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「反・本格ミステリ」としての『青銅の悲劇 瀕死の王』(前)
投稿者:園主 投稿日:2008年 8月 8日(金)00時19分4秒作品評価といたしましては「狙いは興味深いが、本格ミステリとしては退屈な凡作」だと申せましょう。その意味で本作は、「当たり前に推理小説を楽しみたい読者向け」だとは申せませんので、そういう読者には本作をお薦めすることはできません。――と申しますか、「読まない方がいい」と言っても良かろうかと存じます。
さて、以下の文章では、『青銅の悲劇 瀕死の王』が「なぜ『当たり前に推理小説を楽しみたい読者向け』ではないのか」という点を、作品の「狙いと作り」に即してご説明したいと存じます。
したがいまして、「それでも読んでみたい」という方は、『青銅の悲劇 瀕死の王』読了後に、以下の文章をお読み下さいまし。
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笠井潔の新刊『青銅の悲劇 瀕死の王』は、770頁に及ぶ大作として「その狙いは興味深いが、本格ミステリとしては退屈な凡作」だと言えよう。
さらに、本作における「作者の狙い」に即して端的に言えば、本作は「探偵小説が、厳密に論理的たらんとすれば、その探偵小説は探偵小説が厳密に論理的たり得ないことを自己証明(暴露)せざるを得なくなる」といったことを語った(「後期クイーン的問題」系の)探偵小説だからこそ、本作は自ずと『本格ミステリとしては退屈な凡作』とならざるを得なかったのである、とも言えよう。
偶然と言うには、あまりにタイミングの良すぎるくらいだが、『青銅の悲劇 瀕死の王』を読みはじめたばかりだと書いていた段階のホランド(碧川蘭)は、本作の評価とは関係なく、本作の本質とも言うべき議論を、すでにここ「アレクセイの花園」に書き残していた。
『「論理学」というのは、一般的な意味での「論理的な正しさ」に関する学問ではありません。特殊に限定された「厳密に正確な学」としての学問であり、いわば「数学」にも類した「形式論理」の学問なんですね。だから、ボクたちが日常当たり前に使っている「論理的な正誤」とは、それは次元を異にしたものとなっているんです。
例えば、「Aはお年寄りや子供に親切な、とても優しい人だ」という評価は、一般的には「(論理的に)正しい」とされます。
しかし、「論理学」的に言えば、Aは「お年寄りや子供」には優しいかも知れないけど、それ以外の者に対して優しいかどうかは確証されていませんから、Aを全人格的に「優しい人」だとする論証は、ここではまったくなされていない、としか言えません。そう考えた場合、このA評価は、単にごく一部の事例を根拠に、全人格を不当に評価しているに過ぎない、ということになって、「論理学」的な命題としては、「不完全論証」としての「誤謬論理」である、ということになります。
つまり、世間一般に使用される「論理の正しさ」というのは、「形式的に穴のない、厳密な正しさ」ではなく、「おおむね正しい」ものを「正しい」と表現しているだけなんですね。そうでないと、世の中の99パーセントは「絶対ではない」し「仮説である」というのですから、そんな厳密なことを言ってては、「それは正しい、それは間違いだ」という話が成立しなくなるからです。
例えば「生物は、必ず死ぬ」という命題も「絶対に正しい(例外が一つもない)」ということを「証明」するのは、不可能でしょう。そうなると、この命題は「論理学」的には「誤り」だということになりますが、そんなことを言ってたら、話になりませんよね。だから、ボクたちは日常「ほぼ確かなこと(確からしいこと)」を便宜的に「確か」だと言い、「ほぼ正しい」ことを「正しい」と言っているんです。
したがって、上に引用した会話も、「論理学の観点に限定して」言えば、Bの発言は『(※ 論理学的に正確な)演繹にならない為、(※ 論理学的な)論理として成立しない。/仮に、BがAの結論を否定する以外の目的で発言したのなら、それは反論ではなく論点のすり替えとなる。』となるんですが、「日常一般の論理」としてなら、Bの意見も「それなりに説得力を持つ、それなりに正しい」評価(意見)だと言えるんですね。
で、話をtpknさんのことに戻すと、ボクが小泉信三を引用して語った「論争の最中に、自分で勝った勝ったと言うような奴に、ろくな者はいない」というtpkn評価は、「tpknさんの主張」そのものを否定するものではなく、「tpknさんの人格」を否定的に評価することで「tpknさんの主張」の信憑性を否定しようとするものですから、「論理学」的には『反論ではなく論点のすり替え』をおこなう「対人論証」である、ということになるんですね。
つまり、tpknさんは、「日常の論理」によってなされていた議論に、いきなり「非日常の論理=学としての厳密論理」を不適切に持ち込むことによって、ボクの「日常的な論理として、正しい論理」を「日常的な論理として、正しくない論理」であるかのように、言い募ろうとしたんです。
こういう「的外れな議論」というのは、ホントに頭の良い人なら、決してしません。その「議論」が、「日常一般の論理」によってなされているのか、「論理学的な厳密論理」によってなされているのかは、一目瞭然なんですから、その「使い分け」は、まともな人には難無くできることなのです。
ところが、頭の悪い人にかぎって「聞き齧りの知識」を振り回したがる。「論理学」の用語を聞き憶えたら、それを「場所柄を弁えることなく」、知ったかぶって使いたがるんですね。
そもそも「論理学」の「論理」というのは、極めて抽象化された「形式論理」ですから、日常の問題を扱うには不適格なんです。
というのも、なぜ「論理学」というものが存在するのかと言えば、その理由のひとつは、「日常の論理」というものが、厳密に検討するならば、いかに穴だらけであり、かつレトリカルなものか、ということを確証するためなんですね。つまり、論理学とは「思考の原理」を追求する「メタ論理学(論理のための論理学)」だと言えるんです。だから、それを「日常の論理(=非原理的論理)」での議論にそのまま持ち込むのは、「論理階梯の混乱」にしかならないんです。』
(2008年8月1日付・ホランド「失われたフェアプレイ精神(前)」より)
『青銅の悲劇 瀕死の王』を読了している読者には、もはや明白なことであろう。ここでのホランドの議論は、『青銅の悲劇 瀕死の王』の最終章において、「探偵」役たるナディア・モガールの語る「鷹見澤家殺人事件の意味するもの」の議論と、ほとんど同じ内容である。――こんな具合だ。
『 問題は『ゆえに(※ ルビ「エルゴ」)』です。Aであるが『ゆえに』Bであるという命題は、数学では疑いえない確実性があります。1に1を加えた、『ゆえに』2であるという具合に。これは厳密には算術の例ですが。このような確実性が可能なのは、そもそも数学的な対象の理念的な存在だからですね。数はもちろん、点や線も現実世界にはありえない理念的存在です。
物理学の世界でも、ある程度までは数学的厳密性が可能でしょう。林檎は枝を離れた、『ゆえに』林檎は大地に落ちたという具合です。ある程度まではと限定したのは、林檎が枝から離れたまさにその瞬間に、地球がブラックホールに呑まれてしまう可能性もゼロではないから。大地が消失したのに、林檎だ虚空に残ったというのは、いささか例としては不自然かも知れませんが。
だったら水は百度で沸騰するという例にしましょうか。しかし、この『ゆえに』は数学的な確実性がありません。空気圧が違えば、ようするに高度が違えば沸騰する温度は変わりますから。事物、正確にいえば、物理学的存在者を対象とした瞬間に、『ゆえに』の数学的な正確性と厳密性は失われてしまう。
事物から生物に、生物一般から動物へ、そして人間へと対象が変わるにつれ『ゆえに』の正確性と厳密性は加速度的に拡散し、必然的に弱体化していかざるをえない。
とりわけ人間の存在には、わたしたちにとって幸福なのか不幸なのかはともかく、自由意志といわれる奇妙な領域があらかじめ組みこまれています。水は百度まで熱せられた、『ゆえに』水は沸騰した。この物理学的な命題と、二人は愛しあっていた、『ゆえに』結婚したという命題を比較してみれば、両者の相違は明らかでしょう。愛しあっているのに結婚しないカップルもいれば、愛しあっていないのに結婚するカップルもいるからです。愛と結婚を『ゆえに』で結合できる根拠など、ほとんど存在しないことをわたしたちはよく知っている。
自由意志を与えられた人間世界には、そもそも論理など存在しえないのでしょうか。そのように決めてしまえばすっきりできるのですが、困ったことにそういうわけにもいかないのです。わたしたちは日常的に、無数の具体的な判断を下しながら生きているのですから。
十二時だ、『ゆえに』空腹だ、『ゆえに』昼食にしよう。彼は寒がりだ、『ゆえに』厚着をしている。あるいは、やつはアラブ人だ、『ゆえに』盗んだ犯人はやつだとかね。フランスの『アラブ人』はドイツでは『トルコ人、アメリカでは『黒人』や『ヒスパニック』に置き換えられます。戦前の日本では『朝鮮人』、最近では『中国人』や『イラン人』かしら。前二者の場合、正確とも厳密とも言えませんが、ある程度の妥当性もまた否定できない。最後の例では、それが妥当だと信じこんでいる差別主義者はたしかに存在しますが、そんな『ゆえに』は偏見の正当化にすぎないという立場も当然ある。
このように人間の世界で論理や判断は、まったく存在しないわけではないけれども、数学的論理や物理学的論理とは大きく異なる形でしか存在しえない。人間的世界の出来事を判断の対象とするとき、わたしたちは数学的論理性と完全に無関係ではないとしても、それは次元の異なる正否の基準を無意識のうちに用いています。』(P758〜760)
――どうあろう? そっくりそのままだと言っても、過言にはならないのではないか。
ホランドが、『青銅の悲劇 瀕死の王』のラストにおけるナディアの演説の内容を知っていたかどうかは、ここでは問わない。だが、とにかく両者の議論が、その本質を同じくしているということだけは、認めていただけよう。
ナディアがここで語っているのは、「現実の事件の解明において実際に活用される論理とは、数学的論理ではなく、その大筋において人間世界の論理である。したがって、推理小説に描かれる名探偵による謎解きも、数学的に厳密な論理であるかのように見えても、その本質が人間世界の論理を出ることはない。つまり、その本格ミステリにおける謎解きの論理は、数学的に厳密なものではない」ということである。
そして、こうした「数学的厳密性において解明できない、推理小説的事件の典型」として描かれたのが、本作『青銅の悲劇 瀕死の王』における「鷹見澤家殺人事件」ということになる。『ゆえに』、「鷹見澤家殺人事件」の謎解きは、結論的には、「探偵小説=本格ミステリ」的な「厳密さ」をイメージさせないものとなっている。だから「『当たり前に推理小説を楽しみたい読者向け』ではない」作品になっていると言うのだ。
つまり、本作はある意味では「反・本格ミステリ」なのである。もちろん、「本格ミステリは、論理的な文学である」という認識(誤認)を前提としての「反・本格ミステリ」。「本格ミステリとは、論理的であるかに見せかけて、読者を楽しませる文学である」ということを語り、「論理的な本格ミステリ」という「幻想」を打ち砕く、本格ミステリなのである。
その証拠に、本書の帯には、
『矢吹駆シリーズ日本篇 待望の第1作!』
と謳われているにもかかわらず、本作には最後まで「名探偵・矢吹駆」は、登場しない。
なぜ登場しないのかと言えば、それは本作が「もはや名探偵の登場しえない時代」の必然性を描かんとした作品だからである。
『いずれにしても、わたしたちは決定不能性という罠から逃れることができない。推論が厳密であれば唯一の真実に到達できると信じていられるのは、前世紀の遺物のような人だけね。長いこと探偵小説を愛読してきた者としては残念ですが、この時代に名探偵は存在しえないんです。』(P755〜756)
もちろん、上記の「帯文」は、「矢吹駆シリーズ」を謳うことで、少しでも売り上げを伸ばさんとした「出版社」の策略である可能性は高い。
しかし、作者にその意図(=「矢吹駆が登場する作品である」と、読者を欺く意図)が無かったとも言えない。つまり、作者自身、本作『青銅の悲劇 瀕死の王』を、冒頭では読者に「矢吹駆シリーズ」の一作と見せかけておいて、じつは最後でその「憶見」が覆される(裏切られる)「反・名探偵小説」としての「反・矢吹駆」小説を意図した、というのは、本書の冒頭に掲げられた、次のような一文にも明らかなのだ。
わたしは日本に帰ってきた、矢吹駆を殺すために――N・Mの日記から
この一文の意味は、物語の終盤で明らかになる。
『N・M』こと、ナディア・モガールは、「名探偵・矢吹駆」という存在を「葬送」するために、日本に帰ってきた。この事件の解決をとおして「名探偵という存在を無邪気に信じえた時代の終焉」を明きらかにし、この物語から「名探偵・矢吹駆」という存在を「抹殺」した。――これは、そういう意味なのである(ナディアの来日が2度目であることは、後半で明かされる)。
だから、本作に「探偵小説=本格ミステリ」を期待すれば、その点では、確実に裏切られる。この「裏切り」は、作者による確信犯的なものなのだから、本作が「探偵小説=本格ミステリ」としては「退屈な凡作」であったとしても、そのことで本作そのものを「失敗作」とするのは、妥当な評価だとは言えない。本作は「メタ探偵小説」あるいは「本格ミステリ批評小説」として「興味深い」作品なのだ。
しかし、――そうしたことに「興味」のない読者には、本作は単なる「退屈な凡作」だということになる。したがって、本作は、個々の読者が「ミステリに何を求めているか」によって、評価が変わってくる作品なのだ。
さて、そこで最後に、私個人の評価を語らせてもらえば「そういうことは、批評の方でやってくれれば十分。770頁の推理小説で、その手のだまし討ちはして欲しくない」ということになるだろう。
( 以下は「「反・本格ミステリ」としての『青銅の悲劇 瀕死の王』(後)」につづく)