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Re: 『第四間氷期』読書会

 投稿者:hirokd267  投稿日:2016年 4月15日(金)02時17分48秒
返信・引用
  大熊さん

こちらこそよろしくお願いします。読書会が終わってもこうして交歓できるのはうれしいですね。「二度おいしい!」とはこのことです。
大熊さんがこちらに書き込んでくださって、アレンさんや私もからんでいくと、この掲示板も盛り上がって、アレンさんは大喜びでしょう(笑)。
私としては読書会では断片的にしか言えなかったことも、ここでまとめることが出来ました。
この上は読書会に参加した方やそうでない方もご意見を書いてくださればありがたいです。
また大熊さんがtwitterでこの掲示板への書き込みを伝えてくださり、私もそれに倣ってtwitterしてみましたら拡散して下さる方がありました。ありがとうございます!

私の読み方に共感して下さったのもありがたいです。
作品の登場人物に、読者のそれぞれが共感し思い入れをする人物を抱くのはあっていいのですが、それも基本的にまっとうな読み方をしたうえでのことでしょう。そしてその読み方は作品の深みや新たな視点を生み出すこともありますね。その点では私はまだまだです。

「風に憧れる少年」は人によっていろいろにとらえられるでしょうね。
私はこの作品の中で唯一の人間らしさを感じたのですが、でもそれは憧れるような人物でもない。また単に「個体発生は系統発生を繰り返す」ということを体現してしまった、ということにもとどまらない。このエピソードは、この作品を「メルヘン」としてロマンとして成り立たせる働きはしているでしょう。そして私はあえて解釈せず、郷愁とともにこの少年の夢を自分の心の中に抱いておきたいと思います。このへんは他の方の意見も聞いてみたいです。


 
 

Re: 『第四間氷期』読書会

 投稿者:大熊  投稿日:2016年 4月14日(木)18時29分22秒
返信・引用
  > No.267[元記事へ]

hirokd267さん

こちらの掲示板でもよろしくお願いします。
さて、勝見博士の作品内の位置をどう見るかですが、おっしゃるとおりだと思います。
先日の読書会では、みなさん(もちろん私も含めて)ちょっと流されてしまったかもしれません。
 情的に流されてしまったことで、勝見の、

>妻に対して冷淡で無理解/封建的家父長の感覚/無理解な親/弱さではなく権力的/
と岡田さんが列挙された「あえて同情すべきでは」ない要素を無意識に見落とし(もしくはあえて見ないふりし)てしまっていたことに気づかされました(本当に下の書き込みを読んではっと気づかされたのです)。

>読者としてはそこを割り引いて冷静に読まなければならない。
そのとおりですね。引き戻していただきありがとうございました。

小説は虚構といえども世界を構築するわけですから、その世界にはいろんな性格や主義信条の持ち主がいて、互いにぶつかったりくっついたりするわけで、勝見博士もそんな登場人物の中の「ひとり」として作品内に存在させられている。
その「ひとり」である人物に共感するのはそれぞれの読みで一向構わないのですが、自分の共感性を以って、それこそ安部公房の感じていたことだと断じてしまうのはたしかに問題でした。
その意味で、

>書かれたことからのみ感じ、判断したい
というのは、まさに小説読みの基本中の基本ですよね。肝に銘じたいです。

>「風に憧れる少年」
について、読書会前はどう解釈したらよいのかわからなかったのが、読書会を経て、なんとなく分かった気になっていたのですが(それは情に流されていたわけですが)、今また分からなくなってしまいました(^^;。
すこし日を措いて、読み返してみたいと思います。
 

Re: 『第四間氷期』読書会

 投稿者:w1allen  投稿日:2016年 4月13日(水)22時30分39秒
返信・引用
  自分の意見を通すことに注力してしまって、相手の意見を充分拾っていなかったかもしれません。
文学の解釈にかぎらず、自他の一致よりも寧ろ相違の相互理解の方が大事だと思っていたのですが・・・
『第四間氷期』の具体的な解釈については、後日します。

http://w1allen.seesaa.net/

 

『第四間氷期』読書会

 投稿者:hirokd267  投稿日:2016年 4月13日(水)03時57分42秒
返信・引用
  大熊さん、アレンさん、深い議論を読ませていただきました。ありがとうございます。
私の読書会の感想・自戒としては、思いを十全に伝えるのはなんと難しいのだろう、ということで、これはいつも感じることです。

さて、この作品については安部のノア思想を過剰に読み込むことは避けたい、この作品に書かれたことからのみ感じ、判断したい、というのが私の立場です。そうでないとノアに邪魔され、本来の読みをゆがめられますよ。また作品の出てくるモチーフにリルケの痕跡を見ようとし、それで何かを説明した気になる人々とあまり変わらないのではないか、と。うんちくはほどほどにしないと。

このような立場からは、例えば最初にアレンさんが書いておられる「権力者側に立つ少数の海底開発協会の人々」とか「平凡な未来を夢見る一般大衆側」の勝見博士、という見方は偏っていると見えます。確かに私は共産党の職場細胞の組織に言及しましたが、これはウラの組織です。未来に権力を持ち得ても現時ではウラであります。一方勝見博士は現時において権力の側にありますし、あとで言うように一般大衆側でもありません。

勝見博士に共感する方が多かったということですが、この作品が勝見の側から書かれていることを忘れてはなりません。それゆえ勝見に共感・同情しやすい作品構造で、読者としてはそこを割り引いて冷静に読まなければならない。
すると勝見は妻に対して冷淡で無理解な封建的家父長の感覚であり(読書会で触れました)、自分の子孫が自分の納得できない社会に生きようとすることを認めず、殺そうとさえする無理解な親でもあります。これは弱さではなく権力的でさえあります。ですからあえて同情すべきではなく、またそうだからこそ、最後に殺されることもそれほど悲劇的ではないのです。私たちは勝見の死に際し、自分の古い残滓を一緒に葬り去るべきでしょう。

一方、頼木らも人間的な感情はまったく表現されていません。共産党であろうとなかろうと、未来を託すべき勢力が(それは歴史的必然であるとしても)これでは、魅力を感じることはできない。
つまり私たちは過去からも道を断たれ、また未来へも「希望」を見ることはできない状況に置かれている。「風に憧れる少年」のごとくにさまよっているわけです。

この状況の深刻さに気づかされれば、では私たちはどうすればよいのか。それを問いかけられているわけですが、現代でもこの問いは有効で、安部公房の作品の場合、やはりここをじっくり考えるべきなのでしょう。
ヒントは示されていると思います。「断絶」にもかかわらず「未来」は到来する。ならば人間的に「未来」を作る側に参画するか、それができなくても、少なくとも未来に開いた「窓」を自分の中に持つ、ということではないでしょうか。もちろん読む人によって感じ方、考え方は異なると思います。

長々と失礼しました。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1000004&tid=0bit8xkbc&sid=1000004&mid=1&type=date&first=1

 

Re: 掲示板名の変更

 投稿者:w1allen  投稿日:2016年 4月10日(日)20時40分58秒
返信・引用
  > No.265[元記事へ]

hirokd267さん

「引用・返信」ボタンつけたほうがいいみたいですね。
掲示板名の件は、私もいろいろと考えます。
私の思いとhirokd267さんの思いに乖離があったのは事実だし、これから摺り合わせして修復しなければならないと思っています。
ただ、安易に変更してしまったのは事実だし、これからはもっと話し合う必要があるなと反省はしています。
これからもよろしくお願いします。

http://w1allen.seesaa.net/

 

Re: 掲示板名の変更

 投稿者:hirokd267  投稿日:2016年 4月 9日(土)00時11分35秒
返信・引用
  > No.264[元記事へ]

ながらくご返事できなくてすみません。

このスタイルの方が、自分でもどのコメントに対応しているのかわかりやすくてよいですね。
不要ならその部分は消せばよい、と。
もちろん手動も使えます。

私もこれから書かせていただきます。


> hirokd267さん、こんにちは
> 「Re=返信」ボタンは、管理者設定でOFFにしていましたので、手動やコピペで、「Re:hogehoge」としてもらうしかなかったのです。
> 今、管理者設定で、「記事の返信・引用」ボタン(投稿の右上に出ます)を付けました。いかがでしょうか?
> teacupでは、何故か、返信と引用を切り分けて設定できないようなのです。
> 掲示板名の変更については、説明が足りなかった部分もありましたので、メールします。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1000004&tid=0bit8xkbc&sid=1000004&mid=1&type=date&first=1

 

Re: 掲示板名の変更

 投稿者:w1allen  投稿日:2016年 3月28日(月)06時47分43秒
返信・引用
  > No.263[元記事へ]

hirokd267さん、こんにちは
「Re=返信」ボタンは、管理者設定でOFFにしていましたので、手動やコピペで、「Re:hogehoge」としてもらうしかなかったのです。
今、管理者設定で、「記事の返信・引用」ボタン(投稿の右上に出ます)を付けました。いかがでしょうか?
teacupでは、何故か、返信と引用を切り分けて設定できないようなのです。
掲示板名の変更については、説明が足りなかった部分もありましたので、メールします。

http://w1allen.seesaa.net/

 

Re:掲示板名の変更

 投稿者:hirokd267  投稿日:2016年 3月28日(月)00時10分24秒
返信・引用
  こんにちは。
項目へのReの仕方がわかりません。
けれど、なぜ掲示板名をこのような、一般の方にはわかりにくい名にされたのか、意味が分かりません。
ひねりが必要な意味もわかりません。
ま、アレンさんの掲示板ですから、ご自由ですけれどね。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1000004&tid=0bit8xkbc&sid=1000004&mid=1&type=date&first=1

 

Re:安部公房とノア

 投稿者:w1allen  投稿日:2016年 3月27日(日)21時45分7秒
返信・引用
  大熊さん

エホバという言葉を出されて、一瞬ウッとなりましたが、ノアを話題にした以上避けられない話題ですね。ひとまず、キリスト教的神と置き換えてもいいでしょうか?
仰るような公房のエホバ観のブレは、『第四間氷期』の重層性とリンクしています。
エホバを絶対視するノアとそうではない一般市民との対比が、海底開発協会と勝見の対比の構造になると思います。
なるほど、そうか。
『第四間氷期』は、一見、微視的連続感の断絶という選民思想的な宣告がなされますが、一方でそのやり方は、決して好ましく書かれていませんね。再三、勝見博士から抗議を受けるのに耳をかさない場面が幾度と有りました。
そうなると、海底開発協会と日本共産党が重なって見えますね。
『されど我らが日々』は、知りませんでした。
無謬性を前提とすると、異なる思想は認められないわけであり、とても恐ろしいことだと思います。大熊さんや岡田さんは、中核派や革マルや赤軍、浅間山荘、よど号などの事件の周辺もご存知だと思います。(『1984年』のイングソックもそういう政党でしたね)

『第四間氷期』は、安部公房の日本共産党在籍晩年の作品です。雑誌「世界」の連載が1959年。除名後、一部改稿されたのが早川書房版で1964年。さらに、入手しやすい新潮文庫が1970年。
早稲田大学の鳥羽耕史先生は、論文にてその異同を挙げ、安部公房の共産主義への態度の変遷が窺えるとしています。

うーむ。少なくとも二義的な話になります。共産主義は良いと思うが、日本共産党はダメという態度で臨むしか無いのですかね。安部公房がどういう思いで、日本共産党を除名され、その後共産主義をどのように思っていたかは今後の私のテーマでも有ります。

http://w1allen.seesaa.net/

 

Re:安部公房とノア

 投稿者:大熊  投稿日:2016年 3月27日(日)16時14分30秒
返信・引用
  アレンさん
ご示唆ありがとうございます。
安部公房はエホバをどうおもっていたのか、ということを、実は考えたことがありませんでした。
アレンさんの論考を読ませていただき、はじめて、公房が(自覚的に)エホバに何かを付託していたことに気付かされました。
アレンさんは大変重要なことを指摘されていると思います。

『第四間氷期』の、一種の「ブレ」は、まさに公房のエホバ観の「ブレ」(でなければ重層性)に発しているものですね。
そのエホバ観は決して一義的なものではなく、相矛盾するものなんだと思います。
その点について、無理なつじつま合わせをせず、思いつくままに挙げてみます。

『第四間氷期』での公房の意図は、まずは一般市民の(エホバの)「羊」性への、苛立ちを伴った断罪であると思います。
その意味では予言機械(方舟)は肯定されている。

ところがそれとは位相を異にする別のスフェアでは、その選民性は否定されるものとして把握されているのではないでしょうか。
それは具体的には、日共のアナロジーになっているわけです(岡田さんが読書会で「細胞」に言及されました)。というかそのアナロジーに引っ張られてしまっている。
党の無謬性が絶対的だったのは『されど我らが日々』で扱われていましたが、予言機械も頼木グループはそのように(無謬であると)みなしています。

それと少し視点がずれますが、選民性は労働者は無自覚な労働者から自覚的なプロレタリアートに「変化」しなければならないという意味もあるはずです。これは上記の「羊」への苛立ちよ相関です。公房の中では「選民性」にその意味も含まれていたと考えられます。選民性の意味内容においても、ブレ乃至葛藤(否定のなかに肯定)があるはずです。

やはり本書成立に、共産党体験が大きく関わっていると言わざるを得ません。もとよりその個別的体験を、もっと一般的な命題に昇華しようとした試みであることは言うまでもありません。
共産党体験に戻せば、日共という組織の選民的性質は否定するも、共産主義という思想自体は肯定せざるを得ない。その二種は別位相のことではありますが、やはり関係的にしか考えられないのが、この時代の人間であるとも言えそうです。
――といつのまにか思考のおぼえ書きになってしまいました。すみません。
 

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