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『イエズス会(イエズスかい、ラテン語: Societas Iesu)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。耶穌会(やそかい)、ジェズイット、ジエスイット(Jesuit)派、教団とも。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記である。』(前同)
昔、左ぶっていた「きくちゆみ」とか、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の事務局長をやっている「熊谷伸一郎」にかみついたことはございましたけどね。
一一いま検索してみたら、熊谷については『雑誌『世界』編集部に所属。2018年9月号より同編集長となる。』(Wikipedia「熊谷伸一郎」)となっていますから、トンデモの「きくちゆみ」とは違い、こちらは立派な「左翼」ということで、「ネトウヨ」も納得してくれることでございましょう。しかし、あんなのが編集長をやっているようでは、まさに「SEKAI MO OWARI」でございますね(笑)。
〈ブルシット・レビュアー〉を見よ 一一アマゾンレビュー:D・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』
投稿者:園主〈ブルシット・レビュアー〉を見よ
Amazonレビュー:デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の論理』
(https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R19JMIU51QQQR6)
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「2021紀伊國屋じんぶん大賞」第1位を受賞していたので読んでみた。昨年の同賞第1位だった『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(東畑開人)が面白かったからである。
本書は、文体こそくだけてはいるものの、中身はかなりハードで、しかも長い。
だから、「クソどうでもいい仕事」という、けっこう身近な問題に関心を持ち、「この文体なら読めそうだ」と、つい勢いで本書購入してしまった人の半数近くは、きっと本書を最後まで読み切ることができなかったはずだ。
本書を最後まで読み切れる人というのは、しんどくて長い本を、それでも最後まで読み切る「習慣」のある読書家であって、「娯楽」や「話題性」や「自己啓発」や「ビジネス書」といったノリで本書を手に取った読者は、90パーセント以上の確率で挫折したはずだ。そして「内容紹介文」などを参考に、「読んだふり」をして、見栄を張っているだけなのではないか。
また、だからこそ、本書を通読できなかった読者の中でも特に無反省な人というのは、自分の「能力」を棚に上げ、そんな自分を正当化するために、「こんなに長く書く必要があったのか」とか「繰り返しが多い」とかいった、恨みつらみに発する、内容空疎な言い訳でしかない「ブルシット・レビュー」を書かざるを得なかったのであろう。浅薄な自己認識としては「せめて悪口でも書かないことには、元が取れない」とでも感じたのかも知れない。
彼らが本書に期待したのは、要は「クソみたいな仕事がある」ということだけ。それを学者が指摘してくれたら、同意見の持ち主として「溜飲が下がる」といったことだけで、彼らには「ブルシット・ジョブ」が、どのようなところか生み出されてきたものであり、それをどう考えるべきか、なんてことへの「知的興味」や「社会的な問題意識」など、そもそも無いのである。要は、彼らは「期待していた娯楽性が足りない(「俺も賢い」と思わせてくれない)」ということで、腹を立てているだけなのだ。
そしてそれは、そうしたレビューを書いている人のホームページをチェックして、彼らがいかに「薄くてわかりやすい本」がお好きかを確認するだけでわかるだろうし、「ベタ誉めするか貶すことは好きでも、論じることはできない」人たちだということもハッキリするだろう。
さて、肝心の本書だが、私にとっては、一般には自明視されている「労働価値説」を相対化してくれたところだけでも、とても勉強になったし、励ましにもなった。
と言うのも、私は「働かないで遊んで暮らせたら、それに越したことはない」と思っている人間ではあるけれど、だからと言って「労働とは、生きるための必要悪としての苦役」とまでは言い切れなかったからだ。やはり、心のどこかで「労働の崇高さ」という信念に、一目置かざるを得なかったのだが、本書著者は、私の中にもあった、そうした「労働信仰」を、すっぱりと相対化してくれたのである。
本書でも語られているとおり、どうして「市場原理」に反してまで「ブルシット・ジョブ」が増殖していくのかと言えば、それは結局のところ、人間の「妬み」というものの、底知れない強力さのゆえなのであろう。
「俺はこんなに辛い仕事をしている(立派な人間な)のに、楽して稼いでいる(狡い)奴がいる」という「妬み」があるからこそ、「楽して稼いでいる(と感じている)人たち」は、自己防衛のために、自身の仕事を「権威付け、正当化するための仕事」を生まないといけない。そして、そうして生み出された仕事は「無価値な仕事を、価値ある仕事に見せかける仕事」なのだから、それは「価値を生まないし、やっている本人も疚しいし虚しい」ということで「ブルシット・ジョブ」になってしまう。
一方「俺はこんなに辛い仕事をしている(立派な人間な)のに、楽して稼いでいる(狡い)奴がいる」と考えるような、自己中心的な「妬み」に捉われる人というのは、「辛い仕事をして、相応に稼いでいる人」にも「妬み」を向ける。
「(同じように辛い仕事をしているのに)あいつらだけ稼げるのは、不公平だ」というわけだが、そうしたケチな根性によって、「相応に稼いでいる」だけの人の脚をも引っ張ってしまうのである。
そして、これは本書に対する「妬みレビュー」にもよく表れている。要は「こんな、読むのも苦痛な長ったらしい本で、儲けやがって(俺はぜんぜん楽しめず、損したじゃないか)」ということなのだ。
本書がベストセラーにならなければ、そもそもこうした読者の手に取られることもなかっただろうし、「妬みレビュー」を書かれることもなかったわけだが、売れてしまったがために「妬み」を買ってしまったのである。
こうした「妬み」に動機づけられた、「向上心」や「他者への思いやり」に欠けた人が、結局のところ「ブルシット・ジョブ」を生むことになるし、現に自ら「ブルシット・レビュー」を生んでしまう。
本書でも、ニーチェが何度か引用されていたが、「ブルシット・レビュアー」こそ、まさにニーチェの言う「末人」。つまり「憧れを持たず、傲慢とルサンチマンに身を委ねて生きる人」ということなのであろう。
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【補論 読解力と思考力】(2021.04.09)
本書に対する、薄っぺらな悪口レビューを投げつけるレビュアーに共通するのは「長い文章が読めない」という点だろう。
「読めない」というのは、「最後まで読めない」という意味でもあれば、最後まで読んでも「思考力がついていかず、中身を理解できない」という意味でもある。
つまり、こうした読者というのは、基本的に「考えながら読む」ということができず、少し複雑な議論になると、まちまちついていけなくなり、理解できなくなるのだ。
当然、このように「読解力」を持たず、その基礎となる「思考力」を持たない読者は、テキストであれ、物事であれ、表面的にわかりやすい部分だけで判断し、それをすべてだと考えてしまう。
言い換えれば、こういう人たちは、物事を多面的に見ること、いろいろな角度から検討するということができず、その結果、不十分な対象理解に止まらざるを得ないのだ。
こうした人たちの思考形式を、グレーバーは次のように批判するしている。
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『 社会問題一般の議論をめぐる混乱のかなりの部分は、たいてい、このような異なる次元の説明を、それらが同時に作用していると考えるのではなく、どれかひとつの次元に帰着させようとするところに起因している。たとえば、ブルシット・ジョブを政治的に説明するのはまちがってるよ、といってくるひとがときどきいる。そんな仕事があるのは、だれだってお金が必要だからだろ、というのである一一まるで、こうした考えが、わたしの頭をまったくよぎらなかったかのように。ここでは、ブルシット ・ジョブに就いている人びとの主観的動機だけで考えればよいとされているわけで、お金を稼げる唯一の方法がなにゆえそもそもブルシット ・ジョブになってしまうのかといった問いなど、眼中にないのである。
文化-政治の次元においてはもう最悪である。エリート社会のなかでは、動機を問題にできるとすれば、それは個人的な次元について語るばあいのみであるという、暗黙の了解が形成されてきた。それゆえ、権力的立場にある人間たちは公言していないことでもやるものだ、あるいは、公言しているのとはちがった理由でなにかをやることもあるのだといった意見すらも即座に拒絶され、「パラノイア的陰謀論」とレッテルをあてがわれておしまいなのである。ホームレス問題を原因から根本的に解決することは、保守派(ロー・アンド・オーダー)の政治家とか社会保障の供与者の利害とどっかでぶつかるんだよね、などというと、それはホームレスがいるのは秘密結社の陰謀だというのとどこがちがうの、とか、銀行システムはトカゲが操っているというのとおんなじだよ、などといわれてしまうのである。』(P207)
たぶん、読解力の無い人というのは、この文章の意味も取れないだろう。
『社会問題一般の議論をめぐる混乱のかなりの部分は、たいてい、このような異なる次元の説明を、それらが同時に作用していると考えるのではなく、どれかひとつの次元に帰着させようとするところに起因している。』
グレーバーがここで語っているのは、こういうことだ。
社会問題というのは、いろいろな要素を含み持っており、それらの多様な側面や階層について検討し、それらを総合した上でないと、その実態を正しく捉えることはできないのだが、そうした知的作業は、当然複雑なものになるから、思考力がついていかない人は、検討すべき多くの側面や階層を恣意的に切り捨て、問題を誤ったかたちで一面化し、単純化してしまう。
そのため、そうして得られた事態の理解は、その実態にそぐわない誤ったものとなるのだが、物事を一面的にしか見られない人には、そうした認識しか得られないので、それに固執することで、自身の視野の狭さを正当化するしかない。
こうした人たちの特徴は、複雑なものを複雑なままに把握した上で、その本質を剔抉するというのではなく、自分にもわかる、わかりやすい部分を、すべてだと決めこんでしまう。他の諸要素は「関係ない」と決めつけて排除してしまう、という点だ。
したがって、このような人は、複雑な議論には立ち入らないし、長い文章は苦手だ。多くのことが検討に付されていたのでは、到底ついていけないからである。
だからこそ、彼らは「もっと簡単に書け」「説明がくどい(長い)」などと、議論の中身には立ち入らないで、形式的な部分でばかり、子供じみた難癖を付けるのである。
物事の本質を突いてシンプルに表現するという作業は、複雑なものを複雑なままに正しく認識することが大前提だというのは、物事を論理的に考えることのできる人間には、あまりにも自明な事実であろう。
だが、それが出来ない人は、単純であれば、それでありがたいという話にしかならないのである。
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ところで、私はこれとそっくりな事例に、最近お目にかかった。
私は先日、高橋昌一郎『20世紀論争史 現代思想の源流』(集英社新書)のレビューで、著者の高橋教授が、一見したところは「良識派」のリベラルと見えるが、じつはそうでなく「隠れ原発推進派」であり「原発再稼働派」の「原発知識人」に違いない、と批判した。
これに対して、レビュアー「bluegreen」氏から「高橋さんは原発推進派ではないんだがww」というタイトルの反論レビューがアップされたのだか、同氏がそう考える根拠とは、次の一点だけであった。
『2011年震災直後、週刊現代の高橋さんのインタビューをご一読あれと言っておこう。「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない」と答えている。Twilogにある。』
震災直後の、このような「自己申告」があるから、高橋昌一郎教授は「原発再稼働派」ではないというわけだが、原発事故直後ならば、それまで「原発安全神話」に加担していた「御用学者」だって、似たようなことを口にしたであろうことなど、明白ではないだろうか。
だが、「bluegreen」氏は、高橋教授本人がこう言っているんだから、そうに違いない、と決めつけているのである。
つまり、「bluegreen」氏にすれば、私の「読み」は、事実に基づかない「陰謀論的な深読み」だということになるのであろう。
しかし、電力会社が、いろんな口実において、学者や有識者に金をばら撒いて懐柔したというのは、立証された事実であり、それは事故後の今も、多かれ少なかれ続いていることなのだ。
もちろん、電力会社から便宜をはかってもらっている人は、それを公言したりはせず、客観的な第三者を演じて、電力会社に都合のいい世論形成に、それとなく貢献することだろう。
例えば、科学史家として多くの一般向け著書のある高橋昌一郎教授が、前期の『20世紀論争史』を「教授と助手の対話形式」で書いて、助手に、
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『「反科学思想」を身につけた人物、私の周囲にいくらでもいますよ。原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』(P435~436)
と語らせたうえで、自身を投影した「教授」にも、それを否定させてはいないのだか、これを読んだ読者は、原発廃止論者や遺伝子操作反対論者に、どんな印象を持つだろうか。
高橋昌一郎教授は、たしかに「原発再稼働賛成」だと言っていない。
しかし、同書で、
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『放射能汚染問題が、原子力の平和利用にも影を落としている。世界人口の急増に伴って増加し続けるエネルギー需要に対して、原子力発電が世界で果たしている役割には計り知れないものがある。』(P429)
と強調してもいる。
この「エネルギー需要への、原子力の計り知れない貢献」を、高橋昌一郎教授は、本気で「今の人類には使えない技術だ。だから使うべきではない」などと思っているのだろうか。
心からそう思っているのであれば、こんな書き方にはならないと思うのだが、いかがだろう。
しかし、「bluegreen」氏の場合は、本人が否定しているのだから、そうなんだろう、という理屈である。
これが、グレーバーの言う、
『社会問題一般の議論をめぐる混乱のかなりの部分は、たいてい、このような異なる次元の説明を、それらが同時に作用していると考えるのではなく、どれかひとつの次元に帰着させようとするところに起因している。』
であり、「bluegreen」氏が、私のレビューについて書いた、
『年間読書人のレビューを見て???と思ったので、コメントしたい。
あれだけの分量を何を思いながら書いたのか、よほどのコンプレックスと執念を感じるほど、異様としか言いようがない。。。』
といった評価は、まさにグレーバーが差し向けられた、下のような恣意的無理解と、同質なものなのではないだろうか。
『文化-政治の次元においてはもう最悪である。エリート社会のなかでは、動機を問題にできるとすれば、それは個人的な次元について語るばあいのみであるという、暗黙の了解が形成されてきた。それゆえ、権力的立場にある人間たちは公言していないことでもやるものだ、あるいは、公言しているのとはちがった理由でなにかをやることもあるのだといった意見すらも即座に拒絶され、「パラノイア的陰謀論」とレッテルをあてがわれておしまいなのである。』
「bluegreen」氏のような読者は、文学作品において「笑っている人」が登場すれば、その人は「楽しい」のだとしか考えられない。つまり「顔で笑って、心で泣いて」という複雑さが理解できない。
また「優しい言葉をかけてくれる人」は「良い人」としか考えられない。だから「ペテン師」といった、二面性を持つ存在が想定できない。その結果、そういう人に、まんまと騙されてしまうのである。
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