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19号:稲垣健さんの『安部公房---乏しき時代(Die dürftige Zeit)の作家』

 投稿者:w1allen  投稿日:2014年 6月25日(水)10時39分49秒
返信・引用
   実は、私は資本論のことは全くわからない門外漢です。しかし、本文を読んで、何かしら訴えかけてくるものを感じました。
 三浦雅士氏の「安部公房の座標」(全集030「贋月報」)しか読んでませんが、あれは大変インパクトの強いものでしたね。
 マルクス主義に大きな影響を受けた安部公房ですが、同時にリルケの影響も受けていたのですね。その後は、共産党、共産主義、詩について、あまり多くを語っていませんね。これらは、今後の研究課題だと思います。
 さて、表題にある『乏しき時代』とは、「神が死に、その代替物が不足した時代」のことであり、つまり現代のことと思います。
 その中で、創作活動を通して、現代の諸問題を超克しようとした安部公房の後ろ姿が、頭をよぎりました。
 非常に面白い批評でした。

http://www.geocities.co.jp/bookend/2459/novel.htm

 
 

現代演劇レトロスペクティヴ『友達』上演について

 投稿者:レトロ尾崎  投稿日:2014年 6月12日(木)20時48分28秒
返信・引用
  初めて投稿いたします。
兵庫県伊丹市にあります演劇ホール、AI・HALLの現代演劇レトロスペクティヴという企画の担当をしております、尾崎と申します。

この度、同企画において、安部公房氏の戯曲『友達』をsundayという大阪の劇団が上演する運びとなりました。

安部公房の代表的作品で、三島由紀夫の強い薦めもあって、当時長編小説のみが対象となっていた谷崎潤一郎賞を戯曲として異例の受賞をした作品です。

7月13日(日)16時公演終了後のシアタートークでは、安部公房氏の戯曲の演出を多数担った大橋也寸さんをお迎えして、氏の横顔に迫ります。

全国、いえ、世界中の安部公房ファンの皆様にこちらの作品をご覧いただきたく存じます。
詳細は以下のとおりとなっております。
是非お越しください。

sundayホームページ:http://sunday-go.jp/tomodachi/index.html


日時
2014年
7月11日(金)19:30
7月12日(土)15:00/19:30
7月13日(日)11:00/16:00
7月14日(月)15:00

※開場は開演の30分前、当日券の販売は60分前
※未就学児童の入場はご遠慮ください。

会場
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)
〒664-0846 伊丹市伊丹2丁目4番1号 Tel. 072-782-2000
JR伊丹駅より西へ徒歩すぐ、阪急伊丹駅より東へ徒歩7分

料金
全席指定・税込

一般:3,500円
高校生以下:1,500円
シニア(60歳以上。当日、要証明書):2,500円
※当日券は、各500円増しとなります。


”友達” 割引(sunday前売のみ取扱)
3人以上 → 1人 2,500円
9人以上 → 1人 1,500円

http://www.aihall.com/retro/sunday/stage.html

 

長与孝子さんの『安部公房氏との打ち合わせ記録』を読んで

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 5月17日(土)14時25分26秒
返信・引用
  長与孝子さま、

長与さん、ご寄稿ありがとうございました。

このような貴重な記録は、今の若い安部公房の読者にとっても、また長年の読者にとっても、誠に貴重な記録でありました。

当時の30代の、1950年代に児童向けのラジオドラマを執筆していた時代の安部公房の姿が活き活きと蘇って参ります。

旅行で、酒席で論ずる安部公房の議論が、諸処に伺われ、特に1957年(昭和32年)の4月8日(月)の記録、「その後は、ラジオドラマの話は殆どせず、日本人はユーモアが判らず、観念的なレッテル主義、ナンセンスの有効性、コメディ論など。」また同年6月12日(水)の「キッチュ論、シュールレアリスムとは何か、私小説は求道小説であること、象徴主義とシュールレアリスムとの関係などについて話をしていたら12時過ぎになる。」などという記述を拝見致しますと、当時安部公房が、『壁』で芥川賞を受賞した後、その作品のナンセンスな性格を、そのまま児童向けのラジオドラマに移して表現しようとしていたことがよく判りますし、安部公房の1950年代の作品群をみてみますと、確かにそのようになっております。

このたびのご寄稿は、安部公房の一般の読者にとってのみならず、安部公房の研究者にもまた、貴重な記録となり、1950年代の安部公房を知るための資料として、その価値を失うことはないことと確信しております。

ご寄稿、誠にありがとうございました。
 

友田先生の『安部公房×勅使河原宏『1日240時間』の復元上映』を読んで

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 5月17日(土)13時11分33秒
返信・引用
  2014/05/19


友田先生、

『1日240時間』の貴重な、ワークショップについてのご寄稿、誠にありがとうございました。

大変、興味深く拝見しました。

安部公房が万博のテーマの創設に深く関わっていたことは初めて知りました。そうして、自動車のリズム(ということはエンジンのリズムということになるでしょうが)を考えていたことは、安部公房らしいと思いました。
その考えは、身体にあっては、やはり安部公房の演技論に直結していると思われるからでもあります。

そうしてまた、アクセチレンを飲んだ博士がタイヤに変身(タイヤもまたエンジンのリズムをシャフトで受けて、そのリズムを回転率によって刻むものでありましょう)したというシナリオも、これも安部公房らしい発想だと思った次第です。

『ハップ?ラップ?ヘップ』などという試作版シナリオの命名も、児童向けのラジオドラマ(これは1950年代でしたが)の『キッチュ クッチュ ケッチュ』を思わせ、安部公房の言葉に一貫するある好みを思わせました。

縄、棒、布という、これらの素材への関心は、やはり、引用なさっている通りに「あれは一種の存在の原型といった意味で使ってる」とある安部公房の発言は、10代のころから変わらぬ、安部公房の思考の様式を示していると、改めて思いました。鞄然り、箱然りか、と。

また、音源を完全に復元して再度上映なさるとのこと、今回は所用ありワークショップに参加できませんでしたが、次回は拝見をしたいと思っております。

またのご寄稿を戴けると、誠にありがたく存じます。

一号遅れての掲載、ご容赦下さいますよう。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。



 

滝口健一郎さんの『さまざまな安部公房』を読んで

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 5月17日(土)12時52分21秒
返信・引用
  滝口さん、

いつもながらのご投稿、ありがとうございました。

今回は、滝口さんのお好きなゴシック体を使って誌面をつくりました。いかがだったでしょうか。

さまざまな安部公房という題名の元に、普段滝口さんが思っていることをこまめにメモなさってみると、一冊の、なんといったらよいのでしょうか、滝口流の安部公房論が出来上がるように思います。

そうして、このような形のご寄稿もまた楽しいものだと思いました。

またのご寄稿を喜んでお待ちしております。
 

稲垣健さんの『安部公房---乏しき時代(Die dürftige Zeit)の作家』を読んで

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 5月17日(土)12時43分38秒
返信・引用
  稲垣さん、

三浦雅士さんの、贋月報の安部公房論をもとに、マルクスと安部公房の思想の違いを鮮明に書かれた、いいエッセイ(評論)でした。

三浦さんの指摘する、安部公房のリルケの受容と、その精神の在り方、またマルクス批判は、全くその通り、稲垣さんが理解し、再説なさっている通りだと、わたしも思います。

このテーマが、どれだけ、いつも、読者を魅了するものか。

本物と贋物という二項対立軸の交換は、安部公房のリルケ理解によるものです。これを『詩と詩人(意識と無意識)』で、次元展開として、理詰めで、徹底的に思考し、追究しております。これも、三浦さんの言葉として、稲垣さんが引用している通りです。外部と内部の交換は、安部公房の生涯の創作原理でした。

稲垣さんの惹き付けられているそのテーマ、その主題、その勘所は、安部公房全集のテキストのそこここに触れて、間違いなく、豊かな、稲垣さんの言葉として結晶することでしょう。

お好きなテーマでのまたのご投稿を楽しみに、お待ちしております。
 

伊藤さんへの回答

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 4月13日(日)08時19分41秒
返信・引用
  伊藤さん、

こんにちは、掲示板に投稿を下さり、誠にありがとうございます。

わたくしの書いた三島由紀夫と安部公房の一文に興味を持って下さり、Evernoteに貼付して、何度も思いを巡らせているとのこと、ふたりの作家を介しての御縁を感じます。

わたしの書いたことは、二人に共通するエッセンス(本質)です。伊藤さんのおっしゃる純粋思考と関係があるでしょうかというご質問には、その通りですとお答え致します。

この場合、純粋とは何か?ですが、安部公房は既に10代で、それを人間の未分化の状態と考えておりました。この状態を一言で実存と安部公房は言ったのです。この考えは終生変わらず、安部公房の言葉はこの場所から発せられました。

実存、即ち未分化の状態とは、言語の世界では、わたしはAであるという文をつくらずに、わたし自身であることに留まる意志的な努力をいいます。これは、伊藤さんがこころのなかでなさって来た努力に通じていると思いますが、如何でしょうか。その努力は、純粋という言葉で形容されることのできる努力です。反対に、分化した状態とは、この現実、この世の中を眺めれば無数にあることに気付くでしょう。曰く、わたしは父親である、教師である、消防士である、男である、女である等々。様々な視点からの分化のなされていることの集合が社会の姿です。

さて、他方、三島由紀夫という藝術家も全く同じで、勿論実存という言葉を知っていたことでしょうが、そのような哲学用語はつかわずに、美しい仮象仮構の修辞によってその同じ思いを表現しております。例えば、『花ざかりの森』のエピグラフは、安部公房の認識する同じ実存から発せられた美しい2行の詩だということができます。

かの女は森の花ざかりに死んで行った
かの女は余所にもっと青い森のある事を知っていた

伊藤さんが安部公房のエッセイに主に惹かれるのは、上のエピグラフの持つ論理と同じ論理を安部公房が展開しているからだと、わたしは思います。

ひとことで、安部公房の実存と、それから上のエピグラフの抽象的な表現との共通する凝縮(エッセンス)を言えば、その主語は時間の外にいて、時間の中にはいない、そのような関係を構造的、体系的に思考し、表現したということだと思います。

この主題は、書き始めると筆が尽きません。

次号のもぐら通信にこのようなことを書こうと思っていた矢先のご投稿でした。何かの御縁を感ぜずにはいられません。

もし機会があれば、もぐら通信にご投稿下さい。三島由紀夫に関するエッセイでも結構です。

岩田英哉
(いわたえいや)
もぐら通信

追伸:最近新潮文庫の『花ざかりの森?憂国』を読みましたが、この中に所収の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』、『詩を書く少年』、『海と夕焼け』、『憂国』などは、上でわたしが主題と呼んだ主題について書いてあるように思いました。どんなに意匠は異なっていても、根底にあるものは、伊藤さんが直覚している通りに共通であるとお考えになってよいのだと思います。
 

伊藤さんへ

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 4月12日(土)14時34分15秒
返信・引用
  伊藤さん、

ご投稿ありがとうございます。

只今別途メールにて、伊藤さん宛にわたしの返信を発しましたので、ご覧下さい。

よろしくお願い致します。

 

Re: 安部公房と三島由紀夫について

 投稿者:w1allen  投稿日:2014年 4月11日(金)23時22分2秒
返信・引用
  伊藤元治さん、こんにちは。
引用されている文章は、もぐら通信ではなく、「安部公房の広場」のものですね。
http://abekobosplace.blogspot.jp/2013/03/blog-post.html
筆者の岩田に連絡しておきますので、しばらくお待ち下さい。

なお、Googleのアカウントなどをお持ちでしたら、直接「安部公房の広場」に
書き込むことが出来ます。

では、失礼します。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/2459/novel.htm

 

安部公房と三島由紀夫について

 投稿者:伊藤元治  投稿日:2014年 4月 9日(水)17時36分28秒
返信・引用
  三島由紀夫の大ファンで、以前から安部公房の作品(特に評論文)に強く惹きつけられるものがありました。2013年3月号に
「何故ならば、安部公房もまた、三島由紀夫と同じく、性の未分化の状態である男と女をというものを理想の人間として念願し、それを主人公にして小説を書いて来た作家であるからだ」
という一文があって、そのままコピーしてevernoteに貼り付けて、意味を何度も考えています。
小学校5年生の始業式後に、クラスの女の子の自宅に遊びに行き、絵を見ながら楽しく話しているうちに初めて恋した思い出が、今だに私の心に、理想として浮かんできます。そのような純粋志向と関係があるのでしょうか? 私の都合よく解釈しているのではないかと思い、どういった内容であるか、具体的に教えて頂けると嬉しいです。
 

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