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稲垣さんの『安部公房の「孤独」と「文学」の力???雑感』

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 1月14日(火)21時24分42秒
返信・引用
  第16号へのご寄稿、ありがとうございました。

代表作の終りを集約的に引用して示したことが、安部公房という作家の姿を浮き立たせることになって、これは巧まず、面白いご寄稿となりました。

安部公房の小説の最後には、おっしゃる通りの孤独感がいつも横溢しております。そうして、それは10代の詩の時代から変わらず、小説家になったあとの作品の最後には安部公房の透明感覚が出て来て終るのです。

この透明感覚は、孤独ではありますし、実は死と裏腹ではありますが、安部公房の自由の感覚でもあります。

文学の力とは、言葉の力ですし、言葉の力とは思考の力ですね。

稲垣さんの思考の力が独自の言葉となって、安部公房と渡り合う、そのようなご寄稿を遠くない将来に戴く事を楽しみに期待をしつつ、お礼の言葉と致します。

岩田
 
 

前の投稿の題名を間違えましたので、訂正します。

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 1月14日(火)21時24分13秒
返信・引用
  前の投稿の題名を間違えましたので、訂正します。

稲垣さんの『『けものたちは故郷をめざす』と表現者安部公房』でありました。
 

稲垣さんの『安部公房の「孤独」と「文学」の力???雑感』

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 1月14日(火)21時22分35秒
返信・引用
  このたびは、ご寄稿を戴き、ありがとうございました。

安部公房は、10代の詩人の時代から、学んだリルケの教えの通りに
外部に開かれている世界を知っておりましたし、自分の詩もまた小説も
戯曲もそのように執筆したことは疑いを容れません。

そのことを独自の言葉でお書きになっていて、稲垣さんが安部公房に惹かれる理由がよく伝わるご寄稿であったと思います。

『けものたちは故郷をめざす』は、強烈な作品で、わたしも好きな作品です。これもまた、安部公房の脱出の物語だといえましょう。

稲垣さんの哲学的に真摯な思考が、安部公房の世界を素材にして、より深く、言葉が紡ぎ出されることを、益々そうなることを、祈っております。

また是非ご寄稿下さい。楽しみにお待ちしております。

岩田
 

澤井館長の『安部公房没後20年記念講演会報告』

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 1月14日(火)21時21分53秒
返信・引用
  第15号へのご寄稿を戴き、ありがとうございました。

北海道の東鷹栖の地で、安部公房に関する催事のあることを読者に伝えることができて、よかったと思っております。

保坂さんの安部公房へ言及した言葉は、安部公房という芸術家の急所を穿っていて、その肯綮に当たっていると思いました。いいご講演であったのだと、遠く東京から思っておりました。

これからも、東鷹栖安部公房の会の益々の活動を念願致します。

折に触れ、どうぞご寄稿下さいませ。

楽しみにお待ちしております。

岩田
 

滝口さんの『創作の秘密』

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 1月14日(火)21時21分16秒
返信・引用
  滝口さんご自身が創作家ですので、このご寄稿は、誠に興味深いものでした。

安部公房の創作の機微に触れるテキストを集約的に引用したことは、読者にとって価値のあることでした。

わたしの考えでは、或いは知る限りでは、作家には二種類の作家がいるのです。ひとりは、書いて書いて書いて、原稿が良くなって行く作家。もうひとりは、最初の原稿が一番よい原稿である作家です。

安部公房は、前者であり、その師匠である石川淳は後者でした。一緒にロシアや東欧にに船で行ったときに、船中、道中で石川淳と話をして、最初原稿を書いたら直さないと聞いて驚いた安部公房の言葉が、全集のどこかにありました。

ちなみに、わたしも後者なのです。滝口さんは、多分安部公房型の前者ではないかと拝察致します。

またのご寄稿もお待ち致します。ご寄稿も、と言いましたのは、もし安部公房の読者として小説をお書きになったら、これは編集部内の調整が必要ではありますが、もぐら通信にお書きになることも、面白いことではないかと思ったからです。

また、電子書籍化するときには、ご遠慮なく声をかけて下さい。

益々の執筆の盛んなることを祈っております。

岩田
 

秋川さんの『『一角獣の変身』における1963年の安部公房』

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 1月14日(火)21時20分36秒
返信・引用
  秋川さんのご寄稿は、実に美術界からの思いがけないご寄稿でした。

安部公房と言えば、小説や、そしてより少なく演劇作家だという理解が一般でしょうが、やはり20代の初期のころに、総合低術を目指して美術界の人間達と交流したことを、改めて思い出させてくれる貴重な文章でした。

安部公房の言葉は、確かに辛辣で、それはそのまま当時の安部公房の小説に対する真剣な思いを彷彿とさせてくれました。

ご寄稿に感謝です。

秋川さんは、詩人ですので、詩人としての視点から、次回はまた安部公房についての文章を書いて下さると、読者には実に新鮮に驚かれることでしょう。

またのご寄稿を期待しております。

今後とも、よろしくお願い致します。

岩田
 

「もぐら通信」第15号・16号合評会

 投稿者:hirokd267  投稿日:2014年 1月14日(火)20時56分59秒
返信・引用
  頭書の通り、合評会を開きます。

読者の皆さま、編集員の方のご自由な書き込みをお願いします。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1000004&tid=0bit8xkbc&sid=1000004&mid=1&type=date&first=1

 

壁は譬喩(ひゆ)ではない

 投稿者:岩田  投稿日:2014年 1月14日(火)20時40分14秒
返信・引用
  ワダンノキ さん、

ご投稿ありがとうございます。こうして、安部公房の読者の方と交流ができるのは、喜びです。

安部公房は、自分の小説を何かの譬喩であるとか、寓話であるとか、そのように読まれる事を否定しております。

そうして、実際にそれはその通りであると、わたしは思います。

何故ならば、それは譬喩ではなく、現実だからです。(もっとも、譬喩(ひゆ)とは何か?でありますが。)

自分の小説の世界を全くの現実として読者に理解してもらうことを、安部公房は願ったのです。この世にはない、第二の第三の第N番目の現実として、です。

言語による全く別の現実の創造、これが安部公房の関心事でありました。

それゆえに、ワダンノキ さんも、わたくしも、その世界に魅了されるのだと思います。

 

壁の比喩

 投稿者:ワダンノキ  投稿日:2014年 1月13日(月)00時32分20秒
返信・引用
  はじめまして
安部公房は好きで以前からこのサイトも興味深く拝見させていただいていました。

安部公房は比喩の使い方がユニークだと思うのですが、なかでも「壁」の比喩は作品の題名にもなっており、安倍の好んだピンクフロイドにもwallというアルバムがあります。

読んだことはないのですが、「天使」という作品にも壁が無限そのものだったという認識が語られているそうです。

この比喩としての「壁」の謎ときをどなたかしていただけないでしょうか。ずっと気になっています。
 

奥村飛鳥さんの「「棒になった男」上演後記」

 投稿者:岩田  投稿日:2013年11月16日(土)07時37分6秒
返信・引用
  奥村飛鳥さんの「「棒になった男」上演後記」


「― 第一、はっきりするだろ?白か黒か、生きるってことが、はっきりしちゃうだろ? ―」というこの戯曲の科白の引用で始まる文章は、実に奥村飛鳥らしい、生きのいい、全力で安部公房の戯曲を矢継ぎ早に上演し、自らも舞台に立つ、プロデューサーであり役者であるこの人の気合いとこころをよく伝えています。

「棒になった男」の上演成功、おめでとうございます。

このご寄稿は、普通の読者には知られる事の無い文字通りの舞台裏を伝えてくれていて、とても貴重な記録になっていますs。演劇のプロデューサーとは、役者であるということは、このようにものを考え、生きることなのだということが、生きた言葉で語られています。

特に次の箇所は、わたしには奥村飛鳥の矜持をよく示し、言葉の持つ美しさと真実性、そして芝居の基礎と一言で指し示しているけれども、非常に大切な役者の力の源泉を明らかにしていて、何な新鮮なものに触れた思いが致しました。

「安部公房作品は古典ではありませんが、言葉遣いは明らかに現代口語よりもしっかりとした美しい日本語で、これを何の訓練もされていない現代っ子に喋らせても一切、真実味のない言葉になってしまいます。演技は習えば上手くなるというものではありませんが、私たちが安部公房作品を上演する限り、必然的に芝居の基礎があることが、このカンパニーに加わる第一条件になります。」

この箇所を読むと、奥村飛鳥という人が、芝居を演じるということと芝居の科白を如何に大切にしているかがわかります。

このような考えによって集まった役者達の演ずる芝居が成功しない筈がありません。

才能豊かな役者達が集まったので、誰がどの役を演ずるか、演出家の水下きよしさんと頭を悩ませながら考える、その配役についてのあれこれも、興味深く、成る程配役というものは、このように決まるのだということを、これが舞台裏ということなのだということを初めて知る事ができました。わたしにとっては、このようなテキストを読むのは初めてで、貴重な経験でありました。

また、上演の準備をしながら、その間、3つの義曲の統一的な理解を求めて、安部公房の義曲についての有識者と会い続けたというエピソードは、奥村飛鳥というひとを、奥村さんと呼ぶのではなく、飛鳥さんと私をして呼ばしめているエネルギーに溢れています。文字通りに、『飛ぶ男』ならぬ、飛ぶ鳥なのです。

飛鳥さんが、どれ位作家の言葉を大切にしているかは、次の箇所に充分意を尽くしてかたられています。

「これは私の信条でもあるのですが、今回の様に既製の作品をプロデュースする公演で、私たちに許される“アレンジ”は舞台構成だけだと思うのです。作家が孤独に耐えて生み出した作品において、台詞を変える、或いは設定を変えるというのは、仕事として越境行為だし、第一、失礼だとも思います。様々な解釈があって然るべきですが、台詞や設定を変えるということは、ある意味、自分たちの力不足に対する言い訳に思えるのです。私の現場ではとにかく一言一句、台詞のチェックをしています。それが私なりの作品へのリスペクトなのです。」

このように、この芝居は本当に「私たちが丹精込めて作った芝居」となったことでしょう。わたくしはどうしても観る事ができなかったことを、やむを得ないこととは言え、惜しい気持ちで、飛鳥さんの文章を読みました。

最後にこれからの安部義曲の上演にかける思いを書いています。わたしも観客として、また一読者として、飛鳥さんの公演に足を運び、その想いを共有したいと思っております。

益々のご健闘を祈るや切なり。

岩田
 

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