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「棒」

 投稿者:hirokd267  投稿日:2016年 8月31日(水)01時03分32秒
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  平凡な男がデパートの屋上から、棒になって落ちた。(なぜ?と問うことは意味がないだろう)
「先生」と二人の学生がそれを見て評論する。「ありふれた無能な男だっただろう」と。

まずここに違和感がある。男の人生はありふれたものだったろうか?仕事もしつつ、二人の子供がある。それまでには結婚があっただろうし、恋愛もあったかもしれない。幼時はどうだったろう?学生時代は?・・・そう考えると、本人にとって「平凡な人生」などあるはずがない、と思える。
安部公房はそこを描かなかったから、この作品で男の人生が問題なのではないと思われる。

もう一つの違和感、それは「先生」と学生が何者なのか?「処罰する」とはどういう立場なのか?ということである。
「地上の法廷は、人類の何パーセントかを裁けばいい。しかし、われわれは、不死の人間が現れでもしないかぎりこのすべてを裁かなければならないのです。」という「先生」のことばから、神か閻魔か、そんな存在を考えなければならないが、これもそれ以上の規定がされていない。
それでそこもパスして次に「処罰」の内容を検討してみる。

「裁かぬことによって裁いたことになる」「だから置き去りにする」というのが、この棒に対する処罰である。
つまり放置する、無視するという罰である。これはどういう罰であろうか?

たとえばある「作品」に対する批評家や読者の評価は、正当に評価、不当に評価(否定・誤解など)、無視、などがある。
正当な評価は作者にとって報償であり、不当な評価は精神と名誉を傷つける。それにくらべると無視はまだ軽い処罰であるが、罰するという行為への責任は伴うはずである。
安部公房は「S・カルマ氏の犯罪」が芥川賞を得たが、無視されたり正当に批評されていないことを言ったことがある。
他の作品も正当に評価されることが少なかったが、それに触れることはあまりなかった。
だがさすがに「第四間氷期」に対する江藤淳の評には「見当違い」と批判した。

私たちも日々、さまざまなことを批評し、判断し、切り捨てたり、取り上げたりして過ごしていく。「無視という処罰」にも責任があることを自覚させられるのである。
 
 
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