省」されるべきでしょう。私の考えを申し上げれば、アレクセイ様は私にかつてのご自分の姿を重ねてしまったのではないでしょうか。確かに私はアレクセイ様と似ている部分があると思いますし(孤立を恐れず自分の言いたいことを言う、など)、また私もアレクセイ様を尊敬しておりときにご論文の言い回しや論法を使わせていただくこともあるから、そうした誤解もご無理はないし、私にも責任の一端があるかと思いますが、しかしやはり事実として、アレクセイと海原健叡は別の人格なのです。

付言しますが、仮に私の今回の発言が囲碁界の体験へのルサンチマンに基づいていたとしても、それはそれで構わないというのが私の立場でもあります。
「問答無用の法学」論に戻ります。

>>「悪しき動機が、良い結果ではなく、それ相応に悪しき結果をうみがち」というのは当たり前の話ですから

 おっしゃるとおりでございます。しかし、

>>「結果が出てしまって、取り返しがつかなくなる」前に、その「動機」の是非を反省検討するというのは、ごく当たり前のことでございます。

 これは論理の飛躍です。上で述べたことの繰り返しに近くなりますが、「取り返しがつかなくなる」おそれが高いのであれば、それを単に指摘すればよろしい。合理性、現実的実効性が無いならその旨を指摘すればよいのです。「悪しき動機が、良い結果ではなく、それ相応に悪しき結果をうみがち」と言ってみても、しょせんそれは「傾向がある」という程度のもので、100%そうなるわけでもないのですから、動機の検討などオマケでしかない。つまり、合理性、現実的実効性が無い発言や行動をした人間に対して、より強く糾弾するための情状事由になる、というだけの話です。

>>> とおっしゃっているのは、やはり「動機」は法規制の理由になるとお考えのようにも読める。
もちろん、なります。ただし、その「動機が適正であれば」ですが。

 というわけでこれには反対させていただきます。ただし、ここでの「動機」はその人間の本音の部分を意味する、というのが前提です。外部に対して掲げた「目的」が不当であれば、それはそれだけで批判に値する、というのは私も思います。もっとも誰の目にも明らかな不当な目的を掲げるような人はまずいないでしょうが。
 また、動機のような相手の内心の深部に踏み込むのは非常に便利であり、そして危険であるということも付言しておきます。何せ「それはルサンチマンだ」という発言は相手を黙らせるにもってこいの言葉ですから。自分の鬱屈した思いが言動に反映されるというのは多々ありますので、誰しも反論が難しい。でも、動機、つまりスタート地点が不純であったとしても、そこから色々考えて気付き、主張が適正なものになっているのであればそれで構わない。確か小林よしのりが、「『私憤』を『公憤』に高めることが大事なんだ」ということを言っていましたが、全くそのとおり。逆に入口の部分をことさらにとりあげるのは、「搦め手」と言うよりもほとんど「禁じ手」だと私は考えております。これはかつて私もそれに近いことをしてしまったことへの反省も込めています。
 なんにせよ、動機の分析というのは慎重にすべきものであり、「言動」や「結果」への評価に付随して行われる補助的なものに過ぎない、と繰り返し強調しておきます。

>>両方でございますね。おもに前者ですが、例外的に後者の場合もあるかも知れない。
「あなたの気持ちはよくわかる。その感情はやむを得ない部分が多く、その言動はいちがいに責められるべきものではありません。しかし、その行動が公に悪影響を与えるものであれば、その感情は公正な理由にまで昇華されないかぎり、それそのものとして正当な根拠とはなりません。だから、あなたは行為を改めて、その心情を正当に訴えるべきです」というようなことでございます。

 既に前回述べたように、これには賛成いたします。


>>> ちなみに、当事者の個人的動機を重要視する、ということであれば、以前、国家と犯罪と有責性http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2210 で
>
>> 「敵討ち」は、「返り討ちにあうリスク」を引き受けたところにこそ成立するものであって、そのリスクを引き受け得ないで「国家権力(他者)への丸投げ」を望む「高みの見物」者が、「他人の手を借りた報復」を声高に叫ぶことの「恥を知れ」と言いたいのでございますね。
もちろん、私のこの主張は「犯罪被害者家族」には過酷なものかもしれませんが、「被害者家族になるまでは、何も考えていなかった」彼らには、この機会に「国家による刑罰」ということの意味を、すこしは考えていただきたいのでございます。
>
>  「被害者家族になるまでは、何も考えていなかった」とおっしゃっていたのはなんだったのだろうか、と思うのであります。これはここ最近の議論の中でアレクセイ様が被害当事者の意識をまずは考え外野は冷静になるべき、という主張とも矛盾しているとも思うので、これも聞いてみたいとろこではあります

ここには何の矛盾もありません。
例えば、ここに「妹をからかわれ苛められた少年」がいたとします。彼は頭に血が上って、妹をからかい苛めた少年を半殺しの目にあわせたとします。この場合「加害少年の気持ち」はわかりますから「結果だけを見て、それ相応の罰を与えろ」というのは妥当ではない。つまり情状酌量の余地がある。ですから私は、「動機がどうであろうと(動機の内容に関係なく)、その加害少年は結果に対する責任を全面的に負うべき」と主張するような「結果論主義者」に対しては「いや、彼の気持ちもわかるはずです。ですから、そこを勘案して、罪一等減ずるべきでしょう」と言うでしょう。

 この一連のブロックには突っ込みどころが二点あるので、まず一点目から。
 こういう話を「例えば」として疑問も持たずに出来てしまうから、アレクセイ様は無意識のアナーキストだと私は評価するのです。
 まず被害関係者が国家権力(立法府であれ、司法府であれ)に対して厳罰を求めることそれ自体は自由であり、何ら違法なことではない。もちろんそれを国家権力が聞き入れるかは別の話ですが。一方アレクセイ様の例え話の少年の行為は、(妹を守るための正当防衛だと認められない限り)傷害罪という犯罪を構成します。したがって彼の行為が客観的に違法であり非難に値する行為である、というのは論を待ちません。(もし、「犯罪であっても非難されない行為もある」とお考えなら、それもまたアナーキズムまたはテロリズムです)。とはいえ、少年の動機によって情状酌量できる、ということなのです。
 つまり、ここでの少年の行為はそもそも非難に値することが刑法によって客観的に定められており、あとは「非難の程度がどれくらいか」だけの問題になる。しかし、犯罪被害者の国家への厳罰要求は、そもそもそれ自体は法的に認められているうえに、実際にそうした声が受け入れられる可能性もある。この2つを同列に論じる感覚が、まさしく「アレクセイ様が考えるルール(べき論)」と「現実の国家のルール」の区別がきわめて曖昧であり、アナーキズム的発想が現れている、ということなのです。

 突っ込みどころの2つ目です。

>>人間はある程度は自分で感情をコントロールして、妥当な対応が出来るように日頃から訓練をしておかなければならない。そうでないと、感情垂れ流しでやり過ぎてしまうんだ。その点で、これまで君はそういう努力をして来なかったんだから、反省すべき点は多々あるんだよ

 これは確かにおっしゃるとおりなのです。しかし、そうであれば


http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2307 の
>>私自身も「話にならない相手には、実力を行使するしかない」と考えてしまい、つまらない私闘にハマってしまったという苦い経験がございますから、真面目で真剣な方たちが、言わば思い詰めて「実力行使しかない」と主張する気持ちはよく理解できますし、「実力行使」という選択を必ずしも否定はいたしません。
貴兄は『しばき隊に代表されるカウンターと呼ばれる、これもまた強力な共同体の圧力をもって対抗するしかない。かくして、それこそ18世紀のように共同体同士の争いが起こるのである。そのような社会を私たちは望むのだろうか。』と書いて、こうした「犠牲を伴う私闘」をまず避けるべきものとしておられますが、革命に代表されるように、それも時には必要なのではないかと思うのでございます。

http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2307
>>在日外国人への正視に耐えないヘイトスピーチに対し、心ある日本人(真の愛国者)が日本人としての堪えがたい恥辱をおぼえ、差別者たちに怒りをおぼえるのは、当然のことでございましょう。そして、在日外国人たち自身の動きとは無関係に、日本人としてこの問題を「被害当事者による、最終的な暴力対決」になるまえに解決してあげたいと考えるのも当然でございます。
しかし、あえて申しますなら「ヘイトスピーチ」問題は、差別され侮辱されている被害当事者たちが「まだ、それに堪えて、問題と向き合っている」段階であって、「生存をかけての実力対決」を始めなければならない段階ではないのでございます。ですから、ここで我々が「国家の暴力」に頼っての解決に走るのは、良かれと思ってなされる、被害当事者を置き去りにしての「拙速」なのではないでしょうか?


 との整合性はいかがお考えなのでしょうか?
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2307 では、しばき隊的な「違法な死闘」も当事者には認めると言い、
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2307 では、当事者が堪えているうちは周りは拙速に走るなと言う。

そしていざ当事者が実力行使に及べば

>>>>人間はある程度は自分で感情をコントロールして、妥当な対応が出来るように日頃から訓練をしておかなければならない。そうでないと、感情垂れ流しでやり過ぎてしまうんだ。その点で、これまで君はそういう努力をして来なかったんだから、反省すべき点は多々あるんだよ

 と説教するのであれば、もはや被害当事者も彼を救いたいと考える人も、八方塞がりですね(笑) いやまあ、被害者もその関係者も彼らに共感する人も、ただただ言論の力だけで抵抗し続けろ、というのであれば矛盾とは思わないのですが、そうなんですか?

>>「法規制」のポイントは「妥当性の有無」でございます。
つまり、ある言動が「倫理的に好ましくないもの(一般に人を不快にさせる言動)」であるとしても、それらがそうした理由によって、例外なく「法規制」されるべきではない。「倫理的に好ましくないもの(一般に人を不快にさせる言動)」の多くは、それこそ「モラル(倫理)の問題」であって「犯罪」ではないからでございます。

言い換えれば「モラル(倫理)」というのは、基本的に「多様」であり、それは出来るかぎり「法規制」の対象にすべきではない。人間というのはもともと多様な存在であり、その「モラル」においても「多様」であるのが当たり前であるからです。だから人は、他人の「異色性」に対して、寛容であるべきでございます。
例えば、囲碁界においては、海原さまの立場は一般に入れられないものでした。しかし、それが「言論」の範囲に止まるかぎり、海原さまの意見自体(その異色性)は認めなくても、存在は認められるべきなのでございます。「あいつのいうことは鬱陶しくて、みんなを不快にさせるから、あいつを強制的に排除しよう」というような考え方(単色主義)は、社会をぎすぎすしたものにするだけだからでございます。

しかし、その人の「異色性」が、多くの人たちに対して、実害をあたえる態のものだったりすれば、それは「法規制」の対象にもなるでしょう。そこで問題はその「線引き」という微妙なものとなりますので、感情的で性急な対応ではなく、慎重な検討反省を経た上での対応でなければならないのでございます。

 おっしゃるとおりです。

>>で、『①②については新聞報道もされてしましたし、1月13日のNHKクローズアップ現代でも特集をされました。これでも報道が不十分だと思われるなら、それはもはや価値観の問題ですからこれ以上は論じません。』とのことですが、「報道されたから、ただちに法規制されるレベルだと判断し得る」ということはありません。
報道は「そこに倫理的問題がある」として「問題提起」をするのが主目的であり「何らかの対応が必要だ」とは言っても「法規制しかない」とは言いませんし、言ったとしても、それは所詮「一つの意見」として「参考」にはすべきでしょうが、「報道」による意見は「特別に有価値」だということでもありません。
また、これは前に書いた「中国の領土的海洋侵出問題におけるネトウヨの強硬対策指向」と同質という点でも説得力がありません。多分、報道量ならこちらの方が圧倒的に上でしょうが、だからといって単純に「強権的対策こそが正しい」ということにはなりません。

 おっしゃるとおりです。では、法規制(あるいは強硬策)が正しいかどうか、言い換えればそれが多数の人に支持されるかどうかは、結局民主主義的プロセスの中で決定されます。


>>もちろん、自明の前提として、私も「ヘイトスピーチは止めさせなければならない」と考えてはいます。しかし、それがそのまま「ただちに法規制して、強制的に止めさせるべき」という極論にはならない。性急な強攻策には同意できない、というだけの違いでございます。
例えば、「差別」一般というものは「止めさせねばならない」ものでございます。しかし「差別」は人間の本質に深く根ざしたものでもあり、その意味では無くなるものではないですから、「何がなんでも止めさせる」として「強硬手段」に出れば、弊害の方が大きくなるので、その「兼ね合い」が問題になるのでございますね。
そして、その「兼ね合い」を勘案するが故に「極端な強硬手段」を選ばない者に対して、強硬派がよく言う「おまえたちは、問題の存在を容認してるも同然だ」というのは、間違いなのでございます。「極端に走らない」のは、あれこれに配慮して「難しくも最良のバランス」を考えるからであり、その意味で「単細胞の決断主義ではないから」なのです。

 一般論としては同意いたします。

>>まず(1)について言いますと、ヘイトスピーチの法規制は、まず「ヘイトスピーチそのものの問題点」を検討すべきであって、付随行為は、それに応じた法律で適宜対応すべきだということでございますね。「あれとこれは関連あるから、あれがダメならこれも法規制すべきだ」という発想では、法規制の対象は際限なく広がってしまい、「線引き」が出来なくなるからでございます。

 確認したいのですが、付随行為とはなんでしょうか? 差別的デモも、差別的ネット放送も、差別的文書の配布も、全てヘイトスピーチです。このうち、特に危険性が高い差別的デモを新たに規制すべき、というのが私の主張です。

>>(2)についても同じ。『流れていきやすい』『怖れが高い』から「予防」すべきという考え方も、自由の制限は「必要最低限度」という「自制」を持たないと、際限なく広がってしまって「予防検束(やる前に、ふん縛っておけ)」という論理になって、人の「自由」を不当に侵害することになってしまいます(米国では「9.11」に絡んで、この悪夢が現実化してしまい、今になって問題視されてします)。
「法規制」とは、基本的に「完了した行為」に対して設定されるべきであり、「まだ為されていないこと」を対象とすべきではないのです。

 ええ、ですから、「ヘイトスピーチデモ」というまさしく「完了した行為」を規制する、新たな立法をすべきだと主張しているのです。

>>したがって『実際、デモについては既に現行法上一定の規制がされていますが、その根拠は「デモは集団であり暴徒化しやすい」というものです。』というのは、間違いです。
これは「国家権力側の本音」ではありましょうが、そんな「想像」だけで「自由の侵害」をするわけにはいかない。では「デモに対する現行法上の一定の規制」とは何か。それは「大人数で歩いて、道路を占拠すれば、一般の道路交通使用の妨げとなる」ということを「建前」としています。だから「他の人にあまり迷惑をかけない範囲で、あなた方の権利を行使して下さいね」ということで「一定の制限」がなされている。つまり「予想や想像」ではなく「行為に(必然的に)伴う弊害」を根拠として「一定の規制」が「適法化」されているのです。

 アレクセイ様があげているのは道路交通法上の規制、私が想定してたのはいわゆる公安条例と言われる条例による規制です。これは昭和50年9月10日の最高裁大法廷決定で言及されていますので、よかったら裁判所のHPでご確認くださいませ。つまり私の主張は、公安条例によるデモに対する規制を、少しだけ拡大しようというものです。

>>(3)については、ある行為を罰する場合、罰を与えた結果として、その者が「反省するか否か」は問うべきではない。そもそも、反省しない者には反省しないだけの罰が科せられるのですから、その上で反省しないのなら、それはもう済んだ話として仕方がないのでございます。

 それは刑法の3つの機能の一つ、犯罪者の反省を促し教育をするという「特別予防」の観点からは正しいお話です。しかし刑法にはもう2つ、「応報」と「一般予防」という機能がある。私がここで「反省」を論拠にするのは、一般予防、すなわち「見せしめ」としての刑罰効果を重視してのことです。つまり現行法上の刑罰規制では、在特会も、そしてシンパも全く反省しておらず、また同じことが繰り返される恐れが高い。であれば、より強力な見せしめ効果を持つ法規制を新たにすべきである、という主張です。
 なお、私はいきなり刑罰で規制するのではなく、言わば猶予期間として、前科のつかない行政上の規制をまず設けて様子を見るべきだと考えております。

>>これは「ヘイトスピーチは法規制の対象なのか?(法規制の対象とすべきか?)」という「議論」の本質を、表面的に誤摩化すものでしかありません。

「どのように規制し、どのような処罰を与えるべきか?」という問題は、まず、その行為が「法規制すべき(処罰すべき)対象である」と確定した後に、『次の段階』として検討すべき事項であって、「ゆるい(あるいは、限定された)規制だから、その行為を気楽に規制対象と考えても良い」ということではないのでございます。

 あらゆる法規制はすべきではない、ということですね。その立場からは上のような反応になるでしょう。

>>どうしようもないのなら仕方ありません。海原さまが「囲碁界の改革」を諦めたのと同じでございましょう。
くり返すまでもなく、私は海原さまのご意見には『納得』しかねます。

 なぜ納得いただけないか、微妙に説得の突破口が見えましたので以下論証していきたいと思います。


>>まさに、私が問題にしているのは、そうした「近代国家主義法学者の党派的価値観」の「客観的妥当性」なのでございますよ。
彼らが、そのように思い込み、あるいはそのように決めて、そうしたんだから「仕方ないじゃないか」というのでは「議論」は成立せず、あとはそれを、一方的に「間違っている」と否定して「強制的に改めさせるしかない」ということになりますが、私はそのようなやりかたは採らない「言論人」なのでございます。

 お立場はよく存じております。

>>そう言いますね。
「キリスト教における神の実在」が「自明な事実」ではないと考えるのと同様に、「近代国家主義法学者のイデオロギー」についても「自明な事実」だとは認められません。

 おっしゃるとおりです。「近代国家主義法学者のイデオロギー」は、それを良しとするする人たちが良しとする、それだけなのですね。


>>「法学」は「ルール」の一種であり、「ルール」とは本質的に『「フィクション」「無根拠な決めつけ」「権威主義」』とお認めになった上で、その「ルール」を「黙認しろ」とおっしゃるんですね?
しかし、それは無理でしょう?(笑)

 ここにアレクセイ様の「誤解」があり、そこに説得の糸口があると存じます。
 まず、「ルールを黙認」ということですが、これは「全てのルールに文句を言わずに従え」ということを意味するわけでは当然ありません。もしそうであれば、私は「ヘイトスピーチを規制する新たな立法」を主張することなどできませんからね(笑) 当然、現行の法律について廃止を主張することも国民の当然の自由ですし、実際それによって法律や判例が変更されることも結構あります。私が「絶対に従わなくてはならないルールの権威」として想定しているのは、いわばそのルール体系の根幹に当たる部分です。数学で言えば公理のようなものだと思っていただければ間違いありません。法や法学には、そういうものが存在しているのです。後述しますが、それが「法学評論」の存在しない理由です。

>>『「フィクション」「無根拠な決めつけ」「権威主義」』なものとしての「ルール」とは、もちろん「真理」でも「正義」でもなく、単なる「契約」なのですから、その「契約内容の妥当性」を検討しないかぎり、それを承認することなど到底できません。「盲判」など押せるわけないのでございます。

 これもおっしゃるとおりです。そして、私たちは国家とそのような契約すなわち社会契約をしている、というのは法の公理の一つなのです。

>>それは単なる「決めつけ」でございますよ。
答が簡単に得られないから「そこにはもともと解答などなかったのだ」という安易な「決めつけ」をし、それで安心をしているだけでございます。

たしかに「解答」が無い場合もあるでしょう。しかし、「これだけやったら、もう絶対に答は残されていない」などという「限度」など、もともと存在いたしません。
昔にはわからなかったことが、知識の蓄積によって分かるようになることもあれば、千人寄っても分からなかったことが、ある一人によって解かれてしまうこともあるのです。
もちろん「なぜ人を殺してはいけないのか」というテーマも、昔からいろんな解答が与えられており「解答がない」というわけではありません。ただ、特権的に唯一の正解というのが特定されていないだけで、すでにそれは提出されているかも知れないし、これから提出されるかも知れないし、本質的に解答は複数あるのかも知れない。


 断言しますが、「解答」が出ることはありえません。なぜならこれは価値観の問題であり、そもそも人を殺すことを何とも思わず自分が殺されても構わないという人間さえ一定数この世界にはいます。もちろん、かなりの人間が支持する相当程度に有力な解答は出てくるでしょうし、それくらいなら今もあるでしょう。しかし、それを「客観的な解答」だと言える根拠はどこにもない。元よりこうした倫理や理念といったものは自然法則のように証明することが不可能であり、「客観的に正しい」と証明されることがあるとすれば、それは全ての人間がその考えを支持する、という場合しかない。しかしそんなことはまず想定できないし、さらに言えばそんな世の中が来るべきではない。人間の思想は自由であり、多様性を奪うべきではないからです。もちろん、この「べき論」も客観的には証明できません(笑) ただ、割と多くの人がそのように思っている、というだけの話です。

>>普通に考えて「無いことの証明」というのは出来ません。例えば「神は存在しない」という証明は出来ない。それは「神」をどう定義するかの「定義の問題」でもあるし、認識主体としての人間の能力の限界をどう考えるかの「限界設定の問題」でもあるでしょう。そしてその「設定」自体、唯一の「解答」は確証で来ていないのです。
つまり「ごく普通の意味合いで言えば、神と呼ばれるものは、存在していない可能性が高い」と言うのが精一杯なのです。しかし、だからといって「神」というものが、人間の歴史に今も昔も大きな影響を与えつづけている以上、現在の文脈において、「神の存在」の意味を論ずるのは避けられないことであり、意味のあることなのでございます。

 「神」の存在、そもそも「事実」の問題であり、「私たちがどうあるべきか」という「べき論」とは話が違います。まあ、「私たちがどうあるべきかという客観的倫理が存在するか否か」と問いをたてなおせば「事実」の問題になるでしょうが、しかしこれはさすがに無理筋でしょう。「私たちはカレーとラーメンどちらを愛するべきかという客観的答えはあるか」という問いに意味はあるのでしょうか(笑)


>>したがって、これも単なる「決めつけ」にすぎません。しかも無自覚な「循環論法」です。
というのも、「なぜ、私たちはそのルールを選んだのか」「なぜ、そういうルールがあった方がいいと思うのか」という「根拠の妥当性」が、ここでは完全に看過されているからでございます。

そして、そうした「根拠」は、時に「自然法」や「自然権」として語られたり、「動物としての生存本能」であったり「社会的功利主義」として語られたりして、それぞれになるほどという部分がございますが、そのなかの「これが正解」ということは、人間自身には決められない。しかし、決められないから存在しないということではないし、それを検討することが無意味だとは言えないのでございます。なぜならば、人間は難問に取り組むのは面倒だからと思考停止に陥りがちですし、思考停止に陥ると、すでに検討済みであったはずの落とし穴にまで落ちてしまうからでございます。

 ですから、「根拠の妥当性」は、結局のところ価値判断にいきついてしまうのですよ。それで、その価値判断をなんとか理屈付けようとする試みが何度も行われており、ロールズの「無知のヴェール」はサンデルの「共同」によって批判されたように、結局は決定版が出ていないというのは事実です。そして検討するのことそのものは結構なことでしょう。ただ問題なのは、こうした検討の中でそもそも近代国家を否定した論者がどれだけいたでしょうか?


>>これは、完全に的外れな喩えでございますね。
サッカーのルールが恣意的なものでしかないのは誰の目にも明らかでございますが、「国家」や「法」というものは、海原さん自身もお認めのとおり、もともと在りもしなかった「権威」を「虚構」してまで、それが「非恣意的な権威=根拠のある権威」であると、人々を欺きます。

 欺いている、というのが、既に「近代法治国家に対する懐疑主義者」の立場からの判断である、ということはご自覚くださいませ。私のようにそれを客観的に無根拠であることを分かったうえで「再帰的に選択」した立場からすれば、それは自ら選び取ったということになるのです。


>>「(近代)国家」や「法」が、人々から認められている「権威」とは、元来それらが「人々のために作られた擬制である」ということなのですが、それが多くの場合、現実には「嘘(フィクション)」つまり「実質の伴わないもの=建前どおりではないもの」でしかないのです。
ですから、「サッカー」の公明正大な「ルール」とは違い、「国家」や「法」という「ルール」の場合は、「インチキ」や「誤摩化し」「ペテン」が始終紛れ込んでくる「プロセス的現実体」なのだと考え、その「金看板としての建前」を鵜呑みにするのではなく、たえず厳密に実態を「チェック」していかなければならない。これは、少し前には海原さん自身も認めておられていた、当たり前のことなのです。


 ここですね。まず、フィクション、建前が「人々のために作られた擬制である」ということはお認めいただけました。そのうえで、実際にはそうなっていない場合もあるじゃないか、というご指摘ですね。これはおっしゃるとおりです。しかし、それは「建前」と「現実」がずれる場合もあるから、「現実」が「建前」に適合しているかどうかの厳しいチェックが必要である、という帰結は確かに生みますが、「現実」が「建前」と違っているからそもそも「建前」自体が役たたずなんだ、という話にはならないのでございます。
 アレクセイ様はサッカーのルールを公明正大だとおっしゃる。しかし、実際にはマラドーナの「神の手ゴール」のようなとんでもない誤審がまかりとおってしまうこともあります。他にも、世界選手権などでは審判が特定の国に有利に判定しているのではないか、という疑問が必ずと言っていいほど出てきます。しかしこうしたことをもってサッカーのルールの公明正大さを否定する人はまずいないし、アレクセイ様もそんな否定はなさっていない。なぜなら、これは個別具体的な「現実」の問題であり、それはその都度批判され是正されればよいと人は考え、そして実際に「建前」に基づく批判や是正がそれなりにはなされている、と感じているからです。このとき、批判や是正の根拠となるが、「建前」や「理念」なのです。アレクセイ様の近代国家や近代法に対する懐疑は、個別具体的な「現実」が「建前」とずれていることをもって、「建前」そのものに疑いの目を向ける、という倒錯した思考によるものです。たとえば、アレクセイ様は

>>それは現に「(是正できない)一票の格差」の問題などのいろんな現実問題があって、とうてい「公平な権利には公平な責任を」とは言いがたい。しかし、一票の価値の低い選挙民は、その分「納税を軽減される」などの手当てがあるでしょうか? ございませんよね。そういう「建前どおりにいかない現実」

 とおっしゃっていますが、これは確かに「建前どおりいかない現実」の一例ではあります。しかし、なぜ「一票の格差」が問題であると社会的に共有され、裁判所でも違憲(状態)判決が下されるのか。それは「建前」が機能しているからに他なりません。実際、国会も十分とは言えないまでもこうした世論や判決を受けて一定の対応をしてきましたし、昨今ではむしろその対応の重要性を強調しています。もちろん、実際にどこまできちんと実行するかはわかりませんが、「建前」に近づけようとする努力そのものは強調され、今もなされているのですから、「現実」が十分ではないからといって「建前」そのものに懐疑の目を向ける必要など少しもないのです。


>>「国家」や「法」という「強制する側」は、「納得できないのであれば、どうぞご自由に」とは言わず、「じゃあ、力づくで従わせよう」というつもりだから、気楽に『お手上げ』なんて言いますが、現実はそれとは逆に「手を下す」のです。
だからこそ私たちが、自身がその下に否応なくおかれることになる「国家」や「法」を厳密に検討し、必要な注文をつけ、必要な修正をさせようとするのは、当然のことなのですね。また、それを認めないような「国家」や「法」には、構成員に主体的服従を求める資格はないのです。

 ですから、私たちはルールに異を唱える権利(表現の自由や参政権)を有しています。そして、その是正のプロセスもルールで決まっており、これにのっとって是正をするのは当然のことであり、私が「新たなヘイトスピーチ規制を立法せよ」と発言し考えを同じくする政治家に投票することも、このプロセスにのっとったものです。
 それでもどうしても国家に従いたくない、というのであれば、私たちには最終手段として日本から離脱する自由、すなわち国籍離脱の自由(憲法22条2項)が保障されています。これは売り言葉に買い言葉ですが、私から言わせれば、国籍離脱の自由を行使する勇気も無いくせに近代法の根本に疑問を差し挟むなんて甘ったれるんじゃないよ、ということです。

 もちろん>>また、それを認めないような「国家」や「法」には、構成員に主体的服従を求める資格はないのです。
 はそのとおりで、その場合には国民には革命権を行使して国家を暴力によって破壊する権利を行使できます。


>>だからこそ「信念や価値観をぶつけあい」ではなく、相互に「信念や価値観の妥当性を検討反省する議論」が必要なのでございますよ。
「権力の側」も「反権力の側」も、自己の「信念や価値観」を盲目的に絶対化すれば、動物的闘争の世界に落ちてしまう。ライオンと馬が対話できないのと同じようなことになってしまう。しかし、人間どうしは「ライオンと馬」ではないのでございます。

 これも一般論としてはそのとおりなのですが、しかし「国家支配と共同体支配のどちらがマシか」という命題は、どこまでいっても価値判断でしかないでしょう。結局は、それこそ多数決(あるいは勢力の強さ)で決めるしかないと思うのですが。お望みなら、私が「国家支配と共同体支配のどちらがマシか」と考える理由を語っても構いませんし、アレクセイ様が「そうとは限らない」と思う理由も語っていただければ、もしかしたらそこで何かの擦り合わせはできるかもしれませんが、しかしそれは私とアレクセイ様との間の相互理解という話であって、国家を論じるという点ではあまり意味が無いかと存じます。


>>この議論でのポイントは、『直観』や『皮膚感覚』というもの「実在」でございます。
つまり「ルールというのは、実質的な根拠を持たない、相互間の約束事だ」と言ったところで、その「ルール」とは、何もないところに虚構された「空中楼閣」などではなく、明確な定義こそ出来ていないものの、『直観』や『皮膚感覚』というものを呼び起こす、何らかの「根拠が存在する」ということなのです。

ですから「『直観』や『皮膚感覚』というものを呼び起こす、何か」という「実在」の本質や意味を看過して「ルールはフィクションである」などと言うのは、それこそ「無根拠なフィクション」なのでございますよ。


 「直観」や「皮膚感覚」は確かに「実在」するのですが、これは「私には神の声が聞こえる」と同じで、それを共有しない人たちには全く伝達できないのでございますよ。だって、「そんな直観はあなたの勘違い、気のせいだ」と言われてしまえば、こっちは反論のしようがない。ですから、同じ「直観」を持つ人同士であればそれは確かにリアリティーを持つわけですが、そうでない人にとっては何ら客観的根拠はない。その意味で、どこまでいっても「フィクション」なのでございますよ。


>>したがって、これも「論理の飛躍による、単なる決めつけ」以外の何ものでもありません。

なにしろ「共同体よりも国家がマシとは限らない」というのは、単なる「知的検討」でしかないし、「場合によっては被害者の実力行使も認める」というのは「正当防衛」や「革命権」といったかたちで海原さま自身も「近代的なルール」の内であるとお認めになっている。
それなのに、同じことを私が言うと「テロリズムの論理」だなどという「為にする批判」に化けてしまって、およそ、論理的一貫性がない。
こんなことになってしまうのは、海原さんが「結果を急ぐあまり、知的検討を半ば放棄して、感情的な飛躍論理を振り回しているだけ」だからなのでございます。


 共同体と国家のどちらがマシかは、人によって違うでしょう。例えばジャイアンのような「お山の大将」は共同体支配をマシと考えるでしょうし、のび太のようないじめられっ子であれば国家の支配をマシと感じる。ここで無知のヴェールを持ち出してもかまいませんが、それとて結局はフィクションですから、これはどこまでいっても価値判断の問題にしかならず、知的検討は(ある程度は可能でしょうが)ほとんど無理である、というのが私の考えです。
 >>「場合によっては被害者の実力行使も認める」というのは「正当防衛」や「革命権」といったかたちで海原さま自身も「近代的なルール」の内であるとお認めになっている。
 とおっしゃいますが、この「場合によっては」の意味が私とアレクセイ様とは異なる。私は、法自身が予め例外として認めている場合に限ります。しかしアレクセイ様は、例えば

>>貴兄は『しばき隊に代表されるカウンターと呼ばれる、これもまた強力な共同体の圧力をもって対抗するしかない。かくして、それこそ18世紀のように共同体同士の争いが起こるのである。そのような社会を私たちは望むのだろうか。』と書いて、こうした「犠牲を伴う私闘」をまず避けるべきものとしておられますが、革命に代表されるように、それも時には必要なのではないかと思うのでございます。

 とおっしゃるように、正当防衛等の「客観的な法の例外」以外にも実力行使を拡大しています。こういうところがアナーキズムやテロリズムだと評価されるのは当然のことです。


>>> 「無意識」と書いたのは、ご自身がその自覚をお持ちでないからです。はっきり言わせていただけば、「近代国家や近代法を支えている価値判断とそれに基づくロジック」と「自分の近代国家や近代法に対する価値観とロジック」との区別がついてらっしゃらない。これはたとえば、国家と犯罪と有責性http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2210 の中で
>
>> 「国家は、国家運営という枠内でしか、犯罪者の処遇を考えない。決して、被害者や被害者家族のために、犯罪者を罰するのではない
>
>  という、およそ近代刑法学の大前提と全く逆のことを、さしたる根拠もなく言い切ってしまうことにも表れています。これは「アレクセイ様の国家観、刑法観」ではありましょうが、「現実の国家観、刑法観」ではありません。事実、たとえば刑事訴訟法には被害者参加制度が平成20年に導入され、訴訟における被害者の重要性は近年増すばかりです。

こんなことで「国家」や「法」が無条件に「国民」を尊重していると思えるなんて、あきれて物が言えません。


 「国家」や「法」が無条件に「国民」を尊重していると思えるなんて、私は一言も言ってませんが(笑) 先に書いたとおり、国家や法は国民のために存在するというのは「建前」であり、それは「現実」に100%結実しているわけではないがそれなりに機能している、ということの一つの例示でしかありません。むしろ、こうやってそれなりには「建前」に沿った「現実」が実現しているのに、
>>「国家は、国家運営という枠内でしか、犯罪者の処遇を考えない。決して、被害者や被害者家族のために、犯罪者を罰するのではない
 と言い切れるアレクセイ様には驚くばかりです。

>>これもすでに説明済みですが、「近代国家」が相手にするのは、「共同体」が相手にしていたのよりもずっと広範な地域と多数の人間であり、その「支配管理」の方法も、「共同体」のそれよりは、『脱人称化』し『ソフィスティケート』し「透明化」されております。
で、そうした「ソフィスティケート」の一例が、まさにこの「被害者参加制度」です。
この部分を譲っても、べつに「支配管理」の大勢に影響はない。むしろ「損して得とれ」で、こういうことで「皆様本位の我が国家」というアピールして、もっと肝心なところで「問答無用」を押し通せるのなら、そのくらいのそろばんはとうぜん弾きます。

 ほー、では、被害者参加制度とバーターになっている「支配体制」の「もっと肝心なところ」は何なのか、具体的にご説明頂けますか?(笑)


>>> しかし、そもそも法やルールというものは、各人の自由な考えに基づく勝手な行動を許さない、というところにその存在価値があります。
それは、私も認めますよ。しかし「法やルール」が、そのメンバーに絶対服従を要求するには、その前提として、その「法やルール」が、そのメンバーによって事前に承認されておらねばならず、それが充分になされていない「法やルール」に従わねばならない義務はない。

 ええ、それはそうです。しかし、この「メンバーによって事前に承認」というのが曲者でして、全員一致の賛成などありえない。まずは民主制プロセスで立法を行い、それに従って立法府の多数派が支配する行政府が個別に執行する、ということで「ひとまず」メンバーによる承認はあった、とする、こういう風に決めてあるわけです。で、これはどうしたって尊重してもらわないと困る。そうしないと、在特会の違法行為さえも私たちは(法を根拠に)批判できなくなるからです。彼らに言わせれば、朝鮮人を優遇するような法律や判例は俺たちは承認していない、ということになるでしょうからね。

>>これも単なる「決めつけ」。
「法」や「法学」もまた、当然のことながら、「批評」の対象になっております。
『法学評論』という雑誌はないかも知れないし、「法や法学を論評する文章」が書かれても、それは(専門家の間での)慣習上「法学評論」という呼び名が採用されてはいないのかもしれませんが、「法あるいは法学」に関する「評論」文は、いくらでも存在します。
例えば「法哲学」書などというのは「法学評論」に他なりません。

 問題は、なぜ上記の例が「法学評論」「法律批評」という名で呼ばれないのか、また「法律評論家」を名乗る人間が出てこないのか、ということです。ここでようやく、ずっと上に書いた「数学の公理」の話になるわけですが、結局のところ法は法学について語るとき、必ずそこには「限界」がある。弁護士や裁判官が判例についてある種の解説や論評をするとき、よほどのことがなければ判例の出発点になっている法律や条文そのものを「疑う」ということはしません。そして法律が「憲法に違反していないか」と検討したとしても、憲法そのものに懐疑の目を向けることは絶対にない。また、改憲論を唱える憲法学者もいますが、彼らもあくまで「現行日本国憲法の改憲手続き」に従っての改憲を主張するのみで、改正手続きそのものに懐疑の目を向けることはしませんし、仮に今の改憲手続きが厳しすぎると判断してもあくまで「現行日本国憲法の改憲手続き」に従っての改憲手続きを主張するでしょう(まあこういう憲法学者を私は知りませんが)
 近代法というものは、まず近代法理念があり、その理念を現実化した憲法があり、そしてその下位に法律や規則、判例が従属する、という形になっています。ここで法学者や専門家が評価できるのは、どんなに頑張っても憲法までで、そしてその根本的な理念、すなわち近代法治国家の理念についてまでは言及しません。
 私が法学者や弁護士等に教わったことは、法学とは「モノサシ」をそろえて議論することだ、ということでした。ここでの「モノサシ」とは前提となる共通了解であり、これは遡り続けて行きつくのは近代法の理念(およびそれを実現した憲法)である、ということでした。つまり、近代法理念については絶対のモノサシであり、そこについて疑いを向けることはしない、ということだと私は理解しています。こうした限界を原理的に有する行為は、「批評」の名には値しないでしょう。

 確かに、「法哲学」というのはときに近代法理念そのものを検討し直すこともあります。しかし、検討の結果として近代法理念そのものを否定するような「法哲学」をアレクセイ様はご存知でしょうか? 少なくとも私は見たことはありません。また、「法社会学」という分野では、法が実際の社会でどのように機能しているか、まさに「現実」がどうかを検討する学問ですが、では「現実」を見たうえで「建前」である近代法理念そのものを否定するような法社会学者をご存じでしょうか?

 すなわち、法学を名乗る以上、どうしたって近代法理念に戻ってくるしかない。一旦は相対化して見せたところで、結局は再帰的に選択する、というケースがほとんどです(私の知る限り、ですが)。なぜなら、本気でここを否定しまえば、もはやそれは(近代)法学では無くなってしまうからです。そういう意味で「タブー」を予め内在している言論はそれこそ「結論先にありき」であり、全てを自由に評価しなおすことを信条とする評論とは言えない。そしてそういう意味で、数学の公理に近い、と私は説明したのです。


>>したがって、これも「論理の飛躍」でしかございません。
現に存在するのは、個々の「国家」であり、個々の「法律」であり、そこには当然のことながら「ピンキリ」がございます。そして「権力というのは腐敗するもの(人間は易きに流されがち)」であり、「国家」や「法」というのは、しばしば恣意的に歪められがちなものなのですから、大概の「国家」や「法」について、それを「鵜呑み」にせず、厳しい検討(批判)を加えるというのは当然の手続きで、それは何も「国家や法を否定する」ことにはならないのでございます。

 そのとおりです。ただ、「公理」の部分は疑っても仕方がないし否定することはできない、ということなのです。「場合によっては被害者の実力行使を認める」といったアレクセイ様の発言は、この「公理」への否定である、ということなのです。繰り返しますが、法が例外として認める①正当防衛や自救行為②革命権の行使 以外の場合で、私人による実力行使は認められません。これを認めた場合、何度でも強調しますが在特会の朝鮮人学校への犯罪・不法行為も認めなくてはならなくなる。
 個別の国家のあり方や、個別の法律に対して厳しい目を向けるというのは当然のことです。問題なのは、その際にアレクセイ様は「公理」と言ってもいい根本的な「建前」の部分にまで疑義を呈してしまっている。これはまさしく、現実の一部を捉えて理念そのものを否定してしまう倒錯的思考であるということは述べたとおりです。


>>いやいや、この言い方もおかしい。
「法」というのは、「権威」が無くては機能しないものなのです。だから、いかにしてそれに「信頼に値するルール」としての「権威」を与えるかが「法学」のテーマであって、「法なら(何でも)権威がある」とするのが「法学」などではありません。

 違います。法というものは「法に権威を感じる人間」に対してのみ機能する。そして法に権威を感じないのであれば、それは最終的には国籍離脱の自由を行使するしかない。逆に言えば、国籍離脱の自由を行使しないということであれば、それは国家と法の権威を承認していると擬制されるのです。もちろん、個別の国家のあり方や法を批判するのは当然の権利ですが、「法が認めた例外以外に実力行使は許されない」という部分には文句を言う資格はない。


>>多くの法学者は「より人々と社会のためになる法とは、どのようなものか」を考え、「そうした法をどのように根拠(基礎)づければ、その法はより広範な権威を得ることが出来るのか」と考えていることでしょう。

 それはそうですが、繰り返しますが近代法治国家という根本原理を否定する法学者を私は知りません。


>>困る必要は、まったくありませんよ。
私は、基本的には「近代国家」体制が「よりマシ、ではないか」と考えております。
しかし、それは「完璧」でもなければ「自動的に公正に機能するもの」でもありませんから、「近代国家」や「法」というものを、より良く機能させたいがために、それを批判的に検討しているだけなのでございます。

 では、「法の定める例外以外の場合にも被害当事者の実力行使を認める」ということでよろしいでしょうか?


>>そうではなく、海原さまの「近代国家や近代法の価値を、無条件で肯定(崇拝)し、個々の国家や法も無条件で受け入れないかぎり、その人はアナーキストである」という「妄信」を『修正』すべきなのでございますよ

 無条件崇拝だろうと仕方なくであろうと、「公理」は動かせないということなんです。そこを否定すると、アナーキズムやテロリズムになってしまう。


>>私には、ご自分を「アナーキスト」であると言ったり「保守」だと言ったりする海原さまの「左翼」観が、まったくの無内容な「非歴史的な思い込み」にしか見えません。
このように曖昧で恣意的な定義で良いのであれば、私を「アナーキスト」でも「テロリスト」でも「インベーダー」でも、それは何とでも呼べて愉快なことだと存じます。

 心情的にはアナーキスト、つまり、「絶対に実現しない理想だとは分かっているけどどこかでその理想を忘れない」、けれど、現実の行動においては「保守」である、ということなのですが、まあ、これはどうでもいいです。私は政治学や哲学の専門家ではないので、「保守」用語法には確かに誤りや思い込みがあるかもしれませんし。
 ただ、アレクセイ様が無自覚なアナーキスト、テロリストであるという点については今のままでは撤回いたしませんのであしからず。


>>そんなわけもないのに、自分の頭の中の思い込みと決めつけだけで、自己完結なさっている。

 いいえ、なんなら一つ実証してみましょうか(笑)

 既に上に述べた「当事者の意思の尊重」。朝鮮人差別の場面では、当事者がまだ堪えている、ということを強調して、周囲が法規制に走るのは拙速だとおっしゃる。しかし、犯罪被害者が国家に厳罰を求めると、被害当事者になるまで何も考えてこなかったくせに、と批判する。これでは、当事者であろうと当事者でなかろうと、どっちにしろ国家権力の発動を要請することはできませんね(笑)

 もう一ついきましょうか(笑)

悪霊 あるいは 不可視の獄http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2313 で、
>>ともあれ、事実として「国家」は「人々」のために作られたものではないし、「国家」の運営において「いかに人々を効率よく支配管理するか」という側面において、現実には、「共同体」のそれよりも「ソフィスティケートされた権力行使」がなされるようになっただけ、それに我々が馴らされて、「共同体の野蛮な権力形態」を「現実にその権力下にあった人たち」以上に「悪く見ているだけ」だとも申せましょう。

 これはいわゆる「過剰適応」という理屈ですね。自発的にそのように考えているのではなく、現実の状況に影響され、馴らされて半ば無理矢理にそのように思いこまされ、そしてついには自分自身もそれが思い込まされていることを忘れてしまう。この理屈も慎重に使わないと、内心の動機の忖度と同様、単に相手を黙らせコントロールするための方便になりやすいのですが、ま、確かにそういうこともあるとは思います。

しかし、一方でアレクセイ様は
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2307

>>しかし、あえて申しますなら「ヘイトスピーチ」問題は、差別され侮辱されている被害当事者たちが「まだ、それに堪えて、問題と向き合っている」段階であって、

 とおっしゃる。おかしいな、「過剰適応」というのはこういう場面でこそ使用されるべき理屈なんじゃないでしょうか(笑)
 確かに朝鮮人から「ヘイトスピーチに法規制を」という積極的な声は聞こえてはきていません。しかし、それは彼らの立場が弱いから仕方なくずっとそのように大人しくしており、そして本人たちもそれしかない、それがいいと「思い込んでしまっている」、と見ることができます。まあこれも一つの見方に過ぎないのですが、しかし少なくとも、私のような全く差別や抑圧の対象になっておらずしかも嫌われることも恐れずにものを言う人間に対して「過剰適応」の理論をあてはめ、一方で本当の弱者で被差別者に対してはその理論を使うことなくしれっと「まだ、それに堪えて、問題と向き合っている」言い切ってしまうのは、どう見ても均衡を欠いている。


 このように、アレクセイ様は「(被害)当事者の意思」の位置づけも「過剰適応」理論の適用についても論理的一貫性を欠いている。そしてこの4パターン全てが、「国家権力を発動させるべきではない」という結論を導くのに使われていますね。これは、アレクセイ様がずっと戦ってきた「結論先にありきの党派的思考」そのものじゃないでしょうか?

 というわけで、「国のやることなんでも嫌い」というのは、まあ「なんでも」というのは誇張した表現であるのは認めますが、基本的に正しい評価なんです。


>>いや、今回の3点の根拠も含めて、これといった根拠は未だに示されないままだと存じます

 補足説明をしましたが、いかがでしょうか。ただ先に言っておきますが、あれが規制の根拠となるか否か、最終的な判断は多数決によってなされます。それが民主主義的プロセスということですので。
 前後しますが、民主主義的プロセスということで言えば

>>私のように考えない海原さまのような方なら、「ユダヤ人の人権を認めるな」とか「朝鮮人の人権を認めるな」などという「法」が「賛成多数」で決められれば、「悪法でも法律は法律なので、自分もユダヤ人(朝鮮人)の人権は認めない」などとおっしゃるのでしょうね。

 これらの法律は多数決で議決されようとも、近代法治国家の基本原則である「立憲主義」に明らかに反しますので、近代法治国家の理念及びそれを実現した憲法を根拠に、裁判所によって無効だと判断されます。アレクセイ様は、「立憲主義」という近代法治国家の基本原則、「公理」が存在することをおそらくご理解されていないかと思いますが、繰り返しますが「公理」を否定するのであればそれはすなわち近代法治主義そのものの否定になってしまい、それは「公理を知らなかった」で済まされるわけではございません。


 さて、これでご理解いただけたでしょうか。長々と書いてきましたが、要は「公理」というものの存在を理解してください、ということです。引き続き辛辣な意見も言いましたが、面白く読んでいただければ幸いです。

 では本日はこれで。長文、大変失礼いたしました。

https://twitter.com/kaibarakenei

 
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