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〈わかったつもり〉への警鐘 一一Amazonレビュー:薬師院仁志『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月20日(水)17時26分31秒
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 〈わかったつもり〉への警鐘

 Amazonレビュー:薬師院仁志『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』
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本書を「民主主義」についての「意外な解釈=本来の意味」を提示する、トリッキーな本だと理解してはならない。

著者の著書の多くは、その扱っている題材や書名や惹句(宣伝文句)からして「常識を覆す、意外性を売り物にした本」という印象が免れがたいし、そういうところで客を釣っている部分も確かにあるだろうが、著者自身は決してそんな「キワモノ」ではない。
著者の主張は、極めてシンプルだ。要は「(今の)常識を疑え」ということであり、「民主主義」理解の問題は、その「重要かつ典型的な一例」にすぎないのである。

たしかに、私自身をふくめて多くの日本人にとって「民主主義」とは「良いもの」であり、十全ではなくても一応のところ日本は「民主主義国家」だと理解している。
しかし、では「民主主義とは、どのようなことを指すのか」と問われると、意外にも明快な返答に窮してしまうのではないだろうか。

例えば「民主主義」における「民」とは、誰のことなのか。

普通に考えれば「全国民」ということになるのだろうし、その国民に選ばれた代議士が、国民の意を受けて政治を行うから「代議制民主主義」ということになるのだろうが、しかし現実には「未成年」に選挙権はない。かつて女性に選挙権が無かったのと同様に、未成年には今も選挙権が無いのだが、これは正当化できるのだろうか。
多くの人は「できる」と答えるだろう。なぜなら「未成年には、政治的意見を適切に語るだけの知識が無いからだ」という理屈だ。しかし、それなら「成人」だから「(最低限の)政治的知識」があると言えるだろうか? もちろん、言えない。そもそも政治なんてものに興味のない人の方が多いくらいなのだ(例えば、日本国憲法を読んだことのある日本国民は、いったいどれくらいいるだろうか)。

では、何を根拠に「民主主義政治に主体たる民」から、「未成年」を含む一部の人を排除することが出来るのであろう。
そもそも、選ばれた「一部の人」にしか「政治的権限」を与えないやりかたを「民主主義」と呼べるのだろうか?

この問いに対する、著者の答えは「少なくとも、ルソーの考えた民主主義は、そのような選民を認めていない。選ばれた一部の者による政治とは、民主制ではなく、貴族制に分類される。字義どおりの民主主義を(「全員参加の民会」以外のやりかたで)実行しようとするなら、選挙(能力選別)ではなく、抽選しかない」ということになる。

しかしまた、ここで著者は言う。「その一方、原理としての民主主義は、いずれにしろ(「全員参加の民会」が可能な)ごく限られた少人数のコミュニティーでしか実行できず、実質的には理念的なものに止まらざるを得ない。したがって、現実的な政治形態として、もっとも理想的なのは、適切に選ばれた人たちによる、全民衆のための貴族制政治だ、とルソーは考えた」と。

ここで、勘違いしてはならないのは、著者は現在の「輪郭のぼやけた民主主義」理解を批判するために「語源的な民主主義」を持ち出しているわけではない、ということだ。「おまえら、民主主義という言葉の本来の意味も知らないで、適当なことを言うな」といった(適菜収的な)物言いがしたいわけではないのだ。
そうではなく、現在の「輪郭のぼやけた民主主義」がどのようにして生まれたのかを、「民主主義観念の歴史的変遷」を学ぶことによって知らなければならない。そうでないと、今の「民主主義」という曖昧な言葉の「字づら」に惑わされて、実質的「非民主主義」を甘受せざるを得ない状況に陥ってしまう恐れが十二分にあるという、これは「警鐘」なのである。

だから、これは「民主主義」だけの話ではない。「市民」という言葉についても、私たちは、至極曖昧な理解しか持っておらず、そのせいで、いつのまにか「市民としての権利」を失っているといったことになりかねない状況下におかれているのだ。

「民主主義」にしろ「市民」にしろ、あるいは「自由」にしろ、そうした言葉は「封建的権力から奪取した、近代的な人としての価値」だと漠然と肯定的に理解しているが、実際のところ、それが何を意味しているのかを、よく考えたこともなければ、調べてみたこともない。
そんな私たちに、著者は「それで本当に大丈夫なの?」と問うているのである。

もちろん、それで大丈夫なほど、世の中は甘くない。
私たちは今このときも、それと気づかずに「危うい綱渡り」をしているのである。

では、私たちは何をしなければならないのか?
「それ」を考えることをしなければならないのである。

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思考停止が〈差別〉を生む 一一Amazonレビュー:小早川明良『被差別部落の真実 創作された「部落の仕事と文化」イメージ』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月19日(火)22時33分10秒
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 思考停止が〈差別〉を生む

 Amazonレビュー:小早川明良『被差別部落の真実 創作された「部落の仕事と文化」イメージ』
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すばらしい本だ。
本書は、いわゆる「被差別部落」問題を扱っているし、著者自身、その出身者であるけれども、著者の「被差別部落」問題に取り組む姿勢は、偏りのない、きわめて真っ当に学問的正道をいくものであり、これを公然と批判できる正論などは、どこにも存在しないだろう。
しかしまた、その「正道をいく姿勢」が、帯文にあるように『部落問題認識のコペルニクス的転回』をもたらすものなのだとしたら、これまでの「部落差別認識」が、いかに偏向したものであったのかも、おのずと明らかなはずだ。
著者は、そうした偏向や歪みの是正に、真正面からとりくんでいる「覚悟の人」なのである。

なぜ、そうした偏向が起こるのか。その根本にあるのは「思考停止」である。
差別が「許されざること」であるのは自明の事実であり、にもかかわらず、それが「横行する現実」が常に存在している。だから、まずはその「現実を変えていく」作業が先決問題とされるのは当然であろう。しかし、「差別」という「目の前の現実」と、それを改めていくという「目の前の作業」に比較すると、「なぜ差別は起こるのか?」という「原因究明」の作業は、どうしても「二の次」扱いにされてしまい、「ひととおりの説明」がつけば、人はそれで安心してしまいがちである。まして、その「ひととおりの説明」が「魅力的なもの」であれば、人はそれ以上の「正確な原因究明」の必要性を感じない、という陥穽に陥ってしまう。

つまり「昔のこと(差別の成り立ち)を、完全に正確に再現することは原理的に不可能なんだし、その意味で学説的には色々あるのが当然だ。だから、そのどれが正しいのかという学術的議論は、不必要だとは言わないが、もっと大切なのは、目の前の現実たる差別をなくす運動なのであって、原因究明はそこまで急を要する話ではないのではないか」という考え方が、「差別の原因究明」を疎かにさせる。

その結果、生み出された「一般的な差別の起源論」として代表的なのが、「封建的身分制の残滓」と「職業に関わる、観念的な穢れ」論である。
「封建的身分制の残滓」とは、江戸時代に成立した「士・農・工・商・穢多・非人」といった身分制度が、明治の解放令以降にも残ってしまったという説明であり、「職業に関わる、観念的な穢れ」論とは、部落の人たちは斃馬牛の処理に関わる仕事(皮革関連業や食肉生産業)など、屍体や血に触る職業に就いたため「血穢に染まっている」と宗教観念的に理解され、差別の対象にされていった、というような説明である。
こうした説明は、部落差別問題においては「常識的な議論」であり、部落差別問題に興味のある人なら、専門書も含めて、何度も読まされ聞かされてきた、常識的な「部落差別の起源論」だと言えよう。
しかし、本書の著者は、これを間違いだと真っ向から断罪する。

無論、差別の原因として、そうした要素が無かったと言うのではない。そういう要素があって、一定の働きをしたのは事実だけれども、それは部落差別を生む要素としては「わかりやすい、ごく一部の要素」でしかなく、そのわかりやすさの故に「本質」だと誤解(拡大解釈)されてきたものに過ぎないし、そのことにより「もっと重要な要素(主因)」が見逃されることにもなった、と論じている。

その重要な要素(主因)とは「権力による管理」であり「資本の論理」である。
こうした視点で「社会問題」を考えるというのは、きわめて常道的であり常識的でもある。なのに、なぜそうした「当たり前の視点」からの取り組みが、なおざりにされてきたのだろうか。

それは、「権力による管理」や「資本の論理」という論点は、たしかに学問的には常道的であり常識的であっても、一般人には容易に理解できるものではないからだ。そうした視点から問題の本質を考えるためには、「目の前の問題」を見ているだけでは、まったく不十分であり、「目の前の問題」を「全体(の問題)」のなかで位置づけるだけの「知見と思考努力」が必要なのである。だが、これが「部落差別反対運動」には欠けていた。

もちろん、差別された人たちが、血の涙を流し、怒りにうちふるえる「目の前の現実」においては、「客観的な視点」の確保は容易なことではない。それは著者自身も重々承知しているのだが、しかし、その「当事者意識」に縛られつづけていると、物事は正しく見られなくなることもあるし、それで道を誤ることもある。どんな人間であれ、どんな正当な怒りであれ、頭に血の登った人間は、物事を適切に判断することが困難になるのである。
だから著者は、被差別部落の仲間たちに対して、あえて「スティグマ(聖痕)」をふりまわすな、自身が「特別な人間」だと考えすぎるなと警告する。つまり、被差別部落民もまた「ただの人」であり、特別に劣ってもいなければ、特別に優れているわけでもない。その「ただの人」が、特別に蔑視されていることが問題なのだ、という現実を、まずは正しく理解しなければならない。
そして、それができれば「差別の起源論」として「封建的身分制の残滓」や「職業に関わる、観念的な穢れ論」といった「一面的な説明」がいつまでも担がれることにもならず、本質を見誤ることにもならないと、著者は言う。

「一面的な説明」にとらわれて「本質」を見誤ることの、最大の問題点とは何か?
それは「差別の(改訂的)再生産」を看過してしまうことになる、という点である。

間違ったところや一点にばかりに注目しているということは、肝心なところを見落としているということであり、そうであれば、見落としているところで「差別が新形式によって再生産」されることになるのだが、それに気づかず、あるいは気づくことが遅れて、再び三たび、痛手をこうむることにならざるを得ない。これは理の当然なのだ。
だから「目先の問題」と「わかりやすい説明」だけにとらわれて、いつまでも「問題の本質」の探求を怠っていると、結局は「権力と資本の論理」という圧倒的な脅威に裏打ちされた「差別」に打ち勝つことはできない、ということになる。だからこそ、著者は「難しくても考えよ、思考停止に陥るな」と訴えるのである。

したがって、こんな著者を「現実知らずの、頭でっかちの学者」だなどと思ってはいけない。
著者は、誰よりも「反差別への熱い思い」を持っていればこそ、「安直な政治主義」という主流派の態度に抗って「理想を捨てるな」と説くのである。

『 人はよく「それは理想論だ」なんていう。しかし、理想を捨てて、ちょっと低いところの要求を実現して、個人の尊厳が守られるのだろうか? 高い理想をもたない、つまり思想が貧困だから現実に迎合するんだよ。ある人からわたしは教えられた。どんな絶望的な状況下でも、希望を失わない人が生きて、解放を実現すると。』(P272)


そして、こんな著者の理想を支えているのは、次のような現実への直視とそれへの思いなのである。


『 わたしは被差別部落出身で自殺した人のことを、個人で知り得た限りメモしている。
 忘れず、いつか無念を晴らすために。すべてが部落差別の結果だとはいわない。しかし、24人もいる。結婚差別は多い。仕事がきまらないで悲観した人もいる。
 結婚のさいも、就職のさいも、たかがしれた理由で、人をかんたんに排除する。しかも、その理由があきらかに部落差別による忌避なのかどうかがわかりづらく、責任追及もできない。初婚と再婚のときの両方で身元調査された部落出身者もいる。

一一 たかが知れた理由……ですか。(※ 質問者)

 そう、結婚のときに口にだされる「世間体」もくだらない。さらに(※ 差別を正当化する、経済的口実としての)「人的資本」や「生産性」なんて、人間の価値となんの関係もない。たかが知れているよ。』(P215)


『たかが知れている』理由によって、悲嘆の中で死に追いやられる「ただの人」たちがいて、『たかが知れている』理由によって、悲嘆の中での死に人を追いやって、痛みを感じることのない「ただの人」が大勢いる。この度しがたい「人間の愚かしさ」という『絶望的な状況下でも、希望を失わない』と著者は、死んでいった人たちにそう誓っているのである。

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朽葉色のフィルター:須賀敦子小論 一一Amazonレビュー:須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月17日(日)10時30分58秒
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 朽葉色のフィルター:須賀敦子小論

 Amazonレビュー:須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』
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本書のレビューは、ponzoh氏の「頭で読むのではなく心で読むエッセイ」に尽きると思う。

『文章は平易で読み易いのだが、不思議とイタリアの情景が心に浮かんでくるところがすごい。
著者が観てきた世界にどっぷりはまって、気づいたら読了していた。
何でもない話なのだが、爽快な読後感を味わえるし、活き活きとした情景が浮かぶ文とは何たるかを学べる作品であった。
須賀 敦子さん、有難うございました。』

まったく同感だ。
だが、その上で、このレビューが完璧なのは、タイトルの「頭で読むのではなく心で読むエッセイ」という評価の方であり、星5つではなく「星3つ」という、レビューの中身の割には辛い評価の方だ。

なぜ、ここまで誉めておきながら「星3つ」なのか。
それは、本作には、そしてたぶん須賀文学には『頭で読む』部分が不十分だと感じられたからであろう。

ponzoh氏と、結果的評価はまったく同じなので、私は以下に「星3つ」の意味を論じたいと思う。

 ○ ○ ○

ponzoh氏は、本書の「気に入ったフレーズ」として、次の引用部分を紹介している。

『私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、
だれか友人の思い出に、なにかの出来事の記憶に、しっかりと結びついている。
通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思い出したり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。
十一年暮らしたミラノで、とうとう一度もガイド・ブックを買わなかったのに気づいたのは、日本に帰って数年たってからだった。』

なぜ、ここなのか。
それは、ここに本書の、そして須賀の本質がよく顕われているからだ。
つまり「ガイド・ブックではなく、記憶」とは、「他者の視点ではなく、自己の視点」ということであり「頭(理性)で書くのではなく、心(情緒)で描く」ということだ。その結果「頭で読むのではなく心で読む」作品になっている、という評価なのである。

もちろん私は、本書が「非理性的な作品となっていて、よろしくない」などと言っているのではない。そもそも「文学」というものは徹底的に「個人の視点」に拠るものであって、客観的事実では「文学」にはならない。
しかしまた、では「文学」には「客観性の強度」が必要ないのかと言えば、決してそんなことはないし、須賀自身もそのことは重々承知している。

『 全体としてみると、小説、というよりは、童話めいていた。アシェルは、おそらく、自分とミリアムの、あっという間に終ってしまった結婚生活について語ろうとしたのだけれど、十分な客観化に到らないで、作者の個人的な嘆きが、シチリアの泣き女の葬送唄のように重苦しくたゆたって、作品の印象を弱めていた。』(P198)

「客観的事実」などという怪しげな権威に盲従せず、徹底的に「個人の視点」で、著者が全責任を負って書かれるべきが「文学」だからこそ、そこには「主観的視点を厳しく戒める客観的視点」を「著者自身の(主観的)視点」に繰り込むことが必要なのだ。その「個人の中における、主観と客観(理性と情緒)の葛藤」が十二分にあってこそ、個人的な作り事でしかない「文学」は「客観的事実」を越えて行く強度を備えるのである。

そして、須賀自身もみとめる「客観性」の重要性とその強度において、本書『コルシア書店の仲間たち』は、著者自身が思っているほどのものであり得たかという点で、私は(そして、たぶんponzoh氏も)「星3つ」という評価を下した。
と言うのも、私には(そして、たぶんponzoh氏にも)、本書はどこか『童話めいていた』もののように感じられたからである。

たしかに、酔わせる「物語」にはなっている。しかし、これは「須賀敦子という朽葉色のフィルター」を通して「美化されたフィクション」だからだ。
エッセイが「事実そのまま」を語るものでないことは、もはや縷説するまでもないだろう。

『 (※ ナタリア・ギンズブルグの自伝的小説『ある家族の会話』という作品は)自分の言葉を、文体として練り上げられたことが、すごいんじゃないかしら。私はいった。それは、この作品のテーマについてもいえると思う。いわば無名の家族のひとりひとりが、小説ぶらないままで、虚構化されている。読んだとき、あ、これは自分が書きたかった小説だ、と思った。』(P196)

こうした意識が、著者の根底に伏在しているのだから、エッセイだって同じなのである。

そして、このような「虚構化」のあることを意識して読み、その演出効果を差し引く(フィルターをはずす)ならば、本書の登場人物たちもまた、意外に私たちの身近に(日本にも)いる「普通の人」でしかない、と感じられるのではないだろうか。
彼らの生きる様が、あのように「切ないドラマ」として読まれてしまうのは、その設えられた「美しい舞台」と「去りゆくものの物語」として強調された陰影が、著者の「願望」の反映として、色濃く与えられていたからではないか。

では、須賀敦子の描く世界を支配する、その「願望」とは何か。
それは「夢見られた理想が色褪せていくなかで、ぎりぎり救い出される記憶(思い出)」である。

例えばそれは、本書冒頭のエピソードで印象的に描かれる、コルシア書店のパトロンである老女ツィア・テレーサや、詩人で左翼で傍若無人なダヴィデ・マリア・トゥロルド神父の描き方に典型的であろう。両者はともに、最初は一種の「憧れの人」として見られていたが、テレーサは老いてその魅力を失い、ダヴィデ神父はだんだんその雑な思考が明らかになって、著者の尊敬を失う。
また、ミケーレやアショルだって同じだ。彼らは「変わった」かも知れないのだが、著者は「記憶の中にいる彼ら」にこそ愛着する。
そして、こうした経緯は「コルシア書店」の経緯そのものでもある。ありし日輝いていたコルシア書店は、やがて寂しい落日を迎える。
本書はそういう「物語」なのだ。

しかしながら、たぶん著者には、自身が「コルシア書店」やその「仲間たち」に対して、かなりのところ客観的であり得ているという自信があったろう。それは彼女自身、カトリック信者でありながら「教会権力批判」をして見せたりするところや、

『ニコレッタのお先まっくらで、真摯で、自己中心で、未完成そのものの語り口は、思いがけなく新鮮だった。思想のかけらもない、彼女のむしゃぶりつくような人生への期待と要求が、むしろ、こころよかった。彼女の知的なそっけなさが、精神にまでとかく曲線を誇張するイタリアの女性のなかにあって好もしく、より自分に近いものに思えた。』(P121~122)

と、イタリアの女たちの「情緒性の強さ」に比して、自身の『知的なそっけなさ』を高く評価している点にも、著者の自己認識が窺える。

しかし私は、客観的に見て、著者が『知的なそっけなさ』を十二分に備えた人だとは思わない。
それは、他者を語った場合の、つぎのような評価に明らかだろう。

『(※ コルシア)書店が発行していた小冊子で読んだこの書店のありようが、純粋を重んじて頭脳的なつめたさのまぬがれない、フランスのカトリック左派にくらべると、ずっと人間的にみえて、私はつよくひかれた。』(P44)

著者は、自身の「知性」を十二分に自覚していて、自信も持っている。だからこそ、無教養な者の中に本物の知性を見たり、教養高き人たちに死んだ教養を見ることも出来るのだ。

だが、「知性」や「理性」や「教養」のある人が、十二分に自身の「情緒」をコントロールできるとは限らない。
と言うよりも、「情緒」は、「知性」や「理性」や「教養」では、基本的にコントロールできない。それは、性的禁欲の誓いをたてたカトリック神父たちによる「児童虐待事件」の頻発など、人間の「動物的(物理的)本能」に由来する問題に明らかなのである。

「情緒」を単なる「気分」くらいに考えているから、それが「知性」や「理性」や「教養」あるいは「意志の力」でコントロールできるなどと軽く考えてしまう。
しかし、麻酔薬や覚醒剤などを射たれれば、人は誰でもその薬効によって、通常の認識能力を失ってしまうのと同じで、「性欲」も各種の「情緒」も、それらは単なる「気分」などではなく「脳内における物理的化学反応(脳内物質による科学的現象)」だと理解すれば、「知性」や「理性」や「教養」や「意志の力」で「情緒」がコントロールできる、などというお気楽な(情緒的な)思い上がりは、とうてい持てないのはずなのである。

そして、このような「つめたい」までの客観性にさらされたとき、須賀敦子の、自己認識の甘さゆえの「客観性の不十分さ」と「情緒性」も、おのずと明らかになるのだ。

じつは私は、本書を「キリスト教研究」の一端として読んだ。
須賀敦子という「神の実在を信じる人」の、文学者としての「目の強度」を測るために読んだのだ。だから、その「物語」に気持ちよく酔うことを期待して読んだ人とは、おのずと読みの態度や心構えも違っていたのである。もちろん、作品は楽しめばいいし、本書は楽しめる作品だが、私が注目したのは、その「強度」だったのである。

では、こんな私と同じような評価をし、しかしそれを率直に語りはしなかったponzoh氏とは、どういう人なのか。
氏がフォローしている作家が『言ってはいけない 残酷すぎる真実』などの著者として知られる「橘玲」であることを知れば、おのずとその立ち位置も理解もできよう。
橘は前記『言ってはいけない』で脳科学的知見を援用し、好んで、人の「願望充足的幻想」を暴きたてている、「つめたい」どころか「あつい」くらいに「イケズ」な理性の人なのである。そしてponzoh氏は、橘玲ほど「あつい」イケズではなかったものの、「つめたい」客観性は持っていた、ということなのだろう。

近年、「脳科学」が「信仰」の根拠を揺るがせているように、すこしでも橘玲的な「冷徹な視点」を持っている人であれば、須賀敦子の無自覚な「甘さ」や「弱さ」は、彼女がカトリックであることを知らなくても、明らかであろう。
そういう読者にとっては、文春文庫版解説者である松山巖のような「感情移入」的評価は、とうてい下し得ない。そして、その結果が「星3つ」だったということなのである。

『 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならないと孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。』(P232)


しかし、彼女が、このような「現実の黄昏」を受け入れることが出来たのは、たぶん「神」だけは不変であり、いつもそこにいるという安心感が残ったからなのではあるまいか。「孤独」ではなかったからではないだろうか。

しかしまた、「文学」の神は、仲間内の幻想や馴れ合いや依存を排除して、「孤独」を突き詰めた先にこそ立っている。
「古き良き文壇」における忌憚のない相互批評が失われ、商業的な「売らんかな」の提灯持ちが当たり前になった時代に、作家・須賀敦子は生まれた、と言っては、『純粋を重んじて頭脳的なつめたさのまぬがれない』評価だと評されてしまうだろうか。

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「宗教は怖い、宗教性は好き」な日本人 一一Amazonレビュー:西村明編『隠される宗教、顕われる宗教』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月14日(木)21時45分53秒
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 「宗教は怖い、宗教性は好き」な日本人

 Amazonレビュー:西村明編『隠される宗教、顕われる宗教』
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「宗教は怖い」が「宗教性は好き」という矛盾に、気づいていないのが、宗教・宗教性に無知な日本人の特徴であると断じても良かろう。

宗教について詳しくはないが、テレビニュースで報じられる事件などで「宗教は怖い・得体が知れない」というイメージを持つ半面、テレビ番組やマンガなどで好意的に描かれる「宗教性」については「害もなさそうだし、役に立ちそう」だからと、おおむね好意的でいられる。

しかし、当然のことながら、いわゆる「宗教」とは、宗教性を持ったものの一部であって、別物ではない。

宗教性というものは、伝統宗教にも新興宗教にもあるし、世界宗教にもカルトにもある。そして、山や川に神や妖精や霊性を見る自然宗教などにもある。

つまり「宗教性」というものは「非理性的観念」のすべてに、多かれ少なかれ内在するものであって、いわゆる「宗教団体を形成している宗教」だけにあるのではない。組織や集団や法人といった「わかりやすい形態」を採っているものだけが「宗教性」ではない。
例えば、野の花に話しかけ、心が通じると感じている人、神社の鳥居をくぐると、そこになんとなく「非日常的な清浄感」を感じる人などにも「宗教性」がある。
もっとも、そんな人など山ほどいるから、特別に「宗教」的なものと認識されないが、そういう人が集まれば、それは「宗教」になってしまう。

このように「宗教」とは、「宗教性」を持ったものが、現実的に目に見える形態を採って、人々の前に現れ、無言のうちに、人々に対して、それを認めるか否かの態度表明を強いるような「存在的な力」を持ったものであり、その段階で「宗教」と認識される。

つまり「宗教」とは、「個人を圧する力」であり、それにすがる人もいれば、その押しつけがましさを疎ましく思ったり脅威と感じたりする人もいる。
一方「宗教性」には、まだそうした「個人を圧する力」が無いので、人はそれを個人的にコントロール可能なものだと、軽く受け止め、気軽にそれに接することもする。弄ってみて、楽しければ弄り続けるし、何か嫌なところがあれば捨てればいい、という感覚でつきあってみることのできるのが「宗教性」だ。

だが「宗教性」と「宗教」は、その本質においては同じであって、違いは現実的形態にすぎない。
だから、その現実的形態の下に隠れた本質を読み間違えると、大変なことにもなる。
「宗教性」の持つ「超越性」とは、「非合理性」でもあれば「非日常的な力」でもあるのだから、人々の「日常」を破壊する力すら秘めている。
「力としての宗教性」は、人を内面から作り変えていく力を持っており、その力は決して侮れない。そう、「宗教」は無論、「宗教性」もまた、それに無知な人間が、気易く弄んでいいようなものではないのである。「宗教」ばかりではなく、いや「宗教性」こそが、人を呪い、人に憑くのである。

そしてこれは、無神論者である私が、その力と危険性を、無神論的に認めているということであり、その意味で警告を発しているのである。
「宗教性」を弄ぶ人は、「宗教性」に無知なのであり、その態度は「サソリを弄ぶ子供」にも類比的だと言えよう。その子にとっては、サソリは「面白い虫(の一種)」でしかない。しかし、サソリは猛毒を持っており、人をも刺し殺す力を秘めている。
もちろん、毒も薄めれば薬になることはあろう。しかし、それは「宗教性」に無知な素人が手を出してよい作業ではないのだ。

しかし今日、「宗教」と「非宗教」の境界線は見えにくくなっている。
それは「宗教性」が、「宗教」という見えやすい形態を採らずに、「ポップでライト」な浮動的形式や「真面目で誠実」な人当たりの良い形態を採って、宗教に無知な人にも、安心して操作可能な「宗教性」という形を取り始めているからである。

そして、そうした現状を示すのが、本書のテーマである『隠される宗教、顕れる宗教』ということなのだ。

「宗教」は「宗教性」という形で隠されて、「宗教性」という親しみやすい形で顕れていく。
どちらも、宗教の宗教たる本質が見えにくくなっていることに変わりはない。
そこに危険があるのだ。

本書には、その危険回避の処方箋は無い。
ただ、まずはその現状を厳しく認識していくしかない。それが学問としての宗教学の使命だからだ。

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『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の出した回答

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月11日(月)21時52分48秒
  みなさま、私、先日(3月4日)『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第7章「新星篇」』http://yamato2202.net/)を映画館で観てまいりました。
1978年に劇場公開された映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』をベースにして制作された全26話のシリーズ作品を、全7章にわけて上映する劇場上映版の第7章(最終章)でございます。

最初のテレビシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』(1stシリーズ)は、その後の約40年間、絶えず何らかの続編的新作やリメイクが作られた、日本のアニメ史に残る画期的傑作シリーズでございますが、その続編として作られた最初の作品である『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は、私の世代のアニメファンには、前記1stシリーズにも匹敵する、特別な感情を残した「伝説的作品」でございました。

1stシリーズの技術的に古くなった部分を、今の技術と創意工夫で補ったリメイク作品としての『宇宙戦艦ヤマト2199』が、かつてのファンでもあったスタッフによって作られたというのは、ごく自然なことだと存じますが、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(以下『さらば宇宙戦艦ヤマト』)のリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』が作られた意味は、それに収まるようなものではございません。
というのも、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のラストは、主人公である古代進が、恋人である森雪の遺体を抱いて、独りヤマトの乗船し、もはや正攻法では勝てない巨大な敵に「特攻死」することで幕を閉じるからでございます。

つまり、1stシリーズでは「我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か、くそでもくらえ!」という最終盤での古代進の台詞に象徴される「絶対平和主義」のテーマに対し、その続編映画である『さらば宇宙戦艦ヤマト』は「いくらこちらが平和を望もうと、問答無用で戦いを仕掛けてくる相手とは、生きるためには戦いしかないし、場合によっては特攻死すら必要となる」というアンチテーゼを突きつける作品になってしまっていたのでございます。

ですから、主人公たちの自己犠牲的な死に涙した、当時の若いファンたちの間では、このラストを認めるか認めないかで侃々諤々の議論がなされました。
そういう「いわくつきの名作」が『さらば宇宙戦艦ヤマト』であり、そのリメイクを作るということは、『さらば宇宙戦艦ヤマト』のラストについて、それを肯定するにしろ否定するにしろ、何らかの態度を表明することにならざるを得ない、ということになるからでございます。しかしこの課題は、いかにも難問なのでございますね。
はたして『さらば宇宙戦艦ヤマト』によって遺された「40年間の呪縛」を、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は解くことが出来たのでしょうか?


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【!ネタバレ注意!】◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第7章「新星篇」』は、終盤で『さらば宇宙戦艦ヤマト』と同じように、古代と森雪の二人が乗ったヤマトが、超エネルギー生命体であるテレサに先導されながら、敵のガトランティス本体に特攻していき、『さらば宇宙戦艦ヤマト』と同じように、視野の彼方で巨大な閃光とともに消え去ります。つまり、テレサとヤマトの特攻により敵を倒して地球が救われたことを暗示するシーンが描かれたのでございます。
このシーンは、ほぼ『さらば宇宙戦艦ヤマト』を踏襲しており、大きな違いとしては、森雪は死んでおらず、その前段でいったんは死にかけたが回復して、自らの意志で古代の特攻に同行したという点でございます。

これを見て、私は素直に「やっぱり、これしか出来なかったか」と思いました。
というのも、本シリーズ『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』においては、古代は常に「戦うべきではない」「波動法を撃ってはいけない。同じ誤ちを繰り返してはいけない」と言いながらも、結局はどうしようもない局面での苦渋の選択として、ガトランティスと戦い、スターシャとの約束としての「波動法の封印」を破ってきたのだから、その違約の落とし前をつけるのは「これしかない」と思えたのでございます。言い変えれば、最後にガトランティスを倒し、古代も森雪も生き残って万々歳というラストにだけは絶対に出来ない、と考えたのでございます。

しかし、本作『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は、これでは終りませんでした。
対ガトランティス戦から数年後、地球の「時間断層」に、消滅したはずのヤマトが、こつ然と帰還したのでございます。しかし、そのヤマトの船内に古代と森雪の姿はなく、ガトランティス戦で戦死したと思われていた山本玲一人が、生きて発見されたのでございます。そして、その山本が伝えたのは、想像もしなかった、古代たちのその後でございました。

それは、時空をも越える超エネルギー生命体であるテレサとヤマトがガトランティス本体と衝突して、ガトランティスを消滅させた際、ヤマトはそのエネルギーによって、別の時空間に跳ばされ、古代たちはそこで今も生きている、ということでした。そこで真田が推測したのは、生き残ったヤマトクルーたちの思念が何らかの作用をした結果、ヤマトは地球の「時間断層」を通過して、この宇宙に呼び戻されたということでした。
しかし、ではなぜ古代と森雪は帰って来なかったのか。山本玲が言うには、古代は、結局は戦うことしか選ぶことの出来なかった自責の念と、殺し合う運命から逃れられない人類の宿命に対する絶望から、この世界に戻ってくるという積極的な意志が持てず、その迷いが彼をその異空間に止めており、森雪はそんな古代のもとに留まっている、ということだったのでございます。

さて、ここで『さらば宇宙戦艦ヤマト』には無かった『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』特有のSF設定である「時間断層」について説明しておかねばなりません。

『 時間断層とは、『宇宙戦艦ヤマト2202』で発見された特殊な空間のことを指す。コスモリバースシステムの副作用で発生した空間で、この時間断層内部では通常の空間と比べて、時間の流れの速さが10倍早くなっている。つまり、通常の空間で1日経ったとき、時間断層内では10日経っているということになる。
 この特殊空間のことを、「コスモリバースシステムの負の遺産」と呼ぶ他、「リバースシンドローム」とも呼ばれる。キーマンは、
「蘇った地球が、美しい自然の中で密かに抱え込んだ闇」
と表現している。
(中略)
 時間断層には、ガミロイドを利用して造船所が建設され、ここで大量の地球防衛艦隊が建造され続けている。これが(※ 対ガミラス戦争後)わずか3年の内に多数の波動砲搭載艦をはじめとする大規模な艦隊を整備することができた要因である。』
https://dic.pixiv.net/a/時間断層)

この説明文にある『コスモリバースシステム』とは、1stシリーズの「コスモクリーナーD」のことでございます。オウム真理教事件でこの言葉が使われたせいもあってか、『宇宙戦艦ヤマト2199』の段階で今風のネームングに変更されたましたが、内容は同じと考えても良いでしょう。
ともあれ、ヤマトがイスカンダルから持ち帰った「コスモリバースシステム」によって地球は、ガミラスの遊星爆弾によってもたらされた放射能汚染から完全復活したのでございますが、じつはそのかげで地球の地下に「時間断層」を抱えることになり、皮肉にも人類はこれを利用して、またもや軍事力を増強することになったのでございます。

さて、話を戻しますと、古代と森雪が、異空間とは言え、まだ生きていることを知ったヤマトのクルーたちは、この時間断層を使い、ヤマトに乗って古代たちを迎えにいこうと考えます。
しかし、ヤマトをその空間に跳ばすためには、テレサの死がもたらしたものと同レベルの、無限に近い膨大なエネルギーが必要であり、それを生み出すには「時間断層」を犠牲にするしかないことが判明します。つまり、人類は、人類防衛の最後の砦である時間断層を棄ててでも、人類を救った古代たちを救いにいくか、それとも時間断層を固守するか、その「二者択一」が迫られ、その選択は、地球連邦全国民による「国民投票」に託されることになるのでございます。

そこで、その国民投票に先んじて、二つの選択肢の意義を説明する演説が、それぞれになされます。一方は「時間断層の存続は、人類存続の生命線であり、それを棄てるわけにはいかない」というものであり、それに対し「時間断層を棄ててでも、古代たちを救いにいくべき」という選択肢の意義を語るものとして、真田志郎が次のような演説をするのでございます(私の記憶による、演説要旨の再現)。

『古代たちを救いにいくために、力を介して下さい。私がここでみなさんにお伝えしたいのは、古代は決して英雄などではなく、私たちと同じ人間であるということです。彼は、いつも和平を求め、戦うことを避けようとして、最大限の努力をしてきました。しかし、そんな想いにもかかわらず、状況がそれを許さず、彼は悩み苦しみながらも、やむを得ず戦うことを選ばざるを得なかったし、その指で引き金を引かなくてはならなかった。それで自分自身傷つきながら、それでも生きていこうとする、そんな我々と同じ人間だったのです。そして、そんな彼だからこそ、我々は、我々自身を救いにいかなければならないのではないでしょうか。』

そうでございます。ここには「戦うことではなく、愛し合うこと」という「理想」を目指しながら、しかし「生きるために、やむを得ず戦わざるを得ない」という「人間の現実」との「両立」が語られているのでございます。
それは「戦うことを避けるために、自己犠牲としての死を選ぶ」ということでもなければ、「生きるためには戦わざるを得ないのだ」という現実に「開きなおる」ことでもない、「矛盾に満ちた生の選択」だと言えるでしょう。
人間は、これからもずっとこの「理想と現実の矛盾に苦しみながらも、理想を棄てることも、生を放棄することも選ばず、避けられない宿命にうめきながらも、希望を棄てずに、未来に希望を繋ぎつづける」という「生き方」を選ぶしかないのではないかと、ここで真田は語っているのでございます。そして、これこそが『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』のスタッフが出した答だったのでございます。

異空間において、古代は、死んでいったヤマトのクルーたちに見守られて生きておりますが、元の世界にもどる意志は持てないでおります。森雪が「生きよう」と手を差し伸べても、その手に気づかずに立ち去ろうとしますが、その一瞬、森雪の手が幼児の手に変わり、それを見て驚いた古代は、森雪の手を取り、生きる意志を示します。そしてその時、二人の前にヤマトが姿を現すのでございます。

この「幼児の手」という幻の意味を説明するのは、さすがに野暮というものでございましょう。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の『真実の〝ラスト〟』は、ヤマトが異空間から地球に帰還するところで幕を閉じるのでございます。


さて、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第7章「新星篇」』のポスターには、

 『「さらば宇宙戦艦ヤマト」から40年 あらゆる予想を覆し、真実の〝ラスト〟へ一一』

という言葉が記されておりますが、問題は、この『真実の〝ラスト〟』をどう評価するかでございます。

結論を申しますと、私はこの答を肯定いたします。これしかないと思うのでございます。
この「選択」ですべてが解決するわけではないけれど、と申しますか、人間が生きていこうとするかぎり、もともとこの難問は、解決するようなものではなく、その都度、人間が呻吟しながら最善の選択を、生きるために続けていくしかないという性質のものだと思うのでございますね。それが生き物の宿命であり、理想を持つことのできた人間という種にのみ与えられた「苦しくも崇高な特権」だと思うのでございます。

すでに私自身は、現実としてそのような生き方を半ば無自覚に選んでおりましたが、それでもずっと喉もとに突き刺さった小骨として残っていた痛みとしての『さらば宇宙戦艦ヤマト』の問いは、解決はされないにしろ、これしかないという回答を与えられたと考えるのでございます。



オロカメンさま

レスポンス、ありがとうございました!

>  特に、自国文化への愛着の感情も、ご指摘のとおり確かに過去さんざん政治家に利用されてきたことではありますよね。
>  特にいまは現政権のような信用できない右派的な政権が力を持っている現状を考えても、そういう感情を安直に教育政策と結びつけるのも危険な事ですね。
>  日本の教育制度は一度明治政府の政策で"「偏狭なイデオロギー的価値観」の押し付け"が現になされたという歴史がありますし、現在でもネトウヨや安倍首相の"おともだち"が戦前の愛国教育や教育勅語などの愛国教育を復活させようという動きがある事なんかを考えても、警戒心は必要ですね。

そうでございますね。
「国を愛する気持ち=愛国心」自体が、悪いはずもございません。しかしそれは、多くの場合「他国を憎む」ことと一対になってしまいましたし、「他国を憎む」ことは「他国民を、人間とは思わない」ことと一対になっておりました。だからこそ「愛国心」は「戦争」の原動力として、しばしば悪用されたのでございます。
ですから、いぜんにご紹介いたしました片山杜彦が『歴史という教養』で語っておりましたとおり、私たちは、私たちの「歴史」に学ばなければならないのでございます。

>  アレクセイさんのお話を読んでいて思ったのは、「自国」というものに対しても、当然「良い所」と「悪い所」の両方があるわけで、そういう事をちゃんと冷静に理解しておかなければならないという事です。
>  そのためにも、アレクセイさんの仰っている「多様な本を読み、多様な美に触れて、自身の感性を磨け」というのが必要なのだと、そう思いました。

ええ。『多様な本を読み、多様な美に触れて、自身の感性を磨く』とは、どういうことなのか?
それは、自分の「無知」を思い知る、ということでございましょう。

多様な本を読もうと思えば、当然、ひとつのジャンルを端から端まで読み尽くすことなど出来ません。ぜんぶ漏らさず読みたい、完璧を期したいと思っても、ひとつのジャンルに徹底的に関わるということは、他のジャンルを諦めることに他なりません。人間の生涯は、自時間的に制約されているからでございます。

だから、『多様な本を読み、多様な美に触れ』ることで思い知るのは、読んでも読んでも、観ても観ても、自分が本当にごくわずかのことしか知ることが出来ないという、重い現実なのでございます。言い変えれば『多様な本を読み、多様な美に触れ』ることで磨かれる『自身の感性』とは「人間の(個人の)限界を知る」ということであり、キリスト教風に言えば「真理に対する謙遜」だと申せましょう。

しかしまた、私たちは、その絶対的に限られた知識と思考能力によって、選択し決断して「生きて」いかなければなりません。いくら、その知識や思考能力に限界があると知っていても、だからと言って、選択し決断することを放棄して、生きていくことなど出来ないからでございます。

そして、そこで「間違わない神」を持ち出して、自身の選択と決断を欺瞞的に絶対化するのが「宗教」でございますが、結局のところ、それは卑怯な「責任放棄」に他なりません。ですから、私たちは常に、自分が間違う可能性を意識しながら、そして事実として間違いながらも、人間として出来る最善を尽くして、生きていくしかないし、それが人間として責任を取るということなのだと存じます。

そして、このように考えるからこそ、私は『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』における古代進の苦悩と選択に共感しつつ、この作品のラストを支持するのでございます。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【!ネタバレ注意!】◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◆感想.≪映画『カメラを止めるな!』≫

>  自分はこの映画については、ほとんど前知識なしで見ることができたんですが、それでも300万円で作られた低予算映画、というのだけは知っていました。
>  低予算映画で評判が良かったものと言えば、例えば『ブレアウィッチ・プロジェクト』とか『CUBE』なんかが有名でしたので、これもおそらく「何か低予算でも作劇が可能な"物語的な仕掛け"があるんだろうな」とは予測していました
>
>  そんな予測がついていたので正直、この映画の全体の構造は、劇が始まってからものの数十秒で予測がつきました。
>  「ゾンビ映画を撮ろうとしている人たち」がメインとなっているのが分かれば「これは重層構造になるんだろうな」というのはすぐ想像ができます

そうでございますね。
私は、ミステリファンとして『カメラを止めるな!』というタイトルから、かならず「視点」の問題が重要となる「叙述」に仕掛けのあるメタフィクション作品だろうなと予想しましたし、映画ネタという趣向から、我孫子武丸の『探偵映画』を思い出しもしました。

>  ただ、こういう作中作というか、メタフィクションというか、楽屋オチというか、そういうタイプのお話は個人的に結構好きなほうだったので、ぼくの場合はそれがマイナスポイントにはならなかったんですけどネ。

私も、このパターンは好きでございますが、しかしその一方、好きだからこそ期待水準もおのずと上がりますので、半端なものでは楽しめないぞ、とも思いました。

>  ただ、肝心なのはそういう「凝った物語構造」にあるのではなく、そういう物語構造を使うことで「何を描くのか」ということでしょう。

まったく、そのとおりでございましょう。
「じつは、あれ映画だったんだよ」と最後で明かされても、そんな「使い古された、どんでん返し」では、初心者以外は驚けませんので、あくまでもひっくり返ることを前提として、その形式に何を盛るのか、なのでございますね。

>  映画を作る人たちの悲喜こもごもなドラマを挟んで「映像の謎解き」的なものにするというのも、なかなかのアイデアだなあと思いました。
>  これは言ってみれば「物語の謎が解けていく幸せ」の楽しさと同時に「映画が作り上げられていくときの、現場が試行錯誤するときの幸せ」が表現されていたと思います。

同感でございます。
コメディーとして誇張されてはおりますが、ここには映画作りの現場における「クリエーターの想い」が込められており、そこに観客は共感の笑いを漏らしたのでございましょう。

>  この映画では、そういう「創意工夫の結晶」としての映像の面白さを、「楽屋裏」そのものをオープンに劇にしたことで、久々に味わえた気がしました。困難な映像をとるときに出てくるあらゆるアイデアが、こういう面白い映画として結実しているのだなあと思いました。

そうでございますね。
結局のところ、CGにはないSFXの魅力なども、機械的技術には還元されえない「手作り」の部分に「人間」が込められるからでございましょう。
「正確さ」に還元できないものを、人は事物の中にも求めているのだと存じます。


それでは、みなさま、本日はこれにして失礼いたします。

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信仰とは何かを問う〈小さな大著〉一一 Amazonレビュー:臼井真幸『もし、キリストが聖書を読んだらどう思うか』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月11日(月)13時18分20秒
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 信仰とは何かを問う〈小さな大著〉

 Amazonレビュー:臼井真幸『もし、キリストが聖書を読んだらどう思うか』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RZ0D6768Y26IP

本書は、信仰とは何かを問う書物となっている。だから、自身の信仰と向き合える人には、励まされる書物であるし、「教会や公式教義の権威」に依存することでしか自身の信仰を保てない人の「無信仰」を挑発することにもなる。そこで、評価が大きく分かれるのだ。

本書の著者の面白いところは、徹底して「イエス・キリスト」のファン(信仰者)であり、「イエス・キリスト」その人以外のほとんどすべてのものは、後づけ小理屈や装飾や夾雑物でしかないと切り捨てて怖れるところを知らぬ「信仰的確信の揺るぎなさ」である。
「あのイエス」なら、こう考えただろう、こうは考えなかっただろう、こうしただろう、こんなことはしなかっただろうという基準で、現にある「キリスト教」さえ裁断して怖れない。なぜなら、彼にはイエス・キリストがついているからである。それが、彼の「信仰」なのだ(インマヌエル=神はわれらとともに)。
つまり、彼にとっての「イエス・キリスト」とは、キリスト教神学が後づけで(旧約聖書を過剰解釈して捏造)定義した「神から遣わされた救世主」などではなく、「人を救おうとして迷うことを知らなかった、偉大な一人の人」なのだ。

こんな著者だからこそ、その著者略歴もこんな具合になる。

『大聖年(ヨベルの年)の贖罪の日(定義は旧約聖書「レビ記」25:9-11にあります)に日本で生まれ、二歳でカトリックの洗礼を受け、いろいろな教会体験を経て現在はプロテスタントの教会に通っているカトリック教徒。日本とアメリカで教育を受け、日本とアメリカでサラリーマン生活を送り、日本とアメリカの金融恐慌をもろに体験。家族が皆アメリカ人で感覚は国際的だが、ゴルフ、麻雀、カラオケ、スキー、テニスなど一切できず、ジーパンを履いたことと神の存在を疑ったことがないほかは普通の日本人。』

この自己紹介を読み解くと、こうなる。

まず「肩書きや勲章の類いは無意味だ」という強固な信念で、これは本書の中でも繰り返し語られている。
もちろん、著者は社会経験も豊かな人だから、それが「社会」では過大な意味を持たされていること(俗情との結託)を重々承知しているが、信仰的視点から見れば、まったく無意味だと(口先で言うだけではなく)確信しており、書けば自慢話になりかねないことは、出来るかぎり書かないようにしているのである。

そして『二歳でカトリックの洗礼を受け、いろいろな教会体験を経て現在はプロテスタントの教会に通っているカトリック教徒。』と、ある意味では(つまり、キリスト教村内においては)大変恐ろしいことをサラッと書いているが、これが意味するのは「イエス・キリストへの信仰」においては、カトリックかプロテスタントかといったことは、些末な問題でしかない(むしろ、問題にすらならない)と考えており、それは一般世間では有り難がられる『ゴルフ、麻雀、カラオケ、スキー、テニスなど』の「趣味」と、同じ位相のものでしかない、という評価を下している、ということなのだ。
また、こんな「キリスト教が、ナンボのもんだ。私はイエス・キリストの信者だぞ」という著者であるからこそ、

『私にとっては、人か、神かと問われれば、キリストは、「人」です。』(P155)

と断言することもできる。
つまり、彼が「信仰」するのは「(キリストとして)人を救うために生きて死んだ、神のごとき素晴らしい人であるイエス」なのだ。

そして、彼の「信仰」とは「超越者(神)を崇めること」ではなく「(イエスという)すばらしい存在を心から敬愛して、その生き方に倣う」ことなのである。

彼にとって、イエス・キリストは『超ウルトラ・スーパー・ナイス・ガイ』(P155)であって、「超越者としての神」ではなく、イエス・キリストへの「信仰」とは、いわゆる「宗教」ではないのだ。

だから、彼は、信仰においては「自分で分別する主体性が重要(妄信はダメ)」であり「聖書の記述すらも疑うべきである(科学的な聖書学は必要)」と言う。その上で、

『 歴史的事実をいくら追及しても信仰とは関係ありません。キリスト自身は、何を疑われても気にしないでしょう。歴史的にキリストが存在したかすら疑って構わないと思います。聖徳太子がいたのか、孔子がいたのか、諸説がありますが、キリスト、すなわちナザレのイエスという人は、(中略)ヒストリカル・ジーザスは、いくら追及して、いくら事実を知っても福音書の真理は変わらないでしょう。事実は、信仰とは関係しません。』(P178~179)

ということにもなる。
彼にとってのイエス・キリストは、例えば私にとっての「仮面ライダー」や小さな女の子たちにとっての「プリキュア」みたいな「救済者としてのヒーロー」だと考えばいい。
つまり、それが「実在するか否か」など、まったく重要ではなく、そこ(物語=福音書)に描かれた「生き方」に心底惚れ込んで「この人のように生きたい」と願う意志、それこそが彼の「信仰」なのだ。
だから、そうした信仰においては、仮に科学的な史実としてイエスが存在しなかったとしても、仮面ライダーが俳優の演じるフィクションのキャラクターであっても、プリキュアが二次元のアニメーションに過ぎなくても、そんな「事実」はまったく問題にはならない。彼らに対する「貴方のように生きたい」という強い「想い」こそが「信仰」だということなのである。

したがって、本書の著者にとっては、「聖書」原理主義や「教会」原理主義は、「信仰」ではない。
それは、真にイエスに「倣う」ことの出来なかった(しなかった)、堕落した人たちの「自己正当化のための、権威依存症」でしかないのだ。そちらこそ、本物の「信仰」ではなく、「信仰」の名を騙った、自己欺瞞であり現実逃避に過ぎないのである。


ところで、本書のレビュアーの中に『本の題名と表紙の絵に騙された!』と書いておられる方がいらっしゃるが、たしかに「あの」いかにも人の目を惹くことだけ意図したようなキャッチーな装丁画や『もし、キリストの母マリアが現代の売春婦だったら…人気ナンバーワンに違いない!?』なんていう(著者が本文には書いてもいない)惹句は、本書の「高潔」とすら呼んで良い中身とはずいぶんギャップがあって、こちら(この装丁)はいかにも「あの目立ちたがり屋編集者・見城徹の幻冬舎」のものらしいとでも言うべきだろう(なお、タイトルと内容の方にギャップはない)。

だが、私も読了後に気づいたのだが、じつは本書にはカバーが二重に掛けられている。

上の方は、上記の「キャッチーな装丁カバー」だが、その下には、じつにおちついた、およそ飾り気のない、本書にふさわしい「謙った装丁カバー」が隠されているのだ(画像参照)。
だから『本の題名と表紙の絵に騙された!』と書いたレビュアーは、たぶん、下のカバーの存在には気づかなかったのだろう。力量的にも『眼光紙背に徹す』というわけにはいかなかったようだ。

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たまにダメな本を読むのも勉強のうち 一一Amazonレビュー:奥山篤信『キリスト教を世に問う!』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月10日(日)12時02分19秒
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 たまにダメな本を読むのも勉強のうち

 Amazonレビュー:奥山篤信『キリスト教を世に問う!』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R359GNJ9LHSDYJ

私の前に3人の方がレビューを書かれているが、いずれも評価としては妥当だと思う。
ただし、期待をもって本書を読みはじめたらしい点については、いささかいただけない。

そもそも『キリスト教を世に問う!』という「!(感嘆符)」付きのタイトルだという点で、批評書としては「B級感」がプンプンするではないか。
無論、保守派の著作には「!(感嘆符)」付いたタイトルが多いので、そういうのばかり読んでいる人は気づかないのかもしれないが、「!(感嘆符)」が、「理性」ではなく「感情」優先の表現として使われるといった事実や、俗な目を惹きやすい表現だということくらいは理解しておいてほしい。

つまり、このタイトルから、なにやら熱狂的な「告発本」であることは容易に推測できるのだが、その一方、装丁の方は意外にスッキリしていて、保守系の著作によくある「著名人でもないのに、帯にデカデカと著者の顔」なんてことをやっていないのは救いではあったし、帯文の『これでもキリスト教を信じますか?』という惹句も、抑制がきいていて良かった。外見だけなら、案外まともな本かもしれないと思わせる、おちついた造りにはなっていたと言えるだろう。

しかしまた、推薦者が、あの西村真悟先生という段階で、決定的にお里も知れよう。
西村先生について、特に詳しいわけではないが、なにしろ、テレビニュースに登場するときはいつも、その素っ頓狂な言動のためだし、「新銀行東京」問題や「築地市場」移転問題などの「口だけ政治家」石原慎太郎や、『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーとして悪名を轟かし、銃刀法違反で捕まったりして晩年まで話題の尽きなかった西崎義展なんかと仲が良かったようなイロモノ政治家だった人なのだ。

それでも、他のレビュアーも指摘されているとおり、著者は立派は経歴のお持ちだし、なにより神学を学んだことがあり、留学までしているというのであるから、キリスト教にどんな怨みがあるにしろ、それなりに聞くべき意見もあるかもしれないと、本書を読んでみることにした。

ただし、かくも見るからに「地雷本」なんだから、1800円も払ってまで読む気はなく、ブックオフ・オンラインの198円で購入した。半分は「恐いもの見たさ」で読むのだから、無駄な出費は抑えたかったのだ。ご勘弁願いたい。

で、やっと本書の内容だが、最初に書いたとおり、先行の3レビュアーの評価に尽きよう。
とにかく、文章が下手である。どう下手なのかというと、要は「論理的な文章が書けない」人なのだ。書いているうちに気持ちが先走っていき文章がぐだぐだになるタイプだ。つまり、学力はあったのかも知れないが、いわゆる「地頭」の方は、あまり良くない人なのである。

それでも、マトモな出版社からの刊行であれば、校閲がこのどうしようもない文章を、原形をとどめないくらいに真っ赤にしただろうが、どうやらこの展転社という出版社には、校閲係がいないだけではなく、文章を添削できる編集者すらいなかったようだ。
著者校正を怠った著者自身にまず責があるとしても、少しはマトモな編集サイドの人間がいれば、著者がここまで言われることもなかったはずなのだ。
例えば、安倍晋三首相をヨイショすることで世に出た三流著述家の小川榮太郞のせいで廃刊に追い込まれた『新潮45』だったら、内容は直しようもないが、すくなくとも読むのに苦痛のない文章には直してくれたはずだ。しかしまた、言い変えれば、あの雑誌に載っていた保守系著述家の文章は、じつはそうとう手直しされていた、なんてことも十分ありえる話なのである。

ともあれ、本書の版元で、聞いたこともない出版社である「展転社」について調べてみると、Wikipediaには次のようにあった。

『展転社(てんでんしゃ)は、日本の出版社。社名は日蓮宗の「唱法華題目抄」にある“五十展転随喜の功徳”から取ったものであり、同派宗旨の影響を強く受けた出版社である。「日本国体学会」理事・「昭和の日ネットワーク」副理事長・「明治の日推進協議会」事務局長を務める相澤宏明によって1982年に創業された。
創業以来、保守主義・右翼思想・日本史関連の著作を出版している。
展転社曰く、「戦後の日本で支配的な思想には失望しており、歴史を詳細に調査することで「歪められた歴史観を正しく復権すること」を目的に、出版その他の活動を行っている。タブーを恐れず訴訟を覚悟をして出版を行っていく」』

ま、あの西村真悟先生が出版の口利きをしてくれた出版社らしいので、こういう感じだろうなと、じゅうぶん納得できた。

さて、やっと本書の内容に関しての私の意見だが、著者のキリスト教批判はいたってマトモである(特に事実関係の報告は参考になる)。
ただし、その批判の水準は高校生並みであるというだけだ。
高校生並みなのが悪いわけではない。例えば「イエスが死後三日目に復活したなんて、今どき誰が信じられるか」とか「神父の性的暴行を隠蔽していた、ローマ法王は許せない」といった具合の批判は、極めて真っ当なものなのだ。だが、そんなことなら、わざわざ本を1冊読まされるまでもないことだし、言っていることは極めてシンプルなのに、無駄に「学者の論文を真似たような書き方」をするものだから、読む方は「イタいなあ」としか思えなくなるのだ。

この人の「キリスト教の欺瞞」に対する怒りは損得抜きの本物だと思うし、よく勉強もしてるし、人柄も決して悪くはないのだろうと思う。
ただ、著者は「よくいる、自信過剰の頑固オヤジ」でしかないのだ。自身の狭い了見の内に止まって、どんどん凝り固まっていき、無駄に正義感を募らせる。だから、自分のことが、まったく見えていない。

しかし、批評能力を測るうえで、最も重要なポイントとは「自己相対化(自己批評)能力」なのだ。だが、この人には、それが致命的に欠けているのである。

『 とりわけ僕の心に響くのは、イエスの名言は「人を裁くな」の言葉である。他人を糾弾する前に、自分は同じようなことをしていないか考えてみなさい、また他人の行為は、たとえ表面的法に触れることがあったとしても、やむにやまれぬ環境があったのではないかと思いやる気持ちなど言葉の解釈はいろいろ広がるのがこの「人を裁くな」の深い意味合いである。これを心の隅に置くことだけで、人間は寛容になれるというものだ。』(P154・文章のおかしさまで原文のまま正確に引用。念為)

「奥山さん、お説ごもっともですが、貴方がそれを言いますか?」ということである。
人がここを読んで、こうに思うとは、著者はすこしも考えていない。それは、自分が他人の目どう映っているのかが、まるで分かっていない証拠であり、要は自身を「客観視」する能力が無く、批評家としては致命的な欠陥の持ち主だ、ということなのである。そもそも、自分の文章をろくに推敲しないというのは、思い込みによる決めつけが激しく、自身を顧みる謙虚な姿勢の欠如を示しているとも言えるのだ。

くりかえすが、悪い人ではないと思う。しかし、著述家としては三流で、こんな人に原稿を書かせる『WiLL』や『月刊 日本』は三流誌としか評価のしようがないし、こんな著者の本を誉めることができる人というのは、マトモな本を読んだことのない、ものの見方が偏頗で、あまり頭の良くない人たちに違いなかろうと、私には結論されるのである。

ともあれ、「人の振り見て、我が振り直せ」ではないが、いろいろ考えさせられもしたので、198円の価値なら十分にあったと思う。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R359GNJ9LHSDYJ

 

◆感想.≪映画『カメラを止めるな!』≫

 投稿者:オロカメン  投稿日:2019年 3月 9日(土)19時33分46秒
   アレクセイさん、こんにちは!
 オロカメンでございます。

 昨日から連投みたいな感じになっちゃって恐縮ですが、昨晩は「金曜ロードSHOW!」でやっていた映画『カメラを止めるな!』を初めて見まして、それで一応この感想を投稿しておかねば……と思って書かせていただきました!

 しかし、何しろ「ネタバレ禁止」というのが良く言われていた作品でもありますので、掲示板に書き込んじゃってもいいのかなぁ、とちょっと迷っていたんですが、アレクセイさんから「もうこれほど有名になってしまったんですから、【ネタバレ注意】の告知さえすれば、書いても構わないんじゃないかと思いますよ」とお許しをいただきましたので、投稿させていただきますよ!

 ……と言う事で、ご笑覧いただけますと幸いですm(_ _)m



 【注意!CAUTION!注意!】
 【!ネタバレ注意!】
 ◆◆以下の文章には映画『カメラを止めるな!』のネタバレが含まれています。◆◆
 ◆◆まだ映画『カメラを止めるな!』を見ていない方で、ネタバレを避けたい方は十分にご注意ください。◆◆



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆






 金曜ロードSHOW!でやっていた映画『カメラを止めるな!』見ました~!


 自分はこの映画については、ほとんど前知識なしで見ることができたんですが、それでも300万円で作られた低予算映画、というのだけは知っていました。
 低予算映画で評判が良かったものと言えば、例えば『ブレアウィッチ・プロジェクト』とか『CUBE』なんかが有名でしたので、これもおそらく「何か低予算でも作劇が可能な"物語的な仕掛け"があるんだろうな」とは予測していました。

 そんな予測がついていたので正直、この映画の全体の構造は、劇が始まってからものの数十秒で予測がつきました。
 「ゾンビ映画を撮ろうとしている人たち」がメインとなっているのが分かれば「これは重層構造になるんだろうな」というのはすぐ想像ができます。

 ということで、ぼく的には本作の面白さは、そういう重層構造になっている物語というものの「珍しさ」にはありませんでした。
 ただ、こういう作中作というか、メタフィクションというか、楽屋オチというか、そういうタイプのお話は個人的に結構好きなほうだったので、ぼくの場合はそれがマイナスポイントにはならなかったんですけどネ。
 「ゾンビ映画を撮っている人たち」という内容の映画に本物のゾンビが入ってくる、という映画を撮っている人たち――こういう三重にフィクションを重ね合わせてできているメタフィクションという凝った作りも、そういえば日本映画の中にありそうでなかなか思いつかないもので、そう考えてみるとこれはなかなかの意欲作とも言えるんじゃないか、とも思えます。

 ただ、肝心なのはそういう「凝った物語構造」にあるのではなく、そういう物語構造を使うことで「何を描くのか」ということでしょう。

 冒頭から37分間にわたって繰り広げられる長まわしのゾンビ映画については、「映像が汚い」とか「品がない」というマイナス意見も聞きましたが、ぼく的にはこのシーンも「B級映画的なキッチュな感じを狙ってるのかな」という感じがして、素直に楽しめました。大昔の東映特撮映画のパロディみたいな感じで面白かったです。

 しかし、その後の2パート目、3パート目は、その映像を題材にして更に面白さを加えてきたところが更に面白いと思います。
 映画を作る人たちの悲喜こもごもなドラマを挟んで「映像の謎解き」的なものにするというのも、なかなかのアイデアだなあと思いました。
 これは言ってみれば「物語の謎が解けていく幸せ」の楽しさと同時に「映画が作り上げられていくときの、現場が試行錯誤するときの幸せ」が表現されていたと思います。

 ぼくは映画のDVDを見ると、映像特典なんかについてくる「メイキング映像」が凄く好きで必ず見ているくらいなんですが、この映画の最後のパートの面白さというのも、そういう「メイキング映像」を見る時のような面白さがあると思いました。

 今のSFXはどんな場面でもCGを使って表現できてしまうというのが、逆に今のSFX撮影をつまらなくしているのではないかと、ぼくは思っています。
 例えばCG技術がまだ発達していなかったころの『スターウォーズ』シリーズを見るのは、映像でSF的な世界観を見る楽しさだけではなく、「うわぁ~こんな凄い映像、どうやって作ったんだろう?」と想像する楽しさもあったと思います。アナログ的な技術を使ったSFXには、あらゆる技術のアイデアの結晶があると思っています。

 この映画では、そういう「創意工夫の結晶」としての映像の面白さを、「楽屋裏」そのものをオープンに劇にしたことで、久々に味わえた気がしました。困難な映像をとるときに出てくるあらゆるアイデアが、こういう面白い映画として結実しているのだなあと思いました。
 映画は、見るだけではなく、作る工程もまた面白いものなのだ、と思います。
 この作品は、どうしようもない制約を与えられて混乱する映画製作の現場に現れた、意外な「映画を作る楽しさ」を映し出した映画なのではないかと思いました。

 

レスポンス、ありがとうございました!

 投稿者:オロカメン  投稿日:2019年 3月 8日(金)17時05分16秒
   アレクセイさん、こんにちは!
 オロカメンでございます。

 レスポンスいただきまして、ありがとうございました!
 拝読させていただきました!

 ご指摘の件、ありがとうございますm(_ _)m
 うーん、ぼくもまだまだ考えが足りないですねえ。

 特に、自国文化への愛着の感情も、ご指摘のとおり確かに過去さんざん政治家に利用されてきたことではありますよね。
 特にいまは現政権のような信用できない右派的な政権が力を持っている現状を考えても、そういう感情を安直に教育政策と結びつけるのも危険な事ですね。
 日本の教育制度は一度明治政府の政策で"「偏狭なイデオロギー的価値観」の押し付け"が現になされたという歴史がありますし、現在でもネトウヨや安倍首相の"おともだち"が戦前の愛国教育や教育勅語などの愛国教育を復活させようという動きがある事なんかを考えても、警戒心は必要ですね。

 アレクセイさんのお話を読んでいて思ったのは、「自国」というものに対しても、当然「良い所」と「悪い所」の両方があるわけで、そういう事をちゃんと冷静に理解しておかなければならないという事です。
 そのためにも、アレクセイさんの仰っている「多様な本を読み、多様な美に触れて、自身の感性を磨け」というのが必要なのだと、そう思いました。

"「理論的理想」と「リアルな現実」の双方を両睨みにしなければならない"というお言葉、確かにそうだと思います。
 さすがに、アレクセイさん。どんな時でも冷静な分析は変わらないですね。


> これは脳科学的も認められている現象でございますね。

 こちらでお教えいただいた記事、確認させていただきました。
 NHKスペシャルでも、こういうテーマのものがやってたんですね。脳科学的にも確認されていることだったんですか。勉強になりましたm(_ _)m


 また「勤務中のサボりをチェックする監視システム」を導入する企業のお話なんかは、ぼくも実際、様々な会社の方から聞いた事がありまして、そのたびアレクセイさんも仰っている「企業版『ビッグ・ブラザー』」を連想していました。
 なんだか、人間がオートメーション化されていくようで、イヤな感じがしますねえ。
 

豊かな心の涵養に必要なもの

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月 8日(金)15時14分41秒
  みなさま、このところ、ハイペースでAmazonレビューをアップしておりますが、なぜペースアップしたのかは、実際のところ、私自身にもよく分かりません。
ただ、ひとつ言えることは、キリスト教や宗教一般の問題にしろ、現在の政治問題や思想一般の問題にしろ、あるいは差別問題にしろ、これまではバラバラに勉強してきたことが、このところ、やっとつながってきて、相互参照が可能になったということがあるようには思いのでございます。つまり、それぞれがバラバラなら、そのなかで特に新しい視点や私が公にすべき意見というものもなかなか出てまいりませんが、一般には別ジャンルと見られている視点から、対象を論じられれば、比較的容易に新たな切り口と視点が得られるのではないか、ということでございます。
ともあれ、すべては「人間的事象」でございますし、私が興味を持つものというのは、ジャンル的にはどんなに違って見えても、どこかで共通する要素を持つでしょうからこそ、私の興味を惹くのでございましょう。つまり、最近では、その共通項に立って、言い変えれば、私の実存的本質に近いところ立って、それぞれの問題を論じられるようになってきたのではないかと、斯様に考えているところなのでございます。


オロカメンさま

◆感想.《岡潔『春宵十話』》

>  今年になってから何故かほとんど小説を読まなくなって、思想書とか学術書とかばっかり読むようになってしまいました。
> 少しでも広く知識を溜めておこうと思っての事なんですけど、マイミク(MIXIのお友だち)さんたちからのコメントは、少なくなっちゃいました。確かに哲学書のレビューとか書いても、なかなかコメントしづらいでしょうからねえ(笑)。「つまんない人」なんて思われちゃったらどうしよう……(;´Д`)

それは痛し痒しでございますね(笑)。
しかし、読書家というのは、歳をとると、たいがい小説(エンタメ)を読む比率が下がるようでございます。これはやはり、人生経験を積んで、リアルな世界の重みを知るにつけ、フィクションの世界に遊ぶことに物足りなさを感じる反面、リアルな世界を知ることの方に探求的面白さを感じるようになるからではないでしょうか。

もちろん、そうした人生経験やリアルの世界の重みをすべて引き受けて、そのうえでそれらを弾き飛ばすほどの強度のある小説なら、それは満足できるのでございますが、そういう傑作は、毎年コンスタントに出てくるようなものではないのでございましょう。
歳をとればとるほど、本格ミステリに対するのと同様、フィクションの強度に対する「期待水準」も高くなるのは、致し方のないところなのでございましょうね。

ともあれ、思想書とか学術書を楽しみたいというのと、エンタメに反応してくれる人からの反響も欲しいというのは、お気持ちは分かりますが、それは一種の「二股」ではないでしょうか。
つまり、大人っぽい彼女も欲しいが、元気いっぱいの女の子も棄てがたい、というような(笑)。


>  岡潔さんのエッセイ『春宵十話』読了!

昨年は、岡さんと小林秀雄の対談集を読みましたし、岡の代表的著作であるそのエッセイ集は、私も読んでみたいのですが、なかなか手が回りませんね。

>  世界的な数学者の考える事はどんなことなのだろう、と思えば興味が湧かないだろうか?
>  ぼくは基本、文系人間なのだが、世界的な数学者となればどれほどクールな論理を持った人なのだろうかと思って読み始めたところで、1ページ目からいきなり虚を突かれた。
>
>  「数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つ」などと出てくる。
>  いきなり著者は「情緒」の重要性を語りはじめるのだ。
>
>  野山の美しさに感動する事、子供の頃は夢中になって虫取りや遊びに興じる事、素晴らしい絵画を見て心を動かされる事。
>  そうやって情緒を働かせることが数学だけでなく学問には重要な事だと説明していく。
>  人間は機械ではない、機械が出来る事は機械に任せておいて、人間が出来る事を学ぶべきなのだ、等ということも主張する。
>
>  本書は日本が伝統的に持っていた「情緒」の大切さを再度強調し、急速な西洋化によってそういったものが失われて行っていることに警鐘をならす本だったのだ。
>  これは、なかなか面白い意外性だった。

岡さんに「理系」についての紋切り型イメージを持っていたが、それを完全に裏切る「文系」的『情緒』の重要性を語る本だった、とのことですね。

私も典型的な文系人間ですから、この意見には基本的に同意できます。私自身、極めて理屈っぽい人間ではありますが、その根底にあるのは、間違いなく文系的な「美意識」であることを、重々承知しているからでございます。

で、岡さんは「急速な欧米化によって、日本的情緒についての感性が失われてきている」との危機感を感じていた、ということなのでございましょうが、私がここで引っかかるのは、この「欧米化」というものの中身でございます。

つまり、岡さんは「数学」というものを通じて「欧米」というものを考えていたのでしょうが、はたしてそういう理解で良いのか、ということでございますね。

と言うのも、岡さんが考えている「欧米」とは「欧米の合理主義」のことでございましょうが、しかし、そういう日本における欧米思想の受容史において欠落しているのは、欧米には「キリスト教という非理性(非合理)」がベースにあっての「合理主義」であるという点でございます。つまり、キリスト教信仰抜きの「欧米の合理主義」とは、実際のところ「和製の(カタワの)欧米合理主義(理解)」でしかないということでございますね。
ですから、そこで「欧米合理主義では、日本の美点が失われる」という議論は「日本的な欧米誤認」をベースにした議論にしかなっていない、という問題でございます。

>  岡さんの主張する情操教育論は非常に納得性が高い。

そして「日本的な欧米誤認」をベースにした「日本的情緒の強調主義」が「教育」問題と考えられる点に、私はありがちな「危うさ」を感じるのでございます。
というのも「欧米合理主義ではダメだ。日本人なら日本人らしく、日本的情緒の涵養に努めよ」というような教育論は、「教育勅語を再評価しろ」とか「天孫降臨といった神話を、日本の歴史として教育せよ」といった昨今の「ネトウヨ的自国賛美教育論」と大差ないものになってしまうからでございます。
そして、こうした発想は、アメリカにおける「学校で進化論だけを教えるな。同等の権利で(神の)創造論の教えよ」というのと、本質的にはまったく同じだということでございます。

じっさい、岡さんに、日本最大の「保守」派論客とも評価される小林秀雄との共感的な対談があるというのは、こうした感性とまったく無縁ではないということを示唆しているのではないかと存じます。

>  何よりこれを日本における世界的な数学者が主張していると言う事実がまた素晴らしい。

>  本書は1963年に出版されたものだが、その当時から著者の岡さんは、日本の教育状況を憂いているのだ。ということは、その当時から日本はすでに「心の教育」を失ってしまっていると言う事らしい。
>  岡さんは「本当に心配でならないのはいまの教育の事なのである」と言う。戦後になってあまりに急に欧米流の考え方を注入された事を懸念しているのだ。
>  「欧米のように意志中心の国なら、すみずみまで原則に支配されるからもっとひどいことになっていたに違いない」という考え方も分かりやすい。

そして、岡さんの意見の正しさが、その「肩書き」によって保証されるというのも、どうかと思います。
と申しますのも、「世界的な理系の学者」が「非理性的信仰家」であるといったことは、なんら珍しいことではないからでございます。ですからこそ、キリスト教の側からは「最先端の科学者も、キリスト教を信仰しており、そこの矛盾など感じていない」ということをアピールする本が、毎年コンスタントに刊行されているのでございます(もちろん、ユダヤ教、イスラム教、仏教など、あらゆる宗教の信者に、理系学者がおります)。

無論、「信仰」と「日本的情緒」とは質的に違っておりますが、どちらも極めて「主観的な価値」であることに違いはなく、「信仰」と「文化保守主義」は世界のいずこでも当たり前に結びつくものだという現実もあるのでございます。

ですから「日本的情緒の涵養」が大切だということに異論はございませんが、それが安直に「教育政策」に結びつけられるのは、きわめて危険なことだと思うのでございます。

それよりも私なら「多様な本を読み、多様な美に触れて、自身の感性を磨け」と言いたい。
なぜ「多様な」なのかと申しますと、多様な美に触れていなければ「日本の美」というものの価値が、真に理解できるわけなどなく、単なる独善的愛国主義であったり、文化マスターベーションにしかならないと考えるからでございます。

>  形式や結果にこだわり過ぎて、日本から情緒が失われるのではないだろうか、というのはもう既に現代では表立って様々な問題に結晶していると言えないだろうか。
>
>  日本はいつから、これほど「勝てばいい」という考えになったのか。「勝ち組」になることにこだわるのが、古来からの日本人の求める善い人間の姿だったのだろうか。
>  日本人は、いつからこんな見苦しい心性を持つようになってしまったのだろう。
>  岡さんも主張しているが、昔ながらの日本の「善」とは、見返りも報酬も考えず、打算的にならず人のため良い事を行う事ではなかったのか。

オロカメンさまが、岡さんの「素朴な議論」に惹かれるのは、たぶん今の日本における「勝てば官軍」的な傾向を憂いて『見返りも報酬も考えず、打算的にならず人のため良い事を行う事』を、今の日本人に求めているからでございましょう。
この点は、私も全く同感でございますが、しかし『見返りも報酬も考えず、打算的にならず人のため良い事を行う事』が、はたして本当に『昔ながらの日本の「善」』なのか、という問題でございます。

たしかに、そのような理想を「日本的な善」と考えて人はおりましょう。しかし、事実として、そんなことなどあったのか?
例えば『見返りも報酬も考えず、打算的にならず人のため良い事を行う』といったことを誰よりも求めたのは、他ならぬ「愛の宗教を自認するキリスト教」でございました。しかし、その現実はどんなものであったのか?

また、安倍晋三には『美しい国へ』という著書があり、彼の選挙用のキャッチフレーズは『日本を、取り戻す。』でした。
つまり、ネトウヨや「日本会議」を含めた「政治的右派」が唱えるものこそ「日本独自の美意識」であるという現実であり、これは諸外国でも同じなのでございます。
ナチスは「ユダヤ人が、優秀なアーリア人の末裔たるドイツ人の血と文化を汚している」と主張しましたし、現在、西欧やアメリカで勃興している「極右」や「文化保守主義」は、「移民」や「難民」が自国文化に仇なすものだと主張して、「自国文化の保守防衛」を国民に訴えております。

つまり、私に言わせれば「自国文化は特別に素晴らしい」という考え方は「視野の狭い願望充足的幻想」でしかないのだと存じます。
どこの国にだって、それぞれに「美しい文化」はある。しかし、それに対して馴染みのない他国民には、その魅力が分からず、慣れ親しんだ「自国文化は特別に素晴らしい」と感じるだけなのではないかと思うのでございます。
しかし、そんなものは所詮「馴れ」の問題でしかございません。生まれた子供が、最初にみた親に愛着を持つのと同じような、あるいは「腹を痛めた我が子は、特別に可愛い」といった、極めて進化論的動物学的な現象のひとつでしかないのではないかと、斯様に思うのでございます。

>  岡さんの文章を読むと、どこか岡さんなりに、かつて日本にあった暖かさのようなものを、取り戻したいのではないかと思えてならないのである。

そうでございますね。しかし、それを実現する方法が、ネトウヨの望むような「愛国的教育」、かつて安倍晋三信者であった頃の籠池氏が「塚本幼稚園」で実行した「教育勅語を暗唱させるような愛国教育」でないことは、明らかでございましょう。

>  岡さんは大学教授をしていたころ、よく「数学の授業」として生徒らを美術館に連れて行ったそうだ。「人の中心は情緒である」というのが、本書の最初の一言だ。単純に道徳だけの問題ではなく、情緒というものが学問にも数学にも非常に重要だと言う事を教えているのだろう。
>  岡さん曰く「孔子の『論語』に、最初は学をつとめ、次に学を好み、最後に学を楽しむという境地の進み方を述べたことばがあるが、この「楽しむ」というのが学問の中心に住むことにほかならない」。
>  この考えは、ぼくも全く同感なのである。

こうした考えについては、私もまったく同感でございます。
ただ、それと同時に「現実を直視せよ」とも言いたいと思います。
「学問」を深めて、「学問」を楽しむ境地に達することは、個人としては単純に喜ばしいことでございますが、しかし、そうして深められたことが、世に起こっていることに結びつかない、独り善がりなものに終るのだとすれば、それは、やはりどこか大切なところが欠けているとしか思えません。
それは「自分が豊かになったから、貧困に苦しんでいる人たちの存在が目に入らなくなった」というのと似たようなことなのではないかと、そう思えるのでございます。

それに、孔子は生前、権力者から入れられなかった漂泊の思想家であり、死んでから権力者に利用された思想家だといったことも知っておくべきだと存じます。

>  もう一つ、本書で学んだ事がある。
>
>  岡さんは本書で「自然の感銘と発見とは良く結びつくものらしい」と言っている。
>  岡さんがそれまで、数学上の重要な問題を解いたときの状況が、これなのだそうだ。
>
>  例えば、ずっと考えていた数学の難問を解いたとき状況はと言うと、散策しながら問題を考えていて、森を抜けて広々とした展望を見たときだったと言う。

>  岡さんによれば、ずっと考え詰め、緊張のし詰めというのは良くないそうで、「緊張と弛緩」が、新しいアイデアの発見には重要なのだそうだ。

これは脳科学的も認められている現象でございますね。
これでございます。


『先日放送の「NHKスペシャル「人体」”脳”すごいぞ!ひらめきと記憶の正体」で最先端の脳科学の力を借りながら、「全く新しい脳の姿」について紹介していました。

そこで印象的だったのが、私たちが「ぼーっと」している時、脳も同じようにぼーっとして活動をやめているわけではなく、むしろ脳の広い領域が活性化し「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれる状態にあるという部分です。

「ひらめいた!」と思った時の脳の状態を調べて見ると、脳は広い領域が一斉に活動している状態になっているとのこと。
そして、この脳は広い領域が一斉に活動している状態に近づけるには、「ぼーっと」することが有効で、「ぼーっと」することで無意識のうちに私たちの脳の中に散らばる「記憶の断片」をつなぎ合わせ、「ひらめき」を生み出していくのではないかと言うお話でした。』
(『Healing Plaza』https://healingplaza.jp/archive/11500/

>  一人でリラックスしているときのほうがアイデアが思いつきやすいという研究結果が出ているのである。
>  ビジネスで言えば、会議をするよりも一人で長時間考えるほうが新しいアイデアが浮かびやすいという。そういう事で言えば「良いアイデアが出るまで会議を続ける」というやり方が最も効率が悪い。
>  これは勉強をするときにも同じ事が言えるそうで、休憩を挟まなければ効率が落ちるというのは様々な場面で言われている。だが、実際にそういうやり方を推奨している企業は日本にどれほどあるのだろうか。
>
>  近頃の日本企業が、社員の勤務時間中に怠けていないかチェックを入れるための方策には、もはや偏執狂的とも言えるの執着を見せる。
>  PCに向かっている社員が居眠りをしていないかチェックするシステムを、わざわざ経費をかけて作ったりするくらいだから呆れてしまう。

昔からよく言われることですが、日本式の「だらだらと長時間続けられる会議」では、良いアイデアは生まれない、というのと同じでございますね。

最近、テレビを視ていてゾッとさせられたのは『勘定奉行』という勤務管理ソフトのテレビコマーシャルの中で「勤怠管理」(https://www.obc.co.jp/service/kintai)という言葉を聞いたときでございます。
私はこのソフトやシステムのことはよく存じませんが、当然のことながら、この名称から想像されるのは「勤務中のサボりをチェックする監視システム」ということでございましょう。

もちろん、タテマエとしては、それだけではないのでしょうが、経営者側が雇用者を管理して、なるべく効率的に(ロボットのように、勤務規定どおりに1秒の誤摩化しも許さずに)働かせようとするのは、必然的なことだと思いますし、そうした受容があれば、そうしたシステムが開発され、商品化されるのも必然だと思います。
しかし、血肉を備えたサラリーマンとしては、これはとんでもなく「非人間的システム」だということになりましょう。まさに企業版「ビック・ブラザー」(ジョージ・オーウェル『1984』)なのではないでしょうか。

例えば、営業のサラリーマンは、外回りの際、食事やトイレ休憩以外の時間のすべてを、顧客とのセールス折衝に当てているわけではございません。食事をすれば眠くもなるでしょうし、眠いまま車を運転すれば、交通事故も起こしかねませんから、道端に車を駐車めて昼寝をするというのは、よくあることでございます。しかし、勤務規約上の「休憩時間」に、この「昼寝」時間は含まれているでしょうか? たぶん、そんなところまでは計算には入れておらず、これまでは社員それぞれの良心と裁量に任せられていたのではないでしょうか?
しかし、携帯電話が普及して、それぞれの「位置情報」が逐一把握できるとすれば「こいつ3時間も道端に止まって動かないな。サボっているんじゃないか?」というようなことにもなりましょう。
そして「勤怠管理」システムとは、まさにこれを効率的にやるためのシステムなのではないでしょうか?
しかし、だとしたら、これは非人間的かつ、本当は「非効率」なシステムなのではないかと、私は危惧するのでございます。

>  あたふたとし、せかせかと動かなければならず、緊張がとけない、こういう環境は必要なインスピレーションを阻害する。
>  岡さんは「気持ちがゆるんでいないと発見できない」とさえいう(もちろんこれも「ゆるみっぱなし」が良いというわけではなくて、しっかりと考えたうえで、気持ちのゆるむ時間も作る、ということだ)。
>  近頃の日本に元気がないのは、もしかしたら勉強をするときも仕事をするときも、そういった「心の余裕」というものを失っているためなのかもしれない。

まったくそのとおりでございましょう。
日本の労働者の労働時間は、先進国ではずいぶんと長い方でしょう。それなのに「労働効率」は最低だと申します。
これは間違いなく、「やってます」というかたちを求める(やる気を見せることを重視する)日本の労働現場特有の問題なのではないかと存じます。

こうした問題について、安倍首相は「労働改革」の名のもとに「裁量労働制」を導入したのですが、これが健全な労働環境を実現する可能性が低く、むしろ「経営者に都合の良い、時間制限のない労働者の使いたい放題制」になるのではないかと危惧されておりますし、この制度の導入の根拠とされた「統計」の数字が、操作されていたインチキであったことも、すでに明らかになって、こうした危惧の妥当性を裏づける結果となりました。

「情緒が大切」「画一的なのはダメ」といったことは、原則的には正しい。これは間違いないのでございますが、これらが現実の政治に安易に持ち込まれると、その結果は、真逆で悲惨な結果を引き起こしてしまうということが、残念ながら、よくあることなのでございましょう。

私が「理論的理想」と「リアルな現実」の双方を両睨みにしなければならない、というのは、こういう現実があるからなのでございます。「理想というのは、しばしば悪用されてきた」という歴史を忘れてはならないのでございます。


> >フランチェスコvsイノケンティウス3世のプチ再演(改訂版)一一Amazonレビュー:若松英輔・山本芳久『キリスト教講義』
>
>  またレビューを削除されちゃったんですね(´・ω・`)ショボーン
>
>  日本人は議論下手という風には以前から言われていましたけど、こういうちゃんとした「論拠のある批評」を「誹謗中傷」と混同しちゃう人達を見ても、議論以前にこういったレビューとかに対する理解が足りない人が多いのかな、という風にも思えますね。

それも「日本人独特の情緒」的態度でございましょうね(笑)。

>  近ごろネットでは「論破」という言葉が流行っているように思えますが、そういう傾向も「本当に正しい事とは何なのか」ということを話し合うより「勝つこと(=論破する事)が、何より大事」というスタンスで議論をしている人が多いからなのではないかと思えてしまいます。

まったく同感でございます。
わたしは、そもそも「デイベート」というのが、嫌いでございます。
要は「白を黒と言い包めることもできる能力」なのでございますが、それを推奨するようなことは、美意識に欠けて、恥ずかしいことだとしか思えません。
なぜなら、優れた「詐欺師」というのは「デイベートの達人」であり「その点は評価されてしかるべきだ」といったことになるからでございます。

これは、山本弘が小説化した「ビブリオ・バトル」という競技にも言えます。
「作品の素晴らしさを、いかにして上手く伝えるかを競う競技」と言えば聞こえもいいでしょうが、これも所詮は「つまらない作品でも、嘘をつかずに、上手に面白い作品だと思いこませる、レトリカルな半詭弁的説得術」だと言えましょう。と言うのも「面白い作品の魅力を伝えるのは簡単だけれど、くそつまらない作品を、嘘をつかずに、面白い作品であるかのごとく紹介する」のは、ペテン的に優れた「口舌」の才能が無ければできないことだからでございます。

そして、こうした「功利主義」がはびこるのは、結局のところ、本質的なところで「美意識」が欠落しているからでございましょう。

そして、こうした「本質的な美意識」を育てるのは、幅広く多様な価値観に接触し得る「豊かな生育環境」であって、「偏狭なイデオロギー的価値観」の押しつけ「教育」などではないと、私は斯様に思うのでございます。



それでは、みなさま、本日はこれにて失礼いたします。

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◆感想.《岡潔『春宵十話』》

 投稿者:オロカメン  投稿日:2019年 3月 7日(木)20時15分50秒
   アレクセイさん、こんにちは!
 オロカメンでございます。

 またまたお久しぶりの投稿になりました~!

 今年になってから何故かほとんど小説を読まなくなって、思想書とか学術書とかばっかり読むようになってしまいました。
 少しでも広く知識を溜めておこうと思っての事なんですけど、マイミク(MIXIのお友だち)さんたちからのコメントは、少なくなっちゃいました。確かに哲学書のレビューとか書いても、なかなかコメントしづらいでしょうからねえ(笑)。「つまんない人」なんて思われちゃったらどうしよう……(;´Д`)

 さて、そんな本日は昔ベストセラーにもなった、日本の数学者のエッセイを取り上げてみました! 例によってまた、ぼくがMIXIで呟いた内容をまとめたものです。

 ということで、ご笑覧いただけますと幸いですm(_ _)m


――――――――――――――――――――――

 岡潔さんのエッセイ『春宵十話』読了!

 岡潔さんと言えばやはり世界に名をとどろかせることとなった数学の「多変数解析函数論」という分野の研究だが、本書は数式のひとつも出てこない、文系でも楽々読み通せる世界的数学者のエッセイになっている。
 昔、毎日新聞に連載されてベストセラーになったと言われるほどの本なので、前から興味があって読みたいと思っていたのだ。

 世界的な数学者の考える事はどんなことなのだろう、と思えば興味が湧かないだろうか?
 ぼくは基本、文系人間なのだが、世界的な数学者となればどれほどクールな論理を持った人なのだろうかと思って読み始めたところで、1ページ目からいきなり虚を突かれた。

 「数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つ」などと出てくる。
 いきなり著者は「情緒」の重要性を語りはじめるのだ。

 野山の美しさに感動する事、子供の頃は夢中になって虫取りや遊びに興じる事、素晴らしい絵画を見て心を動かされる事。
 そうやって情緒を働かせることが数学だけでなく学問には重要な事だと説明していく。
 人間は機械ではない、機械が出来る事は機械に任せておいて、人間が出来る事を学ぶべきなのだ、等ということも主張する。

 本書は日本が伝統的に持っていた「情緒」の大切さを再度強調し、急速な西洋化によってそういったものが失われて行っていることに警鐘をならす本だったのだ。
 これは、なかなか面白い意外性だった。

 岡さんの主張する情操教育論は非常に納得性が高い。
 何よりこれを日本における世界的な数学者が主張していると言う事実がまた素晴らしい。

 本書は1963年に出版されたものだが、その当時から著者の岡さんは、日本の教育状況を憂いているのだ。ということは、その当時から日本はすでに「心の教育」を失ってしまっていると言う事らしい。
 岡さんは「本当に心配でならないのはいまの教育の事なのである」と言う。戦後になってあまりに急に欧米流の考え方を注入された事を懸念しているのだ。
 「欧米のように意志中心の国なら、すみずみまで原則に支配されるからもっとひどいことになっていたに違いない」という考え方も分かりやすい。

 形式や結果にこだわり過ぎて、日本から情緒が失われるのではないだろうか、というのはもう既に現代では表立って様々な問題に結晶していると言えないだろうか。

 日本はいつから、これほど「勝てばいい」という考えになったのか。「勝ち組」になることにこだわるのが、古来からの日本人の求める善い人間の姿だったのだろうか。
 日本人は、いつからこんな見苦しい心性を持つようになってしまったのだろう。
 岡さんも主張しているが、昔ながらの日本の「善」とは、見返りも報酬も考えず、打算的にならず人のため良い事を行う事ではなかったのか。

 岡さんの文章を読むと、どこか岡さんなりに、かつて日本にあった暖かさのようなものを、取り戻したいのではないかと思えてならないのである。

 岡さんは大学教授をしていたころ、よく「数学の授業」として生徒らを美術館に連れて行ったそうだ。「人の中心は情緒である」というのが、本書の最初の一言だ。単純に道徳だけの問題ではなく、情緒というものが学問にも数学にも非常に重要だと言う事を教えているのだろう。
 岡さん曰く「孔子の『論語』に、最初は学をつとめ、次に学を好み、最後に学を楽しむという境地の進み方を述べたことばがあるが、この「楽しむ」というのが学問の中心に住むことにほかならない」。
 この考えは、ぼくも全く同感なのである。

 もう一つ、本書で学んだ事がある。

 岡さんは本書で「自然の感銘と発見とは良く結びつくものらしい」と言っている。
 岡さんがそれまで、数学上の重要な問題を解いたときの状況が、これなのだそうだ。

 例えば、ずっと考えていた数学の難問を解いたとき状況はと言うと、散策しながら問題を考えていて、森を抜けて広々とした展望を見たときだったと言う。
 こういった「自然の感銘」が「発見」と結びついた事例が、岡さんには多かったのだそうだ。
 例えば、フランスはレマン湖湖畔のトノム村から対岸のジュネーブへ船で見物しに行っていたときにも大きな発見をしたそうだし、夜に子供を連れて谷間でホタルを取ったり放したりしていたときに思いついたりしている。

 岡さんによれば、ずっと考え詰め、緊張のし詰めというのは良くないそうで、「緊張と弛緩」が、新しいアイデアの発見には重要なのだそうだ。

 これは現代の心理学の研究でも実証されてきている事実で、例えば、どこの大学の研究だったかは忘れたが、心理学では「最もアイデアの思いつきやすい時と場所」というのが判明していて、それは「シャワー中」だと言われている。
 一人でリラックスしているときのほうがアイデアが思いつきやすいという研究結果が出ているのである。
 ビジネスで言えば、会議をするよりも一人で長時間考えるほうが新しいアイデアが浮かびやすいという。そういう事で言えば「良いアイデアが出るまで会議を続ける」というやり方が最も効率が悪い。
 これは勉強をするときにも同じ事が言えるそうで、休憩を挟まなければ効率が落ちるというのは様々な場面で言われている。だが、実際にそういうやり方を推奨している企業は日本にどれほどあるのだろうか。

 近頃の日本企業が、社員の勤務時間中に怠けていないかチェックを入れるための方策には、もはや偏執狂的とも言えるの執着を見せる。
 PCに向かっている社員が居眠りをしていないかチェックするシステムを、わざわざ経費をかけて作ったりするくらいだから呆れてしまう。

 あたふたとし、せかせかと動かなければならず、緊張がとけない、こういう環境は必要なインスピレーションを阻害する。
 岡さんは「気持ちがゆるんでいないと発見できない」とさえいう(もちろんこれも「ゆるみっぱなし」が良いというわけではなくて、しっかりと考えたうえで、気持ちのゆるむ時間も作る、ということだ)。
 近頃の日本に元気がないのは、もしかしたら勉強をするときも仕事をするときも、そういった「心の余裕」というものを失っているためなのかもしれない。

 今回は、意外な方面から改めて「情緒の大切さ」を教えられた。


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>フランチェスコvsイノケンティウス3世のプチ再演(改訂版)一一Amazonレビュー:若松英輔・山本芳久『キリスト教講義』

 またレビューを削除されちゃったんですね(´・ω・`)ショボーン

 日本人は議論下手という風には以前から言われていましたけど、こういうちゃんとした「論拠のある批評」を「誹謗中傷」と混同しちゃう人達を見ても、議論以前にこういったレビューとかに対する理解が足りない人が多いのかな、という風にも思えますね。

 近ごろネットでは「論破」という言葉が流行っているように思えますが、そういう傾向も「本当に正しい事とは何なのか」ということを話し合うより「勝つこと(=論破する事)が、何より大事」というスタンスで議論をしている人が多いからなのではないかと思えてしまいます。

 こういうのは、この本の内容についても言えることで、キリスト教のために「硬直した教会の権威的かつ保守的な態度」を批判しても、「それが正しいのかどうか」という議論に発展するのではなく、そういう「アクチュアルな問題提起」を護教的に無効化されてしまう。
 真理を語る事ではなく、党派的なスタンスを優先させてしまう。教会の権威が守られれば、議論と言うものは、それで良いのでしょうか。
 アレクセイさんが一貫しているのは、単なる誹謗中傷ではなく『「神学者」の仕事というのは、「真理を語ること」ではなく「教会を守る(護教)」だ』というキリスト教神学者の方々へ、しっかりと根拠のある批判をしていこうという誠実な態度なのだと思っています。

 

歴史と〈人間の真実〉一一 Amazonレビュー:塩野七生『十字軍の物語』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月 7日(木)17時33分50秒
   歴史と〈人間の真実〉

 Amazonレビュー:塩野七生『十字軍の物語』
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塩野七生を、本作で始めて読んだ。
私はもともと小説読みだが、歴史小説、時代小説、企業小説、ファンタジーだけは、触手が動かなかった。
言い換えれば、それ以外なら、純文学、実験小説のたぐいから、ミステリ、SF、ラノベまかでひと通り読んでおり、文芸評論などもそれなりに読んでいる。
要は、文学趣味の人間ではあるが、前記の四ジャンルには興味が持てず、歴史小説的と呼んでいいであろう作風の塩野七生は、これまで読んだことがなかったのだ。

今回、塩野七生を読んだのは、近年、趣味でキリスト教を研究しているからである。

キリスト教とひと口に言っても、2000年余の歴史があり(旧約聖書にからんで、前身のユダヤ教まで含めると、当然さらに長くなる)、地域も世界的な広がりがあり、教義や神学と言っても、教派分裂を重ねているから、決して一色ではない。また、研究対象をキリスト教を総体とするか、我が国のキリスト教に絞るかといった問題もあって、専門の学者や神父牧師にしたところで、それらすべてを踏まえている人は皆無と言ってよく、それほど大きなテーマなのだ。
だが、そんなキリスト教の歴史の中でも、決して無視できないテーマの一つが「十字軍」なのである。

しかし、十字軍は八度、二百年間にもわたるものであり「攻めた、取った、取り返された」といったことの応酬に関する学術的記録は、時代小説や戦記読み物にすら退屈に感じる人間には、いささか単調で面白みに欠け、さっぱり頭に残らないものだった。

そこで、面白いと世評の高い塩野七生の本なら、まして十字軍の「物語」と題している本ならば、十字軍の歴史を面白く、頭に残るかたちで読ませてくれるのではないかと期待して、読んでみたのである。
そして、結果は期待どおりであった。

しかし、塩野七生の他の著作はいざ知らず、『十字軍物語』に関して言えば、これは「歴史研究書」ではなく「歴史小説」の範疇に類するものであろう。
それは、研究書をかじっている者として見ても、小説読みとして見ても明らかなことだ。

塩野七生のウィキペディアによると、塩野の著作を「歴史書」として読む人がおり、それが一部に問題視されていると知り、呆れつつも、一方でさもありなんとも思った。
なにしろ世の中には、イエスが復活したとか、ロンギヌスの槍や聖杯には奇跡の力が宿っているとか、日本の天皇家は天孫降臨の神の末裔だとか、神武天皇は実在したなんて「物語や神話(フィクション)」を本気で信じている人がいるのだから、よく書けた歴史小説、例えば山岡荘八の『徳川家康』なんかを歴史書として読む人が大勢いても、なんら不思議ではない。

まして、塩野七生の『十字軍物語』は、そうした歴史小説ような書かれ方はしていない。
例えば、登場人物のセリフが「」書きで書かれることはなく、文献からの引用か、著者によると代弁「○○は、きっとこう言いたかったことだろう」的な書き方をして、生な「セリフ」を作ってはいないからである。
しかし、これは「フィクションにおける形式」の問題であって、フィクションか、非フィクションとしての歴史研究書かを決定する要素にはならない。それを決めるのは、資料的裏付けの扱いであり、それを決定する著者の意志なのだ。

研究書というものは、あくまでも、究明した「事実」を報告するものであって、自分の「解釈」を開陳するためのものではない。新しい事実を発見して初めて、新しいオリジナリティのある学説を唱えられるのであって、新しい事実の発見なしの、新しい解釈だけでは、それは「歴史評論」の類にしかならないのである。

で、塩野七生作品は、基本的には「歴史評論」と「歴史小説」の中間形態であって、学術的な「歴史書」ではない。
その魅力は、著者・塩野七生の「ユニークな視点」や「闊達な語り口」であって、「歴史的事実の究明とその紹介」ではない。
塩野七生作品は、基本的には「歴史を扱った娯楽読み物」なのである。

もちろん私は「娯楽読み物」と「研究書」のどちらが偉いなどと言っているのではない。
これは序列の問題ではなく、ジャンルの違いであり、書かれた目的の違いなのだ。

したがって、塩野七生の「優れた、面白い、歴史読み物」であり、著者の解釈表現に重きおいた、フィクション性の強い、「小説」的な作品だと理解するのが妥当なのである。

だから、問題は、著者・塩野七生ではなく、塩野作品が歴史を扱っているというだけで、それを歴史的事実を描いたものであると、単純に思い込んでしまう一部読者の方であり、そんな読者の「読書リテラシー」の低さなのである。

例えば、ミステリ(推理小説)読みならば、作者は事実を書くとは限らないとよく知っているし、小説のおける「語り」とは「騙り」でもあることを知っている。SF者ならば「存在しないものを、現在の科学理論を最大限に駆使して、いかにもあるかの如く描く」レトリックの価値や魅力を知っている。
すなわち「小説(フィクション)」の力とは「事実をして語らしめる」ものではなく「作り事でしか語れない真実を語るもの」だということを知っているのである。だから「歴史小説」が「歴史研究書」に劣るというような劣等感を持つ必要などない。両者は「似て非なるもの」なのである。

だからこそ読者は、塩野七生作品を正しく鑑賞すべきであろう。
そこに書かれていることが、どこまで裏付けの取れた歴史的事実であり、どこからが塩野七生「好み」の「解釈」なのか。

そこを見極めた上でなら、フィクションをフィクションとして楽しむのは、大いに知的であり、結構なことなのだ。
それは、ミステリやSFを楽しむのと同じ、知的読書だと言えるだろう。

ただ、歴史好きがしばしば陥る間違いは「歴史読み物」と「歴史研究書」を混同することで、自分がさも「学者」になったような勘違いを、無自覚なまま楽しんでしまう態度である。
こういうのは、ハッキリ言えば、非知的で、傍目にも恥ずかしい。

片山杜秀が近著『教養としての歴史』にも書いているが、教養とは、自分好みのエピソードを収集してため込むことではなく、広範な知識の裏付けを持って、物事を見極める目を持つことなのだ。

そして、そのような目さえあれば、娯楽読み物でも「知」とし得るし、逆にそれが無ければ、学術書を読んでも、目が霞む一方なのである。

このように前提した上で、塩野七生のために付言しておけば、彼女のキリスト教に対する評価は、身も蓋もなく正しい。

むしろ、歴史研究書づらをして刊行された、クリスチャンによる歴史書の方こそ、じゅうぶん眉に唾して読むべきであろう。
と言うのも、今に残るキリスト教の歴史とは、不都合な史実を焼き尽くすことで、自己を正統化してきた歴史に他ならないからだ。

例えば、キリスト教史において「異端」とされた側の証言史料がほとんど残っていないのは、後に「正統」を名乗った側が、排除した相手の側の史料を徹底的に焼き捨て、その真実を闇に葬ってきたからに他ならない。

そして、そんな正統キリスト教会の歴史から派生した西欧の諸学には、抜きがたくキリスト教の影響が残っているし、当然、クリスチャンの学者が少なくない。ましてキリスト教史の研究者には、当然現役クリスチャンが多いのである。

つまり、色眼鏡を掛けているのはみんなお互い様であり、偽善的かつ無自覚なクリスチャン学者のキリスト教史より、塩野七生のキリスト教関連史、つまり例えばこの『十字軍物語』の方が、「物語」と付すだけでも、よほど正直謙遜であって、信用にも値するのである。

意図せず史実と違った部分は、おのずとあるだろう。しかし、この『十字軍物語』が、ひとつの「リアルな人間」を描いた歴史物語であることは間違いないのである。

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安倍晋三による「北方領土のロシア奉献」の裏側 一一 金子夏樹『リベラルを潰せ 世界を覆う保守ネットワークの正体』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月 5日(火)14時50分10秒
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 安倍晋三による「北方領土のロシア奉献」の裏側

 Amazonレビュー:金子夏樹『リベラルを潰せ 世界を覆う保守ネットワークの正体』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RR98JL1P3YSX2

素晴らしいレポートである。
見てのとおり「ネトウヨの標的」にされているが、言い変えれば、ネトウヨにとっては、それほど「読まれたく内容」が書かれている、ということだ。

もしかすると、本書で紹介されている、世界的な反リベラル政治団体である「世界家族会議」(国際版「日本会議」みたいなもの)の末端関係者が、ここでも暗躍したのかもしれない。なにしろ、LGBTについて『生産性がない』と発言して批判された、安倍晋三チルドレンの「杉田水脈」議員に言及して、本書を低評価しているレビュアーもいるくらいなのだから。

ともあれ、安倍晋三シンパのネトウヨが、力こぶを入れて悪意票を(中身も読まずに)投じる本というのは、それだけで逆に「内容保証」となると言ってもいいだろう。

テレビニュースでも時おり報じられる「ネトウヨの集団的イヤガラセ(電凸・メル凸・手紙凸など)」に眉をひそめたことのある方は、ぜひ本書を読んで、その「リアルな政治的背景」を知るべきである。
本書のレビュー欄であるここでも、「リベラルを潰せ」のかけ声のもとに、そうした「政治工作」が現になされているのである。

 ○ ○ ○

さて、本書の内容でまず注目される点は、日本ではほとんど知られていない反リベラルの政治団体「世界家族会議」の存在もさることながら、その強力な支援国としての「プーチンのロシア」の存在と、その現政策の内容である。

「ロシア」と言えば、いまだに「共産主義」や「アカ」のイメージが根強いし、「プーチン」と言えば「ソ連共産党独裁政権下における国家保安警察KGB出身の、筋金入りの強権主義者」として知られている。
だから「プーチンのロシア」と言えば、日本のネトウヨや安倍晋三などとは、方向性が真逆だという「印象」を持っている人も少なくないはずだ。しかし、今は違うのだ。

共産党政権が崩壊した後、急激な資本主義化が進行した結果、貧富の差が増大し、やがて新生ロシアの国民は、西欧式の資本主義的民主主義に反発するようになる。「こんなことになるくらいなら、みんな平等に貧しく、それでも安定していた、共産党時代の方が、まだマシだった」と思うくらいに、一般国民の生活は混乱した。

そこで、プーチンは「反・西欧式資本主義」を掲げ、一時期はナショナリズムにも訴えて、政権の強化を進めようとしたが、すでに西欧的自由の味を知ってしまった若者たちは、プーチンの進める強権的統制主義に反発し、さらにロシア国内の各種民族自決運動まで活性化させてしまい、政権を揺るがすような事態になってしまった。
そのため、プーチンは「ナショナリズム」に代わる「反・西欧式資本主義としての、新たな価値」を模索し、その結果行きついたのが、ロシア正教の民衆的権威を利用することのできる「(文化)保守主義」だったのである。
今のプーチンは、ロシア正教会を強力にバックアップし、「伝統的宗教」の価値を保障する(新興宗教は弾圧する)ことで、正教会の上層部とべったりの関係にあり、その民衆的権威を利用することが可能となったのだ。

そんなプーチンは、テレビの討論番組で「あなたにとってロシア人とは何か?」と問われて、次のように語る。


『「ロシア世界の住民は、最高の道義的な真理を考えています。だからこそロシア世界の住民は自分本位になることはありません」
「ロシアでは死ぬことが親友や母国のためになるのであれば、素晴らしい行為です。(中略)我々はほかの民族に比べて実用主義とか計算高さでは劣ります。しかし我々は彼らより大きな心を持っています。わが民族は無限の寛大な精神を持っているのです」』(P186)


いかにも「耳障りの良い」言い方(ロシア国内の他の民族への配慮に注目)だが、これが「絶対権力者」の口から語られていることを、決して忘れてはならない。これは「八紘一宇」の「王道楽土」を築きたい帝王の「タテマエ」なのだ。

つまり、要は「ロシアの住民であれば、こうでなければならない。そうでないのなら、そいつは西欧式の自由主義的価値観に毒された、自己中心的な貪欲人間にすぎない。我々はロシアの住民は、反西欧式の人間的な価値観を世界に広めていかなければならない」という意味である。「ロシアの住民ならば、そのために死ねるだろう?」という意味なのである。

どこの国でも、「政治的保守」というのは、こうした「口先だけのきれいごと」を言いながら、実際には自分たちの「政治的覇権」しか考えていない。
しかし、現実を見ることのない民衆は、こうした「口先のきれいごと」に対し「それはそうだ」としか考えないのである。まして、それに、プーチンから莫大な金銭的バックアップをうけて、表面的な華やかさを増した「宗教的権威=ロシア正教会」のトップが「プーチンは、最高の指導者だ」などと絶賛すれば、政治のことなどよくわからない民衆は、プーチンの「保守主義政権強化策」に自ら巻き込まれていくしかないのだ。

しかし、プーチンの「保守主義政権強化策」は国内に止まるものではない。それは「保守主義的覇権主義」として国際的に展開され、「ロシア帝国の再興」が目指される(じっさい「帝政ロシアの再評価」が進んでもいる)。

だからこそ、プーチンのロシアが、「反リベラル(反自由主義・反個人主義)」では一致する、西欧各国の「極右」や「極左」勢力と繋がりをもつのは自然なことであり、「東西冷戦の仇敵」であったはずのアメリカの大統領、あのトランプとつながるのも「反リベラルの保守主義」という点では当然の結果で、トランプの「ロシアゲート」疑惑は、疑惑でもなんでもなく、至極自然な「つながり」にすぎないのである。

じっさい、トランプの支持基盤である「アメリカの福音派」は、ゴリゴリの「保守主義」である。
本来「リベラル」的であったアメリカのプロテスタントの「知性主義」への反発として登場したのが「アメリカの福音派」なのだ。
また、「アメリカの福音派」は、その出自からしても、教派的教義の純粋性より政治的立ち位置を重視して、教派や宗派を乗り越えて政治的につながるので、そのなかにはカトリックもいれば、保守的なユダヤ教やイスラム教団体さえ含まれる。
そして、このような「保守合同教派としての、アメリカの福音派」に、もともと保守的で知られ、さらにはプーチンの保護政策により保守性を強めた「ロシア正教会」が無縁であるはずもないのだ。

当然、トランプ支持の「アメリカの福音派」とプーチン支持の「ロシア正教会」は、(「世界家族会議」などの民間政治組織を介して)「保守的価値観」において緊密に連携しており、トランプがプーチンにたいして「好意」を隠さないのも、こうした背景としての「政治的一致」があるからだ。
したがって、わが安倍晋三首相が「トランプの飼い犬」であるだけで済まないのもまた、理の当然なのだ。

保守主義的価値観を掲げる安倍晋三にとっても、プーチンは「保守」的価値観を共有する「(グッと格上の)友人」なのである。だから、プーチンから「君が総理であるうちに、領土問題を解決するぞ。よもや嫌とは言わんだろう?」と言われれば、まったく抵抗できる立場ではない。だからこその「プーチンへの北方領土奉献」なのである。

じっさい、安倍晋三とプーチンとの繋がりは、思想的で抽象的な繋がりなどではなく、政治政策的なリアルな繋がりであると見ていい。
というのも、安倍晋三チルドレンの「杉田水脈」議員の「LGBTには『生産性がない』」という発言は、本書で最初に紹介される、世界的な反リベラル政治団体である「世界家族会議」の主張、そのままだからだ。

本書でも紹介されているとおり、旧来の「家族」観を保守的に信奉し、それを破戒するものとしての「リベラル的価値である、LGBTの権利保護」を批判する「世界家族会議」の中心メンバーは、プーチンを「世界最高のリーダー」であると絶賛して支持し、その一方「アメリカの福音派」こそが「家族」の価値を守っていると絶賛してもいる(プーチンのロシア正教会もアメリカの福音派も、LGBTの権利保護をアンチ・キリストとして危険視している)。
また、プーチンのブレーンとして知られるドゥーギンと、トランプのブレーンとして知られたアメリカの保守主義者バノンとは、お互いにエールをおくり合う仲である。

そんな「反リベラルの世界的保守ネットワーク」が構築されている中で、日本の安倍政権だけが、それとはまったく無縁に「プーチンのロシア」に過剰なまでに擦り寄っているなどと考えるのは、およそ非現実的な「(国際)政治オンチ」と呼ばれるしかないであろう。

世界の現実に目を閉ざして、日本の中で「井の中の蛙」に甘んじている人たちは、安倍晋三による「プーチンへの北方領土奉献」の意味など、理解できるはずもない。しかし、読書家であるならば「英知の目」を見開くべきである。


【補記】
 私が最近レビューを書いた『神とは何か 哲学としてのキリスト教』(講談社現代新書)の著者である、カトリック保守派の論客・稲垣良典は、同書の後半で、日本では「個人主義が行き過ぎている」という危惧をくりかえし語っている。
 これが意味するのは、日本のキリスト教界も、世界的な「政治的保守化の流れ」とは、決して無縁ではあり得ない、という危険な現実である。

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フランチェスコvsイノケンティウス3世のプチ再演(改訂版)一一Amazonレビュー:若松英輔・山本芳久『キリスト教講義』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月 5日(火)10時53分50秒
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 フランチェスコvsイノケンティウス3世のプチ再演

 Amazonレビュー:若松英輔・山本芳久『キリスト教講義』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2NXCUMWZ4C1GA

※ このレビューは、元レビューにこの註を付したものである。
 というのも、昨日本年3月4日に反映された元レビューがさっそく削除されたので、本日「改訂版」として再アップしたという事情があるからである。
 今回の削除も「カトリック信者による、運営への誹謗申告」がなされたものと推察できる。と言うのも、先日、カトリック学者である稲垣良典氏の新著『神とは何か 哲学としてのキリスト教』の拙レヴューについても、同様の削除措置を受け、改訂のうえ再アップを行ったばかりだからだ。

 私はその際にも改訂版の末尾に『本日いきなり、同レビューが削除された。理由は不明だが、著者の関係者か同信者から、苦情があったものと思われる。』と注記し、さらにコメント欄に『レビューの内容が不当であるというのなら、このコメント欄ででも反論してほしいものだが、信仰者とネトウヨは、反論ではなく、運営への直訴で削除を求めるようだ。自分たちの正しさを疑う知性のない人たちは、タテマエは別にして、本音では問答無用のようだ。』と書いたが、今回の件で、運営への直訴者が「カトリック保守派」関係者である蓋然性がグッと高まったと言えるだろう。

カトリック保守派の稲垣良典氏は前記『神とは何か』のなかで、日本では「個人主義が行き過ぎている」と繰り返し訴えていたが、その同業者である山本芳久氏やそのシンパも、リベラルな「言論の自由」がお嫌いなのかも知れない。
ともあれ、星5つが4投稿というような一方的な評価は、このような低評価票の削除が、陰でなされた上でのものだと考えなければならない。


○ ○ ○(以下、レビュー本文)


本書の内容は、宗教に興味のある人には、決して難しいものではない。と言うよりも、より正確に言うならば、本書は「平易」に書かれている。しかし、そこが曲者であり、そこを読み取らないでは、読書の名に値しない。

対談者である、若松英輔は「霊性(スピリチュアリティ)」を強調する個人主義的なカトリック信者であり、いわばキリスト教における「修道院」的な伝統に連なる人だ。一方、山本芳久の方は、キリスト教が「反近代」に傾いた時期にカトリック神学の基本として重視された体系的神学者であるトマス・アクィナスの研究家の神学者である。
まず、これが意味するところを読み取れなければ、本書で語られていることの意味は読み取れない。しかし、どうやらそこを読み取れている人は少ないようだ。なぜなら、両者はカトリックという共通項において仲良く(補完的に)語り合っているように装いながら、実は対立的な部分の少なくないことを隠しながら語り合っているからだ。

簡単に言えば、若松英輔は「バチカン(法王庁)」が信仰理解(教義)や信仰態度といった「正しい信仰」を独占的に規定する「教会主義」を、個々の「霊性」を強調する立場から批判しており、今のキリスト教の、特に日本のキリスト教の(妄信者以外の)人に対する力の無さやダメさは、こうした制度依存的な保守性にあるからではないかということで批判しており、一方「保守(護教)的神学者」としての山本芳久は、表面上は若松の問題提起に同調するような口ぶりを装いをしながらも、実際にはその神学的(権威主義的)レトリックによって、問題を「教会の現実」から逸らして「考え方」の問題として一般化し、若松の「アクチュアルな問題提起」を無効化することに傾注しているからである。

以上のような、簡単なまとめが信用できない読者のために、両者の「真の立場」について、その発言を引用しながら、すこし説明しておこう。

まず、若松英輔だが、こう書いている。

『 少し話が飛躍するように感じられるかもしれませんが、歴史と真に対峙しようとするとき、ひとりであるということがとても重要なのではないかと考えているのです。ここで対置される態度があるとすれば、それは集団的に理解される歴史観というものです。しかし、キリスト教における生きる歴史というものに向き合うためには、こういう誰かに定められた歴史観をもって生きるのではなく、ひとり、歴史に向き合ってみなければならない。「歴史」を経験することと、ある「歴史観」で時代を眺めることは違います。キリスト教の歴史は正統と異端の相剋です。新しい時代を作ってきた者たちは、一度ならず異端視された。古くはパウロ、トマス(※ アクィナス)、アッシジのフランチェスコもある人々から見れば異端者です。もちろん、ルターやカルヴァンにも同質のことがいえます。』(P187)

若松はここまで言っているのに、その趣旨を理解しないままに本書を絶賛しているような論者の盲目ぶりは、ほとんど絶望的なものだと言えよう。

要は、若松は自身をアッシジのフランチェスコの立場に擬して、硬直した教会の権威的かつ保守的な態度を批判しているのだ。自身は「現代の異端」と呼ばれうる危険な立場に立っているが、それでもキリスト教のために諫言すると。
つまり、若松が自身を「アッシジのフランチェスコ」に擬しているとすれば、それに対する護教的な山本芳久の立場は「教皇イノケンティウス3世」に凝されていると見ていいだろう。

『1209年には、教皇は西欧諸国で異端と見られるフランス南部のアルビ派にアルビジョア十字軍を派遣して弾圧している(これは没後の1229年まで継続)。 一方で1210年にアッシジのフランチェスコと会見し、フランシスコ会を承認するなど、新しい会派への理解も見せている。』
  (Wikipedia「インノケンティウス3世 (ローマ教皇)」)

この当時、権力を独占して腐敗の極みに達していた「教会」制度に対して、ボゴミル派やアルビ(カタリ)派に代表される民衆的かつ教会批判的な在家信仰集団が大きな運動となりはじめていた。それに恐怖したローマ教皇は、教会の腐敗ぶりを棚に上げて、これらの民衆的信仰運動を「異端」認定し、十字軍という暴力で叩き潰した(虐殺した)。
しかし、それだけでは、同じような運動が起こるのは目に見えているので、教会の中でもそうした不満を逸らすための施策が採られたのは当然で、そのひとつが「清貧の聖者」であるフランシスコの兄弟団に認可を与える、という懐柔策だったのである。

ちなみに、当然のごとく護教的(護教会的)な神学者である山本芳久は、「愛」についての章で、キリスト教の「愛」についての「世間の誤った認識(偏見)」である「自己愛を否定して、自己犠牲的な愛を強調するような(反自然的)態度」は、本来のキリスト教(つまり、カトリック)のものではなく、ルターが悪いのだ、と論じて、その責めをプロテスタントに帰している。

『 人間の自然なあり方から出発するのではなく、人間が救われるのは「聖書のみ」「信仰のみ」「恩寵のみ」といったルター的な考え方に席巻されてから、キリスト教神学の考え方もずいぶんと変わりました。』(P87)

しかし、私たち非信仰者が「自己愛を否定して、自己犠牲的な愛を強調するような(反自然的)態度」をキリスト教が強調していると認識するのは、ルターの考えのせいなどではなく、「聖職者は生涯独身」でなければならないとか「女性聖職者は認めない」「同性愛は認めない」といった「カトリックの現実」を見せつけられてきたからであって、これらについても近代的に乗り越え(ようとし)ているプロテスタントのせいでは断じてないのだ。
しかしまた、ここでわかるのは、「神学者」の仕事というのは、「真理を語ること」ではなく「教会を守る(護教)」だという現実なのである。

つまり、若松英輔と山本芳久は、その信仰態度から言えば、本来なら敵対して然るべきものなのだが、イノケンティウス3世がそうであったように「教会」保守派の態度とは「利用できるものなら、異端でも利用する」というものであるからこそ、フランチェスコや若松英輔のような「(世俗的)人気者」に対しては、さも「意見が合っているかのような振り」をしてでも、教会の権勢強化に利用するのである。
一一 そして本書は、そういう本なのだが、歴史に学ばない人には、それが読み取れないのだ。

ちなみに、そんな本書の限界は、両者が共有する「キリスト教信仰は正しい(真理である)」という「無根拠な前提」にある。
この「無根拠な前提」を共有すればこそ、両者の対論も成立するのだが、当然のことながら、両者の議論は、根底的なところで「底が抜けた空論」でしかない。

カトリックではない、すこしは本を読める読者が本書を読めば、両者がともに、いかにもカトリックらしい「権威主義者」であることに気づくだろう。
若松は、自身の「異端性」を認識しているからこそ、いろんな作家や思想家や宗教家といった世俗的権威を、自らの「守護神」のごとくズラリと並べることで、自身の言葉を「権威付け(箔付け)」しているし、山本芳久の方は「トマス・アクィナス」(と正統神学)という「キリスト教界の金看板」一本で、自身の言葉を「権威付け(箔付け)」ている。

しかし、彼らの言葉からこれらの「権威付け(金箔)」を拭い去って「彼ら自身の言葉のみ」に注目すれば、それはいかにも常識的で、いっそ凡庸なものでしかないのに気づくはずだ。
彼らの言葉が、なにやら「ありがたく」感じられるのは、彼らの言葉が常に「権威の光背」を背負っているからにすぎない。だからこそ「自己愛を否定して自己犠牲的な愛を強調するような態度は、不自然であり無理があるものですよ」などといった「常識」的で凡庸な意見ですら、なにやら新しく深いものと勘違いされてしまうのだ。

若松英輔は文芸評論家であるから、たしかに文学作品をよく読んでいるし、それ以外の宗教書などもよく読んでいる。また、山本芳久の方はトマス・アクィナスを専門とする神学者だから、神学書をよく読んでいる。
しかし、言うまでもなく、彼らがよく読んでいるのは「それだけ」でしかなく、彼らはそれ以外の多くの書物を読んでいない。
当然「無知」な部分の方が膨大であるにもかかわらず「自分の限定的な知識こそが、物事の本質迫るカギである」かのごとく、まるで「オタクの独演」のように「自身の手札だけ」を蜿蜒と繰り返し語って見せて、自身の「無知」については口を噤むのだ。

『 では、「言葉」とはどういうものか。私たちの日常を考えてみたとき、誰かの言葉を聞くと、およそその人はどういう人なのかという輪郭がわかる、それが言葉というものではないでしょうか。言葉とは、語る人のありかたを示すものです。「ヨハネによる福音書」の別の箇所には、イエスが弟子に「わたしを見た者は、父を見たのだ」(第一四章第九節)と語っている箇所があります。イエスに触れれば、イエスの言葉を聞けば、それは神の言葉を聞いたにも等しい。イエスの言行を見たら、それはすなわち神のあり方を見たことになるのだ。イエスが神の言葉であるとは、イエスが神とはどういう存在なのかということをありありと示してくれる存在なのだ、ということです。』(P152)

これは「はじめにあった言葉としての神=イエス・キリスト」についての若松英輔の解説であり、キリスト教神学的には間違いではない。しかし、イエスの言葉を聞き、イエスの言動に間近で接した弟子たちでさえ、イエスが復活するまでは「神」の何たるかを知り得なかったという「聖書的事実」のあることを忘れてはならない。
つまり、ことは若松や山本が語るほど簡単でもなければ、きれいな図式に収まるほど単純なものでもないのだ。まして、イエスならぬ若松英輔や山本芳久の「言葉」の真実を、字面を追うだけの凡庸な読者に、どれだけ読み取れるものか、すこしは現実に「目を開いて」考えてみた方がいい。

書物というものは「読めば誰にでも分かる」というものではないし、読書というものは「誰にでも十二分に可能なこと」などではない。それが現実なのである。

なお、本書は、著名な評論家であるカトリック信者(若松英輔)とカトリック神学者(山本芳久)との対談であるが、ほぼ同時期に刊行された、著名な作家でプロテスタントの佐藤優とプロテスタント神学者である深井智朗の対談(形式の講義)『近代神学の誕生 シュライアマハー『信仰について』を読む』が刊行されている(本書『キリスト教講義』は2018年12月、『近代神学の誕生』は2019年1月刊行)。
自身の信仰にもとづく「党派的偏見」だけで読書するのではなく、「キリスト教とは何か」ということを、まともに考える気のある読書家ならば、ぜひ両者を読み比べてみるといい。善かれ悪しかれ、カトリックとプロテスタントの「知性」の質的違いが、はっきりと感じられるはずだからだ。

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フランチェスコvsイノケンティウス3世のプチ再演 一一Amazonレビュー:若松英輔・山本芳久『キリスト教講義』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月 4日(月)15時12分4秒
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 フランチェスコvsイノケンティウス3世のプチ再演

 Amazonレビュー:若松英輔・山本芳久『キリスト教講義』
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本書の内容は、宗教に興味のある人には、決して難しいものではない。と言うよりも、より正確に言うならば、本書は「平易」に書かれている。しかし、そこが曲者であり、そこを読み取らないでは、読書の名に値しない。

対談者である、若松英輔は「霊性(スピリチュアリティ)」を強調する個人主義的なカトリック信者であり、いわばキリスト教における「修道院」的な伝統に連なる人だ。一方、山本芳久の方は、キリスト教が「反近代」に傾いた時期にカトリック神学の基本として重視された体系的神学者であるトマス・アクィナスの研究家の神学者である。
まず、これが意味するところを読み取れなければ、本書で語られていることの意味は読み取れない。しかし、どうやらそこを読み取れている人は少ないようだ。なぜなら、両者はカトリックという共通項において仲良く(補完的に)語り合っているように装いながら、実は対立的な部分の少なくないことを隠しながら語り合っているからだ。

簡単に言えば、若松英輔は「バチカン(法王庁)」が信仰理解(教義)や信仰態度といった「正しい信仰」を独占的に規定する「教会主義」を、個々の「霊性」を強調する立場から批判しており、今のキリスト教の、特に日本のキリスト教の(妄信者以外の)人に対する力の無さやダメさは、こうした制度依存的な保守性にあるからではないかということで批判しており、一方「保守(護教)的神学者」としての山本芳久は、表面上は若松の問題提起に同調するような口ぶりを装いをしながらも、実際にはその神学的(権威主義的)レトリックによって、問題を「教会の現実」から逸らして「考え方」の問題として一般化し、若松の「アクチュアルな問題提起」を無効化することに傾注しているからである。

以上のような、簡単なまとめが信用できない読者のために、両者の「真の立場」について、その発言を引用しながら、すこし説明しておこう。

まず、若松英輔だが、こう書いている。

『 少し話が飛躍するように感じられるかもしれませんが、歴史と真に対峙しようとするとき、ひとりであるということがとても重要なのではないかと考えているのです。ここで対置される態度があるとすれば、それは集団的に理解される歴史観というものです。しかし、キリスト教における生きる歴史というものに向き合うためには、こういう誰かに定められた歴史観をもって生きるのではなく、ひとり、歴史に向き合ってみなければならない。「歴史」を経験することと、ある「歴史観」で時代を眺めることは違います。キリスト教の歴史は正統と異端の相剋です。新しい時代を作ってきた者たちは、一度ならず異端視された。古くはパウロ、トマス(※ アクィナス)、アッシジのフランチェスコもある人々から見れば異端者です。もちろん、ルターやカルヴァンにも同質のことがいえます。』(P187)

若松はここまで言っているのに、その趣旨を理解しないままに本書を絶賛しているような論者の盲目ぶりは、ほとんど絶望的なものだと言えよう。

要は、若松は自身をアッシジのフランチェスコの立場に擬して、硬直した教会の権威的かつ保守的な態度を批判しているのだ。自身は「現代の異端」と呼ばれうる危険な立場に立っているが、それでもキリスト教のために諫言すると。
つまり、若松が自身を「アッシジのフランチェスコ」に擬しているとすれば、それに対する護教的な山本芳久の立場は「教皇イノケンティウス3世」に凝されていると見ていいだろう。

『1209年には、教皇は西欧諸国で異端と見られるフランス南部のアルビ派にアルビジョア十字軍を派遣して弾圧している(これは没後の1229年まで継続)。 一方で1210年にアッシジのフランチェスコと会見し、フランシスコ会を承認するなど、新しい会派への理解も見せている。』
  (Wikipedia「インノケンティウス3世 (ローマ教皇)」)

この当時、権力を独占して腐敗の極みに達していた「教会」制度に対して、ボゴミル派やアルビ(カタリ)派に代表される民衆的かつ教会批判的な在家信仰集団が大きな運動となりはじめていた。それに恐怖したローマ教皇は、教会の腐敗ぶりを棚に上げて、これらの民衆的信仰運動を「異端」認定し、十字軍という暴力で叩き潰した(虐殺した)。
しかし、それだけでは、同じような運動が起こるのは目に見えているので、教会の中でもそうした不満を逸らすための施策が採られたのは当然で、そのひとつが「清貧の聖者」であるフランシスコの兄弟団に認可を与える、という懐柔策だったのである。

ちなみに、当然のごとく護教的(護教会的)な神学者である山本芳久は、「愛」についての章で、キリスト教の「愛」についての「世間の誤った認識(偏見)」である「自己愛を否定して、自己犠牲的な愛を強調するような(反自然的)態度」は、本来のキリスト教(つまり、カトリック)のものではなく、ルターが悪いのだ、と論じて、その責めをプロテスタントに帰している。

『 人間の自然なあり方から出発するのではなく、人間が救われるのは「聖書のみ」「信仰のみ」「恩寵のみ」といったルター的な考え方に席巻されてから、キリスト教神学の考え方もずいぶんと変わりました。』(P87)

しかし、私たち非信仰者が「自己愛を否定して、自己犠牲的な愛を強調するような(反自然的)態度」をキリスト教が強調していると認識するのは、ルターの考えのせいなどではなく、「聖職者は生涯独身」でなければならないとか「女性聖職者は認めない」「同性愛は認めない」といった「カトリックの現実」を見せつけられてきたからであって、これらについても近代的に乗り越え(ようとし)ているプロテスタントのせいでは断じてないのだ。
しかしまた、ここでわかるのは、「神学者」の仕事というのは、「真理を語ること」ではなく「教会を守る(護教)」だという現実なのである。

つまり、若松英輔と山本芳久は、その信仰態度から言えば、本来なら敵対して然るべきものなのだが、イノケンティウス3世がそうであったように「教会」保守派の態度とは「利用できるものなら、異端でも利用する」というものであるからこそ、フランチェスコや若松英輔のような「(世俗的)人気者」に対しては、さも「意見が合っているかのような振り」をしてでも、教会の権勢強化に利用するのである。
一一 そして本書は、そういう本なのだが、歴史に学ばない人には、それが読み取れないのだ。

ちなみに、そんな本書の限界は、両者が共有する「キリスト教信仰は正しい(真理である)」という「無根拠な前提」にある。
この「無根拠な前提」を共有すればこそ、両者の対論も成立するのだが、当然のことながら、両者の議論は、根底的なところで「底が抜けた空論」でしかない。

カトリックではない、すこしは本を読める読者が本書を読めば、両者がともに、いかにもカトリックらしい「権威主義者」であることに気づくだろう。
若松は、自身の「異端性」を認識しているからこそ、いろんな作家や思想家や宗教家といった世俗的権威を、自らの「守護神」のごとくズラリと並べることで、自身の言葉を「権威付け(箔付け)」しているし、山本芳久の方は「トマス・アクィナス」(と正統神学)という「キリスト教界の金看板」一本で、自身の言葉を「権威付け(箔付け)」ている。

しかし、彼らの言葉からこれらの「権威付け(金箔)」を拭い去って「彼ら自身の言葉のみ」に注目すれば、それはいかにも常識的で、いっそ凡庸なものでしかないのに気づくはずだ。
彼らの言葉が、なにやら「ありがたく」感じられるのは、彼らの言葉が常に「権威の光背」を背負っているからにすぎない。だからこそ「自己愛を否定して自己犠牲的な愛を強調するような態度は、不自然であり無理があるものですよ」などといった「常識」的で凡庸な意見ですら、なにやら新しく深いものと勘違いされてしまうのだ。

若松英輔は文芸評論家であるから、たしかに文学作品をよく読んでいるし、それ以外の宗教書などもよく読んでいる。また、山本芳久の方はトマス・アクィナスを専門とする神学者だから、神学書をよく読んでいる。
しかし、言うまでもなく、彼らがよく読んでいるのは「それだけ」でしかなく、彼らはそれ以外の多くの書物を読んでいない。
当然「無知」な部分の方が膨大であるにもかかわらず「自分の限定的な知識こそが、物事の本質迫るカギである」かのごとく、まるで「オタクの独演」のように「自身の手札だけ」を蜿蜒と繰り返し語って見せて、自身の「無知」については口を噤むのだ。

『 では、「言葉」とはどういうものか。私たちの日常を考えてみたとき、誰かの言葉を聞くと、およそその人はどういう人なのかという輪郭がわかる、それが言葉というものではないでしょうか。言葉とは、語る人のありかたを示すものです。「ヨハネによる福音書」の別の箇所には、イエスが弟子に「わたしを見た者は、父を見たのだ」(第一四章第九節)と語っている箇所があります。イエスに触れれば、イエスの言葉を聞けば、それは神の言葉を聞いたにも等しい。イエスの言行を見たら、それはすなわち神のあり方を見たことになるのだ。イエスが神の言葉であるとは、イエスが神とはどういう存在なのかということをありありと示してくれる存在なのだ、ということです。』(P152)

これは「はじめにあった言葉としての神=イエス・キリスト」についての若松英輔の解説であり、キリスト教神学的には間違いではない。しかし、イエスの言葉を聞き、イエスの言動に間近で接した弟子たちでさえ、イエスが復活するまでは「神」の何たるかを知り得なかったという「聖書的事実」のあることを忘れてはならない。
つまり、ことは若松や山本が語るほど簡単でもなければ、きれいな図式に収まるほど単純なものでもないのだ。まして、イエスならぬ若松英輔や山本芳久の「言葉」の真実を、字面を追うだけの凡庸な読者に、どれだけ読み取れるものか、すこしは現実に「目を開いて」考えてみた方がいい。

書物というものは「読めば誰にでも分かる」というものではないし、読書というものは「誰にでも十二分に可能なこと」などではない。それが現実なのである。

なお、本書は、著名な評論家であるカトリック信者(若松英輔)とカトリック神学者(山本芳久)との対談であるが、ほぼ同時期に刊行された、著名な作家でプロテスタントの佐藤優とプロテスタント神学者である深井智朗の対談(形式の講義)『近代神学の誕生 シュライアマハー『信仰について』を読む』が刊行されている(本書『キリスト教講義』は2018年12月、『近代神学の誕生』は2019年1月刊行)。
自身の信仰にもとづく「党派的偏見」だけで読書するのではなく、「キリスト教とは何か」ということを、まともに考える気のある読書家ならば、ぜひ両者を読み比べてみるといい。善かれ悪しかれ、カトリックとプロテスタントの「知性」の質的違いが、はっきりと感じられるはずだからだ。

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シュライアマハーの熱き信仰心 一一Amazonレビュー:佐藤優・深井智朗『近代神学の誕生』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 3月 2日(土)21時15分26秒
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 シュライアマハーの熱き信仰心

 Amazonレビュー:佐藤優・深井智朗『近代神学の誕生 シュライアマハー『宗教について』を読む』
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本書が何を語ったものかを端的に示しているのが、「あとがき」における深井智朗の、次の言葉だ。

『 この対談で試みたことは、『宗教について』の新しい、厳密なコメンタリーを作るということではなかったと思う。むしろシュライアマハーの神学的な思考の奥深さ、彼の時代感覚、彼の世界を見る目から学ぶことで、一見、私たちの生きている世界とはまったくかけ離れていることを論じているかに思える『宗教について』を使って、現代の諸問題を読み解く視点を獲得しようとしたのだ。毎回、二〇〇年以上も前に書かれたテクストと向き合っていたのだが、私たちの視点は過去にではなく、現在と将来に向けられ、岐路に立つ現代社会の諸問題と対峙していたのだと対談を終えた今は思っている。』(P258)

つまり、本書を読んで、シュライアマハーについての「新しい解釈(知識)」を得られたとか得られなかったとか言っているような読者は、本書を読めていなかった、ということなのだ。

本書は、これまでは「近代的理性に迎合してキリスト教神学を歪め、やがてカール・バルトの超越主義によって超克された、過去の人」という、表面的かつ通俗的なシュライアマハー解釈を『宗教について』を読み直すことで翻し、「信仰者としての時代との向き合い方」を、シュライアマハ-から学ぼうとしたものなのである。

そして、そうした問題意識は、ろくに原典に当たりもしないで、バルトが流行れば「シュライアマハーなど古い」と決めつけ、著名な佐藤優や深井智朗がシュライアマハーを採り上げれば「今はシュライアマハー(の再評価が)熱い」などと、俗物根性丸出しで右往左往する人たちの信仰心を批判して、暗に「だから、今のクリスチャンはダメなのだ」と言わしめるものなのだ。

『 シュライアマハーもそうですが、敬虔主義のまじめな人たちが信仰を持ちつつ勉強していくと、佐藤先生がさっきおっしゃったような信仰と自然科学とか、信仰と学問の矛盾といった問題に悩む。そこで自分たちの信仰と現実にどう折りあいをつけるか、どこまで折りあいをつけられるかという実験をはじめるのです。ここまでは許してもいい、ここまではキリスト教の神学と自然科学は和解できる、といったふうに、少しずつ自分の信仰をひろげていく。
 教会から「そんなことをするな、それはサタンの誘惑だ」と言われたりしながら、それでも少しずつ戦っていく。』(深井・p15~16)

『 使い古された言いまわしかもしれませんが、シュライアマハーは「死んだ宗教」とか「魂のない宗教」はだめだと思っている。ドイツのキリスト教は、他の国に比べれば、教会も立派、制度も立派。プロテスタント的なプロイセンはすばらしい……にもかかわらず、でも、なにか死んでいるんです(笑)。そこには生命がない。シュライアマハーは教会だけではなく、敬虔主義にも、啓蒙主義にも、そう感じるから批判している。』(深井・P58)

本書で何度も指摘されているとおり、シュライアマハーは『宗教について』に「宗教を侮蔑する教養人のための講話」というサブタイトルをつけて、同書がいかにも「啓蒙主義者の誤りを批判して、キリスト教信仰を擁護する本」であるかのように装いながら、同時に「教会をダメにしている、自称〈敬虔な教会人〉」たちをも批判している。
シュライアマハーに言わせれば、近代的理性を怖れて、それとの対決を避け、妄信に引き蘢ることで自分は「純粋な信仰者」でございという「アリバイ作り」に明け暮れているような臆病な手合いは、信仰者の名に値しない「教会依存者」だ、と感じられたのだろう。

そして、こうした「熱い信仰心」(や、熱さの裏返しとしての、徹底的に冷めた信仰心)こそが、キリスト教信仰の本質なのだと、佐藤優はまとめている。

『 信者になるか否定するか、どちらかということです。徹底的にキリスト教を叩きつぶすというかたちのコミットメントもある。徹底的に自分の信仰の問題として受け入れるというコミットメントもある。
 キリスト教は基本的に、激しさが好きなのです。黙示録を見てもわかるように、冷たくもなく熱くもない、生ぬるいものは、ペっと吐きだされるわけ。だから制度化された学知にはなじまないところがある。』(佐藤・P217)

もちろん、こうした徹底性の危険性については、佐藤も深井も十二分に認識しているが、それはどうしようもないことなのだと考えている。つまり、プロテスタントの信仰は「救いの必然性」が開かれている。言い変えれば「こうすれば、絶対に救われる」という保証はない。けれども、神を信じて、神が人に与えたもうた理性を精一杯駆使して突き進むのが「神への信頼に賭ける(プロテスタントの)信仰」なのだという理解なのだ。

『 問題は、神の声や啓示と、たんに心のなかに思っているだけのことを、原理的に区別することができるかどうか。おそらくこの場面で「感情」が鍵になる思う。感情は外部的ですからね。しかしその結果として一種の心理学主義が生じているのはたしかで、「神なき人間中心主義」に陥りかねないのです。第一次世界大戦のような破局に行きついてしまう人間の自己絶対化、人間主義になってしまうのではないか。
 でも私は、シュライアマハーは頭のいい人だから、その危険に対する防衛措置を働かせていると思う。それを読み解いていくのが、この『宗教について』を読む意義のひとつだと思っています。』(深井・P35)

『 もうひとつ、直観の場合、その直観がまったくのまちがいという可能性を排除できません。シュライアマハーも「誤った直観」とか「誤った悟性の働き」ということを言いだします。シュレーゲルはそれが気に入らない。「直観は直観なんだ」というのがシュレーゲルの考えです。』(深井・P74)

『深井一一敬虔主義や啓蒙主義と関係するところですが、この時代のルター派にせよ、プロテスタント・スコラにせよ、教会に依存することは救いの客観性になるのです。私の(主観的な)努力ではなくて、制度である教会に依存するほうが、より客観的な救いの証明になるのです。私がやるのではなく、教会を信頼してお願いする。でもシュライアマハーは、そういう態度はだめだというのです。
佐藤一一シュライアマハーが神秘主義をいやがるのも同じですね。神秘主義は最初に跳躍してしまえば、そのあとは合理的な階梯になっている。シュライアマハーは近代の人だなと感じます。
深井一一ちゃんと救われるかという「救いの確かさ」の問題が残るのです。
佐藤一一救いの確かさについては、ひらかれたままですよね。こうすれば絶対に救われるという(※ 人間の編み出した)処方箋があったら、それはインチキです。(※ なぜなら、神を完全に理解することは誰にもできないから)』(P87)
(※は、引用者による補足)

このような「シュライアマハー理解」から我々が学ぶべきことは、当然のことながら『『宗教について』の新しい、厳密なコメンタリー』などでないことは明らかだろう。シュライアマハーが、キリスト教徒とともに非信者にも突きつけているのは「信じることの勇気」であり、その徹底の必要性なのである。

そして、そんな観点から今の自分を顧みれば「いったい私は、この今の時代に真剣に向き合っているだろうか」という問題意識にも当然行き当たらざるを得ない。だからこそ、その時、私たちは「過去」を玩弄することだけでは済まされず、おのずと『私たちの視点は過去にではなく、現在と将来に向けられ、岐路に立つ現代社会の諸問題と対峙』せざるを得ないこととなるのだ(片山杜秀『歴史という教養』なども、同様の問題意識を共有している)。


なお、本書は、著名な作家でプロテスタントの佐藤優とプロテスタント神学者である深井智朗の対談(形式の講義)であるが、ほぼ同時期に、著名な評論家であるカトリック信者・若松英輔とカトリック神学者・山本芳久との対談『キリスト教講義』が刊行されている(本書『近代神学の誕生』は2019年1月、『キリスト教講義』は2018年12月刊行)。
自身の信仰にもとづく「党派的偏見」だけで読書するのではなく、「キリスト教とは何か」ということを、まともに考える気のある読書家ならば、ぜひ両者を読み比べてみるといい。善かれ悪しかれ、プロテスタントとカトリックの「知性」の質的違いが、はっきりと感じられるはずだ。

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神の不在ゆえの護教的欺瞞と高慢(改訂版)一一Amazonレビュー:稲垣良典『神とは何か 哲学としてのキリスト教』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 2月27日(水)19時08分45秒
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 神の不在ゆえの護教的欺瞞と高慢(改訂版)

 Amazonレビュー:稲垣良典『神とは何か 哲学としてのキリスト教』
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この人の議論はいつでも、ウンザリするほど勿体ぶった衒学趣味の三百代言的詭弁であり、所詮は護教的ペテンでしかない。
「著名なカトリック学者なんだから、そんなことはしないだろう」などと考えるような、歴史と宗教に無知な人のために、最初にハッキリと言っておこう。
神学とは、基本的に「わが神は尊し」という「結論ありき」の護教論なのである。そして、十字軍や異端審問と同様、いつでも目的は手段を正当化してきたのだ。

「神とは何か」一一 著者・稲垣良典は「これは、現代においてどこにでもあるような通俗凡庸な問いではなく、自身を問い深めることに通じる、哲学的に深い知恵の問いなのですよ」と、学識を欠き、物事を突き詰めて考える習慣のない人たちに向けて、大上段から思わせぶりで語る(つまり「掴み」としての「カマし」だ)。

しかし、このように「現代における世俗的な知(理性)としての科学(的思考)」や「事実(目の前の現実)」を居丈高に軽んじて見せるのが、「超越性というレトリック」を安易に弄する、独善的な宗教的ペテンの臆面もない常套手段であって、本書もその例外ではない。

著者の言い方は「科学的思考なんて当たり前であり、凡庸なものでしかない。しかし『神とは何か』という問いは深遠なものであり、非凡だ。あなたにはそうした哲学的な思考がありますか?」といったものであり、この手の思わせぶりに食いつく、知的承認欲求の満たされない人たちが、しばしばカルトに引っかかる。

無論、もはやキリスト教はカルトとは言えないが、今もキリスト教の中にはカルトが存在するし、カルトではない教派の中にも、カルト的な人や思考や手法なら、いまも生き続けている。例えば、「悪魔」を実在とするカトリックで、悪魔祓い師が正式に生きているように。

だが、キリスト教に無知な人は「キリスト教はカルトではない」と、その無知ゆえの単純明快さと警戒心の無さで、そうしたレトリックに易々と乗せられてしまう。

「神が実在しない」ということを「科学」は証明(確証)できない。一一これは有名な「悪魔の証明」というやつで、「存在しないことの証明」は、神だろうと悪魔だろうと、あるいはウルトラマンであろうと、確証はできないのだ。

しかし、神や悪魔やウルトラマンが存在しないというのは、「歴史的」には明らかだ。
「ウルトラマン」が人間の作ったものだという歴史的事実があるように、「神」や「悪魔」も、人間の創作でしかないことは、歴史的事実に即して「ほぼ」間違いない。

ウルトラマンが、100パーセント「宇宙のどこにもいない」とは確証できないのと同様に、神も悪魔も、どこにもいないとは確証できないけれど、少なくとも「聖書に書かれた、キリスト教の神(エホバ)」や「処女から生まれ、処刑後3日目に復活した後、肉体を持って天に昇った、主イエス・キリストという神」が存在しないというのは、歴史的には明白な事実だ(カトリックの稲垣が、この比喩でも何でもない具体的事実としての正統教義への、正面からの言及を避けている点に注目)。
このように、キリスト教の各種教義と歴史的事実の矛盾(さらに、公会議による強権的辻褄合わせの無理)を考え合わせれば、そんな超越的存在など存在しない蓋然性は、ほぼ100パーセントなのだ。

しかし、だからこそ著者は「キリスト教の言う神とは何か」とは問わずに、「神とは何か」と曖昧に問うてから、キリスト教の神の話にずらし込んでいく。

言うまでもなく、キリスト教信者にとって「キリスト教の言う(聖書が教えるところの)神は存在しない」という可能性は、是が非でも認められない。
なぜならそれは、なにより自分自身の人生とアイデンティティを否定するものだからで、だからこそ現代では「存在する証明」は避けて「存在しないという証明はできない」などと言いたがる。そして「キリスト教の神」ではなく、無定義な「一般的な神」を持ち出し、議論の余地を担保しようとする。

だがそれは、いかに深遠めかそうとも、所詮は物事を突き詰めて考える習慣のない人向けの、歴史的にもありふれたペテンでしかない。こんなことは何度も繰り返されてきたのだ。
それがペテンに見えないのは「キリスト教という金看板」の権威のせい(目くらまし)であって、中身の問題ではないのである。

「抽象概念としての神」なら、いくらでも論じればいい。
しかし、その前に「聖書の神」の不在について、正直に認めてから議論をしてもらいたいものだが、そっちこそが「(本書前半で秘められた)本丸」である以上、老獪な著者に正直な態度を求めても無駄だろう。
だから、読者に言おう「美味しい(甘い)話」や「リアルな人間が不在の、高尚深遠めかした話」には要注意。つまり「眉に唾して読む知性を持て」と。

なお、私はすでに稲垣良典の旧著へのレビューで、真正面から稲垣を論駁している。
同じことは繰り返したくないので、ぜひそちらをご参照いただきたい。そうすれば、稲垣のペテンの常習性もその手口も、おのずと明らかになるはずだ。

(×は伏せ字)×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××
××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××
××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××
×××××××××××××××××××××××××

無論、キリスト教書にも優れたものはいくらでもあるので、神に近づきたいのなら、そちらを読むべきだろう。
併せて、科学啓蒙書や哲学書、そして歴史研究書なども読めば、稲垣の弄する初歩的なペテン(鬼面としてのペダントリ、無根拠な決めつけ、はぐらかし等の合わせ技)に引っかかることもないはずだ。

また、本書を「信仰という病い」の根深さを学ぶための反面教師とするのは悪くないし、知識以上の知恵や自己探求を極める信仰による高次の認識といったものを語る著者が、いかに不似合いな「文体」の持ち主かに注目して、主張と内実の不相応という「ありがちな現実」を学ぶのも悪くない。

ともあれ、お手軽に真理を掴みたいなどと横着なことを考える心の隙に、悪魔はつけ込むものだということを、読者はゆめゆめ忘れてはならない。


・稲垣良典批判 ?? カトリック保守派の最悪の部分
amazonレビュー:稲垣良典『カトリック入門 日本文化からのアプローチ』

・稲垣教授の華麗なる逆説 ?? 続・稲垣良典批判
amazonレビュー:稲垣良典『現代カトリシズムの思想』


※ 本稿のオリジナルは、本年2月5日に投稿され、同月8日に反映されたものであり、本日27日までに「いいね」を「10」いただいていた。
 しかし、本日いきなり、同レビューが削除された。理由は不明だが、著者の関係者か同信者から、苦情があったものと思われる。
 そこで、削除の理由とされた怖れのある、やや刺激的なレトリックを削除して、ここに再投稿することにしたものである。
 なお、オリジナルについては、私の掲示板である「アレクセイの花園」に掲載されているので、どこを伏せ字としたのかは、そちらをご確認いただきたい。

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神の不在ゆえの護教的欺瞞と高慢 一一Amazonレビュー:稲垣良典『神とは何か 哲学としてのキリスト教』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 2月27日(水)19時03分36秒
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 神の不在ゆえの護教的欺瞞と高慢

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この人の議論はいつでも、ウンザリするほど勿体ぶった衒学趣味の三百代言的詭弁であり、所詮は護教的ペテンでしかない。
「著名なカトリック学者なんだから、そんなことはしないだろう」などと考えるような、歴史と宗教に無知な人のために、最初にハッキリと言っておこう。
神学とは、基本的に「わが神は尊し」という「結論ありき」の護教論なのである。そして、十字軍や異端審問と同様、いつでも目的は手段を正当化してきたのだ。

「神とは何か」一一 著者・稲垣良典は「これは、現代においてどこにでもあるような通俗凡庸な問いではなく、自身を問い深めることに通じる、哲学的に深い知恵の問いなのですよ」と、学識を欠き、物事を突き詰めて考える習慣のない人たちに向けて、大上段から思わせぶりで語る(つまり「掴み」としての「カマし」だ)。

しかし、このように「現代における世俗的な知(理性)としての科学(的思考)」や「事実(目の前の現実)」を居丈高に軽んじて見せるのが、「超越性というレトリック」を安易に弄する、独善的な宗教的ペテンの臆面もない常套手段であって、本書もその例外ではない。

著者の言い方は「科学的思考なんて当たり前であり、凡庸なものでしかない。しかし『神とは何か』という問いは深遠なものであり、非凡だ。あなたにはそうした哲学的な思考がありますか?」といったものであり、この手の思わせぶりに食いつく、知的承認欲求の満たされない人たちが、しばしばカルトに引っかかる。

無論、もはやキリスト教はカルトとは言えないが、今もキリスト教の中にはカルトが存在するし、カルトではない教派の中にも、カルト的な人や思考や手法なら、いまも生き続けている。例えば、「悪魔」を実在とするカトリックで、悪魔祓い師が正式に生きているように。

だが、キリスト教に無知な人は「キリスト教はカルトではない」と、その無知ゆえの単純明快さと警戒心の無さで、そうしたレトリックに易々と乗せられてしまう。

「神が実在しない」ということを「科学」は証明(確証)できない。一一これは有名な「悪魔の証明」というやつで、「存在しないことの証明」は、神だろうと悪魔だろうと、あるいはウルトラマンであろうと、確証はできないのだ。

しかし、神や悪魔やウルトラマンが存在しないというのは、「歴史的」には明らかだ。
「ウルトラマン」が人間の作ったものだという歴史的事実があるように、「神」や「悪魔」も、人間の創作でしかないことは、歴史的事実に即して「ほぼ」間違いない。

ウルトラマンが、100パーセント「宇宙のどこにもいない」とは確証できないのと同様に、神も悪魔も、どこにもいないとは確証できないけれど、少なくとも「聖書に書かれた、キリスト教の神(エホバ)」や「処女から生まれ、処刑後3日目に復活した後、肉体を持って天に昇った、主イエス・キリストという神」が存在しないというのは、歴史的には明白な事実だ(カトリックの稲垣が、この比喩でも何でもない具体的事実としての正統教義への、正面からの言及を避けている点に注目)。
このように、キリスト教の各種教義と歴史的事実の矛盾(さらに、公会議による強権的辻褄合わせの無理)を考え合わせれば、そんな超越的存在など存在しない蓋然性は、ほぼ100パーセントなのだ。

しかし、だからこそ著者は「キリスト教の言う神とは何か」とは問わずに、「神とは何か」と曖昧に問うてから、キリスト教の神の話にずらし込んでいく。

言うまでもなく、キリスト教信者にとって「キリスト教の言う(聖書が教えるところの)神は存在しない」という可能性は、是が非でも認められない。
なぜならそれは、なにより自分自身の人生とアイデンティティを否定するものだからで、だからこそ現代では「存在する証明」は避けて「存在しないという証明はできない」などと言いたがる。そして「キリスト教の神」ではなく、無定義な「一般的な神」を持ち出し、議論の余地を担保しようとする。

だがそれは、いかに深遠めかそうとも、所詮は物事を突き詰めて考える習慣のない人向けの、歴史的にもありふれたペテンでしかない。こんなことは何度も繰り返されてきたのだ。
それがペテンに見えないのは「キリスト教という金看板」の権威のせい(目くらまし)であって、中身の問題ではないのである。

「抽象概念としての神」なら、いくらでも論じればいい。
しかし、その前に「聖書の神」の不在について、正直に認めてから議論をしてもらいたいものだが、そっちこそが「(本書前半で秘められた)本丸」である以上、老獪な著者に正直な態度を求めても無駄だろう。
だから、読者に言おう「美味しい(甘い)話」や「リアルな人間が不在の、高尚深遠めかした話」には要注意。つまり「眉に唾して読む知性を持て」と。

なお、私はすでに稲垣良典の旧著へのレビューで、真正面から稲垣を論駁している。
同じことは繰り返したくないので、ぜひそちらをご参照いただきたい。そうすれば、稲垣のペテンの常習性もその手口も、おのずと明らかになるはずだ。

いずれにせよ、稲垣良典が「学者」の肩書きにおいて有り難がられるのは、間違いなく生きている間だけだろう。
ベストセラー小説家と同様、ジャンルを問わず「使い勝手の良い現役の物書き」というのは、いつでも同時代のうちは過大評価されがちなのだ。

無論、キリスト教書にも優れたものはいくらでもあるので、神に近づきたいのなら、そちらを読むべきだろう。
併せて、科学啓蒙書や哲学書、そして歴史研究書なども読めば、稲垣の弄する初歩的なペテン(鬼面としてのペダントリ、無根拠な決めつけ、はぐらかし等の合わせ技)に引っかかることもないはずだ。

また、本書を「信仰という病い」の根深さを学ぶための反面教師とするのは悪くないし、知識以上の知恵や自己探求を極める信仰による高次の認識といったものを語る著者が、いかに不似合いな「文体」の持ち主かに注目して、主張と内実の不相応という「ありがちな現実」を学ぶのも悪くない。

ともあれ、お手軽に真理を掴みたいなどと横着なことを考える心の隙に、悪魔はつけ込むものだということを、読者はゆめゆめ忘れてはならない。


・稲垣良典批判 一一 カトリック保守派の最悪の部分
amazonレビュー:稲垣良典『カトリック入門 日本文化からのアプローチ』
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・稲垣教授の華麗なる逆説 一一 続・稲垣良典批判
amazonレビュー:稲垣良典『現代カトリシズムの思想』
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・本稿

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理想と現実の間の真実 一一『橋のない川』と『新版 水平社の源流』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 2月27日(水)18時10分8秒
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 理想と現実の間の真実

 Amazonレビュー:『橋のない川』と『新版 水平社の源流』
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住井すえの『橋のない川』は、日本文学において特異な位置を占める作品だ。いわゆる「純文学」でもなければ「大衆文学(エンタメ)」でもないし、歴史的事実を扱いながらも、決してドキュメンタリーでもノンフィクションでもない、まちがいなく「小説(フィクション)」である、といった点においてだ。

本書に対する、私以前の11本のレビューは総じて本書に好意的な評価を与えており、それ自体は基本的に正しいものだと思うものの、本書の「小説(フィクション)」性の問題は、本書に好意的ならざる人たちの間でなら必ず問題視されるはずだから、私はそのあたりについて、ここで整理しておきたいと思う。
そのためにここで参照されるのが、水平社博物館編『新版 水平社の源流』(2002年刊)である。

 ○ ○

だが、その前にすこし回り道をお許しいただいて、私個人と「差別問題」の関係について、すこし紹介させていただきたい。
私は昭和37年(1962年)に大阪に生まれて、今に至るまで大阪在住である。そして、そんな私の幼い頃には「あいつは四つや」とか「あのへんは部落や」といった、大人たちの差別的な陰口をじかに耳にする機会がままあったし、「解同は怖い」というのも何度か耳にした。
しかし、実際に被差別部落出身の人と知り合ったことがない。と言うか、いまだに差別が生きている現状では、自分から被差別部落出身だと明かす人はいないので、そういう人たちのリアルな存在は主にテレビを通して接することになり、長じてからは書物を通じて学ぶことになる。

被差別部落出身者を名乗る友人知人はいなかったが、被差別者として在日の人には少なからず知人がいた。というのも、私が小学生の頃、家族とともに創価学会に入ったからで、そこには多くの在日の人がいたからだ。そういう人たちも、同じ創価学会員どおしとして、わざわざ自分が在日であることを強調することはなかったし、私もそういう人たちを「創価学会員の、近所のおっちゃんおばちゃん」としてつきあっていたが、そういう人たちの家に上がった時、チマチョゴリを着た人形が飾られたりしていて、その意味を長じてから知ることになるのである。

私自身は後に、アメリカによるイラク戦争を追認した公明党・創価学会を(政治と信仰の両面において)批判して創価学会を脱会したが、末端の学会員に怨みなどはなく、むしろ親近感を残していたし、彼らが「普通の庶民」でしかないことを重々承知して、そこに日本人も在日もないという「人間の現実」を肌身で感じていた。
だからこそ、そこからの類推として「部落差別」の非論理性は容易に想像できたし、書物をあたればその非論理性は容易に裏づけられもしたのであった。

ただ、私は「なぜ人間はそんな非論理的なものを信じられるのか」という、信仰への漠たる疑問は常にあった。
創価学会員時代の幼い頃には「なにか自分がまだ知らない難しい理由と根拠があるのだろうが、そこまで勉強するのは面倒だし、ひとまず世界平和に貢献する庶民運動としては素晴らしいので、やらなくちゃ」という感覚だったので、だからこそ、後の「イラク戦争」の是認は、その信用を根底から覆すものとして、とうてい容認できなかったのだ。
そんなわけで、私は創価学会を辞めたあとも「人はなぜ宗教などという、確証しようのないものを信じられるのか」という疑問を持ち続け、オウム真理教などの比較的わかりやすい事例に関する研究書を読んだりしてきたが、近年では「宗教の代表」としてキリスト教の研究を始めるようにもなったのである。

さて「なぜ人間はそんな非論理的なものを信じられるのか」という疑問に引っかかってくるのは、なにも「宗教」の問題だけではない。それは「部落差別」も同じだったのである。

どう見たって同じ日本人なのに、どうして「部落出身者」は低く見られるのか、その理由がわからなかった。
単純に考えて、住む場所なんて変えられるものだし、どこに住んでいる人だって、善人もいれば犯罪者もいて、居住地区で人間が一色になるわけがない。もちろん、地域柄というのもあるだろうが、それは何も「被差別部落」だけの問題ではなく、例えば大阪と東京では地域柄は違っているが、しかしそれをして大阪が上だとか下だとかいった議論は、個人差の大きさをまったく無視した、愚かな議論としか思えない。したがって「部落差別」に合理的な根拠があるとは、とうてい思えなかった。

しかし、まずは「事実」関係を知らないことには話にならないと、上原善広による「被差別部落」関連のノンフィクションを読んで、現状について多少は勉強したりもしたが、私の「部落差別問題」に対する興味を決定づけたのは、なんと言っても、戦後日本文学の巨峰と評される、大西巨人の『神聖喜劇』であった。

『神聖喜劇』は戦争文学(軍隊小説)であるけれども「軍隊内での部落差別問題」を重要な要素として扱っている。そして、この作品の魅力は、何と言っても、その論理的徹底性(論理的厳格主義)で、被差別について「可哀相」だと情に訴えるのではなく、「差別の非論理性」を剔抉することによって、軍隊の非論理性、さらには「世間」一般の非論理性を徹底的に暴きだしていたからである。

『神聖喜劇』を読むことで、やはり「部落差別の今」を知るだけでは不十分であると気づいた私は、最低限の古典には当たらないといけないと思い、島崎藤村の『破戒』やその関連書を読んだし、2005年には高山文彦のノンフィクション『水平記 松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年』を刊行と同時に読んだりもしていて、その当時にはすでに、『橋のない川』もいずれ読まなければならない基本文献だと意識してもいた。しかし、全7巻という分量は、読みたい本が多ジャンルで無数にある読書家の私に、長らく着手の決断を躊躇させたのだが、先般ようやく読むことができたのである。

このような経緯のあと『橋のない川』を読んだ私の率直な感想は「世の悪を告発して理想を語るという意味においての勧善懲悪的な作品で、けっして不出来な作品ではないが、しかし、文学としてはきれいごとに過ぎ、情に訴える点に重きを措いている点でも、いささか弱い」というものであった。端的に言えば「これは現実そのものではないだろう」と思ったし、その部分に対するフォローが十分になされているとも思えなかったのである。

私たちの世代は、すでに「被差別部落民」の全員が「悪人でもなければ、善人でもない」という「人間の現実」を知っていた。その代表例が「同和利権」問題である。
もちろん、被差別民とて人間なのであれば、悪人も犯罪者もいるのが当然で、こうした犯罪者の存在をして「だから部落の人間は」などと言うのは頭の悪い人間のすることであるし、こうした犯罪者をことさらにフレームアップすることで「反差別運動」に水を差そうとする勢力のあることも事実であろう。しかし「被差別民にも、悪人もいれば、同情に値しない犯罪者もいる」という現実は直視しなくてはならない。その上で、非合理な「差別」を無くしていかなければならない。「被差別民は全員、無垢な被害者だ」というような非現実的な主張では、そこに「偽善」や「独善」を見る人が当然にも出てきて、かえって反発を招くことは必定だからである。

したがって、私たちが考えなければならないのは「被差別者にも、悪人もいれば犯罪者もいる。その点でも、私たちとまったく同じである。その事実を直視した上で、非合理な差別は論理的に撤廃されなければならない」という理想を掲げることであろう。
そして、こうしたリアリズムの観点からすると、住井すえの『橋のない川』は、やや物足りないと感じられたのだ。

もちろん、著者の住井すえも『橋のない川』が「解放運動の理想像を語ったフィクション」であることは自覚していただろうし、現実の難しい問題はあるとしても、ひとまず「原理原則としての理想」は語られなければならないと考えて、あえてあのような「純文学でも大衆文学でもない、ドキュメンタリーでもノンフィクションでもない、フィクション」を書いたのであろう。その意味では、『橋のない川』は十分に価値のある「フィクション」であったと評価できる。

つまり『橋のない川』という作品は、「差別問題を考える」上での基点(出発点)となるべき作品であって、終着点ではないのだ。この作品を読むことによって持つことのできた問題意識を、読者はそれぞれに深めていくことが求められており、それでこそ真の「反差別」の意志が鍛えられるのである。

 ○ ○ ○

このような観点からして、『橋のない川』のモデルとなった奈良県の部落解放運動の歴史を追った『新版 水平社の源流』はとても参考になる本だった。
『新版 水平社の源流』は、水平社博物館編ということで、まちがいなく「部落解放運動」の側に立った本なのだが、しかしこれは党派イデオロギーの書ではなく、入門書的ではあれ「歴史研究書」であり、そうした研究者的良心に支えられた本であった。

『新版 水平社の源流』で、私がもっとも興味を持ったのは、『橋のない川』の重要登場人物の一人である「村上秀昭」のモデルとなった「西光万吉」の、戦時中の「転向」だ。
『橋のない川』のWikipediaには「村上秀昭」を、

『学力と画才に恵まれ進学したが、その才能が開花するにつれて世間に出自を知られ差別される恐怖が重くのしかかり、小森に戻って来てしまう。穢多寺の嫡子(モデルは西光万吉)。』

とあるが、秀昭は、逃げても逃げても追ってくる「差別」に対し一時は絶望したものの、やがて画業への憧れを振り捨てて、部落解放運動の指導者へと成長していく。
『橋のない川』に描かれた村上秀昭は「平易な言葉で、差別の非合理性を村人たちに教える、信望あつき青年指導者」であり「国家や職業の枠を越えた、被圧迫民の連帯を訴える理想主義者」として描かれる。

『橋のない川』は、当初の6巻分に、後に書かれた第7巻を加えても、そこに描かれたのは、昭和初年頃までであって、シベリア出兵や満州事変などは描かれても、本格的な太平洋戦争の時期には届かなかった。
問題は、その時期(大戦期)の「村上秀昭」のモデル・西光万吉の変貌だ。この変貌は『橋のない川』の「村上秀昭」からは、とうてい想像できないものであった。
と言うのも、住井すえは『橋のない川』で「戦争こそが差別の最大の敵(のひとつ)」という明確な「反戦」の立場に立っており、それを「反差別」運動と連動するものとして『橋のない川』を書いているので、当然、その中に描かれた「反差別の理論的指導者」である「村上秀昭」も、反戦の人として描かれていたのだ。しかし、現実の「西光万吉」は、その立場を堅持することができなかったのである。


『労働農民党、第二次共産党に参加したが、三・一五事件で検挙されて投獄、思想転向を迫られた。結局、転向書を提出して仮出獄後は国粋主義に傾倒し、皇国農民同盟などの極右団体を指揮した。国家主義の観点から大日本青年党と協同し、天皇制の下で部落意識の解消を図ろうとする「新生運動」を起こした。さらに阪本とともに石川準十郎の大日本国家社会党に入党して国家社会主義運動に加わる。こうした融和主義的な姿勢は「水平社」の頃の思想とは全く相いれないものであった。』(Wikipedia「西光万吉」)


西光万吉の「転向」は、決して「偽装転向」ではない。真面目な理論家である万吉は、獄中で自分なりに納得して転向書を書いたのであろうことは、彼のその後の人生における言動に明らかである。


『 西光のいう「日本国体の特異なる本質」「神ながらの道」「天皇制の帰結としての国家社会主義」は、「天皇機関説」の「非国体性を排撃」するまでになり、しかも、軍部政権に期待をかける日本ファシズムにまで至りました。』(『新版 水平社の源流』P194)

『(※ 1938年(昭和13年)にいたっても、差別の根絶という方針に固執する)全国水平社の方針は西光万吉にとっては容認することのできないのものでした。西光は『新生運動』第八号(一九三八年一二月一五日発行)で、全水は今日の状勢を正しく認識しておらず、「国体の本義に基きて更に反省せよ」ときびしく批判しました。そして、「今や我らは『人間に光りあれ、人世に熱あれ』の願望を惟神道に求め八紘一宇の高天原展開に邁進せんとする」と主張しました。一九二二年(大正一一)に水平社創立宣言を起草した西光は、そのときから比べるとずいぶん遠くへ離れてしまっていたと言えるのではないでしょうか。』(前同P227)


戦時下の大政翼賛体制に完全に嵌り込んでいた西光万吉の、これが現実の姿であった。
『橋のない川』の主人公・畑中孝二の祖母で、無教養な農民でありながら人間の本質をきちんと見抜く目を持ち、戦争の悲惨と欺瞞を知る「大衆の原像」的な人物である畑中ぬいが、この「村上秀昭=西光万吉」の変貌を見たらどれだけ嘆き失望したことだろうと、フィクションのことながら、そう思わずにはいられない「現実の悲惨さ」が、そこにはあったのだ。

ところで、『新版 水平社の源流』が「新版」なのは、「旧版」刊行段階では確認されていなかった、戦時中の資料などが多数見つかったからで、それを実証的に研究した結果、「水平社の歴史」の修正がなされたためである。

『一〇年前の全国水平社創立七〇周年に当たっても、(※部落差別撤廃運動における、奈良の水平運動の歴史を伝えるという)同様の目的で『水平社の源流』(『水平社の源流』編集委員会編、一九九二年七月、解放出版社発行)を出版いたしましたが、以後、膨大な新資料の発見が相次ぎ、研究成果も格段に深まってまいりました。そうした成果も踏まえて、今回、新訂版として(※本書『新版 水平社の源流』を)発刊することにいたしました。』(前同「まえがき」より)


『新版 水平社の源流』では、『橋のない川』に描かれた、部落解放運動を立ち上げていった青年たちのモデルの、戦中戦後の動きも紹介しており、戦時中に大政翼賛したのは、なにも西光万吉一人ではなく、彼の周辺の仲間たちの多くも西光と行動を共にしている事実を正直に紹介していた。

そのうえで、私たちが何よりも気になるのは、戦中に大政翼賛体制に「心から翼賛し」、民衆主義的な社会改造の理想を棄てた西光万吉たちが、戦後の解放運動にも草創期からのリーダーとして、そのまま参加していた事実だ。彼らは果たして、戦時中の転向を総括反省したのであろうか。

たぶん、明確にはそれをしていないはずだ。彼らの転向も、すべては本質的に差別をなくすためであったと理解されれば、過酷な戦時下における転向を厳しく弾劾する人たちは、そう多くはなかったはずだからで、だからこそ西光たちは戦後にも差別撤廃運動のリーダーの一角となりえたのである。

まただからこそ、『橋のない川』の作者である住井すえが、西光万吉らの戦時中の言動を十分に知らなかったのであろうことは、容易に推察できる。そのために、住井は躊躇なく西光万吉をモデルとして、理想的な青年指導者である「村上秀昭」を描けたのではないだろうか。

しかし、現実は直視されなければならない。
戦中の転向を十分に反省しないまま、西光万吉らが「部落解放運動」に復帰したことが、その後の運動に幾ばくかの陰を落としていないとは言えないからだ。
それは、戦後の部落解放運動が、『橋のない川』が描いたような「青年たちによる理想主義的な運動」ではなく、「現実の挫折を経験した、屈折した大人たちによる運動」となり、そのリアリズムの悪しき部分が「同和利権」などの一因となったのではないかと、私には思えてならないのだ。

したがって、『橋のない川』的な「理想」は語られなければならないけれども、『新版 水平社の源流』的な「現実直視」も絶対になされなければならない。
この両者がそろってこそ、人は現実の厳しさに脚を掬われることなく、理想を目指すこともできるのではないかと、斯様に考えるからである。

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「無教養の時代」の教養人一一 Amazonレビュー:片山杜秀『歴史という教養』

 投稿者:園主  投稿日:2019年 2月27日(水)18時07分59秒
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 「無教養の時代」の教養人

 Amazonレビュー:片山杜秀『歴史という教養』
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決して難しい本はない。だが、そんな「難しくはないが重要な問題」について、多くの人は十分に自覚的ではないし、十二分に理解しているわけでもない。
だからこそ今の日本は「無教養の時代」なのであり、だからこそ著者は、その大切な問題について平易な「腑分け」を書いたのだ。だから私たちは、謙虚にこの親切な講義に耳を傾け、自らの問題意識を検証し、不十分な部分については率直に反省して、教養を深めるべきであろう。

本書の眼目は、まず「歴史に学べ」と言うことだが、これは「歴史を学べ」ということではない。

歴史を学ばなければ歴史に学ぶことはできないが、歴史を学んでも、歴史に学ばない人は多い。
と言うか、世の「歴史好き」や「歴史マニア」の大半は、歴史に学んでいないのではないか。なぜならそうした「趣味」の多くは「現実逃避としての過去への逃亡」でしかないからだ。

したがって、本書の著者がその必要を訴える「教養としての歴史主義」は、『温故知新主義』と命名される。
つまり「故(ふる)きを温(たず)ね」るだけではなく、その上で「新しきを(も)知る」ということだ。言い変えれば「過去を学ぶ」だけではなく「新しい(未定の)今を直視」し、その上で「過去を今に生かして、今を生きる(切り抜ける)」という態度のことである。

そこで、著者は本書において、
(1)「誤った歴史主義=温故だけの(偏頗な)歴史主義」
(2)「知新だけの非歴史主義」
(3)「ニヒリズムとしての非温故非知新である非歴史主義」
の思想を具体的にあげて、快刀乱麻の手つきで次々と整理していく。

そうした思想の中では(1)に属する、今の安倍政権的な「復古主義」や、それを肯定したり批判したりと立場の定義的混乱が見られる「保守主義」や、(3)に属する「マルクス主義」などが、それぞれ批判的に論じられていて、著者の立場が単純な「政治的左右」の問題ではないことを歴然と示している。
著者が、批判しているのは、結局のところ「現実を見たいようにしか見ない、非知性としての反歴史主義」の蔓延なのである。

だからこそ、著者は「歴史への(真の)愛」として、過去の歴史も今の現実も不確かな未来も、すべてをありのままに受けとめて、私たちのリアルな歴史を前向きに生きていこう、と訴える。それは「確かな保証が無く、不安や苦労の多い道程」ではあるけれど、それこそが「歴史を愛する」ことであり「敗北主義としての非歴史的(非温故知新的=無時間的)ニヒリズム」には堕ちないことなのだ。

それにしても、著者はどうしてこうも「困難な生き方」を引き受けることができるのか?
それは著者が「豊かな教養人」であり「趣味人」であることと、決して無縁ではないはずだ。

この世界を幅広く豊かに愛することのできる人であるからこそ、ひとつの立場やイデオロギーに固執して我が身を守ろうとする必要がない。「貧すれば鈍する」けれど、著者は「精神の貴族(心の豊かな人間)」として、あえて困難を引き受けることができるのだ。
そして、そんな著者だからこそ、この「心貧しき時代の日本」に対して、いきり立つこともなく、あえて「真の教養を持ちましょうよ」と提案することができるのである。

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