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理想と現実の間の真実 一一『橋のない川』と『新版 水平社の源流』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 2月21日(木)18時07分48秒
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 理想と現実の間の真実

 Amazonレビュー:『橋のない川』と『新版 水平社の源流』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R14YQ5Z6C6FNES
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R32H6DQ4ON9VAY

住井すえの『橋のない川』は、日本文学において特異な位置を占める作品だ。いわゆる「純文学」でもなければ「大衆文学(エンタメ)」でもないし、歴史的事実を扱いながらも、決してドキュメンタリーでもノンフィクションでもない、まちがいなく「小説(フィクション)」である、といった点においてだ。

本書に対する、私以前の11本のレビューは総じて本書に好意的な評価を与えており、それ自体は基本的に正しいものだと思うものの、本書の「小説(フィクション)」性の問題は、本書に好意的ならざる人たちの間でなら必ず問題視されるはずだから、私はそのあたりについて、ここで整理しておきたいと思う。
そのためにここで参照されるのが、水平社博物館編『新版 水平社の源流』(2002年刊)である。

 ○ ○

だが、その前にすこし回り道をお許しいただいて、私個人と「差別問題」の関係について、すこし紹介させていただきたい。
私は昭和37年(1962年)に大阪に生まれて、今に至るまで大阪在住である。そして、そんな私の幼い頃には「あいつは四つや」とか「あのへんは部落や」といった、大人たちの差別的な陰口をじかに耳にする機会がままあったし、「解同は怖い」というのも何度か耳にした。
しかし、実際に被差別部落出身の人と知り合ったことがない。と言うか、いまだに差別が生きている現状では、自分から被差別部落出身だと明かす人はいないので、そういう人たちのリアルな存在は主にテレビを通して接することになり、長じてからは書物を通じて学ぶことになる。

被差別部落出身者を名乗る友人知人はいなかったが、被差別者として在日の人には少なからず知人がいた。というのも、私が小学生の頃、家族とともに創価学会に入ったからで、そこには多くの在日の人がいたからだ。そういう人たちも、同じ創価学会員どおしとして、わざわざ自分が在日であることを強調することはなかったし、私もそういう人たちを「創価学会員の、近所のおっちゃんおばちゃん」としてつきあっていたが、そういう人たちの家に上がった時、チマチョゴリを着た人形が飾られたりしていて、その意味を長じてから知ることになるのである。

私自身は後に、アメリカによるイラク戦争を追認した公明党・創価学会を(政治と信仰の両面において)批判して創価学会を脱会したが、末端の学会員に怨みなどはなく、むしろ親近感を残していたし、彼らが「普通の庶民」でしかないことを重々承知して、そこに日本人も在日もないという「人間の現実」を肌身で感じていた。
だからこそ、そこからの類推として「部落差別」の非論理性は容易に想像できたし、書物をあたればその非論理性は容易に裏づけられもしたのであった。

ただ、私は「なぜ人間はそんな非論理的なものを信じられるのか」という、信仰への漠たる疑問は常にあった。
創価学会員時代の幼い頃には「なにか自分がまだ知らない難しい理由と根拠があるのだろうが、そこまで勉強するのは面倒だし、ひとまず世界平和に貢献する庶民運動としては素晴らしいので、やらなくちゃ」という感覚だったので、だからこそ、後の「イラク戦争」の是認は、その信用を根底から覆すものとして、とうてい容認できなかったのだ。
そんなわけで、私は創価学会を辞めたあとも「人はなぜ宗教などという、確証しようのないものを信じられるのか」という疑問を持ち続け、オウム真理教などの比較的わかりやすい事例に関する研究書を読んだりしてきたが、近年では「宗教の代表」としてキリスト教の研究を始めるようにもなったのである。

さて「なぜ人間はそんな非論理的なものを信じられるのか」という疑問に引っかかってくるのは、なにも「宗教」の問題だけではない。それは「部落差別」も同じだったのである。

どう見たって同じ日本人なのに、どうして「部落出身者」は低く見られるのか、その理由がわからなかった。
単純に考えて、住む場所なんて変えられるものだし、どこに住んでいる人だって、善人もいれば犯罪者もいて、居住地区で人間が一色になるわけがない。もちろん、地域柄というのもあるだろうが、それは何も「被差別部落」だけの問題ではなく、例えば大阪と東京では地域柄は違っているが、しかしそれをして大阪が上だとか下だとかいった議論は、個人差の大きさをまったく無視した、愚かな議論としか思えない。したがって「部落差別」に合理的な根拠があるとは、とうてい思えなかった。

しかし、まずは「事実」関係を知らないことには話にならないと、上原善広による「被差別部落」関連のノンフィクションを読んで、現状について多少は勉強したりもしたが、私の「部落差別問題」に対する興味を決定づけたのは、なんと言っても、戦後日本文学の巨峰と評される、大西巨人の『神聖喜劇』であった。

『神聖喜劇』は戦争文学(軍隊小説)であるけれども「軍隊内での部落差別問題」を重要な要素として扱っている。そして、この作品の魅力は、何と言っても、その論理的徹底性(論理的厳格主義)で、被差別について「可哀相」だと情に訴えるのではなく、「差別の非論理性」を剔抉することによって、軍隊の非論理性、さらには「世間」一般の非論理性を徹底的に暴きだしていたからである。

『神聖喜劇』を読むことで、やはり「部落差別の今」を知るだけでは不十分であると気づいた私は、最低限の古典には当たらないといけないと思い、島崎藤村の『破戒』やその関連書を読んだし、2005年には高山文彦のノンフィクション『水平記 松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年』を刊行と同時に読んだりもしていて、その当時にはすでに、『橋のない川』もいずれ読まなければならない基本文献だと意識してもいた。しかし、全7巻という分量は、読みたい本が多ジャンルで無数にある読書家の私に、長らく着手の決断を躊躇させたのだが、先般ようやく読むことができたのである。

このような経緯のあと『橋のない川』を読んだ私の率直な感想は「世の悪を告発して理想を語るという意味においての勧善懲悪的な作品で、けっして不出来な作品ではないが、しかし、文学としてはきれいごとに過ぎ、情に訴える点に重きを措いている点でも、いささか弱い」というものであった。端的に言えば「これは現実そのものではないだろう」と思ったし、その部分に対するフォローが十分になされているとも思えなかったのである。

私たちの世代は、すでに「被差別部落民」の全員が「悪人でもなければ、善人でもない」という「人間の現実」を知っていた。その代表例が「同和利権」問題である。
もちろん、被差別民とて人間なのであれば、悪人も犯罪者もいるのが当然で、こうした犯罪者の存在をして「だから部落の人間は」などと言うのは頭の悪い人間のすることであるし、こうした犯罪者をことさらにフレームアップすることで「反差別運動」に水を差そうとする勢力のあることも事実であろう。しかし「被差別民にも、悪人もいれば、同情に値しない犯罪者もいる」という現実は直視しなくてはならない。その上で、非合理な「差別」を無くしていかなければならない。「被差別民は全員、無垢な被害者だ」というような非現実的な主張では、そこに「偽善」や「独善」を見る人が当然にも出てきて、かえって反発を招くことは必定だからである。

したがって、私たちが考えなければならないのは「被差別者にも、悪人もいれば犯罪者もいる。その点でも、私たちとまったく同じである。その事実を直視した上で、非合理な差別は論理的に撤廃されなければならない」という理想を掲げることであろう。
そして、こうしたリアリズムの観点からすると、住井すえの『橋のない川』は、やや物足りないと感じられたのだ。

もちろん、著者の住井すえも『橋のない川』が「解放運動の理想像を語ったフィクション」であることは自覚していただろうし、現実の難しい問題はあるとしても、ひとまず「原理原則としての理想」は語られなければならないと考えて、あえてあのような「純文学でも大衆文学でもない、ドキュメンタリーでもノンフィクションでもない、フィクション」を書いたのであろう。その意味では、『橋のない川』は十分に価値のある「フィクション」であったと評価できる。

つまり『橋のない川』という作品は、「差別問題を考える」上での基点(出発点)となるべき作品であって、終着点ではないのだ。この作品を読むことによって持つことのできた問題意識を、読者はそれぞれに深めていくことが求められており、それでこそ真の「反差別」の意志が鍛えられるのである。

 ○ ○ ○

このような観点からして、『橋のない川』のモデルとなった奈良県の部落解放運動の歴史を追った『新版 水平社の源流』はとても参考になる本だった。
『新版 水平社の源流』は、水平社博物館編ということで、まちがいなく「部落解放運動」の側に立った本なのだが、しかしこれは党派イデオロギーの書ではなく、入門書的ではあれ「歴史研究書」であり、そうした研究者的良心に支えられた本であった。

『新版 水平社の源流』で、私がもっとも興味を持ったのは、『橋のない川』の重要登場人物の一人である「村上秀昭」のモデルとなった「西光万吉」の、戦時中の「転向」だ。
『橋のない川』のWikipediaには「村上秀昭」を、

『学力と画才に恵まれ進学したが、その才能が開花するにつれて世間に出自を知られ差別される恐怖が重くのしかかり、小森に戻って来てしまう。穢多寺の嫡子(モデルは西光万吉)。』

とあるが、秀昭は、逃げても逃げても追ってくる「差別」に対し一時は絶望したものの、やがて画業への憧れを振り捨てて、部落解放運動の指導者へと成長していく。
『橋のない川』に描かれた村上秀昭は「平易な言葉で、差別の非合理性を村人たちに教える、信望あつき青年指導者」であり「国家や職業の枠を越えた、被圧迫民の連帯を訴える理想主義者」として描かれる。

『橋のない川』は、当初の6巻分に、後に書かれた第7巻を加えても、そこに描かれたのは、昭和初年頃までであって、シベリア出兵や満州事変などは描かれても、本格的な太平洋戦争の時期には届かなかった。
問題は、その時期(大戦期)の「村上秀昭」のモデル・西光万吉の変貌だ。この変貌は『橋のない川』の「村上秀昭」からは、とうてい想像できないものであった。
と言うのも、住井すえは『橋のない川』で「戦争こそが差別の最大の敵(のひとつ)」という明確な「反戦」の立場に立っており、それを「反差別」運動と連動するものとして『橋のない川』を書いているので、当然、その中に描かれた「反差別の理論的指導者」である「村上秀昭」も、反戦の人として描かれていたのだ。しかし、現実の「西光万吉」は、その立場を堅持することができなかったのである。


『労働農民党、第二次共産党に参加したが、三・一五事件で検挙されて投獄、思想転向を迫られた。結局、転向書を提出して仮出獄後は国粋主義に傾倒し、皇国農民同盟などの極右団体を指揮した。国家主義の観点から大日本青年党と協同し、天皇制の下で部落意識の解消を図ろうとする「新生運動」を起こした。さらに阪本とともに石川準十郎の大日本国家社会党に入党して国家社会主義運動に加わる。こうした融和主義的な姿勢は「水平社」の頃の思想とは全く相いれないものであった。』(Wikipedia「西光万吉」)


西光万吉の「転向」は、決して「偽装転向」ではない。真面目な理論家である万吉は、獄中で自分なりに納得して転向書を書いたのであろうことは、彼のその後の人生における言動に明らかである。


『 西光のいう「日本国体の特異なる本質」「神ながらの道」「天皇制の帰結としての国家社会主義」は、「天皇機関説」の「非国体性を排撃」するまでになり、しかも、軍部政権に期待をかける日本ファシズムにまで至りました。』(『新版 水平社の源流』P194)

『(※ 1938年(昭和13年)にいたっても、差別の根絶という方針に固執する)全国水平社の方針は西光万吉にとっては容認することのできないのものでした。西光は『新生運動』第八号(一九三八年一二月一五日発行)で、全水は今日の状勢を正しく認識しておらず、「国体の本義に基きて更に反省せよ」ときびしく批判しました。そして、「今や我らは『人間に光りあれ、人世に熱あれ』の願望を惟神道に求め八紘一宇の高天原展開に邁進せんとする」と主張しました。一九二二年(大正一一)に水平社創立宣言を起草した西光は、そのときから比べるとずいぶん遠くへ離れてしまっていたと言えるのではないでしょうか。』(前同P227)


戦時下の大政翼賛体制に完全に嵌り込んでいた西光万吉の、これが現実の姿であった。
『橋のない川』の主人公・畑中孝二の祖母で、無教養な農民でありながら人間の本質をきちんと見抜く目を持ち、戦争の悲惨と欺瞞を知る「大衆の原像」的な人物である畑中ぬいが、この「村上秀昭=西光万吉」の変貌を見たらどれだけ嘆き失望したことだろうと、フィクションのことながら、そう思わずにはいられない「現実の悲惨さ」が、そこにはあったのだ。

ところで、『新版 水平社の源流』が「新版」なのは、「旧版」刊行段階では確認されていなかった、戦時中の資料などが多数見つかったからで、それを実証的に研究した結果、「水平社の歴史」の修正がなされたためである。

『一〇年前の全国水平社創立七〇周年に当たっても、(※部落差別撤廃運動における、奈良の水平運動の歴史を伝えるという)同様の目的で『水平社の源流』(『水平社の源流』編集委員会編、一九九二年七月、解放出版社発行)を出版いたしましたが、以後、膨大な新資料の発見が相次ぎ、研究成果も格段に深まってまいりました。そうした成果も踏まえて、今回、新訂版として(※本書『新版 水平社の源流』を)発刊することにいたしました。』(前同「まえがき」より)


『新版 水平社の源流』では、『橋のない川』に描かれた、部落解放運動を立ち上げていった青年たちのモデルの、戦中戦後の動きも紹介しており、戦時中に大政翼賛したのは、なにも西光万吉一人ではなく、彼の周辺の仲間たちの多くも西光と行動を共にしている事実を正直に紹介していた。

そのうえで、私たちが何よりも気になるのは、戦中に大政翼賛体制に「心から翼賛し」、民衆主義的な社会改造の理想を棄てた西光万吉たちが、戦後の解放運動にも草創期からのリーダーとして、そのまま参加していた事実だ。彼らは果たして、戦時中の転向を総括反省したのであろうか。

たぶん、明確にはそれをしていないはずだ。彼らの転向も、すべては本質的に差別をなくすためであったと理解されれば、過酷な戦時下における転向を厳しく弾劾する人たちは、そう多くはなかったはずだからで、だからこそ西光たちは戦後にも差別撤廃運動のリーダーの一角となりえたのである。

まただからこそ、『橋のない川』の作者である住井すえが、西光万吉らの戦時中の言動を十分に知らなかったのであろうことは、容易に推察できる。そのために、住井は躊躇なく西光万吉をモデルとして、理想的な青年指導者である「村上秀昭」を描けたのではないだろうか。

しかし、現実は直視されなければならない。
戦中の転向を十分に反省しないまま、西光万吉らが「部落解放運動」に復帰したことが、その後の運動に幾ばくかの陰を落としていないとは言えないからだ。
それは、戦後の部落解放運動が、『橋のない川』が描いたような「青年たちによる理想主義的な運動」ではなく、「現実の挫折を経験した、屈折した大人たちによる運動」となり、そのリアリズムの悪しき部分が「同和利権」などの一因となったのではないかと、私には思えてならないのだ。

したがって、『橋のない川』的な「理想」は語られなければならないけれども、『新版 水平社の源流』的な「現実直視」も絶対になされなければならない。
この両者がそろってこそ、人は現実の厳しさに脚を掬われることなく、理想を目指すこともできるのではないかと、斯様に考えるからである。


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神の不在ゆえの護教的欺瞞と高慢 一一Amazonレビュー:稲垣良典『神とは何か 哲学としてのキリスト教』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 2月18日(月)12時29分43秒
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 神の不在ゆえの護教的欺瞞と高慢

 Amazonレビュー:稲垣良典『神とは何か 哲学としてのキリスト教』
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この人の議論はいつでも、ウンザリするほど勿体ぶった衒学趣味の三百代言的詭弁であり、所詮は護教的ペテンでしかない。
「著名なカトリック学者なんだから、そんなことはしないだろう」などと考えるような、歴史と宗教に無知な人のために、最初にハッキリと言っておこう。
神学とは、基本的に「わが神は尊し」という「結論ありき」の護教論なのである。そして、十字軍や異端審問と同様、いつでも目的は手段を正当化してきたのだ。

「神とは何か」一一 著者・稲垣良典は「これは、現代においてどこにでもあるような通俗凡庸な問いではなく、自身を問い深めることに通じる、哲学的に深い知恵の問いなのですよ」と、学識を欠き、物事を突き詰めて考える習慣のない人たちに向けて、大上段から思わせぶりで語る(つまり「掴み」としての「カマし」だ)。

しかし、このように「現代における世俗的な知(理性)としての科学(的思考)」や「事実(目の前の現実)」を居丈高に軽んじて見せるのが、「超越性というレトリック」を安易に弄する、独善的な宗教的ペテンの臆面もない常套手段であって、本書もその例外ではない。

著者の言い方は「科学的思考なんて当たり前であり、凡庸なものでしかない。しかし『神とは何か』という問いは深遠なものであり、非凡だ。あなたにはそうした哲学的な思考がありますか?」といったものであり、この手の思わせぶりに食いつく、知的承認欲求の満たされない人たちが、しばしばカルトに引っかかる。

無論、もはやキリスト教はカルトとは言えないが、今もキリスト教の中にはカルトが存在するし、カルトではない教派の中にも、カルト的な人や思考や手法なら、いまも生き続けている。例えば、「悪魔」を実在とするカトリックで、悪魔祓い師が正式に生きているように。

だが、キリスト教に無知な人は「キリスト教はカルトではない」と、その無知ゆえの単純明快さと警戒心の無さで、そうしたレトリックに易々と乗せられてしまう。

「神が実在しない」ということを「科学」は証明(確証)できない。一一これは有名な「悪魔の証明」というやつで、「存在しないことの証明」は、神だろうと悪魔だろうと、あるいはウルトラマンであろうと、確証はできないのだ。

しかし、神や悪魔やウルトラマンが存在しないというのは、「歴史的」には明らかだ。
「ウルトラマン」が人間の作ったものだという歴史的事実があるように、「神」や「悪魔」も、人間の創作でしかないことは、歴史的事実に即して「ほぼ」間違いない。

ウルトラマンが、100パーセント「宇宙のどこにもいない」とは確証できないのと同様に、神も悪魔も、どこにもいないとは確証できないけれど、少なくとも「聖書に書かれた、キリスト教の神(エホバ)」や「処女から生まれ、処刑後3日目に復活した後、肉体を持って天に昇った、主イエス・キリストという神」が存在しないというのは、歴史的には明白な事実だ(カトリックの稲垣が、この比喩でも何でもない具体的事実としての正統教義への、正面からの言及を避けている点に注目)。
このように、キリスト教の各種教義と歴史的事実の矛盾(さらに、公会議による強権的辻褄合わせの無理)を考え合わせれば、そんな超越的存在など存在しない蓋然性は、ほぼ100パーセントなのだ。

しかし、だからこそ著者は「キリスト教の言う神とは何か」とは問わずに、「神とは何か」と曖昧に問うてから、キリスト教の神の話にずらし込んでいく。

言うまでもなく、キリスト教信者にとって「キリスト教の言う(聖書が教えるところの)神は存在しない」という可能性は、是が非でも認められない。
なぜならそれは、なにより自分自身の人生とアイデンティティを否定するものだからで、だからこそ現代では「存在する証明」は避けて「存在しないという証明はできない」などと言いたがる。そして「キリスト教の神」ではなく、無定義な「一般的な神」を持ち出し、議論の余地を担保しようとする。

だがそれは、いかに深遠めかそうとも、所詮は物事を突き詰めて考える習慣のない人向けの、歴史的にもありふれたペテンでしかない。こんなことは何度も繰り返されてきたのだ。
それがペテンに見えないのは「キリスト教という金看板」の権威のせい(目くらまし)であって、中身の問題ではないのである。

「抽象概念としての神」なら、いくらでも論じればいい。
しかし、その前に「聖書の神」の不在について、正直に認めてから議論をしてもらいたいものだが、そっちこそが「(本書前半で秘められた)本丸」である以上、老獪な著者に正直な態度を求めても無駄だろう。
だから、読者に言おう「美味しい(甘い)話」や「リアルな人間が不在の、高尚深遠めかした話」には要注意。つまり「眉に唾して読む知性を持て」と。

なお、私はすでに稲垣良典の旧著へのレビューで、真正面から稲垣を論駁している。
同じことは繰り返したくないので、ぜひそちらをご参照いただきたい。そうすれば、稲垣のペテンの常習性もその手口も、おのずと明らかになるはずだ。

いずれにせよ、稲垣良典が「学者」の肩書きにおいて有り難がられるのは、間違いなく生きている間だけだろう。
ベストセラー小説家と同様、ジャンルを問わず「使い勝手の良い現役の物書き」というのは、いつでも同時代のうちは過大評価されがちなのだ。

無論、キリスト教書にも優れたものはいくらでもあるので、神に近づきたいのなら、そちらを読むべきだろう。
併せて、科学啓蒙書や哲学書、そして歴史研究書なども読めば、稲垣の弄する初歩的なペテン(鬼面としてのペダントリ、無根拠な決めつけ、はぐらかし等の合わせ技)に引っかかることもないはずだ。

また、本書を「信仰という病い」の根深さを学ぶための反面教師とするのは悪くないし、知識以上の知恵や自己探求を極める信仰による高次の認識といったものを語る著者が、いかに不似合いな「文体」の持ち主かに注目して、主張と内実の不相応という「ありがちな現実」を学ぶのも悪くない。

ともあれ、お手軽に真理を掴みたいなどと横着なことを考える心の隙に、悪魔はつけ込むものだということを、読者はゆめゆめ忘れてはならない。


・稲垣良典批判 一一 カトリック保守派の最悪の部分
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・稲垣教授の華麗なる逆説 一一 続・稲垣良典批判
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・本稿

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「メルケル読みのメルケル知らず」一一Amazonレビュー:アンゲラ・メルケル『わたしの信仰』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 2月12日(火)21時01分47秒
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 「メルケル読みのメルケル知らず」

 Amazonレビュー:アンゲラ・メルケル『わたしの信仰 キリスト者として行動する』
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一読して、ため息が出た。彼我の開きの、なんと大きいことか。
もちろん「訳者あとがき」で『こうした多くの政治的課題は日本にも当てはまるところだが、ドイツでは社会的市場経済を重視して共生と福祉を行き渡らせようとしており、彼我の違いを感じずにはいられない。』(P247)と書かれているとおりで、要は、ドイツの首相であるメルケルとわが国の現首相(安倍晋三)との、政治家として(あるいは、人として)の「出来の違い」という話だ。

どう違うのかを、ここで縷々説明する必要はないだろう。メルケルの倫理的信念と政治家としての実存主義的行動力は、間違いなくそのキリスト教信仰に支えられたものであり、この講演集に収められた言葉を見てもそれは明らかだ。彼女の言葉には借り物ではない「熱いハート」が息づいており、官僚の作文を国会で読み上げるだけなのに「云々」を「でんでん」と読んでしまうような、どこぞの首相とは、すべてにおいて比べるのも愚かなほどの懸隔がある。

しかし「国民の水準以上のリーダーは生まれない」とも言うから、私たち日本人は、わが国の首相をバカにしたり、他国の首相を絶賛することだけで、自身が免責されたような気分になっていてはならない。それでは、まさに「安倍並み」あるいは「安倍相応」ということになってしまうからだ。

本書を読む読者の大半は、まちがいなくキリスト教徒だろう。そしてそういう読者の多くは、メルケルという現代の優れた政治的指導者が、自分と同じ信仰を持っていることを誇りに思い、彼女を絶賛することを惜しみはしないだろう。そのことで、自身の信仰の価値までが保証されると、勘違いしがちだからだ。

メルケルという人の「強靭な倫理」を支えているのがキリスト教信仰であるというのは、間違いない事実だろう。だが、キリスト教信仰が、その信者の誰に対しても「強靭な倫理」を与えるものでも支えるものでもないというのも、また無視できない事実だ。
現に、キリスト教信者の政治家はいくらでもいるけれど、皆がメルケルのようであるわけではないし、キリスト教信者のすべてがメルケルの様であるわけでもないのだ。そこを忘れてはならない。

たしか、メルケルも『神は人に作用する火なのです。この作用する火を、わたしたちも(※キリスト者の誰もが)自らの内に持っているべきだと思います。』(P189)と言うとおり、「信仰」は力を持つ。しかし、その力は必ずしも「正しい力」を持つわけではない。その信仰の故に、多くの人を死にいたらしめたという悲惨な歴史を、他宗教はもちろん、キリスト教自身が何度も刻んで来たという事実は、メルケルも指摘しているとおりである。

ならば「信仰の力」とは何か。
私はそれを「実効性のあるフィクション」であり、ある種の「増幅器」だと考える。つまり「良い力」も「悪い力」も増幅してしまう装置だ。人を人以上のものにしてしまうほどの力だ。

メルケルの場合は、信仰によってその優れた資質が増幅強化されることにより、稀有な政治家としてのメルケルになった。だが、良き資質を欠いた者が下手に信仰を持てば、悪しき部分が矯められるばかりだとは限らない、というのが、歴史の現実なのである。


『信教の自由とは、信仰告白や信仰の確信を大目に見る以上のことを意味しています。寛容は、他者の信仰告白に対する無関心と取り違えられてはなりません。ですからわたし個人としては、みなさんが「宗教改革と寛容」というテーマをどのように扱っていかれるのか、大いに関心があります。寛容が単なる黙認ではなく、他者と関わりを持ち、他者の行いを見て自分の確信を確認することを意味するならば、それはわたしたちがときとして踏み込むのをためらっているような相互関係のことではないでしょうか。人はしばしば、他者の前で敬意を抱きつつ無言で佇み、信教の自由とはいわば討論をほとんど禁ずるようなものなのだ、と考えてしまいます。それは、自分の信仰告白の立場に自信がないことから生じた態度であることが多いのです。』(P116)

『 もちろん寛容な態度には、自分と考えが違う人に対する尊敬も含まれています。ですからみなさんが寛容についての議論なさるときには、キリスト教が寛容ではなかった時代、間違いを犯した時代もあることを示すことが重要だと思います。』(P117)

『わたしたちはどうすれば、論争という言葉をかつてのようにもう少しポジティブな意味合いで使えるのでしょうか?(中略)
 わたしの考えでは、良い意味での討論や論争は、社会のさらなる発展に寄与するものですし、もっと評価されるべきだと思います。わたしたちには対話が必要です一一信仰が違う人々、意見が異なる人々との対話もです。』(P200~201)

『 互いに心を開き、他者と関わり、他者の目で世界を見てみようとすること一一それはすばらしい体験であり、しばしば自分の地平を広げてくれます。骨が折れることでもあるのは、認めます。インターネットの時代には、気楽に自分と同じ意見の人とだけ会話するということも可能なのですから。興味深いのは、個人的に知り合えるよりもずっと多くの人たちがネット上にいるということです。ネットばかり見ていると、やれやれ、みんな同じように考えているんだな、と思うようになります。でもひょっとしたらその人はたった一つの泡のなかにいるのかもしれません。そしてまだ何百、何千という別の泡が存在するのです。だからこそ、互いに関わり合うことはとても重要です。』(P210~211)


本書のレビューで、メルケルを絶賛し、本書を絶賛するキリスト者は、はたしてメルケルがここで言っていることを、どれほど理解しているだろう。
信仰に自信があるのなら、外へ出ていって「他者」と関わりを持ち、忌憚のない討論をして、自身の信仰を鍛え上げ、検証できるはずだ。しかし、そうではなく、手前味噌な「身内ボメによる自画自賛(マスターベーション)」に満足して、小さな「泡」のなかで自足していないだろうか。

私は、最初に「国民の水準以上のリーダーは生まれない」という話をしたが、この「国民=日本国民」を「日本のキリスト者」と入れ替えても、なんら間違いではないと思う。

私は「無神論者」であるけれども、徹底した無神論者は下手な信仰者などより、よほど求道者であり信仰者的であろうと思う。だからこそ、このように討論的なのだ。自身の信仰に自信があるからこそ、他者(信仰者)との討論を怖れはしないのである。

プロテスタントでありながら、メルケルはカトリックにも十二分に配意している。それは西欧世界においてカトリックは無視できない存在だという政治家的判断だけではなく、キリスト教の本質を、その「形式」ではなく「精神」つまり『キリスト教的人間像』において捉えているからであろう。
また、そんなメルケルであるからこそ、やはり「人(実存)」を見ている。本書の編者フォルカー・レージングは「編者解説」で次のように書いている。

『ヨハネ・パウロ二世の後継者であるベネディクト十六世とは、彼がまだ枢機卿だった時代にすでに知り合っている。彼の知性に強い印象を受けたとメルケルは親しい人々にくりかえし語っているが、ドイツ出身の教皇とドイツの女性首相とのあいだには個人的な親近感は生まれなかった。
 現教皇のフランシスコに対しては、メルケルは珍しく心を動かされたようだ。二人はこれまで何度もバチカンで面談している。難民危機が二人を精神レベルで兄妹にしたように見えるかもしれない。(中略)
 メルケルにとっては、フランシスコは神学者としてよりも、外側からヨーロッパを見ているアルゼンチン出身の教皇として興味を抱かせる対象である。』(P17~18)

メルケルにとって、ベネディクト十六世が所詮は「とびきり頭のいい著名な神学者」でしかなかったのに対し、フランシスコは軍部独裁政権下で「人のため教会」を守り抜いた「倫理的かつ現場の人」だったのだから、政治家であるメルケルが親近感を抱くのは当然だし、そんなフランシスコが南米からヨーロッパにやってきたという事実は、メルケルにはフランシスコが「まれびと」だと感じられたことだろう。

ともあれ、日本のキリスト者は、メルケルの言うような『キリスト教的人間像』に合致した存在であろうとしているだろうか。すなわち「開かれてある」ことの勇気を、信仰の勇気を示せるだろうか。
メルケルを絶賛するだけで自足するようなキリスト者は「頭でっかちの軽信者」でしかなく、「メルケル読みのメルケル知らず」ということにはならないだろうか。

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橘玲の理論的矛盾「現実語りの現実無視」一一 橘玲『もっと言ってはいけない』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 2月 6日(水)03時03分9秒
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 橘玲の理論的矛盾「現実語りの現実無視」

 Amazonレビュー:橘玲『もっと言ってはいけない』
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面白い本だ。それは、その内容もさることながら、わざわざ人の神経を逆撫でするようなことを書かねば気の済まない著者の性格も興味深ければ、そんな著者の想定どおりに「自分がバカにされた感じて、その怒りを露にする知的レベルの低い読者」の反応も面白いからだ。

本書に書かれていることは、極めてシンプルだ。大雑把に言えば「人種によって、知的能力に差がある」という事実である。
こう書くと「人種差別だ」と言いだす人が多いというのは、著者も当然のごとくあらかじめ想定している。だから、著者はそれが科学的には否定できない事実であることを、多様なエピデンスを示すことで証明しているのだが、それでもこの証明を「イデオロギー」的に頑なに受け入れない人が多いこともまた、あらかじめ想定している。そして、著者の真の狙いは、そういう「イデオロギー的妄信者」を批判することにこそある。

つまり、著者は「人種によって、知的能力に差がある」という事実を指摘することによって、「人種差別を助長する」ことを目的としているわけではなく、「政治的に不都合な事実=否定すべき悪」という図式でしか物事を考えられない人々、「事実」と「是非善悪」を区別できない人々を、批判しているのである。

個々人の間に「知的能力差」や「体力的格差」あるいは「容貌的美醜」があるというのは、ほとんどすべての人が認めるところだろう(ごく少数だが、これを否認して「知能の質的差異はあっても優劣は無い」とか「形態的差異はあっても、本質的美醜は存在しない」などと、うまいこと言う人もいるだろうが)。
だが、そうした「格差の現実」があることと、それを理由に「差別してもいい」ということは、同じではない。というのも、人というのは「人」であるかぎり「差別してはいけない」のであって、「知的優劣」や「体力的格差」や「美醜」などは、差別を正当化する理由にはならないからだ。

そして、この「人間的原理の理念」を知的にしっかり理解しておれば、「現実的差異」の存在を怖れる必要など無いのだから、個人間だけではなく、人種間に「知的優劣」や「体力的格差」や「美醜格差」があってもぜんぜん構わない。「事実を事実と認識すること」と「差別すること」とは、別問題だからだ。
もちろん、「知的(体力的)に劣る」とか「容貌的に醜い」と言われる方は気持ちの良いものではないが、しかし客観的な根拠を示しての「単なる(悪意の無い=差別的ではない)事実の指摘」なのであれば、それを事実として認めるのが「知的」であるということなのだ。

なお、一般に「知的優劣」という場合の「知的」とは、「現代社会において求められる種類の知性」という「現代の人類全体にほぼ共通して求められる知性」のことであるから、現代世界において概ね一般性を持つ(「体力」はさらに一般性を持つ)が、「美醜」の問題は「時間的・空間的に極めて限定されたブーム」的なものを除けば、結局は「個人の趣味」の問題でしかないから、一般性を持つ(一般論としての)「美醜の優劣」というのは、論理的には、ほぼ語り得ない。
平たく言えば「白人が美しく、黒人が醜い」とは言えない。「白い肌が美しい」という美意識も「黒い肌が美しい」という美意識も、どちらも正しく、間違いではない(赤色と青色のどちらを美しいとは、客観的には決められない)。つまり、現代の万人共通の美醜基準が設定できないから、一般的な事実(現実)としての「美醜格差」などは語れないのだ。(例えば、グロテスクなものの中に美を見る人は少なくない。事ほど左様に「美醜の問題」は単純ではない)

ともあれ、このようなわけで「不都合な事実を怖れることはない。むしろそれを直視する勇気こそが、知的な人間のすべきことだ」というのが著者・橘玲の主張である。

しかし、ここで終れば「嫌われ者」にはならないのに、著者はここで「なのに、リベラルは偽善的にこの事実を隠蔽する」と批判するから、自身リベラルであるにも関わらず、リベラルからは嫌われるし、リベラルには見えないのだ。

「リベラルは偽善的に、人種格差という不都合な事実を隠蔽する」という橘玲の非難は、大筋においては正しいと、私も思う。ただ、リベラルが不都合な事実を「善意において」隠蔽することを、必ずしも批判はしない。なぜなら、橘玲自身も認めているとおり、人間には「知的格差という厳然たる事実」があるので、多くの人が「不都合な事実」を正しく理解できるとは限らないからだ。より正確に言うなら、リベラルな知識人が隠蔽したがる「不都合な事実」とは「極めて誤解されやすい事実」なのである。

リベラルな知識人だって、基本的には「事実はすべて、そのまま明らかにして、すべての人の理解を求めるのが好ましい」と考えている。しかし、それがほとんど不可能な事実があるというのもまた現実であれば「この種の事実を、剥き出しに語るのは止しておこう」と考えるのは、当然の配慮だ。喩えて言うなら「自殺妄想にとらわれている人には、刃物は渡さない方が良い(彼・彼女にも刃物を使う権利があっても)」というのと同じことだ。

もちろん、こういう考え方は「大衆保護の名目において、情報操作をすることを正当化する」ことになりかねない危険なものではあろう。しかし、ここでリベラルが問題としているのは「名目」ではなく「実際であり本心」、「偽善」ではなく「善意」そのものなのだ。実際に本心から善意において「理解力に劣る多くの人たちのために、不都合な情報を隠蔽している」のであって「自分たちに利するように、知的に劣る人を誘導するために、善意を装って、特定の情報を隠蔽している」わけではないのである。

こう書くと「リベラルなら、なぜ人々を信じないのだ」と、そう批判する人もいるだろう。リベラルの理想主義的美意識からすれば「無条件に大衆を信じる」ことは素晴らしいことだから、それをしたいのは山々なのだが、しかし、リベラルだって「知的に盲目」なのでなければ「残念ながら、難しい話を正しく理解できない人は大勢いる」という「現実」を見ないわけにもいかないのである。

だから、著者・橘玲による「リベラルは偽善的に、人種格差という不都合な事実を隠蔽する」という非難は「読みが浅い」と評価するしかない。
リベラルがそのような「偽善的な善」を行うのは、本書の著者である橘玲よりも「現実を直視している」からであり、橘のように「自分の感情だけで」言葉を発してはいないからなのだ。そして、そのあたりの「察しの悪さ」による「配慮の無さ」が、橘玲を「リベラルらしからぬ人」にしているのである。
つまり、「現実を直視せよ」と言うのであれば「現実を直視した上で、適切な発言をせよ」ということにもなって、子供のように単純に「王様は裸だ」なんて吹聴してまわる幼稚な行為で、いい気になるな、ということにもなるのだ。


なお、本書に不快な思いをさせられて、わかりやすい反発をしているのは、リベラルな知識人ではなく、リベラルだけれど知的ではない人か、ネトウヨを含めた個人的に知的に劣った人たちであろう。

仮に「日本人は、世界で最も知的レベルが低い」という科学的事実が判明したとしても、それは「日本人は、全員バカだ」という意味ではなく「平均すれば、世界一バカだ」という意味でしかなく「日本人のなかにも、世界の最先端レベルの賢い人もいる」という事実をなんら否定するものではない。
だから、自分に自信のある日本人なら、こうした「不都合な事実」にも動ぜず、冷静かつ知的に対応することができるし、逆に、自分の個人的能力に自信が無い者は「日本人は、世界で最も知的レベルが低い」と言われると、まさに「お前はバカだ」と言われているような気になるので、「日本がバカにされた」と、一般論に見せかけて、「知的格差の現実論」を感情的に否定するしかないのである。

そして、こういう(ネトウヨに象徴される)頭の悪い人(傷つく人)が、現実として少なくないからこそ、そういう人のためにも、リベラルは「誤解される可能性の高い、不都合な事実」をそのままには語りにくいのだし、橘玲のように単純に「正直に語れ、現実を直視せよ」などと、現実無視の呑気なことも言えないのだ。

考えても欲しい。「人種によって、知的能力に差がある」という事実を紹介すると「それなら、優れた人種が劣った人種を管理支配すればいい。それが合理的だ」と考える、ヒトラーや麻生太郎のような「頭の悪い人」は、残念ながら少なくないのだ。

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『HUGっと!プリキュア』と現実の世界

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 2月 4日(月)00時13分15秒
  みなさま、私、先日より、テレビアニメ『HUGっと!プリキュア』のDVD鑑賞を始めました。なんのためかと申しますと、『HUGっと!プリキュア』論を書くためでございます。
この作品が、名作であり問題作であるというのは、ファンの間ではすでに知られた事実でございましょうが、それが一般に認知されることは、なかなか難しゅうございましょう。それで、私も及ばずながら一肌脱ごうと考えたのでございます。

この作品は、プリキュアシリーズ15周年の15作目として作成されたアニバーサリー作品で、「子育て」をテーマにしております。
しかし、そうは申しましても、私は読書のためにシリーズもののテレビ番組は視ないことにしておりますし、アニメが好きとは言え、プリキュアは「低年齢層の女児向けかつ教育的な優等生番組」という印象がございましたので、たまたまテレビを点けたときにやっていれば、ちょっと視てみるという程度でございました。
で、今回の『HUGっと!プリキュア』も、たまたま初めて視たのは第6話の「笑顔、満開!はじめてのおしごと!」の回で、その内容は、前記の私の印象を強めるものでしかなく「悪くはないけど、これなら視なくてもいいな」というのが、その時の正直な感想でございました。
しかし、今から振り返ってみますと、この第6話は、初期のプリキュアトリオが集まった後の、ちょっと息抜き的な回であったことが分かります。この後も各登場人物の迷いや悩みとその克服を描く回と、コメディー要素の強い楽しい回が交互に表れ、その間にそれとなく複線を貼りながら、新しいキャラクターを加えてゆき、飽きさせない展開のなか、終盤ではぐっとテーマがせり上がってきて感動のラストを迎えるのでございます。

さて、この作品の傑作性は奈辺にあるのか?
それはこの作品が「この暗い時代」と真正面から向き合って、一歩も退かなかった点でございましょう。
その意味で、この作品は、困難な未来を生きていかざるを得ない、今の子供たちに励ましのエールを贈るとともに、未来に希望を失ってしまった「疲れた大人たち」に対しても、力強くエールを贈る作品になったおります。

現実は、理想どおりにも思いどおりにもいかない。けれども希望を胸に抱きしめて、何度でも立ち上がっていくプリキュア。
「はぐたん(希望の象徴としての「赤ちゃん」)は、私が守る!」「プリキュアは絶対に諦めない!」「何度でも奇跡を起こす!」と叫びながら、倒されても倒されても、敵にたちむかっていく彼女たちの姿は、まさに「正統派のヒーロー」でございます。
そして、本作『HUGっと!プリキュア』で描かれる敵の正体は、決して単純な悪人ではなく、じつは「未来を諦めた大人」「人々を不幸な未来から守るために、あえてその未来を奪おうとした、闘い疲れて挫折した大人」でございました。
ですから、本作の主人公キュアエールこと野々はなの最後の戦いは、そんなラスボスを倒すことではなく、彼を癒して、その心に希望の光を取り戻すことだったのでございます。

本作『HUGっと!プリキュア』は、DVDがまだ最後まで出ておりませんので、実際に論文を執筆するのは、すこし先のことになるでしょうが、この作品は、それだけの手間をかけるに値する作品だと、私は評価しております。機会がございましたら、ぜひご覧下さい。



オロカメンさま

「アレクセイの花園」との思い出について

> アレクセイさんが過去批評していた様々な本の中で、ぼくが影響を受けた思い出深い本を、あえて三つ上げるとしたら、以下三冊になると思います。
>
> ・小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)
> ・斎藤貴男『機会不平等』(文春文庫)
> ・ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール』(集英社新書)

ああ、この3冊は、私も目を開かされ、多大な影響をうけた本でございました。
そして、これらの本で示された問題は、今でもなんら変わらずに生き残っております。

>  今では「自分なりの本を選ぶ基準」は、やっと最近自分独自のものを確立できてきたと思いますし、「本を選ぶ嗅覚」も、随分と鍛えられてという自身があるのですが、そういう感覚を鍛えるうえでけっこう重要だったのは、ぼくにとってはアレクセイさんという信頼できる批評家を持ったと言う事が大きかったんじゃないかなあと思っています。

恐縮いたします。
しかし、オロカメンさまにこのようにおっしゃっていただけたことが、私にとってどれほど大きなことかは、たぶんお分かりにはならないでしょう。
それなりに有名な小説家であっても、1本のファンレターによってそれまでの仕事の「すべてが報われた」と感じることがあるようでございますが、まして私はアマチュアですし、どちらかと言えば、批判を中心として、多くの人には耳の痛いことを意識的に書き続けてきた人間ですので、幾人かの親しい友人からそれなりに高く評価されたとしても、見も知らぬ他人がどのように評価しているかは、まったく分かりませんでした。
もちろん、批判的・反時代的なものを書く以上、人に好かれることよりは嫌われることが多いのは当然で、むしろそれも本望だと覚悟してはおりましたし、その意味で「瓶詰めの手紙を、大海に投げつづける」ような想いでずっと書いてまいりました。それがこの歳になって、率直にこうした思い出を語っていただけ「やっぱり、誰かには届いていたんだ。決して無駄ではなかったんだ」という、救われた想いがしたのでございます。

>  ……ちなみに、今でもアレクセイさんのレビューされている本は、たびたび購入して読むことがあります。なんだか、ずうっとお世話になりっぱなしみたいだなあ。ということで、今後ともお世話になりますm(_ _)m

いえいえ、その分を、私は返していただいたと思っておりますよ。
本当にありがとうございます。

> 日常化するスピリチュアリズムの危うさ 一一 堀江宗正編『現代日本の宗教事情』

>  最近、鈴木大拙の『日本的霊性』を読んで気付いたんですけど、この『「(とにかく)信じることは素晴らしい」的な心性』は、仏教で言えばちょうど浄土真宗の思想がそういう考え方だったようですね。
> それが現代日本人にも共通する意識になっているのかどうかは分からないんですが、浄土真宗の考え方というのは、学がない凡夫もそのまま難しい事を考えなくとも「南無阿弥陀仏」で救済しよう、というのがあるようです。
>
> これは柳宗悦が『妙好人論集』言っていた事ですが、キリスト教の、特にプロテスタント系の説教では学のある牧師様がしっかりと自分の考え方を持って知的な説教をし、そこにはしばしば哲学や倫理学や社会学や経済学も織り込まれる。
> 信者のほうも多かれ少なかれ教養を身に着けていて、それをちゃんと批判的に聞き、あの教会の神父の説教のどこが良いとかどこが悪いとか、そういうやりとりがあると(おそらく戦後すぐあたりの時代の状況だと思いますが)。
> それに対して浄土真宗の説法というのは、とにかく信者は何も考えずにありがたいありがたいとお坊様のお話を聞くそうです。お坊様の言っている内容などどうでもいい、とにかく「仏様のお声に触れらること自体がありがたい」ということで、例えお坊様が怠けて全く同じ説法を何度となく繰り返しても、気にすることなく毎回毎回聞きに来てはありがたいありがたいと聞いているのだそうです。

なぜ『キリスト教の、特にプロテスタント系の説教では学のある牧師様がしっかりと自分の考え方を持って知的な説教をし、そこにはしばしば哲学や倫理学や社会学や経済学も織り込まれる。』のかと申しますと、宗教改革が発生する前、つまりキリスト教界がカトリックとプロテスタントに分裂する以前のキリスト教会は、聖職者が聖書を独占して、一般信者には見せなかったのでございます。ですから、信者は聖職者の言うことを鵜呑みにして信じるしかなかったし、だからこそ教会の腐敗堕落も起こった。
そこでルターは「免罪符」に代表される教会の腐敗を糾弾するとともに、俗人が読めるドイツ語聖書(ルター訳聖書)を刊行して、自身の教義的正しさを世間に知らしめようとしたのでございます。

しかし、聖書の翻訳は、何もルターが初めてではございません。それまでにも何人かが教会の腐敗を批判すると同時に、聖書の翻訳を行ったのですが、そういう人たちは「異端」認定されて殺されてしまったのでございます。
そして、ルターの造反が成功したのは、ドイツの当時の政治的情勢や印刷技術の問題など、いくつもの幸運があったからだと申せましょう。そうでなかったら、ルターもまた異端の一人として抹殺されたに違いありませんし、実際、カトリック教会では長らく、近年にいたるまでルターは「異端」扱いだったのでございます。

で、そういう経緯がございますので、プロテスタントは「近代」思想や科学と親近的であり、そうした立場からカトリックの前近代的権威主義体質を批判してきたのでございますが、第1次世界大戦の惨禍が、近代的思考や科学的進歩思想の楽観的な絶対性を揺るがすものとして理解され、カトリック的なものが巻き返したりもしたのでございます。

また「浄土真宗」の説法が「とにかく信者は何も考えずにありがたいありがたいとお坊様のお話を聞く」というかたちだったものも、それは「身分制」のゆえに教育を受けることができず文盲だった庶民の目を、この世の不条理である「身分差別」から逸らせるものとして、政治的な役割を担っていたからでございます。

つまり「今は、前世の行ないの報いとして、つらい生活を強いられているが、これは自業自得だから仕方ない。そのかわり、そういう庶民を哀れむ阿弥陀様を一心に拝めば、つまり念仏を唱えれば、彼岸では極楽に行けるし、来世は恵まれたところに生まれてくることもできる。だから今は文句を言わずに、一生懸命働いて、一心に念仏を唱えなさい」といった趣旨の説法だったのでございます。
これは、どこか宗教改革以前のキリスト教会を思わせますよね。でも、権力と結びついた宗教の仕事というのは、だいたいこういうパターンになるのでございましょう。

ところで、昨年末から読んでおりました、住井すゑの『橋のない川』(全7巻)は、部落解放同盟の前身である全国水平社の歴史を、昭和の初年あたりまで描いた、未完の長編小説でございます。この作品では「村上秀明」の名で登場する、重要人物の一人「西光万吉」は、この物語でも生き生きと描かれているとおり、

『全国水平社設立の中心人物で、水平社旗の意匠の考案者および水平社宣言の起草者として知られる。従弟の亀本源十郎も水平社で活動していた。
奈良県御所市の被差別部落の寺院、浄土真宗本願寺派西光寺に生まれる。多感な青年期に受けた数々の差別に悩み、学校を転々とし離郷して画家志望となるなど出自をめぐる悩みを経験。その頃に起きた米騒動に触発され、同郷の盟友である阪本清一郎(後の水平社共同設立者)、駒井喜作らと共に青年運動、社会改造運動に没入していった。』(ウィキペディア「西光万吉」より)

という人物であり、見てのとおり「浄土真宗本願寺派西光寺」の生まれでございます。
そして彼の実父の住職は、自身の居住地区において、「同和」運動つまり「同胞融和」のために被差別民(エタと呼ばれた)の生活向上に尽力した人物として描かれておりますが、それは「自分たちが、貧しく、教育がなく、粗野だから差別されるのだ。だから、それを無くしていけば差別は無くなる」という発想によるもので、秀明=万吉たちは「それは誤摩化しでしかない。いくら立身出世しても、陰では『あれはエタだ』と後ろ指をさされるというのが差別の現実であり、ことは自分たちの生活水準や心がけの問題などではない。差別は、人を政治的に分断する政治的なものに発しているのだ」という認識に立って、反差別の運動を始めるのでございます。

で、上記のとおり、秀明=万吉の父親である浄土真宗の住職は、善意ではあれ「自業自得論」に類した発想において、被差別者たちの正当な怒りを、天皇を中心とした支配者階層から逸らす役割を担っております。
つまり「浄土真宗」は虐げられた人たちに寄り添いながらも、その正当な怒りを慰撫して、権力に資する役割を担っていた宗派だったというのが、この物語でもよく分かるのでございます。またそうであったからこそ、後に浄土真宗は「差別戒名」を批判されることにもなるのでございますね。

このように見てくると、宗教は「現実逃避」の道具であり、結果として権力の統治機構の一部に組み込まれていたことがわかるのでございます。
もちろん、今のスピリチュアリズムは組織的なものではございませんから、今のところ権力機構とは直接の繋がりはございませんが、権力がそうした「便利な道具」をいつまでも放っておくことはないというくらいの警戒心は、あって然るべきだと私は考えるのでございます。



それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

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「アレクセイの花園」との思い出について

 投稿者:オロカメン  投稿日:2019年 2月 3日(日)18時55分12秒
   アレクセイさん、こんにちは!
 また久々の投稿になっちゃいました。
 ちょっと1月はしばらくのあいだ風邪をひいてしまっていたので、読書を中断していたんですよね。で、2週間ぶりくらいにやっとお酒も読書も解禁しましたので、こちらのほうにも投稿させていただきますよ☆

 さて、本日は新年になってから一発目の投稿と言う事ですので、ここで一度いつもの趣向を変えて、今回はぼくがこの「アレクセイの花園」を熱心にROMってた頃のことをちょっとばかり振り返ってみようかと思います。


 まず、ぼくの学生時代の読書傾向と言いますと、8割~9割くらいが小説で、しかもミステリばかり読んでいました。
 あの頃はとにかくミステリに詳しくなりたくて、一冊でも多くのミステリを読もうと頑張っていました。小説以外の本についても、犯罪捜査の本やら犯罪心理学の本、ミステリの評論、気になる推理作家のお得意のジャンルの関連本(笠井潔だったら、哲学の本とか……)など、あくまで「推理小説の理解を深める副読本」として読むものが多かった気がしています。

 そんなぼくでも、社会人になってからだんだんと読書傾向が変わっていく事となります。やはり、生活が変わると読書傾向も変わって来るものなんですかね。
 社会人になってからは、ビジネス書も含めて、小説以外の本を読むほうが多くなった。必要に駆られてビジネス書なんかをたびたび読んでいるうちに、それにつられて小説以外の本も読むことが多くなったのかもしれません。

 そういう時期にちょうどこの「アレクセイの花園」にハマったので、アレクセイさんのお勧めしている本については興味津々で、けっこう自分も手に入れて読んだ記憶があります。

 そもそも何故ぼくが「アレクセイの花園」にたどり着いたかと言うと、アレクセイさんがミステリ・マニアの中ではとても有名人だったからで、そんなアレクセイさんの評論が直接読める(しかもタダで!)と言うのがとても魅力的だったからです。
 当初「アレクセイの花園」を読んでは、当時のぼくが最も高く評価していた推理作家である笠井潔を、さらに高いレベルで批判しているその論調にクラクラしていましたし、とんでもなく頭のいい人達とのとんでもなくレベルの高い議論なんかにもクラクラしていました。

 そういう事で「アレクセイの花園」はけっこう熱心に見ていたので、そのころ社会人になって多く読むようになってきた小説以外の本については、かなりの部分、アレクセイさんのレビューを参考にして購入するようになっていました。
 ちょうどそういう本に興味を持ち始めた時期だったので、ぼくが評価する批評家さんがそういう本についてのお勧めを教えてくれるというのは、とてもありがたかったわけです。非常に良いタイミングだったわけですね。

 そんなアレクセイさんが過去批評していた様々な本の中で、ぼくが影響を受けた思い出深い本を、あえて三つ上げるとしたら、以下三冊になると思います。

 ・小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)
 ・斎藤貴男『機会不平等』(文春文庫)
 ・ノーム・チョムスキー『メディア・コントロール』(集英社新書)

 特に『脳死・臓器移植の本当の話』は、アレクセイさんが絶賛していたのを見てすぐに本屋で探しまくって見つけて、一気呵成に読んだのを覚えています。読み終わった後、しばらく呆然としました。
 これは、ぼくにとって相当ショックな内容でした。
 この後ぼくは一気に脳死・臓器移植には反対の立場を取るようになって、この本は周囲の人に随分お勧めして回りました。当時の上司にまで勧めたくらいです(笑)。

 斎藤貴男さんの『機会不平等』も、非常に印象深い本です。
 社会人になって初めて「格差社会」というのを意識したのはこの本があったからだし、年若いうちにそういう格差問題を理解できて、格差が広がる恐れのある政策について敏感になったのも、この本があったおかげだと思います。
 これを読んでから斎藤貴男さんの本はしばしば購入するようになりました。

 チョムスキーの『メディア・コントロール』も、けっこう今まで何回も読み返しています。
 これを初めて読んだときは、何だかぼくの中で、今まで持っていた「民主主義」というもののイメージや考え方がガラガラ崩れ去っていくような感覚がしたものです。

 この三冊が特別思い出深いのは、これらを読むことによって自分の読む本の種類の幅が一気に広がっていったというのが大きいと思います。

 今回振り返ってみて改めて思うのは、自分の好みや信条に合致する「信頼する評論家を持つ」と言う事は、自分の視野を倍以上に広げてくれるものなんじゃないかなあという事でした。

 ぼくには今まで信頼できる師匠のような人物はいなかったんですが、「本読みの先輩」として(一方的にですが……)信頼できる人はいたんだなあということに気付きました。
 たぶんぼくは、アレクセイさんの批評を見ることで、自分好みの本を見つける基準を作り上げるための足掛かりがしっかりできていったんじゃないかと思います。

 今では「自分なりの本を選ぶ基準」は、やっと最近自分独自のものを確立できてきたと思いますし、「本を選ぶ嗅覚」も、随分と鍛えられてという自身があるのですが、そういう感覚を鍛えるうえでけっこう重要だったのは、ぼくにとってはアレクセイさんという信頼できる批評家を持ったと言う事が大きかったんじゃないかなあと思っています。


 ……ちなみに、今でもアレクセイさんのレビューされている本は、たびたび購入して読むことがあります。なんだか、ずうっとお世話になりっぱなしみたいだなあ。ということで、今後ともお世話になりますm(_ _)m


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> 平成天皇夫妻と政治的右派の暗闘 一一 ケネス・ルオフ『天皇と日本人』

 この本、すごく面白そうですよね!
 朝日新書だったら定価でもさほどお高くないので、ちょっとチェックしてみようかな。

 こういった外国の方の「外からの視点」に触れると、日本人として全く素通りしていた見方に気付かされ、ハッとすることが多いので、けっこう好きです。ロラン・バルトの日本論『表徴の帝国』なんかも凄く好きで、何度か読み返しているくらいです。

 しかし、近ごろのテレビでは「日本が素晴らしい、日本が素晴らしい」という外国の方ばかりを選んで取材しているような感じを受けて、あれは何だか逆に申し訳ない気がしてきてしまいます。

 そう言うのではなく、全く日本国内の利害関係や固定概念とは無関係な立ち位置にいる外人からの「外からの視点」に触れられるという意味で、アレクセイさんも仰っている「そのタブーの外にいる率直さ」というこの著者の見方には興味を惹かれます。


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> 日常化するスピリチュアリズムの危うさ 一一 堀江宗正編『現代日本の宗教事情』

 この本も興味あります!
 最近、鈴木大拙の『日本的霊性』を読んで気付いたんですけど、この『「(とにかく)信じることは素晴らしい」的な心性』は、仏教で言えばちょうど浄土真宗の思想がそういう考え方だったようですね。
 それが現代日本人にも共通する意識になっているのかどうかは分からないんですが、浄土真宗の考え方というのは、学がない凡夫もそのまま難しい事を考えなくとも「南無阿弥陀仏」で救済しよう、というのがあるようです。

 これは柳宗悦が『妙好人論集』言っていた事ですが、キリスト教の、特にプロテスタント系の説教では学のある牧師様がしっかりと自分の考え方を持って知的な説教をし、そこにはしばしば哲学や倫理学や社会学や経済学も織り込まれる。
 信者のほうも多かれ少なかれ教養を身に着けていて、それをちゃんと批判的に聞き、あの教会の神父の説教のどこが良いとかどこが悪いとか、そういうやりとりがあると(おそらく戦後すぐあたりの時代の状況だと思いますが)。
 それに対して浄土真宗の説法というのは、とにかく信者は何も考えずにありがたいありがたいとお坊様のお話を聞くそうです。お坊様の言っている内容などどうでもいい、とにかく「仏様のお声に触れらること自体がありがたい」ということで、例えお坊様が怠けて全く同じ説法を何度となく繰り返しても、気にすることなく毎回毎回聞きに来てはありがたいありがたいと聞いているのだそうです。

 浄土真宗の信者における、全く素朴でなんの疑いもなくただただありがたいありがたいと言う受け身の姿勢も宗教的には実に尊いものなのかもしれませんが、この姿勢は「たとえその事で騙されたところで問題ない」という姿勢なので、現実的に考えるとなんとも損だとしか言いようがない。

 アレクセイさんのレビューを見ていて、ぼくはその浄土真宗の信者の、完全受け身な素朴な信仰心に、そういう「スピリチュアリズムを「宗教的なもの」の怖さから切り離して安易に信じ弄んでしまう態度」と似たようなものを感じました。

 ということで、最近どうも仏教系の本との巡り合わせが多いので、『現代日本の宗教事情』 と言われると興味が湧いてきます!
 

日常化するスピリチュアリズムの危うさ 一一 堀江宗正編『現代日本の宗教事情』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 2月 2日(土)22時58分13秒
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 日常化するスピリチュアリズムの危うさ

 Amazonレビュー:堀江宗正編『現代日本の宗教事情〈国内編I〉』 (いま宗教に向きあう 第1巻)
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本書は、大きく次の4つのテーマを扱っている。
(1)岐路に立つ伝統宗教、(2)新宗教の現在、(3)現代人のスピリチュアリティ、(4)在留外国人と宗教、である。
本書を読むような人なら(1)と(2)はお馴染みのテーマであろうし、(4)についてはテレビニュースなどでも時折報じられるから、おおよその雰囲気くらいは知っているはずだ。もちろん、どのテーマに関しても、現場の研究者による実証的な研究にもとづく論考であるから、裨益されるところが多いが、私がいちばん惹かれたのは、編者自身が本書の『第2の特色』として『いわゆる「世界の諸宗教」だけでなく、世間で「宗教」と見なされていない個人的な信念や漠然とした宗教的志向性や行為・慣習をも対象に含めている点です。』(P267)と断っている、主に(3)の部分であった。

私は「宗教」という「非理性的行動の謎」を、素人なりに研究するにあたって、キリスト教を選んだ。なぜかと言えば、キリスト教というのは「神は実在する」と明言するなど、単なる「精神論」や「観念論」でお茶を濁して言い逃れすることのできない「宗教らしい宗教」であり、それを正当化するために現代に到るまで営々と膨大な理論を構築してきた「(屁)理屈っぽい宗教」だからこそ「論理的な検討の対象にしやすい」と思ったからだ。
言い変えれば、仏教のように「神」や「仏」を語っても、それを実在であるとは言わず「比喩」としてしまうような宗教は、キリスト教などとは違い、その宗教性への明確な責任を持たず、「比喩を多用する宇宙哲学(解釈学的思想)」的な範疇に、時に都合よく自己を解消させてしまう側面がある。そのため「それは捉え方のちがいですね」的な逃げをうつことも容易に可能で、論理的に突き詰めた議論にはなりにくいところがあったからだ。

それでも、仏教であれ神道であれ新宗教であれ、それらにはいちおう「教祖」「本尊」「教義」のような固定的要素もあって、その点については誤摩化しにくいところもあるのだが、スピリチュアリズム(霊性主義)あるいはスピリチュアリティー(霊性)と呼ばれるものは、明確な定義の無い、言い変えれば、個人的な解釈の自由な「霊」や「魂」や「あの世」あるいは「浄化の力」といった「非理性的な世界観」を持ち出すため、よけいに理性的反省の対象となり難いのだ。
つまりスピリチュアリズムは、本質的には「原始宗教的な主観的感情の一形態」でありながらも、教祖や本尊、教義といったわかりやすいガジェットを持つ「(既成)宗教」ではない、という点から「宗教ではないので安心」といった「軽信」が持たれがちで、その点に私は危うさを感じるのである。

本書でも言及されているとおり、近年の日本で「スピリチュアリティー」という言葉を流行らせたのは、テレビ番組「国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉」の、江原啓之であろう(ちなみに、文芸批評の世界では「若松英輔」の影響力を挙げておきたい)。
江原は「スピリチュアル・カウンセラー」として、その霊視的洞察力で人の悩みの問題点を見抜き、適切な助言をあたえる、一種の霊能力者として活躍した。江原自身、今はこの「霊能力者」的な部分をあまり表には出さず、どちらかと言うと「人間通の達人」として活躍しているが、江原の売りは決して単なる「人間通」に収まるものでないことは、その言動から明らかである。
しかし、このような人が大衆メディアで活躍した結果、「霊」や「魂」や「あの世」や「つながる命」といった話が、一部の宗教家の語る「専門用語」ではなく、誰でも個人的な見解において気楽に語れる、馴染みやすいもの(叙情的な言葉)になった。

たしかに「魂の問題」は、人が生きて行く上で一度は考えなければならない問題ではあるとしても、それはなにも「宗教」的なものである必要はなく、理性的・意志的な「倫理」や「思想」や「哲学」といった(選択・引き受け)問題であっても良かったのだが、非理性的であるからこそお手軽かつ安直に、「魂の問題」が「宗教的なもの」として語られるようになってしまった。

無論、高齢者介護や終末医療あるいは大災害後などの現場においては、小難しい議論を伴わずに、誰にでも「慰めと安心を提供してくれる」スピリチュアリズム的言説は「便利な道具」ではあるだろうし、大手術には「麻酔」が必要なように、緊急・危機においては、そうしたものの使用・利用を、私とて否定するものではない。
けれども、多少の苦痛に耐えうるはずの健常者が、現実逃避としての「麻薬」に安易に手を出すことは、決して望ましいことではないはずであり、それと同じ理由で、非理性的で安直なスピリチュアリズムの日常化は、危ういものと思わずにはいられないのだ。

「霊」についても「宗教」についても、それを肯定するにしろ否定するにしろ、まずは徹底した検証が必要なはずで、その必要性をまったく感じないで信ずるのなら、それは「バクチ的な妄信」でしかない。
しかし、日本人は「適切に疑う」「徹底的に議論検証する」といったことが出来ない。それをやると「角が立つ」し、「疑り深い」「人を信じない」「理屈っぽい」「口うるさい」「狷介」「頑固」だと、人からうとまれる怖れがあるため、こぞって「物わかりのいい人」を演じ、その場かぎりの「耳障りの良い」意見を口にしたがる傾向がある。

だが、そうした安直な「いい人ぶり」の自己陶酔の結果が、あの「オウム真理教事件」だったのではないか。さらに言えば、いまだ収束のめどが立たない「オレオレ詐欺」被害なのではないか。
つまり「適切に疑い、議論検証する」ということを避けて「人それぞれだから、それもいいんじゃないか」といった無責任な寛容さや「しつこく人を疑いたくないから信じた」的な無責任さと、スピリチュアリズムを「宗教的なもの」の怖さから切り離して安易に信じ弄んでしまう態度には、どこかで通底する「(とにかく)信じることは素晴らしい」的な心性があるように思えてならない。
そして私は、「オウム真理教」や「オレオレ詐欺」に「信じることは素晴らしい」では済まされない「現実的被害」があったように、安直なスピリチュアリズムの日常化には、極めて危険な陥穽を見ないわけにはいかないのである。

「イエスの三日目の復活」や「マリアの処女懐胎」や「日本の天孫降臨」といった「物語」が、人を慰める強力な「物語=フィクション」であったとすれば、スピリチュアリズムにおいて語られる「霊」や「魂」や「あの世」や「つながる命」といった観念もまた、同様の「物語=フィクション」であるという現実を、我々は直視すべきであろう。それを避ければ、かならずどこかで「弊害」のあることに気づかなければならない。

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平成天皇夫妻と政治的右派の暗闘 一一 ケネス・ルオフ『天皇と日本人』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月30日(水)14時38分6秒
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 平成天皇夫妻と政治的右派の暗闘

 Amazonレビュー:ケネス・ルオフ『天皇と日本人 ハーバード大学講義でみる「平成」と改元』
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外国人研究家による、平成天皇ご夫妻に関する評価を率直に語った一書。
著者による評価は、おおむね一般的日本人にも同意できるところだろうが、そうではない部分でも、そのタブーの外にいる率直さには好感が持てる。

私自身は「昭和天皇は戦争責任を取って自決すべきであった」とか「天皇制は、今の皇室にとっても人権無視の差別制度であって、廃止すべきである」 などと公言する人間だが、そんな私でも日本人ゆえの死角があることを教えられ、その点でとても勉強になった。

そんな本書で、私がいちばん興味を持ったのは、平成天皇と今の日本を牛耳る「政治的右派」との暗闘である。この点についても、著者は外国人として忌憚のない評価を与えており、今の政治に深く興味を持っているわけではない一般の日本人には十分に気づかれていないであろう「政治的右派のホンネ」を呵責なく指摘している。

『それ[(※ 靖国神社に)天皇が参拝しないこと]は、天皇による厳しい非難のように見えます。なかにはそう思っている人もいるでしょうが、右翼(※ 政治的右派)は天皇のことなど気にして(※ 反省してなど)いないのです。彼らにとって、天皇は自分たちの大義を主張するための道具に過ぎないのです。』(P150)

そうなのだ。戦後政治の現実に興味のある人ならば、このくらいのことは当然知っているだろうが、一般の日本国民は「国体としての天皇制」や「日本の国柄」や「美しい国」を強調する、安倍晋三政権や日本会議や神社本庁のホンネが、奈辺にあるのかを正しく理解してはいないだろう。理解していれば、あんな白々しい物言いをする人たちを信じる気になどなるはずがないからである。

政治的右派は、敗戦による新憲法制定の際には、天皇が、最高権力者たる「国家元首」から、権力を持たない「象徴」に格下げされることに抵抗したが、今では、弱者や辺境の人たちへ手を差し伸べる「天皇の旅」について「天皇の仕事は、国家安泰を祈ることで、そんな余計なことはしなくていい」という趣旨のこと言ったり「生前退位発言は、象徴の仕事を逸脱した政治的行為だ」と非難するなど、手のひら返しに、天皇を非人間的な「象徴」に押し込めようとさえしている。
これは、天皇が自分たちに都合の良い時には「最高権力者」であって欲しいし、自分たちの意に添わない場合には「象徴という木偶の坊」であって欲しい、という身勝手な言い分なのである。

私は、平成天皇ご夫妻の生き方に共感し、その生活の安らかならんことを祈る、当たり前の日本人の一人でありながら、それでも天皇制は無くした方が良いと思う。
政治的左派の中には「日本人は天皇なしにはやっていけない」という理由で、いわば天皇制を消極的に肯定する者もいる。それは、ある種の現実的選択として、私も理解できないではないのだけれど、しかし何よりも、敬愛する平成天皇ご夫妻のためにこそ、人権を無視してまで不自由を強いる「天皇制という差別制度」を廃止すべきだと思わないではいられない。

私たち日本国民は、いつまでも天皇に甘え、犠牲を強いていてはいけないのではないだろうか?

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本キチの自慢話 一一 Amazonレビュー:coco『今日の早川さん4』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月30日(水)14時35分54秒
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 本キチの自慢話

 Amazonレビュー:coco『今日の早川さん4』
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本書60ページの二つ目のエピソード「単数にして複数の存在」に、早川量子と富士見延流の次のようなやりとりがある。

延流『古本屋さんで可哀相とか言って毎回同じ本を救出するのをやめれば、(部屋が)もっとすっきりすると思いますよ』
量子『いいんだよ。別個に存在している以上、それはもう別の本なんだから。『サターン・デッド・ヒート』なんて8冊もあるよ』

量子の「別個に存在している以上、それはもう別の本なんだから」という理屈は、私自身もオリジナル理論としても長年愛用してきたものだが、他にも使っている人がいたのを初めて確認できた。

しかし、この会話で気になる点もいくつかある。
例えば「古本屋さんで」という場所の限定は、必ずしも正確なものではない。つまり、量子さんなら「新刊屋さん」でも似たようなことをしているはずだし、場合によっては「友人宅で」も同じことをやっているかもしれない。曰く、「私、この本持ってない」「えっ?持ってるでしょう?」「いいえ、その本は持ってない。欲しいなあ…」。

また「8冊もあるよ」なんてのも、たぶん誤摩化しで、真相は「80冊」かも知れないし、「1箱」かもしれない。

似たような言葉としては「私、この本を世界一たくさん持ってるよ」とか「この作家に関しては、世界一たくさん持ってるはず」などがある。

しかし、そこまで多いと、処分にも苦労するので、最後は「燃やして稀購本にする」ということも考えないでもない。一一と想像される。

他にも、ヤフオクで古本を落札すると、送られてきた封筒に記されていた出品者名が知り合いだったとか、知る人ぞ知る著述家やその家族だったりする等という、純文学的に心にしみるエピソードなどもあるはずだ。

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ヒューマニストの知的退廃  一一 帚木蓬生『信仰と医学 聖地ルルドをめぐる省察』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月22日(火)22時30分20秒
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 ヒューマニストの知的退廃

 Amazonレビュー:帚木蓬生『信仰と医学 聖地ルルドをめぐる省察』
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最初にはっきり言っておこう。
本書には、サブタイトルにあるような『省察』と呼ぶほどのものは無いし、ましてや帯にあるような『徹底検証』など欠片も無い。
したがって、本書に「信仰と医学」おける本質的相剋に関する思考などを期待すると、完全に裏切られる。本書には、著者の「意見」表明はあっても、「省察」や「考察」と呼ぶほどの批評的な思考的営為は皆無であり、「看板に偽りあり」の書であると断じてもいい。

では、この300ページほどの本には、いったい何が書かれているのか?
それは「ルルドの奇跡の紹介」でしかなく、『省察』だか『徹底検証』にあたるらしい部分は、第十章「奇跡の治癒はプラセボ効果か」と、その次の最終章「おわりに一一医学と宗教の共生」を合わせて、たったの20ページ弱しか無いのである(章題ページなどを除くと、実質16ページ)。これでは「信仰と医学」という非常に大きな問題について、まともな考察がなされているわけがないというのも、容易に了解できるはずだ。

では、残りの280ページ弱で何を書いているのか?
序章「はじめに」の章は、著者自身がルルドに視察に行った際のエピソード紹介だが、そこで奇跡的治癒を目撃したとかいった話ではなく、ルルドを研究しているカトリック系医学団体の学者に現地でお世話になったとかいった話でしかない。そんな「はじめに」に、20ページほどが割かれている。
そして第一章「聖母マリアの出現」では、ルルドの奇跡の始まり歴史が、ルネ・ロランタン神父の書いた書物の抄訳というかたちで紹介され、これが120ページあまりあって、ここまでで本書の半ばに達してしまう。

第二章「ルルドの発展」は、その後のルルド発展の歴史紹介。(20ページほど)
第三章「その後のベルナデット」は、マリア出現の奇跡の泉の発見者である少女ベルナデットのその後の紹介。(6ページほど)
第四章「ルルド医学検証所」は、ルルドの奇跡を医学的見地から検討しようとした、最初の組織的取り組みの紹介。(14ページほど)
第五章「ルルド国際医学評議会」は、ルルド医学検証所が発展して現在に続く組織の紹介。(6ページほど)

つまり、第二章から第五章も、ルルドの歴史的発展の紹介であり、ここまで開巻190ページに達するが、著者の考察と呼べるものは皆無だ。

第六章「ゾラの『ルルド』」、第七章「ユイスマンスの『ルルドの群衆』」、第八章「カレルの『ルルドへの道』」は、ルルドに関する文学作品紹介である。
ゾラやユイスマンスは有名なのでいいとして、カレルについて紹介しておくと、カレルは後にノーベル医学賞を受賞する医師で、生前はルルドの奇跡経験について沈黙していたが、死後、その経験を紹介する未発表「小説」が発見された、という人物だ。
ともあれ、ここでも著者である帚木蓬生による「ルルドの奇跡」考察はなく、あくまでもルルド関連の小説と作者紹介に止まっている。そして、この3つの章で開巻240ページに達してしまう。

第九章「治癒の症例」では、1858年の泉の発見以来、毎年何万人もが泉を訪れ、その結果報告された数限りない「ルルドの奇跡的治癒」の中で『現在まで七十例が、奇跡の治癒として地区の司祭によって公認されている。そのうち、第二次世界大戦後に設立されたルルド国際医学評議会が承認した症例は、三十例にのぼる。』(244P)わけだが、その三十例のなかでも、最近の十三例を紹介している。
そして前述のとおり、残る20ページが第十章と最終章「おわりに」で、ここで著者は、やっと「ルルドの奇跡」についての意見表明をするわけなのだ。

だが、その内容も前述のとおり『省察』や『徹底検証』の名にはとうてい値しない、ありきたりの「意見」でしかない。
と言うのも、第十章「奇跡の治癒はプラセボ効果か」は、その章題のとおり「奇跡はプラセボ効果で説明できるだろう」という、いたって常識的な意見でしかなく、わざわざ本を1冊読んだ末に聞かされるようなものではない。
そしてその挙句、最終章である「おわりに一一医学と宗教の共生」もその章題のとおりで、「医学と宗教」の間に横たわる難問に対峙する姿勢などは欠片もなく、「協力しあうことが大切」といった世間並みの意見を一歩も出ない。
ただ、それでは本にならないので、「おわりに」では、ルルドに絡めて著者の「人間と医学」に関する自論が言いぱなしで語られている。曰く、


『 ルルドとは一体何だろう。
 それは何よりも出会いの場所である。世界のあらゆる所から、さまざまな信仰を持った人が来て、みんながそれぞれの思い上がりを剥奪され、苦悩を胸に抱いて裸にされる。ここでは人前で泣いても構わない。泣いても恥ではない。苦しみを自慢するのではない。本物の涙なのだから。
(中略)
 ルルドはすべての人を受け入れて、大きな包容力で包み込む。人々は握手し、抱き合い、挨拶をし、慰撫し合い、それぞれの人の歴史を分け合い、互いに祈り合うのである。
(中略)
 ルルドはまた人々が触れ合うことをことを勧める。身体と身体が軽く触れることをことさえ厭われている現代社会で、ルルドは手こそが素晴らしい発見の道具であることを再認識させる。(中略)
 こう考えるとルルドは、医学が人と人の関係、接触、傾聴の上に成り立っていることを再確認させてくれる。余りにも機器や器具に頼り過ぎている今日の医学は、医学を患者から遠ざけ、両者の間に溝をつくっている一一。』(P292~293)

『 ルルドはまた、科学と宗教、科学と信仰の出会いの場所である。両者は互いに照らし合わせるものの、論争はしない。懐疑的ではあっても、お互いに硬く信じ合っている。』(P294)

『 まさしくルルドでは、「人の病の最良の薬は人である」(セネガルの格言)が実践されている。医療人はルルドに来て、自分の拠って立つ原点を取り戻すのである。』(P295)


著者・帚木蓬生が「非クリスチャンの精神科医で、ヒューマニズムの立場に立つ、良心的なベテラン小説家」であるということを知っていれば、これが「落としどころ」だというのも、ある意味で納得はできよう。
お世話になったルルド国際医学協会の先生方や献身的ボランティアたち、ルルドを信じる多くの病者たちの感情を害することはせず、かと言って科学者の端くれである精神科医の一人として「宗教的な奇跡的治癒」などといったものをそのまま肯定するわけにもいかないとなれば、こういう、ちょっと「良い話」っぽい「人間主義的な治癒論」に落とし込むしかないのかもしれない。

しかし、著者のこうした態度は、極めて欺瞞的であり、本質的に不誠実で傲慢ですらある。
そこには、信仰に対しても、医学(科学)に対しても、それとギリギリまで真摯に向き合うといった姿勢がなく、ただ著者の精神科医としての八方美人的な人間主義が、上から目線で語られているだけなのだ。

著者・帚木蓬生が『三たびの海峡』や『閉鎖病棟』といった、ヒューマニズムに立脚した社会派作品で、小説界において一定の評価を受けてきたのは事実であるが、それらの受賞した文学賞が基本的にすべて「大衆小説」を対象としたものであったことは、決して偶然ではないだろう。
たしかに良いことは書いてある。著者のヒューマニズムに立脚した社会的告発は、極めて正論であり、時に感動的ですらあるだろう。
しかし、そうした読者ウケする「感動的ヒューマニズム」に安閑として止まり続けた(「俗情との結託」の)結果、著者は、信仰と医学(科学)、そして両者の相剋といった本質的問題をつきつめて考える知性を、決定的に鈍らせてしまったのである。

「ルルドの歴史」を概観するのに便利な一書ではある。だが、そこには『省察』も『徹底検証』の欠片もない、という事実を繰り返し、指摘しておきたい。

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「文は人なり」あるいは、適菜収の品性 一一 適菜収『もう、きみには頼まない (安倍晋三への退場勧告)』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月14日(月)23時44分53秒
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 「文は人なり」あるいは、適菜収の品性

 Amazonレビュー:適菜収『もう、きみには頼まない (安倍晋三への退場勧告)』
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適菜の他の著書のレビューでも書いている人がいたが、適菜収のこの〈時代への警告〉シリーズは、「安倍晋三 妄言録」としては便利な本だ。安倍の場合、論外な言動が憶えていられないほど多いし、かと言っていちいち記録しておく気にもならない。だから、このようにコンパクトにまとめてもらえるのはありがたい。
ただし、適菜収自身の言ってることは「ウンコをウンコと呼んで何が悪い」というレベルをいくらも出るものではないし、あまり品の良いものではない。私自身、決して品の良い人間ではないけれど、適菜の場合、お得意の「箸の使い方自慢」にも明らかなように、自身が品の良い人間だと勘違いしている節があるので、それは違うよと指摘しておきたいのだ。
適菜は、

『 ドナルド・トランプが中米やアフリカの国々を「クソのような国」と呼び、騒ぎになった。橋下(徹)は「金美齢というクソババア」「クソ教育委員会」といった暴言で日本を下品のどん底に叩き落としたが、橋下化が進んでいるのは日本だけではないようだ。』(P122)

などと言うけれど、ご自分も多かれ少なかれ、そうした世の中の流れに乗って出てきた物書きだというのが、分かっていないようなのだ。

適菜収の安倍信三批判やネトウヨ批判については、99%同意できる。
だが、適菜の批判が至極ごもっともなのは、安倍やネトウヨの知的及び倫理的なレベルが極端に低いからであって、適菜のレベルが高いからではない。安倍やネトウヨを批判するだけなら、普通の知性と暇があればそれは誰にでもできることであって、文筆家や批評家として評価するなら適菜収は決して上等な部類ではないのである。


【適菜収の保守としてのレベル】

適菜個人を過大に評価してしまう人の多くは、「安倍晋三憎し」で、安倍をわかりやすく痛快に批判してくれる者なら、誰でも高く評価してしまいがちな、あまり良い本を読んでいない左翼リベラルなのではないだろうか。
彼らの多くも、ややもすると「敵の敵は味方」というところがあるし、まして安倍晋三やネトウヨのような「自称保守」ではなく、本来の「保守」ならば必ずしも敵ではないので、寛容に「ちょっと困ったところはあるけれど、その意見は評価できる」と、大雑把に高い評価を与えてしまう。と言うのも、いまの左翼リベラルは、基本的に「寛容」を旨としているからである。

適菜の、文筆家や批評家あるいは物書きとしてのレベルは、決して高くはない。それは、まともな本を読んでいる人(文章・文体が読める人)には自明であろう。適菜収は所詮、威勢の良い通俗流行評論家に過ぎない。自意識過剰で鼻持ちならなく、文章が端的に下品なのだ。つまり、残るような著作など書けない。
その証拠に、適菜の文章から、ニーチェだなんだという古典的思想家の名前や引用を除いたら、ほとんど何も残らない。残るのは、前述のとおり「安倍晋三(とその周辺)語録」であり、安倍及びその周辺への威勢の良い、わかりやすい批判だけだ。
適菜収の「保守」解説がわかりやすいのでありがたいという読者もいるだろうが、それは反安部読者の多くが保守思想について、これまでほとんど学んでこなかったからであって、適菜の保守思想が深いわけでもなんでもない。適菜の紹介している保守思想家が、ひとかどの人だったというだけの話である。

つまり、簡単に言ってしまえば、適菜収は「保守思想家」と言うよりも、虎の威を借る「保守思想の初心者向け概説者」の域を出ていない。
適菜自身は、

『(安倍晋三提灯持ちライターである小川榮太郎ような)バカがいるから、まともな保守が同類に見られる。』(P21)

などと、自身を「まともな保守」の内に含めているようだし、事実、

『たしかに知識人と呼ばれる人間にはクズが多い。しかし、庶民の「保守性」に期待するような呑気な時代はとうに終わったはずだ。改革を煽るのも庶民である。知識人の役割は、それを庶民と呼ぼうが、大衆と呼ぼうが、彼らに媚びることではない。』(P94~95)

とか、

『 現在、わが国で発生している状況も、単に安倍晋三とその周辺の暴走と考えると大きく間違える。われわれは過去の事例を想起しながら、なにが発生したのかを見極めなければならない。その結論は聴衆の気持ちを逆なでするようなものになるはずだ。もっともそれを担うべき知識人がほとんど見当たらないという状況が今の惨状を招いたとも言えるのだが。』(P97)

などと書いて、自身が『ほとんど見当たらない』くらいの本物の(保守)知識人の一人であると自認しているようだが、適菜が持ち出すような有名な保守思想家と同じ水準で、適菜収その人を「保守思想家」と呼ぶのは、安倍晋三やネトウヨを「保守」と呼ぶほどデタラメではないにしても、そうとう妥当性に欠けるように思うのだが、いかがだろうか。


【適菜収の「箸の使い方人格論」】

例えば、適菜収お得意の「箸の使い方は、人格を表す論(だから安倍晋三はダメ論)」は、実につまらない独り善がりな議論だ。

『 個人を表面的なもので判断してはいけないというのは近代に発生した妄想だ。顔は情報の宝庫であり、内面は外面に表れる。顔、立ち居振る舞い、姿勢、喋り方、箸の持ち方などに、人間の本性は表れる。』(P84)

そりゃあ、箸の使い方にも(あくびの仕方などにも)育ちが反映し、幾ばくかの人格が反映されるのは事実だろう。しかし問題は、それがいつでも正しく反映される保証など全く無いし、また反映されたものを正しく読み取ることは容易ではないというのは、わかりきった事実である。

言うまでもなく、箸の使い方など、練習すれば誰でも上手くなる(顔は化粧や外科整形で美しくなる)。要は、それに時間(や金)をかける価値を、親や本人が見出すか否かの差でしかない。
皆が皆、適菜収のように「箸の使い方が美しい人は、人格的にも素晴らしい人だ」などと考えてくれるのなら、それを身につける経済的価値(費用対効果)はあるだろう。しかし「箸の使い方を云々する以前に、もっと大切なこと、もっと配慮し時間をかけるべきことは他にある」と思う人も少なくないだろう。

実際、『箸の持ち方』という著書まであるらしい、箸の使い方が上手いのであろう適菜収の文章は、品がない。
同様に、箸の使い方が素晴らしくても、猟奇犯罪者もいれば、安倍晋三の子分もいるだろうし、ネトウヨの中にも箸の使い方が上手い人が大勢いるだろう。阿倍の支持組織である日本会議の中核をなす神社本庁の有名神社の神主さんなんかも、たぶん箸の使い方が上手いだろうし「箸の使い方に人間性が反映される」なんて類いの講釈を垂れている可能性さえ、けっして低くはないと思う。一一 箸の使い方なんてものは、所詮この程度のことなのだ。
もちろん、下手に使うよりは上手に美しく使えるに越したことはない。だが、適菜のように「箸の使い方で、人格まですべて見抜けます」なんてのは、「占い」や「宗教」の類いでしかないのだ。

『「箸の持ち方なんてどうでもいい」と言う人がいる。逆に言えば、そういう人たちが安倍を支持しているのだろう。』(P85)

ちなみに、反安倍である私自身は「箸の持ち方なんてどうでもいい」と思っている。
前述の通り「下手に使うよりは上手に美しく使えるに越したことはない」けれども、そんなに力を入れなきゃならないことだとは思わない。それよりも「箸の使い方で、人間が分かる」などという、非科学的で非論理的な「妄信」や「独善的思考」を、どうにかした方が良いと思う。
適菜はご丁寧に、

『 なお、箸の正しい持ち方には合理的な根拠がある。「伝統型」と呼ばれる正しい箸の持ち方は、間違った持ち方に比べて、きちんと箸先を閉じることができることも実証されている。』(P86)

なんて、ささやかな「実利」を強調するけれど、箸の使い方にあるのは、この程度の実利と、個人的かつ過大な「美意識」でしかないのだ。

『 日本大学のアメフト部の選手が関西学院大学の選手に危険タックルをしてケガをさせ、騒ぎになった。選手は「監督とコーチの指示に従った」と主張。反則はよくないし、選手の主張が事実なら、監督とコーチの責任は厳しく問われるべきだが、でもたかだかガキの玉転がしの話でしょう。』(P174)

つまり、適菜にとって大学アメリカンフットボールが『ガキの玉転がし』でしかないように、「箸の使い方」の「伝統型」など、所詮は「伝統主義者の些末な慣習信仰の一つ」に過ぎない。
「伝統型じゃなくても、ひとまず食事するのに困らないなら、それでいいじゃないの。それを美しくないとかあれこれ煩いことを言う人はいるけど、個人的な(あるいは党派的な)美意識の押しつけは御免こうむりたいもの。アメフトなんて洋物をやらずに、日本人なら相撲や柔道剣道をやれと言うのと大差ないでしょう、それって」と言われても仕方ない程度の話なのだ。


【適菜収の自己顕示欲と自慢話】

この「箸の使い方自慢」にも表れているとおり、適菜収は自身の身の程を、決定的に見誤っている。
例えば、安倍晋三の提灯持ちライターである小川榮太郎の文章について、

『 幼稚な文章を旧仮名遣いと、過去の偉大な名前で飾り立てるので、どうしてもこじらせた中学生が書いたポエムのようなものになる。恥ずかしくて正視できる文章ではないが、そこからわかるのは自分が大好きということだ。自分のことが好きで好きでたまらない。それで鼻息も荒くなっていく。』(P24)

と評しているが、『過去の偉大な名前で飾り立てる』とか『自分が大好き』とか『自分のことが好きで好きでたまらない。それで鼻息も荒くなっていく。』なんて部分は、多分に「近親憎悪」的であり、自分にだってじゅうぶん当て嵌まるという自覚はないのだろうか?

そもそも、小川榮太郎の文章が原因の『新潮45』誌廃刊事件を語って、適菜は、

『 大手出版社の本が売れるのは、最低限の品質が確保されているという信頼があるからだ。
 しかし、最近の傾向だが、極端に頭の悪い人たち、ネトウヨのブロガー、デマゴーグの類いが、言論界に入ってきてしまった。出版不況が続く中、ビジネスと割り切り、モラルを完全に投げ捨てた編集者も増えた。』(P29~30)

なんて、完全に他人事のように書いているが、『新潮45』誌の廃刊は「一日にして成らず」で、『最近』だけに限った話ではない。
たしかに『極端に頭の悪い人たち、ネトウヨのブロガー、デマゴーグの類いが、言論界に入ってきてしまった』のは、ごく最近の話かもしれないが、『出版不況』は昨日今日に始まった話ではないし、そうであっても、すべての雑誌に『極端に頭の悪い人たち、ネトウヨのブロガー、デマゴーグの類いが』『入ってきてしまった』わけではないのである。
『大手出版社』の雑誌で、そういうのが続々と入ってきたのは、他でもない「少し前に」適菜収を起用した雑誌である『新潮45』なのだ。


また、適菜収の「権威主義」は、とてもわかりやすい。平たく言えば、よくいる「有名人好き」の俗物であり「誉められると弱い」人でもある。
例えば、お笑い芸人の村本に対しては、こんな書き方だ。

『 村本は以前もこんなツイートを。
《マリー・アントワネットの頃に共謀罪があったらフランス革命は起こってなくて、いまも独裁の国では貴族は金持ちのまま、庶民は貧しいままだったと思う。国民から声を奪う法律、共謀罪大反対》
 知らないことは口に出さない方がいい。フランス革命の結果、独裁になり、庶民も貴族も殺されたのだ。』(P113~114)

要は、保守の定番である、エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』からの受け売りだ。
自由を標榜して革命をおこした者たちが、独裁恐怖政治を強いたという「歴史の逆説(的現実)」について「こんなことも知らないんだろう」と自慢しているわけだが、これは自慢話に走り過ぎており、少々的外れな批判である。

というのも、フランス革命があったればこそ、絶対君主制が倒れ、人々はそれを目の当たりにすることが出来たのである。たとえそのあとに一時期、不条理な独裁政治が発生したとしても、それでもやはりフランス革命は、権力者によって虐げられ搾取されてきた庶民にとっては、まちがいなく「希望の光」となり、民主主義をもたらす契機となったからだ。
バーグは、ことさらに革命後の恐怖政治を問題にするけれども、それは所詮「ことの一面」でしかない。彼らが革命を起こさなければ、誰も「虐げられた庶民のために」社会を変えようとはしなかった。

バーグのような保守主義者は、「既成の社会」を守るためには、時代の変化に応じて最低限の変革は必要だとしたけれども、それは自分を含めた、既成の支配階級の生活(既得権益)を「保守」するためであって、虐げられた人たちの生活を改善するためではなかった。
だから、彼らに任せておいては、いつまで経っても民主主義の世の中は来なかっただろうし、フランス革命を経て「プチブル化できた庶民大衆」でしかない適菜や私がネトウヨなどが、好き勝手に「天下に物申す」なんて「身の程知らず」なことが出来る、自由な非階級社会の到来も、必然的に大きく遅れたことだろう。
そもそも「保守」と「左翼」の根本的な違いは「弱者の痛みへの想像力」の有無にある。それは適菜収の著作にも明らかだろう。

ともあれ、村本の言う「フランス革命があったればこそ」というのは、そういう「象徴的な歴史的事件としてのフランス革命」という意味であって「革命後には、血みどろのゴタゴタもありました」などという具体的なエピソードの話ではないのである。

『 先日「赤旗」の取材を受けた。安倍政権に比べれば共産党はまだ保守的なあるので評価している部分もあるが、程度の低い市民活動家に甘すぎるところが残念。先日も某駅前で市民活動家みたいな連中が「民主主義を守れ、九条改正反対、徴兵反対!」と騒いでいた。逆でしょう。民主主義だから徴兵制になるのだ。私は民主主義には否定的だから徴兵制には反対だけど、彼らは左翼の教典であるジャン=ジャック・ルソー(一七一二~七八年)すら読んでいないのか?』(P114)

これも似たような話で、要は「ルソーを読んでるぞ自慢」だ。
しかし、民主主義と一口に言っても、ルソーの時代に彼の地で考えられた原「民主主義」と、今の日本での「民主主義」は、当然、同じものではない。ルソーの考えた民主主義の原理を検討して現代に生かすのは良いことだが、それをそのまま、それだけが「民主主義」だとしなければならない謂れは、今の日本人にはないのだ。

ともあれ、ここで適菜が書いているのは、上の「おまえらバークを読んでないだろう」というのと同じで、その本質は「ルソーも読んでないだろう」という読書家の、鼻持ちならない自慢話でしかない。


【適菜収のご都合主義】

適菜は「保守」として、しばしば「左翼」を「革命幻想にとらわれて国を破壊したバカ」として批判するけれども、左翼は、適菜収ごときが一言で裁断できるほど、人材に乏しくはない。
前述のとおり、適菜は『彼らは左翼の教典であるジャン=ジャック・ルソーすら読んでいないのか?』と書いているが、それを言うなら「左翼の多くはマルクスの『資本論』を通読してもいない」のだが、そこには追及しない。なぜなら、自分も『資本論』を通読していないからなのだろうが、それでよくも「左翼」批判などできるものだ。

しかし、適菜収に「左翼」批判が可能なのは、適菜の言う「左翼」とは「左翼の中の、程度の低い部分」でしかないからだ。
実際、適菜収が内外に山ほど存在する「左翼思想家」の本をまともに読んだ上で、左翼批判をしているとは到底思えない。
というのも、自慢話が好きな適菜は、読んで批判できると思えば、きっと読んだ本を挙げて批判するだろうからだ。つまり、適菜の読んでいる本は、彼の「保守」および「古典」趣味に偏っており、敵(広範な左翼思想)の理屈を十二分に知った上での批判ではないのだ。
だが、言うまでもなく、こういうやり方はフェアではない。なぜなら、それは実質的には「粗雑な印象論」でしかないからだ。

「保守」を自称する者たち(安倍晋三周辺やネトウヨ)については、あれこれ厳しく注文をつけて、あいつもこいつも「本物の保守ではない」とし、要は「優れた者だけが保守」だという構えにしてしまっているのに、論敵である「左翼」に関しては、ひたすらレベルの低いところを「左翼の典型」として採り上げることで、安直な左翼批判を成立させているだけだなのだ。

適菜収の、こうした「ご都合主義」は、彼のエドワード・サイードへの高評価に、端的に表れている。

『サイードは「左派」として扱われてきたが、それこそ紋切り型の手垢のついたイメージであり、保守主義の根幹と重なる部分が多い。』(P95)

『 こうした(エドワード・サイード的な)意味における広義の「反体制」、徹底した懐疑、イデオロギーの拒絶は保守主義と通底する。』(P96)

つまり、適菜収の理屈は「優れた左派は保守であり、ダメな左派は左派である」(お前の物は俺の物、俺の物は俺の物)というものでしかないのである。これならバカでも左派批判くらい出来るのは自明だろう。


【適菜収の俗物権威主義】

『 先日、ある大学教員の書いた保守主義に関する文章を読んでうんざりした。大雑把に言えば、知識人は庶民の生活を見失い、イデオロギーや学問の世界に閉じこもってしまっていると。一方、庶民は日々の生活に根差しており、〝常識〟を維持しているので慣習や制度を守ろうとする。「悪いのは象牙の当に閉じこもった知識人だ」というわけだ。吉本隆明(一九二四~二〇一二年)の「大衆の原像」ではないが、この手のステレオタイプな議論は何度も焼き直されてきた。』(P93)

この文章でも、なぜ批判した相手を名指しにしないで『ある大学教員』などとしたのか、いかにもあやしい。
相手が有名な人なら、名指しで批判したくなかったか、名指しでやったら『大雑把』で「恣意的な要約」で相手を批判することが許されないからなのかと疑われる。
たしかに、この『ある大学教員』のご意見が、この要約どおりであれば、それは時代錯誤も甚だしく、今の時代にはマッチしない。その意味では、ここでの適菜の意見については同感なのだが、しかし、ここで吉本隆明の「大衆の原像」を持ち出して、左翼によって『この手のステレオタイプな議論は何度も焼き直されてきた。』などと知ったかぶりで批判するのは、お門違いである。

というのも、「大衆の原像」という言葉にも明らかなとおり、左翼だって、あながち「大衆」や「庶民」が、「汚れを知らぬ被害者」だとか「生活保守的」だと考えているわけではない。
しかし、理念型としての「大衆」が意味するのは「大衆という在り方に秘められた原基」であり、それこそが見落とされても忘れられてもならないものなのだと、左翼はそのように自身に言い聞かせて、その意味で、しばしば現実の大衆に裏切られながらも「大衆の側に立つ」ことを、自らに課してきたのである。
だが、そのあたりのことを、保守万歳の適菜収はまったく理解してないし、理解する気もないのだ。

ま、いずれにしろ、本職の言論人ではないお笑い芸人や、名指しにしない『ある大学教員』や、アホ丸出しの安倍晋三一派やネトウヨには強気な適菜も、身近な同業者には、案外無難に生きているようだ。

『(西部邁は、自身の主催するテレビ番組への出演を断った適菜を)それでも酒の席に誘ってくれた。赤坂の蕎麦屋で?み、タクシーで新宿のバーに移った。(西部が)私の本を読んでくれていて、「僕は適菜君みたいに色っぽい文章を書けないんですよ」と言った。私は驚いた。大御所と呼ばれる人たちは、自分より若い人間の書いた文章など基本的にスルーするか、読んでいないふりをするものだと思っていたからだ。その日は再度出演を依頼されたが、さんざん奢ってもらった挙句に断ってしまった。』(P110~111)

この文章から読み取れるのは「俺の文章の魅力が分かる(誉めてくれた)西部邁はさすがだ」という、煽てにのりやすい適菜の性格と、「転向左翼」でありながら上手に保守思想家になりおおせてみせた西部の、臆面もない「人たらし」ぶりでしかない。

それにしても、よくも『「僕は適菜君みたいに色っぽい文章を書けないんですよ」と言った。』なんて書けるものだ。この言葉をそのまま引用しなくても、西部を誉めることなら出来たはずなのに、よほど自慢したかったのだろうとしか思えない。
実際『その日は再度出演を依頼されたが、さんざん奢ってもらった挙句に断ってしまった。』というオチも、自慢話でしかない。「私は誉められ奢ってもらっても、節は曲げないよ」という自家宣伝。しかし、供応接待を受ける立場を自慢するような人が、自分で「私は煽てや賄賂に弱い」と認めることなど金輪際ないのである。

『妻を殴りけがをさせたとして経済評論家の三橋貴明が逮捕された(二〇一八年一月六日)。私は一度雑誌の鼎談でご一緒しただけなので、どういう人なのかは知らない。そのときに頼まれて、音楽に関する文章を彼のサイトにいくつか転載したことがあるくらいだ。だから擁護するつもりはないが、人格と主張を一緒に論じてはいけないと思う。
 私は政治家は政策や主張より人格の方が大事だと思っている。口先だけなら何とでも言えるからだ。
 一方、物書きは人格よりも主張の方が大事である。その主張はあくまでも思考の材料だからだ。人格的に問題のある人物の書籍を拒絶するなら、ジュネ(一九一〇~八六年)もバロウズ(一九一四~九七年)もアルチュセール(一九一八~九〇年)も井上ひさし(一九三四~二〇一〇年)も読めなくなる。それ以前に、偉そうにモノを書いている人間なんて、自分を含めてどこかおかしいのだ。まあ、DVはダメだけどさ。』(P115)

この文章から読み取れるのは、落ち目の奴からは適切に距離をおく「世間並みの世渡り術」と、やっぱり度しがたい自慢癖だ。
『偉そうにモノを書いている人間なんて、自分を含めてどこかおかしいのだ。』などと書いているが、これはもちろん裏返しのエリート自慢、つまり「私は、世間並みの人間ではないのだよ」という自慢である。

それにしても、自身をジュネやバロウズ、アルチュセール、井上ひさしと並べてみせるかね。相当ど厚かましくないと出来ない芸当ではないか。よほど自分を高く買っていなければ、自身がただ単に、世間にいくらでもいる単なる『おかしい』人である蓋然性の方が高い、という事実に思いいたるはずなのだ。
(ちなみに、経済評論家の三橋貴明については、保守派評論家である古谷経衡の小説『愛国奴』に、その素顔がコミカルに描写されている)

最初にも書いたとおり、適菜がバカにした小川榮太郎と同様、『過去の偉大な名前』で自分を飾るという行為は、傍目には相当イタいものでしかない。
本書で、適菜と対談した菅野完は、対談の最後で、

『菅野 ただでさえ人前で司馬遼太郎の話をするのは恥ずかしいのに。それに僕、司馬さん、好きでもなんでもないのに。』(P66)

と言っているが、これは(司馬遼太郎が『好きでもないんでもない』のは事実としても、そんな)菅野にすれば、国民的人気作家であり歴史通と目されていた司馬の名前を持ち出して、自分を権威付けようとする人たちにうんざりしていたから、司馬の名前を出して語りたくはなかった、ということもあるはずで、要するに菅野としては『過去の偉大な名前』で自分を飾るというのは、それが司馬であろうと、バークであろうと、西部邁であろうと、ジュネやバロウズ、アルチュセール、井上ひさしであろうと、やっぱり『恥ずかしい』ということなのだ。
だが、適菜収には、もしかすると「皮肉」になっているかもしれないその言葉の意味を、読み解く力はなかったのである。
(ちなみに、適菜収との共著『エセ保守が日本を滅ぼす』がある山崎行太郎も、この類いの「虎の威を借る」自慢話好き人間である。山崎の『ネット右翼亡国論』は、それが露呈したとてもイタい本で、その点についてAmazonレビューを書かせてもらった)


『無知を武器に大人にケンカを売るのは子供の特権かもしれないが、しかしこの男(お笑い芸人の村本)は三七歳である。単なるバカだろう。この手の花畑はネトウヨにバカの標本として利用されるだけなので、社会に対して害しかない。むしろ、いかがわしい勢力にとっては都合の良い存在だ。バカに批判されても、痛くも痒くもないのだから。』(P113)

ともあれ、村本が、適菜との年齢差である十数年をしっかり読書に傾ければ、現在の適菜とさほど差のないところまで知識は得られるはずだ。読書家にとって、十年の歳の差は決して小さくはないのである。

一方、適菜も、自分より一周りも若い芸人の無知を挙げつらってバカにしている暇があったら、もうすこし左翼について勉強してから左翼批判をした方がいいだろう。
それなりに歳をとって、それなりに本を読んできたはずの適菜が、今のレベルでは『ネトウヨにバカの標本として利用されるだけなので、社会に対して害しかない。』ということにもなりかねないからだ。
それとも、適菜自身『バカに批判されても、痛くも痒くもない』バカなのだろうか? ネトウヨだって皆が皆、surfジャンキー氏のような人ばかりではなかろう。批判対象の水準を低く設定してばかりいると、自身の書くものもまた低水準になるということに気づくべきである。

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「メタ信仰」の問題 一一 ダニエル・デネット『解明される宗教 一一進化論的アプローチ』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月10日(木)00時45分32秒
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 「メタ信仰」の問題

 Amazonレビュー:ダニエル・デネット『解明される宗教 一一進化論的アプローチ』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1A9Y879BWC79O

本書は、読みやすい本ではない。なぜなら本書は、一般向けに書かれた「宗教を科学的に解読する」といった類いの科学啓蒙書ではなく、まさに「哲学書」だからだ。著者ダニエル・デネットは、主に認知科学を守備範囲とする哲学教授なのである。

字義どおりの「一般向け」科学書ならば、平均的な教養と知性があれば、いちおう理解できるし楽しめもする。
しかし、哲学書というのは、ある結論をわかりやすく教えてくれるようなものではなく、自分の頭で考えることを強いてくるものだから、おのずと読者を選ぶ。親鳥から餌をもらおうと黄色い嘴を大きく開けてピーピー鳴いているだけの雛鳥のような読者ではなく、多少なりとも自分から餌を取りに行く姿勢を、読者は求められるのだ。
したがって、本書にわかりやすく面白い結論を求めるのは、お門違いだと言わなねばならない。それこそ、面白い結論を手軽に求めるだけならば、それは信仰者の安直さと大差ないのである。

本書にお門違いの「面白い仮説の提供」を求めている人というのは、たぶん自身の宗教に対する無知を棚上げにして、宗教や信仰という現象を頭から否定的に見ており、知ったかぶりながら宗教を論破するのに有効な手段(道具)の提供を欲しているだけなのだ。
「宗教なんてものは、頭の悪い奴のすることで、考えるまでもなく下らないものだ」と決めつけて、あとは、その不愉快なもの(馬鹿なくせに偉そうなもの)をいかに効果的に叩き潰すかが問題で、そのための目新しい手段を欲しているだけなので、否定する相手を深く理解する必要など認めないし、哲学にも興味がないのである。

しかし、この態度はきわめて非科学的であり、宗教的であるとさえ言えよう。
デネットも言うように、科学的であるということは、否定すべき相手についても、まず深く理解することが大前提だからである(理解と共感とは別物である)。

さて、そうしたことをいろいろ「考えさせる」一冊として、私が特に面白いと感じたのは、だから第8章「信じることに価値がある」である。

普通、私たちは「信じるに値するものだから信じるのであって、信じること自体に価値があるという考え方は、盲信に道を開くものとして危険きわまりない」と考えるだろう。だが、宗教の世界(あるいは、恋愛の世界)は、そんなに単純ではない。

しばしば宗教にとって、最も大切なものは「純粋な信心」つまり「信じること」であって、「教義の理解」や「行動」は、二の次なのだ。
たとえ教義に無知でも、教義を誤解していても、行動が伴わない信仰でも、信じてさえいれば、神はその心映えを賞賛して、彼を救うのである。なにしろ信者には、無知文盲で貧乏暇なしな人もいるのだから、これは当然なのだ。
そのようなわけで「信じることに価値がある」のであるし、「宗教だけが、人間道徳の確固たる基底となるもの」だという功利的な考え方も根強い。

したがって、デネットが紹介するように「神の存在を信じていなくても、神の存在を信じることが大切だと考える信仰者」は大勢いるということになるし、実際そのとおりなのだ。

だから、そんな信仰者たちに「神なんかいるわけないだろう。お前らはアホか」と、上から目線で利口ぶって、受け売りの科学的説明を開陳して見せたところで、そうした「メタ信仰」を生きる信仰者に信仰を捨てさせることは金輪際できない。

自然宗教とは違い、現代の宗教は、近代科学を通過した「メタ宗教」とも呼ぶべきものであり、それに対して「神なんているわけがない」という「実在する・しない」レベルの議論は通用しない。
そんな議論は、前近代的なものであり、時代錯誤だと言っても過言ではないのだということを、私はデネットにハッキリと教えられた。

だから、宗教や信仰といったものの、前近代性や非科学性を批判する私たちもまた、前近代的な単相思考から脱却しなければならない。
そしてそれをするためにも、単なる「科学的仮説の提供」を求める知の娯楽主義ではなく、評価対象(この場合、宗教・信仰)を自身の問題(人間に普遍的な認知科学的問題あるいは自己言及的難問)として思考し抜く、哲学的思考が必要となるのだ。

「己を知り敵を知れば、百戦危うからず」と格言にもあるとおり、私たちは、敵を侮る傲慢に脚を取られてはならない。
私たちがなるべきは、浅薄な科学教の信者ではなく、科学的思考を身につけた本当の現代人なのである。
また、そのためにも、己に問い己を問う哲学的思考は必須なのだ。
言い変えれば、信仰者には、これが決定的に欠けているのである。

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「国民など欺けばいい」というホンネ 一一 日野行介『除染と国家 21世紀最悪の公共事業』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月 7日(月)23時44分52秒
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 「国民など欺けばいい」というホンネ

 Amazonレビュー:日野行介『除染と国家 21世紀最悪の公共事業』
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著者が序章にも書いているように、本書の眼目は「除染にまつわる政府の欺瞞の暴露」に限られた話ではない。
その手の本はたくさん出ているし、すこし問題意識のある人ならば、いまさら知らされるまでもない話だと言えるだろう。しかし、そう考えて本書を購読をひかえるとしたら、それは間違いだ。

本書では、隠されていた内部資料を掘り起こし、あるいは当事者の言葉を引き出して「この国の政治の現実(内幕)」を赤裸々に暴露している。
政治家や役人や学者たちの、身も蓋もない「生の声」を聞かされれば、推測的にならば知っていた事実を裏づけられたに過ぎないにもかかわらず、あらためて愕然とせざるを得ない。これが現実だと頭では重々わかってはいても、それでもあらためて絶望感に捕われざるを得ない。

例えば、汚染土の処理に関する、役人と学者のプロジェクトチームの検討会で話され、議事録から削除されていた言葉には、次のようなものがある。(※印は、レビュアーの補足)

『「8000(※ベクレル)までいけます(※大丈夫)というのが非常に分かりやすいと思う。そこからシナリオ逆算したらいけないんだけど、議事録に残してもらったら困るんだけど、実質それで問題ないと思う。その考え方自体がいけないというのならあれですが」』(P179)

『「この(※会合メンバー用の)議事メモというのもこれまで割と細かく、先生方の名前が入った形で議事録を配布していたが、(※国会でその存在を指摘されたので)これはいったん破棄してもらって、将来的に公開ということになったも支障のない形で第一回から第四回までの議事録を改めて作らせてもらいたい。配布資料についても、公開にふさわしくないものは資料一覧に載せずに、席上配布という形で、この場限りの参考のものということで取り扱いを分けさせていただきたい」』(P180)


また会合メンバーたちは、汚染土問題のよりよい解決ではなく、いかに「表現の言い換え」などで国民を欺くかという姿勢で議論していたのを示す発言もあった。そしてそれは、一部メンバーの心得違いによる失言などでは決してなく、検討会主催者の意向に基づく、会合全体の方向性と雰囲気を反映するものであった。

『「8000ベクレル/キログラムってゼロが三つも並ぶけど、8キロベクレル/キログラムとか8ベクレル/グラムとも言える。小数点以下なんか小さく見えるし、それだといいなあと思ったりする」』(P181)

『「まあ、我々みたいに作文の得意な人はみんなそう思う。まあ議論に反対する人はいない。問題は各論。自分のところに(汚染土が)来たときに、日本のためお国のために我慢しろと言えないといけない」』(P182)


あるいは汚染土などを最終処理まで一時的保管する場所としての「中間貯蔵施設」に関しては、実は最初から最終処分場など見つからない可能性の高いことが、政府内部では暗黙の了解事項になっていたと、元政治家や官僚は言う。

『「あくまで仮置き場であり、『最終処分場』と言ってはいけないということだ。そう言わないと福島県が受け入れてくれない。だから中間貯蔵施設というネーミングになった」』(P214)

『「(※中間貯蔵施設の敷地が、想定された貯蔵量よりもずいぶん広い理由は)敷地内に一応、溶鉱炉とか管理棟とかあるでしょ。あれが大事なんだ。ただのゴミ捨て場と言われないようにするためにね。一応減容化しますよと、暫定的な置き場ですよ、というロジック(論理)にできるから。それに溶鉱炉とか研究所ができていけば、将来的には地元にとって必要な施設ということになる。原子力行政全般にあるフィクション(虚構)だけど、原子力ってこのウソの大きさが面白いよね。面白いって言ってはいけないのかもしれないけど」』(P218)


著者は、序章の冒頭でこう書いている。

『 二〇一一年の東京電力福島第一原発事故に伴う放射能汚染対策の実態を知ることは、国家の信用と民主主義の基盤が破壊された現実を直視することである。
 実は、この数年間に国政を揺るがした問題は3・11に付随する問題とすべて同根なのである。南スーダンに派遣された陸上自衛隊の日報隠蔽問題、森友・加計の両学園問題、裁量労働制に関する厚生労働省のデータ問題、施政に関する公文書の隠蔽、改竄、意図的な削除、説明責任の放棄、責任の所在の不明確さ、国民無視……。
 判で押したように、同じことが行われている。中央政界の腐敗のずっと以前から、この国の崩壊は始まっているのだ。』(P10)

著者のこの見解を大袈裟な牽強付会だと言えるだろうか? 原発事故関連問題はあくまでも「特殊な例外」であり、他の問題も「たまたま」であり、基本的にはこの国の政治は、根本的に腐っているわけではない、などと思えるだろうか? あるいは、こうした否定的事実は、すべて「左翼マスコミ=マスゴミ」のでっち上げだと言うのだろうか?

だとすれば、その国民は、政治家や官僚にいいように騙されるだけの「おめでたい阿呆」である。

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補遺・強力オススメ本: しまだ『ママの推しは教祖様』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月 6日(日)13時47分15秒
  みなさま、一昨々日に書きました「強力オススメ本(昨年読んだ本の中から)」で、大切な本を書き落としておりましたので、ここで補足させていただきます。
その時にも書きましたとおり、私はコミックについては読書記録をつけておりませんでしたので、うっかり書き落としたのでございますが、この本は、昨年読んだ本で中で、最も胸を締めつけられる、インパクトの強烈だった本でございました。
その本とは、

・『ママの推しは教祖様 ~家族が新興宗教にハマってハチャメチャになったお話~
  しまだ・KADOKAWA

でございます。
私はこのエッセイコミックを、Amazonレビューで次のように評しました。


『☆☆☆☆☆ たった一人のママだから…
 2018年4月5日

心に突き刺さる作品だ。

「家族が新興宗教にハマってハチャメチャになったお話」というサブタイトルどおりの内容を、面白おかしく描いているが、最後に明かされるのは、到底笑えない現実体験であり、最終ページの言葉は、あまりにも痛ましい。

愛と理解と哀しみに満ちた名著。必読。』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RU55W7QONIWC1


ここでも書いているとおり、本書は単行本で増補されて部分(本編はネット連載)で、それまで描かれてきた内容に一種の「加工」がなされていたことを明らかにします。つまり、推理小説で言うところの「叙述トリック」的な技法が、半ば意図せず採用されていたことが、最後に明かされるのでございます。
でも、その「どんでん返し」が凄い、というのではございません。
そうではなく、そういう手法を選ばなければならなかった作者の心持ちが、あまりにも切なく痛ましいものであり、読者の胸を撃つのでございます。

だから、もう一度言わせていただきましょう。
本書は『愛と理解と哀しみに満ちた名著。必読。』だと。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RU55W7QONIWC1

 

人生と読書

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月 4日(金)18時55分49秒
  *
オロカメンさま

新年、あけましておめでとうございます!

新年早々、ご挨拶のお書き込み、ありがとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願い致します。

> 2018年はまさか、長年ROMってきた「花園」に、自分が文章を投稿することになろうとは思いもよりませんでした(恐れ多くて……)が、何度か投稿するうちに最近やっと慣れてきたのではないかな、という感じもしてきています。

いやあ、そんなに大層なものではございませんよ。若い頃というのは、良きにつけ悪しきにつけ、世の中と他人に「過大な幻想」を抱くものですが、歳をとってくればだんだんと「山よりデカい鬼は出ん」と認識するようになるものですし、歳をとってもそのことに気づかないでいると、生涯つまらない夢を追ってあくせくしなければならないことにもなりましょう。

自慢するわけではございませんが、私はわりあい早い時期に、そのことに気づくことができたと思っておりますし、それで楽しい人生が送れていると思っております。
人間、生きていくためには「最低限のお金」と「数人の友人」は必要でございますが、それ以上のものは、無ければ無いで済むものですし、そうした「余剰」を過剰に求めますと、生きることを楽しむという本来の目的を見失ってしまうのではないでしょうか。

昨日の書き込みに、私は『私の一番の感心は、あいかわらず「キリスト教」と申しましょうか、正確には「人間の妄信」の問題でございますが、最近はそうした問題と現実政治の問題がリンクするようになってきて、その意味でもある種の充実感を感じております。』ということを書きましたが、これは「化け物のように凄くて、何の悩みもなく、ずーっと幸せに生きているような人など存在しない」という世界認識ともつながってまいります。

例えば「政治家」も「役人」も「神父・牧師」も「法王」も「哲学者・思想家・学者」も「人気タレント・アイドル」も「世界的アスリート」も「無敗の格闘家」も、みんな所詮は「人間」であり、どんなに金儲けをして財を成し、地位を築き、人から高く評価され、さらには才能豊かで美貌の持ち主であったとしても、それらに寄りかかって生きているかぎりは、つねにそれらを追い求め、逆に追いかけられるシンドイ生き方しかできません。

例えば、いま話題のカルロス・ゴーン氏なんかも、犯罪を犯したかどうかは知りませんが、あれほど成功して財を成した人が、まだ会社に付けを回すようなケチなことをしなければならないのかと疑問に思いますが、それこそが、彼がマモンに捕われた人生の域をまったく出ていない証拠なのでございますね。
これは政治家でも同じで、「そんなに総理になりたいか」「まだ、そんなにしてまで金が欲しいのか」と問いたくなりますが、本人は現状に決して満足していないのでしょう。
美女タレントなんかもそうで、人並みはずれて美人なんだから、いつまでも無理のある若作りをするより、自然に老けた方がいいだろうと思いますが、そう割り切れない人が多い。きっと、美に取り憑かれ、それを失うことの恐怖に駆られて、生きているのでしょうね。私はそれが幸福な生き方だとは到底思えません。

結局、こういうのを見ていると、みんな同じ人間でしかないんだと思わずにはいられないんでございます。
もちろん、すごい美貌の持ち主がいるように、すごい才能や並外れた人格をもった人はいて、それはもちろんうらやまざるをえないものではございますが、だからといって、そうしたものが当人をことさら幸福にしているとは限りません。
結局、人を幸せにするのは、その人の人生観であり生き方であって、特別な才能ではないのではないか。大切なのは、幸せをみつけて、それを生きられる才能だと言い換えてもいいでしょう。
そうした才能には、基本的に財も地位も名声も才能も美貌も必要ありません。そして、人間、死ぬときは何もあの世には持っていけず、それまでの人生をどれほど充実させられたか、しかないのだと存じます。

昨日オススメした本にアニメーション・インタビュー 伝説の職人たち 第1集』(星まこと編著、まんだらけ)がございますが、これは往年の著名アニメ製作者に、昔の思い出を中心にインタビューしたもので、私にとってすら昔の人と感じられる「宮崎駿の師匠級」の伝説的アニメーターから、私がアニメにどっぷりハマった高校生の頃、人気アニメーターだった人たちまでが紹介されており、いずれにしろ皆さん高齢になり、亡くなった方もいらっしゃるという面子でした。
そのなかで、私の若い頃のスターアニメーターの一人、金山明博氏のインタビューは、懐かしさもあって、とても興味深いものでございました。
アニメーターというのは、最盛期はやはり四十代までで、それ以降はだんだん描けなくなっていくものですが、歳をとって描けなくなったアニメーターというものは、もう隠居するしかない存在でしかございません。金山氏は、人気アニメーターであったこともあり、上手い具合に専門学校からアニメーター養成講座の先生に招かれたのですが、いざ就職してみると所詮は被雇用者で、金儲け主義の経営者からずいぶん屈辱的な思いをさせられたこともあったようでございます。
ですが、今はその逆境を乗り越え、海外のファンの求めに応じて海外にまで講演をしに行くなど、さして儲けはないものの、生き甲斐を見つけてご活躍なさっています。
こういうのを読みますと「ああ、あんなに輝いていた人も、やっぱり人間だったんだ。そして、彼なりに大変な人生を歩んでいたんだな」と感慨もひとしおであり、結局、どんな有名人にも「人生の重荷」はあるのだということを再確認させられました。ならば、どんな生き方が良いのか、やはり自分なりの生き甲斐をみつけ、それを淡々と歩む人生しかないと思うのでございます。
そのためには「最低限のお金」と「数人の友人」は必要ですが、それさえあれば、特別なものなど何も必要ないのだと、どんな人を見ても、今ではそんなふうに心から思えるのでございます。そして、結論はやはり「最後は人間性(人柄)」なのだと思うのでございます。

> ちなみに、ぼくの去年の活字本の読書数は109冊でした。
> (ただ、これはマルクス=エンゲルスの『資本論』を「全三巻」の扱いでカウントした冊数で、実質文庫本では9冊分ありすので、そのほうで計算すると115冊になります)
>  去年はけっこう『資本論』を読むのに時間がかかっちゃいましたので、これは順当な冊数かなと思ってます。

十分に読んでおられると思いますよ。本というのは、数読めば良いというものではございませんからね。ただ、あれもこれも読みたいから、当人としては「冊数もこなしたい」というだけの話でございましょう。

私も今年はたまたま180册ほど読めましたが、例年は150册前後でございます。
今年、冊数が増えたのは、新書をたくさん読んだからだと存じます。ではなぜ新書の冊数が増えたのかと言えば、政治問題をはじめとしたいろんな現実問題に興味が向いたので、手近に学べるものとして新書をあれこれ読んだからでございましょう。小説を読む冊数が極端に減っておりますから、それでキリスト教関連のものばかり読んでいたなら、とうていこの冊数にはならなかったと存じます。

それにしても、『資本論』は9冊で良いと思いますよ(笑)。
冊数というのは、量的な目安に過ぎませんから、実際に本になっている冊数でかまわないと思うのです。特に『資本論』のような取っ付き難い学術書は、9冊と言っても、小説の5倍くらい読むのに時間がかかりますから、その意味では小説を45冊読んだくらいの実質はあると思います。ですから、決して少なくはございません。

ともあれ『資本論』のような、読んでおくべき「古典」は、やはり他をある程度犠牲にしてでも読みたいものでございますよね。
私は『資本論』ほどの大作古典は読めなかったものの、昨年はウィリアム・ジェイムズの『宗教経験の諸相』など、いくつかの古典を読むことができましたし、今は、部落差別小説の古典である、住井すゑの『橋のない川』(全7巻)を読みはじめました。
あと、今年中にはトクヴィルの『アメリカの民主政治』やホッブスの『リヴァイアサン』(全5巻)なども読みたいと思っております。

>  まあ、今年読もうと思っているハイデガーの『存在と時間』も、えらく時間がかかりそうなんですけどね。今年も一生懸命頭を酷使する年になりそうです(^_^;)

『存在と時間』は、むかし笠井潔の『哲学者の密室』を読むための基本文献として読みました。
思えば、私が本格的な古典的哲学書を読んだのは『存在と時間』が初めてかもしれず、とうぜん何が書かれているのかチンプンカンプンではございましたが、関連書なども読んで、なんとか雰囲気だけは掴めましたし、何より難しいけれど最後まで読み通せたというのは、自信にもつながりました。

こうして考えると、笠井潔との出会いが、私の読書人生において、いかに大きなものだったかというのが、今更ながら痛感させられます。
やはり、論敵の存在というのは、読書を深める上で、必須なのでございましょうね(笑)。


それでは、またのお出でをお待ちしております。

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新年、あけましておめでとうございます!

 投稿者:オロカメン  投稿日:2019年 1月 4日(金)13時16分12秒
   新年、あけましておめでとうございます!

 昨年はたいへんお世話になりました、オロカメンでございます。

 2018年はまさか、長年ROMってきた「花園」に、自分が文章を投稿することになろうとは思いもよりませんでした(恐れ多くて……)が、何度か投稿するうちに最近やっと慣れてきたのではないかな、という感じもしてきています。

 ぼくは学生時代に評論について少しばかり勉強していたこともあって、批評や評論に興味があったものですから、20歳代のころに見つけたこの知的レベルのメチャ高いサイトをむさぼるように読んでは「うわあ~、なんで世の中にはこんなに頭のいい人たちばかりいるんだろうなあ」と自分との絶望的な差を感じてばかりいました。

 それがまさかまさか、この歳になってあの「アレクセイの花園」の園主様に、直接ものを言ったり、お話して仲良くさせていただく機会に恵まれるとは!
 まさかまさか!
 人生、わからないものですね。

 ……ぼくもちょっとは、成長したんですかね♪

 ということで、今年もたびたびこちらに顔を出させていただければと思いますm(_ _)m


>強力オススメ本(昨年読んだ本の中から)

 アレクセイさんのお勧め本は、いつも参考にさせていただいておりますm(_ _)m
 ぼくとしては特に、アレクセイさんに挙げていただいた【戦後日本政治関連】の本は、今年中にいくつか読んでみたいと思っているんですよね。
 以前オススメいただいて読んだ『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』も、たいへん勉強になりましたので。
『エンドレスエイトの驚愕 ハルヒ@人間原理を考える』なんかも、ずっと気になってる本です!

 ちなみに、ぼくの去年の活字本の読書数は109冊でした。
(ただ、これはマルクス=エンゲルスの『資本論』を「全三巻」の扱いでカウントした冊数で、実質文庫本では9冊分ありすので、そのほうで計算すると115冊になります)
 去年はけっこう『資本論』を読むのに時間がかかっちゃいましたので、これは順当な冊数かなと思ってます。
 まあ、今年読もうと思っているハイデガーの『存在と時間』も、えらく時間がかかりそうなんですけどね。今年も一生懸命頭を酷使する年になりそうです(^_^;)


ということで、本年もどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m
 

強力オススメ本(昨年読んだ本の中から)

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月 3日(木)22時11分46秒
  昨年は、なかなか快調に約180冊の活字本を読むことができました。漫画は読むスピードが違うのでカウントしておりませんが、昨年読んだすべての本の中から、とくに面白かったオススメ本をご紹介したいと思います(昨年刊行されたものに限りません)。


【キリスト教関連】

・『神があるなら、なぜ悪があるのか 一一現代の神義論』
  クラウス・フォン・シュトッシュ、関西学院大学出版会
・『エドガルド・モルターラ事件  少年の数奇な運命とイタリア統一』
  デイヴィッド・I・カーツァー、早川書房
・『ヒトはなぜ神を信じるのか  信仰する本応』
  ジェシー・ベリング、化学同人

【戦後日本政治関連】

・『検証・法治国家崩壊  砂川裁判と日米密約交渉』
  吉田敏浩・新原明治・末浪靖司、創元社
・『枝野幸男、魂の3時間大演説 「安倍政権に不信任に足る七つの理由」』
  枝野幸男、扶桑社
・『情報隠蔽国家』
  青木保、河出書房新社
・『日報隠蔽  南スーダンで自衛隊は何を見たのか』
  布施祐仁・三浦英之、集英社
・『国家と沖縄』
  辺見庸・目取真俊、角川新書
・『自衛隊の弱点  9条を変えても、この国は守れない』
  飯柴智亮、集英社

【科学・哲学関連】
・『サピエンス全史 文明の構造と人類の起源』
  ユバル・ノア・ハラリ、河出書房新社
・『エンドレスエイトの驚愕 ハルヒ@人間原理を考える』
  三浦俊彦、春秋社

【趣味】
・『アニメーション・インタビュー 伝説の職人たち 第1集』
  星まこと編著、まんだらけ

【小説】
・『全世界のデボラ』
  平山瑞穂、早川書房

【コミック】
・『銀河の死なない子供たちへ』(上下)
  施川ユウキ、KADOKAWA

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新年のご挨拶

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年 1月 3日(木)21時10分12秒
 

        ☆  ☆ 謹賀新年 ☆  ☆


みなさま、あけましておめでとうございます。おかげさまで当『LIBRA アレクセイの星座』も、つつがなく18周年19年目を迎えることが出来ました。

昨年ご報告いたしましたとおり、一昨年暮れに、同居で私と二人暮らしをしていた母がインフルエンザで倒れて入院し、その後、介護老人保健施設(老健)に入所しました。つまり、私は現在、独り暮らしでございます。
で、必然的に、家全体に本の山の増殖する結果となりました(笑)。

また、既にご報告しましたとおり2016年7月から再開したmixiも、ネトウヨいじめをやり過ぎてアカウントを止められてしまいました。
しかし、それはあらかじめ覚悟の上での行動でしたので、運営に対する憤りはもちろんございますが、前回のような悔しさはなく、ある種さっぱりしたとも申せましょう。事実そのおかげで、ネトウヨいじめのためのノルマ的な時間が取られなくなって余裕ができために、Amazonレビューを書く機会が増えました。

もちろん、mixiでネトウヨとケンカをしたおかげで、日本の現政権の問題に真剣に向き合う機会が与えられたことは良かったと思っております。
私の一番の感心は、あいかわらず「キリスト教」と申しましょうか、正確には「人間の妄信」の問題でございますが、最近はそうした問題と現実政治の問題がリンクするようになってきて、その意味でもある種の充実感を感じております。どんなに抽象的な問題であれ、逆にリアルな問題であれ、それらは「人間の心の問題」と無縁なものはない、ということが、どんな本を読んでいても実感できるようになってきたのでございます。

そんなわけで、今年は自身の健康に留意しながらも、昨年並の書き込みができればと思っておりますので、どうぞ本年も「アレクセイの花園」をお見守りいただければと幸いでございます。

http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

 

謹賀新年

 投稿者:ホランド  投稿日:2019年 1月 3日(木)20時39分49秒
   みなさま

 あけましておめでとうございます。

 今年は元日に書き込みし損なってしまいました。それは園主さまも同じなんですが、今日はボクに先に書き込むようにとのご指示で、たぶん、園主さまよりは先に書き込んだという体裁を整えて下さったんだと思います。(^-^;)

 昨年もボクは書き込みが出来ませんでしたが、園主さまはmixiのアカウントを凍結されて以降、Amazonレビューをたくさん投稿され、それをこちらに転記なさり、またmixiでお友達になったオロカメンさんも書き込みをして下さったので、随分ひさしぶりに「アレクセイの花園」も生きている感じになりました。
 で、この調子なら、ボクも安心してROMできるかなと…。

 最後になりましたが、4月には年号も変わる2018年が、みなさまにとって素晴らしい一年でありますよう、心よりお祈りいたします(^-^)。
 

政治的パフォーマー・パル判事の実像

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年12月29日(土)23時09分55秒
  '

 政治的パフォーマー・パル判事の実像

 Amazonレビュー:D・コーエン、戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体
                      一一 パル、レーリンク、ウェブ三判事の相克』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2IAACF0S4OVC3

本書において、特に問題にされるのは、ネトウヨや自称「保守」たちによって「英雄」視されてきた、インドのパル判事に対する、明確な否定的評価の部分だろう。

著者たちは、パルが東京裁判において行った「反対意見(パル支持者からは「パル判決」などと大仰に呼ばれる)」は、パル個人の「政治イデオロギー的な意見発表」でしかなく、「判事」としての努めを初手から放棄した「パフォーマンス」でしかなかった事実を、パルの意見書の記述に即して、法学的に明らかにしている。

どうしてこのような当たり前の研究が、日本においてこれまでなされて来なかったのかと言えば、それは日本においては、東京裁判は、日本の自己正当化をするための「政治案件」であって、国際法に基づいて判断されるべき「法的案件」ではなかったからだ。いきおい、議論は「政治闘争=ネトウヨの言う歴史戦」と化して、法学的な研究の対象にはなり難かったのである。

言うまでもなく、日本の側としては、日本が戦争において行った数々の犯罪的行為を「立場上、仕方がなかった」「他国もやっていた」という理屈で、少しでも自己弁護し正当化するしかなかった。
しかしそれは、喩えて言うなら、凶悪犯罪を犯した者が「心神耗弱」や「心神喪失」といったことを訴えて、自己の行ないの有責性を否定し、文字どおり「やむを得なかった」ということ証明して、無罪を勝ち取ろうとするのと、まったく同じことだ。そんな「免責要件」が、事実としては無かったとしても、である。

もちろん、戦争犯罪を犯したのは日本だけではない。しかし「あいつらもやってるんだから、俺だけ問責されるのはおかしい」と言い訳は、あまりにも幼稚で無責任である。なぜなら、その言い草には、多くの被害者たちへの罪責感が、欠片も無いからだ。
もしも日本人に本物の誇りがあるのであれば、自分のやったことの責任をきちんと取ってから、他人の行ないをも質すべきだが、自己の責任回避しか考えていないからこそ、「あいつもこいつもやっている。私だけが責められる筋合いはない」という、見苦しい言い訳になってしまうのである。

同様の意味で、パルも東京裁判の判事を引き受けたのであれば、判事としての努めをキチンと果たした上で、自分の意見を言うべきであった。つまり、日本人戦犯の個人責任をきちんと問疑して、然るべき責任を問うた後に、戦勝国の犯罪をも問う場を設ける努力を「法律家」としてすべきであったのだ。
だが、彼は「判事という肩書き」を欺瞞的に利用して、自己の「政治的パフォーマンスの舞台」を得ただけだったのである。

実際のところ、パルがこのような「政治的パフォーマー」であったからこそ、彼はネトウヨや自称「保守」たちにとって利用価値があり、「英雄」にでっち上げるだけの価値のある存在であった。
しかしそこには「政治的打算」しかなく、パルという人への客観的な評価などは欠片もない。「敵の敵は味方」という卑しい打算があっただけだ。

ネトウヨや自称「保守」たちの「倫理」とは、所詮そうしたものでしかない。だからこそ「根拠も示さず」に反論したつもりにもなれる。
彼らにあるのは「倫理」でも「論理」でも「矜持」でもなく、臆面のない「声のデカさ」だけなのだ。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2IAACF0S4OVC3

 

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