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対話は愉し

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月16日(水)11時35分40秒
 

みなさま、私、懸案だった『天気の子』論を先日やっと書き上げ、Amazonとこちらにアップさせていただきました。そして、そのあとに気づいたことなのですが、その当日である「2019年10月13日」は、今年最大と言われた台風19号が日本を席巻している真っ最中でございました。
もちろん、意図してこの日に擱筆してアップしたわけではございません。ですが、あとでテレビニュースを視て、東京の都心部が冠水している様子や、関東地方を中心とした多くの場所で大変な水害が出ている様を目の当たりにし、思わず『天気の子』の「水没した都心」の様子を思い出しました。

もちろん、今回の災害と『天気の子』は、何の関係もございません。
ですが、作品の中で「街が水に沈んで多くの人が犠牲になろうと、それでも僕(主人公)は陽菜を取り戻す」という「社会と私の対立的二者択一」を描いた(つもりだった)新海誠監督なら、きっと今回の事態に、内心ではヒヤヒヤしたことでございましょうね。
もっとも、彼が今回の災害に対してコメントしたとしても、それは在り来たりな「お見舞いの言葉」にしかならないのは間違いございませんし、そんな不必要で保身的なだけの言葉など、無い方が気持ちよいと思うのですが、やはり何かそれらしい言葉を口にしているかも知れませんね。
まあ、周囲もそのことを忖度して、何かと気を使っていることでしょうが、彼のせいではなくても、連想する人は決して少なくないというのは確かなことでございましょう。表現することの怖さを感じさせる「偶然」でございました。

・ 行きて帰らぬ物語:『天気の子』論
  一一amazonレビュー:新海誠 監督『天気の子』(および『小説 天気の子』)
 (https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2615
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R19UIANG4DH8C5

あと、先日レビューを書きました、門井慶喜の歴史ミステリ『定価のない本』(東京創元社)について、その後に書かれた他のレビューなどを参照し、文章を増補しておりますので、ぜひご一読くださいまし。

・ ネトウヨ的〈愛国心発揚〉ミステリ
  一一Amazonレビュー:門井慶喜『定価のない本』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RGYNF07NXCLI5


伊殻木祝詞さま

決別 Σ( ̄Д ̄;)

今回もまた、ものを考える人間にふさわしい、非決断的な迷いのある、面白い文章をお書き込み下さり、ありがとうございます。良い意味で「保坂和志的」であり、すこしは保坂和志に見倣ってもらわなくてはなりませんね(笑)。

かく言う、私はどうかと申しますと、書いているものだけを読んでいただいていると、やたらと確信的な人間だと思われてしまうかもしれませんが、自分では決してそうではないと思っております。
いろいろ「どっちが正しいのだろうか」とか「何が正しいのだろうか」と迷い、躊躇して決断を下せない(なにしろ「書く」人間ですから、間違ったことを書いたら恥をかきますし)。
まただからこそ、そうした問題について、いろいろな立場の人の意見や考え方を読み、そのなかで徐々に確信を固めてゆき、自分なりに確信を得た段階で、ある種の「断言」をしているつもりなのでございます。

ですから、断言していることの陰には、まだまだ多くの疑問や迷いや躊躇のある問題があって、決して何にでも自信満々な意見を持っているということではございませんし、そのように誤解されるのは、私自身としても残念でございます。

しかし、これは「当たり前」な話ではございましょう。何にでも自信満々な意見を持っている人というのは、端的に言って、頭のおかしい人であり、「誇大妄想狂」に違いありませんから。
かのニーチェだって、自分がすべてを理解し切っているとまでは思い込まなかったのではないでしょうか。

>  どうも、いきなりですが、私、品川祝詞に改名しようかと考えております(嘘)。と言うのも、前回の書き込みの返信にて年間読書人=アレクセイ閣下から、まさかのツンデレの称号を賜ったからであり、私にとって最強のツンデレとは庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』に出てきたゴジラ第三形態=通称《品川くん》だからであります。初めて『シン・ゴジラ』を観た時、どこを見ているのかも分からない、あの、誰からも理解されることを拒むであろう、死んだ魚の眼の品川くんの魅力に私は一発でノックアウトされたのでありました。世間では蒲田くん(上陸したばかりのゴジラ第二形態の通称)の方が人気なようでありますが、たとえツンツンぶり(死んだ魚の眼)ではいい勝負であろうとも、ただ這い回っているだけの蒲田くんより、ひょこひょこと覚束ない足取りで歩き回り、特に意味もなく電車を尻尾で跳ね飛ばす品川くんの方が、むくれた顔で腕組みしている童顔の女子に何の興味もない私には何百倍も魅力的なのであります。

「ゴジラ第三形態=通称《品川くん》」ですか。また、マイナーなところを突いて来られますね。
私はもともと、ゴジラには左程こだわりがないため、『シン・ゴジラ』についても、庵野秀明の新作怪獣映画として期待しただけで、特にゴジラがどうこうとは思いませんでした(『シン・ウルトラマン』は10倍の期待大)。ただ、庵野がデザインにかかわると、だいだい「尖ってるグロ」になる傾向がございますね。八岐大蛇にしてもエヴァにしても。

『シン・ゴジラ』に関しては、面白かったけれど、期待したほどではなかったかなという感じで、鎌田くんとか品川くんとかは「グロだなあ」と思いながらも、ゴジラでこんなことをやるのは、さすが庵野秀明だとも思いました。

それにしても、私は基本的に「乾燥硬質重厚系」のデザインが好き(例えば、イメージとしては、戦闘機より戦車、美少女より美少年)なので、鎌田くんや品川くんは、グロにしか見えません。私は芋虫毛虫の類いが苦手で、甲殻類は比較的に好きな、ごく当たり前のセンスの持ち主でなのございます。
ただ、一緒に『シン・ゴジラ』を観に行った友人は、かなり趣味が変わっていて、私が苦手なブヨブヨ系が好きでして、映画の後日、鎌田くんが気に入ったと申しますので「君らしいなあ、本当に変なものが好きだ」と言いましたら「いや、鎌田くんは世間的にも人気があるんだ」といろいろ紹介してくれました。で、私も、鎌田くんみたいな「グロいもの」は好きではありませんが、「変なものが好きな変な人」は好きですので、鎌田くんのフィギュアを買って、誕生日プレゼントにしたりしました。

そんなわけで、鎌田くんについては、一定のイメージ形成が出来たのですが、品川くんの方は、どんなシーンでどんな活躍をしたのか、まったく記憶に残っていない始末でございます(笑)。

>  ついでに申しますと、私にとって怪獣の中でも最強のイケメンは『ウルトラマン80』に出てきた吸血怪獣ギマイラであり、とにかく、こいつの格好良さは只事ではない。子供の頃に買ってもらったソフビ人形に一目惚れし、その一目瞭然のツンツンぶりは言うまでもなく、如何にも悪い奴といった面構えは今でも惚れ惚れするばかりであります(ちなみに最近復活した。YouTubeで初めて生で動いているのを見た時は柄でもなく感動した)。私も品川祝詞に改名した暁には普段のツンツンぶりなどかなぐり捨て、ギマイラの前に飛び出す所存であります(だって品川くんと言っても、あいつは雄でも雌でもない訳だからね。オールラウンダー)。ギマイラは残忍なので品川くんを見つけたら、すぐさま惨殺することでしょうが、愛に生き、愛に殉ずるのは乙女(←違う)の使命ではありませんかね?

「『ウルトラマン80』に出てきた吸血怪獣ギマイラ」でございますか。
これも、まったく存じ上げません。と申しますか、『ウルトラマン80』自体をまったく視ていない。なぜならば、そもそもウルトラマン80のデザイン自体がダサい。それに主人公の職業が学校教師というのは、水谷豊が熱血教師を演じて、当時大ヒットした『熱中時代』のブームにあやかったもので、その安直さが嫌だったからだという、しごく常識的な理由でございます。

今回初めて「吸血怪獣ギマイラ」の画像を確認させていただきましたが、たしかに「ツンツン」はしておりますが、とても「イケメン」とは思えませんでした。
私の場合は、怪獣の趣味もやはりオーソドックスであり、主に『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の怪獣や宇宙人が好きで、例えば、バルタン星人、ケムール人(初出は『ウルトラQ』)、ゴドラ星人、キュラソ星人といった、頭が細長い系のスマート型宇宙人が好きでございました。
デザインがゴテゴテして、着ぐるみが肉厚っぽくなったデザインはだいたい嫌い。やはり、わりとオーソドックスな趣味でございましょう。

ま、ともあれ「ツンデレ」というのは、要は「素直になれない系」であり、ある意味では「マゾ的変態」系ですから、『ギマイラは残忍なので品川くんを見つけたら、すぐさま惨殺することでしょうが、愛に生き、愛に殉ずるのは乙女(←違う)の使命』というのも、まことに結構かと存じます。
先日、論じました嶽本野ばらも「乙女(のカリスマ)」ですし、伊殻木さまが「乙女(そのものでも、乙女の何か)」であっても良かろうかと存じます。

>  と言う訳で、自画像は品川くんこと、今回は初っ端から迷走中の伊殻木でございます(←いつもだ)。

前回も書きましたが、私は伊殻木さまのこの「文体」が好きでございますよ。
と申しますのも、私には、このような文体は、書こうとしても書けないので、「無い物ねだり」的な欲望を刺激されるのでございましょう。私の場合、どうしても「こうだから、こうなってこうなる。こういうこともあるかも知れないが、しかしそれはまたこういうことであるからこそ、結局こういうことなのだ」みたいな「理屈っぽく」文章になってしまうのでございますね。
一時期は「うねうねと続いていって、何を書いてるのだかよくわからないけど、個性的で面白い文体」に憧れまして、そういうタイプの作家を読んでみましたが、大半はやっぱり、読むのに疲れましたね。イメージには憧れるんだけれど、実際に読むと合わない。
わが笠井潔も『熾天使の夏』の冒頭部分で、好きなプルーストの真似をしておりましたが、あまりうまくいっているとは思いませんでしたし、私も何度か「うねうねと続く文章」を書こうとして挫折した経験がございます。
こないだは、下手な文体模写もどきを披露いたしましたが、私が夏目漱石の文体を好きなのも、あのパキパキしてテンポのいい文体と論理的な思考が、私の体質に合っていたのだと存じます。

そんなわけで、伊殻木さまの文体は面白い。私には、書けそうで書けない文体なのでございます。

ちなみに、前回は書き忘れましたが、私は、そういう「うねうねと続く文体」や「とらえどころの無さ」が魅力の作家として、後藤明生や古井由吉、あるいは保坂和志が『読書実録』で「先生」と読んでいた小島信夫などを、それなりにチェックしてはおりましたし、積読の山に埋もれさせて読んではおりませんが、小島信夫の『別れる理由』の初版函入り全3巻なども所蔵しております。

また『読書実録』の保坂には注文をつけましたが、この本を読んだことで、前から気にはなっていた酒井隆史の『通天閣 新・日本資本主義発達史』と、これまではノーチェックだったミシェル・レリス『ゲームの法則』全4巻を購入したりもいたしました。
さらに、保坂の本も、ブックオフ・オンラインで200円で売っていた、未読の『考える練習』と『途方に暮れて、人生論』の2冊を買いましたので、これも近いうちに読むのではないかと存じます。
が、しかし、こんな調子でどんどん手を広げて買いますので、読めない本もどんどん出てくるのでございます(笑)。

>  前回の書き込みの返信と、閣下の『読書実録』のレビューを拝読し、いろいろと思ったり考えたりしたことはあったのですが、端的にまとめると「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」「チョット自分、酔ッテタカモシレナイナー」となる。これではあまりにも芸がないので、佐村河内ばりに逆ギレ訴えます攻撃に出ようか(あれ結局どうなったのか?)、背中から放射線流をぶっ放して何もかもなかったことにしようか、とも思ったのでありますが、前者の場合、世間に恥を晒すのは、どう考えても私だけであり、後者の場合は、私は品川くんだから放射線流は撃てない(号泣)。だから結局は「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」「チョット自分、酔ッテタカモシレナイナー」となってしまう。全く張り合いがなくて申し訳ない。

そうですね。『佐村河内ばりに逆ギレ訴えます攻撃に出ようか(あれ結局どうなったのか?)、背中から放射線流をぶっ放して何もかもなかったことに』できるのなら、それも面白いのですが、それで勝てる見込みもないのに、安易にキレて『世間に恥を晒すのは、どう考えても私だけ』という事態を招くのは、どう考えても賢い人間のすることではありません。
やるのであれば、時間はかかってもいいから、ちゃんと準備をし理論武装してから逆襲すれば言い訳で、私もその方が面白いし、書いた甲斐もございますからね。

>  しかも「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」と言っている時の自分には、何かしらの自己保身(という言葉が正しいのかも分からない)を目論んでいるような気がする。こんなダサい自意識とは綺麗さっぱり縁を切りたいと思っているのでありますが……特に、私が嫌だなと感じたのは、閣下の返信とレビューを読んだ後に、「ちょっと紹介の仕方が悪かったか……」「今の保坂の魅力を伝え切れなかったか……」と少し思ってしまったことであり、これは要するに、紹介の仕方さえ間違わなければ相手を自分サイドに引き込めると妄信していたということではないか、「Iがいいって言ってるんだからYOUもいいって言ってくれなきゃ、いやんいやん!」という気持ちを多少なりとも持っていたのではないか、という懸念を抱き、そして、おそらく、その懸念は懸念ではない、という結論を出しかけているのでありますが……ああ……駄目だなあ……いやんいやん! 。゚ヽ(゚ ̄Д ゚̄)ノ゚。

これは、とても大切なことだと存じます。つまり「同じ意見(趣味)の持ち主だからこそ友だち」というのは、つまらない、ということでございますね。
お互いに、意見や趣味の相違はあっても、それでも尊敬しあえる関係であってこそ、価値のある「友人関係」だと、私は考えます。前述の友人もそうですが、私とは、ある意味で趣味が真逆であり、私はよく「また、そんな変態の本を買って」とか「(読書以外にも)もう十分、あれこれ手を出してるんだから、そんなことまで趣味にしなくてもいいでしょう」などと言って呆れているのですが、それでも私はその友だちのマイペースが好きでございます。
つまり、馴れ合いではなく、自分の意見や趣味は忌憚なく語り、時にぶつかることがあっても、それでも友人でいられる関係であってこそ、真の友人であり、変に気を遣い合うようなものは本物じゃないし、延命させる価値もないと、割り切りの激しい私には、そう思えるのでございます。
つまり「友だち百人できるかな」ではなく「友だちは5人いれば良い」というのが、私の自論。もちろん「5人」とは前述のような「選りすぐりの友人」ということでございます。人生は短いのですから、百人の友だちと上っ面の薄いつきあいをするよりは、その時間を5人の友人との濃密なつきあいに投じた方が、私自身楽しいと思うのでございますね。ですから、私は「方便としての仕事」以外の、趣味・私生活の部分では、いろいろな局面で「本音」を語り、人を試して、上っ面なつきあいは削ぎ落としてきたトラブルメーカーでございましたが、それを後悔したことは一度もございません。
そもそも、友だちをたくさん作るのは、たしかに「財産」だとは申せましょうが、しかしそれは結局のところ「利用価値」を求めているだけではないかとも思うのでございます。

そんなわけで『要するに、紹介の仕方さえ間違わなければ相手を自分サイドに引き込めると妄信していたということではないか、「Iがいいって言ってるんだからYOUもいいって言ってくれなきゃ、いやんいやん!」という気持ちを多少なりとも持っていたのではないか、という懸念』を抱き、そういう自分の「弱さ」を自己批判できる人というのは、なかなかいないと思うのでございます。なにしろ、今は「承認願望の時代」でもございますしね。

>  とは言え、おそらく私は保坂の書く物を読み続けるであろうし、もし保坂が閣下のレビューに眼を通したとして、その上で今後どのようなことを書いていくことになるのかを見届けたい気持ちもある。私にとっても閣下の意見を踏まえた上で、保坂や保坂以外の本を読んでいくことで、しょうもない自意識を捨て去るのか、それとも上手く付き合っていく方策を考えるのか、正念場を迎えているところであります(←と言うのも、少し大袈裟な表現ではあるが)。

それで良かろうかと存じます。
伊殻木さまが保坂和志をお好きなのは、保坂が、ある意味では伊殻木さまの「鏡」だからでございましょう。ですから、読む意味は、必ずあると存じます。

あと、保坂が拙レビューを読んだら、どう思うかというのは、私も興味のあるところでございますし、無論、私は当人に読ませるつもりで書いてもおりますしね。

私は昔、かなりどっぷりと「新本格ミステリ」の世界にハマっており、作家たちとも面識がございましたが、それで「批判」を手加減することはありませんでしたし、作家たちも「それが田中(田中幸一)くんらしい」と、一応はそう好意的に評価してくれてました。
それでも、彼らの本音がそんなものばかりじゃなかったのは間違いございませんでしょう。実際、ある人気作家が若手作家を批判したことについて、私がいつもの調子で「論証的」に「あなたにそれをいう資格はない」と厳しく批判する文章を書いて、ここにアップしたところ、後日、別の作家から「もう、あなたの顔も見たくないと言ってたよ」と教えられ「なんだ、あのカッコつけのヘタレらしい言い草だな。文句があるのなら、反論して来いよ、反論。人気作家は、素人相手にそんなことは出来ないってか?」と毒づいたこともございました。
あ、もしかすると、当時は、ここにアップするだけではなく、「陰口になると嫌なので」ということで、当人にプリント(あるいは、掲載同人誌)を郵送していたかもしれません。

ま、そういうことをやってきた人間ですので、保坂和志本人にも読んでもらい、感想を聞きたいというのは事実でございます。
ただ、私も歳をとって丸くなったのか、わざわざ当人に送りつけるということは止めましたね。「逃げたい人には逃げることを許そう」と考えるようになったのでございます(笑)。

>  さて、あいちトリエンナーレにて名古屋市のK市長が公務を放り出して抗議の座り込みに励んだり、大阪市のM市長は「問題がなければ汚染水を引き受けてもいい」とアホな私にはよく分からないことを言い出したり、我らが関電はあのザマであり、あのザマにもかかわらずネット上には関電を擁護する意見も見られたり、と私の胸中には一足早い冬が訪れております。しばらく春は訪れそうにありません。冷え切っております。産経では月末に近くなると『月刊WiLL』『月刊Hanada』の広告が馬鹿でかく掲載されます。それを見て我が胸中を温めようかと思う所存です。娯楽です。特に今は彼らの韓国に対する執着心が剥き出しになっていて実に面白い。あれこそ究極のツンデレです。微笑ましい限りです。

まあ、この歳になってきますと、いい歳をした社会的にも地位のある人が「あんがい馬鹿」だというのも、実感として受け入れられるようになりました。若い頃なら「なんで、あんな地位のある、馬鹿でもないだろう人が、あんなことを言うのだろう」なんて思ったのですが、所詮「馬鹿はいくつになっても馬鹿であり、馬鹿に肩書きは関係ない。ただ、表面を取り繕うのがうまくなるだけだ(そして庶民は「肩書き」に滅法弱い)」と理解できるようになりました。
『関電を擁護する意見も見られた』というのは、初めて知りましたが、このご時世「ネットに無いものは無い」のですから、当然そうした意見もございましょうね。私としては、そういう意見よりも、テレビカメラの前で「失われた信頼を取り戻すためにも、まだ私に出来ることをやらせていただきたい(ので、辞任しない)」などということを、臆面もなく言える関電社長らの神経がすごいと、そちらに感心いたしました。そこまでしなくても、もう十分に「貯め込んでいる」でしょうに。

『月刊WiLL』『月刊Hanada』については、いつも書店で表紙だけ見ておりますが、あれは表紙に尽きる雑誌でございますから、まったく(効率の)良い表紙でございますね。中身は必要ないし、もともと中身は無い。
それにしても、わたし的には、やってることが十年一日なのがつまらないのですが、しかし、ああした雑誌の読者層であるネトウヨなどは、ああだからこそ喜ぶのであり、ああいう十年一日のワンパターンも、営業的編集方針として仕方がないのでございましょう。

「あいちトリエンナーレ」の方は、再開できて本当に良かった。関係各位の苦労と努力に敬意を表したいと存じます。
それに、あのイヤガラセと展覧会の中断も含めて、あの展覧会は、展覧会の意図の具体性を何百倍にも高め、広く世界に知らしめる結果となったと存じます。「展覧会としてのパフォーマンス」が、「予期せぬ出来事」によって、テーマ的に、より高めるられたというのは、本当に「僥倖」であったと存じます。

ちなみに、展覧会の再開にあたって、twitterでつまらないことを書いているネトウヨがたまたま目に着き、自制しきれずに、つい、また虐めてしまいました。

以下は、本年(2019年)10月8日に、作家の平野啓一郎氏がtwitterに投稿した『「表現の不自由展・その後」の再開について会見する愛知県の大村秀章知事』を支持する下のツイートに対し、ネトウヨの【・・@cal_2】氏が付したコメントに、【年間読書人 @私】が噛みついた、その経緯でございます。

 ○ ○ ○

【平野啓一郎 @hiranok】
支持します。
「表現の不自由展・その後」の再開について会見する愛知県の大村秀章知事
https://www.asahi.com/articles/ASMB765HSMB7OIPE028.html

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【・・@cal_2】
支持しません。
特定の人物や集団を辱め、その家族や関係者を恣意的に傷付ける意図の「尖った」物品を、アートと称して公費を投入するのは、表現の自由ではなく紛う事ないヘイトです。コレらを愛知県民が認めて、マトモな展示物としての実績に数えるのは、文字通り泥棒に追銭を差し出す様なモノです。

【・・@cal_2】
日本国憲法第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

【年間読書人 @私】
アートが、人を傷つけないものだなんてのは、そもそもアートのことを知らない人の言うことでしょうね。
アートとは、娯楽作品とは違って、人を楽しませるだけのものではなく、しばしば人の価値観を揺さぶるもの。当然、特定の価値観に凝り固まった人には不愉快に感じられるアートはあるのです。

【年間読書人 @私】
そもそも、アートによる、常識や良識への異議申し立てというのは、公共の福祉と矛盾しません。皆が捉われている固定観念から、皆を解放する作業なんですから。『四畳半襖の下張』裁判とか、サド裁判とかも、表現の自由のために闘われた。これくらいのこと勉強してから、表現の自由の問題を論じてね。

【・・@cal_2】
公共の福祉に反する内容(天皇陛下のご真影をバーナーで焼き灰を土足で踏み付けたり、戦死者を侮辱する意図のプロパガンダ展示の数々)は、公的支出をアテにせずに、その筋の好事家がお互いに持ち寄りでやれば良いだけです。この話し貴方にはそんなに難しいんですか?

【年間読書人 @私】
戦死者を侮辱するという理解は、貴方の頭の中にあるだけですよ。いまだに「天皇陛下のご真影」とか言ってる、貴方のね。写真が燃やされたり、踏みつけられたりしているアートが何を意味しているか、すこしは頭を使ってみなさいな。

【・・@cal_2】
私は貴方を一度も非難していませんが、貴方、随分な言い方で私を侮辱なさるんですね。日本人のノーマルな礼儀も知らない方なのかな。試しに、六四天安門 ←効かないかなw

【年間読書人 @私】
ネトウヨに礼儀を説かれたか(笑)。
でも、私はあなたを侮辱したのではなく、妥当に評価しただけですよ。
だって普通の日本人は、いまどき「天皇陛下のご真影」なんて云いませんよ。そのくらいの自覚は持って、言葉を選んで下さいね。

【・・@cal_2】
他人の「表現の自由」に、どうか規制を掛けないで下さいな・・WW

【年間読書人 @私】
いや、あなたが私に黙って欲しいだけですよ。つまり、規制したいのは、あなたの方。
このくらいのロジックも理解できない人に、アートを論じるのは、能力的に無理でしょうね。
でも、勉強くらいはしておきましょう。

【・・@cal_2】
礼の無い方から言われても・・

【年間読書人 @私】
それじゃあ。あなたには礼儀がわかっているみたいじゃないですか。
アートがわからないのにアートを語れると勘違いしているようなあなたに。

【・・@cal_2】
貴方が云う通り、私はアートや芸術を語れる能力は無くとも、アートや芸術が、twitterの様な短文のSNSで語れる程、底の浅いモノでは無い事は、充分弁えている積りです。

【年間読書人 @私】
いや、それを弁えてないから、的外れなアート論を語ったんですよ。その自覚もないんでしょうけど。
わかっていない人というのは、わかっていないこともわかっていないものなんですね。
だから、もっと勉強しましょうね。そしたら、いずれはわかるでしょう。

【・・@cal_2】
反日屋の独善は聴き飽きました。不愉快に感じるモノを芸術などとは言わない自由は、この国には無いとでも?
一定程度の人数が芸術だと褒めそやしても、こんなモノは芸術じゃ無い!と言えない方が、全く不健全でしょう。
今回のイベントは「表現の不自由に、議論のきっかけ」を作りたいらしいですよ。嗤

【年間読書人 @私】
反日とかそういうレベルでしか考えられない人に、アートがわかるわけないんですよ。政治意識に凝り固まってて、他の見方ができない。
アートとは、まさに違った世界を見せるためのものなんですよ。日の丸とか天皇陛下とかに脊髄反射する人に、アートが理解できる頭なんて、あるわけない。

【・・@cal_2】
とっくに「愛トレ」は芸術から遠く離れた状況が争点となっています。私は最初から、あれはアートでは無く、ヘイトだと主張していますよ。
ココで誰かと「愛トレ」に寄せて、芸術論を語ろうなどとは、露ほども思っておりません。失礼。

【年間読書人 @私】
貴方があの展覧会をヘイトだと思い込むのは勝手だけど、その評価は間違ってる、って話をしてるんですよ。アートを理解しない人間に、あれはアートで、これはアートじゃないなんて、言えるわけないでしょう。天皇がいまだに現御神だとでも思ってるじゃないかと疑いますよ。今上天皇も呆れるでしょうね。

【・・@cal_2】
「へえ、貴方は、愛トレの表現の自由は全力で尊重するのに、どうしてか私個人の「評価の自由」は猛烈に否定されなければならないのか・・謎です。ww」

【年間読書人 @私】
あなたは自由です。アートを論じる力は無くても、あたなにはそれを語る権利がある。
私はあなたの権利を全力で擁護します。あなたの能力までは保証しないけど。

【・・@cal_2】
ありがとうございます。漸く分かって頂けたみたいで嬉しいです。
ちなみに、このTLでは私はアートや芸術など一切語っておりませんので悪しからず。

【年間読書人 @私】
日本語が不自由なようですね。
私が言ってるのは、あなたにはアートを語る能力は無いけど、アートを語る権利はある。その権利は、私も全力で守ってあげますよ、と言ってるの。
ま、この言葉が、何を踏まえて書かれてるのかも知らないんでしょうね。勉強してないから。

【年間読書人 @私】
もう少し、わかりやすい喩え話をしましょうか。
駄作は駄作だけど、駄作を書いちゃいけないということはない。駄作でも発表する権利はある。ただ、発表すれば、駄作だと評価されるだけ。
その意味で、アートがわからないあなたにも、アートを語る権利はある。ただし、という事。
これでも難しいかな?

【年間読書人 @私】
これからは、知ったかぶりをしないことですね。政治的立場で、アートを云々するなんて、的外れもいいところ。
これを機会に、アートと日本の歴史を勉強して下さい。
あなたは今のところ、アートを語るだけの知識もロジックもないけれど、真面目に勉強すれば、いつかは論じられるようになりますよ。

【・・@cal_2】
あなたは礼儀をねw

【年間読書人 @私】
いやいや、駄作を駄作と評価するのは、批評家の務めであって、礼儀の問題ではないんですよ。あなたには難しすぎるかな?
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それではみなさま、おやすみなさいまし。

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〈左翼〉とは何か:青木理 論 一一Amazonレビュー:青木理『暗黒のスキャンダル国家』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月15日(火)13時41分20秒
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 〈左翼〉とは何か:青木理 論

 Amazonレビュー:青木理『暗黒のスキャンダル国家』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2BI84OI38MVTA


安倍晋三総理の周辺者や、総理の支持者である「日本会議」関係者や「ネトウヨ」といった人たちにとっては、本書の著者である青木理は、きっと「パヨクの代表」ということになるだろう。これは極めて「名誉な称号」である。

自慢話になってしまい恐縮ではあるが、かく言う私も、ずいぶん以前から「売国奴」「工作員」「パヨク」などという、最大級の賛辞を贈られてきた人間である。
しかし、彼らの「妄想的願望」にも関わらず、私は「残念ながら日本人」なのだ。彼らと同じ「日本人」だというのは、外国のかた達の視線を意識した場合、残念ながら、かなり恥ずかしい事実なのである。

それにしても、彼ら「ネトウヨ」系の人たちが言う「パヨク=左翼」とは、いったいどういうものなのだろうか。
本書で、青木はこんなことに書いている。


『 そうした(※ 近代主義に立脚した、私のような、合理的な)考えを政治的には「進歩主義」と呼ぶのでしょう。合理性や人間の理性などを重視し、不合理はあらためてるべきだと考える。一方、「保守主義」は違います。
 ごく簡単に言えば、多くの人々が積み重ねてきた伝統や慣習といったものは、それなりに意味のあることだと考え、重んじる。もちろん時代や状況に合わせた変化は必要にせよ、最小限にとどめる。東工大教授の中島岳志さんは、そうした「保守」のありようを「永遠の微調整」と評しています。』
 (本書P230「元号の警告」より)

つまり、前者が「左翼」であり、後者が「保守・右翼」だということで、この定義は、どちらの見方にも偏らないバランスのとれたものであり、かつごく一般的な定義だとも言えるだろう。
そして、ここで青木自身も認めているとおり、青木の立場は「進歩と合理性と人間の理性」を信じる「左翼」の立場なのだから、これは「保守・右翼」に対して、きわめて公正な評価だと言えよう。

安倍政権周辺を含む「ネトウヨ的(自称)保守」は、自身を「人間と社会の現実に対して謙虚で慎重なリアリズムに立脚した、保守」だと自己賛美的に主張をする一方、彼らは「左翼は、人間の理性とそれに基づく進歩主義という夢に酔った、冒険主義的破壊主義の愚か者たち」だと、極めて「感情的な評価」を下す。
そうした「ネトウヨ的(自称)保守」の独善的な態度に比して、青木の「保守」評価は、きわめて「公正で理性的」なものなのである。

無論これは、青木が「(真正な・本来の)保守(主義)」と「ネトウヨ的(自称)保守」を区別して、「(真正な・本来の)保守(主義)」に対しては「一定の肯定的評価」を与えているからなのだが、しかし、「思想」というものの内実を、厳密に見ていくならば、「(真正な・本来の)保守(主義)」と「ネトウヨ的(自称)保守」の「共通点」であり、その「問題点」を、あっさりと看過して、「ネトウヨ的(自称)保守」に対し、「あなた方は、真正な・本来の保守ではない。エセ保守なのだ。偽物なのである」と言って済ませてばかりいるわけにはいかない。

(「進歩」は置くとして)「合理性と人間の理性」を信じる「左翼」ならば、両者(二つの「保守」)に共通する「保守の問題点」を、きちんと理解し把握しておくべきだからだ。

ならば、「保守(そのもの)の問題点」とは何か。
それを考えるには、左翼の能動性を受けて初めて存在し得る、受動態としての「保守」というものの本質を考えるために、まずは「左翼の本質」を見直さなくてはならない。
つまり「左翼」とは、「進歩と合理性と人間の理性」に尽きるものなどではない、という見落とされがちな「本質」の再確認が必要なのだ。

なぜ「左翼」は、「進歩と合理性と人間の理性」を信じるようになったのであろうか。
それは、キリスト教に代表される「宗教的権力」や「世俗権力」が、「権威」を独占して、「今の世のかたちこそ、神の祝福を受けたもの(社会形態)である。したがって、これを変えることはできないし、変えてはならない」としていたのに対し、「こんな世の中が、神に祝福されたものだとは思えない」と考えた人たちが生まれてきたからである。
では、なぜそのように考える人たちが出てきたのかと言えば、それはその社会の中に「弱者」がいたからである。

「なぜ、神がいるのに、理不尽にも、これほど不幸な人たちがいるのか」という、当たり前の(ヨブ的な)疑問。「神はすべての人を愛しているはずなのに、不幸な人がいるのはおかしいではないか(ましてや、不幸な善人がいるのは理不尽ではないか)」という、当たり前の疑問である。
これに対して「宗教的権力」は「それは試練である」とか何とか、大衆騙しの理屈を捏ねてきたのだが、近代主義的な科学的学問知が普及するに従い、そんな子供騙しは徐々に通用しなくなり、人は「理性」にもとづいて「合理的」に考え、それに沿って行動することで「社会を変えることが出来る=弱者を救うことが出来る」という「社会変革的な進歩」の可能性と合理性を、経験的事実として知ることになったのだ。

つまり、ここで私が強調したいのは「左翼の根底にあるのは、弱者への同情と、それを放置する権力への怒り」だということである。「左翼の本質」とは「同情と怒り」なのだ。

では、それに対しての「保守」はどうなのか。
彼らに欠けているのは、まさに「弱者に対する同情と、弱者を放置する権力に対する怒り」である。
だからこそ、彼らが「保守」するのは「既得権益(既成権力)」になってしまう。「既得権益」を守るためには、左翼的な新勢力に妥協しての「変化や微調整」も避けられないだろうが、しかし、それは「弱者(救済)」を意識してのものではなく、あくまでも、社会の主流である自分たちの「既得権益体制」を崩壊させないための「妥協」でしかないのだ。
彼ら「保守」主義者には、「革命でも起きないことには救われない、大勢の弱者(階層)」の存在が、ほとんど見えていないし、そもそも興味が薄いのである。
(そして、一方の「左翼」の場合は、かなりのリスクを犯してでも、大きな「社会的外科手術」を行わないかぎり、金輪際、救われないことのない人たち〈=社会的階層〉の姿が、切実なものとして見えているからこそ、時に「革命」を叫んだりもするのだ。「それ以外に、彼らを救うどんな手立てがあるのだ」と。)

現に、真正な「保守」思想を代表し、その原点ともなったエドマンド・バークにしろ、それに続くマイケル・オークショットやT・S・エリオットらにしても、あるいは日本の小林秀雄や福田恆存にしても江藤淳にしても、彼らに共通しているのは、「個人」よりも「(自分たちの)共同体」を「保守」しようとする意識のあり方である。
つまり、彼ら「社会的上流意識あるいはエリート意識の持ち主」には、「弱者(という他者)への同情」の意識が薄いのだ。

彼ら「保守主義者」は、「個人よりも共同体」「共同体あっての個人」だという、リアリズムに立っている。しかし、それは一見、理性的な判断に基づく「リアリズム」にも見えようが、所詮は、人間的な「趣味嗜好」の問題でしかない。
言うまでもなく、「左翼」とて「共同体」の重要さは十二分に理解している。だからこそ「共同体」を、より良きものに改善して「進歩」させなければならないと考えるのだが、その根底にあるのは「そうしないと、弱者(個人)が救われないからだ」という「感情」が強烈に存在しているのだ。

つまり「左翼」には「弱者への同情」という強固な感情がベースにあって、だからこそ「共同体=社会」を改善しなくてはならない、ということになる。
言い変えれば「共同体より(以前に)個人」であり「個人あっての共同体」なのだ。
ところが「保守」には、「左翼」のような「弱者への同情」が希薄であるから、真逆の「(自分たちの)共同体あっての個人(という他者)」ということになってしまうのである。

したがって、「保守は現実主義のリアリズムであり、左翼は同情主義的な観念的冒険主義」だという見方は、「保守」に偏った見方でしかない。
厳密には、両者(保守と左翼)の違いは、「感情(論的タイプ)」の違いなのである。

「弱者」を見て「社会には常に弱者が存在するし、それは避けられないことだ」という「理屈」だけで、感情を動かされることも少ないのが「保守」の「リアリズム」の正体であり、「弱者」を見て「たしかに社会には、常に弱者がいるかも知れない。しかし、目の前で苦しんでいるこの人たちを、そんな理屈で看過することなど出来るはずがない」と考えてしまうのが「左翼の本質」なのである。

「左翼思想」や「保守思想」を中途半端に学んだ人は、両者を「理想主義と現実主義」「観念論とリアリズム」といった具合に考えがちで、これもあながち間違いではないのだけれども、こんな簡単な要約で、事の本質を語りきれるわけもない。しかしまた私たちは、こうした「ステレオタイプ・紋切り型」で「左翼思想」や「保守思想」を見がちであり、見誤りがちなのである。

だからこそ、繰り返し言うが、「左翼の本質は、弱者への同情」なのだということを、私たちは再度、はっきりと認識すべきなのである。
それ(左翼思想)とは、単なる「観念論」でも「感情論」でもない。それは人間の「本質論的タイプ」なのだ。

 ○ ○ ○

そして、こうした視点から、本書の著者である青木理を見るならば、彼が「典型的な左翼」であり、「ネトウヨ的(自称)保守」に言わせれば「典型的なパヨク」であるということになるのは、理の当然だし、完全に納得もできる。

つまり、青木理という人は「同情と怒り」の人なのだ。
「弱者の悲しみに心を寄せ、弱者を踏みにじる権力に怒りを向ける」人、それが彼なのである。

その意味で、「左翼」や「パヨク」と言った称号は、まったく恥じる必要のないものだし、まただからこそ青木も、それを毛筋ほどにも恥じてはいないのだ。

したがって、私たちも「弱者への同情と権力者への怒り」といった「わかりやすい感情」を恥じる必要はない。

ただし、「感情だけの馬鹿」であってはならない。私たちは、この「弱者が踏みにじられる現実」に何度でも立ち戻り、それを直視した上で、しかし「弱者への同情と権力者への怒り」という原点に立って、「安易な現実主義」と闘っていかなければならないのだ。


『 私自身も今回、この文章群をあらためて読みかえし、気づかされたことがいくつもあった。
 これはメディアやジャーナリズムにかかわる者たちの悪弊でもあるのだが、日々新たに生起する出来事や問題に追われ、没頭し、あるいは翻弄されているうちに、以前の出来事や問題がそれに上書きされ、記憶や問題意識が薄れ、いつのまにか過去のものとしてしまう。(中略)
 しかし、決して忘却の箱にしまいこんでしまってはならない問題はいくつもある。と同時に、さまざまな問題や出来事は相互に連関し、影響を及ぼしあって起きてもいる。最近数年間の文章を読みかえしながら私もそれを痛感したのだが、この時評集を手にしてくれた1人でも多くの読者が同じ感覚を抱き、さまざまな記憶を喚起し、思考を整理し、問題意識を再共有してくれるなら、著者としてこれに勝る幸せはない。』
 (P252「あとがき」より)

私たちは「弱者への同情と権力者への怒り」に立っているつもりでいる。しかし、本書を読みかえすと、そう言えば「あれもこれもこれも、すっかり忘れていた」という事実に気づかされるだろう。つまり、私たちにしたところで、深く「弱者に寄り添う」ことが出来ているわけではないのかも知れない。

そんな自戒をあたえてくれる貴重な「記録」として、私も著者とともに、本書を多くに人に薦めたいと思う。
私たちに必要なのは、「目新しい話(新情報や裏情報)」ばかりではなく、「忘れてはならない話」なのだ。
私たちは、何度でもそこ(弱者の現実)に立ち返って、そこから声を発しなければならないのである。

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決別 Σ( ̄Д ̄;)

 投稿者:伊殻木祝詞  投稿日:2019年10月13日(日)16時50分55秒
   どうも、いきなりですが、私、品川祝詞に改名しようかと考えております(嘘)。と言うのも、前回の書き込みの返信にて年間読書人=アレクセイ閣下から、まさかのツンデレの称号を賜ったからであり、私にとって最強のツンデレとは庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』に出てきたゴジラ第三形態=通称《品川くん》だからであります。初めて『シン・ゴジラ』を観た時、どこを見ているのかも分からない、あの、誰からも理解されることを拒むであろう、死んだ魚の眼の品川くんの魅力に私は一発でノックアウトされたのでありました。世間では蒲田くん(上陸したばかりのゴジラ第二形態の通称)の方が人気なようでありますが、たとえツンツンぶり(死んだ魚の眼)ではいい勝負であろうとも、ただ這い回っているだけの蒲田くんより、ひょこひょこと覚束ない足取りで歩き回り、特に意味もなく電車を尻尾で跳ね飛ばす品川くんの方が、むくれた顔で腕組みしている童顔の女子に何の興味もない私には何百倍も魅力的なのであります。
 ついでに申しますと、私にとって怪獣の中でも最強のイケメンは『ウルトラマン80』に出てきた吸血怪獣ギマイラであり、とにかく、こいつの格好良さは只事ではない。子供の頃に買ってもらったソフビ人形に一目惚れし、その一目瞭然のツンツンぶりは言うまでもなく、如何にも悪い奴といった面構えは今でも惚れ惚れするばかりであります(ちなみに最近復活した。YouTubeで初めて生で動いているのを見た時は柄でもなく感動した)。私も品川祝詞に改名した暁には普段のツンツンぶりなどかなぐり捨て、ギマイラの前に飛び出す所存であります(だって品川くんと言っても、あいつは雄でも雌でもない訳だからね。オールラウンダー)。ギマイラは残忍なので品川くんを見つけたら、すぐさま惨殺することでしょうが、愛に生き、愛に殉ずるのは乙女(←違う)の使命ではありませんかね?

 と言う訳で、自画像は品川くんこと、今回は初っ端から迷走中の伊殻木でございます(←いつもだ)。
 前回の書き込みの返信と、閣下の『読書実録』のレビューを拝読し、いろいろと思ったり考えたりしたことはあったのですが、端的にまとめると「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」「チョット自分、酔ッテタカモシレナイナー」となる。これではあまりにも芸がないので、佐村河内ばりに逆ギレ訴えます攻撃に出ようか(あれ結局どうなったのか?)、背中から放射線流をぶっ放して何もかもなかったことにしようか、とも思ったのでありますが、前者の場合、世間に恥を晒すのは、どう考えても私だけであり、後者の場合は、私は品川くんだから放射線流は撃てない(号泣)。だから結局は「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」「チョット自分、酔ッテタカモシレナイナー」となってしまう。全く張り合いがなくて申し訳ない。
 しかも「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」と言っている時の自分には、何かしらの自己保身(という言葉が正しいのかも分からない)を目論んでいるような気がする。こんなダサい自意識とは綺麗さっぱり縁を切りたいと思っているのでありますが……特に、私が嫌だなと感じたのは、閣下の返信とレビューを読んだ後に、「ちょっと紹介の仕方が悪かったか……」「今の保坂の魅力を伝え切れなかったか……」と少し思ってしまったことであり、これは要するに、紹介の仕方さえ間違わなければ相手を自分サイドに引き込めると妄信していたということではないか、「Iがいいって言ってるんだからYOUもいいって言ってくれなきゃ、いやんいやん!」という気持ちを多少なりとも持っていたのではないか、という懸念を抱き、そして、おそらく、その懸念は懸念ではない、という結論を出しかけているのでありますが……ああ……駄目だなあ……いやんいやん! 。゚ヽ(゚ ̄Д ゚̄)ノ゚。
 とは言え、おそらく私は保坂の書く物を読み続けるであろうし、もし保坂が閣下のレビューに眼を通したとして、その上で今後どのようなことを書いていくことになるのかを見届けたい気持ちもある。私にとっても閣下の意見を踏まえた上で、保坂や保坂以外の本を読んでいくことで、しょうもない自意識を捨て去るのか、それとも上手く付き合っていく方策を考えるのか、正念場を迎えているところであります(←と言うのも、少し大袈裟な表現ではあるが)。

 さて、あいちトリエンナーレにて名古屋市のK市長が公務を放り出して抗議の座り込みに励んだり、大阪市のM市長は「問題がなければ汚染水を引き受けてもいい」とアホな私にはよく分からないことを言い出したり、我らが関電はあのザマであり、あのザマにもかかわらずネット上には関電を擁護する意見も見られたり、と私の胸中には一足早い冬が訪れております。しばらく春は訪れそうにありません。冷え切っております。産経では月末に近くなると『月刊WiLL』『月刊Hanada』の広告が馬鹿でかく掲載されます。それを見て我が胸中を温めようかと思う所存です。娯楽です。特に今は彼らの韓国に対する執着心が剥き出しになっていて実に面白い。あれこそ究極のツンデレです。微笑ましい限りです。
こうして支離滅裂な書き込みは、今回も支離滅裂に終わるのでありました。

それでは失礼いたします。m( ̄▽ ̄)m
 

行きて帰らぬ物語:『天気の子』論 一一amazonレビュー:新海誠 監督『天気の子』(および『小説 天気の子』)

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月13日(日)11時41分26秒
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 行きて帰らぬ物語:『天気の子』論

 amazonレビュー:新海誠 監督『天気の子』(および『小説 天気の子』)
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最初に忌憚なく、結論を書いておこう。新海誠監督の長編アニメーション『天気の子』は、予言的に危惧されたとおりの、大ヒット「駄作」である。

言うまでもなく、大ヒットしたから「傑作だ」などという道理は、微塵もない。
人びとがしばしば、つまらないものに熱狂するというのは、洋の東西を問わず、うんざりするほど繰り返されてきた、歴史的事実なのだ。作品鑑賞について、何の訓練も受けていない者の鑑賞能力とは「それ相応」のものでしかないというのは、幼児に数学問題が解けないのと同じことなのである。

『天気の子』を観た直後の私の評価は、おおむね次のようなものだった。

(1)観ているぶんには、それなりに楽しめる「娯楽性」はあるけれど、あとで冷静に考えれば、ご都合主義的な展開が多く、いろいろと粗の目立つ作品。

(2)しかし、なによりも問題なのは、前作『君の名は。』では薄れたかに見えた、新海誠らしい〈自己憐憫のナルシシズム〉が、ぶり返していた点だ。
新海の初期作品には、「運命に縦容として従う少女」「(その運命に)引き裂かれる少年少女」「大人はわかってくれない(世界は僕たちに冷淡だ)」といった、「被害者意識」の濃厚に漂う悲恋物語、という「作り」が共通していた。それが本作では(パッピーエンドにしてはいるが)わかりやすく蘇っており、新海は作家として、本質的に変わったわけでも、成長して変わったわけでもなかったようだ。

(3)こうした「セカイ系」的な「自意識過剰な主観性」のゆえに、主人公に好意的な人は「良い人」、無理解な人は「嫌な人、あるいは悪意の人」ででもあるかのように描かれてしまっている。
例えば、晴れ女の超能力を持つ少女・天野陽菜が、その能力を使い続けたために、自然のなかに取り込まれて消えてしまうという作中の事実について、彼女に恋する主人公・森嶋帆高自身、ほかの誰にも説明しようとはしてないのだし、そんなトンデモな事実を、周囲の大人たちが簡単に理解できるはずもない。だから、帆高が陽菜を取り戻すためにおこなう行動が、常軌を逸した暴走にしか見えず、それを止めようとするのは「善意の第三者」の行動として、非難の余地などあろうはずもないものなのに、例えば、彼らを保護しようとする警察官を始めとした大人たちは、帆高に対し、まるで悪意の邪魔立てをしているかのように、不適切に描かれてしまっている。
これは、作品を俯瞰して、登場人物を統御すべき新海監督が、主人公と一体化して、主観的に登場人物たちを描いてしまっている証拠であり、端的に「頭が悪く」「拙い」としか言いようがない。

つまり、『天気の子』が否定的に評価されるとしても、その論点は「(作品に込められた)考え方や主張」の問題ではなく、単に「作品作りの巧拙」つまり「(物語構成)技術論」の問題でしかないのだ。
にも関わらず、新海誠は、作品を公開する前から、予防線を張るかのように、インタビューで次のように語っている。


『「この映画について『許せない』と感じる人もいるだろうと思いました。現実の世界に適用すると、主人公の帆高は社会の規範から外れてしまうわけです。弁護士の先生にもお話を聞いたんですが、法律で考えても、結構な重罪で…。帆高が空の上で叫ぶセリフも許せないし、感情移入できないという人もたくさんいると思います」と批判的な意見にも心を寄せ、「いまの社会って、正しくないことを主張しづらいですよね。帆高の叫ぶ言葉は、政治家が言ったり、SNSに書いたりしたとしたら、叩かれたり、炎上するようなことかもしれない。でもエンタテインメントだったら叫べるわけです。僕はそういうことがやりたかった」と語る。』
 (「Movie Walker」https://movie.walkerplus.com/news/article/200868/

『『天気の子』については、「僕は、本作を“帆高と社会の対立”の映画だと思っていて。個人の願いと、最大多数の幸福のぶつかり合いの話だと思うので、そこに社会は存在している。帆高は大人の社会で働こうともするし、警察も出てくるわけです」と社会と関わっていく物語だと話す。「僕がつくるものがどうしてそうなったかというと、かつてのように、無条件に社会がそのまま存在し続けるとは思えなくなってきているから。そういった感覚があるからこそ、アニメーションの中にも社会を描くことが、どうしても必要になってきているのではないかと思っています」。』
 (前同)

このインタビュー記事を読んで、その度しがたい「自己弁護」性に、心底うんざりさせられた。
新海はこのインタビューで「批判的なご意見もありがたいと思っている」という趣旨の「世間並みの建前」を語ってはいるが、それが「本音」とは真逆なものであることは、なによりも『天気の子』という作品が、じつに正直に暴露している。

つまり、『天気の子』を「帆高と社会の対立」を描く作品だと主張しているけれども、実質的にこの作品が描いたのは「独り善がりな帆高と、彼を理解しようもない大人たちとの齟齬」にすぎない。
説明努力もしていないのに、帆高は「何で解ってくれないんだ」という被害者意識で、周囲の「大人社会」を見ており、だから非難がましく「みんな何も知らないくせに! 陽菜が犠牲になったから、世界が救われたのに!」というような不満をもらす。

しかし、これはお門違いというものだろう。周囲の大人社会が、意識的に「陽菜を人柱にした(犠牲にした)」と言うのならば、それは当然非難されてしかるべきである。けれども、いずれ陽菜が消えるという認識が無かったとは言え、陽菜に晴れ女の能力を恒常的に使うように仕向けたのは、他ならぬ帆高なのだし、なにより、自分が消えるかもしれないと知りながら、皆と、そして帆高のためにも能力を使い続けたのは、陽菜自身であり、彼女の主体的な選択であって、それは主体的な「自己犠牲」の行為なのだ。
だから、それで、陽菜に能力を使うように強いたわけでも、その結果を知っていたわけでもない「大人たち」を責めるというのは、まったくのお門違いであり、八つ当たり以外の何ものでもないのである。

しかし、「帆高と社会の対立」という構図には「新海誠と、新海に無理解な大人たち(有識者)の対立」という、新海にとっての現実が、そのルサンチマンの発露として、なかば自覚的(報復的)に投影されており、その一方、新海はもともと、主人公に情緒的(非理性的)に同一化する(つまり、理性的な判断が働かない)タイプであるため、『天気の子』という作品の構造を「帆高と社会の対立」だなどと、自らに都合よく「取り違えてしまう(合理化した)」のである。

つまり、端的に言えば、『天気の子』は「説明能力のない独り善がりなお子様と、彼にその自覚と成長を促す教育的な大人との対立」でしかなく、新海の言う「賛否両論」のある作品などでは、毛頭ない。
なぜなら「子供を、その独り善がりな主観的視野から、さらに広い視野を持つよう、成長うながす」という善意の行為は、よほど病的な「視野狭窄」に陥っている者でもないかぎり、誰もが賛成するしかない、当然のものだからである。
そして、『天気の子』に「賛否両論」めいたものがあるとすれば、それは、作品を主観的に評価するだけの未熟な鑑賞者(とそれに迎合する功利的な大人)と、作品を客観的に評価できる訓練された鑑賞者との対立にすぎないのだ。

 ○ ○ ○

さて、以上で「なぜ『天気の子』は駄作なのか」についての、基本的な説明は済んだ。
知的・論理的に思考ができず、ただ「なぜ解ってくれないんだ」式に叫ぶだけの「理解乞食」には、理解のしようもないだろうが、それはどうしようもないので、話を進めよう。

『天気の子』が、このような「構造的欠陥」によって、不出来な作品であるだけなら、さして問題はない。
しかし、新海誠の作品は、前作『君の名は。』の大ヒットを受けて、本作『天気の子』も大ヒットしており、それにあやかる「金儲け目当ての太鼓持ち的な大人」たちも少なくないがゆえに、その悪影響が看過できないものともなっている。

無論「駄作を駄作(あるいは、傑作を傑作)と言う」だけなら、それは誰にでも出来ることだが、それが「何ゆえに駄作(あるいは、傑作)なのか」「駄作が傑作と誤認されることの問題とは何か」を語ることは、決して誰にでも出来ることではないし、余計な行為などでもない。

人間は「頭を使ってこそ人間」なのである。
つまり「好き嫌い」と「良し悪し」の区別がつかないような、思考能力(脳)の未熟な「子供のまま」であってはならないのだ。

さて、『天気の子』の観賞後に、こうした論点において注目すべき本を読むことが出来た。
高畑勳のエッセイ集『アニメーション、折りにふれて』(岩波書店)は、6年前(2013年)、つまり『君の名は。』よりも前に刊行された著作であるにもかかわらず、「新海誠的な問題」の本質を、鋭く射抜いており、その予言的な明察には、ほとほと感心させられた。

本書の中で、高畑が言及している新海誠の作品は、自主制作のデビュー作である『ほしのこえ』だけだが、高畑はこの作品を、にべもなく、こう切り捨てている。


『個人ですべてCG制作したことで評価された『ほしのこえ』という中編アニメがある。「西暦二〇四六年を舞台に携帯メールを介して綴られる宇宙と地球に引き裂かれた少年と少女の爽やかな、しかし絶望的なまでの〈超長距離恋愛〉」というのが、そのキャッチコピーである。特徴のある絵ではないけれども、映像の出来は決して悪くない。
 私はこれをまったく評価できず、ワンアイデアによる「(子供ではなく)青年だまし」で、「くだらない」としか思わないが、巧みな表現によって社会性のない現代青年の心をくすぐり、琴線に触れることができたようで、売れ行きもよく、いくつか受賞もした。要するに、作者はみずから作り手になることによって見事に「そういう世界から卒業・脱出しないまま、それでも現実を生きる」ことに成功した一人であり、「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者に支持され、その現象全体を情報メディア産業(とは何のことか分からないが)推進派の能天気なおじさんたちが追認したのだと思われる。』
 (『アニメーション、折りにふれて』文庫版・P207~208、初出は2008年)

10年も前、まだ世間が新海誠のことなど知らなかった段階で、高畑は、後の「新海誠ブーム」の本質を、すべて言い当てて見せていたと言えよう。私が「予言的」と呼ぶ所以である。

そして、この名匠(『太陽の王子ホルス』『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』『じゃリン子チエ』『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』『かぐや姫の物語』など)の言葉を、新海誠は確実に読んでいただろうし、それに深く傷つき、片時もこの「酷評」を忘れたことはなかったであろう。

言うまでもなく、高畑のこの酷評は、新海に「幼児期(主観的世界観)からの卒業と成長」を期待し促したものであった。
現に、上に引用した文章の註で、高畑は次のように補足している。


『 急いで言い添えなければならないが、これはこの段階(※ 2008年)での評価であり、作家の道を歩みだした作者が、その社会生活のおかげで、以後、もっと社会性のある作品を作りはじめる可能性は充分にある。』(P221)

しかし、残念ながら、高畑が正しく「危惧」したとおり、新海は高畑を「無理解な大人」の象徴として「恨み」を抱き、「無理解な大人を見返す」ことを、作品制作の暗い燃料としたのである。

高畑勳は、同書で指摘していた。


『この理想と現実の相剋があるからこそ、多くの人々の知性は目覚め続けざるをえなかったし、ずるずるいかないための大きな歯止めになってきたのではないでしょうか。理想と現実の相剋を、理想を捨て去ることによって解決しようとすることほど愚かなことはありません。この大きな歯止めをはずせば、あとはただ最低の現実主義で悪い方へずるずるいく危険性がまことに高いと思います。(中略)集団主義をとってきた私たち(※ 日本人)は、残念ながら、ずるずると行きやすい体質を持っているのです。若い人たちは違うと思いたいのですが、どうも全然変わっていないとしか思えません。』(P334)

『 そんなイヤな話は聞きたくない。いまそんなこと考えても無駄だ。成り行きにまかせるしかないじゃないか。だいいち、個人に何が出来るんだ。テレビで「これは一人ひとりが考えなければならない問題です」というのを聞くたびにアタマに来るぜ。イライラしはじめた皆さんの皆さんの顔が浮かびます。』(P339)

ここで語られているのは、特に新海誠を意識したものではない。だが、新海にかぎらず「内向き・現実逃避的」で、「理想」を主体的なものとして考えることがなく、ひたすら「人が押しつけてくるもの」と感じてしまう「被害者意識」の強い、「思考放棄をした若者」たちへの「大きな危惧」が、ここでは「ささやかな期待」とともに語られている。

で、その結果はどうであったろう。

新海は、先のインタビューで『社会を描くことが、どうしても必要になってきているのではないかと思っています』と語ったとおり、『天気の子』で、社会に目をむけたつもりなのかもしれない。
しかし、その現実は、私もすでに指摘したとおりで、「主観に埋没して、他者の視点を欠いた描写」しか出来ていないというのが、今の新海誠なのである。
つまり「他者の立場」も思いやれない人間に「社会性」などあろうはずもなく、『天気の子』という作品が端的に示しているのは、新海誠という作家の「社会性の欠如」であり、彼が度しかたいほど変わらない「セカイ系的感性(=世界と私の中間にある社会の欠落)」の持ち主だという事実なのである。

そしてそのために、新海は『「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者』たちからの、さらに広範な支持を受け、ヒットメーカーとして『情報メディア産業推進派の能天気なおじさんたち』の寵児となった(『天気の子』における、スポンサー企業との「母子密着型(自立性欠如型)」描写を見よ)。

無論、これは「偽の勝利」でしかない。しかしそのことが、新海や、彼を支持する人たちには理解できないはずだ。なぜなら、彼らは「主観的」にしか世界を見ることができず、俯瞰的かつ相対的な意味を、社会的な視点から把握することが出来ないからである。

大衆に熱狂的な支持を受けていたヒトラーのナチス政権を批判し、反体制運動に加わって絞首刑にされたプロテスタント神学者のディートリッヒ・ボンヘッファーは、次のような言葉を残している。


『成功者の姿がとくに注目を引くように出現するところでは、多くの者が成功の偶像化に陥る。彼らは、正と不正、真理と虚偽、誠実さと卑劣さの区別にたいして盲目になる。彼らは、ただ行為のみを、成功のみを見る。倫理的・知的判断力は、成功者の輝きの前ではまたその成功に何とかして与りたいという欲望の前では鈍くなってしまう』
 (『倫理』より)


じっさい、現在進行形の「東京オリンピック」ブームについての、政府とマスコミと協賛企業主導の「お祭り騒ぎ」に対し、なんの疑問も抱けないのが、平均的な日本人(の知的レベル)である。
そして、このような日本人が『君の名は。』や『天気の子』を大ヒットをさせている、というのは言うまでもない。その結果、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』などの挑発的な著作で知られる橘玲をして、下のように書かせることになる。


『日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。』
 (橘玲『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』より)


例えば、年に1冊でも活字の本(新聞・雑誌・ネット以外)を読む人というのは、100人のうち何人くらいいるだろうか?
「私は本を読みます」と言っても「(ラノベなどの)娯楽小説」つまり「思考型ではなく、没入逃避型のテキスト」しか読んでいない人が、その内のどれだけを占めるだろう。また「歴史書や政治関連書を読んでいます」と言っても、偏頗で党派的な断言ばかりの「オピニオン雑誌」の類い(これも逃避型)しか読んでいないネット右翼のような人たちが、そこにどれほど含まれていることか。

しかし、「新海誠ブーム」や『天気の子』ブーム、はたまた「東京オリンピック」ブームを支えているのは、こういう、長いものには好んで巻かれて熱狂し、立ち止まって考えることの絶えて出来ない、ずるずる行ってしまう、「提灯行列」的な日本人なのである。

 ○ ○ ○

高畑勳は、新海誠的な作品の問題点を、盟友宮崎駿の傑作『千と千尋の神隠し』を例に挙げつつ、次のように説明していた。


『 最近のすぐれた日本の長編アニメでは、主人公が「予想を超えて、次々と出現する状況」にまことに素早く座頭市的に対処し、見事に危機を切り抜けます。そして観客はそれに喝采を送ります。しかし、主人公が物事の因果関係を探ったり原因をつきとめる行動に出ることはほとんどありません。座頭市的な主人公が状況の不可解さから疑心暗鬼に囚われて、行動力を失ってしまうこともないのです。観客もまた、主人公が何故そんなに見事に状況を切り抜けることができるのか、深く考えることはないようです。主人公も観客も、こうして「現在主義」を共有しています。
 これはまた、加藤さん(※ 加藤周一)が同じ講演(※ 「日本社会・文化の基本的特徴」)で「集団内部の秩序維持の装置」として挙げておられ、今回もお話しいただいた、日本の「気持・こころ尊重主義」や「主観主義」のあらわれでもあると思います。現実の中では、行動の動機である心情がいくら美しくても、それがそのままよい結果をもたらすとは限らない。しかし私たち日本人はその「気持」の方を高く評価してしまいがちです。だからこそ、日本のアニメの世界では、現実世界と違い、よい心情は必ずよい結果を生んで、観客の気持を裏切らないようにします。そこでは、因果関係の客観性・論理性は問われません。
 したがって、こういう長編アニメの傑作は、しばしばかなり強引に、加藤さんの言われる「建て増し主義」的に作り上げられざるをえません。では、そういうドラマをリアルに、というか、ヴァーテャルに観客に信じ込ませる恐るべき力はどこから来ているのでしょうか。それはまずなによりも、官能的とさえ言えそうな細部の驚くべき緻密なリアリティではないかと思います。最近のバロック的明暗の強調おそらくそのためでしょう。
 起承転結のしっかりした設計図から細部を構想するのではなく、豊富な細部のリアリティや共感性をまず保証して、その力によって全体を組み上げること。これが加藤さんのおっしゃる「部分主義」に当てはまることは言うまでもないと思います。「日本文化の文法」第四、「部分主義」で加藤さんは「全体の構想を離れての、部分それ自身への強い関心は、日本の造形美術の歴史を一貫する特徴の一つである。(中略)全体は部分の積み重ねとして成り立つので、全体を分割して全体にいたるのではない」と書かれています。
 かくて、世界に冠たる日本の長編アニメもまた、日本文化の文法にまことによく従っている、と言えるのではないでしょうか。そしてこれが世界的に評価されるのは、その細部の豊富さと素晴らしさもむろんありますが、それだけではなく、その「主観主義」的な美しい心情とそれによる目的成就が、既成の価値体系が崩れ、因果関係が読み取れず、自信を失って不安に陥っている現代人の心に強く訴える(今はやりの言葉でいえば「癒す」)ことも大きいのではないでしょうか。日本だけではなく、世界で、圧倒的な「感覚的世界」を肌身に感じたがる人々がますます増えているのだと思います。』
 (『アニメーション、折りにふれて』文庫版・P19~21、初出は2004年)

これを読んで「宮崎駿の傑作長編も、新海誠の長編アニメも、ともに日本人の伝統的美意識に根差した、世界に冠たる傑作なのだ」としか理解できないのなら、その人は、もっと頭を鍛えるべきであろう。
たしかにここで高畑は、加藤周一の「日本文化・芸術論」を引いて、「昨今の日本のすぐれた長編アニメ」が、とつぜん現れたものではなく、日本の伝統的美意識に、無意識的に支えられて現れたものだと語っている。しかし、文化的特徴には表裏の両面があり、長所というのは、しばしば短所でもある。
つまり「日本的美意識」は「細部に繊細な美意識を宿らせる」という長所を持つ半面、「全体を俯瞰的かつ論理的に把握して、設計的かつ構築的に全体を作り上げるという、構想力に欠ける」という弱点をも持つ、ということだ。平たく言えば、「近視眼的」で「泥縄式」で「直観的かつ非論理的・主観的」なのだ。

そして、この高畑の文章には、宮崎駿の傑作の長所以上に、新海誠の作品の弱点が、的確に表現されていると言えるだろう。高畑のここでの指摘は、15年後の新海誠作品『天気の子』の弱点を、そのまま言い当ててしまっているのだ。
(ちなみに、前述のインタビューで、新海誠が、宮崎駿について好意的に言及している点が、たいへん興味深い。たぶん「勝者」同盟のつもりなのだろう)

高畑勳は、「日本アニメは観客巻き込み型映画の一ジャンルとなった」という見出しの後に、このようにも書いている。


『 感情移入という言葉は、日本では哲学・美学用語を超えて、日常的に使われる。この事実は、それほどみんなが「感情移入」したがることをよく表している。読書はもちろんのこと、舞台芸術やある時期までの映画も、感情移入は客観的な対象(文章・舞台・画面の中の人物や事件)に向かってこちらから自己(の想像力)を投入する(いわば「思いやる」)ことによって成し遂げられた。情景でさえそうだ。舞台は登場人物が「まあ美しい夕焼け!」と言えば、シェークスピアのグローブ座であれ能舞台であれ、観客はその言葉だけで「美しい夕焼け」を想像するのである。近代劇であっても、ほんものらしくない舞台照明の赤らんだ光に助けられつつ、やはり美しい夕焼けを想像するしかない。読書や観劇は一定の努力が必要な、しかし努力することが喜びであるような自発的な行為だった。
 映画はその中では、物事を具体的に描写してくれるだけではなく、ショットの積み重ねで様々な視点を提供してもらえるため、もともと観客にとってもっとも努力が少なくて済む大衆娯楽だった。それが白黒からカラーとなり、いまや大進化を遂げて、「巻き込み型」が主流を占めるようになって、観客は座席に受け身で座ったまま、ぐんぐん向こうから押しつけてくるものを享受するだけで感情移入ができるのだ。大音響や扇情的な音楽がその臨場感をさらに増幅する。観客は自ら客観的に判断したり想像力を発揮したりする余地も与えられず、きわめて主観的に感情を揺さぶられ、かなり荒唐無稽な内容であっても、個々の人物、個々の場面に「思い入れ」や「思い込み」をしてしまう。
(中略)
(※ ディズニーとは)逆に、日本のアニメがなぜ、絵は大して動きもしないのに観客を巻き込むことに成功したのかは、まず第一にその演出手法による。ディズニーがやらなかった主観的な縦ショットをどんどん積み重ね、観客の目を登場人物のすぐそばに置く、トラックアップなどのカメラワークで眩惑する。動きがなくても止め絵が多かろうが、性格描写がいい加減だろうがかまわない。特に主人公は、観客代表みたいなものにしてあるから、その性格はあいまいな中立的なものでいいのだ。だからキャラクターも類型的でかまわない。
 日本のアニメは、安価に作るために作画枚数を減らすところから出発した。それでも面白く見せるには演出の工夫が必要だった。しかもその基盤には洗練の度を極めたマンガのコマ割りという先輩があった。そしてたちまち熟練の度を加え、アニメーション作画も巧みになって、ついに「現実には起こりえないことを、いま現実に起こっていることとして感じさせる」観客巻き込み型映画の一ジャンルを見事に形成するまでになったのである。』
 (『アニメーション、折りにふれて』文庫版・P198~201、初出は2008年)

例えば「ジェットコースター」を考えてみるといい。ジェットコースターには「意味的内容」はなく、客が頭を使う要素は皆無だ。乗客は、ただ座席に座って目を開いているだけでいい。あとはコースターが勝手に、「急降下」があったり「カーブ」があったり「旋回」があったりという、刺激を単調化させないための「捻りと変調」を加えた「スペクタクルの世界」へと、乗客を運びさってくれる。
たしかに、ジェットコースターは、面白い。いや、正確に言えば「快感を与えてくれる」娯楽であり、それにはそれ相応の価値がある。
そして、その「面白さ」は、『天気の子』という作品の面白さと、とてもよく似ているのであるが、その正体とは、知性や理性とは、ほとんど関係のない「脳科学的な、本能的反応(脳内快楽ホルモンの分泌)」でしかないのである。

例えば、幼児の惹かれる「YouTubeの動画」というのは、どういうものだろうか。
そうした作品とは、「中身(らしい中身)」は無く、きわめて「単純」ではあるが、テンポの良い繰り返しがあったり、時に驚くような変調が仕掛けられたりしたものであることが多いようだ。つまり、ジェットコースター的なものに近い刺激を与えてくれる。
そこには大人が鑑賞して「感心するようなテーマ」などは無いし「繊細微妙な描写」があるわけでもなく、いずれにしろ「深く、その表現するところの意味を、主体的に考えなければ味わえないような作品」ではない、というのは確かで、端的に言えば、大人には「たわいない作品」だと言えるだろう。

なぜ、幼児が、このような「たわいのない」、大人には「単純すぎる」と感じられる作品を喜ぶのかと言えば、それは作品の内容が「複雑な意味」を提供するものではなく「直接的な刺激」を提供するものだからであろう。
幼児の、そして子供の脳というのは、大人の脳にくらべて「複雑な思考」能力には欠けるものの、「刺激には敏感」である。大人のような「複雑な思考」は、経験的な「知的訓練」によって脳が思考回路として鍛えられ、漸進的に複雑さを増すことによって初めて可能になるものなのだが、「刺激にたいする敏感さ」は、これから発達していくべき幼児の脳の当然の傾向として、大人よりもずっと直接的で大きな「快感や不快感(刺激)」を感受するのである。

このような「知的鑑賞対象と本能刺激対象」という違いの、よりわかりやすい例として「エロ作品(映画・マンガ・小説)」などを挙げてみよう。
エロ作品に対して、最も感受性に優れているのは、思春期以降の若者(青年)である。これは、他の年代(幼児や高齢者)に比べて、彼らがなにがしかの優れた「読解能力=知的能力」を持つからではなく、「種の保存本能」としての「性欲」が、最も活発な世代だからに他ならない。若者は、性的な刺激に敏感なのである。だからこそ、その刺激物が「粗製濫造の拙い創作物」であろうと、若者は敏感に、つまり過剰なまでに「反応」し「興奮」し、その「創作物が惹起する性的妄想に没入する」ことが容易に可能なのである(※ 特に男性は)。
それに比べ、そもそも幼児には、その本能的能力が未発達なので、エロ作品が期待する反応を示すことが出来ない。一方、性的本能が衰えた高齢者の場合は、エロ作品が鑑賞者にどのような反応を期待して作られたものなのかを「知的に理解」してはいるけれども、「性的本能」の衰えによって、エロ作品が期待するような「反応」としての「興奮」を満足に惹起することができない。高齢者は、性的な亢進期をすぎて「性欲」が衰えただけではなく、過去の経験と記憶によって、多くの性的刺激に対して、言わば「慣れっこ」になってしまっているので、容易なことでは「本能的に興奮する」ことが出来なくなっているのである。

つまり「性的興奮」と「知的思考能力」は、ほとんど無関係であるばかりではなく、しばしば背反するものなのだが、この違いがどこに由来するのかと言えば、それは「性的興奮」とは、脳への「直接的な刺激」によって脳内快楽物質(ホルモン)が多量に分泌されるという機械的な単純現象であるのに対し、「知的思考能力による鑑賞と、それによって得られる快感」というのは、脳への「直接的刺激」ではなく、「思考」という高度な脳的作業を行うことを介して、間接的(メタ的・自己言及的)に脳を刺激し、脳内快楽物質を分泌するという高度な作業なのである。言い変えれば、この「高度な脳的作業」を行うには、それ相応の「訓練された知的能力」がなければならないが、「本能的な直接刺激」に対しては、その刺激の対象年齢内であり、脳障害でもないかぎり、誰でも、機械的な反応として「興奮」を得ることができるのである。
そして、このことをわかりやすく説明するならば、例えば「恋愛」というものは、知的能力の高低にも、倫理観の有無にも関係なく、誰にでもできるものであり、なぜそうなのかと言えば、それが本質的には「本能的(脳機構的)な単純反応」にすぎないからなのである。

「いや、恋愛とは、本能だけではない。例えば、その人の行動や人格の美しさに感動することで、人は恋に落ちたりする」と言う人もいるだろう。これはなかなか賢い抗弁だ。と言うのも「外見的美しさ」によって「恋に落ちる」というのは、典型的な生物学的反応であるからだし、「容貌や性格傾向の好みの違い(相対性)」もまた、遺伝的要素と後天的な学習による脳内プログラムの発露でしかない。だから、少しでも知的・人間的なものとして「恋愛」を考えようとすれば、(本当は単なる「面食い」であっても)対象者の「行動や人格の美しさ」を問題にしなければならないからである。
しかし、自分の胸に手を当てて正直に考えてみればわかることだが、残念ながら人間というものは「行動や人格の美しさ」だけで「恋に落ちる」ということはない。たしかに「感心する」とか「尊敬の念をおぼえる」ということはあるだろうが、それは、そのまま「恋愛」には直結しない、「副次的要素」でしかないのだ。
つまり、「自分の好み(のタイプ)」の人が、そのような「行動や人格の美しさ」を見せたならば、人は「感心」し「尊敬の念をおぼえ」、その後に「恋に落ちる」、ということでしかない。忌憚なく言ってしまえば、容貌が完全に好みではないとか、同性であるとかするならば、その人に「行動や人格の美しさ」があろうと、人は普通、その人に「恋愛」感情を抱いたりはしないものなのであり、動物としての人間(の脳)は、そのように作られているのである。言い変えれば「恋は理屈ではない」。これが真実なのだ。

 ○ ○ ○

ところで、「恋愛」というのは、たしかに本能的なものではあるが、しかし、それが本能的なもの(脳科学的現象)に止まるかぎり、達成されれば、急速に醒めてしまうものでもある。
だからこそ、結婚してしまうと、恋愛的な感情は急速に醒めて、「こんなはずではなかった」とか「こんな人とは思わなかった」とか「騙された」などと言い出す人も少なくないのだ。

したがって、婚姻関係を永続的なものにしようと思えば、その根拠は「恋愛感情」的なものにではなく、むしろ「家族的なもの・肉親的なもの」へと置き換えられなければならない。つまり、一緒に暮らすことという事実行為によって、配偶者の長所も短所も含め、配偶者に「他家の人とは区別される、家族的・肉親的愛着(愛情)」を持つようにならなければならないのである。

しかし、そのような「家族的・肉親的愛着(愛情)」というものは、「非日常」を描くこと(それを期待されること)の多い「フィクション作品」には馴染みにくい、というのも確かである。
当然のことながら、「起伏に富んだ、派手な恋愛」を描いた作品(例えば「突如、恋人が不治の病に罹ってしまい、余命1ヶ月」「恋人を残して、突然、過去へタイムスリップ」等)の方が、「夫婦の地味な日常を、淡々と描いた作品」より、一般ウケが良いし、作るのも簡単である。
だからこそ、物語作家というものは、リアルで地味な「家族的・肉親的愛着(愛情)」を描くよりも、「派手な恋愛」を語りたがるというは、資本主義経済下の世界においては、理の当然だと言えるだろう。

まただからこそ、恋愛譚であっても、「自然な出会いによって恋に落ち、順調につきあって結婚し、二人は幸福になった」というような「フィクション作品」はほとんど作られず、「突如、恋人が不治の病に罹ってしまい、余命1ヶ月」式の「派手な作品」の方が多くなる。
つまり、大衆ウケのポイントは「うまく行き過ぎない(次々と障害が発生する)恋愛譚」であり、その意味での「悲恋物語」であるということなのだ(「ハッピーなバカップル」の物語なんか見せられたくない、ということ)。

こうした「恋愛フィクションの機微」について、クリスチャンの文芸評論家、ドニ・ド・ルージュモンは、その著書『愛について エロスとアガペ』において、伝説的な悲恋物語「トリスタンとイズー」を構造分析し、次のように指摘している。


『 彼(※ トリスタン)は自分自身の悲痛に不憫をもよおす。《愛する人》(※ イズー)のことなど思わない。彼女(※ イズー)は方は恋人(※ トリスタン)とともにいるよりも、王(※ 二人を引き裂く、イズーの夫・マルク王)のそばにいる方が幸福であり、モロワの森で(※ トリスタンと)同棲生活をしているよりも、恋の不幸の中に生きる方が幸福でいられる。……』(平凡社ライブラリ版上巻・P72)

『彼ら(※ トリスタンとイズー)が愛しているのは恋愛であり、愛するという事実そのものである。そして彼らは、愛をはばむものこそは、二人の心の中にしっかと愛を植えつけてくれる事情を、こころえているといわぬばかりの振舞いをする。それも、死という絶対の障害にあう瞬間に、愛をかぎりなくたたえるためなのだ。』(同P73)

『(※ イズーに)夫(※ マルク王)がなかったならば、二人の恋人は結婚するよりほかなかったであろう。ところで、トリスタンがイズーを妻にするということなどは、とうてい想像もできない。彼女は人妻になれるタイプの女ではない。それというのも、結婚してしまえば、それまでの彼女(※ 手の届かないが故に、情熱を燃え立たせる対象)ではなくなるので、夫(※トリスタン)の愛情は消えてしまうからである。トリスタン夫人、こんなことが考えられようか! これは情熱の否定、すくなくとも、われわれが問題にしている情熱の否定である。闘争もなくして栄冠をかちえる衝動的な恋愛情熱は、その本質からいっても永続性をもたないものである。これは、燃焼のあとまでも輝きつづけることができない火花である。ただ、その焼痕だけは忘れがたいものとして残るし、恋人たちはこれを永久に引き延し、よみがえらせようと願うのだ。だからこそ、彼らはつぎつぎに降りかかってくる危難に挑んでゆく。しかも騎士の武勲は、それを片っぱしから征服してしまう。そこで彼は、さらに神秘的な、さらに深遠な、さらに内的といえる冒険をもとめて、遠国に旅立つのだ。』(同P78~79)

『 情熱は苦悩を意味する。情熱は忍従することを意味する。責任ある、自由な人格にたいする宿命の優越を意味する。愛の対象よりも、愛そのものを愛すること、情熱をそれ自体として愛することは、アウグスチヌスの《愛することを愛していた》から現代のロマンティスムに至るまで、苦悩を愛し求めることにほかならない。情熱恋愛とは、われわれを傷つけ、勝利によってわれわれを滅ぼすものを欲望することである。』(同P87~88)

『 相思の愛というのは、トリスタンとイズーが《愛し合っている》、すくなくとも、彼らがそう信じているという意味である。また、彼らが相互に、模範的な節操をまもっていることも事実である。ところが、彼らを《支配する》恋愛が、その具体的な現実そのままに、相手への愛ではないところに不幸がある。なるほど、二人は愛しあっているが、しかし、各人の愛は相手からではなく、自己から発して相手におよぶ愛にすぎない。こうして彼らの不幸の原因は、双方の自己愛に仮面をかぶせた、見せかけばかりの相互性にあるのだ。』(同P91~92)


もちろんここで、ルージュモンは「情熱=情熱恋愛」を否定的に扱っているのだが、私がこの引用文を持って何を言いたいのか、おおむねご理解いただけよう。

ここでルージュモンが描いた「情熱恋愛」こそが、『天気の子』の支配原理なのである。

主人公の森嶋帆高は、とても魅力的な少女・天野陽菜に恋をするし、二人の恋はわりあい簡単に成就しかけるのだが、当然、そんな二人の前に、様々な障害(警官や児童福祉課職員)が立ちはだかり、その極めつけが「陽菜の消失」だというは言うまでもない。
つまり、二人の「恋」の行く手には「様々な障害」が立ちはだかるのだが、しかしそうした「障害」の存在こそが、二人の「恋愛の凡庸さ」や「人格的な紋切り型」を覆い隠して、観客を物語の「スペクタクル世界」に引き込んでしまう。
つまり、二人の主人公の中味や魅力ではなく、ルージュモンの指摘するとおり『愛をはばむものこそは、二人の心の中にしっかと愛を植えつけてくれる』ドラマチックなものとして、二人の主人公と観客の前に立ち現れるのである。

だからこそ、最初に指摘したとおり、森嶋帆高は「独り善がりで、頭の悪い少年」でしかないし、一方の天野陽菜は「健気なお人形さん」でしかなく、やはり「頭が悪い」。

帆高の「頭の悪い、独り善がり」ぶりについてはすでに説明済みであるから、ここでは陽菜の「健気なお人形さん」ぶりについて説明しておこう。

言うまでもないことだが、陽菜の最大の魅力は「容姿」である。
アニメの主人公なんだから、陽菜が「美少女」である(と、観客には見えるように描かれている)というのは当然だと思われるかも知れないが、しかし、その視覚的要素を差し引いて、いったい陽菜にどれだけの「人間的魅力」があるのかを考えていただきたい。

たしかに彼女は「親思い」だろうし、一人で弟を育てようという「弟思いの頑張り屋」でもあろう。また、腹を空かせていた帆高にハンバーガーを恵んであげる「心優しい少女」でもあるし、極めつけは「みんなの幸せのためなら、自分がこの世から消えてしまっても良い」とまで考える「自己犠牲的な、非凡な精神の持ち主」である。

しかし、冷静に考えれば、「15歳」の彼女が「弟と二人だけで生きていくことなどできない」というくらいのことは、その年齢にもなればわかるはずだ(例えば、金銭的・手続き的に、弟を学校に通わせることが出来るだろうか)。
多少の遺産があったとしても、マクドナルドでのアルバイト代だけで生きていけるほど世間は甘くないし、だからこそ彼女も「あやしい仕事」に手を出しかけたのである。それをたまたま、思い込みの激しい帆高が妨害したから良かったようなものの、あのままだったら、ただの「水商売」では済まず、いずれは金になる「売春」に走らざるを得なかったかも知れないし、その果てに悪い人間に捕まって「覚醒剤漬け」にされたかも知れない。
「弟と二人で生活を」などという「夢のような話」ではない「現実」が、あのままだったら、確実に待っていたのである。また、だからこそ、そういう世間の厳しさを知らない子供たちを「保護」すべく、「社会」は、警官や児童福祉課職員として動きもしたのだ。
また彼女は、自分が消えた後の弟のことを、高校生の帆高に託そうとするのだが、それはいくらなんでも無理があって、むしろ無責任なのではないだろうか。「みんなのため」以前に、「弟のために生きよう」とするのが、当たり前の姉の務めなのではないのだろうか。

このように、なるほど陽菜は「健気な美少女」ではあるけれども、所詮は「非現実的なお人形さん」でしかない。物語構成上の都合で、程よく「頭が悪く(行動の不合理性が)」設定されていて、自分と弟の将来を、まともに想像することもできない「15歳」としか描かれていないのである。

しかし、物語世界に「巻き込まれてしまっている観客」は、そうしたことが(これに限らず)「見えなくなっている」し「考えられなくなっている」。そして、しばしばそれは、物語から終ってもまだ、そこから醒められない「思考停止の呪縛」なのだ。

このように「主人公に感情移入し、作品世界に没入することで、そのスペクタクルから脳的刺激を受けるだけの、受け身の観客」たちは、作品に「(思考を必要とする)複雑な中身」を求めたりしないし、もとよりそんな作品には「思考に値する中身は、存在しない」。なぜならそれは、そうした要素の存在が、かえって「本能的な快楽刺激の受容」の妨げになるからである。

『天気の子』に、「本能的な快楽刺激の受容」の妨げとなる「思考的要素」が排除されているというのは、この作品には「隣人がいない」という点にも表れていよう。
ここで言う「隣人」とは、無論、単なる「近所に住んでいる人」という意味ではなく、「近いところにいる他者」という意味であり、「他者」とは「違った価値観を持った、一個の人間」であり「主人公(たち)の価値観を相対化する存在」という意味である。
つまり、『天気の子』に描かれた「主人公周辺の登場人物」のように「主人公を追認し(最終的には)全肯定する、ご都合主義的な(作者の)道具」ではなく、作者と主人公の「虚構の全能」を相対化する「外部の投影」としての存在である。

それは私が先ほど、陽菜について『冷静に考えれば、「15歳」の彼女が「弟と二人だけで生きていくことはできない」というくらいのことは、その年齢にもなればわかるはずだ(例えば、金銭的・手続き的に、弟を学校に通わせることが出来るだろうか)。多少の遺産があったとしても、マクドナルドでのアルバイト代だけで生きていけるほど世間は甘くないし、だからこそ彼女も「あやしい仕事」に手を出しかけたのである。それをたまたま、思い込みの激しい帆高が妨害したから良かったようなものの、あのままだったら、ただの「水商売」では済まず、いずれは金になる「売春」に走らざるを得なかったかも知れないし、その果てに悪い人間に捕まって「覚醒剤漬け」にされたかも知れない。弟と二人で生活を、などという「夢のような話」ではない「現実」が、あのままだったら、確実に待っていたのである。』と書いたような「外部の知」を持ち込んで、作品の「ご都合主義」を批判することで、作品の「強度」に貢献する存在、それが「隣人」であると言えよう。
こうした「外部の知」を持ち込んでもなお、ボロが出ない、破綻をきたさない作品こそが「本物の傑作」なのである。それこそが、「リアルな外部世界」と伍することのできる、「もう一つの完結した世界」であり得るのだ。

だが、『天気の子』が(新海誠監督が)やったのは、「隣人」を排除し「外部の知」から目を逸らして、自分一個の「自己愛的閉鎖世界に引き蘢って、そこで勝ち誇る」ことだけだった。

たしかに、こうした娯楽作品は「原始的な快感」をあたえてくれるし、そうした「現実逃避」も、時には必要であろう。私とて、娯楽作品が嫌いなわけでも、観ないわけでもない(例えば、アメコミ映画などは大好きである)。
だが、娯楽作品にも「出来不出来」はあるし、また「優れた娯楽作品」というものは「現実逃避」の具であるに止まらず、むしろ「現実」に生きる力を与えてくれる作品であることも少なくない。
「私は、この映画の主人公のように、特別な才能も力も運も無いけれど、しかし、彼のように生きようと努力することは出来るはずだ」と思わせてくれる「積極的・能動的な中身」がある。

ところが、新海誠の作品には、それがない。
デビュー作でも、そして最新作『天気の子』でも典型的に示されているとおり、そこに描かれているのは「大人はわかってくれない(世界は僕たちに冷淡だ)」的な「被害者意識」、「他者」に責任を転嫁して、自分を正当化しようとする「自己憐憫的な独善」でしかないのである。

たしかに、「思考する」ことを要求せず、ジェットコースターのように、単純に「刺激」を与えてくれるような作品とは、「楽しさ(快感)」とあたえてくれる作品だ。しかし、それには「思考に値する、中身が無い」ので、通常はそれを「すぐれた作品」とは評価しない。

「ハリウッド型ジェットコースタームービー」などと呼ばれる作品は、「娯楽」に徹した作品として、その「芸術性」が問われることなど滅多にないし、問うこと自体、ある意味では的外れだと考えられている。
それは、子供ウケの良い「味の濃い駄菓子」であり、「駄菓子には駄菓子なりの存在価値」があって、それを「訓練された舌(味覚)」を前提にした「高級菓子」と同列にあつかうのは、そもそもその「違いがわからない人」だけだ、ということになるからである。
だが、そういう「味覚オンチ」は少なくない。意外に、「訓練」されずに育った「子供舌」の持ち主は少なくないし、同じ意味で、複雑微妙な内容を味わいきれない「子供脳」の大人というのも少なくないのである。
そして、その証拠が、『天気の子』の大ヒットなのだ。

 ○ ○ ○

かつて日本で「一億総白痴化」ということが叫ばれた時代があった。
Wikipediaによるとこの言葉は『社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉』で『もともとは『週刊東京』1957年2月2日号』に掲載された、大宅の論評から生まれた言葉だそうだ。

この半世紀以上も前の時代、テレビが普及したことによって、「一億総白痴化」が危惧された。
そう危惧したのは、無論、大宅壮一に代表される「知識人(有識者)」であり、当時はまだ、情報や言論においては「知識人(占有)の時代」であったからこそ、テレビによる「情報の大衆化という、知の劣化」が危惧されたのであろう。
しかし、我々が直面している現在は、ネットの出現によって、情報や言論においても「知識人(有識者)」が抹殺された「超大衆化の時代(ポピュリズムの時代)」だと言えよう。もはや、私たちは「知識人(有識者)」の意見なんか気にせず、ネット上に「自分好みの意見」を見つけてきて、それで満足する時代なのである。

つまり「異論」は必要ないのだ。いや、「異論」など目にしたくはない。「私の価値観」を相対化するような「隣人」や「他者」の存在など、無いことにしたい。ただ「自分の価値観を肯定してくれるもの」だけに接していたいのだ。言い変えれば、「安全な自分の部屋に引き蘢っていたい」のである。
だから、たまに「知識人づらした、ウザい大人」が目に入いるテレビなどは視ない。情報に対して、選択的に接することの出来るネットの方が「気が休まる」のである。

そして、『天気の子』に典型される「新海誠作品」もまた、こういう「引きこもり」精神が生んだ「セカイ妄想」の具現化に他ならない。
だから、同じような願望(「嫌なものは視たくない」という願望。さらにそれをも通り越して「そんなものは存在しない」と思い込もうとする態度)を持っている現代人には、「新海誠作品」は最良の「自慰の具」なのであろう。

昨今「日本は凄い!」系の自慰的な書籍やテレビ番組が多くなったのも、同様に心性に由来するものなのであろう。今の日本人は、とにかく「自己肯定」したいのだ。「俺、サイコー!」と思いたいのである。

しかしそれは、本物の「自信」に発するものでないことは明らかであろう。
本来、日本人の美徳とは、他人に誉められても「いえ、そんなことはありません」と謙遜するような謙譲の美徳であり、しかしそこには本物の自信があった。わざわざ人様(他所様)に誉めてもらわなくても生きていられるという自負があったのである。
ところが、他人からの賞賛に謙遜してみせるどころか、露骨な「自画自賛」を恥じないのが、今の日本人なのだ。では、なぜそんな恥ずかしいことが出来るのかと言えば、それは多くの人が、それぞれの「自慰的なフィクション」に引き蘢っていて、外部の眼を排除しているからであろう。「人様から視れば、自慢話をする人間は、馬鹿にしか見えない」という「外部の視点」を喪失しているのだ。

しかしまた、だからこそ『天気の子』は大ヒットしたのだし、それに止まらず『天気の子』を「傑作だと思いたい人」が大勢いるのである。

だが、それは「『天気の子』という作品を、傑作だと評価している」と言うよりは、「私が共感する『天気の子』という作品が、傑作ではないはずがない(私の評価は正しいに決まっている=私に鑑賞眼が無いはずがない)」という、切実な「自己肯定願望」から出たものだと考えるのが、妥当なのではないだろうか。もしもそうではないとしたら、そういう人は、「異論」に耳を傾けることも出来るはずなのである。

いずれにしろ、このような意味で、『天気の子』に代表される「新海誠」作品の大ヒットは、「時代の病理」の反映だと言っても、あながち過言ではないはずだ。

そして、このように「時代の欲望に迎合しない、超然たる視点」こそが、批評的な「外部の視点」であり「大人の眼」だ。
それは「子供たちよ、物語の世界にひととき遊ぶのは良い。しかし、物語が閉じれば、またこの世界に帰って来なくてはいけない。君が生きる世界は、ここなのだから」という、帰還を促す言葉なのである。

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〈趣味の問題〉ではなく 一一Amazonレビュー:保坂和志『読書実録』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時32分7秒
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 〈趣味の問題〉ではなく


 Amazonレビュー:保坂和志『読書実録』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RULZ780BIY571


ひさしぶりに保坂和志を読んだ。デビュー作から順にというわけではないが、どうした理由でだったか、単行本刊行時に読んだ『季節の記憶』が抜群に面白かったので、そこから遡ってデビュー作や、前後の小説や評論を読んだのである。
当然のことながら、そのすべてが面白かったというわけではなかったが、評論の方にけっこう面白いものもあったため、小説も評論も初期の作品はたいがい読んだと思う。
その後、しばらく時間が開いてから読んだ『カンバセーション・ピース』が期待したほどには面白くなく、あの分厚さがかえって冗漫さを増したと感じたので、その後の新刊も小説をときどき購入してはいたものの、すべて積読の山に埋もれさせてしまった。

だから、今回、保坂和志を読んだのは、本当にひさしぶりのことだ。なぜ、ひさしぶりに読んだのかと言えば、最近知り合った、二十ほど歳下であろう友人に、保坂の新刊である本書を薦められたからである。
その彼が言うには、最近の保坂和志は、結構アグレッシブで、世間に物申したりしており、古いファンに疎まれたり見放されたりしていると言うのだ。それは面白い。
保坂和志がかつての保坂和志のままなら、いまさら読まなくてもいいのだが、あの保坂和志が変わった、しかもアグレッシブにというのであるから、これは一見の価値があると思って、友人に薦められるままに本書を手に取った、という次第である。

で、どうだったかと言えば、それなりに面白いことを書いているので、面白いことは面白いのだが、それらはいかにも保坂和志らしい意見であって、昔と変わったという印象はない。しかも、基本的には、同じことをネタを替えながら変奏するばかりなので、後半はやや飽きてきた。
まあ、作家は同じことしか書けないものだと言えば、なるほどそのとおりなのだが、同じことを書いても楽しませるのが作家の力量だとも言えるだろうから、やはり飽きさせるというのは、工夫や力量が足りないということになるだろう。

前述の友人も指摘しているとおり、保坂和志という人は、真っすぐに進むことが嫌いな人である。だから、蛇行したり、寄り道をしたり、裏に回ったり、薮に踏み込んでみたりもする。そして、目的地らしきものへの到達を避けて、数歩手前で意図的に立ち止まって見せたりもする。
そうしたこと自体は「変化球」なのだから、面白いに決まっているのだが、変化球ばかり投げていたら、いずれはバッターに「保坂ならきっと、ここはこう投げて(書いて)くるだろう」と手筋を読まれ、ヒットされてしまうというのも当然なのである。しかし、読者に先読みされ、それで退屈されたり飽きられるというのは、推理小説で読者にオチを見抜かれるのと同様、作家の負けである。
こう書くと、保坂は「読書は勝ち負けではない」と言うのかも知れないが、保坂自身が認めるとおり、小説に良し悪しや巧拙があるのだとしたら、読者に飽きられるようなものを書くというのは、作家として「悪し」であり「拙」であり「負け」だと言われても仕方あるまい。また、保坂の好きな「夢」とは、先読みさせない点(夢の文法)に魅力があり、それは文学だって同じで、そう簡単に読者に先読みされるようではダメなのである。
もちろん、私がすぐに飽きて退屈してしまったのは、私が、保坂和志という作家を、ある程度は読んできたからであり(つまり、初読の読者ではないからであり)、かつ「同じようなものを読むことに、喜びを感じるような読者」ではなかったからであろう(「ばっかり」読者ではないのだ)。私は保坂和志のような変化球投手が好きなのだが、同じ球種しか投げられないのでは、飽きないでいろと言う方が無理なのである。保坂だって、同じようなことばかり書いている「自己模倣」小説家なんて好きではないはずだ。

もっとも、保坂和志の「趣味」は、かなりハッキリしており偏っているので、同じようなものが好きと言えば、私よりは余程そうであろうとも思う。
私は「変化球」投手が好きだと言っても、だからと言って「豪速球」投手が嫌いなわけではないし「直球勝負」が嫌いなわけではない。いや、むしろ大好きである。平たく言えば、「変化球投手」も「豪速球投手」も好きだし、さらに欲を言えば「両方とも投げられる投手」が理想である。野球でもそうだが、直球が切れるからこそ変化球も生きるのだ。
だから、どっちにしろ、ワンパターンで飽きられるとか、すぐに眼が馴れてしまって球筋を読まれてしまうような投手というのは、変化球投手であろうが直球勝負の投手であろうが、それぞれの特質において「中途半端」でしかないのだ。変化球にしろ直球にしろ、眼が馴れるなんてことがないほどのものであってこそ、わざわざそう名乗る価値もある。すぐに打たれるような「変化球」投手や「直球勝負」投手では、そもそも意味がないのだ。

そんなわけで、保坂和志に期待したいのは、「直球は嫌い」とか「小説は理屈じゃない」とか、それはそのとおりで良い、その「理屈」もありだと、私は、どっちの立場も広く認めるのだが、しかしそれはどっちの立場であろうと「面白くなければ話にならない」「退屈させるようでは話にならない」ということでもあるので、自分の好みや趣味が生きるようにするためにも、ライバルである「直球」や「理屈」の力を、よく知りもしないで侮ることは止した方がいいと思う。
程度の低い敵を設定して、それに比べれば、こっちのほうが断然面白いとか、こっちこそが文学である、などと言っても、それは偏ったものしか読んでいない読者か、ろくなものを読んでいない読者しか、納得させることは出来ない。

世界は広いのだ。そして「文学は何でもあり」なのである。しかし、それは「良し悪しや巧拙など無い」とか「傑作も駄作もない」つまり「すべては、趣味の問題でしかない」ということでは、無論ない。
読者の方に「鑑賞能力の限界」はあるだろうが、作品の方は無限に生み出されているのだから、いろんなタイプの傑作があるのだという現実は、認めて然るべきだろう。たとえ、自分には「わからないもの」があったとしても、である。だって、神さまじゃあるまいし、「わからないもの」は当然あるのだから。

保坂自身も、自分の「趣味の偏り」や「能力の限界」について、まったく無自覚なわけではなく、「昔から、こうだった」とか「三島由紀夫の某作品を読むのが苦痛だった」とか「ストーリ性豊かな作品を読むのはつらい」とか言ったことを書いてはいる。
しかし、それがそのまま「私の趣味じゃない」ということで無条件に肯定されており、「自分には見えない世界がある=自分には感受し得ない美がある」という事実を、本当のところでは、頑なに認めてはいない。認めたくないから、自分好みの作家を掻き集めてきて、その「権威」によって、自分の「趣味」を権威づけているだけなのである。だからこそ、保坂和志の「変化球」は弱いのだ。飽きが来るのである。

そんなものは「嫌いだ」とか「書きたくない」とか言うだけではなく、「好きになれない(感受性がない)」とか「書けない」と言い変えることも、保坂和志の場合には必要なのだと思う。
もちろん、賢い保坂は先回りをして、「こうしか生きられない」という表現は、言葉の規定力(「書かないのではなく書けないのだ=表現されなかったものは、そもそも存在していない」という規定性)に縛られて、潜在力の可能性を「無いもの」とするものだ、と批判しているけれども、当然のことながら、小説家としての潜在力なら、小説家では無い「すべての人」も持っているのだから、それは当たり前のこととしてひとまず置いておいて、「小説家のことは小説家しかわからない」という規定によって規定されている「小説家」である保坂和志には、潜在力を発揮してみせて欲しいのである。
果たしてこれは「無理な注文」なのだろうか。

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プロテスタントの〈ペルソナ〉:佐藤優批判 一amazonレビュー:佐藤優『日本国家の神髄 禁書『国体の本義』を読み解く』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時14分51秒
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 プロテスタントの〈ペルソナ〉:佐藤優批判


amazonレビュー:佐藤優『日本国家の神髄 ~禁書『国体の本義』を読み解く~』
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本書は、いくつかの重大な問題点と欠点をはらむ書物だ。だから、とうてい高く評価することはできない。

だが、先に評価できる点を指摘しておこう。
戦後に占領軍から、戦前の天皇制国家イデオロギーの解説書として禁書あつかいにされて以来、戦後民主主義には馴染まない禁断の書として読まれなくなってしまった『国体の本義』を、全文紹介した、という本書の功績は極めて大きい。
それは、『国体の本義』という「日本の国体」解説書が、どのようなものであったかを、「客観的資料」として提示し、その実態を広く知らしめたという点においての価値である。
私たちは今後、『国体の本義』を、又聞き情報や漠然としたイメージで語るのではなく、手軽に原テキストに照らして語ることができるようになったのだ。

したがって、これは『国体の本義』の「中身が素晴らしい」という評価ではない。あくまでも、本書の功績は「資料提示」としての価値であって、「資料=『国体の本義』」そのものの中身の問題ではないのである。
私たちは今後、『国体の本義』という本の「幻想」に脅かされる必要はなくなった。隠されているからこそ、すごいことが書かれていたのではないか、などという過大な想像を無駄に膨らませなくてもよくなったのだ。いまや『国体の本義』は、佐藤優の評価とは違って、「幽霊の正体見たり枯れ雄花」だと評価することが、容易にできるようになったのである。

では、『国体の本義』の正体とは何か。
簡単なことである。
『国体の本義』とは、天皇家は「高天原から降臨した神(アマツカミ)の系譜」だとか「アマテラスオオミカミ直系の万世一系の家系」だとは「だから、天皇は現御神(アキツキカミ)」だとかいった、世界のどこにでもある「勝者の(捏造した)歴史フィクション」としての「政治神話」を基盤とした、日本は「天皇を長とする家族国家(=国体)」だという「奇麗事」によって、国民を自主的に国家に従属させようとした「政治イデオロギーの書」にすぎない、ということだ。

では、佐藤優による本書『日本国家の神髄 ~禁書『国体の本義』を読み解く~』の問題点とは何か。つまり、著者・佐藤優の問題点とは何か、というと、おおよそ次のようなことになる。

(1)「日本の国体」である「天皇を長とする家族国家」というのが、「歴史的事実」ではなく、「信仰的事実(信じる人の内心の事実)」でしかないと理解していながら、それを「日本(国民全体)の国体」であると認め、強調してしまっている点。
(2)「読み解く」という立場から、過剰に『国体の本義』の著者の立場に、擬似的に、自分の立場を寄せて書いている点。
(3)意図的な「迎合」で、保守層をコントロールできるという「慢心」に基づいて、演技的な「外交官的綺語」を弄し、結局はそちらに引き摺られている部分について、十分に自覚的ではない、という点。

この3点について、順に説明していこう。

まず(1)についてだが、『国体の本義』が語っているのは、前記のとおり「神話というフィクションに基づく奇麗事」でしかない。つまり、その奇麗事を支える「現実的な根拠」が無い。したがって、そこで語られる「奇麗事」は、現実にはそのまま実現しない(通用しない)。そのため、その「奇麗事」が「建前」にしかならず、その「奇麗事」を語る国家の側(統治者側)の人間は、おのずと「本音と建前」を使い分けるようになる。つまり、国民に「嘘をつく」ようになる。その結果が、「神国日本の惨めな敗戦」という「あり得ないはずの現実」の招来であった。

こんな惨めな結果(現実)を招いたのは、国民を騙した権力側の人間が悪い、というのは無論だが、そもそも「日本は神の国」だとか「天皇は神の末裔で、生ける神」だとかいった、馬鹿馬鹿しいほど「自己中心的かつ自己満足な寝言」を信じた国民も、大いに(頭が)悪いのである。
当然、そんな馬鹿馬鹿しい絵空事を信じなかった人も大勢いたし、今だって、そんな馬鹿馬鹿しい絵空事を「国体」だなどともっともらしく言われたって信じない、まともな知性を持った人は大勢いる。

それなのに、佐藤は本書において、信じる人も信じない人も引っ括めて、「神である天皇を冠する家族国家という国体」という「ご都合主義的フィクション」を、「信仰的事実」の名のもとに、「日本の国体だ」と断じているのだから、そんなものを信じていない人間にとっては、いい迷惑であり「お前の信仰を、勝手に他人にまで押しつけるな」ということにしかならないのだ。

(2)について。佐藤優は、決して馬鹿ではない。とにかく博識だし、外交官としてロシアの政治家や外交官と渡り合ってきた人なのだから、現実というものも、人並み以上に分かっているはずだ。だからこそ、本書にも書かれているように「右の言説は、右でしか崩せない」と言った考えを持っている。
要は、いくら理屈を言ったところで、論理的な正しさだけでは、他人の確信を覆すことはできない。それをやりたいと思うのなら、まずは相手の懐に入り、信頼を勝ち得た上で、相手の理屈を逆手にとることで「納得」させるしかない、という、いかにも「外交官」的な理屈の持ち主なのである。

当然、本書でも、佐藤は「私は右翼である」と断言する。読者の中には「あれっ、佐藤優って、どっちかと言えば、左翼リベラルじゃなかったっけ?」と思う人も少なくないはずだ。その認識は、基本的に正しい。
ただし、「左翼リベラル」だって人間なのだから、何から何まで「すべて左翼リベラル的思考」の持ち主だというようなことではあり得ない。基本的に「左翼リベラル」で、そう自称し他称される人であっても、「右翼・保守」的な部分は必ずある。それが人間なのだ。
だから、佐藤優が「私は右翼である」と言ったとしても、あながちそれは「嘘ではない」。正確に言えば「完全な嘘ではない=一面の真実である=一面の真実に過ぎない」ということなのだ。
まして、本書の佐藤には「右翼の懐に入って、彼らの思想をより良き方向に教導する」という政治的な大目的があるのだから、「私は保守・右翼である」という断言が少々ハッタリがましいものだとしても、「自分は誤解されているところがあるかも知れないけど、本質的には右翼であり保守なんですよ。だって、日本を守りたいと思っている人間ですからね。その意味では、あなたたちの仲間なのです」とアピールするのも、過剰なほどに「国体」や『国体の本義』を持ち上げてみせるのも、すべて「任務遂行」のためには必要なことなのである。なにしろ「外交官」なんだから、祖国のためには「嘘も方便」なのだ。

つまり、佐藤優が、右翼が喜ぶように「国体」を全肯定したり、『国体の本義』を持ち上げてみせるのは、そうすることで、「今の保守や右翼の偏狭さ(排外主義的復古趣味)」という問題点を是正するためなのである。「天皇を冠する日本の伝統とは、本来、外部に関して寛容であり、むしろそれを積極的に消化吸収する柔軟性にこそある(のだから、愚かな排外主義や、先祖帰り的な復古趣味は、大間違いである)」ということを言いたいのである。
無知で愚かな「今の保守や右翼の偏狭さ(排外主義的復興趣味)」を是正できるのであれば、「国体」を承認し、『国体の本義』を長所を評価することくらい、なんら怖れるに足らぬ、なにしろ「馬鹿と鋏は使いよう」なのだから、というのが、したたかな「外交官的知」に自負を持つ、佐藤優の「本音」なのである。

(3)について。このように、佐藤優は「国を守る為ならば、人を騙すことも辞さない」人であり、まして「完全な嘘はついていない。ある意味では本音を語っている、とも言えること、しか語っていない」というように、自身をメタ的に多層化して、自他に対して、自己を正当化してもいる。これは、他人を騙すだけではなく、まずは自分を騙すという「騙しの高等テクニック」なのだ。
言うまでもないことだが、どんな嘘つきでも、無意識のうちに「やましさ」を感じているもので、それを感じないのは「サイコパス」のような「人格的な部分欠損者」であると言っても良い。そして、佐藤は決して「サイコパス」ではないので、嘘をつくにしても当然どこかで「やましさ」を感じないではいられない。しかし、鋭敏な人間というのは、その隠された「やましさ」を鋭く嗅ぎつけるもので「こいつは嘘をついている」と直観してしまうのだ。だから、そういう人間にも「本音」がバレないようにするには、一時的に「本音」を消してしまうと良い。存在しないものを、他人に感知されることはないからである。そして、この「一時的な本音の消去」という技法こそが「自己暗示」なのである。「私は心の底から、それを信じている」と自分に言い聞かせて、一時的に「他人格者(他の思想の持ち主)」になりすますのである。これは優れた外交官として「インテリジェンス(諜報活動)」に従事していた佐藤なら、とうぜん備えている技能なのだ。

そして佐藤が、このような「自己暗示」に並外れて長けているというのは、彼が「プロテスタントのキリスト教徒」であることが、大きく関係している。
と言うのも、言うまでもなく、「現実主義的理性」と「キリスト教の信仰的教義(キリストの復活、三位一体の神など)」は、明らかに「矛盾」するのだが、これを両立させている人というのは、基本的に「自己欺瞞の術に長けた人」でなければならないからである。

例えば、キリスト教と言っても、カトリックの場合だと「神と信者である私の間には、教会が仲保者として存在する」ために「教会の指導に反する、嘘はつけない(教会が認めれば、それは神が認めたということだから、嘘もつける)」ということになるのだが、プロテスタントの場合は「神と信者である私」は直結しており、その間に入るものは無い。「信者である私」は、ただ「(自分の考える)神」に忠実でありさえすれば良いのだから、その「忠実さ」には、解釈の余地が無限に存在する。だからこそ、カトリックとは違い、プロテスタント教会は際限なく分裂するのだし、それは「誤り」ではなく、むしろ「信仰的誠実さ」の表れということにもなるのである。

したがって、人間として生きる本質の部分である「信仰」において、このように「現実主義的理性」と「キリスト教の信仰的教義(キリストの復活、三位一体の神など)」は「矛盾しない」という過酷な論理的自己鍛錬を重ねてきた佐藤優にとっては、「左翼リベラルであること」と「保守主義者(右翼)であること」は、当然「矛盾しない」ということになる。
つまり、佐藤は「神と私自身」に対し、しごく誠実に「私は、ある時には左翼リベラルであり、別のある時には右翼であり保守である。これはなんら矛盾ではないし、嘘をついているわけではない」ということになるのだ。

しかし、問題は、それは「佐藤優の内的論理」でしかなく、平たく言えば「個人的都合」でしかない、という点だ。
つまり、現実社会のおいて、他者に対して、その「何とでも理屈はつけられる」という態度で、その場その場の理屈を平然と口にするというのは、他者にとっては「不誠実きわまりない言葉」であり「態度」でしかないということになるし、当然こちらの方が、健康的な考え方なのだ。つまり、佐藤優の論理は「信仰的に病んだロジック」だと呼んで然るべきものなのである。
だからこそ、最近の佐藤は、本書のような自著について、


『私はいろんな形で、イタズラみたいな仕掛けの本を書いています』
 (『君たちが知っておくべきこと 未来のエリートたちとの対話』より)

と書いて、自己正当化をしている。
あれは「イタズラ」みたいなものであり、決して「相手を騙そうとか、裏切ろうとか、傷つけようとかしたものではないんですよ」という、言い訳なのだ。
(※ 本書『日本国家の真髄』は、2009年初刊、2014年新書化。『君たちが知っておくべきこと』は、2016年初刊、2019年文庫化)

しかし、相手が誰であれ、無知で愚かな「右翼であれ、左翼であれ」、佐藤優のこの「言動」は批判されてしかるべきである。それは、佐藤自身の想定する「我が神」という「不在の存在」が許しても、血肉を備えた人間の間では許されてはならない「非倫理」なのだ。

例えば、本書において佐藤優は、「国体」論者として、次のように書いている。


『 神武天皇は、大和(奈良)の橿原に都を定められた。天業の回復である。この出来事によって高天原の神々の精神が、現実の歴史に形をあらわすようになった。このときを基点として皇紀が現在で二六六九年続いているのである。われわれはこの現実を感謝して受けとめなければならない。』
(本書新書判、P187)

神武天皇は、天皇家の万世一系を正当化するために創作された、架空の人物である。しかし、明治政府は、その「政治的フィクション」を補強するために、巨費を投じて橿原神宮を創建した。
しかし、そのために、もともとその地に住んでいた、被差別民を含む多くの貧しい人たちの部落が、神武天皇を祀る土地に「ふさわしくない」「見苦しい」をいう理由で、強制的に排除されたという歴史が、厳然と存在する。

そして佐藤は、そんな人たちもすべて引っ括めて、「天皇を長とする家族国家」という「国体」が、日本人全体のものであり、日本国民ならば『われわれはこの現実を感謝して受けとめなければならない。』と言うのだ。
ならば、沖縄の「辺野古の基地建設」のための埋め立ても『われわれはこの現実を感謝して受けとめなければならない。』ということにはなるまいか?

無論、佐藤は「そのつもりはない」と言うだろうが、しかし「橿原の地」に対する、この「無神経な記述」を、保守・右翼を気取って書いたからには、その責任をとってから、「そのつもりはなかった」と言い訳すべきではないだろうか。

これは「上手の手から水が漏る」というような言葉で済まされる問題ではない。
これは、佐藤が、他人をコントロールできるという「慢心」において、自己の「他者に対する不誠実」を自己正当化したあげくの、必然的な過ちなのである。

佐藤の「理想や現実主義」を否定しようとは思わない。むしろ、それを支持するからこそ、その「負の面(犠牲)を見失うな」「己が力量に酔うて、道を誤るな」と言いたいのである。

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〈可愛い〉は最強…。一一Amazonレビュー:遠藤達哉『SPY ×FAMILY(2)』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時10分33秒
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 〈可愛い〉は最強…。

 Amazonレビュー:遠藤達哉『SPY ×FAMILY(2)』
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これだけ評判も高く、よく売れている作品を、いまさら後追いで褒めるというのは、批評家を自認する者のすることではない。そう考えて、第1巻ではレビューを控えたのだが、今回、第2巻を読み、少し気づいたことがあったので、手短に書かせていただくことにした。

本作では、とにかくアーニャが可愛い。本作のファンとは、アーニャの魅力にやられた人が大半なのではないか? かく言う私自身そうなのだが、今回気づいたのは、〈可愛い〉のは、アーニャひとりではなく、「ちち」「はは」は無論、主な登場人物が全員〈可愛い〉ということだ。

作中人物の魅力というのは、当然のことながら、なにも〈可愛い〉に限られるものではない。〈カッコイイ〉でも〈シブい〉でも〈クール〉でも良いのだが、本作に関しては、全員〈可愛い〉のだ。

〈可愛い〉が最強だというのは、よく言われることだが、しかし、なぜ〈可愛い〉が最強なのだろうか。
それはたぶん、頭を使わなくてもいいからだろう。

様々にある魅力は、しかしたいがいの場合、一定の想像力や理解や共感といった知的作業を、無意識にではあれ行った上でのものなのだが、しかし〈可愛い〉という生理学的反応は、そうした知性を介するものではなく、種を存続させるという目的において、生物にとって、最も本源的かつ直接的なものなのだ。だから、強い。迷いがない。
それは、いちばん簡単に押せる脳内スイッチであり、そこを押されれば、否応なく快楽ホルモンが脳内でドピュドピュ放出される。
そこで読者は、脳内麻薬によって、あっさりと「可愛い!」そして「守りたい」と反応させられて、嫌でも(?)本作を褒めないではいられなくなってしまうのだ。
つまり、〈可愛い〉は、最強の魔力であり、作者はそれを操るのが得意な魔術師なのだと言えよう。

悔しいが、〈可愛い〉の魔力には抗えない。
これが私の、ささやかな抵抗である。

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〈フランケンシュタインの怪物〉的エセ宗教 一一Amazonレビュー:村上重義『国家神道』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時09分11秒
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 〈フランケンシュタインの怪物〉的エセ宗教

 Amazonレビュー:村上重義『国家神道』
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名著中の名著であり、すでに古典である。1970年の初刊でありながら、このような「学術書」が、半世紀後の今も新刊書店で売られ、読み継がれているというのは、生半なことではない。

本書についてのAmazonレビューを見てもわかるとおり、本書を高く評価するレビュアーであっても、本書の並外れた「歯ごたえ」に言及せねばならぬほど、本書の充実度は並外れている。
当今のごとく、新書というのは「読みやすい学術入門書」だと思われている感覚からすると、この厚くもない230ページほどの本には、今どきの新書の10冊分くらいの内容が、ぎゅっと凝縮されており、「一章一章が」と言うよりも「一節一節が」数冊の専門書の対象になるような中身を、簡潔に語っているのだ。

当然、まともに学術書を読んだことのない人には、ほとんど頭に入って来ないであろう内容である。つまり本書は、ある程度の予備知識があってこそ、それなりに読み解けるのであって、それがない人(日本の宗教史初心者)には次々と専門用語や聞き慣れない言葉が、目の前を流れて行くだけ、といったことにしかならないだろう。
したがって、否定的評価をしている人というのは、まず間違いなく「理解できなかった」か「イデオロギー的に理解しようとしなかった」かの、いずれかだと見て間違いはない。
なにしろ、あの松岡正剛ですら、初めて本書に接した若き日には、その織り込まれた意味の重みを、十分に咀嚼し得なかったと語るほどなのだから、政治イデオロギーの「左右」を問題としているようなレベルの読者に、本書が読み切れるわけなどないのである。

 ○ ○ ○

本書は、明治政府によって創作され太平洋戦争の敗戦によって廃止されるまでの約80年間、日本国民と周辺諸国民に対し猛威を振るった「政治イデオロギーとしての国家神道」について、そのベースとなった「宗教としての神道」の誕生から、順序だてて書かれた「基本書」だ。

「国家神道」の政治性とその問題点については、日本の近代史を多少なりとも齧った者であれば、おおよそのところは知っているだろう。
しかし、「神道」がどのようなものなのかというのは、宗教学の範疇の話であり、また、そのかなり複雑な形成経緯からしても、「ほとんどの日本人は知らない」と断じても良い。
「神道」というのは、もともと他の宗教と同様に「あらゆるものに霊が宿る」と感じるアニミズム的なものに発して、徐々に多様な内容を含む民俗宗教として発展した後、外来の宗教や思想(仏教・儒教等)と習合して(入り交じって)、どんどん変貌を遂げたいったもの(概念運動体)で、「神道の基本形」といったものは、もとより「存在してはいない」のだ。
そしてそれが、キリスト教やユダヤ教、イスラム教といった「偶像崇拝否定」の一神教とは大きく違った特徴であり、「神道」というものを分かりにくくしている原因なのである。

言い換えれば、「要素としての神道的なもの」は存在していても、「正統神道・純粋神道」というようなものは存在しないのである。
神道は、その時代時代に、いろいろな思想や宗教と、さまざまな必要に応じて、習合し変形生成されて、形を変えながら生き延びて来た「ハイブリット宗教」なのだと言えよう。

このような「宗教として神道の、宗教的異質性」は、ある意味では、いかにも「日本人的なもの」だと言えるだろう。


『日本人の発想の根底には、人間の意思よりも物事のなりゆき、筋道や道理よりもその場の勢いを重んじる傾向がある、(※ 本居宣長に学ぶことで)そう丸山は考えていたようだ。言ってみれば、主体性が乏しいということだ。その主体性の乏しさが政治の場で作用すると、政治的な無責任がはびこるようになる。丸山が日本ファシズムと名づけた戦時中の全体主義的な体制は、そうした無責任が生み出したものなのだ。そしてこの無責任さをもたらした根本的な要因こそ、なりゆきやいきほひを尊重する日本人の思考の枠組みなのだ。その思考の枠組みを丸山は歴史意識の古層と名づけ、これが記紀の時代から今日までの、日本人の思考を制約してきた、そう考えるのである。』
 (引地博信「つぎつぎとなりゆくいきほひ:丸山真男「歴史意識の古層」」)

つまり、「神道」とは「つぎつぎとなりゆくいきほひ」であって、通時的には「明確な輪郭や実態をもたない、融通無碍な概念」でしかないのである。


『ことほどさように丸山の日本人論は、読む者の気を滅入らせるほど否定的な体のものだ、といいたくなるところだ。丸山の言い分に一理あるとすれば、日本人には真の保守主義も、また理想主義も期待できないことになる。過去を尊重しないでは、保守主義などありえようはずがなく、またユートピアを考え出す想像力に欠けていては、理想は語れないからだ。』(同上)

厳密に言えば、遡るべき「原型」としての「純粋神道」といったものは、歴史的には存在せず、当然、保守すべき「伝統形式」や「理想」もまた、どこにも存在していない、ということになる。
したがって、もしもそれを、さも存在するもののごとく語る人がいたとすれば、その人の語る「神道的伝統や理想」とは、恣意的に選択された(切り採られた)「私的な神道概念」でしかない、ということになるのだ。

ともあれ、こうした「変形変態をくりかえす宗教としての神道」の歴史にとって、明治政府の政治的意図による「脱構築的な政治的再創造」は、日本の歴史において前例を見ない、徹底的な「宗教の改造」であった。
それは「神道」というものが、歴史の過程で変化してきたった中でも保存されてきた、ある種の「主体性」すら、日本の近代化と帝国化を意図する明治政府という「政治権力(世俗権力)」によって、いったんは完全に解体され、要素還元されて、政治的に不要不都合な部分は捨て去られ、都合の良い部分だけをつぎはぎにしてでっち上げられた、宗教としては「異形」と呼んでいい「政治的な人造宗教」だったと言えるのである。


『 だいたいこのあたりで、いったい国家神道がどういうものであろうとしたのか、実際にはどのように機能したのか、おおかたのところはほぼ見当がついただろうと思う。古来の神祇感覚とはかなり異なった「惟神の大道」が、資本主義国家の国体として顕示されたのだ。それが近代国家のエトノスになっていったのだ。
 これは奇蹟であるようにも思える。こんな荒唐無稽が近代国家に確立したことは、いまではとても考えられないことだ。しかしよくよくふりかえってみると、キリスト教による国家というものも、つねにこのような奇蹟をはたそうとしてきたわけである。国家が価値観を表明するときは、どんな国家であれ、その長きにわたる歴史の紆余曲折の経緯から勝手なロジックを取り出して磨きあげるものなのだ。』
 (『松岡正剛の千夜一冊』1190夜「村上芳重『国家神道』」)

本書で、村上重義が「国家神道」とは、近代において政治的にでっち上げられた「政治的イデオロギー装置」であって「歪められた(不健康で、自立性を欠いた)宗教」である点を強調しているのは、宗教学者として極めて自然な態度だと言えるだろう。
村上は、決して「宗教」そのものを否定してはいないし、当然「宗教としての神道」も否定してはいない。村上が強く否定するのは「時と場合に応じて、宗教性と非宗教的習俗性のダブルスタンダードを使い分ける、政治的なエセ宗教」としての「国家神道」であり、残念ながら、私たちが現在目にしている「神道」の多くは、そんな「国家神道の残党」なのである。

具体的に言えば、「神社本庁」とは「国家神道の栄華よ、もう一度」と狙う「宗教政治屋」の組織であり、だからこそ「日本会議」や「ネット右翼的保守」などとも容易に結びつき、神宿る国土を汚す「原発政策推進与党」を支持したりもできるのだ。
彼らにとっては、「政治より信仰」ではなく、「政治の為の、道具としての宗教」でしかないというのは、彼らが「宗教としての神道」の、正統な末裔(血統)ではないという、何よりの証拠なのである。

ちなみに、今にいたる主流派の「神道(神社神道および皇室神道)」において、その「教義」や「儀式」が、明治以降に政治的に捏造されただけではなく、私たちが「日本を代表する、歴史ある神社」として疑いもしない有名神社の多くが、じつは明治以降に「政治的意図を持って創建された、政治的宗教施設」であるという事実を、最後に本書から紹介しておこう。


『 国家神道のもとで、政府は多数の神社を新たに創建した。国家神道は、一九世紀なかばまでに成立していた多様な系統の神社を、天皇崇拝を主軸に再編成したが、もとより国家神道の思想に適合する神社はきわめて少なかったから、まず第一に、伊勢神宮をはじめ神社そのものの内容を人為的に改変しなければならなかった。この神社の改変と並行して、国家権力は、国家神道の思想に立つ神社をつぎつぎに創建して、国家神道の既成事実をつくりあげた。こうして、明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間に、神社神道は歴史的事実とは異質な新たな要素を加えることになった。これらの創建神社の主力をなす少数の大神社は、全神社の首座を占める有力な地位をあたえられた。新しい国家宗教には、その教義に見合う新しい宗教施設が必要であったが、国家はそれらの宗教施設を、形式のうえでは可能な限り古く装い、神社の伝統との断絶を意図的に埋める苦心を払わなければならなかった。
 天皇制下の創建神社には、数は少ないが、極めて社格の高い有力神社があって、国家神道の教義を代表していた。これらの神社は、国家権力による神社創建のねらいを示すものであり、大別して、つぎの四系統に分けることができる。(一)近代天皇制国家のための戦没者を祀る神社(靖国神社、招魂社・護国神社) (二)南北朝時代の南朝方「忠臣」を祀る神社(湊川神社、阿部野神社等) (三)天皇、皇族を祀る神社(橿原神宮、平安神宮、明治神宮等) (四)植民地、占領地に創建された神社(朝鮮神宮、建国神廟、昭南神社等)。』
(P182~183)

私たちが知っている、有名な、あの神社もこの神社も、そのほとんどすべてが「政治的意図によって、近代になってから作られた、疑似伝統的な神社」なのだ。
多くの日本国民は、その事実を今も知らないまま、「神代の時代から続くもの」ででもあるかのように「ありがたがって(思い違いしたまま)」お参りしているのである。

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ネトウヨ的〈愛国心発揚〉ミステリ 一一Amazonレビュー:門井慶喜『定価のない本』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時02分57秒
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 ネトウヨ的〈愛国心発揚〉ミステリ

 Amazonレビュー:門井慶喜『定価のない本』
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酷い駄作である。単なる「駄作」ならまだいいが、中身が積極的に「酷い」のだ。
きっとこういうものでも、ミステリしか読まない(あるいはエンタメ小説しか読まない)人(含む編集者)なら楽しめるのかも知れないが、「日本の歴史」をまともに勉強したことがある人にとっては、その軽薄な「愛国史観」あるいは「自慰史観」が、あまりに「馬鹿馬鹿しい」としか映らないような、敗戦国小説家の「負け惜しみ小説」でしかない。
著者は、ネット右翼並みに「加害者意識」に乏しく、その分「被害者意識」が強いため、同じような心性の下に書かれた、江藤淳の『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と言語空間』あたりの影響を受けて、本作を構想したのかもしれないが、そんな著者だからこそ逆に、現今の自主規制的な言葉の不自由については、完全に鈍感なのであろうし、またそのくらいな方が、エンタメ作家としては、読者にも理解されやすいのかも知れない。

思想史家の白井聡に『永続敗戦論』があるが、なぜ日本は戦後も「敗戦」し続けるのかと言えば、「敗戦」という現実を直視せず、それを頭の中でフィクション的に否認し続けてきたからにほかならない。
坂口安吾が『堕落論』で「生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救いうる便利な近道がありうるだろうか」と書いたことの意味を、まったく理解していない通俗小説家が、ここにもいたのである。

本作は、ミステリとしても、およそ「論理性」の欠片もない作品であり、「密室殺人」めいた事件も発生するが、その謎解きは、仮説も真相も、「非論理的」を通り越して「非現実的」なものでしかない。
いちおう「ミステリ」の体裁を採っているので、ネタばらしは控えておくが、その酷さは、例えば「古本屋が、本の重さを知らない」というくらいの「非常識」に立脚した、馬鹿馬鹿しいものでしかないのだ。

そして何よりこの作品には、エセ愛国主義者にありがちな「権威(依存)主義」が、はっきりと見て取れる。
つまり「日本の歴史」とか「古典」や「和本」とか「神田神保町の古書肆街」とか「太宰治」といった、中身を問う前に、ひとまず多くの人がその「名称」だけで畏れ入ってしまうようなものの「権威」に、依存し切って構成された作品なのだ。

本書は「神田神保町の古本屋の心意気」みたいなことを描いて、それへのオマージュを捧げたつもりなのかも知れないが、こんな「歴史的無知」に支えられた荒唐無稽な作品でオマージュを捧げられても、それを喜ぶのは「日本の歴史」に無知な古本屋に限られるだろう。言い変えれば、社会学書や思想・哲学書を専門とするような古本屋なら、あるいは「教養ある古本屋」なら、怒り心頭に発して、本書を地面に叩き付けること、必定である。
だから本書は、「神田神保町の古書肆街」の、「文芸書」を扱う古本屋さんだけではなく、それ以外の各種専門書を扱う古本屋さんにも、ぜひ読んで欲しいと思う。そして、神保町の古本屋の皆さんが知らないうちに、「神田神保町の古書肆街」の「名前」が、このような「歴史修正主義的なフィクション」に利用されているという現実を知っていただきたい。

こんな「現実には負けた者が、敵を馬鹿で卑劣に描くことで、ありもしなかった勝利を仮構して、自己慰撫をするようなフィクション」というのは、「天皇家は、アマテラスオオミカミから連綿とつづく万世一系の家系である」というフィクション(政治神話)と同様の、哀れな「大衆向け現実逃避の具」でしかないのである。

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【付記】
本書と同系統の歴史フィクションについて、以前、amazonレビューを書いているので、ついでに紹介しておきたい。本書を楽しめる読者にはオススメである。

・ 伊東潤『真実の航跡』(集英社) レビュー:〈百田尚樹系〉戦犯裁判小説

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【追記】(2019.10.8)

本書について「kumatarou96」氏が興味深いレビューを書かれていたので、下のコメントを書かせていただきました。
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今こそが「危機」の時代かも知れないというご意見に、同意します。
本を読まないというのは、本当に危険なことだからです。

というのも、本を読まない人であればこそ尚更、読書の必要性なんてまったく感じられないので、「読書の必要性などない」ということの方が「真理」であり「現実」のようにしか見えない。なにしろ「無知」なのだから、彼らがそう感じるのも無理のない話だとも言えましょう。

言い換えるならばこれは、読書のする者だけが「無知の危険性」を知っている、ということになりましょう。
何も知らない人は、自分が知らないということも知らないし、それがいかに自分の認識を誤らせているかも知らないので、なんの悪気もなく、自信満々に、誤った現実認識を語ってしまう。

例えば、ミステリをあまり読んでいない人が、新作ミステリを読んで、そのトリックに驚嘆した。「こんなの読んだことない。凄いトリックだ!」と感動して、その感動のままに、amazonレビューを書いたりする。曰く「前代未聞の大トリック! 貴方もきっと、騙されます」。

しかし、すれっからしのミステリ読みには、こうしたナイーブな感想は、ただただ鼻白ませれるものでしかありません。
なぜなら「そのトリックは、百年も前に、海外の某作家によって案出されたものであり、その後、同じトリックを使った作品は、内外に山ほどあるんだけどなあ」と知っているからです。

つまり、その初心者さんは、嘘をついているわけではなく、正直な感想を書いただけなのですが、いかんせん「無知」だったが故に「前代未聞」だなどという誤った情報を、世間に撒き散らしてしまった。悪気は無かったのですが、やったことはそういうことです。
だから、彼に罪があるとしたら、それは自分の「無知」を疑うことをしなかった、ということでしょう。

しかし、こうした「無知」を指摘されて、それを素直に認められる人というのは、めったにいません。
と言うのも、読書家というのは、小学生から老人まで、みんな、読書家としての自負を持っているからです。

私が案出した格言に「本を読むほどの人間なら、みんな自分が賢いと思っている」というのがあるのですが、これの意味するところは、そういうことです。
客観的には、偏頗な知識しか持っていなくても、自分が興味を持つジャンルについて、ある程度の知識を持っていれば、もう「 ひとかどの知識人」になったつもりになってしまう。

しかし、言うまでもなく、世界は広く、書物は無限に存在し、一人の人間が生涯で読める本の冊数とは、たかだか1万冊にも及ばない。
私は、あるミステリマニアのサークルに昔から所属してて、そこには「ミステリの鬼」なんて言われる会員がいますし、実際、翻訳だけでは足りず、原書まで読んでいて、いったいこの人はどのくらい読んでいるんだと圧倒されるような人が何人もいます。
しかし、当然のことながら、そういう人は、他のジャンルについてはそれほど読んでいない、と言うか、読めるはずがないのです。時間は限られているのですからね。

つまり、いろんなジャンルをあれもこれも読んでいる人ほど、いかに本が読めないものかというのをよく知っています。そして否応なく、自分の限界と無知に向きあわざるを得なくなる。
しかしまた、そんな人が本当に「無知」なのかと言えば、そうではないでしょう。広く世界全体を見渡せるからこそ、自分の「無知」に気づけるのであって、自分の狭い部屋の中が世界のすべてだと思い込んでいる人(井の中の蛙)の「全能感」の方が、よほど「無知」の名にふさわしいのです。

エーコは、私も好きな作家です。『薔薇の名前』だけではなく、無理をして記号論の本を読んだりもしましたが、エーコもまた「知への渇仰」に生きた人だと言えるでしょう。
そして、エーコにも『永遠のファシズム』などの、危機意識を語った本がいくつもあります。

『薔薇の名前』と、アリストテレスの『詩学』のレビューにも書きましたが、『薔薇の名前』の主人公である修道士探偵バスカヴィルのウィリアムは、キリスト教徒でありながら、科学的な知をつきつめることで「真実」を知りたいと願う「知の人」でした。
だからこそ、彼は事件の真相をつきとめたのですが、しかしその真相とは「信仰」の現実的問題点をあからさまにするものでした。だからこそ、事件を解決した彼の表情は、決して明るいものではなかった。

バスカヴィルのウィリアムは、実在の神学者オッカムのウィリアムの友人という設定になっていますが、要はオッカムのウィリアムこそが、バスカヴィルのウィリアムのモデルです。
オッカムのウィリアムは、科学的合理的な知をつきつめようとした人であり、それは何より神への信頼においてなされたものなのですが、しかし、彼のその真相究明への飽くなき姿勢は、教会の教えに沿わない「異端」とされ、意見を曲げなかった彼は破門され、命を狙われて、逃亡の地で客死します。
つまり、バスカヴィルのウィリアムの影とは、こうした知の宿命を二重映しにしたものだったのです。

ことほど左様に、「無知」とは、妬み深く危険なもの。
私は、本書『定価のない本』のレビューで「被害者意識の強さ」という問題を指摘しましたが、これはオッカムのウィリアムに対する教会側の意識でもあったでしょう。教会は、自分たちの信仰が、オッカムのウィリアムの「異端の説」に傷つけられているという「被害者意識」を持って、加害者となったのです。

これは、ネトウヨでも自称「保守」でも江藤淳でも同じ。彼らは、極めて「被害者意識」の強い人たちであり、自分たち日本人のしたことは都合よく忘れて、自身を被害者だと思い込める「無知の人」なのです。

江藤淳は、GHQの言論統制を批判しましたが、しかし、GHQの言論統制は、戦中の日本政府による言論・思想統制を中和し無効化するためのものだったとも言えますし、終戦にあたって、従軍慰安婦だとか民間人虐殺だとかいった、自分たちに不都合な資料を燃やし証拠隠滅したのも、日本人です。
昨今も、公文書の改ざんだ隠蔽だ隠滅だなんてことが取りざたされる日本の政府ですが、これは日本の伝統であって、GHQだけがやったことでは全然ない。例えば、『古事記』『日本書紀』などは、勝者である大和朝廷によって作られた「歴史修正文書」だというのが、歴史的事実です。

しかし、日本の歴史に無知な人は、こんなことも知らずに、その「無知」を指摘されれば、自分が知的に見下されたという、妄想的な「被害者意識」をたぎらせて、無自覚に自己正当化に励むのです。

まことに「本を読まない」ということに象徴される「無知」とは、かように危険なものなんですね。

長文失礼しました。

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名著の〈快楽と苦痛〉一一Amazonレビュー:堤未果、中島岳志、大澤真幸、高橋源一郎『メディアと私たち』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月 4日(金)02時01分13秒
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 名著の〈快楽と苦痛〉

 Amazonレビュー:堤未果、中島岳志、大澤真幸、高橋源一郎『メディアと私たち』
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本書は、4人の作家が4冊の名著をそれぞれに紹介したものである。紹介されているのは、

 ・ ウォルター・リップマン 『世論』
 ・ エドワード・サイード  『イスラム報道』
 ・ 山本七平        『「空気」の研究』
 ・ ジョージ・オーウェル  『一九八四年』

の4冊で、私の場合は『「空気」の研究』『一九八四年』は既読、『世論』『イスラム報道』はずいぶん前に購入しているものの、積読の山に埋もれさせて未読であり、本書『メディアと私たち』を読むことで、残りの2冊を読むきっかけに出来るのではないかと考えた。

なにしろ、4冊のとびっきりの名著を紹介しているのだから、感想はいろいろとある。
例えば、解説者の大澤真幸が示唆しているとおり、名著『「空気」の研究』における山本七平の「神(絶対者)を持たない者は、空気に抗えない」という理屈は、彼の信仰によって偏向された現実認識(誤認)だ、といった、多くの人が名著の権威ゆえに読み流してしまう問題点や、ジョージ・オーウェル『一九八四年』の高橋源一郎の解説は、日本の現状解説に他ならないばかりか、「本を読まない=言葉の貧困化」の問題提起として、より本質的なものだ、とかいったことも、高橋文を読み流しただけでは十分に意識されない点だろう。だから、そのあたりについても、しっかり論じておきたいのだが、それでは長くなりすぎるので、ここでは、大澤真幸による、次の問題提起を、「今ここ」の問題として採り上げておきたい。

『人間はそもそも、何でも知りたいと思っているとは限りません。知りたいことだけを知りたいと思っているのです。ですから、むしろ重要なことは、知りたいと思っていなかったことについて知らしめることです。知りたいことについてだけ知らせてあげようとすると、結果的に「空気」を読んでいることになる。』(P124)

簡単に言えば「耳に痛いことを言え」ということだ。その上で「有り難いご意見を拝聴させていただいた」と相手の言わせるように語れればそれがベストなのだが、なかなかそうもいかないので、ひとまずやはり「耳に痛いことを言え」ということになる。

例えば、本書の読者というのは「メディアの偏向」といった問題や、偏った情報依存(エコーチェンバー現象・サイバーカスケイド等)といったことに、問題意識を持っている人たちであろう。したがって、本書とはおおむね問題意識を「共有」しており、著者らの意見にも好意的であろうというのが、容易に予測されよう。
その一方、「ネット右翼」的な人たちについては「あの人たちは、自分の感情を補強してくれる、自分に好都合な、偏った論者の本しか読まない。彼らには、自己相対化なんていう意識が欠片も無く、およそ知性に欠けた人たちだ」といった認識も「共通」していることだろう。
これらの「共通認識」は、正しい。しかし、その「共通認識」を上書きする為だけに本書を読むのだとしたら、大澤真幸が指摘したとおり『知りたいことだけを知りたいと思っている』だけ、ということになる。

つまり、そのような認識で本書を読もうとし、それで満足してしまうような読者は「ネトウヨと五十歩百歩」でしかないのだ。
そしてそんな「事実」を伝えることこそが、大澤真幸の言う『知りたいと思っていなかったことを知らしめること』なのである。

だから、本書は素晴らしい本ではあるけれど、本書を読むにあたっては「そうそう、そのとおり」だなどという読み方は、本書の読者として、まったくの「失格」なのだと言わねばならない。
「そうそう、そうだよね。だからネトウヨはバカなんだ」という風に読んでしまった読者は、ネトウヨ並みに「バカ」なのである。つまり賢明な読者は、本書を「マスコミ批判」や「ネトウヨ批判」の本として読むのではなく、「私の痛いところを突いてくる本」として読まなければならないのであり、当然その感想は、「素晴らしい」の一語では済まされないのだ。

これは、本書で紹介されている4冊の名著についても、まったく同じであり、名著なんだから「素晴らしい」というような感想は「無自覚無思考の産物」だと考えるべきで、「その程度」に止まりたいと思わないのであれば、それらの本が、自身のどんな「無自覚」を突くものかを考えながら読まなくてはならない。

畢竟「批評とは、自己批評」のことであると言うのは私の言葉だが、きっと山ほど前例のある認識だろう。ならば、読者は、その批評文が「どこかの誰か(他人)」についてのものではなく、読者である「私自身」を批評したものとして読まなければならない。そうでなければ、どんな名著を読んでも、結局は、頭の悪い「自己満足」に止まってしまうのである。

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時間を超えた〈内面〉の風景 一一Amazonレビュー:『林忠彦写真集 東海道』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月 4日(金)01時59分38秒
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 時間を超えた〈内面〉の風景

 Amazonレビュー:『林忠彦写真集 東海道』
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写真派か絵画派と聞かれれば、私ははっきりと絵画派である。そして、ビジュアル派か活字派かと聞かれれば、はっきりと活字派である。そんな私は、写真であれ絵画であれ、ビジュアル作品を鑑賞する際には、作者に関する情報や作品意図、来歴などといった周辺情報は一切排除して、ただ虚心に作品に向き合うべきだと考えている。
要は、何様の作品であろうと、どんな意図や苦労が込められた作品であろうと、作品という結果がすべてであり、作品評価は、外部情報に左右されるべきではないと考える。

これは、しごく当たり前のことのように思われるかも知れないが、しかし、そうではない。例えば、この写真集を評価する際、作者(写真家・撮影者)は、太宰治や坂口安吾のビジュアルイメージを決定した「あの写真」を撮った「あの有名写真家」林忠彦であるという情報や、この作品集に収められた作品は「東海道」をテーマとしており、「消えゆく江戸の風景をすこしでも遺したい」という意図から撮影されたものだ、といった情報を、本作品集収録写真の1枚1枚を鑑賞する者は、ほとんど無自覚に前提として受け入れ、そのフィルターを通して、作品を評価してしまっているのだ。

もちろん、知ってしまった情報を、頭の中から完全に排除することは出来ないのだけれど、できるかぎりそうした情報に引っぱられないで、作品そのものに向き合いたい、向き合わねばならぬというのが、私の作品評価の基本的スタンスである。
そして、その上で私の評価を語るならば「とても素晴らしい写真もあれば、意外につまらない写真もある」ということにでもなろうか。とは言え、全体としてもなかなか面白い作品集で、ずっと頭の中に残りつづけるであろういくつかの作品に出会えただけでも、この写真集を購った価値は十分にあったと思う。

私が、惹かれた写真に感じた、その魅力とは何か。それは、たぶん「昔、どこかで見た、薄暗くも懐かしい空間」に引き入れられるような感覚だ、と言ってもいいだろう。これは私が文学作品にも求める、ひとつの魅力である。
私には、昔から「ここではないどこかへ」という希求がある。これは虚構作品を読む者には多かれ少なかれ存在する欲求なのだろうが、私にはそうした傾向がはっきりとあった。なればこそ、実際に面白い作品に出会える頻度が左程でもないのに、それでも「幻想文学」というジャンルには愛着を感じ続けてきた。「どこかへ連れていってくれるかも知れない」という期待を寄せやすい、文学ジャンルだったからである。

そうした観点から、写真集『東海道』の中で私の惹かれた作品に共通する魅力の正体について考えてみると、前述の通りそれは「昔、どこかで見た、薄暗くも懐かしい空間」に引き入れられるような感覚、だったのである。

しかし、この写真集を、もっと若い頃に鑑賞していたら、きっと同じ作品に同じような魅力を感じ得なかったのではないだろうか。これは、それなりに齢を重ねて、「過去」がある種の「ここではないどこか」的なものになってしまった今だからこそ、「過去を希求する作品」に惹かれたのではないかと思うのだ。

作者(撮影者)の林は「江戸の風景をとどめたい」と思ったのかも知れないが、私がそのいくつかの作品から感じた「過去」は、もっと新しい「昭和」の時代、私の子供時代だったように思う。もはや、私にとっては「昭和」は過去であるばかりではなく、「ここ(現実)ではない、どこか」になっているのである。かつて、そこにいたようで、しかしいなかったかも知れない、そこはそんな「場所」なのだ。そして、できればもう一度、そこに立ってみたい「場所」なのである。

しかし、本書に付された「撮影記」を読むと、本書に収められた作品は、かなり技巧的に「作られた」ものだというのがよくわかる。写真に詳しくない私は、絵画とは違って、写真は「一瞬の風景を切り採る」といったもののように思いこんでいるところがあって、「作り込む」というのは写真創作法としては邪道のように思えるのだが、無論、写真をやっている人には、そうした認識が、写真に対する、門外漢の「信仰」の一種にすぎない、というのは明らかなのだろう。写真とて、いろいろな機材を使うのだから、目の前にあるものを「そのまま」切り採るのではない。そもそも「切り採る」という作業自体が、人工的なものなのだから、写真作品もまた「創作」なのである。

では、私が写真集『東海道』のいくつかの写真に感じた魅力が何だったのかというのも、やはりそれは「たまたま趣味に合った風景だった」ということではなく、林が「過去としての江戸」を意識し、それを構成しようとした「意志の反映」だったと見るべきであろう。
林は、フレームに入ってくる余計なものを排除して、出来るかぎりそのフレームの中で「江戸」を「再現」しようとした。その結果、江戸には興味のない私でも、林の意志という「タイムマシーン」によって「過去の風景」を見せられたのではないだろうか。つまり、小説が描く「風景」と同じで、写真が映す風景もまた「現実の風景」ではなく「写真家の頭の中にある風景」なのである。それは、写真ではあれ「フィクション」なのだ。私たちは、現にそこには無いものを、写真という「フレーム」の中で見せられているのであり、そこに描かれたものは「写真家の頭の中の風景」に他ならない。要は、どこまで「現実の風景」の中から「写真家の意図する(内面の)風景」を引き出せるか、切り出せるか。それが写真というものなのではないかと気づかされた。

したがって、本書の「東海道」とは、あくまでも素材であって、ここに収められているのは「林忠彦の内面」に他ならない。凡庸な結論ではあれ、写真もまた「作者の内面」を表現した「作品」なのである。

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〈心〉というアポリア 一一Amazonレビュー:矢寺圭太『ぽんこつポン子 2』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月 4日(金)01時58分17秒
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 〈心〉というアポリア

 Amazonレビュー:矢寺圭太『ぽんこつポン子 2』
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『ぽんこつポン子』第2巻は、第1巻からは大きく展開して、ポン子が、突如現れた謎の巨大生物から日阪町を守るため、人型決戦兵器PONKOに搭乗して、決死の戦いを挑む物語となっている、わけではなかった。第1巻の予告は、やはりおフザケだったのだ。残念である(嘘)。

第1巻のレビューに『「ポン子名付け」のシーンで、ポン子の「………嫌だ。」という心内語が描かれているが、これは今後の展開の中で重要な伏線になってくるかも知れない。』と指摘しておいたが、本巻では、ロボットであるポン子の「心」の問題に、何度か言及がなされている。

先に指摘したように、私たち読者には、ポン子に「心」があるという事実がハッキリと示されているのだが、作中の人々にとっては、それは決して自明なことではない。ポン子がいかに人間ぽくとも、作中の人々にとっては、ポン子はロボットであり、感情があるように見えるのは「(機械として)よく出来てるから」であろうということになる。しかし人は、人型のロボットが、表情豊かに感情「表現」をすれば、そこに「心」があるように感じてしまうものなのだ。

昨今、AI(人工知能)の発展がめざましく、AIが人間の知能を(総合的に)超える日も遠くはないと言われているし、そうなれば、AIが感情を持つようになってもおかしくはない、というふうに考える人も少なくない。AIが人間を越える特異点(シンギュラリティ)は、近い将来に、現実に到来するものとして語られ始めている。

しかし、「心」とはいったい何だろう。
そもそも「心」というものの定義は、じつのところ定かではない。だから、AIどころか、他の高等生物に「心」があるのかさえ、いまだ定かではない。たしかに「感情」のようなものはあるみたいだが、それは一種の「脳科学的な生理反応」であって、「心」とは別物なのではないか。「心」とは、そのような「物理的反応の累積」のようなものではなく、それを超えたところにあってこそ、「心」と呼ぶに値するのだし、それこそが「心」なのだ、と考える人も少なくない。
と言うか、私たちの大半は、そのように考えている。つまり、自分の、この「心」が、単なる化学反応の産物だとは思っていない。他人に対する、愛も憎しみも、そして悲しみも、単なる化学反応ではなく、もっと「人間的なもの」つまり「心」だと思っているのである。

しかしそれは、私たちが主観的に「自分の心」を感じているから、「心」があるように思っているだけで、他者の中に、自分自身と同じような「心」があるかどうかは、ついに確認することは出来ない。
たしかに、脳の電気的活動を測定する器械ならあって、この刺激を与えればここが反応するのはここにそれに対応する脳の領域があるからだとかいったことは分かる。たしかに脳は刺激に対して反応しているのだが、これはどこまで行っても化学的反応の記録であって、それを「心」(の一部)だと認定するかどうかは、「心」の定義しだいということにしかならない。

例えば、AIを語る上で、かならず言及されるのが、哲学者のジョン・サールが考案した思考実験「中国語の部屋」である。詳しくは、Wikipediaを確認していただくとして、要は、外からの質問に対して、いかにも人間的に応答する「ブラックボックス」の中にあるものが、果たして「心」なのか「機械的情報処理」なのかは、外の者には区別がつかない、という話である。
だから、ポン子に「心」があるのかどうかが、作中の日坂町の人々には、論理的にはわからない。論理的には「決定不可能」なのである。

それでも、彼らはやがて、ポン子に「心」を見るようになるだろう。ポン子の中で何が起こっていようと、判断するのは、外部にいる人たちなのだから、そうなってしまうのは極めて自然なことであり、それを非科学的だと一蹴することは、決して容易なことではないのである。

そして私たちは「それならポン子の心を認めてやるべきではないか。いや、認めるべきだろう」と考えるだろう。だが、その時、私たちは「機械に心を認める」という、決断を迫られることになる。彼らはもう「機械的な生き物」なのだ。人間が作った物だとしても、生き物としての「尊厳」を持つ存在であり、私たち人間は、その「尊厳」を認め、相応に遇しなくてはならない、ということになるだろう。だが、そんなことが、私たちに出来るのだろうか?
わかりやすい例として、私たちは、ポン子のような「人型ロボット」の「人格」を認め、そして相応の「人権(相応の権利)」を認めることが出来るだろうか? 私たち人間と、彼ら(人間すら越えていくかも知れない)「ロボット」を、対等な存在だと認めることが出来るのだろうか?

『ぽんこつポン子』の世界でも、すでに「人型ロボット」の製造は中止になっている。なのに何故、旧式のポン子は、まだ存在を許されているのだろうか?
それは、もしかすると、彼らに「心」を見てしまった人間が、彼らを「殺す」にしのびなく、彼らが「自然死」してくれるのを待っている、ということなのかも知れない。

そして、ここにも「アトムの命題」が立ち現れてくる。
私たちがロボットもののフィクションを楽しむ時、何度も何度も立ち現れてくる難問だ。
私はここで、必ずしも、評論家の大塚英志の立てたものとしての「アトムの命題」について語っているわけではないのだが、私たちがポン子に感情移入し、彼女に「幸せ」になって欲しいと願う時、この難問は、誰にも避けて通れないものとして立ち現れてくるはずだ。

私たち人間は、「ロボットの心」がわからないどころか、しばしば「人間の心」さえ見失ってしまう存在だ。同じ人間を「心の無い物(無機物)」のように感じ、「ゴミ」のように廃棄して「心」が痛むこともないといった歴史的経験を何度もして来た。そんな私たちが「ロボットの心」を認めようなどというのは、ある意味で、身の程知らずの傲慢であるとも言えよう。

しかし、それでも「ポン子の心」を認めたいのであれば、私たちはまず、すべての「人の心」くらい、ちゃんと認められるようにならなくてはならないのではないだろうか。
しかし、これは私自身にとっても難問である。アトムがその「傷ついた様子」で、そしてポン子がその「笑顔」で、私に突きつけた難問なのである。

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「文体の伝染」一一Amazonレビュー:夏目漱石『倫敦塔・幻影の盾』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月 4日(金)01時55分48秒
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 「文体の伝染」

 Amazonレビュー:夏目漱石『倫敦塔・幻影の盾』
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漱石を読むのはひさしぶりである。そもそも余が読書に目覚めたのは、高等学校に通っていた時分の話だ。国語の教科書に漱石の『こころ』の「中」段だけが載っていたので、国語の教師が、中だけ呼んでも仕方がないから文庫本を買ってぜんぶ読むようにと命じたのである。
余が活字の本を読むようになったのは、随分遅い。長らく漫画しか読まなかったのだが、その当時は、文字ばかりの本を読んで何が面白いのか、とんと了解できなかった。漱石の『こころ』で活字に開眼するまでに余が最後まで読み通せた活字の本は、たったの二冊。これも教師から読むように指示された『古文入門』というのと、当時熱中していたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』のノベライズ。この二冊だけである。
それ以前、中学生の頃だかに夏休みの課題たる読書感想文のために、ゲーテの『若きウエルテルの悩み』を購った。なにしろ、当時は活字の本を読まなかったので、若者向けの小説が存在しているというのを知らなかったし、これくらい有名な小説のタイトルしか知らなかったのだ。また『若きウエルテルの悩み』はタイトルがいかにも恋愛小説っぽいし、何より文庫本で薄いので、これなら読めるだろうと多寡を括ったのである。だが、余の読みは甘かった。開巻早々、二三頁ほどで挫折したのである。言い訳ではないが、当時の新潮文庫はすこぶる活字が小さかった。

話が横道に逸れたので、話を『こころ』に戻そう。そんな事情で、余は『こころ』にも多くを期待しなかった。と言うよりも、活字の本とは面倒なものであるという漠然とした印象しかなかったのである。だが、この作品は違っていた。余は、いつの間にやら『こころ』の薄暗い世界に引き込まれて一心不乱に読み通し、少々大袈裟に言うなら、巻を置いた時には茫然自失の体であった。小説とはこんなに凄い事が書けるのかと心底圧倒され、それから夏目漱石の長編を次々と手に取り、すっかり漱石ファンになったのである。

その当時は、漱石を新潮文庫で読んだ。歳をとった今とは違い、当時は文字の小さいのがまったく苦にならなかった。苦にならないどころか、なにやら得をしたような心持ちがするし、本が薄いのも安心だった。だから活字が大きめだった旺文社文庫は、なんとなく安っぽくも思えて余の購買意欲を刺激しなかったのである。
ともあれ、『明暗』をのぞけば、夏目漱石の長編はその頃に全部読んだと思う。確認していないので、もしかすると記憶違いがあるやも知れぬが、おおむね間違いはなかろう。残ったのは、短編であった。評論については、長らく視野の外であった。

漱石の短編を読んだのは、余が中年以降の話である。やはり新潮文庫に愛着があったので『文鳥・夢十夜』『二百十日・野分』を読み、随想集だと知らずに『硝子戸の中』も読んだと思う。どれを最後に読んだのか、記憶が茫洋として定かではないが、今から十年以上前だというのは、ほぼ間違いないと思う。余は、記憶力が弱い上に時間感覚に鈍いので、昔の話になると、五年ほど前とか十年位前だなどと、五年刻みでしか語れぬ体たらくである。だが、いずれにしろ今度『倫敦塔・幻影の盾』を読んだのも、やはり久しぶりだというのだけは多分間違いないのである。

さて『倫敦塔・幻影の盾』である。余のこの文章は『倫敦塔・幻影の盾』のレビューとして書かれているはずなのに、肝心の感想がここまでまったく出て来ない。何故ないのか? それは、漱石について、今更面白かったもへったくれも無かろうと思うし、少しは気が利いたつもりになって、どこかで遠に書かれているであろうような感想や意見をわざわざ書く気にもならん為だ。今はどうなのかは知らぬが、なにしろつい最近までは、日本の小説家で最も論文の書かれている小説家は漱石だと言うのだから、今更余のごとき市井の凡人に、目新しい想など浮かびもようもない。しかし、折角久しぶりに漱石を読んだのだから、漱石について何か一文を草して悪あがきの爪痕くらいは残しておいても良かろうと、遊び半分でこのような漱石の真似っこをしてみたのである。あえて文体模写とは書かぬところに、余の廉恥心を読み取ってもらえれば幸甚である。

とは言え、ぜんぜん感想も無いわけではないから、少しだけ書いておく。本作品集中で、余が最も気に入ったのは、「趣味の遺伝」の中の一場面。露西亜との戦争からの帰還兵たちを迎える群集に交じった漱石が、一人の将軍の様子に、戦争の実相を洞察する場面の描写である。
漱石は、それまで出征兵や帰還兵たちに対して万歳をした事が無かった。無論積極的にしたいわけではないが、政治信条があってしなかったというわけでもない。ただ何となく、その機会が無かっただけなので、この機会に万歳をしてやろうと、漱石はこのとき卒然と思いついたのである。ところが、その将軍の姿を見た途端、漱石の万歳は喉のところで止まって、どうにも出てこなくなってしまった。

『周囲のものがワーというや否や尻馬について(※ 万歳を)すぐやろうと実は舌の根まで出しかけたのである。出しかけた途端に将軍が通った。将軍の日に焼けた色が見えた。将軍の髯の胡麻塩なのが見えた。その瞬間に出しかけた万歳がぴたりと中止してしまった。何故?
 何故か分かるものか。何故とかこの故とかいうのは事件が過ぎてから冷静な頭脳に復したとき当時を回想して始めて分解し得た智識に過ぎん。何故が分る位なら始めから用心をして万歳の逆戻りを防いだはずである。予期出来ん咄嗟の働きに分別が出るものなら人間の歴史は無事なものである。余の万歳は余の支配権以外に超然として止まったといわねばならぬ。万歳がとまると共に胸の中に名状しがたい波動が込み上げて来て、両眼から二雫ばかり涙が落ちた。
 将軍は生まれ落ちてから色の黒い男かも知れぬ。しかし遼東の風に吹かれ、奉天の雨に打たれ、沙河の日に射り付けられれば大抵なものは黒くなる。地体黒いものはなお黒くなる。髯もその通りである。出征してから白銀の筋は幾本も殖えたであろう。今日始めて見る我らの眼には、昔の将軍と今の将軍を比較する材料はない。しかし指を折って日夜に待詫びた夫人令嬢が見たならば定めし驚くだろう。戦は人を殺すかさなくば老いしむるものである。将軍は頗る痩せていた。これも苦労のためかも知れん。して見ると将軍の身体中で出征前と変らぬのは身の丈位なものであろう。』

群衆は凱旋兵たちにワーという歓声を浴びせる。それは兵たちにとっても決して迷惑なものではなかろう。しかし、群衆はそこに勝ち戦を見ているだけで、彼らの姿を見ているわけではない。戦場での苦労と苦悩の故に老けたのであろう将軍の姿に、戦場の過酷な現実を透視した漱石のような者は、ついにいなかった。凱旋兵たちに漱石と同じものを見ておれば、およそ万歳などというお目出度い言葉など出なかったであろうからである。そして、こうした群衆の姿を、我らは今でもしばしば目にするのではないか? 彼らの活躍に歓呼の声を投げる群衆は、知らずに彼らを犠牲にし食い物にしているのではあるまいか? そして我ら自身、はたして漱石のような眼を持っていると言えるだろうか? 漱石を読んだ多くの日本人が、そんなことを一度でも考えたことがあるだろうか?

無論この程度のことは、多くの漱石研究者や文芸評論家がすでに指摘済みであろう。だが、重ねて指摘しておく価値が無いわけでもないので屋上屋根を架すことにしたから、読者各位にあっては悪しからず諒とされたい。

余は当初、本書『倫敦塔・幻影の盾』を、新潮文庫で読もうとした。愛着があるからだし、ブックオフオンラインなら198円と安い。ところが、昭和四十三年改版の平成元年発行第五十八版であるにもかかわらず、やはり活字が小さい。老眼と乱視が進んでいるとは言え、眼鏡を掛ければ読めるだろうと多寡を括っていたのだが、最初の「倫敦塔」を四苦八苦しながら読み終えた段階で到頭挫折した。これほど文字の読取りに苦労していては、入る中身も頭に入らぬからである。ここは素直に降参するのが得策と、今度はブックオフオンラインでワイド版岩波文庫の『倫敦塔・幻影の盾 他五篇』を購った。値段は498円で、それでも安い。収録作品は同じであるから不都合もない。

このようなわけで、余はこのレビューを新潮文庫と岩波文庫の両方に投じた。決してインチキをしたわけではない。
新潮文庫の解説者は伊藤整で、ごく当たり前とも思える指摘を悠々と行っているのは、さすがに大家の貫禄かも知れぬ。一方、岩波文庫の江藤淳は、時代が新しい分、少しは捻りのある解説だが、それはどうでもいい。面白いのは、江藤の解説の文体が、まるで漱石の文体模写のようであることだ。漱石の文体は、好きな者には極めて伝染しやすいのではあるまいか。

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子供っぽさ、カムバーック!一一amazonレビュー:しろまんた『先輩がうざい後輩の話 4』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月 4日(金)01時54分23秒
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 子供っぽさ、カムバーック!

 amazonレビュー:しろまんた『先輩がうざい後輩の話 4』
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個人的には、「素直になれない恋愛もの」的な方向に素直に進んでしまうのは、やや不満。
たぶん私は、双葉の子供っぽさが好きだからであろう。

エピソードとしては、第67話の、まったく気づかない、というのが、あるあるだった。
あと、友情モノに弱いので、学生時代の双葉と夏美を描いた、書き下ろしの第21話も、ありがちなお話ながら、ツボだった。

でも、いちばんインパクトがあったのは、部長が、まんま秋篠宮だったことである。

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「保坂和志」的方法をめぐる議論

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月 1日(火)23時21分20秒
 

10月だというのに、まだ暑いというのは、一体どうしたことなのでございましょうか。暑がりの私は、家では、シャツとステテコ(?)という、昭和のオヤジそのままの姿で、今も生活をしております。
家族もいないし、訪問者もいない。たまに来るのは、ブックオフオンラインやヤフオクからの荷物を配達に来る郵便局員、または配送業者のお兄さんだけなので、その際は、印鑑を持って玄関まで出て、失礼ながらその姿のままで対応させていただいております。
もっとも、ごくまれにヤマト運輸などの配達員が、けっこう若い女性であったりして、恥ずかしい思いをすることも、あるにはあるのでございますが、もうそこは年寄りの厚顔さと開き直りで「いや、こんな格好で申し訳ない」とか言いながら、そのまま対応させていただいております。いまさら「ひと目合ったその日から、恋の花咲くこともある」なんて考えませんしね。なにしろ私は、リアリストでございますから(笑)。

さて、こんな私の現実と、掲示板のトップに掲げてある「アレクセイの花園」のイメージイラストが、あまりにもギャップがありすぎる、イメージが損なわれたではないか、等とおっしゃられる方には、お詫びするしかございません。私も昔は、あのイラストにあるような紅顔の美青年だったのでございますが、寄る年波には勝てないということでございます。
やっぱり私のような者は、夭折すべきだったのかも知れません。愚かにも長らえて、皆様のイメージを壊してしまい、本当に申し訳ございません。全世界のファンの皆様、どうぞ御勘弁下さいまし。m(_ _)m


伊殻木祝詞さま

単純明快さを迂回する思考‐保坂和志『読書実録』に関する覚書 \( ̄▽ ̄)/

今回もまた、興味深いお書き込みをありがとうございます。
伊殻木さまのご文章は、なかなか中毒性があって、個人的にかなり好きな「文体」だと評価しております。

で、どのような「文体」かと申しますと「ぶつぶつボヤキつづける」文体と申しましょうか、さすがは保坂和志のファンだけあって、結論への到達を回避しながら、うねうねと続く文体とでも申しましょうか。
しかしまた、それだけではなく、『ビビった』とか『(泣)』とか、けっこう周囲に気を遣うし、小心なところもあって、そこがまた「可愛い」のでございますね。つまり「私は気難しい人間なんだからね!」とか言いそうな、一種の「ツンデレ」キャラ的な魅力と申しますか、そのあたりでキャラ(文体)が立っていると思うのでございます(笑)。

> 私がこの掲示板に書き込みを始めてから私以外の人の書き込みが絶えてしまって若干ビビっていたのですが(ビビる理由がよく分からないと思いますが簡潔に言えば自意識過剰ということです)、ついに先日オロカメンさんの書き込みを発見し、よかった、やっぱり自分の被害妄想だったんだ(何がだ?)

これは「被害妄想」と言うよりも「加害妄想」でございましょうね。
と申しますのも、私にも思い当たることがあるからでございます。私も昔は、よく他所へ書き込みに行ったりしたのでございますが、私が書き込みを始めると、どうも他の「普通の人たち」が退いてしまうのでございますね。べつに攻撃的なことを書いているわけではないのですが、私の熱量と言いましょうか、勢いとでも申しましょうか、それが普通ではないので、みなさま、無難に「遠巻きにする」ようなのでございます。
ですから、伊殻木さまも、ご自分が不本意にもそんな雰囲気を醸し出してしまい、この掲示板、あるいは私に迷惑をかけたのかもしれないと、お気遣い下さったのではないと存じます。

しかしながら、現在のところ、この掲示板に書き込みを下さっているのは、私自身を除けば、伊殻木さまとオロカメンさまだけでございますし、オロカメンさまは、だれも書き込みをしない、この「アレクセイの花園」にわざわざ書き込みに来て下さった奇特な方でございますから、伊殻木さまが少々個性的な書き込みをしたからといって、それだけで書き込みをひかえるような方ではございませんでしょう。また、仮にそんなことで書き込みをひかえてしまうような人ならば、私はその人からの書き込みが無くなるのが「すごく惜しい」とまでは思いません。その分、伊殻木さまが書き込み回数を増やすことで「責任を取ってね」と言うだけでございます(笑)。

> と思ったのも束の間、オロカメンさんの書き込みがあまりに気合いの入ったものだったので正直ビビりました。なんかビビってばかりですが、ああいうものは私には絶対に書けないのですよね。と言うのも、表現物や作品について語ろうとする自分の言葉に自信を持てないと言うか、そもそも語ろうとする動機が決定的に足りないとでも言えばいいのか……要は実物を見た方が早い、と思ってしまうので、見たら見たでいいし、見なかったら見なかったでよし。何かを感じたら感じたでいいし、何も感じなかったら感じなかったでよし。何も感じなかったことで何か不利益を被っても私の責任でなし!という風に思ってしまうのですね。それに、下手に言葉を費やしても表現物や作品の力を矮小化させるだけだ、とも思ってしまう。無論それは私がその程度の言葉しか扱えないということなのですが(泣)。

『ああいうものは私には絶対に書けない』とのことですが、これは多分『表現物や作品について語ろうとする』という点で、たぶんオロカメンさまや私の実感とは、多少ズレがあるからではないかと存じます。

私やオロカメンさまにとって、他人の『表現物や作品』というのは、自分(鑑賞者である私)を表現する為の「媒介物」であって、それそのものを「正確に」語ろうとするような意識は、あまり無いのではないかと存じます。つまり、ある意味では、他人の『表現物や作品』とは、「私にとっての、他人の『表現物や作品』」でしかなく、他人の一人でしかない「著者」が、本当に何を考えていたかなんてことは、本質的には、重要ではない。
もちろん、著者が何を考えていたかということは(方法として)考えますが、そうした道筋において発見された「意味」が、結果として「著者の意図」を超えていたとしたら、それは、こちらの解釈の方が「本物だ」と考えるような態度なのでございます。

つまり、結局のところ作品というものは、完成して他者の前に提示された段階で、著者からは切れた「無意味なテクスト」でしかなく、それが意味を持つのは「読者との接触面」においてでしかない。それ以前に、そのテクストに著者が「意味」を見ていようと、それもまた「著者とテクストの接触面に生成された意味」でしかないと思うのでございます。

ですから『…要は実物を見た方が早い、と思ってしまうので、見たら見たでいいし、見なかったら見なかったでよし。何かを感じたら感じたでいいし、何も感じなかったら感じなかったでよし。』というような感じではなく、その作品に接触した時に、そこに生まれたものは「何か」ということを明らかにする為に、その作品を論じるのでございます。
というのも、論じなければ、自分がそこに感じたものがハッキリしないというのはよくあることですし、論じることで自分の思考が深まるということもよくあるからでございます。

したがいまして『何も感じなかったことで何か不利益を被っても私の責任でなし!』というような、作者や他の読者に対する「責任」の感じ方はいたしません。そこはただ「何も感じなかった」というだけのことであり、そこには作者にも私にも、取らねばならないような「責任」などというものは、もとより無い、という感覚で、『下手に言葉を費やしても表現物や作品の力を矮小化させるだけ』というようなことも、あまり考えません。私がどう考えてどう評価しようが、作品は大きくも小さくもならない。ただ、私にとってのそれが何なのか(大きいのか小さいのか)をハッキリさせるだけなのでございます。
そして、その見解を受け入れるか拒否するかは、他人の勝手なのでございます。

>  しかし今の世の中は、是枝監督やオロカメンさんがやったような真っ向からの問題提起に、斜に構えた態度でしか応ずることができない人間の方が多いように思えるのが何とも残念な状況ではありますが……。

そうした、みみっちい態度も、結局のところ、自己評価が低いからでしかないと存じます。自信があれば、人様の作品が他人に高く評価されようとされまいと、そんなことは「私自身の価値観には関係ない」と思えるのですが、自他の区別がついていない人は、他者(のもの)に関する評価がそのまま自分自身の評価に直結すると感じる(自他未分の幼児的な感覚な)ので、他者(のもの)に関する評価までも、操作したくなるのだと存じます。

>  さて私はと言えば、九月末に出た保坂和志の新刊『読書実録』を読んでいる最中であります。保坂は『未明の闘争』を出した辺りから「一見さん、お断り」と言うような作風になってきたとでも思われているのか、それが取っ付き難く、また高尚ぶっているように感じる人間もいるようです。『未明の闘争』や『遠い触覚』や『試行錯誤に漂う』のアマゾンの低評価レビューが大体そんな感じです。

保坂和志が、そういう方向に進んでいるとは、まったく存じませんでしたが、それは面白そうでございますね。
私は、基本的に気難しそうなほうが面白い(物わかりが良すぎるのは気味悪い)と思いますので、その方向性は大歓迎で、「猫が大好きな保坂さんは、難しいことを考えるけど、本当はとっても優しい人」みたいな、読者自身の願望充足的な甘ったるい評価は、逆に反吐が出そうでございます(笑)。

> かく言う私も、保坂が『未明の闘争』や『遠い触覚』や『試行錯誤に漂う』といった近年発表した小説(私は保坂の書く物は全て「小説」であると思っています)を通じ、何をどのように考えようとしているのかは、最低でも「小説をめぐって三部作(『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』)」や、佐々木敦の『新しい小説のために』を読んでいないと分かりにくいのではないかと思います(ただし「分かりにくい」と「分からない」は全く違いますが)。

「分かる」というのは、「分かる」ということであって、「論理的に分かる」ということではない、ということくらいは、小説読みならば「自明の前提」として欲しいところなのですが、いまの世の中、その程度のこともわからない読者が少なくないのでございましょうね。
で、このように書くと、私が「論理的に分かる」を「分かる」の上位においていると読み違える人が出るほど、いまの小説読みは、頭の悪い人が多い。

「分かる」というのは、「分かる」と表現するしかない事態であり、「論理的に分かる」というのは「説明がつく」ということであって、それは「分かる」と同じではない。と言うのも、「説明はつくけれど、腑に落ちない」というのは「分からない」ということに他ならないからでございます。つまり「論理的に分かる」というのは、「他人に説明できる」ということであって、それがそのまま「(自分に)分かる」ということではない。その「説明」が自身「腑に落ちない」のなら、それは自身にとっては「間違った説明」でしかないからでございます。
逆に言えば、「説明はつかなくても、分かるときは分かる」。しかしまた、説明ができなくても分かるときは分かるから「私の理解も、説明は出来ないけど、正しい理解だ」などという主張も、他人にとっては、まったく意味の無いものなのでございます。

ともあれ、ラノベが悪いとは思いませんが、ラノベしか知らない(「ラノベ=小説」=「私に分からない小説はダメな小説」)というのは、大いに問題のある状況かと存じます。

>  その一方で私は、自分の見識に一切の疑念を抱かない人間や、相手にばかり要求して自分の立ち位置は全く変えない人間は嫌いで、「こんなものが文学だと思っているのか」「保坂は変わってしまった」といったことを何の疑問もなく言ってしまえる人を見ていると、「合わないのは仕方ないけども、それを保坂(もしくは小説家、そして全ての表現者や創作者)のせいにばかりしてしまうのはどうなのだろうか?」と言いたくなります。

こんな当たり前のことを議論しなければならないことに絶望を感じますよね。
「自己懐疑」の回路を断ち切った人間というのは、基本的に「知的障害者」でしかありません。まともな人間であれば、自分に「絶対の自信(全能感)」など、持とうとしても持てないのであり、だからこそ、イヤでも「もしかして、間違ってないかな」と自己懐疑も念を持ち、自己検証する、というのは当たり前の話なのでございます。
ですから、それが出来ないのは「病気や障害」の類いであって、それ(自己懐疑)をしたら「負けだ」などと考えて、あえて「知的障害者のごとく、自己の正しさを強弁する人」というのは、単なる「頭の悪い人」でしかないのだと申せましょう。

ちなみに「こんなものが文学だと思っているのか」なんて馬鹿なことを言うのは、文学がぜんぜん分かっていない証拠でございます。と申しますのも、「文学」とは「なんでもあり」だというのは常識の類いですし、その作品が文学であるか否かと、優れた作品であるか否かとは、話が別だというくらいの区別もつかない人が、そもそも「文学」を語る資格など無いのでございます。

また「保坂は変わってしまった」とかいう「被害者意識」丸出しの言葉は、フラレた人間特有の言葉だと申せましょうね。私が論じた嶽本野ばらについても、そのようなことをいう読者が多かったようでございますが、そんな読者に作家が依存していたとすれば、それこそそれは「共依存」でしかないと、私は批判いたしました。
ですから、保坂和志が、そういう愛読者を切り捨てるのは、まったく健康的なことだと存じます。

>  もちろん誰でも好き嫌いはあるのであり、保坂の小説が嫌いであることは責められるようなことではない。だったら、尤もらしいこと言ってないで「俺は保坂(の小説)が嫌いだ。こんなものは断じて認めない」と言ってしまえばいいのですが、それではレビューとして出来が良くないから、取ってつけたように保坂の小説観をあげつらったり、しょうもない揚げ足取りをしたり、「保坂も昔はよかったのに今は……」とか何もかも他人事で物を語る老人のようなことを言ってしまったりするのであり、そもそも自分たちが相手にされていない(信じるべき読者として想定されていない)、いつまでも変わろうとしない自分たちが置いていかれてしまった、とは露とも思わないようです。小説にしても音楽にしても映画にしても、どのような表現形態であったとしても、それに触れている人間に「変わる」ことを要請する作品があることなど想像もつかないようです。こういう態度が行きすぎると、例えば是枝監督や『万引き家族』という作品に対して、ホシュ界隈から投げつけられた「国の助成金を貰っておいて云々フンガー!」というような、聞いている方が恥ずかしくなるようなことを平然と喚き散らしてしまうような人間になってしまうのではないかと他人事ながら心配になります。

人間、変わるときはイヤでも勝手に変わりますから、べつに自分の方が努力して変わらなければならないとは存じませんが、どちらが変わるべきなのかを論じるのであれば、きちんと論理的にその根拠を示すべきでしょうし、それが出来る人は、それをすることでございましょう。
言い変えれば、そうした(必要な)説明が出来ないのに、説明しているつもりになっている人というのは、そもそもそ能力が無く、能力のない自分を直視する能力もない人なのですから、馬鹿に馬鹿と言ってもどうにもならないのですが、ひとまず、他の人には分かるように、その人がなぜ馬鹿なのかを説明することは、意味のあることなのだろうとは存じます。

> 『「それで「小説のことは小説家にしかわからない」というのを私はどういうつもりで言ったんですか。」
> 「そういう風に言われるとますます僕の創作のように人は思いますけど(笑)、僕がデビューして三、四年した頃、自分の小説の読まれ方で混乱っていったら大げさですけど、まあ混乱ですよね、なんでこういう風に解釈されるのか、みんなわざと曲解してるとしか思えないような変な読み方をする……とか何とか、僕が先生にぶつくさ言ったら、先生がそうおっしゃったんです。
>  その小説のことを一番考えているのは書いてる本人なんだから、どう読まれるかじゃなくて自分の考えていることにちゃんと向かい合えっていう、――」
> 「評論家は評論家の考えで読んで、編集者は編集者の考えで読むからね。そこに持ってきて書いてる本人は確信があって書いてるわけじゃないときてるんだから。私だってつねにそうですよ、評論と違って小説は確信を殺ぐような表現形式だから、確信に基づく言葉は全部ピントがズレるんですよ。」』(『読書実録』p.59)
>
>  というようなことは、保坂は自身の敬愛する小島信夫の言葉を引用しながら、ずっと前から繰り返し言っているのです。低評価レビュアーたちの言葉は全て確信に満ちており、であるが故に彼らの全ての言葉は、調子が強いだけの、胡散臭いと言うか中身のない物になり果て、そのことに当人たちは全く気付いていない。

私が思いますに、そういう人たちは『全く気付いていない』のではなく、「なかば気づいている」からこそ、それを強く否定して、「自己懐疑」を降り払わなければならないだけ、なのではないでしょうか? 「僕は馬鹿じゃない! 馬鹿じゃないぞ! 僕を馬鹿って言う、お前が馬鹿なんだ!」という「悲鳴」でございますね。

>  小説家の考える小説(観)と評論家の考える小説(観)に少なからぬ齟齬が出るのは当然のことで、だからこそ、それぞれの違う視点から作品にアプローチすることは意義あることではある。ただ、もしも双方の主張が対立した時は、私はおそらく小説家の考える小説(観)の方に肩入れしてしまうでしょう。つまり私は全然フェアでないのですが、そもそも全ての物事に対してフェアであることなど無理であり、低評価レビュアーの文章よりも保坂の文章の方が遥かに面白いと思っているのだから、そんなに腹を立てる必要もなかった。

私の場合は『小説家の考える小説(観)と評論家の考える小説(観)』の対立ではなく、すべての人の見方は違っており、そこで意味を持つのは「私の見方と、それ以外の人の見方」ということだと存じます。そこでは「小説家」だとか「評論家」だとかいった肩書きは、本質的な意味を持ちません。

>  それにしても近年の保坂は大変にアグレッシブです。文章だけ見ると全然アグレッシブではないのですが、保坂の小説はどれもが、社会に満ちている固定化された小説(芸術)のイメージや、世界を覆いつくそうとしている重い空気のような指向性といったものに対する宣戦布告のように思えるのは私の妄想なのでしょうか。
>
> 『「この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人間を常態として委縮させつづけるという統治の技法がある。日本近代史のある時点で、統治がうまく活用することを学んだ技法である。」
>  私は事あるごとに酒井隆史『通天閣』のこの一節を引用している、この抑圧的な統治の技法の外で生きてきた人たち、いい加減さを選んだというほどの計画性や意思もなくいい加減さに流される生き方をしてきた人たち、彼らはひじょうに敏感な嗅覚を持ち、
> 「あ、まずい、こっち行ったらちゃんとしてしまう、……」
>  と人生の、安定志向の人は気づかない、ひんぱんに出会う岐路で機敏に、ちゃんとしない方を嗅ぎ分けてきた……なんて言ってもそうでない人にわかるわけないか、……』(p.50 原文の傍点は省略)

思いますに、ここで言う「ちゃんとする」というのは、本当の意味での「ちゃんとする」ではなく、通俗的な意味での「ちゃんとする」ということでしかないと存じます。
つまり「ちゃんとしないようにすることで、ちゃんとしようとする」というのが、保坂和志の目指すスタンスでしょう。この論理階梯の違いを認識しないと、混乱して、とんだ勘違いをすることになりかねないように存じます。

ちなみに私は、「優等生タイプ」と自称するとおり、自らを「ちゃんとした」人間だと自認しておりますが、しばしば世間の方が「ちゃんとしていない」ので、私が「変な人(空気を読まない人、空気を乱す人)」や「困った人(トラブルメイカー)」だと見られてしまうのだと考えております(笑)。

> 「あ、まずい、こっち行ったらちゃんとしてしまう、……」という言葉の響きが面白い。一体どういう危惧なのか(笑)、と横槍を入れたくなってしまうのは、私が「ひんぱんに出会う岐路で機敏に、ちゃんとしない方を嗅ぎ分けてきた」人間ではないからでしょう。無論そうでない人間の方が多数派なのであり、おそらく年間さんや、この掲示板の常連である人たちも「ちゃんとする」方を選んできた側であるはずですが、その「ちゃんとする」ということは、保坂や「抑圧的な統治の技法の外で生きてきた人たち」や「いい加減さを選んだというほどの計画性や意思もなくいい加減さに流される生き方をしてきた人」の中で少しも良いことではない、むしろ統治側に利する、積極的に従う、決して抗わない、という圧倒的に不自由な生き方を選んだということであるのでしょうが、「ちゃんとしない」方を選んだ人たちは、そんな尤もらしい批判精神さえ抱かない、とんでもなく適当で、そうであるが故に強靭な、生きること自体が、統治しようとする意志に対する明確な拒否となっている、そんな生き方を、ごく自然なものとして受け入れた人たちなのではないか。

私の場合は「あ、まずい、こっち行ったらちゃんとしてしまう、……」というような「凝った危惧」は抱きません。だって私は、もともと「ちゃんとした」人間なので、そのままでいいと思っているからでございます。
したがいまして、私が危惧するのは、当たり前に「あ、まずい、こっち行ったらちゃんとした人間ではなくなってしまう、……」ということであり、「ちゃんとしていない人間」とは、私のように「ちゃんと考えた結果としての変な人」ではない(凡庸で、形式的にだけ、ちゃんとしてる)人、ということにでもなりましょうか。

そもそも人間誰しも、他人の中で暮らしていれば、つまり社会生活を営んでおれば、いろいろ不満が出てきて「それは違うだろう」と考える始めるのが自然ななりゆきであり、私を束縛しようとするものに対して、素直でばかりはいられない、というのは当たり前のことであると存じます。
もちろん、それなりに筋を通してくれれば「協力」しないでもないのですが、統治的価値観を押しつけられれば「うるせえ、俺はそんなことしたくねえ」と言うのが、当たり前だと存じます。なんで、筋さえ通っていない指図に、黙って従わなければならないのか。これはもう「自由」とか「批判精神」などと言う以前の問題なのだと存じます。

> 『ネットの時代、雑多なレベルの言葉が目に飛び込んでくる、ひどい的外れで不愉快なものほど記憶から追い出しにくく、書くときに共通了解をどこに設定するか、に影響する。人だかりの向こうから石つぶてを投げてくるようなこういう言葉に出会うと、いまの子どもたちは教室の中でもこういう言葉の石つぶてに常態としてさらされているのかと感じる、まさに酒井隆史が書いた、
> 「人間を常態として委縮させつづけるという統治の技法」
>  だ、みんなそれの片棒を担いでいる、統治の末端の役割を自覚なく日々励行している、』(同著、p.64~65)

なんで、そんなことの片棒をわざわざ担ぐのか。きっと、みんな自信が無いのでしょうね。だから、大樹生命に入って安心したいのでしょう。

>『それにしてもだ、友達がここで使った「……に意味があると思えないし」というこの構文の、既定路線で変更しようがないしする必要もないと感じさせる頑強さはどういう語法の効果なんだろうか、語法の問題ではなく私が子どもの頃からこういう壁のような頑強な物言いに撥ね返されつづけたその記憶によるのだろうか。
>  政治的に正しい立場は通用しやすい、しかし私は正しいというところが変だ、怪しい。というかやっぱり正しいことはいいことではない、というか気に入らない、
> 「相変わらずね。」
>  という声がした、
> 「学級委員みたいじゃないか。」
> 「あたしが?」
> 「じゃなくて、正しいっていうのがだよ。」
> 「子どもっぽさが増したんじゃないの?」
>  正しさを基準にする人は自分の価値観を押し付けるが正しさを基準にしない人は価値観を押し付けたりしない。』(同著、p.72 原文の傍点は省略)

このあたり、私は保坂和志の考え方に、少々疑問を感じます。
まず『政治的に正しい立場は通用しやすい、しかし私は正しいというところが変だ、怪しい。』とのことですが、現実問題として『政治的に正しい立場は通用しやすい』とは限りません。また『私は正しいというところが変だ、怪しい。』とか言ってるあなた自身が、自分のその考え方を「正しい」と思ってるじゃないですか、と。

つまり、「形式的に、政治的に正しい立場」は「本質的に間違っていたとしても、通用しやすい」ことがある、という話ならわかりますし、「自己懐疑もなく、私は正しいという(思う)ところが変だ、怪しい。」と言うのならばわかります。それは、その「正しい」が、じつは「間違っている」蓋然性が低くないからです。だから、それは「眉に唾して、聞くべき」ことなのです。

事ほど左様に、保坂和志の言い方は(チェスタトンばりに)「逆説的で面白い」のですが、いささかレトリックが過ぎて「危うい」ところがあるように存じます。読者の「曲者好き」を狙い過ぎて(際物に堕して)いるところがあるのではないかと、危惧されるのでございますね。

>  私はこれらの文章を引用することで、例えば安倍晋三や文在寅や習近平やドナルド・トランプや、ホシュ界隈の面々といった特定の個人やグループを批判したいのではありません。安倍首相は「権力者」ではありますが「統治者」ではないと思っています。私には最早、保坂や酒井が言う「統治の技法」を遂行しようとする意志は実体があるものとは思えない、安倍首相もホシュの同人サークルのメンバーも人間である以上は「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」と全く無縁ではいられない、統治される側にしかなれない、今は権力を持っていれば統治する側になれるというような時代ではない、「統治の技法」に対して無意識である人間は権力の有無に関係なく、独りよがりな「正しさを基準に」して「自分の価値観を押し付ける」ことにばかり精を出すようになり、そういう行為を通じて「統治の末端の役割を自覚なく日々励行」することしかできなくなる……。

『私には最早、保坂や酒井が言う「統治の技法」を遂行しようとする意志は実体があるものとは思えない、安倍首相もホシュの同人サークルのメンバーも人間である以上は「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」と全く無縁ではいられない、統治される側にしかなれない、今は権力を持っていれば統治する側になれるというような時代ではない』という、権力を持っている側についての「被支配性」の存在、という理解は正しいと存じます。

しかし、では、そこから自由であり得る人間とは、誰なのか?
この文脈からすれば、権力によって押しつけられる「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」を弾き返せる人、ということになりますが、だとすれば、そういう人は、あまりこういうことに「懊悩」したりはせず、「イヤなものはイヤ」と言うのではないでしょうか。そういう人こそが「統治の技法」の外部にいられるのであって、ああでもないこうでもないと悩んでみせる人というのは、実際のところ、進んで相手の掌の中で転がされている、ということにはならないでしょうか?

>  私は今回の書き込みのタイトルを、最初は「単純明快さを乗り越える思考」としたのですが、この「乗り越える」という言葉の響きに雄々しいものを感じ、「迂回する」に書き換えました。雄々しさというのは統治側の属性だと思ったのです。雄々しさは人を駆り立てますが、駆り立てるという効果そのものが「統治の技法」であるように感じられたのです。また「単純明快」であること、「単純」なものと「明快」なものは世間に流通しやすく、「統治の技法」で重視される類の性質を帯びているように思い、むしろ疑ってかかるべきであります。複雑なものを単純明快に言い換える、という行為がスマートであると見做される風潮に対する、ささやかながら揺るぎない抵抗を試みなければならない。

「乗り越える」という態度選択が、相手の掌の内に入ってしまっているものなのだとすれば、それはその態度が、相手の道路設定を自明の前提として受け入れているからでございましょう。しかし、その同じ意味で「迂回する」というのも、やはり相手の道路設定を受け入れたものでしかないように、私には思えます。つまり、すでに相手のゲームボード(土俵)上に登ってしまっており、そんなすごろくゲームに興味は無いよという、メタレベルが見失われているように、私には思えます。

『「単純明快」であること、「単純」なものと「明快」なものは世間に流通しやすく、「統治の技法」で重視される類の性質を帯びているように思い、むしろ疑ってかかるべきであります。』という現実認識は、たしかにネトウヨのような「単細胞」ばかりを見ていれば、もっともらしく感じられますが、しかし「ネトウヨは、頭が悪い」という「単純明快」な認識は、一部の「世間」では流通しやすくとも、それとは反対の「世間」ではなかなか流通しないという現実がございます。皆が揃って「ネトウヨは馬鹿である」と認識できるのであれば、誰もネトウヨになどならないというのが、現実だからでございます。

したがって『「単純明快」であること、「単純」なものと「明快」なものは世間に流通しやす』い、というのは、ある限られた「世間」での話であって、それが「すべて」における「正しい理解」だとするのは、間違いではないかと、私には思えます。世の中は、そんなに単純ではないし、そんな単純な認識を「正しい」とも思わないということでございますね。
ですから「単純明快」とか「複雑」とか言っても、それはそれほど「単純明快」ではなく、もっと「複雑」だと私は言いたいわけで、保坂和志の韜晦的な思考法(晦渋趣味・遠回り主義)は、そういう錯誤を与える危険性があるように思うのでございます。

> しかし、そもそも「乗り越える」なんて強い調子の言葉は、保坂には全然そぐわない訳です(笑)。そういうダイナミックな方法ではなく、障害物を前にしたら、どうにか裏道を見つけることで乗り切ろうとする小説家ではないか。しかし、その裏道というのは大抵の場合、進みやすい道では全然なく、むしろダイナミックな方法を実行するよりも面倒臭くて大変な悪路であるのですが、保坂は急ぐ訳でもなく、疲れにくい歩き方や、いい休憩場所があるにもかかわらず、そういう楽をしようとはせずに取り敢えず自分のペースで一歩一歩ゆっくりと進んでいっているのではないか。

保坂和志ファンらしい、肯定的な見方だとは存じますが、『そもそも「乗り越える」なんて強い調子の言葉は、保坂には全然そぐわない』というのは、保坂個人には「似合わない」ということでしかなく、その「乗り越える」というスタイルが「間違っている」ということを意味するわけではないと存じます。
言い変えれば、保坂和志にスタイルがあるように、他の人には他のスタイルがあって、そのスタイル自体には「正誤はない」。あるのは「スタイル選択の正誤」でしかないのではないか。自分に合わないスタイルを選んだら、それで失敗しちゃう蓋然性が高まるよ、という話でしかないように存じます。

それは『裏道というのは大抵の場合、進みやすい道では全然なく、むしろダイナミックな方法を実行するよりも面倒臭くて大変な悪路である』とうような「裏道」認識も、これは保坂和志が「描いた絵」でしかなく、裏道が必ずしも「悪路である」とは限りませんから、「あえて裏道を選ぶ人こそが、真の勇者」だなどというのは、ロマンティックな幻想でしかないように思います。
つまり、「裏道」は「裏道」でしかなく、「悪路」か否かを意味することはなく、逆に「表通り」が「舗装された、通りやすい道」だという保証もない、ということでございます。

したがって、保坂和志が「迂回し」「あえて悪路を選ぶ」というのは、「趣味」か「戦略的選択」であって、「表通りを直進する」態度選択と比較して「正しい(あるいは誤り)」であるという保証は、どこにもないように存じます。

> 『ジュネも若松孝二もある特定の社会を実現させるための革命へとつながる反抗をしたいのではない、一人一人の反抗が可能な社会をいいと言っている、今風の言葉で言えば、一人一人の反抗が可能な社会を擁護している、――
>  二人とも、反抗、勝手な秩序(やり方)、異分子、暴れん坊、困り者、……を人生において実践したわけだ、ジュネのここでの発言(引用者注:「一人一人の人間の反抗はなくてはならないものだ。人は日常のなかで小さな反抗を遂げるものだ。ほんの少しでも無秩序をきたすやいなや、つまり特異で個人的な自分だけの秩序をつくり出すやいなや、反抗が遂げられるのだ」)は社会における反抗を肯定しただけだが、反抗を肯定するということは反抗が可能な社会を肯定したことだったと、反抗の具体例が見つけにくく、反抗というもののイメージがよくわからなくなった今のこの社会になって気がつく。
>  バカがバカでいられない、バカがただのバカでしかない、――』(同著、p.86~87 原文の傍点は省略)

ですから、ジュネも若松孝二も「見かけ上の、正しさ」を問題にしたのではなく、「本質的な、正しさ」を問題としただけだ、と申せましょう。それを「正しさを問題にしなかった」と言い換えてしまっては、本質的な「誤り」にしかならないと存じます。

>  我々に今、本当に必要なのは、統治しようとする意志と戦うのではなく、戦わないようにする戦略なのではないか。

これも、正確に言うなら「相手の土俵に乗せられて、相手の戦い方で戦わされてはならない(相手の思う壷だ)」ということであって「本当に、戦わない」ということではありません。「違う戦い方で、戦わなければならない(そうでないと負ける)」ということなのではないでしょうか。

>  しかし、難しいんだな、これが。と言うのも、先述した通り、我々は結局「ちゃんとする」方を選んでしまった側の人間なのであり(もちろん保坂もそうなのですが)、そういう人間にとって「反抗、勝手な秩序(やり方)、異分子、暴れん坊、困り者」の生き方を実践するのは大変に困難なことなのですね。だって誰かに怒られるかもしれないから(笑)。つまらない自己保身の心情だとは思いますが、この意識からは、なかなか自由になれない。なぜなら我々は「反抗というもののイメージ」が分からなくなっているから。> 「バカがバカでいられない、バカがただのバカでしかない」時代だから。バカであることを恐れてしまうから。誰かからバカ呼ばわりされることを何よりも強く恐れてしまうから。

つまりこれは「世間の眼を気にしてたら、戦えない」と、それだけの話なのではないでしょうか。
言い変えれば、「世間の好意的な眼と肯定的評価も得て、かつ、世間の眼と評価を操る悪意ある権力との戦いもする」というようなことは、単に「二律背反」でしかなく、両方をそのまま求めるのは「無い物ねだり」に止まる(結局、まんま戦わない)、ということなのではないかと。

> それでも私にとって保坂の小説を読むことは「反抗というもののイメージ」を取り戻すための方法を見つけるための一つの手懸かりなのです。

問題はここでございますね。『「反抗というもののイメージ」を取り戻すため』の手段として『保坂の小説を読むこと』というのは「正しい」のか? 「正しい」という表現を避けたいのであれば、「本当」なのか、と問うてもかまいません。

と申しますのも、すでにお気づきでしょうが、保坂和志式の「戦い方」とは、「戦わないこと」であり「遠回りすること」であり「敵に直面しないこと」であるとも申せましょう。
では、保坂和志式の「反抗の仕方」とは、どういったものなのか?
それは「反抗しないこと」であり「敵に逆らわないこと」であり「何も言わないこと」ということになりはしないでしょうか?

なるほど、保坂和志は「何か反抗めいたことを言っている」というのは事実ですが、それは「文学」としてであり、「統治する側」としては「そこに止まっていてくれるのなら、どうぞご自由に」といった場所なのではないでしょうか?

なにしろ「文学」というのは、「個人的」なものであって、基本的に「何でもあり」でございます。子供を拉致して強姦し切り刻んで殺そうと、それが「文学」であるかぎりにおいては、基本的に責任は問われません。
しかし、責任が問われないということは、社会的な力を認められていない、ということでもございましょう。「正面突破すべきだ」と語ろうが「迂回せよ。戦うな」と言おうが、それが「文学」であるかぎりにおいて、それは「結論」ではありませんし、「正解か否か」も問われず、「責任」もありません。それは、「趣味に応じて」好きな人が、自身の「文学的ポリシー」として持ち、語っていればいいことで、趣味の良し悪しが問われはしても、社会的には、つまり政治的には「どっちでもいい」ことでしかないのではないでしょうか。
そして、伊殻木さまが、他でもなく「保坂和志から」学ぼうというのは、それが「文学」に止まるものだと知っているからこそ、そこから学ぼうとしているのではないでしょうか? つまり「結論ありき」ということでございます。

> 私の今回の書き込みを読んで保坂和志という小説家に興味を持った人たちには、ぜひとも、まず『読書実録』を手に取ってもらいたい。この本は『遠い触覚』や『試行錯誤に漂う』程は読みにくいことはありません(と言っても、別に『遠い触覚』や『試行錯誤に漂う』が特別に読みにくいということもありません)。

そんなわけで、私も久しぶりに保坂和志を読んでみたくなりましたので、ひとまずオススメの『読書実録』を読むつもりでございます。それが面白ければ、また他のも読みたいと存じます。

>  具体的なことは何ひとつ言えないけども、とにかく今という時代に言い知れない行き詰まりを感じている人や、特に10代、20代、30代の人たちに読んでもらいたいと強く思います。そういう気にさせるには、私の書き込みはあまりに拙すぎるのですが(泣)。本というものは引用することで内容は紹介しやすいのですが、特定の箇所を抜き出して示す方法では、どうしても著者の思考の流れを断ち切ることになって本来の躍動感が失われてしまうことは避けられない。保坂は特にその傾向が強い小説家なので、ここは私の書き込みなど無視して保坂の小説を実際に読んでみて欲しい、と皆さんにお願いします(笑)。

今回は少々批判的なレスになってしまいましたが、果たしてこれは、保坂和志が悪いのか、伊殻木さまの紹介の仕方が不十分だったのか、それとも私の読みが悪いのか。
いずれにしろ「誰も悪くない」式の「結論」は好きではありませんので、しっかり、読んで考えたいと存じます。

> ちなみに保坂にとっては、スラムの中の人たちの生き方が「反抗というもののイメージ」を得るための参考になっているのではないかと思います。保坂のスラム観は、ある意味で一般的な人道主義とは相反するもので、スラムを不幸の象徴とする考え方は社会的・政治的な意向によるものであり、その中の人たちに自分たちが不幸だと感じている人は誰ひとりいないのではないか、どれだけ不幸としか思えない状況でも、それを不幸だと思うのは、その人がスラムの外の思考で見ているからではないか、というものです(私の言葉で語ることによって、かなり矮小化されてしまっていますが)。
> ここで誤解して欲しくないのは、保坂は「だから彼らを救う必要なんて全然ないんだ」とか言っている訳ではなく(そんな酷い誤解をする人は、この掲示板の常連さんの中にはいないと思うけど)、またN国党の立花のYouTubeに於ける似非エリート意識剥き出しの一連の発言とも無関係だということです。そういう人たちにとって、スラムの人は憐れみと蔑みをぶつける対象ですが、保坂は彼らを仰ぎ見ている、彼らの生き方を通じて「統治の技法」と戦わないようにする戦い方を模索している。

ここで、保坂和志が「スラムの中の人たち」を出してくるというのも、わたくし的には、あまり趣味ではございません。と申しますのも、文学者であり「口舌の徒」である小説家が、「スラムの中の人たち」を持ち出すというのは、あまりにも在り来たりな「(逆)偶像」崇拝(または、作成)のようにしか見えないからでございます。

スラムの人には「不満がない」「反抗なんて考えない」ということを、逆説的に「だからこそ、本質的な反抗だ」とでも言いたいのであれば、私ならば、「スラムの中の人たち」という縁も所縁もない人たちを、ベタかつ知ったかぶりで持ち出すのではなく、例えば、多少は知っている「オタク」を持ち出すことでございましょう。この方が、変に「(逆)権威的」にならないで、清々しいと思うからでございます。

> 『スラムはスラムに暮らす人が内側からスラムについて語った言葉がない、どの言葉もスラムに生きていない人が外側からの論理や価値観や美意識で語ったものばかりだ、かつてスラムに暮らしたという人は今はもうスラムに戻ろうと思ってはいないのだからやっぱりスラムの外からの視点でしかない、スラムは内側から語られることはおそらく決してない。

この言葉は、ちょっと気が利いてるようですが、文字どおり「無意味」のように存じます。
「スラムについて語った人は、すべてスラムの外の人である」とするのであれば「スラム内部でスラムを語る人」が在り得ないのは理の当然で、「例外は無いと定義したから、例外なくそうなのだ」という「同語反復」に過ぎないのではないでしょうか。

>  スラムをみんながみんな生きにくい、スラムから出たいのに出られないと思っているわけではなく、外の世界のことは知らないがスラムはけっこういいところだ、自分はスラムから出たいとは思わないという人がいたとしても、きっとその人はスラムについて語らない――と僕は考えるようになったんです。
>  内側から語る言葉、過去形としてではなく現在そのものとして語る言葉、そういう言葉を持たないということでは、小説家も演奏家も画家もダンサーもみんなそうだ――ということを、スラムを考えるようになってからますます考えるようになったんです。』(p.56~57 原文の傍点は省略)

そもそも「スラム外部の人間である保坂和志が、スラム内部の人の考えを、どうして語ることができる」のか。それが出来るくらいなら「スラムから出た人」にだって語ることは出来るだろうし、それを「語れない」などと決めつける権利や資格が、誰にあるというのでございましょう?

伊殻木さまがご紹介なさっているかぎりにおいては、保坂和志は、自分が「どこに立っている」と思っているのかが定かではなく、なにやら「神(小説家)の視点」に立って、世界を創作しているかのように感じられるのでございます。

>  余談……。
>  稲垣良典『神とは何か』のレビューの【補記11】、拝見しました。1位は『感情天皇論』のレビューなのですね。『神とは何か』のレビューがぶっちぎりのトップだと思っていたので、これは少し意外でした。
>  それにしても彼らの基準はよく分かりませんね。『ルポ 人は科学が苦手』や『リベラルを潰せ』辺りは分かりやすいのですが、彼らにとって、これらよりも都合の悪いレビューは他にあると思うのですが。ほら、例えば『歴史修正主義とサブカルチャー』のヤツとか(私が一番好きなレビューです)。

あの順位は、「参考になった」数順でございまして、必ずしも「被削除」回数順ではございません。
本来なら、そちらの順位を書くべきだったのでございますが、それを数えるのが面倒だったので、すぐにわかる「参考になった」数の多い順に並べてみただけでございます。誤解を与えてしまったとしたら、まことに申し訳ございません。

>  なんにせよ、アマゾンの中で懸命に暗躍(笑)したところで、この掲示板に同じものがそのまま掲載されているのだから、攻撃としては大した効果は望めないと思うのですがね。おそらく、わざわざ個人の掲示板まで除くような奴はいないだろうと高を括っているのでしょうが、残念ながら世の中には私のような物好き(失敬)もいるのです。

まあ、世の中の人々が、みんな伊殻木さまのようにマメで探究心があれば良いのでございますが、なかなか、ここ「花園」まで確認して下さる方は多くはございませんでしょうから、Amazon上から削除するというのも、一定の効果はございましょうね。

ですが、実際のところは、私が「目の前に現れてくるネトウヨは我慢ならんが、他所まではチェックしていられない」というのと同じで、彼らもひとまず「Amazonに書かれるのは目障りだが、あいつの掲示板まではいちいち構ってはいられない」と思っているのかも知れず、それはそれで納得できるところなのではございます。
物事、徹底的にやるというのは、なかなか大変でございますし、殊に私のような「快楽主義者」は、書くのは楽しいけれど、それを周知徹底させる作業というのは面倒で徹底できませんし、それがネトウヨのような、もともと半人前の人間ならば、尚更そうであっても不思議はないと思うのでございます。



それではみなさま、おやすみなさいまし。

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単純明快さを迂回する思考‐保坂和志『読書実録』に関する覚書 \( ̄▽ ̄)/

 投稿者:伊殻木祝詞  投稿日:2019年 9月30日(月)17時27分10秒
   どうも、伊殻木です。私がこの掲示板に書き込みを始めてから私以外の人の書き込みが絶えてしまって若干ビビっていたのですが(ビビる理由がよく分からないと思いますが簡潔に言えば自意識過剰ということです)、ついに先日オロカメンさんの書き込みを発見し、よかった、やっぱり自分の被害妄想だったんだ(何がだ?)、と思ったのも束の間、オロカメンさんの書き込みがあまりに気合いの入ったものだったので正直ビビりました。なんかビビってばかりですが、ああいうものは私には絶対に書けないのですよね。と言うのも、表現物や作品について語ろうとする自分の言葉に自信を持てないと言うか、そもそも語ろうとする動機が決定的に足りないとでも言えばいいのか……要は実物を見た方が早い、と思ってしまうので、見たら見たでいいし、見なかったら見なかったでよし。何かを感じたら感じたでいいし、何も感じなかったら感じなかったでよし。何も感じなかったことで何か不利益を被っても私の責任でなし!という風に思ってしまうのですね。それに、下手に言葉を費やしても表現物や作品の力を矮小化させるだけだ、とも思ってしまう。無論それは私がその程度の言葉しか扱えないということなのですが(泣)。
 しかし今の世の中は、是枝監督やオロカメンさんがやったような真っ向からの問題提起に、斜に構えた態度でしか応ずることができない人間の方が多いように思えるのが何とも残念な状況ではありますが……。

 さて私はと言えば、九月末に出た保坂和志の新刊『読書実録』を読んでいる最中であります。保坂は『未明の闘争』を出した辺りから「一見さん、お断り」と言うような作風になってきたとでも思われているのか、それが取っ付き難く、また高尚ぶっているように感じる人間もいるようです。『未明の闘争』や『遠い触覚』や『試行錯誤に漂う』のアマゾンの低評価レビューが大体そんな感じです。かく言う私も、保坂が『未明の闘争』や『遠い触覚』や『試行錯誤に漂う』といった近年発表した小説(私は保坂の書く物は全て「小説」であると思っています)を通じ、何をどのように考えようとしているのかは、最低でも「小説をめぐって三部作(『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』)」や、佐々木敦の『新しい小説のために』を読んでいないと分かりにくいのではないかと思います(ただし「分かりにくい」と「分からない」は全く違いますが)。
 その一方で私は、自分の見識に一切の疑念を抱かない人間や、相手にばかり要求して自分の立ち位置は全く変えない人間は嫌いで、「こんなものが文学だと思っているのか」「保坂は変わってしまった」といったことを何の疑問もなく言ってしまえる人を見ていると、「合わないのは仕方ないけども、それを保坂(もしくは小説家、そして全ての表現者や創作者)のせいにばかりしてしまうのはどうなのだろうか?」と言いたくなります。
 もちろん誰でも好き嫌いはあるのであり、保坂の小説が嫌いであることは責められるようなことではない。だったら、尤もらしいこと言ってないで「俺は保坂(の小説)が嫌いだ。こんなものは断じて認めない」と言ってしまえばいいのですが、それではレビューとして出来が良くないから、取ってつけたように保坂の小説観をあげつらったり、しょうもない揚げ足取りをしたり、「保坂も昔はよかったのに今は……」とか何もかも他人事で物を語る老人のようなことを言ってしまったりするのであり、そもそも自分たちが相手にされていない(信じるべき読者として想定されていない)、いつまでも変わろうとしない自分たちが置いていかれてしまった、とは露とも思わないようです。小説にしても音楽にしても映画にしても、どのような表現形態であったとしても、それに触れている人間に「変わる」ことを要請する作品があることなど想像もつかないようです。こういう態度が行きすぎると、例えば是枝監督や『万引き家族』という作品に対して、ホシュ界隈から投げつけられた「国の助成金を貰っておいて云々フンガー!」というような、聞いている方が恥ずかしくなるようなことを平然と喚き散らしてしまうような人間になってしまうのではないかと他人事ながら心配になります。

『「それで「小説のことは小説家にしかわからない」というのを私はどういうつもりで言ったんですか。」
「そういう風に言われるとますます僕の創作のように人は思いますけど(笑)、僕がデビューして三、四年した頃、自分の小説の読まれ方で混乱っていったら大げさですけど、まあ混乱ですよね、なんでこういう風に解釈されるのか、みんなわざと曲解してるとしか思えないような変な読み方をする……とか何とか、僕が先生にぶつくさ言ったら、先生がそうおっしゃったんです。
 その小説のことを一番考えているのは書いてる本人なんだから、どう読まれるかじゃなくて自分の考えていることにちゃんと向かい合えっていう、――」
「評論家は評論家の考えで読んで、編集者は編集者の考えで読むからね。そこに持ってきて書いてる本人は確信があって書いてるわけじゃないときてるんだから。私だってつねにそうですよ、評論と違って小説は確信を殺ぐような表現形式だから、確信に基づく言葉は全部ピントがズレるんですよ。」』(『読書実録』p.59)

 というようなことは、保坂は自身の敬愛する小島信夫の言葉を引用しながら、ずっと前から繰り返し言っているのです。低評価レビュアーたちの言葉は全て確信に満ちており、であるが故に彼らの全ての言葉は、調子が強いだけの、胡散臭いと言うか中身のない物になり果て、そのことに当人たちは全く気付いていない。
 小説家の考える小説(観)と評論家の考える小説(観)に少なからぬ齟齬が出るのは当然のことで、だからこそ、それぞれの違う視点から作品にアプローチすることは意義あることではある。ただ、もしも双方の主張が対立した時は、私はおそらく小説家の考える小説(観)の方に肩入れしてしまうでしょう。つまり私は全然フェアでないのですが、そもそも全ての物事に対してフェアであることなど無理であり、低評価レビュアーの文章よりも保坂の文章の方が遥かに面白いと思っているのだから、そんなに腹を立てる必要もなかった。
 それにしても近年の保坂は大変にアグレッシブです。文章だけ見ると全然アグレッシブではないのですが、保坂の小説はどれもが、社会に満ちている固定化された小説(芸術)のイメージや、世界を覆いつくそうとしている重い空気のような指向性といったものに対する宣戦布告のように思えるのは私の妄想なのでしょうか。

『「この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人間を常態として委縮させつづけるという統治の技法がある。日本近代史のある時点で、統治がうまく活用することを学んだ技法である。」
 私は事あるごとに酒井隆史『通天閣』のこの一節を引用している、この抑圧的な統治の技法の外で生きてきた人たち、いい加減さを選んだというほどの計画性や意思もなくいい加減さに流される生き方をしてきた人たち、彼らはひじょうに敏感な嗅覚を持ち、
「あ、まずい、こっち行ったらちゃんとしてしまう、……」
 と人生の、安定志向の人は気づかない、ひんぱんに出会う岐路で機敏に、ちゃんとしない方を嗅ぎ分けてきた……なんて言ってもそうでない人にわかるわけないか、……』(p.50 原文の傍点は省略)

「あ、まずい、こっち行ったらちゃんとしてしまう、……」という言葉の響きが面白い。一体どういう危惧なのか(笑)、と横槍を入れたくなってしまうのは、私が「ひんぱんに出会う岐路で機敏に、ちゃんとしない方を嗅ぎ分けてきた」人間ではないからでしょう。無論そうでない人間の方が多数派なのであり、おそらく年間さんや、この掲示板の常連である人たちも「ちゃんとする」方を選んできた側であるはずですが、その「ちゃんとする」ということは、保坂や「抑圧的な統治の技法の外で生きてきた人たち」や「いい加減さを選んだというほどの計画性や意思もなくいい加減さに流される生き方をしてきた人」の中で少しも良いことではない、むしろ統治側に利する、積極的に従う、決して抗わない、という圧倒的に不自由な生き方を選んだということであるのでしょうが、「ちゃんとしない」方を選んだ人たちは、そんな尤もらしい批判精神さえ抱かない、とんでもなく適当で、そうであるが故に強靭な、生きること自体が、統治しようとする意志に対する明確な拒否となっている、そんな生き方を、ごく自然なものとして受け入れた人たちなのではないか。

『ネットの時代、雑多なレベルの言葉が目に飛び込んでくる、ひどい的外れで不愉快なものほど記憶から追い出しにくく、書くときに共通了解をどこに設定するか、に影響する。人だかりの向こうから石つぶてを投げてくるようなこういう言葉に出会うと、いまの子どもたちは教室の中でもこういう言葉の石つぶてに常態としてさらされているのかと感じる、まさに酒井隆史が書いた、
「人間を常態として委縮させつづけるという統治の技法」
 だ、みんなそれの片棒を担いでいる、統治の末端の役割を自覚なく日々励行している、』(同著、p.64~65)

『それにしてもだ、友達がここで使った「……に意味があると思えないし」というこの構文の、既定路線で変更しようがないしする必要もないと感じさせる頑強さはどういう語法の効果なんだろうか、語法の問題ではなく私が子どもの頃からこういう壁のような頑強な物言いに撥ね返されつづけたその記憶によるのだろうか。
 政治的に正しい立場は通用しやすい、しかし私は正しいというところが変だ、怪しい。というかやっぱり正しいことはいいことではない、というか気に入らない、
「相変わらずね。」
 という声がした、
「学級委員みたいじゃないか。」
「あたしが?」
「じゃなくて、正しいっていうのがだよ。」
「子どもっぽさが増したんじゃないの?」
 正しさを基準にする人は自分の価値観を押し付けるが正しさを基準にしない人は価値観を押し付けたりしない。』(同著、p.72 原文の傍点は省略)

 私はこれらの文章を引用することで、例えば安倍晋三や文在寅や習近平やドナルド・トランプや、ホシュ界隈の面々といった特定の個人やグループを批判したいのではありません。安倍首相は「権力者」ではありますが「統治者」ではないと思っています。私には最早、保坂や酒井が言う「統治の技法」を遂行しようとする意志は実体があるものとは思えない、安倍首相もホシュの同人サークルのメンバーも人間である以上は「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」と全く無縁ではいられない、統治される側にしかなれない、今は権力を持っていれば統治する側になれるというような時代ではない、「統治の技法」に対して無意識である人間は権力の有無に関係なく、独りよがりな「正しさを基準に」して「自分の価値観を押し付ける」ことにばかり精を出すようになり、そういう行為を通じて「統治の末端の役割を自覚なく日々励行」することしかできなくなる……。
 私は今回の書き込みのタイトルを、最初は「単純明快さを乗り越える思考」としたのですが、この「乗り越える」という言葉の響きに雄々しいものを感じ、「迂回する」に書き換えました。雄々しさというのは統治側の属性だと思ったのです。雄々しさは人を駆り立てますが、駆り立てるという効果そのものが「統治の技法」であるように感じられたのです。また「単純明快」であること、「単純」なものと「明快」なものは世間に流通しやすく、「統治の技法」で重視される類の性質を帯びているように思い、むしろ疑ってかかるべきであります。複雑なものを単純明快に言い換える、という行為がスマートであると見做される風潮に対する、ささやかながら揺るぎない抵抗を試みなければならない。
 しかし、そもそも「乗り越える」なんて強い調子の言葉は、保坂には全然そぐわない訳です(笑)。そういうダイナミックな方法ではなく、障害物を前にしたら、どうにか裏道を見つけることで乗り切ろうとする小説家ではないか。しかし、その裏道というのは大抵の場合、進みやすい道では全然なく、むしろダイナミックな方法を実行するよりも面倒臭くて大変な悪路であるのですが、保坂は急ぐ訳でもなく、疲れにくい歩き方や、いい休憩場所があるにもかかわらず、そういう楽をしようとはせずに取り敢えず自分のペースで一歩一歩ゆっくりと進んでいっているのではないか。

『ジュネも若松孝二もある特定の社会を実現させるための革命へとつながる反抗をしたいのではない、一人一人の反抗が可能な社会をいいと言っている、今風の言葉で言えば、一人一人の反抗が可能な社会を擁護している、――
 二人とも、反抗、勝手な秩序(やり方)、異分子、暴れん坊、困り者、……を人生において実践したわけだ、ジュネのここでの発言(引用者注:「一人一人の人間の反抗はなくてはならないものだ。人は日常のなかで小さな反抗を遂げるものだ。ほんの少しでも無秩序をきたすやいなや、つまり特異で個人的な自分だけの秩序をつくり出すやいなや、反抗が遂げられるのだ」)は社会における反抗を肯定しただけだが、反抗を肯定するということは反抗が可能な社会を肯定したことだったと、反抗の具体例が見つけにくく、反抗というもののイメージがよくわからなくなった今のこの社会になって気がつく。
 バカがバカでいられない、バカがただのバカでしかない、――』(同著、p.86~87 原文の傍点は省略)

 我々に今、本当に必要なのは、統治しようとする意志と戦うのではなく、戦わないようにする戦略なのではないか。
 しかし、難しいんだな、これが。と言うのも、先述した通り、我々は結局「ちゃんとする」方を選んでしまった側の人間なのであり(もちろん保坂もそうなのですが)、そういう人間にとって「反抗、勝手な秩序(やり方)、異分子、暴れん坊、困り者」の生き方を実践するのは大変に困難なことなのですね。だって誰かに怒られるかもしれないから(笑)。つまらない自己保身の心情だとは思いますが、この意識からは、なかなか自由になれない。なぜなら我々は「反抗というもののイメージ」が分からなくなっているから。「バカがバカでいられない、バカがただのバカでしかない」時代だから。バカであることを恐れてしまうから。誰かからバカ呼ばわりされることを何よりも強く恐れてしまうから。
 それでも私にとって保坂の小説を読むことは「反抗というもののイメージ」を取り戻すための方法を見つけるための一つの手懸かりなのです。
私の今回の書き込みを読んで保坂和志という小説家に興味を持った人たちには、ぜひとも、まず『読書実録』を手に取ってもらいたい。この本は『遠い触覚』や『試行錯誤に漂う』程は読みにくいことはありません(と言っても、別に『遠い触覚』や『試行錯誤に漂う』が特別に読みにくいということもありません)。
 具体的なことは何ひとつ言えないけども、とにかく今という時代に言い知れない行き詰まりを感じている人や、特に10代、20代、30代の人たちに読んでもらいたいと強く思います。そういう気にさせるには、私の書き込みはあまりに拙すぎるのですが(泣)。本というものは引用することで内容は紹介しやすいのですが、特定の箇所を抜き出して示す方法では、どうしても著者の思考の流れを断ち切ることになって本来の躍動感が失われてしまうことは避けられない。保坂は特にその傾向が強い小説家なので、ここは私の書き込みなど無視して保坂の小説を実際に読んでみて欲しい、と皆さんにお願いします(笑)。
 ちなみに保坂にとっては、スラムの中の人たちの生き方が「反抗というもののイメージ」を得るための参考になっているのではないかと思います。保坂のスラム観は、ある意味で一般的な人道主義とは相反するもので、スラムを不幸の象徴とする考え方は社会的・政治的な意向によるものであり、その中の人たちに自分たちが不幸だと感じている人は誰ひとりいないのではないか、どれだけ不幸としか思えない状況でも、それを不幸だと思うのは、その人がスラムの外の思考で見ているからではないか、というものです(私の言葉で語ることによって、かなり矮小化されてしまっていますが)。
 ここで誤解して欲しくないのは、保坂は「だから彼らを救う必要なんて全然ないんだ」とか言っている訳ではなく(そんな酷い誤解をする人は、この掲示板の常連さんの中にはいないと思うけど)、またN国党の立花のYouTubeに於ける似非エリート意識剥き出しの一連の発言とも無関係だということです。そういう人たちにとって、スラムの人は憐れみと蔑みをぶつける対象ですが、保坂は彼らを仰ぎ見ている、彼らの生き方を通じて「統治の技法」と戦わないようにする戦い方を模索している。

『スラムはスラムに暮らす人が内側からスラムについて語った言葉がない、どの言葉もスラムに生きていない人が外側からの論理や価値観や美意識で語ったものばかりだ、かつてスラムに暮らしたという人は今はもうスラムに戻ろうと思ってはいないのだからやっぱりスラムの外からの視点でしかない、スラムは内側から語られることはおそらく決してない。
 スラムをみんながみんな生きにくい、スラムから出たいのに出られないと思っているわけではなく、外の世界のことは知らないがスラムはけっこういいところだ、自分はスラムから出たいとは思わないという人がいたとしても、きっとその人はスラムについて語らない――と僕は考えるようになったんです。
 内側から語る言葉、過去形としてではなく現在そのものとして語る言葉、そういう言葉を持たないということでは、小説家も演奏家も画家もダンサーもみんなそうだ――ということを、スラムを考えるようになってからますます考えるようになったんです。』(p.56~57 原文の傍点は省略)

 余談……。
 稲垣良典『神とは何か』のレビューの【補記11】、拝見しました。1位は『感情天皇論』のレビューなのですね。『神とは何か』のレビューがぶっちぎりのトップだと思っていたので、これは少し意外でした。
 それにしても彼らの基準はよく分かりませんね。『ルポ 人は科学が苦手』や『リベラルを潰せ』辺りは分かりやすいのですが、彼らにとって、これらよりも都合の悪いレビューは他にあると思うのですが。ほら、例えば『歴史修正主義とサブカルチャー』のヤツとか(私が一番好きなレビューです)。
 なんにせよ、アマゾンの中で懸命に暗躍(笑)したところで、この掲示板に同じものがそのまま掲載されているのだから、攻撃としては大した効果は望めないと思うのですがね。おそらく、わざわざ個人の掲示板まで除くような奴はいないだろうと高を括っているのでしょうが、残念ながら世の中には私のような物好き(失敬)もいるのです。

 それでは失礼いたします。m( ̄▽ ̄)m
 

名作『ファンタジア』と杉野昭夫 一一amazonレビュー:ディズニー映画『ファンタジア』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 9月27日(金)15時45分47秒
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 名作『ファンタジア』と杉野昭夫

 amazonレビュー:ディズニー映画『ファンタジア』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R39GFOGHJ8WLX7


クラッシックの代表的な名曲に、アニメーションによるイメージ映像をつけた、全7話のオムニバス作品。
最後の作品だけ、2曲が使用されているので、全8曲だ。

本作は、私が最も敬愛するアニメーター・杉野昭夫(『あしたのジョー2』『宝島』『家なき子』『ユニコ』等)が褒めていた作品として記憶していた。
当時(約40年前)は『ファンタジア』を観ていなかったので、杉野が『ファンタジア』のどの部分を褒めていたのか正確なところは記憶していないが、いずれ観なければならない作品として、ずっと気にとめていた、アニメ史における名作である。

さて、私の評価だが、最初の「トッカータとフーガ・ニ長調」(バッハ)には、キャラクターの登場しない抽象記号的なアニメーションがつけられており、実験アニメ風の作品で、まずまず面白い。
次の「くるみ割り人形」(チャイコフスキー)では、ディズニーお得意の妖精たちが自然の中を飛び回り、四季の変化をもたらす様子が描かれていて、今の目で見ても素晴らしい、必見の傑作。
当然、後の作品も期待したが、残念ながら残りの5編は、普通に、昔のディズニーアニメ(漫画アニメ風)の域を出ないものであった。

ちなみに、杉野昭夫が作画監督をつとめた劇場用長編アニメ『ユニコ』(原作:手塚治虫、監督:平田敏夫)には、『ファンタジア』第5話「田園交響曲」(ベートーベン)のユニコーンの描写と、第7話「禿山の一夜とアヴェ・マリア」(ムソルグスキーとシューベルト)での禿山の魔神の描写の、影響が見られるように思う。いかがだろうか。

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【補記】 ディズニーとキリスト教の問題

最近刊行された、『キリスト教と死 最後の審判から無名戦士の墓まで』(中公新書)で、著者・指昭博が、『ファンタジア』第7話「禿山の一夜とアヴェ・マリア」に描かれた「死と霊魂」描写の問題について言及している。
「禿山の一夜とアヴェ・マリア」では、夜になると活動し始める「禿山の化身たる魔神」が、墓場から幽霊(霊魂)たちを呼び起こし、幽霊たちが夜の空を飛び回る様子がおもしろく描かれているのだが、これはキリスト教における「死者は、最後の審判までは墓場で眠りつづける」という終末論からすると、正しくない通俗的な死者描写ということになるはずだ。
まして本作で描かれる「禿げ山の魔神」は、見かけ的には完全に「巨大な悪魔」なのだから、夜間だけとは言え、悪魔が死者(の霊魂)を呼び起こすというのは、キリスト教的には穏やかではない表現だと言えよう。「死者の復活」とそれに続く「最後の審判」は、あくまでも「再臨したキリスト」の専権事項なのである。

当然、キリスト教国であるアメリカの、ディズニーのスタッフたちは、そのあたりに配慮したのか、「禿山の魔神」は、はっきりと「悪魔」とは描かれておらず、あくまでも「禿山の化身」というかたちでしか描かれていないし(もとより文章や音声での説明はない)、夜が明け、魔神の威力が失われたあとの後半の描写は、キリスト教の代表的聖歌「アヴェ・マリア(おめでとう、マリア様)」の調べに乗せて、荘厳な巡礼たちの姿(?)と楽園(神の国?)入りを思わせる清浄な風景が描かれて、物語は幕を閉じる。
これは、アニメ作家たちとしては前半「禿山の一夜」の奔放で幻想的なイメージを描きたかったのだが、それだけでは問題があるので、後半の「アヴェ・マリア」でフォローしておいた、ということなのではないだろうか。

そもそも、『フェンタジア』第3話「魔法使いの弟子」(デュカス)には、唯一ミッキーマウスが登場して「魔法使いの弟子」を演じるが、この「魔法使い」というものは、キリスト教以前に、広くヨーロッパに居住していたケルト人の民族宗教の祭司ドルイドが、征服宗教であるキリスト教によって「零落させられたイメージ」であると言われている。
『ファンタジア』でも、登場する魔法使いは、意地悪そうな顔はしているものの、しかしミッキーの師匠なのだから、決して悪人ではないはずで、この作品でも、キリスト教的な「魔法使い=悪魔の眷属」という扱いにはなっていない(ちなみに、映画にもなった、J・K・ローリングの児童文学『ハリー・ポッター』シリーズが、カトリックでは「魔法使いを肯定的に描いた、好ましくない小説」扱いにされている)。

また最近では、日本でも大ヒットした『アナと雪の女王』で、従来であれば「(悪の)魔女」扱いにされていた「雪の女王(エルサ)」は、決して悪役ではなく、魅力的なヒロインとして描かれているし、1959年のディズニーのアニメーション映画『眠れる森の美女』のリメイク版実写映画として製作された『マレフィセント』では、悪役の「魔女(マレフィセント)」の視点から同じ物語を語り直して、マレフィセントが決して単なる「悪の権化」ではないことを強調している(また、両作共に、魔女に「名前」が与えられている)。

このように見てくると、ディズニー作品には、かなり早い時期から「キリスト教倫理」を相対化して、それ以前(および以外)の「文化(宗教・神話)」を公正に評価しようとする視点が感じられる。
これは、西欧世界の束縛から自由であろうとした独立国アメリカの、そして多民族国家アメリカの、「人間主義」の伝統と理想に発するものなのかも知れない。

なお、藤原聖子編『世俗化後のグローバル宗教事情 〈世界編I〉(いま宗教に向きあう 第3巻)』(岩波書店)所収の論文「児童文学の中の魔女像の変容とジェンダー」(大澤千恵子)は、前記の『ハリー・ポッター』や「ディズニーアニメ」あるいは、モンゴメリの児童文学『赤毛のアン』を同様の見地から扱ったものとして、たいへん裨益されたので、紹介しておきたい。

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

巨人チョムスキーへの〈誤解の構造〉一一Amazonレビュー:ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 9月27日(金)15時43分37秒
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 巨人チョムスキーへの〈誤解の構造〉

 Amazonレビュー:ノーム・チョムスキー『我々はどのような生き物なのか ソフィア・レクチャーズ』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R15AZO8GY7U435


本書は、

・ 上智大学における、チョムスキーの2回にわたる講義・質疑応答の記録(ソフィア・レクチャーズ)
・ 翻訳者との対話(「チョムスキー氏との対話」)
・ 翻訳者によるチョムスキー紹介(「ノーム・チョムスキーの思想について」)

をまとめたものである。

そして「ソフィア・レクチャーズ」の第1回は「言語学」に関する議論、第2回は「社会運動」に関するものだ。

本書の場合、最初に、チョムスキーが牽引しつづける言語学についての専門的議論が展開されていて、私のような門外漢は、このまま読み続けても大丈夫なのかという不安にかられたが、結論から言えば、大丈夫である。
本書は、チョムスキーの思想と仕事を総合的に扱って、とてもよく出来た入門書となっていた。

さて、その素晴らしい内容を、素人がいい加減に紹介しても、碌なことにはならないので、ここでは少し視点を変えて、チョムスキーという存在について、側面から紹介したい。
その側面的視点とは、本書でも何度か指摘される、チョムスキーに対する「誤解」の問題であり、「なぜチョムスキーはこれほど誤解されるのか」という問題点だ。これなら、「言語学」についての専門的知識は必要ないので、私にも実例に即して語ることが出来るはずだ。

 ○ ○ ○

チョムスキーという人は、極めて「リアリスト」だと言えよう。
この点について、本書の翻訳者である福井直樹は「ノーム・チョムスキーの思想について」で、次のように語っている。

『 政治社会問題を論じる時のチョムスキーは徹頭徹尾「実証的」である。あらゆるドグマを排する彼は、空疎なイデオロギー的言辞は一切弄さないし、疑似科学的粉飾をほどこして自説をもっともらしく見せることも全く行なわない。真の科学的研究においてはある程度の技術的概念や道具立てが必要になるが、政治社会問題を考える上では基本的な理性の力のみが必要なのであって、難解な概念や疑似科学的道具立ては不必要であるにとどまらず、権威づけの機能を持つゆえにしばしば有害でさえある、というのがチョムスキーの基本的態度である。従って彼は大きな「理論」を語ったりはせず、ひたすら広範で緻密な調査に基づいて得られた莫大な量の「事実」を提示することによって、それらの事実からどのようなパターンが浮かび上がり、社会、経済、政治、歴史等、我々が生きているこの世の中に関して何を学ぶべきなのかをあくまで事実そのものに語らせようとする。』(P196)

これは、チョムスキーの言語学においても、まったく同じことだ。
チョムスキーは、「目新しい理論」「ユニークな理論」や、いきなり「体系的な理論」を立てて世間を驚かすという「鬼面人を威す」タイプとは正反対の、「堅実なリアリスト」である。

チョムスキーが、言語を考えるとき、旧来の構造主義言語学が考えたような「言語という道具が、だんだん作られていく」などという「原因」不問(「言語は、人間の中に自然発生し、発展した」式)の言語学ではなく、「人間に言語を産めたのであれば、人間の中に言語を産む構造がなくてはならない。そして、他の動物に言語がない以上、言語を産む構造は、ある時、進化論的に人間の中に発生したものでなくてはならない」と考える。これは極めて科学的な「原因結果」の発想であり、リアリズムである。
また、その意味では、人間の言語能力は、他の動物にはない特別な能力ではあれ「他のあらゆる能力と同様の、進化論的に生み出された能力にすぎない」という考え方なのだ。

ところが、人間を、他の動物とは本質的に違う、特別な「霊長類」(神のよって霊を吹き込まれた存在)だと考える伝統に(無自覚に)縛られた人たちは、「言語」というものを、人間が「超動物」であることの証拠(「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」ヨハネ福音書)だと考えたいものだから、進化論的な「言語」理解には、拒絶反応を起こしてしまう。
そして、自分たちの非科学性には気づかず、チョムスキーの「科学的な仮説」が、「仮説」であるが故に、「現に目の前にある言語を分析している」自分たちの方がリアリストである、などという自己錯誤に陥ってしまうのだ。
そしてこれが、本書でもチョムスキーが指摘する「方法論的二元論」の問題である。

チョムスキーは、リアリストであり、目の前の現実をそのまま認識できるので、「まだわかっていないこと」に関しては「まだわかってはいない」と言い、その上で、様々な研究成果を参照した上で「こうではないか」という、最もあり得そうな「仮説」を立て、それを提示し、その線にそって研究を進めるという、「リアリスト」として至極当たり前の研究態度を採っている。

ところが「言語」というものを神秘化したい人たちは、チョムスキーのそれのような「観察→考察→仮説→研究→観察→考察→仮説→研究」という過程にある「体系的に完成していない理論(仮説)」を、それゆえにこそ「フィクション」であると否定したがるのである。

では、そういう彼らが何をやっているのかと言えば、当然、チョムスキーとは正反対の、「観念的」で「イデオロギー」的な、現実に即さない「理論的体系化」、つまり「神学大系の構築」なのだ。
例えば、キリスト教では「なぜ世界は存在するのか」「なぜ人間は存在するのか」「なぜ悪は存在するのか」といったことについて、壮大な理論体系を構築している。それが「教義」であり「神学」と呼ばれるものだ。そしてそれらは、「現実」を見ないで、「お話(フィクション)」として理解するならば、それなりに辻褄が合っているのだけれど、そこから排除され無視されている「現実」も少なくないから、リアリストは、そうした「神学的世界観」を、「現実の合理的な説明」とは考えないのである。

しかし、「目の前にある言語」の分析だけに固執して、それを「この世界の中で」合理的に位置づけようという気のない人たちは、自分たちの「ご都合主義的に体系化された言語論」の自称「完璧さ」において、チョムスキーの「合理的仮説研究」を「フィクション」呼ばわりにしてしまう。

つまり、チョムスキーが「リアリスト」であり、「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」を排除する人であるとすれば、そういうチョムスキーが気に入らない人というのは、「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」に偏した、自身のかけた「色眼鏡」に気づかない人たちだと言えるのである。

 ○ ○ ○

さて、以上のように、チョムスキーのリアリズム的「仮説」への反発の根底にあるのは、人間的なあまりにも人間的な「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」であり、そうしたことには、そうとう「頭のいい」人でも、案外自覚が持てないものなのである。
実際、科学の最先端で活躍する科学者の中にも、少なからず「神の実在」を信じている人が存在するし、そうした「矛盾」を矛盾とも思わないで、支持する人たちも大勢いる。

そしてこれが「人間の現実」なのだから、チョムスキーのリアリズム言語論が反発されるのも、ある意味では当然。チョムスキーの言語論に反発する人たちには、チョムスキーの言語に対する考え方が「人間不在=人間の特権性への無視」というふうに感じられているのであろう。

つまり、チョムスキーのリアリズム的な仮説への反発は、きわめて「人間的なもの」に発しており、決して「科学的なもの」ではない。すべては(科学に対する)「人間の(感情的な)態度」の問題なのである。

したがって、チョムスキーへの反発の動機は、こうした「イデオロギー」や「信仰」や「趣味的理想」といったものだけではなく、さらにもっと卑俗な感情に発するものも少なくない。
例えばそれは、「世界的な知の巨人」というチョムスキーの栄光に対する「妬み」である。

チョムスキー関連著作へのAmazonレビューを読んでいると、ときどき、チョムスキーの言語学理論を真っ向から否定する「無名の素人」レビュアーを見かけることがある。
そんなとき私は「この人は何者なのだろう?」「そんなにハッキリとチョムスキーを否定できるほどの根拠や理論があるのなら、それを書いて出版すれば、たちまち世界的な著名学者になれるのに」と思うのだが、そういう人にかぎって、多少なりとも知名度がある人、ではないようだ。

「この人は、チョムスキーを批判する前に、自分を疑うことをしないのか?」と疑ってしまうのだが、どうやら、そういうタイプの人は、一度立ち止まって考える、ということはしないらしい。彼らは、チョムスキーを批判するのに懸命で、自己批評にまでは手が回らないようなのである。

そして、こういう人の特徴は、「根拠提示がなく、否定的断言の連続」で、かつ「衒学趣味的」なのである。
大チョムスキーを否定するためには、「声がでかく、語調強く」「他の権威の後ろ盾」がなければならない、ということなのだろうが、これは見事に、チョムスキーの「リアリズム」と「反権威主義」とは、真逆な特性だと言えるだろう。
その意味でも、感情的に、チョムスキーに反発するのは、きわめて自然なことなのである。

例えば、私もレビューを書いた、酒井邦嘉『チョムスキーと言語脳科学』(インターナショナル新書)について、レビュアー「板風」氏は、星2つをつけた上で「「チョムスキーを超えて 普遍文法は存在しない」への反撃に書かれたか?」というタイトルのレビューを書いている。
その中で氏は、チョムスキーの言語論を、

『チョムスキーが(そして彼を信奉する酒井も)、言語の発生に関しある種の神秘主義に陥っている』

と批判している。そして、このレビューには、35人もが「役に立った」という評価を与えているのだ。
そこで、どんなにすごい内容なのかと読んでみた結果、私の評価は、次のようなものだった。

『『チョムスキーが、1回の突然変異で一挙に完成した言語が出現したと言っている以上』とのことですが、そもそもチョムスキーは、そんなことは言ってないんじゃじゃないですか?
チョムスキーが言ってるのは、5、6万年ほど前だかに、言語を作るための基本装置が、突然変異として脳の中に生まれたのだろう、ということであり、当然、その段階では、言語自体は生まれていない。
つまり、創作能力が生まれて、初めて創作は可能になるのですから、言語というものの創作は、その資本(※ 基本)装置を発展させつつ、同時に、原始的な言語表現から時間をかけて徐々に、言語らしい言語へと漸進的に言語を作っていく歴史的作業であって、当然のことながら、言語が、今の私たちが考えるような言語らしい言語の形をとるのは、ずーっと後の話だ、ということになるでしょう。』

『これはたぶん貴兄が、突然変異、と言うか、進化論を、理解されてないからではないかと思われます。

たしかに「いきなり完璧な言語なんか出来るわけがない。徐々に出来たんだよ」って話は、俗耳に入りやすい。
しかし、進化というのは、ある時までは持っていなかった属性を、ある時から持つようになる、ということであり、ここでの場合は、それが言語機能です。
他の動物は無論、それまでの人類が持たなかった、言語を生み出す潜在能力を、ある時、人類は勝ち得た。
こうした本質的変化は、徐々に起こるものではありません。つまり、獲得されていくものではなく、ある日突然、生まれるものなのです。

しかし、こう書くと、進化論を理解していない人は「そんなに都合よく、突然、高度な能力が生まれるわけない」と思いがちですが、突然変異による進化とは、そういうものではありません。
突然変異というのは、生物が生まれた時から、日々無数に発生しているのです。
で、その突然変異とは、良いものだけではなく悪いものもある。まったく無意味なものも多い。そもそも、突然変異に良し悪しは無い。だって、自然現象ですからね。

そんなわけで、いろんな突然変異が生まれ、それがマイナスに働いて消えていく個体もあれば、プラスもマイナスも無いから、ほとんどそのままみたいな突然変異もある。また、一見、プラスに見える突然変異も、そのままうまく発展していくとは限らない。と言うか、大半は途中でポシャっちゃうのですが、膨大な数の突然変異に、膨大な数の突然変異が重ねられていく中で、奇跡的にものすごく価値のある器官を発展させてしまうことがある。例えば、手足だとか目とかですね。

それと同じように、突然変異を重ねていく中で、ある時たまたま、言語を生み出す構造のようなものが生まれた。
これがチョムスキーの言う、突然変異によって生まれた、普遍文法の原型みたいなものです。
つまり、それは、一度の突然変異で、完成形として奇跡的に生まれた、などという話では全然なく、進化論的にごく当たり前の、合理的な話でしかないのです。
しかし、このあたりのことを理解していないと、一度の突然変異で、いきなり言語が出来上がった、みたいな思い違いをするのではないでしょうか。

したがって、チョムスキーが神秘主義かぶれだなんて評価も、的外れだと思います。
むしろ、チョムスキーがそんな博打みたいなことを主張したと信じる方が、よほど神秘主義的でしょう。

ちなみに、私は、自身のレビューの中で、聖書の言葉を踏まえて「初めに文法があった」なんて書きましたが、もちろん私はクリスチャンではなく、その反対の無神論者であり、だからこそ聖書をからかったわけです。
しかし、こういうからかいも、キリスト教のことを知らなければ出来ません。知っているから、適切に批判できる。
これは、チョムスキーの理論に対しても同じで、チョムスキーが進化論的立場で語っていることを、進化論を理解していない人が批判することは出来ない。
知らないまま批判したら、的外れなものになってしまうのではないでしょうか。』

これは、「板風」氏のレビューの「コメント欄」に書き込んだものである。
氏からのレスがあるかどうか定かではないが、興味のある方は是非チェック願いたい。

また、別の例としては、チョムスキーの『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』(岩波文庫)には、レビュアー「木村弘一(こういち)」氏が、星1つをつけたうえで、「「脳機能=精神」と言う進化論言語学は全滅。構文論=意味論なのでゲーデルdm も没。」というタイトルのレビューで投じており、

『進化論言語学の片方である、記号計算主義の生成文法は、パタン・プラクティス的変形の形式化やプログラム言語用の構文解析という功績は認められる。が、普遍文法論としては、まるで成っていない。』

と評価し、なにやら難しげなことを書いておられる。
そしてさらに、

『構文上の適格性(構造安定性)=意味上の適格性(構造安定性)という事実が、上記の批判から明らかになるので、構文論(証明論)は意味論(モデル理論)とは別物だということを「証明」したつもりの、「ゲーデル不完全性定理」の論拠とされた、「対角化補題」というdm(対角線論法)と、その系である、「カオス(混沌宇宙)理論」=「破壊者サタン(悪魔) = 世界支配者」という「理論」も潰(つぶ)された。』

という、私には理解不能な難しいことを書いて、レビューを締めくくっておられるので、どういう方かと、氏のホームページをチェックしてみると、氏は『デカルト・ニュートン派の 自然科学的 神学、とりわけ、数理 神学、を研究中。』の「作曲家」で、難しげな洋書のレビューも書いておられたので、思わず「おお、これは!」と感心させられてしまった。

ともあれ、チョムスキーのような人は、こういう「一攫千金を夢見る人」たちの標的になりやすいようで、「有名人は、大変だなあ…」と、あらためて思い知らされた次第である。

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快楽主義独身者の〈極論〉一一amazonレビュー:岡田祥子『夫婦幻想 子あり、子なし、子の成長後』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 9月25日(水)15時27分14秒
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 快楽主義独身者の〈極論〉

 amazonレビュー:岡田祥子『夫婦幻想 子あり、子なし、子の成長後 』
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夫婦生活というものが何かと大変だろうというのは、早くから認していたように思う。決して、いろんな人生経験を積み、知恵をつけた今の視点を、過去に投影してるということではないはずだ。

私は現在56歳の、独身男性である。これまで一度も結婚したことがない。結婚したいと思ったこともない。これは負け惜しみではないと思う。

私は昔から、趣味人であり、絵を描いたり、プラモ作りに凝ったり、アニメに入れ込んだりした。「オタク」という言葉が生まれる以前の話である。
高校生の頃は、漫画家かアニメーターになりたいと真剣に考えたが、客観的に見て、力量不足だし、才能もないと思ったので、自ら諦めた。

私は、決められたことはきちんと守る、いわゆる優等生タイプの真面目な人間なのだが、しかし、勉強だけは嫌いだったし、嫌いだからやらなかった。
いや、やらなければと思っても、出来なかったのだ。私は、面白くないことを無理してやる、ということが、どうしても出来なかったので、勉強はしている振りで誤魔化し続けたし、就職してからも「本職は趣味で、仕事は給料をもらうための方便」だと割り切っており、立身出世になどまったく興味がなく、もらった給料は、ひたすら趣味につぎ込んだ。

社会人になってからの趣味とは、読書であり蒐書(初版本蒐集)であり、後には絵画を買ったりもした。また、小説書きや漫画描きの才能は無かったが、批評文は無理なく書けたし、評判も上々だったので、三十数年間、趣味で批評文を書き続けている。
酒もタバコも賭け事も一切やらなかったので、職場では「金が貯まってしかたないだろう」などと冷やかされたりしたが、内心では「結婚してるお前らの十倍以上費っているよ」と内心では笑っていた。文章書きの趣味は、職場では一切、口外しなかった。同僚には、趣味はもっぱら読書とカラオケだと言い、それも嘘ではなかった。

そんな具合なので、積極的に結婚したいとは思わなかった。思う存分趣味に淫し、満足している今の生活を変える気にはならなかった。
子供は嫌いではないが、子供のために、趣味を捨てて働こうなどとは思わなかった。結婚しなければ、余裕の独身貴族生活だが、結婚すれば、そうはいかないというくらいのことはわかっていた。

一度、結婚してもいいと思えるほど好きになった、つまりのぼせ上がった女性がいたが、振られてしまい、それ以降はそこまでのぼせ上がるほどの女性には出会っていない。
もちろん自分が、人並み以上に女性にモテる人間ではないと自覚していたが、だからと言って、自分から結婚相手を探そうとは、一度も考えなかった。
三十を過ぎた頃に、親がしきりに見合いをすすめたが、面倒なので断り続けて、一度だけ親の顔を立てて見合いをしたが、双方、気がすすまなかったようで、それでお終いだった。その後、見合いの話も出なくなって、スッキリした思いだった。

さて、こんな確信犯的独身者からすると、結婚する人というのは、かなり無謀に見える。
惚れた腫れたは最初のうちだけだという話はよく聞くし、実際そんなものだろうと思ったし、いくら好きな人でも、一緒に暮らせば、粗も見えるし飽きも来るだろうと思った。子供は欲しい気もするが、自分の趣味を犠牲にし、子供を作るために結婚しようとまでは思わなかったので、「縁があれば、嫌でも結婚するだろうし、無ければ無いでかまわない。歳をとって後悔するかも知らないが、そこまで先のことを心配して、無理に結婚するわけにもいかないしな」と考えて、結局、今日まで独身のままだったわけである。

だから、こんな私にすれば、結婚する男女は、将来に対する見通しが、あまりにも甘いと思える。と言うか、考えなしに結婚しているとしか思えない。
もちろん私だって、恋愛感情にのぼせ上がって、結婚してもいいと考えたことがあるのだから、そういう場合は仕方ないとも思うが、結婚するのが当たり前だとか、結婚できないと恥ずかしいなどという、世間の常識や他人の目を意識しての結婚というのは、バカじゃないか、としか思えなかった。
人にどう思われようと、別にそれで損をするわけではないのなら、無理に結婚などする必要はない。わざわざ大変な責任を引き受け、自分の好きな生き方を犠牲にするのは、無考えの愚かしさだとしか思えなかった。

したがって、本書に登場する夫婦たちもまた、結婚生活について、あまりにもナイーブだとしか思えない。
世間一般はそんなものなんだろうとは思うものの、その考え無しの行動を納得することは出来ない。
きっと、私の方が、とても変わった人間だということなのだろうが、私が間違っているとは、どうしても思えないのである。

私は、個人的に「宗教」の研究をしているのだが、その根本的な動機である「疑問」とは、「なぜ、あんな絵空事としか思えないような教義を信じることが出来るのか」しかも「かなり教養のある人たちまでもが」というものであった。
私は、主にキリスト教を研究してきたが、結局「なぜ、信じられるのか」という疑問に対する、完全に合理的な答は見つかりそうもない。どんなに賢い人でも、信じる時は信じてしまうのだとしか言いようがない、というのが現実のようだ。

だとすれば、「結婚」というのも、結局は、同じようなことなのではないだろうか。
進化生物学的に「種を残そうという本能から、オスメスが惹かれ合い、つがいを作って子供を成すようにプログラムされているから、結婚するのだ」と言われれば、たしかにその通りなのだろうが、しかし、私のように、本能に逆らって、別の快楽に価値を認める個体もあるし、こちらの方が、本能を凌駕するものを持つという点で、人間らしいとも思う。
しかし、それはやはり例外的存在でしかないということなのだろう。
この差は「個体差」ということなのだろうが、それにしても、具体的で論理的な説明ではなく、一般論の域を出ないものなので、どうにも納得しかねる。

著者も独身だそうだが、どうして、よその夫婦について、ここまで気長に興味を持てるのか、それも私には謎である。

なにしろ読書が趣味なので、自分の知らない世界についての知識を得るために、本を数冊読むくらいのことはするが、宗教とは違って、夫婦の問題については、著者のように熱心にはなれない。
きっと、著者にとっては、逆に宗教など、さほど興味を惹かない対象なのだろう。
これも「個体差」だと言ってしまえばそれまでで、結局のところ、人は他人を理解できないのだ、ということになるのかも知れない。

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陶酔的な情念の〈呪い〉一一Amazonレビュー:赤江瀑『オイディプスの刃』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 9月24日(火)10時45分53秒
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 陶酔的な情念の〈呪い〉

 Amazonレビュー:赤江瀑『オイディプスの刃』
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https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R211T8WAJZIAEK)ハルキ文庫版
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R33DTM8U44OUT7)角川文庫版
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赤江瀑は、呪う作家である。
その阿片にも似た濃厚な情念にとらわれた者は、赤江瀑を追いかけないでいられないであろう。その意味で、赤江瀑の呪いを知らない人は不幸であるし、幸福でもあろう。何も知らずに、明るく平凡な生活の中で、消費的な娯楽とその快楽に生きるというのも、それはそれで無難な幸福には違いないからだ。

赤江瀑を語る上で、「ホモセクシャル」というその属性を、語り落とすことは出来ない。
著者生前には、公然と語りづらい部分ではあったものの、デビュー短編集の『獣林寺妖変』初版単行本の帯には「妖艶! ホモセクシャルの世界!!」という惹句が踊っていたのだから、読む人が読めば、それは否定のしようもないことだったのである。

「ホモセクシャル」作家の系譜と言えば、だれでもまずは『仮面の告白』の三島由紀夫を思い出さずにはいられないだろう。そして、その盟友であった中井英夫が書いた、幻想ミステリの巨峰『虚無への供物』では、赤江瀑がモデルとして登場しているというのは有名な話である。その名も「氷沼紅司」。

また、赤江瀑周辺の「ホモセクシャル」作家と言えば、それはなにも小説家にとどまるものではない。赤江瀑の著作の装幀を担当した、人形作家の辻村ジュサブロー(講談社文庫版『獣林寺妖変』『罪喰い』等)、装幀画家の村上芳正(角川文庫版『海峡』『美神たちの黄泉』等)もまた、忘れがたい「魔の美神」的な存在だ。

彼らに共通するのは、その「耽美」性と、ホモセクシャルゆえの「疎外感と渇愛」であろう。
今のように、若い女性の間でBL(ボーイズ・ラブ)小説が当たり前に消費されても、あるいは社会的に性的少数者(LGBT=lesbian, gay, bisexual, and transgender)の権利が広く叫ばれるようになっても、まだまだ世間の「生理的偏見」までが薄れたわけではないのだから、まして赤江瀑世代の「疎外感」は、けっして尋常一様ものではなかったし、だからこそ逆に、それは消費社会における「ぬるま湯的な作品」には見られない、「赤黒い情念」の渦巻く、非凡な作品へと結晶し得たのである。

本書『オイディプスの刃』は、赤江瀑の長編代表作である。
赤江瀑は、基本的には短編型の作家で、長編は必ずしも得意ではない。というのも、情念をこめた緋文字で物語を綴るタイプの作家には、プロットの構築性が求められる長編は、不向きだったからであろう。
しかしまた、『オイディプスの刃』の場合は、赤江瀑がその個性を矯めることなく、むしろそれを過剰なまでに投入することで、「赤江瀑の長編」として成功した、例外的作品でもある。
本作は「宿命の兄弟」の物語として語られるが、それは「ホモセクシャル的な関係性」を「兄弟」いう形式にズラして描いた作品と考えても、間違いではないはずだ。だからこそ、この物語は「過剰に濃厚」なのである。

ちなみに、本作では「刀剣と香水」がテーマ的に扱われているが、これは容易に「男根と精液(とその匂い)」のメタファーであることが理解できよう。
また、こうした小道具の扱い方は、中井英夫の『虚無への供物』が「植物と色彩」をテーマにしたことと関係があるのかも知れない。中井が、構想して果たし得なかった三部作の残り2作は「鉱物と音」「動物と臭い」をテーマにしたものであった(『ケンタウロスの嘆き』所収「黒い水脈」)。

ともあれ、赤江瀑の作品は、残念ながら「読者を選ぶ」。
平凡で起伏のない日常を、パステル色の幸福を生きている人には、とうてい理解できない世界を、赤江瀑は描いているからだ。いや、描かざるを得ない生を歩んだ、「宿命」の作家だったからだ。

赤江瀑が読者へと突き出す、目に見えない妖刀。
その切っ先が、あっさりと空を切るかのように通り抜けてしまう、生きる世界を異にする人たちが多い中で、稀に、その刃が胸肉に立って、赤黒い血を噴き出させる読者がいる。
赤江瀑は、そんな読者のために、何度でも甦るだろう。
赤江瀑は、決して「代わり」の生まれて来ない、最初で最後の「宿命の小説家」なのである。

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