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斯くて2008年も幕を閉じる。
投稿者:園主 投稿日:2008年12月31日(水)01時35分27秒そんな、今年の私にとって、印象に残る出来事と言えば、まずは舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日』の刊行でございましょう。この「第五の奇書」とも呼ぶべき大作に出会えたことは、なによりの喜びでございました。
一方、仕事の方では、人事異動により職場環境が変わり、車を運転するようになったというのも、個人的にはなかなか印象に残る出来事でございました。特にこの12月は、車の運転に馴れるためにあちこちのブックオフまで車を飛ばし、そのせいで「花園」への書き込みが出来なくなったことも、少なからずございました(笑)。
ただ、車を持ってみてつくづく思いますのは、車は金喰い虫だということでございます。昨今のアメリカ発の世界的な不況のせいで、日本の自動車メーカーも軒並み生産台数を抑え、期間労働者を解雇するといった問題が大きく報じられる一方、若者は運転免許の取得に意欲を失い、家計を逼迫させる車を手放す人も増えているとか。たまたまのタイミングだとは言え、そんな世間の流れに逆行するように(中古)車を購入して、ほとんど運転に馴れるためだけにガソリンを燃やしている私は、我がことながら奇妙な感慨にとらわれる昨今なのでございます。
ともあれ、来年が多くの人にとって、すこしでもマシな年になることを祈りながら、静かに新年を迎えたいと思っております。
★ Keenさま
> 笠井潔を理解するのに最適の一冊?
>しばらくご無沙汰している間に、わが街の図書館で見つけた笠井潔『黄昏の館』(徳間書店/絶版)を読みましたよ!非常に興味深く、かつ面白かったです。(^^)
>『黄昏の館』も宗像冬樹が初登場した作品ということで、実にいろいろな要素を……というか、思い切って言ってしまえば、笠井潔の全てを内包した作品ではないかと、私は思ってしまいました。その印象をひとことで言うと、
>
> 「本当は僕が王様なんだもん!今の世界は間違っている、僕が統治していたら、世界はもっとちゃんとしてたはずだったんだー!!」
>
> ……たいへんわかり易いです。ほとんど駄々っ子の理屈ですが、私にはそうとしか理解できませんでした。私は笠井作品を全て読んでいるわけではありませんが、もしかして、笠井さんが本当に書きたいことって、これだけなんじゃないかとすら思えて。
> そして作者の分身であるこの宗像冬樹を本作限りの使い捨てにするには惜しく、メインキャラとして『天啓の宴』で少し設定を変えて復活させ、さらにはパラレル・ワールドの別キャラくらいの感覚で、状況に応じて設定を変えながら他の作品にもばんばん出演し続けている、といったところでしょうか。
> 今後は矢吹駆との邂逅もありそうですが……やっぱり宗像冬樹が王様(神様?)というオチに行き着くのか、そんな素人考えをあっさり覆して、あっと驚く展開をみせるのか、楽しみです♪
う〜む、そうでございますか。私は『黄昏の館』を単行本刊行時に読んでおり、当時はまだ、評論は無論のこと笠井潔の作品としては「矢吹駆シリーズ」初期三部作や『ヴァンパイヤー戦争』くらいしか読んでおりませんでしたので、この作品を笠井潔の思想を反映した作品として読むことはなく、単純に「矢吹駆シリーズ」のような「本格ミステリ」か、あるいは本作が明確に意識した荒巻義雄の『白き日旅立てば不死』のような「ロマンティックな幻想小説」を期待して読みました。――なのに「あんなオチだった」ということで、大いに失望させられたという印象しか、『黄昏の館』には残っておりません。もちろん、いま読めばまた、自ずと印象も違ってくるのではございましょうが。
じつは私、11月半ばからこちら、『探偵小説論3 昭和の死』(東京創元社・2008)、『球体と亀裂』(情況出版・1995)、『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』(南雲堂・2008)と、続けざまに笠井潔の評論書を読んでおりました。
『探偵小説論3 昭和の死』 は、『探偵小説論』の第3巻として刊行されておりますが、実際には「昭和・純文学論」であり、文芸誌『新潮』に連載された「昭和の死」を、『探偵小説論』の1・2で展開した「大量死と探偵小説」理論を「裏面から裏づけるもの」という、いささか苦しい正当化によって、新潮社では出してくれない評論書を、東京創元社から出させた本だと申せましょう。
『球体と亀裂』 は、表題作の「大江健三郎論」170余頁を中心に編まれた「昭和・純文学論」であり、これまではあまり興味が無かったものですから、積読にしていたのでございますが、『探偵小説論3 昭和の死』を読んだのを機に、併せて読んだというわけでございます。
『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』は、笠井潔が「ジャンルX」方向に傾きだして以降の評論を集めたもので、奈須きのこの『空の境界』の長編解説文や、件の「『容疑者Xの献身』論争」関係の文章も収められており、基本的には雑誌は読まない私も、収録論文の半分ほどは読んでおりました。
以上の3冊を読んで今さらながらに思ったのは、笠井潔という評論家は、頭も良いし大変よく勉強もしており、主張自体はそれなりに見るべきところのあるものなのですが、いかんせん「批評家としての公正さ」が決定的に欠落しており、誉めたいものはレトリックのかぎりをつくして褒めちぎり(『空の境界』の解説など)、その一方、敵対した相手にたいしては、自分自身まったく出来てもいない「過剰に倫理的な正論」を押しつけて断罪する(『容疑者Xの献身』を高く評価した人たちへの批判)といった「臆面の無さ」が、評論家としての倫理(の欠落)以前の、人として不誠実さを感じさせて、ほとんど致命的だということでございました。
例えば、笠井潔は、その大江健三郎論「球体と亀裂」で、大江が小説作品においては人間存在の困難性に誠実に直面するその一方で、批評的言説においては典型的な戦後民主主義左翼的ご託宣を垂れ流しているという「矛盾」を批判し、その「矛盾」を直視しない批評家たちをも批判して、次のように書いております。
『『ヒロシマ・ノート』には、吉本隆明が「ふざけきった居直り」であると糾弾したところの、「われわれがこの世界の終焉の光景への正当な想像力をもつ時、金井論説委員のいわゆる《被爆者の同志》たることは、すでに任意の選択ではない。われわれには《被爆者の同志》であるよりほかに、人間としての生き様がない」という決意表明がある。志願した戦後民主主義擁護派の大江による、この種の政治的発言は、「またか」という種類のあきあきした反応しか、いまや喚起しえないだろう。発言の中身よりも、レトリカルに絶対化された断言調のほうが、むしろ問題である。倫理を振りかざして自他を脅迫する正義派の蛮声は、車内を傍若無人に駆けまわる小学生の騒音と同等のものだ、というような常識人にふさわしい判断が、さまざまな大江論の背後に、語られないまま沈澱している。テクストと作品は違う、作品と作者は違う、小説とエッセイは違う、等々という具合に。
この種の文学的良識は、民主主義的良識が一般的にそうであるように、露骨な専制に対する抗議という状況的な意味が与えられたときにのみ妥当である。テクストの自立性にまつわる諸々の主張は、直接的には社会主義的リアリズムの圧政に抗議する民主主義的言説として、かつては状況的な意味をもった。敷衍すれば、作品の特権的な起点として作者があるというふうな、近代の制度的思考に抗う場面においてのみ、それは有意義である。このような文脈を背景としない場合、それは相対主義や懐疑主義に心地よく浸りこむ、精神の弛緩の産物でしかありえないだろう。
作品を作者に、作者を社会に、社会を歴史に、そして歴史を世界精神に還元してはならない。たしかにそうだろう。だが、それだけなら、たんなる民主主義的良識であるにすぎない。問題は、作品と作者のあいだに構造的な照応を発見するにとどまらず、さらに、照応関係には還元されない剰余を読みとることではないだろうか。差異を読むためには、まず同一性を発見しなければならない。大江による政治的発言と小説作品とを、前者に眉を顰めつつも後者から切断する論者は、専制が存在しないところで民主主義的言説を擁護するという、良識的身振りを演じているにすぎない。
『ヒロシマ・ノート』と『個人的な体験』には、明らかに構造的な照応関係が見い出される。さらに『個人的な体験』と『万延元年のフットボール』にも。それらの構造的な照応関係を克明に検証した上でのみ、構造の剰余を読むという体験もまた可能ならしめられる。であれば、『ヒロシマ・ノート』に見い出される思想的倒錯を大人めいた顰め面でやりすごしつつ、作者とも作者の政治的発言とも独立した文学作品として『個人的な体験』を論じるような方法は選択されるべきではない。』(P12〜14)
ここで語られていることは、なるほど「正論」でございます。しかしながら、これは「自分のここでの方法論を唯一絶対化するための、その場かぎりの正論」に過ぎません。
『 いまやバブル世代(第三の波の作家たちが多く属する世代でもある)は、一廻り下の就職氷河期世代から怨嗟と敵意を洪水のように浴びせられている。新人類世代やバブル世代として類別される第三の波の作家たちが、依然として『容疑者Xの献身』をめぐる無自覚と無感覚を正当化し、すでに過去のものである時代感性に固執し続けるなら、年少世代とのずれは必然的に拡大し、敵対にまでいたらざるをえないだろう。結果として若い世代から見放された本格は、中高年の旦那芸に頽落していくに違いない。しかし第一の波も第二の波も第三の波も、多数の青少年読者に支持された結果として繁栄しえた事実を忘れてはならない。
本書の読者には明らかだろうが、探偵小説を旦那芸におとしめ、それでよしとする俗論にわたしは組みし(※ママ)ない。脱格系を拒否あるいは排除し、『容疑者Xの献身』を無自覚にも礼讃した評論家や作家に、探偵小説の未来を託することはできない。探偵小説に「精神」など必要ない、面白いパズル小説があれば充分だという偏狭なマニア的読者が、探偵小説をジャンルとして深みから支えうるわけがない。理論的に、あるいは実作者の直観として探偵小説の精神を二一世紀に架橋しうる試みだけが、エドガー・アラン・ポオ以来の探偵小説を創造的に継承しうるだろう。』
(『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』の「あとがき」より)
『ヒロシマ・ノート』での大江の言い方もさることながら、ここでの笠井潔の言い方こそ『この種の政治的発言は、「またか」という種類のあきあきした反応しか、いまや喚起しえないだろう。発言の中身よりも、レトリカルに絶対化された断言調のほうが、むしろ問題である。倫理を振りかざして自他を脅迫する正義派の蛮声は、車内を傍若無人に駆けまわる小学生の騒音と同等のものだ』といったものの典型ではないでしょうか。
「球体と亀裂」で笠井が主張しましたとおり、笠井潔の小説とこの種の政治的発言とを分けて評価したがる者、つまり笠井潔『による政治的発言と小説作品とを、前者に眉を顰めつつも後者から切断する論者は、専制が存在しないところで民主主義的言説を擁護するという、良識的身振りを演じているにすぎない。』ということになりましょう。
しかし、笠井潔の言うとおり「笠井潔の評論文に見い出される思想的倒錯あるいは思想的頽廃を、大人めいた顰め面でやりすごしつつ、作者とも作者の政治的発言とも独立した文学作品として、例えば『バイバイ、エンジェル』や『青銅の悲劇 瀕死の王』を論じるような方法は選択されるべきではない。」ということになりましょう。
その意味で、自分が非難した大江健三郎的な態度をそのまま再演して恥じない笠井も笠井ではございますが、そんな笠井潔の近作『青銅の悲劇 瀕死の王』を『2009 本格ミステリ・ベスト10』(探偵小説研究会=編著)で第5位にまで祭り上げた、「探偵小説研究会」の評論家の面々もまた「ポーズばかりの良識的民主主義者」として批評家失格を宣告されざるをえないのでございましょう。――まったく妥当に「鳶が鳶を産んだ」のでございます。
> 実は続いて『テロルの現象学』も読もうとしたのですが、やっぱり軽く挫折してしまいましたので、この年末年始は園主さまお薦めの『ディスコ探偵水曜日』に手をつけようかと再び図書館を狙っているところです。
『テロルの現象学』はペダンティックな思想論文でございますから、純文学や思想関係の知識がある程度ないことには、なかなか難しゅうございましょう。
その意味では、綾辻行人以降のミステリを論じた『探偵小説論』の第2巻「虚空の螺旋」などから入ると、笠井潔の評論も馴染みやすいのではないでしょうか。
一方『ディスコ探偵水曜日』は、文句なしの大傑作でございます。もちろん、どんな傑作にも好みの問題はつきまといますから、楽しめないという結果になる可能性もございますが、結果はどうあれ、ご感想をお聞かせいただければ幸いと存じます。
本年も本当にお世話になりました。来年もよろしくおつき合い下さいまし。
★ K5さま
> ご無沙汰しております。
こちらこそ、ご無沙汰しております。
> おとといから今日まで、東京でコミケットがありました。
> また星崎龍さんなのですが(こればかりじゃないですよ)、
> 新刊が3冊あったため、迷わず入手致しました。
> もちろん園主さまのも入手したので、
> また追ってなのですが、送ります。
お気づかい、誠にありがとうございます。
なによりのお年玉でございます。
> 今年はここまでに。
> ではよいお年を。
明年が、K5さまにとって素晴らしい年であることを祈っております。
それでは、みなさま、本年はここまでとさせていただきます。
よい新年をお迎え下さいまし。
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm