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斯くて2008年も幕を閉じる。

 投稿者:園主  投稿日:2008年12月31日(水)01時35分27秒
  みなさま、2008年もいよいよ、残すところ24時間を切りました。私にとって本年は、例年になく平穏な一年であったように存じます。――と申しますのも、今年は「好例の」と言ってよいであろう「論争」を、一度もやらなかったのでございます。細かいものなら無いでもないのでございますが、匿名者相手のつまらないもので、ややもすると忘れかねない程度のものでございました。

そんな、今年の私にとって、印象に残る出来事と言えば、まずは舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日』の刊行でございましょう。この「第五の奇書」とも呼ぶべき大作に出会えたことは、なによりの喜びでございました。

一方、仕事の方では、人事異動により職場環境が変わり、車を運転するようになったというのも、個人的にはなかなか印象に残る出来事でございました。特にこの12月は、車の運転に馴れるためにあちこちのブックオフまで車を飛ばし、そのせいで「花園」への書き込みが出来なくなったことも、少なからずございました(笑)。
ただ、車を持ってみてつくづく思いますのは、車は金喰い虫だということでございます。昨今のアメリカ発の世界的な不況のせいで、日本の自動車メーカーも軒並み生産台数を抑え、期間労働者を解雇するといった問題が大きく報じられる一方、若者は運転免許の取得に意欲を失い、家計を逼迫させる車を手放す人も増えているとか。たまたまのタイミングだとは言え、そんな世間の流れに逆行するように(中古)車を購入して、ほとんど運転に馴れるためだけにガソリンを燃やしている私は、我がことながら奇妙な感慨にとらわれる昨今なのでございます。

ともあれ、来年が多くの人にとって、すこしでもマシな年になることを祈りながら、静かに新年を迎えたいと思っております。





 Keenさま

笠井潔を理解するのに最適の一冊?

>しばらくご無沙汰している間に、わが街の図書館で見つけた笠井潔『黄昏の館』(徳間書店/絶版)を読みましたよ!非常に興味深く、かつ面白かったです。(^^)


>『黄昏の館』も宗像冬樹が初登場した作品ということで、実にいろいろな要素を……というか、思い切って言ってしまえば、笠井潔の全てを内包した作品ではないかと、私は思ってしまいました。その印象をひとことで言うと、

> 「本当は僕が王様なんだもん!今の世界は間違っている、僕が統治していたら、世界はもっとちゃんとしてたはずだったんだー!!」

> ……たいへんわかり易いです。ほとんど駄々っ子の理屈ですが、私にはそうとしか理解できませんでした。私は笠井作品を全て読んでいるわけではありませんが、もしかして、笠井さんが本当に書きたいことって、これだけなんじゃないかとすら思えて。
> そして作者の分身であるこの宗像冬樹を本作限りの使い捨てにするには惜しく、メインキャラとして『天啓の宴』で少し設定を変えて復活させ、さらにはパラレル・ワールドの別キャラくらいの感覚で、状況に応じて設定を変えながら他の作品にもばんばん出演し続けている、といったところでしょうか。
> 今後は矢吹駆との邂逅もありそうですが……やっぱり宗像冬樹が王様(神様?)というオチに行き着くのか、そんな素人考えをあっさり覆して、あっと驚く展開をみせるのか、楽しみです♪


う〜む、そうでございますか。私は『黄昏の館』を単行本刊行時に読んでおり、当時はまだ、評論は無論のこと笠井潔の作品としては「矢吹駆シリーズ」初期三部作や『ヴァンパイヤー戦争』くらいしか読んでおりませんでしたので、この作品を笠井潔の思想を反映した作品として読むことはなく、単純に「矢吹駆シリーズ」のような「本格ミステリ」か、あるいは本作が明確に意識した荒巻義雄の『白き日旅立てば不死』のような「ロマンティックな幻想小説」を期待して読みました。――なのに「あんなオチだった」ということで、大いに失望させられたという印象しか、『黄昏の館』には残っておりません。もちろん、いま読めばまた、自ずと印象も違ってくるのではございましょうが。


じつは私、11月半ばからこちら、『探偵小説論3 昭和の死』(東京創元社・2008)、『球体と亀裂』(情況出版・1995)、『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』(南雲堂・2008)と、続けざまに笠井潔の評論書を読んでおりました。

『探偵小説論3 昭和の死』 は、『探偵小説論』の第3巻として刊行されておりますが、実際には「昭和・純文学論」であり、文芸誌『新潮』に連載された「昭和の死」を、『探偵小説論』の1・2で展開した「大量死と探偵小説」理論を「裏面から裏づけるもの」という、いささか苦しい正当化によって、新潮社では出してくれない評論書を、東京創元社から出させた本だと申せましょう。

『球体と亀裂』 は、表題作の「大江健三郎論」170余頁を中心に編まれた「昭和・純文学論」であり、これまではあまり興味が無かったものですから、積読にしていたのでございますが、『探偵小説論3 昭和の死』を読んだのを機に、併せて読んだというわけでございます。

『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』は、笠井潔が「ジャンルX」方向に傾きだして以降の評論を集めたもので、奈須きのこの『空の境界』の長編解説文や、件の「『容疑者Xの献身』論争」関係の文章も収められており、基本的には雑誌は読まない私も、収録論文の半分ほどは読んでおりました。


以上の3冊を読んで今さらながらに思ったのは、笠井潔という評論家は、頭も良いし大変よく勉強もしており、主張自体はそれなりに見るべきところのあるものなのですが、いかんせん「批評家としての公正さ」が決定的に欠落しており、誉めたいものはレトリックのかぎりをつくして褒めちぎり(『空の境界』の解説など)、その一方、敵対した相手にたいしては、自分自身まったく出来てもいない「過剰に倫理的な正論」を押しつけて断罪する(『容疑者Xの献身』を高く評価した人たちへの批判)といった「臆面の無さ」が、評論家としての倫理(の欠落)以前の、人として不誠実さを感じさせて、ほとんど致命的だということでございました。


例えば、笠井潔は、その大江健三郎論「球体と亀裂」で、大江が小説作品においては人間存在の困難性に誠実に直面するその一方で、批評的言説においては典型的な戦後民主主義左翼的ご託宣を垂れ流しているという「矛盾」を批判し、その「矛盾」を直視しない批評家たちをも批判して、次のように書いております。



『『ヒロシマ・ノート』には、吉本隆明が「ふざけきった居直り」であると糾弾したところの、「われわれがこの世界の終焉の光景への正当な想像力をもつ時、金井論説委員のいわゆる《被爆者の同志》たることは、すでに任意の選択ではない。われわれには《被爆者の同志》であるよりほかに、人間としての生き様がない」という決意表明がある。志願した戦後民主主義擁護派の大江による、この種の政治的発言は、「またか」という種類のあきあきした反応しか、いまや喚起しえないだろう。発言の中身よりも、レトリカルに絶対化された断言調のほうが、むしろ問題である。倫理を振りかざして自他を脅迫する正義派の蛮声は、車内を傍若無人に駆けまわる小学生の騒音と同等のものだ、というような常識人にふさわしい判断が、さまざまな大江論の背後に、語られないまま沈澱している。テクストと作品は違う、作品と作者は違う、小説とエッセイは違う、等々という具合に。
 この種の文学的良識は、民主主義的良識が一般的にそうであるように、露骨な専制に対する抗議という状況的な意味が与えられたときにのみ妥当である。テクストの自立性にまつわる諸々の主張は、直接的には社会主義的リアリズムの圧政に抗議する民主主義的言説として、かつては状況的な意味をもった。敷衍すれば、作品の特権的な起点として作者があるというふうな、近代の制度的思考に抗う場面においてのみ、それは有意義である。このような文脈を背景としない場合、それは相対主義や懐疑主義に心地よく浸りこむ、精神の弛緩の産物でしかありえないだろう。
 作品を作者に、作者を社会に、社会を歴史に、そして歴史を世界精神に還元してはならない。たしかにそうだろう。だが、それだけなら、たんなる民主主義的良識であるにすぎない。問題は、作品と作者のあいだに構造的な照応を発見するにとどまらず、さらに、照応関係には還元されない剰余を読みとることではないだろうか。差異を読むためには、まず同一性を発見しなければならない。大江による政治的発言と小説作品とを、前者に眉を顰めつつも後者から切断する論者は、専制が存在しないところで民主主義的言説を擁護するという、良識的身振りを演じているにすぎない。
『ヒロシマ・ノート』と『個人的な体験』には、明らかに構造的な照応関係が見い出される。さらに『個人的な体験』と『万延元年のフットボール』にも。それらの構造的な照応関係を克明に検証した上でのみ、構造の剰余を読むという体験もまた可能ならしめられる。であれば、『ヒロシマ・ノート』に見い出される思想的倒錯を大人めいた顰め面でやりすごしつつ、作者とも作者の政治的発言とも独立した文学作品として『個人的な体験』を論じるような方法は選択されるべきではない。』(P12〜14)



ここで語られていることは、なるほど「正論」でございます。しかしながら、これは「自分のここでの方法論を唯一絶対化するための、その場かぎりの正論」に過ぎません。



『 いまやバブル世代(第三の波の作家たちが多く属する世代でもある)は、一廻り下の就職氷河期世代から怨嗟と敵意を洪水のように浴びせられている。新人類世代やバブル世代として類別される第三の波の作家たちが、依然として『容疑者Xの献身』をめぐる無自覚と無感覚を正当化し、すでに過去のものである時代感性に固執し続けるなら、年少世代とのずれは必然的に拡大し、敵対にまでいたらざるをえないだろう。結果として若い世代から見放された本格は、中高年の旦那芸に頽落していくに違いない。しかし第一の波も第二の波も第三の波も、多数の青少年読者に支持された結果として繁栄しえた事実を忘れてはならない。
 本書の読者には明らかだろうが、探偵小説を旦那芸におとしめ、それでよしとする俗論にわたしは組みし(※ママ)ない。脱格系を拒否あるいは排除し、『容疑者Xの献身』を無自覚にも礼讃した評論家や作家に、探偵小説の未来を託することはできない。探偵小説に「精神」など必要ない、面白いパズル小説があれば充分だという偏狭なマニア的読者が、探偵小説をジャンルとして深みから支えうるわけがない。理論的に、あるいは実作者の直観として探偵小説の精神を二一世紀に架橋しうる試みだけが、エドガー・アラン・ポオ以来の探偵小説を創造的に継承しうるだろう。』

             (『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』の「あとがき」より)



『ヒロシマ・ノート』での大江の言い方もさることながら、ここでの笠井潔の言い方こそ『この種の政治的発言は、「またか」という種類のあきあきした反応しか、いまや喚起しえないだろう。発言の中身よりも、レトリカルに絶対化された断言調のほうが、むしろ問題である。倫理を振りかざして自他を脅迫する正義派の蛮声は、車内を傍若無人に駆けまわる小学生の騒音と同等のものだ』といったものの典型ではないでしょうか。

「球体と亀裂」で笠井が主張しましたとおり、笠井潔の小説とこの種の政治的発言とを分けて評価したがる者、つまり笠井潔『による政治的発言と小説作品とを、前者に眉を顰めつつも後者から切断する論者は、専制が存在しないところで民主主義的言説を擁護するという、良識的身振りを演じているにすぎない。』ということになりましょう。
しかし、笠井潔の言うとおり「笠井潔の評論文に見い出される思想的倒錯あるいは思想的頽廃を、大人めいた顰め面でやりすごしつつ、作者とも作者の政治的発言とも独立した文学作品として、例えば『バイバイ、エンジェル』や『青銅の悲劇 瀕死の王』を論じるような方法は選択されるべきではない。」ということになりましょう。

その意味で、自分が非難した大江健三郎的な態度をそのまま再演して恥じない笠井も笠井ではございますが、そんな笠井潔の近作『青銅の悲劇 瀕死の王』を『2009 本格ミステリ・ベスト10』(探偵小説研究会=編著)で第5位にまで祭り上げた、「探偵小説研究会」の評論家の面々もまた「ポーズばかりの良識的民主主義者」として批評家失格を宣告されざるをえないのでございましょう。――まったく妥当に「鳶が鳶を産んだ」のでございます。



> 実は続いて『テロルの現象学』も読もうとしたのですが、やっぱり軽く挫折してしまいましたので、この年末年始は園主さまお薦めの『ディスコ探偵水曜日』に手をつけようかと再び図書館を狙っているところです。


『テロルの現象学』はペダンティックな思想論文でございますから、純文学や思想関係の知識がある程度ないことには、なかなか難しゅうございましょう。
その意味では、綾辻行人以降のミステリを論じた『探偵小説論』の第2巻「虚空の螺旋」などから入ると、笠井潔の評論も馴染みやすいのではないでしょうか。


一方『ディスコ探偵水曜日』は、文句なしの大傑作でございます。もちろん、どんな傑作にも好みの問題はつきまといますから、楽しめないという結果になる可能性もございますが、結果はどうあれ、ご感想をお聞かせいただければ幸いと存じます。


本年も本当にお世話になりました。来年もよろしくおつき合い下さいまし。



 K5さま

ご無沙汰しております。

こちらこそ、ご無沙汰しております。


> おとといから今日まで、東京でコミケットがありました。
> また星崎龍さんなのですが(こればかりじゃないですよ)、
> 新刊が3冊あったため、迷わず入手致しました。
> もちろん園主さまのも入手したので、
> また追ってなのですが、送ります。


お気づかい、誠にありがとうございます。
なによりのお年玉でございます。


> 今年はここまでに。
> ではよいお年を。

明年が、K5さまにとって素晴らしい年であることを祈っております。





それでは、みなさま、本年はここまでとさせていただきます。
よい新年をお迎え下さいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

ご無沙汰しております。

 投稿者:K5  投稿日:2008年12月30日(火)17時43分31秒
  K5です。どうもです。
おとといから今日まで、東京でコミケットがありました。
また星崎龍さんなのですが(こればかりじゃないですよ)、
新刊が3冊あったため、迷わず入手致しました。
もちろん園主さまのも入手したので、
また追ってなのですが、送ります。
今年はここまでに。
ではよいお年を。
 

笠井潔を理解するのに最適の一冊?

 投稿者:Keen(誕生日担当)  投稿日:2008年12月15日(月)12時50分24秒
  黒鳥忌に遅れること5日、ようやく書き込みに参りました。自分の誕生日と前後するため、毎年ばたばたするという事情もあるのですが……

園主さまが誕生日を覚えていられないのとまるで対をなすかのように、私は中井英夫の命日をついつい失念してしまいがちです。今年はついに当日書き込みすらできませんでした……
というのも、中井英夫の最晩年に立ち会われ、葬儀にも参列された園主さまと違い、かなり後になってから新聞でその死を知っただけの私には、それは未だに実感がわかない、どこか信じ難い(信じたくない)事実であるからなのです。
今でも井の頭線に乗って羽根木へ行きさえすれば、あの古い大きな家に薔薇が咲き、中井さんがひょっこり顔を出してくれる……というイメージを持ち続けていたい、という願望ですね。そして中井英夫の誕生日は、プレゼントを送ったりした楽しい思い出があるので、逆に忘れることがありません。
というわけで、今後も担当分担でまいりましょう(笑)。

しばらくご無沙汰している間に、わが街の図書館で見つけた笠井潔『黄昏の館』(徳間書店/絶版)を読みましたよ!非常に興味深く、かつ面白かったです。(^^)


>ですから、『天使は探偵 スキー探偵大鳥安寿』の中には、語り手の矩巻濫太郎は、大鳥安寿のことを「本物の天使」なんじゃないかと疑うシーンがありますし、こういう「天の使い=神の依りまし」としての名探偵という考え方を笠井潔の「名探偵論」の中に窺うからこそ、園主さまはかつて「「矢吹 駆シリーズ」のラスト」というサブタイトルを持つ論文、

>・
「バイバイ、矢吹 駆」


>を書いたんですね。

> そんなわけで、『天使は探偵 スキー探偵大鳥安寿』は、単純に推理小説として読むと、まずまずの作品でしかありませんが、「笠井潔の遍歴」を読む上では、とても興味深い「資料」と評し得る作品なのでした。(<ホランドくん)


『黄昏の館』も宗像冬樹が初登場した作品ということで、実にいろいろな要素を……というか、思い切って言ってしまえば、笠井潔の全てを内包した作品ではないかと、私は思ってしまいました。その印象をひとことで言うと、

「本当は僕が王様なんだもん!今の世界は間違っている、僕が統治していたら、世界はもっとちゃんとしてたはずだったんだー!!」

……たいへんわかり易いです。ほとんど駄々っ子の理屈ですが、私にはそうとしか理解できませんでした。私は笠井作品を全て読んでいるわけではありませんが、もしかして、笠井さんが本当に書きたいことって、これだけなんじゃないかとすら思えて。
そして作者の分身であるこの宗像冬樹を本作限りの使い捨てにするには惜しく、メインキャラとして『天啓の宴』で少し設定を変えて復活させ、さらにはパラレル・ワールドの別キャラくらいの感覚で、状況に応じて設定を変えながら他の作品にもばんばん出演し続けている、といったところでしょうか。
今後は矢吹駆との邂逅もありそうですが……やっぱり宗像冬樹が王様(神様?)というオチに行き着くのか、そんな素人考えをあっさり覆して、あっと驚く展開をみせるのか、楽しみです♪

実は続いて『テロルの現象学』も読もうとしたのですが、やっぱり軽く挫折してしまいましたので、この年末年始は園主さまお薦めの『ディスコ探偵水曜日』に手をつけようかと再び図書館を狙っているところです。
本多正一・編『幻影城の時代 完全版』(講談社)がどうやら定価6千円オーバーのようなので、同人誌版を持っている私としては頭の痛いところで……

ではまた。
 

禿鷹の眷属

 投稿者:園主  投稿日:2008年12月10日(水)13時12分56秒
  みなさま、本日は、中井英夫の15回目の命日でございます。――と言っても、特に目新しく書くこともないのでございますが、少々自分語りをお許しいただきましょう。

私は、他人の「誕生日」というものを徹底して記憶しない人間で、いまだに中井英夫の誕生日も憶えきれず、毎年友人に指摘されていても尚、まだなんとなくしか憶えていないという有り様でございます。
誕生日で記憶しているのは、自分の誕生日と弟の誕生日。これは子供の頃に「お祝いをしてもらえる日」ということで記憶したのでございましょう。ですから、大人になってから必要にかられて記憶しようとした両親の誕生日はいまだに時々あやふやになってしまいますし、そんな調子ですから、友人の誕生日などはいっさい記憶できず、方々に義理を欠いてばかりおります。

それにしてもなぜ、私は誕生日というものを記憶できないのでしょうか? むろんそれは、私の記憶力が並外れて悪いからに相違ないのでございますが、それにしても憶えようという気力すら無いというのは、思うに「誕生日」というものは「始まり」であり「これからいくらでも時間がある」という余裕の感覚がつきまとって、およそ切迫感というものが無いからでございましょう。つまり私は、人間にとって大切なものと言われる「出会いと別れ」というものに関して言うと、圧倒的に「別れ」を重視するタイプで、その理由は「何かしてあげられるのは、もうその時しかない」という切迫感をそこに感じるからなのではないかと存じます。

また、私が「誕生日」を憶えないのは、「誕生日」が「一般的な祝い事」と結びついているからでございましょう。つまり「みんなが目出度がり、祝福しようとする日」なのだから「私が気にかける必要はない」と考えてしまうのでございますね。

私は、私にしか気づきえない部分、私にしかやってあげられないことに関しては「私がやらなければ」という使命感にも似た切迫感を感じる。またですからこそ逆に「他の人でもできることなら、べつに自分がやらなくてもよい。むしろ人の尻馬に乗るような、皆と連れもってやるようなことには興味がない」というへそ曲がりなところもある。
そんなわけで「誕生日よりも命日」「誕生よりも死」「幸運よりも不運」「喜びよりも悲しみ」「出会いよりも別れ」のなかに、自分の使命を感じるのでございましょう。

これではたしかに、へそ曲がりの天邪鬼に違いございません。ですが、こうした個性は、自身を「禿鷹」(『見知らぬ旗』所収)になぞらえた中井英夫のファンのものらしいと、そのようには言えるのではないでしょうか?





 さま

僕らは「至福の種」

> 暖かいメール有難う御座います。風邪もすっかり快癒しました。
> しかし風邪にやられ寝込むこと四日…生命力の減退感のみならず、
> 本や音楽すら触手が伸びないのは、熱病が精神に齎す重篤な作用を感じました。
> もう僧籍すら与えられても十分なほどの精神修養生活。
> もう色欲すら清々しくゼロ(当り前かっ!)


風邪が快癒なさったとのこと、本当に良うございました。
同時に、色欲の方も無事回復なさったことと存じます(笑)。


> 僕は今も「至上の幸福」も「俗化された快楽」も放棄できずにいるし、
> 別段、放棄するべきものでもなかろう。
> ただ、そこに「公けに向かう怒り」が付加されたら、
> 僕の生き方はより豊かになるだろうに。
> 権力にとって都合のよい飼い慣らされた観客にならないためにも、
> 僕は英気を養って、せめても言論出来る人間にならねば。


そうでございますね。より良きを目指すには、まずは心身の充実がなければなりません。
そうでなければ、世界との戦いの前に、自分との戦いに敗れてしまいますから。


>>『先生と僕』は、軽く読んでいただいたら結構でございますよ。

> 良い意味で『軽く』楽しく読ませていただきました。
> 兎にも角にも、巻末に付記されていた高村薫の作品に興味津津です。


『巻末に付記されていた高村薫の作品』というのが、よくわかりません。
何を指して、おっしゃっておられるのか? 誤記なのでございましょうか?


>> それよりも、新たなお薦め作品『ディスコ探偵水曜日』でございます。

> 勿論、アリョーシャのお勧めは買いますよ。
> 義務でも義理でもなんでもなく、もうそうなっているんです/笑


うれしゅうございます(笑)。

ちなみに、私と同様、ミステリ評論家の千街晶之も、『ディスコ探偵水曜日』を『黒死館殺人事件』に類比的な大傑作であると評価しており、この評価はまったく正しいと思うのでございますが、『ディスコ探偵水曜日』は決して『黒死館殺人事件』のように読みにくい作品ではございませんので、安心してお楽しみいただければと存じます(笑)。


> 僕の部屋は課題図書で埋め尽くされて、積読状態の書籍が幾段も並ぶという現状を呈しています/苦笑

> 因みに大西巨人の『文選−新生』は「青血は化して原上の草となるか」を痛読いたしております。
> 冒頭から「言い得て妙なり!」と首肯しつつ、身を翻して見ると恐ろしいものです。


『大西巨人文選』(全四巻・みすず書房)は、非常に中身の濃い本で、舐めるようにして楽しめる本でございますよね。あの価格も、中身を考慮すればぜんぜん高くないと、私は斯様に断言いたしたいと存じます。


ところで、ここでの淳さまの「言い得て妙」の使い方は、少々ズレているように、私には感じられます。
「言い得て妙」というのは「そのように説明することが可能で、しかも的確巧妙である」という意味でございましょう。つまり、これは「言い換えの巧妙さ」に対する賞賛の言葉なのでございますが、大西巨人の場合「言い換えの巧妙さ」と言うよりも「微分的分析の巧妙さ」という感じが強いので、大西巨人の言葉をして「言い得て妙なり!」と評されると、私としては「ちょっと違うなあ」という感じがするのでございますが、いかがなものでございましょうか?

さて、ここで私が言いたいのは、個別事例の問題として「淳さまの言葉遣いが間違っている」ということではございません。そうではなく「言葉に関して厳密たらんとすることが、思考を深める上での要諦だ」という一般論であり、その実例として、ここであえて細かな指摘をさせていただいたのでございます。

もちろん、私にそれが出来ているということではなく、事実しばしばつまらない思い込みや勘違いを犯すのでございますが、独りよがりな言葉遣いに流れず、微妙なニュアンスや言い回しの「正確さ」こだわるというのは、単なる「正確な言葉の使用」に止まらず、「思考の深化」という側面において、非常に大切だということを言いたかったのでございます。



 ホランド

黒い天使と白い天使(前)

> それに、園主さまは、実物を手にする前から「次の本格ミステリ大賞評論部門は無論、日本推理作家協会賞の評論部門も、これで決まりだな」と断じておられます。
> その根拠は「もちろんこれだけの内容なのだからだけれど、なんと言っても執筆者に、強力な守護天使が含まれているんだからな」なんて言っていました。――もしも、ダブル受賞できなかったら、それは園主さまのせいだと断じてもいいでしょう。「黒い守護天使」のせいだと(笑)。


もしもダブル受賞できなかったら、責任をとってやるよ。――どうやって責任を取るのかって?

そりゃあ、代わりに「田中幸一賞」をあげるのさ。それでも足りなければ「アレクセイ賞」も進呈して「取れぬなら、ダブル受賞にしてみせよう、ホトトギス」字余り、というわけだ(笑)。


黒い天使と白い天使(後)

> 田母神航空幕僚長論文問題

>  それに、トップ自ら「内規違反」をしたにもかかわらず、懲戒免職にもならず、ぶじ7000万円もの退職金をもらっておきながらも、まだ「私はこの国が素晴らしいと書いて、退職させられた」みたいな、自衛隊に後脚で砂をかけるような文章だかインタビューだかを、またぞろ雑誌に発表しているみたいですね。
>  潔い人間ならば、「私はこの国が素晴らしいと書いて、退職させられた」ではなくて、ここは正確に「私は航空自衛隊のトップでありながら、自ら内規違反の論文を公表して、退職させられた」と書くべきなんじゃないでしょうか。

> まあ、「自己責任」を取らない人だからこそ、日本の侵略戦争の責任についても無かったことにするような論文を書きたがるんでしょうけどね。


正直な人間なら「退職金を返納したら、自分の間違いを認めたことになるから返さないのだ」などとご立派な「建て前の言い訳」などせずに「ひとまず7000万は欲しいから、もらったものは返さないのだ」と言うだろうな。

「年金」もたんまり貰えるだろうし、「天下り先」もあって退職後の憂いなんか、これっぽっちもない人なんだが、「金はいくらあっても困らない」「退職金は別腹」だということなんだろうな(笑)。





それでは、みなさま、本日はこのあたりで失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

誰が死んだのか? ―― 沼正三と天野哲夫

 投稿者:園主  投稿日:2008年12月 4日(木)01時30分43秒
  みなさま、天野哲夫が亡くなりました。



『   「家畜人ヤプー」の作者と告白、天野哲夫さん死去

 戦後を代表する奇書「家畜人ヤプー」の作者とされる天野哲夫(あまの・てつお)氏が11月30日死去した。
 82歳。告別式は近親者で済ませた。
 雑誌連載を経て1970年、沼正三(ぬましょうぞう)の筆名で刊行された「ヤプー」は、2000年後の白人帝国で、日本人が家畜となって白人に奉仕するという小説。作家の三島由紀夫が「マゾヒズムの快楽の極致だね」と絶賛、ベストセラーになった。
 作者の正体をめぐり、元判事説など諸説あったが、後に天野氏が「ヤプー」を書いたのは自分と告白していた。

                   (2008年12月3日23時40分 読売新聞)』



天野哲夫と言えば、当初は『家畜人ヤプー』の作者である沼正三の「代理人」を名乗って、長らく沼の代わりにマスコミに露出し、ハッキリと「私は、沼本人ではない」と言い続けてきたにもかかわらず、数年前に「じつは自分が沼正三であり、『家畜人ヤプー』を書いたのも私だ」と「沼正三宣言」をし、近年は「沼正三」を名乗っていた人でございます。

しかし、天野が(オリジナルの)沼正三と同一人物かどうかについては、以前から異論も多く、私の知り合いの馬仙人さんも、熱心な『ヤプー』ファンとして「天野哲夫・二代目沼正三説」を唱えて、天野の主張を批判なさっております。

私はそれまで、沼と天野の関係についてはあまり興味がなかったのでございますが、馬仙人さんの論説を読んで、やはりどのような事情があれ「公然たる嘘」は許されないと感じ、馬仙人さんの説に賛同するようになりました。


私が確認した馬仙人説の補強材料のひとつは、私の(2008年1月15日付)日記「篦棒な人々」に、



『康芳夫は、『『アラビア大魔法団』やカシアス・クレイ(モハメッド・アリ)の世界ヘビー級公式戦を日本で実現するなど、東大卒の異色のプロモーターとして辣腕を揮』い、『七〇年代以降は『ネッシー捕獲探検隊』(一九七三)、謎の類人猿『オリバー君』来日フィーバー(一九七六)、『ノアの方舟探索プロジェクト』(一九八三〜)の仕掛人としてマスコミを騒がせた。また戦後最大の奇書『家畜人ヤプー』(沼正三)も全権をつかさどる出版プロデューサーでもある。自称「虚業家」。』で、かの「モハメッド・アリ対アントニオ猪木」戦にも背後で関わっており、それに通ずるものとして「人食いトラ対空手」(1977)や「アントニオ猪木対アミン大統領」(1979)などといった途中頓挫した企画の立案者でもございました。出版の方では、澁澤龍彦編集の雑誌として知られる『血と薔薇』(天声出版)や、当時アンタッチャブルだった人物を狙い撃ちにした『偶像破壊』シリーズ(『松下幸之助を裁く』『宮本顕治を裁く』『池田大作を裁く』『児玉誉志夫の虚像と実像』など。「昭和天皇」を標的とした企画は実現できなかった)などの仕掛人。
――つまり、本人もインタビューのなかで何度となく口にする「虚実皮膜」に生きる人で、「常識」を撹乱するトリックスター的な仕掛人だと申せましょう。

こうした経歴を一瞥しただけでも、この人が表裏の世間に通じた、極めて顔の広い実力者であることがうかがえましょうが、インタビューを読んでいて感じるのは、『とにかく退屈』とか『現世はすべて神の戯れ』といった言葉に明らかな、ニヒリズムに近い、一種の「諦観」でございましょう。
とても頭の良い人でございますから、「世間の道理」というものは十分に弁えていて、それはそれとして尊重いたしますが、それを信じているわけではない。だからこそ、「世間の常識」の撹乱を、ゆいいつ許された「真剣な遊び」とするのでございましょうが、この人の場合、それは「変革」を目指す真剣なものではなく、いくら撹乱しても「本質的に物事は変わらない」という「諦観」を前提とした、どこまでも虚しい「暇つぶし」なのでございます。』



とご紹介いたしました、ニヒリストの色物興行師である康芳夫が、『家畜人ヤプー』の『全権をつかさどる出版プロデューサー』として背後で噛んでいる、という事実がございます。
この人なら「オリバーくんが、猿か人間かという事実は問題ではない。人間かも知れないという夢と戯れえることにこそ価値がある」と考えたでしょうし、それと同様に「誰が本物の沼正三かといったことは本質的な問題ではない」と考えそうでございますからね。

ともあれ、私といたしましては、事実がこのまま闇に葬られるというのは、「戦争責任を明確にしないまま死んでしまった昭和天皇」と同様の「後味の悪さ」を感じますので、できればこれを機に「真相の解明」の進むことを期待したいと思いますし、その意味で一人でも多くの人にこの問題に興味を持っていただきたいと、議論の原点とも言うべき、馬仙人さんの論説をご紹介させていただく次第でございます。


・ 「明快! 沼正三と天野哲夫氏の関係   天野哲夫氏は、二代目・沼正三である」
  (http://homepage2.nifty.com/equus/umasen_numamano02.htm

・ 「明快! 沼正三と天野哲夫氏の関係   天野哲夫氏は、二代目・沼正三である」(詳細版)
  (http://homepage2.nifty.com/equus/umasen_numamano02b.htm

・ 「代理人・天野哲夫氏と本尊・沼正三の関係について」
  (http://homepage2.nifty.com/equus/umasen_numamano.htm
 

黒い天使と白い天使(後)

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年12月 1日(月)14時18分7秒
 

 さま

眩惑

> 僕は純粋な「ミステリ読み/ミステリ好き」ではないかもしれません。
> ミステリが創り上げる、構造的なトリックより、
> 寧ろミステリの形式を援用した先の「何か」に感興を覚えるタチなのです。
> でも『カラマーゾフ』や『神聖喜劇』などにもミステリ的感覚ってありますよね?
> 読者が、その先の「何か」によって抉り出される感覚に至るには、
> それがミステリの手法であらねばならなかった蓋然性があると思うのです。

> だから、僕は凝ったトリックへの興味より、「トリックの先にあるもの」に対して相対的
> に関心の比重がかかっていると実感していますので、「トリックの先」にある「何か」に
> 触れることが出来れば、「読めた」「楽しめた」と言い切れるのでしょう。


 そうですね。一般文学のなかにもミステリ的な「謎-解明」という形式を備えた作品は多くありますし、その点では、おっしゃるとおり『カラマーゾフの兄弟』や『神聖喜劇』なども「ミステリ的な形式」を持つ小説だと言えるでしょうね。

 でも、ミステリの場合は、謎が解かれてお終い(完結)という「謎-解明という自閉系」を構成している場合が多いのに対し、ボクや園主さまが好きな『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『匣の中の失楽』といった作品は、提示された謎が解明されても、その先に新たな謎が立ち上がるという「解放系」または(ウロボロス的な)「無限循環系」を構成しており、本質的な謎は常に「その先」に残り続けるという構造になっている場合が多いんです。つまり、謎の究極的な解明は達成され得ず、その探究過程こそが問われるという点で、前記のような「アンチ・ミステリー」系の作品というのは、「一般文学」にちかいところに、その本質を持つ作品だとも言えるんですね。

 つまり、淳さまが感じた『カラマーゾフの兄弟』や『神聖喜劇』などにも見られる「ミステリ的感覚」というのは、文学としてはわりあい普遍的なもので、むしろ淳さまも気に入られた『ドグラ・マグラ』や『虚無への供物』の魅力というのは、そういう「非ミステリな過剰性」にこそあったのだと、言い換えることもできるんだと思いますよ。


> 正直、僕は『虚無』を楽しみましたが、読み切れたとは言えません。

> 読者に提供される巧妙な複線も、ペンダントリーに幻惑され、全く気づかず踏み倒し、
> ひたすら骨組みとしてのプロットを追いまくる邪道な読み方をし、
> もはや、コレは読み手、淳がトヤカク言う力量を遥かに超えてる作品だから、
> 黙するより他あるまいと逃げたくもなりますが、駄文を少々。

> 序章でも、黄変米や洞爺丸の転覆を「新形式の殺人」と断じていますが、
> 中井英夫の『虚無』の執筆へと向かわせた、壮絶な怒りの発露を感じ、
> 終章に至り、その憤怒の念を蒼司の言葉を援用した壮絶な自己剔抉。


 そのあたりですよね。
 眩惑的な事件の向こう側に隠されていた「人間的な事件」。
 そのコントラストが、『虚無への供物』という作品の、一つの魅力であることは、論を待たないと思います。


> 僕は「アンチ・ミステリ」という定義も
>「本格ミステリ」という定義すらも知らない人間です。
> しかし、これまで読んできたミステリとは明らかに異なりますね。
> 兎に角、再読、再々読を要する作品ですので、今は軽々に語れませんが…


・ 「アンチ・ミステリー」とは何か―― 定義の問題
   (http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/anti_mystery.html

・ 「本格ミステリなど存在しない」
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1414

・ 「本格ミステリと哲学趣味」
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1633

・ 「本格ミステリに内在する二つの方向性」
  (http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1631

 定義を知っていることと理解しているということは、別物です。だから「定義を知らない」というのを逃げ口上にしてはいけないんです。「知らない」という前に、自分なりに考えて「こう思う」と言うようにしないと、なかなか進歩は望めないですよ。――ちょっと厳しい言い方ですけど、これは物を考える人間の基本ですからね。


> まあ、僕は結論を急ぐセッカチな性分も祟って、『虚無』の中盤は

>「誰だ!」
>「一体誰がやったんだ!!」
>「早く著者(牟礼田?藍ちゃん?久生?)よ語れ!!」

> といった心境で読むタチの人間であることが自覚されましたねえー。
> 例えば、京極堂シリーズでいえば、

>「遅い!早く出て来い京極堂!!!」
> 或いは
>「いよっ!!待ってました!!京極堂!!」

> といった心持なのです。つまり読者のモヤモヤに対して腑に落とされたい願望。
> なので、今回の『虚無』は終始、幻惑されつづけ、終章に至っては、

>「え?えぇぇぇ!!!(こんなリアクションで感想を述べていいものか!)」

> といった感じでして…
> すみません…寝ます…またカキコしますんで…お許しを…


 しごくオーソドックスな、ごく普通の読者の反応だとは思います。でも、淳さまもご自分で気づいておられるとおり、物を考えるには「先の見えない、落ち着かない状態(宙吊り状態)」に堪え続ける「(ヴェイユ的な)忍耐」が必要なんです。
 前述のとおり、「究極の答」などというものは与えられず、人はそれを求める遍歴の道程において死んでいかねばならない存在なんですから、遠い希望を見据えながら、目の前の一歩一歩を着実に踏み出す努力こそが必要なんですよ。「究極的な答」に一足飛びにしがみつきたいという安易さは、大西巨人のいう「俗情」であり、結局は「妄信」でしかあり得ないんです。それは読書だって一緒なんですね。



付記

> うぅぅぅぅん、これはアリョーシャに負けず劣らずの美青年だったと言ってほしかったなあー。

お目汚しを・・・

> すみません。。。
> メモ帳で推敲したつもりが、改行が変な風になってしまい…申し訳ありませんでした。

> 「うぁぁぁぁあん!!!!!」


 淳さまの「付記」に対する園主さまの応答が、

> 淳さまを「美青年」と呼ぶことは可能でございましょう。しかしながら、『アリョーシャに負けず劣らずの』という条件づけはいたしかねます。
> 私には、客観的たらんとする「批評家としての倫理」があるからでございます(きっぱり)。


というコレ。

 ――淳さまも、こういう「厚かましさ」を身につけないといけませんね(笑)。

なんて、こんな偉そうな説教を垂れていると、

僕らは「至福の種」

> 確かに(※ 坂木司『先生と僕』の)双葉は僕に近似する「臆病さ」「鈍さ」がありますね…
> 僕がイメージしたのは、僕=双葉、ホランドさん=隼人君という構図でした/苦笑
> 隼人君に引っ張られる形で、色々とミステリも含めて教示されていいく姿はまさに…です。


 なんて言われちゃうことになります。
 ――隼人君に擬されても、正直あんまりうれしくないなあー・・・(^-^:)。



 齋藤圭子さま

高村薫評興味深く拝見しました

 ご感想、ありがとうございました!

 よろしければまた、書き込みをして下さいね。
 読書ネタ大歓迎ですが、この掲示板はテーマの限定なしですので、なんでもお気軽に(^-^)。



 砂子さま

 おひさしぶりです!

 以前は頻繁に書き込みに来て下さっていたのに、ある時からパタッと書き込みが無くなって、それっきりという感じだったので、とても寂しく思っておりました。再会できて、ボクもうれしいです。これからは、負担にならない程度に、時々書き込みをしてくださいね。――もう、園主さまに面も割れてることなんだし(笑)。


田中様へ

> こうしてお礼に伺うにも大変遅くなり全くお礼になっていないとも思いますが、ここ二月程頂いた本をお返ししたい旨の文言を考えていましてこのような時期になりました。とはいえ、その内容のレトリックを用い重ねた、自身のあまりに偏執的なトーンがいかがなものかと思いましたので、思い切って頂く事にしました。ありがたく頂戴致します。

> 会のお礼ですが本多様にサインを頂く際、お手を煩わせた事を改めて感謝の意を伝えさせて下さい。本のサインですが田中様にご配慮頂かなければ頂けませんでした。作家の方々には面が割れていないと申しましょうか、二度とお目にかかる事もないという勢いでお声をかけさせて頂いていたのですが、本多様には顔を知られているので全くタイミングがつかめず、まごついていた所お気遣い頂きありがとうございました。


 相変わらずそうで安心いたしました。遠慮のない園主さまは「砂子さんは変わってて面白い」と言ってましたよ。これは園主さまとしては、最上級の褒め言葉ですから安心して下さい(逆に園主さまの、人に対する低評価を示す言葉は「いい人なんでしょうけどね」といったものです/笑)。

 最近なにか面白いものを読まれましたか? 短歌関連の研究書を読まれているようですが、中井英夫に関する最近の短歌界での評価とか、ミステリ界では耳にしないような話とかがありましたら、ぜひ教えて下さいね。

 またのお出でをお待ちしております!(^-^)/



 園主さま

イワンの末裔 ――『ディスコ探偵水曜日』と舞城王太郎

> 『なにもかも捨てたつもりで、それでも残るものがある。それが僕の宝石だ』。
> ――なにもかもを投げ捨て、切り札をすべて切った後に残るもの、それがその作家(人)の本当の魅力であり、『ディスコ探偵水曜日』の魅力もまた、そのようなものなのではないでしょうか。本作の魅力は、決して「総集編」としてもあれこれの中になどは無いと、私は斯様に評価しております。


 つまりこれは、最後に残る最も大切なものとは、結局のところ「ハート」だ、ということではないのでしょうか。ご立派なことを言っても、薄汚れたハートじゃあ、本物の作品は書けない。そういうことなんじゃないかと思いました。


またもや遅ればせのレス

> 田母神航空幕僚長論文問題

> また、部下の論文投稿に関して「私は指示していない。彼らが個人の判断でしたことだ。私が指示すれば、何千という投稿があっただろう」というような主旨の言い訳をしていたようだが、これが「いざとなったら逃げる幹部」の典型的な言いぐさだ。「命令ではない、個人的な意見を披瀝しただけで、それを強制した覚えはないのだから」というわけだ。
> しかし、上司の「推奨」を黙殺するような人間は、一生その組織では出世することなどできないだろう。つまり茶坊主でなければ、思想色の濃い自衛隊で出世することなんてできるわけがない、ということ。一昔前の例でいえば「ゴルフもしないような者は、会社社会では出世できない」というのと同じだ。会社幹部は「休みの日にまで、ゴルフにつき合えと命令したりはしない。彼らは好きで一緒にやっているだけだ」と、田母神調で言い訳しただろうということだな。


 さしづめ、この田母神俊雄・元航空幕僚長なんかが『ご立派なことを言っても、薄汚れたハートじゃあ、本物の作品は書けない。』というパターンの典型なんじゃないでしょうか? 結局、この人が書いた論文って、「侠気に欠ける自己正当化」論文でしかないんですからね。


 それに、トップ自ら「内規違反」をしたにもかかわらず、懲戒免職にもならず、ぶじ7000万円もの退職金をもらっておきながらも、まだ「私はこの国が素晴らしいと書いて、退職させられた」みたいな、自衛隊に後脚で砂をかけるような文章だかインタビューだかを、またぞろ雑誌に発表しているみたいですね。
 潔い人間ならば、「私はこの国が素晴らしいと書いて、退職させられた」ではなくて、ここは正確に「私は航空自衛隊のトップでありながら、自ら内規違反の論文を公表して、退職させられた」と書くべきなんじゃないでしょうか。

 まあ、「自己責任」を取らない人だからこそ、日本の侵略戦争の責任についても無かったことにするような論文を書きたがるんでしょうけどね。


『幻影城の時代 完全版』 2008年12月中旬刊行!!


 たのしみです!(≧▼≦)





 ではでは、みなさん、また今度(ハート)。
 

黒い天使と白い天使(前)

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年12月 1日(月)14時16分54秒
   みなさん、こんにちは! またまた書き込みが間遠になってしまってごめんなさい。園主さまが書き込みできない時こそ、助手であるボクが頑張らなきゃいけないんですが、園主さまが忙しくなるとボクも忙しくなるというニューサイエンス的な「共時」現象が起こるんですね。不思議だなあー。
 ――この説明にご不満な方もいらっしゃるでしょうが、野暮は言いっこなし。「そこはそれ」((c) 竹本健治『ウロボロスの偽書』)ってことでお願いします(笑)。

 園主さまお薦めの『ディスコ探偵水曜日』はボクも楽しく読んだんですが、その他にボクがこのところ読んだもので、特にお薦めしたいほどのものはありませんでした。どれも「そこそこに書けている」という感じの作品で、言い換えれば「暇な人以外は読まなくていい」という感じのが続いたんです。

 ですから、今いちばん気になっている本と言えば、園主さまからご紹介のあった、まもなく刊行される『幻影城の時代 完全版』(本多正一編・講談社)ということになるでしょう。

 このなかで、ボク的に注目されるのは、次の諸点です。

(1) 『匣の中の失楽』の原型となった「静かなる祝祭」「人形館殺人事件」の発掘
(2) リポート「蒼月宮の門前に佇んで」
(3) 『幻影城』作家書き下ろし競作


 まず(1)ですが、これは竹本健治ファン・『匣の中の失楽』ファンには、思いもよらないビッグなクリスマスプレゼントです(事前に竹本さんがバラしていたとは言え/笑)。

 (2)は、あの「幻の異端派ミステリ作家」堊城白人宅への訪問記? 『幻影城』誌には「幻の探偵作家を求めて」という鮎川哲也による訪問記の連載があったんですが、今回の「幻の幻影城作家を求めて」というのは、もちろんこの鮎川連載を踏まえたものでしょう。
 堊城白人は『幻影城』誌の公募新人賞で短篇デビューしながら、その後に短篇を1篇発表しただけで消息を絶ってしまった、文字どおりの「幻の作家」です。その堊城白人の所在を突き止めたというのなら、これは「マニアックなビッグニュース」だと言えるでしょう。

 (3)は、懐かしい顔合わせによる、じつに贅沢な書き下ろし企画です。ただ、ちょっと残念なのは、泡坂さんの書き下ろしが2本とも「亜愛一郎シリーズ」ではなさそうな点です。「亜」だとすれば、そのようにサブタイトルされているでしょうからね。


 もちろん、このほかにも書きおろしのエッセイや論文が満載で、もはや本書無くしては『幻影城』誌を語ることは不可能という感じですし、言い換えれば、本書は日本の推理小説史を論じる際には、必携の重要な資料となるだろうということです。こんな贅沢な研究書が刊行されることはめったにありませんし、ましてや『幻影城』誌の研究書としては空前絶後のものとなったと言えるでしょうね。


 また、ボクが面白いと思ったのは、本書が「『幻影城』2009年1月号 No.54」として刊行されるという点です。No.53号をもって廃刊となった『幻影城』誌の、「これは54号なのだ」という編者本多正一の自負を窺わせるに充分な「趣向」だと、好ましく感じたのでした。


 目次の感じからすると、同人誌版『幻影城の時代』をゆうに倍する分量の本となっているようですし、なにしろマイナーな雑誌の研究書なので、そんなに初刷部数は多くなく、そのぶん定価は5000円前後になるかもしれませんから、一般の推理小説ファンには手の届かない「高嶺の花」になる怖れもあるでしょう。でも、『幻影城』ファンや『幻影城』作家のファンには、こんな贅沢な内容の本、むしろ安い買物になんじゃないでしょうか。

 それに、園主さまは、実物を手にする前から「次の本格ミステリ大賞評論部門は無論、日本推理作家協会賞の評論部門も、これで決まりだな」と断じておられます。
 その根拠は「もちろんこれだけの内容なのだからだけれど、なんと言っても執筆者に、強力な守護天使が含まれているんだからな」なんて言っていました。――もしも、ダブル受賞できなかったら、それは園主さまのせいだと断じてもいいでしょう。「黒い守護天使」のせいだと(笑)。


                     ○


 さて「天使」と言えば、最近読んだ『どれも「そこそこに書けている」という感じの作品で、言い換えれば「暇な人以外は読まなくていい」という感じの』本の中に、長らく読み残していた笠井潔の『天使は探偵 スキー探偵大鳥安寿』(集英社)がありましたので、こちらをご紹介しておきたいと思います。

 まず、笠井潔の中編推理小説集『天使は探偵』は、2001年に刊行された連作中編集で、文庫にはなっていません。笠井さんには、〈名探偵〉矢吹駆のほかに〈私立探偵〉飛鳥井も存在しますが、大鳥安寿は前者の「名探偵」に分類されるタイプです。また、そのせい(矢吹の陰に隠されたせい)もあってか、大鳥安寿を主人公とした本はその後刊行されてはおらず、この1冊に止まっています。

 矢吹駆がいるのに、なぜ笠井潔は新しい名探偵を創ろうとしたのか? それはたぶん、本書収録の作品が書かれた当時、笠井潔が「スキーにハマっていたから」だろうと思われます。
 作者がスキーにハマったからといって、まさかあの「暗い天使」とも称すべき矢吹駆に、好んでスキーをやらせるわけにはいきません。万能の天才である矢吹駆なら、きっとスキーも上手なんでしょうが、要は「イメージが違う」ということです。
 ちなみに、作者がスキーにハマったために「スキー探偵」を書きたくなったのだろうという推測がなしうるのは、長編評論『スキー的思考』(光文社)が刊行されたのが1998年であり、本書収録の4中編が『小説すばる』誌に発表されたのも、その前後である1997年11月号、1998年3月号・5月号・11月号・1999年7月号だったという事実の裏づけがあるからです。


 本作は、全体として良くも悪くも手堅い本格ミステリで、笠井潔的な過剰さはあまり見られず、その意味で矢吹駆ファンとしては、少々物足りないと感じられるものでした。

 それでも注目すべき点を、いくつか書き上げておきますと、――まず本シリーズでは、名探偵を大鳥安寿とし、ワトソン役の語り手を推理小説家の矩巻濫太郎(のりまき らんたろう)としている点でしょう。つまり、語り手の推理小説家が、作者自身をモデルにした、かの「宗像冬樹」ではないという点です(もちろん、宗像冬樹は作者そのものではなく、「美化された笠井潔」でしかありません)。
 では、矩巻濫太郎とはどういう人物なのかというと、その「氏名と経歴」を見るかぎり「法月綸太郎+笠井潔÷2」という感じです。
 矩巻濫太郎は、その名前の故に「センベエ」(鳥山明の『ドクタースランプ』の登場人物・則巻千兵衛)とか「小たま(=小説家のたまご)」(原作:尼子騒兵衛『忍たま乱太郎』)などとおちょくられたりする、およそ宗像冬樹ほどの貫禄もなければカッコよくもない人物として造型されています。――きっと、法月さんは当時「なんだかなあ・・・」と思ったことでしょう(笑)。
 ともあれ、このあたりに、笠井潔の「社交性の本質」も垣間見えるのではないかと思いますし、こんなことをするから、園主さまが笠井潔批判の際によく引用する、法月綸太郎の幻の短篇「禁じられた遊び」(初出『小説トリッパー』1995年冬季号・単行本未収録)も書かれ、そこであれこれ暴露されたりもしたんでしょうね。――ああ、そうじゃなくて、あれを書かれたことが、当時はまだ尾をひいていて、笠井さんとしては「軽いお返し」のつもり矩巻濫太郎を造型したのかも知れませんね。親近感を込めて・・・(^-^;)。

 次に注目すべき点は、『スキー的思考』でも語られていた「スキー優越の哲学」が、本作でも語られている点です。
 簡単にご説明すると、笠井潔によれば、シモーヌ・ヴェイユの思想は「反・超越」としての「地虫の思想=重力に堪える思想」であり、それに対し「登山(クライミング)」は「反・重力(上昇・超越)の哲学」を内包した思想的試みである(※ このあたりは『バイバイ、エンジェル』や『サマー・アポカリプス』の頃の笠井潔の思想と重なる)。しかし「スキー」は、その両極端の思想のどちらでもなく、「重力に従いつつも、それを人間の力でコントロールする」という、極めて高度な思想を内包した試みである――というものです。
 で、もともと笠井さんは「登山」にとり憑かれた時期があって、その頃には「登山の哲学」を肯定的なものとして構築していたのですが、「スキー」にハマった頃には「登山の哲学」を引き立て役にまで格下げしてしまいます。その証拠に、この連作集に登場する悪役は「登山家」なんですね。――まあ、このあたりの「今の自分が最も正しい」とする「臆面の無さ=無反省ぶり」が、園主さまの笠井潔批判のポイントなんだと言えるでしょう。

 さて、最後のポイントとしては、本作では『はたして探偵は、神の立場に立つことができるのか。』(P69)という「名探偵の存在論」が、問題提起されている点です。
 ――結局、この本のなかでは、これといった回答は与えられていませんが、この問題提起は、後に「名探偵は、あらかじめ正解知っている」という「名探偵=機会仕掛けの神」論へと収斂されていき、「名探偵の不可能性」への「自覚」論議(能天気な本格原理主義への批判)へと展開していくことになります。
 園主さまが、笠井潔の最新長編で「矢吹駆シリーズ日本篇第1作」と肩書きされた『青銅の悲劇 瀕死の王』を評した中で、



『ナディアがここで語っているのは、「現実の事件の解明において実際に活用される論理とは、数学的論理ではなく、その大筋において人間世界の論理である。したがって、推理小説に描かれる名探偵による謎解きも、数学的に厳密な論理であるかのように見えても、その本質が人間世界の論理を出ることはない。つまり、その本格ミステリにおける謎解きの論理は、数学的に厳密なものではない」ということである。』

    (2008年8月8日付「「反・本格ミステリ」としての『青銅の悲劇 瀕死の王』」


と書いているのも、要は「推理小説の中で、名探偵が行う論理的な謎解きとは、あらかじめ正解を知っている〈作者という神〉によって、あらかじめ正解を耳打ちされている特権的な存在〈依りましとしての名探偵〉だからこそ可能なのであり、言い換えれば、名探偵の論理性とは、数学的に厳密なものなどではなく、一種のレトリックに過ぎないのだ」ということです。
 ですから、『天使は探偵 スキー探偵大鳥安寿』の中には、語り手の矩巻濫太郎は、大鳥安寿のことを「本物の天使」なんじゃないかと疑うシーンがありますし、こういう「天の使い=神の依りまし」としての名探偵という考え方を笠井潔の「名探偵論」の中に窺うからこそ、園主さまはかつて「「矢吹 駆シリーズ」のラスト」というサブタイトルを持つ論文、



・ 「バイバイ、矢吹 駆」
  (http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_yabuki.html

を書いたんですね。

 そんなわけで、『天使は探偵 スキー探偵大鳥安寿』は、単純に推理小説として読むと、まずまずの作品でしかありませんが、「笠井潔の遍歴」を読む上では、とても興味深い「資料」と評し得る作品なのでした。





( 以下は「黒い天使と白い天使(後)」に続く)
 

『幻影城の時代 完全版』 2008年12月中旬刊行!!

 投稿者:園主  投稿日:2008年12月 1日(月)01時02分49秒
 


 『幻影城の時代 完全版』

        (本多正一編 装幀=池田拓 PRODUCED BY 講談社BOX編集部)


  島崎博のことば


  【目次】


 復活版『幻影城』(『幻影城』2009年1月号 No.54)

  ●特集 『幻影城』作家書き下ろし競作

      栗本薫のことば
      泡坂妻夫「幻影城」ありがとう

      連城三紀彦 〈花葬〉シリーズ 夜の自画像   (画・宇野亜喜良)
      田中芳樹   男爵夫妻の話          (画・後藤啓介)
      栗本薫    誰でもない男 伊集院大介の秋思 (画・建石修志)
      泡坂妻夫   敷島の道            (画・楢喜八)
      泡坂妻夫   丸に三つ扇
      田中文雄   走屍の山            (画・池田拓)
      友成純一   夢を見た怪物          (画・渡辺東)
      竹本健治   匳(こばこ)の中の失楽     (画・山野辺進)

 [新資料発掘]

   (解説)いかにして「匣の中の失楽」はつくられたか 本多正一

      竹本健治   静かなる祝祭
      竹本健治   人形館殺人事件
      竹本健治   『匣の中の失楽』創作ノート

 [評論発掘]

      栗本薫    幻影の党派

 [幻の幻影城作家を求めて]

      蒼月宮の門前に佇んで 本多正一

 (作品復刻) 堊城白人 蒼月宮殺人事件(画・村上芳正)


  [幻影城作家論]

      横井司 『幻影城』作家論


 ●特集 『幻影城』編集長・島崎博

     「幻影城」編集長・島崎博さんに聞く  ― インタビュー
     “もう一人の島崎博”が欲しかった   ― インタビューPart2

      権田萬治   島崎博さんと「幻影城」
      末國善己   「獲得言語」編集者の果たした役割 馬海松と島崎博
      内藤三津子  薔薇十字社と島崎さん
      渡辺一考   麒麟の会
      戸川安宣   歌舞伎町の一夜
      大内茂男   島崎博さんの古本屋修行
      野地嘉文   「幻影城」にまつわる三つの疑問
      石井春生   島崎博さんにお会いして
      末國善己   「島崎博さんをお迎えする会」レポート

      幻影城サロン 平井憲太郎、折原一、国樹由香、柄刀一、安達裕章、
             青井夏海、津原泰水、戴偉傑、乙一、小浜徹也

      新保博久  「幻影城」に応募したあの人この人
      石井春生  「幻影城」の集め方

      島崎博    断想




 ◆ 目で見る探偵小説専門誌『幻影城』

      口絵    『幻影城』関連書目全書影

      花輪和一  「毒婦」

      幻影城ギャラリ―  池田拓、大西将美、金森達、佐竹美保、
                楢喜八、村上芳正、山野辺進、渡辺東

      池田拓    「幻影城」をデザインして
      佐竹美保   『幻影城』の思い出
      楢喜八    「幻影城の時代展」
      村上昂    なつかしい「幻影城」
      山野辺進   「幻影城」の片隅で
      渡辺東    鋭い目をした人
      大橋博之   挿絵画家と「幻影城」
      本多正一   「幻影城の時代展」レポート



 ◆ 「幻影城」回顧

      二上洋一     幻影城の思い出
      田中文雄     幻影、遥かなり
      麻田実     「影の会」始末
      竹谷正     「影の会」のこと

      (資料発掘)
      「影の会通信」復刻  栗本薫、連城三紀彦、田中芳樹、竹本健治

      竹本健治    「匣の中の失楽」のころ
      連城三紀彦    幻影城へ還る
      栗本薫     「幻影城」のころ
      田中芳樹    「幻影城の時代」刊行に寄せて
      友成純一    幻影城の頃
      伊藤秀雄    幻影城の思い出
      土屋隆夫    島崎さんのこと
      天城一     幻影城と私
      山沢晴雄    なつかしの幻影城
      山本秀樹    「幻影城」のことなど
      新保博久    落選者、かく語りき
      よしだまさし  「怪の会」のころ


 ◆ 幻影城へのオマージュ

  亜駆良人、芦辺拓、阿部崇、綾辻行人、有栖川有栖、歌野晶午、太田忠司、大橋博之、
  大森望、奥木幹男、小山正、kashiba@猟奇の鉄人、霞流一、唐沢俊一、紀田順一郎、
  北原尚彦、北村薫、日下三蔵、倉阪鬼一郎、越沼正、小西昌幸、小林文庫オーナー、
  彩古、末國善己、須川毅、杉谷健治、素天堂、千街晶之、竹内博、田中幸一、谷口年史、
  戸田和光、長瀬信行、中辻理夫、長山靖生、濤岡寿子、縄田一男、二階堂黎人、
  西上心太、野村宏平、法月綸太郎、萩元幸治、長谷川卓也、浜田雄介、早見裕司、
  はやみねかおる、東雅夫、廣澤吉泰、深堀骨、福井健太、藤原義也、細谷正充、
  真中耕平、皆川博子、宮澤@探偵小説頁、宮部みゆき、村上裕徳、森英俊、森下祐行、
  八木昇、山口雅也、山田正紀、山前譲



 ◆ 『幻影城』論考

      横井司     「幻影城」の文脈
      巽昌章     宿題を取りに行く
      垂野創一郎   島崎幻影城と乱歩幻影城
      福井健太    「幻影城」の遺産
      沢田安史    「幻影城」四年半史



 ◆ 『幻影城』書誌

  『幻影城』本誌 増刊 別冊 ノベルス 評論研究叢書 総目録・野地嘉文編



 ◆ 編者断想

      As Time Goes By 本多正一
 

僕らは「至福の種」

 投稿者:  投稿日:2008年11月30日(日)17時15分46秒
  ★アリョーシャ

暖かいメール有難う御座います。風邪もすっかり快癒しました。
しかし風邪にやられ寝込むこと四日…生命力の減退感のみならず、
本や音楽すら触手が伸びないのは、熱病が精神に齎す重篤な作用を感じました。
もう僧籍すら与えられても十分なほどの精神修養生活。
もう色欲すら清々しくゼロ(当り前かっ!)


ゆるりと風邪も快癒しノホホと引き籠る午後。
美味しいフランスパンと安物のワインと切れてるチーズが欲しい午後。


以下、仕事中及び、病床にてツラツラと考えてた雑文です。
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思うに、至上の音楽や文学から文化的生活を送ることが出来る自分の感受能力に幸福を覚える、という表現は幾許か自画自賛というより自我自尊的(生意気)な態度だろうか。「文の快楽」は、残念ながら「音の快楽」に比して相対的に貧弱ながらも、僕は「至福の種」の人間だろうと思う。
しかも、この種の「至上の幸福」は、往々にして廉価で手に入れることが出来るというのも、薄給人としては堪らない。 多くの人が、生活に汲々としている「だけ」にも拘らず、アリョーシャの全方位性には敵わないものの、僕も薄給ながら「至上の幸福」にありつく特権に浴している。


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アリョーシャの田母神氏論文問題批判をよむにつけ、
馬鹿の馬鹿たる所以を馬鹿に対して自覚を促す論証をする難儀さがあるとおもう(徒労感)
僕自身、社会的事象に「馬鹿だっ!」「阿呆だ!」と喝破する怒りが摩耗しているのは事実。
昔は、僕自身の「怒り」に立ち上がらない人々に苛々していた自分が、
一転、言論及び行動として「立ち上がらない人々」のうちの一人に堕している自分に苛々を覚える。
つまりそれは、「怒り」を保持する人々にとって、僕が馬鹿になったことを意味するのだろう。
僕はもともと快楽主義者だが、快楽の指向性が純粋に俗化されただけなんだ。

しかし、憤る人間が「立ち上がらない人々」に苛々を覚え「立ち上がれ」と迫ることは危険が伴う。
それは連合赤軍の嵌った陥穽に近似した感性を感じるからだ。
「怒り」「憤怒の念」は自己内の自然発生的な発露からでなくてはならない。
連帯は、それ自体が目的化しないことを常に注視し、
己心の内発的憤りの統合でなくてはならない。

僕は今も「至上の幸福」も「俗化された快楽」も放棄できずにいるし、
別段、放棄するべきものでもなかろう。
ただ、そこに「公けに向かう怒り」が付加されたら、
僕の生き方はより豊かになるだろうに。
権力にとって都合のよい飼い慣らされた観客にならないためにも、
僕は英気を養って、せめても言論出来る人間にならねば。


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>『先生と僕』は、軽く読んでいただいたら結構でございますよ。


良い意味で『軽く』楽しく読ませていただきました。
兎にも角にも、巻末に付記されていた高村薫の作品に興味津津です。

そそ
確かに双葉は僕に近似する「臆病さ」「鈍さ」がありますね…
僕がイメージしたのは、僕=双葉、ホランドさん=隼人君という構図でした/苦笑
隼人君に引っ張られる形で、色々とミステリも含めて教示されていいく姿はまさに…です。


>それよりも、新たなお薦め作品『ディスコ探偵水曜日』でございます。――もしも、この本の大冊ぶりに怖れをなすのであれば、まずは同じ作者の『世界は密室でできている』(講談社文庫)をお試し下さいまし。きっと気に入っていただけるはずでございます。


勿論、アリョーシャのお勧めは買いますよ。
義務でも義理でもなんでもなく、もうそうなっているんです/笑

今はたまたま手にしたドストエフスキーの『白痴』をチラリと読んだら、
すすすーっと進んでしまったため、この大著を放置出来なくなりました。
暫くは『白痴』に傾注するつもりです。

『悪霊』も読むつもりで、笠井のヤブキシリーズも再読しようと思ってますし、
フーコーの入門書も面白く、大西巨人の『文選−新生』はいつも傍らに。
カフカの『審判』も挑戦したく、大量の竹本さんの作品がベッド横に準備され、
労働の現場では、僕の聖典『重力と恩寵』、気晴らしに『12月生まれの少年』があり、
ポール・ギャリコもM・コーニイも…大西の『迷宮』まで(大西はまた自分殺しだ!!)
僕の部屋は課題図書で埋め尽くされて、積読状態の書籍が幾段も並ぶという現状を呈しています/苦笑

因みに大西巨人の『文選−新生』は「青血は化して原上の草となるか」を痛読いたしております。
冒頭から「言い得て妙なり!」と首肯しつつ、身を翻して見ると恐ろしいものです。
 

またもや遅ればせのレス

 投稿者:園主  投稿日:2008年11月25日(火)19時28分57秒
  みなさま、書き込みが間遠になり、かつレスまでが遅れてしまい、大変申し訳ございません。職場の人事移動に伴うゴタゴタや、自家用車の購入と教習所通いなどで何かと忙しく、文章を書くためのまとまった時間が取れないでおります。元のペースに戻るには今しばらくかかるものと存じますが、悪しからずご理解くださいますようお願い申し上げます。




 さま

眩惑

> まずはプレゼント有難う御座います!!

> 僕だって「かり」を作るのが苦手な人間ですから、僕から「胃袋に収まる甘味系の何かが送られても苦にはならないはず」と信じてますので、ゆるりとお待ちください。
> それは、僕自身の中で感じる「かり」の意識を解消するためであり、アリョーシャとの関係の均衡を保つためでもあり、純粋な感謝の気持ちでもあるのです。
> 甘味系のプレゼントとというのも、アリョーシャの二階の底が抜けない様にとの配慮からなんですからねー。


いろいろとお気づかい、ありがとうございました。
お菓子は、たいへん美味しくいただきましたし、おかげさまで二階の床の負担にはなりませんでした(笑)。


> そそ、戴いた両書のことですが、オマケは一日で楽しめる薬ですねえー。でも『先生と僕』に関しては、アリョーシャのことですから、僕にとって薬にもなる捻られた毒が盛られているやもしれぬと少々構えては、『虚無』の次の楽しみにとっておりますのん。
> 竹本さんの諸作もポール・ギャリコの作品も読みたいんですけどねー。


『先生と僕』は、軽く読んでいただいたら結構でございますよ。それよりも、新たなお薦め作品『ディスコ探偵水曜日』でございます。――もしも、この本の大冊ぶりに怖れをなすのであれば、まずは同じ作者の『世界は密室でできている』(講談社文庫)をお試し下さいまし。きっと気に入っていただけるはずでございます。


なお、ご参考までに報告させていただきますと、以前にお薦めして喜んでいただけました『虚夢』の作者薬丸岳のデビュー作で、最近文庫になりました『天使のナイフ』(講談社文庫)を(古本の初版単行本で)読みました。
この人は、デビュー作からして、作家として完成していたんだなと思わせる、たいへん良く出来た作品でございましたが、『虚夢』にくらべると、やや「作りすぎ」と感じられる部分がある反面、真相の衝撃度ではやや劣るということで、全体としては『虚夢』の達成には及ばない作品でございました。しかしながら、水準以上の作品であることに間違いございませんので、既刊3冊のうちの最後の1作『闇の底』(第2作)も、そのうち読むつもりでございます。


付記

>> 一方、「淳さんの実物」にお会いした私の印象でございますが、こちらは意外性などはまったくなく、「そのまま」だなという印象でございました。――みなさま、淳さまは掲示板上のイメージそのままの、真面目で繊細な方なので、どうぞご安心下さいまし(笑)。

> うぅぅぅぅん、これはアリョーシャに負けず劣らずの美青年だったと言ってほしかったなあー。


淳さまを「美青年」と呼ぶことは可能でございましょう。しかしながら、『アリョーシャに負けず劣らずの』という条件づけはいたしかねます。
私には、客観的たらんとする「批評家としての倫理」があるからでございます(きっぱり)。



 齋藤圭子さま

高村薫評興味深く拝見しました


はじめまして。拙論「見えない情炎 ――高村薫 論」についてのご感想をお聞かせ下さり、誠にありがとうございます。


> 高村薫さんへの評論文、興味深く拝見いたしました。
> 言い得て妙であり、私が抱いていた高村観も納得する想いでした。


ある程度は、高村薫ファンにも納得していただけるものになっていたことが確認できたようで、たいへん嬉しゅうございます。


しかしながら、不安を抱きつつも期待をもって読んだ『晴子情歌』に関して申しますと、これははっきりと期待外れでございました。単純に、退屈冗漫な古い純文学もどきの作品という印象でございました。ですから、その続編である『新リア王』については買ってもおりません。

まあ、私個人や、それまでの高村薫ファンがこれらの作品を評価しなくても、別の読者がこれら新生高村薫の作品を高く評価するのであれば、それは好みの問題かとも思うのでございますが、二三の権威筋を除いては、これらの作品はほとんど黙殺されているような感じがございます。そして、そのせいか、高村も『新リア王』以降、新作らしい新作小説を書いていないのではないでしょうか?

――はたして、高村薫はこのまま「過去の人」になってしまうのでございましょうか?



 砂子さま

田中様へ

> 上京報告記、拝見致しました。9月13日の会でお目にかかった者です。その際「三年前に田中様のHPの掲示板に書き込みさせて頂いた者なのですが」と、ひどく曖昧な自己紹介をし困惑させてしまっている所、当時も大した内容のない事ばかり書いていましたので印象も薄いというのに朧げな記憶を辿り話を合わせて頂き、今思い返しても冷や汗の出る思いです。こうして伺うにも大変恐縮しております。その時、持っていた本が本(『プラネタリウムにて』)だけに「まるで学生のようだ」と後に落ち込んでおりました。以前書き込みさせて頂いた三年の間に齢三十を過ぎた立派な中年だというのに…。


ここ「アレクセイの花園」では、おひさしぶりでございます。
また、過日の「島崎博さんをお迎えする会」では、なにかと強引な振舞いにおよび、たいへん失礼をいたしました(笑)。


> こうしてお礼に伺うにも大変遅くなり全くお礼になっていないとも思いますが、ここ二月程頂いた本をお返ししたい旨の文言を考えていましてこのような時期になりました。とはいえ、その内容のレトリックを用い重ねた、自身のあまりに偏執的なトーンがいかがなものかと思いましたので、思い切って頂く事にしました。ありがたく頂戴致します。


そんなことを煩悶しておられたのでございますか。人の好意は、素直に受け取るものでございますよ(笑)。


> 会のお礼ですが本多様にサインを頂く際、お手を煩わせた事を改めて感謝の意を伝えさせて下さい。本のサインですが田中様にご配慮頂かなければ頂けませんでした。作家の方々には面が割れていないと申しましょうか、二度とお目にかかる事もないという勢いでお声をかけさせて頂いていたのですが、本多様には顔を知られているので全くタイミングがつかめず、まごついていた所お気遣い頂きありがとうございました。


お易い御用でございますよ。


> 田中様に対してもホラーを特に好んでいる訳でもないというのに無理矢理話し続けるという己の安易さを反省していました。それは今もです。


いえいえ、とても勉強になりますよ。ブレイク前の平山夢彦をご紹介下さったのも、たしか砂子さまでございましたよね?


> 会では私を作ったマイスター四人の内、御二人(島崎氏・戸川氏)の姿を遠くから拝見し感激致しておりました(無論、極一部である当方の製品の出来を問うてはいけないのです)。…いえ言うまでもなく作られたと勝手に思い込んでいるだけの話ですよ、もちろん。どうでもいい話ではありますが歌人の穂村弘が精神科医との対談で自身が発想したかの如くクイーンの『ダブル・ダブル』の台詞を発言していたので極々個人的に憎むが為に黄金期本格を読みかえしていた当方とは人として品性が違う方々ばかりだと三次会で深く身に沁みました。そこでのエンドレス黄金期本格トークをお聞きしていると、ミステリの森の妖精が妖精の輪の踊りをしているかのようでド人間の当方が紛れ込み非常に心苦しかったです。


言い換えれば、浮世離れした「オタクの森」に、『ド人間』という異人種が紛れ込んだだけのことで、べつに優劣の話ではございません。『ド人間』、大いに結構ではございませんか(笑)。


> でも実はあまり会の事は書きづらいと言いましょうか、サインをあちこちで強奪していたりと悪行三昧もですが、二次会でも泡坂妻夫氏が側のテーブルでカードマジックをされるのに一目見ようと勢いよくなだれ込むおばさん(私の事です)とおじさん達の形相のあまりのおかしさに近くの受付の椅子に座ってらした方(おそらく本多様)をよけさせてしまったりだとか…。もはや恥ずかしいにも程がありまして思い出したくないというのもあります。


気にしすぎでございますよ。そんなことを気にしていたら、到底「オタクの森」の住人にはなれません。「図太くなくては生きてはいけない」場所なのでございます(笑)。


> とはいえその日一番の思い出は以前からずっと行ってみたかった神保町に行けた事だったりします。ここの所(何年も前から行きたかった)『書肆アクセスという本屋があった』という本を読んでいるから余計にそう思い出すのかも知れません。それにしても神保町に行く最初で最後の機会が街の夜の顔でよかったと思います。三次会に行く途中の話ですが、歩いても歩いても本屋ばかりの天の国のような通りを文字でしか見る事のない方々の後ろを付いて歩くだなんて、昼間でしたらおそらく身分に釣り合わない古書を買い求めたりと破産しているに違いありません。そうして又、読書家の方は自由自在に書店内を近道として横切ったりするのです。それで後から来る方々は何のためらいもなく、誰に断る事もなく本に吸い寄せられてゆくのです。これはゲーテで蝶(本当は蛾なのですが)が炎に入る様をスーフィズムの自我消融に喩えた詩(『西東詩集』)がありますけれど、その書物への迷いのなさは人としての迷いが一切ありません、神の域でした。夜の神保町の街中で神を見ました。でも神もしばらくすると現身を思い出して下さり居酒屋にいらしてました。面白かったです。


最初は誰でもビックリしたり感心したりするのでございますが、それが当たり前になってしまうというのも、ある意味では悲しいことでございます。


> こうして伺うのが遅くなったのは、二次会に行く前に田中様とお話させて頂いた際、東京の地理が全くわかっていなく閉口させてしまった事があったので気後れしましてなかなか伺えなかったのですが、今見た所レポートで会場を早稲田とお書きになっていますがこれはまた何故…。だのに閉口されるのは理不尽な気がしてきました。1994年の「中井英夫を偲ぶ会」が行われた場所で、出席されたものとばかり思っておりましたが。


いや、「中井英夫を偲ぶ会」にも出席しておりましたが、私は興味のないことは、すぐに忘れてしまう人間ですので、会場の位置はもちろん、2つの会合が同じ会場で行われたものであったことも、人に教えられるまでは(現場に行っても)まったく気づきませんでした(「偲ぶ会」で記憶に残っているのは、女優の鈴木弘子さんと一緒に、鶴見俊輔さんのサインをもらったことくらいでございます)。

『レポートで会場を早稲田と』書いていたのは、レポートを書く際、会場の住所を調べ損なった(ネット検索し損なった)だけでございます。つまり私は、友人にくっついて、何も考えずにあちこちへ移動しておりましたので、自分が東京のどこにいるのかまったく理解してもいなければ、そもそも地理になど興味がなかったのでございますよ。いやはや、困ったものでございます(笑)。


では、ここでご指摘の点につき、慎んで訂正をさせていただきましょう。

2008年9月24日付けの書き込み「2008年夏・上京報告記(第1回 前編)」の中で、私は「島崎博さんをお迎えする会」の会場を『早稲田の学士会館』と書きましたが、正しくは「千代田区神田錦町の学士会館」でございます。
お詫びして訂正いたしますと共に、誤記をご指摘くださった砂子さまにお礼を申し上げたいと存じます。


> それとですねSRの会でお聞きしたい事がありまして、それは話が長くなるのでやめておき別の話になりますが、会の会報でもミステリ専門誌でもいいのですがどこかで近藤史恵が短歌、特に中井英夫について触れた記事などお見かけした事はないでしょうか。デビューの鮎川哲也賞の題材が当方には全くとっかかりがないと言いましょうか興味が持ちようのないものでしたので全く読んだ事がないのですが、経歴を見ると学生時代に作歌をされていて前衛短歌運動(中井ファンには微妙な表現というか、こういった言い方はしないかと思いますが昭和二十〜三十年代ですね)の歌人に影響を受けているというインタビューを見まして気になっています。ご記憶にありませんでしょうか。


残念ながら、記憶にございません。
ただ、近藤史恵がそんなことを書いたとすれば、中井英夫が亡くなった際ではないかとも思いますので、中井英夫の追悼特集をした雑誌。例えば、『創元推理』とか『幻想文学』などを当ってみられてはいかがでしょうか?


> 追伸・『浜田到−歌と詩の生涯』大井学(角川書店)での中井の書簡を田中様はどう読まれましたか?

> ファンにとって中井の「短歌」誌編集長時代に推した昭和三十三年の春日井建と共に、昭和三十四年の浜田到は印象強く残っているかと存じます。書簡に“異端者”とあるのは従来通りのイメージで、今現在の観点からするとオーバープロデュースというのも歌人の研究では近年よく目にする話ですね。昭和三十年代の春日井と浜田は中井の思想を表す重要なエレメントと言えるものだと思いますが、中井の内にそれぞれ別個としてあるものとするならば浜田の方に私は強く惹かれます。


その本を読んでおりませんので、当該書簡については何とも申せませんが、ただ『書簡に“異端者”とあるのは従来通りのイメージで、今現在の観点からするとオーバープロデュースというのも歌人の研究では近年よく目にする話ですね。』という部分を拝見いたしますと、中井英夫編集長が新人歌人に「異端者」のイメージを強いたことの功罪が問われているのでございましょうね。

たしかに、中井英夫には「情の濃さ」と裏腹に存在する「思い込みの激しさ」がございますから、強力にプロデュースされた新人歌人としては、痛し痒し(ありがた迷惑)の部分もあったのでございましょう。ですから、中井英夫に傷つけられて疎遠になった歌人、あるいは賢明にも距離をおいてつき合うようにした歌人というのが、少なくないのようでございますね。



 ホランド

為政者たちの本音と作為的失言

航空幕僚長懸賞論文問題


その後は、予想以上の批判が、田母神俊雄・元航空幕僚長に吹き荒れたようだな。これは、まず第一には、世界的な経済危機で、与党自民党政権が厳しい状況にあったためだろう。

しかし、話の次元が変わってきたのは、同じ懸賞論文に田母神氏の部下たちが数十人も応募していた事実が明らかになってからだろう。

詳しいことなんか知らないし、今さら調べる気にもならないが、これは「親分お薦めの懸賞論文に、子分たちが迎合して応募した」ということ以外にはあり得ないだろうな。つまり、子分たちの論文も「日本の戦略戦争を正当化する主旨の論文」だったに違いない、ということだ。
したがって、問題は、航空自衛隊のトップが、部下の自衛官に対し、その「思想信条」の基盤となる「政治・軍事的な歴史解釈」について、一定の影響力を行使していたという事実だ。

言うまでもなく、日本の自衛隊は「文民統制(シビリアン・コントロール)」の下に置かれており、「個々の思想信条」によって行動・発言することを厳しく禁止している。要は、自衛官は「生きた道具的肉体」であって「考え判断し決定する」のは「文民」としての政治家である、ということになっているんだな。それが大前提だ。

ところが、お前も指摘しているとおり、上級自衛官(上級軍人)の「本音」は、そんな殊勝なものではありえない。しかし、決まりは決まりだから、自衛官としての「分」をわきまえて、「個人的な思想信条」「政治的な意見」の吐露・表明は「自制」しなければならないんだが、なにしろ自衛隊を甘やかす方向で進んできた、近年の日本国だから、調子に乗って歴史学者めいた「説教」を垂れたがる、田母神氏のような勘違い男もおのずと出てきてしまったというわけだ。

それにしても、まだ個人としての失敗なら、資質の問題として個人を処分すれば、それで済ませることも出来ただろうが、部下にまで「思想教育」をしていたという(間接的)事実が露見すれば、これは「文民=政治家」を蔑ろにすものとして、本気で憎まれることになっても仕方がない。与党政治家のなかにさえ「これは文民統制に逆らう、一種のクーデターだ」というような極めて厳しい批判をする者が出てきたというのも、なにより自分たちの存在が蔑ろにされたと感じたからだろう。


ともあれ、田母神氏は論文問題の責任を取る形で引責退職したけれども、これは数千万円という「退職金」がもらえなくなる「懲戒免職」とでは、雲泥の差がある「幕ひき」だ。航空自衛隊は「懲戒処分を検討するとなると、手続き的に時間がかかりすぎる」なんていう言い訳をしていたようだが、要は「身内に対する、最高に甘い処分」だったということであり、彼らも本音では田母神氏を支持しているという、これはその何よりの証拠だろう。

ちなみに、田母神氏は「退職金の自主返納」を求められると、「退職金を返納すれば、自分の行いの非を認めたも同然となるので、それはできない」とおっしゃったようだが、素直に(正直に)「金も欲しいし、反省もしない」と言えば良いのだ。

また、部下の論文投稿に関して「私は指示していない。彼らが個人の判断でしたことだ。私が指示すれば、何千という投稿があっただろう」というような主旨の言い訳をしていたようだが、これが「いざとなったら逃げる幹部」の典型的な言いぐさだ。「命令ではない、個人的な意見を披瀝しただけで、それを強制した覚えはないのだから」というわけだ。
しかし、上司の「推奨」を黙殺するような人間は、一生その組織では出世することなどできないだろう。つまり茶坊主でなければ、思想色の濃い自衛隊で出世することなんてできるわけがない、ということ。一昔前の例でいえば「ゴルフもしないような者は、会社社会では出世できない」というのと同じだ。会社幹部は「休みの日にまで、ゴルフにつき合えと命令したりはしない。彼らは好きで一緒にやっているだけだ」と、田母神調で言い訳しただろうということだな。

航空幕僚長であった田母神俊雄という人も、所詮はこの程度の「頭の悪い(客観性のない)大幹部」であり、日本の自衛隊というのは、この程度の人をトップに担ぐような「頭の悪い組織」だということだろうな。

――異論があるなら、今のどれも似たり寄ったりの自衛隊幹部の首を、連帯責任で軒並み挿げ替えるくらいのことをやって見せてもらいたい。下への「教育方針」だけを見直してお茶を濁しても、その「見直し」とやらをやってる奴ら自体は反省しないのだから、本質的には何も変わるわけないんだよ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

イワンの末裔 ――『ディスコ探偵水曜日』と舞城王太郎

 投稿者:園主  投稿日:2008年11月24日(月)20時56分46秒
  みなさま、本日は舞城王太郎の最新刊『ディスコ探偵水曜日』(上下・新潮社)をご紹介したいと存じます。

まず最初に結論から申しますと、本書は十年に1作の非凡な傑作であり、かつ「奇書」と呼ばれる類の作品でございます。
以前、山口雅也の『奇偶』が「いかにも(暗鬱重厚)な作風」から「第五の奇書」を売り物にしたことがございましたが、今回の場合は「第五の奇書」などという「安易な売り文句」をすぐさま思い浮かべることなど困難な、その意味で逆に「第五の奇書」と称し得る、前例なき傑作なのでございます。

本作については、読み巧者として知られる英米文学者若島正による書評が、要を得たものとなっておりますので、少々長くなりますが、まずはそちらをご紹介しておきましょう。



『  若島正・評 『ディスコ探偵水曜日 上・下』=舞城王太郎・著

                    (新潮社・上2100円、下1785円)


 ◇ 時空を超えた途方もない「踊り」の果てに


 「この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?」

 舞城王太郎の新作『ディスコ探偵水曜日』の冒頭部で出てくるメッセージがこれだ。上下巻合わせて一〇〇〇ページ以上、枚数にして約二〇〇〇枚という桁外れの大作を、終始動かしているのもそのメッセージである。

 決定論と自由意志という問題は、古来哲学者を悩ませてきた難問だった。ただそれは、小説の中に置かれると、因果の連鎖の中で人間がどう生きられるかという問い以上の意味を獲得してしまう。小説という、始まりと終わりがある枠の中で、すべてを作者が仕組んだ舞台の上で、登場人物がいかに行動できるか、ひいては作者も読者もいかに自由を手に入れることができるか、という問題まで一緒に引き連れてしまうことにならざるをえない。

 この小説の語り手であり、文字どおりの主人公の名前は、付けも付けたり、ディスコ・ウェンズデイという。彼はアメリカに孤児として生まれ、迷子を捜す探偵を職業にしており、現在日本にやってきて、踊場水太郎とも名乗っている。この名前からして、運命に踊らされる人物の役割を彼は背負うことになるが、そんなディスコ・ウェンズデイがどのように自らの意志で踊りだすのか、それが物語の骨組みである。もちろん、踊場水太郎という名前はただちに舞城王太郎という作者の名前につながっている。だから、言い直せば、この小説は踊場水太郎と舞城王太郎がいかに踊りだすかという小説であり、舞城王太郎がいかに作家としての全存在を賭けて踊り狂うかが読者にとっての見所になるはずだ。

 ディスコは、誘拐されていたのを捜し当てて保護した、山岸梢という六歳の女の子と一緒に住んでいる。ところが、その梢に異変が起きる。しばしば、十七歳の梢が六歳の梢に入り込み、身体まで伸縮するのだ。十一年後の未来からやってくる女の子というこの珍奇な現象をきっかけにして、小説の時間と空間が歪みだす。ここでもう、読者にはこの先何があっても不思議ではないという確実な予感が生まれる。しかし、実際の物語の展開は、そうした読者の予感を大きく上まわる、幻惑に満ちたものだ。

 この小説を無理やりにジャンルの中に押し込めば、SFミステリということになるだろう。けれども、ここでは、SFやミステリの道具立てを過剰なまでに用いることによって、逆にそこを突き破ろうという強固な意志の力が働いている。ミステリとしては、パイナップルの形をした奇妙な館、そこで起こる連続密室殺人事件、さらには十人以上の「名探偵」が登場して、次々に「真相」を披露するという謎解き合戦の趣向などがこれでもかと言わんばかりに盛り込まれる。SFとしては、ハインラインの古典的名作『輪廻の蛇』をさらに複雑にしてぐるぐる巻きにしたようなタイム・パラドックス、それを支える時間論や宇宙論が、豊富な図解付きで次々と繰り出される。それに合わせて、物語の時間と空間もめまぐるしくあちこちに飛ぶ。いや、飛ぶのは単に時間と空間だけではない。主人公のディスコは、本当に時空を超越して移動することになるのだ。それも、ひたすら運命に抵抗しようという意志の力だけで。梢を愛しているという、その愛の力だけで。

 「作家の小説が思い通りの筋道ばかりを辿るわけじゃない。でもそこには思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開ってあるじゃないですか。――物を作るとか創造することって全てが経験で得た知識を組み合わせてるだけじゃなくて、どこかで、ゼロから何かを生み出してるんですよ」

 ある登場人物はそんなことを言う。そうして世界を《発明》し、住む場所を拡大することが、生きることの本質なのかもしれない、と言う。もちろん、これは作者自身がこの小説にこめた思いだと、ストレートに受け取ることができる。どれほど小説の形や構造が複雑であろうと、舞城王太郎のメッセージはつねにストレートだ。物語にどれほどのツイストが含まれていても、それはなにしろディスコだから当たり前だと作者は言う。それはあくまでも踊り方なのだ。

 物語の途方もない展開に翻弄されっぱなしの読者は、いわば作者に踊らされているような感じを味わうが、勢いが加速してページを繰っていくにつれて、次第に自分も踊りだす。すなわち、痛みに満ちたこの世界のどこかに、広い別の世界を見つけ出そうと、壁に頭をぶつけるようにして奮闘するディスコに、頑張れと一緒になって声援を送りたい気持ちになるのだ。その意味で、ディスコと読者の意志の力が束になり、小説の結末を作っていく。それがあらかじめ定められていた予定調和だとはけっして思わない。すべてをぶちまけたような、破れかぶれの踊り狂いから生まれた、ひとつの奇跡だとしか思えない。

              毎日新聞 2008年9月21日 東京朝刊 』(『毎日jp』より)



『すべてをぶちまけたような、破れかぶれの踊り狂いから生まれた、ひとつの奇跡だとしか思えない。』――若島評のこの結びの言葉には、本作の本質とすごさが、極めてよく表現されております。つまり、本作は、「スマートな作品」や「完成度の高い作品」などでは、決してございません。『すべてをぶちまけたような、破れかぶれの踊り狂い』と評されるように、舞城王太郎がその持てるもののすべてを『壁に頭をぶつけるようにして』決死の覚悟でぶつけた作品であり、もはやそこには「計算された構成」やバランス感覚(小賢しさ)など、働く余地が無いのでございます。
ですから、ある意味でこの作品は「極めて歪な作品」だとも申せましょうが、その「歪さ」は、「当たり前に上手い小説」という枠(限界)を突き破った先にある「歪さ=収まりの悪さ」であって、決して「不出来」を意味するものではございません。この作品には、「出来不出来」とか「完成度」などという「品質保証的な商品価値」を突き破った先にある、暴力的なまでの「稀有な力=芸術の力」が輝き出しているのでございます。『壁に頭をぶつけるようにして』の戦いに、自分の頭をかち割って死んでもかまわないという作者の並々ならぬ「過剰な情熱」が、世界の果ての壁をもたじろがせ退かせて、宇宙を押し広げてみせた、そんな『奇跡』のような作品なのでございます。


さて、世間で「三大奇書」と称された『ドグラ・マグラ』(夢野久作)、『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)『虚無への供物』(中井英夫)。それに『匣の中の失楽』(竹本健治)を加えて「四大奇書」と呼ばれるそれらの奇書の奇書たる所以は、「ミステリとしての枠組みを超えた過剰なミステリ」というところにはないと、私は斯様に考えます。
例えば、山口雅也の『奇偶』を「第五の奇書」と評した人が、『奇偶』の何をもってそのように評したのかといえば、それは「四大奇書」を「ミステリとしての枠組みを超えた過剰なミステリ」という風に捉えたからでございましょう。そうした意味では、『奇偶』はたしかに「オーソドックスな本格ミステリ」の枠を超えた、「量子論的な」あるいは「確率論的な」一種の「異世界ミステリ」でございました。しかしまた、そこには「異世界の論理」が一貫して働いていたのも事実であり、その意味で『奇偶』は決して「本格ミステリ」の骨法から逸脱した作品ではございませんでした。この作品は、あくまでも「本格ミステリ」の枠内における異色作に過ぎなかったのであり、またその点で、山口雅也はどこまでも「黄金期本格」の忠実な信者であり「優等生」だったのだと申せましょう。

しかしながら、『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』あるいは『匣の中の失楽』とその作者は、決して「本格ミステリの信者」や「優等生」ではございませんでした。無論、彼らも「本格ミステリ」を敬愛してはいたでしょうが、彼らの「(本格)ミステリ」は、あくまでも「彼らの(本格)ミステリ」であって、決して「公式主義的な本格ミステリ」あるいは「原理主義的な本格ミステリ」などではございませんでした。
彼らには、彼ら個々の「神」があったのであり、その過剰なまでの希求の果てに、「彼らの本格ミステリ」は、時に「アンチミステリー」と呼ばれることにもなる、ジャンルを逸脱した異形の作品へと変貌せしめられ、「奇書」と呼ばれるに到ったのでございます。
そして、そうした意味で言うならば、舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日』もまた、「奇書」の名に恥じない、個性的に「過剰な逸脱のミステリ」だと評することが出来ましょう。若島も言うとおり、大雑把なジャンル分けすれば「SFミステリ」ということになるのでございましょうが、この「ジャンル攻撃的」な作品を、このような形で分類することは、紹介のための目安以上には、何の意味も持たないのでございます。


舞城王太郎という作家の魅力は、一言でいえば、その「少年的な繊細さ(傷つきやすさ)」にあると申せましょう。その上で、今回の『ディスコ探偵水曜日』ではさらに、そうした「子供」を守れる「強い大人であろうとする意志(傷だらけになっても闘う意志)」が加わり、両者の「葛藤的合一」によって、並々ならぬ厚みが与えられているのでございます。

本作でもそうであるように、舞城王太郎の描く「子供」は、本質的には「無力」であり、そのため、この「世界の悪意」の犠牲とならざるを得ない、悲劇的存在でございます。
また、そのように「子供の悲劇性」を強く感受する舞城王太郎の作風は、自ずとしばしば「自傷的」であるとさえ申せましょう。例えばそれは、『九十九十九』などに目立ったグロテスクなまでの残酷描写(目玉をえぐり出し、首を切り落とし、腹を割いてその中に納める)という形で表現されるものであり、そこには「酒鬼薔薇聖斗」のそれにも裏返しで通ずる、ある種の「生への強い違和」なのかもしれません。

例えば、『ディスコ探偵水曜日』に登場する「名探偵たち」の名前は、

 八極幸有
 蝶空寺兄弟(快楽・喜遊)
 大爆笑カレー
 本郷タケシタケシ
 豆源
 猫猫にゃんにゃん
 出逗海スタイル
 美神二瑠主
 鯖山二号半
 日月
 垣内万々ジャンプ
 ルンババ12

といった、極端に作り物っぽいネーミングである一方、探偵たちと一緒に事件に巻き込まれる劇団「エンジェルバニーズ」のメンバーの名前は、

 福島学
 加藤淳一
 木村大介
 河合一洋
 林博之
 上村哲朗
 田中正嗣
 佐藤和浩
 吉田由貴乃
 花田佐和子
 河辺恵介
 宮崎夏恵
 平木貴子
 溝呂木文枝
 梶原亜矢子
 野村りえ
 野中麻美
 尾畑亜紀

と、これはまた極端なまでにオーソドックスなネーミングとなっております。

この両極的なネーミングには、舞城王太郎の感じている、「もっともらしさ」や「収まりの良さ」への強い疑念が見て取れるのではないでしょうか。もっともらしい小説の「嘘くささ」に対する、過剰なまでの拒否反応としての反動を。

結局、「もっともらしさ」や「収まりの良さ」への疑念というのは、「子供の悲劇」が厳然と存在するこの世界ですら「あるがままに受け入れる」といった美名の下に収まりかえっていられる「ほとんど大人たち」に対する、少年らしい反発なのではないでしょうか。まただからこそ、舞城王太郎は、自身が世界に感じている「違和感=居心地の悪さ」を、「グロテスクさ」や「残酷描写」あるいは「収まりの悪い、両極的ネーミング」といった「悪意ある表現」として、これ見よがしに世界へと差し戻しているのではないでしょうか。

こういう「意地の悪さ」や「世界への悪意」の先例を、私たちはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に見ることができます。そう、純真なるクリスチャンである実弟アリョーシャに、かの『大審問官』を語り、「罪なき子供たちの涙の上にしか築くことのできない天国なのなら、そんな天国への切符は、つつしんでお返しするよ」と、「この地球の現実」と「この世界を統べる神」を告発した、あのイワン・カラマーゾフでございます。

またそうした意味では、『ディスコ探偵水曜日』に描かれた舞城王太郎の思想は、「トゥー・テ・ビアン(すべてよし)」と語る、笠井潔の創造した名探偵「矢吹駆」のそれの、対局にあると言っても良いでしょう(※ 矢吹は、シモーヌ・ヴェイユをモデルとした登場人物シモーヌ・リュミエールの「共苦的な受苦の思想」を『濡れ雑巾』と評して嫌悪を示した)し、若島正が『舞城王太郎のメッセージはつねにストレート』だと指摘するとおり、『ディスコ探偵水曜日』におえる作者のメッセージは、魯迅が『狂人日記』のなかで語った「子供を救え!」というメッセージを、ストレートに引き継ぐものだとも申せましょう。

舞城王太郎の、この極めてストレートなメッセージを、どう考えるのか。もちろん、そのわかりやすさに鼻白む読者もいるでしょうが、しかし、そんな「シンプルな思い」が『ディスコ探偵水曜日』のような作品を生んだのだという事実を、軽視することはできません。
小説は、「思い」だけでは書けない。さりとて「頭の良さ」でも、決して書けはしない。それはちょうど『「この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?」』という言葉と、そのまま重なる現実だと申せましょう。つまり、「頭の良さ(=才能)」を「運命」と考えるならば、「思い」は「意志」に対応しているのでございます。ですから「思い=意志」だけでは、世界は変えられない。けれども、「思い=意志」が決定的に重要なファクターであることに間違いはなく、その例証が他でもない、『ディスコ探偵水曜日』という(思いに駆動され突き抜けた)、この稀有な傑作なのでございます。

若島正が『舞城王太郎がいかに作家としての全存在を賭けて踊り狂うかが読者にとっての見所になるはずだ。』と書いているとおり、『ディスコ探偵水曜日』は、舞城王太郎が持てるものを惜しむことなくすべて注ぎ込んだ作品であり、多くの読者がそれをして「総括的・総集編的」作品と呼び「この次に何が書けるのかが気掛かりだ」とまで危惧する、極限的作品でございます。
しかし、そこまでやるからこそ、目をつぶって勝てない敵に突っかかっていくような子供のような一途さ、無謀さがあるこそ、舞城王太郎は舞城王太郎なのではないでしょうか。

アニメ演出家出崎統に、私が好きな次のような詩作品がございます。


  明日こそと思う気持ちがあれば、
  すこしの寄り道は許される。
  遠い道のりに、ため息をついてもいい。
  なにもかも捨てたつもりで、
  それでも残るものがある。
  それが僕の宝石だ


『なにもかも捨てたつもりで、それでも残るものがある。それが僕の宝石だ』。
――なにもかもを投げ捨て、切り札をすべて切った後に残るもの、それがその作家(人)の本当の魅力であり、『ディスコ探偵水曜日』の魅力もまた、そのようなものなのではないでしょうか。本作の魅力は、決して「総集編」としてもあれこれの中になどは無いと、私は斯様に評価しております。
またそうした意味で、私は、今後、舞城王太郎が『ディスコ探偵水曜日』以上の作品を書けなかったとしても、それを責ようとは思いません。実際、このような稀有な代表作を残せる作家などほとんどいないのでございますから、それを実現してみせた舞城王太郎は、今この段階で「天に愛された作家」であると断じても良いと思うのでございます。

私は、『ディスコ探偵水曜日』を「第五の奇書」と呼びましたが、この作品は、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』にあたる作品なのかも知れません。ある意味で、小栗虫太郎の作品はすべて、『黒死館殺人事件』のための下書きだったと申せましょうし、その『黒死館殺人事件』を書くために小栗虫太郎は生まれてきたのだとさえ言いたくなるような、そんな「作者の全存在性」が、『黒死館殺人事件』と『ディスコ探偵水曜日』には共通しているように思えるのでございます(両者が「新潮社」からの刊行だったのも、時を超えた何かの因縁だったのかもしれません)。


「子供」を救うために、すべてを投げ打ったディスコ・ウェンズデイ。彼は、イワン・カラマーゾフの末裔であり、「狂人」や「極悪人」とも断罪されることにもなろう、心優しきアンチ・ヒーローなのでございます。



  君が涙のときには 僕はポプラの枝になる
  (…)
  空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る
  君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる


    (中島みゆき作詩作曲『空と君のあいだに』より)



  2008年11月24日

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

田中様へ

 投稿者:砂子  投稿日:2008年11月20日(木)23時58分25秒
  上京報告記、拝見致しました。9月13日の会でお目にかかった者です。その際「三年前に田中様のHPの掲示板に書き込みさせて頂いた者なのですが」と、ひどく曖昧な自己紹介をし困惑させてしまっている所、当時も大した内容のない事ばかり書いていましたので印象も薄いというのに朧げな記憶を辿り話を合わせて頂き、今思い返しても冷や汗の出る思いです。こうして伺うにも大変恐縮しております。その時、持っていた本が本(『プラネタリウムにて』)だけに「まるで学生のようだ」と後に落ち込んでおりました。以前書き込みさせて頂いた三年の間に齢三十を過ぎた立派な中年だというのに…。

こうしてお礼に伺うにも大変遅くなり全くお礼になっていないとも思いますが、ここ二月程頂いた本をお返ししたい旨の文言を考えていましてこのような時期になりました。とはいえ、その内容のレトリックを用い重ねた、自身のあまりに偏執的なトーンがいかがなものかと思いましたので、思い切って頂く事にしました。ありがたく頂戴致します。

会のお礼ですが本多様にサインを頂く際、お手を煩わせた事を改めて感謝の意を伝えさせて下さい。本のサインですが田中様にご配慮頂かなければ頂けませんでした。作家の方々には面が割れていないと申しましょうか、二度とお目にかかる事もないという勢いでお声をかけさせて頂いていたのですが、本多様には顔を知られているので全くタイミングがつかめず、まごついていた所お気遣い頂きありがとうございました。

それからお目にかかった際、当方の謝意が伝わっていないかと思いますので補足説明をさせて下さい。元々、私はホラーを偏愛しているものの自身ではファンサークルなど語る場所を持つ努力をしていなかったというのに、以前ネット上のファンサイトで見知らぬ方に平山夢明作品の詩情ある人体損壊について話していいかどうか迷い、試しにマイケル・スレイドの話を振った所相手が評論家の言説の聞きかじりで「京極堂のキャラクターシステム」と言った事に対してスレイドなら暗黒芸術の如き殺戮シーンだろうと思い込み、身勝手な幻滅をした事がありまして、田中様に対してもホラーを特に好んでいる訳でもないというのに無理矢理話し続けるという己の安易さを反省していました。それは今もです。

会では私を作ったマイスター四人の内、御二人(島崎氏・戸川氏)の姿を遠くから拝見し感激致しておりました(無論、極一部である当方の製品の出来を問うてはいけないのです)。…いえ言うまでもなく作られたと勝手に思い込んでいるだけの話ですよ、もちろん。どうでもいい話ではありますが歌人の穂村弘が精神科医との対談で自身が発想したかの如くクイーンの『ダブル・ダブル』の台詞を発言していたので極々個人的に憎むが為に黄金期本格を読みかえしていた当方とは人として品性が違う方々ばかりだと三次会で深く身に沁みました。そこでのエンドレス黄金期本格トークをお聞きしていると、ミステリの森の妖精が妖精の輪の踊りをしているかのようでド人間の当方が紛れ込み非常に心苦しかったです。

でも実はあまり会の事は書きづらいと言いましょうか、サインをあちこちで強奪していたりと悪行三昧もですが、二次会でも泡坂妻夫氏が側のテーブルでカードマジックをされるのに一目見ようと勢いよくなだれ込むおばさん(私の事です)とおじさん達の形相のあまりのおかしさに近くの受付の椅子に座ってらした方(おそらく本多様)をよけさせてしまったりだとか…。もはや恥ずかしいにも程がありまして思い出したくないというのもあります。

とはいえその日一番の思い出は以前からずっと行ってみたかった神保町に行けた事だったりします。ここの所(何年も前から行きたかった)『書肆アクセスという本屋があった』という本を読んでいるから余計にそう思い出すのかも知れません。それにしても神保町に行く最初で最後の機会が街の夜の顔でよかったと思います。三次会に行く途中の話ですが、歩いても歩いても本屋ばかりの天の国のような通りを文字でしか見る事のない方々の後ろを付いて歩くだなんて、昼間でしたらおそらく身分に釣り合わない古書を買い求めたりと破産しているに違いありません。そうして又、読書家の方は自由自在に書店内を近道として横切ったりするのです。それで後から来る方々は何のためらいもなく、誰に断る事もなく本に吸い寄せられてゆくのです。これはゲーテで蝶(本当は蛾なのですが)が炎に入る様をスーフィズムの自我消融に喩えた詩(『西東詩集』)がありますけれど、その書物への迷いのなさは人としての迷いが一切ありません、神の域でした。夜の神保町の街中で神を見ました。でも神もしばらくすると現身を思い出して下さり居酒屋にいらしてました。面白かったです。

こうして伺うのが遅くなったのは、二次会に行く前に田中様とお話させて頂いた際、東京の地理が全くわかっていなく閉口させてしまった事があったので気後れしましてなかなか伺えなかったのですが、今見た所レポートで会場を早稲田とお書きになっていますがこれはまた何故…。だのに閉口されるのは理不尽な気がしてきました。1994年の「中井英夫を偲ぶ会」が行われた場所で、出席されたものとばかり思っておりましたが。

それとですねSRの会でお聞きしたい事がありまして、それは話が長くなるのでやめておき別の話になりますが、会の会報でもミステリ専門誌でもいいのですがどこかで近藤史恵が短歌、特に中井英夫について触れた記事などお見かけした事はないでしょうか。デビューの鮎川哲也賞の題材が当方には全くとっかかりがないと言いましょうか興味が持ちようのないものでしたので全く読んだ事がないのですが、経歴を見ると学生時代に作歌をされていて前衛短歌運動(中井ファンには微妙な表現というか、こういった言い方はしないかと思いますが昭和二十〜三十年代ですね)の歌人に影響を受けているというインタビューを見まして気になっています。ご記憶にありませんでしょうか。

それでは失礼致します。

追伸・『浜田到−歌と詩の生涯』大井学(角川書店)での中井の書簡を田中様はどう読まれましたか?

ファンにとって中井の「短歌」誌編集長時代に推した昭和三十三年の春日井建と共に、昭和三十四年の浜田到は印象強く残っているかと存じます。書簡に“異端者”とあるのは従来通りのイメージで、今現在の観点からするとオーバープロデュースというのも歌人の研究では近年よく目にする話ですね。昭和三十年代の春日井と浜田は中井の思想を表す重要なエレメントと言えるものだと思いますが、中井の内にそれぞれ別個としてあるものとするならば浜田の方に私は強く惹かれます。
 

高村薫評興味深く拝見しました

 投稿者:齋藤圭子  投稿日:2008年11月18日(火)23時10分41秒
  高村薫さんへの評論文、興味深く拝見いたしました。
言い得て妙であり、私が抱いていた高村観も納得する想いでした。

高村に限らずほとんどの小説家や、思慮深いと思われている著名人/歴史人も
現実に隣で生きていたら不足だらけのただの人でしょう。
だからこそ、無自覚にわき出す小説や作品が面白く、
それを生み出せる巫女としての能力がアーティストと呼ばれる所以なのだろうと思います。

久しぶりに論理的な評論を読み興味深く、
御礼コメントを書かせていただきました。

面白い評を読ませていただきありがとうございました。
 

お目汚しを・・・

 投稿者:  投稿日:2008年11月12日(水)23時14分5秒
  すみません。。。
メモ帳で推敲したつもりが、改行が変な風になってしまい…申し訳ありませんでした。

「うぁぁぁぁあん!!!!!」
 

付記

 投稿者:  投稿日:2008年11月12日(水)02時02分3秒
  >一方、「淳さんの実物」にお会いした私の印象でございますが、こちらは意外性などはまったくなく、「そのまま」だなという印象でございました。――みなさま、淳さまは掲示板上のイメージそのままの、真面目で繊細な方なので、どうぞご安心下さいまし(笑)。


うぅぅぅぅん、これはアリョーシャに負けず劣らずの美青年だったと言ってほしかったなあー。
 

幻惑

 投稿者:  投稿日:2008年11月12日(水)01時59分42秒
  ★アリョーシャ

まずはプレゼント有難う御座います!!

僕だって「かり」を作るのが苦手な人間ですから、僕から「胃袋に収まる甘味系の何かが

送られても苦にはならないはず」と信じてますので、ゆるりとお待ちください。
それは、僕自身の中で感じる「かり」の意識を解消するためであり、アリョーシャとの関係の均衡を保つためでもあり、純粋な感謝の気持ちでもあるのです。
甘味系のプレゼントとというのも、アリョーシャの二階の底が抜けない様にとの配慮からなんですからねー。

そそ、戴いた両書のことですが、オマケは一日で楽しめる薬ですねえー。でも『先生と僕

』に関しては、アリョーシャのことですから、僕にとって薬にもなる捻られた毒が盛られ

ているやもしれぬと少々構えては、『虚無』の次の楽しみにとっておりますのん。
竹本さんの諸作もポール・ギャリコの作品も読みたいんですけどねー。


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そそ、

僕は純粋な「ミステリ読み/ミステリ好き」ではないかもしれません。
ミステリが創り上げる、構造的なトリックより、
寧ろミステリの形式を援用した先の「何か」に感興を覚えるタチなのです。
でも『カラマーゾフ』や『神聖喜劇』などにもミステリ的感覚ってありますよね?
読者が、その先の「何か」によって抉り出される感覚に至るには、
それがミステリの手法であらねばならなかった蓋然性があると思うのです。

だから、僕は凝ったトリックへの興味より、「トリックの先にあるもの」に対して相対的

に関心の比重がかかっていると実感していますので、「トリックの先」にある「何か」に

触れることが出来れば、「読めた」「楽しめた」と言い切れるのでしょう。

正直、僕は『虚無』を楽しみましたが、読み切れたとは言えません。

読者に提供される巧妙な複線も、ペンダントリーに幻惑され、全く気づかず踏み倒し、
ひたすら骨組みとしてのプロットを追いまくる邪道な読み方をし、
もはや、コレは読み手、淳がトヤカク言う力量を遥かに超えてる作品だから、
黙するより他あるまいと逃げたくもなりますが、駄文を少々。

序章でも、黄変米や洞爺丸の転覆を「新形式の殺人」と断じていますが、
中井英夫の『虚無』の執筆へと向かわせた、壮絶な怒りの発露を感じ、
終章に至り、その憤怒の念を蒼司の言葉を援用した壮絶な自己剔抉。
僕は「アンチ・ミステリ」という定義も

「本格ミステリ」という定義すらも知らない人間です。
しかし、これまで読んできたミステリとは明らかに異なりますね。
兎に角、再読、再々読を要する作品ですので、今は軽々に語れませんが…

まあ、僕は結論を急ぐセッカチな性分も祟って、『虚無』の中盤は

「誰だ!」
「一体誰がやったんだ!!」
「早く著者(牟礼田?藍ちゃん?久生?)よ語れ!!」

といった心境で読むタチの人間であることが自覚されましたねえー。
例えば、京極堂シリーズでいえば、

「遅い!早く出て来い京極堂!!!」
 或いは
「いよっ!!待ってました!!京極堂!!」

といった心持なのです。つまり読者のモヤモヤに対して腑に落とされたい願望。
なので、今回の『虚無』は終始、幻惑されつづけ、終章に至っては、

「え?えぇぇぇ!!!(こんなリアクションで感想を述べていいものか!)」

といった感じでして…
すみません…寝ます…またカキコしますんで…お許しを…
 

2008年夏・上京報告記(最終回)

 投稿者:園主  投稿日:2008年11月 9日(日)20時16分34秒
  /
  ◇◇◇ 『2008年夏・上京報告記』目次 ◇◇◇


 ・ 第1回前編(http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1976
 ・ 第1回後編(http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1977

 ・ 第2回前編(http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1983
 ・ 第2回後編(http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/1984


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みなさま、本日は「2008年夏・上京報告記」の最終回でございます。


竹本健治に別れを告げて、私は単身、吉祥寺を目指しました。その日(9月16日)は、現場である吉祥寺の喫茶店で合流した友人夫妻とともに、正午の待ち合わせで村上昂(村上芳正)画伯にお会いし(私は初対面なので、友人から紹介してもらった上で)お話を伺うということになっていたのでございます。

村上画伯は当年86歳(当日はまだ85歳)。中井英夫と同年だと友人より聞かされておりましたので、あまりお時間を取らせてお疲れになるといけませんから、おおむね1時間ほどお話を伺い、画伯とお別れしてから昼食をとろうという段取りになっておりました。
またこの日は、ご存じ淳さまと初顔合わせをした上で、一緒に「幻影城の時代展」を見に行くことになっておりましたから、余裕を見て、淳さまとは午後3時に吉祥寺で合流するという約束になっておりました。

時間前に、現場の喫茶店で友人夫妻と合流して待っておりますと、しばらくして村上画伯がお出でになりました。村上さんは痩身中背の方でございましたが、私が驚いたのは、村上さんがとても85歳には見えない若々しい方であり、かつ、とてもオシャレな方であったということでございます。ですから、紹介いただき初対面の挨拶をした後の私の第一声は「お若いですね。驚きました」という身も蓋もないものでございました(笑)。

そのためしばらく年齢の話になったのですが、村上さんは肌の色艶がとてもよく、シミの類がほとんど目につきません。そのうえ、闊達な話ぶりなので、とてもお若い印象があり、せいぜい70そこそこにしか見えません。中井英夫が亡くなったのは71歳の時ですが、私がその数年前に中井さんと初対面した時でさえ、当時の中井英夫の方が、目の前の村上さんよりもずっと老けて見えたのは間違いございません。もちろん、当時の中井英夫はアルコールによって健康を害しておりましたし、もともと若い頃の印象が先にあった上での初対面でございましたから「老けた」という印象も強かったのでございましょうが、当時すでに杖をついて歩いていた中井にくらべれば、まったくお元気そうな村上画伯は、とうてい85歳のご高齢には見えないのでございました。
また前述のとおり、村上画伯はとてもオシャレな方で、その日も、とてもオシャレな帽子をかぶってこられたのでございますが、この文章でもわかりますとおり、私はまったくの「オシャレ」オンチでございますから、村上さんのオシャレぶりを具体的に説明することなど致しかねます。ただ、お召し物の話になった時に、百貨店の紳士服売り場につとめている友人の奥さんと村上さんが、私などは聞いたこともないブランドの話で盛り上がっていたことからも、そのオシャレぶりが本物であることを私ともどもお察しいただければと存じます。


そんなわけで、お世辞など全く抜きにして、とにかくとてもお若い村上画伯だったのでございますが、昨今のご様子などを伺いますと、笑顔ながら「元気そうに見えるでしょうけど、同居の友人の介護をしているので、それで疲れ果ててしまって、もう絵を描くような元気は残っていませんよ」と、絵にかんしてはすっかり隠退してしまったようなお話でございました。

――これ以降に伺ったお話は、三島由紀夫との交流なども含め私生活にからむところが多かったため、残念ながら今の段階で、村上さんのお話の紹介は差し控えさせていただき、私がその作品と時代背景から読み取ったところを、以下に書かせていただきたいと存じます。


村上昂(村上芳正)画伯の業績と言えば、まずはなんと申しましても、書籍の装丁画家として仕事だと申せましょう。例えばその代表作は、


 ・ 三島由紀夫   「豊饒の海」4部作(新潮社初版)
 ・ 沼正三     『家畜人ヤプー』(角川文庫版ほか)
 ・ 澁澤龍彦編   『暗黒のメルヘン』(立風書房初版)
 ・ 赤江瀑     『花酔い』、『海峡』ほか(角川文庫)
 ・ 連城三紀彦   『戻り川心中』(講談社初版・文庫)
 ・ ジャン・ジュネ 『泥棒日記』『薔薇の奇跡』ほか(新潮文庫)
           「ジャン・ジュネ全集」(新潮社)

といったものが挙げられましょう。
つまり「耽美と幻想」の画家だと言えば、わかりやすいのではないかと存じます。


さて、装丁を担当した作家の面子からもお分かりいただけますとおり、村上画伯の活躍がもっとも世間の注目を浴びたのは、当時の言葉で言えば「異端の文学」「大ロマンの復活」が脚光を浴びた、1960年代後半から1970年代だと申せましょう。要は「69年革命」前後の価値転倒によって、それまで日陰者扱いになっていたものの多くが広く注目を集め、文化の表舞台に踊り出てきたのと期を一にして、村上芳正の「個性」が注目を浴びるようになったのでございます。
むろん、仕事としては、その後の1980年代にもかなりの量をこなされてはいるものの、それらが村上芳正(村上昂)の個性を生かしたものであったとは必ずしも言い切れず、1980年代に属する連城三紀彦や赤江瀑に関する仕事は、むしろ例外的に村上芳正(村上昂)の個性を生かした得たものであったと言えるのではないでしょうか。


村上芳正(村上昂)の「個性」を端的に表現すれば、それは前記のとおり「耽美幻想」ということになりましょうが、もうすこし具体的にもうしますと「同性愛を中心とした、セクシュアリティーに関わる幻想的表現」と言い換えることも出来ましょう。
澁澤龍彦の編になる幻想小説アンソロジーのタイトルが『暗黒のメルヘン』であることに象徴的なように、当時の価値転倒は、それまで社会の表舞台から排除され、闇の世界に押し込められていたことどもが、一気に社会の表舞台に噴出解放される態のものであり、そうしたものの中には「性倒錯」の一種としてそれまでは否定的にのみ捉えられたきた、沼正三の『家畜人ヤプー』に見られる「マゾヒズム」、澁澤龍彦の紹介になるマルキ・ド・サドの名に由来する「サディズム」、三島由紀夫に象徴される「同性愛」なども含まれていたのでございます。

つまり、当時これらは、お上品で権威主義的なそれまでの「正統文化」や「正統芸術」に対する「意義申し立て」としての「カウンターカルチャー(抵抗文化)」であり、あえて引き受けられた「闇の軍勢」としての自負表現だったのだと申せましょう。

ところが、資本主義消費社会は、そうしたものさえ「商品」として貪欲に消費してゆき、それらは十年を経ずして、その「反抗意識」や「闇の意志」つまり「アンチの精神」を失ってゆきます。また、その結果として、いつしか村上芳正の仕事も、本来の個性を生かせないものへと、徐々にシフトしていったのだと申せましょう。
無論、本名の村上芳正からペンネーム村上昂への変更には、それなりの事情と意図があったのだ存じますが、その1982年前後における変名には、このような「時代の変わり目」が象徴されているように、私には思えるのでございます。


バブル以降のこの時代に、この日本に、はたして村上芳正的なものは復活できるのか? 私は、村上さんおお話を伺いながら、「影を失って平板化した、今の日本の文化」に、今いちど新たなかたちで、村上芳正的なものの復活の必要性を思わずにはいられないのでございました。


                      ○


さて、その後の淳さまとの「感動の初対面」のシーンは、本年9月24日付けの「お待たせのレス(前)」の淳さまへのレスに記しましたので、その部分ついては、以下に加筆をして再録しておきたいと存じます。



淳さんとの約束は、村上画伯とお別れした後の「午後3時に、吉祥寺の同じ喫茶店で」ということになっておりましたので、私と友人夫妻が当該喫茶店に入ってしばらくしてから、淳さまも同じ店に入って、時間待ちをしておられたそうでございます。
なお、喫茶店に入ってすぐ、淳さまに私の服装と座っている位置をメールしておきましたので、淳さまの方では私たちに見当をつけることができたのでございますが、私の方は淳さまが店内のどのあたりにおられるのか、見当がつけられませんでした。


お忙しくて「幻影城の時代展」のオープニングパーティーにも出席できない村上さんが、それでも予定より1時間半も長くあれこれ貴重なお話を聞かせて下さった後、それではそろそろということで村上さんを店外までお送りしに一同が席を立ったところ、私は、近くの席でこちらを見つめて突っ立っている青年を発見いたしました。「あっ、あれが淳さんだな」と直観いたしましたが、その青年も私をそれと認めた様子で、こちらを見開いた感じの目で見つめているのでございます。
しかし、私は村上さんを送って出る最中でございましたから、その青年に「淳(じゅん)さんですか?」と声をかけ、淳さんの「そうです!」という返事を聞くと、私は淳さんのニの腕を二度ほどなだめるように軽く叩いて「先生を送ってきます。すぐ戻ってきますから、ちょっと待ってて下さい」と告げるに止めました。
また確かに、事前のメールに「アレクセイさんに会ったら、感激で抱きついちゃうかも知れません」とあったとおり、その時の淳さんの目は、本当に泣いて抱きついてきかねないものでしたので、私は「ヤバい!」と思って、さっとその場を離れたのでもございました(笑)。

村上さんのお話をうかがった後、友人夫妻と食事を採り、そのあと淳さまと2人で会うという予定だったのですが、村上さんの話が長引いたため、村上さんと分かれた後は、4人で食事をすることにいたしました。喫茶店に戻って淳さまを連れ出し友人夫妻に紹介した後、近くの回転寿司に入ったのでございますが、この店は、友人の奥さんの絶ってのご所望で、あとで聞いたところ、ハードボイルド・グルメ漫画『孤独のグルメ』(原作:久住昌之、作画:谷口ジロー)の第2話「東京都武蔵野市吉祥寺の回転寿司」に登場する店だということでございました。
そうとは知らない私は、いつもどおり自分の好きなもので、あまり高くはないネタの寿司をぱくぱく食べたのでございますが、後に友人の奥さんから『孤独のグルメ』をいただいて読んだところ、この店は基本的に130円均一で、サービスタイムには大トロも130円で食べられて、それを目当てに来る客も珍しくないというのを知り、「しまった! それなら大トロも食べるんだった」と、いかにも貧乏人らしいホゾを噛んだのでございます。


寿司屋を出た後、品川区高輪のギャラリーオキュルスで同日夕方に開催される「幻影城の時代展」のオープニングパーティーでの再合流を約して友人夫妻とはいったん吉祥寺駅前で分かれ、私と淳さまは先程の喫茶店に逆戻りし、展覧会に向かうまでの一時間ほどを歓談して過ごすことにいたしました。

淳さまは、私と会えて本当に感激だというようなことをしきりとおっしゃっていましたが、あまり感激されても困ってしまいますので、私はなるべく「どうということはない」という感じで、クールかつざっくばらんに話させていただきました。そこでどんな話をしたのかは、おおむね忘れてしまいましたが、問われて私の「謎」の部分についても話させていただき、やはり「意外」だという反応をいただきました。
一方、「淳さんの実物」にお会いした私の印象でございますが、こちらは意外性などはまったくなく、「そのまま」だなという印象でございました。――みなさま、淳さまは掲示板上のイメージそのままの、真面目で繊細な方なので、どうぞご安心下さいまし(笑)。

さて、展覧会場へは、絵を鑑賞する時間を考慮し余裕を持って、パーティーの1時間前(5時)くらい前に着くようこちらを発とうと話していたのでございますが、ついつい話が長引いて、喫茶店を出るのが遅れてしまいました。そのため、少々焦っておりましたせいか、展覧会場への移動時は、私いつも以上の早足になっていたようで、後に淳さまから『まあ、兎に角アリョーシャは「速い」し「早い」男です。僕の歩幅のぺースを完全に無視して、品川の街をスイスイと驚異的な「速さ」で歩く。こっちはついていくのにもう必死、でもアリョーシャは全くお構いなしなんだもん。』というご指摘をうけることとなってしまいました……。
もとよりせっかちで歩くのも早く、私の歩いている前を塞ぐようにしてノロノロ歩いている人がいると、途端にイライラする、というのは偽らざる事実なのでございますが、この時はあくまでも単純に急いでいたのであり、淳さまが比較的スローペースな方だとは、まったく気づいていなかっただけだったでございます。



「幻影城の時代展」の会場であるギャラリーオキュルスに着いたのは、パーティーの始まる30分程前、午後5時30分ごろだったと存じます。
前回このギャラリーに来たのは4年前。2004年の「永遠の薔薇 ― 中井英夫へのオマージュ展」の初日(2月29日)で、その際は、オープニングパーティーの半時間前にはギャラリー前の道路にまで人が溢れかえるという大盛況でございましたので、私はそうした混雑を避けて作品を鑑賞し、その上で前回の報告記でも言及いたしました大西将美画伯に、画伯がボックスアートを担当したタミヤ社のキット「1/16 ワールドフィギュアシリーズNO.5 ドイツ・アフリカ軍団 ロンメル元帥」の箱にサインをいただこうと、斯様に目論んでいたのでございます。

しかし、豈図らんや、予定より遅れて到着したギャラリーオキュルスは、心配したほど込んではおらず、すべての作品をゆっくりと楽しむことができました。
もちろん、私が注目していたのは、村上昂、大西将美の両画伯の作品。村上画伯の方は、映画『ルードリッヒ 神々の黄昏』(ルキーノ・ヴィスコンティ監督・1972)のポスター用の、たいへん華麗な原寸カラー原画に堪能させられ、村上作品の中では必ずしも私の好みではなかった『蒼穹と伽藍』(吉田知子・角川書店・1974刊)の装丁用ペン画には「あの装丁画は原寸だったのか」とその精妙細緻なタッチに驚かされました。一方、大西画伯の作品は、『幻影城』誌の挿絵として描かれた、翻訳ミステリのためのものであろうモノトーンの渋い小品が2枚ほど展示されておりましたが、フルカラーでリアルに描き込まれた人物や戦車などを得意とする画伯の個性を、存分に生かしているとは言い難い、いささか勿体ないという感じの「挿絵」作品でございました。

このほかに私の目を惹きましたのは、『幻影城』本誌や『別冊 幻影城』の表紙、あるいは初版本『匣の中の失楽』の表紙を飾った山野辺進の作品。特に「仮面」モチーフとした『別冊 幻影城』の表紙作品の原画でございました。
山野辺画伯は、見るからに絵のうまい、たしかなデッサン力をお持ちの画家でございますが、私の好みからすると、特に人物画などで、やや個性に欠けるという印象がございました。ですから『別冊 幻影城』の表紙画も、印刷されたものを見ただけでは何とも思わなかったのでございますが、原画の方は、その活き活きとしたタッチが、作品本来の魅力を放っていたのでございます。

さて、展示作品をひとわたり見た後、私は展覧会関係者の方に、大西将美画伯がいらしているかを尋ねたところ、すでに画伯は一般の客にまぎれて、他の作家の作品を鑑賞しておいでになりました。早速、私は大西さんに声をかけて挨拶をし「失礼ながら、先生のお名前はこの展覧会まで存じ上げなかったのですが、先生がプラモデルのボックスアートで活躍なさっている方だと知って、サインをいただこうとやってまいりました」と自己紹介し、前述の「ロンメル元帥」のキットを差し出して、サインをいただきました。
さらに大西画伯には、私が本来はミステリファンであり、その関係でこの展覧会にも来たのだけれど、昔から戦車模型が好きで、同じくボックスアート画家として有名な高荷義之画伯のファンでもあり、大西画伯の作品についても、これまでは作者を意識せずに親しんできたという事実を告げて、今回はそんな大西作品の中でも、私の好きな「ロンメル将軍」の肖像画作品にサインをいただけた喜びを伝え、画伯のご健勝とご活躍を祈念しているとお伝えして、画伯とお別れしたのでございました。

展覧会場に着いてから、ここまでで1時間弱。所期の目的を達した私は、昼食が遅めでお腹が空いていなかったことや、展覧会終了後に友人たちと食事に行く予定であったことから、画廊での立食パーティーには参加することもせず、パーティーが済むのを画廊の前の道路で、歩道柵に座って待つことにいたしました。
淳さまには、ゆっくり絵を見て、パーティーにも参加していただきたかったのでございますが、私がこの調子でございますから、やがて私と一緒に画廊の外で雑談をして時間つぶしをすることになりました。しかし7時を過ぎても、主賓の一人である島崎博さんが来場せず、パーティーの終わる気配がまったく無かったため、私たちは画廊の3軒隣(?)のコンビニに入り込み、休憩コーナーに座り込んで、同店で購入したアイスクリームなどを食べながら、長期戦の構えに入ったのでございました。

この日の島崎さんは「島崎博、30年ぶりの神田神保町をゆく」みたいな雑誌企画のために、神保町へ古本を買い漁りに行っており、その趣味と実益を兼ねた仕事が長引いていたのか、6時のパーティー開始時刻を過ぎても会場に姿を見せず、結局は島崎さんの到着を待たず、パーティーは少し遅れて開始されました。このような事情で、当初は6時開始の約1時間と聞いていたパーティーは、予定時刻には終わらず、ずいぶん終了が遅れてしまったのでございます。
またそのため、パーティー終了後に、展覧会関係者を含む友人たちと食事に行く予定にしていた私と淳さまは、延々とパーティーの終了を待たなければならなかったのでございます。

パーティーが終わった時には、すでに8時を大きく回っていたはずでございます。早速、食事に行こうと移動を始めたのでございますが、淳さまはご病気のことから門限があるため、やむなく食事に同行することを断念され、(雨の降ってはいない)品川駅前で、次回私が上京した際の再会を約して、握手をして別れたのでございました。

後に淳さまは、私の友人たちからも「もっと話をうかがいたかったので、ぜひ食事をご一緒したかった」とおっしゃっておりましたが、二人で話す時間だけは充分にございましたから、今回は、これはこれで良かったのかもしれません。とにかく、これからも会うことはできるのでございますから。

友人たちと4人で居酒屋へ行った後、私は12、13日と泊めてもらった同席の友人宅へ向かい、その夜もお邪魔させていただきました。翌日も、その友人に誘われるままにあちこちを見学する予定になっていたからでございます。


翌17日の行動については、今のところ内緒でございます。以前に何度か、私の掲示板である「アレクセイの花園」にも書いておりますとおり、私の職業は「内閣調査室」の調査官。平たく言えば「国家スパイ(コードネームは百舌)」ということになっておりますから、すべての行動をオープンにするわけにはいかないのでございます。――すべてを公にいたしますと外交問題にも発展しかねない、その日の私の行動については、私の死後に、いずれ明らかになるでしょうから、ここではどうか、ここまででご勘弁いただきたいと存じます。


―― そして、そんなこんなで17日の夜も同友人宅に泊めてもらい、私は翌18日、充実した1週間をすごした東京を後にして、大阪に戻ったのでございました。




【あとがき】

なんだか、あれもこれも書けないと勿体ぶって、みなさまに隔靴掻痒の印象を与えてしまったであろう上京報告記(の、特に最終回)となってしまいましたが、書けることだけでもこれだけの分量になってしまいましたので、今回はこのあたりでご勘弁いただきたいと存じます。
3回にわたって長々とおつき合いくださり、誠にありがとうございました。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

為政者たちの本音と作為的失言

 投稿者:ホランド  投稿日:2008年11月 2日(日)17時40分0秒
   みなさん、こんばんは! すでにテレビ報道などでもご承知のとおり、航空自衛隊のトップである田母神俊雄・航空幕僚長の書いた懸賞論文の内容が問題視され、その「役職を更迭」されるという騒ぎになっています。



『  航空幕僚長を更迭…論文で「わが国が侵略国家は濡れ衣」

 政府は31日深夜、持ち回り閣議で、航空自衛隊トップの田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長(60)を更迭し、航空幕僚監部付とする人事を了承した。

 田母神氏が、昭和戦争などに関し「我が国が侵略国家だったなどというのは濡れ衣だ」などと主張する論文を発表していたことが分かったためだ。

 過去の植民地支配と侵略への「深い反省」を表明した1995年の村山首相談話に反する内容で、田母神氏が防衛省の内規に反し、論文発表について事前の届け出をしていなかったため、浜田防衛相が更迭を決断した。

 論文は、田母神氏が、ホテル・マンション経営のアパグループ(本社・東京都港区)の懸賞論文に応募したもので、賞金300万円の最優秀賞を受賞。11月5日発売の同グループが発行する月刊誌に掲載される予定だ。

 「日本は侵略国家であったのか」と題した論文は「今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐え難い苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし、私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある」と主張。また日中戦争について「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」、日米戦争についても「日本を戦争に引きずり込むためアメリカによって慎重に仕掛けられたワナだったことが判明している」などと指摘した。

 麻生首相は31日夜、首相官邸で「(論文を)個人的に出したとしても、立場が立場だから、適切でない」と記者団に述べた。

 田母神氏は防衛大学校15期生で、1971年に航空自衛隊に入隊。航空総隊司令官などを経て2007年3月に空幕長に就任した。』

                  (2008年11月1日01時18分 読売新聞


 見てのとおりこの論文は、先の大戦における日本の対東アジア戦争の「侵略性」を否定して、むしろ日本は望まぬ戦争へと『引きずり込まれた被害者』であると「自己正当化・自己免責」する内容となっており、それが日本政府の「日本は侵略戦争を行って、近隣諸国に多大な被害を与えた」と認める「公式見解」と明らかに食い違っていたことから、麻生総理曰く『立場が立場だから、適切でない』として、その『立場』(=役職)からの「更迭」を決めたものです。
 言い換えれば「日本政府としても、田母神論文の中身自体は、否定しなかった」というのが、今回の騒動の本質的な問題点だと言えるでしょう。

 したがって今回の一連の騒動から伺えるのは、次のようなことです。


(1) 日本政府の(外交に関する)公式見解がどうであろうと、自衛隊上層部の多くも、首相を含む政府与党議員の多くも、先の侵略戦争の犯罪性を、本音では認めていない(つまり、公式見解は誠実さを欠いた「建て前=金看板」でしかなく、平たく言えば「その場しのぎの(外交上の)言い逃れ」でしかない)。

(2) 自衛隊には、終戦直後の公職追放で一端は下野した元日本軍幹部たちの多くが、アメリカの対ソ連(冷戦)を意識した占領政策転換によって設立された(自衛隊の前身たる)「警察予備隊」の発足にあたって(軍に)返り咲いている。
 したがって、自衛隊はその発足時から「日本の戦争を肯定したい軍幹部たち」によって運営されており、そんな組織であれば、戦後に自衛官となった者でも、旧態依然たる上層部に気に入られるであろう田母神俊雄氏ような「大東亜戦争肯定論」者の方が出世しやすかった、というのは自明の事実である(民主的な自衛官は、「赤」だとされて出世できない)。
 無論、戦後民主主義や平和主義が叫ばれた時代にも、自衛隊内部では田母神氏のような人物こそが重用されていたし、「保守」傾向の強まった昨今では尚更そうであると考えていい。

(3) 「更迭」とは「免職」ではない。つまり田母神氏は、トップ自ら『防衛省の内規』違反である「無届の論文公表」をしたため「航空幕僚長」の役職を解かれたはしものの、自衛隊を辞めさせられたわけではなく、「航空幕僚長」以外の「重要な役職」に移った(一時非難した)だけである。
 つまり、自己(アイデンティティーの)正当化を謀りたい者の多いであろう自衛隊上層部の中では、今回のことは「よくぞ言った」とその「勇気」を誉められこそすれ、「間違ったことを言ったわけではない」と思われているので、当面の役職変更は別にしても、田母神氏の「自衛官としての経歴」にマイナスとなるものではない(もちろん、免職になったとしても、天下り先は保証されている)。



 これが「今の日本の自衛隊」の実態なんですね。だから、状況が許せば、自衛隊はいつでも「望まぬ戦争に引きずり込まれる」でしょうし、その中で「近隣諸国に攻め込むこともする」が、それは「間違ったことではない」と正当化されるはずだ、ということです。

 もちろん、実際にそのようなことになる可能性は、まだまだ低いとはいうものの、「自衛隊上層部の気持ち」としては、いつでも「気分はもう戦争」なのだと考えていいということです。

 これは、日本の「同盟国」ということになっていながら、実質的には「日本のボス」であるアメリカが、軍事支出を押さえるために、極東地域における戦力を日本に押しつけようとしている現状、言い換えれば『日本を戦争に引きずり込むためアメリカによって慎重に仕掛けられたワナ』の渦中にあると言って良い日本の現状では、とても危険なことだと言えるでしょう。経済がいくら冷え込んでも、軍事費だけは削減されることのない軍事国家へと、日本はどんどん『引き込まれ』ているのです。





 Keenさま

がんばれ笠井さん

> 園主さま、遅いお見舞いになってしまいましたが、胃痛からの回復よかったですね。「さすがのアレクセイも胃にまでは毛が生えていなかった」というくだりには爆笑しましたが(笑)、今後ともお大事に。


 「座ぶとん1枚!」ってところですね(^-^)。


> ホランドくんの祈りが通じたのか(笑)、『青銅の悲劇 瀕死の王』は私はけっこう面白かったですよ!
> 園主さまはじめ、いろいろな方の「これはちょっとなあ……」的な感想を事前に目にしていて、あまり期待していなかったのがよかったのかもしれませんが、まずミステリ・マニアでない私にとっては、皆さんがウンザリしたというトリックならぬ徳利(笠井さん、狙ってました?/笑)をめぐって延々と続く議論が気にならなかったということがあります。


 そうですね。人によったら、蜿蜒と続く「あの議論がおもしろい」と感じた人もいたでしょうし、それは「好み」の問題だと思います。ただ、批評的にいえば、あの「おもしろさ」にどの程度の「普遍性」があったかってことが問題になるんでしょうね。


> (←なんだか馬鹿にしてるような書き方になってしまいましたが、本気でそう思っていますよ!)。


 本気でそう思っているというのは事実でしょうが、無意識では馬鹿にしていて、それが意図せず文体に表れているのだ――という解釈はいかがでしょうか?(笑)



 さま

取り急ぎ


 お仕事の方、すこしは落ち着きましたか?
 園主さまの方は、あいかわらず公私ともに何かと落ち着かないご様子です。


> 『虚無』は、まだ新装版の上巻が終わりにさしかったばかりです。
> お楽しみはマダマダ続きますのん。


 『虚無への供物』は読み進んでおられますでしょうか? お暇になったら、またご感想をお聞かせ下さいね。肩ひじ張った論文なんかじゃなくていいですから(^-^)。



 K5さま

ご無沙汰してます。

牧野修『MOUSE』(ハヤカワ文庫)


> マウスという本でしたが、
> なかなか興味深いものを感じました。
> ドラッグに関しては、自分はビートルズFANなのですが、
> ジョンレノンの発言が書かれてあったのがうれしかったです。
> で、本編のほうですが、
> オムニバス形式なのですね。
> 迫力のある文面で読みごたえがありました。


 牧野さんの作品はけっこうグロテスクで、悪趣味に近いものも多く、その点で好みにあわない人もいるんでしょうけど、こと『MOUSE』に関しては、グロテスクな中にも「突き抜けた美しさ」のある代表作にして異色作ですから、わりあいいろんな人に進められる傑作だと、ボクは思ってます。

 また、気楽に書き込みにいらして下さいね(^-^)。



 園主さま

それから

> 多くの日本人は(信仰・思想信条・門地・出生地・人種・性別などに関わる、あらゆる)「差別」がいけないということは、頭では(言葉としては)わかっているだろう。しかし、「差別」意識の根深さというものを本当にわかっている者など、千人に一人もいないのだという事実を知っている者はほとんどいないし、それを知らない人というのは、自分が「差別」をしていても気づくことのない「99.9パーセントの差別者」だと考えても、おおむね間違いではないだろうな。厳しいことを言うようだが、差別問題に関する文献を読んだことのある人間なら、これは誰にでもわかることだ。

> なにしろ「差別」意識というものは、「人間の醜い本能」だと言ってもあながち間違いなく、容易に否定できるものではないんだ。だから、少しも勉強しないで「わかったつもりになっている人」など、「差別者」の典型だと言ってもいいんだよ。人は常に「これは差別ではない」と言いながら、差別をしてきたんだからな。


 そうですね。

 「99.9パーセントの差別者」という言葉は、お馴染みのスタージョンの法則 (シオドア・スタージョン)「SFの90パーセントはクズである。──ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである」という言葉を彷佛とさせます。つまり、差別問題に関しても、人間の『90パーセントはクズである』ということになります。
 そのくらいの厳しい自覚をもっていないと「ひとは知らずに差別をしているものなのだ」ということですよね。


> 人は常に「これは差別ではない」と言いながら、差別をしてきたんだからな。


 これは、今日の前説で論じた「田母神航空幕僚長論文問題」と同じですよね。

 「戦争」というのは、いつでも「正義の戦争」や「やむを得ずする戦争(外圧に強いられた戦争=防衛戦争)」として行われる(つまり、自ら「悪の戦争」「侵略戦争=加害戦争」だと公言する国家は皆無だ)し、そうした戦争が、当事者によって心の底から反省されることは、めったにない。ましてやそれが、為政者や軍人ならば尚更である、ということです。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。
 

それから

 投稿者:園主  投稿日:2008年10月26日(日)22時56分45秒
  みなさま、「その後の私」でございますが、新しい職場にも少しずつ慣れ、懸案の車の運転に関しては教習所でのペーパードライバー講習を申し込み、自家用車購入の段取りも着々と進んでいる、といったところでございます。
当初は、教習所での練習によりそれなりに自信がついた段階で車を買おうと考えていたのでございますが、1単位1時間(実質50分)の実技講習料が5000〜6000円もすることが判明するにいたり、こんな教習にいつまでも通ってはいられないと思いなおし、早急に車を購入し、申し込んだ10時間の教習の後は、自分で練習することにしたのでございます。

そんなわけで、このところは何かと入り用でございまして、無駄遣いはなるべくひかえなければなりません。じつは先日、ある古書店へ行きますと、稲垣足穂のなかなか感じの良いイラスト色紙が10万円で売られており「これなら持っててもいいな」と思ったのでございますが、「いやいや待て……」となんとか思いとどまりました。
かと思いますと、昨日は母が、ガスコンロの調子が良くないと大阪ガスのサービス点検員を呼びましたところ「もう寿命なので、買い替えた方が良いのではないですか」との診たて。で、お薦めの最新式システムガスコンロ(?)はと申しますと、なんと20万もするというのでございます。無論この場合、私は躊躇なく「考えておきます」と言ってパンフレットをもらい、ひとまずお引き取り願ったのでございました……。





 Keenさま

がんばれ笠井さん

> 園主さま、遅いお見舞いになってしまいましたが、胃痛からの回復よかったですね。「さすがのアレクセイも胃にまでは毛が生えていなかった」というくだりには爆笑しましたが(笑)、今後ともお大事に。


ありがとうございます。
それにしても、さすがの「リーブ21」だって、胃にまで毛を生やしてはくれないでしょうね(笑)。


> ホランドくんの祈りが通じたのか(笑)、『青銅の悲劇 瀕死の王』は私はけっこう面白かったですよ!
園主さまはじめ、いろいろな方の「これはちょっとなあ……」的な感想を事前に目にしていて、あまり期待していなかったのがよかったのかもしれませんが、まずミステリ・マニアでない私にとっては、皆さんがウンザリしたというトリックならぬ徳利(笠井さん、狙ってました?/笑)をめぐって延々と続く議論が気にならなかったということがあります。「あの時、徳利に細工ができたのは誰か?」云々といった部分はテキトーに読み流していったので、さほど冗長にも感じられませんでした。まあ確かに、この厚さでこれだけしか事件が起こらないの?という地味さはありますが、タイトルの意味や「驚愕の真相」(笑)とその「決定不能性」についてのナディアと宗像の議論等は、よく考えてあるなあと感心しました(←なんだか馬鹿にしてるような書き方になってしまいましたが、本気でそう思っていますよ!)。


楽しめた理由や客観的な評価がどうであれ、ひとまず「楽しめた」というのは良いことだと存じます。やはり、事前の評判は、悪いに越したことはない、ということでございましょうか(笑)。


> しかし、これを「矢吹駆シリーズ」と言っていいのでしょうか?駆が登場しないのに、詐欺じゃないですか……外伝とか番外編ならわかるけど、それじゃ本が売れませんかね〜(笑)。


売るために嘘をついたら「詐欺」でございますし、売るために事実に反する「内容表示」をしたら、それは今流行の「偽装表示」ということになるかも知れませんね。
国産(矢吹駆シリーズ)を謳った『青銅の悲劇 瀕死の王』は、じつは中国産(矢吹駆の非登場)であったといったような(笑)。


> 作中で言及されている「ヴァンピール事件」はすでに連載を終えている「吸血鬼の精神分析」のことでしょうからいいとしても、ナディアが「十件もの難事件を解決したのはわたしではありません」と断言している以上、笠井さん、本当の「矢吹駆シリーズ」をあと4作、書き上げるつもりなんですねっ!?そして、風視の双子の妹・雨香の息子の響はまず間違いなく風視の遺児でしょうし、「もうじき矢吹駆が頼拓にあらわれる」というナディアの謎めいた予言もあるので、最後は「日本篇」の続きで〆ることになるのでしょうか?ああ、楽しみだなあ〜♪(←なんだか馬鹿にしてるような書き方になってしまいましたが、本気でそう思っていますよ!)


「別冊文藝春秋」で連載の始まった『煉獄の時』が、『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』『哲学者の密室』『オイディプス症候群』『吸血鬼の精神分析』に続く、本編(フランス編)の第7作目でございますよね。――次の「日本篇」三部作(?)の2作目は、その後に書かれるのでございましょうか?


> それにしても、あの『熾天使の夏』がこんな風に利用されるとは……さすがは笠井さん、自作に対しても政治力を発揮しているな、と感じてしまいました。このタイミングで創元推理文庫版が出ることも。『熾天使の夏』もざっと読み返してみたのですが、風視の実家の設定には、まだ全く触れられていませんでしたね。ちょっと記憶にないのですが、宗像冬樹のデビュー作『昏い天使』の表紙絵については、「天啓シリーズ」ですでに紹介されていましたっけ?それとも、今回が初登場でしょうか。


どうでしたでしょうか? ちなみに、宗像某という名の作家は、ずいぶん以前の「伝奇もの」の長編『黄昏の館』(徳間書店・絶版)に、主人公の語り手として初登場しておりますが、この宗像某と「天啓シリーズ」や「矢吹駆シリーズ日本篇」の登場する宗像冬樹とには、どのような異同があるのでございましょうね? 興味が無いこともございませんが、本を引っぱりだして調べるほどの興味もございません(笑)。


> いずれにせよ、宗像冬樹がナディア・モガールと接触し、頼拓には鈷室(こむろ)山があり、矢吹駆の本名が斑木飛鳥だというからには、笠井さんもどうやらバルザックを目指すことにしたらしいですね……


ミステリ作家というのは、どうも年をとってくると、別シリーズの主人公を共演させたり、元来別世界であったものをつなぎ合わせて統一世界にしてみたりというようなことをしたがるようでございますね。


> 私は『ヴァンパイヤー戦争』等の「コムレ・サーガ」シリーズ(って言うんでしょうか?)は全く読んでいないのですが、ムラキっていうカッコイイ兄ちゃんが登場するんですよね?まさかそのムラキが駆と同一人物だとは言わないまでも、パラレル・ワールドの駆だというくらいの設定なんでしょうか。宗像冬樹もそういう伝奇小説を書いていることになっていますから、モデルに使ったということで。――でも、なんだか無理やりだな〜、ちょっとあんまりじゃないのかな〜……


繋ぎ合わすのはいいのでございますが、問題は「伝奇もの」と「本格ミステリ」を、同一レベル(同一地平)の世界として繋いで欲しくはない、ということでございます。パラレル・ワールド(並行世界)なら、かまわないのでございますが。
――と申しますのも、『青銅の悲劇 瀕死の王』では、ナディアが矢吹駆の推理を評して、



『「……矢吹さんを真似て、わたしも事件に出遇うたびに本質直観を試みようとした。しかし、どうしてもあの人のようにはできない。あれは、誰にでも可能な現象学的本質直観とはまったく違うもの。あの人は否定していたけれど神秘的な直観としかいえません。たぶん全知全能の存在が矢吹さんの耳元に囁いていたんでしょう。それぞれの事件の「本質」を」』(P762)



と申しております。

これは、角川文庫版『バイバイ、エンジェル』の解説で竹田青嗣が、作中に描かれる「現象学的本質直観」は、現実のそれではなく、創作上のレトリックであると「種明かし」していることの、作者による事後追認に他ならない(つまり『全知全能の存在』とは「作者」のことな)のでございますが、「矢吹駆シリーズ」が作品レベルで『ヴァンパイヤー戦争』などの「伝奇もの」と無媒介に接続させられたりいたしまいますと、矢吹駆という存在は、『デビルマン』もどきの「天使」そのものということになってしまいます。つまり、彼の「異能」も人間的なものではなく、「超能力」の一種になってしまって、その推理も途端に色褪せてしまう。それまでは「非凡な実力」で謎を解いていたと思われたものが、じつは「正解をこっそり囁いてもらっている」だけの「インチキ(=アンフェア)」であったということになってしまうのでございますね。

ですから、「伝奇もの」の世界は、あくまでも「本格ミステリ」の作中人物たる、作家宗像冬樹の創作(フィクション)に過ぎないといったレベルの統合に止めておいていただきたい。
しかしまた、そもそも、読者の要請ではない作品世界の統合を、作者が自身の欲望の下に進めているのでございますから、私が期待するような、作品レベルを異にした統合に止まるかどうかは、予断を許さないところだと申せましょう。


ちなみに、『青銅の悲劇 瀕死の王』で語られる「名探偵的推理は、厳密な推論ではあり得ない」という理屈は、じつのところ「新発見」でもなんでもなく、「創作上のレトリック」として作り手側には昔から自覚認識されていた凡庸な事実であり、にもかかわらず「営業上の秘密」として読者には(その感興を削いではならないために)伏せられていたことでしかございません。
それを「ジャンル論」的な体裁の下に事新しく語ったのが「名探偵的推理は、厳密な推論ではあり得ない」という、もっともらしくはあれ「現実と虚構の区別」を意図的に排することで成立した「凡庸かつ欺瞞的な理論」なのでございます。

ですから、「論理的な名探偵を描く推理作家が、現実には特別に論理的な思考力の持ち主ではない」というのも、彼らの描く「名探偵の論理性(虚構の論理性)」とは、「論理学的な厳密論理」ではなく、所詮は「レトリック(口車)」に過ぎないからなのでございますね。


> それに、当初笠井潔の分身として登場したはずの矢吹駆も、いつの間にか現状の分身と言える宗像冬樹の憧れの存在に変容してしまっているんですね〜(そこだけは笠井さんも正直なのかも)。


笠井潔が作家として生き残るには、「切り札としての矢吹駆」を、「生身の自分」とは切り離して、祭り上げる必要があった、ということなのではないでしょうか。

例えば、『青銅の悲劇 瀕死の王』における、矢吹駆の「名」の使い方ひとつみても、もし「矢吹駆」無かりせば、もうまったく売れないだろうし、話題にもならなかったであろうというのは、作者じゃなくても予想できることでございますからね。


> その宗像を私がえらくウザく感じたのは、やはり園主さまのせいだと思います(笑)。私だって笠井潔ファンとして、今までは笠井さんを「(駆のように)カッコイイ人」として受け取って来ましたから、ここ「花園」で暴露された文壇政治家としての数々の実績を目にした後では、宗像冬樹が孤高なカッコイイポーズをとればとるほど、「ケッ」と鼻白んでしまうこととなり果てました……嗚呼。


まるで、連城三紀彦の「恋愛ミステリ」のようでございますね。――身も蓋もない、恋愛の幻想と幻滅(笑)。


> ちなみに、作中で宗像が料理するシーンがけっこうあって、それがずいぶんと美味しそうだったのを付け加えておきます。特に新年の特別料理として作ったブイヤベースに触発されて、私もシーフードカレーやミネストローネを作ってしまいました(笑)。私は滞仏中にマルセイユには行きませんでしたので、まだブイヤベースは食べたことがないのです。笠井さんの別キャラの飛鳥井も料理してましたが、宗像の方が上手そうだと思いました(笑)


有望な若手作家や評論家は、笠井の自宅である「ヴァンピル亭」へのお誘いを受け、そこで笠井潔自慢の手料理を振舞われるというのが、ここ10年の慣習だったようでございますね。
以前にご紹介いたしましたとおり、乙一がエッセイ集『小生物語』に、その様子を報告しております。

要は「心をつかむには、まず胃をつかめ」ということなのでございましょうか?
私、「男女の機微」には疎いので、このあたりのことはよくわかりかねるのでございますが(笑)。


> さて、もっと書くことがありそうな気もするのですが、今日はここまでにしておきます。


またのお出でを、お待ちしております。



 さま

取り急ぎ

>> ところで、今日ご紹介した坂木司の『先生と僕』。園主さまが、よかったら淳さんに差し上げたいとおっしゃっているんですが、いかがでしょうか?(<ホランドくん)


> どうか御好意に甘えさせてください。
> アリョーシャには「借り」ばかり作っているので、身の縮まる思いです…


昨夜、お送りいたしました。明日には着くはずでございます。
オマケともども、お楽しみいただければ幸いでございます(笑)。


> 幸い、僕の手にした古本は、角川文庫でしたので、本編より解説の方を先読みしてしまいました/苦笑
> それにしても、随所にアリョーシャの『虚無』への愛が如何に大きなものか散見されますねー。


もちろんでございます。
私にとって『虚無への供物』は、『神聖喜劇』と並ぶ「二大聖典」なのでございますから(笑)。


> 『虚無』は、まだ新装版の上巻が終わりにさしかったばかりです。
> お楽しみはマダマダ続きますのん。


上巻の段階で楽しんでいただけたとは、期待以上の好結果でございます。
しかし、読了した時には、『虚無への供物』の本当のすごさをイヤと言うほど実感なさることでございましょう(笑)。


> 御無沙汰して申し訳ありません!!!


そんなに恐縮しないで下さいまし。

けれども、もしも「花園」への書き込みが大変なら、携帯メールの短文で気楽に近況などをお知らせ下さいまし。


> 上京時の「借り」に加えて、今回の「贈与」には本心から恐縮してしまいます。
> 「借り」の返し方を想像出来ずに苦悶しております。
> アリョーシャからすれば、「無私の贈与」なのかもしれませんが、
> 僕は、それを多大な「借り」として認知してしまいますから、
> 対等な関係性を保持したいと願うとき、友情のもとに許されることを切願いたします。


「無私の贈与」、言い換えれば「純粋な贈与(=与えるのみ)」というようなものは、たぶんこの世には存在しないのではないかと存じます。つまり、具体的な「見返り」を何も期待しない贈与だとしても、そこには相手の好意が期待されている場合も多ございますし、たとえ贈与者が好意をも含む返礼を拒絶すべく身元を隠したとしても、その贈与には「自己満足」という見返りが、たしかにあるはずだからでございます。

で、私としては、私の贈与は「好意の証」であり、それは自ずと「好意の返礼」を期待するものだと思っております。ですから、何か具体的なものをお返しにいただきたいとは思いませんが、例えば、

 (1) 末永く友だちでいていただきたい
 (2) そのためにも、健康でいていただきたい
 (3) 「花園」に書き込みをいただけると、さらに嬉しい

といった返礼を期待しているのは、偽りなき事実だと申せましょう(笑)。

――ですから、私の古本プレゼントなど、それほど有難がっていただく必要はございません。むしろ、淳さまに必要なのは、「罠としてのプレゼント(=好意)」の「怖さ」に対する、警戒心なのではないでしょうか。「無料(タダ)より怖いものはない」という格言もございますし(笑)。



 K5さま

ご無沙汰してます。

牧野修『MOUSE』(ハヤカワ文庫)

> 先日、というかずっと前いただいた本をやっとよみました。
> マウスという本でしたが、
> なかなか興味深いものを感じました。
> ドラッグに関しては、自分はビートルズFANなのですが、
> ジョンレノンの発言が書かれてあったのがうれしかったです。
> で、本編のほうですが、
> オムニバス形式なのですね。
> 迫力のある文面で読みごたえがありました。


あの作家の、あの作品の、あの異様なまでの『迫力』を、感じ取っていただけただけで、本を差し上げた甲斐はございました。


> 園主様、ありがとうございました。


いいえ。これを機会に、K5さまともいろんなお話ができれば、私も嬉しゅうございます。
また、気軽に書き込みにおいで下さいまし。



 ホランド

「ほのぼの」だけでは済まされない!(前)

坂木司の連作短篇ミステリ『先生と僕』(双葉社)

> ボクに言わせれば、隼人くんの場合は、宗教嫌悪が行き過ぎていて、ほとんど「偏見・差別」の域にまで達している、ということになるんです。たしかに、おかしな宗教は多いし、宗教というものそれ自体がそもそも疑わしいものなんですが、だからといって、さしたる根拠もなくミソもクソも一緒くたにし、「他者の立場(=この場合は、宗教的な立場)」を全否定してしまう権利など、誰にもありはしません。
> 人間には「思想信条の自由」もあれば「信教の自由」もあって、人はそれをお互いに尊重し合わなければならない義務がある。尊重する義務があるということは、否定批判する場合には、それなりに個別具体的な根拠を示さなければならないということであり、一知半解の「偏見」で全否定することなど許されないんですね。


おまえも言うとおり、現実問題としては「触らぬ神に祟り無し」で、この日本では、特定の宗教、特に「新興宗教」と呼ばれるものになんか近寄らない方が無難だというのは、間違いのない事実であり、言わば「生活の知恵」だ。
しかし、だからと言って、公の場所で、「偏見」を助長するそのような言葉が、無自覚に語られるようなことがあってはならない。その意味で、この小説の作者の認識不足は、否定し得ないところだろう。

多くの日本人は(信仰・思想信条・門地・出生地・人種・性別などに関わる、あらゆる)「差別」がいけないということは、頭では(言葉としては)わかっているだろう。しかし、「差別」意識の根深さというものを本当にわかっている者など、千人に一人もいないのだという事実を知っている者はほとんどいないし、それを知らない人というのは、自分が「差別」をしていても気づくことのない「99.9パーセントの差別者」だと考えても、おおむね間違いではないだろうな。厳しいことを言うようだが、差別問題に関する文献を読んだことのある人間なら、これは誰にでもわかることだ。

なにしろ「差別」意識というものは、「人間の醜い本能」だと言ってもあながち間違いなく、容易に否定できるものではないんだ。だから、少しも勉強しないで「わかったつもりになっている人」など、「差別者」の典型だと言ってもいいんだよ。人は常に「これは差別ではない」と言いながら、差別をしてきたんだからな。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 

ご無沙汰してます。

 投稿者:K5  投稿日:2008年10月25日(土)15時19分37秒
  こんにちは。ご無沙汰しておりますみなさま。
先日、というかずっと前いただいた本をやっとよみました。
マウスという本でしたが、
なかなか興味深いものを感じました。
ドラッグに関しては、自分はビートルズFANなのですが、
ジョンレノンの発言が書かれてあったのがうれしかったです。
で、本編のほうですが、
オムニバス形式なのですね。
迫力のある文面で読みごたえがありました。
園主様、ありがとうございました。
それではまた。
 

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