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憤怒の念を忘れないこと

 投稿者:  投稿日:2008年 5月 8日(木)00時49分42秒
  ★ホランドさん

アレクセイさんとの出会いは僕にとって人生における一つの衝撃的な事件でした。
僕は出会った当初、完全に自己の精神が瓦解していたのです。
アレクセイさんの語る辛辣な箴言は、僕にとって救いでしたし、再生の糧となったのは間違いありません。

そういえば、中国に一定の割合で存在する、官報に対し批判能力に欠けた過激なナショナリストの全体主義性をみるにつけ、当時、僕が直に接した「“熱心な”活動家学会員」とダブってみえます。僕を目の前にして、イラク戦争の正当性を滔々と語った彼らを僕は一生忘れないでしょう。

★アリョーシャ

そうそう、げんまささんは本当に面白い人で、「小説は人が死んでナンボでしょ」みたいなことをいってたのが凄く可笑しかったのを覚えています。


★工藤猛さん

>ややこしい論争は大好きなほうだ
>独り言作戦も根性のいる戦術なんだよ。

『独り言作戦』では、金輪際『ややこしい論争』にならないのは自明であり必然ですよ。
『独り言作戦』というのは、これまでも工藤さんさんが、のらりくらりとなされた一方的で観念論的な意見表明にしかなりません。例示するならば。下記のようなものです。

>実質が大事だ。
>大義名分も大事だ。

このような文章から、読者が何を汲み取るかを要求するのは酷な話ですよ。
具体的に何が実質であり、大義名分は何を指すのか示されていない以上、
読者がチンプンカンプンになるのは、読者の読解力の問題ではありません。

工藤さんの右翼看板に傷かつないようなカッコ良い言論を期待しています。
なんせ、僕は右翼思想家の美学に興味津津なんですから。
 

本物の平和運動家とは

 投稿者:kamui  投稿日:2008年 5月 7日(水)21時06分13秒
  アレクセイさん、ホランドさん

アレクセイさんの「平和運動家論争」を下記の私のホームページに掲載いたしました。どうぞ、ご確認下さい。ホームページは、まだまだこれからと言った内容ばかりですが自分の成長に併せて充実できればと思います。
 ↓
http://5189.web.fc2.com/index.html
 

ややこしい論争は大好きなほうだ

 投稿者:工藤猛  投稿日:2008年 5月 7日(水)00時56分13秒
  実質が大事だ。

大義名分も大事だ。

どっちの大事をとるかは状況判断による。

「園主」への批判は次に、この事態を踏まえて、どのような投稿を
するかでする。判断留保だ。組織と戦うには独特の知恵が必要だ。

独り言作戦も根性のいる戦術なんだよ。
胸のすくような言論戦を【不自由】な条件でどのようにするのか。
興味心身だ。あれ「また」心身だ。マイクロソフトの限界か。
一太郎に変えようかな。
 

偽善者の嘘と隠蔽

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年 5月 7日(水)00時16分41秒
   みなさん、こんばんは! 園主さまが、熊谷伸一郎さんの掲示板「問答有用」の方で、また派手にやっているみたいです(^-^;)。
 今回は、熊谷さんがいっさい表には出てこず、「問答有用管理人団」というのを表に立てて、園主さまによる、


 ・ 「平和運動家論争」
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1854


の紹介投稿を、


46420 宣伝投稿はお断りします 問答有用管理人団 2008/05/04 21:19

自サイトの宣伝行為は、その内容が当掲示板の趣旨に反する、あるいは無関係のものでなければ、一度だけは認めますが、二度三度と反復することはお断りします。
ここまでの分は大目に見ますが、今後同種の投稿は(レスも含めて)削除の対象とします。』



ということ「削除の対象」としたようですが、当然、園主さまはこうした一方的な言い分には黙っていず、



『(※ 「平和運動家論争」)の、こちらでのご紹介は、もともと熊谷本人が希望していたことなのですからね。
したがって、これは「自サイトの宣伝」なんかじゃないんですよ。
熊谷さんと私の合作を、熊谷さん自身の掲示板に、当初の予定どおりアップしているだけ。
無論、熊谷さんも、これを多くの人に読んでもらい、自分の考えを広く知ってもらいたいと思っているはずですよ。なにしろ、天下の「岩波」文化人なんですから、よもや二言なんて無いはずです(笑)。』

                 (46423『Re: ☆ ☆ ☆ 平和運動家論争 ☆ ☆ ☆』2008/05/05 02:05)



『もしも熊谷伸一郎氏が、自身の「以前の発言」に反して、自分のブログや掲示板での「平和運動家論争」の紹介を望まなくなったのなら、せめてそれを皆の前で表明・撤回すべきであり、それこそが「職業言論人の最低限のモラル」というものではないでしょうか。また、「問答有用管理人団」の名を借りての「削除」というやり口は、あまりにも「陰険・姑息」なのではないでしょうか?

ともあれ、正体の定かではない「問答有用管理人団」とやらは、中国政府さながらに、私の書き込みを「削除」しました。こんなことをするようでは、この掲示板の名前も、そろそろその実態に即して「問答無用」にすべきであり、その方が正直かつストレートなのではないでしょうか。

問答(議論)をするためには、その「議論の対象」をつねに明確にしておくというのは当たり前のことで、「平和運動家論争」関連の後続の書き込みに、あらためてリンクを張っておくというのは、後からこの議論を読む人たちへ、当然の配慮でしょう。』

    (46437『掲示板『問答有用』における、「問答無用」の投稿削除』2008/05/06 19:11)



等と、皮肉かつ非のうちどころのない正論で反撃。
 これに反論できない「問答有用管理人団」は、こうした反論の書き込みを含めて、園主さまの以降の書き込みを、すべて「問答無用」で削除する方向に開きなおったようです。

 ま、いずれ園主さまからもご報告があるでしょうから、詳しくはそちらを(^-^;)。





 工藤猛さま

 はじめまして。ようこそおいで下さいました!

 まず、「平和運動家論争」について、ご感想をお寄せ下さったことについて、お礼を申し上げます。


 せっかくご感想をお寄せ下さったのに、結果としては、工藤さまご自身が辛辣な評価を受ける結果となってしまいましたね。でも、他の人とは違い、園主さまは、工藤さまを「腹の中でバカにする」ことだけはしなかったという点で、ご理解をいただければと思います。

 園主さま風に申しますならば「志に生きる右翼が問うべきは、自身を高く評価してもらえたかどうかなどではなく、評者の誠実さである」とでもいったところでしょうか。

 「右翼」の看板には羞じない人間になれるよう、精進努力をなさっていただければと期待いたします。



 田辺さま

中国人

> 最近の中国人は何故、あんなにまで傲慢なのか全く分かりません。
> 現在の私は正直言って、中国と言う国も中国人も大嫌いです。中華料理は好きなんだけども。


 ボクも、中華料理は大好きです。といっても、「本格中華」より、餃子・肉まん・焼飯といった庶民的なものの方が好きなんですけどね(笑)。

 それにしても、「ネット・ナショナリスト」というのは、日本人でも中国人でも、ホントに見苦しいですよね。あそこまで露骨な「自国中心主義的・自己チュー」ぶりが振り回せるその「知性放棄状態」には、呆れを通り越して、感心させられるほどです。

 でも、当然のことながら、多くの心ある中国人や、在外中国人、在日中国人の方たちは、現在の中国政府のやり方や、中国人ナショナリストのことを、誰よりも深く恥じ、嘆いていることでしょうね。同情に堪えません。



 さま

論敵の論敵も論敵たる。

何ををもって「恥」とするか。

> 畢竟、現代における右や左は「何処に恥を据えるか」に尽きるのではないでしょうか。
> 「恥かしいこと」はしたくないし、「カッコ悪いこと」は願い下げるというのが僕のたったひとつの信条で、結果として左にカテゴライズされているというところです。


 そうですね。
 「恥」の問題は、淳さんの中心的テーマであると共に、「右翼」における重要なファクターの一つでもあると思います。

 というのも、「左翼」は「結果主義」に走って「手段を選ばないという過ち」をくり返してきました。ところが「右翼」は、そういう「あさましい態度」を嫌い、自分の行いについては自分で責任を取るという美意識の下に、「左翼」的な「爆弾テロ」に対し、「一人一殺」の「個人主義的なテロの伝統」を誇りすらしました。

 まあ、どっちもどっちだとは言え、それでもやはりどちらが「正々堂々」としているかと言えば、それはやはり、自分の体をはってやる「右翼」のテロの方が、まだしも「美意識」があるとは言えますよね。
 まただからこそ、覆面で顔を隠し、丸腰の新聞記者を猟銃で射殺して逃亡した「赤報隊」は、右翼の風上にもおけない存在だということになって、右翼のなかには「あれは、右翼を名乗っているが、むしろ左翼的だ」と評する人まで出てくるわけです。

 それにしても「熊谷伸一郎さんとその周辺の発言者」を見ていると、「赤報隊」と同様、「左翼」だ「右翼」だという以前に、人間として姑息で見苦しい、としか言い様がないですよね・・・。



 加減乗除さま

アレクセイさん

 はじめまして。

 掲示板「問答有用」の方で、管理者側にくっついて、園主さま(アレクセイ)を批判していた「匿名」の方ですね。


> 『問答有用』は私人の開設した私的掲示板です。私たちはその庭先をお借りしているのですから掲示板のルールを守るのは当たり前です。削除されることを前提とした投稿は迷惑ですのでやめてください。残念ですが、あなたに反省を求めたのが間違いだったようです。


 すでに削除された投稿で、園主さまが、貴方について、下のように書かれていたことは承知の上で、まだ身元を隠したまま、こんな「偽善的」なことを書かれたんでしょうね、きっと。



『☆ 加減乗除さま

削除された私の書き込み(No.46423)での、貴方へのレスに対して、せっかく長々とレスを返してくださっていたのに、どうやら貴方の書き込みも「連座式」で、削除されてしまったようですね。

――もっとも、貴方は、ご自分の投稿が削除されても、ぜんぜん平気なようで、そのことについて管理者を批判することもなさっていないようですが、これは貴方が「体制順応派」だからなのか、それとも、削除された書き込みで「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」などと大口を叩いたので、削除された方がむしろ好都合だと考えたから、なのでしょうか?


削除された貴方の書き込みのログをまだ採ってはいなかったので、正確に紹介することはできませんが、貴方のレスで私の印象に残ったのは、私がその前のレス(No.46423)で、

> かなり興奮なさっているようで、よほど「ご感動」していただけたのだろうと喜んでおります(笑)。

と書いたことについて、「私は興奮していない。なぜならば(…)。興奮しているのは、おまえのほうだ」と大真面目に反論なさっていたこと。
それから、前記のように「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」と、熊谷伸一郎氏を「無根拠に切り捨てていた」点の、2点です。

まず前者から感想を書かせていただきますと、私は「自分が興奮していないということを、自分で論証できると思い、それを実行しようとする人」というのは、「そうとう頭が悪い」か「飛び抜けて頭が良い」かの、いずれかでしかないと考えます。――さて、加減乗除さまは、そのどちらなのでしょう。

次に後者についてですが、所詮はどこの馬の骨かもわからない「匿名」者である加減乗除さんが、身元をはっきりさせて発言をしている熊谷伸一郎氏を、根拠も示さずに否定的に評価するというのは、身の程知らずであり、アンフェアな態度だと思います。
「非匿名」である熊谷伸一郎氏や私などは、失言したり、議論で言い負かされたりした場合、その後は、その事実を背負っていかなければならないという立場を選んだ人間です。つまり、ひとまず「発言責任」をとる形式は引き受けている。
ところが「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」なんて大口を叩く加減乗除さんご自身は、所詮は「2ちゃんねるの匿名鴉」と同じで、いざとなればハンドルネームを変えて、姿を暗ませればそれっきりという、じつにお気楽で無責任な立場ですよね。そんな人間が、仮にも一定の実績を残している熊谷伸一郎氏について、根拠を示すこともなく「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」なんて大口を叩くというのは、あまりにも自分の立場に無自覚(=身の程知らず)であり、頭の悪い態度と言えるのではないでしょうか?

結局、自分では大したこともできない、あるいは中身のあることが言えない「三流のクズ」が、自分よりもずっと優れた人間を「あんなもの大したことない」とか何とか、くだらない難癖をつけ、それを「評価」だ「批判」だと言って、優位に立ったような気分になりたがるというのが、このネットの世界の常なんですが、私が思うに加減乗除さんなどは、そういう「ネット的有象無象」を象徴するような存在(=典型的人物)なのではないでしょうか。

「いや、私はこういう者だよ。この自分のブログで、固定ハンドルで、こうして責任ある発言を、継続的に行ってきた人間だ」とご説明下さるのであれば、私のこの「加減乗除」理解は、単なる誤解であったと撤回しましょう。どうですか、加減乗除さん?
いぜん、私に「匿名」を批判された頭の悪い「ネウヨ」は、こう言われて、急遽「捨てホームページ」を立ち上げ、身元証明にしようなんてしてましたけど、貴方には「発言責任の担保=身元証明」となるような、継続的なホームページやブログなどがあるのでしょうか?

ま、ともあれ、ご自分の文章が正確に引用されていないことについてご不満がおありなら、文句は管理者に言うべきですし、ご自分で再度、原文をアップすべきでしょうね。
でも、それをしないのなら、やむをえず正確を期せなかった紹介文について文句をいう筋合いは貴方にもないし、偉そうなことを言っても、所詮は貴方が管理者に媚びた、この掲示板の「寄生者」の一人だということにもなるでしょうね。』

   (46438『Re:掲示板『問答有用』における、「問答無用」の投稿削除』2008/05/06 20:52)



> 『問答有用』は私人の開設した私的掲示板です。私たちはその庭先をお借りしているのですから掲示板のルールを守るのは当たり前です。


という、加減乗除さまの理屈は「中国国民であれば、中国国家の定めた法律や政策にしたがうのは、当然だ。したがって、チベットの暴徒は、犯罪者でしかなく、治安維持のための鎮圧はまったく正当な行為であり、それを非難する外国の行いは、すべからく内政干渉である」という理屈と、まったく同じですよね。


> 削除されることを前提とした投稿は迷惑ですのでやめてください。残念ですが、あなたに反省を求めたのが間違いだったようです。


 これも大嘘です。

 園主さまは「削除される理由のない投稿」を「削除」されたから、「それに抗議する投稿」をした。ところが、そうした「抗議の投稿」さえすべて削除されたために、やむなく短時間でのアピールを期した投稿、つまり『削除されることを前提とした投稿』をせざるをえなく「された」だけですよ。

 つまり、反省すべきなのは、ご都合主義的に「自分(熊谷伸一郎)に不都合な投稿」の削除を始めた、熊谷伸一郎さんとそのお仲間の方ですよ。

 貴方も、形ばかりの「熊谷伸一郎否定」を行ってみせたものの、やっぱり節操のない「寄生者」根性の持ち主のようですね。熊谷伸一郎さんを擁護する人は、いつだって、都合よく出現する身元不明の「匿名」者です。



 園主さま

「あきらめたくない人間」と「あきらめたい人間」(前)

「あきらめたくない人間」と「あきらめたい人間」(後)


意見表明による空虚の隠蔽(前)

意見表明による空虚の隠蔽(後)



 たぶん、工藤さんはご自分のことを、園主さまが指摘した側面、つまり自分が「あきらめたい人間」であるかも知れないという側面から、検討することができないんでしょうね。だから、そう指摘された後も相変わらず「的外れな多弁=煙幕」に頼るしかない。

 最初に「私は60歳」だと書いておいたのに、それでも平気で「これからでも遅くないから、自分を磨け」などと助言する「年下」には、一生のうちでも、そうそう出会うことはできないでしょう。でも、そんな「稀有な出会い」が、すこしでも工藤さんの中に「成長の種子」を残していればと、ボクもそう期待したいところです。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。
 

アレクセイさん

 投稿者:加減乗除  投稿日:2008年 5月 6日(火)22時51分17秒
  『問答有用』は私人の開設した私的掲示板です。私たちはその庭先をお借りしているのですから掲示板のルールを守るのは当たり前です。削除されることを前提とした投稿は迷惑ですのでやめてください。残念ですが、あなたに反省を求めたのが間違いだったようです。  

何ををもって「恥」とするか。

 投稿者:  投稿日:2008年 5月 5日(月)14時23分12秒
  ★工藤猛さん&アリョーシャ

工藤さんの「人それぞれ」という身も蓋もないスタイルだと逐語的なレスがしづらいので所見を述べます。
また下記は工藤さんというファクターと通じて考えてみたアリョーシャへのコメントでもあります。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

僕は、小林某に代表されるようなウヨク的「恥の自意識」がブサイクで惨めったらしく思えるから嫌いなだけで、右翼自体は僕の「闘うべき敵」というより寧ろ、右翼を自認する人間は「興味関心事」でもあるのです。物珍しさ、異人との出会いのようなものです。そんな具合ですから、ウヨクでもネウヨでもなく、新に右翼を自認する人間の美学なり恥意識なりは後学のために知ってはおきたいものです。単純に右翼と括るには問題があるかも知れませんが、北一輝などには多大な関心があります。要は生き様の美学です。

工藤さんが仰ったように、歴史的事象で思想的敗北をした(とされる)サヨクなどは、僕からすると、珍奇な生き物のようで、不思議な存在です。恐らく硬直したイデオロギー(信仰)に固執しないと自らを保つことが出来ない人間なのでしょう。しかしながら、例えば連合赤軍のよなサヨクは僕の興味をかなりそそります。

僕なぞは、「思想」などと大袈裟なものではないにせよ、あらゆる歴史的事象によって、自身の「左的気質」が些かの揺らぎ覚えたことが一度もないのです。ソヴィエトが崩壊しようが、拉致事件が明るみになろうが、昨今の中国共産党の危険な側面を垣間見ようが、全く揺るぎません(*)。北朝鮮は勿論のこと、中国共産党も「アホだ」「バカだ」「愚かしい」とテレビを前にのたまってるだけです。

それは何故かと考えていたのですが、僕の「左気質」は、あまり国家の体制とコネクトしていないからだと思うんです。だから「崩壊」しようが「解体」されようが、全く関係がない。特に僕は「ナショナルな意識」が年をとるごと希薄になり、行きつく果ては、国家を最低限に必要不可欠として迫られる「仕組み(=制度)」と「機能」くらいにしか思わなくなったのです。だから、領土問題といった国家意識(ナショナリズム)を刺激するような事象には、とんと関心がないばかりか、寧ろ領土問題で熱くなる国家意識を持つ人々の「心理状況」のほうに関心が向くのです。

例えばスポーツを観ても、「ナショナルな意識」が昂揚することもありませんので、斯様なものに恥や誇りという意識もかなり不感症です。国家という機能に付加される価値(=歴史的誇りなど)なんて、社会学的興味は惹きますが、より上位層としてのワタクシ的イデオロギーまで高められ、「ワタクシの自負」と連関して考えることることもありません。

ただ、国家というものは、歴史の時間軸の中で存在してきたのは事実ですから、その国家のの成員として過去に、異常な国情の中で「機能的」に死を生産し続けた事実に強烈な「恥」を覚えるのは決して矛盾した話ではないと思います。

畢竟、現代における右や左は「何処に恥を据えるか」に尽きるのではないでしょうか。
「恥かしいこと」はしたくないし、「カッコ悪いこと」は願い下げるというのが僕のたったひとつの信条で、結果として左にカテゴライズされているというところです。

★アレクセイさん


>ちなみに昨日は、来阪した げんまささまと会ってまいりましたよ。長時間あれこれ話をいたしましたが、そのなかで淳さまのことも話題にのぼりました。
>私と淳さまの出会いを紹介し、私の「淳論」を語りましたところ、げんまささまは淳さまの純粋さに感動して、涙さえ浮かべておいででございました。――やや、感動的に語り過ぎたきらいがあったのかも知れません(笑)。


僕にとってアレクセイさんとの出会いは崩壊と再生の苦衷にありました。
(*)アレクセイさんに出会ったのは、僕が最も精神的「揺らぎ」、屈辱と惨めさを覚え、死ぬまで忘れまいと怒りに震えた、多くの「創価学会員イラク戦争容認問題」でした。
如何に世界史上で歴史的な展開をみせようと、僕の「左気質」はビクともしなかったのに、人生であれほど「敗北感」を覚えたことはありませんでした。僕はもう信仰者を自負できないかもしれませんが、未だに信仰者でありたいと未練を残す人間として、あれほどのショックはなかったのです。僕にとっては、ベルリンの壁崩壊よりも、ソヴィエトの崩壊なんかよりも、遥かに天地が引っくり返るような事件でした。昨日まで「反戦平和」を標榜してた純朴そうな人々が、いとも容易にウソを信じてしまう恐ろしさ。あれは僕の決定的な「何か」の崩壊であり、もしかしたら「何か」の再生の糸口になったかもしれません。
『全体主義の起源』を数項捲ってみてますが、その難解さもさることながら、自身に起きた創価学会員との間での強烈な経験に、「何か」に当てはまる、ささやかな応えを得ることが出来るかもしれません。凄くスリリングで面白いです。
鉄鼠はまだ中盤…ご免なさい…

「淳論」……気になるなあーーーー!!!!
こればかりは直に会って伺いましょう♪
 

「病理学的」とな。おぬし、問答有用板の論者である あしな風なところもあるのか。多面的だ。

 投稿者:工藤猛  投稿日:2008年 5月 4日(日)06時08分44秒
  フロイトも何かしらのやくわりをはたしたのだろうけれど
あまり好きではない。

病理学的とな。

ユングのほうが好みだな。
 

つい最近読んだ本

 投稿者:工藤猛  投稿日:2008年 5月 4日(日)06時03分37秒
  「リンドバーグ・デッドライン」マックス・アラン・コリンズ著
               大井良純訳 文春文庫2001.1刊


 ** めずらしく著者による日本語版への序文というのがあり
    1930年代初期における英雄としてのリンドバーグを
    説明していた。事実調査による時代切り取りを
    【通俗的】なハードボイルド風な表現の中で
    きっちりと摘出していた。間違いなく読み取れた。
    時代の限界はどこの国にもある。

    好みで言えば抑制された性表現が好ましかった。
    文庫本で700ページを越えるのにちょびっとしか
    でてこない。
    点描されているだけなのだけれども女性上位でも
    いけるタイプの男性を主人公にしている。私と同じだ。
    どこにもヒーローはいない。リンドバーグを含めて。
    だから誰でもヒーローになれた時代の雰囲気が良く描かれている。
    禁酒法が廃止された時代層を踏まえた20世紀最大の不景気の最中の
    事件を「紹介できた」作品だ。

    著者は親切だ。登場人物のその後を調べた限りで紹介している。
    ドキュメントとして完結している。
    行方知らずの人物が想像力をかき立てる。その余韻がいい。
 

意見表明による空虚の隠蔽(後)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 5月 3日(土)22時35分37秒
   工藤猛さま

たくさんお書き込みくださり、まことにありがとうございました。
失礼ながら「極めてネット的な、病理学的心理の反映事例」として、たいへん興味深く拝読いたしました。

お書き込みから、私なりの「工藤猛 論」を書かせていただきましたが、さてご本人の評価はいかがなものでございましょう?

万が一、ご不満をお感じなった場合には、「物の考え方」や「解釈」、さらには「意見表明の形式」についても『ひとそれぞれです。それでいい』とご理解いただければと存じます(笑)。


ところで、ここでひとつお尋ねしたいことがございます。工藤さまは、どんな本をお読みなのでしょうか? あるいは、どんな人を尊敬し、その意見を参照して、ご自分のあり方を規定なさっているのでございましょう?

小林よしのりを読まれ、その問題提起能力を評価なさっているというのはわかりましたが、工藤さまの「右翼」とは「小林よしのり」的なものを指しているのでございましょうか?

「右翼」であることを強調なさっておられる工藤さまのこと、もうすこし「右翼らしい右翼」として尊敬する人の一人や二人はいるのではないかと思われるのですが、


> はらのたつやつだ
> ネット右翼の嫌いなやつがまともだと。
> 右翼を馬鹿にするのもほどどほどにしろ。


というお言葉には、明らかに「右翼」と「ネット右翼」の同一視が見られますので、少々疑問に感じたのでございます。――よもや、工藤さまのおっしゃる「右翼」とは、小林よしのりでナショナリストになったような「ネット右翼」を指しているのではないでしょうね?

2008年3月7日付けの私の書き込み「ネット右翼ってどんなヤツ?」にご紹介いたしましたとおり、「ネット右翼」が登場する以前の「右翼」、あるいは「オフにおいて、右翼を標榜する右翼」、つまり通常言うところの「右翼」の多くは、「ネット右翼」を「口先だけの輩」「匿名の陰でしか物を言えないパンパ野郎」として否定し、しばしば嫌悪の情さえ隠そうとはいたしません。
また、「ネット右翼」の存在を評価する「右翼」も、その主旨は「ネット右翼」を「無視できない一大勢力」として「政治的に」評価するというものであって、「ネット右翼」個々(個人)を評価(尊敬)できると言っているのではないのでございますね。

つまり、一般的には「ネット右翼」と「(従来の)右翼」の間には、大きな隔たりがございます。
また、そもそも「ネット右翼」という言葉自体、「左翼」の側が「否定的レッテル」として作ったものなのですから、「右翼」の自覚と、「ネット右翼」の実際が食い違うのは、当たり前なのでございます。――なのに、「右翼」を標榜する工藤さまは、どうしてそのあたりの区別に無頓着なのか?

そうしたことから、上の質問をさせていただいた次第でございます。



 田辺さま

中国人

はじめまして、ようこそお出で下さいました。


> 最近の中国人は何故、あんなにまで傲慢なのか全く分かりません。
> 現在の私は正直言って、中国と言う国も中国人も大嫌いです。中華料理は好きなんだけども。
?

最近の「北京オリンピック=チベット暴動」関連のニュースを見ておりますと、本当に「中国という国」の現状や、「中国人ナショナリスト」の自堕落な自己肯定ぶりには、うんざりさせられますよね。この点については、私もまったく同感でございます。
ただ、ここで是非とも留意しておかなくてはならないのは、「中国人と言っても、一色ではない」し、「中国人と日本人は、生物学的には、なんら違いはない」という(物理的な)事実なのでございます。


つまり「中国」という国家も、時間的(歴史的)に見ればどんどんと変化している「制度」であって、「永久不変の中国(という国家)」などというものは、存在いたしません。私たちが、今ここで「中国は」ああだこうだと言う時に問題となっている「中国」とは、「時間的」ごく限定された「今この時点での中国」(しかも、評価者の視点において、至極限定された情報としての、中国像)に過ぎないのでございます。
ですから「中国は」どうだと評する場合、それが「中国」の「永久不変の本質」を語るものであるかのように感じているのであれば、それは評価者の「誤認」なのだと申せましょう。「永久不変の中国的本質」などは存在いたしませんし、しばしば話題に昇る「中華思想」というのも、所詮は「思想の一種」つまり「後付けに採用された、制度的イデオロギー」に過ぎず、決して「永久不変の中国の本質」などではないのでございます。


同様に、「中国人」あるいは「日本人」「アメリカ人(ヤンキー)」「ロシア人」といったものの、「永久不変の本質的民族性、あるいは人種」として存在するものではございません。それらは「国家という制度」によって、擬制として構築された、時間的にも限定された「ひとつの区分概念(観念)」に過ぎないのでございます。また、ですからこそ、ある時は「中国人」であった人が、制度的に「日本人」なったり「アメリカ人」になったりするのでございますね。
そして「中国人らしさ」「日本人らしさ」「アメリカ人(ヤンキー)らしさ」「ロシア人らしさ」といったものは、先験的な(初めから決まっていた)「本質」などではなく、時間的に変動する「文化」によって醸成されてきた「癖」のようなものに過ぎません。
ですから、私たちが「中国人ってやつは」とか「日本人とは」などと語る時、そこで「永久不変の本質」が語られうるなどと考えてはなりません。そんなものはどこにも存在せず、私たちが語りうるのは「便宜的・制度的区分」に依拠した「便宜的傾向論」に過ぎないのでございます。だからこそ、現実には「いろんな中国人」や「いろんな日本人」がおり、「日本人のような中国人」もおれば「中国人のような日本人」もいるのでございます。
私たちは、可能なかぎり「現実」と「フィクション」を峻別して、厳格に思考しなければなりません。そうでないと、より本質的な部分で誤認することになるのでございます。



 さま

論敵の論敵も論敵たる。

>> あなたは傲慢だ。支持者も多いだろうが嫌う人もいる。(< 工藤猛さま)

> アレクセイさんに関しては、論争における真偽判定を余所にして、態度が『傲慢だ』と『嫌う人』の方が多いのが事実であり、『支持“者”も多い』という表現は適当だとは思えません。


まったく、そのとおりでございますね(笑)。

「平和運動家論争」を読んだ上で、私が周囲からどのように「扱われているか」を、あのように理解(誤解)されるようでは、残念ながら工藤さまの読解力(評価能力)を疑わずにはいられません(笑)。

あのように、「敵味方という区別なく」「言いたい放題」「呵責なく批判」して、それでも『支持者も多いだろうが嫌う人もいる。』と思っていただけるというのは、それだけ私の議論が、感情的には受け入れにくくとも、論理的には極めて説得的であるとご評価いただいた結果だと、私は斯様に理解して喜んでおります。――もとより「好かれるため」に批評文を書いているのではございませんからね(笑)


> また「花園で書く」ということは、すべからく批評の俎上に上ることを覚悟しないといけません。
> ただ単に貴方の「論敵(熊谷さん)の論敵(アレクセイさん)」だからと興味を持って擦り寄ってみても、「敵の敵は味方」とはならないのがアレクセイさんを少しは知る人間としては、当然のことなのです。


と申しますか、これは「言論公表者(公に意見を発する人)」ならば、当たり前の心得であり、なにもここ「花園」に限った話ではございません。
意見を公にする以上、批判は覚悟しなければならない。それが我慢できない(発言責任・応答責任を果たせない)というのであれば、初めから黙っていればよいのでございます。


ちなみに昨日は、来阪した げんまささまと会ってまいりましたよ。長時間あれこれ話をいたしましたが、そのなかで淳さまのことも話題にのぼりました。

メールによって、私の知らないところで、私に関する情報をやりとりなさっていたお二人なのですから、私が、げんまささまに淳さまのことをお話するのは、なんら不都合・不公正ではあるまいと判断し、私と淳さまの出会いを紹介し、私の「淳論」を語りましたところ、げんまささまは淳さまの純粋さに感動して、涙さえ浮かべておいででございました。――やや、感動的に語り過ぎたきらいがあったのかも知れません(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

意見表明による空虚の隠蔽(前)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 5月 3日(土)22時32分51秒
  みなさま、私が先日アップいたしました、


 ・ 「平和運動家論争」
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1854


について、そこでの私の論敵である熊谷伸一郎氏の掲示板「問答有用」に、しばしば書き込みをなさっている工藤猛さまから、当掲示板「アレクセイの花園」にも、ここのところたくさんの書き込みをいただいているというのは、すでにご承知のとおりでございます。
そこで本日は、前回の工藤さまへのレスに続き、工藤さまの特徴的なご文章を分析することで、そこから「意見表明の本義」とでもいったことを考察してみたいと存じます。


                   ○



端的に申しますと、工藤猛さまのご文章の特質は「ばらばら」とでも評すべきところにございましょうし、もう少し硬い言葉で言えば「統合失調」的とでも申せましょう。


前回の私のレス以降、工藤さまは、私のレスに対するものとして、


 (1) 「だから最初から煙幕はって私ならあなたと「場外論争」はしなかったと書いたの。」

 (2) 「あなたは傲慢だ。支持者も多いだろうが嫌う人もいる。」

 (3) 「はらのたつやつだ 」


の3本を書かれ、田辺さまの短い書き込み「中国人」の後、淳さまが、工藤さまの(1〜3)に示されたような「アレクセイ理解」の間違いを指摘した文章、


 ・ 「論敵の論敵も論敵たる。」


を書き込まれると、工藤さまはこれに対するものとして、


 (4) 「2008年2月9日 淳さんの投稿から」

 (5) 「淳さんへ」

 (6) 「表現を変えよう」


という3本のご投稿をなさいました。


工藤さまによる文章が、どのような点で「ばらばら」あるいは「統合失調」的なのか、それは大筋でならば、私の説明を待つまでもなく、みなさまにも感じ取っていただけましょうが、ここではそれを批評的に分析・検討したいと存じます。


まず、工藤さまの文章の最大の特徴は、


 ・ 部分的には意味のあることを言いながら、全体としては論(意見)としてのまとまり
  が無く、結局のところ、明確な「論旨=主張」を持たない。
   換言すれば、中身が無い。


という点にございましょう。
だからこそ、工藤さまの文章は「多弁」な印象だけが残って、「意見」そのものの印象は、ほとんど残らない。残ったとしても、「何でもかまわない」という「意見ならぬ意見」しか残らないのでございます。


「部分」的には「それらしいこと」を言っているのに、「全体」としては意味をなさない「発話」。――それを私は「ばらばら」と評し、「統合失調」的と評したのでございます。


「ばらばら」というのは、工藤さまの文章の構成要素(=部分)が、「論としての文章全体」へと有機的に構成されず、ただ「思いつき」のままに脈略なく列ねられているだけという、特有の「非・構造」を指しており、「統合失調」というのは、「論としての有機的構成」をなしえていない、その「様相」を指しております。


ここで、補助線として「統合失調症の患者の発話」を参照してみますと、その特徴である「意味不明な発話」の「意味不明さ」は、彼の発話が「存在しない外国語のようなもの(例えば「サマラ、トペペベナ、カマ、シシ、ンカ」といったもの)」であるため、ではございません。

その患者が、日本人であり日本語しか話せない場合、彼はほぼ間違いなく日本語とわかる言葉を話しますし、彼が日本語で何かを語っているというのは、そこで語られている「言葉」や「断片的な主張・意見」にも容易に窺えるところでございましょう。
――ところが、統合失調症の患者の発話とは、文字どおり、思考=論旨の統合性(=統合力)が失調しており、「全体としてのまとまり=一貫的論旨構成」が果せておりません。「部分」的に見れば、たしかに意味のある言葉を発しているのに、全体としては意味をなさない「発話」しか、統合失調症の患者にはできないのでございます。
例えば、


「私は日本の現状を憂い、この宇宙における真理の本源的回帰を、皆さんに訴えたい。八百屋が野菜を売り、Jリーグでは物事が解決を見ないように、今まさにイラクは、真言密教における胎蔵界曼陀羅の様相を呈して、ハイデガーは頽落した人々に先駆せよと言う。ラカンは難解さは、羅漢としての使命の故であり、自転車が反転を困難とする状況に酷似してるとも言えるでしょう。したがって、われわれ日本人は、天皇の極左性を否認することなく、すみやかにシキシマ作戦を実行して、この世界を補完すべきであり、その現状認識を、行動によって示し、世界の多様性を容認すべきなのであります。」


もちろんこれは、「統合失調」文のしごく拙い贋作にすぎません。
ともあれ、この文章を、哲学や宗教や政治に興味のない、およそ本など読まないという人に読ませれば「なんだかよくわからないけど、すごく難しいことが言いたいようだね。でも、ちょっと危ないんじゃないの、この人」というような感想を寄せてくれることでしょう。この「印象批評」は、大筋において正しいのでございます。


さて、ではなぜ、統合失調症の患者は、「発話・思考の統合」を果たしえないのでございましょうか? ――無論、その正解は、医学者ならぬ私の正しく語りうるところではございませんし、医学者にも十全な理解が得られているとは言い難いところでございましょう。

しかしながら、ここで便宜的に「仮説」を立てることならば、十分に可能でございましょう。例えば、彼ら統合失調症の患者は「累積する意味の重みに、絶え得ないのだ」というような「仮説」でございます。

「累積する意味の重みに、絶え得ない」からこそ、彼らは「意味の統合」を拒絶し、結果として「統合失調」の状態に「退却・逃避」する。「統合失調になったから、統合能力が失調する」のではなく「意味の統合に堪えられないから、意味の統合を積極的に拒絶する」その結果が「統合失調」だという理解(=仮説)は、合理的に可能なものなのでございます。

彼らは「意味の累積」の結果として、必然的にもたらされる各種の「結論」から退避します。彼らには、それを引き受けられるほどの「強度」が無い。だから、彼らは、思考をぶつ切りにし、発話から一貫性を奪い、かつ沈黙の中で思考が「空虚で脆弱な内面」へと向かうのを避けるために、外に向けて「意味をなさない発話」「意味解体のためだけの発話」を「脅迫的に」発し続けるのでございます。

彼らにも、到達し得ない「究極の結論」としての「理想らしきもの」なら存在いたしますが、今ここで自身と直接に関わってくる、重みを伴った「経過における結論」に、彼らは触れることが出来ません。それは、彼らには「重すぎる(彼ら自身の)現実」だからなのです。



さて、話を工藤さまに戻しますと、工藤さまは、私と熊谷伸一郎氏との「平和運動家論争」を読んで、


> 熊が最近結婚していないで会社にも所属していなければ
> アレクセイさんとの場外論争はありえなかった。
> 熊も「進化」して現実社会に復帰しつつあるよき兆候だと思う。

> 熊は自信家、野心家なんだろうな。
> 私だったら真正面からアレクセイさんとは「論争」を挑まない。
> 党派の都合と真実探求の【都合、論理】は明らかに違うから。
> 党派は妥協で成り立つ。真理追究に妥協は無い。
> 党派の敵対物は真理優先思考だ。党派を高め発展させるのも真理追求だ。
> どこにただしい均衡点があるかなんぞ肉体派の私が知りえるわけが無い。


という、さながら熊谷氏を上から評するような、ご「意見」を表明なさっています。

要する――「政治家(=党派人間)」と「哲学者(=真理人間)」とでは、その理路において折り合えるものではないのだから、議論するだけ無駄なのだ。それなのにアレクセイと議論し論破し得ると考えた熊谷伸一郎は、自信家であり野心家に過ぎたということなのであろう。そして、そうした真相を「洞察しえている私(=工藤猛)」は、熊谷のようにアレクセイと論争するような愚を犯しはしない。――ということなのでございます。

これは、まことに「正しい状況認識」だと申せましょう。
「熊谷伸一郎は、実質的には政治家(=党派人間)でありながら、大向こうに向けては哲学者(=真理人間)を装おうとした。しかし、アレクセイは最初から最後まで哲学者(=真理人間)を通し、間然して矛盾するところがなく、そのために無理もなかった。したがって、この両名が哲学者(=真理人間)の看板を掲げて論争すれば、初めから矛盾(=嘘)を抱えた熊谷の方が論争に敗れるのは、理の当然だったのである」――という理解でございますね。
また、だからこそ、左右の違いはあれ熊谷伸一郎氏とおなじ「政治家(=党派人間)」である(と自称する)工藤さまは、「哲学者(=真理人間)」と議論するの愚は犯さないと、ここではそのように、自身の「賢明さ」を自己申告なさっているのでございます。――つまり「利口であれば、アレクセイと議論などぜず、無視黙殺するものなのだよ」と。


ところが、工藤さまはそのように主張しておきながら、私から批判をうけると、早速「だから最初から煙幕はって私ならあなたと「場外論争」はしなかったと書いたの。」などという「反論」をなさってしまう。言うまでもなくこれは「反論はしないという反論」という自家撞着でございます。――しかも、それが工藤さまには自覚されておりません。


「わかっている」と主張しながら「わかっているはずの誤り」を自覚もなく犯すというのは、むしろ本質的なところで「わかっていない」何よりの証拠だと申せましょう。この場合、わかっていないのは「自分自身」、つまり、工藤猛さまご自身のこと。工藤さまは「わかっていない自分が、わかっていない」ということなのでございますね。
また、だからこそ工藤さまには、「無駄口を利かずに、さっさと逃亡した、賢明な熊谷伸一郎」のような「自制」が利かないのでございます。


工藤さまの「発話」の特徴は「ばらばら」であり「統合失調」的であること。それは「他者ともやりとり」においても、顕著なものとして顕われます。――つまり、「話題切断的」であり「散漫」にして「議論の深まり=累積」が無く、換言すれば「結論」の回避をその目的とした「脱臼的発話」でしかしない、ということでございます。

工藤さまの「発話」は、一般的にはそうであるような「意味生成的な発話」ではなく、その対極にある「意味解体的な発話」だと言ってもよいでしょう。工藤さまの「発話」は、「意味累積的・論理的な結論」を避けるための手段として行使されるものであり、また、だからこそ、誰かが、工藤さまに関わる「意味生成」的な発言をすると、工藤さまは強迫的に「黙ってはいられない」ということになる。黙って見過ごすと、そこで自分に関する「ひとつの意味=結論」が生成してしまうので、工藤さまはそれを解体すべく、あわてて「話(生成しつつある結論)をずらす」ための「見当違いの発話」を被せるように発する。――そうしないと、安心できないのでございます。
また、そういう「強迫性」をお持ちだからこそ『だから最初から煙幕はって私ならあなたと「場外論争」はしなかったと書いたの。』に言いながら、実際には、私に反論を書いて自ら論争状態へとはまり込み、それだけでは足らず、工藤さまの認識不足を指摘する淳さまのご意見にも「(年齢を誇示した)上から目線」の評価を発して、その批判を封圧的に否定しようとなさったのでございます。

つまり、工藤さまの「発話」の目的は、「意味=結論」からの逃避にあるのだと申せましょうし、その「意味=結論」とは、工藤さまご自身が「実際には、どういう存在なのか」という「現実」認識にかかわるものなのでございましょう。
「発言する私」「右翼の私」「庶民や子供といった弱者の味方としての私」「肉体派の私」という「厚塗りの言葉による物語」の奥に隠された、ハンドルネーム「工藤猛」の奥に隠された「生身の私」を隠蔽するために、あるいは「厚塗りの言葉による物語」という「防壁」を守るために、工藤さまは今日も明日も、自分自身の手によって、強迫的な「厚塗り」を、さらに塗り重ねるしかないのでございます。



工藤さまの「上から目線の語り」や「冗談めかした語り」は、「意味累積的な議論による根拠提示」が不可能であるが故の、無根拠な「優位誇示のポーズ」だと申せましょう。
そのポーズほどの「余裕」があるのであれば、工藤さまは「非・意味生成的な、独り言」を列ねるのではなく、当たり前に「論理的な議論」のレベルに降りてくればいい。しかし、工藤さまがそれをなさらないのは、工藤さまご自身、ご自分が決してそれをやれない、やる能力がない、やろうとすれば(熊谷伸一郎氏が、私との論争でそうなったように)不本意に「素顔」を晒すことになりかねないということを、十二分に自覚しているからなのでございます。


工藤さまは、ご自身のネットでの発言スタイルを、


> 「茶々」掲示板が消えて仮の住まいは、とぷに聞いてとぷのいる場所にした。
> 対抗しそうである右翼だから左翼板の「問答有用」に二回ほど
> 投稿禁止にあいながら、誇りを捨てて拝み倒してその決定を解除してもらって
> 現在に至っている。


と紹介し、その抜き難い「他者依存性」を明らかにしておられます。

なぜ工藤さまは、他人の掲示板に寄生しないと発言できないのか? ――無論、その答えは「自分自身が無いから(空虚だから)」に他なりません。

工藤さまの発言は、他人の意見に「それは知っているよ」とか「こういう考え方もあるよ」などと付け加えることで他人の意見を相対化し、あるいは「なかなかよい意見だね」などと言って、さも自分の方が「一枚うわ手に立った、何か聞くに値する意見を持つ存在」であるかのような「見せかけの構築」を目指すものでございます。つまり、独自に語られる意見というほどのものは無い。

言うまでもなく、どんなに優れた哲学者の言葉でも、「そういう考え方もあるけど、こういう考え方もあるよ」と相対化するだけなら、それは極めて容易でございます。また、素人がプロフェッショナルをとらえて「なかなかやるね」などと評するようなことも、例えば「小学生」にだって容易に可能でございましょう。しかし、だからといって、その「素人」が「プロフェッショナル」以上のことをやれる存在だということにはなりませんし、「小学生」が「哲学者」よりも、何かを知り・語りうるかと言えば、無論そんなことはないのでございます。

「哲学者」は、物事が容易に相対化できることを百も承知で、それでもその奥の真理を見極めようと困難な思考を押し進めます。もともとそれは困難な作業であり、そこで生み出されるのは、堅牢とは言い難い過渡的作品なのだとも申せましょう。
だからこそ、それを「思考」を通さず、「ハンマー=無思考の暴力」をもって否定することは、極めて容易なのでございます。どのように繊細優美な「氷の彫刻」も、愚者のハンマーの前には、虚しくその残骸を晒すしかないのでございますね。――しかし、だからと言って「愚者の営為の方が、優れている」という人は、「氷の彫刻」の意味が分かっていないとしか言えないのでございますね(例えば、「他者に直面せよ」という洞察は、「そんな義務はない」という無思考を排除できません)。


ともあれ、他人が構築したものに対し、否定的に寄生することでしか、工藤さまはご自分の「存在意義」を確認できない。

自分でブログや掲示板を立ち上げて、自分の内から発する言葉を語ろうにも、そんなものは「無い」に等しいのだから、もとより語りようもない。また、もとよりありもしないものに、他人が見向きもしないのはわかりきっているから、結局、工藤さまはいつまでも「自立」できないのでございます。言い換えれば、工藤さまは、言論人として「脚萎え」なのでございますね。


しばしば工藤さまが『ひとそれぞれです。それでいいと思います。』というような物言いをなさるのは、じつのところ「人間社会には、多様な意見があってよい」ということではなく、「私には、語るべき意見、自らが依って立つべき見解(=背骨)が無い」だから、その代わりとして「私が寄生すべき他者の意見ならば、抱負にあった方が助かる」ということでしかございません。したがいまして、工藤さまの意見表明は、いつでも「空虚な私の隠蔽」でしかなく、「聞くに値する意見」ではありえないのでございます。





( 以下は「意見表明による空虚の隠蔽(後)」につづく)
 

表現を変えよう

 投稿者:工藤猛  投稿日:2008年 5月 3日(土)19時21分47秒
  熱烈な特定の支持者がいると。

悪いことではない。
私は今でも小林という漫画家の問題提起能力を支持しているから。

党派は一筋持縄ではいかんぞ。
それぞれに流派がある。

個々の主宰者は世の中の役に立っているとは思う。

まだ全部読みきっていないので確かなことはわからない。
(個人の思想を全部読みきることは人間には不可能な技だ。どこかで見切りがいる。)
 

淳さんへ

 投稿者:工藤猛  投稿日:2008年 5月 3日(土)06時14分57秒
  【一定多数の支持層を得ようとする態度】の重要性はとてつもなく貴重です。
 政治の真髄です。単純な真理なのです。
 何らかの事情で多数派になり権力を握れば、無辜の民すら権力は虐殺する。
 権力を目指す党派は庶民の生き死にを左右する重大事なのです。
 党派なんて「かんけーねー」といっている人々にも党派間闘争の帰趨は
 直接的に影響するのです。

 党派は運動体です。栄枯盛衰がつきものです。
 一つの党派が栄えるときには多数の有能な人々が参加し
 前向きで楽しい議論と余裕を持った「喧嘩」がその党派を
 より魅力的にします。反対派をも魅了しながら。

 かって共産主義(マルクス主義)にはそのような人をひきつける魅力がありました。
 私の場合には。私は小学校の教師である母親からソビエトで発行されていた
 「歴史教程」を与えられて中学生のころ読んでいました。
 物理か化学か数学の「教程」本のほうが今から思えばもっとよかったのに。
 母の好みは違っていた。いたしかたない、そうだったんだから。

 私は自分の子供にせかいと日本の童話を何百冊も買い与え一緒に読んだが
 小学校高学年からは子供の読む本に干渉したことは無い。好きにさせた。
 時代の空気を吸って自由奔放にしてほしかったから。

 たぶん海外の社会主義国家からもふんだんにさまざまな利便供与が
 あったのだと思います。戦後の一時期まで出版界は左翼の天下でしたから
 なにをするにも「左翼風」が世過ぎの知恵として定着していたのは
 致し方ないことです。

 すべてを変えたのは日本の場合、ソビエト共産主義の崩壊ではありません。
 文化大革命の野蛮がこと細かくあばかれても中国の左翼性に幻想をもつ運動が
 少数派によるとはいえしぶとく続けられていることで証明できます。

 日本のおおやけの言論空間に真実が輝きだしたのは
 北朝鮮による拉致が公式に確定した元首相小泉訪朝以降です。
 かすかにあった既存左翼の【権威】が日本国内で完璧に崩壊しました。
 これは敗戦後以来の最大の思想史上の大事件です。

 私は見ました。他人の思想の崩壊を。こうした経過である種の思想は堕落し腐りはて
 自滅してゆく様を時の経過とともに共同体験できました。おのれの思想遍歴を
 追体験できました。
 機を見るに敏な人は一時避難しました。自由な時代層ですから。
 環境保護派に。性差解消派に。日本で不自由を味わっている貧しい外国人の
 境遇改善運動に。あまたの能力のある人々が様々な分野に散りました。
 日本民族にとって長期的にはいいことです。一時避難した場所でそれぞれに
 努力してほしい。私は試行錯誤の上、手にした右翼という立ち居地で
 闘争心を燃やしています。ひとそれぞれです。それでいいと思います。
 

2008年2月9日 淳さんの投稿から

 投稿者:工藤猛  投稿日:2008年 5月 2日(金)09時44分30秒
  逃避としての「怒り」

恋愛と他者は無関係ではない。恋愛と主義は似ている。

主義者が言っていたぞ。
どのように見目麗しく魅惑的であろうと「思想」が違う人を嫌うと。
これは無理筋だ。主義者の幼さだろう。でもその感情はかわいいよね。

こうはいえるだろう。
スケベ感性全開で「肉」そのものの魅力を堪能し尽くすぞと奮い立つ。
精神的に感情的に高揚感に浸り同じでいたいと感じて奇跡的にめでたく
肉欲的に合体できた。一時の瞬間の一夜の恋愛であろうと終生を共にする
【結果】になった恋愛であろうと恋愛に代わりが無いというのが
私の価値観だ。その一瞬の価値を誰が否定できるというのだ。
当人同士の共謀をだれも否定できない。共同幻想にはよき役割がある。
売春婦とそれを金で買う男の間で恋愛感情が芽生えたって不思議ではない。

************

コミュニケーション不全事態が人間同士にありがちな
当たり前の自然な会話状態だと思うよ。饒舌である必要性なぞない。
だまりこむのも人間の自然だ。根性を持ってだまりこめ。

饒舌と黙り込むは人間関係でまったく対等な対応方法だと思う。
黙る価値も社会的にある。饒舌が社会的に有用な場合もある。
ただそれだけだ。

一生黙りまくる、しゃべりっぱなしの人生を送る人それぞれでいい。

だから恋愛に臆病になったら競争相手が一人減るので
周辺で「だまる」ひとが増えることを喜ぶ人が多分いる。

だからそれは違うと主張する人もいる。

誰が何を己に発するのか、そこが問題だ。
私左翼にほめられても嬉しくない。
左翼が本心から庶民の安寧を願って真摯に運動するのを見ることは嬉しい。
右派左派が真剣になって庶民の安寧を政治に求めれば
世のなか良くなる可能性がもっと増すと思うから。
左翼の健全な活躍は応援する。

右派があっての左翼。
おたがいさまだ。
 

論敵の論敵も論敵たる。

 投稿者:  投稿日:2008年 5月 2日(金)07時31分26秒
  >あなたは傲慢だ。支持者も多いだろうが嫌う人もいる。

アレクセイさんに関しては、論争における真偽判定を余所にして、態度が『傲慢だ』と『嫌う人』の方が多いのが事実であり、『支持“者”も多い』という表現は適当だとは思えません。
アレクセイさんの批評対象は多岐に亘りますし、批評行為や論争対象の個別的なものです。だから、個別的案件においては、「支持」「不支持」はあるでしょうが、アレクセイさんの「支持“者”」という存在があるのだとすれば、その「党派性」を想起させ、アレクセイさん当人が最も忌み嫌うでしょう。

そのうえで、僕は単にアレクセイさんの批評スタイルの一ファンに過ぎないのです。だから、僕自身も一切の例外的存在としてではなく、批評の俎上にあがることを覚悟のうえで書いていますし、アレクセイさんの批評を、安易に鵜呑みにせず、反証の努力を怠るべきではないのでしょう。残念ながらいつも、腑に落とされ教示される側にたっています。

プロ・アマ問わず、真に批評家を自認する人間の基本的な態度にして、一定多数の支持層を得ようとする態度自体、欺瞞(媚び)であり、工藤さんも嫌っている筈の「党派性」に恃む姿勢ではないでしょうか?
忌憚のない批評内容が支持を得られるかは結果論であり、批評家は本来、当初からそれを期待せず、論理的真偽に賭けるべきなのではないでしょうか?

それに僕は、多くのアレクセイさんの批評、論争を読んできましたし、ほんの一部参加したこともありますが、僕の知り得る限り、多くの「支持“者”」を得たことなどありません。数に恃まずに、大概は独りで多数派(=党派性)と対峙してきたのです。

また「花園で書く」ということは、すべからく批評の俎上に上ることを覚悟しないといけません。
ただ単に貴方の「論敵(熊谷さん)の論敵(アレクセイさん)」だからと興味を持って擦り寄ってみても、「敵の敵は味方」とはならないのがアレクセイさんを少しは知る人間としては、当然のことなのです。
 

中国人

 投稿者:田辺  投稿日:2008年 5月 1日(木)21時21分17秒
  最近の中国人は何故、あんなにまで傲慢なのか全く分かりません。
現在の私は正直言って、中国と言う国も中国人も大嫌いです。中華料理は好きなんだけども。
 

はらのたつやつだ

 投稿者:工藤猛  投稿日:2008年 5月 1日(木)11時57分3秒
  ネット右翼の嫌いなやつがまともだと。
右翼を馬鹿にするのもほどどほどにしろ。

心から怒るものに人間は本気になって【常識】を忘れていからなければ
どうやってこの世が庶民に優しいせかいになるというんだ。

私は9月で60歳になる。ちんぽは立っても90度いかだ。
この意味がわかるか。私の思いは子供か他人を説得して己の思いを【実現】するしかない。
特攻隊を募ったとして私は機能的に効果的には邪魔になるから排除される。
それが現実だ。ちんぽが90度以上でないものは特攻隊員には採用されない。
親父が酔っ払うと嘆いていたよ。もう死んでいないんだけれども。
下北半島で学徒動員で飛行船の尾翼だけ作っていたと嘆いていた。


独身の養う家族の無いネット右翼の若者が家族を養う重責を担って
かつ2ちゃんねるの精神をうしなわなかったときにこそ
日本は再生できるのだと信じている。窮境の真理より、つたない行動、発言が大事だ。

その責めは推奨した私が引き受ける。ちんぽこをおったてたい軽い男だから当然に
若者を煽る。それが後世に対する私の役割だと信じている。世論を煽るのだ。

*********

ナンバーではなくて日時で特定したらいいんだ。
え^^^と、3月7日15時33分の投稿への
感想、リアクションだ。
 

あなたは傲慢だ。支持者も多いだろうが嫌う人もいる。

 投稿者:工藤猛  投稿日:2008年 5月 1日(木)10時55分40秒
  人が死んだ。
弔うしかあるまい。

姉が死んだ。弟が生き残った。
弟は自分を助けようとしてその思いを果たすことなく死んだ姉を
心から慕うだろう。

物語はここで完結していい。

なにか。自然と親しむのを拒否して柵で覆おうのか。
指導員を貼り付けて子供の自由な行動を抑止するのか。
あれをするなこれをするなと傲慢にも。

川で遊べば子供の誰かは死ぬ。これは必然だ。
気を付けて遊んでおいで弟の面倒を見るんだよといって
親は子供を 荒野に 送り出す。それでいいだろうに。

だんだんと 闘争心 が湧いてきた。
 

だから最初から煙幕はって私ならあなたと「場外論争」はしなかったと書いたの。

 投稿者:工藤猛  投稿日:2008年 5月 1日(木)10時08分14秒
  いけず。
新宿歌舞伎町の「あかり」お姉さまに告げ口しちゃうから。
彼のお師匠さんの文章も論理的に緻密で誤字一つなかった。

あかりさんは新宿に集う未成年の女の子に
自分の体を大切にしてと心から愛情を持って説教するかつ考える人だから
「ホモ」に対する感覚が私の中で変わった。偏見が消えた。影響力の強い人だ。

私の苦手な人がこのネット社会に一人いる。tpkn(私のつけた略称 とぷ)だ。
苦手は増やしたくない。とぷと私の共通点は熊を批判しながら
それぞれに違う根拠で実質で擁護しているという
あいまいさにある。

だから最初から私ならあなたと「場外論争」はしないといっているのに。
一人の個人が何らかの思いで書いた文章を読んだらなにかしらの感慨が
あるはずなんだ。問答有用「左翼」も素直に言えばいいのにね。
居酒屋ですけべ話が燃え上がるように、特定の話題に萌えないのが思想板の悪いところだ。
子供たちに聞かせられるか大の男のエロ話を。おぞましすぎて聞かせてなるもんか。

「茶々」掲示板が消えて仮の住まいは、とぷに聞いてとぷのいる場所にした。
対抗しそうである右翼だから左翼板の「問答有用」に二回ほど
投稿禁止にあいながら、誇りを捨てて拝み倒してその決定を解除してもらって
現在に至っている。


あのさー^。

ネット社会で男で唯一私の心の支えである南米に住まう人の著作を
評価している人が「問答有用」板の管理人の一人であるインチソルさんだ。
熊には有能な友人が多い。どこかにひとをひきつけるなにかがあるんだろう。
(ネット社会で尊敬している女性は がじさまです。問答有用からは左翼的でありながら
 排除されています。削除される短い間にたまたま問答有用にアクセスした稀有の人だけ
 彼女の文章を読めます。党派性の限界が排除の論理ですね。いたしかたない事実です。)

*************

えーーー。自分の勝手な分析なのですが一時よりは排除の論理を
問答有用板は緩和しつつある。あなたの言論はより緩和するために【有用です】
なーーーんちゃって。(お茶目を気取っているだけですから許して。)
 

「あきらめたくない人間」と「あきらめたい人間」(後)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 4月30日(水)21時15分28秒
   工藤猛さま

興味があるので精読したい。

あらま

前言訂正


はじめまして、ようこそおいで下さいました。
また、


 ・ 「平和運動家論争」
   (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1854


についての率直なご感想、まことにありがとうございます。


工藤さまが「右翼」らしく精いっぱい「本音」の感想を書いてくださったお礼として、あるいは「本物の批評家」を名乗る者の義務として、私も、工藤さまのご感想について、忌憚のない感想・評価を語らせていただきたいと存じます。


まず、結論から申し上げますと、私と工藤さまとでは、物の考え方が、根本のところで違っております。それは、私が本日アップいたしました『アート少女』の書評にも明らかでございましょう。
――つまり、私は「あきらめたくない人間」であり、工藤さまは「あきらめたい人間」なのでございます。


そして、そうした観点からすれば、工藤さまは、私よりもむしろ、「理想を捨てた左翼」としての熊谷伸一郎氏の側に属する人間だ、とも申せましょう。

「右翼」である工藤さまが、熊谷氏の掲示板から排除されないのは、工藤さま自身おっしゃるとおり、本質的なところで、工藤さまと熊谷氏が「(補完し合う)同類」だからに他なりません。



工藤さまの「平和運動家論争」についてのご感想(「あらま」)の特徴は、「躊躇逡巡」という、その「右翼」らしからぬ態度にあると申せましょう。

わかりやすく言えば「世の中そんなものだよ、でもね……。しかし、やっぱり世の中そんなものだよ。でもね……(以下、無限ループ)」。


先ほど私は『工藤さまは、私よりもむしろ、「理想を捨てた左翼」としての熊谷伸一郎氏の側に属する人間だ』と申しましたが、それでも工藤さまと熊谷氏との間に存する「違い」は、工藤さまが「右翼」の美質である「本音主義」を持って(望んで)おられる点にあると申せましょう。

熊谷伸一郎氏がそうであるように、「左翼」はしばしば、「党派利益」のためならば平然と嘘をつくこともいたしますが、「右翼」はその「個人主義の美学」から、「嘘」や「誤魔化し」という「小狡い態度」を、なによりも嫌う傾向があるのでございますね。
ですから、精神的に「右翼」たらんとする工藤さまは、ことさらに「本音」を語ろうとし、そのせいで、ことさらに「オメコ・チンポの話」をなさりたがるのでございましょう。

しかしながら、「正直であること」「本音を語ること」は、「弱い人間」にできることではございません。なぜならば、「弱い人間」とは「嘘をつくことでしか、生きる場所を確保し得ない人間」のことであり、さらに言えば、一般に「人間とは、弱いもの」だからでございます。

したがいまして、「人間なんて、そんなもんだよ」という「あきらめ=自己正当化」が根底にある「弱い人間」の一人である工藤さまには、「本音」を語ろうとして語りきれないところが、必然的にございます。
そこには、「本音を語ろうとする(右翼的な)強い自分」と「本音なんて語れないという、凡庸な弱い自分」との葛藤が、自ずと生起してまいります。その結果、工藤さまの「本音たらん」とする語りは、必然的に「世の中そんなものだよ、でもね……。しかし、やっぱり世の中そんなものだよ。でもね……(以下、無限ループ)」という形になってしまうのでございますね。


こうした語りは、その形式の不徹底ゆえに、いかにも不体裁だと申せましょう。例えば、熊谷伸一郎氏の「公式ポーズ」のような、「弱点(欠点)を隠蔽した上での、見掛け上の形式的一貫性」というものが、正直な工藤さまの語りにはございません。
ですから、読解力の無い人が、工藤さまの「不徹底な語り口」と熊谷氏の「一貫した語り口」を読み比べれば、かならずや熊谷氏のそれの方に「本物」を見ることでございましょう。また、それこそが、熊谷氏の望んだ「ペテン」なのでございます。

しかしながら、人間は、負けるべき時は負けるべきですし、反省すべき時は反省すべきなのでございます。そうしなければ、それを避けて誤魔化してばかりいては、人は「自分の素顔」と向き合うことができず、生涯、「自己の弱さ」からの逃避を生きなければならないことになりましょう。それは、まちがいなく、本質的な意味での「負け犬の生」なのでございます。

ですから、工藤さまは、今のご自分の「分裂」ぶりを直視して、ご自身が本当に求めている「ある種の右翼らしさ」(=強さ)とはどういうものなのかということを、逃げずに考え抜く必要があるのでございます。



さて、以上のように析出された「工藤猛の本質」を典型的に示したものとして、例えば、本日、工藤さまが「問答有用」に書き込まれた、次のような文章がございます。



『 46390 水の事故で姉弟のうち小学校3年の姉が水死した。  工藤猛 2008/04/30 10:59

  小学二年の弟が川に落ちたら必死になるのが姉だ。
  近くにいる女子中学生が弟を助けた。

  毎年起こる事故だ。

  弟を助けるために川に飛び込んだ姉の冥福を祈りたい。
  私の家族のように幸いにも生きながらえれたら
  弟家族を思いやる姉が現世で弟を応援したろうに。
  この世には無常がある。いたしかたない。』



最後の『この世には無常がある。いたしかたない。』という言葉に、工藤さまの人生観が集約されていると言っても、決して過言ではないでしょうし、たぶん工藤さまご自身、それを否定なさる気も無いでしょう。

たしかに『この世には無常がある』し、罪無き子供が不慮の死を遂げるのも『いたしかたない』場合がございましょう。それは否定できない現実でございます。
しかし、その現実を「現実だから、仕方がない」とあきらめるのは、「現実そのもの」ではなく、「個人」であり「個人の選択」でございましょう。「現実だから仕方がないとは言え、それであきらめてしまえるものではない」という考え方もまた、「人間=個人」には可能なのでございます(イワン・カラマーゾフを想起せよ)。

例えば、この「姉の死」の意味を、精いっぱい「肯定的」に語り、その死を無駄にしないよう、その死が「未来の希望」へと生かされていくように努力するのも人間なら、この「姉の死」を捉えて『この世には無常がある。いたしかたない。』という自分の「人生観=あきらめ」を補強し追認し肯定するための道具として利用しようとするのもまた、同じ人間なのでございます。

工藤さまは、

> その党派の糞に歯止めをかけるのは、私の場合、母の教えである
> すべては庶民の幸いのためにという原理だけだ。
> 私の絶対神は母性、女性だ。私の精神安定剤は「女は女神様である」という
> 呪文だ。即物的に言い換えると「おめこをなめろ」になる。
> 幼子の健全に生きる環境を守れない男はいらない。


と、ご自分の「立派な信念」を語っておられますが、しかし『この世には無常がある。いたしかたない。』という言葉は、この信念を明らかに裏切っておりましょう。

これは、工藤さまにとっての『庶民の幸いのために』や「子供を守れ」という信念が、結局のところ「ご自分のためのもの」「自分の生を正当化するためのもの(道具)」でしかないからではないでしょうか?

こうした「信念」において工藤さまは、「虐げられた庶民を、守る立場の人間」「弱い子供を、守る立場の人間」、つまり「(一段上の)強い人間=選ばれた人間」という立場に、ご自分を措いておられます。だからこそ、厳しく申しますならば、工藤さまにとっての「庶民」や「子供」は、「守ってやる対象」であって「自分自身」ではない。自分自身のことではないからこそ、いざとなれば『この世には無常がある。いたしかたない。』という一片の言葉で片づけて、納得してしまえもするのでございましょう。

しかし、私は違います。私は、自身が「虐げられた庶民」であり「弱い子供」でございます。だから『いたしかたない』では済まされない。そんな言葉で「あきらめるわけにはいかない」のでございますよ。

私に言わせますと、工藤さまの言論活動とは、上の「水の事故で姉弟のうち小学校3年の姉が水死した。」にも明らかなとおり、「無力な自分という、いたたまれなさを、吐き捨てるため」のものでしかございません。つまり、会社で上司にいびられている会社員が、飲み屋であげる威勢のよい「オダ」と、本質的には何も変わらないものなのでございます。まただからこそ、そんな「ガス抜き」は大目に見られ、その存在を容認されるのでございます。


> えーーー。たしかに投稿するには「枠」が狭すぎる。
> 事前に文章を作成してから貼り付けて投稿する人には
> 何にも不自由がないのだろう。

> 考えながら書き込みながら表現したい私にとって
> 枠は狭かった。


> この後の私の投稿で訂正はしない。この場を軽んじているのではない。
> 好きに解釈して、読みながら内容でそれぞれに訂正して。

> 実質にこだわるので(いいわけ、面倒くさいだけ)、「形式」をないがしろにする。
> 辞書を引くのがわが息子が嫌いなように私も面倒くさい。
> おおよその意味が通じればいいと思うほうだ。わが息子は料理の味の些細な変化にも
> 敏感だ。おやじは、世間に公言できないのだがおめこの千差万別な微妙な違いについては
> 一言あるほうだ。人間それぞれだ。

> 日本語を正しく表記できない。これはよろしくない。
> 若者には薦められない態度だ。知ったことか、己の都合(楽チン)を優先する。

> 誤記の頻度に自信がある。
> 書きながら注意しているんだけれども直らない。
> 気にするよりは開き直って己の論理を展開するほうがいい、と達観することにしている。
> 許してくださいまし。


この「文章作法」に関する「一家言」にも、明らかな混乱と矛盾、躊躇と逡巡が見られます。

たしかに、誤字脱字などは誰にでもあることでございますし、それがあるから、その人がいい加減に文章を書いているなどとは言えないのでございますが、しかし、だからといって、いい加減なことをやっている人自身が、『(誤記を)気にするよりは開き直って己の論理を展開するほうがいい、と達観することにしている。』などと言うのは、『達観』ではなく「悪しき開きなおり=無反省=自己正当化」でしかございません。


「文章作法」の本を読めば、かならず書いてあることでございますが、「推敲」の重要性というのは、文章を形を整えるということばかりではなく、自身の「思考の検証」という、より重要な側面にあるのでございます。つまり、自分の文章をくり返し推敲すれば、どこで文章が、つまり「思考」が、飛躍しているか、ねじ曲げられているかが分かり、自分が「何を避け」「何を怖れている」かということも、徐々に分かってくるのでございます。

また、ですからこそ、「推敲」を好まない工藤さまは、


> おおよその意味が通じればいいと思うほうだ。わが息子は料理の味の些細な変化にも
> 敏感だ。おやじは、世間に公言できないのだがおめこの千差万別な微妙な違いについては
> 一言あるほうだ。人間それぞれだ。

> 日本語を正しく表記できない。これはよろしくない。
> 若者には薦められない態度だ。知ったことか、己の都合(楽チン)を優先する。


などと、明らかに矛盾した「無責任な意見」を、さも「私は、物わかりのよい(寛容な)人間なのだ」という主張であるかのように、平然と語りうるのでございます。


しかし、「人それぞれ」であり、良いも悪いもない、あれもこれもありだ、と本気で思うのならば、なぜ工藤さまは、あれやこれやについて、わざわざ「主張」したがるのでございましょうか?

それは、工藤さまが、あれやこれやについて何かと「不満」を感じ「ひとこと言わせてもらいたい」と思いながら、しかし、自分と意見を異にする人間(他者)と、本気で向き合う覚悟がないからなのでございますね。だからこそ、私はああ思うこう思うと書いた後に「まあ、どうでもいいんですけどね」「まあ、しかたないですけどね」といった、毒消しの「言い訳」をつけ加えて、逃走をはかるのでございます。


そしてこれは、工藤さまの、熊谷伸一郎氏に対する態度にも、如実に表れておりましょう。自称「右翼」でありながら、三流の「左翼」である熊谷伸一郎氏に対して、媚びることも辞さない、その態度。――たしかに熊氏の場合、あそこにもここにも問題はあるのだが『この世には無常がある。いたしかたない。』し、熊氏にだって可能性はあるから、私はそこを見守りたい――などと「大人物」を気取りたがる。

しかし、私だって、なにも熊谷伸一郎氏を「全否定」しているのではございません。それは、私の論文を読めば、おわかりいただけたことのはず。
熊谷氏のような「運動屋」でも、必要なこともあれば、役に立つことも大いにございます。熊谷氏のような人間にも、愛する家族や友人はいて、そういう人は熊谷氏を「かけがえのない人間」だと考えていることでございましょう。それはたしかな事実であり、その意味では熊谷伸一郎氏のような「腐れ左翼」でも「死んだ方がマシだ」ということにはならないのでございます。――また、しかしながら、誰かにとって「かけがえのない人間」であり、その意味では、いないよりはいた方が良い、「その存在を否定されるべきではない存在」という意味では、ヒトラーだって、スターリンだって、同じこと。彼らとて、完全否定の存在抹殺が正当化されうる「人間(存在)」ではないのでございます。

だからこそ私たちは、物事を是々非々で評価し、批判しなければなりません。どんなに立派な人であったとしても、誤りを犯せば、その点については厳しく責任を問われなければなりませんし、逆に、どんな極悪人であっても、高く評価すべき行いについては、適切な評価を与えなければならない。つまり「党派的」であってはならない。――ところが、工藤さまには、それがまったく出来ておりません。
ご自分の「不徹底」「いい加減さ」、つまり「弱さ」を正当化するために、ミソもクソも一緒くたにしたうえで、無自覚にも、ご自身が「物わかりの良い人間」に見えるように、欺瞞的な演出を施しているのでございます。


――しかしながら、最初に申しましたとおり、熊谷伸一郎氏には無い「美点」である「本音主義」が、工藤さまにはございます。その「主義」を十全に貫き得ていないとはいえ、熊谷氏のような、初めからそういう美点を持ち合わせていない人間とは、やはり大きに違うというのも、また事実。

ならば、工藤さまはその美点を梃子にして、成長すべきでございましょう。たかだか六十になったくらいで、もう修正は効かないなどと、弱気になってはなりません。むしろ、そんな弱気の虫に負け続けてきたからこそ、六十の今日になっても、子供たちに希望を与える(語る)ことのできない「負け犬」に甘んじているのだという事実を、今ここで直視すべきなのでございます。

「情報公開に、左右の別なし」であるように、「人としての勇気や誠実」にも「左右の別」はございません。つまらない(「右翼」という)看板など投げ捨てて、これからは本当の意味での「俺は俺だ」でいって下さいまし。「右だから」「左だから」こう言うのではなく、俺は俺の考えにしたがってこう言うのだと、そう主張なさって下さいまし。そうすればきっと、「思想の左右」ではなく、つまり言い訳の余地なく、「個人」を厳しく問われる「個人」の立場に立てることでございましょう。


ちなみに、そういう「個人主義」の私から言わせますと、工藤さまの、


> 日本の伝統と庶民を愛したい天皇にいじめられた蝦夷の子孫でありながら
> 時の権力を庶民よりにけん制するために天皇は大事にされていいという
> 右翼です。

> 20代前後のころ母親の影響で日本共産党員だったので熊氏に興味があります。
> 社会主義の世界体制が崩壊したこの時代に、まだ中国共産党末端党員と
> 楽しく酒を飲むかれがこの混迷した現代にどのように対処するのか
> 野次馬的に興味心身です。


というようなお考えは、まったく評価できません。

私からすれば、天皇などというのは「古い名家のおぼっちゃん」でしかございません。つまり、私たちと同じ「ただの人」でございます。

そして、そんな「ただの人」を、「法的・制度的」に「特別な存在」へと祭り上げて「政治的に利用」するというのは、その人の「人格」を軽んじるという意味での、人権蹂躙に他なりません。したがいまして「天皇利用」が、「時の権力」のためであろうと、「庶民」のためであろうと、そんなことは関係ございません。私は、自分が政治的に利用されるのを嬉しくは思いませんから、他の誰であろうと政治的に利用するのを善しとはしないのでございます。

そして、そんな私であれば『社会主義の世界体制が崩壊したこの時代に、まだ中国共産党末端党員と楽しく酒を飲む』程度のことが、いったい何なのだ、としか思えません。
私なら、状況が許せば、天皇とでも対等に酒を酌み交わしましょうし、じっさい、雅子さんの「人格」権を守ろうとした皇太子には、人間としての共感を感じておりますから、彼の肩を抱いて「あんた、本当に良くやったよ」と誉めてあげたいとさえ思っているのでございます。

で、そんな私は、本日ご紹介した『アート少女』の中に登場する草間さつきと同様『圧倒的に目立ちまくっている』し、また一般庶民の『センスを越えたオリジナリティをガンガン主張しちゃってる』ために、目出たく、嫌われる者の典型たる『主張するヤツとオリジナリティ』を体現する存在となっております。

私が「撫順の奇跡を受け継ぐメーリングリスト」を排除され、熊谷伸一郎氏の掲示板である「問答有用」で遠巻きにされ「触らぬ神」扱いにされるのも、それは私が草間さつきと同様の、「(議論ごっこの)空気をかき乱す」存在だからなのでございましょう(実際、私が除名されたグループ・集団は、両手に余るほどでございます)。
『アート少女』の主人公節子が「(結束を固めるための)異物排除」を好む場所として『とくに学校みたいな場所』と評したとおり、「撫順の奇跡を受け継ぐメーリングリスト」や掲示板「問答有用」もまた、そんな「管理者・権力者の意識を内面化した人たちの(平ベったい)コミュニティー」であり、「学校」のような「規律訓練型権力」(M・フーコー)に馴染む人たちの「慰安所」に他ならないという、これは何よりの証拠なのだと申せましょう。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

「あきらめたくない人間」と「あきらめたい人間」(前)

 投稿者:園主  投稿日:2008年 4月30日(水)21時12分55秒
  みなさま、本日は、花形みつる著『アート少女 根岸節子とゆかいな仲間たち』(ポプラ社)をご紹介いたしましょう。
この小説は、児童文学出版の老舗ポプラ社が、若者層の獲得を期して立ち上げた新レーベル「Teen's Entertainment」創刊の1冊として刊行したものでございます。

さて、「はながた みつる」と申しますと、ある程度以上の年齢の方は、かの名作マンガ『巨人の星』の「花形満」を連想なさいますでしょうが、両者にどのような関係があるのか、私は存じ上げません。ただ、調べてみてわかりましたのは、この作家は1953年生まれ(の、ぎりぎり『巨人の星』を知っている世代)で、野間児童文芸新人賞、新美南吉児童文学賞などを受賞した、分類的には「児童文学作家」であるという事実でございます。
そんなわけで、当然のことながら、その筆名こそ聞き知っていたものの、ほとんど興味のなかったこの作家の本を、今回購読することになった理由は、ひとえに、そこで扱われている題材に興味を持ったからでございます。
本書の帯に記された惹句は、本当にこれで売れるのかなという、次のようなもの。



『   文系弱小部活的 爆笑・感動ストーリー
      オタクにひきこもり、変な部員ばかりが集まった美術部。
     部長は今日もブチ切れて暴走、迷走。芸術はバクハツだ!   』



そして、カバー見返しの「あらすじ紹介」は、次のようなものでございます。



『  実力派の三年生が卒業して、美術部の部長になった節子。
   残った部員のは、超個性的な面々ばかり。
   しかも、校長に目をつけられ、次々に難題をつきつけられて…。
   でも、あきらめないヤツは強いのだ。
   つき進め根岸節子とその仲間たち!                』



このような「惹句」や「あらすじ紹介」に、いったいどれだけの人が惹かれるものなのか。ましてや、今の若者を惹きつける要素がどれほどあるのか。それは、私にはまったくはかりかねるところでございます。
ただ、中学で美術部、高校で漫画部(しかも副部長)という『文系弱小部活』を経験した者といたしましては、そこに他人事でもなければ、フィクションにも還元できないもの(例えば「文系弱小部活」「変な部員ばかり」)を感じ、その点でこの作品につよく興味を惹かれたというのは、以前にご紹介した美大青春マンガ『アオイホノオ』の場合と、まったく同じだったのでございます。


さて、さっそく結論から申しますと、本書はたいへん楽しい、素敵な小説でございました。決して「子供向け」に限定すべきものではなく、当然のことながら、凡百の「大人向け小説」など足元にも及ばない、中身のある小説でございました。


この小説のテーマは、「惹句」や「あらすじ紹介」からもわかりますとおり、

 (1)「おそれるな。自由に、自分らしく生きよう!」

ということと、

 (2)「あきらめないヤツは強い!」

という、2点だと申せましょう。


本作には、後から美術部に入部してくる「草間さつき」という、個性派の少女が登場いたします。彼女は、絵を描いたりオブジェを造ったりすることにはまったく興味がなく、ただ「おしゃれ=ファッション」だけに興味があって、部活でも「それしかしない」という、美術部の中でも浮きがちな、「なんでわざわざ美術部に入ってきたんだよ!?」と言いたくなるような、徹底したマイペースの変わり者でございました。
しかしながら、現在の美術部は校長に睨まれた存在であり、部員の少なさを理由に、いつ取り潰されるやも知れぬ状況でしたので、ひとまずどんな新入部員だって有難く歓迎しなければならない。それどころか、一人だって辞めてもらっては困る状態でございました。
また、草間さつきには「独自にして強烈な色使いの才能」があって、それは誰もが認めざるをえないものだったのでございます(この設定は、たぶん彼女のモデルが草間彌生だからなのでございましょう。なにしろ「さつき=5月」と「やよい=3月」でございますから)。


さて、そんなマイペースのさつきは、個性派ぞろいの美術部でも周囲と衝突しがちなのですが、当然、部長の節子は、そんな彼女の存在をなんとかフォローしようといたします。しかし、そんな節子が、連絡事項があって、下級生である さつきのクラスへ行きましたところ、さつきがクラスの中でハブかれ(無視され)た存在であったことを知らされます。



『「草間さん、いる?」と聞いてみた。
 女子たちがおしゃべりを止めてこっちを見上げた。が、返事がない。
 なんか、ヘンな感じだ。
 もしかしたらクラスを間違えたのかと思い、
「草間さつきって、このクラスじゃなかったっけ」
 たしかめてみたが、目配せをしあうばかりで、押し黙っている。
 おまけに、ガラクタをひっくり返したような喧噪がやんで、教室中の視線が自分に集中してるみたいだし。
 なんなんだよ、このクラスは。
「……そうですけど」
 女子の一人が、感情のない平ベったい声でいって、肩越しに視線を投げた。
 その視線の先、窓寄りの列のちょうど真ん中あたりに、ポツンとひとつ空の席があった。
 ポツンと見えたのは、前の席とも横の席とも後ろの席とも不自然に間があいているからだ。
 机の脇のフックに、見覚えのある学生カバンが掛かっている。どうやら、そこが草間さつきの席らしい。
「どこに行ったか、知らない?」
「さあ」さっきの女子が素っ気なくいった。
「休み時間とか、いつも、教室にいないから」

 心臓がキュッとすぼんだ。

 小学生のとき、私もいっとき、クラスの女子全員からハブかれて、机をまわりから微妙に離されたことがあったっけ。
 あーゆうのって、授業中はまだいいとしても、休み時間や給食の時間は身の置き場がないんだよね。
 それが、ある日突然、無視の標的は別の女の子に変わり、その日から、みんななにごともなかったように私に話しかけてきたのには、びっくりを通り越してあきれた、というしょーもない思い出だ。
 あれはいったいなんだったのか、未だによくわからない。私もその子も、特別目立っていたとか、浮いてたとかなわけじゃなかったのに。
 誰かをハブくことに理由なんてないのかもしれない。みんな、誰かをいじめないと普通でいられないだけで。
 でも。
『おしゃれ命』の草間さつきは、圧倒的に目立ちまくってる。そのおしゃれがまた、中学生のセンスを越えたオリジナリティをガンガン主張しちゃってるし。
 嫌われるのは、主張するヤツとオリジナリティ。とくに学校みたいな場所では。
 おまけに、あの性格だもん。クラスの中からハブられても、精一杯突っ張っているんだろう。それで、ますます浮いちゃって……。
 なんだか、鮮やかなカラー画面の中であの机と椅子の周囲だけに紗がかかっているようだ。
 前髪をおでこのずっと上でパッツンと切りそろえた草間さつきが、背筋を伸ばしてあの席にすわり、澄んで孤高なまなざしで虚空を見つめているのかと思うと……なんか切なくて、無人の机に目が吸い付いたまま離れない。』(P105〜108)



そう。こんな草間さつきにとっては、個性派ぞろいの(一色に染まらない)美術部だけが、心の休まる場所だったのでございます。おしゃれにしか興味のないさつきが、絵を描いたりオブジェを造ったりする部員から「なんでわざわざ美術部に入ってきたんだよ!?」と言われても、決して美術部を離れようとしない理由は、美術部の「自分を、自由に表現できる場」という一点にあったのでございますね。


「あとがき」にもございますとおり、この長編小説は、先行する短篇「アート少女」の「その後」を描いた作品であり、この長編では、物語の発端の段階ですでに、美術部は校長との対立抗争に敗れて部室を失った「彷徨える美術部」として登場いたします。つまり、――この物語は、「かならず最後に愛は勝つ」的な「子供向けのおとぎ話」ではないのでございます。

節子とその仲間たちは、自分たちの「表現の場」を守るために精いっぱい闘いますが、その闘いに敗れることも決して珍しくはございません。なにしろ、彼女たちは「非力な子供」なのでございますから、大人や多数者と闘えば、負けることの方が多いというのは、理の当然なのでございます。

しかし、節子はあきらめません。理不尽な抑圧に対しては、時に感情的になり、暴走し迷走してでも、その理不尽に、力のかぎり抗います。叩かれても潰されても、彼女たちはまたそこから立ち上がって、抵抗を続けるのでございます(まるで、ホセ・メンドーサ戦での、矢吹丈のように)。
そしてやがては、ことなかれでやる気のない美術部担任教師の通称「モジリアニ」をして、こう語らせるにいたるのでございます。



『「それに、僕がなにをいったところで、あきらめはしないんだから、キミたちは。あきらめない人間には、誰も勝てないんだよ」』(P244)



そして、最後まであきらめない節子に、副部長の芳子は呆れたように、こう問います。「節子は、なんで、がんばれるの」「その自信はどこからくるわけ?」。――この問いに対する節子の答えは、



『「自信なんてないよ。大切なことをあきらめるのが嫌なだけなの。私、あきらめの悪いヤツだから」』(P251)



この答えに、芳子もしみじみとこう漏らします。
――「あきらめの悪いヤツって、あるイミ、最強だもんね」。


ここに到って、この物語は、私が先日ご紹介した鴻上尚史の『僕たちが好きだった革命』へと繋がってまいりましょう。

両者が求めるのは、自分が自分らしく生きることの自由。それを妨げるものからの解放。
彼らは、それを、ただそれだけを勝ち取らんとして闘い、しばしば敗れるのでございますが、それでも彼らはあきらめないで、再び三たび立ち上がり、自分たちが必要とするもののために闘います。

「自由を勝ちとるための闘い」。それはたぶん、終わりのない闘いなのでございましょう。この有限な世界に生きる以上、私たちは多かれ少なかれ「不自由」であるしかないし、「自由」が「危険=リスク」と背中合わせである以上、「安全」や「安心」を求める私たちは、おのずと「自由」を自主的に手放そうとする傾向を持っているのだとも申せましょう。――けれどもまた、究極の「安全」や「安心」が「死」である以上、私たちが「生きるに値する生」を全うするためには、「自由への希求」を捨てたり止めたりするわけにはいかないのでございます。

「あきらめないヤツ」とは「死なないヤツ」のことでございます。イジメにあっても、毅然と自分を主張しつづけた草間さつきの場合のように、その「生」は、決して「安全・安心」で生きやすいものではないのかも知れません。それでも、「自由を求める」ところにだけ、「私」が「私たち」が、「生きるに値する生」もあるのではないでしょうか。

――畢竟「生きるとは、あきらめないこと」。
この作品は、そんな思いを、渾身の力をこめて、子供たちに、未来への可能性に向けて語った、そんな「あきらめの悪い作品」だと言えるのではないでしょうか。





( 以下は「「あきらめたくない人間」と「あきらめたい人間」(後)」)につづく
 

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