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おおっ!

 投稿者:Keen  投稿日:2008年 7月 6日(日)00時38分32秒
  ご無沙汰してますが、園主さまの近刊情報に思わず飛び込んで来てしまいましたっ!
中井さんの「新刊」が出るんですね〜……じーん。
楽しみにしています♪

先日市民図書館へ行った折、竹本健治の近著『ウロボロスの純正音律』『キララ、探偵す。』『キララ、またも探偵す。』がちゃんと並んでいたのに目を細めておりました。近くの棚には河出書房新社の『中井英夫――虚実の間に生きた作家』もありまして、わが街にも同士がいるんだな〜、と……(しみじみ)

サッカー・欧州選手権が終わりましたので、また読書生活に戻ろうとしているところです。
感想文書きに先立って、まずは最近めっきり遅くなった我が家のXPのお手入れをしました。
雑誌に載ってたフリーソフトをいくつか入れてみたら、なんとか持ち直したようなので、園主さまのリンゴちゃんに負けずに、優しく酷使する予定です!
で、近日中に『キララ、またも探偵す。』の感想文を書こうと思っています。園主さまにはずっと前に予告していたことですが……サッカーと家庭の両立で手一杯でしたので、これから書きます〜。


>・ 笠井潔『青銅の悲劇 瀕死の王』(講談社・7月28日頃)
>「本格ミステリ大賞」を受賞の、あの凡作『オイディプス症候群』につづく、シリーズ第6弾だそうでございます。

出版順序ではそうなりますが、内容の方は時代設定からもわかるように、いわゆる「駆シリーズ」の後日談ということになります。
『メフィスト』誌上で部分的に読んでいるのですが、例によって大幅に加筆・訂正されているでしょうから、連載当時に「ええ〜っ!?」と感じた部分がどうなっているのか、見届けようかと思います。
しかし凶器のレベルの厚さって……置き場所に困るし、お値段も張りそうですねえ。私も図書館にリクエストしてみようかな〜、まあ、同士が誰か先に入れてくれるでしょうが。

サッカーが終わってちょっと宴の後気分でしたが、また楽しみが増えました♪
では、今日のところはお休みなさい。
 

近刊情報:中井英夫『幻戯』ほか

 投稿者:園主  投稿日:2008年 7月 5日(土)02時02分38秒
  みなさま、最近はすっかり「社会派」の私でございますが、私本来のフィールドである「文学」において、誰よりも真っ先にご報告しておかなければならない、近刊をご紹介させていただきます。

・ 中井英夫『幻戯』(「ふしぎ文学館」叢書・出版芸術社・7月中旬)


『“――何もかも終わってしまったんだな。”老残の奇術師の一人語りが、いつのまにか読者を虚実の間に宙吊りにする名作「幻戯」、 芥川、太宰、三島らの記憶を綴った「禿鷹」、ただ光だけが充ちている名品「夕映少年」、「これだけは絶対に出すな!」と血相を変えていた“最後の小説”「黄泉戸喫」等々に、『虚無への供物』の後日譚「空しい音」や『虚無への供物』執筆当時の苦悩を綴る日記「虚無なる日々に」も収録する小説、エッセイ、詩篇、日記で構成された中井英夫初のベストコレクション!!』 (「新刊情報」より)


意外なことに『中井英夫初のベストコレクション』。

今回は、ひさしぶりに建石修志初期の鉛筆画を装画として採用し、オールドファンにとっての懐かしさだけではなく、やはり中井英夫作品のビジュアルイメージは「建石修志の鉛筆画」だなと、再確認させられる一冊となっております。

さらに本書では――、「小説」と「エッセイ」と「詩篇」と「日記」、この違った位相に属する作品が緊密に結びついて、「中井英夫ワールド」における『虚実の間』の特異さを露にしてもおりましょう。

中井英夫初体験者にも、オールドファンにも、自信をもってお薦めしたい一書でございます。




・ 笠井潔『青銅の悲劇 瀕死の王』(講談社・7月28日頃)


 『 笠井潔渾身! 待望の矢吹駆シリーズ!! 1988年末、東京郊外の旧家、
    鷹見沢家に続発する奇妙な事件! そして冬至の日、会席の席上、当主の
    信輔が突然倒れる! 旧家に纏わる忌まわしき因縁とは!?        』


 『 束見本(中は白紙で作る、本の体裁見本)をみて驚愕したのが、笠井潔さん
   の大作『青銅の悲劇 瀕死の王』です。これはもしや凶器!? のレベル。
   待望の矢吹駆シリーズ新刊は厚くて熱い! もはや臨界点に達していますが、
   ぐいぐい引き込まれて、ぐんぐん読めるのでご心配は無用です。     』

     (どちらも「メールマガジン【講談社ミステリーの館】2008年7月号」より)



「本格ミステリ大賞」を受賞の、あの凡作『オイディプス症候群』につづく、シリーズ第6弾だそうでございます。
個人的にはまったく期待しておらず、まあ、長年のつきあいだから「読まないとなあー」という感じでございますね。

ですから、分厚さが『臨界点に達して』いるというのは、とても迷惑なこととしか思えないのでございますが、まあ、個人的な興味としては、かつて『これはもしや凶器!? のレベル。』と思った、島田荘司の『アトポス』(単行本)や、藤田宜永『鋼鉄の騎士』(単行本)を超えるのかな?――といった、どうでもいい話でございます。
幸い、分冊ではないようですので、『屍鬼』(小野不由美)を超えるものにはならないと信じております(無論、長さの話でございます)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

掲示板「田中荘新館」への初投稿

 投稿者:園主  投稿日:2008年 7月 2日(水)19時48分50秒
  みなさま、先の「平和運動家論争(増補改訂版)」で予告しておきましたとおり、同ページを、熊谷伸一郎氏の盟友であるinti-sol氏の開設・管理になる掲示板「田中荘新館」の方へ、紹介しておきました。

掲示板「田中荘新館」は、熊谷氏の掲示板で、現在閉鎖中の『 旧田中荘101号室の趣旨を引き継ぎ、問答有用掲示板の姉妹板として設置』されたものだそうでございます(『』内は、掲示板「田中荘新館」の説明書きより引用)。


さて、この掲示板でも例によって(掲示板「問答有用」と同じパターンで)、最初は黙殺してログが流れるのを静観するのか、あるいは最初から「削除」してくるのか。
ログが流れたり削除された場合、私は同様の書き込みをする予定ですが、その場合、管理人のinti-sol氏は、「問答有用管理人団」と同じように「何度も自分のサイトを宣伝する書き込みをするな」と、誰にともなく「警告」を発した後で削除するのか、それともいきなり削除してくるのか。そしてそれでも投稿されれば、どのタイミングで「投稿ブロック」を掛けてくるのか。

ともあれ、熊谷伸一郎氏の掲示板「問答有用」や「田中荘101号室」への常連投稿者で、現在閉鎖中の『旧田中荘101号室の趣旨を引き継ぎ、問答有用掲示板の姉妹板として設置しました。』と自称する掲示板「田中荘新館」を立ち上げる、熊谷氏と盟友関係にあると目されてよい(「問答有用管理人団」である可能性も、充分に高い)inti-sol氏が、熊谷伸一郎氏が隠蔽を望んでいる「平和運動家論争」に関する書き込みを、どのように扱うのかを、みなさまにもトクとご覧いただきたいと存じます。

掲示板「田中荘新館」への、初の書き込みとなりました「平和運動家論争と、その後」の内容は、以下のとおりでございます。

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平和運動家論争と、その後 投稿者:アレクセイ 投稿日:200872日(水)125832

 北京オリンピックの話題が盛り上りかけたところで「チベット自治区での暴動」が起こり、世界的な批判にさらされた中国。
 しかし、そんな中国政府に都合が良かったのか悪かったのか、チベットの話題を押しつぶすように「四川大地震」が発生し、日本での話題も「この未曾有の大災害に、隣国として如何に貢献できるか(中国人は、それにどの程度感謝するのか)」といった点に収斂されていきました。
 そして、中国から日本に対する最大限の謝意が表明され、多くの日本人が一定の満足感を得た後は、もうそれ以前の「チベット問題」が話題にのぼることもなくなり、再び話題の中心は「北京オリンピック」(特に、競泳用水着と記録)へと移っていきました。

 この例を見てもわかるとおり、ノーム・チョムスキーが言うとおり、権力というものはプロパガンダを通じて、人々の「合意を捏造」する。
 自己に不都合な情報を隠蔽し、見せたい「きれいごと=建て前」だけを発信して、人々をコントロールしようとします。その意味では、今日の社会においては、多面的に情報を収集することが如何に重要なことであるのかが、おのずと理解できるのではないでしょうか。

 さて、私が次にご紹介するのも、そうした「隠蔽された情報」の一種です。


 ・ 「平和運動家論争(増補改訂版)」
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1926


 この論争では、この掲示板の管理人inti-sol氏と極めて親しい間柄にある、著名な平和運動家の熊谷伸一郎氏と私が、「平和運動家のあり方」をめぐって、喧々諤々の議論を交わしております。
 平和運動に関わっている方や興味のある方には、他人事ではない内容となっておりますの、じっくりと読み込んでいただければと思います。

 さて、熊谷氏の退場によって中断するかたちとなったこの論争が、その後、双方によって、どのように公開され・隠蔽されたかという点を、今回の公開では、増補して報告しております。
 公開論争では、しばしば「第三者の目」を気にしての「きれいごと」が前面化しますが、その後の経緯には、ある種の身も蓋もない本音が露呈しています。

 みなさまの、勇気あるご賢察を期待したいと思います。


http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

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http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

平和運動家論争(増補改訂版)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 7月 2日(水)13時07分14秒
 


      ◇ ◇ ◇ 平和運動家論争  ◇ ◇ ◇(増補改訂版)




 21世紀幕開けの年、あの衝撃的な「9.11」以降、アメリカによるアフガン空爆・イラク戦争を経て、世界は目に見えてキナ臭い「戦争の時代」へと三たび突入しました。そして、同盟国アメリカに追随するかたちで、私たちの日本も「戦争のできる国」へと逆戻りしつつあるそんな今、平和を愛する市民の連帯と運動は、ますますその重要性を深めていると言えるでしょう。

 しかし、そうした運動に直接関わったことのない多くの一般市民にとって、「平和運動家」や「市民運動家」という肩書きをもつ人たちの存在は、実のところ、かなり「遠い存在」だと言えるのかも知れません。多くの人は、自身の知人友人に「平和運動家」を持たず、「生身の彼ら」が、いったいどういう人たちなのかを知る機会に、ほとんど恵まれていないのです。

 もちろん、「平和」に寄与しようと活動している彼らは、その意図と行為において、尊敬に値する存在だと言えるでしょう。しかしながら、「悪人を捕らえて治安を維持し、人々の平穏な生活を保証する」存在として「正義の味方」であるはずの「警察官」でさえ時には犯罪を犯すし、「警察」という機構自体、「人々」のための存在ではなく、「国家」のための抑圧権力でしかないという「好ましからざる側面」を持っています。
 つまり「大義名分」としていかに立派な存在であったとしても、その大義名分を掲げて活動している人たちが、真にその大義名分に値する存在であるか否かは、必ずしも保証のかぎりではありません。どんなものにも「悪しき例外」は存在し、輝かしい「看板」の陰に「偽りの現実」が隠されていることも、決して珍しくはないのです。

 したがって私たちは、「大義名分」の金看板を鵜呑みにするのではなく、「大義名分を掲げる人たちの実際」を、多少なりとも知っておく必要があるでしょう。つまり、同じ「平和運動家」「市民運動家」と名乗っていても、その内実は千差万別であり、その名に値する「真に尊敬すべき人」がいる一方、その名を汚す「偽者」がいるという事実をも、私たちは知っておくべきなのです。



 さて、以下にご紹介するのは、私(アレクセイ)と、著名な平和運動家である熊谷伸一郎氏(「撫順の奇跡を受け継ぐ会」事務局長・同メーリングリスト管理人)との、論争の記録です。

 熊谷氏による、私に対する「撫順の奇跡を受け継ぐメーリングリスト」からの「除名」に端を発し、私の掲示板「アレクセイの花園」上において、主に私(アレクセイ・園主)と熊谷伸一郎氏によって繰り広げられたこの議論は、結果として「平和運動家とは、如何にあるべきか」を問うものとなりました。私はそれを、ここに広く紹介したいと思います。


 あらためてご紹介しておきますと、本論争の主人公の一人である熊谷伸一郎氏は、


 ・ 「撫順の奇跡を受け継ぐ会」の事務局長

 ・ 「撫順の奇跡を受け継ぐメーリングリスト」の管理人

 ・ ブログ「熊之巣」の管理人


をなさっており、


 ・  岩波書店の総合誌『世界』編集部員

 ・  月刊誌『自然と人間』元編集長

 ・ 季刊「中帰連」の編集長


という「肩書き」もお持ちで、かつ、ご自身、


 ・ 『なぜ加害を語るのか ――中国帰還者連絡会の戦後史』(岩波ブックレット)

 ・ 『金子さんの戦争 ―― 中国戦線の現実』(リトルモア)

 ・ 『「反日」とは何か ―― 中国人活動家は語る』(中公新書ラクレ)


といった「戦争と平和と中国との友好」にかかわるご著書のある、著名な「平和運動家」です。
これらの点については、ブログ「熊之巣」で、すべて確認できます)


 このように「どこの馬の骨とも知れない、自称平和運動家」ではなく、正真正銘、自他ともに認める「著名な平和運動家」である熊谷伸一郎氏との徹底した議論の中で、私は「平和運動家の悪しき側面」を批評的に剔抉しえたと、そう確信しています。

 世間的には「ひとかどの人」だと認められているであろう熊谷伸一郎氏が、私との徹底した応酬・議論の中で、どのような姿(素顔)を見せてくれるかに、読者諸兄は大いに期待していただきたい。この「平和運動家論争」は、商業誌などではちょっとお目にかかれない、身も蓋もない「現実」を、必ずやみなさんの前に露にしてくれることでしょう。


                   ○


 さて、熊谷伸一郎氏の撤退により中断するまでの、当「平和運動家論争」第1期の全ログを紹介したのが、次ページです。


・ 「平和運動家論争」第1期・全発言目次
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1849

 ここに、この論争のすべてが紹介されていますので、時間のある方は、この「目次」にそって、すべてのログをお読みいただきたい。

 しかしながら、いきなり大量のログを、頭からぜんぶ読むのは面倒だという方には、この論争の渦中で書かれた、私の以下の論文を、先に読んでいただくというのも結構でしょう。
 前者は、私の問題意識を比較的短く語ったものであり、後者はこの「論争」の渦中で、熊谷伸一郎氏の反論を取り込みながら、連載形式で熊谷氏を徹底的に分析した「熊谷伸一郎論」となっております。


・ 平和運動家の空疎な内面 ―― 熊谷伸一郎氏を例に
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1718
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1719

・ 連載論文「熊谷伸一郎の平和的思想」・総目次
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1777

 これらの論文を読まれた後で、「全ログ」に当ってみるというのも、ひとつのアプローチだと思います。

 なお、当「平和運動家論争」にいたる経緯を紹介するものとして、下の「資料」も「全ログ」の中で紹介されていますので、あらかじめここでもご紹介しておきたいと思います。


・ 熊谷伸一郎・アレクセイの「1年前論争」
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1845

・ 熊谷伸一郎・アレクセイ往復書簡集(1)〜(5)
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1713
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1714
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1715
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1716
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1717


 では、「平和運動家とは、如何にあるべきか」を問うた「平和運動家論争」を、どうぞご堪能下さい。


  2008年4月20日

---------------------------------------------------------------------

増補分


 前記のような、

・ 「平和運動家論争」総目次
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1854

を作成した上で、当初は「自分のブログにも、この論争をアップしたい」と言いながら、論争の中断的終了後には、いっかなそれを実現しようとはしなかった、論争相手たる熊谷伸一郎氏のサイト『熊之巣』の掲示板「問答有用」に、上記の「総目次」を紹介し、さらに私の掲示板である「アレクセイの花園」での「問答有用」投稿家(工藤猛・加減乗除の両氏)との議論を継続的に紹介したところ、熊谷氏の代理人を名乗る正体不明の「問答有用管理人団」なる人(たち?)が、「自サイトの宣伝をくり返すことは、まかりならん」という理屈で、以降の私による「平和運動家論争」に関連する書き込みをすべて、問答無用で「削除」するようになりました。

 以下では、そのような経験を経て、新たに書かれた文章をご紹介したいと思います。


(1)「熊谷伸一郎の掲示板「問答有用」の存在意義」
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1900

 これは、掲示板「問答有用」の常連投稿家である、「工藤猛」氏と「加減乗除」氏のお二人が、共に「問答有用」では非主流派であると自称しながらも、「問答有用」において担っている「役割」を検討し、掲示板「問答有用」の「秘められた存在意義(理由)」を摘出した論文です。

 なお、「アレクセイの花園」への工藤氏・加減乗除氏の書き込みは、

・ 「興味があるので精読したい。」(工藤猛 :2008年4月28日)
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1864

に始まり、

・ 「何だ、逃げるのか」(加減乗除:2008年5月13日)
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1899

に終わりますので、掲示板「問答有用」に関連するものとしては、この前後の書き込み、――正確に申しますならば、掲示板「問答有用」への「平和運動家論争」の紹介を報告した、私の書き込み、


・ 「情報公開に、左右の別なし(前)」(園主:2008年4月27日)
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1862

から、加減乗除さまの前記の書き込み「何だ、逃げるのか」へのレスを含む、既にご紹介済みの書き込み、


・ 「熊谷伸一郎の掲示板「問答有用」の存在意義」
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1900

をお読みいただければ、すべての経緯がご理解いただけると思います。


 そして、次にご紹介するのは、掲示板「問答有用」への「平和運動家論争」の紹介から、私の投稿に対する無差別「削除」を経、その翌日、熊谷伸一郎氏からのメールが届くまでの経緯をご紹介した、


(2)「熊谷伸一郎氏からの、ひさびさのメール」(上・中・下)
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1905
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1906
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1907

です。そしてその次が「さらにその後の経緯」を紹介する、


(3)「熊谷伸一郎に関する「勝手つんぼ」の証明 」
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1920

です。

 以上のような、現時点までの一連の流れをまとめたものが、この「増補改訂版・総目次」であり、この新目次を、熊谷伸一郎氏のブログ『熊之巣』のもうひとつの掲示板である「田中荘101号室」(現在閉鎖中)の『姉妹板』として開設された、熊谷氏の盟友であるらしい inti-sol氏(同氏が「問答有用管理団」の一人か否かは不明)が管理人を勤める掲示板「田中荘新館」へ紹介した、それ以降の「今後の経緯」については、後日また、この新目次に増補改定を加えた「平和運動家論争・決定版」というかたちで、みなさんにご紹介したいと思います。


  平成20年7月2日

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【参考論文】

・ 市民運動家、その虚像と実像 ―― きくちゆみの場合
  (http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kikuti_yumi.html
 

私も抱えた常なる自らへの私憤

 投稿者:  投稿日:2008年 6月30日(月)20時44分57秒
  ★kamuiさん


kamuiさんの闘いも佳境に向かいつつありますね。

>きっと淳さんは、このような私の愚かしい行為をプログでの私のもう1つの問題である退職問題を引き合いにだして「ワンマン社長と同じことをしている」とお感じになったに違いないと思います。また、私の行いが淳さんの妹さんの立場を彷彿させ、被害者の気持ちを顧みない更生の見込みのない人間だと思われても、これは反論の余地はありません。


僕は、kamuiさんが自分のことを棚に上げて、ワンマン社長と同じことをしているとは思いません。
思うにKamuiさんは、「自らの行為への私憤」を、その強い贖いとして「公憤の原動力」として結実させようとしているように感じるからです。
今、kamuiさんは、自身で為したことを痛々しいほどに、誠実に向き合い自覚しているからこそ、その贖罪意識として、「眼前の公けの不正と欺瞞には、徹底して闘わなければならない」という強固な意志として生きているのではないでしょうか。己に対する私憤が、昇華された形で公憤という形で活きているように感じるのです。だからこそ、この「公けの闘い(公憤)には負けるわけにはいかない」という気概を看取するのです。
「私憤を公憤に高める」とは、正確な字義の読み方とは異なるかもしれませんが、僕のような人間にとって、貴方が為された私的行為の贖いとしての公憤が強い感動と勇気付けになっていることを心に留めておいてくれたら幸いです。


★ホランドさん


>ベストセラーだとバカにせずに、ぜひ読んでみて下さい。

僕は音楽に対して、確かに少数派の類するかもしれませんが、『ベストセラー』という「メジャー」というだけで忌避するような、歪んだ選民意識を持った趣味人が大嫌いなんです。

ってーことでamazonで早速注文しましたよん。

アリョーシャからの大プッシュの『虚夢』と
ホランドさんお勧めの『 幽霊人命救助隊 』

読書感想文は…んんんんんんんんんんん。

ベッドの右に『自由と社会的抑圧』、左に『知識人とは何か』、お風呂には『鉄鼠の檻』…
机の目の前には、『全体主義の起源』階下の食卓テーブルには『新生』、
特に学術系は中途半端に、毎日数項捲ってポイッ!


「わからん!!!!!!!」
「マルキシズムを理解してない、僕がマルキシズム批判なんてわかるわけがない!!!」
などと、途方に暮れています…やっぱ解説書かな〜。
 

今も昔も変わらない。

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年 6月28日(土)22時49分41秒
   みなさん、こんばんは! 園主さまがすっかり、kamui(asuka20)さんのブログ「良人の日記」の方に入れ込んじゃってまして、kamuiさんも書かれていたとおり、主役であるkamuiさんを喰いかねない・・・いや、喰っちゃったご活躍をなさっています。
 しばらく姿を見せないと思ったら「案の定それかい!」というパターン。ホントに、いつものことながら・・・ヤレヤレです(^-^;)。


 ご承知のとおり、竹本健治の『ウロボロスの基礎論』(講談社ノベルス)に描かれた園主さま(田中幸一)は、15年も前の園主さまの「似姿」なんですが、その園主さまについて、作中のボクは、次のように語っていました。



『ボクには本当にどうしてなのか(※ 田中幸一が殺されなければならなかったのか、その理由が)分かりません。確かに田中さんはトラブルメーカーで、ケンカ好きで、傍若無人で、無神経で、ねちっこくて、人を人とも思わないところはありました。とにかくケンカをしているときがいちばん生き生きしてて。だけど、根はとてもいい人だったんです。』(P606)



 あくまでもこのセリフは、竹本健治が考えて書いたものであって、ボクが口にしたものではありません。なるほど、そのとおりだとは思うものの、さすがにこんな言い方はしませんよ(笑)。

 近年の園主さまのケンカは、昔にくらべるとそのやり口が洗練されてきているとはいうものの、・・・やっぱり、人間はぜんぜん変わっていませんよね。
 特に、今日のあちらへの書き込みを読んで、痛切にそのことを再確認させられたボクなのでした・・・。





 さま

ミクシィの厭らしい機能追加

> 禁忌のボーダーを破って書くけど、全くマックの新調問題に関しては、「スレスレの言行不一致」やで。
いっつもやなぁー

> 「とうとう買うかもしれません」

> なんて書きよるけど、この「含み」の残し方がせこいわー。
> 「買います」という断定形の書きクチとはちゃうから、完全な「言行不一致」とちゃうところが、「妙味なスレスレ感」を醸し出しとるアレクセイの「いい加減さ」やねんな。
> ほんまイヤらしいで。アリョーシャが口酸っぱく言ぅーとる、「嘘をつくな」という言葉をギリギリ守ってんねやもん。

> 「とうとう買うかもしれません(が、買わないで済むことに越したことはありません)」

> てな括弧付きの余韻を残すギリギリの抜け道を確保したはぁる。


 いやあ、ホントに強かですね・・・(笑)。

 そういえばこないだ、高野和明のベストセラー『幽霊人命救助隊』(文春文庫)を読んだんですが、「まさにこれは、園主さまの事だな」と思わせられる記述がありました。

 この作品は、一種の「カウンセリング啓蒙小説」であり、それでありながら第一級のエンターティンメントに仕上がっている作品で、『唯脳論』で知られる解剖学者 養老孟司が推薦したのも「なるほど!」と納得させられる作品でした。
 また、そういう意味では、淳さまにもきっと楽しんでいただける作品だと思いますので、ベストセラーだとバカにせずに、ぜひ読んでみて下さい。


 話を戻すと――、この作品では、自殺志願者救援のために地上に戻された幽霊である、主人公の裕一たち「幽霊人命救助隊」の4人は、生きている人間の体に入り込むことによって、その内面を感知することができるという設定になっており、うつ病が蔓延する日本人の内面性が、そのような設定によって、説得的に語られています。
 でも、そんな今の日本において、同じような条件下にありながら、それでもうつにならない人というのも当然いるんですね。



『 御茶ノ水駅に到着した四人は、「幽霊のくせに瞬間移動もできないの?」と自分たちを罵りながら改札口を通った。
 発車間際の電車に駆け込み乗車する際、裕一は前を行くサラリーマン風の男と体が重なった。途端に深い苦悩が心の中に流れ込んできた。取引の失敗。営業利益二千万円の損失。離婚の危機。眉を釣り上げてこちらを罵っている妻。
「三人目(※ の要救護者)だ!」裕一は男の体から離れ、(※ 自殺危険度を視覚化する)暗視ゴーグルを装着した。ところが電子画面に浮かんだ男の全身は、どこもぶれてはいなかった。
「変だな」と裕一はつぶやき、四十くらいの会社員を観察した。走り始めた電車の中で、吊り革につかまり、険しい顔で窓の外を見つめている。
 もう一度、男の中に入ってみた。責任問題。養育費の負担。慰謝料をめぐっての離婚訴訟。ところがそれだけではなかった。男は考えていた。最悪の場合、裸一貫から出直せばいい。失敗の責任は周りに押しつけられるし、慰謝料や養育費は待ってもらえば済む話だ。
「どうなってます?」と(※ メンバーの一人)市川が訊いた。
「心の奥底はすごく頑丈、と言うか、しなやかです。それに少し無責任ですね。この人は多分、苦しさに耐えられるだけの柔軟な心の持ち主なんです」
「ほう」と(※ メンバーの一人)八木が感嘆の声を上げて、会社員を眺めた。
「耐震建築のビルですね」続いてモニターに入った市川が言った。「ぐらぐら揺れるけれど、決して崩れない」
 裕一は思った。この世を生き抜くには、多少の狡さも必要だ。男は新聞を小脇にはさみ、次の駅で電車を降りて行った。』(P111〜112)



 園主さまが、特に狡いとか無責任だと言うつもりはないんですけど(笑)、テキトーになれるというのは、ここで言うところの、一種の「しなやかさ」ですよね。

 このへんを、むしろ真面目すぎる淳さまには見習って欲しいくらいなんですよ、ボクとしても(笑)。


> ホランドさんも言うたらなアカンと思うわ〜。


 ――というわけで、ボクがなにを言ったって聞くもんですか。
 ぐらぐらするどころか、へらへらしながらビクともしやしないんだから・・・(^-^;)。


アレクセイは時にイヴァンであり、時にアリョーシャである。


 園主さまは『時にイヴァンであり、時にアリョーシャ』であり、さらには、時にドミートリーであり、時には酔っ払いのフョードルですらあり得るのかも知れません(笑)。



 kamuiさま

加害者でもあること

> 私の今の感覚(加害者としての)から素直に言いますと、妻の身内側の固く心を閉ざした態度は淳さんが仰る「加害者への強い憎悪」から生じているでしょうし、逆に言えば、私の犯した暴力行為の罪の重さと受け止めたりもしていますが、一度失った信用の回復へ向けて努力してはいるものの、もう一方で私の家族関係に深く介入しすぎることに対しての不快感も持っているのが実感です。


 『もう一方で私の家族関係に深く介入しすぎることに対しての不快感も持っているのが実感です。』と、こういうところまで正直に書いて、自身を飾らないところが立派です。


> さて、私のプログでの話ですが、私が発する自身の投稿より最近ではアレクセイさんの筆圧にすっかり押されています。(笑)

> これは比較対象をアレクセイさんにすればの話でありまして、私には、アレクセイさんのように文章に中身があり、かつ長文で読み応えのある文才がないことを暴露しておきます。(もっか、修行中で〜す)


 根っからの「傾奇者」である園主さまが横にいたのでは、誰だって、その存在が霞んじゃいますよ。プロの文筆家でさえ、いつもそうなんだから(笑)。


> これまで文章を書くことが得意ではなく筆不精気味であったものが、文面の内容はともかくとして、「自分では粘り強く書けているな」と自身に一定の評価を下しています。


 ええ、まったく立派に頑張っておられると思いますよ。決して普通の人にはできない、非凡なことをなさっています。だから、自信を持って頑張って下さいね!



 園主さま

熊谷伸一郎に関する「勝手つんぼ」の証明

> ともあれ、これで立証されたのは、熊谷伸一郎氏が、


>・ 「平和運動家論争」
>  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1854


> から逃げだす際に発した理由としての「忙しさ」というのは、「逃げ口上」の大嘘であったということ。

> それから、同論争開始時には「いずれこの論争を、自分のブログの方でも紹介したい」としていた考えも、私にコテンパンに叩きのめされた論争終了時には、(悔しくて、そうとは認めなかったものの)すっかり消え失せていたというのが実際のところだった、という事実でございます。

> つまり、読んでいただければ明らかなとおり、「平和運動家論争」で私に敗れさった熊谷伸一郎氏は、往生際のわるい、極めてめめしい「嘘つき平和運動家」であり「嘘つき言論人」であったということなのでございます。


> ――ま、こういう人でも、形式優先・結果オーライの平和運動でなら、十分に役に立つのでございましょう。せいぜい、その「(現中国政府にも似た)実の無い、きれいごとの多弁」を、「平和運動の現場」で役立てていただきたいものと存じます。


 ホント、しつこいですねえー(^-^;)。

 ――でも、「笠井潔葬送」に15年(?)かけたことを考えれば、熊谷さんとはまだ2年ほどのおつきあいなんですから、園主さま的には「しつこい」の内には入らないんでしょうね(笑)。


『死に神』の法

> この死刑執行のゴーサインを出したのは、『友人の友人はアルカイダ』だと自慢した、あの鳩山邦夫法務大臣だが、彼がゴーサインを出して絞首台に送った死刑囚は、これで13人。歴代第1位だそうだ。

> そして、このことを捉えて『朝日新聞』が、鳩山法相を『死に神』と表現し、それに鳩山が激しく抗議するという一幕があった。このことについて、私の意見を書いておけば、

> ―― 鳩山邦夫は、間違いなく「死に神」である。


> 「死に神」が実在しないものであり、それを譬喩と考えた場合、13人もの人間への死刑を指示した彼は、間違いなく「死に神」である。

> 鳩山は記者会見で言った。「彼(宮崎勉)は、死に神に殺されたんですか? 違うでしょう?」と。

> そんなことはない。宮崎勉を含む13人は、鳩山を含む、死刑を是認するすべての関係者という「死に神」によって殺されたのだ。
もちろん、死刑執行の書類にサインすることを強制されたわけでもなく、自ら進んでサインした鳩山は、間違いなく「死に神」の代表である。

> 鳩山は言う――「誰だって、やりたくてやるわけではありませんよ。しかし、法律でそう定められている以上、法を守るべき立場の私が、それに反するようなことは出来ないでしょう」。

> できるさ。現にそうやって、サインをしなかった法務大臣も実在する。たしかに彼らは「狡っ辛い人間」だったかも知れないが、しかし「死に神」ではなかっただけ、まだしもマシなのだ。


> 言うまでもなく、根本的な問題は「法」にも間違いはある、ということ。だから、自分の良心にしたがって、その法が間違っていると判断したならば、その法には従わないというのは、まったく正しい選択だと言える。たとえ法務大臣になったところで、その「良心」に反してまで、負うべき義務はない。


> 思い起こせば、ナチスドイツにおいて、多くのユダヤ人を虐殺した「絶滅収容所」の所長たちも、そんなことを「やりたくてやったわけではない」。彼らはそれが「正しい服務行為」だと信じて、多くの場合、嫌々ながらも「責任を果たした」のだ。
> ――しかし、人間の「良心」を賭けた歴史の審判によって、彼らは「死に神」であったと断罪された。


> ならば、どうして鳩山が「死に神」ではない、などと言えるのか? 彼は、人間としての「良心」を捨て去ってでも、「死に神の法」に従順であろうとした、完璧な「死に神」だっただけではないか。


 読売テレビの、あるニュースバラエティー番組で「死刑廃止論は廃止論として、それは議論の場できちんと論議すればいいのであって、現行法はそれとして尊重すべきであり、その法の執行官を、このように愚弄するのは間違いしょう」というようなことを言っていたコメンテーターもいましたね。


 たしかに「法」は尊重されなければなりませんが、園主さまがおっしゃるとおり、「法」にも誤りはあって、「誤った法」に従うのは、やはり、誤ったことなんですね。

 そして、法の誤っている可能性は、何もナチスドイツの「昔」や、野蛮な「外国」での話に限られているわけではない。むしろ、現在も死刑制度を採用している日本を、時代錯誤で野蛮な国だと見ている人だって、世界には大勢いるんです。

 無論そういう人たちの見方や考え方が必ずしも正しいとは、ボクは思わないけれど、日本の死刑制度に「議論の余地がある」のは明らかなんだから、ただ議論してればいいとか、議論の結果が出てから改めるべきは改めればいい、というようなことではありえないんですね。いちど失われた命は、絶対に取り戻すことが出来ないんですから。

 また、取り返しがつかない「制度」を採用しているというのは、それを採用している側の「無謬性」が暗黙のうちに前提されているということであり、その意味では、極めて非理性的で傲慢な、冷酷な法制度だとも言えるでしょう。


 ナチスドイツだけではなく、アメリカやイスラエルやロシア(旧ソ連)や中国あるいは日本など、多くの人を「合法的に殺してきた」あらゆる国家の中にいた多くの知識人が「現行法は、尊重されるべきです」と「良識的」に語って、その冷酷無惨な「国策」を擁護してきたんでしょうね。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。
 

加害者でもあること

 投稿者:kamui  投稿日:2008年 6月25日(水)21時16分22秒
  淳さん

ご返事ありがとうございます。

アレクセイさんの淳さんへのコメントで淳さんが精神のご病気を抱えていることを知りました。淳さんも、ご自分の病気を隠さずに公にされ、自己に恥じない生き方を模索しているように感じられました。

DVの件については、まだ現在進行中の話で、離婚調停として家裁にまで足を運んで話し合っている最中です。

>kamuiさんのDV加害者としての赤裸々な言葉は、ネットでしか知らないkamuiさんに対して形作られた印象を驚くほど捻じ曲げました。それは、誤解を恐れずに言うならば、自らの恥部を公け(ブログ)に晒す形があまりにも「誠実な陳述」であったために、第三者的立場として、加害者であるkamuiさんの言説は酷く痛々しく響きます。これは無論、安易な加害擁護を意味しているわけではありませんし、第三者的立場であるが故に感じ取れる感覚だと認識してください。

DV加害者の当事者である私は、当初、自身での加害者性にも気づかずに愚かな行為を繰り返していました。妻に対しては「世間ではもっとひどいことが行われている。お前が今の状態を改善しないと、いずれ苦労することになるだろう。現実をもっと知れ。3人の親として成長してほしい」などと自分を全く棚に上げた言葉を容赦なく妻に浴びせてかけていました。そして、挙句の果てに「何度同じことを言われても分からん奴は、牛や馬と同類やから体で覚えてもらうしかない」と、さながら暴君の論理を「躾の一貫」と錯覚していたのです。
きっと淳さんは、このような私の愚かしい行為をプログでの私のもう1つの問題である退職問題を引き合いにだして「ワンマン社長と同じことをしている」とお感じになったに違いないと思います。また、私の行いが淳さんの妹さんの立場を彷彿させ、被害者の気持ちを顧みない更生の見込みのない人間だと思われても、これは反論の余地はありません。

それで、自身の行った行為を二度と繰り返さぬよう、自分のしでかした行為をプログに綴ることにしたのです。私がここまで考えてきて思っていることは、加害者は自分の行った暴力行為に対して、相手がDVによってどれほどの心身的ダメージを受けているのかを理解できておらず、むしろ自分の方が被害者であると錯覚しているところがあり、加害者の反省がそこまでで止まっているのではと疑いを抱いています。だから、自分の行いを冷静に見直しができていない状態で復縁しても、また同じことを繰り返すことが考えられ、さらに、これで妻が共依存状態ならばこの悪循環から抜け出すことは容易ではないと思います。最近では、DV防止法の成立で悪循環を断つ道を開けてきていますが。

>といいますのも、個人的経験として、最愛の身内である僕の妹が恋人から酷い暴力を受け、泣きながら電話を寄こしてきたことがあるのです。妹は、加害者からの報復を恐れ、警察に被害届を出すことはせず、内容証明を送付することに留めました(これは一応の解決をみることが出来ました)

私の今の感覚(加害者としての)から素直に言いますと、妻の身内側の固く心を閉ざした態度は淳さんが仰る「加害者への強い憎悪」から生じているでしょうし、逆に言えば、私の犯した暴力行為の罪の重さと受け止めたりもしていますが、一度失った信用の回復へ向けて努力してはいるものの、もう一方で私の家族関係に深く介入しすぎることに対しての不快感も持っているのが実感です。

>DV被害者が一向に減少をみないのは、DV加害者の一般化(レッテル張り)によって、冷厳な視野でのDV加害者心理の研究が、まだまだ未熟なのではないでしょうか。DV問題に関しても無知なので、断言はできませんが。

そうですね。日本ではDV防止法が2001年になって施行され、これまで聖域とされていた家族の中(民事不介入の原則)に司法介入できるまでにこぎ着けました。そうしなければ、加害者側は自己のDV行為を自覚できる機会が奪われているままでしょうし、何よりも被害者側の逃げ場のない状況を少しでも改善することに繋がってきています。今のところ、加害者側に特に大きな罰則は規定されていないDV防止法ですが、評価すべきは少なくとも「保護命令」で被害者が守られるようになったことだと思います。

「レッテル張り」については、加害者自身が被害者の受けた暴力を想像力で自身の立場に置き換えて、自分のこととして理解できるようになる更生プログラムが整備されればよいと思っています。加害者自身がいつまでも被害者意識を持っていることが「レッテル張り」に繋がり、それでは更生不可能のように見えるから「レッテル張り」も張り付いたままに止まるかもしれないという危機感も募ります。


アレクセイさん

>思い起こせば、ナチスドイツにおいて、多くのユダヤ人を虐殺した「絶滅収容所」の所長たちも、そんなことを「やりたくてやったわけではない」。彼らはそれが「正しい服務行為」だと信じて、多くの場合、嫌々ながらも「責任を果たした」のだ。
――しかし、人間の「良心」を賭けた歴史の審判によって、彼らは「死に神」であったと断罪された。

ええ、倫理的責任からは誰も逃れることはできないことなのでしょうね。
鳩山も同様に歴史の審判を受けることになるでしょうが、その時の評価は死刑推進派だったという「負の遺産」として、立派に名を残すことだと思われます。

さて、私のプログでの話ですが、私が発する自身の投稿より最近ではアレクセイさんの筆圧にすっかり押されています。(笑)

これは比較対象をアレクセイさんにすればの話でありまして、私には、アレクセイさんのように文章に中身があり、かつ長文で読み応えのある文才がないことを暴露しておきます。(もっか、修行中で〜す)

これまで文章を書くことが得意ではなく筆不精気味であったものが、文面の内容はともかくとして、「自分では粘り強く書けているな」と自身に一定の評価を下しています。
 

アレクセイは時にイヴァンであり、時にアリョーシャである。

 投稿者:  投稿日:2008年 6月24日(火)22時57分5秒
  ★kamuiさん

(ブログを通読した上での書くに已まれずに…取り急ぎの文章で申し訳ありません)

kamuiさんのDV加害者としての赤裸々な言葉は、ネットでしか知らないkamuiさんに対して形作られた印象を驚くほど捻じ曲げました。それは、誤解を恐れずに言うならば、自らの恥部を公け(ブログ)に晒す形があまりにも「誠実な陳述」であったために、第三者的立場として、加害者であるkamuiさんの言説は酷く痛々しく響きます。これは無論、安易な加害擁護を意味しているわけではありませんし、第三者的立場であるが故に感じ取れる感覚だと認識してください。

といいますのも、個人的経験として、最愛の身内である僕の妹が恋人から酷い暴力を受け、泣きながら電話を寄こしてきたことがあるのです。妹は、加害者からの報復を恐れ、警察に被害届を出すことはせず、内容証明を送付することに留めました(これは一応の解決をみることが出来ました)

このような厳密に第三者的に見ることができない身内へのDV加害には、加害者への強い憎悪を覚えますが、kamuiさんの誠実な加害行為への内省と自省と冷徹な自己解体が、僕にとってより一層、kamuiさんへの複雑な感情を喚起するのです。

「DVはイジメ同様に根絶不可能な問題である」ことを前提にして、僕は確実に減らすことが出来る(はず)だと信じている者です。DVが起きたら、火急的に保護されるべき被害者の心身のケアは、誰しもが考えることでしょうが、秋葉原テロルにしてもそうですが、本質的解決(一体そのようなものがあるのか!?)を導くための道筋として、加害者の内的問題がなおざりにされることが最も不幸なことなのではないでしょうか。

DV被害者が一向に減少をみないのは、DV加害者の一般化(レッテル張り)によって、冷厳な視野でのDV加害者心理の研究が、まだまだ未熟なのではないでしょうか。DV問題に関しても無知なので、断言はできませんが。

★アリョーシャ

レスが遅いなあーと寂しい思いをしていたのですが、峻厳ながら暖かい情でkamuiさんを支えてらっしゃったんですね。ブログを読みながら感動を新たにしました。
思いましたのは、アリョーシャはイヴァン性とアレクセイ性が混交した感じだな…と。


>ご承知のとおり、時おり問題行動に走っては周囲に心配をかける淳さまは、その行いの故に現在「保護観察」中の身分にあり、その保護観察には、ネット界の名士たる私が、保護司としてその任にあたっております。
>――こうして、淳さまへの保護観察は続くのでございます。


ははははは〜。
アリョーシャは僕の「終身名誉保護観察官」に任命してもらっておりますなあー/苦笑
え?「不名誉」?

まあ実際、現実の精神状態は乱高下を繰り返しています。
対象(音楽、文学)に対して、「優れている」という認知が出来ても、それが僕の「感動という情感」に結び付かないないんですね。つまり「対象の価値」と「感情の換気」の接地点に齟齬があって、何事も楽しめないという辛い現状があります。『鉄鼠の檻』ですら、手に付かないのですから…

その代わり、サイードの『知識とは何か』が平易な文体で、しかも裨益するところが多く、また稚拙であろうと読書感想文でも書ければと思っています。

それにしても、僕はアリョーシャの、ときに峻烈にして、しかしその奥低には限りない温かみを帯びた「情の濃さ」の恩恵に無償で与れる僕は、なんと幸福な人間でしょう。
 

『死に神』の法

 投稿者:園主  投稿日:2008年 6月23日(月)22時55分45秒
   kamuiさま

目覚める時

このお書き込みは、ホランドくん宛てのものでございますから、私がレスをつける必要はございませんでしょうし、なによりkamuiさまについては、最近では私の方が「投稿家」として貢献しておりますので、ここで多くを書く必要はございませんでしょう(笑)。


そんなわけで、みなさまにも是非、kamuiさまのブログ「良人の日記」を、本年5月分からご通読いただきたいと存じます。
長文派の私とは違い、kamuiさまのご文章は負担になるほどの量ではございませんし、そこで展開される「私的な事件(問題)」と「公的な事件(問題)」のスリリングな交錯は、かならずや皆様に、強い感興をひき起こすものと確信いたします(※ なお、ブログ「良人の日記」でのkamuiさまのハンドルネームは「asuka20」でございます)。



 ひろさま

無が有る

レスが遅れてしまい失礼いたしました。

すこしでも私の言葉がお役にたてれば、それが「中身」によらず「熱さ」だけによったとしても、それはそれで本望でございます(笑)。

また、何かお感じになったことがございましたら、是非お書き込みをなさって下さいまし。

ひろさまの視線を感じながら、その視線に恥じないよう頑張ってまいりたいと存じます。



 田辺さま

会話

お書き込み、ありがとうございます。

ご意見に関しては、ホランドくんのレスに、とくに付け加えるべきことはございません。
ただ、私が最近思いますのは、「思想」と「哲学」と「批評」に厳密な区別など無いという、しごく当たり前な事実でございます。それらはいずれも、深めていくならば、同じところへと通じていくものなのでございます。



 さま

ミクシィの厭らしい機能追加

> 禁忌のボーダーを破って書くけど、全くマックの新調問題に関しては、「スレスレの言行不一致」やで。
いっつもやなぁー

> 「とうとう買うかもしれません」

> なんて書きよるけど、この「含み」の残し方がせこいわー。
> 「買います」という断定形の書きクチとはちゃうから、完全な「言行不一致」とちゃうところが、「妙味なスレスレ感」を醸し出しとるアレクセイの「いい加減さ」やねんな。
> ほんまイヤらしいで。アリョーシャが口酸っぱく言ぅーとる、「嘘をつくな」という言葉をギリギリ守ってんねやもん。

> 「とうとう買うかもしれません(が、買わないで済むことに越したことはありません)」

> てな括弧付きの余韻を残すギリギリの抜け道を確保したはぁる。


いやいや、あまりにも完璧な人間というのは嫌味でございますからね、「適当にいい加減なところもある」という種類の「完璧」だとご理解下さいまし(←完璧なレトリック!)。


さて、淳さまがここでおっしゃっている『禁忌のボーダー』というのが、みなさまにはご理解いただけないと存じますので、少々ご説明させていただきましょう。

ご承知のとおり、時おり問題行動に走っては周囲に心配をかける淳さまは、その行いの故に現在「保護観察」中の身分にあり、その保護観察には、ネット界の名士たる私が、保護司としてその任にあたっております。
したがいまして淳さまは、月に一度くらいは、私に対して、現在の生活ぶりなどを報告する義務が課せられているのでございますが、しばしばそれを忘れて遊び呆けたりいたしますし、観察手段のひとつであった「ミクシィ」が、私のパソコンの旧式化によって使えなくなりましたので、先日、淳さまに「現状を報告せよ」というメールを送ったのでございます。

そうすると、淳さまは「ミクシィで発散しながら、それなりに生きているので、早くパソコンを新調しなさい」という主旨の返事を送ってまいりましたので、私は次のような返事を書き送ったのでございます。



『>暫し、くだらない日記でも書いて、鬱屈した感情を発散しているところです。
 >
 >アレクセイさんパソコン新調しなさい――――――――!!!!!!!!

 それは、私に対する禁句です。

 もうひとつの禁句は、
 「本を買うのをやめなさい。せめて処分しなさい。でないと、二階の床が抜けますよ」

 今日も6冊ほど、買ってきましたが……(^-^;)。

 ではでは。


                          アレクセイ         』



それでまた淳さまは、


> 差し詰めアレクセイのマック買い控え心理は、

> 「しやなあー、マック新調するくらいやったら、何冊本が買えるやろ…
>  んなんやったら蒐集家としては、使えるとこまでこのマック使い倒して本買った方がましやな」

> ってとこやろか。


と書かれたわけでございますが、これは少々見当違いで、この二つの問題に直接のつながりはございません。

私がパソコンの新調をしぶっているのは、何度か書いておりますとおり、お金の問題であるよりも、新しい機械に馴染むまでが「面倒くさい」という、ただそれだけのことでございます。

今日も友人へのメールに書いたのでございますが、『やっぱり私は、好きなものを買うのと読み書き以外の実務的な能力は無いみたいです。根っからの貴族的文人なのかも知れません。( ̄〜 ̄;)』。


> そんな具合で、毎度毎度ココの読者たちは「アレクセイのマック買い替え問題」なんて、ちんまいことに振り回されてんねんで。


私って、「罪な男」でございましょうか?(笑)


> そそ、
> ミクシィの新機能が凄いことになっとんのヨ。
> また詳細は書こうと思うとんのやけど、うたい文句が


> 『書かずにはいられないけど“あの人だけ”にしか見られたくない日記など、誰でもありますよね。そんな時にとっても便利!使いこなせば、日記がより楽しく、そしてもっと表現がひろがりますよ!』


> つまり、マイミクシィですら日記の公開を除外することが出来るねんネ。
> 例えば、僕が

> 「うぁぁ、この日記アリョーシャなんかに見せたら嫌やわ。
>  せやアリョーシャを公開から除外して、アリョーシャの悪口でも書いたろか」

> みたいなことが出来んねん。これごっつい気ぃー悪い機能やろ!
そんなんやったら、マイミク外せばイイだけのハナシやん!!
> 「特定のマイミク」に見られるのを憚られるような日記なんて「書くな!!」ちゅ話やし、
> その日記のネタが、除外された「特定のマイミク」のことやったら、ムッサ気ぃ―悪いわ!!
> これこそ、ほんまもんの「キモイ」ちゅうことやと思う。


たしかに。

――けれども、公開するにしろしないにしろ、まず「ミクシィ」に書かないことには、自分が「空虚なまま」だと感じるような方が、増えてきているのかも知れません。だとすれば、こういう機能にも、一定の必然性は、あるのかも知れませんね。もちろん、そのような奇妙な事態は、あまり健康なものとは言えないように存じますが。


> ということで、今朝は爽やかな朝♪
> とてもキチガイ二級手帳を貰った人間とは思えない身軽さで、
> 今日一日飛び出していきます〜♪


自身を『キチガイ』呼ばわりすることは、一種の自己批評(自己相対化)として、いちおうは認めましょう。もっとも、若干「自己卑下」の臭いがするという難点はございますが。
できれば私のように自慢げに「おまえらがマトモなら、私は間違いなくキチガイだ」と断言できるレベルまで成長して下さいまし(笑)。

――こうして、淳さまへの保護観察は続くのでございます。



 ホランド

「秋葉原通り魔事件」の報に接して(前)


先日、「連続幼女殺害事件」の犯人「Mくん」こと宮崎勉死刑囚の刑が、いきなり執行された。

宮崎勉は、私と同年であり、同じ頃にアニメを愛好した者として、彼は私にとっても「一種独特の存在」であったように思う。その彼の死刑が、晴天の霹靂のごとく執行された。


この死刑執行のゴーサインを出したのは、『友人の友人はアルカイダ』だと自慢した、あの鳩山邦夫法務大臣だが、彼がゴーサインを出して絞首台に送った死刑囚は、これで13人。歴代第1位だそうだ。

そして、このことを捉えて『朝日新聞』が、鳩山法相を『死に神』と表現し、それに鳩山が激しく抗議するという一幕があった。このことについて、私の意見を書いておけば、

―― 鳩山邦夫は、間違いなく「死に神」である。


「死に神」が実在しないものであり、それを譬喩と考えた場合、13人もの人間への死刑を指示した彼は、間違いなく「死に神」である。

鳩山は記者会見で言った。「彼(宮崎勉)は、死に神に殺されたんですか? 違うでしょう?」と。

そんなことはない。宮崎勉を含む13人は、鳩山を含む、死刑を是認するすべての関係者という「死に神」によって殺されたのだ。
もちろん、死刑執行の書類にサインすることを強制されたわけでもなく、自ら進んでサインした鳩山は、間違いなく「死に神」の代表である。

鳩山は言う――「誰だって、やりたくてやるわけではありませんよ。しかし、法律でそう定められている以上、法を守るべき立場の私が、それに反するようなことは出来ないでしょう」。

できるさ。現にそうやって、サインをしなかった法務大臣も実在する。たしかに彼らは「狡っ辛い人間」だったかも知れないが、しかし「死に神」ではなかっただけ、まだしもマシなのだ。


言うまでもなく、根本的な問題は「法」にも間違いはある、ということ。だから、自分の良心にしたがって、その法が間違っていると判断したならば、その法には従わないというのは、まったく正しい選択だと言える。たとえ法務大臣になったところで、その「良心」に反してまで、負うべき義務はない。


思い起こせば、ナチスドイツにおいて、多くのユダヤ人を虐殺した「絶滅収容所」の所長たちも、そんなことを「やりたくてやったわけではない」。彼らはそれが「正しい服務行為」だと信じて、多くの場合、嫌々ながらも「責任を果たした」のだ。
――しかし、人間の「良心」を賭けた歴史の審判によって、彼らは「死に神」であったと断罪された。


ならば、どうして鳩山が「死に神」ではない、などと言えるのか? 彼は、人間としての「良心」を捨て去ってでも、「死に神の法」に従順であろうとした、完璧な「死に神」だっただけではないか。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

熊谷伸一郎に関する「勝手つんぼ」の証明

 投稿者:園主  投稿日:2008年 6月23日(月)22時30分3秒
  みなさま、先日来、しつこくくり返しておりました、熊谷伸一郎氏のサイト『熊之巣』の掲示板「問答有用」への私の投稿(「平和運動家論争」に関する2種類の投稿を、削除されるたびに再投稿するということを、約2週間に渡って、日に1〜3回の割合で毎日くり返した)が、去る6月5日を最後に途絶えていることにお気づきなった方もいらっしゃいましょう。なぜ、あのように徹底的にやっていたことを、急に止めてしまったのか? ――その理由は簡単明瞭。要は、掲示板「問答無用」の管理人である熊谷伸一郎氏および「問答有用管理人団」によって、物理的な「投稿ブロック」(※ 閲覧ブロックではない)を掛けられてしまったからなのでございます。投稿しようとしたところ、次のような具合でございました。



『         アクセスできません。

ページにアクセスする権限がないため、アクセスできませんでした。
アクセスしようとしているアドレスに誤りがないか、もう一度お確かめください。

HINT:
・入力したアドレスが正しいかもう一度確認してください。
・アドレスを途中までしか指定していないことはありませんか?
・アドレスに誤りがない場合、掲示板が掲示板管理者様によって削除された可能性があります。

HTTP 403 - Forbidden

------------------------------------------------------------------------
                              livedoor レンタル掲示板
                                    OTD掲示板 』

  (http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_write ・2008年6月6日 00:28)



ま、いずれこうなるというのは予想しておりましたし、むしろ私の予想よりは遅い「切り札=投稿ブロック」の投入でございましたから、意外に「黙って我慢したな」とは思うのでございますが、結局、最後まで管理者は、私に対し「投稿禁止」を命ずることも無ければ、「投稿ブロック」を掛けるとの「警告」を与えることもございませんでした。つまり「問答無用の実力行使」によって闇討ちにした(投稿ブロックを掛けた)、ということでございます。

もちろん、それ以降現在に到るまで、熊谷伸一郎氏からは(例によって)何の音沙汰もございません。
私の、掲示板「問答有用」への書き込みの「削除」が徹底して行われるようになった翌日の、本年5月7日に、



『 差出人:  kuma<kuma@office.email.ne.jp>
  題名:   すいません/熊谷
  送信日時:  Wed 05/07/2008 08:37:47 JST
  宛先:   アレクセイの花園<TQJ01337@nifty.com>
  Reply-to:  kuma<kuma@iwanami.co.jp>


   アレクセイさん

    ご無沙汰しています、熊谷です。
    すいません、完全にアレクセイさんの存在を忘れていました(^^;
    問答有用掲示板については管理を複数で行なっているため、
   私自身は見ていないことも多いのです。

    先ほど管理人団の連絡を読みまして、私個人として何の応答も
   しないのも悪いと思いましたので、ひとまずご連絡のみ。

    お元気で。

   kuma@office.email.ne.jp   熊谷 伸一郎  拝       』(全文)



という、いかにも熊谷伸一郎らしい、人を舐めたメールを送って寄越し、それに対し私が、



『 差出人:  アレクセイ<tqj01337@nifty.com>
  題名:   Re: すいません/熊谷
  送信日時: Wed 05/07/2008 23:12:38 JST
  宛先:   kuma<kuma@iwanami.co.jp>


   ☆ 熊谷伸一郎さま

   ご無沙汰しております。

   > ご無沙汰しています、熊谷です。
   > すいません、完全にアレクセイさんの存在を忘れていました(^^;

   そういうことにしたいのでしょうね。
   でも、「平和運動家論争」を読んだ人は、そうは思わないでしょうけどね。
   「また、熊の、身にそわない見え坊ぶりがはじまった」と失笑することでしょう(笑)
   。

   > 問答有用掲示板については管理を複数で行なっているため、
   > 私自身は見ていないことも多いのです。

   そういうことにしたいのでしょう(笑)。

   つまり、私の投稿の削除は、自分(熊谷伸一郎)の知らない間に、「管理人団」が独断
   でやったことだということにしたいんでしょうね。つまり、管理者としての「責任回避
   」。

   > 先ほど管理人団の連絡を読みまして、私個人として何の応答も
   >しないのも悪いと思いましたので、ひとまずご連絡のみ。

   ええ、また書き込みをしますので、そこで正式に応答してください。

   貴方が知らない間に「管理人団」が削除したために、貴方が読んでいないということに
   なっている私の投稿を、後日あらためて、すべて再投稿しますから、今度は削除しない
   ように言っておいてくださいね。

   それから、前の議論で、私がお尋ねした点についても、忘れたふりなんかせずにお答え
   下さい。

   もちろん、このメールのやりとりも、後日公開しますので、前回どおりよろしく。


                             アレクセイ』(全文)



という返信を送って以来、熊谷氏が再び長い「冬眠」について(勝手つんぼになって)しまったという経緯は、


・ 「熊谷伸一郎氏からの、ひさびさのメール」(上・中・下)
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1905
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1906
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1907

でご紹介したとおりでございます。


しかしまあ、事ここに到れば、「本職の平和運動が忙しいために、(したくても)私との論争を続けることが出来ないでいるのだ」という「熊谷伸一郎の公式見解」が「嘘八百」であるというのは、誰の目にも明らかになったと申せましょう。

――なぜ、私が削除を覚悟で、同じ文章を何度も執拗に投稿したのかといえば、それは私の投稿に関して、熊谷伸一郎氏に二度と、



『問答有用掲示板については管理を複数で行なっているため、私自身は見ていないことも多いのです。』



などと言わせないための、「既成事実」作りだったのでございますね。

言い換えれば、掲示板「問答有用」への私の投稿が削除されたのは「問答有用管理人団が独断でやったことであり、言論の自由を口にする平和運動家であり、岩波書店総合誌『世界』の編集者でもある、熊谷伸一郎の与り知らぬところである」という熊谷氏の主張が「嘘」であることを立証するための、基礎作業だったのでございます。

――まあ、熊谷伸一郎氏のほうは、私が「投稿を削除されたことに腹を立てて、意地になって投稿をくり返しているのであろう」くらいにしか考えなかったのでございましょうが、私はそんな素直な人間ではございません(笑)。


ともあれ、これで立証されたのは、熊谷伸一郎氏が、


・ 「平和運動家論争」
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1854


から逃げだす際に発した理由としての「忙しさ」というのは、「逃げ口上」の大嘘であったということ。

それから、同論争開始時には「いずれこの論争を、自分のブログの方でも紹介したい」としていた考えも、私にコテンパンに叩きのめされた論争終了時には、(悔しくて、そうとは認めなかったものの)すっかり消え失せていたというのが実際のところだった、という事実でございます。

つまり、読んでいただければ明らかなとおり、「平和運動家論争」で私に敗れさった熊谷伸一郎氏は、往生際のわるい、極めてめめしい「嘘つき平和運動家」であり「嘘つき言論人」であったということなのでございます。


――ま、こういう人でも、形式優先・結果オーライの平和運動でなら、十分に役に立つのでございましょう。せいぜい、その「(現中国政府にも似た)実の無い、きれいごとの多弁」を、「平和運動の現場」で役立てていただきたいものと存じます。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

ミクシィの厭らしい機能追加

 投稿者:  投稿日:2008年 6月13日(金)07時38分2秒
  ★アリョーシャ

禁忌のボーダーを破って書くけど、全くマックの新調問題に関しては、「スレスレの言行不一致」やで。
いっつもやなぁー

「とうとう買うかもしれません」

なんて書きよるけど、この「含み」の残し方がせこいわー。
「買います」という断定形の書きクチとはちゃうから、完全な「言行不一致」とちゃうところが、「妙味なスレスレ感」を醸し出しとるアレクセイの「いい加減さ」やねんな。
ほんまイヤらしいで。アリョーシャが口酸っぱく言ぅーとる、「嘘をつくな」という言葉をギリギリ守ってんねやもん。

「とうとう買うかもしれません(が、買わないで済むことに越したことはありません)」

てな括弧付きの余韻を残すギリギリの抜け道を確保したはぁる。
差し詰めアレクセイのマック買い控え心理は、

「しやなあー、マック新調するくらいやったら、何冊本が買えるやろ…
 んなんやったら蒐集家としては、使えるとこまでこのマック使い倒して本買った方がましやな」

ってとこやろか。

そんな具合で、毎度毎度ココの読者たちは「アレクセイのマック買い替え問題」なんて、ちんまいことに振り回されてんねんで。

ホランドさんも言うたらなアカンと思うわ〜。

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そそ、
ミクシィの新機能が凄いことになっとんのヨ。
また詳細は書こうと思うとんのやけど、うたい文句が


『書かずにはいられないけど“あの人だけ”にしか見られたくない日記など、誰でもありますよね。そんな時にとっても便利!使いこなせば、日記がより楽しく、そしてもっと表現がひろがりますよ!』


つまり、マイミクシィですら日記の公開を除外することが出来るねんネ。
例えば、僕が

「うぁぁ、この日記アリョーシャなんかに見せたら嫌やわ。
 せやアリョーシャを公開から除外して、アリョーシャの悪口でも書いたろか」

みたいなことが出来んねん。これごっつい気ぃー悪い機能やろ!
そんなんやったら、マイミク外せばイイだけのハナシやん!!
「特定のマイミク」に見られるのを憚られるような日記なんて「書くな!!」ちゅ話やし、
その日記のネタが、除外された「特定のマイミク」のことやったら、ムッサ気ぃ―悪いわ!!
これこそ、ほんまもんの「キモイ」ちゅうことやと思う。
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ということで、今朝は爽やかな朝♪
とてもキチガイ二級手帳を貰った人間とは思えない身軽さで、
今日一日飛び出していきます〜♪
 

「秋葉原通り魔事件」の報に接して(後)

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年 6月11日(水)22時14分41秒
   kamuiさま

目覚める時

>> 最近のご生活にまつわるご論考を拝見しますと、「思考と行動」がバランスよく、着実に進められているという印象を受けます。――ただ、生活がかかった行動ですので、そこは慎重の上にも慎重にお願いしますね。

> 実は、アレクセイさんから私信にて実際の生活と自身の思考が伴っていないという、私の致命的な欠陥を指摘していただくまで、「思考と行動」のバランスを欠いていたことを自覚していませんでした。これまで、現実の場面では「どうせこうなるに決まっているのに、ジタバタしても仕方ないだろう」ぐらいの認識しか持ち合わせていませんでしたので。

> だから、今でもそういう決め付けた(最初に結論ありき)態度はあるのですぐに諦めてしまうところがあります。

> その辺りを修正しようと奮闘している最中にホランドさんから褒められると、嬉しい反面、自身の単純さを見抜かれているようにも思えます。


 ええ。でも、ボクがお誉めしたちょっと後に、園主さまから手厳しい批判が、kamuiさんのブログhttp://d.hatena.ne.jp/asuka200/「良人の日記」の方でなされたみたいですね(^-^;)。

 でもまあ、人間の成長とは、一歩進んでは半歩下がりといったものなんですから、誉められたり叱られたりでいいんでしょう。いっぺんに人間が、本質的に変わってしまう、別人になっちゃうなんてことはないんですから。


 なにかと大変でしょうが、今後もご自分に誇りの持てる困難な道を、悠々と歩んでいただければと思います。園主さか共々、ボクも応援していますから(^-^)。



 ひろさま

無が有る

> ホランドさんの仰る、模倣の情熱ですが、水彩画に関しては、始まりに模倣ありき、ではなかった(と思う)俺にとって、少々難しいかもしれません。
> 前述の、美術の授業では、テーマとして枯葉の画の手本まで用意されながら、手本の画を必要としない(勿論モデルとして用意はした)枝を描き、小説やゲームを基にした絵も、挿絵や表紙などではなく、内容をイメージした空想画に過ぎない代物でした。
> 幼少から絵心はどうやら有していたらしいのですが、絵画展や美術館などには一度も行ったことがなく(美術部時代、部活動としての見学会は全てサボりました^^;)、美術史をひも解いても、興味が湧いたのは絵画ではなく建築の類でした。
> 好きな作家はと訊かれて出てくる名はあっても、画家はと訊かれると、知っている程度で好きも嫌いもないんです、ヒマワリがゴッホだと云う程度でしかないんです。
> おそらく、かつて俺の絵心を触発したモノとは、俺自身が生まれて初めてスゴイ何かを感じたモノ、だったと思われます。


 そうですか。ひろさまは、事物から直接の感じた「スゴさ」を、自然に表現に定着するということをなさっていたわけですね。当たり前といえば、あまりにも当たり前な「正統派」的感性ですが、いろんな「表現」に満ちあふれたこの現代日本において、そのような直截な感性が生きていたというのは、ボクにはちょっと驚きです。むしろ、「他人の表現」に触発されての「媒介的な表現欲求」の方が、あたりまえに一般的だと、ボクは思い込んでいたんですが・・・。

 そうだとすると、ボクの助言はあまり役に立たなかったようですが、後は、天然としか言い様のない園主さまの過剰な表現欲求が、ひろさまに何らかの良い影響を与えることを期待したいと思います。


> これからしばらくは、新旧を問わずアレクセイさんの批評、批判、特に討論を、静粛に拝謁させていただく所存です。


 ええ。園主さまのあれやこれやを読まれた後、なにか触発されるのもがあったら、またそのご感想でも何でも、遠慮なくお書き込みにお出で下さいね(^-^)。



 田辺さま

会話

 はじめまして。ようこそおいで下さいました!


> 自分の脳味噌内だけでクヨクヨ考えた事なんぞは当然、「思想」にはなり得ないだろうと思います。
しかし人に言葉を発し、その結果、相手が自分の「思い」や「意志」を完全に理解し、自然に共感出来た場合は、それは自分達の共同体内だけでの事でしょうが、「思想」になり得るのかと今、私は思ったのでした。


 ボクが思うに、これは「思想」というものの定義によると思うんです。

 つまり、『自分の脳味噌内だけでクヨクヨ考えた事』だとしても、それが徹底的に考え抜かれたものだとしたら、それは「深い思想」でありえるでしょう。ただし、他人には語られないとしたら、その思想の「深さ」を客観的に判定する人はいないんですが。
 一方、自身の思いが、他人に向けて発せられ『相手が自分の「思い」や「意志」を完全に理解し、自然に共感出来た場合は、それは自分達の共同体内だけでの事でしょうが、「思想」になり得る』というのは事実ですが、それは「共有された思想」ではあっても、「深い思想」であるという保証はありません。言うまでもなく、「共有された思想」には、深いのも浅いのもある、ということです。

 では、「共有されない個人的な思想」と「共有された思想」とは、どちらが価値が高いのかと言えば、一般的には「共有されないよりは、共有された方が良い」とは言えるでしょうが、しかしそれは「思想の価値」の問題としては、あまり本質的ではありません。
 つまり、「共有されない・個人的な、深い思想」と「共有された、浅い思想」なら、前者を採る人だって少なくないということですね。また言い換えれば、他人の思想を借りるんではなく、個々が思考を深めて、自分の思想とでも呼ぶべきものを持つならば、初めから普遍性を目指した「共有される思想」など無くても困らない、という考え方もあるわけです。

 結局これは、「個」と「普遍」が対立概念でありながら、必ずしも、いつでも対立するわけではないという点がポイントなんでしょう。つまり「個に徹して普遍に到る」とか「普遍に徹して個に到る」というようなことと、この問題は切っても切れない関係があるんだと思います。ですから、要は「思想」であるか否かは別にして、いずれにしろ「思考」というものは徹底され、深められなければ価値がない、という点が重要なのではないでしょうか。



 園主さま

『キャラクターズ』(前)

> 『 おれのことがキモいだと。ふざけんな。おまえら(※ 桜坂洋夫婦)のようなオタクと腐女子カップルにおれの悩みがわかるものか。そもそもおれは『新潮』も『ギートステイト』もどうだっていいんだ。こんなもの全部遊びで副業だ。うんざりしているからストレス解消にやっているだけだ。こっちはもう十五年も前から、ちょっとデビューが早かったからってバカな年長世代にさんざおもちゃにされて、浅田彰から山形浩生を通って大塚英志や唐沢俊一まで、おれの文章なんかぜんぜん理解できていないくせに若い世代をクサしてれば生き残れると思って調子に乗って説教をかましてるやつの文章か、笠井潔のようにおれを利用することしか考えてないやつの文章ばかり読まされて、笙野頼子のようにおれが男の批評家だってだけで嫌がらせをしてくるやつも現れるし、それでうんざりしたから文芸誌を離れ、ジャーナリズムから離れて年下には公平に清廉潔白に生きていこうかと思っていると、今度はおれがデビューさせてやった鈴木謙介や前島賢に寝首をかかれ、鈴木は職場からおれを追い出すために暗躍するし、『ユリイカ』や『SFマガジン』は前島ごときにオルグされてるし、もう毎日、とんでもないストレスを抱えて生きてるんだ。知ってんのか、桜坂。それが文学なんだよ。文壇とか論壇ってそういう世界なんだよ。ライトノベルとは違うんだよ。ライトノベルとは!』(P32〜33)

> やはりこれは、笠井を殺すのは、私の役目だということなのでございましょう。笠井潔の場合、その虚構内被害は、竹本健治に『ウロボロスの基礎論』でウンコを踏まされるに止まっており、すくなくとも虚構世界においては、まだまだ健在なのでございます。


 じつに執念深いですね。

 ――いや、「独占欲が強い」あるいは「悪女の深情け」とでも言うべきか・・・(^-^;)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。
 

「秋葉原通り魔事件」の報に接して(前)

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年 6月11日(水)22時12分20秒
   みなさん、こんばんは! また、大変な事件が起こってしまいましたね。死者7名を出すにいたった「秋葉原通り魔事件」です。

 先日、園主さまが薬丸岳の新刊『虚夢』(講談社)を紹介・推薦なさっていたので、さっそくボクも、園主さまにお借りして読ませていただいきました。さらには先般、死刑判決が下されたばかりの「光市母子殺害事件」の解任弁護士が書いた『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』(今枝仁・扶桑社)を読んでいた最中にこの事件が起こり、こう言っては何ですが、あまりにもぴったりタイミングに、嫌でもいろいろと考えさせられてしまいました。

 特に今回の「秋葉原通り魔事件」の場合、昨日のテレビニュースによると、犯人は大学卒業から凶行に到るまでの丸5年間を、非正規雇用者(プレカリアート:「プレカリオ(不安定な)」と「プロレタリアート」の造語であり、不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者・失業者の総称)として、不安定かつ希望のない生活を強いられてきた青年のようです。そして、そんな彼は、その鬱屈した心情を、時に攻撃的な言葉として、以前から何度もネット掲示板に投稿していたようです。


 薬丸岳の『虚夢』に描かれた凶悪犯は「精神病(統合失調病)」の青年でした。今枝仁が『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』で描き出した「光市母子殺害事件」の犯人は「劣悪な家庭環境」に育った、年齢不相応に未熟な少年でした。そして、今回の「秋葉原通り魔事件」の犯人は「劣悪な労働環境」において生きる希望を見失い、精神を病むにいたった青年でした。

 見てのとおり、フィクション(『虚夢』)とノンフィクション(「光市母子殺害事件」「秋葉原通り魔事件」)の違いはあっても、この3例に共通するのは、犯人がいずれも二十歳前後の「若者」であり、いわゆる「社会的弱者」だということです。
 特に「光市母子殺害事件」の犯人は、犯行時18歳の「少年」であり、今枝によると、その過酷な生育環境(外づらは良いが、妻や少年に暴力を振るう暴君としての父親。同じ虐待被害者として、少年と過剰なまでに結びついていた母親の自殺)によって、犯行時の少年は、18歳という年齢に相応しい精神的な成熟を果たしてはいなかった、としています。

 つまり、整理すると、それぞれの犯人は、

 (1) 被害妄想のある精神病者(『虚夢』)
 (2) 過酷な生育環境において、歪かつ遅滞した成長過程にあった少年(「光市母子殺害事件」)
 (3) 不安定な労働環境において、精神を病んだ青年(「秋葉原通り魔事件」)

という具合に、いずれもが、本人の意志には拠らない「選択不可能な環境的要因」によって、言い換えれば「本人の責任とは、別のところにあった要因」によって、「精神を病み・不健全な精神状態に置かれ」たことで凶行にいたったと、まとめることができるんですね。

 もちろん、精神病者や虐待児童やプレカリアートの青年のすべてが、このような凶悪犯罪を犯すというわけではありません。だから「本人の責任じゃないのか」と言う人も多いのですが、――例えば、誰だって風邪をひきますが、その結果、しばらくして治る人が大半である半面、中には先天的な体質や環境の問題が絡んで悪化し、死にいたる人だって少数ながらいるんですね。こうした悲劇的な少数事例をして、「本人の責任」と表現することが、果たして正しい認識だといえるのでしょうか?

 もちろん、この「風邪の事例」とは違い、前記の3件の「殺人事件」の場合には、犯人よって殺害された「被害者」が存在しており、その被害者たちには何の非もなかったということがハッキリしています。「ならば、この悲劇の責任は、誰にあるのか? 犯人にしかないだろう」と言いたい人の気持ちもわかりますが、他に「結果責任」の持っていきどころがないという理由で、「ぜんぶ犯人の責任だ」と考えるのは、感情的に過ぎて、冷静かつ客観的な判断だとは言えないでしょう。

 「光市母子殺害事件」の被害者遺族である本村洋さんのような立場であれば、犯人に対して「君の育った環境なんて関係ない。君のやったことが問題なんだ」と言いたくなるのは当然だし、そんな止むに止まれぬ本村さんの発言を、責められる人はいないでしょう。
 けれども、そうした「被害者感情」に一方的かつ無批判に同一化して、「絶対正義」の立場に立って、様々な背景的要因の果てに凶行に及んだ「犯人たち」を、単純に「悪魔・モンスター」呼ばわりし、「正義の鉄槌」を下すことでスッキリするといった「雑で無責任な態度」が、果たして「正しい行い」だと言えるのでしょうか?

 『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』にも書かれているように、「光市母子殺害事件」に関する報道、とくにテレビ報道の多くは、時に猟奇趣味に走った、扇情的で興味本意かつ無責任で不正確なものが、ほとんどでした。だからこそ『この報道問題については、「『光市事件』報道を検証する会」という団体が組織され、2007年11月27日、放送倫理・番組向上機構(BPO)、放送倫理検証委員会に光市事件関連報道の不当性を訴える申立書が提出され』(今枝仁・前掲書P278)、それが同機構・同委員会の検証を経て、光市事件報道の「公正さの欠如」「過剰な扇情報道」という不適切性が認められた結果、放送局各社に対し是正勧告がなされるという結果となったのでした。
 そして問題は、そんな偏向報道に踊らされるかたちで「正義」を振りかざし、犯人やその弁護士を誹謗中傷し、バッシングすることで自己満足に浸っていた「浅見浅慮な人たち」が大勢いたという事実なのです。

 これらの「凶悪事件」の場合、なにしろ犯人たちのやったこと自体は、言い訳の余地のない罪悪であり、取り返しのつかない非行であったと言えます。だからこそ、たとえ彼らを「不当かつ過剰にバッシング」したところで、そうした人たち自身が非難されることは、ほとんどありませんでした。
 でも、彼らのやっていることは、本質的には「イラク・邦人人質事件」の際の、人質や人質家族に対するバッシングと、その心性においては、ほとんど何の違いもないんですよね。

 誰だって、理由もなく殺された人や、理由もなく家族や友人を殺された人たちの胸中を察して、同情することはあるでしょう。しかし、だからといって、ネットなどのメディアを介して、「事件には無関係な自分」が、わざわざバッシングに加わるというようなことは、普通はしないんですね。そういうことをする人の多くは、もともとそういうことをやる習慣のある人なんです。

 ボクは今『誰だって、理由もなく殺された人や、理由もなく家族や友人を殺された人たちの胸中を察して、同情することはあるでしょう。』と言いました。「ある。」と言い切らないで『あるでしょう。』としたのは、実際には、「他人の悲劇」なんか何とも思わない人が「大勢いる」という事実があるからです。

 例えば「光市母子殺害事件」に激怒して、犯人や弁護士たちをバッシングした人たちのうち、いったいどれだけの人が、イラクやアフガンやパレスチナの悲劇に激怒し、その加害者であるアメリカ政府やイスラエル政府を批判したでしょうか?
 もちろん、「光市」や「秋葉原」は日本国内で身近であり、イラクやアフガンやパレスチナは遠い外国だという違いはあるでしょう。けれども、私たちがこうした事件に接するのは、メデイアを介してであり、その意味では、どちらも距離的には大差がない、と言えるんですね。
 では、両者の違いがどこにあるのかと言えば、それは「一見したところの、わかりやすさ」であり「テレビ報道における、中立性」です。

 とは言え、「秋葉原事件」では「光市事件」報道の教訓が多少は生かされており、目立った扇情性は抑制されているようなので、ここでは「光市事件」報道と『イラクやアフガンやパレスチナの悲劇』報道の違いに注目してみると、――前者では「スケープゴートとしての悪人」を仕立て上げやすかったけれど、後者の場合は、わが日本が「アメリカ追従国家」であることから、アメリカやアメリカと密接に結びついたイスラエルを単純に「悪玉呼ばわり」はしにくく、そこでテレビなどでも「中立報道」ということが、ご都合主義的に徹底されたという側面があるんですね。

 つまり、『「光市母子殺害事件」に激怒して、犯人や弁護士たちをバッシングした人たち』と『イラクやアフガンやパレスチナの悲劇に激怒し、その加害者であるアメリカ政府やイスラエル政府を批判した』人が、ほとんど重ならないというのは、両者がともに「弱者への同情」という動機をベースにしているように見えながらも、「テレビ報道に関するメディア・リテラシー」の面で大きな認識の違いがあったからなんです。
 言い換えれば、『「光市母子殺害事件」に激怒して、犯人や弁護士たちをバッシングした人たち』というのは、もともと「ウケねらい」の扇情性が強く情報の信頼性が低いことでは定評のあるテレビ報道を、ほとんど鵜呑みにする興味本位性の強い(批評意識の低い)人たちであり、『イラクやアフガンやパレスチナの悲劇に激怒し、その加害者であるアメリカ政府やイスラエル政府を批判した』人たちというのは、相対的に「テレビ報道」を鵜呑みにしない、メディア・リテラシー意識のある(相対的に、批評意識の高い)人たちだった、という違いがあるんですね。だから、両者はほとんど重ならないんです。


 したがって、『誰だって、理由もなく殺された人や、理由もなく家族や友人を殺された人たちの胸中を察して、同情することはあるでしょう。』が、ことはそんな単純な「心情主義(感情本位)」で済む問題ではないんです。
 厳しく言えば、「光市母子殺害事件」の犯人や弁護士を嵩に掛かってバッシングした人たちというのは、「被害者や被害者遺族に同情したから」という理由と同じくらいか、それ以上の動機として「正義を振りかざすための、スケープゴート(ネタ)を与えられたから」という理由でバッシングした、という側面も否定できないんです。
 もしも、そうではないというのなら、どうして、聞き齧りの情報に拠る拙速な匿名発言ではなく、もうすこし冷静に事件の状況を知ったうえでの責任を持った発言をしようとはしなかったのか、ということになるんですよね。聞き齧りの情報に拠る無責任な発言なんて、その発言が感情的で自己本位なものでしかなかったという何よりの証拠なんですから。

 例えば、『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』で紹介されている、弁護団懲戒請求事件なんかが、その良い例です。



『 2007年5月27日、全国の多くの地域で放映された、読売テレビ系『たかじんのそこまで言って委員会』において、橋本弁護士(※ 橋本徹 現大阪府知事)は、光市事件弁護団の主張を十分な根拠を示すことなく罵倒した上で、こう言い放った。

「ぜひね、全国の人ね、あの弁護団に対してもし許せないって思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」
「懲戒請求っていうのは誰でも彼でも簡単に弁護士会に行って懲戒請求を立てられますんで、何万何十万人という形であの21人の懲戒請求を立ててもらいたいんですよ」
「懲戒請求を1万2万とか10万人とか、この番組を見てる人が、一斉に弁護士会に行って懲戒請求立てて下さったらですね、弁護士会のほうとしても処分出さない訳にはいかないですよ」』

                           (今枝仁・前掲書P268)



 このような橋本弁護士の呼びかけによって、その翌日から全国の弁護士会に、(テンプレートをつかった)本件に関する7000件を越える懲戒請求の申請がなさました(例年は、年間トータルで1200件前後)。しかし、



『 懲戒請求は、弁護士に対し不満を感じたら「いつでも気軽にしていい」というようなものではなく、その行為は刑事告訴に類する法律行為であり、場合によっては虚偽告訴罪の対象ともなり得るほど重大なものだ。弁護士会や請求を受けた弁護士のみならず懲戒請求人にも手続き上の負担を課するものであり、弁護士の懲戒事由について、必要な調査と検討をした上で、慎重に行われなくてはならないという側面もある。それをせず、安易に懲戒を請求すれば、不法行為として損害賠償請求の対象となることもある。橋本弁護士自身も弁護士に対する懲戒請求は、「民事訴訟以上、刑事告訴以下」としているくらいだ。だが、今回、光市事件弁護団の弁護士に懲戒請求をした人たちの中で「民事訴訟提起以上のことをやっている」自覚のあった人は、どのくらいいただろうか。ほとんど、いないのが実情だろう。
 そして、橋本弁護士は(※ 本件懲戒請求扇動事件に関する損害賠償訴訟の)裁判の答弁書で、「懲戒請求人のうち、違法なものと、違法でないものとを特定せよ」と「求釈明」してきた。だからこそ、僕は、「懲戒請求するにあたって、何を根拠に、どの程度の調査や検討をしたか、明らかにせよ」という「求釈明書」を各懲戒請求人に送ったのだ。懲戒請求人の中には、
「なんで対象弁護士が自分の住所や氏名を知っているのか」、「こういう威圧的な書面を直接送られるのは、おかしいのではないか」と反応する人もいた。』

                         (今枝仁・前掲書P270〜271)


『テレビ番組などで、「そこまで言うなら、橋本弁護士自身、率先して懲戒請求をかけるべきではないか」と指摘され、「僕も事務所経営をする身として、そこまで負担できない」と、懲戒請求がさも簡単であるかのような発言とまったく矛盾するようなことを言い始め、ようやく、
「僕が自ら、光市事件弁護団に懲戒請求をかけます」と宣言しておきながら、その後も、自らが懲戒請求することはなかった。橋本弁護士のブログに、
「懲戒請求が違法となるのは、明らかに懲戒事由が存在しないのに、それをわかっていながら懲戒請求をかけた場合。特に弁護士が不用意に相手弁護士に対して懲戒請求をかけた場合なんだ」と記してあることを併せて考えると、自ら懲戒請求することが、明らかな違法行為になることを恐れたからに違いないだろう。そうでないならば、懲戒請求をすることを宣言しながら、結局しなかった理由を、合理的に説明するべきだ。「時間と労力がなかった」という言い訳は通用しない。なぜなら、橋本弁護士は、テレビで懲戒請求手続はあたかも簡単で誰にでもできるものであるかのように発言して視聴者を煽っているのだし、(※ 橋本弁護士自らが被告となった、損害賠償の)民事訴訟では、100頁近い書面で、光市事件弁護団の弁護士に懲戒事由があることを(※ つまり、懲戒請求扇動の正当性を)延々論じているのだから、それをそのまま懲戒請求書として書式を整えて出すだけでいいはずだ。それをしないのは、弁護団に明確な非がないことを知っているため、できないからだ。』

                         (今枝仁・前掲書P273〜274)



 弁護士の懲戒請求とは、その弁護士に不正・不適切な行為があったという理由で、懲戒処分を課するよう弁護士会に求めるものです。つまり、懲戒請求された弁護士の、仕事や生活や社会的体面に直接かかわる、重要な「処罰」請求だということですね。それならば、請求した側にもそれなりの「立証責任(根拠提示)」が求められるというのは当然のことであり、常識に類する話だとも言えるでしょう。
 しかしながら、『たかじんのそこまで言って委員会』を見て、橋本弁護士らによる光市事件弁護団バッシングに共感していた類の視聴者の多くには、そんな常識もなく、ただ自己本位な「正義の怒り」を振りかざして、いわば勢いだけで懲戒請求をした、ということなるんですね。

 今枝弁護士が送った「求釈明書」に対する上のような反応を見ると、この光市弁護士団懲戒請求事件というのは、本質的には「2ちゃんねらーによる、煽り・炎上事件」とまったく同じ心性・構造によるものだったというのがよくわかります。

 基本的に彼らは、「匿名」の安全圏の中から、嵩に掛かって「正義の怒り」をぶつけることしかできません。素顔を晒して正々堂々の戦いを相手に挑むなんて「危ない橋」は決して渡らない。この懲戒請求事件だって、ネット掲示板を炎上させるのと同じ「ノリ」で「やってしまった」ということなのでしょう。懲戒請求書を送った自分が、根拠提示の「責任を個人的に問われる」ことなど想像だにしなかったからこそ、いつものように「面白半分」で、無責任な「請求投稿」をしたんですね。
 まただからこそ、本質的に臆病な彼らは、相手の弁護士に自分の身元がバレた途端、慌てて「個人情報を(正当に)バラした」弁護士会を非難するような的外れなことを言ったり、批判した相手に批判の根拠を厳しく問われただけで、すっかり狼狽えたりすることにもなったんです。


 このように、「光市母子殺害事件」のような、「一見わかりやすい事件(じつは、そうではないんですが)」の犯人を、テレビなどを介した「断片的な情報だけ」を根拠にバッシングするような人たちというのは、まず間違いなく「自覚はない」のでしょうが、根本的には「自己満足」のためにそんなことをやっている人たちなのだとしか言えないし、そうした意味では極めて「無責任」な人たちなんですね。
 だから、そんな人たちに「声」を、その声の「大きさ(=数)」をして、過剰に肯定評価してはいけないんです(つまり、「俗情との結託」は、峻拒されなければならない)。「光市母子殺害事件」の犯人を「悪魔」視する「一般の声」と、ユダヤ人を「我利我利亡者の、アンチ・キリストの民」として蔑視し「ナチス」を熱烈に支持した「民衆の声」とは、その浅見浅慮において、本質的には何の違いもないのだということを、ボクたちは直視しなければなりません。


 そして、そこから翻って見るならば、ボクたちは「凶悪犯」というものを、単純に「悪魔視」する言説を疑うべきなんです。被害者(遺族)への思いやりを持つと共に、犯人への想像力も決して失ってはならない。


 ボクたちはたまたま、比較的恵まれた環境に生まれ育って、いちおう真っ当な社会人としての道を歩んでいます。しかし、ボクたちが「幸運にも」そういう環境に生まれたということと、こうした凶悪事件の犯人の多くが「不幸にも」恵まれない環境に生まれ落ち、あるいは置かれたということの間の「大きな差異」には、合理的な理由なんてありません。
 つまり、被害者であれ犯人であれ「なぜ、自分だけがこんな目に遭うんだ!?」と問うてみても、その「合理的な(納得のいく)答」なんて、宗教でも信じないかぎり、どこからも誰からも与えられることはないんです。

 ボクたちは「たまたま」幸運だった。彼らは「たまたま」不運だった。ただそれだけであり、不運であったことに、彼ら自身の責任は無いんです。

 だから、問うべき責任は問うべきですが、問うべきではない責任まで、その結果責任として、無闇に感情的(自己慰撫的)に、問うてはならない。
 相手が、アメリカやイスラエルという「巨大な存在」ではなく、容易に責任を問うこともできる「一個の弱い個人」であるからといって、彼らの責任だけを声高に問うのは、行為の一貫性の問題として「アンフェア」な態度なのではないでしょうか。


 今の日本人は、あまりにも知性と想像力に欠けて、感情的です。東浩紀風に言うなら、「動物的」だとも言い換えても良いでしょう。でも、自分が「動物」並みに「非知的」だと思っている人は、たぶんほとんどいないはずですし、そうであるならば、日本人として世界に恥じない「知的」なところを、是非とも見せて欲しい。
 しかしそのためには、直視しにくいものを直視し、想像しにくいものに想像力を働かせてみせる、強靱な知性と精神力が求められるはずです。

 凶悪犯罪者を「悪魔」や「人非人」と決めつけて(レッテルを貼って)非難し断罪することは、たぶん小学生だってできるでしょう。しかし、そういう安易かつ感情的な判断を一旦停止して、冷静かつ客観的に「真相」を知ろうとする努力は、誰にでもできることではないんです。
 「世論という、数の力」に乗じて犯罪者を否定し断罪するのは容易ですが、断罪なんて、いつでもできるんです。――だから、その前にボクたちがすべきことは、粘り強く、この「悲惨な現実」と向き合い、それを如何にして乗り越えるのかを思考することなんですね。

 凶悪犯を「キャベツか何かを潰す」ように抹殺してみても、何も解決しないのだということを、知性ある者ならば是非とも考えなければならないし、そうした努力の先にだけ「微かな希望の光」もあるのだということを、決して忘れてはならないんだと思います。





( 以下は「「秋葉原通り魔事件」の報に接して(後)」につづく)
 

会話

 投稿者:田辺  投稿日:2008年 6月 6日(金)00時28分36秒
  自分の脳味噌内だけでクヨクヨ考えた事なんぞは当然、「思想」にはなり得ないだろうと思います。
しかし人に言葉を発し、その結果、相手が自分の「思い」や「意志」を完全に理解し、自然に共感出来た場合は、それは自分達の共同体内だけでの事でしょうが、「思想」になり得るのかと今、私は思ったのでした。
 

薬丸岳の新作『虚夢』を強く推薦する。

 投稿者:園主  投稿日:2008年 6月 5日(木)20時58分48秒
  みなさま、詳しくは後日ご報告させていただくとして、先ほど読了したばかりの小説について、ご一報とかたがた、ここで強く推薦をさせていただきたいと存じます。

その本とは、つい先日刊行されたばかりに推理小説『虚夢』(薬丸岳・講談社)でございます。本作は、少年犯罪問題を扱った『天使のナイフ』で江戸川乱歩賞デビューを果たした気鋭の、長編第3作目となります。作者はこれまで、一貫して「現代日本における犯罪」の問題をテーマとしてきた「硬派作家」で、私の場合これまでは「いまさら社会派はなあ…」と敬遠していたのでございますが、『IN☆POCKET』2008年5月号に掲載された、書評ライター中島駆の、たいへん熱のこもった書評に後押しされて、手に取ることになりました。

本作『虚夢』は、「精神障害者の犯罪と犯罪被害者家族の問題」というとても難しい問題に、真正面から切り込んだ作品でございますが、偏りのない非常に目配りのきいた、かつ、作者の思いのこもった、じつに誠実な傑作となっております。

詳しくはまた後日書かせていただくとして、本日は、この傑作をみなさまに一刻も早く推薦したいと思い、急遽、筆を取ることにいたしました。
今なら、大型書店ではサイン本が売られております。この作品なら、何らかの文学賞を受賞する公算も高いと申せましょう(直木賞・山本周五郎賞・吉川英治文学新人賞・日本推理作家協会賞など)。ですから、賞ものがお好きな方は押さえておくべき作品でございましょう。感動したい方にも、安心してお薦めできる作品でございます。もちろん「意外な結末」も準備されております。

とにかく、ひとまず多くの人に、この作品を読んでいただきたい。そして楽しんでいただきたい。その上で、少しでも「考える」時間を持っていただけたらと思い、このように取る物も取り敢えず推薦させていただいたという次第でございます。





それでは、みなさま、本日はこれにて失礼します。おやすみなさいまし。

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無が有る

 投稿者:ひろ  投稿日:2008年 6月 4日(水)10時46分13秒
  こんばんは、そして、ご助言をありがとうございます。
永らく(物理的に)封じていた絵具は、使用に耐えられないほど固化しており、この際はと思い立って、スケッチブックともども新調してまいりました。
この新しい画材を手に取るのが、果たしていつのことになるやら。

本日の情熱は、液状のココナツミルクには長年慣れ親しんでおりましたが、初めての粉末のそれを仕入れ、いかに美味しく調理するか、に注がれました。
結果は勿論、合格です。
他人に食べていただくためではありませんから、俺自身が満足できれば、それを以って合格としますし、点数は満点の他に有り得ません。
有り得るのは、不合格である零点のみ。
「もっと美味しくなる」と思える間は、未だ調理中であって、
「これは美味い」と思えた時が、料理の完成であって、
「食えないほど不味い」となるまで錯誤を重ねた後に、失敗となります。
この失敗は、過去総じても5例まではありませんが、そも己のために作る料理である以上、己以上に己の嗜好を知る人もおりませんから、あとは技術や慣れで、「美味い」と、俺自身が評価できる料理を、作れて当然、と思っております。

他人のために料理することは、過去に何度もありました。
振舞い料理を供することに躊躇はありません。
俺が自分で「美味い」と思う料理を提供しているだけであって、それが「不味い」と評されれば、味覚の差異だと思うだけですから。
ただし、その評によって嗜好が判別されるなら、次回はその人が好み望む調理法を試すことが、俺の新たな楽しみとなります。
そうして、自分用と他人用とでレシピの異なる同一の料理が生まれますが、普段は自分のために、時折は人のための料理をすると云うバランスで、永く料理を趣味として楽しむことができております。

生活のための自炊に直結する料理と、長くは続いていない、職業的ではないモノカキとを、同一の趣味の範疇に捉えて比較することは不毛だと思えますが、俺の人間性を表す例のような気がします。
確固たる自我と、いかようにも外的要因で流動できる万能さ・・・
・・・言葉にすると首を捻りそうですが、俺が求める理想態です。


ホランドさんの仰る、模倣の情熱ですが、水彩画に関しては、始まりに模倣ありき、ではなかった(と思う)俺にとって、少々難しいかもしれません。
前述の、美術の授業では、テーマとして枯葉の画の手本まで用意されながら、手本の画を必要としない(勿論モデルとして用意はした)枝を描き、小説やゲームを基にした絵も、挿絵や表紙などではなく、内容をイメージした空想画に過ぎない代物でした。
幼少から絵心はどうやら有していたらしいのですが、絵画展や美術館などには一度も行ったことがなく(美術部時代、部活動としての見学会は全てサボりました^^;)、美術史をひも解いても、興味が湧いたのは絵画ではなく建築の類でした。
好きな作家はと訊かれて出てくる名はあっても、画家はと訊かれると、知っている程度で好きも嫌いもないんです、ヒマワリがゴッホだと云う程度でしかないんです。
おそらく、かつて俺の絵心を触発したモノとは、俺自身が生まれて初めてスゴイ何かを感じたモノ、だったと思われます。
そのスゴイモノとは、既に描かれた絵ではなく、その絵の基となるようなモノ、例えば初めて実物の富士山を見た、小説の展開に衝撃を覚えた、プチ・トリアノンにロマンを感じた、母親の作ったツルウメモドキのリースが見事だった、と云うような。
そして、それを感じる感性が、慣れてしまい、鈍化してしまったせいで、情熱も失われてしまった、と・・・
でも、25歳からの10年間、知識と経験を溜め込むための放浪と称して日本各地を(30回以上の引越を伴って)移り住んだのに、絵は描けませんでした。
昔のようには湧いてこない情熱を呼び醒ますために、別の扉が必要だとしたら、改めて模倣を探るのも手段になるかもしれませんね。
依頼人が気に入るかどうか、も、まず描いてみないことには、どうにもならないのが現実です、ふとそれに気付いて泣きそうな俺です。

俺が、アレクセイさんの論に良し悪しを注せるほどには、自我は外界を注視しておらず、自らの欲する事象に対してのみ食指を働かせる愚者であることは、もはや明白に見抜かれていると思いますが(笑)
俺に必要な(と自分で信じる)モノは、良しも悪しも、正も邪も、光も闇も別け隔てなく、論理や理論、数式で証明される、あらゆる整合性です。
ふたつの反する理論から同じ現象が証明されるなら、その両方の理論が欲しい。
ふたつの反する論理から、それぞれ異なる結論が証明されるなら、その両方の論理が欲しい。
良し悪しで言う悪しき結論も、理屈に証明された、完成された悪さであれば、俺には宝です。
でもこの、完成された悪さ、って難しいと思うんです、善悪の悪ではなく、良し悪しの悪さを、どう完成させたらいいんだろう?未完成・不完全であることが、悪さの要件ではないか?と。
悪さが完全に証明されたら、それは良し悪しの良しになる、と云う答は俺には無用なんです(笑)
そこで唐突に、アレクセイさんの関わる討論を観察していれば、どこかに光明が射すのでは、と感じた俺でした。
議論の内容そのものは、俺の無学無教養もあって、いずれにしろ駄弁を挟む余地もありませんから、どちらが正しいなどと云う決着にも然程の興味はなく、ただ単純に純粋に、アレクセイさんが、ご自身の論に筋を通すのは言うまでもなく、対する論客の論にもアレクセイさんの筋(を押しつける、とか、を強要する、とか、で増設する、とか、で代弁する、とか、色々な意味で)を建てる、その、『アレクセイさんの通す筋』こそが媚薬=毒なんです。
そこは、奇特な、と評された通り、たとえ毒の対象が俺であったとしても、その通された筋によって俺は感嘆する、そう欲するわけです。
なんだか失礼なことを放言してる内容だと誤解されそうな文章ですが・・・
これからしばらくは、新旧を問わずアレクセイさんの批評、批判、特に討論を、静粛に拝謁させていただく所存です。

誰のために書くのか―
この問い掛けは、20年来思いもよりませんでしたが、答は前述の通りです。
ただし、料理ならば次回こうご期待と洒落込めるわけですが、同じシーンの二度とない小説に於いては、貫くしかないでしょう。
他のファンタシーを一切読まなくなった俺に、他人が読みやすく理解しやすい文章は書けない、と不毛にして自虐な前提を科して逃走するのが得策(笑)
徐々にでも名文が書けるよう、どう努力するかは、こちらも絵と同じく、まずは執筆を再開しないことには話にもネタにもなりません。
名文以前の、物語のネタ的おもしろさがあるのか、と云う点への言及は無しでひとつ。
夢落ちの回避法も、並列世界の構想も、世にはとうに出尽くしているのではないかと。

絵については、実力のほどはともかく、アマチュアリズムからの脱却まで果たせなければ、依頼者の要望には到底応えられない、という悲壮な覚悟を覚悟するに至りました。
まぁ、覚悟を覚悟しただけで、まだ悲壮な覚悟は決めておりません(笑)
そして、出来ないことは出来ない、これは俺の最後の砦となる決め台詞でもあります。
そう簡単には言わない、言えば投了となる一言ですが、まだ言わないらしいです。
・・・出来ない、と言って切り捨てた過去や夢の、我ながらなんと多いことか。


フレディ・マーキュリーはクイーンのヴォーカルでした。
クラーレ毒から始まって、スズメバチ、アコニチンと行って、医学方面を彷徨ってるうちに英国のロックバンドに辿り着いたような。
そこから優生学、血友病、大西・・・と云う経路だったような気がしますが、所要時間は12時間を超えました(笑)

***

と、実は前回、投稿>編集>掲載の手順があるものと勝手に決め込み、アスタリスクの行間はオフレコ的に書いておりまして、削除されるものと思っておりました。
もっとも、編集削除ましてや加筆などのお手間を、ご返信いただけますよう暗にお願い申し上げる一閲覧者の分で、望むなど笑止千万ではございます(笑)
元が、メモ帳で延べ半日以上をかけて書き込み、貼り付けて送信するたちの人間ですが、校正まがいのことはしても要約はしないと云う不精者につき、再度の長文は呆れても笑ってお許し下さいますよう加えてお願いいたしつつ・・・
ご助言のお礼さえお届けできましたら、それで本分は全ういたしてございますので、お手間でありましたら掲載されなくとも構いません。
うん・・・文体がおかしくなってきた、慣れない筆は執らないに限る。

熱き言の葉と存じ、励みと糧とにいたします、ありがとうございました。

P.S.
 普通にアドレス欄にアドレス載せるほうが安心だったことに気付くのが遅かった(-"-)
 

目覚める時

 投稿者:kamui  投稿日:2008年 6月 3日(火)23時12分15秒
  ホランド さん

> 最近のご生活にまつわるご論考を拝見しますと、「思考と行動」がバランスよく、着実に進められているという印象を受けます。――ただ、生活がかかった行動ですので、そこは慎重の上にも慎重にお願いしますね。

実は、アレクセイさんから私信にて実際の生活と自身の思考が伴っていないという、私の致命的な欠陥を指摘していただくまで、「思考と行動」のバランスを欠いていたことを自覚していませんでした。これまで、現実の場面では「どうせこうなるに決まっているのに、ジタバタしても仕方ないだろう」ぐらいの認識しか持ち合わせていませんでしたので。

だから、今でもそういう決め付けた(最初に結論ありき)態度はあるのですぐに諦めてしまうところがあります。

その辺りを修正しようと奮闘している最中にホランドさんから褒められると、嬉しい反面、自身の単純さを見抜かれているようにも思えます。

>さて、ここで、kamuiさまのために、園主さまの箴言をひとつご紹介しておきましょう。

>  「私は、負ける喧嘩はしない。だから、戦えば必ず勝つ」

> ――参考になるでしょうか?(笑)

シナリオを論理的に書き進めるのは脚本家の腕の見せどころですね。まず、アレクセイさんが書かれたシナリオを演じることで、箴言の内容を実感できればと思っています。

ところで話は変わりますが熊谷氏のサイトで繰り広げられる、投稿→削除のドタバタの結末は予断を許しませんね。

冬がとっくに終わったところで、熊さんの冬眠開けの挨拶があったのはいいですが、お仲間達が熊さんを起こさないようにと掲示板にトランキライザー(削除)を投与し続けているのは滑稽です。(笑)
 

『キャラクターズ』(後)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 6月 2日(月)21時52分21秒
   ひろさま

ピンクの仔豚

はじめまして。ようこそおいで下さいました。


> 毒矢用のクラーレを調べているうちに、フレディを経由して、貴サイトに漂着しました。


『フレディ』とは、どちらのことなのでございましょうか?


> こちらの一歩手前、とある遺跡でのアレクセイさんの書き込みを拝見し、
> 「なんだろう、この、批評っぽい衣を纏った、誹謗中傷でさえないアラシは・・・」
> と非常な興味を抱き、なぜか貴掲示板に書き込みを始めた俺です。

> カギカッコ内の言葉は、第一印象であったり、前後の脈略の読後の再認識であったり、
> 俺がそう感じたと云う部分に関しての本心ではありますが、
> 貴掲示板を拝見し、アレクセイさんの筆圧のなせる表現なんだ、と今は思い到っております。


貴方はとても正直な方であり、内省性も持ち合わせておられるのでございましょう。

私の「第一印象」が悪いというのは定評のあるところでございますから、べつになんとも思いません。むしろ、「悪い第一印象」で読者を選別している部分もあるのでございますから、それはそれで狙いどおりなのでございますよ(笑)。


> 非常な興味を抱いた時点で、共感している部分も自覚しておりますが、
> 多感した自分、こちらのほうに、俺自身は重点を置いているようです。
> と云うのも、俺は批評・論評を加える立場ではない、それどころか、
> それに類するものを受け止める側にいたい、と思っている人間だからです。


奇特な方だとは申せましょうが、その志は素晴らしいと存じます。今は、自分を無傷で守ること、肯定されることしか考えていない人間が、あまりにも多ございますから。


> と、自負するほどの業績も何も残してはいませんが、
> 個人の趣味の範疇ではあっても、モノをカキ始めて20年以上経過した俺には、
> なんと言うか、その毒が欲しい!と胸をかき毟る思いがあるわけで・・・


お気持ちはよくわかりますが、「毒」というのは持って生まれた部分が大きく、欲しいといって得られるものではないと存じます。例えば、私が「いい人になりたい」と言っても、それは無理なのと同じでございましょう。
つまり要は、自分の長所を正しく理解して、そこを生かすように努力するのが一番だということではないでしょうか。好き嫌いとは別次元で、向き不向きというのは、やはりあるのではないかと存じます。


> いわゆる幻想ファンタシーな世界の歴史を想像し創造するのが生き甲斐でした。
(…)
> 大学ノートに書き続けた原文は、単純なページ数で500ページを超え、
> 途中までを原稿用紙に校正したペースで換算すると、全体で三部構成になるその第一部の、
> 三章構成となる第一章が400字*1000枚を超える勢いで、
> 本人も呆れて執筆は止まっていますが(笑)
> 俺の制止を聞かずに読み始めた知人の全てが、『難解』と云う反応を示す始末。

> もちろん、俺自身の文盲、一般論を踏破しない我流に過ぎる思想のせいで、
> 何言ってるのか意味不明な文脈・展開であろうことは容易に想像できますし、
> しょせんは趣味のライフワークでもありますから、共感など不要と言えます。
> とはいえ、共感を拒絶はしませんし、なにより、反感を欲してやまないのも事実で、
> なにがおかしいのか、どこに違和感があるのか、率直に聞かせて欲しいのが本心でした。
> 執筆を中断している今になって、それらを求めていた自分の未成熟ぶりを自覚し、
> 今なお執筆再開できない要因となっているのも事実です。
> 自分で想像した世界を、自分で確信できないでいるんです。
> ファンタシーの世界なのに。


それほどの量を書けたのなら、ひとまずひろさまには、ファンタジーを書くことが「向いている」ということなのでございましょう。もちろん、これは素晴らしいファンタジーが書けるということではなく、ひとまず楽しみながら書けるという意味でございます。

で、ここで問題となるのは、ひろさまは、それを自分のために書くのか、それとも他人を楽しませるために書くのか、という問題でございます。
むろん、楽しく書いて読者にも楽しんでもらえたなら、それに越したことはないのでございますが、しかしそれは、理想であって、誰もがそうしてうまくいくものではございません。だとすれと、ひとまずどちらを「優先」させるのかという問題は避けられないものだと思うのでございますね。――さて、ひろさまは、どちらを選ぶのでございましょう?


> 当時の、部活動ではなく、授業の一環として描いた絵の中の一点について、
> 秋の枯葉を題材にしたスケッチにて。
> テーマが枯葉であるにも拘らず、実をつけた枝をスケッチする反骨な俺。
> スケッチブックに枝を乗せ、水彩絵具で、筆ではなくGペンで描いていたのですが、
> 友人と、美術担任の先生から、「これは枯葉じゃないな」と、クレームをつけられました。
> 「これは」と言いながら、枝をつまむんです。
> 友人も、先生も、俺が描きかけのほうの枝を。すぐ横に本物の枝があるのに。

> 当時を驕る、と書きましたが、水彩画は、その絵が俺の人生でも最後になっています。
> 後で語るには良い思い出でもありました。
> ところが、その、実のなる枝の絵を含め、俺のスケッチブックを見た人が、
> 「話をもちかけてから、そろそろ10年になるけど」と、
> 商業的な出展の話を持ちかけてきたのです。

> 彼のために、描けるものなら描きたい、と思っています。
> 彼が喜ぶなら、それは俺の喜びでもあります。
(…)
> 今、俺が、彼の求める絵を描けるとは到底思えません。

> アレクセイさん、
> なくしてしまった情熱は、再燃しますか?
> 捨てたわけでもなく、忘れたわけでもない、消えてしまった情熱が。


ホランドくんも書いておりましたとおり、ひろさまには、まだ創作への情熱が十分に残っていると存じます。しかし、その情熱は、昔も今も「絵」には向かっておらず、ただ期待してくれている方への感謝の思いから「絵」を描きたいと思っておられるだけなのでございましょう。
そのお気持ち自体は、とても素晴らしいことなのですが、そういう理由から、ひろさまのような方が、描きたくもない絵を描くというのは、ほとんど無理でございましょうね。

つれないことを言うようでございますが、私自身、依頼原稿はあまり良いものが書けないという経験から、近年は「書きたいことを、書きたい時に、書きたいだけ書く」ということに徹しております。つまり、アマチュアリズムに徹している。だからこそ、保てるボルテージだという側面もあるのでございますよ。

そんなわけで、こんな私が助言できるとしましたら、それはひろさまも、「したい」だけではなく「何が出来るのか」ということを、自分に問うてみることであろうかと存じます。――いくら良いこと、好ましいことであったとしても、「出来ないことは出来ない」ということは、残念ながらあるのでございます。


まずは、やりたいことを、結果を怖れずに、精いっぱいやりたいようになさるべきではないでしょうか?

「命短し恋せよ乙女、紅き唇褪せぬ間に、赤き血潮の冷えぬ間に」でございます。



 ホランド

『キララ、またも探偵す。』と「人間の尊厳」

> 「良きこと」は「すべき(義務)」です。しかし、この場合の「義務」とは、自分が自分に課する義務、つまり、自分がそれを「選び取った」上で自分に課するものであって、他人が人に課する(押しつける)ものではない。例えば、「困っている人がいれば、助けてあげる」という「他者援助」は、個々人が自分の判断で進んでやるからこそ意味があるのであって、他人が強いるべき「義務」などではない。

> 「人間(固有)の尊厳」とは、「善行も悪行も選びうる(人間的=非ロボット的)状態において、自己の意志において、善行を選ぶ」ところにあります。
 言い換えれば「強いられた善行」は善行ではなく、「他人に善行を強いること」は、原則的には「人間(固有)の尊厳」を蔑ろにする「悪行」なのだということを、ボクたちは心すべきなのですね。


熊谷伸一郎のような「平和運動家」も、本音の部分では「(凡庸な)政治家」として「実益を伴う実行動」を他人に求め、かなうものなら強制しようとさえする。つまり「他人に善行を強いること」は「実際的には、良いことだ」と考えている。「動員(数)の思想」だな。しかし、ここには明らかに、「動くこと」への依存からくる退嬰的な「思考停止」が働いていると言えるだろう。


先ごろ刊行された思想誌『思想地図』(東浩紀・北田暁大 編集)に収録された共同討議「国家・暴力・ナショナリズム」(東浩紀・萱野稔人・北田暁大・白井聡・中島岳志)の冒頭、東浩紀は次のように『思想地図』の創刊意図を語っている。



『 ここ十数年、僕の考えだと一九九五年以降、論壇の社会学化と心理学化が急速に進みました。その結果、政治について語ることが、当事者性を強調した単純な言葉で埋め尽くされている。二言目には具体的な実効性を、と問われてしまう。
 しかし、政治とは、そもそも社会を共同で運営していく行為一般のことのはずです。そのためには、本来はもっと抽象的な言葉、思弁的な言葉で考えてもいいはずです。僕としては、そういう場を取り戻したい。もちろんそのときに、政治というからには、具体的な実効性や現実との繋がりはなければならない。しかし、「現実と繋がってますよ」「こんなに現実を見てますよ」と、ことさらに叫び続ける必要があるだろうか。そもそも「現実」とはそれほど単純なものだろうか。』(P7)



ここで東浩紀の語っていることを、熊谷伸一郎のような(自称)『体育会系運動家』が「動きの鈍い、頭でっかちの言い訳だ」と、陰で批判することは容易だろう。しかし、東浩紀の言っていることは、いたって常識的かつ真っ当なことでしかない。

東浩紀のこうした主張は、臆面もなく『「現実と繋がってますよ」「こんなに現実を見てますよ」と、ことさらに叫び続ける』人たちの「頽落的な政治的言説」が跋扈する昨今だからこそ、その主張に正当性が認められるといった「時事的」なものには止まらない。その証拠に、大西巨人は文学者として、昔から同じことを変わらずに主張し続けてきた。

 光文社文庫版『深淵』の解説で、鎌田哲哉は、大西巨人が戦後すぐに発表したエッセイ「籠れる冬は久しかりにし」を引用して紹介した上で、『深淵』というタイトルの意義を次のように語っている。



『 我々が「春」の到来だと錯覚している事柄は、実際には皮相で形式的な意味における政治上の上滑りにすぎない。もし我々が真に「冬」を一掃し、「新しい別の冬」への悪循環をも拒絶したければ、「深淵」における自主的かつ精神的な闘争を通じて、それらを自力で勝ちとる以外ない。この闘争は、政治的なものを回避するためではなく、逆にそれを根底的に戦い抜くために不可欠なのだ。――大西は、この簡潔な批評文でそう述べている。「「深淵としての人間・民衆」を剔抉すること、そこから真の現代革命への道を見い出すこと、それらを為さずして、文学は、他の何を為すことがあるのか」(大西同上)』(P343)



「深淵としての人間」の剔抉を欠いた結果、「庶民の側につく」ことを公言して憚らない「平和運動家」までが、内心では庶民を侮蔑することになる。そして、そんな彼らが権力を握ることは、真実の「春」の到来を意味せず、所詮は『皮相で形式的な意味における政治上の上滑りにすぎない。』。だから、そんな形で達成された「新しい権力」は、容易に「抑圧的な権力」へと転化し、『新しい別の冬』と化して、既視感のある悪循環へと繋がっていくんだ。


我々に金看板はいらない。我々に必要なのは、金看板を背負って「正義」を押しつけてくる奴らを徹底的に疑い抜いて、「深淵としての人間」を見極めるという「行動」なんだ。――おまえの言っていたとおり、人間知性の真髄は「反省能力」にこそあって、看板としての「正義」にあるわけではないんだ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

『キャラクターズ』(前)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 6月 2日(月)21時48分23秒
  みなさま、本日は、評論家東浩紀とライトノベル出身の作家桜坂洋の合作小説『キャラクターズ』(新潮社)をご紹介したいと存じます。

この小説の主人公は、作者の一人である東浩紀。桜坂洋の方も登場いたします。
東浩紀をめぐる物語を、東と桜塚が交互に、自己言及的な「一人称」で語り、ゲーム小説的物語の進行と、文壇や文学をめぐる批評的論述が錯綜する、これは今様のメタフィクションだと申せましょう。――まあ、それにしてもそこはそれ。東浩紀が噛んでいる物語でございますから、この種の小説に対する「とおり一遍な読み」を拒絶する「予防線」が張り巡らされており、一筋縄ではいかない、批評しにくい作品となっており、その意味において、なかなか興味深い作品ともなっております。

しかしながら端的に申しますと、やはり「小説」としては、弱い。「私小説」的なものに回収されない「虚構の可能性」を手探りしながら、しかしどこかで「虚構」を信じて身を任せ切っているとは思えない「(重心の掛かっていない)軽さ」を、この作品は感じさせます。
つまり、やっていることはそれなりに面白いし、「評論家小説」特有の読みにくさもなく、それなりに楽しめはするものの、「従来の小説」が保持していた「私小説」性を、小説の形式において内破するほどの、小説としての「重さ」を持ち得なかったという点において、この小説は、その志を遂げえなかったと評価できるのではないか。――がしかし、それでもそれなりに楽しめたという点は評価できましょう。たとえそれが私の個人的な興味に発するものだとしても、読者の一人である私を楽しませたという功績は、この小説に認められるべき功績なのでございます。


言うまでもなく、この小説は「フィクション」であり、そこで語られる「東浩紀とその周辺事情」を、そのまま、私たち読者の現実水準のものとして読むというのは、伝統的かつ悪しき「私小説」的な読みであり、凡庸かつ下世話な読みだと申せましょう。しかしながら、それでもそこで楽しめるという点で、この小説は確実に救われてもいるのでございます。

作中の東浩紀は、筒井康隆的世界に言及しながら、筒井康隆的な作中の東浩紀(おれ)に次のように語らせます。



『 おれのことがキモいだと。ふざけんな。おまえら(※ 桜坂洋夫婦)のようなオタクと腐女子カップルにおれの悩みがわかるものか。そもそもおれは『新潮』も『ギートステイト』もどうだっていいんだ。こんなもの全部遊びで副業だ。うんざりしているからストレス解消にやっているだけだ。こっちはもう十五年も前から、ちょっとデビューが早かったからってバカな年長世代にさんざおもちゃにされて、浅田彰から山形浩生を通って大塚英志や唐沢俊一まで、おれの文章なんかぜんぜん理解できていないくせに若い世代をクサしてれば生き残れると思って調子に乗って説教をかましてるやつの文章か、笠井潔のようにおれを利用することしか考えてないやつの文章ばかり読まされて、笙野頼子のようにおれが男の批評家だってだけで嫌がらせをしてくるやつも現れるし、それでうんざりしたから文芸誌を離れ、ジャーナリズムから離れて年下には公平に清廉潔白に生きていこうかと思っていると、今度はおれがデビューさせてやった鈴木謙介や前島賢に寝首をかかれ、鈴木は職場からおれを追い出すために暗躍するし、『ユリイカ』や『SFマガジン』は前島ごときにオルグされてるし、もう毎日、とんでもないストレスを抱えて生きてるんだ。知ってんのか、桜坂。それが文学なんだよ。文壇とか論壇ってそういう世界なんだよ。ライトノベルとは違うんだよ。ライトノベルとは!』(P32〜33)



しっかり「私の笠井潔」も登場していて、私はとても嬉しゅうございました。
しかも『笠井潔のようにおれを利用することしか考えてないやつ』呼ばわり(笑)。

もちろん、ここに書かれていることは、フィクショナイズされております。だからこそ、書けた「部分」もあり、私が興味を惹かれるのは、そうした普通なら書けないような「真実」なのでございますね。

ちなみに、ここで言及されている前島賢は、笠井潔の「限界小説研究会」に鞍替えして、仕事量を確実に増やした、あのちゃっかり者の前島賢でございます。


さて、物語の中では、共著者である桜坂洋がヘリコプターの墜落事故で死亡してしまい、唯一の友と言えた桜坂を失った作中の東浩紀(ぼく)は、こんな嘆きを漏らします。



『 小説は続いている。桜坂には酷いことをした。ぼくは桜坂の伏線を裏切り続けた。けれど彼は文句ひとつ言わず、いつも翌日には(※ この小説の担当の)パートを上げてくれた。辛かったろう。『ギートステイト』でも迷惑をかけた。鈴木健との決裂では彼が仲介してくれた。連載直後にぼくが降りると言い出し、堀田が匙を投げたときも、彼だけは粘り強く説得してくれた。ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ。桜坂はそのぼくがはじめて出会った、本当の意味での友人と言える存在だった。ぼくはそんな彼を、ぼくの考えるとおりの小説を書かないからといって、夜も妻からの電話でさっさと帰ってしまうからといって、殺してしまった。もう二度と彼には会えないのだ。もう二度と。絶対に。』(P73)



そんな東浩紀が、一方ではこんなことを書いております。



『構造と内容と文体のボロメオの輪を、その廃虚のうえにふたたび結びなおすことができるのだ。そして、その分裂が強いた悲劇、桜坂の死をリセットすることができるのだ。もしかしたらそのときには、この十年間のぼくのすべての失敗すらリセットできるかもしれない。朝日新聞(※ 本社)さえ焼かれれば、灰になれば、
僭称された第三の審級がなくなり、すべてのひとが丸裸になれば。そのときにはきっと、浅田彰も大塚英志も阿部和重も新海誠も鈴木謙介も、ぼくの愛する人たちが、そしてぼくから離れたひとたちが、すべて戻ってくるだろう。』(P78〜79)



もちろん私は、このシーンにおける作中人物の妄想には、まったく興味がございません。興味があるのは、この小説において、作者の東浩紀が、自身の周辺にいた多くの実在の人物について実名で言及したあと、戻ってきてほしい『愛する人たち』として具体的に名前を上げたのが、浅田彰・大塚英志・阿部和重・新海誠・鈴木謙介であって、柄谷行人や笠井潔、前島賢ではなかった、という事実なのでございます。――これは、現実の問題としても、前の五人にくらべると、後の三人は東浩紀に「愛されていない」という事実を示しているのでございましょう。


さて、三人に「分裂」した作中の東浩紀は、桜坂洋の死を切っ掛けに、朝日新聞本社ビルを炎上させ壊滅させれば、よき世界は回復できるという妄想にとらわれて、朝日新聞本社襲撃を敢行。ついに本社ビルの炎上破壊に成功いたします。

本書のラストシーンは、そんな朝日新聞本社ビルの大炎上シーンなのでございますが、その時、おりしも同ビル内では、書評委員が会議をしていたのか、同紙書評委員の唐沢俊一や北野暁大(※ 社会学者。先頃、東と共同編集で思想誌『思想地図』を刊行)や香山リカの悲惨で滑稽な死が、おまけのサービスのように描かれます。

――もしも、このシーンで、わが笠井潔の滑稽な死に様が描かれていれば、私のこの小説に対する「個人的な評価」は、もっと上がっていたでしょうが、残念ながら「朝日新聞」の書評委員ではない笠井の登場はございませんでした。笠井がかつて『利用』した雑誌『TRIPPER』は、なぜか登場したというのに……。

やはりこれは、笠井を殺すのは、私の役目だということなのでございましょう。笠井潔の場合、その虚構内被害は、竹本健治に『ウロボロスの基礎論』でウンコを踏まされるに止まっており、すくなくとも虚構世界においては、まだまだ健在なのでございます。





( 以下は「『キャラクターズ』(後)」につづく)
 

『キララ、またも探偵す。』と「人間の尊厳」

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年 5月30日(金)15時21分48秒
   みなさん、こんにちは! すこしご報告が遅れてしまいましたが、竹本健治の新刊が先日刊行されました。ご存じ「キララ」シリーズの2巻目となる『キララ、またも探偵す。』(文藝春秋)です。


 このシリーズは、さえない大学生 乙島侑平のところへ、親戚の変人科学者 益子博士が極秘裏に開発した「メイド型アンドロイド」であるキララが送られてきて、キララのモニタリングを依頼されるというところから始まります。
 キララは、どんなアイドルだってかなわない絶世の美少女の外見を持ち、しかもご主人様として登録されている侑平にはぞっこんの絶対服従です。当然、侑平は大喜びするんですが、キララが侑平の元に届けられて以来、キララと侑平は、キララと同型アンドロイドがらみの事件に、たびたび巻き込まれることになります。

 一見したところ、お軽いノリの、ノーテンキなSFミステリ見えるシリーズですが、そこはさすがに鬼才竹本健治。「アンドロイド(=人造人間)は如何にして可能か?」という設問を通して「人間とは如何なるものなのか?」という根源的問題を逆照射してみせます。

 ミステリ的に際立った謎の提示や謎解きがあるわけではなく、そのようなものを期待すると肩透かしを喰うことになるかも知れませんが、上記のような思弁的問題意識を読み取れれば、見掛けとは違う、知的にスリリングな小説として楽しめるシリーズに仕上がっています。


 さて、今回の『キララ、またも探偵す。』には、「キララ、失踪す。」「光瑠、探偵す。」「キララ、赤面す。」の3編と、番外編の掌編「雨の中で出会った少女」が収められていますが、ここでは、ボクが本書のなかで最も面白いと思った部分について、ご紹介させていただきたいと思います。


 キララを含む同型の「メイド型アンドロイド」、ここでは仮に「キララ型アンドロイド」としておきますが、キララ型アンドロイドには、


 第一条
  「ロボットは人間に危害を加えてはならない。
  また、人間に危害を与える危険を見過ごしてはならない」
 第二条
  「ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。
  ただし第1条に反する場合はこの限りではない」
 第三条
  「ロボットは第1条、第2条に反するおそれがない限り、自分を守らなければならない」

                 (アイザック・アジモフ著 『我はロボット』より)


という、有名な「アジモフのロボット3原則」に準じた、「益子式三原則」が書き込まれています。

 で、竹本健治が「キララ、失踪す。」で応用したのは、この第1条の『ロボットは人間に危害を(…)与える危険を見過ごしてはならない』の項目で、なぜ「彼女=キララ型アンドロイド」は「事前に殺人計画を知っていながら、その時すぐに、その計画を止めようとはしなかったのか?」という「謎=ホワイダニット」を設定しみせたんです。

 侑平のそうした疑問について、「キララ型アンドロイド」開発スタッフの一人であるミス・キャンベルは、次のように答えます。



『「ソレハ大変デリケートナ問題デース。モトモト益子式三原則デハ、アジモフ流三原則同様、ロボットハ人命ヲ守ラナケレバナラナイトイウコトニナッテイマスガ、ソノ原則ヲ無制限ニ最優先サセルト、人命ノ危機ガ存在スル場所ハコノ世ニイクラデモアリマスシ、早イ話、戦争ヤ飢餓ヤ疫病ハ世界ノ各地デ進行中デスカラ、ロボットハ真ッ先ニソウイウ場所ニ駆ケツケテ人命救助ヲシ続ケナケレバナラズ、永久ニ本来ノ役割ヲ果タスコトガデキナクナッテシマウデショウ。ダカラ特ニ命令ノナイ場合、守ルベキ人命ノ対象ハゴク限ラレタ次空間ノ範囲内ニ制限サレテイルノデース。シカモ今回ノケースデハ、(…)何ヵ月モ先ノアヤフヤナ犯行計画ニ過ギナイノデ、ソレダケデハ違法ナ行為トハ言エマセンネ。ダカラ彼女ハソノ場デハ、ソノ話ヲ単ナル情報ノヒトツトシテヤリ過ゴシタノダト思イマス」』(P80〜81)



 たしかにそのとおりでしょう。
 作中でも語られているとおり、ロボットが人間と共存していくためには、こうした「ロボット3原則」は必要不可欠なものだと言えるでしょうが、「原則」はあくまでも原則であって、それらの個々の原則を『無制限ニ最優先サセル』と、それはそれで何かと不都合な事態の発生も避けられないんですね。だから、こうした「正しい原則」の適用範囲をどこまでとするか、つまり「限定をどのように課するのか?」というのが、非常に重要かつ本質的な問題となってくる(=正しさの限界設定)。――で、この問題は、そのまま「人間の問題」でもあるんですね。

 つまり、人間の場合だって「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」というのは、自明の「大原則」だと言えるでしょう。だけど、そこにも確実に「限界」はある。
 「パレスチナ問題」「イラク戦争」「ミャンマーのサイクロン被害」「中国・四川大地震」などの実例を待つまでもなく、作中でも語られているとおり『戦争ヤ飢餓ヤ疫病ハ世界ノ各地デ進行中』ですから、ボクたち人間も「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」という「原則」を『無制限ニ最優先サセル』と『真ッ先ニソウイウ場所ニ駆ケツケテ人命救助ヲシ続ケナケレバナラズ』、永久に「自分の幸せ」という『本来ノ』目的を追求することが出来なくなってしまうんです。

 無論、人間には「自分個人の幸せの追求」という(ロボットには無い)「本来の目的」があるから、「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」ことはない、ということにはなりません。あくまでも、この「他者救援の原則」は生きていますが、その原則が追求されるのは、あくまでも自分がこの「原則」の行使によって不幸にならない範囲に「限定される」んです(つまり、「自己犠牲の快楽(=幸福)」は否定されません)。

 言い換えれば、ロボットの場合なら「原則」の「適用範囲」を、人間によって設定され、それをインプットされるだけ(だからこそ、人間の作る「プログラム」がしっかりしていないといけない)なんですが、本質的な個体差を持つ人間の場合には、個々人が個別的状況に応じて「原則の適用範囲」を自分で判断し選択して行動しなければならない。「倫理問題」に対しては、誰も画一的な「正解」を与えてはくれない、という難しさがあるんですね。

 つまり、ここで問われているのは、「個人における、自他のバランス問題」なんだと言えるでしょう。「原則」としては、人間は「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」のだけれど、どのくらい「他人の救援」に「自分の時間と労力」を掛けるか掛け得るかは、人それぞれであり、一律に決定することはできません。
 暇とお金のある人、あるいは、たとえ我が身を滅ぼすことになっても、人に尽くすことが最大の喜びであると感じられる、文字どおり「奇特な人」であれば、この「他者救援の原則」を、文字どおりに追求することもできるでしょう。でも、暇もお金もなく、家族を養っていくことで精いっぱい人や、体が弱くて動けない人、あるいは精神的に自分のことで手いっぱいの人(精神病の人や、単純に利己心に凝り固まっている人)には、「他者救援の原則」は、容易には追求できない難問となるんですね。

 でも、「困っている人がいれば、助けてあげる」というのは、とても(わかりやすく)素晴らしいことであるからこそ、「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」という「原則」は、しばしば「義務」的なものと勘違いされがちですし、そのために「困っている人を助けようとしない人は、冷酷漢の人非人だ」という「表面的かつ短絡的判断」がしばしばなされがちで、そのことによって、時には「自分個人の幸せの追求」という「より根源的な原則」の追求が妨げられるようなことも、決して珍しくはないんです(例えば「お国のため、家族のために、その命を捨てよ。自分一個の幸せに固執するのは、愚劣な生き方だ」というような思想を正当化してしまいがち)。

 ですから、ロボットとは違い、ボクたち「人間」には「個別多様な(=個性的な)判断能力」があり、それがあるからこそ「選択(意志決定)の自由」もあって、そこにこそ「人間固有の尊厳」もあるのだということを、よくよく考えなければならないんですね。
 そうでないと、「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」といった「美しい原則」によって、「人間固有の尊厳=知性の自由」を傷つけ妨げるという醜行がまかり通ってしまうことにもなりかねないんです。

 「良きこと」は「すべき(義務)」です。しかし、この場合の「義務」とは、自分が自分に課する義務、つまり、自分がそれを「選び取った」上で自分に課するものであって、他人が人に課する(押しつける)ものではない。例えば、「困っている人がいれば、助けてあげる」という「他者援助」は、個々人が自分の判断で進んでやるからこそ意味があるのであって、他人が強いるべき「義務」などではない。

 「人間(固有)の尊厳」とは、「善行も悪行も選びうる(人間的=非ロボット的)状態において、自己の意志において、善行を選ぶ」ところにあります。
 言い換えれば「強いられた善行」は善行ではなく、「他人に善行を強いること」は、原則的には「人間(固有)の尊厳」を蔑ろにする「悪行」なのだということを、ボクたちは心すべきなのですね。

 ともあれ、ロボットはインプットされた「プログラム」にしたがって、いつも同じパターンで「行動範囲」を限定されていれば良いわけですが、ボクたち人間は、目の前に選択必要状況が立ち上がる度に、どのような選択をすべきかと悩まなければなりません。それは、とてもしんどくて辛いことなんですが、でも「より良きこと」行うために「悩む」「悩み得る」というところに「人間(固有)の尊厳」があるということを忘れてはなりません。
 つまり、「悩み」が無いのが、幸せなのではない。高度かつ有意義な問題について、適切に「悩み得る」人間こそが、もっとも「人間らしく幸せな人間」だと言えるのではないでしょうか。

 ――『キララ、またも探偵す。』を読みながら、ボクはそんなことを考えたのでした。





 kamuiさま

人まかせ

> こんにちは。(※ ホームページ【ob-ject】を)お読みくださりありがとうございます。しかし、読んでいて暗くなりそうな話ばかりですね。(苦笑)
> 明るい陽射しを求めて「急がば回れ」の精神で頑張ります。


 最近のご生活にまつわるご論考を拝見しますと、「思考と行動」がバランスよく、着実に進められているという印象を受けます。――ただ、生活がかかった行動ですので、そこは慎重の上にも慎重にお願いしますね。

 さて、ここで、kamuiさまのために、園主さまの箴言をひとつご紹介しておきましょう。


  「私は、負ける喧嘩はしない。だから、戦えば必ず勝つ」


 ――参考になるでしょうか?(笑)


> それから、ホランドさんの淳さんへのレスからですが。

>> そして、そういうものに、いったん身を委ねてしまうと、人はそれ(「つっかえ棒・浮き輪」的なもの)を失うことを、何よりも怖れてしまう。それを失うという事態を想像(予想)するだけで、人は自身の足元の大地が崩壊して、無限の奈落へと引き込まれていくような「恐怖」を感じるんでしょうね。

> 人間のそういう部分を非難しても、非難された相手側にすれば「絶対」という確信を持ったモノがないので、対話を拒絶するか退散するか、あるいは開き直って愚痴っぽくなるばかりでしたね。だからこそ、自分の考えを頼りに論理的に考えようとする人は、稀有な存在にならざるを得ないのでしょうね。


 そうですね。園主さまもしばしば「反省こそが、知性の真髄だ」というようなことをおっしゃいますが、裏を返せば「反省=自分を省みて客観的に検討すること」は容易ではない、ということなんでしょうね。また、だからこそ、他人が、本人の気づきにくい部分を指摘してあげる。――むろん、それで反省できるようになる人なんてめったにいないんでしょうけど、その稀有な可能性に賭ける、人間の可能性を信じて賭けるというところに、批評の存在意義もあるんだと思います。



 ひろさま

ピンクの仔豚

 はじめまして! ようこそおいで下さいました(^-^)。


> 自負するほどの業績も何も残してはいませんが、
> 個人の趣味の範疇ではあっても、モノをカキ始めて20年以上経過した俺には、
> なんと言うか、その毒が欲しい!と胸をかき毟る思いがあるわけで・・・

> なくしてしまった情熱は、再燃しますか?
> 捨てたわけでもなく、忘れたわけでもない、消えてしまった情熱が。


 園主さまの論争における「毒=非凡な情熱」にあてられてのご相談なんですね。

 園主さまからのご回答の前に、ボクも及ばずながらの参考意見を書かせていただきますと、「絵を描きたい」という情熱を再燃させるには、『パクリ』たいと思うような絵に接することが、一番だと思います。
 どんな創作だって、最初は「こんなのが描きたい(書きたい・作りたい)」という「模倣の情熱」から始まるわけですから、それを否定してはいけない。個性なんて、後からだんだん出てくるものなんですから、最初は『パクリ』でいいし、『パクリ』から再出発すればいいんじゃないでしょうか?
 でも、そのためには「パクリたい」と思える作品・作家を見つけなければなりません。情熱が勝手に湧いてくるのを座して待っていても、それは無理というものでしょう。ボクが思うに、とにかく自分が真似したくなるような(触発してくれる)絵描きを是が非でも見つけることが、この場合、肝要なんだと思います。

 そして、参考までにつけ加えておきますと、ひろさんのご文章には、巧拙を越えた「情熱」が今でも生きています。だから、決して「情熱」が涸れているというわけではありません。単に、その情熱が「絵」に向かっていないだけだと思いますので、その情熱をうまく「絵」に差し向けるよう、ご努力をなさればいいんじゃないかと思います。

 ――生意気なことを申しましたが、ご参考になれば幸いです。



 園主さま

熊谷伸一郎氏からの、ひさびさのメール

> ご無沙汰しています、熊谷です。
> すいません、完全にアレクセイさんの存在を忘れていました(^^;


 このあたりが、熊谷さんの頭の出来を疑わせるところなんですよね。



 ・ 「平和運動家論争」
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1854


で、あそこまでコテンパンにやられて、ほうほうの態で逃げ出した熊谷さんなんですから、あの屈辱を忘れられるはずなんてないのは、傍目にも明らかなのに・・・。

 いや、もしかすると、あまりにも強烈な屈辱体験であったがために、その記憶を封印して、ホントに忘れてしまったのかも知れませんね。そうだとしたら、お気の毒です。

 それにしても、もう一度、ご自身で「平和運動家論争」を読み返して、ご自分の「歴史的現実」を直視し、その上で、その現実を乗り越える努力をしてもらいたいものです。
 ご自身も「南京大虐殺」などについて語られているとおり、思い出したくない記憶でも、それを直視しないかぎり、いつまで経っても問題は解決しませんからね。


 ま、それにしても園主さま、熊谷さんの掲示板「問答有用」の方で、徹底的にやっておられますね。「書き込んでは削除され、同じものを書き込んでは削除され」という、掲示板上での「見えにくい暗闘」は、ほとんどドタバタ喜劇の域に達していると思います(^-^;)。


レスポンス

>> 注目すべきは同賞<評論・研究部門>。――園主さまが(…)完全否定してみせた、長編評論(※ 小森健太朗『探偵小説の論理学』)の受賞です。

>> 園主さまがこの結果について、どのようにコメントするのかが、興味のあるところです(コワイもの見たさで/笑)。


> 近々ご期待に沿いたいと思う(笑)。

> それにしても、『探偵小説の論理学』に投票した「本格ミステリ作家クラブ」会員は、ごく常識的な意味で「読解力が無い」人たちだと言えるだろうな。投票者が判明したら、ここにその名を列挙してやろうか(笑)。


 ・・・(^-^;)。





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。
 

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