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海原健叡氏の論法とその本質

 投稿者:園主メール  投稿日:2015年 2月 1日(日)22時17分8秒
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  海原健叡氏の論法とその本質 一一 ヘイトスピーチの法規制をめぐる



 第1章 論点と背景

昨年末から約一ヶ月間にわたり、海原健叡氏と「ヘイトスピーチに対する法規制の必要性」をテーマとして議論してきました。
海原氏が「在特会などによるヘイトスピーチに対する、早急な法規制の必要性」を訴えたのに対し、私が「法規制の決断は時期尚早ではないかとの慎重論」を唱える、という立場の違いです。

海原氏が(03)「ネットと権力と近代の再構~在特会を巡って~」でも報告されているとおりで、在特会などによるヘイトスピーチが酷いものであるという大筋の現状認識については、私にも異論はありません。
しかし、「ヘイトスピーチ」が「個人を特定しないかたちでの侮蔑(否定的評価)表現」として、現状では「表現の自由」の範囲内のもの(合法行為)として「やむを得ず容認」されているにも関わらず、それをあえて性急に「法規制」するというのは、結局のところ「ヘイトスピーチ」には限定されない「個人を特定しないかたちでの侮蔑表現」を含む「表現の自由」の法規制への道を開く危険性があるのではないでしょうか。
つまり「ヘイトスピーチの法規制に伴う、派生的弊害」問題を詰めて検討していない現段階で、「法規制」を敢行するのは拙速であり危険であるというのが、私の意見なのです。

海原氏との一連の議論のなかでも説明したとおり、「文学」などの芸術表現を含む「表現行為」の多くでは、「批評」「批判」「揶揄」「嘲笑」といった要素が不可欠であり、そうした「批評的表現」の対象に例外を認めるべきではない。だからこそ私たちはこれまで「(「個人攻撃」ではない)公共的な批評の対象には、例外を認めるべきではない」という原理の下に、例えば信仰の対象である「神」や「教祖」や「国家」あるいは「政治家などの、公人としての個人」までも、名指し批評の対象として「批評」「批判」「揶揄」「嘲笑」してきたのです(関連するものとして「『風流夢譚』事件」「シャルリー・エブド襲撃テロ事件」など)。


ヘイトスピーチ(英: hate speech)とは、人種、宗教、性的指向、性別などの要素に対する差別・偏見に基づく憎悪(ヘイト)を表す表現行為のことで、日本語では「憎悪表現」「憎悪宣伝」「差別的表現」「差別表現」などと訳され、訳語は統一されていない。日本では「差別的表現」「差別表現」「差別的言論」と置き換え可能な言葉として用いられることも多い。またアメリカ合衆国では1920年代に人種憎悪(レイスヘイト)、1940年代に集団への名誉毀損と呼ばれ、1980年代以降にヘイトスピーチと呼ばれるようになった。』(「Wikipedia」より)


近年、わが国で問題になっているのが、「ネット右翼(ネトウヨ)」に出自を持つ、右派市民運動団体「在特会」などによる、主に「在日朝鮮人」などに対する「ヘイトスピーチ」です。
日本人による中国人・朝鮮人に対する人種差別は、決して新しいものではありませんが、先の太平洋戦争におけるそれらの地域への日本による侵略占領とその後の日本の敗戦(占領地区の解放)といった歴史的経緯が、おおくの日本人に、中国人や朝鮮人にたいする独特の屈折した感情をもたらしたという事実は否定しがたいところでしょう。つまり、よく指摘されるように、長らく日本人のおおくは、中国や南北朝鮮に対して「文化的(精神的)優越性」と「経済的優越」を誇ってきたのですが、それが「敗戦」によって揺らいだのです。
しかし、それでも日本人の多くには「中国や朝鮮に負けたのではない。アメリカやソ連(現ロシア)の圧倒的な物量に負けたのだ」という意識が強く、敗戦国民として公然とは語れなくなったものの、内心では変わらず「日本人は、中国人や朝鮮人よりも優れている」という意識を残存させてきました。
しかし、その自信を裏づけるものと思われていた長らく続いた戦後日本の経済的繁栄が、バブル経済の崩壊などを経て大きく揺らぐ一方、中国や南朝鮮(韓国)が目覚ましい経済発展を遂げ、文化的にも遜色のない豊かさを示しだすと、日本人はハッキリとしたかたちで、中国や韓国に対する優位性を示すものを見つけるのが困難となってきました。
そういう時期に、ネットの一般への普及と相まって登場してきたのが「嫌韓嫌中のネトウヨ」だったのです。

ネットの匿名空間では、それまでの「ネット外=オフ」では公然と語られることのなかった「本音」が爆発的にあふれたのですが、そのなかでも日本的な特徴として衆目を集めたのが「嫌韓嫌中のネトウヨ」であったと言えるでしょう。
中国・朝鮮人に対する「差別意識」丸出しの彼らの憎悪表現(ヘイトスピーチ)は、良識的な人々に眉をひそめ目を被わしめるほど酷いものでしたが、しかし、それが「ネット内」に止まっている間は、まだ「法規制」の問題ではなく、基本的には「歴史観」や「倫理観」の問題として扱われてきたと言ってよいでしょう。しかし、そうした「ネトウヨ」が、ついにネットの世界から飛び出して、その「身体と固有名(本名とは限らないが)」をさらして「市民運動」を始めた。それが「在特会」を代表とする「右派市民団体」なのです。

彼らは「市民団体」を自称し、その言動を「政治的市民運動」の一種だと主張しましたが、もちろん彼らの「政治的主張」の背後には、「ネトウヨ」に出自を持つものとして当然の「嫌韓嫌中」という、歴史的な「差別意識」が明らかに存在しています。しかし、彼らは運動の表面上では「在日朝鮮人を中心とした在日外国人」が有するとする「在日特権」なるものを批判することで、形式上は合法的な「政治的市民運動」のかたちを採ったみせたのでした。

しかしまた、彼らがそうした主張をかかげて街頭で行った「デモ」は、しばしば単なる「差別的憎悪表現=ヘイトスピーチ」デモとなって「良識に反するもの」として多くの人の眉をひそめさせたばかりではなく、それをきっかけとして暴行・傷害という刑法犯罪事件に発展することも多々ありました(在特会側が、法的「加害者」になる場合もあれば、法的「被害者」になる場合もある)。
こうした「在特会」による、もはや「市民運動」「政治運動」といった「言論表現の自由」「思想信条の自由」にはおさまらない犯罪的言動の、倫理的劣悪さを世に広く知らしめたのが、2009年(平成21年)12月4日に発生した「京都朝鮮学校公園占用抗議事件」です。
この事件は、在特会メンバーが「京都朝鮮第一初級学校が、直近にある公園を不法に占拠利用している」と訴えて、同校の校門前で「街宣活動」を行ったものです。
街宣と言えば、それまでは「右翼街宣車による街宣」が「騒々しくて傍迷惑なもの」として知られてきましたが、在特会の「街宣」は「騒々しい(スピーカーボリュームが大きい)」というだけではなく、その内容の劣悪さが世間の耳目を集めることとなりました。そうしたものの代表例が「朝鮮人は糞でも喰っていろ」といったものです。
在特会メンバーをこうした言葉を、子供たちが在校中の校門前で、スピーカーの大音量でわめき散らしたのです。

この「京都朝鮮学校公園占用抗議事件」については、海原氏が(03)「ネットと権力と近代の再構~在特会を巡って~」のなかで触れているとおり、民事裁判において有罪判決を受けて、高額の賠償命令を受けていますが、しかし在特会はこの判決を不服として、反省の色をまったく示していません。
その後もヘイトスピーチデモは定期的に行われており、司法の無策を補完するものとして、ヘイトスピーチデモに対抗する実力運動として組織された「しばき隊」というグループとの間での刑法犯的トラブルが多発するにいたり、にわかに「ヘイトスピーチの法規制」論議が持ち上がってきたのです。

これが、海原健叡氏と私との議論の、大筋の背景です。



 第2章 これまでの議論の流れ

海原健叡氏とのやり取りの、現時点までの流れは、次のとおりです。

(01)海原健叡  「在特会のことなど」
(02)アレクセイ 「映画『フューリー』における信仰告白」 ※ 海原氏へのレス部分
(03)海原健叡  「ネットと権力と近代の再構~在特会を巡って~」「おめでとうございます」より)
(04)アレクセイ 「迷えるイエスと迷える悪魔の対話」 ※ 海原氏へのレス部分
(05)アレクセイ 「トゥー・テ・ビアン」
(06)海原健叡  『誰もが小さなロベスピエールになる~民主主義国家の原罪~』「同題」書き込みより
(07)海原健叡  「再応答」
(08)アレクセイ 「悪霊 あるいは 不可視の獄」
(09)海原健叡  「どこどこまでも……」
(10)アレクセイ 「「議論」とは何か」
(11)海原健叡  「続けるか、打ち切るか」
(12)アレクセイ 「学問の権威と権威主義の違い」
(13)海原健叡  「法とは権威主義でフィクションである」
(12)アレクセイ 「「問答無用の法学」論」
(13)海原健叡  「「公理」は否定できない 」
(14)海原健叡  「訂正」
(15)アレクセイ 「海原健叡氏の論法とその本質」 ※ 本論

すこしまぎらわしいかも知れませんが、私の当掲示板への書き込みである(02)(04)の「タイトル」は、海原氏とのやり取りとは無関係です。このタイトルで語った別件の文章の末尾に、それとは独立した別の話題として、海原氏へのレスを書いています。
その点を踏まえていただいた上で、上のやり取りのタイトルをご覧いただくと、ひとつの奇妙な特徴が見出せると思います。
それは、当初の話題でありテーマは「ヘイトスピーチの法規制の是非」であったのに、やがて「法(法学)とは何か」というような議論にズレていっている点で、それがこれらのタイトルにもハッキリと反映されています。

私が今回、海原氏への応答というかたちではなく、このような「まとめ」的な文章を書いたのも、海原氏との直接的なやりとりでは、このような「論点のズレ」は進行するばかりで、肝心の「ヘイトスピーチの法規制」問題からは、どんどん遠ざかるだけだと判断したからです。


これまでの議論で私は、「「表現の自由」制限という派生的問題への懸念に対する、明確な応答や配慮がなされないまま、なぜ今、性急に法規制を進めようとするのか?」という私の「問いかけ」に対して、「法規制」推進派である海原氏には、私がこれまで気づかなかった「早急な法規制の必要性の根拠」「弊害的問題解消の具体案」を聞かせてほしいと思いました。
それが納得できるものならば、つまり「弊害がないかたちでの、ヘイトスピーチの法規制」が可能だという説得的な論拠が示されたならば、「ヘイトスピーチ」そのものには反対をしている私ですから、当然すぐさま「法規制」を支持できると考えたのです。

しかしまた、私には『「弊害のないかたちでの、ヘイトスピーチの規制」が可能だという、説得的な論拠』などというものは、そう簡単には示しえず、それは海原氏にも無理だろう、という見込みがありました。
と言うのも、私も「ヘイトスピーチの法規制」問題については以前から興味を持っており、「ヘイトスピーチの法規制」実現に尽力している国会議員で、ジャーナリストの有田芳生の著書『ヘイトスピーチとたたかう! ――日本版排外主義批判』(2013年9月刊)などの著作を刊行時に読んでおり、それでも「法規制による弊害問題」に関する説得的な説明がなされているとは思わなかったからです。

ですから、私の海原氏への説明要求は、まず「ヘイトスピーチの法規制に伴う弊害への、具体的な対応策の提示」でした。そして、その「具体的対策案」を海原氏が示せないのであれば、私の現時点での立場は「現時点での性急な法規制には反対」ということになります。
ただ「心情的」には「今すぐにでも法規制を」という主張も理解できないわけでもありませんから、せめて海原氏が「性急な法規制」を訴える「個人的事情」を教えて欲しいと思いましたし、そうした「個人的事情や心情」を明確化することで、その「性急さ」の危険性を、海原氏自身にも自覚してもらえるのではないかという期待が、私にはあったからです。

しかし、海原氏の一連のやりとりでは、ついに海原氏から「ヘイトスピーチの法規制に伴う弊害への、具体的な対応策の提示」を示されることはありませんでしたし、氏の「個人的な事情」としては、氏の『大切な人』が「ヘイトスピーチの対象になる立場」にあるという事実が簡単に語られただけで、氏としては「ヘイトスピーチの現時点による法規制」という主張は、基本的にはそういう「個人的事情を根拠とする、感情的なものではない」という立場のようでした。

つまり、海原氏によれば、氏の主張は、氏が「ヘイトスピーチの現時点による法規制」を主張するにあたって、「ヘイトスピーチの法規制に伴う弊害への、具体的な対応策の提示」は出来ないが、しかしまた、その主張は「個人的感情」によるものでもなく「合理的な根拠に基づくものだ」という、矛盾した話になります。

「ヘイトスピーチが、好ましくないもの、止めさせるべきもの」であるという「根拠」(だけ)ならば、海原氏でなくても(法規制慎重派の私にだって)容易に示せるでしょう。しかし、私たちの議論における「論点」は、そこにはなく、あくまでも「ヘイトスピーチの法規制に伴う弊害への、具体的かつ有効な対応策案の、有無」であって「ヘイトスピーチが、好ましくないもの、止めさせるべきもの、であるか否か」ではないのです。
それにもかかわらず、結局はここまで一ヶ月にわたる海原氏の「応答」の中には、ついに「ヘイトスピーチの法規制に伴う派生的弊害への、具体的かつ有効な対応策」の提示は存在せず、あったのは「規制してから、問題が出てくれば、『次の段階』として事後的に対処すれば良い」とするだけの、まったく具体性のない原則論だけでした。

したがって、海原氏には「ヘイトスピーチの法規制に伴う派生的弊害への、具体的かつ有効な対応策」は「無い」と断じても良いでしょうし、それでは「現時点での法規制は支持できない」とする私との間では、これ以上の議論は不可能でしょう。
しかし、前述のとおり、「現時点でのヘイトスピーチの法規制の是非」では対話が不可能だとしても、海原氏には「弊害的問題への対応策がないまま、なぜ強攻策を推進しようとするのか」という、その「心情的な問題」を考えて欲しいという思いが私にはあって、その部分でくり返し「強攻策を主張する、自身の内面への反省」を促したのですが、これも最後まで功を奏さず、あろうことか海原氏が論じはじめたのは、「ヘイトスピーチの法規制に伴う派生的弊害への、具体的かつ有効な対応策」ではなく、私が「近代国家における法学の理論的前提(公理?)を認めない、アナキスト」であるという、およそ本来の議論からズレた「個人攻撃」でした。こうして海原氏は、ついに次のように書くにいたります。


『 ですから、私たちはルールに異を唱える権利(表現の自由や参政権)を有しています。そして、その是正のプロセスもルールで決まっており、これにのっとって是正をするのは当然のことであり、私が「新たなヘイトスピーチ規制を立法せよ」と発言し考えを同じくする政治家に投票することも、このプロセスにのっとったものです。
 それでもどうしても国家に従いたくない、というのであれば、私たちには最終手段として日本から離脱する自由、すなわち国籍離脱の自由(憲法22条2項)が保障されています。これは売り言葉に買い言葉ですが、私から言わせれば、国籍離脱の自由を行使する勇気も無いくせに近代法の根本に疑問を差し挟むなんて甘ったれるんじゃないよ、ということです。

        ((13)「「公理」は否定できない 」より)


「文句があるんなら、朝鮮人は日本から出ていけ!」と主張する「ネトウヨ」の言い分と、この言葉のなんと酷似してしまっていることでしょうか。

もちろん、海原氏ご本人は、どこかで誰かから学んだ「法学」の論理にそって、論理的にこうした結論に達したつもりなのでしょう。しかし、ここにあるのは、「学」と名のつくものが保証してくれるような論理的な批判ではなく、単なる「感情(反発)」でしかないというのは、もはや誰の目にも明らかでしょう。

「ヘイトスピーチの法規制に伴う派生的弊害への、具体的かつ有効な対応策」が示せない海原氏としては、自身の「主張の正当性」を示せない。にもかかわらず自説に固執しようとすれば、出来ることは「目の前にいる論敵を否定すること」しかありません。
だから、海原氏はおのずと私の「法規制慎重論」を否定する「根拠提示」ではなく、私という「個人」を「アナキスト」だとする屁理屈を、無自覚に捏ねてみたにすぎない。

海原氏が私を「アナキスト」だとする論理が「木に竹を接いで、これは竹だとする主張する類いのもの」だというのは、「法規制に対する慎重論」という私の立場にも明らかでしょう。
つまり、私のこうした「性急な理想論的改革に対する慎重論」というのは、エドマンド・バークに代表される「保守派」の伝統的な態度であって、決して「アナキスト(無政府主義者=政府不要論者)」のそれ(破壊主義)ではないからです。

私は海原氏の「性急な法規制論」に対して「慎重論」で反対しています。ということは、少なくとも私は「表現の自由に関わる現行法の、現時点での堅持を、主張している」ということであり「法治国家による法体系」自体を否定しているということでは全然ないのですから、そんな、ある意味では極めて「保守的」な慎重論者である私を「アナキスト」などと呼ぶのは、ためにする「否定的レッテル貼り」以外の何ものでもありません。

次章からは、そうした海原氏の主張の「非論理性」つまり「木に竹を接いで、これは竹だとする主張する類いのもの」であるという事実を、すこし詳しく説明したいと思います。



 第3章 現実問題と「法学」の論理


「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
                            (「マタイによる福音書」5-17~20)


そもそも「法学」云々という「筋違いの話」を持ち出したのは、海原氏です。私は「法学」など学んだこともないし、ひとまず「ヘイトスピーチの法規制に伴う派生的弊害への、具体的かつ有効な対応策」とは無関係な、そんな「余談」をする必要もありません。では、どういう流れで、海原氏は「法学」の話を持ち出してきたのか?

海原氏は「ヘイトスピーチに対する法規制の必要性」を訴える論拠として、その論文(03)「ネットと権力と近代の再構~在特会を巡って~」の中で、

『  現実には、自分の見たい情報だけを見て、自分の繋がりたい人とだけ繋がっているネットユーザーは数限りなく存在する。趣味娯楽の領域だけではなく、政治や社会についても同様である。いやむしろ、政治や社会といった領域の方がより排他的になり仲間内だけで過激になっていく傾向が強いかもしれない。もちろん、幅広い知識や視野を持ったユーザー同士が非常に有益な交流をしている例も多々ある。しかしそれはどちらかと言えば学者やジャーナリストや言論人、勉強熱心な社会人や学生などいわゆる世間的には知識人やインテリといった分類をされる人々の間で行われることがほとんどである。むしろ目立つのは「そうではない人々」の間で行われる、思い込みの相互強化である。
 ユルゲン・ハーバーマスはインターネットに新しい公共圏の可能性を夢見たが、21世紀初頭の現在、日本のネット状況は全体として見ればハーバーマスの理想とはいまだ相当に離れていると言わざるをえない。それどころか、事態はもっと悪い状態だとさえ言えないだろうか。一部の知識人層が有益な交流をするすぐ隣で、あるユーザー達は特定民族の排除を叫び、それは正しいことだという認識を相互に再強化していく。またその隣で、あるユーザーたちは憲法を守り自民党に反対することが正義であると盲目的に叫び、やはりその認識を相互に再強化していく。こうして「反省の機会を奪われた」無数のユーザー達は、自分の所属するネット上の小さなコミュニティーを世界の全てであると思い込み始める。そしてその認識の下、他のコミュニティーに所属するユーザーとふと接触した瞬間にときに戸惑い時にスルーし、そして時に攻撃に走る。
 「コミュニティー」という言葉を私が使っていることから既に予測している人もいるかと思うが、「反省の機会を奪われた」ネット環境の中で生まれたものは無数の「疑似共同体」である、というのが私の考えである。それも近代国家の出現以前の、強力な同調圧力をもって個人を抑圧する共同体に近い存在である。いわゆるネトウヨやそれらがネットを飛び出した存在だと言える在特会を見れば、決して大げさな分析ではないとお分かりいただけるはずだ。ロレンス・レッシグは、18世紀は共同体、19世紀は近代国家、20世紀は自由市場、そして21世紀はアーキテクチャが個人を支配し自由を制限する、と分析した。インターネットというアーキテクチャは、皮肉にも18世紀的な共同体を(疑似的にであれ)21世紀に復活させてしまったのである。


と書いています。
つまり、ヘイトスピーチを行っている在特会やネトウヨたちは「自閉的な反近代的(ネット)コミュニティーの住人」であり、ロレンス・レッシグが示した「歴史的社会発展の見取り図」に反する、許されざる「逆行」であるとします。

さて、ここで注意すべきことは、ロレンス・レッシグは法学者であり、彼の示した見取り図は「法学」的な「前提」ではあるものの、しかし海原氏の示した「反歴史的なネットコミュニティー」の問題は、その「法学」的前提に収まりきらない、「現実」そのものだ、ということです。
つまり、「法学」論的には「共同体=コミュニティー」は「近代国家」システムによって超克されたはずだったのですが、現実には「共同体=コミュニティー」的なものは今も生き続けており、それが私たちにもわかりやすく表面化した事例が「ネットコミュニティー」という「現実」だったのだと言えるでしょう。

つまり、ここで海原氏が論じているのは「法学における前提(公理?)」ではなく、「現実の事象」そのものなのです。
しかし、このあと続けて、海原氏は次のように結論します。


『 ここでようやく冒頭の話に戻ることができる。国家権力が危険であるというのは近代主義の大前提であり、そのため国家による規制には注意を払わなくてはならない、というのも常識である。しかし、強力な近代国家の出現には、共同体による恣意的な支配から人々を解放したという側面が確実に存在する。そのうえで、強力な国家権力をいかにしてコントロールするかという問題が「次の段階」として生じたのである。今私たちが考えるべきことは「次の段階」のことではない。21世紀に亡霊のように蘇った共同体が個人を弾圧する状況の中にあってまずすべきことは、正しくこの亡霊を葬り去ることである。すなわち歴史の繰り返しであり、国家権力の再構築に他ならない。
 もちろん「次の段階」の話も忘れていいわけではない。国家権力というのは極めて兄弟で危険なものなのである。それが暴走をしないように注意して注意しすぎるということはない。しかしそれは、国家権力の発動を極限まで抑え込むということを意味しない。必要な規制は必要なのである。それを恐れ、あくまで国家権力の危険性を原理的に訴えヘイトスピーチ規制に反対するのであれば、それはネトウヨや在特会といった共同体によるマイノリティーに対する抑圧を是認することに他ならない。彼らを言論の力によって思いとどまらせることが不可能なのはもはや明らかである。国家による規制をしないのであれば、もはや彼らを止める方法は一つしかない。しばき隊に代表されるカウンターと呼ばれる、これもまた強力な共同体の圧力をもって対抗するしかない。かくして、それこそ18世紀のように共同体同士の争いが起こるのである。そのような社会を私たちは望むのだろうか。
 私にはどう考えてもそのようには思えないのである。だからこそ声を大にして言いたい。恐れながらでもいい、国家権力を再構築しよう。そして恐れるのであれば、私たち自身が国家権力をコントロールできる近代的個人に今度こそなろう。しばしば「近代をやりそこねた」と揶揄される日本で、新しく近代を始めよう、と。



これまでも何度も書いたとおり、海原氏の立論の問題点は「まず反歴史的なコミュニティー性に発するヘイトスピーチを、法規制し実力的に『葬り去る』ことにより、近代国家性を確立すること。それに伴う派生的弊害については『次の段階』の問題として、法規制の後で対応すれば良い」という論理展開にあります。

この議論の「おかしさ」は、「現実」問題と「法学的前提」が入り交じって区別されていない点だと言えるでしょう。
なぜ「法規制に伴う派生的弊害」への配慮のないまま「見切り発車」的な「法規制」をすべきだと海原氏は主張するのか? それは「共同体(コミュニティー)から近代国家へ、という法学的図式」の「回復」を、まず最優先すべきだ、としているからです。その「図式」主義の前には、とうぜん予想される「現実的諸問題」への配慮も「後回し(次の段階)」にされてしまう。
しかし、言うまでもなく「法学は現実社会のためにある」ものであって、その逆ではありません。


「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」
                            (「マルコによる福音書」2-23~28)


海原氏自身「法学的前提に反する、閉鎖的ネットコミュニティーの出現、という現実」を問題としていたはずなのに、いつのまにか「法学の建前」の方が重要になってしまっており、ここにこそ海原氏の根本的な「観念的倒錯」がある。

言うまでもなく、私は終始一貫して「現実」を問題としており、私が「近代国家が必ずしも、それ以前の共同体社会よりも優れているとはかぎらない。近代国家よりも優れた共同体もあっただろうし、劣った共同体もあっただろう。だから、新たな閉鎖的コミュニティーの出現が、近代国家の建前に反する反時代的なものだから、まずそいつを叩き潰すべきであり、派生的弊害への対処はその後で良いという海原氏の意見は、現実問題への対処の順序問題としては無根拠だ」としたのも当然なのです。私は、そこでも「現実」を問題にしており、「法学の建前」になどはまったく興味がありません。

しかし、この「現実」ついての私の議論が、海原氏によって「法学の前提(公理)を認めない、反近代国家論者のそれであり、法治国家を否定するアナキスト(無政府主義者)の理屈でしかない」ということにされてしまいます。
つまり海原氏の場合、私の「現実と法学的前提とは、別物だ」という主張は、そのまま「法学否定・近代的法治国家否定論だ」という「飛躍論理によるレッテル貼り」に結果しているのです。

海原氏が私を「アナキスト」だと決めつける理由としては、他に私が「国家というのは、基本的には国民のことよりも国家自体の維持を優先し、権力者は自身の欲得を優先させるものなのだから、私は基本的に国家や権力者を信用していない」という趣旨の発言をした点にもあります。こういう発言をする者は「アナキスト=無政府主義者」だというのが、自称「アナキスト」である海原氏のご意見です。

「国家や権力者を信用していない者は、アナキストである」というのが、氏の「飛躍論理」であることは、論を待ちません。
「アナキスト=無政府主義者」という言葉にも明らかなように、アナキストは「国家権力システムの存在存続自体を否定する思想の持ち主」であって「国家権力システムを信用はしていないけれども、ひとまず『よりマシ』の必要悪として、その存在存続を容認している者」のことではありません。
この点で、海原氏には「アナキストと保守派」との区別もつかないのです。

つまり、「現時点でのヘイトスピーチの法規制の是非」という「現実問題」が、「アレクセイは、法学の公理を否定しており、法治国家の現実問題を論じる資格のない、アナキストだ」という「資格論」にズレてしまった理由とは、海原氏が「現実問題」と「法学的前提問題」の区別をつけられなかったからだというのが、まず一点。つぎに「法規制に伴う派生的弊害への具体策」を海原氏が示すことが出来ず、このままでは氏の「今ここで、ただちに法規制すべき」論が無根拠であることが明らかになってしまうからという点もあったでしょう。


あくまで国家権力の危険性を原理的に訴えヘイトスピーチ規制に反対するのであれば、それはネトウヨや在特会といった共同体によるマイノリティーに対する抑圧を是認することに他ならない。』(03


このように「脅迫的」なまでの海原氏の「今ここでただちに法規制が必要」論には、「なぜ、弊害対策を考えてからの法規制ではいけないのか?」という当たり前の疑問に対する、説得力のある根拠が存在しません。
海原氏にあるのは「法学の公理では、共同体から近代国家へということになっているので、ひとまず共同体は叩き潰すべし」という「観念的」な理屈だけであり、それでは他人は説得できないからこそ、「説得」ではなく「論敵の存在否定(日本という民主主義コミュニティーからの「排除」)」としての「資格論」を始めたのだと言えるでしょう。

結論すれば、海原氏の「ヘイトスピーチ法規制論」の本質は「ヘイトスピーチが、不当(不正義)に人を傷つけるものだから」ではなく、「近代国家の法学的前提に反する共同体主義者たちによるものだから」という、極めて「非人間的」なものになってしまっていますし、これは海原氏自身が「感情論」を自説の根拠として認めたがらないのと、軌を一にしているとも言えるでしょう。

しかし、「自説に固執して議論を拒絶する」という態度は、海原氏自身が、

『 現実には、自分の見たい情報だけを見て、自分の繋がりたい人とだけ繋がっているネットユーザーは数限りなく存在する。趣味娯楽の領域だけではなく、政治や社会についても同様である。いやむしろ、政治や社会といった領域の方がより排他的になり仲間内だけで過激になっていく傾向が強いかもしれない。もちろん、幅広い知識や視野を持ったユーザー同士が非常に有益な交流をしている例も多々ある。しかしそれはどちらかと言えば学者やジャーナリストや言論人、勉強熱心な社会人や学生などいわゆる世間的には知識人やインテリといった分類をされる人々の間で行われることがほとんどである。むしろ目立つのは「そうではない人々」の間で行われる、思い込みの相互強化である。


と批判したこと、そのままです。

たしかに海原氏は、意見を異にする私と、このように「議論」をしたとは言えるでしょうが、このような議論を「議論」と呼べるのなら、それは私と「ネトウヨ」とのやりとりもまた「議論」と呼べるでしょう。
「ネトウヨ」たちが、自分たちの意見に反対する者に対して最後には投げつけてよこす「工作員」や「ブサヨ」とかいった蔑称は、相手に対する問答無用の「存在否定」「資格否定」です。「そんなやつらに国家(自国日本)を論じる資格はない」ということであり、今回の議論における海原氏の「法学的前提を否定するアナキストに、法治国家としての自国を論ずる資格はない」というロジックもこれを瓜二つで、基本的には「ネトウヨ」と同様の『現実には、自分の見たい情報だけを見て、自分の繋がりたい人とだけ繋がっているネットユーザー』のそれ(理屈)でしかないのだと言えるでしょう。



 第4章 「空虚な内面」というニヒリズム

それにしても、なぜ海原氏は、このような「自己矛盾=自分が否定する存在そのままになる」に陥ってしまったのでしょうか。

海原氏が「法学」という学問に、過剰に依存(過剰適応)したがために、「現実」をそのまま見られなくなってしまったのだ、という考え方も出来るでしょう。しかし、これは「原因と結果の転倒的な錯視」でしかないと思います。
つまり、海原氏にはもともと、語られない「内面問題」があって、それがために「法学」という「形式主義フィクションの権威」を、個人的に極めて好都合で有難いものとして、採用依存することになったしまった、という順序だと思うのです。

そんな海原氏にとって「個人的な、内面的な根拠を教えて下さい。それが貴方の強硬論の本当の根拠ではないのですか?」と問う私の態度は、海原氏にとっては、最も忌避すべきものだったというのは見やすい話です。
そういう話をしたくないからこそ、これまで「法学の形式性」に頼ってきたのに、「そんなもの(法学)は、今回の問題では関係がない。具体的根拠が示せないのなら、せめて個人的な根拠を示して下さい。それによっては、貴方のお気持ち自体は否定はしません」という私の執拗な問いほど、鬱陶しいものはなかったでしょう。

しかし、海原氏には「自分から議論を打ち切りたくはないという意地」がありましたから、議論を形式的には続行する必要がありました。
しかしまた、本来のテーマについては何も語りうることが無くなっていたからこそ、海原氏は本来の「早急な法規制の必要性とその根拠」という議論から、どんどんズレていかざるを得なかったのです(海原氏の語る『国家観・権力観・民主主義観を巡ってのかなり厄介な差異』や『「なぜオールドタイプの左翼は衰退したのか」「なぜ『法学評論家』がいないのか」という2つの大きなテーマ』等)。


(05)「トゥー・テ・ビアン」でも詳述しましたとおり、私は「ヘイトスピーチに対する性急な法規制」という主張には「充分な現実的根拠」というものが不足しており、主に「倫理的・感情的論理」がそれを支えているのではないかと見ていました。つまり「気持ちとしてはわかる話だが、現実の政治的提案としては、いかにも危うい」ものだと考えていたのです。
ですから、私のこういう「現実論」を否定するのであれば、「具体的な根拠や弊害への対策」を示すしかないし、それが出来ないのであれば、せめて「倫理的・感情的論理のみに走らざるを得ない、個人的事情」を聞かせて欲しいと思ったのですが、それを訊ねる相手としては、海原氏は不適当だったようです。

私の「弊害の発生を認めてまで、いま性急に法規制を進めねばならぬという具体的な根拠が示されない」のであれば、せめて「個人的事情」を聞かせて欲しいという度重なる要求に対し、海原氏はやっとのことで「自分の大切な人が、ヘイトスピーチの対象になる立場の人」であるという趣旨のことを語りました。
しかし、それだからご自身が「強硬論」を主張しているのだと認めておられません。それはまた別の話(余談)に過ぎない、自分は個人的な感情論で「性急な法規制」を求めているのではない、というのが海原氏の立場です。

つまり、「法規制による派生的弊害発生の危惧(慎重論)」を無視してでも「今ここで、直ちに法規制を」と訴える海原氏からは、自説を支える「根拠」が、なにひとつ提示されないのです。
ということは、海原氏のこの態度を支えるものは、論理的にはやはり「語られない個人的な事情」でしかありえません。

海原氏自身によると、その「個人的事情」とは、『大切な人』の存在ではないし、「挫折体験」でも「それに由来するルサンチマン」でもない。もちろん、本人の言うことだから、それが事実に即しているという保証はないのですが、他人にその「個人的事情」を窺い知ることも、ほとんど不可能です。
しかし、海原氏の「個人的事情を論証できない」ことと、「個人的事情など存在しない」ということは、言うまでもなく、同じではありません。


海原氏は「法学」に依拠しながらも、本当は何が「正義(あるいは悪)」かは、誰にもわからないとします。


『 例えば、もう20年近く前のことになりますが、神戸で起きた児童惨殺事件の犯人が中学二年生男子(当時)だったことに衝撃を受けて作られたテレビ番組の中で、参加者の若者が「っていうかなんで人殺しちゃいけないんですか?」と質問を発して会場が騒然となったことがありました。それを発端に、「なぜ人を殺してはいけないか」という議論が起こり、論断誌でも何度も特集を組まれましたが、皆が納得できる解答もついぞ出ないまま、この議論は飽きられていった、ということがありました。
 なぜ「なぜ人を殺してはいけないか」という疑問に誰も満足に答えられないのか。理由は簡単で、そもそも人を殺してはいけないなどという客観的な根拠は存在していないからです。ただ、私たちの社会がそういったルールを選んだ、というだけです。選んだ理由は、そういうルールがあった方がいいという「価値判断」によるものです。
 (中略)
 つまりルールというものは、身も蓋もない言い方をすれば「そのルールがあった方がいいと思う人間たちが作り出した共同幻想、フィクション」にすぎないのです。ですから、「なぜそのルールがあった方がいいと思うのか」、すなわち「前提となる価値観」を説明することはできますが、それで納得できないのであればもうお手上げ。アレクセイ様も、信念や価値観をお互いにぶつけあっても無意味であるということはお認めだと思います。お互いに出来るだけ関わらないように生きるか、あるいは片方が殲滅されるか、どちらかしかありません。ちなみに、現在欧米諸国とイスラム原理主義者の間で起こっているのは、まさしくルールを巡る価値観を共有しない人々同士が互いを殲滅させようとしている、という事態に他なりません。
 さきほどあげた「なぜ人を殺してはいけないか」という議論ですが、この議論が華やかなりし頃もついぞ殺人罪についての見直しなどされず、誰かが殺されれば発見した市民は通報し、警察が捜査をし、検察は起訴をし、裁判所は有罪判決を下していました。結局、ルールを受け入れるか否かは、最後は理屈ではなく「直観」だということなのです。そしてその直観は、価値判断に起因する。このあたりのことは、法学をまったく知らない人々も、たいていは「皮膚感覚」で分かっています。乱暴な言い方ばかりになりますが、法学と言うのはこの価値判断になんとか理屈付けをする試みに他なりません。ですから、確かに法学の説明と言うのは相当にややこしいから「理解」するのは難しい場合はあるのですが、「納得」できないというのであれば、もはやどうしようもないのです。繰り返しますが、これはルールというものの本質なのです。

     ((13)「法とは権威主義でフィクションである」より)


つまり、海原氏によれば「殺人」すら「悪=非正義」とは言えず、それは、「殺人」を「犯罪」として規制する『ルールがあった方がいいと思う人間たちが作り出した共同幻想、フィクション』に過ぎない、ということになります。

これに対して、私は(12)「「問答無用の法学」論」において、


この議論でのポイントは、『直観』や『皮膚感覚』というもの「実在」でございます。
つまり「ルールというのは、実質的な根拠を持たない、相互間の約束事だ」と言ったところで、その「ルール」とは、何もないところに虚構された「空中楼閣」などではなく、明確な定義こそ出来ていないものの、『直観』や『皮膚感覚』というものを呼び起こす、何らかの「根拠が存在する」ということなのです。
ですから「『直観』や『皮膚感覚』というものを呼び起こす、何か」という「実在」の本質や意味を看過して「ルールはフィクションである」などと言うのは、それこそ「無根拠なフィクション」なのでございますよ。


と反論し、それに対して、海原氏は(13)「「公理」は否定できない 」で、


『 断言しますが、「解答」が出ることはありえません。なぜならこれは価値観の問題であり、そもそも人を殺すことを何とも思わず自分が殺されても構わないという人間さえ一定数この世界にはいます。もちろん、かなりの人間が支持する相当程度に有力な解答は出てくるでしょうし、それくらいなら今もあるでしょう。しかし、それを「客観的な解答」だと言える根拠はどこにもない。元よりこうした倫理や理念といったものは自然法則のように証明することが不可能であり、「客観的に正しい」と証明されることがあるとすれば、それは全ての人間がその考えを支持する、という場合しかない。しかしそんなことはまず想定できないし、さらに言えばそんな世の中が来るべきではない。人間の思想は自由であり、多様性を奪うべきではないからです。もちろん、この「べき論」も客観的には証明できません(笑) ただ、割と多くの人がそのように思っている、というだけの話です。


と応えています。

つまり、海原氏は「物事の善悪基準」の根拠として、『直観』や『皮膚感覚』というものの「存在」は認めるものの、それが「絶対的な基準」として確定されることはない、ともしているのです。
言い換えれば「それは、有るが、実証は出来ないから、無いも同然」なので「フィクションとしての法で縛るしかないのだ」という主張です。

海原氏のこの主張は、とてもわかりやすいものではありますが、同時にこれは典型的な「近代的ニヒリズム」でもあります。

「殺人」ですら本質的には「悪でも正義でもない」。ただ、ハッキリした根拠もなく、多数派がその方が良いだろうとして、民主的手続きによって定めた「法」によって「罪」であり「悪」だと決められているだけだ、という理屈です。
しかし、すでにここでは「法の根拠となる、多数派の『直観』や『皮膚感覚』という現実」すら排除されて、「徹底した相対主義」が「理性主義」づらをして幅を利かせています。

はたして「現実には、法の根拠になっている、多数派の『直観』や『皮膚感覚』といった現実」さえ「曖昧なものだから無視する」というこうした「切断主義」的態度は、本当に「理性」的と呼べるのでしょうか?

これまでの議論で何度も指摘しているとおり、海原氏の議論は「飛躍論理」であったり「非現実的な単純二分法」でしかなく、「曖昧なものを曖昧なままに、慎重に思考する」という態度がまったくありません。
つまり、哲学や文学といった人文学が取り扱ってきた難問を、海原氏は「法学の権威」の名の下に、バッサリと切り捨てて、それこそが「理性的」な態度だと開き直っているのですが、海原氏のこうした態度は普通に考えて「傲慢」なだけであり、単なる「思考停止」でしかありません(海原氏には「方法的な、判断停止(エポケー)」の意味が理解できないのでしょう)。

「法」というものが「曖昧な『直観』や『皮膚感覚』という現実」に支えられているのだとしたら、「法」というものもまた元来「曖昧」なものであり、全幅の信頼をよせるに値する対象ではないということになります。
だからこそ、現実の「法」は、そして「法」に支えられた「近代国家システム」は「誤り得るもの=不確実(不確定的)なもの」として、「不断の知的検討」に晒され「保守管理されなければならないもの」だというのに、海原氏は「法学の理論的前提」と「法の現実」を混同して、「法は疑ってはならぬ(「信用できない」などと放言してはならぬ)」などと(「非民主主義的」な権威主義によって、そう)主張するのです。


そもそも「殺人は罪であり、悪である」というのが「現実的根拠を持たない、法的フィクション」であるに過ぎないとしたら、「人種差別」や「ヘイトスピーチ」も「本当は、悪でも正義でもない。それは多数派の実感が、民主的手続きを経て決めることだ」ということになってしまいます。つまり「ヒットラーの合法政権がやったことも、法的に正しかった」ということになります。
そこで私が、(12)「「問答無用の法学」論」において、


私のように考えない海原さまのような方なら、「ユダヤ人の人権を認めるな」とか「朝鮮人の人権を認めるな」などという「法」が「賛成多数」で決められれば、「悪法でも法律は法律なので、自分もユダヤ人(朝鮮人)の人権は認めない」などとおっしゃるのでしょうね。


と指摘すると、海原氏は(13)「「公理」は否定できない 」で、


『 これらの法律は多数決で議決されようとも、近代法治国家の基本原則である「立憲主義」に明らかに反しますので、近代法治国家の理念及びそれを実現した憲法を根拠に、裁判所によって無効だと判断されます。アレクセイ様は、「立憲主義」という近代法治国家の基本原則、「公理」が存在することをおそらくご理解されていないかと思いますが、繰り返しますが「公理」を否定するのであればそれはすなわち近代法治主義そのものの否定になってしまい、それは「公理を知らなかった」で済まされるわけではございません。


見てのとおり『近代法治国家の理念及びそれを実現した憲法を根拠に、裁判所によって無効だと判断されます。』と反論しています。
しかしこれは、裁判所が「理念どおりに機能すれば」という「建前的仮定(希望的観測)」でしかなく、「現実」には裁判官も人間であれば、政治情勢(という現実)に左右されるというのが歴史的事実あり、ナチスドイツ時代でそうであったように「多数派」が「ユダヤ人を排除すべし」という政策を支持し、それを「正義」だと認めるならば、「理念」などというものが「解釈」によって如何ようにも歪められ、実質的に機能しないし、機能しなかったというのが、歴史的「現実」なのです。

つまり「法は、多数決のよるフィクション」であるとしてしまえば「『近代法治国家の理念及びそれを実現した憲法』もまた、多数決によるフィクションでしかなく、それがフィクションなら多数派の意見によって、いくらでも「書き換え」可能だし、解釈変更も可能だ」ということなのですね(実例:「憲法改正」問題など)。

したがって、海原氏が依存する「法学的権威」もまた「曖昧な『直観』や『皮膚感覚』という現実」に依拠している「曖昧な現実」でしかなく、「曖昧な『直観』や『皮膚感覚』という現実」を切り捨て「これで完璧に理性的」だなどと自慢できるようなものではないのです。

それなのに、海原氏はどうして「殺人は、悪でも正義でもない」「人種差別もヘイトスピーチも、悪でも正義でもない」という「徹底した相対主義」を採るのでしょうか?
この立場を選んでしまえば、在特会やネトウヨが「ネットを駆使して世論に訴えて、多数派工作をする」というのも、「法的正義に適った行動」ということになるでしょうし、彼らはまさに「それをしている」と主張しているのです。

海原氏の「法学」に依拠した主張の本質は「本当は正義も悪もない。ただ、その時代や地域における多数派の実感が、何を正義であり悪であると決めるに過ぎない。すべては、相対的なフィクションなのだ」ということになります。
しかし、これは典型的な「ニヒリズム=虚無主義」です。

もちろん、海原氏は「人間」を「曖昧なもの」として信用していませんし、本当は「現実の国家」や「現実の法」も信用してはいません。なぜなら、それらは「曖昧な人間が作り、曖昧な人間が運用する、曖昧なフィクション」でしかないからです。

では、海原氏には、いったい「何」が残るのでしょうか?

なにも残りません。せいぜい「すべての曖昧さを見通して、法という形式的フィクションを賢明に選択した、理知的な私」という「盲目的な自己肯定欲望」が残るだけで、そこには『大切な人』の「大切さ」すら残らない「虚無の荒野」が広がるだけなのです。

ここで、もう一度、(05)「トゥー・テ・ビアン」に引用した文章を再引用しておきましょう。


君は、自分のことを無私の革命家だと信じているだろう。確かに君は殉教の聖女を思わせる。しかし、とんでもない話だ。君の魂は傷ついた自尊心から流れ出す血と膿で溢れ返っている。なぜ君は人民を、生活者を、普通の人間たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されねばならないのだと君はいう。嘘だ。君はただ、普通に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。(中略)殉教者こそが高利貸よりも計算高く自分の所有物にしがみつくのだ。高利貸が積みあげた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫で回まわすように、殉教者は自分の正義、自分の神を舐めまわすのだ。高利貸が、財産を奪うならむしろ火刑にしてくれと騒ぐように、殉教者は自分の財産、自分の所有物である正義の方がよほど大切なんだ。喜んで火刑にもなるだろう。ギロチンにもかかるだろう。守銭奴が一枚の金貨にしがみつくように、君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ。(中略)君はなぜ怖いんだ。ほんとうの勇気があるなら認めてしまうんだ。君が、いや僕たちが、彼ら以下であるという事実を。彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。それを認めてしまうんだ。その時にこそ、微かな希望が、救済の微光が君を照らすだろう。そう、希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、バリケードの日々を昏倒するまで生きることだ。太陽を直視する三秒間、バリケードの三日間を最後の一滴の水のように味わいつくすことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬだろう。しかし、怖れを知らぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい。
                 (笠井潔『バイバイ、エンジェル』より)



 最終章 信じることと疑うこと

海原氏とのやりとりの中で、私は何度か「キリスト教信仰」の話を例示しました。これは私がクリスチャンだからなのではなく(私は非クリスチャンです)、「人は妄信しやすい=自己懐疑の回路を断ってしまいがちである」という問題を考える上で「二千年にわたる歴史のなかで、世界的な知性が信じてきたキリスト教という宗教」が、もっとも深い検討に適した題材だと考えたからです。
キリスト教には、十字軍や異端審問、魔女裁判といった明白な「黒歴史」が存在しながら、それでもその後にも多くの人がキリスト教の信者になったし、その人たちは決して「学」の無い人たちばかりだったのではありません。世界的な知性が、今もキリスト教を信仰しているのです。だから「信じることと疑うこと」という問題は、非信仰者が考えるほど、底の浅い簡単な問題ではないのです。

そして「信じることと疑うこと」という問題は、なにも「宗教」に限った問題ではなく、むしろ極限的には「私自身を、信じることと疑うこと」の問題と言えるでしょう。

人は「自分を信じる」からこそ「信仰を持ったり、信仰を否定したり」するのであって、「絶対的に客観的な根拠」があって「信仰を持ったり、信仰を否定したり」するのではありません。
不動の「真理」であるかのような「科学的自然法則」や「数学」ですら、それは「仮説」であり「約束」でしかない。究極的には「ハイゼンベルクの不確定性原理」「ゲーデルの不完全性定理」がそのこと明かしているとおり、「人間」には「絶対的に客観的な根拠(真理)」は認識できないし、そこには到れないのです。

しかし、それでも人間は「何か」を信じないと生きてはいけません。「それらはすべてフィクションに過ぎない。私はそれを実用主義的かつ理性的に選択して利用しているに過ぎない」などと気どってみても、彼はそんな「理知的な自分」だけは迂闊にも信じ、「自分自身」への「信仰」に生きているのです。人は「自分自身すら疑うことの出来る自分」自身への信仰を捨てては、生きていけない生き物なのです。

もちろん、人である海原氏とて、その例外ではありません。
海原氏は「自分は、理知的に法学というフィクションを選んで、合理的かつ功利的に生きている」つもりなのででしょうが、それを「正しい選択」だとする根拠など、じつはどこにもなく、実際に働いている「選択行動の根拠」は「正しい(判断が下せる賢い)私」という「信仰」にすぎません。そこだけは信じているのです。
だからこそ、そこだけは否定されたくない。そこを否定されたら、何も残らない「荒野の恐怖」が広がるだけであり、海原氏もそれを選択することだけは出来ないのです。


ともあれ、「性急な法規制」論の「性急さ」を支えていたのが「具体的な現実」ではない以上、その根拠は海原氏の「内面的なもの」でしかありえません。そしてそれは、海原氏自身が語らない以上は、誰にもそれを「特定」することはできない。
しかし「特定できないことと、存在しないこととは、同じではない」のです。

海原氏は「性急な法規制」を、「具体的な根拠」ではなく、「明かされない内面的動機(衝動)」によって選んだ。だからこそ、それは当人が「反省」してみるしかないのですが、これまでの私とのやりとりで明らかなように、どうやら海原氏は「それだけはしたくない」みたいです。
ならば、これ以上、氏と「ヘイトスピーチに対する性急な法規制の是非」問題を論ずることは無意味でしょう。氏は「具体的な根拠」を示すことが出来ないし、かと言って「それでもそれを選ぶ、内的根拠」も語らなければ、その「内的根拠を反省してみることもしたくない」のですから、もう何もすることは残されていないのです。

私が「ロベスピエールの恐怖政治」の話や笠井潔の『バイバイ、エンジェル』などを示しながら、当初から危惧していた「性急な法規制要求の現実的具体的な根拠の薄弱さの背後に見え隠れする、個人的事情による観念的倒錯」の問題は、海原氏の「どんどんテーマからズレていく」という「歪んだ論法」という「現実」によって、ある程度は証拠立てられたと私は思います。そうでなければ、法規制慎重論を唱える人間を「アナキスト」と決めつけて「国家を論ずる資格なし」などというネトウヨ並の屁理屈を、海原氏が駆使することもなかったと思うからです。

「隠された個人的事情」という、海原氏がいちばん触れられたくなかった部分に私が固執して追及したからこそ、海原氏はそれを「言葉として語ることを拒絶」しつつ、その「態度によって、かえって、そこに問題の本質があることを、自ら語った」のだと思います。

私は『反省』してはどうかと、海原氏に何度か奨めました。


はん‐せい【反省】
[名](スル)
1 自分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改めて考えること。「常に―を怠らない」「一日の行動を―してみる」
2 自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること。「―の色が見られない」「誤ちを素直に―する」

            (「デジタル大辞泉の解説」、『コトバンク』より)


もちろん、私は「1」の意味での『反省』を促したのですが、どうやら海原氏は「2」の意味でとらえて反発していたようです。

しかし、最終的には「反省」というのは「自分にしか出来ないもの」であって「他人が強制できることではない」。力ずくで謝罪させることは出来ますが、それは「反省」ではない。
裁判で「有罪判決」を下して「反省」を求めても、それで相手は「反省」するとは限らない。ならば「暴力を使ってでも、強制するしかない」というのが「在特会に対する、海原氏の論理」ですが、それで在特会が「ごめんなさい。反省します」と言ったところで、それが本当の「反省」かどうかなど、誰にもわからないし、誰にも決められないのです。

したがって、私に出来ることは、ただ海原氏に「反省を促すこと」だけだったのですが、残念ながら氏は「自身を省みること(反省)」を拒絶されました。
まして、論敵を「アナキスト」だと「自分基準」で決めつけて、


『 それでもどうしても国家に従いたくない、というのであれば、私たちには最終手段として日本から離脱する自由、すなわち国籍離脱の自由(憲法22条2項)が保障されています。これは売り言葉に買い言葉ですが、私から言わせれば、国籍離脱の自由を行使する勇気も無いくせに近代法の根本に疑問を差し挟むなんて甘ったれるんじゃないよ、ということです。
        ((13)「「公理」は否定できない 」より)


と語るにいたっては、何をか言わんやでしょう。
私の言いたかったことは、ごく当たり前な「慎重な人間論」に過ぎません。「人は、正しいと思って過ちを為しがちであるから、性急な行動には慎重であるべきである」という、ただそれだけのこと。
しかし、「自身の正義」に固執して「反省」を拒絶する人には、そんな常識的な「助言」さえ、彼の人格を否定するもののように感じられたのかも知れません。


われわれは自分に過大な信頼をおくことはできない(エレミヤ・一七の五)。なぜならぱ、とうとい恵みや、わきまえがわれわれに備わらないこともずいぶん多いからである。わずかな光明しかわれわれはもっていないし、それさえたちまち怠慢によって失い易い。私たちはまたよく、自分の心がどれほど盲目かに気がつかない。私たちはときとして悪をおこない、弁解のために一層ひどい悪を冒す(詩篇・一四〇の四)。私たちはときとしで情念に勧かされ、これを熱心さと思い違える。また他人についてはわずかなことも咎め立てして、自分の冒したもっと大きな(過ち)を見逃しがちである(マタイ・七の五)。他人から蒙ったことはずいぶんすぐと惑じもし考量もするが、他人が私たちから蒙ったことの大きさについては、意を用いようとしない。自分の(行為)をよく正当に考童し得る人ならぱ、他人について、苛酷な判断を下すようなことはしないであろう。
           (トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』2-5-1)


 2015年2月1日



【補論】 海原氏の「保安条例」拡張論

海原氏の性急な「法規制推進論」が、「法規制による派生的弊害問題」に対して、なんら具体的な対策案を持たないというのは、「ヘイトスピーチの法規制」という「包括的問題」について、氏が議論の後半において、場当たり的に「映像作品は対象にしない」とか「ヘイトスピーチデモ規制に限定する」等と言い出したことにも明らかでしょうし、その「ヘイトスピーチデモ規制」の法的根拠として『私の主張は、公安条例によるデモに対する規制を、少しだけ拡大しようというものです。』と語っていることにも明らかでしょう。

「公安条例」とは「公安」問題に限定された条例であって、「特定の被害者」に関するものではありません。あくまでも「公的治安の維持」を目的としたものなのですが、それを「ヘイトスピーチデモも、デモだから公安問題に発展するかもしれないので、ヘイトスピーチデモ自体を法規制すべきだ」などという「恣意的拡大解釈」がいったん認められれば、「反原発デモも、デモだから公安問題に発展するかもしれないので、反原発デモ自体を法規制すべきだ」「平和行進デモも、デモだから公安問題に発展するかもしれないので、平和行進デモ自体を法規制すべきだ」などといったことにもなるでしょう。実際、国家にとっては、在特会などより、左翼勢力の方が、はるかに危険な「公安対象」なのです。

つまり、海原氏の『次の段階』としての「国家権力への監視」意識とは、この程度のものだったというのが、ここに端なくも露呈しているのです。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
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