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庶民的オリジナリティの驚異 一一amazonレビュー;カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年11月 8日(金)17時59分6秒
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 庶民的オリジナリティの驚異

 amazonレビュー;カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R250NIYZL9EG8J


本書で、著者ギンズブルグが訴えるのは、文化とは多層的なものであって、「上層が文化を作り、下層のそれは、上層文化のお下がりである劣化コピーに過ぎない」というような理解や感覚は、後代に残された情報量格差による誤認でしかない、というものだ。
そして、その実例として、本書の主人公メノッキオが紹介される。

メノッキオは、16世紀イタリアの田舎町に住む粉挽屋である。つまり一庶民だ。
その彼が「異端」の信仰を持っていると疑われ、本格的な異端審問にかけられ、二度の有罪判決の後、刑死することになる。
当時すでに、ルターらによる宗教改革が始まっていたとは言え、その時点でのルターらは、教会を破門になった「異端」の徒であり、異端ではない「プロテスタントのキリスト教徒」などというものは、まだ存在していなかった。したがって、プロテスタントが勢力を持った(諸侯と結んだ)特定地域以外は、もちろん、今で言うカトリック教会の勢力圏であり、その教えに従うのは当然のことであった。
そして、本編の主人公メノッキオもまた、そんなカトリック信者の「その他おおぜい」の一人でしかなかったわけだが、その彼が「異端」の説を説いて回ったかどで、ある意味で、分不相応にも見える、本格的な異端審問を受けることになったのである。

しかし、たかだか田舎の一庶民が、と言うなかれ。当時のカトリック教会は、ルター派や再洗礼派をはじめとしたプロテスタント勢力の拡大に戦々恐々としていたので、この粉挽屋がどこで異端の説にかぶれたのか、その背後にどれだけの仲間がいるのかを調べて、それら異端の徒を撲滅しなければならなかった。

しかし、メノッキオが人目も憚らず、村人たちに説いて回った異端の説は、少々奇妙なものだった。
たしかにそれは、正統な教えから逸脱したものであり、ルター派や再洗礼派などの邪説と重なるところが多々あるその一方で、それらからも外れてしまう、奇妙な「オリジナリティ」を持っていたのである。
その典型的な一例が、本書のタイトルにもなっている「牛乳が凝固してチーズになるように、世界はカオスが凝固して成ったものであり、チーズからうじ虫が生まれるようにして、天使が生まれ、神もそんな天使の中の一人であった」という、あきらかに非正統的な「宇宙創世観」なのである。

メノッキオが、特定の異端派の影響を受けたのであれば、その異端の教説を語るはずだが、彼の語る「宇宙観」や「神観」は、そんな型通りのものではなく、異端の神学にも通じた審問官たちでさえ聞いたことのないような独自の説が、メノッキオの語るそれには混入しており、独特の説を形成していた。そのため、異端審問官も判断に困って、無理やりに従来の異端の型に当て嵌めて、モノッキオのそれを理解しようと四苦八苦させられたりもしたのである。

結局、メノッキオのオリジナルの部分というのは、彼が十指にたらぬ書物から得た知識や異端派の信者から聞かされた話を、彼なりに咀嚼した結果、彼の頭の中から生まれてきた「宇宙論」であり「神学」であったようだ。
例えば、禁書でも何でもなかった、世界旅行記に描かれた、キリスト教圏外のいろんな人たちの多様な文化や多様な信仰を知ることによって、メノッキオはキリスト教に接する機会のなかったそうした外国の民が、知りようのなかったキリスト教の信者でなかったがために、最後の審判において神に救われないというのはあまりに「不合理」だと考え、神は国々の民にそれぞれに合った教えを与えたのであり、信仰のかたちは違えど、皆、同じ神に救われるのだといった、反時代的なほどに「合理的な神解釈」を自分の頭で編み出し、そこから、キリスト教でしか救われないなどと説いているキリスト教の司祭たちは、きっと自分たちの商売として、そう言っているに過ぎないのだなどと、非常に「現代的な解釈」を捻り出して、それを人に得々と語りだしたのである。それで、彼は(カトリック)教会を誹謗する、許されざる異端の徒だと睨まれたのだ。

ちなみに、メノッキオのオリジナルな教説は、上に書いたような点だけではない。神とはどのようなものか、三位一体の教説は正しいのか、イエスは神か、マリアは処女懐胎したのか等々、キリスト教の中心的な教説について、彼なりに納得のいくオリジナルの見解を持っており、それらがしばしば他の異端派の説とも重なったのである。

しかし、われわれ現代人の目から見れば、ルター派や再洗礼派のような、後にプロテスタントとして、キリスト教の中に正当な地位を得る教派の教説よりも、むしろメノッキオの説の方が、その発想が自由である分、いかにも「現代的」なのである。
そこで問題となるのは、メノッキオのこうした自由さが、いったいどこから来たものなのかということになるのだが、ギンズブルグは、これをメノッキオの庶民性、農民的リアリズムに見る。
生活者として現実的世界と直に向き合う者の生活実感主義的なリアリズムや自然観が、伝統的かつ観念的な正統教義との齟齬を少なからず生まずにはいられなかったのではないか。つまり、正統教義に素朴なリアリティを感じられなかったからこそ、その部分を書物から得た知識などを参考にしながら、彼なりに納得のいく世界観を構築したというのが、彼の「独自の説」だったのである。

庶民ながら、非凡な思考力と想像力を持ったメノッキオの頭の中には、不完全な形で教えられたカトリックの正統教説や、異端の説、さらに書物によって与えられた世界の広さと多様性の概念などの「知的情報」だけではなく、庶民的な唯物論的リアリズムや開かれようとしていた時代の空気といった「時代的・空間的な解読格子」が、相互触発的に交錯していたのである。

たしかにメノッキオのような庶民は滅多にはいなかったはずだが、庶民の中にもこういう人がいたという事実を、歴史はしばしば見落とし、庶民というものを浅瀬の理解において単純化してしまいがちだ。
もちろん、ある程度の図式化は必要だろうが、硬直した単純化は、歴史という「生もの」を死物化してしまう怖れのあることを、私たちも繰り返し銘記すべきだということを、メノッキオは教えてくれる。

それにしても、彼に比べれば、私たちの世界観というのは、いかにも紋切型を出ず、オリジナリティに欠ける。
これはきっと、それなりに良く出来た世界観に関する「情報」を、私たちが容易かつ浴びるほど大量に得ることが出来るから、選り取り見取りで、自分の頭を使う必要がないからであろう。
しかし、頭を使わない「趣味的な選択」だけでは、流行りに流されるのも当然であり、だからこそ私たちの世界観はオリジナリティに欠け、面白味にも欠けるのではないだろうか。

だから私たちは、多少なりとも「メノッキオの爪の垢」を煎じて飲んでも良いのではないかと思う。昔の人だから、しかも庶民だから、幼稚で荒唐無稽な世界観しか持っていないのだろうなどと考えるのは、やはり歴史的な偏見でしかないのではないかと思う。
私たちが学ぶべきは、著名な歴史学者ギンズブルグではなく、むしろ無名の粉挽屋であるメノッキオの方なのかも知れない。

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〈理性〉の時代的制約 一一Amazonレビュー:ジョン・ロック『キリスト教の合理性』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年11月 8日(金)17時57分3秒
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 〈理性〉の時代的制約

 Amazonレビュー:ジョン・ロック『キリスト教の合理性』
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本書は、キリスト教を、合理性の観点から批判したもの、ではない。17世紀後半の著名な哲学者ジョン・ロックが「キリスト教は合理的である(「合-理性」的なものである)」つまり「信仰と理性は矛盾しない」という、自身の信仰的信念の、論証を試みた書である。

そして、結論から言えば、それは成功していない。
本書の正式な書名は『聖書に述べられたキリスト教の合理性』であり、話を「聖書」に限定し、「聖書」に語られていることが「真実」だと前提するならば、キリスト教に合理性を見いだすことも、あるいは可能かも知れないが、しかしそれは、ほとんど論点先取の誤謬である。
というのも、キリスト教徒ならざる、私を含む多くの現代人にとっては、「聖書」の記述自体が、そもそも信用ならざるものであり、一般的な意味での「合理性」についての議論の前提とはならないものだからだ。

しかし、ほぼ同世代のニュートンが、今の分類でいえば「自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者」(Wikipedia)という肩書きを兼ね持っていた時代、つまり「科学と信仰」が未分であり、矛盾するなどとは考えられていなかった時代にあっては、「聖書」に「信仰の合理性」を読み取るという行為も、決して的外れなものだとは思われていなかった。まさに「聖書」は「聖書」であって、その記述は正しく、その「解釈の精確さ」こそが論点となり、ロックが主張したのは「聖書の合理的な解釈」と、それによる「キリスト教信仰の合理性」の証明だったのだと言えよう。

さて、そんなロックの「聖書の合理的な読解による、正しい信仰理解」とは、どのようなものであったのか。
ロックは、それを福音書と使徒行伝を読み解くことによって、「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」だと結論する。
そして、「書簡」などに示された、それ以外の様々な「使徒の教え」は、「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」を前提としての、言わば応用的指導にすぎないので、まずは心から「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」さえ出来れば、それで立派に信仰を持っていることになる(義認される)、というものであった。

つまり、ロックとしては「信仰には、啓示を正しく理解する理性が、絶対に必要」だけれども、言うまでもなく誰もが、十分な教育を受けられる(地位と金と時間がある)わけでもなければ、優れた知性を与えられているわけでもないのだから、そういった人々をも救うことを保証するキリスト教ならば、当然、皆が皆、教義や神学や聖書の詳細を知悉しなくても「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」さえすれば、それで良いのだと「聖書には示されている」という立場なのである。

しかし、「イエスがメシア(キリスト)である」ということの保証が、理性を満足させるかたちで「聖書」のどこに示されているかというと、それは「イエスによる奇跡」が保証し、その事実をもって「イエスがメシア(キリスト)であると信じること」が出来るのだ、と本書は主張するものになっている。
これは、現代の私たちの視点からの「その奇跡が行われたという記述が信用ならない」という問題ではなく、当時の人たちにとっては「奇跡を行ったことは事実でも、奇跡を行うことが、そのままメシアであることの証拠にはならない(事実、悪魔や魔術師も似たようなことをした)」と考えられてしまう点で、十分な合理性を欠いていたと言えよう。
結局「イエスがメシア(キリスト)である」という結論には誰もが同意しても、その論証が十分に合理的ではないという点で、ロックが強く主張した「信仰と理性は矛盾しない」という、理に勝ち過ぎた「理性主義」の主張は、まだまだ「神秘主義」的(妄信的)な信仰態度(「聖書にそう書いてあるからそうなんだ」)が当たり前であった時代には、「異端」的なものとみなされたりもしたのである。

そして、そんなロックの「解釈学的立場」をよく示しているのが、本書末尾の部分である。

『 英国国教会に反対する宗教団体は、その指導者たちによって、彼らが大変に無学であると非難する普通の国教徒に比べて、信仰上のことがらにおいてはより厳正に教えられ、キリスト教をよりよく理解していると想定されているようであるが、私は、それがどこまで真実であるかどうかをここで決定しようとは思わない。しかし、私は、その指導者たちに、彼らの団体に属する人々の半分が学ぶ余暇を持っておられるかどうかに誠実にお答え下さるようにお願いしたい。いや、それよりお聞きしたいのは、田舎でのあなたがたの集会に来る人たちの一〇分の一が、たとえあなたがたの言うことを学ぶ時間があるとしても、今、本論稿の主題である義認についてあなたがたの間で大変に熱を込めて行われている論争を、はたして理解しているか、あるいは、はたして理解できるのかということである。私は、彼らの指導者たちの何人かと話したことがあるが、その人たちの告白によると、自分たちの間で行われている論争における意見の違いを理解できないとのことであった。にもかかわらず、彼らは、自分たちの主張する諸論点は、(※ 信仰の義認において)非常に重要なものであり、宗教においてきわめて実質的で基本的なものだと考えるので、その結果、彼らは、自分たちの宗教団体を分裂させ、別々に分かれることになってしまうのである。もし神の意図が、学識ある著述家、論争家、あるいはこの世の賢者以外はキリスト教徒になれないとか、救われないということにあったとすれば、宗教は、彼らのために準備されたもの、思弁やごく些末なことがら、曖昧な用語や抽象的な概念に満たされたものになったことであろう。しかし、そのように見込まれた人間、そうした豊かな資質を与えられた人間は、使徒〔パウロ〕が『コリント人への第一の手紙』第一章〔一八節-一九節〕でわれわれに語っているように、福音の単純さに入ることができず、それからむしろ閉めだされている。それは、貧しい者、知識のない者、文字を読めない者に道を譲るためであった。これらは、救済者の約束を聞いてそれを信じ、一人の男が死んだのを見て彼を再び甦らせたイエスこそがその救済者であることを信じ、また、イエスが、世界の終末に当たって再臨し、人々が行ったことに応じてすべての人々に判決を言い渡すことを信じた人々であった。『マタイによる福音書』第一一章五節にあるように、キリストは、貧しい者たちが自分たちに宣教された福音を手にするということを、自分の聖なる任務の職務であるとともに、その任務を示す一つの印としたのである。そして、もしそのように、貧しい者たちが福音を自分たちに宣べ伝えてもらったのであれば、その福音は、間違いなく、貧しい者も理解することができるような平明で、わかりやすいものであった。そして、われわれがすでに見てきたように、キリストと彼の使徒たちとの宣教における福音は、まさしくそうしたものであったのである。』(P360~362)

「キリスト教の福音は、貧しい人たちのためにこそあったのだから、聖書にもそう書かれており、それに反する解釈は、非合理的であり誤りだ」というロックの主張は、正論ではあろう。
しかし、どのようなテキストも「多様な解釈」を論理的に導きだしてしまうものであり、ましてそれが「矛盾した記述のある諸文書を集めてまとめた書物=聖書」であってみれば、教義的あるいは道義的な問題や人情の問題は別にして、やはり「多様な解釈」は論理的に避けられないし、その事実こそが「(キリスト信仰の)真実」でもある、というのが、私たち後世の者の「理性的な判断」だとせざるを得ないのである。

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フランシスコによる〈異端〉との対決 一一Amazonレビュー:教皇フランシスコ、D・ヴォルトン『橋をつくるために』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年11月 8日(金)17時55分14秒
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 フランシスコによる〈異端〉との対決

 Amazonレビュー:教皇フランシスコ、ドミニック・ヴォルトン『橋をつくるために 現代世界の諸問題をめぐる対話』
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本書は、現ローマ教皇フランシスコの、コミュニケーション問題を専門とするフランス人社会学者ドミニック・ヴォルトンとの対話の記録である。ちなみに、ヴォルトンは、カトリック信者ではなく、無神論者。

本書の特徴は、両者の闊達なやりとりにあると言えるだろう。この対話は、ヴォルトンの方から持ち込まれたものだが、ヴォルトンの忌憚のないツッコミは素晴らしく、何度も何度も「教会はなぜ」とフランシスコに詰め寄るが、フランシスコはそれに対し、じっくりと考えて冷静かつ誠実な返答を返し、時に沈黙で答える。沈黙はときに雄弁であることをフランシスコは知っている。つまり彼には、語るべきではないこともあることを、誤摩化さずにヴォルトンに伝えるのである。

本書のサブタイトルにもあるとおり、対話のテーマは多岐に渡っているが、私が特に注目したのは、フランシスコによる「異端」批判と取れる言葉の、その意味するところである。

フランシスコは言う。

『 教会がその使命を最も良く理解した時代は、ヒューマニズムを尊重した時代です。人間の尊厳を尊重し、それをないがしろにしなかった時代です。ヒューマニズムを損なう二つの非常に重大な危険があって、それらを「異端」と呼ぶことができます。一つはグノーシス主義、大まかに言えばすべては知識であるとする異端で、使徒たちの時代に現れました。もう一つはペラギウス主義、あなたたちフランス人はそのチャンピオンですね。ポール・ロワイヤルやパスカルを考えてみてください。あの偉大なパスカル、精神とヒューマニズムの巨匠であるあのパスカルも、ほとんどペラギウス的世界に生きています。肉体の拒否です。(※ 逆に)ドストエフスキーの作品の中に、ペラギウス主義やグノーシス主義を示すような箇所が、たった一つでも見つけ出せるものならば見つけ出してください。』(P240~241)

ここで、フランシスコが批判しているのは、『肉体』性を見失った「観念論(精神主義・霊性主義)」であり、だからこそ、現代思想の本場であるフランスをからかってもいるのだ。

フランシスコは、こうした「肉体(民衆・生活・現実)」を見失うこと(軽視し無視すること)で「純粋に霊的たりうる(存在のステータスが上がる)」と思い違いするような「観念論」の誘惑を、「天使性」という言葉を使って批判してもいる。
「天使」とは、この場合「悪しきもの」として批判されているのだが、ここには徹底して「民衆」とともに「低く」あらんとするフランシスコの、人間に分不相応な過度の「天使性」希求の危険性に対する、鋭い嗅覚が見て取れる。


『 民衆には民衆の信心、民衆の神学があります。健全で具体的なもので、家族や仕事を基盤とした価値観に支えられているのです。民衆は、その罪さえ具体的です。反対に、あのイデオロギー的神学(※ マルクス主義の影響を大きく受け、政治的傾向の強かった「解放の神学」)の罪には「天使性」がありすぎます。最も重大な罪は、天使的な要素がたくさんある罪です。それ以外の罪は、天使的な要素がほとんどなくて、とても人間的なのです。おわかりいただけますか? わたしは「天使性」という言葉を使うのが好きです。なぜなら、最悪の罪は傲慢の罪、つまり天使たちの罪だからです。』(P139)

無論、パスカルにしろ、マルクス主義者にしろ、「解放の神学」の司祭たちにしろ、彼らは彼らなりに「民衆」に寄り添い「民衆」のために闘った人たちであることは、アルゼンチン出身で軍政下の自由弾圧を経験したフランシスコも十分に承知していたのだが、それでもその「善意」が、地に足の着かないものとなって「天使」化した時、人は「肉体」を軽んじて「観念」に囚われ、自身を「霊的に高次な人間」だという「傲慢(自己誤認)」に囚われてしまい「堕天使(神の意図に従わぬ者)」と化してしまうのである。一一 例えば、あの「総括殺人の連合赤軍メンバー」のように。

彼らは、「民衆」に寄り添い「民衆」のために闘った、言わば「熾天使」のつもりだったのであろう。だからこそ、「肉体」の弱さに縛られない「革命の戦士」となる覚悟を仲間たちに求め、その「肉体」を限界まで苛んだあげく、「戦士=天使」たりえない「弱い」仲間たちを、次々と殺してしまったのだ。
彼らの過ちが、どこにあったのかは、フランシスコの言葉に明白だろう。彼らは「肉体」を蔑視して「天使」になろうとしたのだが、それは「人間という肉体的存在」を見下す「傲慢(自己誤認)」にとらわれたということにほかならず、彼らは知らずに「堕天使」となっていたのである。

しかも、こうした「肉体憎悪としての天使主義」は、当然のことながら、容易に「(肉体の象徴たる)民衆」憎悪にも転化する。
人を救うために司祭になった人たちが、いつのまにか民衆を見下し憎悪するようになったりもする。もはや彼らにとって重要なのは、自らの「天使」性であり、「肉体」を持たないが故の「純粋さ(完璧さ)」なのであるが、それはしばしば「伝統主義的保守主義」というかたち(形式主義)となって表れる。
フランシスコが進める「教会改革」とは、まさにこの「天使性」の呪縛から、教会を開放するための戦いであり、フランシスコの言う「グノーシス主義」や「ペラギウス主義」という「異端」は、「教会」の中にあってこそ(「異教」ではなく)「異端」なのである。


『 この霊的な世俗性は、とりわけ、深く関連し合う二つの源泉からわき出てきます。その一つは、主観主義にとらわれた信仰であるグノーシス主義の魅惑です。これは、特定の経験、一連の論証、知解のみに関心をもっています。それは、慰めと光を与えると考えられるものですが、主体は自らの理性と感情の内在に閉ざされたままなのです。他の一つは、自己完結的でプロメテウス的な新ペラギウス主義です。この人々は、自分の力だけに信を置き、定められた法規を遵守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情にのみ信を置いているのです。教義と規範の仮定的確信が、自己陶酔的で権威的なエリート主義を生じさせます。それによって、福音をのべ伝える代わりに他者を分析し格づけし、恵みへと導くことにではなく、人を管理することに力を費やします。どちらの場合も、イエス・キリストに対しても他者に対しても、真の関心を払っていません。人間中心的な内在論の表出なのです。このようなキリスト教のゆがめられた形態が、福音の真の活力を生み出すとは想像もできません。』(P254)

そんなフランシスコに、ヴォルトンは

『 あなたの開かれた人道的姿勢は、カトリック教会内部で反対を引き起していますね。』(P81)

と水を向けるが、フランシスコの「地上主義」は、次のように徹底している。

『 教会が道学者になってしまうと……教会は道徳ではありません、キリスト教は道徳ではありません。道徳は、イエス・キリストとの出会いの結果です。でも、もしもイエス・キリストとの出会いがなければ、その「キリスト教」道徳はなんの価値もありません。』(P225)

『 (※ 困窮者からなる巡礼団の)付き添いの皆さん、わたしは皆さんに感謝したいと思います。皆さんは、抽象論ではなく(※ 貧しい人々と)共に生きることから出発しようとしたジョセフ・ブレジンスキ神父の直感を忠実に受け継ぎ、行動されているからです。抽象論はわたしたちをイデオロギーへと導き、イデオロギーはわたしたちを、神が人となり、わたしたちの一人となってくださったこと(※ つまり、人間が肉体をもつ存在であり、そんな人間を救うために、神は肉体をそなえたイエスとなって、この世に降り立ったこと)を、否定するように仕向けるのです。というのも、貧しい人々と(※ その具体的な)生活を共にすることこそ、わたしたちを変え、回心へと導くからです。』(P249)

『 神学における危険はイデオロギー化することです。』(P261)

『 伝統は、イデオロギーになったとき、伝統ではなくなります。』(P312)

『(※ キリスト教厳格主義派も含めて)厳しさ・硬さの背後には、コミュニケーション能力の欠如があります。わたしにはいつもそう見えました……たとえばコミュニケーションを怖れているあの硬直した司祭たちを見てください、硬直した政治家たちを見てください……あれは原理主義の一つの形です。わたしは硬直した人と出会ったりすると、とくにそれが若者だと、すぐに思うのです。これは病人だと。危険なのは、彼らが安全を保証してくれるもの(※ 例えば、警察や軍隊やカトリック教会のような、権威ある組織の後ろ盾)を求めていることです。』(P372)

常に「人間と向き合い対話すること(かたくなにならないこと)」。さらに、弱き立場に置かれた人、虐げられた人々、貧しい人たちの側、つまり「肉体」的現実の側に立って、「民衆」と共に生きることを、フランシスコは求める。

そこで、ヴォルトンは問う。

『 ところで、「教皇庁の一五の病気」に対する戦いには勝てましたか? 教皇庁だけの病気ではなくて、結局は普遍的な病気ですね。(笑い)』(P321)

フランシスコの言う「教皇庁の一五の病気」とは、「2014年12月22日、バチカンのクレメンス・ホールで、バチカン関係者に対して行われた降誕祭前の挨拶」で語られた、つぎのような15の項目である。


『1 自分を(…)必要不可欠な者だと感じる病気。自分自身を批判することなく、自分自身を改善しようとしない教皇庁は、障害をもつ からだです。(以下略)
2 (マルタに由来する)「マルタイズム」という病気、働きすぎの病気、仕事にのめり込む人たちの病気です。(…)必要な休息を怠るため、ストレスや不安にさらされます。(以下略)
3 心と精神が「石のようになる」病気。石のような心をもつ人たちの病気、(…)道を行くうちに、心の平穏、活力、大胆さを失い、書類に埋もれ「書類作成機」になってしまい、「神の人」ではなくなってしまった人たちの病気です。(…)
4 計画過剰病、機能主義という病気。(中略)すべてをよく準備することは必要ですが、聖霊の自由を妨げて自分の思うように動かそうとしたり閉じ込めたりする誘惑には決して陥ってはなりません。(…)
5 協調不全という病気。(以下略)
6 「霊的アルツハイマー」病。あるいは(…)主と共に歩んできた自分の歴史、わたしたちの「初めのころの愛」(ヨハネの黙示録2・4)を忘れる病気です。(以下略)
7 対抗心と虚栄心という病気。見た目、服の色、勲章が人生の最重要目的になってしまうときに見られる病気です。(…)
8 実存的統合失調症という病気。二重生活を送る人の病気です。(…)司牧上の奉仕活動を放棄して、お役所的な仕事しかしなくなり、そうやって現実との接触や人々との具体的なかかわりを失っている人が、しばしばかかる病気です。(…)
9 悪口、不平、陰口という病気。(以下略)
10 リーダーを神のように崇める病気。上司のご機嫌をとる人たちがかかる病気です。(…)この人たちは、出世主義、日和見主義の犠牲者です。(以下略)
11 他人に対する無関心という病気。一人ひとりが自分のことしか考えず、人間関係における誠実さや温かさを失ってしまうときにかかる病気です。(…)嫉妬から、あるいは策略から、人が転ぶのを見ると喜び、その人を助け起こすことも励ますこともない、そういう病気です。
12 暗い顔という病気。気難しくてとっつきにくい人たちのことです。この人たちは、自分が重々しい人物であると見せつけるため、ことさら憂鬱で謹厳な顔つきをし、他人に対しては一一とくに目下に対しては一一頑固で厳格で傲慢な態度をとるのです。(…)
13 ため込み病。使徒が心の中の実存的空白を埋めようとして、必要もないのに、ただ安心感を得るためだけに、ものをため込む病気です。(…)
14 閉鎖的サークル病(※ セクト主義)。グループへの帰属意識が強くなって、「(※ 教会という)からだ」への帰属よりも、そして状況によってはキリスト自身への帰属よりも、(※ グループへの帰属が)優先される病気です。(…)
15 世俗的な利益を求める病気、露出症という病気。使徒が奉仕の務めを権力に変え、さらに自分の権力を世俗的な利益を得るため、あるいはより大きな権力を得るために、利用する病気です。(…)』(P330~333)
 (※ 「(…)」は原文のものである)

カトリックの中央で、ローマ教皇によって、このような「基本的」な指導がなされていることに、私たちは、事の重大さとともに、希望をも見いださなくてはならないだろう。
フランシスコは、「改革への抵抗」について、こう語る。

『 (…)改革は、まず第一に、地上を旅する教会の生きる力のしるしです。(…)生きているからこそ改革されねばならない教会の生きる力のしるしです。(…)改革が実際に効果をもたらすのは、それが「新しい」人々によってだけではなく、「新しくされた」人々によって行われたとき、ただそのときだけなのです。
 改革の過程においては、困難に出会うのが普通であり、またそれは健全なことでさえあります。困難は、さまざまなタイプの抵抗によって現れます。あからさまな抵抗(…)、隠された抵抗、悪意ある抵抗など(…)。この最後のタイプの抵抗は(…)しばしば、伝統や外見や形式上の問題をよりどころににした、告発の形をとります。(…)
 反発がないのは死んでいることのしるしです! ですから、抵抗は(…)必要であり、耳を傾けるべきもの、歓迎され、奨励されるべきものです。なぜならそれは、からだが生きているしるしだからです。』(P334~335)

見てのとおり、フランシスコは一歩も退かない。
フランシスコの「反発抵抗、大歓迎」というこの言葉を、世俗の言葉に言い変えるならば、「喧嘩(コミュニケーション)上等」ということにでもなるだろうか。
ヴォルトンが、

『あなたの話を聞き、あなたを見て、その自由闊達さ、憤激ぶりを観察していると、わかります、あなたは怒っています。つまりわたしは、あなたのことを怒っている人だと感じるのです。怒っていて、体制に順応しない人です。』(P357)

と言うとおり、フランシスコは今も、虐げられた人たちの側に立って、温顔とユーモアの下で怒号をあげている「とても人間的な人」なのではないだろうか。

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飢えた狼と〈高級菓子〉一一amazonレビュー:行方昭夫編訳『たいした問題じゃないが イギリス・コラム傑作選』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年11月 8日(金)17時51分28秒
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 飢えた狼と〈高級菓子〉


 amazonレビュー:行方昭夫編訳『たいした問題じゃないが イギリス・コラム傑作選』
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これまで、いろんなジャンルの本を読んできた。その幅の広さには自負もあるが、エッセイというのは、なぜかあまり読んでこなかったし、読みたいとも読まねばならぬとも思わなかった。
その理由が、本書を読むことで明らかになったと思う。と言うのも、私なりに、「エッセイ」というものが、どんな特質を持った文学形式なのかがわかったからである。

ちなみに、編訳者が「解説」にも書いているとおり、本書のタイトルは「コラム」となっているが、「コラム」というのは「エッセイ」の中で、比較的短く書かれた囲み記事的なものを指すので、ここでは「エッセイ」とは何かについて論じたいと思う。

 ○ ○ ○

さて、前記の「解説」で編訳者は、本書所収のエッセイの特徴を次のように語っている。


『 この四名のエッセイは、イギリス流のユーモア、皮肉を最大の特色としている。身近な話題、新聞をにぎわせている事件などを取り上げて読者の注意を引きつけ、それから徐々に、人間性の面白さや嫌らしさなどを論じてゆく。読者を啓蒙しようという意図はあるにしても、それを前面に出さない。題名に用いた(…)『たいした問題じゃないが』(…)が、作者の姿勢をよく示している。読者に劣等感を与えないように、控え目に学識を示すとか、人間の弱さに温かい目を注ぐとか、自分をダメ人間のように見せるとかして、常に読者の目線に立つことを忘れない。複眼で物事を見て、偏った見方は極力避ける。深刻なこと、世界政治を語っても、大上段には構えず、斜に構えるのを好む。結果として、親しみの持てる、身近な、私的(※ パーソナル)なエッセイになっている。』(P225)

こうした特徴から分かるのは、「エッセイ」とは、知識層(インテリ)ではない、一般層を狙った「知的読み物」であり、基本的には「商品として娯楽作品」だということである。だからこそ、読者に「好感」や「仲間意識」を持たれることを、第一義としている。

言い変えれば「エッセイ」とは、「研究論文」「評論文」「批評文」のような、一般読者を置去りにしてでも探求的にテーマを突き詰めようとする「学術・研究論文」でもなければ、「大衆向け娯楽小説」ほど「知的要素を含まない(必要としない)娯楽作品」でもない、適度に知的要素を含みながらも読者に専門的な知識や特別な読解力を求めることなく、それなりに知的刺激を与える、楽しい読み物。つまり「批評的要素を含む娯楽作品という、折衷的文学形式」であり、喩えて言えれば「ちょっとした知的洞察をユーモアとアイロニーとペーソスで包んだ、口溶けのよい高級菓子」とでも呼べるような文学形式なのである。

では、どんな読者が、このような文学形式としての「エッセイ」を楽しむのだろうか。
それはまず、専門的で難解な文章まで読む気はないが、しかし「大衆向け娯楽小説では、子供っぽすぎて物足りない」と考えるような「中間的・中層的読者」だと言えよう。

「エッセイ」における「知的」要素は、専門的な学術・研究文書、あるいは人間の実存を掘り下げることを目的とした文学作品(いわゆる純文学)などにおいては、すでにくりかえし語られ、いまや凡庸・当たり前の認識になったものでしかないのだが、そういうものを接しない読者層にとってなら、それらのエッセンスも「新鮮」に映ろう。また、その程度のものでなければ、一般読者層には理解できないし、受け入れられないのだから、「エッセイ」に込められた「知的」要素とは、意識的にそのレベルに押し止められてたもの、つまり専門的な学術・研究文書や純文学などを読まない読者にとって、それが「ちょうどいい具合」のものなのである。
自らは(専門家のように)労せずして「人間通・社会通の知的な人間」であると思わせてくれるのだから、こんなにありがたい「娯楽作品には見えない娯楽作品」は、またとないのである。

しかし、こうした「手ごろな知的読み物」が、ある種の読者からは「物足りない」と見られてしまうのも、必然の事態であろう。
どんな読者かと言えば、それは「飢えた狼」のごとき読者だ。「食いでがあり、歯応えがあり、身につく獲物」が欲しい。言い換えれば「徹底的なものが読みたい」「非凡なもの、未見のものに接したい」と考えるような貪欲な読者であり、そんな読者には「お上品な高級菓子」は、少々物足りないのである。

そして、こうした読者には、2つの方向性がある。ひとつは、もっと知的に徹底したものを読みたいと望む探究的読者と、もっと純粋に娯楽に徹したもの、浮き世の憂さを忘れて酔わせてくれるような娯楽作品(小説)が読みたいと望む快楽主義読者だ。もちろん、その両極端を同時に欲するような貪欲な読者もいる。

つまり、「エッセイ」を好んで読む読者というのは「中間的・中層的読者」であるのに対し、それを「物足りない」と感じる読者とは、左右両極端を指向するタイプの読者だと言えるだろう。
「中間的・中層的読者」というのは、その場に満足しているから、同じような形式の作品に満足する傾向がある。いやむしろ、概知のことが書かれているのを確認して満足を覚えるタイプだと言っても過言ではなく、新しい世界を開拓し、未知に直面しようなどとは考えない、保守的な現状追認タイプだと言い換えても良い。
一方の「遠心的な探究的読者」は、「中間的・中層的読者」が楽しいと感じるものこそが、すぐに「退屈」だと感じられてしまうタイプなのである。

で、言うまでもなく私は、後者の「遠心的な探究的読者」であり、知的な部分では、「エッセイ」のような、読者の知的レベルに合わせて、筆を加減按配するが如き書き方に不満を感じ、また、娯楽作品としても、娯楽に徹せず中途半端なところに不満を感じてしまう。まさに「書くなら、どちらかに徹底しろ」と、その「生ぬるさ」に苛立ちをおぼえるタイプなのである。
だから私の場合、読み手の立場としては、「エッセイは、ぜんぜんダメ」ということになるのだ。

しかし、これはエッセイの「書き手」を、いささかも侮るものではない。
エッセイストは、本当は、一般読者層がついてこられないような専門知識や高い教養や微妙で深い洞察を持ち、また書こうと思えばそれを書くことも出来る力を持ちながら、しかし、あえて読者層の能力・背丈に合わせて、巧みに筆を矯め、頭を低くして、「技巧的」に読者が安心して楽しめるようなものの枠内で書いているのだ。つまり「エッセイ」とは、学術的あるいは芸術的な自己表出ではなく、プロの物書き(商業作家)の仕事として、あくまで読者の満足こそを優先した、じつに自己抑制的で立派な手技だと言えるのである。

したがって、私は今後も、あまりエッセイを読みたいとは思わないのだが、しかし、本書所収の作品のように、高度な知性と洞察に裏打ちされながら、しかしそれをそのまま出すことをせず、巧みに抑制コントロールして、広く読者に満足を与える文章に仕上げる、というテクニックなら身につけたいものだと思う。
つまり、エッセイを読みたいとは思わないが、エッセイが書けるようになりたい、とは思うのだ。

見てのとおり、私は考えたことをそのまま率直に忌憚なく書いてしまうタイプであり、そのことによって、読者の不興を買ってもかまわないとさえ考える人間だ。読者がどう思おうと、書く価値のあることはハッキリと書く、というのが私の信条なのだが、しかし、書こうと思えば、巧みに自分の本音や洞察の一部を隠しながら、読者をコントロールして楽しませるような、ある意味で意地悪で不正直な文章も書いてみたいという「表現的な欲」も否定できないのである。

しかしまあ、やっぱりそれは、性格的に無理だろう。

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『悪徳の暹羅雙生児もしくは柱とその崩壊』(Amazonレビュー)

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年11月 8日(金)17時48分59秒
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 『悪徳の暹羅雙生児もしくは柱とその崩壊』

 amazonレビュー:相澤啓三・建石修志『悪徳の暹羅雙生児もしくは柱とその崩壊』
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本詩画集における相澤啓三の詩は、はっきりとホモセクシャルでエロティックである。しかしまた、そこには悲劇を予感させる濃厚な暗さがあり、その悲劇性の毒が、ホモセクシャルでエロティックな愛の空間を、形式的に「堅牢」なものにしてもいる。
もっとも、私は詩オンチを自認する人間なので、相澤の詩がどの程度すぐれたものなのかの判断は保留して、もっぱら建石修志の絵について書きたいと思う。本詩画集を購入したのも、もっぱら建石の絵に惹かれてのことであった。

建石修志の魅力に取り憑かれたのは、中井英夫の「とらんぷ譚」四部作(『幻想博物館』『悪夢の骨牌』『人外境通信』『真珠母の匣』)が最初であったと思う。ことに『幻想博物館』は、中井英夫の代表作巨編『虚無への供物』と並び立つ、日本における幻想小説短編集の一二を争う粒揃いの作品集であったこともあり、中井英夫の傑作短編小説と建石修志の絵との一体的な相乗効果は、ほとんど奇跡的なものと感じられた。
(もっとも『幻想博物館』の挿絵と単行本の装丁は、当初は建石ではなかったが、『悪夢の骨牌』以降の「とらんぷ譚」の雑誌連載にあたって、建石が挿絵を担当するようになったので、『幻戯博物館』も建石修志装の新装版を出して、四部作の装丁が建石で統一されることになる)

そして、この「とらんぷ譚」と同時期(1970年代半ば)に刊行されたのが本詩画集であり、建石修志初期の代表的な画集である『凍結するアリスたちの日々に』と『変形譚』である。
その後、建石修志は、赤江瀑(『罪喰い』)や寺山修司(『ぼくが狼だった頃 さかさま童話史』)など、いろんな作家の装丁を手がけるようになるが、共通しているのは「ほの暗い幻想性」だと言えるだろう。しかし、建石修志と言えば中井英夫という印象は強烈で、二人はベストマッチのペアとして、長らく活動することになる。

無論「建石修志の絵」と言っても、時期によって少しずつ変化しているので、私個人に関して言えば、すべての時期の作品について「好きだとは言えない」し、高い評価を与えているわけではない。
端的に言えば、本詩画集『悪徳の暹羅雙生児もしくは柱とその崩壊』が、建石修志画集の最高傑作であると思うし、この時期の絵が最も独創的に個性的な魅力を発していたと思う。

簡単にその変化を跡づけるなら、初期の建石修志の作品には「夢のような茫漠たる捉えがたさ」があって、それが中井英夫や相澤啓三のホモセクシャルな感性と響き合い、この世ならぬ濃厚な世界を現出させていた。
だが、建石はやがて、これも本来的な指向なのではあろうが、「硬質なものへの偏愛=オブジェ指向」を強めていき、そのため世界の「輪郭を明確化」させていくことになる。そしてこの点で、初期の「夢のような茫漠たる捉えがたさ=非オブジェ的世界観」を高く評価していたファンの失望を買いもしたのである。

さて、本書『悪徳の暹羅雙生児もしくは柱とその崩壊』だが、本書にはホモセクシャルでエロティックな愛の暗い悲劇性が「夢のような茫漠たる捉えがたさ」において見事に表現されている一方、その世界が、建物の芯となる「柱」の崩壊というかたちで消滅する様を描いている。つまりここには、建石修志の「二つの方向性」の接触が、作品に強い緊張感と力動性を与えているのだ。

本書に描かれているものとは何だろう。
私はそれを「世間から禁止された愛のかたちであるが故の暗い恍惚と、その崩壊の予感によって強化された蒼白い歓喜の炎」であると表現したい。

なお、相澤啓三は、中井英夫の『虚無への供物』の登場人物「氷沼藍司」のモデルであり、赤江瀑は同じく「氷沼紅司」のモデルである。また、寺山修司は、中井英夫が『短歌研究』誌の編集長として見いだした詩人であることを申し添えておこう。

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ありがちな〈偶像崇拝〉について 一一Amazonレビュー:ジェニファー・ラトナー・ローゼンハーゲン『アメリカのニーチェ』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月31日(木)22時21分10秒
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 ありがちな〈偶像崇拝〉について

 Amazonレビュー:ジェニファー・ラトナー・ローゼンハーゲン『アメリカのニーチェ ある偶像をめぐる物語』
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アメリカでのニーチェの受容史であり、そこに表れたアメリカの精神史というのが、本書の大まかな内容だが、私はニーチェに詳しいわけでもアメリカに詳しいわけでもないので、個人的に面白かった部分について書かせていただく。

本書で描かれるのは、ニーチェがそれぞれの読者にとってのニーチェであり、その意味で彼らが描くニーチェは、それが哲学者のものであれ一般読者のものではあれ、「偶像」でしかありえない、という事実だろう。どんなに詳しくニーチェを読んでも「ニーチェそのもの(なるもの)」が理解できるわけではない。
理解できるのは、ニーチェのテキストを通して見た、なにか(自分や自国など)なのである。しかしまた、そこで理解されたもの(自分や自国など)もまた「偶像」でしかないのだが、それを承知で探求し続けるのが「哲学」という営為なのではないないか。そして、そうした態度こそが、「思想」の受容なのではないか。

本書でも繰り返し語られるように「ニーチェの反基礎付け主義」ということを真面目に受け取るならば、「神」の代わりに「偶像」を立てて「はい、おしまい」というのでは、あまりにも反ニーチェであり、反哲学的であろう。しかし、まったく「偶像」なしに済ますこと(思考すること)も出来ないので、過渡的な「道具としての偶像」を、それと承知で利用しなければならないのでもあろう。

しかし、そもそも哲学を齧る人間の多くは、「偶像の権威」が欲しくて哲学に接近するのであって、自ら考えるために哲学する人なんてのは、本当はごく稀なようにも思う。
哲学というのは、誰にでも勉強することは出来ても、哲学することは誰にでも出来ることではないようだ。だから、私も「偶像」を欲せず、「偶像」に囚われないように自戒しなくてはならないと思う。


『 近代アメリカ人の想像力の枯渇を批判するなかで、ヴァン・ワイク・ブルックスは一九一五年の論文「「教養人」と「通俗人」」において、系譜学的展開を見せた。ニーチェの言う文化的俗物の知的スタイルは、不毛な教養人というブルックスの思想を形成するうえで、きわめて分かりやすい手がかりとなった。不毛な教養人とは、思想を尊重することは知っていても、思想を働かせる仕方を心得ない人間のことである。この教養人は文化を装飾的なものとみなし、衛生的で無害なものにしておく、すなわち日常生活の汚れた問題からは遠ざけておく必要があると思っている。』(P265)

『 アメリカのニーチェ・ファンの書簡は、有名知識人としてのニーチェの重要性と、そして国境を越えた交換が一般的アメリカ人の想像力の中で親密になされたこと、またその多様なあり方を例証している。その一方でまた、受容史における解釈学的な力というものを改めて考えてみるよう促している。(※ ニーチェファンの)ダンルーサーの(※ ニーチェの妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェに宛てた)書簡の一節は、「受容」研究とは何かについての、実に陳腐な見方の好例である。「私が少なくとも〔天才の〕真の偉大さを感知しうるのに十分な頭脳を持っているということ、それはいずれにせよ大したことであると思われます。私自身が真理の福音を説くことができたかもしれませんので。そのことは幾分か私の教育の欠如を埋め合わせてもおります。もし教育がありましたならば……。私の精神はただ受容力があるだけで、生産力があるわけではないのです」。同様に「我々は〔天才の著作〕……の受容において余りに受動的である。我々はずだ袋であっても胃袋であってもいけない」とエマソンが述べたときも、受容の持つ可能性を示すうえで、役に立っているとは言い難い。ジャニス・ラドウェイは「読むことは食べることではない」と、また読者層について消費のメタファーではテクスト解釈のダイナミックスを捉えることができない、と主張している。それにもかかわらず、「受容」という言葉はたしかにニーチェの読者がみな、まるでただの「ずだ袋と胃袋」の群れでしかないような、思想との関わり方をしているように思わせる。ここに見られるダンルーサーの謙虚さは偽りではない。ただ彼のニーチェ利用の仕方が間違っていたことを示している。ニーチェの(※ 多くの真っ当な)読者は消費者ではなかった。彼らのニーチェ思想の利用が例証しているのは、思想が出来合いのものではなく、あつらえるものだということである。』(P294~295)

まったく他人事ではない。

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その部屋の〈見えない人の息づかい〉一一Amazonレビュー:小島美羽『時が止まった部屋』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月31日(木)22時19分15秒
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 その部屋の〈見えない人の息づかい〉

 Amazonレビュー:小島美羽『時が止まった部屋 遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし』
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書店でたまたま見かけて購入した。
理由は2つ。私の「ミニチュア趣味」と「孤独死への親近感」である。

私には「ミニチュア趣味」があって、ミニチュアハウスの写真集などを、これまでに何冊も購入している。特に、日本の住居を屋内を表現したミニチュア作品が好きで、ヤフオクでかなり精巧な(それなりに値のはった)和室の模型を購入して、クリアケースに入れて飾ってもいる。
「建物」の模型が好きなのではなく、「室内」の(情景)模型が好きなのだ。

では、どうしてそういうものに惹かれるのか。それはたぶん、私はごく幼い頃から、香川県出身の父から、寝物語に「たぬきが人を化かした話」を聞かされてきたからだろう。
「弥次喜多」のような江戸時代の旅人だろうか、人里離れた山の中で夜が更けてしまい、どこに泊まろうかと当惑していると、ぽつんと灯りが見える。やれやれ人家だ、あそこへ泊めてもらおうと訪ねてみると、山中にそぐわぬ立派な御殿であり、中から出てきたのは美女の女主人である。屋敷には大勢の女中もいて、女主人は旅人を大歓迎し、飲めや歌えの大宴会となるのだが、翌朝、旅人が目覚めてみると、そこは山中の河原であった。ああ、たぬきに化かされたのだ、というお話である。

こうした「化かし話」によって培われた感性は、やがて「メタフィクション=入れ子構造の作品」に惹かれる傾向を、私にもたらした。
例えば、昔、東映京都テレビプロが制作した特撮時代劇『妖術武芸帳』のなかで描かれた、主人公の剣士に追い詰められた悪の妖術使いが、川下りの舟を描いた屏風絵の中に飛び込んで、絵の中の舟に乗って悠々と逃げ去ってしまうというワンシーンは、子供心に衝撃的だった。
中学校の教科書に載っていた、芥川龍之介の「杜子春」も、私の趣味にぴったりとハマる、眩惑的な作品だった。さらに後の、エドモンド・ハミルトンの「フェッセンデンの宇宙」も同様だ。
これらに共通するのは、私たちのいるこの「世界(宇宙)」の中にある「小世界(小宇宙)」を「フィクション(虚構)」と考えるなら、しかし、私たちの「世界(宇宙)」自体が、じつはより大きな世界(宇宙)の中の「小世界(小宇宙)」であり、ある種の「フィクション(虚構)」なのかも知れないとか、あるいは「どちらが本物なのかを確定できない」といった「実存的眩惑感」を与える点にあるのではないだろうか。

そうした意味で、精巧なミニュチュアというのは、まさに「世界模型」であり「もう一つの世界」なのだ。
しかも「室内」とは、人にとって最も身近な空間だからこそ、それが「本物」ではないというところに、人は、特に私は、曰く言いがたい「虚実不二的な眩惑的魅力」を感じるのである。

さて、私が本書を購入した理由のもう一方「孤独死への親近感」だが、これは私が、未婚で子供もいない、現在57歳の独居男性であり、そのうえ、人づきあいを面倒がるタイプの人間なので、孤独死は「自然な成りゆき」だと自分でも思っているからである。

もっとも、私は「無神論者」であり「人は死ねばゴミになる」とも思っているので、死ぬ時に苦しい思いさえしなければ、孤独死でも、死後に発見が遅れてドロドロの腐乱死体になってしまったとしても、それは別にかまわないと考えている。もちろん、そんな汚い死体の処分に関わる、発見者の方や親族、警察や本書の著者のような特殊清掃業者の方には申し訳ないとは思うが、自分自身では、自分が腐って醜いゴミなろうと、死んだ後ではどうでもいいことだと思っている。

そして、そんな私だから、身も蓋もない本音を言えば、葬式などはいらないし、遺体も「山にでも捨ててくれればいい。それで動物の餌になろうと、自然に変えるだけの話だ」と思っているが、法律的にはそういうわけにもいかないので、そこは最低限の処分で済ませて欲しいと思っている。

私がこのように、ある意味では非常に極端な「唯物論的死生観」を持つにいたったのは、たぶん、私自身かつて「孤独死」などの現場にたちあう機会があったからだろう。
本書の著者は、死者に対して非常に敬虔で真摯な方だが、私の場合は、「死者(死んだ人=それまでは生きていた人)」と言うよりも、「死体」の即物性に向き合うことが多かったので、著者のような情緒的な対面を避けていた部分もあったのかも知れない。
裏返して言えば、本書の著者は「すでに遺体の無い、死者の遺した部屋」と向き合ったからこそ、かえってそこに「死者の人生や生活や想い」というものへの想像力と感情を喚起されたのではないだろうか。

そして言い変えれば、「室内ミニチュア模型」の不思議な魅力とは、そこに「人がいない」ことによってこそ、もたらされるなのだ。だから、そこに人の模型が置かれてしまっては、その魅力が台無しになるように、私には思えてならない。その意味で、「室内ミニチュア模型」と「ドールハウス」とは、本来「似て非なるもの」なのだと考える。

その、非常に精巧に作られたミニチュアの部屋の扉を、あるいは襖や障子を開けて、人が入ってくる。そんな予感をあたえるところに「室内ミニチュア模型」の魅力がある。

そして、その部屋に入ってくる人とは、たぶん「この世の人」ではないのだろう。そこでは、その世界での生活が続いている。そんなふうに感じられるのである。

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天使的:浅田彰論序説 一一Amazonレビュー:『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月31日(木)22時17分23秒
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 天使的:浅田彰論序説

 Amazonレビュー:『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)
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「柄谷行人論」なら数多く書かれているだろうが、「浅田彰論」は、あまり見当たらないようだ。浅田彰ほどの華々しいデビューと活躍をしながら、どうして浅田の場合には、作家論があまり書かれないのだろうと、私はそう考えた。

思うに、浅田彰の才能は「巨大すぎる」のだ。巨大すぎて、多くの人の視野にその全貌が収まりきらないのではないか。その一部しか見えず、またその一部を、すべてと思い違えているのではないだろうか。
例えば、本書のあとがきにあたる「浅田彰と私」で、柄谷行人は浅田について、こう語る。


『(※ 編集兼執筆者として『季刊 思潮』誌を任された)私は最初、自分の仕事は書くことだから、寄稿さえしていれば何とかなるだろうと思っていたが、編集人としては、すぐに行き詰まってしまった。それで、その第三号の企画で、座談会に浅田彰氏を招いた。そして、そのあと、私は彼に実情を訴えて、編集同人に入ってくれるように頼んだ。その判断は正しかった。彼は経済学や哲学だけではなく、音楽・美術・建築などすべての芸術方面に通じていた。機敏で、周到で、精確であった。私はいっぺんに楽になり、誌面は充実した。』(P242~243)

当時、浅田彰は三十そこそこの若者だった。にもかかわらず、これだけの幅広いジャンルに通じており、しかも『機敏で、周到で、精確であった』のだ。

「幅広いジャンルに通じている」人を、よく「博覧強記」と呼ぶが、浅田彰がそう呼ばれることはない。
なぜならば、浅田の場合は、単なる「物知り」なのではなく、それほど幅広い事象に対して「精確に通じていた」からである。それぞれのジャンルで、その専門家たちと議論しても、まったく見劣りがしない「周到で、精確な理解」を持っていたからこそ、浅田彰には「博覧強記」などという浅薄な呼称は、まったくそぐわないものだったのである。

「柄谷行人論」が数多く書かれたのは、無論、柄谷が「時代を画する知の巨人」であったからだろう。そうした巨人たちは、それまで「当たり前」であった風景を一変させてしまうような「知の一撃」を世界に加え得た稀有な存在であり、それ故に目立ちもした。その、時代を越えゆく「異彩」に、誰もが目を見張らざるを得なかったのだ。

ところが、浅田彰はそういうタイプでなかった。
浅田彰は、幅広い事象に対して、つねに「機敏で、周到で、精確」な理解を示した。それはどれもこれも「非凡」であり「本質的」であった。浅田彰の「非凡」は、わかりやすい「単色」ではなく、「七色」に変幻する態のものであり、だからこそ凡人の目では、それを断片的にしか捉えることが出来なかった。

本書所収の最後の対談「再びマルクスの可能性の中心を問う」で、二人はマルクスの「常に移動しながら、その差異の中で状況を批判し続ける」という身振りの重要性を強調している。


『柄谷  マルクスの批判は、どこかに最終的な立場があって、そこから批判しているというのではなくて、たえず場所も移動しながらやっていくわけです。
 ベルギーに亡命して、ドイツの哲学を批判する『ドイツ・イデオロギー』を書く。ドイツ観念論に対して、マルクスはほとんど実証主義的なことを持ってきて、経験的なことが重要だという形で批判する。そこだけを読むと、マルクスはまるっきり実証主義的な唯物論者だと思ってしまうほどです。それからマルクスはイギリスへ行き、直前にフランスで起きたクー・デターを分析・批判する『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を書いた。そしてさらに、イギリスで本格的な経済学批判に向かうわけですが、かつてドイツ観念論を批判したときとは違って、今度は経験論を批判したくなり、私はヘーゲルの弟子である、と言い出す。それもまた本気にとってはいけない。それが批評なんですね。つまり、マルクスはそのつどドイツの哲学やフランスの政治やイギリスの経済の「外」に立っています。しかし、その「外」は決して超越的な「外」ではない。たえず、自分自身がそこに属していたものの「外」に辛うじて立った、直前までそこにいたその人が書いている、そういう感じなんです。マルクスの立場というのはそのような批判をおいて(※ 他には)ない。そしてその批判は必ず移動を伴っている。一つの現実の中に属している限り、いくら批判的になろうとしてもその中に属してしまう。ヘーゲル体系ならヘーゲル体系の中に属してしまうわけです。言い変えれば、マルクスの批判は必ず現実との差異においてしかない。それが具体的に場所の移動を伴っていたということです。』(P203~204)


『浅田  強調しておくべきことは、マルクスという人は常に地理的にも領域的にもどんどん移動していただけに、まとまった本をほとんど残していないということです。さっきから『ドイツ・イデオロギー』とか『経済学批判要綱』とか言っていますけれども、そんなものを彼は本として刊行していないわけで、今世紀になって初めて刊行されるわけですね。それで突然、初期マルクスの疎外論が復活してみたりする。マルクス自身は、そういうものを乗り越えつつ、最終的に『資本論』にいたるわけだけれど、それさえも第一巻以後はエンゲルスの手で編集されている。さらに言えば、エンゲルスが、いわゆる弁証法的唯物論、自然弁証法、史的唯物論という、後にソヴェト連邦で聖典化されるような一貫性を持った体系を捏造したわけでしょう。

柄谷  エンゲルスはヘーゲル哲学を完全に移しかえたわけです。ヘーゲルの論理学であれば唯物論的弁証法だし、自然哲学であれば自然弁証法だし、歴史哲学であれば史的唯物論だし。そういう形でマルクスが批判としてやってきたものを一つの哲学体系にしてしまおうというのがエンゲルスです。その意味で、「マルクス主義」をつくったのはエンゲルスです。それは全然だめなものだと思います。』(P223~224)

「移動」と「体系化への欲望の拒絶」。
「移動」ということを「固定化・権威化からの逃走」というふうに理解し、さらにそこへ「体系化への欲望の拒絶」ということを加えれば、これはまさに、浅田彰のことではないだろうか。

上で語っているとおり、柄谷自身、「固定化・権威化からの逃走(拒絶)」ということを強く意識しているのだけれど、しかし先にも指摘したとおり、柄谷行人という人は「時代を画する知の巨人」として、私たちに一定の「固定したイメージ」を与えている。いかに柄谷自身が、それを嫌おうと「時代に批判的に立ち向かう人」としての柄谷行人には、まさにそうした「イメージの固定化・権威化」がなされており、だからこそ私たちにも、柄谷行人の偉大さが理解しやすいのである。

しかし、そうした「イメージの固定化・権威化」が、浅田彰には希薄なのだ。
浅田には「とにかく賢い人」というイメージはあっても、「個性的なイメージ」というものが希薄で、言うなれば「無性的」だ。
つまり、浅田彰は、「人間的」なもの「肉体的」なもの(つまり、固定的なイメージ)から、まんまと「逃走」しうせたのである。

こうした、浅田彰の「とらえどころのなさ」あるいは「非凡な自由さ」を、私は「天使的」と呼びたい。
人間の「肉体」的な欲望に縛られない彼は、初期の代表作『構造と力』や『逃走論』のイメージにとどまる(自己模倣的再生産によるイメージの強化にとどまる)ことなく、悠々と浮遊し移動しすり抜けて、私たちの目では充分に捉えることの出来ない存在なのだ。

しかし、そういう存在であるからこそ、彼は「地上の巨人」たる柄谷行人の「導きの天使」たることも出来たのではないか。
あくまでも「主人公」は、柄谷行人である。だが、浅田彰という稀有な「道を照らす、導きの天使」がいたからこそ、柄谷は「縦横無尽の活躍」をすることも出来たのではないだろうか。

柄谷は「浅田彰と私」の末尾を、こう締めくくる。


『 彼は私にとって最高のパートナーであった。漫才でいえば、私はボケで、彼はツッコミである。あらゆる面で助けられた。私が思いついた、いい加減な、あやふやでしかない考えが、彼の整理によって、見違えるようになったことも何度もある。また、アメリカでもフランスでも、彼の言語能力と当意即妙の判断力にどれだけ助けられたことだろう。
「批評空間」をやめて以後、私はまた、対談や座談会が苦手になった。その意味では、元の自分に戻ったといえるかもしれない。』(P234)


その天使は、彼のもとにさえとどまらなかった。
これは「去りにし天使」へのラブレターなのかもしれない。

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〈知識人〉小林よしのりの限界 一一Amazonレビュー:小林よしのり、ケネス・ルオフ『天皇論「日米激突」』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月25日(金)01時21分33秒
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 〈知識人〉小林よしのりの限界

 Amazonレビュー:小林よしのり、ケネス・ルオフ『天皇論「日米激突」』
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決して「激突」にはなっていない。むしろ非常に紳士的な議論的対話となっており、好感のもてる一書である。
そして、主にこの功績は「自分とは意見の違う者とも積極的に対話をして、お互いの認識を検証し合い、高め合おう」という姿勢を持ったルオフの、「大人」な態度のよるところが大きい。
全体としては、やんちゃで自己顕示欲の強い小林が自論を展開し、それに対し、ルオフがウンウンと小林の意見を受けとめた後に「しかし、こうも考えられるのではないですか」とか「しかし、それでもわれわれはそこで諦めるべきではないのではないですか」と、自身の立場を表明して、おだやかに小林に再考を促し、小林を知的に導こうとするのである。

したがって、本書の読みどころは、二人の「天皇論(天皇理解)」や「天皇に関する知見」そのものにではなく、「物事に、真摯に向き合い、思考する」ということの意味を「反省してみる」ところにあるのではないだろうか。
もちろん、「天皇に関する知見」として両者から教えられることは多いのだが、単に「知識」を得て、それを「自分の趣味・願望によって取捨選択する」だけでは、「現実」と向き合う「知性」を持ち、それを「働かせている」とは、とうてい言えないからである。

そして、そうした点から言えば、小林よしのりという人は、決して悪い人ではないし、よく勉強もしているのだが、しかし、その「自己愛(ナルシシズム)」の強さの故に、充分に知性的な態度を採りえていない憾みが否定できない。自分の「個人的な趣味」で、物事を理解してしまっているのだ。
そして、こうした「趣味性の強さ」が、小林を「左派とも右派とも、単純には決めつけがたい人」にしているのだと言えよう。小林が自称する「個人主義」の本質とは、そういうものでしかないのである。

例えば、小林は、天皇を崇拝し「天皇制は、日本人の知恵であり、日本人には必要なものだ」と説くが、しかし、「安倍晋三」周辺の「日本会議」や「神社本庁」あるいは「ネトウヨ」が信じている(とアピールする)ような「天皇家の万世一系の神話」などは、まったく信じておらず、それは「日本人をまとめるために必要なフィクション」に過ぎないと、歯切れよく公言して見せる。
しかし、こうした潔い断言の裏には「わしは、そんな非科学的な話など信じないし、それでも天皇を支持できる。だが、知的に劣る大衆には、そういうわかりやすい神話的フィクションが必要なのだ」という「大衆統治論」がひそんでいるのも明らかだ。つまり、小林は自身を「知的エリート」であり「統治者」の側において、国民大衆を見ているのである(その意味では、「安倍晋三」周辺と大差はない)。

だが、小林は、自身のそうした立ち位置に、必ずしも充分に自覚的ではない。
だからこそ(「安倍晋三」周辺とは違って)、次のように、正直に語ってしまう。


『 そういう客観的な記述(※ 神話否定の学術的説明)をやっても、わしはかまわないと思いますよ。ただ、その土地の人はそれ(※ 天皇の神話的フィクションや伝承)に誇りを持っていたりするし、たぶん観光資源にもしているだろうから、(※ 野暮な、神話否定の学術的説明の追加には)反対するんじゃないかな。それに、神話は神話、伝承は伝承ということがみんなわかっていれば、(※ 神話的フィクションや伝承を、あたかも歴史的事実のように紹介するような場合があっても、それは)そんなに大きな問題ではないような気もする。宮崎県の天の岩戸を見て「おお、ここに天照大神が隠れたのか!」と本気にする人はいるわけがないし(笑)。』
 (本書P36、※は引用者補足)

『神話は神話、伝承は伝承ということがみんなわかっていれば、そんなに大きな問題ではないような気もする。』
一一ここが問題なのである。

なぜなら「神話的フィクション」というのは、基本的に「大衆に信じられてこそ、統治的拘束力を持つ」ものであって、誰もが小林のように『神話は神話、伝承は伝承ということがみんなわかって』しまっていては、当然のことながら「私はそんな馬鹿馬鹿しいお話を信じられないし、したがって天皇の権威も認めない」と考える人が少なからず出てくるし、そうした立場を否定することも出来なくなるので、おのずと「国民を束ねる」ことも難しくなるからである。

つまり、「天皇家の神話的フィクション」が「大衆統治的フィクション」である以上は、「国民大衆に受け入れさせなければならない(信じてくれるのがベストだが、最低でも〈信じているふり〉をしなければならなくする必要がある)」ものなのであり、小林が言うような『神話は神話、伝承は伝承ということがみんなわかっていれば、そんなに大きな問題はないような気がする。』といったような、「ぬるい」もの(政治的施策)ではあり得ないのだ。
だからこそ、国民の結束が特に必要とされた戦時には、「天皇は現人神である」という「荒唐無稽なフィクション」を、それを「信じていない統治者が、それを信じない国民大衆にまで、有無を言わさず強制した」のである。

そして、なぜ小林が、この程度のことにも気づかないのかと言えば、それは彼が「自分を基準にして」物事を評価しているからである。
つまり「わしは神話的フィクションなんか信じとらんが、それでも天皇は敬愛できるし、現にしとる」から「(他)人も(馬鹿でなければ)そう出来るはずだ」と考えているのである。しかし、これは「他者」というものが見えていない、「ナルシシズム的世界観による誤認」でしかないと言えるだろう。
小林にとっては「そのくらいできるだろう」ということなのだが、現実はそうではないからこそ「神話的フィクションという欺瞞的手段(政治的策略)」が講じられるのである。

また、小林のこうした「ナルシシズム由来の弱点」の具体例として、小林の言説には不必要な「自慢話的自分語り」が少なくない、という点が挙げられよう。
「わしが、こうなのは」親がどうであったとか、どういう環境で苦労してきたとか、馬鹿を相手に一人で闘ってきたからだとか、そんな「自慢話」がやたらに多いのだが、天皇を語るのに、なぜこうも「自慢話」が多いのかと言えば、小林の「天皇支持」とは「わしには、物事の本質が見える。だからこそ天皇も支持するのだし、だとしても幻想にしがみつく必要などないわけよ」ということだからである。

しかし、同じ「自分語り」にしても、ケネス・ルオフのそれは「身近な実例」として持ち出されるだけで、決して「自慢話」ではない。そしてここに、両者の「自己批評性」の有無という、明白な差異がある。
そしてさらに言うなら、「自己批評性=自己相対化」の無い人には、批評対象を正しく相対化する(客観視する)ことも出来ず、結局は、自身の「ナルシシズムの投影」的評価しか出来なくなってしまうのだとも言えよう。つまりそれが「趣味的評価」ということなのだ。

もちろん、人間誰しも「自分は賢い」と思いたいし、ましてそれなりの知識を持ち、人から「先生、先生」と呼ばれるような立場や肩書きを持つならば、自身を「ひとかどの人間」だと考えてしまうというのは、ごく自然なことで、ことさらに責められるべきことでもない。
けれども、「小林よしのり」という人を「一人の知識人・言論人」として客観的に(突き放して)評価するならば、やはり「ぬるい」としか言いようがないし、人情的には不本意ながら、「二流」という厳しい評価も避けられないのである。

個人的につき合えば、小林よしのりという人は、きっと「明るくて元気で楽しいおじさん」なのだと思う。「クセが強い」とは言え、「人情味のある人」なのだろうとも思うが、しかし「知識人としては二流」という評価は、どうにも避けがたいのである。

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リップマンの〈人間的抵抗〉一一Amazonレビュー:ウォルター・リップマン『世論』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月25日(金)01時19分34秒
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 リップマンの〈人間的抵抗〉

 Amazonレビュー:ウォルター・リップマン『世論』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3188VG8832CR4)上巻
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R75ITZS41MFC)下巻


本書を読んで、単純に「面白かった!」という感想を抱いた人は、肝心なところを読み落としていると思って、まず間違いない。
と言うのも、本書は「君たちは基本的に馬鹿であり、馬鹿であることから逃れられない」という「人間の暗い宿命」を描いているのだから、まともに読めば、能天気に「面白かった!」などという感想を持てるわけがないからだ。

本書には「現実を直視して、理性的たらん」とする、リップマンの基本的な態度がハッキリと表れている。彼はその真摯な態度において、「人間の知の限界」と「民主主義の幻想的前提」を直視しており、その説得力には唸らざるを得ない。じっさい、彼の言うとおりだからであろう。
しかし、このような「暗い現実」を知らされて、それでも喜んでいられる人というのは、「自分はその例外だ」と思いこめる浅はかな人か、「どうせすべてが知り得ず、真の正義が知り得ないのならば、そういう人間の限界を利用して、功利的に生きれば良いだけ」と開きなおれるタイプの、いずれかだけなのではないだろうか。

もちろん、リップマン自身は、上の二者のような立場にはない。つまり、前者ではあり得ないからこそ彼は「ペシミスティック(悲観的)」だと評される「暗さ」を持っているのであり、しかしそこに安住してはいけないという意志を持つからこそ、本書の最終章では人間の「理性に訴える」という抵抗を試みて見せた。リップマンは、岩波文庫版解説者・掛川トミ子の曰く『感動的でさえある』かたちで、自身の『ヒューマニズムの精神』を語って、自らが本書に示した洞察に、自らフォロー入れないでは済ませられなかったのである。
だが、無論、彼のヒューマニズムに発するこのフォローは、いかにも弱い。さんざ、人間の暗い宿命を描いてきた後に、取ってつけたように「人間の理性に訴える」と言われても、本気で言っているのかという疑念は拭えないし、そこに本書の限界と問題点があるのだと言えよう。

言語学者で社会運動家のノーム・チョムスキーは、リップマンに対して、かなり厳しい態度を採っている。
それは、リップマンがジャーナリストとして、マッカーシズムやベトナム戦争に対して鋭い批判を投げかけ、ある意味ではチョムスキーと同様の「権力への抵抗者」であったことを百も承知していながら、それでもリップマンには看過しがたい「罪(功罪のうち罪の部分)」があったと、チョムスキーが厳しい評価を与えていたからではないだろうか。

そして、その「リップマンの罪」とは、「民衆は民主主義を支えられない存在であり、専門家・エリートに頼らざるを得ない」として、結果的にではあれ「専門家・エリートの特権」にお墨付きを与えてしまった、彼の「ペシミズム(悲観主義)」であり、その「悲観的な人間観・世界観」なのではないだろうか。

そこでチョムスキーが、リップマンの「ペシミズム」に対置したものとは、たぶん、アントニオ・グラムシの「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」なのではないかと私は見ている。

away氏は、そのブログ「風の歌が聞こえますか」で、グラムシを論じて、次のように語っている。


『知性とは本質的に暗く、ペシミスティックなものである、というのが僕の考えだ。
物事を知的に捉え、多方面から客観的に分析すればするほど無数のリスクや問題点が出てきて、それについて解決可能性を丹念に検討してゆけば、どんな事柄でもかならず悲観的結論に傾斜してゆく。何事も力及ばない、何をやっても無駄だ、意味がない、可能性が低い、デッドロックだ、という風に考えることを「ペシミズム(悲観主義)」と呼ぶわけだから、知性がペシミズムと仲良しなのはまぁ間違いない。
究極を考えれば、あと数十億年後には宇宙は熱的死に至るわけで、その時には個人の名前や金銭や浮世の名誉はもちろん、人類も宇宙の歴史も消えているわけでそう考えると何事も無意味である、という悲観的見方ももっともだし、そこまで大げさに考えなくても、「どんな人間も必ず死ぬ」という避けがたい事実だけでも、人の将来は『本質的に絶望』なわけで、知的な人間にペシミズムが親和性が高いのは理解できる。
だからこそ、とグラムシは言う。
自分は知性が呼び込むペシミズムに負けず、意志の力でオプティミストであり続ける、と。』
 (away「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」より)


つまり、私たちは、リップマンの『世論』を読んで「だから大衆はダメなんだよね」とか「民主主義って、もともと幻想に立脚したものであって、建前どおりに行かないのは当然なんだよ」などと訳知り顔をし「知的エリート」にでもなった気分でいられる「天然の楽天家」の少なくない現実を目の当たりにしてでも、しかし「知識人的ペシミズム」に止まるわけにはいかない。そこに安住するわけにはいかないのだ。

リップマン自身が、そのペシミズムを押し殺してでも「権力への戦い」に赴いたように、「真の知識人」たらんとするのであれば、私たちもまた「意志のオプティミズム」に立たなくてはいけない。
また、それこそが、リップマンの抱えた「矛盾」を、リップマンとともに越えて行こうとすることなのではないだろうか。

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対話は愉し

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月16日(水)11時35分40秒
 

みなさま、私、懸案だった『天気の子』論を先日やっと書き上げ、Amazonとこちらにアップさせていただきました。そして、そのあとに気づいたことなのですが、その当日である「2019年10月13日」は、今年最大と言われた台風19号が日本を席巻している真っ最中でございました。
もちろん、意図してこの日に擱筆してアップしたわけではございません。ですが、あとでテレビニュースを視て、東京の都心部が冠水している様子や、関東地方を中心とした多くの場所で大変な水害が出ている様を目の当たりにし、思わず『天気の子』の「水没した都心」の様子を思い出しました。

もちろん、今回の災害と『天気の子』は、何の関係もございません。
ですが、作品の中で「街が水に沈んで多くの人が犠牲になろうと、それでも僕(主人公)は陽菜を取り戻す」という「社会と私の対立的二者択一」を描いた(つもりだった)新海誠監督なら、きっと今回の事態に、内心ではヒヤヒヤしたことでございましょうね。
もっとも、彼が今回の災害に対してコメントしたとしても、それは在り来たりな「お見舞いの言葉」にしかならないのは間違いございませんし、そんな不必要で保身的なだけの言葉など、無い方が気持ちよいと思うのですが、やはり何かそれらしい言葉を口にしているかも知れませんね。
まあ、周囲もそのことを忖度して、何かと気を使っていることでしょうが、彼のせいではなくても、連想する人は決して少なくないというのは確かなことでございましょう。表現することの怖さを感じさせる「偶然」でございました。

・ 行きて帰らぬ物語:『天気の子』論
  一一amazonレビュー:新海誠 監督『天気の子』(および『小説 天気の子』)
 (https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2615
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R19UIANG4DH8C5

あと、先日レビューを書きました、門井慶喜の歴史ミステリ『定価のない本』(東京創元社)について、その後に書かれた他のレビューなどを参照し、文章を増補しておりますので、ぜひご一読くださいまし。

・ ネトウヨ的〈愛国心発揚〉ミステリ
  一一Amazonレビュー:門井慶喜『定価のない本』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RGYNF07NXCLI5


伊殻木祝詞さま

決別 Σ( ̄Д ̄;)

今回もまた、ものを考える人間にふさわしい、非決断的な迷いのある、面白い文章をお書き込み下さり、ありがとうございます。良い意味で「保坂和志的」であり、すこしは保坂和志に見倣ってもらわなくてはなりませんね(笑)。

かく言う、私はどうかと申しますと、書いているものだけを読んでいただいていると、やたらと確信的な人間だと思われてしまうかもしれませんが、自分では決してそうではないと思っております。
いろいろ「どっちが正しいのだろうか」とか「何が正しいのだろうか」と迷い、躊躇して決断を下せない(なにしろ「書く」人間ですから、間違ったことを書いたら恥をかきますし)。
まただからこそ、そうした問題について、いろいろな立場の人の意見や考え方を読み、そのなかで徐々に確信を固めてゆき、自分なりに確信を得た段階で、ある種の「断言」をしているつもりなのでございます。

ですから、断言していることの陰には、まだまだ多くの疑問や迷いや躊躇のある問題があって、決して何にでも自信満々な意見を持っているということではございませんし、そのように誤解されるのは、私自身としても残念でございます。

しかし、これは「当たり前」な話ではございましょう。何にでも自信満々な意見を持っている人というのは、端的に言って、頭のおかしい人であり、「誇大妄想狂」に違いありませんから。
かのニーチェだって、自分がすべてを理解し切っているとまでは思い込まなかったのではないでしょうか。

>  どうも、いきなりですが、私、品川祝詞に改名しようかと考えております(嘘)。と言うのも、前回の書き込みの返信にて年間読書人=アレクセイ閣下から、まさかのツンデレの称号を賜ったからであり、私にとって最強のツンデレとは庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』に出てきたゴジラ第三形態=通称《品川くん》だからであります。初めて『シン・ゴジラ』を観た時、どこを見ているのかも分からない、あの、誰からも理解されることを拒むであろう、死んだ魚の眼の品川くんの魅力に私は一発でノックアウトされたのでありました。世間では蒲田くん(上陸したばかりのゴジラ第二形態の通称)の方が人気なようでありますが、たとえツンツンぶり(死んだ魚の眼)ではいい勝負であろうとも、ただ這い回っているだけの蒲田くんより、ひょこひょこと覚束ない足取りで歩き回り、特に意味もなく電車を尻尾で跳ね飛ばす品川くんの方が、むくれた顔で腕組みしている童顔の女子に何の興味もない私には何百倍も魅力的なのであります。

「ゴジラ第三形態=通称《品川くん》」ですか。また、マイナーなところを突いて来られますね。
私はもともと、ゴジラには左程こだわりがないため、『シン・ゴジラ』についても、庵野秀明の新作怪獣映画として期待しただけで、特にゴジラがどうこうとは思いませんでした(『シン・ウルトラマン』は10倍の期待大)。ただ、庵野がデザインにかかわると、だいだい「尖ってるグロ」になる傾向がございますね。八岐大蛇にしてもエヴァにしても。

『シン・ゴジラ』に関しては、面白かったけれど、期待したほどではなかったかなという感じで、鎌田くんとか品川くんとかは「グロだなあ」と思いながらも、ゴジラでこんなことをやるのは、さすが庵野秀明だとも思いました。

それにしても、私は基本的に「乾燥硬質重厚系」のデザインが好き(例えば、イメージとしては、戦闘機より戦車、美少女より美少年)なので、鎌田くんや品川くんは、グロにしか見えません。私は芋虫毛虫の類いが苦手で、甲殻類は比較的に好きな、ごく当たり前のセンスの持ち主でなのございます。
ただ、一緒に『シン・ゴジラ』を観に行った友人は、かなり趣味が変わっていて、私が苦手なブヨブヨ系が好きでして、映画の後日、鎌田くんが気に入ったと申しますので「君らしいなあ、本当に変なものが好きだ」と言いましたら「いや、鎌田くんは世間的にも人気があるんだ」といろいろ紹介してくれました。で、私も、鎌田くんみたいな「グロいもの」は好きではありませんが、「変なものが好きな変な人」は好きですので、鎌田くんのフィギュアを買って、誕生日プレゼントにしたりしました。

そんなわけで、鎌田くんについては、一定のイメージ形成が出来たのですが、品川くんの方は、どんなシーンでどんな活躍をしたのか、まったく記憶に残っていない始末でございます(笑)。

>  ついでに申しますと、私にとって怪獣の中でも最強のイケメンは『ウルトラマン80』に出てきた吸血怪獣ギマイラであり、とにかく、こいつの格好良さは只事ではない。子供の頃に買ってもらったソフビ人形に一目惚れし、その一目瞭然のツンツンぶりは言うまでもなく、如何にも悪い奴といった面構えは今でも惚れ惚れするばかりであります(ちなみに最近復活した。YouTubeで初めて生で動いているのを見た時は柄でもなく感動した)。私も品川祝詞に改名した暁には普段のツンツンぶりなどかなぐり捨て、ギマイラの前に飛び出す所存であります(だって品川くんと言っても、あいつは雄でも雌でもない訳だからね。オールラウンダー)。ギマイラは残忍なので品川くんを見つけたら、すぐさま惨殺することでしょうが、愛に生き、愛に殉ずるのは乙女(←違う)の使命ではありませんかね?

「『ウルトラマン80』に出てきた吸血怪獣ギマイラ」でございますか。
これも、まったく存じ上げません。と申しますか、『ウルトラマン80』自体をまったく視ていない。なぜならば、そもそもウルトラマン80のデザイン自体がダサい。それに主人公の職業が学校教師というのは、水谷豊が熱血教師を演じて、当時大ヒットした『熱中時代』のブームにあやかったもので、その安直さが嫌だったからだという、しごく常識的な理由でございます。

今回初めて「吸血怪獣ギマイラ」の画像を確認させていただきましたが、たしかに「ツンツン」はしておりますが、とても「イケメン」とは思えませんでした。
私の場合は、怪獣の趣味もやはりオーソドックスであり、主に『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の怪獣や宇宙人が好きで、例えば、バルタン星人、ケムール人(初出は『ウルトラQ』)、ゴドラ星人、キュラソ星人といった、頭が細長い系のスマート型宇宙人が好きでございました。
デザインがゴテゴテして、着ぐるみが肉厚っぽくなったデザインはだいたい嫌い。やはり、わりとオーソドックスな趣味でございましょう。

ま、ともあれ「ツンデレ」というのは、要は「素直になれない系」であり、ある意味では「マゾ的変態」系ですから、『ギマイラは残忍なので品川くんを見つけたら、すぐさま惨殺することでしょうが、愛に生き、愛に殉ずるのは乙女(←違う)の使命』というのも、まことに結構かと存じます。
先日、論じました嶽本野ばらも「乙女(のカリスマ)」ですし、伊殻木さまが「乙女(そのものでも、乙女の何か)」であっても良かろうかと存じます。

>  と言う訳で、自画像は品川くんこと、今回は初っ端から迷走中の伊殻木でございます(←いつもだ)。

前回も書きましたが、私は伊殻木さまのこの「文体」が好きでございますよ。
と申しますのも、私には、このような文体は、書こうとしても書けないので、「無い物ねだり」的な欲望を刺激されるのでございましょう。私の場合、どうしても「こうだから、こうなってこうなる。こういうこともあるかも知れないが、しかしそれはまたこういうことであるからこそ、結局こういうことなのだ」みたいな「理屈っぽく」文章になってしまうのでございますね。
一時期は「うねうねと続いていって、何を書いてるのだかよくわからないけど、個性的で面白い文体」に憧れまして、そういうタイプの作家を読んでみましたが、大半はやっぱり、読むのに疲れましたね。イメージには憧れるんだけれど、実際に読むと合わない。
わが笠井潔も『熾天使の夏』の冒頭部分で、好きなプルーストの真似をしておりましたが、あまりうまくいっているとは思いませんでしたし、私も何度か「うねうねと続く文章」を書こうとして挫折した経験がございます。
こないだは、下手な文体模写もどきを披露いたしましたが、私が夏目漱石の文体を好きなのも、あのパキパキしてテンポのいい文体と論理的な思考が、私の体質に合っていたのだと存じます。

そんなわけで、伊殻木さまの文体は面白い。私には、書けそうで書けない文体なのでございます。

ちなみに、前回は書き忘れましたが、私は、そういう「うねうねと続く文体」や「とらえどころの無さ」が魅力の作家として、後藤明生や古井由吉、あるいは保坂和志が『読書実録』で「先生」と読んでいた小島信夫などを、それなりにチェックしてはおりましたし、積読の山に埋もれさせて読んではおりませんが、小島信夫の『別れる理由』の初版函入り全3巻なども所蔵しております。

また『読書実録』の保坂には注文をつけましたが、この本を読んだことで、前から気にはなっていた酒井隆史の『通天閣 新・日本資本主義発達史』と、これまではノーチェックだったミシェル・レリス『ゲームの法則』全4巻を購入したりもいたしました。
さらに、保坂の本も、ブックオフ・オンラインで200円で売っていた、未読の『考える練習』と『途方に暮れて、人生論』の2冊を買いましたので、これも近いうちに読むのではないかと存じます。
が、しかし、こんな調子でどんどん手を広げて買いますので、読めない本もどんどん出てくるのでございます(笑)。

>  前回の書き込みの返信と、閣下の『読書実録』のレビューを拝読し、いろいろと思ったり考えたりしたことはあったのですが、端的にまとめると「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」「チョット自分、酔ッテタカモシレナイナー」となる。これではあまりにも芸がないので、佐村河内ばりに逆ギレ訴えます攻撃に出ようか(あれ結局どうなったのか?)、背中から放射線流をぶっ放して何もかもなかったことにしようか、とも思ったのでありますが、前者の場合、世間に恥を晒すのは、どう考えても私だけであり、後者の場合は、私は品川くんだから放射線流は撃てない(号泣)。だから結局は「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」「チョット自分、酔ッテタカモシレナイナー」となってしまう。全く張り合いがなくて申し訳ない。

そうですね。『佐村河内ばりに逆ギレ訴えます攻撃に出ようか(あれ結局どうなったのか?)、背中から放射線流をぶっ放して何もかもなかったことに』できるのなら、それも面白いのですが、それで勝てる見込みもないのに、安易にキレて『世間に恥を晒すのは、どう考えても私だけ』という事態を招くのは、どう考えても賢い人間のすることではありません。
やるのであれば、時間はかかってもいいから、ちゃんと準備をし理論武装してから逆襲すれば言い訳で、私もその方が面白いし、書いた甲斐もございますからね。

>  しかも「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」と言っている時の自分には、何かしらの自己保身(という言葉が正しいのかも分からない)を目論んでいるような気がする。こんなダサい自意識とは綺麗さっぱり縁を切りたいと思っているのでありますが……特に、私が嫌だなと感じたのは、閣下の返信とレビューを読んだ後に、「ちょっと紹介の仕方が悪かったか……」「今の保坂の魅力を伝え切れなかったか……」と少し思ってしまったことであり、これは要するに、紹介の仕方さえ間違わなければ相手を自分サイドに引き込めると妄信していたということではないか、「Iがいいって言ってるんだからYOUもいいって言ってくれなきゃ、いやんいやん!」という気持ちを多少なりとも持っていたのではないか、という懸念を抱き、そして、おそらく、その懸念は懸念ではない、という結論を出しかけているのでありますが……ああ……駄目だなあ……いやんいやん! 。゚ヽ(゚ ̄Д ゚̄)ノ゚。

これは、とても大切なことだと存じます。つまり「同じ意見(趣味)の持ち主だからこそ友だち」というのは、つまらない、ということでございますね。
お互いに、意見や趣味の相違はあっても、それでも尊敬しあえる関係であってこそ、価値のある「友人関係」だと、私は考えます。前述の友人もそうですが、私とは、ある意味で趣味が真逆であり、私はよく「また、そんな変態の本を買って」とか「(読書以外にも)もう十分、あれこれ手を出してるんだから、そんなことまで趣味にしなくてもいいでしょう」などと言って呆れているのですが、それでも私はその友だちのマイペースが好きでございます。
つまり、馴れ合いではなく、自分の意見や趣味は忌憚なく語り、時にぶつかることがあっても、それでも友人でいられる関係であってこそ、真の友人であり、変に気を遣い合うようなものは本物じゃないし、延命させる価値もないと、割り切りの激しい私には、そう思えるのでございます。
つまり「友だち百人できるかな」ではなく「友だちは5人いれば良い」というのが、私の自論。もちろん「5人」とは前述のような「選りすぐりの友人」ということでございます。人生は短いのですから、百人の友だちと上っ面の薄いつきあいをするよりは、その時間を5人の友人との濃密なつきあいに投じた方が、私自身楽しいと思うのでございますね。ですから、私は「方便としての仕事」以外の、趣味・私生活の部分では、いろいろな局面で「本音」を語り、人を試して、上っ面なつきあいは削ぎ落としてきたトラブルメーカーでございましたが、それを後悔したことは一度もございません。
そもそも、友だちをたくさん作るのは、たしかに「財産」だとは申せましょうが、しかしそれは結局のところ「利用価値」を求めているだけではないかとも思うのでございます。

そんなわけで『要するに、紹介の仕方さえ間違わなければ相手を自分サイドに引き込めると妄信していたということではないか、「Iがいいって言ってるんだからYOUもいいって言ってくれなきゃ、いやんいやん!」という気持ちを多少なりとも持っていたのではないか、という懸念』を抱き、そういう自分の「弱さ」を自己批判できる人というのは、なかなかいないと思うのでございます。なにしろ、今は「承認願望の時代」でもございますしね。

>  とは言え、おそらく私は保坂の書く物を読み続けるであろうし、もし保坂が閣下のレビューに眼を通したとして、その上で今後どのようなことを書いていくことになるのかを見届けたい気持ちもある。私にとっても閣下の意見を踏まえた上で、保坂や保坂以外の本を読んでいくことで、しょうもない自意識を捨て去るのか、それとも上手く付き合っていく方策を考えるのか、正念場を迎えているところであります(←と言うのも、少し大袈裟な表現ではあるが)。

それで良かろうかと存じます。
伊殻木さまが保坂和志をお好きなのは、保坂が、ある意味では伊殻木さまの「鏡」だからでございましょう。ですから、読む意味は、必ずあると存じます。

あと、保坂が拙レビューを読んだら、どう思うかというのは、私も興味のあるところでございますし、無論、私は当人に読ませるつもりで書いてもおりますしね。

私は昔、かなりどっぷりと「新本格ミステリ」の世界にハマっており、作家たちとも面識がございましたが、それで「批判」を手加減することはありませんでしたし、作家たちも「それが田中(田中幸一)くんらしい」と、一応はそう好意的に評価してくれてました。
それでも、彼らの本音がそんなものばかりじゃなかったのは間違いございませんでしょう。実際、ある人気作家が若手作家を批判したことについて、私がいつもの調子で「論証的」に「あなたにそれをいう資格はない」と厳しく批判する文章を書いて、ここにアップしたところ、後日、別の作家から「もう、あなたの顔も見たくないと言ってたよ」と教えられ「なんだ、あのカッコつけのヘタレらしい言い草だな。文句があるのなら、反論して来いよ、反論。人気作家は、素人相手にそんなことは出来ないってか?」と毒づいたこともございました。
あ、もしかすると、当時は、ここにアップするだけではなく、「陰口になると嫌なので」ということで、当人にプリント(あるいは、掲載同人誌)を郵送していたかもしれません。

ま、そういうことをやってきた人間ですので、保坂和志本人にも読んでもらい、感想を聞きたいというのは事実でございます。
ただ、私も歳をとって丸くなったのか、わざわざ当人に送りつけるということは止めましたね。「逃げたい人には逃げることを許そう」と考えるようになったのでございます(笑)。

>  さて、あいちトリエンナーレにて名古屋市のK市長が公務を放り出して抗議の座り込みに励んだり、大阪市のM市長は「問題がなければ汚染水を引き受けてもいい」とアホな私にはよく分からないことを言い出したり、我らが関電はあのザマであり、あのザマにもかかわらずネット上には関電を擁護する意見も見られたり、と私の胸中には一足早い冬が訪れております。しばらく春は訪れそうにありません。冷え切っております。産経では月末に近くなると『月刊WiLL』『月刊Hanada』の広告が馬鹿でかく掲載されます。それを見て我が胸中を温めようかと思う所存です。娯楽です。特に今は彼らの韓国に対する執着心が剥き出しになっていて実に面白い。あれこそ究極のツンデレです。微笑ましい限りです。

まあ、この歳になってきますと、いい歳をした社会的にも地位のある人が「あんがい馬鹿」だというのも、実感として受け入れられるようになりました。若い頃なら「なんで、あんな地位のある、馬鹿でもないだろう人が、あんなことを言うのだろう」なんて思ったのですが、所詮「馬鹿はいくつになっても馬鹿であり、馬鹿に肩書きは関係ない。ただ、表面を取り繕うのがうまくなるだけだ(そして庶民は「肩書き」に滅法弱い)」と理解できるようになりました。
『関電を擁護する意見も見られた』というのは、初めて知りましたが、このご時世「ネットに無いものは無い」のですから、当然そうした意見もございましょうね。私としては、そういう意見よりも、テレビカメラの前で「失われた信頼を取り戻すためにも、まだ私に出来ることをやらせていただきたい(ので、辞任しない)」などということを、臆面もなく言える関電社長らの神経がすごいと、そちらに感心いたしました。そこまでしなくても、もう十分に「貯め込んでいる」でしょうに。

『月刊WiLL』『月刊Hanada』については、いつも書店で表紙だけ見ておりますが、あれは表紙に尽きる雑誌でございますから、まったく(効率の)良い表紙でございますね。中身は必要ないし、もともと中身は無い。
それにしても、わたし的には、やってることが十年一日なのがつまらないのですが、しかし、ああした雑誌の読者層であるネトウヨなどは、ああだからこそ喜ぶのであり、ああいう十年一日のワンパターンも、営業的編集方針として仕方がないのでございましょう。

「あいちトリエンナーレ」の方は、再開できて本当に良かった。関係各位の苦労と努力に敬意を表したいと存じます。
それに、あのイヤガラセと展覧会の中断も含めて、あの展覧会は、展覧会の意図の具体性を何百倍にも高め、広く世界に知らしめる結果となったと存じます。「展覧会としてのパフォーマンス」が、「予期せぬ出来事」によって、テーマ的に、より高めるられたというのは、本当に「僥倖」であったと存じます。

ちなみに、展覧会の再開にあたって、twitterでつまらないことを書いているネトウヨがたまたま目に着き、自制しきれずに、つい、また虐めてしまいました。

以下は、本年(2019年)10月8日に、作家の平野啓一郎氏がtwitterに投稿した『「表現の不自由展・その後」の再開について会見する愛知県の大村秀章知事』を支持する下のツイートに対し、ネトウヨの【・・@cal_2】氏が付したコメントに、【年間読書人 @私】が噛みついた、その経緯でございます。

 ○ ○ ○

【平野啓一郎 @hiranok】
支持します。
「表現の不自由展・その後」の再開について会見する愛知県の大村秀章知事
https://www.asahi.com/articles/ASMB765HSMB7OIPE028.html

---------------------------------------

【・・@cal_2】
支持しません。
特定の人物や集団を辱め、その家族や関係者を恣意的に傷付ける意図の「尖った」物品を、アートと称して公費を投入するのは、表現の自由ではなく紛う事ないヘイトです。コレらを愛知県民が認めて、マトモな展示物としての実績に数えるのは、文字通り泥棒に追銭を差し出す様なモノです。

【・・@cal_2】
日本国憲法第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

【年間読書人 @私】
アートが、人を傷つけないものだなんてのは、そもそもアートのことを知らない人の言うことでしょうね。
アートとは、娯楽作品とは違って、人を楽しませるだけのものではなく、しばしば人の価値観を揺さぶるもの。当然、特定の価値観に凝り固まった人には不愉快に感じられるアートはあるのです。

【年間読書人 @私】
そもそも、アートによる、常識や良識への異議申し立てというのは、公共の福祉と矛盾しません。皆が捉われている固定観念から、皆を解放する作業なんですから。『四畳半襖の下張』裁判とか、サド裁判とかも、表現の自由のために闘われた。これくらいのこと勉強してから、表現の自由の問題を論じてね。

【・・@cal_2】
公共の福祉に反する内容(天皇陛下のご真影をバーナーで焼き灰を土足で踏み付けたり、戦死者を侮辱する意図のプロパガンダ展示の数々)は、公的支出をアテにせずに、その筋の好事家がお互いに持ち寄りでやれば良いだけです。この話し貴方にはそんなに難しいんですか?

【年間読書人 @私】
戦死者を侮辱するという理解は、貴方の頭の中にあるだけですよ。いまだに「天皇陛下のご真影」とか言ってる、貴方のね。写真が燃やされたり、踏みつけられたりしているアートが何を意味しているか、すこしは頭を使ってみなさいな。

【・・@cal_2】
私は貴方を一度も非難していませんが、貴方、随分な言い方で私を侮辱なさるんですね。日本人のノーマルな礼儀も知らない方なのかな。試しに、六四天安門 ←効かないかなw

【年間読書人 @私】
ネトウヨに礼儀を説かれたか(笑)。
でも、私はあなたを侮辱したのではなく、妥当に評価しただけですよ。
だって普通の日本人は、いまどき「天皇陛下のご真影」なんて云いませんよ。そのくらいの自覚は持って、言葉を選んで下さいね。

【・・@cal_2】
他人の「表現の自由」に、どうか規制を掛けないで下さいな・・WW

【年間読書人 @私】
いや、あなたが私に黙って欲しいだけですよ。つまり、規制したいのは、あなたの方。
このくらいのロジックも理解できない人に、アートを論じるのは、能力的に無理でしょうね。
でも、勉強くらいはしておきましょう。

【・・@cal_2】
礼の無い方から言われても・・

【年間読書人 @私】
それじゃあ。あなたには礼儀がわかっているみたいじゃないですか。
アートがわからないのにアートを語れると勘違いしているようなあなたに。

【・・@cal_2】
貴方が云う通り、私はアートや芸術を語れる能力は無くとも、アートや芸術が、twitterの様な短文のSNSで語れる程、底の浅いモノでは無い事は、充分弁えている積りです。

【年間読書人 @私】
いや、それを弁えてないから、的外れなアート論を語ったんですよ。その自覚もないんでしょうけど。
わかっていない人というのは、わかっていないこともわかっていないものなんですね。
だから、もっと勉強しましょうね。そしたら、いずれはわかるでしょう。

【・・@cal_2】
反日屋の独善は聴き飽きました。不愉快に感じるモノを芸術などとは言わない自由は、この国には無いとでも?
一定程度の人数が芸術だと褒めそやしても、こんなモノは芸術じゃ無い!と言えない方が、全く不健全でしょう。
今回のイベントは「表現の不自由に、議論のきっかけ」を作りたいらしいですよ。嗤

【年間読書人 @私】
反日とかそういうレベルでしか考えられない人に、アートがわかるわけないんですよ。政治意識に凝り固まってて、他の見方ができない。
アートとは、まさに違った世界を見せるためのものなんですよ。日の丸とか天皇陛下とかに脊髄反射する人に、アートが理解できる頭なんて、あるわけない。

【・・@cal_2】
とっくに「愛トレ」は芸術から遠く離れた状況が争点となっています。私は最初から、あれはアートでは無く、ヘイトだと主張していますよ。
ココで誰かと「愛トレ」に寄せて、芸術論を語ろうなどとは、露ほども思っておりません。失礼。

【年間読書人 @私】
貴方があの展覧会をヘイトだと思い込むのは勝手だけど、その評価は間違ってる、って話をしてるんですよ。アートを理解しない人間に、あれはアートで、これはアートじゃないなんて、言えるわけないでしょう。天皇がいまだに現御神だとでも思ってるじゃないかと疑いますよ。今上天皇も呆れるでしょうね。

【・・@cal_2】
「へえ、貴方は、愛トレの表現の自由は全力で尊重するのに、どうしてか私個人の「評価の自由」は猛烈に否定されなければならないのか・・謎です。ww」

【年間読書人 @私】
あなたは自由です。アートを論じる力は無くても、あたなにはそれを語る権利がある。
私はあなたの権利を全力で擁護します。あなたの能力までは保証しないけど。

【・・@cal_2】
ありがとうございます。漸く分かって頂けたみたいで嬉しいです。
ちなみに、このTLでは私はアートや芸術など一切語っておりませんので悪しからず。

【年間読書人 @私】
日本語が不自由なようですね。
私が言ってるのは、あなたにはアートを語る能力は無いけど、アートを語る権利はある。その権利は、私も全力で守ってあげますよ、と言ってるの。
ま、この言葉が、何を踏まえて書かれてるのかも知らないんでしょうね。勉強してないから。

【年間読書人 @私】
もう少し、わかりやすい喩え話をしましょうか。
駄作は駄作だけど、駄作を書いちゃいけないということはない。駄作でも発表する権利はある。ただ、発表すれば、駄作だと評価されるだけ。
その意味で、アートがわからないあなたにも、アートを語る権利はある。ただし、という事。
これでも難しいかな?

【年間読書人 @私】
これからは、知ったかぶりをしないことですね。政治的立場で、アートを云々するなんて、的外れもいいところ。
これを機会に、アートと日本の歴史を勉強して下さい。
あなたは今のところ、アートを語るだけの知識もロジックもないけれど、真面目に勉強すれば、いつかは論じられるようになりますよ。

【・・@cal_2】
あなたは礼儀をねw

【年間読書人 @私】
いやいや、駄作を駄作と評価するのは、批評家の務めであって、礼儀の問題ではないんですよ。あなたには難しすぎるかな?
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それではみなさま、おやすみなさいまし。

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〈左翼〉とは何か:青木理 論 一一Amazonレビュー:青木理『暗黒のスキャンダル国家』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月15日(火)13時41分20秒
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 〈左翼〉とは何か:青木理 論

 Amazonレビュー:青木理『暗黒のスキャンダル国家』
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安倍晋三総理の周辺者や、総理の支持者である「日本会議」関係者や「ネトウヨ」といった人たちにとっては、本書の著者である青木理は、きっと「パヨクの代表」ということになるだろう。これは極めて「名誉な称号」である。

自慢話になってしまい恐縮ではあるが、かく言う私も、ずいぶん以前から「売国奴」「工作員」「パヨク」などという、最大級の賛辞を贈られてきた人間である。
しかし、彼らの「妄想的願望」にも関わらず、私は「残念ながら日本人」なのだ。彼らと同じ「日本人」だというのは、外国のかた達の視線を意識した場合、残念ながら、かなり恥ずかしい事実なのである。

それにしても、彼ら「ネトウヨ」系の人たちが言う「パヨク=左翼」とは、いったいどういうものなのだろうか。
本書で、青木はこんなことに書いている。


『 そうした(※ 近代主義に立脚した、私のような、合理的な)考えを政治的には「進歩主義」と呼ぶのでしょう。合理性や人間の理性などを重視し、不合理はあらためてるべきだと考える。一方、「保守主義」は違います。
 ごく簡単に言えば、多くの人々が積み重ねてきた伝統や慣習といったものは、それなりに意味のあることだと考え、重んじる。もちろん時代や状況に合わせた変化は必要にせよ、最小限にとどめる。東工大教授の中島岳志さんは、そうした「保守」のありようを「永遠の微調整」と評しています。』
 (本書P230「元号の警告」より)

つまり、前者が「左翼」であり、後者が「保守・右翼」だということで、この定義は、どちらの見方にも偏らないバランスのとれたものであり、かつごく一般的な定義だとも言えるだろう。
そして、ここで青木自身も認めているとおり、青木の立場は「進歩と合理性と人間の理性」を信じる「左翼」の立場なのだから、これは「保守・右翼」に対して、きわめて公正な評価だと言えよう。

安倍政権周辺を含む「ネトウヨ的(自称)保守」は、自身を「人間と社会の現実に対して謙虚で慎重なリアリズムに立脚した、保守」だと自己賛美的に主張をする一方、彼らは「左翼は、人間の理性とそれに基づく進歩主義という夢に酔った、冒険主義的破壊主義の愚か者たち」だと、極めて「感情的な評価」を下す。
そうした「ネトウヨ的(自称)保守」の独善的な態度に比して、青木の「保守」評価は、きわめて「公正で理性的」なものなのである。

無論これは、青木が「(真正な・本来の)保守(主義)」と「ネトウヨ的(自称)保守」を区別して、「(真正な・本来の)保守(主義)」に対しては「一定の肯定的評価」を与えているからなのだが、しかし、「思想」というものの内実を、厳密に見ていくならば、「(真正な・本来の)保守(主義)」と「ネトウヨ的(自称)保守」の「共通点」であり、その「問題点」を、あっさりと看過して、「ネトウヨ的(自称)保守」に対し、「あなた方は、真正な・本来の保守ではない。エセ保守なのだ。偽物なのである」と言って済ませてばかりいるわけにはいかない。

(「進歩」は置くとして)「合理性と人間の理性」を信じる「左翼」ならば、両者(二つの「保守」)に共通する「保守の問題点」を、きちんと理解し把握しておくべきだからだ。

ならば、「保守(そのもの)の問題点」とは何か。
それを考えるには、左翼の能動性を受けて初めて存在し得る、受動態としての「保守」というものの本質を考えるために、まずは「左翼の本質」を見直さなくてはならない。
つまり「左翼」とは、「進歩と合理性と人間の理性」に尽きるものなどではない、という見落とされがちな「本質」の再確認が必要なのだ。

なぜ「左翼」は、「進歩と合理性と人間の理性」を信じるようになったのであろうか。
それは、キリスト教に代表される「宗教的権力」や「世俗権力」が、「権威」を独占して、「今の世のかたちこそ、神の祝福を受けたもの(社会形態)である。したがって、これを変えることはできないし、変えてはならない」としていたのに対し、「こんな世の中が、神に祝福されたものだとは思えない」と考えた人たちが生まれてきたからである。
では、なぜそのように考える人たちが出てきたのかと言えば、それはその社会の中に「弱者」がいたからである。

「なぜ、神がいるのに、理不尽にも、これほど不幸な人たちがいるのか」という、当たり前の(ヨブ的な)疑問。「神はすべての人を愛しているはずなのに、不幸な人がいるのはおかしいではないか(ましてや、不幸な善人がいるのは理不尽ではないか)」という、当たり前の疑問である。
これに対して「宗教的権力」は「それは試練である」とか何とか、大衆騙しの理屈を捏ねてきたのだが、近代主義的な科学的学問知が普及するに従い、そんな子供騙しは徐々に通用しなくなり、人は「理性」にもとづいて「合理的」に考え、それに沿って行動することで「社会を変えることが出来る=弱者を救うことが出来る」という「社会変革的な進歩」の可能性と合理性を、経験的事実として知ることになったのだ。

つまり、ここで私が強調したいのは「左翼の根底にあるのは、弱者への同情と、それを放置する権力への怒り」だということである。「左翼の本質」とは「同情と怒り」なのだ。

では、それに対しての「保守」はどうなのか。
彼らに欠けているのは、まさに「弱者に対する同情と、弱者を放置する権力に対する怒り」である。
だからこそ、彼らが「保守」するのは「既得権益(既成権力)」になってしまう。「既得権益」を守るためには、左翼的な新勢力に妥協しての「変化や微調整」も避けられないだろうが、しかし、それは「弱者(救済)」を意識してのものではなく、あくまでも、社会の主流である自分たちの「既得権益体制」を崩壊させないための「妥協」でしかないのだ。
彼ら「保守」主義者には、「革命でも起きないことには救われない、大勢の弱者(階層)」の存在が、ほとんど見えていないし、そもそも興味が薄いのである。
(そして、一方の「左翼」の場合は、かなりのリスクを犯してでも、大きな「社会的外科手術」を行わないかぎり、金輪際、救われないことのない人たち〈=社会的階層〉の姿が、切実なものとして見えているからこそ、時に「革命」を叫んだりもするのだ。「それ以外に、彼らを救うどんな手立てがあるのだ」と。)

現に、真正な「保守」思想を代表し、その原点ともなったエドマンド・バークにしろ、それに続くマイケル・オークショットやT・S・エリオットらにしても、あるいは日本の小林秀雄や福田恆存にしても江藤淳にしても、彼らに共通しているのは、「個人」よりも「(自分たちの)共同体」を「保守」しようとする意識のあり方である。
つまり、彼ら「社会的上流意識あるいはエリート意識の持ち主」には、「弱者(という他者)への同情」の意識が薄いのだ。

彼ら「保守主義者」は、「個人よりも共同体」「共同体あっての個人」だという、リアリズムに立っている。しかし、それは一見、理性的な判断に基づく「リアリズム」にも見えようが、所詮は、人間的な「趣味嗜好」の問題でしかない。
言うまでもなく、「左翼」とて「共同体」の重要さは十二分に理解している。だからこそ「共同体」を、より良きものに改善して「進歩」させなければならないと考えるのだが、その根底にあるのは「そうしないと、弱者(個人)が救われないからだ」という「感情」が強烈に存在しているのだ。

つまり「左翼」には「弱者への同情」という強固な感情がベースにあって、だからこそ「共同体=社会」を改善しなくてはならない、ということになる。
言い変えれば「共同体より(以前に)個人」であり「個人あっての共同体」なのだ。
ところが「保守」には、「左翼」のような「弱者への同情」が希薄であるから、真逆の「(自分たちの)共同体あっての個人(という他者)」ということになってしまうのである。

したがって、「保守は現実主義のリアリズムであり、左翼は同情主義的な観念的冒険主義」だという見方は、「保守」に偏った見方でしかない。
厳密には、両者(保守と左翼)の違いは、「感情(論的タイプ)」の違いなのである。

「弱者」を見て「社会には常に弱者が存在するし、それは避けられないことだ」という「理屈」だけで、感情を動かされることも少ないのが「保守」の「リアリズム」の正体であり、「弱者」を見て「たしかに社会には、常に弱者がいるかも知れない。しかし、目の前で苦しんでいるこの人たちを、そんな理屈で看過することなど出来るはずがない」と考えてしまうのが「左翼の本質」なのである。

「左翼思想」や「保守思想」を中途半端に学んだ人は、両者を「理想主義と現実主義」「観念論とリアリズム」といった具合に考えがちで、これもあながち間違いではないのだけれども、こんな簡単な要約で、事の本質を語りきれるわけもない。しかしまた私たちは、こうした「ステレオタイプ・紋切り型」で「左翼思想」や「保守思想」を見がちであり、見誤りがちなのである。

だからこそ、繰り返し言うが、「左翼の本質は、弱者への同情」なのだということを、私たちは再度、はっきりと認識すべきなのである。
それ(左翼思想)とは、単なる「観念論」でも「感情論」でもない。それは人間の「本質論的タイプ」なのだ。

 ○ ○ ○

そして、こうした視点から、本書の著者である青木理を見るならば、彼が「典型的な左翼」であり、「ネトウヨ的(自称)保守」に言わせれば「典型的なパヨク」であるということになるのは、理の当然だし、完全に納得もできる。

つまり、青木理という人は「同情と怒り」の人なのだ。
「弱者の悲しみに心を寄せ、弱者を踏みにじる権力に怒りを向ける」人、それが彼なのである。

その意味で、「左翼」や「パヨク」と言った称号は、まったく恥じる必要のないものだし、まただからこそ青木も、それを毛筋ほどにも恥じてはいないのだ。

したがって、私たちも「弱者への同情と権力者への怒り」といった「わかりやすい感情」を恥じる必要はない。

ただし、「感情だけの馬鹿」であってはならない。私たちは、この「弱者が踏みにじられる現実」に何度でも立ち戻り、それを直視した上で、しかし「弱者への同情と権力者への怒り」という原点に立って、「安易な現実主義」と闘っていかなければならないのだ。


『 私自身も今回、この文章群をあらためて読みかえし、気づかされたことがいくつもあった。
 これはメディアやジャーナリズムにかかわる者たちの悪弊でもあるのだが、日々新たに生起する出来事や問題に追われ、没頭し、あるいは翻弄されているうちに、以前の出来事や問題がそれに上書きされ、記憶や問題意識が薄れ、いつのまにか過去のものとしてしまう。(中略)
 しかし、決して忘却の箱にしまいこんでしまってはならない問題はいくつもある。と同時に、さまざまな問題や出来事は相互に連関し、影響を及ぼしあって起きてもいる。最近数年間の文章を読みかえしながら私もそれを痛感したのだが、この時評集を手にしてくれた1人でも多くの読者が同じ感覚を抱き、さまざまな記憶を喚起し、思考を整理し、問題意識を再共有してくれるなら、著者としてこれに勝る幸せはない。』
 (P252「あとがき」より)

私たちは「弱者への同情と権力者への怒り」に立っているつもりでいる。しかし、本書を読みかえすと、そう言えば「あれもこれもこれも、すっかり忘れていた」という事実に気づかされるだろう。つまり、私たちにしたところで、深く「弱者に寄り添う」ことが出来ているわけではないのかも知れない。

そんな自戒をあたえてくれる貴重な「記録」として、私も著者とともに、本書を多くに人に薦めたいと思う。
私たちに必要なのは、「目新しい話(新情報や裏情報)」ばかりではなく、「忘れてはならない話」なのだ。
私たちは、何度でもそこ(弱者の現実)に立ち返って、そこから声を発しなければならないのである。

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決別 Σ( ̄Д ̄;)

 投稿者:伊殻木祝詞  投稿日:2019年10月13日(日)16時50分55秒
   どうも、いきなりですが、私、品川祝詞に改名しようかと考えております(嘘)。と言うのも、前回の書き込みの返信にて年間読書人=アレクセイ閣下から、まさかのツンデレの称号を賜ったからであり、私にとって最強のツンデレとは庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』に出てきたゴジラ第三形態=通称《品川くん》だからであります。初めて『シン・ゴジラ』を観た時、どこを見ているのかも分からない、あの、誰からも理解されることを拒むであろう、死んだ魚の眼の品川くんの魅力に私は一発でノックアウトされたのでありました。世間では蒲田くん(上陸したばかりのゴジラ第二形態の通称)の方が人気なようでありますが、たとえツンツンぶり(死んだ魚の眼)ではいい勝負であろうとも、ただ這い回っているだけの蒲田くんより、ひょこひょこと覚束ない足取りで歩き回り、特に意味もなく電車を尻尾で跳ね飛ばす品川くんの方が、むくれた顔で腕組みしている童顔の女子に何の興味もない私には何百倍も魅力的なのであります。
 ついでに申しますと、私にとって怪獣の中でも最強のイケメンは『ウルトラマン80』に出てきた吸血怪獣ギマイラであり、とにかく、こいつの格好良さは只事ではない。子供の頃に買ってもらったソフビ人形に一目惚れし、その一目瞭然のツンツンぶりは言うまでもなく、如何にも悪い奴といった面構えは今でも惚れ惚れするばかりであります(ちなみに最近復活した。YouTubeで初めて生で動いているのを見た時は柄でもなく感動した)。私も品川祝詞に改名した暁には普段のツンツンぶりなどかなぐり捨て、ギマイラの前に飛び出す所存であります(だって品川くんと言っても、あいつは雄でも雌でもない訳だからね。オールラウンダー)。ギマイラは残忍なので品川くんを見つけたら、すぐさま惨殺することでしょうが、愛に生き、愛に殉ずるのは乙女(←違う)の使命ではありませんかね?

 と言う訳で、自画像は品川くんこと、今回は初っ端から迷走中の伊殻木でございます(←いつもだ)。
 前回の書き込みの返信と、閣下の『読書実録』のレビューを拝読し、いろいろと思ったり考えたりしたことはあったのですが、端的にまとめると「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」「チョット自分、酔ッテタカモシレナイナー」となる。これではあまりにも芸がないので、佐村河内ばりに逆ギレ訴えます攻撃に出ようか(あれ結局どうなったのか?)、背中から放射線流をぶっ放して何もかもなかったことにしようか、とも思ったのでありますが、前者の場合、世間に恥を晒すのは、どう考えても私だけであり、後者の場合は、私は品川くんだから放射線流は撃てない(号泣)。だから結局は「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」「チョット自分、酔ッテタカモシレナイナー」となってしまう。全く張り合いがなくて申し訳ない。
 しかも「ソウ言ワレタラ、ソウカモナー」と言っている時の自分には、何かしらの自己保身(という言葉が正しいのかも分からない)を目論んでいるような気がする。こんなダサい自意識とは綺麗さっぱり縁を切りたいと思っているのでありますが……特に、私が嫌だなと感じたのは、閣下の返信とレビューを読んだ後に、「ちょっと紹介の仕方が悪かったか……」「今の保坂の魅力を伝え切れなかったか……」と少し思ってしまったことであり、これは要するに、紹介の仕方さえ間違わなければ相手を自分サイドに引き込めると妄信していたということではないか、「Iがいいって言ってるんだからYOUもいいって言ってくれなきゃ、いやんいやん!」という気持ちを多少なりとも持っていたのではないか、という懸念を抱き、そして、おそらく、その懸念は懸念ではない、という結論を出しかけているのでありますが……ああ……駄目だなあ……いやんいやん! 。゚ヽ(゚ ̄Д ゚̄)ノ゚。
 とは言え、おそらく私は保坂の書く物を読み続けるであろうし、もし保坂が閣下のレビューに眼を通したとして、その上で今後どのようなことを書いていくことになるのかを見届けたい気持ちもある。私にとっても閣下の意見を踏まえた上で、保坂や保坂以外の本を読んでいくことで、しょうもない自意識を捨て去るのか、それとも上手く付き合っていく方策を考えるのか、正念場を迎えているところであります(←と言うのも、少し大袈裟な表現ではあるが)。

 さて、あいちトリエンナーレにて名古屋市のK市長が公務を放り出して抗議の座り込みに励んだり、大阪市のM市長は「問題がなければ汚染水を引き受けてもいい」とアホな私にはよく分からないことを言い出したり、我らが関電はあのザマであり、あのザマにもかかわらずネット上には関電を擁護する意見も見られたり、と私の胸中には一足早い冬が訪れております。しばらく春は訪れそうにありません。冷え切っております。産経では月末に近くなると『月刊WiLL』『月刊Hanada』の広告が馬鹿でかく掲載されます。それを見て我が胸中を温めようかと思う所存です。娯楽です。特に今は彼らの韓国に対する執着心が剥き出しになっていて実に面白い。あれこそ究極のツンデレです。微笑ましい限りです。
こうして支離滅裂な書き込みは、今回も支離滅裂に終わるのでありました。

それでは失礼いたします。m( ̄▽ ̄)m
 

行きて帰らぬ物語:『天気の子』論 一一amazonレビュー:新海誠 監督『天気の子』(および『小説 天気の子』)

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月13日(日)11時41分26秒
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 行きて帰らぬ物語:『天気の子』論

 amazonレビュー:新海誠 監督『天気の子』(および『小説 天気の子』)
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最初に忌憚なく、結論を書いておこう。新海誠監督の長編アニメーション『天気の子』は、予言的に危惧されたとおりの、大ヒット「駄作」である。

言うまでもなく、大ヒットしたから「傑作だ」などという道理は、微塵もない。
人びとがしばしば、つまらないものに熱狂するというのは、洋の東西を問わず、うんざりするほど繰り返されてきた、歴史的事実なのだ。作品鑑賞について、何の訓練も受けていない者の鑑賞能力とは「それ相応」のものでしかないというのは、幼児に数学問題が解けないのと同じことなのである。

『天気の子』を観た直後の私の評価は、おおむね次のようなものだった。

(1)観ているぶんには、それなりに楽しめる「娯楽性」はあるけれど、あとで冷静に考えれば、ご都合主義的な展開が多く、いろいろと粗の目立つ作品。

(2)しかし、なによりも問題なのは、前作『君の名は。』では薄れたかに見えた、新海誠らしい〈自己憐憫のナルシシズム〉が、ぶり返していた点だ。
新海の初期作品には、「運命に縦容として従う少女」「(その運命に)引き裂かれる少年少女」「大人はわかってくれない(世界は僕たちに冷淡だ)」といった、「被害者意識」の濃厚に漂う悲恋物語、という「作り」が共通していた。それが本作では(パッピーエンドにしてはいるが)わかりやすく蘇っており、新海は作家として、本質的に変わったわけでも、成長して変わったわけでもなかったようだ。

(3)こうした「セカイ系」的な「自意識過剰な主観性」のゆえに、主人公に好意的な人は「良い人」、無理解な人は「嫌な人、あるいは悪意の人」ででもあるかのように描かれてしまっている。
例えば、晴れ女の超能力を持つ少女・天野陽菜が、その能力を使い続けたために、自然のなかに取り込まれて消えてしまうという作中の事実について、彼女に恋する主人公・森嶋帆高自身、ほかの誰にも説明しようとはしてないのだし、そんなトンデモな事実を、周囲の大人たちが簡単に理解できるはずもない。だから、帆高が陽菜を取り戻すためにおこなう行動が、常軌を逸した暴走にしか見えず、それを止めようとするのは「善意の第三者」の行動として、非難の余地などあろうはずもないものなのに、例えば、彼らを保護しようとする警察官を始めとした大人たちは、帆高に対し、まるで悪意の邪魔立てをしているかのように、不適切に描かれてしまっている。
これは、作品を俯瞰して、登場人物を統御すべき新海監督が、主人公と一体化して、主観的に登場人物たちを描いてしまっている証拠であり、端的に「頭が悪く」「拙い」としか言いようがない。

つまり、『天気の子』が否定的に評価されるとしても、その論点は「(作品に込められた)考え方や主張」の問題ではなく、単に「作品作りの巧拙」つまり「(物語構成)技術論」の問題でしかないのだ。
にも関わらず、新海誠は、作品を公開する前から、予防線を張るかのように、インタビューで次のように語っている。


『「この映画について『許せない』と感じる人もいるだろうと思いました。現実の世界に適用すると、主人公の帆高は社会の規範から外れてしまうわけです。弁護士の先生にもお話を聞いたんですが、法律で考えても、結構な重罪で…。帆高が空の上で叫ぶセリフも許せないし、感情移入できないという人もたくさんいると思います」と批判的な意見にも心を寄せ、「いまの社会って、正しくないことを主張しづらいですよね。帆高の叫ぶ言葉は、政治家が言ったり、SNSに書いたりしたとしたら、叩かれたり、炎上するようなことかもしれない。でもエンタテインメントだったら叫べるわけです。僕はそういうことがやりたかった」と語る。』
 (「Movie Walker」https://movie.walkerplus.com/news/article/200868/

『『天気の子』については、「僕は、本作を“帆高と社会の対立”の映画だと思っていて。個人の願いと、最大多数の幸福のぶつかり合いの話だと思うので、そこに社会は存在している。帆高は大人の社会で働こうともするし、警察も出てくるわけです」と社会と関わっていく物語だと話す。「僕がつくるものがどうしてそうなったかというと、かつてのように、無条件に社会がそのまま存在し続けるとは思えなくなってきているから。そういった感覚があるからこそ、アニメーションの中にも社会を描くことが、どうしても必要になってきているのではないかと思っています」。』
 (前同)

このインタビュー記事を読んで、その度しがたい「自己弁護」性に、心底うんざりさせられた。
新海はこのインタビューで「批判的なご意見もありがたいと思っている」という趣旨の「世間並みの建前」を語ってはいるが、それが「本音」とは真逆なものであることは、なによりも『天気の子』という作品が、じつに正直に暴露している。

つまり、『天気の子』を「帆高と社会の対立」を描く作品だと主張しているけれども、実質的にこの作品が描いたのは「独り善がりな帆高と、彼を理解しようもない大人たちとの齟齬」にすぎない。
説明努力もしていないのに、帆高は「何で解ってくれないんだ」という被害者意識で、周囲の「大人社会」を見ており、だから非難がましく「みんな何も知らないくせに! 陽菜が犠牲になったから、世界が救われたのに!」というような不満をもらす。

しかし、これはお門違いというものだろう。周囲の大人社会が、意識的に「陽菜を人柱にした(犠牲にした)」と言うのならば、それは当然非難されてしかるべきである。けれども、いずれ陽菜が消えるという認識が無かったとは言え、陽菜に晴れ女の能力を恒常的に使うように仕向けたのは、他ならぬ帆高なのだし、なにより、自分が消えるかもしれないと知りながら、皆と、そして帆高のためにも能力を使い続けたのは、陽菜自身であり、彼女の主体的な選択であって、それは主体的な「自己犠牲」の行為なのだ。
だから、それで、陽菜に能力を使うように強いたわけでも、その結果を知っていたわけでもない「大人たち」を責めるというのは、まったくのお門違いであり、八つ当たり以外の何ものでもないのである。

しかし、「帆高と社会の対立」という構図には「新海誠と、新海に無理解な大人たち(有識者)の対立」という、新海にとっての現実が、そのルサンチマンの発露として、なかば自覚的(報復的)に投影されており、その一方、新海はもともと、主人公に情緒的(非理性的)に同一化する(つまり、理性的な判断が働かない)タイプであるため、『天気の子』という作品の構造を「帆高と社会の対立」だなどと、自らに都合よく「取り違えてしまう(合理化した)」のである。

つまり、端的に言えば、『天気の子』は「説明能力のない独り善がりなお子様と、彼にその自覚と成長を促す教育的な大人との対立」でしかなく、新海の言う「賛否両論」のある作品などでは、毛頭ない。
なぜなら「子供を、その独り善がりな主観的視野から、さらに広い視野を持つよう、成長うながす」という善意の行為は、よほど病的な「視野狭窄」に陥っている者でもないかぎり、誰もが賛成するしかない、当然のものだからである。
そして、『天気の子』に「賛否両論」めいたものがあるとすれば、それは、作品を主観的に評価するだけの未熟な鑑賞者(とそれに迎合する功利的な大人)と、作品を客観的に評価できる訓練された鑑賞者との対立にすぎないのだ。

 ○ ○ ○

さて、以上で「なぜ『天気の子』は駄作なのか」についての、基本的な説明は済んだ。
知的・論理的に思考ができず、ただ「なぜ解ってくれないんだ」式に叫ぶだけの「理解乞食」には、理解のしようもないだろうが、それはどうしようもないので、話を進めよう。

『天気の子』が、このような「構造的欠陥」によって、不出来な作品であるだけなら、さして問題はない。
しかし、新海誠の作品は、前作『君の名は。』の大ヒットを受けて、本作『天気の子』も大ヒットしており、それにあやかる「金儲け目当ての太鼓持ち的な大人」たちも少なくないがゆえに、その悪影響が看過できないものともなっている。

無論「駄作を駄作(あるいは、傑作を傑作)と言う」だけなら、それは誰にでも出来ることだが、それが「何ゆえに駄作(あるいは、傑作)なのか」「駄作が傑作と誤認されることの問題とは何か」を語ることは、決して誰にでも出来ることではないし、余計な行為などでもない。

人間は「頭を使ってこそ人間」なのである。
つまり「好き嫌い」と「良し悪し」の区別がつかないような、思考能力(脳)の未熟な「子供のまま」であってはならないのだ。

さて、『天気の子』の観賞後に、こうした論点において注目すべき本を読むことが出来た。
高畑勳のエッセイ集『アニメーション、折りにふれて』(岩波書店)は、6年前(2013年)、つまり『君の名は。』よりも前に刊行された著作であるにもかかわらず、「新海誠的な問題」の本質を、鋭く射抜いており、その予言的な明察には、ほとほと感心させられた。

本書の中で、高畑が言及している新海誠の作品は、自主制作のデビュー作である『ほしのこえ』だけだが、高畑はこの作品を、にべもなく、こう切り捨てている。


『個人ですべてCG制作したことで評価された『ほしのこえ』という中編アニメがある。「西暦二〇四六年を舞台に携帯メールを介して綴られる宇宙と地球に引き裂かれた少年と少女の爽やかな、しかし絶望的なまでの〈超長距離恋愛〉」というのが、そのキャッチコピーである。特徴のある絵ではないけれども、映像の出来は決して悪くない。
 私はこれをまったく評価できず、ワンアイデアによる「(子供ではなく)青年だまし」で、「くだらない」としか思わないが、巧みな表現によって社会性のない現代青年の心をくすぐり、琴線に触れることができたようで、売れ行きもよく、いくつか受賞もした。要するに、作者はみずから作り手になることによって見事に「そういう世界から卒業・脱出しないまま、それでも現実を生きる」ことに成功した一人であり、「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者に支持され、その現象全体を情報メディア産業(とは何のことか分からないが)推進派の能天気なおじさんたちが追認したのだと思われる。』
 (『アニメーション、折りにふれて』文庫版・P207~208、初出は2008年)

10年も前、まだ世間が新海誠のことなど知らなかった段階で、高畑は、後の「新海誠ブーム」の本質を、すべて言い当てて見せていたと言えよう。私が「予言的」と呼ぶ所以である。

そして、この名匠(『太陽の王子ホルス』『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』『じゃリン子チエ』『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』『かぐや姫の物語』など)の言葉を、新海誠は確実に読んでいただろうし、それに深く傷つき、片時もこの「酷評」を忘れたことはなかったであろう。

言うまでもなく、高畑のこの酷評は、新海に「幼児期(主観的世界観)からの卒業と成長」を期待し促したものであった。
現に、上に引用した文章の註で、高畑は次のように補足している。


『 急いで言い添えなければならないが、これはこの段階(※ 2008年)での評価であり、作家の道を歩みだした作者が、その社会生活のおかげで、以後、もっと社会性のある作品を作りはじめる可能性は充分にある。』(P221)

しかし、残念ながら、高畑が正しく「危惧」したとおり、新海は高畑を「無理解な大人」の象徴として「恨み」を抱き、「無理解な大人を見返す」ことを、作品制作の暗い燃料としたのである。

高畑勳は、同書で指摘していた。


『この理想と現実の相剋があるからこそ、多くの人々の知性は目覚め続けざるをえなかったし、ずるずるいかないための大きな歯止めになってきたのではないでしょうか。理想と現実の相剋を、理想を捨て去ることによって解決しようとすることほど愚かなことはありません。この大きな歯止めをはずせば、あとはただ最低の現実主義で悪い方へずるずるいく危険性がまことに高いと思います。(中略)集団主義をとってきた私たち(※ 日本人)は、残念ながら、ずるずると行きやすい体質を持っているのです。若い人たちは違うと思いたいのですが、どうも全然変わっていないとしか思えません。』(P334)

『 そんなイヤな話は聞きたくない。いまそんなこと考えても無駄だ。成り行きにまかせるしかないじゃないか。だいいち、個人に何が出来るんだ。テレビで「これは一人ひとりが考えなければならない問題です」というのを聞くたびにアタマに来るぜ。イライラしはじめた皆さんの皆さんの顔が浮かびます。』(P339)

ここで語られているのは、特に新海誠を意識したものではない。だが、新海にかぎらず「内向き・現実逃避的」で、「理想」を主体的なものとして考えることがなく、ひたすら「人が押しつけてくるもの」と感じてしまう「被害者意識」の強い、「思考放棄をした若者」たちへの「大きな危惧」が、ここでは「ささやかな期待」とともに語られている。

で、その結果はどうであったろう。

新海は、先のインタビューで『社会を描くことが、どうしても必要になってきているのではないかと思っています』と語ったとおり、『天気の子』で、社会に目をむけたつもりなのかもしれない。
しかし、その現実は、私もすでに指摘したとおりで、「主観に埋没して、他者の視点を欠いた描写」しか出来ていないというのが、今の新海誠なのである。
つまり「他者の立場」も思いやれない人間に「社会性」などあろうはずもなく、『天気の子』という作品が端的に示しているのは、新海誠という作家の「社会性の欠如」であり、彼が度しかたいほど変わらない「セカイ系的感性(=世界と私の中間にある社会の欠落)」の持ち主だという事実なのである。

そしてそのために、新海は『「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者』たちからの、さらに広範な支持を受け、ヒットメーカーとして『情報メディア産業推進派の能天気なおじさんたち』の寵児となった(『天気の子』における、スポンサー企業との「母子密着型(自立性欠如型)」描写を見よ)。

無論、これは「偽の勝利」でしかない。しかしそのことが、新海や、彼を支持する人たちには理解できないはずだ。なぜなら、彼らは「主観的」にしか世界を見ることができず、俯瞰的かつ相対的な意味を、社会的な視点から把握することが出来ないからである。

大衆に熱狂的な支持を受けていたヒトラーのナチス政権を批判し、反体制運動に加わって絞首刑にされたプロテスタント神学者のディートリッヒ・ボンヘッファーは、次のような言葉を残している。


『成功者の姿がとくに注目を引くように出現するところでは、多くの者が成功の偶像化に陥る。彼らは、正と不正、真理と虚偽、誠実さと卑劣さの区別にたいして盲目になる。彼らは、ただ行為のみを、成功のみを見る。倫理的・知的判断力は、成功者の輝きの前ではまたその成功に何とかして与りたいという欲望の前では鈍くなってしまう』
 (『倫理』より)


じっさい、現在進行形の「東京オリンピック」ブームについての、政府とマスコミと協賛企業主導の「お祭り騒ぎ」に対し、なんの疑問も抱けないのが、平均的な日本人(の知的レベル)である。
そして、このような日本人が『君の名は。』や『天気の子』を大ヒットをさせている、というのは言うまでもない。その結果、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』などの挑発的な著作で知られる橘玲をして、下のように書かせることになる。


『日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。』
 (橘玲『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』より)


例えば、年に1冊でも活字の本(新聞・雑誌・ネット以外)を読む人というのは、100人のうち何人くらいいるだろうか?
「私は本を読みます」と言っても「(ラノベなどの)娯楽小説」つまり「思考型ではなく、没入逃避型のテキスト」しか読んでいない人が、その内のどれだけを占めるだろう。また「歴史書や政治関連書を読んでいます」と言っても、偏頗で党派的な断言ばかりの「オピニオン雑誌」の類い(これも逃避型)しか読んでいないネット右翼のような人たちが、そこにどれほど含まれていることか。

しかし、「新海誠ブーム」や『天気の子』ブーム、はたまた「東京オリンピック」ブームを支えているのは、こういう、長いものには好んで巻かれて熱狂し、立ち止まって考えることの絶えて出来ない、ずるずる行ってしまう、「提灯行列」的な日本人なのである。

 ○ ○ ○

高畑勳は、新海誠的な作品の問題点を、盟友宮崎駿の傑作『千と千尋の神隠し』を例に挙げつつ、次のように説明していた。


『 最近のすぐれた日本の長編アニメでは、主人公が「予想を超えて、次々と出現する状況」にまことに素早く座頭市的に対処し、見事に危機を切り抜けます。そして観客はそれに喝采を送ります。しかし、主人公が物事の因果関係を探ったり原因をつきとめる行動に出ることはほとんどありません。座頭市的な主人公が状況の不可解さから疑心暗鬼に囚われて、行動力を失ってしまうこともないのです。観客もまた、主人公が何故そんなに見事に状況を切り抜けることができるのか、深く考えることはないようです。主人公も観客も、こうして「現在主義」を共有しています。
 これはまた、加藤さん(※ 加藤周一)が同じ講演(※ 「日本社会・文化の基本的特徴」)で「集団内部の秩序維持の装置」として挙げておられ、今回もお話しいただいた、日本の「気持・こころ尊重主義」や「主観主義」のあらわれでもあると思います。現実の中では、行動の動機である心情がいくら美しくても、それがそのままよい結果をもたらすとは限らない。しかし私たち日本人はその「気持」の方を高く評価してしまいがちです。だからこそ、日本のアニメの世界では、現実世界と違い、よい心情は必ずよい結果を生んで、観客の気持を裏切らないようにします。そこでは、因果関係の客観性・論理性は問われません。
 したがって、こういう長編アニメの傑作は、しばしばかなり強引に、加藤さんの言われる「建て増し主義」的に作り上げられざるをえません。では、そういうドラマをリアルに、というか、ヴァーテャルに観客に信じ込ませる恐るべき力はどこから来ているのでしょうか。それはまずなによりも、官能的とさえ言えそうな細部の驚くべき緻密なリアリティではないかと思います。最近のバロック的明暗の強調おそらくそのためでしょう。
 起承転結のしっかりした設計図から細部を構想するのではなく、豊富な細部のリアリティや共感性をまず保証して、その力によって全体を組み上げること。これが加藤さんのおっしゃる「部分主義」に当てはまることは言うまでもないと思います。「日本文化の文法」第四、「部分主義」で加藤さんは「全体の構想を離れての、部分それ自身への強い関心は、日本の造形美術の歴史を一貫する特徴の一つである。(中略)全体は部分の積み重ねとして成り立つので、全体を分割して全体にいたるのではない」と書かれています。
 かくて、世界に冠たる日本の長編アニメもまた、日本文化の文法にまことによく従っている、と言えるのではないでしょうか。そしてこれが世界的に評価されるのは、その細部の豊富さと素晴らしさもむろんありますが、それだけではなく、その「主観主義」的な美しい心情とそれによる目的成就が、既成の価値体系が崩れ、因果関係が読み取れず、自信を失って不安に陥っている現代人の心に強く訴える(今はやりの言葉でいえば「癒す」)ことも大きいのではないでしょうか。日本だけではなく、世界で、圧倒的な「感覚的世界」を肌身に感じたがる人々がますます増えているのだと思います。』
 (『アニメーション、折りにふれて』文庫版・P19~21、初出は2004年)

これを読んで「宮崎駿の傑作長編も、新海誠の長編アニメも、ともに日本人の伝統的美意識に根差した、世界に冠たる傑作なのだ」としか理解できないのなら、その人は、もっと頭を鍛えるべきであろう。
たしかにここで高畑は、加藤周一の「日本文化・芸術論」を引いて、「昨今の日本のすぐれた長編アニメ」が、とつぜん現れたものではなく、日本の伝統的美意識に、無意識的に支えられて現れたものだと語っている。しかし、文化的特徴には表裏の両面があり、長所というのは、しばしば短所でもある。
つまり「日本的美意識」は「細部に繊細な美意識を宿らせる」という長所を持つ半面、「全体を俯瞰的かつ論理的に把握して、設計的かつ構築的に全体を作り上げるという、構想力に欠ける」という弱点をも持つ、ということだ。平たく言えば、「近視眼的」で「泥縄式」で「直観的かつ非論理的・主観的」なのだ。

そして、この高畑の文章には、宮崎駿の傑作の長所以上に、新海誠の作品の弱点が、的確に表現されていると言えるだろう。高畑のここでの指摘は、15年後の新海誠作品『天気の子』の弱点を、そのまま言い当ててしまっているのだ。
(ちなみに、前述のインタビューで、新海誠が、宮崎駿について好意的に言及している点が、たいへん興味深い。たぶん「勝者」同盟のつもりなのだろう)

高畑勳は、「日本アニメは観客巻き込み型映画の一ジャンルとなった」という見出しの後に、このようにも書いている。


『 感情移入という言葉は、日本では哲学・美学用語を超えて、日常的に使われる。この事実は、それほどみんなが「感情移入」したがることをよく表している。読書はもちろんのこと、舞台芸術やある時期までの映画も、感情移入は客観的な対象(文章・舞台・画面の中の人物や事件)に向かってこちらから自己(の想像力)を投入する(いわば「思いやる」)ことによって成し遂げられた。情景でさえそうだ。舞台は登場人物が「まあ美しい夕焼け!」と言えば、シェークスピアのグローブ座であれ能舞台であれ、観客はその言葉だけで「美しい夕焼け」を想像するのである。近代劇であっても、ほんものらしくない舞台照明の赤らんだ光に助けられつつ、やはり美しい夕焼けを想像するしかない。読書や観劇は一定の努力が必要な、しかし努力することが喜びであるような自発的な行為だった。
 映画はその中では、物事を具体的に描写してくれるだけではなく、ショットの積み重ねで様々な視点を提供してもらえるため、もともと観客にとってもっとも努力が少なくて済む大衆娯楽だった。それが白黒からカラーとなり、いまや大進化を遂げて、「巻き込み型」が主流を占めるようになって、観客は座席に受け身で座ったまま、ぐんぐん向こうから押しつけてくるものを享受するだけで感情移入ができるのだ。大音響や扇情的な音楽がその臨場感をさらに増幅する。観客は自ら客観的に判断したり想像力を発揮したりする余地も与えられず、きわめて主観的に感情を揺さぶられ、かなり荒唐無稽な内容であっても、個々の人物、個々の場面に「思い入れ」や「思い込み」をしてしまう。
(中略)
(※ ディズニーとは)逆に、日本のアニメがなぜ、絵は大して動きもしないのに観客を巻き込むことに成功したのかは、まず第一にその演出手法による。ディズニーがやらなかった主観的な縦ショットをどんどん積み重ね、観客の目を登場人物のすぐそばに置く、トラックアップなどのカメラワークで眩惑する。動きがなくても止め絵が多かろうが、性格描写がいい加減だろうがかまわない。特に主人公は、観客代表みたいなものにしてあるから、その性格はあいまいな中立的なものでいいのだ。だからキャラクターも類型的でかまわない。
 日本のアニメは、安価に作るために作画枚数を減らすところから出発した。それでも面白く見せるには演出の工夫が必要だった。しかもその基盤には洗練の度を極めたマンガのコマ割りという先輩があった。そしてたちまち熟練の度を加え、アニメーション作画も巧みになって、ついに「現実には起こりえないことを、いま現実に起こっていることとして感じさせる」観客巻き込み型映画の一ジャンルを見事に形成するまでになったのである。』
 (『アニメーション、折りにふれて』文庫版・P198~201、初出は2008年)

例えば「ジェットコースター」を考えてみるといい。ジェットコースターには「意味的内容」はなく、客が頭を使う要素は皆無だ。乗客は、ただ座席に座って目を開いているだけでいい。あとはコースターが勝手に、「急降下」があったり「カーブ」があったり「旋回」があったりという、刺激を単調化させないための「捻りと変調」を加えた「スペクタクルの世界」へと、乗客を運びさってくれる。
たしかに、ジェットコースターは、面白い。いや、正確に言えば「快感を与えてくれる」娯楽であり、それにはそれ相応の価値がある。
そして、その「面白さ」は、『天気の子』という作品の面白さと、とてもよく似ているのであるが、その正体とは、知性や理性とは、ほとんど関係のない「脳科学的な、本能的反応(脳内快楽ホルモンの分泌)」でしかないのである。

例えば、幼児の惹かれる「YouTubeの動画」というのは、どういうものだろうか。
そうした作品とは、「中身(らしい中身)」は無く、きわめて「単純」ではあるが、テンポの良い繰り返しがあったり、時に驚くような変調が仕掛けられたりしたものであることが多いようだ。つまり、ジェットコースター的なものに近い刺激を与えてくれる。
そこには大人が鑑賞して「感心するようなテーマ」などは無いし「繊細微妙な描写」があるわけでもなく、いずれにしろ「深く、その表現するところの意味を、主体的に考えなければ味わえないような作品」ではない、というのは確かで、端的に言えば、大人には「たわいない作品」だと言えるだろう。

なぜ、幼児が、このような「たわいのない」、大人には「単純すぎる」と感じられる作品を喜ぶのかと言えば、それは作品の内容が「複雑な意味」を提供するものではなく「直接的な刺激」を提供するものだからであろう。
幼児の、そして子供の脳というのは、大人の脳にくらべて「複雑な思考」能力には欠けるものの、「刺激には敏感」である。大人のような「複雑な思考」は、経験的な「知的訓練」によって脳が思考回路として鍛えられ、漸進的に複雑さを増すことによって初めて可能になるものなのだが、「刺激にたいする敏感さ」は、これから発達していくべき幼児の脳の当然の傾向として、大人よりもずっと直接的で大きな「快感や不快感(刺激)」を感受するのである。

このような「知的鑑賞対象と本能刺激対象」という違いの、よりわかりやすい例として「エロ作品(映画・マンガ・小説)」などを挙げてみよう。
エロ作品に対して、最も感受性に優れているのは、思春期以降の若者(青年)である。これは、他の年代(幼児や高齢者)に比べて、彼らがなにがしかの優れた「読解能力=知的能力」を持つからではなく、「種の保存本能」としての「性欲」が、最も活発な世代だからに他ならない。若者は、性的な刺激に敏感なのである。だからこそ、その刺激物が「粗製濫造の拙い創作物」であろうと、若者は敏感に、つまり過剰なまでに「反応」し「興奮」し、その「創作物が惹起する性的妄想に没入する」ことが容易に可能なのである(※ 特に男性は)。
それに比べ、そもそも幼児には、その本能的能力が未発達なので、エロ作品が期待する反応を示すことが出来ない。一方、性的本能が衰えた高齢者の場合は、エロ作品が鑑賞者にどのような反応を期待して作られたものなのかを「知的に理解」してはいるけれども、「性的本能」の衰えによって、エロ作品が期待するような「反応」としての「興奮」を満足に惹起することができない。高齢者は、性的な亢進期をすぎて「性欲」が衰えただけではなく、過去の経験と記憶によって、多くの性的刺激に対して、言わば「慣れっこ」になってしまっているので、容易なことでは「本能的に興奮する」ことが出来なくなっているのである。

つまり「性的興奮」と「知的思考能力」は、ほとんど無関係であるばかりではなく、しばしば背反するものなのだが、この違いがどこに由来するのかと言えば、それは「性的興奮」とは、脳への「直接的な刺激」によって脳内快楽物質(ホルモン)が多量に分泌されるという機械的な単純現象であるのに対し、「知的思考能力による鑑賞と、それによって得られる快感」というのは、脳への「直接的刺激」ではなく、「思考」という高度な脳的作業を行うことを介して、間接的(メタ的・自己言及的)に脳を刺激し、脳内快楽物質を分泌するという高度な作業なのである。言い変えれば、この「高度な脳的作業」を行うには、それ相応の「訓練された知的能力」がなければならないが、「本能的な直接刺激」に対しては、その刺激の対象年齢内であり、脳障害でもないかぎり、誰でも、機械的な反応として「興奮」を得ることができるのである。
そして、このことをわかりやすく説明するならば、例えば「恋愛」というものは、知的能力の高低にも、倫理観の有無にも関係なく、誰にでもできるものであり、なぜそうなのかと言えば、それが本質的には「本能的(脳機構的)な単純反応」にすぎないからなのである。

「いや、恋愛とは、本能だけではない。例えば、その人の行動や人格の美しさに感動することで、人は恋に落ちたりする」と言う人もいるだろう。これはなかなか賢い抗弁だ。と言うのも「外見的美しさ」によって「恋に落ちる」というのは、典型的な生物学的反応であるからだし、「容貌や性格傾向の好みの違い(相対性)」もまた、遺伝的要素と後天的な学習による脳内プログラムの発露でしかない。だから、少しでも知的・人間的なものとして「恋愛」を考えようとすれば、(本当は単なる「面食い」であっても)対象者の「行動や人格の美しさ」を問題にしなければならないからである。
しかし、自分の胸に手を当てて正直に考えてみればわかることだが、残念ながら人間というものは「行動や人格の美しさ」だけで「恋に落ちる」ということはない。たしかに「感心する」とか「尊敬の念をおぼえる」ということはあるだろうが、それは、そのまま「恋愛」には直結しない、「副次的要素」でしかないのだ。
つまり、「自分の好み(のタイプ)」の人が、そのような「行動や人格の美しさ」を見せたならば、人は「感心」し「尊敬の念をおぼえ」、その後に「恋に落ちる」、ということでしかない。忌憚なく言ってしまえば、容貌が完全に好みではないとか、同性であるとかするならば、その人に「行動や人格の美しさ」があろうと、人は普通、その人に「恋愛」感情を抱いたりはしないものなのであり、動物としての人間(の脳)は、そのように作られているのである。言い変えれば「恋は理屈ではない」。これが真実なのだ。

 ○ ○ ○

ところで、「恋愛」というのは、たしかに本能的なものではあるが、しかし、それが本能的なもの(脳科学的現象)に止まるかぎり、達成されれば、急速に醒めてしまうものでもある。
だからこそ、結婚してしまうと、恋愛的な感情は急速に醒めて、「こんなはずではなかった」とか「こんな人とは思わなかった」とか「騙された」などと言い出す人も少なくないのだ。

したがって、婚姻関係を永続的なものにしようと思えば、その根拠は「恋愛感情」的なものにではなく、むしろ「家族的なもの・肉親的なもの」へと置き換えられなければならない。つまり、一緒に暮らすことという事実行為によって、配偶者の長所も短所も含め、配偶者に「他家の人とは区別される、家族的・肉親的愛着(愛情)」を持つようにならなければならないのである。

しかし、そのような「家族的・肉親的愛着(愛情)」というものは、「非日常」を描くこと(それを期待されること)の多い「フィクション作品」には馴染みにくい、というのも確かである。
当然のことながら、「起伏に富んだ、派手な恋愛」を描いた作品(例えば「突如、恋人が不治の病に罹ってしまい、余命1ヶ月」「恋人を残して、突然、過去へタイムスリップ」等)の方が、「夫婦の地味な日常を、淡々と描いた作品」より、一般ウケが良いし、作るのも簡単である。
だからこそ、物語作家というものは、リアルで地味な「家族的・肉親的愛着(愛情)」を描くよりも、「派手な恋愛」を語りたがるというは、資本主義経済下の世界においては、理の当然だと言えるだろう。

まただからこそ、恋愛譚であっても、「自然な出会いによって恋に落ち、順調につきあって結婚し、二人は幸福になった」というような「フィクション作品」はほとんど作られず、「突如、恋人が不治の病に罹ってしまい、余命1ヶ月」式の「派手な作品」の方が多くなる。
つまり、大衆ウケのポイントは「うまく行き過ぎない(次々と障害が発生する)恋愛譚」であり、その意味での「悲恋物語」であるということなのだ(「ハッピーなバカップル」の物語なんか見せられたくない、ということ)。

こうした「恋愛フィクションの機微」について、クリスチャンの文芸評論家、ドニ・ド・ルージュモンは、その著書『愛について エロスとアガペ』において、伝説的な悲恋物語「トリスタンとイズー」を構造分析し、次のように指摘している。


『 彼(※ トリスタン)は自分自身の悲痛に不憫をもよおす。《愛する人》(※ イズー)のことなど思わない。彼女(※ イズー)は方は恋人(※ トリスタン)とともにいるよりも、王(※ 二人を引き裂く、イズーの夫・マルク王)のそばにいる方が幸福であり、モロワの森で(※ トリスタンと)同棲生活をしているよりも、恋の不幸の中に生きる方が幸福でいられる。……』(平凡社ライブラリ版上巻・P72)

『彼ら(※ トリスタンとイズー)が愛しているのは恋愛であり、愛するという事実そのものである。そして彼らは、愛をはばむものこそは、二人の心の中にしっかと愛を植えつけてくれる事情を、こころえているといわぬばかりの振舞いをする。それも、死という絶対の障害にあう瞬間に、愛をかぎりなくたたえるためなのだ。』(同P73)

『(※ イズーに)夫(※ マルク王)がなかったならば、二人の恋人は結婚するよりほかなかったであろう。ところで、トリスタンがイズーを妻にするということなどは、とうてい想像もできない。彼女は人妻になれるタイプの女ではない。それというのも、結婚してしまえば、それまでの彼女(※ 手の届かないが故に、情熱を燃え立たせる対象)ではなくなるので、夫(※トリスタン)の愛情は消えてしまうからである。トリスタン夫人、こんなことが考えられようか! これは情熱の否定、すくなくとも、われわれが問題にしている情熱の否定である。闘争もなくして栄冠をかちえる衝動的な恋愛情熱は、その本質からいっても永続性をもたないものである。これは、燃焼のあとまでも輝きつづけることができない火花である。ただ、その焼痕だけは忘れがたいものとして残るし、恋人たちはこれを永久に引き延し、よみがえらせようと願うのだ。だからこそ、彼らはつぎつぎに降りかかってくる危難に挑んでゆく。しかも騎士の武勲は、それを片っぱしから征服してしまう。そこで彼は、さらに神秘的な、さらに深遠な、さらに内的といえる冒険をもとめて、遠国に旅立つのだ。』(同P78~79)

『 情熱は苦悩を意味する。情熱は忍従することを意味する。責任ある、自由な人格にたいする宿命の優越を意味する。愛の対象よりも、愛そのものを愛すること、情熱をそれ自体として愛することは、アウグスチヌスの《愛することを愛していた》から現代のロマンティスムに至るまで、苦悩を愛し求めることにほかならない。情熱恋愛とは、われわれを傷つけ、勝利によってわれわれを滅ぼすものを欲望することである。』(同P87~88)

『 相思の愛というのは、トリスタンとイズーが《愛し合っている》、すくなくとも、彼らがそう信じているという意味である。また、彼らが相互に、模範的な節操をまもっていることも事実である。ところが、彼らを《支配する》恋愛が、その具体的な現実そのままに、相手への愛ではないところに不幸がある。なるほど、二人は愛しあっているが、しかし、各人の愛は相手からではなく、自己から発して相手におよぶ愛にすぎない。こうして彼らの不幸の原因は、双方の自己愛に仮面をかぶせた、見せかけばかりの相互性にあるのだ。』(同P91~92)


もちろんここで、ルージュモンは「情熱=情熱恋愛」を否定的に扱っているのだが、私がこの引用文を持って何を言いたいのか、おおむねご理解いただけよう。

ここでルージュモンが描いた「情熱恋愛」こそが、『天気の子』の支配原理なのである。

主人公の森嶋帆高は、とても魅力的な少女・天野陽菜に恋をするし、二人の恋はわりあい簡単に成就しかけるのだが、当然、そんな二人の前に、様々な障害(警官や児童福祉課職員)が立ちはだかり、その極めつけが「陽菜の消失」だというは言うまでもない。
つまり、二人の「恋」の行く手には「様々な障害」が立ちはだかるのだが、しかしそうした「障害」の存在こそが、二人の「恋愛の凡庸さ」や「人格的な紋切り型」を覆い隠して、観客を物語の「スペクタクル世界」に引き込んでしまう。
つまり、二人の主人公の中味や魅力ではなく、ルージュモンの指摘するとおり『愛をはばむものこそは、二人の心の中にしっかと愛を植えつけてくれる』ドラマチックなものとして、二人の主人公と観客の前に立ち現れるのである。

だからこそ、最初に指摘したとおり、森嶋帆高は「独り善がりで、頭の悪い少年」でしかないし、一方の天野陽菜は「健気なお人形さん」でしかなく、やはり「頭が悪い」。

帆高の「頭の悪い、独り善がり」ぶりについてはすでに説明済みであるから、ここでは陽菜の「健気なお人形さん」ぶりについて説明しておこう。

言うまでもないことだが、陽菜の最大の魅力は「容姿」である。
アニメの主人公なんだから、陽菜が「美少女」である(と、観客には見えるように描かれている)というのは当然だと思われるかも知れないが、しかし、その視覚的要素を差し引いて、いったい陽菜にどれだけの「人間的魅力」があるのかを考えていただきたい。

たしかに彼女は「親思い」だろうし、一人で弟を育てようという「弟思いの頑張り屋」でもあろう。また、腹を空かせていた帆高にハンバーガーを恵んであげる「心優しい少女」でもあるし、極めつけは「みんなの幸せのためなら、自分がこの世から消えてしまっても良い」とまで考える「自己犠牲的な、非凡な精神の持ち主」である。

しかし、冷静に考えれば、「15歳」の彼女が「弟と二人だけで生きていくことなどできない」というくらいのことは、その年齢にもなればわかるはずだ(例えば、金銭的・手続き的に、弟を学校に通わせることが出来るだろうか)。
多少の遺産があったとしても、マクドナルドでのアルバイト代だけで生きていけるほど世間は甘くないし、だからこそ彼女も「あやしい仕事」に手を出しかけたのである。それをたまたま、思い込みの激しい帆高が妨害したから良かったようなものの、あのままだったら、ただの「水商売」では済まず、いずれは金になる「売春」に走らざるを得なかったかも知れないし、その果てに悪い人間に捕まって「覚醒剤漬け」にされたかも知れない。
「弟と二人で生活を」などという「夢のような話」ではない「現実」が、あのままだったら、確実に待っていたのである。また、だからこそ、そういう世間の厳しさを知らない子供たちを「保護」すべく、「社会」は、警官や児童福祉課職員として動きもしたのだ。
また彼女は、自分が消えた後の弟のことを、高校生の帆高に託そうとするのだが、それはいくらなんでも無理があって、むしろ無責任なのではないだろうか。「みんなのため」以前に、「弟のために生きよう」とするのが、当たり前の姉の務めなのではないのだろうか。

このように、なるほど陽菜は「健気な美少女」ではあるけれども、所詮は「非現実的なお人形さん」でしかない。物語構成上の都合で、程よく「頭が悪く(行動の不合理性が)」設定されていて、自分と弟の将来を、まともに想像することもできない「15歳」としか描かれていないのである。

しかし、物語世界に「巻き込まれてしまっている観客」は、そうしたことが(これに限らず)「見えなくなっている」し「考えられなくなっている」。そして、しばしばそれは、物語から終ってもまだ、そこから醒められない「思考停止の呪縛」なのだ。

このように「主人公に感情移入し、作品世界に没入することで、そのスペクタクルから脳的刺激を受けるだけの、受け身の観客」たちは、作品に「(思考を必要とする)複雑な中身」を求めたりしないし、もとよりそんな作品には「思考に値する中身は、存在しない」。なぜならそれは、そうした要素の存在が、かえって「本能的な快楽刺激の受容」の妨げになるからである。

『天気の子』に、「本能的な快楽刺激の受容」の妨げとなる「思考的要素」が排除されているというのは、この作品には「隣人がいない」という点にも表れていよう。
ここで言う「隣人」とは、無論、単なる「近所に住んでいる人」という意味ではなく、「近いところにいる他者」という意味であり、「他者」とは「違った価値観を持った、一個の人間」であり「主人公(たち)の価値観を相対化する存在」という意味である。
つまり、『天気の子』に描かれた「主人公周辺の登場人物」のように「主人公を追認し(最終的には)全肯定する、ご都合主義的な(作者の)道具」ではなく、作者と主人公の「虚構の全能」を相対化する「外部の投影」としての存在である。

それは私が先ほど、陽菜について『冷静に考えれば、「15歳」の彼女が「弟と二人だけで生きていくことはできない」というくらいのことは、その年齢にもなればわかるはずだ(例えば、金銭的・手続き的に、弟を学校に通わせることが出来るだろうか)。多少の遺産があったとしても、マクドナルドでのアルバイト代だけで生きていけるほど世間は甘くないし、だからこそ彼女も「あやしい仕事」に手を出しかけたのである。それをたまたま、思い込みの激しい帆高が妨害したから良かったようなものの、あのままだったら、ただの「水商売」では済まず、いずれは金になる「売春」に走らざるを得なかったかも知れないし、その果てに悪い人間に捕まって「覚醒剤漬け」にされたかも知れない。弟と二人で生活を、などという「夢のような話」ではない「現実」が、あのままだったら、確実に待っていたのである。』と書いたような「外部の知」を持ち込んで、作品の「ご都合主義」を批判することで、作品の「強度」に貢献する存在、それが「隣人」であると言えよう。
こうした「外部の知」を持ち込んでもなお、ボロが出ない、破綻をきたさない作品こそが「本物の傑作」なのである。それこそが、「リアルな外部世界」と伍することのできる、「もう一つの完結した世界」であり得るのだ。

だが、『天気の子』が(新海誠監督が)やったのは、「隣人」を排除し「外部の知」から目を逸らして、自分一個の「自己愛的閉鎖世界に引き蘢って、そこで勝ち誇る」ことだけだった。

たしかに、こうした娯楽作品は「原始的な快感」をあたえてくれるし、そうした「現実逃避」も、時には必要であろう。私とて、娯楽作品が嫌いなわけでも、観ないわけでもない(例えば、アメコミ映画などは大好きである)。
だが、娯楽作品にも「出来不出来」はあるし、また「優れた娯楽作品」というものは「現実逃避」の具であるに止まらず、むしろ「現実」に生きる力を与えてくれる作品であることも少なくない。
「私は、この映画の主人公のように、特別な才能も力も運も無いけれど、しかし、彼のように生きようと努力することは出来るはずだ」と思わせてくれる「積極的・能動的な中身」がある。

ところが、新海誠の作品には、それがない。
デビュー作でも、そして最新作『天気の子』でも典型的に示されているとおり、そこに描かれているのは「大人はわかってくれない(世界は僕たちに冷淡だ)」的な「被害者意識」、「他者」に責任を転嫁して、自分を正当化しようとする「自己憐憫的な独善」でしかないのである。

たしかに、「思考する」ことを要求せず、ジェットコースターのように、単純に「刺激」を与えてくれるような作品とは、「楽しさ(快感)」とあたえてくれる作品だ。しかし、それには「思考に値する、中身が無い」ので、通常はそれを「すぐれた作品」とは評価しない。

「ハリウッド型ジェットコースタームービー」などと呼ばれる作品は、「娯楽」に徹した作品として、その「芸術性」が問われることなど滅多にないし、問うこと自体、ある意味では的外れだと考えられている。
それは、子供ウケの良い「味の濃い駄菓子」であり、「駄菓子には駄菓子なりの存在価値」があって、それを「訓練された舌(味覚)」を前提にした「高級菓子」と同列にあつかうのは、そもそもその「違いがわからない人」だけだ、ということになるからである。
だが、そういう「味覚オンチ」は少なくない。意外に、「訓練」されずに育った「子供舌」の持ち主は少なくないし、同じ意味で、複雑微妙な内容を味わいきれない「子供脳」の大人というのも少なくないのである。
そして、その証拠が、『天気の子』の大ヒットなのだ。

 ○ ○ ○

かつて日本で「一億総白痴化」ということが叫ばれた時代があった。
Wikipediaによるとこの言葉は『社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いの言葉』で『もともとは『週刊東京』1957年2月2日号』に掲載された、大宅の論評から生まれた言葉だそうだ。

この半世紀以上も前の時代、テレビが普及したことによって、「一億総白痴化」が危惧された。
そう危惧したのは、無論、大宅壮一に代表される「知識人(有識者)」であり、当時はまだ、情報や言論においては「知識人(占有)の時代」であったからこそ、テレビによる「情報の大衆化という、知の劣化」が危惧されたのであろう。
しかし、我々が直面している現在は、ネットの出現によって、情報や言論においても「知識人(有識者)」が抹殺された「超大衆化の時代(ポピュリズムの時代)」だと言えよう。もはや、私たちは「知識人(有識者)」の意見なんか気にせず、ネット上に「自分好みの意見」を見つけてきて、それで満足する時代なのである。

つまり「異論」は必要ないのだ。いや、「異論」など目にしたくはない。「私の価値観」を相対化するような「隣人」や「他者」の存在など、無いことにしたい。ただ「自分の価値観を肯定してくれるもの」だけに接していたいのだ。言い変えれば、「安全な自分の部屋に引き蘢っていたい」のである。
だから、たまに「知識人づらした、ウザい大人」が目に入いるテレビなどは視ない。情報に対して、選択的に接することの出来るネットの方が「気が休まる」のである。

そして、『天気の子』に典型される「新海誠作品」もまた、こういう「引きこもり」精神が生んだ「セカイ妄想」の具現化に他ならない。
だから、同じような願望(「嫌なものは視たくない」という願望。さらにそれをも通り越して「そんなものは存在しない」と思い込もうとする態度)を持っている現代人には、「新海誠作品」は最良の「自慰の具」なのであろう。

昨今「日本は凄い!」系の自慰的な書籍やテレビ番組が多くなったのも、同様に心性に由来するものなのであろう。今の日本人は、とにかく「自己肯定」したいのだ。「俺、サイコー!」と思いたいのである。

しかしそれは、本物の「自信」に発するものでないことは明らかであろう。
本来、日本人の美徳とは、他人に誉められても「いえ、そんなことはありません」と謙遜するような謙譲の美徳であり、しかしそこには本物の自信があった。わざわざ人様(他所様)に誉めてもらわなくても生きていられるという自負があったのである。
ところが、他人からの賞賛に謙遜してみせるどころか、露骨な「自画自賛」を恥じないのが、今の日本人なのだ。では、なぜそんな恥ずかしいことが出来るのかと言えば、それは多くの人が、それぞれの「自慰的なフィクション」に引き蘢っていて、外部の眼を排除しているからであろう。「人様から視れば、自慢話をする人間は、馬鹿にしか見えない」という「外部の視点」を喪失しているのだ。

しかしまた、だからこそ『天気の子』は大ヒットしたのだし、それに止まらず『天気の子』を「傑作だと思いたい人」が大勢いるのである。

だが、それは「『天気の子』という作品を、傑作だと評価している」と言うよりは、「私が共感する『天気の子』という作品が、傑作ではないはずがない(私の評価は正しいに決まっている=私に鑑賞眼が無いはずがない)」という、切実な「自己肯定願望」から出たものだと考えるのが、妥当なのではないだろうか。もしもそうではないとしたら、そういう人は、「異論」に耳を傾けることも出来るはずなのである。

いずれにしろ、このような意味で、『天気の子』に代表される「新海誠」作品の大ヒットは、「時代の病理」の反映だと言っても、あながち過言ではないはずだ。

そして、このように「時代の欲望に迎合しない、超然たる視点」こそが、批評的な「外部の視点」であり「大人の眼」だ。
それは「子供たちよ、物語の世界にひととき遊ぶのは良い。しかし、物語が閉じれば、またこの世界に帰って来なくてはいけない。君が生きる世界は、ここなのだから」という、帰還を促す言葉なのである。

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〈趣味の問題〉ではなく 一一Amazonレビュー:保坂和志『読書実録』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時32分7秒
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 〈趣味の問題〉ではなく


 Amazonレビュー:保坂和志『読書実録』
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ひさしぶりに保坂和志を読んだ。デビュー作から順にというわけではないが、どうした理由でだったか、単行本刊行時に読んだ『季節の記憶』が抜群に面白かったので、そこから遡ってデビュー作や、前後の小説や評論を読んだのである。
当然のことながら、そのすべてが面白かったというわけではなかったが、評論の方にけっこう面白いものもあったため、小説も評論も初期の作品はたいがい読んだと思う。
その後、しばらく時間が開いてから読んだ『カンバセーション・ピース』が期待したほどには面白くなく、あの分厚さがかえって冗漫さを増したと感じたので、その後の新刊も小説をときどき購入してはいたものの、すべて積読の山に埋もれさせてしまった。

だから、今回、保坂和志を読んだのは、本当にひさしぶりのことだ。なぜ、ひさしぶりに読んだのかと言えば、最近知り合った、二十ほど歳下であろう友人に、保坂の新刊である本書を薦められたからである。
その彼が言うには、最近の保坂和志は、結構アグレッシブで、世間に物申したりしており、古いファンに疎まれたり見放されたりしていると言うのだ。それは面白い。
保坂和志がかつての保坂和志のままなら、いまさら読まなくてもいいのだが、あの保坂和志が変わった、しかもアグレッシブにというのであるから、これは一見の価値があると思って、友人に薦められるままに本書を手に取った、という次第である。

で、どうだったかと言えば、それなりに面白いことを書いているので、面白いことは面白いのだが、それらはいかにも保坂和志らしい意見であって、昔と変わったという印象はない。しかも、基本的には、同じことをネタを替えながら変奏するばかりなので、後半はやや飽きてきた。
まあ、作家は同じことしか書けないものだと言えば、なるほどそのとおりなのだが、同じことを書いても楽しませるのが作家の力量だとも言えるだろうから、やはり飽きさせるというのは、工夫や力量が足りないということになるだろう。

前述の友人も指摘しているとおり、保坂和志という人は、真っすぐに進むことが嫌いな人である。だから、蛇行したり、寄り道をしたり、裏に回ったり、薮に踏み込んでみたりもする。そして、目的地らしきものへの到達を避けて、数歩手前で意図的に立ち止まって見せたりもする。
そうしたこと自体は「変化球」なのだから、面白いに決まっているのだが、変化球ばかり投げていたら、いずれはバッターに「保坂ならきっと、ここはこう投げて(書いて)くるだろう」と手筋を読まれ、ヒットされてしまうというのも当然なのである。しかし、読者に先読みされ、それで退屈されたり飽きられるというのは、推理小説で読者にオチを見抜かれるのと同様、作家の負けである。
こう書くと、保坂は「読書は勝ち負けではない」と言うのかも知れないが、保坂自身が認めるとおり、小説に良し悪しや巧拙があるのだとしたら、読者に飽きられるようなものを書くというのは、作家として「悪し」であり「拙」であり「負け」だと言われても仕方あるまい。また、保坂の好きな「夢」とは、先読みさせない点(夢の文法)に魅力があり、それは文学だって同じで、そう簡単に読者に先読みされるようではダメなのである。
もちろん、私がすぐに飽きて退屈してしまったのは、私が、保坂和志という作家を、ある程度は読んできたからであり(つまり、初読の読者ではないからであり)、かつ「同じようなものを読むことに、喜びを感じるような読者」ではなかったからであろう(「ばっかり」読者ではないのだ)。私は保坂和志のような変化球投手が好きなのだが、同じ球種しか投げられないのでは、飽きないでいろと言う方が無理なのである。保坂だって、同じようなことばかり書いている「自己模倣」小説家なんて好きではないはずだ。

もっとも、保坂和志の「趣味」は、かなりハッキリしており偏っているので、同じようなものが好きと言えば、私よりは余程そうであろうとも思う。
私は「変化球」投手が好きだと言っても、だからと言って「豪速球」投手が嫌いなわけではないし「直球勝負」が嫌いなわけではない。いや、むしろ大好きである。平たく言えば、「変化球投手」も「豪速球投手」も好きだし、さらに欲を言えば「両方とも投げられる投手」が理想である。野球でもそうだが、直球が切れるからこそ変化球も生きるのだ。
だから、どっちにしろ、ワンパターンで飽きられるとか、すぐに眼が馴れてしまって球筋を読まれてしまうような投手というのは、変化球投手であろうが直球勝負の投手であろうが、それぞれの特質において「中途半端」でしかないのだ。変化球にしろ直球にしろ、眼が馴れるなんてことがないほどのものであってこそ、わざわざそう名乗る価値もある。すぐに打たれるような「変化球」投手や「直球勝負」投手では、そもそも意味がないのだ。

そんなわけで、保坂和志に期待したいのは、「直球は嫌い」とか「小説は理屈じゃない」とか、それはそのとおりで良い、その「理屈」もありだと、私は、どっちの立場も広く認めるのだが、しかしそれはどっちの立場であろうと「面白くなければ話にならない」「退屈させるようでは話にならない」ということでもあるので、自分の好みや趣味が生きるようにするためにも、ライバルである「直球」や「理屈」の力を、よく知りもしないで侮ることは止した方がいいと思う。
程度の低い敵を設定して、それに比べれば、こっちのほうが断然面白いとか、こっちこそが文学である、などと言っても、それは偏ったものしか読んでいない読者か、ろくなものを読んでいない読者しか、納得させることは出来ない。

世界は広いのだ。そして「文学は何でもあり」なのである。しかし、それは「良し悪しや巧拙など無い」とか「傑作も駄作もない」つまり「すべては、趣味の問題でしかない」ということでは、無論ない。
読者の方に「鑑賞能力の限界」はあるだろうが、作品の方は無限に生み出されているのだから、いろんなタイプの傑作があるのだという現実は、認めて然るべきだろう。たとえ、自分には「わからないもの」があったとしても、である。だって、神さまじゃあるまいし、「わからないもの」は当然あるのだから。

保坂自身も、自分の「趣味の偏り」や「能力の限界」について、まったく無自覚なわけではなく、「昔から、こうだった」とか「三島由紀夫の某作品を読むのが苦痛だった」とか「ストーリ性豊かな作品を読むのはつらい」とか言ったことを書いてはいる。
しかし、それがそのまま「私の趣味じゃない」ということで無条件に肯定されており、「自分には見えない世界がある=自分には感受し得ない美がある」という事実を、本当のところでは、頑なに認めてはいない。認めたくないから、自分好みの作家を掻き集めてきて、その「権威」によって、自分の「趣味」を権威づけているだけなのである。だからこそ、保坂和志の「変化球」は弱いのだ。飽きが来るのである。

そんなものは「嫌いだ」とか「書きたくない」とか言うだけではなく、「好きになれない(感受性がない)」とか「書けない」と言い変えることも、保坂和志の場合には必要なのだと思う。
もちろん、賢い保坂は先回りをして、「こうしか生きられない」という表現は、言葉の規定力(「書かないのではなく書けないのだ=表現されなかったものは、そもそも存在していない」という規定性)に縛られて、潜在力の可能性を「無いもの」とするものだ、と批判しているけれども、当然のことながら、小説家としての潜在力なら、小説家では無い「すべての人」も持っているのだから、それは当たり前のこととしてひとまず置いておいて、「小説家のことは小説家しかわからない」という規定によって規定されている「小説家」である保坂和志には、潜在力を発揮してみせて欲しいのである。
果たしてこれは「無理な注文」なのだろうか。

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プロテスタントの〈ペルソナ〉:佐藤優批判 一amazonレビュー:佐藤優『日本国家の神髄 禁書『国体の本義』を読み解く』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時14分51秒
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 プロテスタントの〈ペルソナ〉:佐藤優批判


amazonレビュー:佐藤優『日本国家の神髄 ~禁書『国体の本義』を読み解く~』
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本書は、いくつかの重大な問題点と欠点をはらむ書物だ。だから、とうてい高く評価することはできない。

だが、先に評価できる点を指摘しておこう。
戦後に占領軍から、戦前の天皇制国家イデオロギーの解説書として禁書あつかいにされて以来、戦後民主主義には馴染まない禁断の書として読まれなくなってしまった『国体の本義』を、全文紹介した、という本書の功績は極めて大きい。
それは、『国体の本義』という「日本の国体」解説書が、どのようなものであったかを、「客観的資料」として提示し、その実態を広く知らしめたという点においての価値である。
私たちは今後、『国体の本義』を、又聞き情報や漠然としたイメージで語るのではなく、手軽に原テキストに照らして語ることができるようになったのだ。

したがって、これは『国体の本義』の「中身が素晴らしい」という評価ではない。あくまでも、本書の功績は「資料提示」としての価値であって、「資料=『国体の本義』」そのものの中身の問題ではないのである。
私たちは今後、『国体の本義』という本の「幻想」に脅かされる必要はなくなった。隠されているからこそ、すごいことが書かれていたのではないか、などという過大な想像を無駄に膨らませなくてもよくなったのだ。いまや『国体の本義』は、佐藤優の評価とは違って、「幽霊の正体見たり枯れ雄花」だと評価することが、容易にできるようになったのである。

では、『国体の本義』の正体とは何か。
簡単なことである。
『国体の本義』とは、天皇家は「高天原から降臨した神(アマツカミ)の系譜」だとか「アマテラスオオミカミ直系の万世一系の家系」だとは「だから、天皇は現御神(アキツキカミ)」だとかいった、世界のどこにでもある「勝者の(捏造した)歴史フィクション」としての「政治神話」を基盤とした、日本は「天皇を長とする家族国家(=国体)」だという「奇麗事」によって、国民を自主的に国家に従属させようとした「政治イデオロギーの書」にすぎない、ということだ。

では、佐藤優による本書『日本国家の神髄 ~禁書『国体の本義』を読み解く~』の問題点とは何か。つまり、著者・佐藤優の問題点とは何か、というと、おおよそ次のようなことになる。

(1)「日本の国体」である「天皇を長とする家族国家」というのが、「歴史的事実」ではなく、「信仰的事実(信じる人の内心の事実)」でしかないと理解していながら、それを「日本(国民全体)の国体」であると認め、強調してしまっている点。
(2)「読み解く」という立場から、過剰に『国体の本義』の著者の立場に、擬似的に、自分の立場を寄せて書いている点。
(3)意図的な「迎合」で、保守層をコントロールできるという「慢心」に基づいて、演技的な「外交官的綺語」を弄し、結局はそちらに引き摺られている部分について、十分に自覚的ではない、という点。

この3点について、順に説明していこう。

まず(1)についてだが、『国体の本義』が語っているのは、前記のとおり「神話というフィクションに基づく奇麗事」でしかない。つまり、その奇麗事を支える「現実的な根拠」が無い。したがって、そこで語られる「奇麗事」は、現実にはそのまま実現しない(通用しない)。そのため、その「奇麗事」が「建前」にしかならず、その「奇麗事」を語る国家の側(統治者側)の人間は、おのずと「本音と建前」を使い分けるようになる。つまり、国民に「嘘をつく」ようになる。その結果が、「神国日本の惨めな敗戦」という「あり得ないはずの現実」の招来であった。

こんな惨めな結果(現実)を招いたのは、国民を騙した権力側の人間が悪い、というのは無論だが、そもそも「日本は神の国」だとか「天皇は神の末裔で、生ける神」だとかいった、馬鹿馬鹿しいほど「自己中心的かつ自己満足な寝言」を信じた国民も、大いに(頭が)悪いのである。
当然、そんな馬鹿馬鹿しい絵空事を信じなかった人も大勢いたし、今だって、そんな馬鹿馬鹿しい絵空事を「国体」だなどともっともらしく言われたって信じない、まともな知性を持った人は大勢いる。

それなのに、佐藤は本書において、信じる人も信じない人も引っ括めて、「神である天皇を冠する家族国家という国体」という「ご都合主義的フィクション」を、「信仰的事実」の名のもとに、「日本の国体だ」と断じているのだから、そんなものを信じていない人間にとっては、いい迷惑であり「お前の信仰を、勝手に他人にまで押しつけるな」ということにしかならないのだ。

(2)について。佐藤優は、決して馬鹿ではない。とにかく博識だし、外交官としてロシアの政治家や外交官と渡り合ってきた人なのだから、現実というものも、人並み以上に分かっているはずだ。だからこそ、本書にも書かれているように「右の言説は、右でしか崩せない」と言った考えを持っている。
要は、いくら理屈を言ったところで、論理的な正しさだけでは、他人の確信を覆すことはできない。それをやりたいと思うのなら、まずは相手の懐に入り、信頼を勝ち得た上で、相手の理屈を逆手にとることで「納得」させるしかない、という、いかにも「外交官」的な理屈の持ち主なのである。

当然、本書でも、佐藤は「私は右翼である」と断言する。読者の中には「あれっ、佐藤優って、どっちかと言えば、左翼リベラルじゃなかったっけ?」と思う人も少なくないはずだ。その認識は、基本的に正しい。
ただし、「左翼リベラル」だって人間なのだから、何から何まで「すべて左翼リベラル的思考」の持ち主だというようなことではあり得ない。基本的に「左翼リベラル」で、そう自称し他称される人であっても、「右翼・保守」的な部分は必ずある。それが人間なのだ。
だから、佐藤優が「私は右翼である」と言ったとしても、あながちそれは「嘘ではない」。正確に言えば「完全な嘘ではない=一面の真実である=一面の真実に過ぎない」ということなのだ。
まして、本書の佐藤には「右翼の懐に入って、彼らの思想をより良き方向に教導する」という政治的な大目的があるのだから、「私は保守・右翼である」という断言が少々ハッタリがましいものだとしても、「自分は誤解されているところがあるかも知れないけど、本質的には右翼であり保守なんですよ。だって、日本を守りたいと思っている人間ですからね。その意味では、あなたたちの仲間なのです」とアピールするのも、過剰なほどに「国体」や『国体の本義』を持ち上げてみせるのも、すべて「任務遂行」のためには必要なことなのである。なにしろ「外交官」なんだから、祖国のためには「嘘も方便」なのだ。

つまり、佐藤優が、右翼が喜ぶように「国体」を全肯定したり、『国体の本義』を持ち上げてみせるのは、そうすることで、「今の保守や右翼の偏狭さ(排外主義的復古趣味)」という問題点を是正するためなのである。「天皇を冠する日本の伝統とは、本来、外部に関して寛容であり、むしろそれを積極的に消化吸収する柔軟性にこそある(のだから、愚かな排外主義や、先祖帰り的な復古趣味は、大間違いである)」ということを言いたいのである。
無知で愚かな「今の保守や右翼の偏狭さ(排外主義的復興趣味)」を是正できるのであれば、「国体」を承認し、『国体の本義』を長所を評価することくらい、なんら怖れるに足らぬ、なにしろ「馬鹿と鋏は使いよう」なのだから、というのが、したたかな「外交官的知」に自負を持つ、佐藤優の「本音」なのである。

(3)について。このように、佐藤優は「国を守る為ならば、人を騙すことも辞さない」人であり、まして「完全な嘘はついていない。ある意味では本音を語っている、とも言えること、しか語っていない」というように、自身をメタ的に多層化して、自他に対して、自己を正当化してもいる。これは、他人を騙すだけではなく、まずは自分を騙すという「騙しの高等テクニック」なのだ。
言うまでもないことだが、どんな嘘つきでも、無意識のうちに「やましさ」を感じているもので、それを感じないのは「サイコパス」のような「人格的な部分欠損者」であると言っても良い。そして、佐藤は決して「サイコパス」ではないので、嘘をつくにしても当然どこかで「やましさ」を感じないではいられない。しかし、鋭敏な人間というのは、その隠された「やましさ」を鋭く嗅ぎつけるもので「こいつは嘘をついている」と直観してしまうのだ。だから、そういう人間にも「本音」がバレないようにするには、一時的に「本音」を消してしまうと良い。存在しないものを、他人に感知されることはないからである。そして、この「一時的な本音の消去」という技法こそが「自己暗示」なのである。「私は心の底から、それを信じている」と自分に言い聞かせて、一時的に「他人格者(他の思想の持ち主)」になりすますのである。これは優れた外交官として「インテリジェンス(諜報活動)」に従事していた佐藤なら、とうぜん備えている技能なのだ。

そして佐藤が、このような「自己暗示」に並外れて長けているというのは、彼が「プロテスタントのキリスト教徒」であることが、大きく関係している。
と言うのも、言うまでもなく、「現実主義的理性」と「キリスト教の信仰的教義(キリストの復活、三位一体の神など)」は、明らかに「矛盾」するのだが、これを両立させている人というのは、基本的に「自己欺瞞の術に長けた人」でなければならないからである。

例えば、キリスト教と言っても、カトリックの場合だと「神と信者である私の間には、教会が仲保者として存在する」ために「教会の指導に反する、嘘はつけない(教会が認めれば、それは神が認めたということだから、嘘もつける)」ということになるのだが、プロテスタントの場合は「神と信者である私」は直結しており、その間に入るものは無い。「信者である私」は、ただ「(自分の考える)神」に忠実でありさえすれば良いのだから、その「忠実さ」には、解釈の余地が無限に存在する。だからこそ、カトリックとは違い、プロテスタント教会は際限なく分裂するのだし、それは「誤り」ではなく、むしろ「信仰的誠実さ」の表れということにもなるのである。

したがって、人間として生きる本質の部分である「信仰」において、このように「現実主義的理性」と「キリスト教の信仰的教義(キリストの復活、三位一体の神など)」は「矛盾しない」という過酷な論理的自己鍛錬を重ねてきた佐藤優にとっては、「左翼リベラルであること」と「保守主義者(右翼)であること」は、当然「矛盾しない」ということになる。
つまり、佐藤は「神と私自身」に対し、しごく誠実に「私は、ある時には左翼リベラルであり、別のある時には右翼であり保守である。これはなんら矛盾ではないし、嘘をついているわけではない」ということになるのだ。

しかし、問題は、それは「佐藤優の内的論理」でしかなく、平たく言えば「個人的都合」でしかない、という点だ。
つまり、現実社会のおいて、他者に対して、その「何とでも理屈はつけられる」という態度で、その場その場の理屈を平然と口にするというのは、他者にとっては「不誠実きわまりない言葉」であり「態度」でしかないということになるし、当然こちらの方が、健康的な考え方なのだ。つまり、佐藤優の論理は「信仰的に病んだロジック」だと呼んで然るべきものなのである。
だからこそ、最近の佐藤は、本書のような自著について、


『私はいろんな形で、イタズラみたいな仕掛けの本を書いています』
 (『君たちが知っておくべきこと 未来のエリートたちとの対話』より)

と書いて、自己正当化をしている。
あれは「イタズラ」みたいなものであり、決して「相手を騙そうとか、裏切ろうとか、傷つけようとかしたものではないんですよ」という、言い訳なのだ。
(※ 本書『日本国家の真髄』は、2009年初刊、2014年新書化。『君たちが知っておくべきこと』は、2016年初刊、2019年文庫化)

しかし、相手が誰であれ、無知で愚かな「右翼であれ、左翼であれ」、佐藤優のこの「言動」は批判されてしかるべきである。それは、佐藤自身の想定する「我が神」という「不在の存在」が許しても、血肉を備えた人間の間では許されてはならない「非倫理」なのだ。

例えば、本書において佐藤優は、「国体」論者として、次のように書いている。


『 神武天皇は、大和(奈良)の橿原に都を定められた。天業の回復である。この出来事によって高天原の神々の精神が、現実の歴史に形をあらわすようになった。このときを基点として皇紀が現在で二六六九年続いているのである。われわれはこの現実を感謝して受けとめなければならない。』
(本書新書判、P187)

神武天皇は、天皇家の万世一系を正当化するために創作された、架空の人物である。しかし、明治政府は、その「政治的フィクション」を補強するために、巨費を投じて橿原神宮を創建した。
しかし、そのために、もともとその地に住んでいた、被差別民を含む多くの貧しい人たちの部落が、神武天皇を祀る土地に「ふさわしくない」「見苦しい」をいう理由で、強制的に排除されたという歴史が、厳然と存在する。

そして佐藤は、そんな人たちもすべて引っ括めて、「天皇を長とする家族国家」という「国体」が、日本人全体のものであり、日本国民ならば『われわれはこの現実を感謝して受けとめなければならない。』と言うのだ。
ならば、沖縄の「辺野古の基地建設」のための埋め立ても『われわれはこの現実を感謝して受けとめなければならない。』ということにはなるまいか?

無論、佐藤は「そのつもりはない」と言うだろうが、しかし「橿原の地」に対する、この「無神経な記述」を、保守・右翼を気取って書いたからには、その責任をとってから、「そのつもりはなかった」と言い訳すべきではないだろうか。

これは「上手の手から水が漏る」というような言葉で済まされる問題ではない。
これは、佐藤が、他人をコントロールできるという「慢心」において、自己の「他者に対する不誠実」を自己正当化したあげくの、必然的な過ちなのである。

佐藤の「理想や現実主義」を否定しようとは思わない。むしろ、それを支持するからこそ、その「負の面(犠牲)を見失うな」「己が力量に酔うて、道を誤るな」と言いたいのである。

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〈可愛い〉は最強…。一一Amazonレビュー:遠藤達哉『SPY ×FAMILY(2)』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時10分33秒
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 〈可愛い〉は最強…。

 Amazonレビュー:遠藤達哉『SPY ×FAMILY(2)』
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これだけ評判も高く、よく売れている作品を、いまさら後追いで褒めるというのは、批評家を自認する者のすることではない。そう考えて、第1巻ではレビューを控えたのだが、今回、第2巻を読み、少し気づいたことがあったので、手短に書かせていただくことにした。

本作では、とにかくアーニャが可愛い。本作のファンとは、アーニャの魅力にやられた人が大半なのではないか? かく言う私自身そうなのだが、今回気づいたのは、〈可愛い〉のは、アーニャひとりではなく、「ちち」「はは」は無論、主な登場人物が全員〈可愛い〉ということだ。

作中人物の魅力というのは、当然のことながら、なにも〈可愛い〉に限られるものではない。〈カッコイイ〉でも〈シブい〉でも〈クール〉でも良いのだが、本作に関しては、全員〈可愛い〉のだ。

〈可愛い〉が最強だというのは、よく言われることだが、しかし、なぜ〈可愛い〉が最強なのだろうか。
それはたぶん、頭を使わなくてもいいからだろう。

様々にある魅力は、しかしたいがいの場合、一定の想像力や理解や共感といった知的作業を、無意識にではあれ行った上でのものなのだが、しかし〈可愛い〉という生理学的反応は、そうした知性を介するものではなく、種を存続させるという目的において、生物にとって、最も本源的かつ直接的なものなのだ。だから、強い。迷いがない。
それは、いちばん簡単に押せる脳内スイッチであり、そこを押されれば、否応なく快楽ホルモンが脳内でドピュドピュ放出される。
そこで読者は、脳内麻薬によって、あっさりと「可愛い!」そして「守りたい」と反応させられて、嫌でも(?)本作を褒めないではいられなくなってしまうのだ。
つまり、〈可愛い〉は、最強の魔力であり、作者はそれを操るのが得意な魔術師なのだと言えよう。

悔しいが、〈可愛い〉の魔力には抗えない。
これが私の、ささやかな抵抗である。

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〈フランケンシュタインの怪物〉的エセ宗教 一一Amazonレビュー:村上重義『国家神道』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時09分11秒
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 〈フランケンシュタインの怪物〉的エセ宗教

 Amazonレビュー:村上重義『国家神道』
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名著中の名著であり、すでに古典である。1970年の初刊でありながら、このような「学術書」が、半世紀後の今も新刊書店で売られ、読み継がれているというのは、生半なことではない。

本書についてのAmazonレビューを見てもわかるとおり、本書を高く評価するレビュアーであっても、本書の並外れた「歯ごたえ」に言及せねばならぬほど、本書の充実度は並外れている。
当今のごとく、新書というのは「読みやすい学術入門書」だと思われている感覚からすると、この厚くもない230ページほどの本には、今どきの新書の10冊分くらいの内容が、ぎゅっと凝縮されており、「一章一章が」と言うよりも「一節一節が」数冊の専門書の対象になるような中身を、簡潔に語っているのだ。

当然、まともに学術書を読んだことのない人には、ほとんど頭に入って来ないであろう内容である。つまり本書は、ある程度の予備知識があってこそ、それなりに読み解けるのであって、それがない人(日本の宗教史初心者)には次々と専門用語や聞き慣れない言葉が、目の前を流れて行くだけ、といったことにしかならないだろう。
したがって、否定的評価をしている人というのは、まず間違いなく「理解できなかった」か「イデオロギー的に理解しようとしなかった」かの、いずれかだと見て間違いはない。
なにしろ、あの松岡正剛ですら、初めて本書に接した若き日には、その織り込まれた意味の重みを、十分に咀嚼し得なかったと語るほどなのだから、政治イデオロギーの「左右」を問題としているようなレベルの読者に、本書が読み切れるわけなどないのである。

 ○ ○ ○

本書は、明治政府によって創作され太平洋戦争の敗戦によって廃止されるまでの約80年間、日本国民と周辺諸国民に対し猛威を振るった「政治イデオロギーとしての国家神道」について、そのベースとなった「宗教としての神道」の誕生から、順序だてて書かれた「基本書」だ。

「国家神道」の政治性とその問題点については、日本の近代史を多少なりとも齧った者であれば、おおよそのところは知っているだろう。
しかし、「神道」がどのようなものなのかというのは、宗教学の範疇の話であり、また、そのかなり複雑な形成経緯からしても、「ほとんどの日本人は知らない」と断じても良い。
「神道」というのは、もともと他の宗教と同様に「あらゆるものに霊が宿る」と感じるアニミズム的なものに発して、徐々に多様な内容を含む民俗宗教として発展した後、外来の宗教や思想(仏教・儒教等)と習合して(入り交じって)、どんどん変貌を遂げたいったもの(概念運動体)で、「神道の基本形」といったものは、もとより「存在してはいない」のだ。
そしてそれが、キリスト教やユダヤ教、イスラム教といった「偶像崇拝否定」の一神教とは大きく違った特徴であり、「神道」というものを分かりにくくしている原因なのである。

言い換えれば、「要素としての神道的なもの」は存在していても、「正統神道・純粋神道」というようなものは存在しないのである。
神道は、その時代時代に、いろいろな思想や宗教と、さまざまな必要に応じて、習合し変形生成されて、形を変えながら生き延びて来た「ハイブリット宗教」なのだと言えよう。

このような「宗教として神道の、宗教的異質性」は、ある意味では、いかにも「日本人的なもの」だと言えるだろう。


『日本人の発想の根底には、人間の意思よりも物事のなりゆき、筋道や道理よりもその場の勢いを重んじる傾向がある、(※ 本居宣長に学ぶことで)そう丸山は考えていたようだ。言ってみれば、主体性が乏しいということだ。その主体性の乏しさが政治の場で作用すると、政治的な無責任がはびこるようになる。丸山が日本ファシズムと名づけた戦時中の全体主義的な体制は、そうした無責任が生み出したものなのだ。そしてこの無責任さをもたらした根本的な要因こそ、なりゆきやいきほひを尊重する日本人の思考の枠組みなのだ。その思考の枠組みを丸山は歴史意識の古層と名づけ、これが記紀の時代から今日までの、日本人の思考を制約してきた、そう考えるのである。』
 (引地博信「つぎつぎとなりゆくいきほひ:丸山真男「歴史意識の古層」」)

つまり、「神道」とは「つぎつぎとなりゆくいきほひ」であって、通時的には「明確な輪郭や実態をもたない、融通無碍な概念」でしかないのである。


『ことほどさように丸山の日本人論は、読む者の気を滅入らせるほど否定的な体のものだ、といいたくなるところだ。丸山の言い分に一理あるとすれば、日本人には真の保守主義も、また理想主義も期待できないことになる。過去を尊重しないでは、保守主義などありえようはずがなく、またユートピアを考え出す想像力に欠けていては、理想は語れないからだ。』(同上)

厳密に言えば、遡るべき「原型」としての「純粋神道」といったものは、歴史的には存在せず、当然、保守すべき「伝統形式」や「理想」もまた、どこにも存在していない、ということになる。
したがって、もしもそれを、さも存在するもののごとく語る人がいたとすれば、その人の語る「神道的伝統や理想」とは、恣意的に選択された(切り採られた)「私的な神道概念」でしかない、ということになるのだ。

ともあれ、こうした「変形変態をくりかえす宗教としての神道」の歴史にとって、明治政府の政治的意図による「脱構築的な政治的再創造」は、日本の歴史において前例を見ない、徹底的な「宗教の改造」であった。
それは「神道」というものが、歴史の過程で変化してきたった中でも保存されてきた、ある種の「主体性」すら、日本の近代化と帝国化を意図する明治政府という「政治権力(世俗権力)」によって、いったんは完全に解体され、要素還元されて、政治的に不要不都合な部分は捨て去られ、都合の良い部分だけをつぎはぎにしてでっち上げられた、宗教としては「異形」と呼んでいい「政治的な人造宗教」だったと言えるのである。


『 だいたいこのあたりで、いったい国家神道がどういうものであろうとしたのか、実際にはどのように機能したのか、おおかたのところはほぼ見当がついただろうと思う。古来の神祇感覚とはかなり異なった「惟神の大道」が、資本主義国家の国体として顕示されたのだ。それが近代国家のエトノスになっていったのだ。
 これは奇蹟であるようにも思える。こんな荒唐無稽が近代国家に確立したことは、いまではとても考えられないことだ。しかしよくよくふりかえってみると、キリスト教による国家というものも、つねにこのような奇蹟をはたそうとしてきたわけである。国家が価値観を表明するときは、どんな国家であれ、その長きにわたる歴史の紆余曲折の経緯から勝手なロジックを取り出して磨きあげるものなのだ。』
 (『松岡正剛の千夜一冊』1190夜「村上芳重『国家神道』」)

本書で、村上重義が「国家神道」とは、近代において政治的にでっち上げられた「政治的イデオロギー装置」であって「歪められた(不健康で、自立性を欠いた)宗教」である点を強調しているのは、宗教学者として極めて自然な態度だと言えるだろう。
村上は、決して「宗教」そのものを否定してはいないし、当然「宗教としての神道」も否定してはいない。村上が強く否定するのは「時と場合に応じて、宗教性と非宗教的習俗性のダブルスタンダードを使い分ける、政治的なエセ宗教」としての「国家神道」であり、残念ながら、私たちが現在目にしている「神道」の多くは、そんな「国家神道の残党」なのである。

具体的に言えば、「神社本庁」とは「国家神道の栄華よ、もう一度」と狙う「宗教政治屋」の組織であり、だからこそ「日本会議」や「ネット右翼的保守」などとも容易に結びつき、神宿る国土を汚す「原発政策推進与党」を支持したりもできるのだ。
彼らにとっては、「政治より信仰」ではなく、「政治の為の、道具としての宗教」でしかないというのは、彼らが「宗教としての神道」の、正統な末裔(血統)ではないという、何よりの証拠なのである。

ちなみに、今にいたる主流派の「神道(神社神道および皇室神道)」において、その「教義」や「儀式」が、明治以降に政治的に捏造されただけではなく、私たちが「日本を代表する、歴史ある神社」として疑いもしない有名神社の多くが、じつは明治以降に「政治的意図を持って創建された、政治的宗教施設」であるという事実を、最後に本書から紹介しておこう。


『 国家神道のもとで、政府は多数の神社を新たに創建した。国家神道は、一九世紀なかばまでに成立していた多様な系統の神社を、天皇崇拝を主軸に再編成したが、もとより国家神道の思想に適合する神社はきわめて少なかったから、まず第一に、伊勢神宮をはじめ神社そのものの内容を人為的に改変しなければならなかった。この神社の改変と並行して、国家権力は、国家神道の思想に立つ神社をつぎつぎに創建して、国家神道の既成事実をつくりあげた。こうして、明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間に、神社神道は歴史的事実とは異質な新たな要素を加えることになった。これらの創建神社の主力をなす少数の大神社は、全神社の首座を占める有力な地位をあたえられた。新しい国家宗教には、その教義に見合う新しい宗教施設が必要であったが、国家はそれらの宗教施設を、形式のうえでは可能な限り古く装い、神社の伝統との断絶を意図的に埋める苦心を払わなければならなかった。
 天皇制下の創建神社には、数は少ないが、極めて社格の高い有力神社があって、国家神道の教義を代表していた。これらの神社は、国家権力による神社創建のねらいを示すものであり、大別して、つぎの四系統に分けることができる。(一)近代天皇制国家のための戦没者を祀る神社(靖国神社、招魂社・護国神社) (二)南北朝時代の南朝方「忠臣」を祀る神社(湊川神社、阿部野神社等) (三)天皇、皇族を祀る神社(橿原神宮、平安神宮、明治神宮等) (四)植民地、占領地に創建された神社(朝鮮神宮、建国神廟、昭南神社等)。』
(P182~183)

私たちが知っている、有名な、あの神社もこの神社も、そのほとんどすべてが「政治的意図によって、近代になってから作られた、疑似伝統的な神社」なのだ。
多くの日本国民は、その事実を今も知らないまま、「神代の時代から続くもの」ででもあるかのように「ありがたがって(思い違いしたまま)」お参りしているのである。

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ネトウヨ的〈愛国心発揚〉ミステリ 一一Amazonレビュー:門井慶喜『定価のない本』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月10日(木)12時02分57秒
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 ネトウヨ的〈愛国心発揚〉ミステリ

 Amazonレビュー:門井慶喜『定価のない本』
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酷い駄作である。単なる「駄作」ならまだいいが、中身が積極的に「酷い」のだ。
きっとこういうものでも、ミステリしか読まない(あるいはエンタメ小説しか読まない)人(含む編集者)なら楽しめるのかも知れないが、「日本の歴史」をまともに勉強したことがある人にとっては、その軽薄な「愛国史観」あるいは「自慰史観」が、あまりに「馬鹿馬鹿しい」としか映らないような、敗戦国小説家の「負け惜しみ小説」でしかない。
著者は、ネット右翼並みに「加害者意識」に乏しく、その分「被害者意識」が強いため、同じような心性の下に書かれた、江藤淳の『閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と言語空間』あたりの影響を受けて、本作を構想したのかもしれないが、そんな著者だからこそ逆に、現今の自主規制的な言葉の不自由については、完全に鈍感なのであろうし、またそのくらいな方が、エンタメ作家としては、読者にも理解されやすいのかも知れない。

思想史家の白井聡に『永続敗戦論』があるが、なぜ日本は戦後も「敗戦」し続けるのかと言えば、「敗戦」という現実を直視せず、それを頭の中でフィクション的に否認し続けてきたからにほかならない。
坂口安吾が『堕落論』で「生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救いうる便利な近道がありうるだろうか」と書いたことの意味を、まったく理解していない通俗小説家が、ここにもいたのである。

本作は、ミステリとしても、およそ「論理性」の欠片もない作品であり、「密室殺人」めいた事件も発生するが、その謎解きは、仮説も真相も、「非論理的」を通り越して「非現実的」なものでしかない。
いちおう「ミステリ」の体裁を採っているので、ネタばらしは控えておくが、その酷さは、例えば「古本屋が、本の重さを知らない」というくらいの「非常識」に立脚した、馬鹿馬鹿しいものでしかないのだ。

そして何よりこの作品には、エセ愛国主義者にありがちな「権威(依存)主義」が、はっきりと見て取れる。
つまり「日本の歴史」とか「古典」や「和本」とか「神田神保町の古書肆街」とか「太宰治」といった、中身を問う前に、ひとまず多くの人がその「名称」だけで畏れ入ってしまうようなものの「権威」に、依存し切って構成された作品なのだ。

本書は「神田神保町の古本屋の心意気」みたいなことを描いて、それへのオマージュを捧げたつもりなのかも知れないが、こんな「歴史的無知」に支えられた荒唐無稽な作品でオマージュを捧げられても、それを喜ぶのは「日本の歴史」に無知な古本屋に限られるだろう。言い変えれば、社会学書や思想・哲学書を専門とするような古本屋なら、あるいは「教養ある古本屋」なら、怒り心頭に発して、本書を地面に叩き付けること、必定である。
だから本書は、「神田神保町の古書肆街」の、「文芸書」を扱う古本屋さんだけではなく、それ以外の各種専門書を扱う古本屋さんにも、ぜひ読んで欲しいと思う。そして、神保町の古本屋の皆さんが知らないうちに、「神田神保町の古書肆街」の「名前」が、このような「歴史修正主義的なフィクション」に利用されているという現実を知っていただきたい。

こんな「現実には負けた者が、敵を馬鹿で卑劣に描くことで、ありもしなかった勝利を仮構して、自己慰撫をするようなフィクション」というのは、「天皇家は、アマテラスオオミカミから連綿とつづく万世一系の家系である」というフィクション(政治神話)と同様の、哀れな「大衆向け現実逃避の具」でしかないのである。

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【付記】
本書と同系統の歴史フィクションについて、以前、amazonレビューを書いているので、ついでに紹介しておきたい。本書を楽しめる読者にはオススメである。

・ 伊東潤『真実の航跡』(集英社) レビュー:〈百田尚樹系〉戦犯裁判小説

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【追記】(2019.10.8)

本書について「kumatarou96」氏が興味深いレビューを書かれていたので、下のコメントを書かせていただきました。
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今こそが「危機」の時代かも知れないというご意見に、同意します。
本を読まないというのは、本当に危険なことだからです。

というのも、本を読まない人であればこそ尚更、読書の必要性なんてまったく感じられないので、「読書の必要性などない」ということの方が「真理」であり「現実」のようにしか見えない。なにしろ「無知」なのだから、彼らがそう感じるのも無理のない話だとも言えましょう。

言い換えるならばこれは、読書のする者だけが「無知の危険性」を知っている、ということになりましょう。
何も知らない人は、自分が知らないということも知らないし、それがいかに自分の認識を誤らせているかも知らないので、なんの悪気もなく、自信満々に、誤った現実認識を語ってしまう。

例えば、ミステリをあまり読んでいない人が、新作ミステリを読んで、そのトリックに驚嘆した。「こんなの読んだことない。凄いトリックだ!」と感動して、その感動のままに、amazonレビューを書いたりする。曰く「前代未聞の大トリック! 貴方もきっと、騙されます」。

しかし、すれっからしのミステリ読みには、こうしたナイーブな感想は、ただただ鼻白ませれるものでしかありません。
なぜなら「そのトリックは、百年も前に、海外の某作家によって案出されたものであり、その後、同じトリックを使った作品は、内外に山ほどあるんだけどなあ」と知っているからです。

つまり、その初心者さんは、嘘をついているわけではなく、正直な感想を書いただけなのですが、いかんせん「無知」だったが故に「前代未聞」だなどという誤った情報を、世間に撒き散らしてしまった。悪気は無かったのですが、やったことはそういうことです。
だから、彼に罪があるとしたら、それは自分の「無知」を疑うことをしなかった、ということでしょう。

しかし、こうした「無知」を指摘されて、それを素直に認められる人というのは、めったにいません。
と言うのも、読書家というのは、小学生から老人まで、みんな、読書家としての自負を持っているからです。

私が案出した格言に「本を読むほどの人間なら、みんな自分が賢いと思っている」というのがあるのですが、これの意味するところは、そういうことです。
客観的には、偏頗な知識しか持っていなくても、自分が興味を持つジャンルについて、ある程度の知識を持っていれば、もう「 ひとかどの知識人」になったつもりになってしまう。

しかし、言うまでもなく、世界は広く、書物は無限に存在し、一人の人間が生涯で読める本の冊数とは、たかだか1万冊にも及ばない。
私は、あるミステリマニアのサークルに昔から所属してて、そこには「ミステリの鬼」なんて言われる会員がいますし、実際、翻訳だけでは足りず、原書まで読んでいて、いったいこの人はどのくらい読んでいるんだと圧倒されるような人が何人もいます。
しかし、当然のことながら、そういう人は、他のジャンルについてはそれほど読んでいない、と言うか、読めるはずがないのです。時間は限られているのですからね。

つまり、いろんなジャンルをあれもこれも読んでいる人ほど、いかに本が読めないものかというのをよく知っています。そして否応なく、自分の限界と無知に向きあわざるを得なくなる。
しかしまた、そんな人が本当に「無知」なのかと言えば、そうではないでしょう。広く世界全体を見渡せるからこそ、自分の「無知」に気づけるのであって、自分の狭い部屋の中が世界のすべてだと思い込んでいる人(井の中の蛙)の「全能感」の方が、よほど「無知」の名にふさわしいのです。

エーコは、私も好きな作家です。『薔薇の名前』だけではなく、無理をして記号論の本を読んだりもしましたが、エーコもまた「知への渇仰」に生きた人だと言えるでしょう。
そして、エーコにも『永遠のファシズム』などの、危機意識を語った本がいくつもあります。

『薔薇の名前』と、アリストテレスの『詩学』のレビューにも書きましたが、『薔薇の名前』の主人公である修道士探偵バスカヴィルのウィリアムは、キリスト教徒でありながら、科学的な知をつきつめることで「真実」を知りたいと願う「知の人」でした。
だからこそ、彼は事件の真相をつきとめたのですが、しかしその真相とは「信仰」の現実的問題点をあからさまにするものでした。だからこそ、事件を解決した彼の表情は、決して明るいものではなかった。

バスカヴィルのウィリアムは、実在の神学者オッカムのウィリアムの友人という設定になっていますが、要はオッカムのウィリアムこそが、バスカヴィルのウィリアムのモデルです。
オッカムのウィリアムは、科学的合理的な知をつきつめようとした人であり、それは何より神への信頼においてなされたものなのですが、しかし、彼のその真相究明への飽くなき姿勢は、教会の教えに沿わない「異端」とされ、意見を曲げなかった彼は破門され、命を狙われて、逃亡の地で客死します。
つまり、バスカヴィルのウィリアムの影とは、こうした知の宿命を二重映しにしたものだったのです。

ことほど左様に、「無知」とは、妬み深く危険なもの。
私は、本書『定価のない本』のレビューで「被害者意識の強さ」という問題を指摘しましたが、これはオッカムのウィリアムに対する教会側の意識でもあったでしょう。教会は、自分たちの信仰が、オッカムのウィリアムの「異端の説」に傷つけられているという「被害者意識」を持って、加害者となったのです。

これは、ネトウヨでも自称「保守」でも江藤淳でも同じ。彼らは、極めて「被害者意識」の強い人たちであり、自分たち日本人のしたことは都合よく忘れて、自身を被害者だと思い込める「無知の人」なのです。

江藤淳は、GHQの言論統制を批判しましたが、しかし、GHQの言論統制は、戦中の日本政府による言論・思想統制を中和し無効化するためのものだったとも言えますし、終戦にあたって、従軍慰安婦だとか民間人虐殺だとかいった、自分たちに不都合な資料を燃やし証拠隠滅したのも、日本人です。
昨今も、公文書の改ざんだ隠蔽だ隠滅だなんてことが取りざたされる日本の政府ですが、これは日本の伝統であって、GHQだけがやったことでは全然ない。例えば、『古事記』『日本書紀』などは、勝者である大和朝廷によって作られた「歴史修正文書」だというのが、歴史的事実です。

しかし、日本の歴史に無知な人は、こんなことも知らずに、その「無知」を指摘されれば、自分が知的に見下されたという、妄想的な「被害者意識」をたぎらせて、無自覚に自己正当化に励むのです。

まことに「本を読まない」ということに象徴される「無知」とは、かように危険なものなんですね。

長文失礼しました。

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名著の〈快楽と苦痛〉一一Amazonレビュー:堤未果、中島岳志、大澤真幸、高橋源一郎『メディアと私たち』

 投稿者:園主メール  投稿日:2019年10月 4日(金)02時01分13秒
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 名著の〈快楽と苦痛〉

 Amazonレビュー:堤未果、中島岳志、大澤真幸、高橋源一郎『メディアと私たち』
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本書は、4人の作家が4冊の名著をそれぞれに紹介したものである。紹介されているのは、

 ・ ウォルター・リップマン 『世論』
 ・ エドワード・サイード  『イスラム報道』
 ・ 山本七平        『「空気」の研究』
 ・ ジョージ・オーウェル  『一九八四年』

の4冊で、私の場合は『「空気」の研究』『一九八四年』は既読、『世論』『イスラム報道』はずいぶん前に購入しているものの、積読の山に埋もれさせて未読であり、本書『メディアと私たち』を読むことで、残りの2冊を読むきっかけに出来るのではないかと考えた。

なにしろ、4冊のとびっきりの名著を紹介しているのだから、感想はいろいろとある。
例えば、解説者の大澤真幸が示唆しているとおり、名著『「空気」の研究』における山本七平の「神(絶対者)を持たない者は、空気に抗えない」という理屈は、彼の信仰によって偏向された現実認識(誤認)だ、といった、多くの人が名著の権威ゆえに読み流してしまう問題点や、ジョージ・オーウェル『一九八四年』の高橋源一郎の解説は、日本の現状解説に他ならないばかりか、「本を読まない=言葉の貧困化」の問題提起として、より本質的なものだ、とかいったことも、高橋文を読み流しただけでは十分に意識されない点だろう。だから、そのあたりについても、しっかり論じておきたいのだが、それでは長くなりすぎるので、ここでは、大澤真幸による、次の問題提起を、「今ここ」の問題として採り上げておきたい。

『人間はそもそも、何でも知りたいと思っているとは限りません。知りたいことだけを知りたいと思っているのです。ですから、むしろ重要なことは、知りたいと思っていなかったことについて知らしめることです。知りたいことについてだけ知らせてあげようとすると、結果的に「空気」を読んでいることになる。』(P124)

簡単に言えば「耳に痛いことを言え」ということだ。その上で「有り難いご意見を拝聴させていただいた」と相手の言わせるように語れればそれがベストなのだが、なかなかそうもいかないので、ひとまずやはり「耳に痛いことを言え」ということになる。

例えば、本書の読者というのは「メディアの偏向」といった問題や、偏った情報依存(エコーチェンバー現象・サイバーカスケイド等)といったことに、問題意識を持っている人たちであろう。したがって、本書とはおおむね問題意識を「共有」しており、著者らの意見にも好意的であろうというのが、容易に予測されよう。
その一方、「ネット右翼」的な人たちについては「あの人たちは、自分の感情を補強してくれる、自分に好都合な、偏った論者の本しか読まない。彼らには、自己相対化なんていう意識が欠片も無く、およそ知性に欠けた人たちだ」といった認識も「共通」していることだろう。
これらの「共通認識」は、正しい。しかし、その「共通認識」を上書きする為だけに本書を読むのだとしたら、大澤真幸が指摘したとおり『知りたいことだけを知りたいと思っている』だけ、ということになる。

つまり、そのような認識で本書を読もうとし、それで満足してしまうような読者は「ネトウヨと五十歩百歩」でしかないのだ。
そしてそんな「事実」を伝えることこそが、大澤真幸の言う『知りたいと思っていなかったことを知らしめること』なのである。

だから、本書は素晴らしい本ではあるけれど、本書を読むにあたっては「そうそう、そのとおり」だなどという読み方は、本書の読者として、まったくの「失格」なのだと言わねばならない。
「そうそう、そうだよね。だからネトウヨはバカなんだ」という風に読んでしまった読者は、ネトウヨ並みに「バカ」なのである。つまり賢明な読者は、本書を「マスコミ批判」や「ネトウヨ批判」の本として読むのではなく、「私の痛いところを突いてくる本」として読まなければならないのであり、当然その感想は、「素晴らしい」の一語では済まされないのだ。

これは、本書で紹介されている4冊の名著についても、まったく同じであり、名著なんだから「素晴らしい」というような感想は「無自覚無思考の産物」だと考えるべきで、「その程度」に止まりたいと思わないのであれば、それらの本が、自身のどんな「無自覚」を突くものかを考えながら読まなくてはならない。

畢竟「批評とは、自己批評」のことであると言うのは私の言葉だが、きっと山ほど前例のある認識だろう。ならば、読者は、その批評文が「どこかの誰か(他人)」についてのものではなく、読者である「私自身」を批評したものとして読まなければならない。そうでなければ、どんな名著を読んでも、結局は、頭の悪い「自己満足」に止まってしまうのである。

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