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「反・本格ミステリ」としての『青銅の悲劇 瀕死の王』(前)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 8月 8日(金)00時19分4秒
  みなさま、私、本日(2008年8月7日)、笠井潔の新刊『青銅の悲劇 瀕死の王』(講談社)を読了いたしました。

作品評価といたしましては「狙いは興味深いが、本格ミステリとしては退屈な凡作」だと申せましょう。その意味で本作は、「当たり前に推理小説を楽しみたい読者向け」だとは申せませんので、そういう読者には本作をお薦めすることはできません。――と申しますか、「読まない方がいい」と言っても良かろうかと存じます。

さて、以下の文章では、『青銅の悲劇 瀕死の王』が「なぜ『当たり前に推理小説を楽しみたい読者向け』ではないのか」という点を、作品の「狙いと作り」に即してご説明したいと存じます。
したがいまして、「それでも読んでみたい」という方は、『青銅の悲劇 瀕死の王』読了後に、以下の文章をお読み下さいまし。


---------------------------------------------------------------------------------


笠井潔の新刊『青銅の悲劇 瀕死の王』は、770頁に及ぶ大作として「その狙いは興味深いが、本格ミステリとしては退屈な凡作」だと言えよう。
さらに、本作における「作者の狙い」に即して端的に言えば、本作は「探偵小説が、厳密に論理的たらんとすれば、その探偵小説は探偵小説が厳密に論理的たり得ないことを自己証明(暴露)せざるを得なくなる」といったことを語った(「後期クイーン的問題」系の)探偵小説だからこそ、本作は自ずと『本格ミステリとしては退屈な凡作』とならざるを得なかったのである、とも言えよう。

偶然と言うには、あまりにタイミングの良すぎるくらいだが、『青銅の悲劇 瀕死の王』を読みはじめたばかりだと書いていた段階のホランド(碧川蘭)は、本作の評価とは関係なく、本作の本質とも言うべき議論を、すでにここ「アレクセイの花園」に書き残していた。



『「論理学」というのは、一般的な意味での「論理的な正しさ」に関する学問ではありません。特殊に限定された「厳密に正確な学」としての学問であり、いわば「数学」にも類した「形式論理」の学問なんですね。だから、ボクたちが日常当たり前に使っている「論理的な正誤」とは、それは次元を異にしたものとなっているんです。

 例えば、「Aはお年寄りや子供に親切な、とても優しい人だ」という評価は、一般的には「(論理的に)正しい」とされます。
 しかし、「論理学」的に言えば、Aは「お年寄りや子供」には優しいかも知れないけど、それ以外の者に対して優しいかどうかは確証されていませんから、Aを全人格的に「優しい人」だとする論証は、ここではまったくなされていない、としか言えません。そう考えた場合、このA評価は、単にごく一部の事例を根拠に、全人格を不当に評価しているに過ぎない、ということになって、「論理学」的な命題としては、「不完全論証」としての「誤謬論理」である、ということになります。

 つまり、世間一般に使用される「論理の正しさ」というのは、「形式的に穴のない、厳密な正しさ」ではなく、「おおむね正しい」ものを「正しい」と表現しているだけなんですね。そうでないと、世の中の99パーセントは「絶対ではない」し「仮説である」というのですから、そんな厳密なことを言ってては、「それは正しい、それは間違いだ」という話が成立しなくなるからです。

 例えば「生物は、必ず死ぬ」という命題も「絶対に正しい(例外が一つもない)」ということを「証明」するのは、不可能でしょう。そうなると、この命題は「論理学」的には「誤り」だということになりますが、そんなことを言ってたら、話になりませんよね。だから、ボクたちは日常「ほぼ確かなこと(確からしいこと)」を便宜的に「確か」だと言い、「ほぼ正しい」ことを「正しい」と言っているんです。

 したがって、上に引用した会話も、「論理学の観点に限定して」言えば、Bの発言は『(※ 論理学的に正確な)演繹にならない為、(※ 論理学的な)論理として成立しない。/仮に、BがAの結論を否定する以外の目的で発言したのなら、それは反論ではなく論点のすり替えとなる。』となるんですが、「日常一般の論理」としてなら、Bの意見も「それなりに説得力を持つ、それなりに正しい」評価(意見)だと言えるんですね。


 で、話をtpknさんのことに戻すと、ボクが小泉信三を引用して語った「論争の最中に、自分で勝った勝ったと言うような奴に、ろくな者はいない」というtpkn評価は、「tpknさんの主張」そのものを否定するものではなく、「tpknさんの人格」を否定的に評価することで「tpknさんの主張」の信憑性を否定しようとするものですから、「論理学」的には『反論ではなく論点のすり替え』をおこなう「対人論証」である、ということになるんですね。

 つまり、tpknさんは、「日常の論理」によってなされていた議論に、いきなり「非日常の論理=学としての厳密論理」を不適切に持ち込むことによって、ボクの「日常的な論理として、正しい論理」を「日常的な論理として、正しくない論理」であるかのように、言い募ろうとしたんです。


 こういう「的外れな議論」というのは、ホントに頭の良い人なら、決してしません。その「議論」が、「日常一般の論理」によってなされているのか、「論理学的な厳密論理」によってなされているのかは、一目瞭然なんですから、その「使い分け」は、まともな人には難無くできることなのです。

 ところが、頭の悪い人にかぎって「聞き齧りの知識」を振り回したがる。「論理学」の用語を聞き憶えたら、それを「場所柄を弁えることなく」、知ったかぶって使いたがるんですね。

 そもそも「論理学」の「論理」というのは、極めて抽象化された「形式論理」ですから、日常の問題を扱うには不適格なんです。
 というのも、なぜ「論理学」というものが存在するのかと言えば、その理由のひとつは、「日常の論理」というものが、厳密に検討するならば、いかに穴だらけであり、かつレトリカルなものか、ということを確証するためなんですね。つまり、論理学とは「思考の原理」を追求する「メタ論理学(論理のための論理学)」だと言えるんです。だから、それを「日常の論理(=非原理的論理)」での議論にそのまま持ち込むのは、「論理階梯の混乱」にしかならないんです。』

         (2008年8月1日付・ホランド「失われたフェアプレイ精神(前)」より



『青銅の悲劇 瀕死の王』を読了している読者には、もはや明白なことであろう。ここでのホランドの議論は、『青銅の悲劇 瀕死の王』の最終章において、「探偵」役たるナディア・モガールの語る「鷹見澤家殺人事件の意味するもの」の議論と、ほとんど同じ内容である。――こんな具合だ。



『 問題は『ゆえに(※ ルビ「エルゴ」)』です。Aであるが『ゆえに』Bであるという命題は、数学では疑いえない確実性があります。1に1を加えた、『ゆえに』2であるという具合に。これは厳密には算術の例ですが。このような確実性が可能なのは、そもそも数学的な対象の理念的な存在だからですね。数はもちろん、点や線も現実世界にはありえない理念的存在です。
 物理学の世界でも、ある程度までは数学的厳密性が可能でしょう。林檎は枝を離れた、『ゆえに』林檎は大地に落ちたという具合です。ある程度まではと限定したのは、林檎が枝から離れたまさにその瞬間に、地球がブラックホールに呑まれてしまう可能性もゼロではないから。大地が消失したのに、林檎だ虚空に残ったというのは、いささか例としては不自然かも知れませんが。
 だったら水は百度で沸騰するという例にしましょうか。しかし、この『ゆえに』は数学的な確実性がありません。空気圧が違えば、ようするに高度が違えば沸騰する温度は変わりますから。事物、正確にいえば、物理学的存在者を対象とした瞬間に、『ゆえに』の数学的な正確性と厳密性は失われてしまう。
 事物から生物に、生物一般から動物へ、そして人間へと対象が変わるにつれ『ゆえに』の正確性と厳密性は加速度的に拡散し、必然的に弱体化していかざるをえない。
 とりわけ人間の存在には、わたしたちにとって幸福なのか不幸なのかはともかく、自由意志といわれる奇妙な領域があらかじめ組みこまれています。水は百度まで熱せられた、『ゆえに』水は沸騰した。この物理学的な命題と、二人は愛しあっていた、『ゆえに』結婚したという命題を比較してみれば、両者の相違は明らかでしょう。愛しあっているのに結婚しないカップルもいれば、愛しあっていないのに結婚するカップルもいるからです。愛と結婚を『ゆえに』で結合できる根拠など、ほとんど存在しないことをわたしたちはよく知っている。
 自由意志を与えられた人間世界には、そもそも論理など存在しえないのでしょうか。そのように決めてしまえばすっきりできるのですが、困ったことにそういうわけにもいかないのです。わたしたちは日常的に、無数の具体的な判断を下しながら生きているのですから。
 十二時だ、『ゆえに』空腹だ、『ゆえに』昼食にしよう。彼は寒がりだ、『ゆえに』厚着をしている。あるいは、やつはアラブ人だ、『ゆえに』盗んだ犯人はやつだとかね。フランスの『アラブ人』はドイツでは『トルコ人、アメリカでは『黒人』や『ヒスパニック』に置き換えられます。戦前の日本では『朝鮮人』、最近では『中国人』や『イラン人』かしら。前二者の場合、正確とも厳密とも言えませんが、ある程度の妥当性もまた否定できない。最後の例では、それが妥当だと信じこんでいる差別主義者はたしかに存在しますが、そんな『ゆえに』は偏見の正当化にすぎないという立場も当然ある。
 このように人間の世界で論理や判断は、まったく存在しないわけではないけれども、数学的論理や物理学的論理とは大きく異なる形でしか存在しえない。人間的世界の出来事を判断の対象とするとき、わたしたちは数学的論理性と完全に無関係ではないとしても、それは次元の異なる正否の基準を無意識のうちに用いています。』(P758〜760)



――どうあろう? そっくりそのままだと言っても、過言にはならないのではないか。

ホランドが、『青銅の悲劇 瀕死の王』のラストにおけるナディアの演説の内容を知っていたかどうかは、ここでは問わない。だが、とにかく両者の議論が、その本質を同じくしているということだけは、認めていただけよう。

ナディアがここで語っているのは、「現実の事件の解明において実際に活用される論理とは、数学的論理ではなく、その大筋において人間世界の論理である。したがって、推理小説に描かれる名探偵による謎解きも、数学的に厳密な論理であるかのように見えても、その本質が人間世界の論理を出ることはない。つまり、その本格ミステリにおける謎解きの論理は、数学的に厳密なものではない」ということである。

そして、こうした「数学的厳密性において解明できない、推理小説的事件の典型」として描かれたのが、本作『青銅の悲劇 瀕死の王』における「鷹見澤家殺人事件」ということになる。『ゆえに』、「鷹見澤家殺人事件」の謎解きは、結論的には、「探偵小説=本格ミステリ」的な「厳密さ」をイメージさせないものとなっている。だから「『当たり前に推理小説を楽しみたい読者向け』ではない」作品になっていると言うのだ。


つまり、本作はある意味では「反・本格ミステリ」なのである。もちろん、「本格ミステリは、論理的な文学である」という認識(誤認)を前提としての「反・本格ミステリ」。「本格ミステリとは、論理的であるかに見せかけて、読者を楽しませる文学である」ということを語り、「論理的な本格ミステリ」という「幻想」を打ち砕く、本格ミステリなのである。

その証拠に、本書の帯には、


 『矢吹駆シリーズ日本篇 待望の第1作!』


と謳われているにもかかわらず、本作には最後まで「名探偵・矢吹駆」は、登場しない。
なぜ登場しないのかと言えば、それは本作が「もはや名探偵の登場しえない時代」の必然性を描かんとした作品だからである。



『いずれにしても、わたしたちは決定不能性という罠から逃れることができない。推論が厳密であれば唯一の真実に到達できると信じていられるのは、前世紀の遺物のような人だけね。長いこと探偵小説を愛読してきた者としては残念ですが、この時代に名探偵は存在しえないんです。』(P755〜756)



もちろん、上記の「帯文」は、「矢吹駆シリーズ」を謳うことで、少しでも売り上げを伸ばさんとした「出版社」の策略である可能性は高い。
しかし、作者にその意図(=「矢吹駆が登場する作品である」と、読者を欺く意図)が無かったとも言えない。つまり、作者自身、本作『青銅の悲劇 瀕死の王』を、冒頭では読者に「矢吹駆シリーズ」の一作と見せかけておいて、じつは最後でその「憶見」が覆される(裏切られる)「反・名探偵小説」としての「反・矢吹駆」小説を意図した、というのは、本書の冒頭に掲げられた、次のような一文にも明らかなのだ。


  わたしは日本に帰ってきた、矢吹駆を殺すために――N・Mの日記から


この一文の意味は、物語の終盤で明らかになる。

『N・M』こと、ナディア・モガールは、「名探偵・矢吹駆」という存在を「葬送」するために、日本に帰ってきた。この事件の解決をとおして「名探偵という存在を無邪気に信じえた時代の終焉」を明きらかにし、この物語から「名探偵・矢吹駆」という存在を「抹殺」した。――これは、そういう意味なのである(ナディアの来日が2度目であることは、後半で明かされる)。


だから、本作に「探偵小説=本格ミステリ」を期待すれば、その点では、確実に裏切られる。この「裏切り」は、作者による確信犯的なものなのだから、本作が「探偵小説=本格ミステリ」としては「退屈な凡作」であったとしても、そのことで本作そのものを「失敗作」とするのは、妥当な評価だとは言えない。本作は「メタ探偵小説」あるいは「本格ミステリ批評小説」として「興味深い」作品なのだ。

しかし、――そうしたことに「興味」のない読者には、本作は単なる「退屈な凡作」だということになる。したがって、本作は、個々の読者が「ミステリに何を求めているか」によって、評価が変わってくる作品なのだ。

さて、そこで最後に、私個人の評価を語らせてもらえば「そういうことは、批評の方でやってくれれば十分。770頁の推理小説で、その手のだまし討ちはして欲しくない」ということになるだろう。





( 以下は「「反・本格ミステリ」としての『青銅の悲劇 瀕死の王』(後)」につづく)
 

キララの普遍性

 投稿者:Keen  投稿日:2008年 8月 5日(火)13時01分43秒
  昨日の続きです。
昨日は使い慣れないタグで、注意書きの赤字がデカ過ぎました……ごめんなさい。


タイトルは『キララ、またも探偵す。』ですが、今回キララは探偵していません。クララに至っては出番ナシですが、これは前作のパターンを踏襲するとマンネリ化が避けられないため、話にバリエーションをつけたのでしょうか?その結果、クララ化しないキララの可愛らしさが強調されてはいるものの、どうも脇役に回ってしまった感があります。というよりむしろ、キララ登場をメインに据えた前作と違って、今回はキララたちロボットの出現により騒動に巻き込まれ、振り回される人間たちの方に焦点が当てられていると見た方がいいかもしれません。


さて、「キララ、失踪す。」冒頭で、神格化されたアイドルとしてのアグネス・ラムへの言及があることからも懐古趣味の予感はありましたが、赤メガネ男がキララを「カワイ子ちゃん」と呼んだのには度肝を抜かれました。最初は「可愛らしいお嬢ちゃん」だったのに……赤メガネはそんなに年配な設定ではないのに!まあ、このひと言で赤メガネのキャラがわかってしまうところも面白いですが。
しかし考えてみれば、前作からすでに「十万馬力」「ぶっとばす」といった懐かしい響きの表現や地口(「結構毛だらけ、猫灰だらけ」他)の多用があり、まして本作では「バッチグー(死語)」という解説付きの丁寧さで、あえてこうした言葉を使っていることが明示され、また、「どんだけエ、ってやつだな」と、未来の死語まで先取りしてあるわけです。
また、竹本健治自身がインタビューで語ったところでは、「キララシリーズ」は『未来のイヴ』と『うる星やつら』を出発点として構想されており、さらに作中でも『鉄腕アトム』『鉄人28号』『ドラえもん』といった古典作品への言及が見られます。

これらが意味するのは、「美少女メイドミステリー」といういかにも今風の体裁を装ってはいても、中身はいつの時代にも通じる人間の欲望を描いている、ということではないかと思うのです。人がアイドル(理想像)やロボットに求めるものは、『未来のイヴ』の昔も今も変わりません。ケータイや最新技術が駆使されていれば現代らしく見えますが、それらの要素さえ取り除けば、時代設定はいつであってもおかしくなく、80年代に『うる星やつら』で繰りひろげられた青春群像と何ら変わりはありません。
「雨の公園で出会った少女」も含めて、本作はかなり普遍性が高いと思われます。



昨日書いたことについて、その後、思いついたことがありますので、追記します。


>そして、本書ではなんだか妙にあっけらかんとした肯定感があるのに違和感を覚えました。

>『 それにしても、何だか最近ヘコヘコしてばかりだ。もしかしてクララのせいで、すっかりM体質が身に馴染んできてるんじゃないだろうか?――そんな想いを全否定しきれない自分に暗澹となるかと思いきや、まあいいや、そんな正直な自分もけっこうスキ、なんてところに落ち着いてしまう自分がまたまたスキ、なんて自分で自分を認めてやれる自分がやっぱりスキ、なんて――と、キリがない自分も最終的にスキ。』

>こんなにあからさまな自己肯定って、過去の竹本作品にありましたっけ?
>何か変化があったのでしょうか……?


竹本健治の変化についてはともかく、この「自分がスキ」というのは、『未来のイヴ』にもあった感覚ではないかと思い当たりました。以前の投稿で引用した部分をもう一度ご紹介すると、


『あの恋人の裡に望ましいまぼろしだけしか認めまいとして、意志の力を働かせて、あなたは眼を――精神の眼を閉ぢていらつしやるのであり、――御自分の意識の否定を揉み消していらつしやるのです。従つてあの女の真の人格は、あなたにとつては、あの女の美の閃きがあなたの全存在の裡に呼びさました「幻影」に他なりません。現実のアリシヤの致命的な、醜怪な、砂を噛むやうな空虚さのために、あなたが厭といふほど嘗めてをられる不断の幻滅にも拘らず、あなたが最愛の女性の存在の中に、是が非でも、生かさうと努力してをられるのは、この「幻影」だけなのです。
 この影だけをあなたは愛してをられる。この影のためにあなたは死なうとなさる。あなたが、絶対に、実在として認めてをられるのはこの影だけなのです!要するに、あなたがあの女の中に、呼びかけたり、眺めたり、創り出したりしてをられるものは、あなたの精神が客観化されたこの幻であり、あの女の中に二つに分けられたあなたの魂に他なりません。さう、これがあなたの恋愛なのです。』(『未来のイヴ』創元ライブラリ版P146)


結局、アイドル(=理想像)への愛とは「自己愛」に他ならず、つまりは「自分がスキ」ということになるんじゃないでしょうか。
 

『キララ、またも探偵す。』に感じたこと

 投稿者:Keen  投稿日:2008年 8月 4日(月)17時50分50秒
  すっかり遅くなって、もう次の竹本作品新刊が出てしまいました。私が何か書こうとする時、例によってまとまった形にはならないので、とりあえず書けたところから出して行きますね。

なお、本文では『キララ、またも探偵す。』のネタを割っていますので、未読の方はご注意下さい。


私が『キララ、またも探偵す。』を読んで最初に感じたのは「怖い!」ということでした。
いや、話自体はどれも面白かったのですが、侑平も「キララ、赤面す。」の末尾で「そう考えると、改めて空恐ろしい気分にさせられた。」と言っているように、もしもキララタイプのセクサロイドが普及したら、人はもはや生身の人との交わりを必要としなくなってしまうのではないかと思ったのです。
帯の背にも「キララがいれば、なにもいらない」とあるように、どんどんと引きこもって後退して行くんじゃないかという危うさを感じていました。

現に「光瑠、探偵す。」では、光瑠に好意を寄せる偶研部員オロチが、実は醍醐堂研究所でキララたちの開発に関わっていたため、秘かに光瑠の顔・声パターンをロボットに搭載し、愛玩しています。
それを知った侑平が「オロチももう本物よりも、カリナのほうがずっといいんじゃないか」と言ったり、モデルがいると知らずにカリナに恋した人物から、光瑠本人がカリナの身代わりに抱きしめられたりという逆転現象が起こっているのです。
生きた人間より、ロボットの方がいい?
自ら開発した男性型セクサロイド・ゴンゾウをいたくお気に入りのミス・キャンベルは、もはやボーイフレンドなんかいらないのでしょうか?

……などと考えていたら、「商品としての性」と「愛」は別物だというご意見に出くわし、認識を新たにしたところです。セクサロイドの存在と現実の恋愛は矛盾しない、相反するものではないのか?
そうであれば、今回、ミス・キャンベルと益子博士が同じ社員寮に住んでいることが明らかになりましたが、私はこの二人の関係はきっと後々、微妙になってくるのではないかとにらんでおります。光瑠と侑平も然り。
しかし、セクサロイドと生身の恋人が共存できるかどうかは別問題ですね。知っていたら、多分無理でしょうが……


そして、本書ではなんだか妙にあっけらかんとした肯定感があるのに違和感を覚えました。

『 それにしても、何だか最近ヘコヘコしてばかりだ。もしかしてクララのせいで、すっかりM体質が身に馴染んできてるんじゃないだろうか?――そんな想いを全否定しきれない自分に暗澹となるかと思いきや、まあいいや、そんな正直な自分もけっこうスキ、なんてところに落ち着いてしまう自分がまたまたスキ、なんて自分で自分を認めてやれる自分がやっぱりスキ、なんて――と、キリがない自分も最終的にスキ。』

こんなにあからさまな自己肯定って、過去の竹本作品にありましたっけ?
何か変化があったのでしょうか……?


なお、ちょうど本書を読んだ頃に見た高月靖『南極1号伝説 ダッチワイフからラブドールまで――特殊用途愛玩人形の戦後史』(バジリコ)の新聞広告の白黒写真が、どうもキララに見えてしかたなかったです。今、ネットでこのカラーの表紙を見てもピンと来ないのですが。


まずはここまで。


☆園主さま

>ところで、昨日7月25日は、竹本健治のデビュー作『匣の中の失楽』の刊行30周年記念日でございました。
>一部に、記念グッズの販売も企画されているようなので、詳細がわかれば、ご報告したいと存じます。

へー、それは全然知りませんでしたが、面白そうですね!

>あっ、それから(装丁がひどいと、もっぱらの評判の)台湾版『匣の中の失楽』や、(装丁が素晴らしいと、もっぱらの評判の)台湾版『虚無への供物』がお入り用でしたら、メールででもお知らせ下さいまし。しかるべき筋に手配させていただきます(笑)。

お気遣いありがとうございます。しかし私は、いわゆるコレクターではありませんので、解読できない本を手元に置きたいという欲望はないのです。園主さまの蔵書の書影をアップしていただければ……って、マックちゃんの現状では不可能なんでしたっけ。
まあ検索すれば、どこかで表紙は見られるでしょう。
台湾での評判はどうなんでしょうか?
 

失われたフェアプレイ精神(後)

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年 8月 1日(金)22時16分43秒
 

 Keenさま

茶道とミステリ

>>『せつないいきもの』(光文社ノベルス)

> 竹本健治の新刊がもうでちゃいました!
> でもここはググッとこらえて、『キララ、またも探偵す。』の感想文を書いてから読むことにします。竹本さんの新刊がこんなに続けて出るなんて、めったにないことじゃないですか!普通は年単位でしょ?そんなに次々と読んだらもったいない……!
> というか、今回は新書で安いので、ネット書店の送料節約のために中井さんの『幻戯』とあわせて注文することにします。まあ、来週にはハリー・ポッターの最終巻も出ますから。


 『せつないいきもの』な、まあまあでしたよ。やっぱり、表紙の写真から連想されるようなリリカルな作品ではなく、「牧場智久の雑役」シリーズらしい、基本的にはコミカルで明るい作品集だったと言えるでしょう。

 で、いまボクは、笠井さんの『青銅の悲劇 瀕死の王』にかかったところです。


追記

>>「秋葉原通り魔事件」と『虚無への供物』を、斎藤環の「過酷な現実から逃避しそこなった者の犯罪」という見地から結びつけたご意見ですね。

> 私も斎藤環の記事を読んだ当初はなるほどなあ、とは思ったものの、そこから即座に『虚無への供物』を連想したわけではありませんでした。あれ、この感じはどこかで知っているぞ、なんだったっけ……ああ、そうだ!てな具合でした。
> つまり『虚無への供物』が予言書のごとくに、今日の事件や人々のあり方を内包していると感じたわけです。


 『虚無への供物』に限らず、優れた作品というのは、そういう「予見性」を持っているものなんですね。
 で、あとは、読者の方がどこまで読み込んで、その「予見性」に気づくか、なんでしょうね。


> 私が最近よく見ているNHK『爆笑問題のニッポンの教養』という番組で、松岡正剛が出演した「世界は編集されている?」という回がありました。公式サイトの内容紹介では、個性とか概ねその良い面について書かれていますが、確か番組内では情報操作の危険についての言及もあったと記憶しています。
> 先日、友人と全く同じモノ(シチュエーション)を見たにも関わらず、互いの認識がまるで違っていたことに驚いた、ということがありました。自分にとっての現実は、他人のそれとは別物だと思い知らされました。


 その番組は観ていませんが、ボクが「編集された世界」という表現を使うにあたっては、松岡正剛のことが頭の片隅にはあったと思います。

 ともあれ、「世界はひとつである」と同時に「世界はひとつではない」という認識を持っておく必要があるんでしょうね。



 tpknさま

Re:『蟹工船』と日本共産党(2008年7月21日付け)

Re:『蟹工船』と日本共産党(2008年8月1日付け)


 卑怯な「匿名の掲示板荒らし」による、精いっぱいの「憎まれ口」ですか? ――でも、何よりも貴方の書き込みそのものが、貴方の「下劣な人間性」を証し立てていると言えるでしょうね。


 それにしても、「他人への要求が過大」なわりには、「ご自分への要求」に関しては、極めて反応が鈍いですね。まあ、身元を隠す「掲示板荒らし」としては、それはむしろ、当然のことなんでしょうけれど。


 結局は、園主さまによる、

==============================================================================


公に開かれた、責任ある言論活動をなさっているらしい、tpknさま。

貴兄が責任をもって管理しておられる、貴兄の掲示板やブログを、すべてご教示下さいませんか。
いったいどのようなやり方がもっとも理想的管理方法なのか、勉強させていただきたいと思います。
もちろん、急ごしらえの「捨て掲示板」や「捨てブログ」ではなく、貴兄が継続的に管理をなさっている「まともな掲示板またはブログ」のことです。

それから、「捨てハンドル」ではなく、貴兄がお友達の掲示板に書き込みをなさる際などにお使いになる、「本来のハンドルネーム」と「本名」をご教示下さいませんか?
他人に「本名」を尋ねるような方なら、当然、ご自分はそれを隠したりはなさらないのでしょう?
貴兄の「tpkn」を「捨てハンドル」と疑うのは、無論、貴兄が当方の掲示板への書き込みに際して、「ホットメール(捨てメルアド)」をお使いになっているからです。

結局のところ、現在の貴兄は、文字どおり「どこの誰とも知れない」存在であり、今のままではご自分の発言に責任を取る気がまるでないという風にしか見えません。要は、ご自分の身元を完全に隠蔽して、いつでも逃げられる(書き捨て・書き逃げ)体制を作った上で、発言をなさっているというのが、貴兄の偽らざる現状だからです。

貴兄が、他人に「開かれた言論の場を提供せよ」とおっしゃるのなら、せめてご自分がどこの誰であるかを示し、自分の発言責任は引き受けるという、開かれた責任ある態度を示すべきではないでしょうか? そうでなければ、今の貴兄は、単なる「掲示板荒らし」でしかありません。

私も、オリジナルのメルアドを曝し、ホームページも掲示板も公開しているのです。貴方も、私により多くのことを要求するのであれば、ご自分がそれ以上の事をしているのだという事実を、公にしていただけませんか?

貴兄が、自分でも出来ないことを他人に要求して威張っているだけの、くだらない男ではないのなら、中身のあるお返事がいただけるものと信じております。


==============================================================================

という要求には、まったく応じない。

 結局、貴方は『自分でも出来ないことを他人に要求して威張っているだけの、くだらない男』であり、自分の身元を明かさないでいる「言い訳」に終始するのも、それが、所詮は卑怯未練な「匿名の掲示板荒らし」でしかない貴方にできる、唯一のことだからなんでしょう。――そんな人の投稿が採用されないのは、当然のこと。


 園主さまが、貴方のような人を評して『泥棒』と呼び、


> 譬えて言うならば、――泥棒にとっては、防犯設備をいっさい備えていない家のほうが、盗みに入りやすい、というのと同じことだ。
> だからこそ彼は、声を大にして「戸締まり強固な閉鎖的な家など、人間の住む空間ではない」などと、もっともらしく批判してみせるんだ。自分の家が、いかに堅固な防犯設備を備えていようとな。

> 無論泥棒は、他人の家に盗みに入る際には、覆面や手袋をして、小心なまでに「自分の素性」を隠そうと腐心する。つまり、「tpkn」というのは彼の「覆面」の一つであり、「捨てメルアド」は犯行用の「手袋」というわけだ(笑)。


> そんなわけで、うちの「花園」は、花園を荒らす「泥棒」に類する人など、当然のことながら「立ち入り禁止」だ。


としたのは、この掲示板の管理人としては、当然の措置だと言えるでしょう。
 貴方のように、自分のことだけは隠して恥じない『泥棒』さんには、そういう判断は困りものでしょうけどね。

 ――ま、こんな「言い訳」だけの返事しか寄こせないんだから、貴方の書き込みの採用は、今回が最後だと思って下さい。
 貴方が管理人として「すべての投稿を掲載する(という)掲示板やブログやホームページ」をお教えくださらないことには、いくらでも「削除」できる「メルアド」なんか教えていただいても、何の意味もありませんからね。それを理解しておられますか?

 もしかすると、ご自分が人に、偉そうに要求したことなんか、もうとっくに忘れておられるのかも知れませんけどね。なにしろ「一貫性」なんて求めようもない「掲示板荒らし」なんだから。


 なお、最後につけ加えておくと、「卑怯な掲示板荒らし」である貴方は、当然のことながら、「熊谷伸一郎氏とその取り巻き」連中よりも、ずっと「卑怯な人間」だと言えるでしょう。少なくとも彼らは、自分の発信基地を隠してはいないんですからね。貴方は、あきらかに、彼ら以下の人間なのです。



 高橋正彦さま

犬死の扱い

> 知覧特攻平和記念館の件で述べられた趣旨については賛同します。然しながら特攻隊員を単に犬死だと断定する事にはいささか疑問に思っております。少年飛行兵出身者の中には本当に国に殉ずるのだと思っていた人も有ります。其れを当時の思想教育の結果であると断言するのは簡単ですが、そうでしょうか。更には遺族の感情はどの様に説明するのでしょうか。犬死と解っていて死地に送り出すのでしょうか。此の辺の説明無しで断定するのはいささか独断的と思うのですが。


 議論というのは「フェア」でなければなりません。高橋さまが、園主さまに求めておられるのも、「犬死」という言葉の使い方が「フェア」であるか否かの、疑問に対する説明ですよね?

 でも、世の中には、自分が「アンフェア」ありながら、他人にだけは「フェア」であることを求めて恥じない、「アンフェア」な人というのが、残念ながら、確実に存在するんです。――誰のことかわかりますよね?



 園主さま

反時代の白き光芒 ―― 島崎博論(上)

> もちろん、私が注目したのは、最後の『私はと言うと、担当した作家に会ったことはありませんでした。何故かというと、推理小説の評論を書こうと思っていまして、そうなるともし作家に会うと、その後、彼の作品に関する評論を書くのが難しくなってしまいますから。』の部分。――つまり、島崎は、批評に「情実」が絡むのを潔しとしなかったために、作家との面識を得ることを意識的に避けた、というのである。


 園主さまが、ここで島崎博を絶賛し、他の人に求めているのも「フェアであれ」ということに尽きますよね。


> ともあれ、この夏、私は「幻影城の時代」の会が主催する「島崎博さんをお迎えする会」で、島崎博に会ってくる。べつに島崎ファンということではないから、『幻影城の時代』にサインでももらえば、それで当初の目的は達成されるわけだが、もし島崎と個人的に言葉を交わす機会があれば、私が聞きたいのは、

> ――「今どきの、日本の作家やファンをどう思われます?」


 その回答は「本格ミステリに関してはフェア(プレイ)であることを求める人も、自分個人については、松本清張のようなフェアな人はいなくなったね」なんてことになるんじゃないでしょうか。

 「清張は、批判者に対してさえチャンスを与える、とてもフェアな人」だったと、権田萬治さんが言っていますけど、昨今、そういう大人物は見あたりませんからね。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。
 

失われたフェアプレイ精神(前)

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年 8月 1日(金)22時14分37秒
   みなさん、こんばんは! 園主さまの巧みなあしらいによって、「掲示板荒らし」の正体が暴露されてしまったtpknさんですが、やっとお返事の書き込みがありましたね。
 ――とは言っても、ご「自分の身元」に関しては相変わらずの黙りで、言い訳ばかりを連ねた後の結論はというと、「調べればわかる」との つれないお言葉。
 結局、自分から進んでは何も公開せず、他人が勝手に書いていることを「当てにせよ」ということのようですが、それはいささか無責任というものなのではないでしょうか? 他人が書くことなんて、ぜんぜん当てには出来ないからこそ、ご本人の口から(ご自分のブログやホームページの存在を)聞かせてもらいたいと、園主さまはそうおっしゃっていたのに。
 それとも、tpknさんは、他の人が書いていることを、すべて真実であると承認でもなさるつもりなのでしょうか? そうではないとおっしゃるのならば、ご自分の口から事実関係を語り、責任の所在をハッキリさせるべきなのではないでしょうか。

 ともあれ、こうした反応ひとつ採って見ても、tpknさんが、自身の管理する発信基地(ブログやホームページ)を持たず、あるいは隠したまま、「掲示板荒らし」をしている人だというのが、調べるまでもなく窺えようかと思います。



 さて、本年(2008)7月21日付けの最初の書き込みの中で、tpknさんは、ボクの前回の書き込み(7月19日付け)を『幼稚な対人論証』であると評していました。この「対人論証」というのは、多くの人にとって、あまり聞きなれない言葉だと思うのですが、その「聞きなれない言葉の使用」の事実がまた、tpknさんが「掲示板荒らし」であることの、ひとつの「傍証」にもなるんです。ですから、今日は、この「対人論証」というものについて、すこしご説明しておきましょう。


 「対人論証」というのは、論理学的に正確(確実)な論証ではなく、その意味において「不完全論証」の一種であり、そのためにしばしば故意の「詭弁」としてつかわれる「誤謬論証」の一種だと言えるでしょう。そして「対人」と付くのは、その「誤謬論理」が「人の属性」に関して仕掛けられるものだからなんですね。

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  対人論証(ad hominem abusive)


・ A「数学の知識なんて、社会に出ても役に立たないよ」
・ B「数学を目の敵にしている君がそんな事を言っても、説得力は無いな」


この場合、Bの発言が対人論証となる。
「Aは数学嫌いである。故に数学の知識は社会で役に立つ」は演繹にならない為、論理として成立しない。
仮に、BがAの結論を否定する以外の目的で発言したのなら、それは反論ではなく論点のすり替えとなる。


http://122.208.55.200/m/c/%E8%A9%AD%E5%BC%81/2#.E5.AF.BE.E4.BA.BA.E8.AB.96.E8.A8.BC.EF.BC.88ad_hominem_abusive.EF.BC.89

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 上に引用した文章後半の説明文は、「論理学」的には「正しい説明」です。しかし、これを読んだ人の多くは、きっとかなり強い「違和感」を覚えるのではないでしょうか。

 そうなんです。「論理学」というのは、一般的な意味での「論理的な正しさ」に関する学問ではありません。特殊に限定された「厳密に正確な学」としての学問であり、いわば「数学」にも類した「形式論理」の学問なんですね。だから、ボクたちが日常当たり前に使っている「論理的な正誤」とは、それは次元を異にしたものとなっているんです。

 例えば、「Aはお年寄りや子供に親切な、とても優しい人だ」という評価は、一般的には「(論理的に)正しい」とされます。
 しかし、「論理学」的に言えば、Aは「お年寄りや子供」には優しいかも知れないけど、それ以外の者に対して優しいかどうかは確証されていませんから、Aを全人格的に「優しい人」だとする論証は、ここではまったくなされていない、としか言えません。そう考えた場合、このA評価は、単にごく一部の事例を根拠に、全人格を不当に評価しているに過ぎない、ということになって、「論理学」的な命題としては、「不完全論証」としての「誤謬論理」である、ということになります。

 つまり、世間一般に使用される「論理の正しさ」というのは、「形式的に穴のない、厳密な正しさ」ではなく、「おおむね正しい」ものを「正しい」と表現しているだけなんですね。そうでないと、世の中の99パーセントは「絶対ではない」し「仮説である」というのですから、そんな厳密なことを言ってては、「それは正しい、それは間違いだ」という話が成立しなくなるからです。

 例えば「生物は、必ず死ぬ」という命題も「絶対に正しい(例外が一つもない)」ということを「証明」するのは、不可能でしょう。そうなると、この命題は「論理学」的には「誤り」だということになりますが、そんなことを言ってたら、話になりませんよね。だから、ボクたちは日常「ほぼ確かなこと(確からしいこと)」を便宜的に「確か」だと言い、「ほぼ正しい」ことを「正しい」と言っているんです。

 したがって、上に引用した会話も、「論理学の観点に限定して」言えば、Bの発言は『(※ 論理学的に正確な)演繹にならない為、(※ 論理学的な)論理として成立しない。/仮に、BがAの結論を否定する以外の目的で発言したのなら、それは反論ではなく論点のすり替えとなる。』となるんですが、「日常一般の論理」としてなら、Bの意見も「それなりに説得力を持つ、それなりに正しい」評価(意見)だと言えるんですね。


 で、話をtpknさんのことに戻すと、ボクが小泉信三を引用して語った「論争の最中に、自分で勝った勝ったと言うような奴に、ろくな者はいない」というtpkn評価は、「tpknさんの主張」そのものを否定するものではなく、「tpknさんの人格」を否定的に評価することで「tpknさんの主張」の信憑性を否定しようとするものですから、「論理学」的には『反論ではなく論点のすり替え』をおこなう「対人論証」である、ということになるんですね。

 つまり、tpknさんは、「日常の論理」によってなされていた議論に、いきなり「非日常の論理=学としての厳密論理」を不適切に持ち込むことによって、ボクの「日常的な論理として、正しい論理」を「日常的な論理として、正しくない論理」であるかのように、言い募ろうとしたんです。


 こういう「的外れな議論」というのは、ホントに頭の良い人なら、決してしません。その「議論」が、「日常一般の論理」によってなされているのか、「論理学的な厳密論理」によってなされているのかは、一目瞭然なんですから、その「使い分け」は、まともな人には難無くできることなのです。

 ところが、頭の悪い人にかぎって「聞き齧りの知識」を振り回したがる。「論理学」の用語を聞き憶えたら、それを「場所柄を弁えることなく」、知ったかぶって使いたがるんですね。

 そもそも「論理学」の「論理」というのは、極めて抽象化された「形式論理」ですから、日常の問題を扱うには不適格なんです。
 というのも、なぜ「論理学」というものが存在するのかと言えば、その理由のひとつは、「日常の論理」というものが、厳密に検討するならば、いかに穴だらけであり、かつレトリカルなものか、ということを確証するためなんですね。つまり、論理学とは「思考の原理」を追求する「メタ論理学(論理のための論理学)」だと言えるんです。だから、それを「日常の論理(=非原理的論理)」での議論にそのまま持ち込むのは、「論理階梯の混乱」にしかならないんです。


 では、tpknさんは、どうして「対人論理」などという「的外れな言葉」を持ち出して、ご自分への「正当な評価」を否定しようとしたのでしょうか?

 それは「論理学」的に言えば、「100回のうち99回も嘘をつく大嘘つきだとしても、彼がいま言っていることが嘘だとは(論理的には)言えない」という種類のことを、主張したいからなんですね。

 つまり、tpknさんのような「匿名」者というのは、一般的に言って「身元を隠すことで、自分の発言責任を回避しようとしている、卑怯な人だ」と言えるでしょう。しかし、そんな卑怯な人が卑怯な発言を始終していたとしても、彼の、ある特定の発言が「無責任な放言に過ぎない」とは、論理的には確証できない。
 簡単に言えば、――「匿名」者の言うことだから、必ず「無責任な放言」だと言うことはできない。「匿名=無責任な放言」という論理は、典型的な「対人論理」であり「詭弁」に過ぎない、――という理屈になる。だからこそ、やましいところがあって「匿名」で「無責任な放言」ばかりしている人に限って、この「対人論証」という専門用語を「濫用」したがるのです。


 現に「対人論証」という言葉が濫用されている代表的な場所と言えば、それは「2ちゃんねる」なんですね。
 「匿名」で「無責任な放言」を言いたい放題言っている人たちの居場所だからこそ、彼らは自分たちが「匿名のくせに」と正当に非難されると、しばしばそこで的外れに、「対人論証」という聞きかじりの言葉をもちだしては「対人論証とは、程度が低いなw」などと、なにやら高尚ぶった自己正当化をはかりたがるんです。
 ――でも、無論、この言葉を正確に理解して使っている人などほとんどいなくて、99パーセントはtpknさんと同様に、誤用による「自己正当化」のために使っているだけなんですね。


 そんなわけで、tpknさんの本質が「(悪質な)2ちゃねらー(=匿名誹謗者)」だという園主さまの指摘は、ここでも裏づけられたと言えます。


 tpknさんが、結果として他人に名前をばらされていたとしても、本人の意図としては、「捨てハンドル」や「捨てメルアド」を使って、現に「身元の隠蔽」に汲々とする「匿名」者であり、なおかつ「2ちゃんねる」で濫用される「対人論証」という言葉を濫用し、文末には「w」を使い、「〈確信犯〉という言葉は、本来は肯定的な意味で使うものであり、否定的な意味で使うのは誤用である」などという、議論そのものには何の関係のない「あら探し」を好み、さらには「自分にはできないことを、他人には平然と要求する」等といった数々の特徴を見れば、tpknさんは、そうした手口を「2ちゃんねる」で学んだ、典型的な「掲示板荒らし」だということが(ほぼ間違いないものとして)わかるんですね。

 また、ですからこそtpknさんは、「〈確信犯〉という言葉の正しい使用」の問題や「対人論証」といった、一見したところの「専門的知識」を振り回すわりには、主張そのものはいつでも「断片的」で、自身の主張としての「全体性や一貫性」が、すこしも見えてはこない。これは、tpknさんにはもともと、自分の思想や考え方といった「一貫したもの」が存在していないからなんです。だからこそ、誰にでも何にでも、無責任に難癖をつけることができるんですね。

 言い換えれば、ある問題に関して、他人に「責任ある回答」を求める人というのは、普通なら、他人に「発言責任としての回答」を求めると同時に、自身でも否応なく、ある「一貫した立場」を選ばざるをえず、そのための困難も引き受けざるを得ません。それが、自分の「発言責任を引き受ける」ということです。

 ところが、どんな立場も引き受けずに、ただ他人の難点を批判するだけなら、これは絶対安全です。

 具体的に言うと、当たり前の人が、他人の難点や問題点を指摘し批判する場合、多かれ少なかれ「では、どうすれば良いと言うのか?」という反問を予想し、それに対する、ある程度は説得力のある回答を準備した上で、はじめて相手の難点や問題点を指摘し批判しようとするものでしょう。だからこそ、他人の難点や問題点を指摘し批判するという行為には責任が附随し、決して容易な行為ではなくなるんです。
 ところが、それをまったく無責任に、ただ否定するだけで良いというのなら、こんな具合になります。

 「赤い車なんてダサイ」「黒い車なんて……」「白い車なんて……」……「色のついた車なんて、そもそもダサイ」。

 つまり、こう言って、他人のセンスを否定する彼は、決して「正解」を示すわけでもなければ、「自分なりの回答」を示すわけでもありません。
 しかし、実際のところ彼は、車にも乗るでしょうし、色のついた自家用車を持っている可能性だって十二分にある。しかし、自分だけは他人の評価に曝されたくないという「アンフェア」な彼は、自分のことについては決して語らず、ただ、他人に「無責任な難癖」をつけることで、何となく「優位に立った気分」に浸り、自分の現状から目をそらして生きていく、というわけなんですね。

 ――で、そんな人の一人が、tpknさんという人なんです。





( 以下は「失われたフェアプレイ精神(後)」に続く)
 

Re: 『蟹工船』と日本共産党

 投稿者:tpkn  投稿日:2008年 8月 1日(金)13時25分5秒
  > 「捨てメールアドレス」をお使いの、匿名tpknさま。

捨てメールと言いますが、これ、かれこれ6年以上使ってるアドレスなんですけど…。
もっとも最近はひと月に一度もログインしませんで、大変失礼いたしました(笑)。

> > うーん。こういう幼稚な対人論証を(おそらく)いい歳して垂れ流すのは、あまり品格のある行為とは言えませんね。あなたご自身が引用した《論旨と論拠とがハッキリ、しっかりしておれば、議論は自ずからにして決する。その際他を貶しめ、己れを誇称するような言葉は附け加えない方が却って目的に適うと思う》にも真っ向から反しています。
>
>
> そう思いたいのは「おうむ返し」しかできない、匿名男の貴方だけでございましょうね(笑)。

はい、反論なしですね。お粗末ですなあ…。

> ところで、メールにも書きましたが、そういう貴方こそ、まずご自分から『本名』を名乗ってはいかがでございます?

私の本名は、tpknでgoogle検索すればすぐわかりますよ。

「そういう貴方こそ」と言いますが、《匿名だと「恥知らず」になれる人たち》などと匿名を問題にしたのはホランドさんのほうであり、こちらはハンドルであろうがなんであろうがリンカブルな名前であれば問題ないと考えております。ですので「そういう貴方こそ」などと言いがかりをつけられても困りますね。

> もっとも、まったくの「無名人」が本名など名乗っても、何の意味もございません(どこの誰だかわからない)ので、「日頃はどこで、どんなことを、どんな名前で書いていている」のか、そうした「事実」を、包み隠さずご教示下さいまし。

そんなことはあなたが勝手に調べればいいことであって、ホランドなる「ハンドルだと恥知らずになれる人」の書いていることの是非には無関係です。情報としても、まったく不要ですね。

> お返事のメールを、「捨てメルアド」以外で下さるのを、心待ちにしております。

掲示板の上でやればいいことでしょう。本論に答えられない言い訳をメールで送るなどみっともないことだと思いませんか?

なお、毎日必ずチェックしているメアドを入れておきました。何か必要なことがあればこちらをお使いください。でもくだらないメールは全部ゴミ箱行きなので、がんばって私から返事がもらえるようなの書いてみてくださいね。
 

反時代の白き光芒 ―― 島崎博論(下)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 7月26日(土)19時56分10秒
   ホランド

『蟹工船』と日本共産党


kamuiさんがご自分のブログ上で展開なさっている「介護現場の惨状と、介護保険の不正受給」の問題を、日本共産党の党本部の方へ伝え「対応」を促したようだが、kamuiさんの対応にあたった委員長秘書は「政策の参考にさせていただきます」とか「何をして欲しいとおっしゃるのでしょうか」と、いかにも「官僚」らしい、ビジネスライクな対応に終始したみたいだな。
ま、そんなところが、今の日本共産党の現実と見て、大筋で間違いはないだろう。


>  『1990年の50万人をピーク』に『2000年以降は38〜40万人』で横ばいって、たったの10年で5分の1にあたる党員を減らしたってことでしょう。これはハッキリ言って、激減ですよね。でも、その明白な低落傾向に歯止めを掛けたに止まらず、逆に昨年9月以降の1年弱で9000人増と言うんだから、これはこれですごい。

> 新聞が『蟹工船』の影響か、って書いていますが、たしかに思いつく要素は、それくらいしかないですよね。共産党が、なにか目新しいことをやったなんて話は、とんと聞きません。

> つまり、推測ではありますが、――長らく「どの政党にも期待できない」と諦めていた若者たちが、『蟹工船』に収められた同作や「党生活者」などの作品を読んで、初めて、昔の「革命政党たる日本共産党」の姿を目の当たりにし「もしかすると、共産党なら、世の中を変えられるかも知れない」という期待を抱いて、共産党に入党しはじめた、ってことなのではないでしょうか?


つまり、共産党自身は何んら意識改革もなしえてはおらず、今回はたまたま外部的要因によって「追い風」が吹いたというのが、衆目の一致するところだろう。だからこそ、そんな共産党には、期待するだけ無駄というものだ。
むしろ、共産党に失望した若者たちの「その後」に期待すべきなんじゃないかと、私はそう思うよ。


「不正はいけない」とか「弱者を虐めるな」なんて「一般的正論」を語るだけなら、オウムにだってできる。
大切なのは、不当な苦しみにあえいでいる人々の一人ひとりについて、まず目の前の一人に共感共苦することなんだと思う。

この「一人」にたいする感受性を欠いたところで語られる「一般論」が意味するのは「そんなことを語る私は立派な人間だ」という、空疎な自己満足でしかないだろう。そして、そんな「空疎な自己満足」に水を、と言うよりも、鉛でも挿し入れるような「リアルな弱者」は、政治的観念論者の彼らにとっては、「対象外」でしかないんだろうな。



>  掲示板「田中荘新館」の方での議論は、どうやら片づいたみたいですね。

> 園主さまが、あちらの管理人であるinti-sol氏に「貴方は『問答有用』掲示板の管理人である「問答有用管理人団」の一人、またはそのものなのでしょう?」と質問したところ、inti-sol氏は「それに答える必要はない」と回答を拒絶しましたが、やはりinti-sol氏が(少なくとも過去には間違いなく)「問答有用管理人団」の一人であったことが、tpkn氏によって暴露されたんですからね。――つまり、熊谷伸一郎氏とその周辺は、例外なく、その「隠蔽体質」を共有しているというのがハッキリした、というわけです。

> ちなみに、そんな「貴重な証言」をくださったtpkn氏も含めて、やはりあちらの掲示板の住人というのは、敵も味方も似た者どうしって感じは否めません。悲しいかな、あちらの人たちには、人間としての「品格」が欠落しています。どっちもどっちで、匿名だと「恥知らず」になれる人たちなんですね。



> 『 議論をするときは、論旨と論拠とを明確に述べ、当否の判断はこれを第三者に任すということであって欲しい。論旨と論拠とがハッキリ、しっかりしておれば、議論は自ずからにして決する。その際他を貶しめ、己れを誇称するような言葉は附け加えない方が却って目的に適うと思う。
> 往年河上肇、福田徳三の両氏が、たしか資本蓄積論について論争したことがある。この時、河上氏はその論文中で、しきりに自分の議論の優越を主張し、論争は自分の勝ちだといった。それに対して福田氏は、勝ち負けは行事がきめる。相撲取り自身が言うべきことではない、といった。
> 議論全体の当否は別とし、この点だけについて言えば、福田氏に賛成である。仮りに土俵上の力士が、行事の軍配を待たず、揉み合いながら、或いは土俵を割りながら、自分で「勝った、勝った」と連呼したとしたら、可笑しなものであろう。
> しかし各種の論争文を見ると、今日でも、議論をしながら自分で勝名乗りをあげているものが少なくない。そうしてその効果は多くの場合、期待に反する。それは自信溢流の結果であるか、或いは却ってインフェリオリティ・コムプレックスの変形的表現か。いずれにしても無益なことである。』

>             (小泉信三「論争と勝名乗り」全文、『平生の心掛け』所収)



> ちなみに、「自信溢流」とは「自信過剰」、「インフェリオリティ・コムプレックス」とは「劣等感」のことです。


まったく、卓抜な引用だな(笑)。

ま、「匿名掲示板」全盛の今の日本においては、小泉信三が望んだような「人としての品格」など、すでに歴史の彼方に没し去っていると言っても、決して過言ではないだろう。そんな状況だからこそ、バカバカしい「品格」本なんかも売れるんだ。

そもそも「品格」なんてものは、大人になってから学んだって、手後れだろう。
たしかに「品格のある生き方とは、これこれこういうものだ」と客観的に語ることはできるだろうけれど、品格ある行動というのは、実際には「個人の本能的選択」によって担保されるものであり、行動選択の際に「どちらが品格ある行動か」などと自分に問うて行動する者など、ほとんどいはしない。そもそも、自身に対し自然にそのように問える者だけが、品格ある行動を「当然のこととして(なかば無意識に)」選ぶことができるんだと思う。つまり、ことさら「品格」を意識しているようであれば、その段階ですでにその人は「ダメ」だということだ。



で、まあ、うちにも書き込みをしてきたtpknさんだが、あちらで私に「相手をするに値せず」とあしらわれたんで、それを根に持っているんだろうな。劣等感の強い人には、ストーカー気質の人が多くて、本当に怖い。――で、そんな人の書き込みだからこそ、その内容がアレだったわけだ。


わざわざリモートホストを曝し(舞台裏を覗かせ)てやっていることについてすら、「お約束」の何たるかを理解する能力もなく、鬼の首でも取ったような手柄顔でつまらない書き込みをして、自身の「知性」と「品性」の欠如を、わざわざ自己証明してみせている。


tpknさんは、「ネット掲示板は、社会に開かれた公共空間であるから、あらゆる投稿は、分け隔てなく採用されなければならない(選択・削除がなされてはならない)」という「非現実的」な考えの持ち主で、そうした観点から、私の投稿を削除した「問答有用」掲示板と、工藤猛さんの投稿を採用しなくなったここ「アレクセイの花園」とは、まったく同じ間違いを犯しているのだとおっしゃる。

で、私は「どんなものでもすべて掲載される掲示板とは、もはや管理人不在の無法空間であり、もとよりそこでは、自由も何もありえない。つまり、ネット掲示板は、管理人に与えられた管理権において個人の裁量に任されたものであり、だからこそ、管理人の管理上の判断の是非が、倫理的に問われうるのである」としたんだが、tpknさんは、これが理解できなかったらしい。


で、原理主義的に「社会に開かれている」らしいtpknさんに、私はここ「花園」への書き込みから、次のようなメール2通を送っておいた。

ちなみに、メールを送る際に判明したことだが、tpknさんの書き込まれたメールアドレスは、使い捨ての「ホットメール」だった。


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(1)

 差出人 : tqj01337@nifty.com
 題名  : 8010/aleksey(そういう貴方、どこのだれ?)
 送信日時: Mon 07/21/2008 11:11:31 JST
 宛先  : ●●●●●●@hotmail.com
 Cc   : tqj01337@nifty.com

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掲示板「 BBS『アレクセイの花園』 」の投稿「 Re: 『蟹工船』と日本共産党 」 に関する連絡です。

なんなら、貴方の解放された掲示板のほうで議論しますか? そんなものがあればですが。匿名のtpKnさま。


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(2)

 差出人 : アレクセイ<tqj01337@nifty.com>
 題名  : ホットメールをご利用の、匿名tpknさま
 送信日時: Tue 07/22/2008 22:30:18 JST
 宛先  : ●●●●●●@hotmail.com

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公に開かれた、責任ある言論活動をなさっているらしい、tpknさま。

貴兄が責任をもって管理しておられる、貴兄の掲示板やブログを、すべてご教示下さいませんか。
いったいどのようなやり方がもっとも理想的管理方法なのか、勉強させていただきたいと思います。
もちろん、急ごしらえの「捨て掲示板」や「捨てブログ」ではなく、貴兄が継続的に管理をなさっている「まともな掲示板またはブログ」のことです。

それから、「捨てハンドル」ではなく、貴兄がお友達の掲示板に書き込みをなさる際などにお使いになる、「本来のハンドルネーム」と「本名」をご教示下さいませんか?
他人に「本名」を尋ねるような方なら、当然、ご自分はそれを隠したりはなさらないのでしょう?
貴兄の「tpkn」を「捨てハンドル」と疑うのは、無論、貴兄が当方の掲示板への書き込みに際して、「ホットメール(捨てメルアド)」をお使いになっているからです。

結局のところ、現在の貴兄は、文字どおり「どこの誰とも知れない」存在であり、今のままではご自分の発言に責任を取る気がまるでないという風にしか見えません。要は、ご自分の身元を完全に隠蔽して、いつでも逃げられる(書き捨て・書き逃げ)体制を作った上で、発言をなさっているというのが、貴兄の偽らざる現状だからです。

貴兄が、他人に「開かれた言論の場を提供せよ」とおっしゃるのなら、せめてご自分がどこの誰であるかを示し、自分の発言責任は引き受けるという、開かれた責任ある態度を示すべきではないでしょうか? そうでなければ、今の貴兄は、単なる「掲示板荒らし」でしかありません。

私も、オリジナルのメルアドを曝し、ホームページも掲示板も公開しているのです。貴方も、私により多くのことを要求するのであれば、ご自分がそれ以上の事をしているのだという事実を、公にしていただけませんか?

貴兄が、自分でも出来ないことを他人に要求して威張っているだけの、くだらない男ではないのなら、中身のあるお返事がいただけるものと信じております。



   アレクセイ


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見も知らぬ他人の掲示板に書き込みを行う際に、連絡用のメールアドレスとして書き込んだアドレスへの問い合わせに対し、tpknさんは、未だお返事を下さっていない。

質問に対する返答ができないので意識的に返事を書かないでいるのか、そもそもこの「捨てメルアド」に届くメールに応答する気など最初からなく、メールボックスを確認することすらしていないのか(きっと、馴れ合い関係にある友人、自分の正体を知られている相手には、別のメルアドを知らせてあるのだろう)。


ともあれ、こうした事実からわかるのは、tpknさんという人は、人が通常、他人に「理想として100」求めるところを、臆面もなく「200」くらい求める一方で、ご自分は「人並みの50」も実行しない、常識的な「倫理観」すら欠けた「厚顔無恥の人」だ、ということだ。


それに、「tpkn」を名乗るこの人が、「tpkn」名義で書くのは「他者批判」のみであることを考え併せると、この人は、本名(素の自分)では満たされることのない「承認欲求」を、「匿名」での居丈高な批判で満たそうとする、単なる「掲示板荒らし」でしかないのだろう。
だからこそ、自分は「匿名」での発言に終始しながら、他人の掲示板については「誰にでも開かれたものでなければならない」などと望むんだろうな。

譬えて言うならば、――泥棒にとっては、防犯設備をいっさい備えていない家のほうが、盗みに入りやすい、というのと同じことだ。
だからこそ彼は、声を大にして「戸締まり強固な閉鎖的な家など、人間の住む空間ではない」などと、もっともらしく批判してみせるんだ。自分の家が、いかに堅固な防犯設備を備えていようとな。

無論泥棒は、他人の家に盗みに入る際には、覆面や手袋をして、小心なまでに「自分の素性」を隠そうと腐心する。つまり、「tpkn」というのは彼の「覆面」の一つであり、「捨てメルアド」は犯行用の「手袋」というわけだ(笑)。


そんなわけで、うちの「花園」は、花園を荒らす「泥棒」に類する人など、当然のことながら「立ち入り禁止」だ。

――もちろん、そんな泥棒の類でも、あちらの掲示板では、たまたま役にたってはくれたわけで、その点についてだけは、今でも感謝しているんだがな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

反時代の白き光芒 ―― 島崎博論(中)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 7月26日(土)19時54分22秒
 

 さま

実践としての知的態度

> そそ、遅読ながら、サイードの『知識人とは何か』も中盤(110項)にさしかかってますが、kamuiさんの実践にも深く通底するような本ですよ。

> サイードは、ジュリアン・パンダを援用して、知識人と一線を画する存在として、『俗人集団』を挙げ、『彼らは、物質的な利益とか個人の栄達に関心をよせるだけでなく、機をみるに敏で、世俗の権力におもねる凡庸な人たちである』(p30)とし、それに対置するかたちで、知識人を『形而上的で高尚な理念に衝き動かされつつ、公正無私な真実と正義の原則にのっとって、腐敗を糾弾し、弱きを助け、欠陥のある抑圧的な権威にいどみかかるときなのだ』(p30)としています。


私の本日の論文「反時代の白き光芒 ――島崎博論」の狙いも、まさにそこ(俗人批判)にございます(笑)。


> 『聴衆に迎合するだけの知識人というものは、そもそも存在してはならない。知識人の語る言葉は、総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快であったりするものだのだ。』(P39)←まさにアリョーシャ/笑


まさに(苦笑)。


> (アドルノを援用して)
> 『(知識人の表象の核には)、どのような場所にも安住できず、成功という甘い罠にはまらないように警戒を怠らない知識人の意識である。(略) 成功した状態とは、安易に理解されることのないように意識してつとめる状態をいう』(P99)


要は、地位や名声や安住できる居場所を得て「守りに入った人間」は、もはや「知的」ではあり得ない、ということでございましょう。だからこそ私は、半端な「専門」を持たないのでございます。



 kamuiさま

小さな覚悟と大きな未来

> 今は自分の子どものためとしか言えないような小さな覚悟しか持ち合わせていませんが、いつか「全ての子どもたちのために私は闘い続けている」と確信を持てるように。


たぶん、そこに「大小の違い」などございませんよ。問題は「覚悟」の「強度」なのでございます。

つまり、『自分の子どものため』に「子供たちが誇れる親であろうとする」覚悟に徹すれば、それは自ずと『全ての子どもたちのため』に生きることにもなるのでございます。

言い換えれば、なまじ「大きい」「広い」評価を得ようなどとすると、「見栄えの良さ」や「方法」という安易な実効性に走ってしまい、結局は、堅持すべき根本姿勢たる「自分の子供に恥じない、子供たちが誇れる本物に」という意識のほうが、かえって薄れてしまうのでございます。

他の人たちがわかってくれなくても、自分の子供たちだけは、きっとこの世でたった一人の父親の生き方を、理解してくれるだろう。「きっと私の生き方は伝わるはずだ」という「覚悟」が、何よりも大切であり、それこそが、淳さまがサイードを引いておっしゃっていた、


『知識人のいだく希望とは、自分が世界に影響をおよぼすという希望ではなく、いつのひか、どこかで、誰かが、自分の書いたものを自分で書いたとおりに正確に読んでくれるだろうという希望なのだ。』


という言葉の真意なのでございましょう。

この『誰か』とは、自分が誰よりも信頼する『誰か』に違いないのでございます。



 Keenさま

茶道とミステリ

追記

> 茶道が大成したのは戦国時代ですから、当然毒殺の危険には常に備えていたと推察されます。それで全ての道具を洗い拭き清めるという作法が確立したのではないかと考え、私の先生にも「茶道による殺人の可能性」について伺ったことがあるのですが、はっきりとした返事はいただけませんでした。うがち過ぎ?しかし、高級なお茶入れは蓋の裏に銀が貼ってあって、毒物に反応すると黒ずんで知らせてくれるという、これは本当のことですから、私の推察もあながち間違いではないんじゃないかと、勝手に自負しております。


私もその推測には、一定の妥当性が認めうると存じます。

おっしゃるとおり、外では「相手や手段を選ばぬ殺し合い」をしていた「武将」たちであったからこそ、精神のバランスを取るためにも、「茶室」という特殊空間の内部で「自身の心と向き合う時間」が必要だったのでございましょう。

しかしながら、そうは言っても、おっしゃるとおり「茶室」の中にも「殺し合い」の世界は侵入しようといたします。だからこそ、「武将たちの茶道」というものは、「内面の対局」にも似た一種の緊張感を帯びており、決して「現実逃避の異空間(楽園)」にはなりえなかったのではないでしょうか。
豊臣秀吉と千利休の関係を見ても、茶道というものは、少なくともその生成期においては、「命のやりとり」にも似た、ある種の緊張感を孕んだものだったのではないかと、私は斯様に想像いたします。


>>あのリレー小説『吹雪の山荘 ――赤い死の影の下に』(東京創元社)のように、歳をとったナディアが事件の現場に立って動き、歳をとった矢吹駆がチラチラと時々姿を覗かせながら、最後は電話か手紙などで推理(謎解き)を語る、というパターンなのでしょうね。

> こちらにもナディア(歳をとった)が出演しているのは知りませんでしたので、早速図書館で借りてまいりました!(笑)


などと言っている間に、笠井潔『青銅の悲劇 瀕死の王』(講談社)が刊行されました。定価2310円の772頁で、やはり分厚い!

たまたま古本屋で、分厚い単行本として印象的だった、藤田宜永の『鋼鉄の騎士』を見かけたので手にとってみますと、たしかに厚さは同じくらいでございましたが、『鋼鉄の騎士』の方は「二段組」なので、作品の長さ自体はこちらのほうが長いようでございます。

それにしても、『哲学者の密室』は「二段組」だったのに、その後の『オイディプス症候群』や今回の『青銅の悲劇 瀕死の王』は、なぜ一段で組んでいるのでございましょうか? 二段で組めば、多少ともシェイプアップできたはずなのに――と、つらつら考えるに、これはやはり「わざと分厚くしている」としか思えません。
なぜ、そんなことをするのかと言えば、まず『哲学者の密室』に厚さを揃えるということが一つ。そして、もう一つは「矢吹駆シリーズ」は「重厚」であるというイメージを固定させるためではないでしょうか。

無論、これは想像の域を一歩も出るものではございませんが、短篇が好きでもなければ書くのも苦手、逆に「大長編が大好き」という笠井潔の「重厚長大」趣味を考えれば、笠井の代表シリーズである「矢吹駆シリーズ」に「重厚長大」な外観が与えられるというのは、作者感情として、しごく自然なことなのではないでしょうか。


ところで、昨日7月25日は、竹本健治のデビュー作『匣の中の失楽』の刊行30周年記念日でございました。
一部に、記念グッズの販売も企画されているようなので、詳細がわかれば、ご報告したいと存じます。

あっ、それから(装丁がひどいと、もっぱらの評判の)台湾版『匣の中の失楽』や、(装丁が素晴らしいと、もっぱらの評判の)台湾版『虚無への供物』がお入り用でしたら、メールででもお知らせ下さいまし。しかるべき筋に手配させていただきます(笑)。



 tpknさま

Re: 『蟹工船』と日本共産党

「捨てメールアドレス」をお使いの、匿名tpknさま。

物陰から石を投げるようなみっともない真似は、お止しになった方がよろしいかと存じます。


> うーん。こういう幼稚な対人論証を(おそらく)いい歳して垂れ流すのは、あまり品格のある行為とは言えませんね。あなたご自身が引用した《論旨と論拠とがハッキリ、しっかりしておれば、議論は自ずからにして決する。その際他を貶しめ、己れを誇称するような言葉は附け加えない方が却って目的に適うと思う》にも真っ向から反しています。


そう思いたいのは「おうむ返し」しかできない、匿名男の貴方だけでございましょうね(笑)。


> ところでホランドさんて本名ですか?


ホランドくんの本名は「江川蘭」。ペンネームは「碧川蘭」でございます(笑)。


ところで、メールにも書きましたが、そういう貴方こそ、まずご自分から『本名』を名乗ってはいかがでございます?

もっとも、まったくの「無名人」が本名など名乗っても、何の意味もございません(どこの誰だかわからない)ので、「日頃はどこで、どんなことを、どんな名前で書いていている」のか、そうした「事実」を、包み隠さずご教示下さいまし。
どんな「掲示板荒らし」でも、親しい友だち宛てに書く際に用いるハンドルネームやメールアドレスを、かならず他に持っているはずでございますからね(笑)。

お返事のメールを、「捨てメルアド」以外で下さるのを、心待ちにしております。



 高橋正彦さま

はじめまして。お書き込み、ありがとうございます。

犬死の扱い

> 知覧特攻平和記念館の件で述べられた趣旨については賛同します。然しながら特攻隊員を単に犬死だと断定する事にはいささか疑問に思っております。少年飛行兵出身者の中には本当に国に殉ずるのだと思っていた人も有ります。其れを当時の思想教育の結果であると断言するのは簡単ですが、そうでしょうか。更には遺族の感情はどの様に説明するのでしょうか。犬死と解っていて死地に送り出すのでしょうか。此の辺の説明無しで断定するのはいささか独断的と思うのですが。 ?


とのことでございますが、私からいたしますと、失礼ながら高橋さまは、私の論文、

・ 「特攻隊神話の保存装置 「知覧特攻平和会館」 ―― 展示された、戦争への無自覚と無反省

を理解なさってはおられないとしか思えません。

『主旨については賛同します。』とのことでございますが、「主旨に賛同する」ことと、論文を正しく理解することとは、また別問題でございますからね。

私の論文を正しく理解すれば、私が「特攻死した青年たちの死」を『犬死に』とした理由は明らかでございましょうし、その意味では、今回いただいたような的外れな「疑問」も出てこないはずでございます。

もちろん、前述のとおり、私の論文を正しく理解することと、私の意見に賛同することとは別問題でございますから、私は、高橋さまが私の意見を正しく理解した上で、それでも「賛同できない」とおっしゃるのであれば、それは仕方のないことと諦めることもできましょう。しかし、そもそも論文が正しく読まれていないのでは、その諦めもつけかねます。

このような誤読は、たぶん高橋さまの「特攻死に関する考え方」に由来するものだと思いますので、私の意見をどう評価するかではなく、まずはご自身の意見を、首尾一貫したものとしてご提示下さいまし。そうすれば、なぜ今回のような誤読が発生したのかも、自ずと明らかにできましょう。

どうやら「政治」にご興味がおありのようですから、ホームページなりブログなりもお持ちで、随時ご自分の見解を発信なさっているのではないでしょうか? そちらを拝見すれば、高橋さまの「思想」も自ずと明らかになりましょう。
「高橋正彦」というお名前は、よもや「本名」ではあるまいと存じますが、もしも本名で書き込みをなさるような方であれば、どこぞの匿名男のように「素性」を隠しだてなさることもなかろうかと存じます。

「特攻隊員の死は、犬死になのか?」というような重要な問題を論じる際に、「2ちゃんねる」のような「匿名による、無責任は放言」をすることは、その姿勢自体、非難されてしかるべきものでございましょう。

高橋さまが、どのような方で、どのような「自分の考え」を持っているから、私の「表現」に違和感を感じたのか? そのあたりからハッキリさせていかないことには、この種の議論は、よく見かけるような単なる「水掛け論」となることでございましょう。





( 以下は「反時代の白き光芒 ―― 島崎博論(下)」につづく)
 

反時代の白き光芒 ―― 島崎博論(上)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 7月26日(土)19時41分11秒
  みなさま、ご承知のとおり私は一昨年、知人が編集した同人本『幻影城の時代』(「幻影城の時代」の会・編)に、短文を寄稿いたしました。同書は、かつて存在したミステリ専門誌『幻影城』へのオマージュ文集や
関係者へのインタビューなどを核とする「回想編」と、書誌・通史・論考などをまとめた「資料編」からなっており、私が寄稿したのはオマージュの一篇でございました。
『幻影城』刊行当時(1975〜1979)、まだミステリファンですらなかった私は、当然、同誌の同時代の読者というわけではなく、後年、すでに廃刊になっていた同誌を、古本屋で揃えたクチでございます。

私が『幻影城』という雑誌を蒐めようと思ったのは、何よりもまず同誌が、竹本健治のデビュー作である『匣の中の失楽』の連載された雑誌であったからであり、次には泡坂妻夫や連城三紀彦のデビュー誌だったからでございます。
そのため私は、同人本『幻影城の時代』に「反時代の黒い光芒」と題する次のような短文を、いち『幻影城』ファンとして寄稿いたしました。



『   田中幸一    反時代の黒い光芒

 私の場合、『幻影城』を現役で知っていたわけではありません。知った時には既に、半ば「伝説のミステリ誌」と化していました。私にとって同誌は、「変格探偵小説」の禍々しさを残した稀有な雑誌であり、なにより竹本健治、連城三紀彦、泡坂妻夫を生んだ雑誌です。竹本の『匣の中の失楽』は、私の内外ミステリ長編のオールタイムベスト5に入る作品ですし、連城の『戻り川心中』と泡坂の『亜愛一郎の狼狽』は、私のミステリ短編集オールタイムベスト5に入ります。四年半という短い活動期間で、これだけの業績が残せたのは、奇跡と言っても過言ではないでしょう。『幻影城』とは多分、反時代ゆえの黒い光芒だったのだと思います。』



「300字以内で」という条件付きの執筆依頼であり、私が参加を決めた当初はアマチュア中心の同人誌であったため、私は「評論家」としてではなく「ファン」としての文章を書くことを心掛けました。つまり『幻影城』論ではなく、「『幻影城』のここが好きだった」という「想い」を書こうとしたので、こういう文章になったのでございます(ちなみに、この「300字以内で」という条件を無視して、だらだらと自己顕示的な文章を書き送った、プロの物書きが何人かおりました。無料原稿を書いてやるんだ、よもや没には出来んだろう、という意識があったからこそなのでしょうが、物書きの風上にもおけぬ、基本を踏みはずした醜行だと存じます)。


ところで、この『幻影城の時代』には、『幻影城』誌の「伝説の」編集長であった、島崎博の長編インタビューが収録されております。
島崎は台湾人で、かの地で幼くして日本のミステリに触れて熱心なファンとなり(※ 台湾は、日本の旧植民地であり、そのため日本語の堪能な人が多い)、日本へ来てからはミステリ関連書や雑誌を買い漁って、日本一とも言われる蔵書を誇るマニアとなった人で、その博識が買われて『幻影城』の編集長に抜擢されたのでございます。しかし、前記の通り、やがて『幻影城』誌は経営難に直面して廃刊の憂き目を見、その責任を一身に背負った島崎は、逃げるようにして台湾へ帰ったあと音信不通となって、日本に残された彼の蔵書も散逸の悲劇を避けられなかったのでございます。

このような経緯もあって、島崎博はその生存さえ疑われる「伝説の編集者」として、一部マニアの間で長らくその「噂」だけが囁かれる存在だったのでございますが、先年、島崎が故郷台湾において日本のミステリを紹介して、台湾に一大ミステリブームを巻き起こしているとの噂が伝わり、後に『幻影城の時代』に収められるインタビューを敢行した熱心なファンらが島崎とコンタクトを取って、「島崎博健在」の確証を日本に伝えたのでございます。
その後は「新本格」以降の日本のミステリ作家が、自作の台湾での翻訳刊行の絡みもあって、次々と台湾へ渡り、伝説の人 島崎博と交流するようになり、またそれがミステリ専門誌などにも報じられて、ようやく島崎博は、伝説のベールを脱ぎ捨てることになったのでございます。


以上、非常に大雑把な紹介ではございますが、このような経緯を経て、「伝説の人」であった島崎博は、ふたたび日本のミステリ界でも注目を集める同時代人として復活し、この夏、9月13日には、東京で「島崎博さんをお迎えする会」が、『幻影城の時代』関係者の主催で開かれる運びとなりました。
また、それに呼応して「本格ミステリ作家クラブ」は、島崎博に「本格ミステリ大賞・特別賞」を授与することを決定、「お迎えする会」の席上で授賞式が行われることにもなりました。

で、私も『幻影城の時代』の執筆者の一人として、この「お迎えする会」に招かれており、参加することになっております。
長年、ミステリマニアなどやっておりますと、業界ともいろんなコネが出来て、例えば「江戸川乱歩賞受賞パーティー」とか「鮎川哲也賞受賞パーティー」などといったものにもお誘いを受けることがあるのでございますが、「関係者の関係者」でしかない素人が、そんなところへおのぼりさんよろしくノコノコと出かけていくのは、いささかみっともないと感じておりましたので、これまでその種の会合には一度も参加しませんでした。今回も、実質的主催者はアマチュアであり「ファンの集い」というのが基本ラインであったので、私は「ファンの一人」として参加させていただくことにしたのでございます。


――で、ここまでは、いわば「前振り」で、次にご紹介する論文の意味をご理解いただくために書いたものでございます。


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    反時代の白き光芒 ―― 島崎博 論



                           田中幸一(アレクセイ)


 taipeimonochrome氏のブログ『taipeimonochrome ミステリっぽい本とプログレっぽい音楽』(http://taipeimonochrome.ddo.jp/wp/markyu/)の、本年(2008年)7月14日付けの日記によると、島崎博(傅博)は、台湾のミステリ専門誌『推理雑誌』(281号)で、かの地のミステリ界の大御所である 林佛兒と対談して、日本での『幻影城』創刊時のいきさつなどを語っていると言う。taipeimonochrome氏によって翻訳紹介された対談の一部で、私の目を惹いたのは、次のような一節であった。



『六十二年当時、日本でもっとも有名な推理雑誌といえば『宝石』がありました。この雑誌には「作家の周辺」というコーナーがありまして、これが様々な角度から作家を研究してみようというものだったのですけど、三つの側面がありまして、そのうちのひとつが作家論。二つめは評論家が作家を訪ねるというもので、最後が作家の資料からなっていました。

そのときは早稲田(※ 大学)の研究所で勉強しておりましたから、私は早稲田のミステリ研の一員だったのですけど、そのなかの一人で後にSF作家になって『宝石』で仕事することになる間羊太郎がいましてね。私は彼に言ったんですよ、作家の資料、あれはちょっと正確じゃないな、と。それで当時の編集長から、毎号の作家の資料は私がつくるようにと言われました。

私が日本の推理小説に関する仕事を始めたのは、研究所の二年生のときだったかな、日本に来てからはもう六年になっていたから、だいたいは二十号書きましたかね。日本の推理作家のほとんどは私の名前を知っていたのですけど、私はと言うと、担当した作家に会ったことはありませんでした。何故かというと、推理小説の評論を書こうと思っていまして、そうなるともし作家に会うと、その後、彼の作品に関する評論を書くのが難しくなってしまいますから。』



もちろん、私が注目したのは、最後の『私はと言うと、担当した作家に会ったことはありませんでした。何故かというと、推理小説の評論を書こうと思っていまして、そうなるともし作家に会うと、その後、彼の作品に関する評論を書くのが難しくなってしまいますから。』の部分。――つまり、島崎は、批評に「情実」が絡むのを潔しとしなかったために、作家との面識を得ることを意識的に避けた、というのである。


じつにあっぱれな心掛けである。こんな「純真なミステリファン」あるいは「評論家」は、今の日本には、プロの側にもアマチュアの側にも、一人としていない、と断言しても良い。

現にいるのは、作家の面識を得てコネをつくり、「解説」でも書かせてもらおうかという下心いっぱいの「プロのミステリ評論家」や「ミステリマニア」だけである。こんな奥ゆかしい日本人ミステリマニアを、私はついぞ見たことがない。

まあ、「プロのミステリ評論家」の場合、その実力の如何に関わりなく、ひとまず「食い扶持」を確保しなければならないということで、なり振りかまわなくなり、やがては「批評(家)は客観的たるべし」という「批評(家)の本義」や「職業倫理」やを忘れることがあるというのは、――まあ目を瞑れないことでもない。
しかし、そんな「プロの行状」を身近に見聞きしているミステリマニア(アマチュア)まで、そういうことが当たり前であるかのような勘違いをするようになり、「先生、先生」と作家に擦り寄ってはコネをつけるのに余念のない有り様である。

島崎博に対しても「先生、先生」と擦り寄っていく「ミステリマニア」や、その進化形態である「ミステリ作家・評論家」も多いのであろうが、さて、このような人たちが、島崎博の「愛好家精神(ファン・スピリット)」をどれほど学んでいるかは「いささか疑わしい」などと婉曲に表現するレベルにもないことは、もはや明らかであろう。

私個人は、作家と面識があっても、なお自分の評価を曲げることなく忌憚なく語りうる者でありたいと思うから、作家に会うこと自体をことさらに避けたりはしない。――避けられることなら、ままあるが。
私が作家に会うのは、会いたい(会うに値すると評価する)作家に会う時であり、コネをつけるためではないのである。

ともあれ、この夏、私は「幻影城の時代」の会が主催する「島崎博さんをお迎えする会」で、島崎博に会ってくる。べつに島崎ファンということではないから、『幻影城の時代』にサインでももらえば、それで当初の目的は達成されるわけだが、もし島崎と個人的に言葉を交わす機会があれば、私が聞きたいのは、

――「今どきの、日本の作家やファンをどう思われます?」

といったようなことだけである。


さて、そんな私の「島崎博論(理解)」は、「島崎博は、今もなお反時代的な、白き光芒である」ということになるだろう。





( 以下は「反時代の白き光芒 ―― 島崎博論(中)」につづく)
 

犬死の扱い

 投稿者:高橋正彦  投稿日:2008年 7月22日(火)15時09分13秒
  知覧特攻平和記念館の件で述べられた趣旨については賛同します。然しながら特攻隊員を単に犬死だと断定する事にはいささか疑問に思っております。少年飛行兵出身者の中には本当に国に殉ずるのだと思っていた人も有ります。其れを当時の思想教育の結果であると断言するのは簡単ですが、そうでしょうか。更には遺族の感情はどの様に説明するのでしょうか。犬死と解っていて死地に送り出すのでしょうか。此の辺の説明無しで断定するのはいささか独断的と思うのですが。  

Re: 『蟹工船』と日本共産党

 投稿者:tpkn  投稿日:2008年 7月21日(月)08時34分35秒
  > そんな「貴重な証言」をくださったtpkn氏も含めて、やはりあちらの掲示板の住人というのは、敵も味方も似た者どうしって感じは否めません。悲しいかな、あちらの人たちには、人間としての「品格」が欠落しています。

うーん。こういう幼稚な対人論証を(おそらく)いい歳して垂れ流すのは、あまり品格のある行為とは言えませんね。あなたご自身が引用した《論旨と論拠とがハッキリ、しっかりしておれば、議論は自ずからにして決する。その際他を貶しめ、己れを誇称するような言葉は附け加えない方が却って目的に適うと思う》にも真っ向から反しています。

ところでホランドさんて本名ですか?
 

追記

 投稿者:Keen  投稿日:2008年 7月20日(日)23時46分59秒
  ☆園主さま

>まさに、私たちの今の現実は、『虚無への供物』が描いた「現実の殺人と虚構の殺人の相克と一致」という問題を、そのままのかたちで再現しはじめたのかも知れません。

さすがは園主さま、うまいこと言うなあーと思っていたのでした。さっき書き忘れました、ごめんなさい。
いつも私がモヤモヤと、うまく言語化できないでいるところの思いを、園主さまは批評家の言葉で簡潔に表現して下さるんですよねー。おかげさまでスッキリできます。(^-^)


☆ホランドくん

>「秋葉原通り魔事件」と『虚無への供物』を、斎藤環の「過酷な現実から逃避しそこなった者の犯罪」という見地から結びつけたご意見ですね。

私も斎藤環の記事を読んだ当初はなるほどなあ、とは思ったものの、そこから即座に『虚無への供物』を連想したわけではありませんでした。あれ、この感じはどこかで知っているぞ、なんだったっけ……ああ、そうだ!てな具合でした。
つまり『虚無への供物』が予言書のごとくに、今日の事件や人々のあり方を内包していると感じたわけです。


> 「現実と虚構」「観念と現実」といった、世界解釈における「ニ分法」というのは、ボクたちが考えているほど、確たるものなのか?
> ボクたちは、自分だけは現実を見て、現実を生きているつもりでいるけれど、ボクたちが見ている現実というのは、いつでも「限定された現実」であり、それがまたしばしば「環境管理型権力」によって「ソフトに管理され、気づかぬ視覚限定を通して見た現実」であったりし、その意味ではそれは「編集された現実としての虚構」だとも言えるのではないでしょうか。

私が最近よく見ているNHK『爆笑問題のニッポンの教養』という番組で、松岡正剛が出演した「世界は編集されている?」という回がありました。公式サイトの内容紹介では、個性とか概ねその良い面について書かれていますが、確か番組内では情報操作の危険についての言及もあったと記憶しています。
先日、友人と全く同じモノ(シチュエーション)を見たにも関わらず、互いの認識がまるで違っていたことに驚いた、ということがありました。自分にとっての現実は、他人のそれとは別物だと思い知らされました。
 

茶道とミステリ

 投稿者:Keen  投稿日:2008年 7月20日(日)22時59分51秒
  そんなに南に位置しているわけでもないのに、何故かしばしば全国一に近いほど気温が上昇する名古屋です。昨日、今日はホントに暑い……37度オーバーのこんな猛暑でも、なるべくエアコンはつけないように努めているので、今日も夕方までがんばりました!と言っても、午後はお茶のお稽古だったので、お茶室で涼んでましたが。あ、実は昨年秋から、長年の夢だった茶道のお稽古を始めたんですよ!

山口雅也『日本殺人事件』(角川文庫)所収の「侘の密室」は茶道を扱ったミステリなのですが、今読み返してみても、山口さんの茶道に関する知識はなかなか深いと思います。他に茶道がらみのミステリというと、すぐに思いつくのは園主さまにいただいた連城三紀彦『瓦斯灯』(講談社文庫/絶版)所収の「花衣の客」ですが、あれは初読時には「ほー」と思ったものの、自分でお点前をするようになってからはそのトリックが成立し得ないことがわかってしまって、ちょっとガッカリしています。そういえば、映画『女王蜂』でもお茶を点てる茶筅に毒が仕込んであって、という殺人がありました。原作がどうなっているかは知らないのですが、このトリックもやっぱり無理ですね。茶道では、必ずお茶を点てる前に道具をお湯ですすいで清めるので、毒物は洗い流されてしまうからです。よしんば毒が残ったとしても、致死量には至らないのではないかと。

茶道が大成したのは戦国時代ですから、当然毒殺の危険には常に備えていたと推察されます。それで全ての道具を洗い拭き清めるという作法が確立したのではないかと考え、私の先生にも「茶道による殺人の可能性」について伺ったことがあるのですが、はっきりとした返事はいただけませんでした。うがち過ぎ?しかし、高級なお茶入れは蓋の裏に銀が貼ってあって、毒物に反応すると黒ずんで知らせてくれるという、これは本当のことですから、私の推察もあながち間違いではないんじゃないかと、勝手に自負しております。


☆ホランドくん


>『せつないいきもの』(光文社ノベルス)

竹本健治の新刊がもうでちゃいました!
でもここはググッとこらえて、『キララ、またも探偵す。』の感想文を書いてから読むことにします。竹本さんの新刊がこんなに続けて出るなんて、めったにないことじゃないですか!普通は年単位でしょ?そんなに次々と読んだらもったいない……!
というか、今回は新書で安いので、ネット書店の送料節約のために中井さんの『幻戯』とあわせて注文することにします。まあ、来週にはハリー・ポッターの最終巻も出ますから。


☆園主さま


>あのリレー小説『吹雪の山荘 ――赤い死の影の下に』(東京創元社)のように、歳をとったナディアが事件の現場に立って動き、歳をとった矢吹駆がチラチラと時々姿を覗かせながら、最後は電話か手紙などで推理(謎解き)を語る、というパターンなのでしょうね。

こちらにもナディア(歳をとった)が出演しているのは知りませんでしたので、早速図書館で借りてまいりました!(笑)
これからは早めにエアコンをつけて、読書と作文に精を出すことにします〜。

ではまた。
 

『蟹工船』と日本共産党

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年 7月19日(土)23時52分7秒
   みなさん、こんばんは! 小林多喜二によるプロレタリア文学の名作『蟹工船』なら、誰もが教科書で習って、タイトルくらいは知っていますよね。ところが、その「読まれざる名作」が、ご承知のとおり、昨年後半からこっち、大ベストセラーになって、出版社各社が文庫本を復刊・増刷しているというんです。

 この『蟹工船』ブームは、どうやら若者プレカリアートの象徴的存在になったと言ってよい、元「ミニスカ右翼」雨宮処凛が、対談かなにかで、今の派遣社員の若者がおかれている労働環境を、小林多喜二が『蟹工船』に描いた悲惨な状況に見劣りするものではない、というようなことを話したのが切っ掛けで、若者の間でにわかに脚光を浴び、書店の即応的な売り込みも功を奏して、人気作家 東野圭吾(テレビドラマ『ガリレオ』の原作者)の新作とも肩を並べるほどの、本物の大ベストセラーになってしまった、という経緯のようです。

 で、話はここには止まりません。本年7月12日付けの『読売新聞』には、『「蟹工船」追い風』『共産党員9000人増』という見出しで、次のような記事が出ました(下は、前日の「gooニュース・YOMIURI ONLAIN」からです)。



『   蟹工船ブームも背景に? 共産党の新規党員9千人増加

                         2008年7月11日(金)21:13


 共産党の第6回中央委員会総会が11日、党本部で始まり、志位委員長は、新規党員が昨年9月の第5回総会時から約9000人増えたことを明らかにした。
 同党によると、党員数は1990年の50万人をピークに下落に転じ、2000年以降は38〜40万人で横ばいで低迷が続いていた。しかし、昨年9月の第5回総会以降、毎月連続して1000人規模で増え、計9000人増加したという。
 志位氏は幹部会報告で「(小林多喜二の)『蟹工船』が若者を中心にブームとなり、マルクスに関心が集まり、テレビ局は『資本主義は限界か』という企画を立てる。共産党がこれまで体験したことのない新しい状況だ」と指摘。さらに年内に2万超の新規党員を獲得する目標を掲げた。(以下略)』



 『1990年の50万人をピーク』に『2000年以降は38〜40万人』で横ばいって、たったの10年で5分の1にあたる党員を減らしたってことでしょう。これはハッキリ言って、激減ですよね。でも、その明白な低落傾向に歯止めを掛けたに止まらず、逆に昨年9月以降の1年弱で9000人増と言うんだから、これはこれですごい。

 新聞が『蟹工船』の影響か、って書いていますが、たしかに思いつく要素は、それくらいしかないですよね。共産党が、なにか目新しいことをやったなんて話は、とんと聞きません。

 つまり、推測ではありますが、――長らく「どの政党にも期待できない」と諦めていた若者たちが、『蟹工船』に収められた同作や「党生活者」などの作品を読んで、初めて、昔の「革命政党たる日本共産党」の姿を目の当たりにし「もしかすると、共産党なら、世の中を変えられるかも知れない」という期待を抱いて、共産党に入党しはじめた、ってことなのではないでしょうか?


 でも、もちろん多くの大人たちが考えているように、問題は、そう簡単なものではありません。平たく言えば、今の日本共産党と昔の日本共産党は、同じではない。「暴力革命」路線についての「綱領」ひとつ取ってもみても、ハッキリと変わっているはずです。
 無論、今のご時世に「暴力革命」なんて、決して歓迎されるものではないですが、虫けら扱いで使い捨てにされている若者たちならば、「暴力革命」に希望を見い出すことだって、あり得ないことではありません。むしろ、そうした過激路線に惹かれたからこそ、社民党や民主党ではなく、共産党だったということなのではないかと疑われる。

 ただ、今の共産党が、こうした若者の期待にどれだけ応えられるかというと、それは大いに疑問だと言わなければなりません。

 昨年のベストセラーで、元日本共産党のナンバー4であった筆坂秀世の『日本共産党』(新潮新書)によれば、戦後の日本共産党は「獄中不転向の闘士」である「天皇 宮本顕治」の独裁(トップダウン)体制が、宮本の老齢で身動きが取れなくなるまで続き、その後は、宮本にまったく頭の上がらなかったナンバー2の不破哲三 前中央委員会議長が、党付属シンクタンクである「社会科学研究所所長」に就いて、表面上は一線を退いた現在も、宮本直伝の独裁体制を堅持していると言います。

 つまり、そんな硬直した組織に、イマドキの若者がどこまでついてきてくれるのか、ということですね。それに、少なくとも昨年夏までは、党員の高齢化が進み、地方末端組織の平均年齢は60を超えるというようなことも書かれていましたから、そこに「若い血」が入るのは、組織として喜ばしいことではあるけれど、40万人の年寄り組織に約1万人の若者が入ったということは、「41人クラスに、若者はたったの1人」という割合になってしまいます。もちろん、党員の増加は、地方よりも都会中心なんでしょうが、それにしたって、そんなに極端に割合が変わるわけではありませんから、そんな大勢の年寄りの中に、若者がポツンと入って、本当に活躍することができるのか、という疑問が浮かんできます。


 もちろん、ボクは「だから共産党には期待できない」と言いたいのではなく、若者が大量入党したこの機会に、共産党は旧弊な部分、改めるべき部分を改めて、若者たちが生き生きと活躍できる組織になってほしいと思うんですね。
 「言うは易く、為すは難し」だというのは重々承知していますけど、この機会を逃したら、もうホントに、共産党が復活する機会は、永遠に遠ざかってしまうかも知れません。

 ボクは日本共産党の支持者じゃないけど、共産党がホントに庶民のために闘える政党になるのであれば、これを応援するのに吝かではないつもりなのです。だから、どうかこの千載一遇のチャンスを、自ら潰すようなことだけはしないでくれと、そう祈らずにはいられません。





 さま

私も抱えた常なる自らへの私憤

実践としての知的態度

> さてさて、鬼の監察官に定期報告でもショーかなー。
> 体調は元気元気!週2〜3回の仕事をこなし、あとは音楽と読書三昧ですのん。
> ホランドさん推薦の『幽霊人命救助隊』がドツボり、一気に読み進んでます。

> 「成程、それで、僕にこの本を…」

> 読書感想文はもう少しまってくださいねー。


 「一気読み」をなさっているということは、最近、感じることのなかった種類の「面白さ」を感じていただけたということですよね!

  やっぱり、難しい本ばかり読んでたから、ちょっとノリが悪かったのであって、必ずしも心身の不調から来る無感動ではなかったということなんじゃないでしょうか。すこし安心しました(^-^)。


> サイードは、一般的に「職業人」として、認知される「知識人」、つまりアカデミックな分野で、権威的な肩書きを持つ人々ではなく、「知的な態度とは如何なる様態を指すのか」という点に絞られて書いています。


 つまり、「世間で言うところの、知識人」ではなく、「真の知識人とは」という話ですよね。


> 『聴衆に迎合するだけの知識人というものは、そもそも存在してはならない。知識人の語る言葉は、総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快であったりするものだのだ。』(P39)←まさにアリョーシャ/笑


 そうですね。サイード自身、アメリカで比較文学の教授をしていながら、パレスチナの声を代弁したために、イスラエル・ロビーが巨大な影響力を持つアメリカでは、時に「テロリスト教授」と誹謗され、「キチガイ」呼ばわりされることも、決して珍しくはなかったそうですからね。

 真実を語ることは、時に、――と言うよりも、しばしば、多くの「既得権益者」の怒りを買うんだ、ということでしょう。
 もちろんそれは、少数の権力者や有力者ばかりではなく、その場の「多数派一般人」であることも珍しくない。

 例えば、少数犠牲者の上に成立した、一見「豊かで平穏な社会」について、「じつは、その豊かさや平穏さは、少数犠牲者の存在から目を逸らすことによってのみ保たれているものなのだ」なんて「真実」を語り、告発したりすれば、その「真実を知り語る人=知識人」が、多くの人に憎まれるのは必定でしょう。「本当の事」を言うからこそ、憎まれるんです。


> 『知識人のいだく希望とは、自分が世界に影響をおよぼすという希望ではなく、いつのひか、どこかで、誰かが、自分の書いたものを自分で書いたとおりに正確に読んでくれるだろうという希望なのだ。』(P100)←アリョーシャの心象そのものじゃないかな。


 そうでしょうね。上で言う「多数派」の承認支持を取りつけるためではなく、そこから排除された「少数派」を励ますものとして発せられる「真実の言葉」。それが、サイードの言う「知識人」の言葉なのではないでしょうか。



 Keenさま

 ご無沙汰しております。お元気でいらしたようですね(^-^)。

おおっ!

> 園主さまの近刊情報に思わず飛び込んで来てしまいましたっ!
> 中井さんの「新刊」が出るんですね〜……じーん。
> 楽しみにしています♪


 中井英夫の新刊『幻戯』の刊行は、すこし遅れて8月5日となりましたが、それにしても、もう間もなくですよね。
 Keenさまなら、当然ぜんぶ読んだことのある作品ばかりでしょうが、今回のは編集構成に凝ったものみたいですから、どんな切り口の中井英夫ワールドが展開されるのか、そこが見どころと言えるでしょうね。


> で、近日中に『キララ、またも探偵す。』の感想文を書こうと思っています。園主さまにはずっと前に予告していたことですが……サッカーと家庭の両立で手一杯でしたので、これから書きます〜。


って、ことでしたが、そうこう言っているうちに、竹本健治の新刊が出ました!


 『せつないいきもの』(光文社ノベルス)


 「牧場智久の雑役シリーズ」第2弾で、「青い鳥、小鳥」「せつないいきもの」「蜜を、さもなくば死を」の3編が収録されています。

 それにしても、竹本さんって、タイトルをつけるのがうまいですよね。―― でもなあ、このシリーズで、どこまで「せつない青春」を描けるのやら・・・。表紙の写真や帯の惹句は、完全にそっちを思わせるんだけど、信じていいのだろうか?


 さて、中井英夫・竹本健治ときたら、3人目はもちろん、笠井潔!


>> ・ 笠井潔『青銅の悲劇 瀕死の王』(講談社・7月28日頃)
>> 「本格ミステリ大賞」を受賞の、あの凡作『オイディプス症候群』につづく、シリーズ第6弾だそうでございます。

> 出版順序ではそうなりますが、内容の方は時代設定からもわかるように、いわゆる「駆シリーズ」の後日談ということになります。
> 『メフィスト』誌上で部分的に読んでいるのですが、例によって大幅に加筆・訂正されているでしょうから、連載当時に「ええ〜っ!?」と感じた部分がどうなっているのか、見届けようかと思います。
> しかし凶器のレベルの厚さって……置き場所に困るし、お値段も張りそうですねえ。私も図書館にリクエストしてみようかな〜、まあ、同士が誰か先に入れてくれるでしょうが。


 たしか中井さんのエッセイに「老いたるアリョーシャ」ってのがありましたけど、「歳をとったナディア」に「歳をとった矢吹駆」が「日本で」ってところが、それだけで、なんだかなあー・・・と。


洞爺湖の風景

> 洞爺湖サミットが閉幕しました。
洞爺湖といえば→青函連絡船洞爺丸→洞爺丸沈没事故→中井英夫『虚無への供物』(講談社文庫)と、最近、洞爺湖という文字を見るたび、聞くたびに連想していたのでした。

> というのも、先月秋葉原で起きた無差別殺傷事件について、精神科医の斎藤環が読売新聞のインタビューに答えた記事 『「オタク」なりきれず孤独感』に、『虚無への供物』の影を見たからなのです。


 「秋葉原通り魔事件」と『虚無への供物』を、斎藤環の「過酷な現実から逃避しそこなった者の犯罪」という見地から結びつけたご意見ですね。

 「現実と虚構」「観念と現実」といった、世界解釈における「ニ分法」というのは、ボクたちが考えているほど、確たるものなのか?
 ボクたちは、自分だけは現実を見て、現実を生きているつもりでいるけれど、ボクたちが見ている現実というのは、いつでも「限定された現実」であり、それがまたしばしば「環境管理型権力」によって「ソフトに管理され、気づかぬ視覚限定を通して見た現実」であったりし、その意味ではそれは「編集された現実としての虚構」だとも言えるのではないでしょうか。

 「現実と虚構の交錯するフィクション」である『虚無への供物』が、読者をクラクラさせるのは、笠井さんも言ってたとおり、その一瞬、読者に「現実」を垣間見させる力を持っているからなのかも知れません。



 kamuiさま

小さな覚悟と大きな未来

> 世間の評価など気にせずに、筋を通した生き方をすればするほど孤立してしまいますが、それはさほど気にならなくなりました。だから、結果など恐れずに自分の信念に従って行動できればいいのですが、世間のぶ厚い壁に容赦なく阻まれてしまいます。
> 「もっと馴れ合いましょう」と誘惑する世間へのレスポンスとして、「私は私の道を行く」と言い切っても、相手にはそれが開き直りとしか受け止められていない寂しさ。拒むというより、じゃれあうのが嫌いなだけなのですが、それが私を孤独へ向かわせてしまいます。どこまで行ったら出口が見えるのでしょうか。
> この先、たとえ一人だとしても、現実にはしっかりと目を向けて対処していき、決して観念の中だけで自己満足するような人間にはなりたくありません。


 たぶんこれは、ご自分に言い聞かせている言葉なのでしょう。そう簡単に、ここまで覚悟できるものではないですからね。むしろ、ホントの気持ちは、なにか事あるごとにグラグラ揺れて、一進一退をくり返しているのではないかと拝察します。

 でも、そうした動揺や迷いは、決して恥ずべきものではありません。今、kamuiさんがおかれている状況におかれれば、誰だってそうなるんですから。
 だから、大切なことは、現にそんな過酷な状況を生きているという、その事実なんだと思います。その事実の積み重ねが、kamuiさんを少しずつ成長させているのだと、ボクは確信しています。



 園主さま

平和運動家論争(増補改訂版)

掲示板「田中荘新館」への初投稿


 掲示板「田中荘新館」の方での議論は、どうやら片づいたみたいですね。

 園主さまが、あちらの管理人であるinti-sol氏に「貴方は『問答有用』掲示板の管理人である「問答有用管理人団」の一人、またはそのものなのでしょう?」と質問したところ、inti-sol氏は「それに答える必要はない」と回答を拒絶しましたが、やはりinti-sol氏が(少なくとも過去には間違いなく)「問答有用管理人団」の一人であったことが、tpkn氏によって暴露されたんですからね。――つまり、熊谷伸一郎氏とその周辺は、例外なく、その「隠蔽体質」を共有しているというのがハッキリした、というわけです。

 ちなみに、そんな「貴重な証言」をくださったtpkn氏も含めて、やはりあちらの掲示板の住人というのは、敵も味方も似た者どうしって感じは否めません。悲しいかな、あちらの人たちには、人間としての「品格」が欠落しています。どっちもどっちで、匿名だと「恥知らず」になれる人たちなんですね。



『 議論をするときは、論旨と論拠とを明確に述べ、当否の判断はこれを第三者に任すということであって欲しい。論旨と論拠とがハッキリ、しっかりしておれば、議論は自ずからにして決する。その際他を貶しめ、己れを誇称するような言葉は附け加えない方が却って目的に適うと思う。
 往年河上肇、福田徳三の両氏が、たしか資本蓄積論について論争したことがある。この時、河上氏はその論文中で、しきりに自分の議論の優越を主張し、論争は自分の勝ちだといった。それに対して福田氏は、勝ち負けは行事がきめる。相撲取り自身が言うべきことではない、といった。
 議論全体の当否は別とし、この点だけについて言えば、福田氏に賛成である。仮りに土俵上の力士が、行事の軍配を待たず、揉み合いながら、或いは土俵を割りながら、自分で「勝った、勝った」と連呼したとしたら、可笑しなものであろう。
 しかし各種の論争文を見ると、今日でも、議論をしながら自分で勝名乗りをあげているものが少なくない。そうしてその効果は多くの場合、期待に反する。それは自信溢流の結果であるか、或いは却ってインフェリオリティ・コムプレックスの変形的表現か。いずれにしても無益なことである。』

             (小泉信三「論争と勝名乗り」全文、『平生の心掛け』所収)



 ちなみに、「自信溢流」とは「自信過剰」、「インフェリオリティ・コムプレックス」とは「劣等感」のことです。



『 インフェリオリティー・コンプレックス

心理学で、劣等感のこと。コンプレックス。
劣等感
inferiority feeling ; inferiority complex
 容姿,体力,知的能力,性格,血筋,財産,社会的地位などの点で,自分が他者よりも劣っているという感情である。客観的に他者よりも劣っているということよりも,主観的に劣っていると思い込むことにより生じる。劣等感がコンプレックスを形成すると劣等感コンプレックスとよばれる。アドラーは劣等感(コンプレックス)と優越感(コンプレックス)を相互補償的な関係で捉えた。』



「夢見る批評家」が見落とす「現実」


 要するに、EQ3氏は、昨日今日の知り合いじゃなく、初めて読まされたわけでもない園主さまの論文における、『』(引用符)と「」(強調符)の使い方を混同し、見当違いな批判をした、ということですよね。


 でも、これだけじゃあ、ちょっと閲覧者のみなさんに不親切だから、ボクが少しだけ補足しておくと、――ここで園主さまに批判されている、EQ3氏の論文「鮎川哲也『青いネッカチーフ』――知られざる実験作」の主旨は、一般には、そして当たり前に読めば「駄作・失敗作」としか読めない鮎川哲也の『青いネッカチーフ』に関し、あえて過剰な「裏読み」を施すことで「(単なる駄作・失敗作ではなく)実験作だったと理解することも出来る」と主張した論文なんですよね。


 で、こうしたご自身のスタンスを、EQ3氏は『もちろん、これが深読みのしすぎで、(…)という考えが正しいという可能性もあるだろう。しかし、より楽しいのは、(…)夢のある見方がどちらなのかは、言うまでもないはずである。』あるいは『もちろん、これが牽強付会で、(以下、ほぼ同文)』と書かれた。
 つまり「当たり前に失敗作だと理解するより、じつは実験作だったのだと考えた方が、夢があるし、前向きだろう」と主張なさったんですね。

 それに対し、園主さまは「それは、夢があるとか、前向きだとか言うことではなく、物事を見たいように見る、自堕落な自己肯定でしかない。そんなことだから、論敵の論文を客観的に読むことが出来なかったのだ」と批判なさったわけなんですね。


「現実の殺人」と「虚構の殺人」の相克と一致

> でも、こう言うと、必ず「しかし、法律の是非を個々人が判断して、それに従ったり従わなかったりしたら、それらは法律として機能しなくなり、社会は無政府状態の混乱に陥るしかない」なんて言う人が出てくるんだな。――しかし、これは間違いだ。

> なぜならば、国法というものは、国家が独占する暴力(国家権力)によって国民に「強制されるもの」だからこそ、99%の国民には「抗い得ない強制力」として機能するんだ。
だから、ハッキリとした悪法に抗える者もごく少数なら、悪法とは言えない法律にあえて抗うような酔狂な人は、望んだって、なかなか出てはこない、ということになる。

> だからこそ、悪法だと思えば、抗うべきなんだ。抗うべきであっても、実際に抗える人は稀だからこそ、「悪法とは抗うべきもの」とまで言っておいても、なんら問題はないんだよ。
> 国民がバラバラに、国法に反して行動する「アナーキーな状態」なんて、望んだって、なかなか実現するものではないんだ。――反抗者は、いつだって少数派なんだよ。


 「悪法に従うことは、悪である」という、ご自身の考え方についての注釈です。


 そうですね。権力者の側、体制の側の人間というのは、何かあるとすぐに「そんな権利を認めたら、みんなが好き勝手やって、世の中がめちゃくちゃになってしまう」なんて言いたがるけど、人間というのは、基本的に「社会的な動物」であり、善かれ悪しかれ「個人主義」を貫けない「群れの動物=大勢順応型」なんだから、よほど現状がひどいものでないかぎりは、そうそう『万人は万人にとって狼である』(ホッブス)みたいなことにはならない、ということですよね。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。
 

小さな覚悟と大きな未来

 投稿者:kamui  投稿日:2008年 7月19日(土)13時27分53秒
  簡単な「散文」を書きましたので、アップさせていただきます。

「小さな覚悟と大きな未来」

私だけの憩いの場所は3人の子どもたちと対話している時かな。と言っても、まだ上の子も小学校の就学前であり、対話というよりも愛情のこもった言葉を投げかけているといった言葉遊びのような感じです。私にとってはとても貴重な時間帯であったそんな休息の空間が消失してしまったのですが、それによって一人でゆっくりと考えるという貴重な時間帯が増したりもしました。
しかし物事を考えていても、やはりその背後にはどこかで子どものことを配慮しようとする思考が私を捕捉して離しません。

ダメな親父から這い上がろうと懸命にもがいているのですが、一度張り付いてしまったレッテルはどこまでも私につきまとってきます。

世間の評価など気にせずに、筋を通した生き方をすればするほど孤立してしまいますが、それはさほど気にならなくなりました。だから、結果など恐れずに自分の信念に従って行動できればいいのですが、世間のぶ厚い壁に容赦なく阻まれてしまいます。
「もっと馴れ合いましょう」と誘惑する世間へのレスポンスとして、「私は私の道を行く」と言い切っても、相手にはそれが開き直りとしか受け止められていない寂しさ。拒むというより、じゃれあうのが嫌いなだけなのですが、それが私を孤独へ向かわせてしまいます。どこまで行ったら出口が見えるのでしょうか。
この先、たとえ一人だとしても、現実にはしっかりと目を向けて対処していき、決して観念の中だけで自己満足するような人間にはなりたくありません。

そして、今は自分の子どものためとしか言えないような小さな覚悟しか持ち合わせていませんが、いつか「全ての子どもたちのために私は闘い続けている」と確信を持てるように。



★淳さん


>そそ、遅読ながら、サイードの『知識人とは何か』も中盤(110項)にさしかかってますが、
kamuiさんの実践にも深く通底するような本ですよ。


『知識人とは何か』を精読されているお姿が浮かびます。たぶん理論的な書物で抽象的な事柄が書かれていると推測いたしますが、淳さんの読書の進め方は私にも参考になっていますよ。

それは、実際の行動に当てはめながら論理を確証されていき、論理に肉付けを施している作業のことです。

淳さんは、ただ(知識人的態度)を私に当てはめているので、そこは自分の愚かさを知っている私には、過剰な賛辞だと受け止めています。でも、素直にいいますが、淳さんのような真面目な方にそういわれるとやっぱり嬉しいですね。(笑)
 

実践としての知的態度

 投稿者:  投稿日:2008年 7月17日(木)19時41分34秒
  ★アリョーシャ&kamuiさん

>私が連絡を取るのを待たずに、定期的に現状報告をなさって下さいまし(ビシッ)。

さてさて、鬼の監察官に定期報告でもショーかなー。
体調は元気元気!週2〜3回の仕事をこなし、あとは音楽と読書三昧ですのん。
ホランドさん推薦の『幽霊人命救助隊』がドツボり、一気に読み進んでます。

「成程、それで、僕にこの本を…」

読書感想文はもう少しまってくださいねー。

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『良人の部屋』でのアリョーシャの「濃い情」に依拠した𠮟咤に、僕自身も励まされています。


そそ、遅読ながら、サイードの『知識人とは何か』も中盤(110項)にさしかかってますが、
kamuiさんの実践にも深く通底するような本ですよ。

「よっ!言いえて妙なり!」

と叫びたくなるよな断章に満ちています。何よりペダンティックな文章じゃないし、具体例(知識人とその生き様)を提示して、「知的態度」について論究しているんで、比較的わかりやすいです。無論、安直に判った気になるのが一番危険ですが。。。

サイードは、一般的に「職業人」として、認知される「知識人」、つまりアカデミックな分野で、権威的な肩書きを持つ人々ではなく、「知的な態度とは如何なる様態を指すのか」という点に絞られて書いています。

サイードのいう「知的な態度」を十把一絡げに語ることは出来ませんが、他者との堕落した共生(結託)を断固として峻拒し、結果として殆ど、どん底ともいうべき貧困生活を微塵も恥じない、大西巨人が如くの「かっこ良さ」に相通じる断章に遭遇すること暫しで、赤ペン持っては、カキカキしています。

サイードは、ジュリアン・パンダを援用して、知識人と一線を画する存在として、『俗人集団』を挙げ、『彼らは、物質的な利益とか個人の栄達に関心をよせるだけでなく、機をみるに敏で、世俗の権力におもねる凡庸な人たちである』(p30)とし、それに対置するかたちで、知識人を『形而上的で高尚な理念に衝き動かされつつ、公正無私な真実と正義の原則にのっとって、腐敗を糾弾し、弱きを助け、欠陥のある抑圧的な権威にいどみかかるときなのだ』(p30)としています。

さてさて、これって、まさにkamuiさん(知識人的態度)と経営陣(俗人的態度)との対決じゃないですか?
なんか実に今回のkamuiさんの闘いが如何に知的奮闘に基づいた行動かよく整理され理解できます。

歯に衣着せぬ言論を展開するアリョーシャにも重なる断章も沢山散りばめられていますよ。ここでは、「知識人」に特化して引用しますが、非常に理解しやすい言葉で記述されています。しかし、下記の引用にもあるように、知識人とは『安易に理解』されるような『甘い罠』に引っかからないよう努める個人をいうのでしょう。ですので、いずれも箴言でありながら、実践するということが如何に困難であるかは、kamuiさんの闘いをみるに明らかですね。

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『知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを、表象=代弁し肉付けし明晰に言語化できる能力に恵まれた個人』(P37)

『聴衆に迎合するだけの知識人というものは、そもそも存在してはならない。知識人の語る言葉は、総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快であったりするものだのだ。』(P39)←まさにアリョーシャ/笑

『知識人の表象とは、懐疑的な意識に根差し、たえず合理的な探求と道徳的判断かへと向う活動そのものである。またそうであるがゆえに、知識人たらんとする個人は人々の記憶に刻まれたり、危険な目にあったりするわけである』(P50)

『知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間で』(P66)

(アドルノを援用して)
『(知識人の表象の核には)、どのような場所にも安住できず、成功という甘い罠にはまらないように警戒を怠らない知識人の意識である。(略) 成功した状態とは、安易に理解されることのないように意識してつとめる状態をいう』(P99)

『知識人のいだく希望とは、自分が世界に影響をおよぼすという希望ではなく、いつのひか、どこかで、誰かが、自分の書いたものを自分で書いたとおりに正確に読んでくれるだろうという希望なのだ。』(P100)←アリョーシャの心象そのものじゃないかな。
 

中井英夫『幻戯』の刊行延期に

 投稿者:園主  投稿日:2008年 7月14日(月)23時00分11秒
  みなさま、取り急ぎご報告させていただきます。

先日ご報告いたしました、中井英夫の新刊『幻戯』(出版芸術社)の刊行が、8月5日に延期されました。
楽しみになさっていた方には肩透かしをくわせる形となりましたが、今暫くお待ち下さいますよう、よろしくお願いいたします。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

「現実の殺人」と「虚構の殺人」の相克と一致

 投稿者:園主  投稿日:2008年 7月11日(金)17時02分7秒
 

 さま

アレクセイは時にイヴァンであり、時にアリョーシャである。

> レスが遅いなあーと寂しい思いをしていたのですが、峻厳ながら暖かい情でkamuiさんを支えてらっしゃったんですね。ブログを読みながら感動を新たにしました。
> 思いましたのは、アリョーシャはイヴァン性とアレクセイ性が混交した感じだな…と。


今は、kamuiさまの鬼監督を務めさせていただいておりますよ(笑)。
電話でも、文字どおりビシバシと。


> ははははは〜。
> アリョーシャは僕の「終身名誉保護観察官」に任命してもらっておりますなあー/苦笑


そう思うのでしたら、私が連絡を取るのを待たずに、定期的に現状報告をなさって下さいまし(ビシッ)。


> まあ実際、現実の精神状態は乱高下を繰り返しています。
> 対象(音楽、文学)に対して、「優れている」という認知が出来ても、それが僕の「感動という情感」に結び付かないないんですね。つまり「対象の価値」と「感情の換気」の接地点に齟齬があって、何事も楽しめないという辛い現状があります。『鉄鼠の檻』ですら、手に付かないのですから…

> その代わり、サイードの『知識とは何か』が平易な文体で、しかも裨益するところが多く、また稚拙であろうと読書感想文でも書ければと思っています。


「わかりやすい形での感動」が無いというのは、とても寂しいことございましょう。しかしながら、文章の内容が理解できて「良いものを読んだなあ、裨益されたなあ」と思えるのであれば、それも立派な「感動」でございますよ。そうした「静かな知的感動」を、大切になさって下さいまし。


私も抱えた常なる自らへの私憤

> 僕は音楽に対して、確かに少数派の類するかもしれませんが、『ベストセラー』という「メジャー」というだけで忌避するような、歪んだ選民意識を持った趣味人が大嫌いなんです。


なるほど、もっともなことだと存じます。


> ってーことでamazonで早速注文しましたよん。

> アリョーシャからの大プッシュの『虚夢』と
> ホランドさんお勧めの『 幽霊人命救助隊 』


楽しんでいただければ、幸いでございます。読んだら、ぜひご感想をお寄せ下さいまし。

kamuiさまも『虚夢』を読んで「とても良かった。傑作だと思いました」とおっしゃっていましたが、今はとても忙しいため、ご感想の投稿をお願いすることも出来ません。


> ベッドの右に『自由と社会的抑圧』、左に『知識人とは何か』、お風呂には『鉄鼠の檻』…
> 机の目の前には、『全体主義の起源』階下の食卓テーブルには『新生』、
> 特に学術系は中途半端に、毎日数項捲ってポイッ!


>「わからん!!!!!!!」
>「マルキシズムを理解してない、僕がマルキシズム批判なんてわかるわけがない!!!」
> などと、途方に暮れています…やっぱ解説書かな〜。


「聖典」に直接挑むというのは、大いに結構なことだと存じますが、それにしても、そのラインナップを同時進行とは、いささか「欲張りすぎ」なのではないでしょうか。それでは「消化不良」になるのも、当然のことだと存じます(笑)。

私たちは専門家でも研究家でもないのですから、「思想家の思想」の正確な理解よりも、どんなかたちであろうと、ひとまず自分の血肉になるかたちで、いろんな思想を摂取できれば、それで良いのではないでしょうか。
また、その意味では「入門書」と言えども、軽んじられるべきではないと存じます。



 kamuiさま

加害者でもあること

> DV加害者の当事者である私は、当初、自身での加害者性にも気づかずに愚かな行為を繰り返していました。妻に対しては「世間ではもっとひどいことが行われている。お前が今の状態を改善しないと、いずれ苦労することになるだろう。現実をもっと知れ。3人の親として成長してほしい」などと自分を全く棚に上げた言葉を容赦なく妻に浴びせてかけていました。そして、挙句の果てに「何度同じことを言われても分からん奴は、牛や馬と同類やから体で覚えてもらうしかない」と、さながら暴君の論理を「躾の一貫」と錯覚していたのです。


現在、kamuiさまは、前にお務めになっていた介護会社の「社員への契約外労働の強制」や「介護保健の水増し請求」などを告発して闘っておられます。

そんなkamuiさまの口から時々漏れるのは「どうして、事ここに到っても、役員たちは、自分たちに逃場など無いということがわからないのだろう。まんざらバカな人たちでもないのに……」という言葉ございます。


しかし、こうした「現実」を裏返して我が身に引きつければ、いかに人間は「自分のことは見えないものか」「いかに反省という行為が容易なものではないのか」というのが、ご理解いただける存じます。

つまり「自分も自分のひどさ(身内への暴力)が見なかったように、他人も自分のひどさ(身内への横暴)が見えていないのだ」というのを、そこから学ぶことが必要ですし、人はたいがいは「私自身は、(現実を直視して)素直に反省することのできる人間だ」と思っていても、傍から見れば、ぜんぜんそんなことなかったりするものだという事実を、そこに学ぶことも出来ましょう。

つまり、奥さんへの暴力について「自分は十分反省している」つもりであっても、実際には「なかなかそう簡単なものではない」というのを、目の前の事例から学ぶべきなのでございます。



 Keenさま

ひさしぶりにお書き込みをいただきましたのに、レスが遅れてしまい、たいへん失礼いたしました。

私は現在、

 (1) 「平和運動家論争」のまとめ部分の論争
 (2) kamuiさんの告発なさった「介護保健不正受給事件」の側面からの支援


という「2つの案件」に関わっておりますので、どうしても「花園」の方がお留守になってしまっております。どうか今しばらく、ご猶予を下さいまし。


おおっ!

> 園主さまの近刊情報に思わず飛び込んで来てしまいましたっ!
> 中井さんの「新刊」が出るんですね〜……じーん。
> 楽しみにしています♪


今月中旬の刊行予定でございますから、もう間もなくでございますよね(笑)。

じつは、中井英夫関連書籍の刊行企画は、本年から来年にかけて複数進行しており、すでに決定したものもいくつかございます。まだオフレコの段階ですので、具体的なことはお話できませんが、その点では大いに期待していただいても結構かと存じます(笑)。


> 近日中に『キララ、またも探偵す。』の感想文を書こうと思っています。園主さまにはずっと前に予告していたことですが……サッカーと家庭の両立で手一杯でしたので、これから書きます〜。


期待しております(笑)。

それと、竹本健治については既に情報をお持ちでしょうが、他の方のために書いておきますと、『ツグミはツグミの森』に続いて、今度は、あの『闇に用いる力学』の「続編」の連載が、いよいよ始まるようでございますね。
私の場合、連載で読むことはいたしませんが、また面白い情報や感想がございましたら、気楽に書き込みにお出で下さいまし。


>>・ 笠井潔『青銅の悲劇 瀕死の王』(講談社・7月28日頃)
>>「本格ミステリ大賞」を受賞の、あの凡作『オイディプス症候群』につづく、シリーズ第6弾だそうでございます。

> 出版順序ではそうなりますが、内容の方は時代設定からもわかるように、いわゆる「駆シリーズ」の後日談ということになります。


あのリレー小説『吹雪の山荘 ――赤い死の影の下に』(東京創元社)のように、歳をとったナディアが事件の現場に立って動き、歳をとった矢吹駆がチラチラと時々姿を覗かせながら、最後は電話か手紙などで推理(謎解き)を語る、というパターンなのでしょうね。


> 『メフィスト』誌上で部分的に読んでいるのですが、例によって大幅に加筆・訂正されているでしょうから、連載当時に「ええ〜っ!?」と感じた部分がどうなっているのか、見届けようかと思います。


その「ええ〜っ!?」っていうのは、当然「良い意味での驚き」ではなく、「なにそれ? それはないでしょ!」の「ええ〜っ!?」なんですよね(笑)。

ちなみに、私がこの作品に期待できない理由は、前回ご紹介した、講談社編集者の、


 『 束見本(中は白紙で作る、本の体裁見本)をみて驚愕したのが、笠井潔さん
   の大作『青銅の悲劇 瀕死の王』です。これはもしや凶器!? のレベル。
   待望の矢吹駆シリーズ新刊は厚くて熱い! もはや臨界点に達していますが、
   ぐいぐい引き込まれて、ぐんぐん読めるのでご心配は無用です。     』


という「感想」に、編集者の「本音」が滲んでいる、と感じたからでございます。

つまり、昔の(全盛期の)笠井潔の「矢吹駆シリーズ」であれば、編集者もこんな「軽い」感想は書かず、「哲学的思弁とミステリ的謎の交錯する、一大推理巨編!」とかいった感じで「重々しく」誉め上げると思うのでございますよ。それが『ぐいぐい引き込まれて、ぐんぐん読めるのでご心配は無用です。』でしょう。――これじゃあ、良くて「やたらに長いけど、リーダビリティーは高いエンターティンメント」ということにしかなりません。「矢吹駆シリーズ」の場合、一般的な意味での「読みやすさ」は、必ずしも褒め言葉にはなりませんしね。


洞爺湖の風景

> 洞爺湖といえば→青函連絡船洞爺丸→洞爺丸沈没事故→中井英夫『虚無への供物』(講談社文庫)と、最近、洞爺湖という文字を見るたび、聞くたびに連想していたのでした。

> というのも、先月秋葉原で起きた無差別殺傷事件について、精神科医の斎藤環が読売新聞のインタビューに答えた記事『「オタク」なりきれず孤独感』に、『虚無への供物』の影を見たからなのです。


その記事は私も読んでおりましたが、『虚無への供物』と結びつけることはございませんでした。しかし、なるほどそういう「読み」も可能でございますよね。


要は、現代社会に生きる人間は誰しも「現実の過酷さ」に曝されており、そのためにいろんな「観念(思想・宗教・理想など)」や「虚構(芸術・娯楽作品や、それらに関するオタク的知識など)」、つまりKeenさまのおっしゃる「非現実」に「耽溺」することで、なんとか精神のバランスを取って生きているのだということでございましょう。

つまり、「過酷な現実」に曝された場合、人は「その悪しき現実」を「変えよう」と積極的に考えるか、それを「見ないように逃避しよう」とするかの違いはあっても、いずれにしろ「過酷な現実」そのものに止まることは出来ないのだ、ということでございましょう。

それならば、「悪しき現実を変えよう」と「良き方向性」に動ければいいのですが、それは必ずしも容易なことではございませんから、人はより安易な「逃避」の方に傾きがちでございます。しかしまた、この世の中には、その「逃避」すらうまく出来ない人も、当然でてくるのでございますね。
で、――「秋葉原通り魔事件」の犯人も、そんな不器用な人間の一人だったのでございましょう。


しかしながら、見方を変えると、彼は「逃避」に失敗したのではなく、「逃避の方向性を誤った」のだとも言えましょう。
つまり「安全な虚構としてのオタク的世界」の方にではなく、「危険な虚構としての、よりリアルな現実世界」の方へ逃避してしまった。――つまり、社会学者大澤真幸の「現実(リアル)への逃避」ということが、そこでは行われたのであり、この観点からすれば、彼は「例外的な失敗例」ではなく、昨今の風潮としての「現実への逃避」を端的に象徴する人物だった、と言えるのかも知れません。

リストカットなどの「自己の身体」への攻撃も「現実への逃避」なら、「人殺し」という「他者の身体」への攻撃も、「現実への逃避」に他なりません。
彼らは、この「過酷な現実」からの逃避を試みて、一般的な「虚構」への逃避を果たしえず、「より過激な虚構としての現実」への逃避へと赴かざるを得なかったのではないでしょうか?


まさに、私たちの今の現実は、『虚無への供物』が描いた「現実の殺人と虚構の殺人の相克と一致」という問題を、そのままのかたちで再現しはじめたのかも知れません。

つまり「秋葉原通り魔事件」の犯人にとっては、7人もの命を奪った犯罪も「虚構の中の殺人」に等しいものとしか感じられていなかった可能性が高く、だからこそ、何の怨みもない人たちを、何のメリットも無いのに、次々と殺害することが出来たのだ、とも考えられるのではないでしょうか。



 ホランド

今も昔も変わらない。

>  読売テレビの、あるニュースバラエティー番組で「死刑廃止論は廃止論として、それは議論の場できちんと論議すればいいのであって、現行法はそれとして尊重すべきであり、その法の執行官を、このように愚弄するのは間違いしょう」というようなことを言っていたコメンテーターもいましたね。


> たしかに「法」は尊重されなければなりませんが、園主さまがおっしゃるとおり、「法」にも誤りはあって、「誤った法」に従うのは、やはり、誤ったことなんですね。


そのとおりだ。

でも、こう言うと、必ず「しかし、法律の是非を個々人が判断して、それに従ったり従わなかったりしたら、それらは法律として機能しなくなり、社会は無政府状態の混乱に陥るしかない」なんて言う人が出てくるんだな。――しかし、これは間違いだ。

なぜならば、国法というものは、国家が独占する暴力(国家権力)によって国民に「強制されるもの」だからこそ、99%の国民には「抗い得ない強制力」として機能するんだ。
だから、ハッキリとした悪法に抗える者もごく少数なら、悪法とは言えない法律にあえて抗うような酔狂な人は、望んだって、なかなか出てはこない、ということになる。

だからこそ、悪法だと思えば、抗うべきなんだ。抗うべきであっても、実際に抗える人は稀だからこそ、「悪法とは抗うべきもの」とまで言っておいても、なんら問題はないんだよ。
国民がバラバラに、国法に反して行動する「アナーキーな状態」なんて、望んだって、なかなか実現するものではないんだ。――反抗者は、いつだって少数派なんだよ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

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「夢見る批評家」が見落とす「現実」

 投稿者:園主  投稿日:2008年 7月11日(金)17時00分25秒
  みなさま、本日は、ミステリ同人誌『SRマンスリー』2008年5月号(発行は本年6月末)に掲載された、拙論をご紹介したいと存じます。

この論文は、一昨年、私が同誌上でEQ3(いーきゅーさん)氏と論争をした際に書いた文章(2006年5月号所掲)に対し、EQ3氏から「出し遅れの証文」的に同誌本年3月号に提出された、私への批判を含む論文「鮎川哲也『青いネッカチーフ』――知られざる実験作」に対し、私がさらに論駁を加えた文章でございます。

したがいまして、みなさまが「EQ3氏の文章を確認しないことには、どちらの意見が正しいのか判断できない」とお考えになるのは、まったくごもっともだとは存じますものの、今回の私の文章を読んでもらえば、「どちらが正しいのか」などと考えるまでもない、つまらない議論であるというのは明らかになると存じますので、ここでわざわざEQ3氏の論文(や、それ以前のやりとり)を紹介するの労を採ることはいたしません(EQ3氏の方から「記載したい」というお話があれば、別ございますが)。

では、なぜわざわざここで掲載するのかと言えば、『SRマンスリー』に掲載された拙稿には、原稿時の誤変換や掲載時の脱字がございましたので、その部分をフォローして、反論の用に供したいと思ったからでございます。


なお、EQ3氏の「3」にあたる部分は、正しくは「ローマ数字の3=縦棒三つの3」なのですが、私の使用しているMac(マッキントッシュ・コンピュータ)では、ローマ数字は「機種依存文字」となっており、ウインドウズ・パソコンでは文字化けしてしまいますので、ここでは便宜的にアラビア数字の「3」を当てさせていただきました。
また、原文は縦書きなので漢数字を多用しており、その点はそのままといたしますが、パソコン画面上での読みやすさに配慮して、ここでは改行を加えました。悪しからず、ご了承下さい。

EQ3氏は、綾辻行人や法月綸太郎や笠井潔らも入会している、日本の「エラリー・クイーンファンクラブ」の会長で、「飯城勇三」名義でクイーンの翻訳書や解説書もある、SRの会のベテラン会員(私より年長で先輩)でございます。


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          夢見る批評家 EQ3氏


                                  田中幸一



 『SRマンスリー』二〇〇六年七月号掲載の拙文をもって決着がついたと思っていた「論争」に関し、今頃になってEQ3氏から、『反論』ではないらしい、ご「批判」らしきものをいただいた(二〇〇八年三月号所掲)。しかし、その内容には、ただ唖然とさせられた。要は、私が氏の言葉を正確に引用せず、勝手気ままに要約したものを、引用文であるかのよう偽って反論した、とおっしゃるのである。
 ああ、私はなんと「初歩的なインチキ」を犯していたのだろうか! ――と言いたいところだが、事実は左に非ず。真相は、氏が、私の使う「引用府(※ 原稿のまま)」である『』(二重カッコ)と、「強調符」である「」(一重カッコ)を混同しただけだったのだ。

 本読み、とくに批評文読みには今さら断るまでもないことなのだが、ここが論点なのであえて断っておくと、「引用符」や「強調符」といったものは、人(や場合)によって異なり、何を使うかは本人の「好み」に任されている。私が誰の影響で、「引用符」として『』を、「強調符」として「」を使うようになったのかは、もう記憶にもないけれども、この平凡なスタイルを確立して十年以上になるのは間違いない。例えば、氏のご批判と同じ号に掲載された拙論「早く〈人間〉になりたい!」を読んでいただいてもわかるとおり、私は、『』を「引用符」として(そして、長編タイトルを括る記号として)使っているし、「」を「強調符」として使い、氏のご意見の「要約文」を「強調」するためにも、この「」をつかっている。「要約」したご意見を「地の文」から区別して、誰の意見かをわかりやすくするための強調だったわけだが、氏はこれを「改変引用文」だと理解なさったらしい。

 氏も論争的な文章を書かれる方だが、私がそれ以上に論争的な批評家であるというは周知の事実だろう。しかし、その私の二十年以上におよぶ論争家歴からしても、こんな「初歩的な誤読」による批判を受けたことは、かつてただの一度もなかった。また、そんな初歩的なミスを、かの「EQ3」氏が犯したという点で、その「意外性」に、私は唖然とさせられたのである。

 しかしながら、氏の論文「鮎川哲也『青いネッカチーフ』――知られざる実験作」を通読すると、氏の、この極めて初歩的なミスが、氏の批評家としての本質に由来するものだというのが、分かってくる。氏の「批評家としての本質」を体現する言葉とは、これである。

『もちろん、これが深読みのしすぎで、(…)という考えが正しいという可能性もあるだろう。しかし、より楽しいのは、(…)夢のある見方がどちらなのかは、言うまでもないはずである。』
『もちろん、これが牽強付会で、(以下、ほぼ同文)』

 さすがは「『新世紀エヴァンゲリオン』でも『鉄人28号』でも、なんでも器用にエラリー・クイーンに結びつけて読んでしまう人」と言われた方だ。
 ――しかしながら、私の文章に関して言えば、氏は、私の「引用符」などの「記号の使い方」に配意することなく、ただご自分に都合の良いように読んでしまわれた。これは、その方が、氏にとって『楽しい』『夢のある見方』だったから、なのであろう。氏はいみじくも、『楽しい』『夢のある見方』の限界と問題点を、ご自分で実証なさったわけである。


 ちなみに、ほとぼりも冷めて『もう忘れている会員も多いと思うが』、以前の、氏と私との論争の背景には「『容疑者Xの献身』騒動」が存在していたという事実を、あらためて指摘しておいてもよい。氏はそこで、二階堂黎人の「批評家は、作品を肯定的に評価するために存在している」という見解に呼応するかのようなかたちで、批評家批判なさっていたはずである。読者諸兄の再読を乞いたい。



                              二〇〇八年四月十七日

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http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

洞爺湖の風景

 投稿者:Keen  投稿日:2008年 7月10日(木)15時18分20秒
  洞爺湖サミットが閉幕しました。
洞爺湖といえば→青函連絡船洞爺丸→洞爺丸沈没事故→中井英夫『虚無への供物』(講談社文庫)と、最近、洞爺湖という文字を見るたび、聞くたびに連想していたのでした。

というのも、先月秋葉原で起きた無差別殺傷事件について、精神科医の斎藤環が読売新聞のインタビューに答えた記事『「オタク」なりきれず孤独感』に、『虚無への供物』の影を見たからなのです。

記事のやりとりの中で、加藤容疑者はなぜ「オタク」になりきれなかったのか、という問いに斎藤環はこう答えています。

『 かつてはエリートだったという意識があり、空想の世界に逃避することに心のどこかで抵抗があったのだろう。家族関係を喪失した孤独感も想像以上に大きいと思う。その空白を埋めてくれると信じていたのが、「彼女」という存在だったのではないか。』


『虚無への供物』にも、非現実に潜り損ねた人物の嘆きがありました。

『(〜略〜)することで、ようやく生きるよすがを見出すなんて、本当をいえば、どれっくらい惨めな生きざまだかと内心では思っていたんだ。』


潜り損ねた両者が向かった先は、全く逆だったように私には思えます。

また、事件現場に居合わせた人の一部が、ケータイで悲惨な状況を撮影していたことに対する非難の声も上がったようですが、これと全く同様の現象が『虚無への供物』にすでに書かれているのです。
洞爺丸沈没の翌年、四国高松沖で宇高連絡船紫雲丸が転覆し、数百名の乗客が海上に投げ出されて死亡するという事件が起こり、翌日の新聞に掲載された現場写真が、その場に居合わせた一般人の撮影だったことに対する非難が起こった、というものです。

出版から44年経ってなお古びることのない作品です。
 

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