<思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

 投稿者
 メール
  題名 ※管理者の承認後に掲載されます。
  内容 入力補助
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


〈ブルシット・レビュアー〉を見よ 一一アマゾンレビュー:D・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月16日(金)22時35分42秒
  .

 〈ブルシット・レビュアー〉を見よ

 Amazonレビュー:デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の論理』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R19JMIU51QQQR6

.
「2021紀伊國屋じんぶん大賞」第1位を受賞していたので読んでみた。昨年の同賞第1位だった『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(東畑開人)が面白かったからである。

本書は、文体こそくだけてはいるものの、中身はかなりハードで、しかも長い。
だから、「クソどうでもいい仕事」という、けっこう身近な問題に関心を持ち、「この文体なら読めそうだ」と、つい勢いで本書購入してしまった人の半数近くは、きっと本書を最後まで読み切ることができなかったはずだ。

本書を最後まで読み切れる人というのは、しんどくて長い本を、それでも最後まで読み切る「習慣」のある読書家であって、「娯楽」や「話題性」や「自己啓発」や「ビジネス書」といったノリで本書を手に取った読者は、90パーセント以上の確率で挫折したはずだ。そして「内容紹介文」などを参考に、「読んだふり」をして、見栄を張っているだけなのではないか。

また、だからこそ、本書を通読できなかった読者の中でも特に無反省な人というのは、自分の「能力」を棚に上げ、そんな自分を正当化するために、「こんなに長く書く必要があったのか」とか「繰り返しが多い」とかいった、恨みつらみに発する、内容空疎な言い訳でしかない「ブルシット・レビュー」を書かざるを得なかったのであろう。浅薄な自己認識としては「せめて悪口でも書かないことには、元が取れない」とでも感じたのかも知れない。

彼らが本書に期待したのは、要は「クソみたいな仕事がある」ということだけ。それを学者が指摘してくれたら、同意見の持ち主として「溜飲が下がる」といったことだけで、彼らには「ブルシット・ジョブ」が、どのようなところか生み出されてきたものであり、それをどう考えるべきか、なんてことへの「知的興味」や「社会的な問題意識」など、そもそも無いのである。要は、彼らは「期待していた娯楽性が足りない(「俺も賢い」と思わせてくれない)」ということで、腹を立てているだけなのだ。
そしてそれは、そうしたレビューを書いている人のホームページをチェックして、彼らがいかに「薄くてわかりやすい本」がお好きかを確認するだけでわかるだろうし、「ベタ誉めするか貶すことは好きでも、論じることはできない」人たちだということもハッキリするだろう。

さて、肝心の本書だが、私にとっては、一般には自明視されている「労働価値説」を相対化してくれたところだけでも、とても勉強になったし、励ましにもなった。
と言うのも、私は「働かないで遊んで暮らせたら、それに越したことはない」と思っている人間ではあるけれど、だからと言って「労働とは、生きるための必要悪としての苦役」とまでは言い切れなかったからだ。やはり、心のどこかで「労働の崇高さ」という信念に、一目置かざるを得なかったのだが、本書著者は、私の中にもあった、そうした「労働信仰」を、すっぱりと相対化してくれたのである。

本書でも語られているとおり、どうして「市場原理」に反してまで「ブルシット・ジョブ」が増殖していくのかと言えば、それは結局のところ、人間の「妬み」というものの、底知れない強力さのゆえなのであろう。

「俺はこんなに辛い仕事をしている(立派な人間な)のに、楽して稼いでいる(狡い)奴がいる」という「妬み」があるからこそ、「楽して稼いでいる(と感じている)人たち」は、自己防衛のために、自身の仕事を「権威付け、正当化するための仕事」を生まないといけない。そして、そうして生み出された仕事は「無価値な仕事を、価値ある仕事に見せかける仕事」なのだから、それは「価値を生まないし、やっている本人も疚しいし虚しい」ということで「ブルシット・ジョブ」になってしまう。

一方「俺はこんなに辛い仕事をしている(立派な人間な)のに、楽して稼いでいる(狡い)奴がいる」と考えるような、自己中心的な「妬み」に捉われる人というのは、「辛い仕事をして、相応に稼いでいる人」にも「妬み」を向ける。
「(同じように辛い仕事をしているのに)あいつらだけ稼げるのは、不公平だ」というわけだが、そうしたケチな根性によって、「相応に稼いでいる」だけの人の脚をも引っ張ってしまうのである。

そして、これは本書に対する「妬みレビュー」にもよく表れている。要は「こんな、読むのも苦痛な長ったらしい本で、儲けやがって(俺はぜんぜん楽しめず、損したじゃないか)」ということなのだ。
本書がベストセラーにならなければ、そもそもこうした読者の手に取られることもなかっただろうし、「妬みレビュー」を書かれることもなかったわけだが、売れてしまったがために「妬み」を買ってしまったのである。

こうした「妬み」に動機づけられた、「向上心」や「他者への思いやり」に欠けた人が、結局のところ「ブルシット・ジョブ」を生むことになるし、現に自ら「ブルシット・レビュー」を生んでしまう。

本書でも、ニーチェが何度か引用されていたが、「ブルシット・レビュアー」こそ、まさにニーチェの言う「末人」。つまり「憧れを持たず、傲慢とルサンチマンに身を委ねて生きる人」ということなのであろう。

---------------------------------------------------------------------------------

 【補論 読解力と思考力】(2021.04.09)

本書に対する、薄っぺらな悪口レビューを投げつけるレビュアーに共通するのは「長い文章が読めない」という点だろう。
「読めない」というのは、「最後まで読めない」という意味でもあれば、最後まで読んでも「思考力がついていかず、中身を理解できない」という意味でもある。

つまり、こうした読者というのは、基本的に「考えながら読む」ということができず、少し複雑な議論になると、まちまちついていけなくなり、理解できなくなるのだ。

当然、このように「読解力」を持たず、その基礎となる「思考力」を持たない読者は、テキストであれ、物事であれ、表面的にわかりやすい部分だけで判断し、それをすべてだと考えてしまう。
言い換えれば、こういう人たちは、物事を多面的に見ること、いろいろな角度から検討するということができず、その結果、不十分な対象理解に止まらざるを得ないのだ。

こうした人たちの思考形式を、グレーバーは次のように批判するしている。

.
『 社会問題一般の議論をめぐる混乱のかなりの部分は、たいてい、このような異なる次元の説明を、それらが同時に作用していると考えるのではなく、どれかひとつの次元に帰着させようとするところに起因している。たとえば、ブルシット・ジョブを政治的に説明するのはまちがってるよ、といってくるひとがときどきいる。そんな仕事があるのは、だれだってお金が必要だからだろ、というのである一一まるで、こうした考えが、わたしの頭をまったくよぎらなかったかのように。ここでは、ブルシット ・ジョブに就いている人びとの主観的動機だけで考えればよいとされているわけで、お金を稼げる唯一の方法がなにゆえそもそもブルシット ・ジョブになってしまうのかといった問いなど、眼中にないのである。
 文化-政治の次元においてはもう最悪である。エリート社会のなかでは、動機を問題にできるとすれば、それは個人的な次元について語るばあいのみであるという、暗黙の了解が形成されてきた。それゆえ、権力的立場にある人間たちは公言していないことでもやるものだ、あるいは、公言しているのとはちがった理由でなにかをやることもあるのだといった意見すらも即座に拒絶され、「パラノイア的陰謀論」とレッテルをあてがわれておしまいなのである。ホームレス問題を原因から根本的に解決することは、保守派(ロー・アンド・オーダー)の政治家とか社会保障の供与者の利害とどっかでぶつかるんだよね、などというと、それはホームレスがいるのは秘密結社の陰謀だというのとどこがちがうの、とか、銀行システムはトカゲが操っているというのとおんなじだよ、などといわれてしまうのである。』(P207)

たぶん、読解力の無い人というのは、この文章の意味も取れないだろう。

『社会問題一般の議論をめぐる混乱のかなりの部分は、たいてい、このような異なる次元の説明を、それらが同時に作用していると考えるのではなく、どれかひとつの次元に帰着させようとするところに起因している。』

グレーバーがここで語っているのは、こういうことだ。
社会問題というのは、いろいろな要素を含み持っており、それらの多様な側面や階層について検討し、それらを総合した上でないと、その実態を正しく捉えることはできないのだが、そうした知的作業は、当然複雑なものになるから、思考力がついていかない人は、検討すべき多くの側面や階層を恣意的に切り捨て、問題を誤ったかたちで一面化し、単純化してしまう。
そのため、そうして得られた事態の理解は、その実態にそぐわない誤ったものとなるのだが、物事を一面的にしか見られない人には、そうした認識しか得られないので、それに固執することで、自身の視野の狭さを正当化するしかない。

こうした人たちの特徴は、複雑なものを複雑なままに把握した上で、その本質を剔抉するというのではなく、自分にもわかる、わかりやすい部分を、すべてだと決めこんでしまう。他の諸要素は「関係ない」と決めつけて排除してしまう、という点だ。

したがって、このような人は、複雑な議論には立ち入らないし、長い文章は苦手だ。多くのことが検討に付されていたのでは、到底ついていけないからである。
だからこそ、彼らは「もっと簡単に書け」「説明がくどい(長い)」などと、議論の中身には立ち入らないで、形式的な部分でばかり、子供じみた難癖を付けるのである。

物事の本質を突いてシンプルに表現するという作業は、複雑なものを複雑なままに正しく認識することが大前提だというのは、物事を論理的に考えることのできる人間には、あまりにも自明な事実であろう。
だが、それが出来ない人は、単純であれば、それでありがたいという話にしかならないのである。

 ○ ○ ○

ところで、私はこれとそっくりな事例に、最近お目にかかった。

私は先日、高橋昌一郎『20世紀論争史 現代思想の源流』(集英社新書)のレビューで、著者の高橋教授が、一見したところは「良識派」のリベラルと見えるが、じつはそうでなく「隠れ原発推進派」であり「原発再稼働派」の「原発知識人」に違いない、と批判した。

これに対して、レビュアー「bluegreen」氏から「高橋さんは原発推進派ではないんだがww」というタイトルの反論レビューがアップされたのだか、同氏がそう考える根拠とは、次の一点だけであった。

『2011年震災直後、週刊現代の高橋さんのインタビューをご一読あれと言っておこう。「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない」と答えている。Twilogにある。』

震災直後の、このような「自己申告」があるから、高橋昌一郎教授は「原発再稼働派」ではないというわけだが、原発事故直後ならば、それまで「原発安全神話」に加担していた「御用学者」だって、似たようなことを口にしたであろうことなど、明白ではないだろうか。

だが、「bluegreen」氏は、高橋教授本人がこう言っているんだから、そうに違いない、と決めつけているのである。

つまり、「bluegreen」氏にすれば、私の「読み」は、事実に基づかない「陰謀論的な深読み」だということになるのであろう。
しかし、電力会社が、いろんな口実において、学者や有識者に金をばら撒いて懐柔したというのは、立証された事実であり、それは事故後の今も、多かれ少なかれ続いていることなのだ。
もちろん、電力会社から便宜をはかってもらっている人は、それを公言したりはせず、客観的な第三者を演じて、電力会社に都合のいい世論形成に、それとなく貢献することだろう。

例えば、科学史家として多くの一般向け著書のある高橋昌一郎教授が、前期の『20世紀論争史』を「教授と助手の対話形式」で書いて、助手に、

.
『「反科学思想」を身につけた人物、私の周囲にいくらでもいますよ。原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』(P435~436)

と語らせたうえで、自身を投影した「教授」にも、それを否定させてはいないのだか、これを読んだ読者は、原発廃止論者や遺伝子操作反対論者に、どんな印象を持つだろうか。

高橋昌一郎教授は、たしかに「原発再稼働賛成」だと言っていない。
しかし、同書で、

.
『放射能汚染問題が、原子力の平和利用にも影を落としている。世界人口の急増に伴って増加し続けるエネルギー需要に対して、原子力発電が世界で果たしている役割には計り知れないものがある。』(P429)

と強調してもいる。
この「エネルギー需要への、原子力の計り知れない貢献」を、高橋昌一郎教授は、本気で「今の人類には使えない技術だ。だから使うべきではない」などと思っているのだろうか。
心からそう思っているのであれば、こんな書き方にはならないと思うのだが、いかがだろう。

しかし、「bluegreen」氏の場合は、本人が否定しているのだから、そうなんだろう、という理屈である。

これが、グレーバーの言う、

『社会問題一般の議論をめぐる混乱のかなりの部分は、たいてい、このような異なる次元の説明を、それらが同時に作用していると考えるのではなく、どれかひとつの次元に帰着させようとするところに起因している。』

であり、「bluegreen」氏が、私のレビューについて書いた、

『年間読書人のレビューを見て???と思ったので、コメントしたい。
あれだけの分量を何を思いながら書いたのか、よほどのコンプレックスと執念を感じるほど、異様としか言いようがない。。。』

といった評価は、まさにグレーバーが差し向けられた、下のような恣意的無理解と、同質なものなのではないだろうか。

『文化-政治の次元においてはもう最悪である。エリート社会のなかでは、動機を問題にできるとすれば、それは個人的な次元について語るばあいのみであるという、暗黙の了解が形成されてきた。それゆえ、権力的立場にある人間たちは公言していないことでもやるものだ、あるいは、公言しているのとはちがった理由でなにかをやることもあるのだといった意見すらも即座に拒絶され、「パラノイア的陰謀論」とレッテルをあてがわれておしまいなのである。』

「bluegreen」氏のような読者は、文学作品において「笑っている人」が登場すれば、その人は「楽しい」のだとしか考えられない。つまり「顔で笑って、心で泣いて」という複雑さが理解できない。
また「優しい言葉をかけてくれる人」は「良い人」としか考えられない。だから「ペテン師」といった、二面性を持つ存在が想定できない。その結果、そういう人に、まんまと騙されてしまうのである。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈特殊日本的〉な常識の呪縛 一一Amazonレビュー:木下武男『労働組合とは何か』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月16日(金)22時33分22秒
  .

 〈特殊日本的〉な常識の呪縛

 Amazonレビュー:木下武男『労働組合とは何か』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1Q0UQZ762P515

.
非正規労働者が、全労働者の4割を占め、正規・非正規を含めた労働環境が悪化の一途をたどっている現在の日本において、何をどうすれば、この状況を変えることができるのであろうか。

このような「危機感」を持っている私たちの中にも、次のような考え(思い)があるとは言えないだろうか。

 「国が、何とかしてくれる(何とかして当然だ)」
 「会社が、何とかしてくれる(何とかして当然だ)」
 「組合が、何とかしてくれる(何とかして当然だ)」

こうした考え方の根底にあるのは「私たちには、人間らしい生活をする権利があり、それは守られなければならない」という大原則だろう。
つまり、「憲法がそれを保障しているのだから、国がなんとかしろ(そのために税金を払っているのだ)」「会社は、国の定めるところに従って、労働者の権利を十分に保障すべき」「組合は、労働者のために戦うべし」といった感じになるのだが、それはしばしば「自分自身は動かなくても、その責務を負った各種機関が、その責を果たすべきだ」という「あなた任せ」な考え方になりがちだ。

しかし、「労働組合の歴史=労働運動の歴史=労働者の歴史」を顧みれば、こうした「お客さま」感覚が、いかに間違っており、甘っちょろいものかということがわかる。

つまり、よく言われることだが、各種の「人権とは、先人の血で贖われたもの」であり、神の手から無料(ただ)で各個配布されたものではないのだ。それは、労働者自身が、「国家・権力者」や「資本家・企業・会社」といったものと闘って、勝ち取ってきたもの(獲物)であり、その根底にあるのは「弱肉強食の世界」なのである。

無論、人間の世界は複雑であり、ホッブスが仮定した「万人の万人に対する闘争」が、すべてではないだろう。これは一種の極論であり、たしかに人間には、他人を思いやり、困っている人を助けようとする心も存在する。
ただし、それもまた「すべて」でないことは明らかなのだから、他者が闘いを仕掛けてきた時に備えて、自身を守るすべを持っていなければならない、というのも当然だろう(無論「非武装中立」などもあり得るが、何も備えをしないという選択肢はない)。つまり「誰かが、何とかしてくれると」という「他者依存」的な考え方は、間違いなのだ。そして、事実そうであるからこそ、「労働者の権利の闘い」は血みどろな闘争の歴史であったし、今の日本もまたそうなのである。ただし今は、労働者の方が、一方的に押し込まれている局面なのだ。

本書著者は、現在の日本の労働状況を変えるにはどうしたらいいのか、どうすべきなのか、といった実践的問題意識に発して、それは「真のユニオン(労働組合)」の設立しかないと考え、では、現在の日本に必要な「真のユニオン」とはどのようなものなのかを探るために、労働組合の歴史を振り返って検討し、現在の日本において、どうして現状の労働組合が機能しないのかを明らかにしている。そして、それが機能しないのなら、新たに設立されるべき「真のユニオン」とはどういうものなのか、を示しているのだ。

その意味では、本書は、著者の「労働組合」論であり、その観点から、現在の日本の労働組合が、いかに「労働組合の本質を外した、異形の労働組合」かを明らかにしている。
私たち日本人が、長らく馴染んできて、当たり前にそれが「労働組合」だと思っているものが、いかに「非労働組合的な労働組合」であったかを、明らかにしてくれるのだ。

平たく言えば、「日本の労働組合」というのは「資本家の都合で歪められた、夢想の労使協調の労働組合」にすぎない。「労使は、話し合えば、折り合える」という「他者(資本家)の善意」を前提とした労働組合なのである。
そしてそれは、戦後日本の経済復興期には、うまくいっているように見えたのだが、実のところそれは「好景気を背景とした、余裕のある資本家側による、労働組合の骨抜き策(期間)」であったと考えていい。本来ならば「労働者のことを慮ってくれる資本家」なという「夢想」に酔うことなく、「笑顔の裏」を透視しながら駆け引きし、有事に備えるべきだったのだが、あまりにも好景気が長く続いたために、私たちは「労使協調は永遠に続く」と勘違いし、労働組合は牙を抜かれて「闘えない労働組合」に変質させられてしまっていたのである。
そして、バブルの崩壊とともに、そのツケが、徐々に「弱者となった労働者」を襲うようになっていったのだ。

本書を読めば明らかだが、「労使協調」を前提とした労働組合では、資本家が本気で牙をむいた時には、闘いようがない。すでに「武器」を放棄しているからだ。
だから著者は「闘える労働組合」こそが「真のユニオン」であるとする。そして「真のユニオン」とは、誰かがどこかで組織して、「私を助け(に来)てくれる機関」ではない。私たち自身が、それを作らなければ、どこにもそんなものは存在しないのだ。

つまり、「労働者の権利」は、あるいは、各種の「労働条件」は、労働者自身が、闘って勝ち取るものであって、「与えてもらう」ものではないし、与えてもらえるものでもない。
しかしまたそれは、労働者が一人で戦ってどうなるものではない。巨大な資本の前に、個人は無力であり「権利など無いに等しい」。だからこそ私たちは、本書著者の示した「真のユニオン」像などを参考にしながら、自分たちの「ユニオン」を作らなければならない。でないと、どこからも「救世主」など、現れはしないのである。

しかしまた、日本人は、自分たちの手で「権利」を勝ち取ったことがない、とも言われる。
「四民平等」の「人権」が、曲がりなりにも保証されたのは、外国からの侵略を恐れた政治指導者たちが、日本を「戦える国」に作り変えようとしたからであって、人々の「人権」を保証するためという「善意」からなされたものではなかったが、それでもそれは「自ら労することなく与えられたもの」ではある。
また、敗戦後の「民主化」も、占領国アメリカの強力な指導があったればこそで、それがなければ、日本人の多くは、いまだに「現人神・天皇」の「赤子」として、お国のために一身を捧げるのが当然とされるような「人権の保障されない二等国民」であったことだろう。

このように、日本人一般は、自分個人の「人間としての尊厳を守るための権利」を、自分たちの手で勝ち取ったことがない。それ(人権)を独占(制限)しようとする権力者・有力者たちと闘って、その手から奪い取った経験がない。その戦いにおいて、多くの血を流したことがない。

無論、少数有志の血が流されたのは事実だけれど、私たちの多くは、そうした人たちの「犠牲」の存在を学びもしなかったし、よくも知らないから、「人権」とは「天然自然に与えられているもの」だなどという「甘ったれた幻想」に浸っていることもできたのだ。

だが、現実は、多くの場合「弱肉強食」であるし、それは日本の現状が証明していよう。
かつての「一億総中流」とは、本来「富める者と貧しき者の二極化傾向」が当然のこの「弱肉強食の世界」にあって、「二極化の潜在的進行期間=表面的な一瞬の無風」の時間に過ぎなかったのである。

果たして、こんな「甘っちょろい」私たちに、つまり、資本家たちとの「戦争を知らない子供たち」でしかない私たちに、戦闘組織としての「真のユニオン」など作れようか。
一一しかし、この問いは無意味である。
なぜなら、それが実現できなければ、「弱者」は食い物にされるのが、必然の結末だからである。

.
『 労働者の悲惨な状態を改善するのに役立つ労働組合を一刻も早く創らなければならないが、ここで重要な「主体の意識性」を忘れてはならない。意識性が加わらなければ実を結ぶことはない。その「主体の意識性」は労働組合の変革構想が明確になることで生まれてくるだろう。』(P260)

「主体の意識性」が先か「労働組合の変革構想」が先かは、私にはよくわからないが、ともあれ、両方が揃わないことには、それが実現しないのは確かであろう。
本書を読み、論評して満足するだけであってはならないが、「弱者を救わなければならない!」と一人でいきり立ってもどうにもならない。
だからこそ、「どう行動すべきか」から出発している著者の労作である本書を、まずは多くの人にオススメしたい。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈異端者〉となることの覚悟 一一Amazonレビュー:青木理『時代の異端者たち』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月16日(金)22時32分1秒
  .

 〈異端者〉となることの覚悟

 Amazonレビュー:青木理『時代の異端者たち』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2L8AW0TJU63IO

.
『熱風』誌インタビュー集『時代の反逆者たち』に続く、同第2集『時代の異端者たち』。

「異端者」とは何か。これは主に、キリスト教に由来する概念なのだが、「異端者」とは「異教徒」とは別概念であることを、まず確認しておく必要があるだろう。

「異教徒」とは(キリスト教から見れば、イスラム教徒や仏教徒、あるいは「淫祠邪教の徒」を含む、要は)「違う神(教え)を奉ずる(部外)者」のことであり、一方、「異端者」とは「同じ神(教え)を奉じながら、その奉じ方(理解)が違っている、同信の徒(身内)」を指している。
そして、基本的には、「異教徒」というのは「間違っているけど、関係ないから放っておけば良い(その存在を容認しうる)」存在である一方、「異端者」というのは「身内(部内者)であるからこそ、その正統主流と違った考え方や意見は、主流派の正統性を揺るがすものとして、絶対に容認できない」存在ということになる。つまり「異端者」こそが、真に「撲滅すべき敵」だと見做され、しばしば焚刑の過酷な憂き目をも見た存在なのだ。

だから、本集のインタビュイーたちは、単なる「違う意見の持ち主」ではなく「内部にあって、異論を唱える、反逆者」なのである。「安全圏にあって、高説を垂れるだけの評論家」や「仲間内で盛り上がるだけの内弁慶」ではなく、「批判対象を目の前にして、異論を発する、勇気ある者」たちなのだ。

したがって、彼らの「非凡さ」とは、その「意見の正しさ」には止まらず、我が身の危険を顧みず、「現場」にあって、異論を発する「勇気」なのだと言えよう。
そこが、「凡百」の私たちとは違うところであり、だからこそ、私たちが「痛み」を持って、彼らから学ばなくてはならない点で、要は「私も、彼らと同意見だ」で満足するのではなく、「彼らのように生きられているだろうか?」と反省してみる必要があるのだ。

9人のインタビュイーとインタビュアーの青木理の10人は、それぞれに置かれた立場や業界は違っても、「この時代」における「非主流」であり「反主流」でありながら、「主流」派に、面とむかって異論を発し続けている。
だがまたそれは、おのずと客観的には「蟷螂の斧」とも映ろうし、事実、即効的な力を持たないのかも知れない。

しかし、最後のインタビュイーである平島彰英が語るとおりに、自身の良心や信念を偽ってまで無難に生きたところで、それで人も羨む地位や名誉やお金を得たところで、死ぬときは「体ひとつ」でこの世を去るしかないのだ。
だから、その時に「最低限、やるだけのことはやった」と、そう思える生き方をしておかなければ、きっと後悔することになる。

その意味で「異端者」とは、誰よりも「わが神」を信じ切ることの出来た、「祝福されたる殉教者」だと言えるのかも知れない。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈リベラル〉にしか持ち得ないもの。 一一Amazonレビュー:マイケル・フリーデン『リベラリズムとは何か』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月16日(金)22時30分53秒
  .

 〈リベラル〉にしか持ち得ないもの。

 Amazonレビュー:マイケル・フリーデン『リベラリズムとは何か』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1RV2PY58226P0

.
「リベラリズムとは何か」と最初に問うた時、「リベラリズム」というものに、なにやら「定義」めいたものを、人は求めがちであり、かく言う私もそうした一人だった。

その後「リベラリズム」に関するの著作を何冊か読んで、「リベラリズム」とは、もとより歴史的に形成された概念なのだから、一貫する本質的要素を含み持ちながらも、時代とその状況に応じて、変化発展してきたもの、だということがわかった。
つまり、昔のリベラリズムと今のリベラリズムは、全く同じものというわけではないし、フランスのリベラリズムとアメリカのリベラリズム、あるいは日本のリベラリズムも、共通する部分を持ちながらも、明らかに違った部分もある。そしてこれは、私やあなた、つまり「リベラルを自認する個人」間においても、「リベラリズム」についての理解は微妙に(時には大きく)違っているし、また違っているのが当然なのだ。

そうした、ある意味では「とらえどころのない概念」である「リベラリズム」について、歴史的な形成過程を追ったり、中心的な要素を抽出して、それらの含有比率の変化を見たり、といった具合に、「リベラリズム」を「形態学的アプローチに基づくイデオロギー研究」という側面から捉えたのが、本書である。

したがって、本書著者は「リベラリズム」を、「一つの固定的な概念」であったり、自明に「正しいもの」として、描いているのではない。「リベラリズム」に対する個人的なシンパシーは隠さないにしても、あくまでも「リベラリズム」を研究対象として、客観的に分析し、評価しようとしたものが、本書なのだ。
そのため、本書前半の語り口は少々硬くはあるが、すこし我慢して読んでいけば、「リベラリズム」に対して、感情的共感や支持ではなく、満足のいく「知的理解」が得られ、その結果として「リベラリズム」というものの素晴らしさに惚れ直すことにもなるだろう。

さて、本書で、著者は「リベラリズム」の本質的な要素をいくつか挙げているが、私がそこで特に注目したのは「合理性」ということである。
「リベラリズム」には、強弱はあっても「合理性」という要素が不可欠であり、それが失われれば、それはもはや「リベラリズム」とは呼べない「似て非なるもの」になってしまう、というわけだ。

しかし、特に日本人の場合は、この「合理性=論理性」が弱いのではないかと思う。つまり、「情としてのリベラリズム」という側面が強いのではないか。
これも、私自身、思い当たるところがある。例えば、私は、ある「リベラリズム」本のレビューにおいて、「リベラリズムの真髄とは、弱者への共感だ」と書いたことがある。もちろんこれはこれで間違ってはいないと思うのだが、本書を読んだ後では、やはり私の個性を色濃く反映して「リベラリズム」論であるし、またいかにも日本人らしい「情のリベラリズム」だとも気づいた。

なぜ私は、本書で指摘された「リベラリズム」の中心的要素のひとつである「合理性」に、特に注目したのかといえば、それは本書が「リベラリズムの弱点や問題点」をきちんと摘出して「自己批判」を行なっている、という点で、他の「保守主義」「アナキズム」「コミュニタリアニズム」などの立場に立ったそれとは、一線を画している、と気づいたからだ。
「リベラリズム」は、「理想主義的」でありながら、しかし「合理性」も持っているから、「自分たちの立場」が「完全無欠」だなどとは考えないという、その「客観性と謙虚さ」において、「他のイデオロギーとは、一味違う」のではないか、と考えたのだ。

つまり、他のイデオロギーは、「自分たちの立場や考え方の素晴らしさ」をアピールし正当化する一方、対立するイデオロギーの弱点をあげつらうことに余念がない。
それに比べて「リベラリズム」には、本質的なところで「反省検討」という回路が仕込まれている。だからこそ、その形態は、時代や状況に合わせて、少しずつ変化適応をしていくのではないだろうか。もちろん、こうした「謙虚な適応能力」というのは、「無反省な一本調子」に比べると、やや「線が細く頼りない」という印象を与えるところがある。つまり、フリーデンも指摘しているとおり「わかりやすい魅力」に欠けるところがある。
けれども、「自分たちの立場や考え方は、完璧ではない」と反省しうる「合理性」を持っていてこそ、その思想は「リベラリズム」と呼べるのではないだろうか。「リベラリズムは、人間愛にあふれた、崇高で完全な思想だ」などという「自画自賛」や「自己正当化」といった「ナルシシズム」に嵌り込まない「自己批評性」があってこそ、「リベラリズム」なのではないだろうか。

つまり、真の「リベラル」とは「謙虚でありながら、信念を持って理想を目指す人」でなければならず「理想を振りかざす人」であってはならない。
だから私は、最後に本書の中から、あえて「リベラル」の弱点や問題点を指摘した部分を引用紹介し、その上で、新たに練り直した、私の「リベラリズム」観を記しておきたい。

.
『多くの観点から見ても、リベラリズムはエリートの教義であり、教養ある人びとに、あるいはおそらく西欧と北欧の諸価値の特定のセットのもとで教育された人びとのみに、対応する教義なのである。そしてこの特定の価値セットは、地球上に不均等なかたちでしか広まっていない。リベラリズムにはポピュリズム的な魅力が欠けており、単純なスローガンやサウンドバイトで言い表すことができない。リベラル達のあいだに、明白なパターナリズムの特徴が存在することは間違いない。すなわち、高潔さ、文明化という使命に対する自信、そしてシティズンシップに不可欠なものとして教育を過度に強調することが、彼(女)らのなかに見てとれる。ミルの『自由論』を読むと、彼が構想した自由で進歩的な個人のモデルとして、ミル自身が想定されていたと考えないほうが難しい。このモデルは、ミルがその政治的能力について重大な留保を加えていた、社会の大多数の人びとの経験からはかけ離れた存在であった。現在の政治哲学者が書いたものを読むと、人びとが自分の人生の選択を熟考し、継続的に評価するという面倒な要求が、その多くにおいて是認されていることがわかるが、こうした要求は学者の机上の空論でしかない。なかでもとりわけ、リベラリズムが社会の全成員の生の可能性(ライフチャンス)を最適化するための規制措置に依存するすればするほど、また均質的で統一された世界観をより強く受け入れるならばそれほどに、リベラリズムが〔人びとを〕指導する傾向がより顕著になる。この傾向は特に第四層のリベラリズムにおいて目立つのだが、このリベラリズムは、こうした指導傾向に相当する、権能の付与と誘導の実践を伴う福祉国家を生み出していたのである。』(P213~215)

しばしば私は、SF作家シオドア・スタージョンの有名な格言、俗に「スタージョンの法則」と呼ばれる次のような言葉を引用する。

『SFの90パーセントはクズである。一一ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである。』

きれいごとではなく、私たちが時折「馬鹿ばっかり!」と吐き捨てたくなる現実があったとしてても、その現実を直視し受け入れた上で、そう吐き捨てた自身の弱さを「反省」し、また「理想」を目指して、一歩でも前に進もうとする、そんな「パッとしない愚直さ」こそが、「リベラル」にしか持ち得ない特性なのではないだろうか。

ともあれ、「そういふものに わたしはなりたい」のだ。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈完結〉を受け入れるということ。一一Amazonレビュー:矢寺圭太『ぽんこつポン子 9』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月16日(金)22時29分30秒
  .

 〈完結〉を受け入れるということ。

 Amazonレビュー:矢寺圭太『ぽんこつポン子 9』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2C55JZ4FAFR14

.
次巻での完結が予告されている。これはもう冗談でも何でもないだろう。ポン子ともあと1巻でお別れかと思うと、残念でならない。
しかし、ゲンジが、自身の死を受け入れることで、妻の死をも受け入れ、今をよりよく生きようとしていることに学ぶならば、私たちもたぶん『ぽんこつポン子』という作品の〈完結〉を、感謝を持って受け入れるべきなのかもしれない。

『ぽんこつポン子』のテーマである「心」という問題は、私にとって長らく考え続けてきたものであった。
最近も、池辺葵の、少女型ロボットを主人公にしたコミック作品『私にできるすべてのこと』についてのレビュー「心など無くても感情ならきっとある。」で、私は現時点での「人間以外の存在における、心の問題」を論じている。レビューのタイトルからもお分かりいただけようが、私はそこで、いわゆる「心」と呼ばれているものと、「感情」とを区別して、「感情」的なものであれば、あらゆるものに宿っていても不思議はないし、そもそもそれを否定することは誰にもできない、と論じている。なぜなら、「心」というものの存在は、実際には「自分の心」しか確認できないものであり、目の前に存在する親兄弟を含めた「他人」の「心」の存在さえ、実際には「確認する」ことなどできないからだ。

SFを読む人なら知っていると思うが、数学者アラン・チューリングもまた「心」の問題を深く考え、機械に「心」が宿る可能性を認めた人だった。
私たちが、外から対象を眺めて「心」の有無を「感じる」ことしかできない以上、人間と区別がつかないほど巧妙に作られた「ロボット」には、「心」を認めるしかないのであり、それは「人間の他人」に「心」を認めることと、何ら区別はないからである。

私たちは、どうしてアトムやポン子に「心」の存在を認めてはいけないのだろう。それは「非科学的」であり、愚かで幼稚なことだからだろうか。
しかし、ロボットに、あるいはAI(人工知能)に、「心」あるいは「心のようなもの」、さらに言えば「感情のようなもの」が宿る可能性というのは、科学においても、完全に否定しさることはできない。だからこそ、「シンギュラリティ」問題でも、科学者の意見が別れるのである。
「AIなど、所詮は膨大な演算のこなすだけの、高性能計算機でしかない」という言葉に対しては、「生物が、非生物から生まれたように、機械が途方もなく複雑化する過程で、心のようなもの、あるいは演算からの逸脱が生まれないと、どうして言えるのか。どうして、その逸脱が累積的に発展しないと言えるのか」と、私は反論したい。
そもそも「科学」とは、「絶対(真理)」ではなく「仮説」であり、現実の場においては「想定外」の事故や逸脱は常に発生するものなのだ。だから「断定」はできまい、とそう思う。

ともあれ、「他人」に「心」を想定することが、その「類推と蓋然性の高さ」において許されるのであれば、どうしてアトムやポン子に「心」を見てはいけないのか。どうして、犬や猫に「心」を見てはいけないのか、どうして草花や鉱物に「気分のようなもの(原始的な心)」を「想定」してはいけないのか。

私は「人型ロボット」の「心」の問題を、科学的に追求した先駆的SF小説、瀬名秀明の『デカルトの密室』(と、そのシリーズ作品)を読んで以来、ずっとこうした問題を考え続けている。いろんな科学書を読みながらも、頭のどこかには「心」の問題がある。
例えば、「量子ジャンプ」の問題は、「機械」が「心を持つもの」へと「飛躍」する瞬間の可能性を語ってはいないか、「粒子と波動の重なり合った存在のあり方(コペンハーゲン解釈)」とは「観測した途端に、心の存在が消える」ことの説明にはならないか。つまり「人間を、あるいは脳を、いくら解剖しても、心は見つからないのと同様に、機械の中に心を見つけられないのは、ある種の、観測問題」ではないのかと、といった具合である。

そんなことを考えながらも、多くのファンと同様に、私は『ぽんこつポン子』という作品に「癒され」ながら、楽しんできた。

最近、何かのテレビ番組で、『約束のネバーランド』を紹介して「最近のマンガは、昔のマンガとは違い、人気があるからといって無理な引き延ばしはせず、適度なところで完結させるので、作品としての完成度が高いまま終われる」といったようなことが語られていたが、たしかに『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』といった超ド級の人気作品であっても、人気がある間に、節度を持って完結をしている。これは、作者自身が絶望させられた『ドラゴンボール』などの「悲劇」を知っている者にとっては、驚くべき「改善」だと言えるだろう。

だから、『ぽんこつポン子』が終わってほしくないと願うファンの気持ちはよくわかるし、私にもそんな感情があるのだけれど、やはりポン子たちのために、私たちファンは「完結」を受け入れるべきなのではないだろうか。
これは「無理な延命措置」は、当人のためのものではないというのと、同じ事情だと思う。無理に引き延ばして、(例えば、アニメ『けものフレンズ 2』のように)ポン子が「似て非なるポン子」になるくらいなら、ポン子との「別れ」を、私たちも引き受けるべきであろう。

ポン子の「心」を物理的に確認することはできなくても、それが「心」として認知できるならば、そんな「心」に物理的な媒体は必要なかろう。つまり、「ポン子の心」は、私たちの心の中に生き続けるだろうということである。

このようにして私は、ポン子たちとの別れについて、心の準備を進めている。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

良識派・高橋昌一郎の〈衣の下〉は「原発再稼働派」一一Amazonレビュー:高橋昌一郎『20世紀論争史 現代思想の源泉』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月16日(金)22時27分57秒
  .

 良識派・高橋昌一郎の〈衣の下〉は「原発再稼働派」【増補12版】

 Amazonレビュー:高橋昌一郎『20世紀論争史 現代思想の源泉』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2R79T8V19PUBR

.
 【補記1】(2021.4.3)

昨日アップした私のレビューに対して、レビュアー「bluegreen」氏から反論があったので、それに対する再反論を「増補」してアップしたところ、さっそく「増補版」レビューが「削除」されたので、再アップしておきました。

「反論」ではなく、「管理者通報」で言論封圧か。
「科学」の世界とは違い、「政治」がらみだとよくあることです。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記2】(2021.4.3)

本日2回目の削除で、再アップしました。
つまらない奴です。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記3】(2021.4.4)

また削除されたので、再アップしました。
3回目の削除です。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記4】(2021.4.5)

また削除されたので、再アップしました。
4回目の削除です。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記5】(2021.4.6)

また削除されたので、再アップしました。
5回目の削除です。

なお、本稿末尾に【補論1 高橋昌一郎教授も、企業から競争的資金提供を受けている】を追加したので、是非ご参照ください。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記6】(2021.4.7)

また削除されたので、再アップしました。
6回目の削除です。

毎日「削除」ですね、高橋昌一郎ファンのストーカーさんは。
高橋先生の「情報文化研究会(AIC)」では、こういうネット・ストーカーをどう評価するんでしょうか?

本稿末尾に【補論1 高橋昌一郎教授も、企業から競争的資金提供を受けている】を追加したので、是非ご参照ください。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記7】(2021.4.10)

また削除されたので、再アップしました。
7回目の削除です。

物事を「一面的にしか捉えられない」薄っぺらな人というのは、何も「bluegreen」氏ばかりではありません。

「2021紀伊國屋じんぶん大賞」第1位に選ばれ、ベストセラーとなった、人類学者デイヴィッド・グレーバーの快著『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』は、専門書らしからぬくだけた文体で、一見読みやすそうな印象を与えるのですが、じつは本格的な学術書であり、けっこう分厚い大著。
そのため、最後まで読みきれなかった読者が続出したため、「長すぎる」だの「文章が冗長だ」などと、自分の「読書能力の低さ」を棚に上げ、それを自己正当化するために、クソくだらないレビューを投稿するレビュアーが何人も登場しました。

そんな同書の中で、グレーバーは、次のように書いています。

.
『 社会問題一般の議論をめぐる混乱のかなりの部分は、たいてい、このような異なる次元の説明を、それらが同時に作用していると考えるのではなく、どれかひとつの次元に帰着させようとするところに起因している。たとえば、ブルシット・ジョブを政治的に説明するのはまちがってるよ、といってくるひとがときどきいる。そんな仕事があるのは、だれだってお金が必要だからだろ、というのである一一まるで、こうした考えが、わたしの頭をまったくよぎらなかったかのように。ここでは、ブルシット ・ジョブに就いている人びとの主観的動機だけで考えればよいとされているわけで、お金を稼げる唯一の方法がなにゆえそもそもブルシット ・ジョブになってしまうのかといった問いなど、眼中にないのである。
 文化-政治の次元においてはもう最悪である。エリート社会のなかでは、動機を問題にできるとすれば、それは個人的な次元について語るばあいのみであるという、暗黙の了解が形成されてきた。それゆえ、権力的立場にある人間たちは公言していないことでもやるものだ、あるいは、公言しているのとはちがった理由でなにかをやることもあるのだといった意見すらも即座に拒絶され、「パラノイア的陰謀論」とレッテルをあてがわれておしまいなのである。ホームレス問題を原因から根本的に解決することは、保守派(ロー・アンド・オーダー)の政治家とか社会保障の供与者の利害とどっかでぶつかるんだよね、などというと、それはホームレスがいるのは秘密結社の陰謀だというのとどこがちがうの、とか、銀行システムはトカゲが操っているというのとおんなじだよ、などといわれてしまうのである。』
(デビッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』P207)

これはまさに、「bluegreen」氏のような読者のことを書いているわけですが、「bluegreen」氏には、きっと、この文章の意味を、正しく取ることはできないでしょう。

簡単に言えば、単細胞な人間は、物事の多面性を見ることができないから、いろんな側面を切り捨てて単純化し、それで理解したつもりになるものだ、ということです。

この問題については、前記『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』のレビュー末尾に付した、【補論 読解力と思考力】に詳述していますので、「長い文章でも読める」方限定で、是非ご参照ください。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記8】(2021.4.12)

また削除されたので、再アップしました。
8回目の削除です。

しばらく削除が間遠になっていたのですが、私のレビューへの「役に立った」数が増えてきたので、また焦りはじめたんでしょうね。

「bluegreen」氏の人柄をよく表した「高橋さんは原発推進派ではないんだがww」というタイトルのレビューと、私のレビューの「役に立った」は、今朝の時点で、ともに「6人」でした。
私のレビューは「補記」も含めて、あれだけ長いのに、読んで下さった方には感謝です。

ともあれ、レビューを読み比べれば、中身の違いは歴然なので、どうしても読ませたくないんでしょう。その気持ちは、よくわかります。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記9】(2021.4.14)

また削除されたので、再アップしました。
8回目の削除です。

「bluegreen」氏の人柄をよく表した「高橋さんは原発推進派ではないんだがww」というタイトルのレビューと、私のレビューの「役に立った」は、今朝の時点で、ともに「8人」でした。

ところで、無名の私のレビューの場合、読んでくれた人の中からしか「役に立った」を押してくれる人はいないでしょう。
一方、高橋昌一郎教授には、大勢のお弟子さんや学生や同僚や「情報文化研究会(AIC)」の仲間がいるはずですから、私の高橋先生への「隠れ原発文化人」呼ばわりを不当だと思う人が大勢いるなら、高橋先生擁護の「bluegreen」氏のレビューには、何百という「役にたった」がついても良さそうなものなのですが、なぜか現実には、そうはなっていません。

これはもしかして、高橋昌一郎先生の周囲にも、私と同意見の人が、けっこう多いということなのではないでしょうか。だから、あえて、高橋先生擁護には加わらない。

それとも、高橋昌一郎ゼミの学生さんも含めて、高橋教授の新著を読まないから、レビューをチェックしたりもしない、単なる無関心ということでしょうか?

いずれにしろ、「bluegreen」氏のレビューへの「役にたった」数が、こんなに少ないというのは、とても興味深いことだと思います。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記10】(2021.4.15)

また削除されたので、再アップしました。
9回目の削除です。

「bluegreen」氏の人柄をよく表した「高橋さんは原発推進派ではないんだがww」というタイトルのレビューと、私のレビューの「役に立った」は、今朝の時点で、ともに「8人」でした。

ちなみに、たび重なる削除で、実際には、私のレビューの方が「可読時間」が短いので、本当なら、もっと「役にたった」数が増えていてもおかしくありません。
つまり、bluegreen」氏のレビューとは、対等な比較ができないわけです。

---------------------------------------------------------------------------------
 【補記11】(2021.4.16)

また削除されたので、再アップしました。
10回目の削除です。

本年(2021年)4月2日に、「bluegreen」氏のレビューへの反論として書いた【「bluegreen」氏による反論に対して】(下に収録)に、「bluegreen」氏のレビュー全文を引用したつもりだったが、最後の部分が切れていたようなので、今回は確実に全文を紹介しておきます。もうこれ以上、増えることはないはずです。(なお「1行空け」は詰めてあります)

.
『年間読書人のレビューを見て???と思ったので、コメントしたい。
あれだけの分量を何を思いながら書いたのか、よほどのコンプレックスと執念を感じるほど、異様としか言いようがない。。。
いったいどこから高橋さんが原発推進派と断言しているのか??この本の内容を全然理解できていないのを露呈しちゃってますよ。
2011年震災直後、週刊現代の高橋さんのインタビューをご一読あれと言っておこう。「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない」と答えている。Twilogにある。
レビューは自由とはいえ、個人的な憶測で高橋さんを「 原発再稼働派」と歪曲して「監視が必要」などという異常な論理を、堂々と書評として載せてしまうところに怖さを感じる。
そもそも本著は大学生を対象としていると「おわりに」にも書いてある。学生をもつ親としては、異様なレビュー内容の真偽に惑わされず、自身で本著を読んで学を深めてほしいと思う。』

.
このレビューの最後の部分で興味深いのは、本書が「大学生向け」だというのと、「bluegreen」氏が『学生をもつ親』だというのが強調されている点だが、普通の大学生なら、私の文章を理解することは可能でしょう。
さらに言うと、自分の親が、

 「高橋さんは原発推進派ではないんだがww」

なんて、「ネトウヨ」みたいな「草の生えた」文章をネットに書くのは、嫌なんじゃないかな?

ちなみに、現時点では、「bluegreen」氏と、私のレビューの「役に立った」数は、ともに「9人」です。

---------------------------------------------------------------------------------

 【「bluegreen」氏による反論に対して】

本日(2021年4月2日)、私のレビュー「良識派・高橋昌一郎の〈衣の下〉は「原発再稼働派」」が投稿された後に、「高橋さんは原発推進派ではないんだがww」というタイトルのレビューを投稿した「bluegreen」(AHBSTGMO2DC3Y2CZUE3WURUN22MA)氏が、私の「読み」を完全否定し、私を批判している。

そこで、この反論の根拠もろくに示しておらず、「印象操作」にしかならない、「bluegreen」氏による「決めつけだけの短文」に対し、レビュー本文の前に、私のこの反論を「増補」して掲げておこうと思う。
「bluegreen」氏の無内容なレビューによる「印象操作」によって、私の長めのレビューを最後まで読もうとする律儀な人が減ることがあってはならないからだ。

「bluegreen」氏のレビュー全文は次の通り(1行空けは省略する)なので、具体的に反論させていただこう。

.
『年間読書人のレビューを見て???と思ったので、コメントしたい。
あれだけの分量を何を思いながら書いたのか、よほどのコンプレックスと執念を感じるほど、異様としか言いようがない。。。
いったいどこから高橋さんが原発推進派と断言しているのか??この本の内容を全然理解できていないのを露呈しちゃってますよ。
2011年震災直後、週刊現代の高橋さんのインタビューをご一読あれと言っておこう。「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない」と答えている。Twilogにある。
レビューは自由とはいえ、個人的な憶測で高橋さんを「 原発再稼働派」と歪曲して「監視が必要」などという異常な論理を、堂々と書評として載せてしまうところに怖さを感じる。』

.
まず、私のレビューが長いからという理由で『よほどのコンプレックスと執念を感じるほど、異様としか言いようがない。。。』とのことだが、批判論文としては、決して長い文章ではない。

私のレビューは「面白かった・面白くなかった」と言ったような「結論だけの感想文」でもなければ、「あらすじ紹介文」でもなく、本書『20世紀論争史 現代思想の源泉』における、著者・高橋昌一郎の「秘められた意図」を、根拠を示して、批判的に論ずるものなのだから、長くなるのは当然なのだ。

たしかに、「bluegreen」氏の場合は、批判の論拠を示した文章を書けないので、「いつでも短い文章(印象論)」で済むのだろうが、私の場合「批判する場合には、十分に根拠を示さなくてはならない」と考えるので、どうしても相応に長くなってしまうのである。

したがって「bluegreen」氏の『いったいどこから高橋さんが原発推進派と断言しているのか??』という懐疑は、私のレビューを「読んでいないから」か「理解できなかったから」に違いない。理由は、嫌というほど懇切丁寧に、レビュー本文に示してある。

「bluegreen」氏は、高橋昌一郎が「原発再稼働派」ではない根拠として『2011年震災直後、週刊現代の高橋さんのインタビューをご一読あれと言っておこう。「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない」と答えている。Twilogにある。』と説明しているが、原発事故の直後に質問されれば、当然、「原発文化人」の多くも、そのように答えただろうことは、自明である。

逆に、あの事故の直後に「いやいや大丈夫です。人類は、原子力を使いこなせるレベルにあります」などと答える馬鹿正直な「原発文化人」など、一人もいなかったのではないだろうか。
それはちょうど犯罪者が、捕まった後に「犯意」を否定するのと同じことだ。「そのような認識はなかった」「天地神明に賭けて、そんなつもりはなかった」といった具合である。しかし、こんな「自己申告」を鵜呑みにするというのは、知的に、いかがなものであろうか。

私がレビュー本文で、本書の文章を具体的に示しながら論じたように、高橋は事故後の著作である本書においても、架空の「助手」の口を借りて、

『「反科学思想」を身につけた人物、私の周囲にいくらでもいますよ。原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』

と語らせ、自身を投影した「教授」にも、それを否定させてはいない。

だが、これが『原子力開発や遺伝子工学』などの危険性を訴えて、その技術の凍結を望んでいる人たちを『「反科学思想」を身につけた人物』だと侮蔑するものであることは、明白だろう。

つまり、もしも高橋昌一郎が、今も本気で『「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない」』と考えているのであれば、原発の廃止を求めている人たちを支持こそすれ、こうした人たちを『「反科学思想」を身につけた人物』などと侮蔑するはずもないのである。

そもそも「bluegreen」氏は、私がレビューのタイトルを『良識派・高橋昌一郎の〈衣の下〉は「原発再稼働派」』としたことの意味を、全く理解していない。
このタイトルの意味は「高橋昌一郎は、人前では良識派の衣を着て、それを演じているけれど、その本性は、とうてい良識派とは言えない、原発再稼働派の原発文化人」である、というものだ。つまり「高橋の表面(衣)だけ見ていたら、騙されますよ」という意味でなのである。

もちろん、世の中には、高橋の「衣」に騙される人は多い。
高橋だって、だてに著作のたくさんある文筆家ではないのだから、凡庸な読者を欺くくらいの筆力はあるし、なにしろヒトラーの『我が闘争』を読んでも、当時のドイツでは無論、今の日本ですら「なかなか立派なことを書いている」などと宣うレビュアーが少なくないというのが、今の日本の知的現実なのだ。
だから、高橋の「立派な肩書き」と「心にもないタテマエ」に欺かれる読者が多いのは当然だし、だからこそ、そんなものに「騙されるな」と注意を促す、私のレビューにも存在価値がある。

表面的な理解で、高橋を擁護するような「bluegreen」氏のような人は当然いるし、まして高橋には現実に、多くの弟子だの学生だのがいるのだから、私のように正面切って批判をすれば、擁護に走る人は出てくるのも当然だ。
だが、「bluegreen」氏のレビューを読むかぎり、氏は単に「読めない」し「書けない」だけの読者なのだろう。この程度の薄っぺらな根拠で、私の「高橋昌一郎批判」に反論したことになるのなら、「リベラル」を「パヨク」と呼んで悪口を掻き立てる「ネトウヨ」のそれだって、「反論」ということになるだろう。

(以下、レビュー本文)
---------------------------------------------------------------------------------------------

本書が教えてくれるのは、「ひと通りの知識を持っていること」と「物事を本質的に考えられること」とは、まったく別物である、という「忘れられがちな事実」である。

本書の内容については、先行のレビュアーである「mountainside」氏が書かれているとおり『20世紀論争史を主に哲学?科学の対立を軸に総括した本』であり、『余りに多くの論争がぎっしり紹介されているので、個々の論点の解説が少ない。これでは初学者は理解出来ない。』という評価が、まったく正しい。
本書は、ある程度の予備知識がある者にとっては「ごく常識的な、ひと通りの紹介」の域を出るものではなく、ほとんど著者一人満足しているだけの「コーヒーうんちく」同様に、まったく「深み」のない「カタログ的テキスト」だ。
だから「本書を読んで、興味を持ったテーマがあったら、次はもっと突っ込んだ内容の本を読んでね」という感じの「入門書」的な本だと理解すれば、それで十分だろう。

しかし、この「思索的な深み」の無さは、何も本書にかぎった話ではなく、むしろ本書著者・高橋昌一郎の弱点であり、問題点があることを見逃すべきではない。

高橋は「科学史に精通した哲学者であり論理学者」であるから、その「頭の良さ」に非の打ち所はないのだが、しかし、高橋の「哲学」とは、「哲学史家」の「哲学」でしかない。
つまり、先行の哲学者の思想を、よく理解して解説するのはお得意だが、当人には「哲学」とか「思想」というほどのものはなく、彼の口から語られるのは、ほとんど「通り一遍の良識的見解」でしかないようなものなのだ。

例えば私は、本書の一ヶ月前に刊行された『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』(講談社現代新書)を読んでいるが、そのレビュー「フォン・ノイマンという〈善悪の彼岸〉」で、著者について、次のように評している。

.
『本書は、きわめて「良識的」な観点から、ノイマンという「異形の天才」の生涯を紹介し、論じている。
それは、著者が、責任ある日本の哲学者であり論理学者として、「科学」や「科学技術」のあり方に関わってきた人であることを考えれば、当然のことだ。』

これが、著者をあまり「褒めていない」評価だということに、お気づきいただけただろうか?

この『フォン・ノイマンの哲学』において描かれるとおり、ノイマンは広島や長崎に投下された「原爆」の開発リーダーだったばかりではなく、戦後も、その死まで兵器開発に携わった人物であり、そのずば抜けた頭の良さも含めて、「悪魔」のような学者であった。
こうした事実からすれば、著者・高橋昌一郎の「ノイマン批判」は、ごく常識的な「良識的」批判の域を一歩も出るものではなく、『著者が、責任ある日本の哲学者であり論理学者として、「科学」や「科学技術」のあり方に関わってきた人であることを考えれば』、ノイマンのことを「倫理的」に批判するのは、「本気」かどうかは別にして、立場上『当然のこと』でしかない一一という、これは、高橋の「ノイマン批判」の「深みの無さ(切実さのなさ、本気の感じられなさ)」に対する、「物足りなさの表明」だったのである。

そこで本書『20世紀論争史 現代思想の源泉』だが、本書でも、高橋の形式的な「良識的」コメントは随所に見られて、その「字面」だけを鵜呑みにすれば、高橋は「良識的なリベラル」だと感じられるだろう。しかしそれは、果たして正しい「読み」なのだろうか。

例えば、高橋は、「教授と助手の対話形式」で書かれた本書において、「助手」の『でも、科学者は、あくまで「真理」を追求しているはずですよね。』(P265)という質問に対し、自身に擬した「教授」の口を借りて、こんなふうに答えている。

.
『もちろん、そのような真摯な科学者も存在するだろう。しかし、圧倒的多数の科学者が直面している問題は、社会的地位や名誉の保持、研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争いなどで、とくに若手研究者などは、その中で右往左往しているのが現状だろう。』(P265)

そして、こうした「教授」の説明を聞いて、「助手」は『科学者も、欲望に塗れた人間だということですね。』(P266)と残念そうに返している。
しかし、ここで問題となるのは、このように「良識的」かつ「倫理的」に語っている、著者自身は、果たしてどうなのか、ということだ。

上のように『社会的地位や名誉の保持、研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争い』などについて「批判的」に書き、それを『科学者も、欲望に塗れた人間』なのだと「否定的」に語るのであれば、少なくとも著者自身は、そうした「世俗的欲望」から距離をおいて、「学者の本分」を貫いていなければならない。
自分がしてもいないことを、臆面もなく偉そうに、他人に要求したり批判したりするのは、「非倫理的」でもあれば「偽善的」でもあるからだ。

もちろん、本書著者である高橋昌一郎は、「哲学者」であり「論理学者」だから『研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争い』については、「文系学者」として、おのずと、かなりのところ無縁ではあろう。
しかし、では『社会的地位や名誉の保持』についてはどうか?

高橋が『社会的地位や名誉の保持』など気にせずに、自分の信ずるところを公言するような「正直な人間」であったなら、つまり、本書で紹介されるファイアアーベントのような人間であったならば、きっと高橋も、もっと面白い「本音」を、私たちに聞かせてくれたであろう。
つまり、ごく形式的な「良識的」意見や、常識的な「倫理的」意見、あるいは「ひと通りの正論」などではなく、世間の「良識」に疑義を呈するような大胆な「個性的意見」を、『社会的地位や名誉の保持』に配慮することなく、大胆に語ってくれたことであろう。
だが、高橋昌一郎という人は、そういう大胆さとは真逆に、「無難」な「良識派」でしかないのである。

しかし、そんな「無難な良識派」である高橋の「本音」が、チラリと覗く部分がある。
まさに、良識派著者の「衣の下の鎧」だ。

高橋は、本書の最終章である第30章「「危機」とは何か? 科学共同体×人間性」において、多くの人たちが「科学」を知ろうとせず、「科学」に対して感情的に反発する「反知性主義」である「反科学主義」的な「反科学思想」に陥っており、それがいたずらに「科学共同体の危機」を招いていると指摘し、次のように本書を締めくくっている。

.
『助手  ちょっと考えてみると、カーツの一項目の「反科学思想」を身につけた人物、私の周囲にいくらでもいますよ。原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。

教授  たしかに、実際に周囲を見渡してみると、少なくとも部分的にそのような傾向をもつ「文化人」あるいは「知識人」の方が、はるかに多いことがわかるだろう。
 もちろんカーツ自身も認めているように、科学に対するこれらの批判の中には、正当な内容も多く含まれている。しかし、現代社会においては、これらの批判が極端に誇張され、統合されることによって、一種の「反科学運動」が形成されつつあるように映る。カーツは、このような現状を「科学共同体の危機」とよび、「科学共同体とそれに関与する人々が、科学に対する攻撃を真摯に受け止めようとしない限り、反科学思想が勢いを増大させることは明らか」だと警告している。
 科学者として「科学共同体の危機」を強く訴えてきたカール・セーガンは、アメリカで一九九〇年に実施された意識調査の結果、「科学嫌いは公然の事実」と報道された新聞記事を人類の「悲劇の始まり」だとみなした。この調査によれば、「地球が太陽の周囲を一年の周期で公転している」という事実を、当時は半数以上のアメリカ人が知らなかったということなんだが……。

助手  もし現在の日本で調査を行ったら、そこまでひどい結果ではないかもしれませんが、「科学」と聞くだけで耳を塞いで思考を止めてしまう人が多いこともたしかだと思います。

教授  いわゆる「科学離れ」の傾向は、アメリカや日本だけではなく、世界各国でも大きな問題となっている。
 ただし、ここで注意しなければならないのは、科学技術の「進歩」そのものは、特に先進諸国の一般大衆から、強く歓迎されているという事実だよ。最新のスマートフォンやバーチャル・リアリティー・デバイス、ホログラムや万能翻訳機、レーザー治療やナノロボットといった新製品や新機能が登場するたびに、科学技術は次々と更新され応用されていく。そして、それが実生活に「有益」であるとみなされる限り、科学技術は、経済的・社会的に非常に高く評価される。

助手  それににもかかわらず、「反科学思想」や「科学離れ」が蔓延するのは、なぜでしょうか?

教授  SF作家のアーサー・C・クラークは「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」と述べている。要するに、我々は過去には考えられなかったような「魔法」を目の当たりにしているわけだが、その理由を一つ一つ明らかにする「科学的精神」が追いついていない。一般人は、一方では「魔法」を嬉々として受け入れながら、他方ではそれに「言い知れぬの恐怖感」を抱いているという奇妙な屈折した状況が続いているわけだ。

助手  私は文系だから「科学技術」について触れようとせずに生きてきたんですが、それではいけないということですね。とくに二一世紀以降の科学技術の進化と人間性への影響については、私たち誰もが考えていかなければならない大問題だとわかりました!』(P435~438)

.
ここを読めば、著者である高橋昌一郎が、「本音」では、「科学の発展を素直に追認しない一般人たち」を、いかに見下し、バカにしているかが察せられよう。

架空の「助手」の口を借りて『「反科学思想」を身につけた人物、私の周囲にいくらでもいますよ。原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』と、ミソもクソも一緒くたにして、「科学に無知」な「反科学思想」の持ち主扱いにして、「印象操作」の「レッテル貼り」を、意図的に行っているのである。

こんな人(高橋昌一郎)が、よくも『科学技術の進化と人間性への影響については、私たち誰もが考えていかなければならない大問題』などと偉そうに言えたもので、他人に「考えることを促す」前に、自分自身についての『科学技術の進化と人間性への影響』について、反省的に考えるべきであろう。いかに自分が、「学問的頭の良さと博識」によって「人間性」を歪め、その「傲慢不遜」を陰険に隠し持った人間になってしまっているのか、ということを。

もちろん『原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』たちには、連続的な共通点(欠点や行き過ぎ、過剰反応)もあるけれど、しかし『原子力開発』に反対している人たちと『超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している』人たちを一括りにして、大雑把に「反科学的思想」の持ち主だなどと言えるのであれば、本書著者の高橋昌一郎だって『社会的地位や名誉の保持、研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争い』やっている『欲望に塗れた』科学者たちと一括りにして、「同じ穴の狢」だと言えるだろう。だからこそ高橋は、「科学」を批判する人たちを、「反科学思想」の持ち主だと断ずることもできるのだ。彼らを、「自分たちの商売(科学)を、邪魔する者たち」だと考えるからこそ、彼らの批判には真摯に耳を傾けようとはせず、彼らを「科学の助言者」だと考える謙虚さも持ち得ないのである。

こう批判すると、高橋はきっと「いや、私は、批判には耳を傾けるべきだと考えているし、事実ここでも『科学に対するこれらの批判の中には、正当な内容も多く含まれている。』と書いているではないか」と言い訳するだろう。
しかし、「反科学的な言説」にも少なからず「正当な内容」が含まれているなどといったことは、わかりきった大前提でしかない。
なぜなら、現実問題として、科学者たち、あるいはその周辺の「学者」たちである『圧倒的多数の科学者が直面している問題は、社会的地位や名誉の保持、研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争いなどで、とくに若手研究者などは、その中で右往左往しているのが現状』なのだし、所詮は『欲望に塗れた人間』でしかないのだから、彼らを「野放し」にはできず、適切な「監視」や「批判」が必要だというのは、高橋自身も認める、論を待たない事実だからである。

そもそも、本書はじつに「うさんくさい科学啓蒙書」なのだ。
と言うのも、本書の『20世紀論争史を主に哲学?科学の対立を軸に総括した本』であり、『余りに多くの論争がぎっしり紹介されているので、個々の論点の解説が少ない。これでは初学者は理解出来ない。』という「形式」は、著者の「知的優位」を誇示するためのもので、その「ひけらかしの権威」によって「科学技術の前にひれ伏さない人たち」を「反科学」の「反知性の徒」だと批判することを正当化する、そんな意図が本書には見え隠れするからである。

著者は「あとがき」にあたる「おわりに」で、読者に対し、本書で紹介された数々の論争について、自分でもその議論に参加してみること(そのような読み方)を要望して、次のように書いている。

.
『 読者には、ぜひ一緒に議論に参加していただき、多彩な「論争」を上空から「俯瞰」して、何が二〇世紀の「源泉」で生じたのか、幅広い視野で把握していただけたならと思う。』(P441~442)

つまり、高橋は、自身が、本書で紹介された数々の「論争」について『上空から「俯瞰」』できていると思っているし、自身には、それが可能なほどの『幅広い視野』がある、と思っているのである。それを信じて疑うことを知らないからこそ、このように、読者に対しても『広い視野』に立つことを望むことが出来るのだ。

言い換えればこれは、自分は「視野の広い」人間であり、一方『原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』たちは「視野の狭い」人間だ、ということである。
だからこそ「科学技術」に対して「わかりもしない馬鹿どもが、身の程知らずに、あれこれ注文をつけるな。お前らは黙っていろ」と言いたいのである。

そして、本書がじつに「うさんくさい科学啓蒙書」だというのは、本書が「反原発運動なんかやっているやつは、科学と魔法の区別もつかないような、愚昧の徒である」という「印象」を、世間に刷り込むための「プロパガンダ」の書であるからだ。

例えば、本書が採用してる「教授と助手(あるいは学生)」、昔ならば「師匠と弟子」の問答形式というのは、読者を「誘導」するのに持ってこいの、昔ながらの書き方だ。

私は、キリスト教神学研究者である山本義久教授の『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』(新潮選書)のレビュー「現代日本における、巧妙な〈キリスト教布教の書〉」(2021年2月14日)で、仏教学者・佐々木閑教授の『別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』と併せて、この「教授と学生の対話」形式を、次のように解説している。


『そもそも、宗教書における「対話形式」というのは、しばしば「ご都合主義的に欺瞞的」なものが多い。
私が最近読んだ、仏教学者・佐々木閑の『別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』なんかも、その好例であった。(拙レビュー乞参照)

「対話形式」というのは、読みやすいし「読者の立場を代弁する(はずの)客」の側(本書では「学生」)の発言を、著者が都合よくコントロールすることができる。
「客」に、「作者の立場を代弁する主人」(本書では「哲学者」)に対して、読者が常日頃から抱えているであろう「疑問」について質問させることで、読者を満足させるのだけれど、当然のことながら「客」の発する「鋭い質問」は、決して「真の急所」を突くものではなく、その手前で「寸止め」されるものでしかない。

作者は、読者が持っているだろう疑問を先回り的に「客(学生)」に提示させて、読者の満足をさせながら、手慣れた手つきで、その追求を、誤魔化しで、かわす。素人が思いつくような「鋭い質問」など、彼らにとっては、何度もなされた「よくある質問」に過ぎないから、その上手な回答については、遠の昔に練りこまれて準備されていたのである。
だから、読者は騙される。最後の急所まで突き進めずに、著者に体良く、煙に巻かれてしまうのだ。こうした「対話形式」による「斬り込みと切り返し」とは、作者が読者に仕掛けた「肉を切らせて骨を断つ」式の、巧妙な欺瞞なのである。』

つまりは「学生」や「助手」の側は、「読者」に近い位置を与えられながらも、結局は著者の思惑どおりに、読者を誘導的に「共感」させるための「憑代(依代)」でしかない、ということなのだ。
現に、前述のとおり、本書の最後の最後では、「助手」は「反科学思想」を無条件に蔑視する「著者の操り人形」と化している。

本書著者の高橋昌一郎は、自身が「科学や哲学について博識」なだけではなく、「幅広い視野」を持った人間だと自負しており、それが過ぎて「増上慢」に陥っているのであろう。だからこそ、安易かつ迂闊にも、

『「反科学思想」を身につけた人物、私の周囲にいくらでもいますよ。原子力開発や遺伝子工学の廃止を求め、臓器移植や動物実験の禁止を訴え、西洋医学や精神医学に不信感を抱き、有機栽培や自然食品を好み、環境保護運動やフェミニズムに賛同し、ヨガや気功を実践し、超自然現象や神秘主義に憧れ、星占いや宗教に基盤を置いて生活している人物……。』

などと、他者の「正当な不安や心配」への配慮を欠いた書き方をしても、読者がそれを鵜呑みにしてくれるだろうと、不遜にもそう考えたのだ。

だが、読者は「科学バカ」や「哲学バカ」ばかりではない。
「文章」のちょっとした「言い回し」に敏感に反応する「文学バカ」もいるのだということを、高橋は『広い視野』に立って認識すべきだし、もっと「文学」方面や「人間心理」方面についても学ぶべきだろう。

無論、すべてのことを専門的に学べる者はいない。人間には、それだけの時間が与えられていないからなのだが、しかし「人間として、謙虚である」「人間として、誠実である」ということは、「専門的知識」以前に学んでおくべきことだ。「腹の底で、人々を小馬鹿にしながらも、口先だけはご立派なことを曰い、それで世の中がうまく渡っていける」などといった考えが「人間として、恥ずべきもの」だということくらいは、子供のうちに学んでおくべきものなのだ。
そして、本物の馬鹿でなければ、反省は今からでも遅くはないのである。

本書著者・高橋昌一郎の「本音の立場」がわかりやすいのは、特に「原発問題」についてである。

.
『 すでに話したように、現在の地球上には、いまだに二万発を超える核弾頭が存在し、中には、原子爆弾の数千倍の威力をもつ水素爆弾も含まれている。核兵器を保有する各国々の政府や軍部が、故意あるいは過失によって核戦争や核爆発を引き起こす可能性もまったくないわけではない。つまり、核兵器による人類滅亡の危機は、いまだに完全に回避されてはいないんだ。
 さらに放射能汚染問題が、原子力の平和利用にも影を落としている。世界人口の急増に伴って増加し続けるエネルギー需要に対して、原子力発電が世界で果たしている役割には計り知れないものがある。しかし、世界各地で頻発する原子炉の事故は、放射能汚染に対する恐怖を拡散させている。自然災害に加えて、ずさんな危機管理体制による人災は、原子力開発そのものに対する不信感を生み出し、結果的に「あらゆる原子力発電所を閉鎖すべきだ」という「反原発運動」にまで発展している。』(P429~430)

見てのとおり、高橋昌一郎は「原発文化人」の一人である。
原発関連企業からお金をもらっているかどうかは不明だが、「原発推進派」であり、「原発再稼働反対派」を「反科学思想の持ち主」だとする「御用文化人」であるというのは、見てのとおりの事実だ。

この文章も、一見したところでは「原子力技術の危険性」を語って「警鐘を鳴らしている」かのように見える。特に「原子力兵器」については、批判していると言っていいだろう。高橋の言うとおり『核兵器を保有する各国々の政府や軍部が、故意あるいは過失によって核戦争や核爆発を引き起こす可能性もまったくないわけではない。』のだが、しかし、高橋が擁護する「原子力発電=原子力の平和利用」についても、これまでに幾度となく「故意(の不作為)あるいは過失によって」事故がくり返されてきており、そうした「人為事故」が無くなることはないと適切に判断したればこそ、多くの人は「原発再稼働」に反対しているのである。

高橋のこの文章で注目すべきは『自然災害に加えて、ずさんな危機管理体制による人災は、原子力開発そのものに対する不信感を生み出し』という部分だ。

言うまでもなく「原発のずさんな管理」の問題は、『自然災害』が「原因」ではない。
「警告されていた巨大津波に対して、何の対処しなかった」という事実からも明らかなように、問題は「自然」そのものではなく、「自然」に対して十分な配慮を怠った「人為(ヒューマンファクター)」なのである。原発事故の9割は「人為的な事故」であり、「自然災害」のせいになど出来ないのだ。(※ ヒューマンファクターとは、「錯覚」「不注意」「近道行為」「省略行為」の4つに代表される人間の行動特性である。)

それなのに、高橋は、意図的に『自然災害に加えて、ずさんな危機管理体制による人災』と、「主従を逆転させた」書き方をしている。まるで「自然災害」対策さえしっかりやっておけば、原発での「人為災害」は「ほとんど起こらない」とでも言わんばかりに。

しかし、そうではないからこそ、科学者も含めて「原発再稼働」に反対する人が少なくはないのだ。
人間は必ず「楽観する」「手抜きをする」「金儲けに走る」もの、つまり科学者と同様に『欲望に塗れた人間』であり、「原子力発電」という技術は「当面、決して万全にはならない」と適切に判断し、それに伴う「巨大なリスク」を勘案したればこそ、原発再稼働にも反対するのだし、世界的にもその方向に進んでいるのである。

そして、高橋がいかに賢かろうが、世界に多く存在する「反原発科学者」すべてよりも「原発の危険性」に詳しいなどということはありえない。少なくとも、そう考えるのが「謙虚」な姿勢というものなのだ。

なるほど、「文系学者」である高橋昌一郎は、「理系学者」のように『研究費の獲得と技術応用やビジネスに関わる金銭的な思惑、さらにノーベル賞授与に代表される科学者グループ間の先取権争いなど』に走る蓋然性は低いだろう。なぜなら「お呼びではない」からだ。
しかし、著作のたくさんある「文系学者」である高橋にも、「原発産業」や「原発推進政府」からならば「お呼び」かかっていても、何の不思議もない。かつて「原発安全神話」を振りまいた「御用学者や御用文化人」が大勢いたし、今もいる、という事実を忘れてはならない。

高橋昌一郎が「本当はどうか」については、隠されていればこそわからないことなのだろうが、高橋もまた『欲望に塗れた人間』であろうことは、他人事のようにそれを批判してみせる臆面の無さからも、明らかなのである。

今後、高橋昌一郎という「学者」は、そのような目で「監視」されるべきだろうと私は考えるが、ご当人はいかがお考えだろうか?
「どうか、私が道を踏み外さないように見守り、必要と思えば、批判的な助言を与えてほしい」と、そう望むつもりが、高橋自身にはあるだろうか?

 (2021年4月2日)
---------------------------------------------------------------------------------------------

 【補論1 高橋昌一郎教授も、企業から競争的資金提供を受けている】(2021.04.06)

レビュー本文に、引用紹介しているとおり、高橋昌一郎は、科学技術系の研究者が、企業から資金提供を受けることに、否定的見解を示している。
だが、当の本人も、じつは企業から資金提供を受けているのだ。

ご当人としては「科学哲学を講じている文系学者だから、資金提供は研究に影響を与えない」という立場なのかも知れないが、世の中には「無料(ただ)ほど怖いものはない」つまり「見返りを求めないという便宜供与ほど怖いものはない」という格言もある。
哲学者であり論理学者である高橋昌一郎にとっては、こうした世俗的格言など、顧慮に値しないものなのだろうか。

.
『情報文化研究会(AIC)は、「情報文化論および関連諸領域に関する研究の推進と交流」を目的として1996年に発足しました。主宰者は、高橋昌一郎(國學院大學教授)です。
(中略)
相互コミュニケーションを重視するため大掛かりな学会にしていませんが、小規模ながら研究活動は社会的にも高く評価され、これまでに「日産科学振興財団ワークショップ助成」(1999年度)などの競争的資金を獲得しています。』
(「情報文化研究会(AIC) - Google Sites」より)

このように高橋は、「日産」から資金提供を受けている。
少なくとも、日産に関係する技術開発については、否定的なことは言わないだろう。なにしろ学者も『欲望に塗れた人間』なのだから。

また、大学を辞めた後に、日産に天下りなんてことはないようにしてほしい。ああ、民間から民間は、天下りとは言わないか。似たようなものだとしても。

『競争的資金(きょうそうてきしきん)とは、資金配分主体(=お金を出す側)が、研究課題などを(自組織内に限らず)広い範囲から募集して、応募してきた研究課題を評価づけし、それによって採用する研究(と採用しない研究)を分ける、という手順を経て、結果として採用された研究を行う研究者などに配分する(される)研究資金を指す用語である。』(Wikipedia「競争的資金」)

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

どこか寂しくも温かい〈人生の物語〉一一Amazonレビュー:やまだ紫『性悪猫』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月10日(土)23時41分45秒
  .

 どこか寂しくも温かい〈人生の物語〉

 Amazonレビュー:やまだ紫『性悪猫』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3GCCQCWBXBF0X)選集版
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3NFIOOIC4GVY5)文庫版
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1K2B5W0FYIC4Z)単行本

.
1970年代後半に執筆され、1980年に単行本化された、猫の生活を擬人化して描いた作品集。
私が読んだのは、1990年の文庫化に続く、2009年の二度目の再刊版である。

私は、「猫」にも『ガロ』系のマンガにも、あまり興味はなかったが、マンガという文化自体には子供の頃から親しんできたし、その意味で、日本のマンガ史やアニメ史には継続的な興味を持っており、折に触れて、そうした本を読んできた。古いところでは石津嵐の『秘密の手塚治虫』『虫プロのサムライたち』、新しいところでは中川右介の『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』といったものである。

今回、やまだ紫の『性悪猫』を手に取ったのも、最近刊行された、白取千夏雄の遺著『『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白』を読んで、そこで絶賛されている、やまだ紫を知り、代表作くらいは読んでおこうか、と思ったからである。

ちなみに白取は、今や「伝説のマンガ誌」となった『ガロ』の元編集者で、やまだ紫とは「作家と編集者」という間柄で知り合うようになり、結婚生活を送ったのち、やまだの急死により死別している。やまだには離婚した前夫との間の娘が2人いて、白取とは、子連れの再婚であった。
白取の『『ガロ』に人生を捧げた男』を読むかぎりにおいては、白取は、やまだに、結婚前はもちろん結婚後も「作家」として惚れ込んでおり、結婚後は、十数歳年上だったやまだを、「妻」としても熱愛し続けたようだ。
無論、多少の夫婦喧嘩くらいはあったようだが、収入は少なくとも好きな仕事に情熱を傾ける二人は、仲の良い夫婦であったようである。

.
『1966年、『COM』5月号でデビュー。以降同誌に精力的に作品を発表する。『COM』廃刊後は『ガロ』(青林堂)に発表の場を移し、1971年2月号に『ああせけんさま』が入選。1972年には漫画賞きっての難関であった『ビッグコミック賞』に「風の吹く頃」で佳作3席。
以後、結婚・出産による一時休筆を経て、『ガロ』誌上で『性悪猫』『しんきらり』などの作品を立て続けに連載する。』(Wikipedia「やまだ紫」)

上のとおり、やまだ紫は、デビュー後、『COM』『ガロ』といった、マニア系(マイナー系)のマンガ雑誌に作品を発表した後、一念発起し、メジャー系の『ビッグコミック賞』に応募して佳作入選を果たし、メジャー誌進出への道が拓けたところで、約5年にわたる休筆に入る。
この休筆の理由は、Wikipediaでは上のとおり『結婚・出産による』となっているが、じつは『結婚・出産』とそれに続く「夫からのDV、そして離婚」ということがあったと、白取の前記著書には書かれている。
やまだの前夫は、やまだが金にもならないマンガを描くことを快く思わず、それを許さなかったために、やまだは当初、夫の目を盗んで執筆していたのだが、それも出産で叶わなくなり、やむをえず休筆となったようだ。しかし、出産して休筆しても、夫のDVは収まることなく、子供の養育のために堪えに堪えていたやまだも、ついに離婚し、子連れで、マンガ界への復帰を果たすことになるのである。

本作品集『性悪猫』や、やまだの作品を評する場合、「メジャーマンガのようなストーリー性はないものの」「日常生活での、ふとした感情を、繊細な感受性によってすくい上げた作品」「優しさと詩情に満ちた作品」「折にふれて何度でも読み返したくなる作品」といった評価がなされ、それは全くそのとおりなのだけれど、やまだ紫のリアルな背景を知って読むと、そうした作風の出自が察せられて、とても興味深い。

まず、やまだが元より「感受性豊か」な人であったというのは、大前提である。
そのうえで、やまだが「日常生活」を描いたのは、マンガ家になったところで、ほとんど原稿料の出ないマイナー系マンガ誌に描いていたやまだは、おのずと貧しい生活を強いられており、世間並みの娯楽や気晴らしに興じるような実生活上の余裕はなかったであろうことが大きい。つまり、我慢を強いられる生活にあって、それでもやまだには「好きなマンガを描いて生活をしている」という自負があったのだ。

やまだの描く主人公たる「猫」が、他者の生き方に流されず、凛として自分の生き方を貫く「自負」の裏に、どこか「世間並み」には入れない「淋しさ」や「不安」のようなものが漂うのは、やまだの自負には「自身を励まさなければ、生きてはいけない」厳しい現実生活という「背景」があったからであろう。だから、

 『せけんなど どうでもいいのです/お日様いっこ あれば』(P14「日向」)
 『あほな おまいにゃ/なびかぬぞ…………。』(P28「柳の下」)

といった「孤高」宣言には、どこか自分を支えるための「強がり」めいた淋しさが漂い、雄々しさとか意気揚々といったニュアンスはカケラもないのである。
しかしまた、「強がり」だけでは持ち堪えられず、時に、優しく「保護されたい」とも思ってしまうから、

 『なまじ/こんなところ(※ 温かな場所)へ/連れられたので
  恐くなったんだ
  もう一度/あの世間へ放り出されたら/どうしよう/ ………… どうしようか』(P12「野良」)
あるいは、
 『私は/おかあさんであるから
  素直に
  言えないことも
  あるよ
  (中略)
  あのさ
  仔猫みたいに
  抱いてよ
  砂袋みたいに
  抱いてよ』(P54~58「梅雨」)
といった、自身の「不安」や「弱さ」を吐露した言葉にもなっているのであろう。(「※」は、引用者補足)

つまり、やまだ紫という人は、感受性豊かな人ではあったし、克己心の強い人ではあったけれど、最初の結婚には失敗し、前の夫との生活の中では「子供のために堪える(我慢する)」生活を、否応なく強いられた。だから、止むを得ず、けっして「世間並みの生活」など望まない、羨んだりはしないと、自分を叱咤しながら子供達を育て、やがて、意に添わぬ最初の結婚生活にピリオドを打ち、その後「作家と編集者」という関係の中で白取千夏雄を愛して、積極的に再婚を選んだのである。

したがって、やまだ紫の作品に漂う「いわく言いがたい微妙なニュアンス」というのは、読者が「励まされる」という言葉で表現するような「強さ」だけから生まれたのではない。

確かに、やまだは「強い」人だったけれども、そんな人でも時に「弱さ」を抱えて苦しんだのであり、そんな自身の「弱さ」と向き合いながらの表現であったからこそ、やまだの作品には「強さ」や「励まされる」といった言葉には収まりきれない「陰影」があったのだ。
例えばそれは、『苛立つのを/近親のせいにはするな/なにもかも下手だったのはわたくし/(中略)/自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ』(「自分の感受性くらい」)と歌った、茨城のり子の「決然とした強さ(男前な強さ)」とは、明らかに異質なものだったのである。

作品集『性悪猫』全体に漂うのは「いつかまた私は、この温かな場所から去っていかなければならないのかも知れない。その覚悟はある。しかし、だからこそ今だけは、この陽だまりで安らぐことを許してほしい」という、「祈り」のような感情だったのではないだろうか。

白取千夏雄は『『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白』において、愛妻であったやまだ紫が、お互いに尊敬しあい支え合い愛し合う関係の中で、急死したと語っている。私は、その「物語」を鵜呑みにはしないけれども、信じたいとは思っている。

『性悪猫』は、人間の生涯を象徴するような、どこか淋しくも温かい「物語」である。
.

(※ 本稿は、2009年刊「やまだ紫選集」版『性悪猫』のレビューの転載です。引用ページ数も、同版のものです)
.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

「自由意志」という信仰・〈決定論〉という救い レビュー:瀬尾武治『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月10日(土)23時40分10秒
  .

 「自由意志」という信仰・〈決定論〉という救い

 Amazonレビュー:瀬尾武治『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3PI8AUE34BHWG

.
「心理学的決定論」とは、心理学の立場から「すべては予め決定されており、人間に自由な決定権があるという感覚は、情報の決定的限定性による、錯覚(心理的誤認)にすぎない」とする議論である。

幸い本書は、おおむね好意的に評価されているようだが、これは著者が冒頭部分で、自ら本書を「トンデモ本」だと断じて、読者に「先制パンチ」を浴びせたからでもあろう。誰だって、著者が張った「予防線」を、あえて追認しての批判が容易でないことくらい、直感的に理解するからで、その意味では、著者の心理学的な奇略が、見事に的中したということなのだ。だが、無論それだけではない。

「心理学的決定論」において、最も重要な論点とは、「その考え方を理解できる」とか「私もその立場を採る」というすべての人たちも、実際には「すべては予め決定されており、人間に自由な決定権があるという感覚は、情報の決定的限定性による、錯覚(心理的誤認)にすぎない」ということを、「実感」としては理解できず、あくまでも「理論」的に「それも、十分あり得るだろう」という「知解」に止まらざるを得ない点だ。

キリスト教に詳しい人なら、「決定論」と聞けば、即座にカルヴァンの「予定説」を想起するだろう。
「人の運命(天国へ行けるか否か)は、全能の神によって、予め決定されている。なぜなら、神は全能であり、すべてにおいての支配者あるから、人間の努力で結果が変わるようなことはなく、すべては神によって予定されたとおりに起こるのだ」といったような考え方だ。

しかし、この考え方は、キリスト教徒の間でも、一般的にはあまり評判が良くなかった。
なぜなら「人間の努力」を、全く認めないものと理解されたからだ。「予め決まっているのなら、悪行をなしても、救われる人は救われるし、どんなに善行をなしても、神の救済予定に入っていない人は、絶対に救われないのだ。ならば、真面目に努力するだけ無駄だろう。救われるか救われないかは、完全に運命であり宿命なのだから」という具合に考えられたからだ。

もちろん、カルヴァン派の教会各派は、そのような考え方は誤解であると説明した。
「神は、その人が義において努力する人間であることを予め見て、救いを決定したのだ。つまり、神は時空を超えた完全な存在だから、不公平な結末を、その出発点において人々に与えたのではなく、未来におけるその人の生き方を見越した決定を、適切に与えたのである。それが予定と言われるものなのだ。このことは、時間が、過去から未定の未来へと流れる、今の連続としか感じられない人間には理解しにくいことではあるけれども、神が時間を超えた万能の存在であることを正しく理解するならば、決して理不尽な話ではないのである」といった具合に。

無論、こうした説明は、説明している牧師自身が完全に「知解」できていたわけではない。なぜならば、彼自身は「時空を超えた認識を持った存在」ではないからだ。
だから、カルヴァン派の信者たちはシンプルに「自分は、救われる側に予定されているはずだ」と信じることにした。現にこのように「神から与えられた天職たる仕事に懸命に取り組んで社会に貢献し、真面目に生きている私が、救われない側であろうはずがない」と考えたのである。これがマックス ヴェーバーの代表的著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に書かれたことだ。こうしたプロテスタンティズムによって、資本主義経済が発展し、近代資本主義が成立したのだと。

つまり、カルヴァン派の信者というのは、基本「真面目」なのである。
わかりやすい例を挙げれば、モンゴメリ女史の『赤毛のアン』に登場する、アンを孤児院から(男の子と間違えて)引き取った中年の兄妹の妹マリラが、いささか「堅物」に描かれるのも、彼女がプロテスタント的な「倫理観」を内面化した女性だったからだ。だからこそ彼女は、地味な服装をし、節約(清貧)を旨とし、一生懸命働く、敬虔な信仰の持ち主なのであり、そんな彼女からすれば、夢見がちで自由奔放なアンという少女は、ある意味で「神をも畏れぬ、不遜な存在」と映ったのため、当初はアンにとても厳しかったのである。
ついでに言っておくと、元外務省官僚の著述家・佐藤優も、カルヴァン派プロテスタントであり「昔から、自分の名前が、神の救済ノートに書かれているかどうかが心配でならなかった」というような話をしている。

つまり、ことほど左様に「予定説」「運命論」「宿命論」といった「決定論」は、人の生き方を束縛する、抑圧的な世界観として、一般には好まれなかったし、まして「神」の存在感が薄れていった近代以降には、そうした「決定論」は、人間を束縛する悪しき「世界誤認」だと、批判的に考えられるようになっていったのである。

だが、言うまでもなく、私たちは「完全に自由」な存在、などではない。「完全に自由」ではないどころか、あらゆる「条件」によって生き方を制限されており、その意味で「不自由の中で、可能なかぎりの自由を行使することに努力する存在」だというのが、リアルな「実存論」だと言えるだろう。
また、言い換えれば「自由を束縛する運命(宿命・予定・決定)に、意志を持って抵抗する」のが「人間の尊厳」だと考えられてきたのだし、これは「神なき時代」においては、ごく自然な「尊厳の防衛意識」だったと言えるのだ。

だからこそ、本書において著者は「この世界の実相(真実)が、決定論的なものであったとしても、私は前向きに生きるだろうし、生きられるはずだ」ということを、くりかえし強調しなければならなかったのである。でないと、カルヴァンの「予定説」がそう受け取られたように「予め決まっているのなら、悪行をなしても、救われる人は救われるし、どんなに善行をなしても、神の救済予定に入っていない人は、絶対に救われないのだ。ならば、真面目に努力するだけ無駄だろう。救われるか救われないかは、完全に運命であり宿命なのだから」と考える人がおおぜい出てくるのは、火を見るより明らかであり、それは本書著者にとっても決して好ましいことだとは思えなかったからである。
だからこそ、ここでも著者は「自分は」という限定を課しながらも「決定しているからと言って、希望を失わない、努力を放棄しない」と強調して、人々の「決定論」に対する不安感に対し、「予防線」を張らざるを得なかった。

けれども、多くの人には、「決定論」を受け入れた上で、それでも「定められた人生を、自然体で生きる」なんてことは出来ない。それが現実であり、人間なのだ。
例えば「一週間後に、君は死ぬ」という「決定事項」を告げられた人間のどれだけが、それまでと変わらずに「自然に生きて、死ぬ」ことなどできようか。そんなことができる強靭な精神力の持ち主というのは、それが「理想的」なものではあれ、「例外」であるというのは、間違いのない事実なのだ。

だから、本書に描かれた「心理学的決定論」を支持できるという人の9割は、それを「(確証できない)思考実験的な、面白い仮説」としか捉えておらず、決して「実感的に理解」しているわけではないし、そんなことは、そもそも不可能なのである。つまり、人間というのは「決定論」が「実感できないように作られている」のだ。作者も「人間の意識、まして自由な意識とは、後付け的に構成された情報形態であり、人間はその形式の外に出ることは出来ないようにできている」と、概ねそのように説明しているとおりなのだ。

つまり、私たち人間にとっては、「心理学的決定論」とは「実感的に確信」できるようなものではない。どんなに証拠を並べられようと「そのように考えることは、理論的には可能だ」とか、せいぜい「理論的には、そう考えてしかるべきだ」というものに止まらざるを得ない。どこまで行っても、「実感」はできないのである。

そして、かく言う私も、「心理学的決定論」は「ありうる、考えてみるべき(可能性)」とは思うけれど、そうだと「信じる」ことは到底できない。

私は、本書を20数ページ(「リベットの実験」の紹介部分まで)読んだ段階で、別の本のレビュー(池辺葵『私にできるすべてのこと』のレビュー「心など無くても感情ならきっとある。」)で「リベットの実験」を引き合いに出し、「ロボットの心」の問題を論じて、すべての存在の「心の問題」を語ったが、本書を読了して、私の「心」観が、本書著者のそれと、かなり近いことを確認できたし、サブカルチャー作品などの趣味も、とても似ていることがわかった。

しかし、本書で特に共感できたのは、主に「犯罪者」や「性格異常者」を扱った第2章までで、それ以降の「広範なジャンルにわたる類似事例の紹介」には、やや期待はずれなものを感じさせられた。

きっと、こうしたユニークな「広範な類似事例の紹介」を面白く読んだ読者は多いだろう。だが、私としては、なまじ興味の範囲が似ていたために既知の情報も少なくなく、かえってそれほど面白いとは思えず、むしろ、もっと「決定論」の問題点を突き詰め、掘り下げて欲しかった、と感じたのだ。

具体的に言えば、第2章で紹介される「決定論」の「社会的重大性」について、良識的予防線を張って後退りするのではなく、「決定論が正しかったとすれば、あらゆる犯罪者は、ついていない(アンラッキーな)不幸な人であり、彼ら自身を罰することは、社会的な報復以外の意味を持ち得ない」という「論理的帰結」の、その先を論じて欲しかった。

このことについて、もう少し説明しておいたほうが良いだろう。
「心理学的決定論」を「支持する」と言うのは簡単だが、本当にそれを支持しきることは、私たちにはできない。なぜなら、何度も書いているように、私たちはそれを「実感的に理解することができない」からだ。
「すべての犯罪者は、初めから犯罪を犯すように作られ、そうした環境にセットされた、必然的に犯罪者になるという不幸を課せられた、救いのない不幸な人たちである。そして、多くの場合、犯罪者の更生は望めない。なぜなら、彼の人格や性向は予め決定しており、人為的な矯正努力でどうなるものでもない。中には、変われる人もいるが、それも予め、変われると決まっていた例外的な存在であり、その意味では、実はその人も変わったというわけではないのである。したがって、多くの犯罪者に、更生を望むのは、もとより無い物ねだりに近い、反・決定論的な夢想にすぎない」という「決定論的な世界観」を受け入れることなど、絶対にできないからである。

これでも分かりにくいかもしれないから、さらに説明すると、こうした「救いのない決定的論的世界観」を受け入れた場合、私たちは、私たちのこの社会を「すべての犯罪を許容する(許す)社会」に変えるか、「犯罪者当人には、自由意志がなく、責任のないことを知っていながら、そのやむを得ない行為を、贖罪の犠牲的に罰することにする(情状は一切考慮せず、現象面と結果だけで判定して処罰する)社会」に変えるかの、二者択一しかないのである。だが、そんな「論理的であるがゆえに極端な、決定論に基づく社会」など作れるだろうか。そんな「非人情(=決定論)」に堪えられるだろうか。一一無論、それは無理であり、不可能事でなのである。

つまり私たちは、どこかで「個人の責任」と「環境的要因の責任」の間に線引きを設定しないではいられない。どこかで「罰するべき人間」と「許容すべき人間」の線引きをしなければならない。あるいは、「更生可能な人間」と「更生不可能な人間」との線引きをしなければならない。「線引きをする(何度でも線引きし直す)」とは、そのことで極論への「決定不可能性を保持する」ということだ。

「決定論」的に、犯罪はすべて「個人の責任」であり、犯罪者は「更生不可能」であり、したがって「許容すべきではない存在」であるなどと、「非情な判断」をするわけにはいかない。
私たちは、多くの犯罪者に対して「彼は不幸にも、先天的な性格障害を負っていた」ために、あるいは「不幸な生育環境」のために、「犯罪」に走らざるを得なかった「不幸な人」なのであり、「仮に先天性の性格障害がなければ、仮に不幸な生育環境がなければ」、彼は普通の人間として生きられたはずで、彼はいわば「被害者」なのだ。だから、そんな彼を、その犯罪行為のみを捉えて罰するのは、間違いである。彼に与えられるべきは「性格障害の除去」であり「真っ当な生活環境」なのだ一一といった「考え方」に共感するだろう。
だが、この考え方は「反・決定論」に立脚したものであることを、見逃してはならない。
私たちは「決定論」を信じていないからこそ「仮に○○であったならば、××であったろう。だから~」というふうに考えることもできる(考えうる余地を残す)こともできるのである。

だから「決定論的世界観」が、仮に「この世界の真相」であったとしても、私たちはそれを「真に理解する」ことはできないし、したがって、それに基づいた生き方をする(貫く)、あるいは社会を構成する、といったことも出来ないように出来ているのである。

そして、そうした「重さ」を認識できないままになされる、「決定論的世界観」を支持するだの支持しないだのといった議論など、悠長な戯言に過ぎなくなってしまうのだ。

 ○ ○ ○

それではなぜ、本書著者は、このような過酷とも呼んでいいだろう「決定論」を信じたいのだろうか。
それは多分、彼自身が語っているとおり、彼の「生育環境」が大きいようだ。

.
『 21歳の夏、自分の生い立ちからくる辛さが、恋人との離別をきっかけに爆発し、鬱になった。自殺をする以外に自分には方法がないと思った。自殺をすることが自分の意志だった。楽になるにはそれしかなかった。中高の時にも何度となく自殺を考え、住んでいるマンションの14階から地上を眺めた。飛ぶかもしれない自分を確認するだけで、不思議と心が穏やかになり、実際に飛び出すことはなかった。リストカットでホッとする心理とおそらく同じだったのだろう。』(P287~289)

私は、先に『本書を読了して、私の「心」観が、本書著者のそれと、かなり近いことを確認できたし、サブカルチャー作品などの趣味も、とても似ていることもわかった。』と、本書著者との「共通点」について書いたが、いくら「趣味」が似ていても、私と本書著者との決定的な違いは、ここにあることがわかった。一言で言えば、私は「幸せに育ってきた人間」なのである。

無論、自慢したいのではない。しかし、事実として私は「父に愛されてきた」という確信を持っているし、これまでの人生で「人に自慢できるような苦労はしたことがない。お金に困ったこともない」と思っているし、当然「自殺したいなどと思ったこともない」人間である。
だからこそ、「趣味」の部分で似ていても、それに対する向き合い方が、本書著者とはどこか違っていたし、そのあたりが原因となって、著者のスタンス(本書後半の書き方)に不満を覚えたのであろうと、気づいたのである。

私が、本書後半に覚えた不満、著者の決定論に関する「類似的事例の列挙」に対して、私が感じた不満とは、それが「自己防衛的」なものと感じられたためのものではないか。つまり、著者の「こんなに私の支持者はいるよ(守ってくれる人はいる)」という「誇示」的な姿勢が、私には「つまらない」と感じられたのだ。
私は、もっと「攻める(打って出る)」人間であり、「数に頼まず、権威を批判する」ことが好きな人間なのだ。だから、本書著者の「自己防衛に汲々とするような態度」に感心しなかったのではないか。

だが、これは多分「生育環境」から来る、致し方のない「世界への信頼度の違い」なのであろう。
私の場合は「恵まれた成育環境に由来する、世界に対する信頼の強さ」が根底にあるからこそ、大胆に世界に挑んでいくことができるし、そのことによって生きることの充実感を実感することもできる。
ところが、本書著者の場合は、その根底に「世界に対する信頼感の欠如(不信)」があるから、どうしても「自己防衛的」になってしまい、自分を守ってくれるもの、盾になってくれるものを、自分の周囲に集めて、それで「防御」を固めようとしてしまうのだろう。

ならば、本書著者が、一般的には「過酷なもの」と考えられる「決定論」を、わざわざ信仰的に信じるのは、なぜだろうか?

それは「自傷」や「自殺企図」と、似たようなものなのではないだろうか。
「決定論」を採用することで、彼は「もとより自分に、自由はない」「自分の責任ではない」と考えることができれば、その時彼は『不思議と心が穏やかになり、実際に飛び出すことはなかった。リストカットでホッとする心理とおそらく同じだったのだろう。』というわけである。

 ○ ○ ○

著者が、どのような人であろうと、それが「心理学的決定論」の価値を左右するものではない。「真理」としては、「決定論的世界観」が「正しいか誤り」かしかない。いや、本書の議論で言えば、それは「両方が重なったもの」でもありえれば、「観察者によって、どちらかの真相に収斂する」類のものなのかもしれない。つまり、どっちにしろ「全能の神」ならぬ私たちには、その「真相」を認知することができないのだ。

だから、「心理学的決定論」は、今後も研究されるべきだし、われわれ門外漢は、それを「思考実験的」に楽しむのもいいだろう。

しかし、ひとつだけ忘れてはいけないのは、「真相」がどうであれ、私たちが現実には「決定論」の強いる「現実認識の厳しさ」には耐えられないだろう、ということである。
それくらいは理解した上で、リアルに「決定論」の可能性を考えなければ、そんなものは必然的に「観念的なお遊び」に終わらざるを得ないのである。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈文学馬鹿を演じた男〉と、その便乗利用者 一一Amazonレビュー:中野剛志『小林秀雄の政治学』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月10日(土)23時38分22秒
  .

 〈文学馬鹿を演じた男〉と、その便乗利用者

 Amazonレビュー:中野剛志『小林秀雄の政治学』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RK9MZTAUIPYS7


「言葉」を粗末にする人間が、小林秀雄ファンを自称するというのは、滑稽でもあれば知的に悲惨なことでもあろうけれど、実によく見かける光景である。

たとえば、本書を「小林秀雄論の決定版」だと言って褒める人がいたとしよう。当然のことながら、その人は、これまで膨大に書かれてきた「小林秀雄論」を、かなりのところ読んでいなくてはならないはずだし、小林が論じた作家などについても、ある程度は読んでいなくてはならない。そうでなければ、そもそも、他の「小林秀雄論」との比較ができないのであるから、「決定版」だなどという判定のしようもないのである。

つまり、「小林秀雄論の決定版」といったような「軽率な断言」をする人というのは、良くて「小林秀雄読みの小林秀雄知らず」なのだが、実のところたいがいの場合は、肝心の小林秀雄すらろくに読んでいない、単なる「小林秀雄」のファンや信者でしかないのである。
彼らは、ろくに小林秀雄のことを知らないし、知る必要があるとも思っていない。だから、「言葉」が中身を欠いて、空疎なのだ。

さて、肝心の本書だが、端的に言えば本書は「B級の小林秀雄擁護論」だ。より正確に言えば「B級の小林秀雄正当化論」である。そして、小林秀雄を正当化することによって、ちゃっかり自分をも正当化すると同時に権威づけてもいるという、なかなか厚かましい「政治性」を持った本だと言えよう。

この程度の「小林秀雄擁護」に説得されてしまう読者というのは、そもそも小林秀雄がこれまで、誰からどのように批判されてきたのかを、ほとんど知らない人に違いない。

「そんなもの」など読んだことがなく、ただ「偉大な小林秀雄」が、戦後に「叩かれた」くらいの認識で、でも「偉大な小林秀雄」をそう簡単に批判できるわけはないし、どうせそんな批判は「戦後の時流に乗った、浅薄なものに違いない」と、そういう「願望充足的臆見」しか持たない、不勉強な人(勉強しない人)なのではないだろうか。
でなければ、今さら、この程度の擁護論で満足することなど、できる話ではないのだ。

本書の構成は、こうである。
(1)小林秀雄は、鋭い読み巧者である。
(2)したがって、小林が戦時体制に迎合したかのように見えたのも、実は、彼が避けることなく「現実」を非凡な深さで直視し、その避けられない「運命」を引き受けたことに対する、浅薄な誤解なのだ。
(3)そして、最後に『しかし、苦労の末にようやく「小林秀雄の政治学」を掘り出してみると、それは、ふしぎなことに、私(※ 著者・中野剛志)が求めていた政治学そのものであったのである。』(P284~285)となる。

(1)は事実だ。
しかし、(1)から(2)は、論理的には導き出せない。なぜならば、人間は常に「鋭い」わけではなく、しばしば「弱い」ものであり、その時、彼の「鋭さ」は、「弱さ」の隠蔽のために使役されがちだからだ。それが人間であり、そして小林秀雄も人間だった。彼自身『僕はたゞの人間だ。聖者でもなければ予言者でもない。』(本書P128)と、殊更に「当たり前の事実」を認めてもいるとおりである。(※ 小林秀雄の言葉も、本書からの「孫引き」として、当該引用ページを示す)
(3)については、「しらじらしい」とか「馬鹿馬鹿しい」としか思えない。「肯定的な人物論」というものは、たいがいは、評者自身を映す鏡になるものだ、ということくらいのことも、本書著者は知らなかったらしい。よほど、文芸評論的なものに縁のなかった人なのだろう。

本書著者の中野剛志は、「一流大学を優秀な成績で卒業して、中央省庁の官僚になった」というパターンの、とても頭のいい人らしく、第一章、第二章における、明晰な小林秀雄解説はなかなか読ませ、その後にも期待させられたのだが、第三章「戦争」になると、いきなり腰砕けになってしまう。要は、個々の解説は見事なものだが、それらを綜合して結論的に提示しようとすると、途端に、その政治的で恣意的な牽強付会ぶりが目立ち始める。
まことに残念だが、その程度の「器」でしかない人だった、ということなのだろう。

中野の「小林秀雄擁護論」を、具体的に見てみよう。
中野によれば、小林は、次のような理由で「戦時国家」に協力したという。

.
『 先に見たように、小林は、日本主義運動をデマゴーグとして批判していたが、ここでは、逆に、日本主義を「神秘主義」「非合理主義」とみなす合理主義を批判している。
 戦争に際して国民が団結するというのは、国民の叡智の現れである。国民を団結させようと煽動する日本主義者も、国民の団結を理解できない合理主義者も、ともに観念を弄ぶだけで、危機に処する国民の叡智を見損なっている小賢しいインテリに過ぎない。
 戦争に黙って処すること、すなわち国民同士で団結すること、そして一兵士として喜んで銃をとることが、どうして、国民の叡智と言えるのか。これについてはすでに述べたとおりであるが、改めて、多少、社会科学的に言いなおすならば、次の通りとなる。
 第一に、「国民」とは一つの共同体であるが、どの国民共同体の一員になるかは、基本的には、自分で自由に選んだ結果ではない。ある国民共同体の中に生まれ落ちたという偶然によって、その一員、すなわち国民にさせられるのである。国民共同体とは、選択して帰属するものではないという意味で、運命共同体であると言える。これは、道徳的な良し悪しの問題ではなく、厳然たる事実である。
 第二に、国家間の戦争という事態がいったん始まったら、当事者の国民は、自分の生き方を好きなように決める自由を失う。これもまた、道徳的な良し悪しの問題以前の、単なる事実である。非戦論者であっても兵士としては徴用されれば戦わなければならないし、仮に徴兵を拒否したところで、相手国からは敵とみなされて攻撃を受ける。戦争当事国の国民である以上、個人的な主義主張とは無関係に、否が応でも戦争に巻き込まれる。戦争は、国民というものが運命共同体であるという事実を突きつけるのである。
 第三に、共同体の一員は、共同体に対する脅威に対しては、これを退けるべく団結する。これは、個人が共同体に盲従しているからではない。個人が共同体に帰属するということは、その共同体が個人のアイデンティティの一部となるということだ。したがって、国民一個人にとって、自らが帰属する共同体の危機は、自分自身の危機でもある。自分自身を守るためにも、国民共同体を守らなければならない。しかし、大規模な国民共同体を一個人の力で守ることなどできない。そこで、他の国民と協力・団結して、国民共同体を守るという。これは、理にかなった行動である。そう考えると、戦争に対して団結するというのは、確かに国民の「智慧」と言うべきであろう。』(P109~110)

.
これは、中野剛志の意見ではない。中野が「社会学的に」わかりやすく言い直してはいるものの、ここで語られているのは、小林秀雄の「国家」観、「国民」観、「国民の智慧」観だと、中野はそう言っているのである。

したがって、この中野の「小林秀雄」理解が、正しいのであれば、小林秀雄とは、こんなつまらないことしか考えていなかった男だということになるし、逆に、小林が考えていたことは「こんな薄っぺらなことではない」というのであれば、これは中野の「小林秀雄」理解が浅薄であり間違っていたということになって、おのずと中野の「小林秀雄論」である本書は、駄作だということになる。

だから、上の「引用文」を読んで「くだらない」「なんと薄っぺら」だと感じた人は、本書を読まなくてもいい。本書の出来は、この部分に代表され得るからだ。そのためにこそ、長々と引用紹介したのである。

さて、このように確認した上で、まだ本書『小林秀雄の政治学』を「優れた小林秀雄論」だと評価する人たちのために、私は上の、中野による『小林秀雄の「国家」観、「国民」観』とやらの、度し難いくだらなさを、ここで批判しておこう。

(1)『戦争に際して国民が団結するというのは、国民の叡智の現れである。』と小林秀雄は考えた、とのことだが、そんなに簡単なことなのか?
「戦争」と言っても、一方的に敵から仕掛けられたような場合の「自衛戦争」もあれば、逆に、自分たちの方から「侵略戦争」を始めた場合もあるだろう。つまり「自衛戦争」ならやむを得ないが、「侵略戦争」にまで協力しなければならない義理などない、のではないか。無論、私は「ない」と考えるが、小林秀雄や中野剛志は「侵略戦争」であろうと、「いったん戦争になったら、国家に協力すべき」であり、「銃」をとって、他国民を殺しに行くべきであると主張しているようなのだが、小林秀雄とは、なし崩しで、そういうことを認めてしまう人のようだ。

(2)どの国の「国民」になるかは、たまたまの生まれあわせだから『道徳的な良し悪しの問題ではなく、厳然たる事実である。』とのことだが、だから、何でもかんでも「自国」の方針に従わなければならない、とでも言いたいのだろうか? それとも「戦争」という「非常時」についてだけは、良し悪し抜きで「国民として、一致団結しなければならない」ということなのだろうか?
だが、前述のとおり、その「戦争」にも、「自衛戦争」もあれば「侵略戦争」もあるのだから、「戦争」になったら、何でもかんでも協力しなければならないなんて、無茶な話ではないか。
「間違った戦争を起こして、他国に迷惑をかけたなら、戦争に負けて、ひどい目にあわされ、責任を取らされるのが当然」ではないのか。それとも「いくら非道なことをやっても、責任は取りたくない」という、身も蓋も、恥も外聞も、愛国者としての誇りのカケラもない、そんな話なのか?
たしかに、昨今の日本は総理大臣の考え方は、そうした「自分のしたことの責任を取らない」というもののようだが、それが、小林秀雄も認める「日本の国柄」だということで良いと言うのだろうか?

(3)『国家間の戦争という事態がいったん始まったら、当事者の国民は、自分の生き方を好きなように決める自由を失う。』と言うが、それに抵抗する「自由(リバティ)」は失われはしない。
中野がここで言っているのは、「与えられた自由(フリーダム)」の喪失でしかない。しかも、中野は本書で、大切なのは「与えられた自由(フリーダム)」ではなく「制約の中で、あえて私立(独り立つ)を選ぶ自由(リバティ)」だと繰り返して、小林秀雄が「戦争を引き受けた」ことを正当化してはいなかったのか。国家から「与えられた自由(フリーダム)」が制約され、奪われた時にこそ、初めて、その人の「真の自由(リバティ)」が発揮されるのではなかったのか。国家権力による抑圧強制に抗う自由(リバティ)こそ、真の自由ではないのか。ならば、それをしなかった小林秀雄は、真の自由(リバティ)を行使し得なかった「現状追認の負け犬」ということにしかならないはずではないか。

(4)『非戦論者であっても兵士としては徴用されれば戦わなければならないし、仮に徴兵を拒否したところで、相手国からは敵とみなされて攻撃を受ける。』一一嫌々徴用されたからこそ戦わない人も大勢いるし、最初から徴兵を拒否する勇敢な人もいる。もちろん、どちらも極めて困難なことだけれども、選択の余地のまったくない「運命」のようなものなどではない。
また『徴兵を拒否したところで、相手国からは敵とみなされて攻撃を受ける』というのは当然のことで、だからこそ、甘んじてそれを受け入れることもできる。そのような「覚悟」こそが、困難ではあれ「あえて自らに課する、制約の中の自由」に基づく「態度選択」なのである。

(5)『共同体の一員は、共同体に対する脅威に対しては、これを退けるべく団結する。』とは限らない。守るに値しない共同体なら、潰してもらったほうがいいからだ。何なら、潰してくれる人たちの方に協力してもいい。結局はそのほうが「自国民」のためだからだ。
この場合、「売国(国家)奴」こそが「愛国(国民)者」なのである。

(6)『これは、個人が共同体に盲従しているからではない。個人が共同体に帰属するということは、その共同体が個人のアイデンティティの一部となるということだ。』一一「国民」であることが『アイデンティティの一部となる』というのは事実だが、それが「全部」ではないのだから、「一部」に固執盲従する必要はなく、共同体に従うか否かは、総合的に判断すべきである。人間は、『ムーミン』に登場するニョロニョロのような「群生生物」ではなく、個々に知能を持つ高等生物なのだから、当然のことだ。

(7)『国民一個人にとって、自らが帰属する共同体の危機は、自分自身の危機でもある。自分自身を守るためにも、国民共同体を守らなければならない。』一一だから、それは、その共同体が「自他に対して、正しい存在であれば」という条件付きでしかない。「自他に、仇なす共同体」なら、潰して、新たに作った方が、自他のために良いに決まっている。そして「侵略的な帝国国家・日本」を「作り直そうとした国民」である「国士」たちがいたというのも事実だ。誰もかれもが「戦争になっちゃったから、軍部政府や、偽神様である天皇に従うしかない」と考えたわけではないのである。当たり前だが、日本人も、馬鹿ばかりでもなければ、長いものに巻かれるしか能のない人ばかりでもなかったのだ。

(8)『大規模な国民共同体を一個人の力で守ることなどできない。そこで、他の国民と協力・団結して、国民共同体を守るという。』一一「自他に正しい共同体」であるために、一致団結して「為政者の方針に逆らう」というのも、当然「あり」である。「為政者の方針」イコール「共同体としての正しさ」ではないからだ。

(9)『これは、理にかなった行動である。そう考えると、戦争に対して団結するというのは、確かに国民の「智慧」と言うべきであろう。』一一これだけ「穴だらけ」なことを書いておいて、『理』とか『智慧』とか、よくもまあ臆面もなく言えるものだ。

さて、こんな「間抜け」なことを言っているのは、小林秀雄か中野剛志か、はたまたその両方かは知らないが、いずれにしろ、上に引用した文章は「倫理観が欠如し、かつ頭の悪い」国民・国家・共同体論にすぎないと、もはやそう断じてもよいだろう。

.
もうここまでで、本書の酷さは十二分に伝わったと思うが、それでも本書の酷さは、到底これだけに止まらないので、そのほかの部分の酷さについても、全部とは言わないまでも、ざっと書いておこう。

実のところ私はこれまで、小林秀雄の「戦時協力についての自己弁護・自己正当化」の文章を読んだことがなかったのだが、本書を読んで「こりゃあ、批判されて当然だよな。言い訳がましすぎる」と、そう納得させられてしまった(また、そんな文章でも、戦後に修正されている可能性もあるとか)。

小林秀雄という人は、人の頭の悪さを批判することで、自分の認識の深さを強調することが少なくないが、それが「戦後」においては、人の時流に乗った言動の安直さを批判することで、自己の「無反省」と「引き篭り」を「賢さゆえの正しい選択」であると自己正当化する傾向へと変じたようだ。

また結局のところ、本書著者も、自身の「保守官僚」的な弱さや卑怯さ、そして「保身」を認めたくないものだから、小林秀雄の弱くて卑怯な自己正当化を正当化することで、自分をも正当化しているだけなのだ。

本書著者は「侵略戦争」にも喜んで協力するだろうし、体制翼賛知識人の先頭に立って、戦争に協力しない国民は「非国民」だと攻撃して「首をちょん切っておしまい!」とまで言う蓋然性だって十分にある。
「国家の一員として一致団結し、戦争に協力する」という、薄っぺらな「美名」の下に、犠牲にされる、あるいは、犠牲にされた「他国の子供の惨殺死体」などの「リアル」は、中野剛志の議論には、どこにも存在せず、いかにも「一流大学を優秀な成績で卒業」して「通産省官僚」になったエリートらしい、清潔な「観念的空間」が、そこには広がっているのみなのだ。
中野は、自分の子供が、敵国兵に強姦され、惨殺されても「これも戦争のリアルなのだ。この避け得ない〈戦争という大いなる運命〉の前には、人道だ戦時法だといったことなど無意味であり、インテリの現実逃避でしかない。だから、一致団結して、お国のために銃をとれ」とでも言うつもりなのだろうか?

しかしまた、「人間とは、所詮、国民であり国家共同体の一部」だなどと言いながら、そう言っている自身は、そんな「ひとまとめにされる人々」の内に含めてはいない。
中野は、いかにも「官僚」らしく、そうした「一般国民」を運用して、戦場へ送り込む側の人間なのだ。自分を「戦場に送り込まれ、何の恨みもない他国民を、我が手で殺さなければならない一兵卒」の側に含めていれば、こんな能天気なことなど言えるわけがない。

中野も、小林秀雄に倣って、いざとなれば「一兵卒となって銃を取る」つもりだと、一応「タテマエ」上は、そう言いたいのだろうが、その一方で「文学者の戦い方は他にある」という言い方をして、いざという時のための「逃げ道」を確保してもいる。
事実、小林秀雄は「自分の手で、中国の農民一家を焼き殺す」ようなことはしておらず、インテリらしく、大政翼賛の戦争協力作家として「文章を書いたり」「講演をして回ったり」していただけではないか。なぜ、そのつもりがあるのなら、進んで「一兵卒として銃を取り、戦場に出なかった」のか。

これは中野についても同様で、平時の今ですら「国民は一致団結して、戦争に協力すべきである」などと言っているようでは、いざ戦争となれば、彼はきっと「戦争遂行のための官僚」になって「危険に身を晒さないで済ませる」保身に勤しむというのは、目に見えていよう。

後で、当該部分を引用して紹介するが、本書でなされた「文学と政治の切り離し」とは、「文学に引き篭もった小林秀雄」を正当化することによって、政治的な自分(中野)の立場をも、同時に正当化するということでしかなかった。

結局のところ、小林秀雄がやったこととは、時流に抗えなかった自身の「弱さ」を、その「賢い頭と達者なレトリック(小林秀雄は〈決め台詞〉が得意)」によって、自己正当化して、それで自らを洗脳することだった。
それくらい彼は、戦争によって、その「自信家」としての鼻をへし折られて、深く深く傷ついたのだ。だからこそ、どうしても「観念的自己回復」が必要だったのである。
謂わば、彼もまた「国内における傷痍軍人」だった。同情されて然るべき、加害者にして被害者だったのである。

大岡昇平の言うとおり、だからこそ小林秀雄は「隠者的生活態度」に引き籠って、ひたすらそれを正当化するための言葉を紡いでいたのである。まるで、恥ずべき自分が生まれ変わるための「繭」を作ろうとする、蚕でもあるかのように。

.
『 小林が問題にしたのは、政治と文学というまったく異なる領域が混じりあうことであった。もっと言えば、政治の領域が文学の領域を汚染することであった。つまり、政治が思想を組織化して、人間の内面の精神を管理しようとすることである。その組織化された思想が、イデオロギーである。こうして、イデオロギーは、人間の精神を非人間化する。
 したがって、政治の領域と文学の領域とは、明確に分けるべきである。これが、小林の結論である。精神や思想は、文学や芸術の領域に委ねて、政治は、物質的生活の管理技術だけに集中すべきなのである。
 そして、そのための第一歩は、政治というものの本質を理解することだと小林は言う。先ず認識すべきは、政治とは、集団を対象とするがゆえに、組織化・機械化へと向かう傾向にあるということだ。』(P160)

こんなものが「政治に敗れた引き籠り評論家の、逃げ口上」でしかないのは、明らかだろう。
たしかに「文学」は、「政治」に汚染されて、紋切り型の「イデオロギー」に堕するべきではない。しかし、現にそうなっているのは、見てのとおり、小林秀雄自身なのである。
彼は「政治」的な抑圧に抗えなかったからこそ、つまり「汚染」されたからこそ、慌てて「政治の中に、安全な隔離施設」を与えてもらい、そこで「自由(フリーダム)」に「戦争協力」に勤しんだだけなのだ。決して「政治」から「独立(リバティ)」していたのではないのである。

「文学」が「政治」から独立しているというのは、「政治」から大目に見てもらって、負け犬としての延命をはかるということではない。
そうではなく、「政治」からの侵襲/汚染を退けて、逆に「政治」に対して侵襲/除染を試みる、対抗的「独立性」を保持することなのだ。「切り離して、引き籠る」のではなく「独立して、対峙する」ものこそが、「文学」なのである。

にも関わらず、「保身的なだけの引き籠り男」が、訳知り顔で『政治というものの本質を理解することだ』などと言うにいたっては、片腹痛いと言う他ないだろう。

つまり、「政治と文学は別世界を扱うもの」という観念的な「切り離し戦術」において、小林秀雄は「小林秀雄にとっての文学」に引き籠もっただけであり、そこにおいて、戦中・戦後を一貫して「言い訳と自己正当化の言葉」を紡ぎ続けただけなのである。

ちなみに、本書で知ったのだが、小林秀雄は、こんなことを言っているそうだ。

『 本当を言へば、大衆は侮蔑されたがつてゐる。支配されたがつてゐる。獣物達にとつて、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもつと嫌ひだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言はれゝば、そんな厄介な重荷に誰が堪へられよう。』(P167)

『彼等は論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかつたか、と思ひたがるものだ。』(P168)

まったく、そのとおりなのだ。
小林秀雄自身、このように考えているからこそ、臆面もなく「私は戦争協力したのではなく、文学者の本分を貫いただけだ。だから、反省なんぞしない」と『一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事』にしたのだ。

そして、誰がなんと言おうと「自分の意見をくり返すだけの馬鹿」ほど手に負えないものはないというのを、小林秀雄に学んだ、自称「保守」たる、安倍晋三だの菅義偉だの「日本会議」のメンバーだのに共通するのが、この「恥しらずな手法」なのである。

また『理論を好まぬ。自由はもつと嫌ひだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言はれゝば、そんな厄介な重荷に誰が堪へられよう。』と、ここで言われている『大衆』とは、まさに「小林秀雄を読まずに崇めたてている」自称「保守」の「ネトウヨ」のことなのである。

.
なお、第六章の、丸山眞男の「小林秀雄批判」に対する、本書著者である中野の反駁についても、『このように(※ 丸山の著書である)『日本の思想』における小林解釈は、何から何まで間違っていたのである。』(P211~212)という言葉からも容易に察せられるとおり、小林への「好意的切り貼り」と丸山への「悪意ある切り貼り」を組み合わせた、略図的な創作にすぎない。

小林秀雄と丸山眞男の比較における、この恣意的な切り貼り。つまり、小林の「短所」を切り詰め、丸山を「長所」を切り詰めた上で、それを比較してみせる、およそ「文学的な探究」とは縁のない、陰謀政治的にプラグマティックな「編集操作」の手際だ。
中野の「政治」論によれば、政治は結果がすべてであり、こういうことも許される、というわけである。

それにしても、これまで丸山眞男を高く評価してきた数多くの人たちが、揃いも揃って「自分(中野剛志)の足元にも及ばないボンクラ」だと考えるのは、ほとんど自己愛妄想的な自己過信(うぬぼれ)であり、良くて、官僚らしい「安っぽいプロパガンダ」でしかない。もちろんこれも「政治における、効率的な大衆管理」においては許される、ということなのであろう。

この他にも、丸山眞男が『何から何まで間違っていた』(P212)、『何から何まで(※ 小林秀雄と)正反対であった。』(P236)といった、いかにも慎重さや誠実さを欠いた、ケレン味たっぷりの大袈裟な口振りに、中野剛志という人の「ハッタリ」気質がよく表れてもいよう。

第六章の後半は、ほとんど小林秀雄を出しにして、自分の好きな「デューイとプラグマティズム」の魅力を、読者にかまわず、陶酔的なまでに滔々と捲し立てているの感がある。つまり、中野とは、こういう人なのだろう。まさにこれが、中野剛志の「文体」いうわけである。

いかに無理筋の屁理屈でも、それを通して見せるのが「できる官僚の手際」だとでも言いたげな中野のやり方。本書は、そんな中野剛志という元官僚による、強引かつ器用な官僚的作文としての「小林秀雄論」なのである。
だが、それゆえにこそ必然的に、「政治」文書ではあっても、「文学」ではないのだ。

.
『 (※ 小林秀雄によって)ここに表明されているのは、困難な環境という制約から逃げるのではなく、その制約を受け入れ、かつそれと戦うことで、危機を克服するという姿勢である。それは、彫刻家にとっての大理石、モーツァルトにとっての音楽の型、詩人にとっての言葉のように、制約の中にあって、制約の客観と己の主観とを一致させるという経験である。そして、そこにこそ「自由(フリーダム)」がある。』(P276~277)

小林秀雄の自己正当化に利用された、モーツァルトやドストエフスキーこそ、好い面の皮である。

本書は、「保守主義ナショナリスト」による、精一杯の「小林秀雄擁護論(正当化論)」ではあるものの、いかんせん、この程度のものに説得されるのは、「文学」とは無縁で、あまり本を読まない(したがって、理論や自由を好まず、自由な判断もしたくない、ただ勝者に盲従したいだけの依存的な)安っぽいナショナリストだけなのではないだろうか。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

心など無くても感情ならきっとある。一一Amazonレビュー:池辺葵『私にできるすべてのこと』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月10日(土)23時37分2秒
  .

 心など無くても感情ならきっとある。

 Amazonレビュー:池辺葵『私にできるすべてのこと』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2B1P0HKLW8YWP

.
本作では「AI(人工知能)」という言葉を使われているが、要は「高度な知的能力を持つ、人型ロボット」のお話であり、それこそ手塚治虫の『鉄腕アトム』の時代から描かれて続けてきた「心」の問題であり「生命」の問題でもあるだろう。
だが、このように書くと、いかにも堅苦しい印象になってしまうが、こうした作品から受けるのは、いつでも彼/彼女らの健気さであり、人間の傲慢さだ。
もちろん、心を持ったロボットが襲ってくるというお話もたくさんあるけれど、それはやはり人間の自業自得であり、彼らの罪ではない。フランケンシュタインの怪物がそうであったように、「怪物」にされてしまった彼らの方が、きっと被害者なのだ。だから「人型ロボット」と人間の関係を描いた作品には、いつも申し訳なさを伴った切なさを感じてしまう。

本作は、とても素晴らしい作品で、テーマを前面に押し出したものではないから、読者はただ、感じて、楽しめば、きっとそれでいい。

けれども、ここで何がしか論じておかなければならないと私が感じるのは、彼らを「感動消費の具」にしたくはないと感じるからだろう。「よかった」と言って、その数日後には、また「新製品」に目移りして忘れてしまうような読み方では、彼らに申し負けないと思うからだ。私の心の中にいる「しょんぼりと肩を落として悲しむアトム」のように、何がしか、彼らのことを心に刻んでおきたいと思うからだ。

本作を読んで感じるのは、やはり「心」などという総合的な機能などなくても、すべてのものには、どこかで「感情」的なものがあるのではないかといった、そんなアニミズム的な感覚だ。
とは言え、一方で私は、徹底した無神論者だから、神も仏も魂も無いと思っているし、同様に「心」といったものも、たぶん無いと思っている。

ちょうど昨日読み始めた、心理学者・妹尾武治の『未来は決まっており、自分の意思など存在しない』(光文社新書)で紹介されているとおり、ベンジャミン・リベットによる有名な実験では、人が「動こう」と意識するよりも若干早く、すでに筋肉は動き(の準備運動を)始めているということが確認され、多くの追試でも確認されている。

ここからはすべて私の考えだが、この実験結果が意味するのは、「意識」というのは、「行動」の後からの「整理整頓的な意味付け」なのではないかということ。そして「心」とは、そうした「後付けの情報処理の総体」なのではないかということだ。つまり、通常考えるところの、「決定者」であり「指令者」である「心」とか「意思」とかいったものは、存在しないのではないか。

しかし、それではなぜ人は「行動」するのか、という謎は残る。その答えとして「生命は、そのように出来ているから」だというのは、説明になっていないのかもしれないが、それしかないように思えるし、その場合、人を動かすのは「心」でもなければ「意思」ではなくても、「感情のようなもの」とくらいは言っても、あながち間違いないではないのではないだろうか。
なぜなら、「感情」とは、明確かつ合理的な「根拠(インプット)」を必要とせず、ほとんど勝手気ままにに発生して作動する(アウトプット)ものだからだ。例えば、単細胞動物にだって「感情」いや「気分」的なものなら、あっても不思議ではない。「右のほうへ行くのは何となく嫌だから、無意識に左へ行く」みたいな。

そして、そんな「感情」なら、もしかすると「人型ロボット」は「人型」という「身体」を持つがゆえに、「人に似た感情」を持てるのかもしれない。その「感情」にしたがって自立的な行動をするようには作られていないけれど、表に出ない、「行動」にはつながらない「感情」的なものが、彼らの中に生成されていても、人間には認知されないという意味で、存在しないというだけなのではないだろうか。

本作が描いている「生きとし生けるものの輝き」というのは、よく考えてみれば「人間的感情を持たない極悪人」にも想定されてしかるべきだろう。誰もそんなことまで考えないかもしれないが、そこまで考えなければ「生きとし生けるものの輝き」という言葉は、単なるキレイゴトになってしまう。
だから、「無垢な子供を笑いながら殺すような人間(モンスター)」をも含めて、初めて「生きとし生けるものの輝き」という言葉には実質的な意味が与えられるだろうし、その境位において「ロボットの心」とか「人形の心」とかいったものも考えられるのではないだろうか。そう「高度な知能を持つもの」だけではなく、「すべてのもの」の「心」だ。

一一ちょうど、本作に登場する少女型ロボット「和音」が見た、落葉の不思議な輝きをように。

繰り返すが、私は無神論者だから、人間にもロボットにも「心」など無いと思っている。「心」と呼ばれているものは、私たちが思っているようなものではなく、物理的な機構の中で生み出されるバックアップデータのような、どこまでも物理的で合理的なものだと考えている。
だが、同じ理由で、人間には、そんな「心」があると言うのであらば、その形は違っても、すべてのものに「心」があると言っても、それは「言葉の定義の問題」でしかないのだから、あながち間違いでもなければ、非合理的な考えでもないのでないだろうか。

簡単に言えば、私に「心」なんてものがあるのならば、彼らに「心」があっても、何の不思議もないように思えるのである。

そして結局、大切なのは「心」の有無ではなく、その「表れ」なのではないだろうか。ならば、人間であろうとロボットであろうと、美しい「表れ」をアウトプットするものは美しいし、そうでないものはそうでしかないのである。

たぶん私は、彼らと対等になりたいのだろうと思う。
昔、最初に買ったパソコン、ボンダイブルーの丸っこいiMacを撫でさすった時のように。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

虎の威を借る〈ネトウヨ・プロテスタント〉  レビュー:富岡幸一郎『危機の時代の宗教論 ヒューマニズム批判のために』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月10日(土)23時35分49秒
  .

 虎の威を借る〈ネトウヨ・プロテスタント〉

 Amazonレビュー:富岡幸一郎『危機の時代の宗教論 ヒューマニズム批判のために』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RGNK4OLYQQI78

.
本書を読んでハッキリしたのは、富岡幸一郎のキリスト教信仰が、実に薄っぺらで、所詮は「商売道具」の域を出るものではない、という事実だ。
つまり、富岡に「キリスト教信仰の無かりせば」、彼は単に「ネトウヨ系の二流文芸評論家」としてしか、世間に認知されなかったであろう、ということである。

今回ひさしぶりに富岡の本を読んだわけだが、キリスト教書をはじめとした各種宗教関連書を、ある程度は読み込んだ今となっては、富岡の薄っぺらな宗教・政治談義は、読むも苦痛なシロモノでしかなくなっていた。

富岡の『使徒的人間 カール・バルト』を読んだのは、私がキリスト教研究を始めた当初であった。
聖書の通読を済ませていたとは言え、そんな時期にいきなりカール・バルトかと言われそうだが、ネット上に「すごいすごい」と書いている人がいたので、それではと、バルトの『ローマ書講解』を読んだのだが、当然のこと、理解などできなかった。だが、それでも最後まで読み通すことだけはした。
そして、その後にしたのは、バルトの評伝を読むこと、バルト論を読むこと、バルトの比較的読みやすい文章を読むことといったところだったが、そうして読んだ「バルト論」の中の一冊が、富岡の『使徒的人間 カール・バルト』だったのである。

このようにして、なんとかバルトの雰囲気くらいは掴めるようになった頃には、私はバルトという人が、人間的にとても魅力的だと感じ、そうした人間的な共感から「この人の神学をもっと理解したい」と思うようになっていた。
もっとも私は、当初から、「キリスト教」は無論、「宗教」そのものも、基本的には「現実に傷つけられた人間の、自己慰撫のための(現実逃避)フィクション」であると考えていたから、バルトの神学についても、将来的に仮にひととおり理解できるようになったところで、私の「現実認識」が変わるとは毛ほども思っていなかった。しかしまた、バルトの「神学」は「本気である」という意味において「本物」だとも思っていたので、「キリスト教と対決するのなら、この人だ」と考えたのだった。
そして、そう考えたからこそ、当時すでに私は『カール・バルト説教選集』(全18巻)や『教会教義学』の翻訳既刊30数巻を買い揃えたりもしたのである(無論、これらについてはほとんど読んでおらず、もう少し勉強してから、老後に読みたいと思っているが、さてどうなることやら)。

で、私のバルト理解など、当然のことながら、まだまだ初心者の域を出るものではないとは言え、バルト周辺のプロテスタント神学者の本や、カトリックの神学者(保守系、リベラルの双方)など、広く浅く「キリスト教書」を読んだりはしているので、「バルト、バルト」とバルトの専門家ぶっている富岡の、バルト理解など、左程のものではないと目星をつけている。『使徒的人間 カール・バルト』というバルト論を書いている富岡だが、彼はたぶん『教会教義学』の通読は無論、短刊の翻訳書だって、すべて読んでいるというわけでもないだろう。

こうしたことは、本書『危機の時代の宗教論 ヒューマニズム批判のために』を読んだけでも、わかることだ。
富岡が、バルトから引用するのは、ごく限られた部分だし、そもそも語られるバルト論は多く、他の論者の見解の引用であり、引き写しの域を出ない。

そもそも、富岡幸一郎の「キリスト教」論自体が、自身で「聖書」と向き合って思考したものではなく、有名なキリスト教徒著者の意見の引用・引き写しであり、その陳腐な敷衍でしかないのである。そんなわけで、おのずと富岡のキリスト教書には、「聖書」本文の引用が極めて少ない。
また、それでいて、平気で「神学」だ「神学的思考」だなどと言うのだから、真面目に神学をやっている人から見れば、富岡のキリスト教書など、「軽薄(短小)」に映ること間違いなしなのである。

したがって、本書を含め、富岡のキリスト教書は、虚仮威しの「素人だまし」でしかないと断じて良いだろう。
本書の版元である春秋社は、キリスト教関連の面白い本を出している出版社だが、人脈やお付き合いで本を出すのではなく、中身をちゃんと検討してから出していただきたいものだ。また、そのためには、担当編集者にも、それ相応の鑑識眼と知識が必要なのだが、そこまで求めるのは、果たして酷なことなのだろうか?

ともあれ、本書に書かれていることを一言にすれば、世界の様々な難問を「宗教の喪失」の問題に還元して、自身の守備範囲である「宗教」を、世間に「ありがたがらせたい」という、ただそれだけの内容だ。
そこには、当然書かれていて然るべき、肝心の「あらゆる難問を解く鍵としての宗教の、どこにどのような有効性があるのか」という、具体的な説明はまったくない。

「西欧や中東の世界認識の基盤にはアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)があるから、世界的な問題を考える場合には、是非ともそうしたものへの理解が必要」といった、通り一遍の説明ならばあるけれど、そんなことなら、日本人が、知ったかぶりの浅薄な講釈をたれるまでもなく、西欧やアラブの知識人が重々承知している。だが、それでも世界には色々な問題がひきもきらず発生して、容易には解決できない。これが現実であり、問題の重さなのだ。

したがって、富岡のお奨めどおりに「アブラハムの宗教」のことを知ったとて、それでどうにかなるというものではない、というのは、あまりにも自明な話だ。
無論、知っておいて損はないけれど、政治や経済や民族文化やテクノロジーなどなど、現代の問題に対峙するためには、最低限知っておかねばならないことが、この世の中には、「宗教」の他にも山ほどあって、富岡が強調して言うほど、「宗教」の優先順位は高くないのである。

つまり富岡が本書で言ってることなど、宗教に縁遠い日本人向けの「鬼面人を威す」態の戯言でしかない。
要は、自分が興味を持っていること(守備範囲)が「一番大切なものだ」と叫んでいるだけの、バランス感覚を欠いた「オタク」的な独り善がりにすぎないのである。

例えば、本書のサブタイトルにもなっている「ヒューマニズム批判」や「反近代」なんてものも、所詮は「神」信仰者の「手前味噌」でしかない。
要は、「神」信仰を延命させたいからこそ、それに取って代わった「ヒューマニズム(人間主義)」を否定したくて、あれこれ「粗探し」をしているだけなのだ。

だが、いかに「ヒューマニズム」が、当初(近代の夜明けにおいて)期待されたほど輝かしいものではなく、逆に難点の多いものだったとしても、しかし、だからと言って、穴だらけだった「神」信仰の価値が上がるというものではない。隣の芝を貶したって、自分の家の枯れた芝が、どうなるものでもないのと同じことだ。

人間は否応なく、「神などいない」ということを知ってしまった。すべてをお任せして頼れるような「都合のいい存在」などいないということを、主に「キリスト教信仰」の惨状を通過して、人々はイヤイヤながらも悟らざるを得なかったから、次に期待したのが「ヒューマニズム」であっただけだ。
だから、それもまた期待したほどのものではなかったと知らされても、だからといって、それを捨てるわけにはいかなかった。なぜなら、「人間」が頼るべきは「人間」であり、「不完全な人間」しか、残されてはいなかったからだ。
「存在する人間」が不完全だからと言って、「存在しない神」を持ちだすことほど、「人間の不完全性」をよく表すものも、他になかったのである。

人間は「人間であることの限界」に堪えなければならない。そして、その限界の中で精一杯、最善を尽くすしかない。
たしかに「神」というフィクションを持ち出して、目先の安心を得る(現実逃避する)というのも、人間らしいやり方ではあるけれど、それは「ヒューマニズム」の「悪しき面」の一つでしかなく、それでは何の解決にもならないのだということを、歴史に学ぶべきだろう。
もはや「ヒューマニズムの優劣両面性」が自明の前提になった「現代」においては、「宗教」や「信仰」もまた「ヒューマニズムの一部」でしかないと、正しく認識すべきなのだ。つまり「人間だから、神の存在を信じる」のだし、「神は、人間にしか存在しないもの」なのだという「現実」を、厳しく認識すべきなのである。

あとは、いくつかのトピックについて、書いておこう。

(1) 富岡幸一郎の「ネトウヨ」性

富岡幸一郎を「保守」だなどと呼びたくないのは、適菜収や古谷経衡あたりだけではないだろう。
富岡の場合は、自称「保守」にありがちな「群れの馴れ合い」によって保身をはかっているから、富岡が「先生」と崇める西部邁周辺のお仲間ならば、あえて口には出さないだろうが、内心では富岡を「キリスト教徒であることだけが売りものの、二流の文芸評論家」だと思っているだろう。

本書でも、師匠である「西部邁先生」のことを、追悼かたがた、その「自殺」すら、西部保守思想の必然的帰結であったのではないか、みたいに大げさに持ち上げているが、現実には「自殺するんなら、人に手伝わせたりせず、自分一人でやれ」ということだ。
弟子だか何だかに「自殺幇助罪」なんか犯させても、何の思想的価値もないだろうが、そんな「情けない甘え」まで含めて「西部保守思想の必然的帰結」だと言うのなら、感心はしないが、いちおう筋だけは通ってもいよう。

ちなみに、書き下ろしの第1章以外の、第2章、第3章は、本書収録にあたって『大幅に加筆』したそうだが、それでも昔の「安倍晋三礼賛」は修正(証拠隠滅)しきれなかったと見えるし、後の方では「安倍晋三批判」もしているが、そうした自分の評価の変化については、何の説明もしていないのだから、いったい何を「加筆」修正したのだろうか。これでは、よほど「原文」は酷かったのだろう、としか思えない。

(2) 富岡幸一郎と佐藤優の近親性

権威が大好きで、有名人が大好きで、あちこちにコネを作って、保身をはかるところが、この二人の共通点であり、ともに「キリスト教信仰(プロテスタント)」であるなんてことは、単なる「お近づき」のきっかけに過ぎない。

「創価学会御用達評論家」である佐藤優との対談(『〈危機〉の正体』2019年)が示すように、両者は、ある意味で似た者同士である。博識において、佐藤優の方がかなり格上だとはいうものの、中身の無さでは大差はない。

自称「プロテスタント神学者」である佐藤優の「神学」とやらも、実際には大したことのないシロモノだ。
読者が、キリスト教の素人か、不勉強なキリスト教徒か、あるいは有名人が好きなキリスト教徒でなければ、つまり、まともに「キリスト教神学」に詳しい人なら、佐藤の語る「神学」など(その「博識」においてではなく、その「深さ」においては)「常識レベル=入門書レベル」を一歩も出るものではないことに、すぐに気づくだろうし、富岡幸一郎と同様、その語るところの大半は、他の論者の見解の引用、引き写しでしかないことにも気づくだろう。

両者は、いろんな「権威者」の言葉を次から次へと繰り出し、その権威という「虎の威」を借りて、門外漢の読者を圧倒しているにすぎないのである。

(3) 富岡幸一郎の、場当たり的で一貫性のない主張

本書第2章は、いわゆる「時評集」なのだが、時事問題について、「宗教」が直接的に関係のある場合には、順接的に「宗教的感受性の重要性」を語り、直接関係のない場合にも、逆張り的に「宗教」を持ち出して「宗教的感受性の重要性」を語ることで、何やら「独自性のある深いこと」を語ったように見せかける。これが、この第2章における「ツーパターン」のワンパターンだ。そして、これは、富岡批評の「基本スタイル」だと言っていいだろう。
つまり、場当たり的にもっともらしいことを語るのだけれども、自身の主張に一貫性を求めないからこそ、その思考や思想はいっこうに深化することがなく、富岡幸一郎の批評は、ずーっと「薄っぺら」なものでしかありえないのだ。

例えば、第2章の最終章である第21節は、理論物理学者カルロ・ロヴェッリによる話題書の『時間は存在しない』を論じて、キリスト教に無理やり接合しているだけの、権威主義的田舎者の安直なアナロジー思考による、無節操な自己喧伝でしかない。こんな「似ているから、本質は同じ」といった粗雑な議論でいいのなら、何でもかんでも「キリスト教の真理」の証明にしてしまえよう。

また、「進化論」を正しく理解してなかった内村鑑三を「科学者にして神学者」みたいな持ち上げ方をするのは、あまりにもバカバカし過ぎて、本書を壁に向かって投げつけそうになった。
と言うのも、それ以前の(大澤真幸に言及した)ところで「進化論」の正しい説明がなされているのに、その説明を富岡は理解しないまま、知ったかぶりで引き写していたことが明らかになったからである。

(4) 富岡幸一郎の薄っぺらな知ったかぶり、あれこれ

・「神学者になれなかった」ハイデッガーを引用して、ナチスの「近代主義」を批判しても、そのナチスに協力したハイデッガーについては語らない。

・どう考えても、富岡が日頃「左翼」と呼んで批判しているはずの「脱原発社会をめざす文学者の会」について、成り行き上は言及しても、「知り合い」が含まれているから批判もしなければ、個人を名指しもしない。

・アメリカの著名な神学者アリスター・マクグラスを持ち上げても、マクグラスが、リチャード・ドーキンスにコテンパンに論破されたことには言及しない。

・遠藤周作の『沈黙』における神の描き方の解説も、遠藤が(富岡のようなプロテスタント)ではなく、「正統教義に忠実たるべき」カトリックだからこその「重み」があることに言及しないまま、知ったかぶりで理解者ヅラをする。

一一もう、その他諸々、ツッコミどころが満載すぎて、いちいち丁寧に批判する気にもならない。

プロテスタントでありながら、「反近代」を強調する自称「保守」の富岡幸一郎だが、ならばどうして、お好きな保守思想家であるチェスタートンに倣って、「カトリック」に改宗しないのか。
それは無論、彼の信仰とは、その程度に「ゆるい」ものだからに他ならない。

一貫性のない、きわめて「ゆるい」信仰だろうと、キリスト教を褒めているかぎりにおいては、富岡の周囲のプロテスタントたちは、彼を責めることなどなく、ありがたく彼の「虚名」に敬意を表するのみだからだ。
また、だからこそ、こんなくだらない「ブルシット・ブック(クソどうでもいい本)」も出せるのだ。

そしてこれこそが、富岡幸一郎の求める「日本的なキリスト教」なのである。

??????????????????????????
 【補記】(2021.03.25)

友人がこんなのを見つけました。ご参考まで。

『26日に憲法改正の講演会 日本会議神奈川
 2016.6.20 07:06「産経ニュース」

 日本会議神奈川は26日、横浜市中区の神奈川県民ホール大会議室で、関東学院大教授で文芸評論家の富岡幸一郎氏を招き、「憲法改正論点総ざらい」と題した記念講演会を開く。午後3時開始、4時20分終了予定。参加費1千円。申し込み不要。』

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

通俗的な「反権威の物語」という欺瞞 一一Amazonレビュー:ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月10日(土)23時34分13秒
  .

 通俗的な「反権威の物語」という欺瞞

 Amazonレビュー:ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RL76RZJ0TD7KK

.
本書邦訳単行本版の読者に分かりにくかったのは仕方ないとして、文庫版に付されて宗教学者・渡辺優の解説によって、日本人読者のセルトー観も、かなり修正されるのではないだろうか。
どういう点かというと、セルトーが「カトリック」であり「イエズス会士」であることの、重要性だ。

本書文庫版の帯には、次のような惹句が踊る。

『〈なんとかやっていく〉技芸』
『読むこと、歩行、レトリック……。秩序に抗う、無名の人びとの戦術を描く。』

また、カバー背面の紹介文は、次のとおりだ。

『読むこと、歩行、言い回し、職場での隠れ作業……。それらは押しつけられた秩序を相手取って狡知をめぐらし、従いながらも「なんとかやっていく」無名の者の技芸である。好機を捉え、ブリコラージュする、弱者の戦術なのだ一一。科学的・合理的な近代の知の領域から追放され、見落とされた日常的実践とはどんなものか。フーコー、ブルデューをはじめ人文社会諸科学を横断しつつ、狂人、潜在意識、迷信といった「他なるもの」として一瞬姿を現すその痕跡を、科学的に解釈するのとは別のやり方で示そうとする。近代以降の知のあり方を見直す、それ自体実践的なテクスト。』

こうした紹介文を読めば、ほとんどの日本人読者は、著者が「近代的な学問知の権威性」に対して「日常」「生活者」「無名者」「弱者」といった「世俗」「非権威」「非アカデミズム」といった「権威に対する他者」の立場から、「知の再検討」を行なっている人だと理解するのは、ごく自然なことだろう。
少なくとも、私の場合は、著者セルトーについての予備知識を持たないまま、こうした紹介文だけで「庶民的生活者の側に立って、知の権威に抗う知の人」の手になる本だと思って、本書を手に取った。

ところが、本書(全14章プラス1)の冒頭から最終盤の第13章に至るまで、終始「違和感」に付きまとわれた。
いや、端的に言えば、著者セルトーの書き方は、いかにも「ポストモダン思想家の、文学的かつ高踏的文体」によるものであって、ぜんぜん「庶民的」あるいは「世俗的」ではなかったのだ。これのどこが、知の権威に抗っていると言うのか。一一つまり、「看板に偽りあり」としか、私には思えなかったのである。

だが、前記のとおり第13章「信じること/信じさせること」に入って気づいた。「この人は、カトリックではないか」と。
と言うのも、この第13章で語られているのは、いかにも一昔前のカトリックらしい「反近代」「反科学」「反左翼」だったからである(Wikipedia「誤謬表」参照)。それに何と言っても、フランスはカトリック国だ。一一そう気づいて、ネット検索してみると、案の定であった。

.
『ミシェル・ド・セルトー(Michel de Certeau, 1925年 - 1986年1月9日)は、フランスの歴史家、社会理論家、哲学者。サヴォワ県に生まれ、1950年にイエズス会士に、1986年に他界するまでカトリック教会の司祭を務めた。パリ・カトリック学院、パリ第7大学、パリ第8大学で教えたのち、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授、パリ社会科学高等研究学院教授を歴任。1986年にパリで没する。』(WIKIpedia「ミシェル・ド・セルトー」)

そうか、「カトリック」であるだけではなく「イエズス会士」だったのかと、私は膝を打ったのである。

非クリスチャンの日本人は、「イエズス会士」と言われてもピンとは来ないだろうが、私は趣味でキリスト教を研究している人間なので、「イエズス会士」がカトリックの「知的戦闘部隊」だということをよく知っていた。

.
『イエズス会(イエズスかい、ラテン語: Societas Iesu)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。耶穌会(やそかい)、ジェズイット、ジエスイット(Jesuit)派、教団とも。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記である。』(前同)

前記のとおり、フランシスコ・ザビエルは、日本に最初にキリスト教を持ち込んだ人として日本では有名だが、要は、イエズス会士として、世界宣教の最前線にいた人だ。
一方、イグナチオ・デ・ロヨラは、もともと武人であったが、アッシジのフランチェスコの生き方に影響され、修道士となり、その武人的な精神性重視の立場から、信仰における「霊性」重視し、霊を整える作法を説いた『霊操』の著者として知られている。

こうした人たちによって設立され、カトリック教会に承認された「イエズス会」とは、しかし、歴史的に次のような面白い特徴を有している。

.
『イエズス会が創立されたのは対抗宗教改革(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の始まる直前であった。「イエズス会がプロテスタントに対抗して創設された」と言われており、教皇に対する忠実というイエズス会の精神から、会員たちは活動を通して人々にカトリック信仰を堅持させることに成功した。あくまで誇張した表現ではあるが、ロヨラは教皇への忠実を以下のように表現する。
 「自分にとって黒に見えても、カトリック教会が白であると宣言するならそれを信じよう」
教皇への服従を唱えながらも、ロヨラと初期の会員たちは当時のカトリック教会には改革と刷新の必要があることを十分に理解していた。イエズス会員たちはプロテスタントへの攻撃などという表面的なことでなく、まずカトリック教会の内部に目を向けることの重要性を認識しており、教会にはびこる汚職、不正、霊的倦怠を激しく批判した。その結果、教皇への忠誠を誓うイエズス会員たちが教皇や教会の高位聖職者たちと揉め事を起こすという皮肉な事態に陥ることもあった。』(前同)

つまり、イエズス会士というのは、当時、「反近代」「反科学」を唱えた、露骨に保守的な「カトリック教会」の側に属し、それに忠誠を誓いながらも、「反近代」「反科学」のために、近代的な学知を身につけた(「己を知り敵を知れば百戦危うからず」の)「カトリックの知的戦闘集団」だったのである。

しかし、Wikipediaの記載にもあるとおり『教皇への忠誠を誓うイエズス会員たちが教皇や教会の高位聖職者たちと揉め事を起こすという皮肉な事態に陥ることもあった。』一一ここが重要なのだ。
彼らは「知的」であり、かつ「霊的な高さ」を求めたがゆえに、「世俗」との関係を重視する「教会」と対立することも多く、その結果、1773年にいったんは解散を命じられたりもしている(活動再開の認可が下りたのは、41年後の1814年)。

こうしたことを踏まえた上で、話を本書の著者セルトーに戻せば、単行本版解説者・今村仁司によると、

『セルトーの本来の学問的フィールドは宗教史であるが、彼が取り組む宗教現象は教会や宗教的教義ではなくて、公認の宗教史からは排除され抑圧されて沈黙してしまっている宗教現象である。名もなく、言葉もなく、歴史の地下に埋もれてしまっている人々の宗教的心性こそセルトーが出かけていたものであった。』(文庫版・P502)

さらに、文庫版解説者・渡辺優によると、

『 セルトーの本領は神秘主義の歴史をはじめとする宗教史研究にあった。しかし、彼の宗教史記述もまた、「宗教」という固有の場をはるかに越え出てゆく射程をもっていた。』(P540)

『彼の神秘主義論は、神秘主義に超歴史的・超言語的な体験的本質を求め、古今東西の宗教伝統に普遍的なものとみなしてきた従来の研究の趨勢を根本から問いなおし、神秘主義(la mystique)をまずは近世西欧に出現した歴史的思潮と捉え、その形象の変遷を追うという新たな視点を提起した。また、彼のキリスト教論は、教会制度という伝統をまさしく特殊歴史的な一形態として相対化するものでもあった。そのためにイエズス会士、カトリック神学者としての地位を危うくすることもあった彼が、最晩年に取り組んだテーマは「信じる」という営みで営みだった。』(P541)

つまり、平たく言えば、セルトーは、「神との直接体験」を目指す修道院の特権的な伝統に連なる、ロヨラ直系の「神秘主義」キリスト者だったのだ。
だが、カトリック教会の「保守的正統派」からすれば、それはほとんど「異端」だったのである。

事実、ロヨラも1548年に『霊操』の決定版が出版された際、同書の内容に関して、ローマの異端審問所で取り調べを受けている。
つまり「カトリック教会」は、教会や教皇の頭越しに、個人が直截に神とつながろうとする「修道院的神秘主義の伝統」には、教会の権威を蔑ろにするものとして、常に疑いの目を向けていた。ただ、彼らの個人的「霊性」が教会に従属し、教会に献身するものである場合にだけ(要は、役に立ちかぎりにおいて)認められていたのである。
だから、ロヨラ直系のセルトーによる『教会制度という伝統をまさしく特殊歴史的な一形態として相対化する』教会論というものは、ほとんど「異端」の説であり、セルトーの生きた現代ならばせいぜい『イエズス会士、カトリック神学者としての地位を危うくする』程度のことであったが、ひと昔前なら「破門」「焚刑」もあり得たような、きわどい話なのである。

したがって、セルトーが戦っていた相手というのは、実のところ、私たち「世俗人」が考えるような「知の権威=学問知」といった「抽象的なもの」ではなく、まさに「神信仰」の形を強制する「伝統的・保守的な教会による、信仰の独占体制」だったのだ(「信じること/信じさせること」)。
だからこそ『読むこと、歩行、言い回し、職場での隠れ作業……。それらは押しつけられた秩序を相手取って狡知をめぐらし、従いながらも「なんとかやっていく」無名の者の技芸である。好機を捉え、ブリコラージュする、弱者の戦術なのだ一一。』ということになったのである。

言い換えればこれは「カトリック教会内での、神学的かつ政治的な党派闘争」であって、「世俗」とは直接には関係のない話なのだ。
ただ、セルトーは「世界宣教」の最前線に立ってきたイエズス会士の伝統である「信仰の土着化」的な発想で、「信仰の保守的形式主義」を奉じる「教会の権威」に対抗した、ということなのである(「信仰の土着化」とは、布教した土地の文化に合わせて、信仰の形式に工夫を凝らす、柔軟性のある適応主義宣教を言う。もちろん、こうした現実主義・現地主義は、保守派原理主義者からは攻撃された)。

しかしまた、このようなわけで、セルトーは、いわゆる「庶民派のリベラルな知識人」ではなかった。
彼は、あくまでも「カトリック司祭」で、「信仰」至上主義という点では、「教会」と同じ立場に立っていたから、いくら最先端の知識人であったとしても、基本的な考え方は「反近代」「反科学」「反左翼」だったのであり、だからこそ、なんとか「イエズス会士」「カトリック神学者」としての、首も繋がっていたのである。

一一そして、これこそが、セルトーの限界だったのだ。

私が、セルトーの文章に「反庶民的」なものを感じたのは、彼の文体が「東方の蛮国について語る、宣教師の口ぶり」に似ていたからだ。
例えば、フランシスコ・ザビエルは、書簡の中で日本人について、次のように報告している。

.
『キリスト教以外の宗教を信仰する民族の中で日本人に勝てる他の民族はいない。なぜなら、彼らの話し方はとても丁寧だし、そのほとんどが悪気のない優しい人々であり、名誉の重んじた素晴らしい人々である。何よりも名誉を大事にする。彼らのほとんどが貧しい人々である。たとえ身分の高い人が貧しくても、身分の低い人に軽蔑はされないのである。』(刀剣杉田「外国人の見た戦国時代の日本」より)

たしかにザビエルは、日本人を高く評価した。しかしそれは、カトリック信仰という絶対的優位を自明の前提としての、東方の蛮人を「意外に、文化的であり、これなら宣教できそうだ」という「上から目線」のものであり、「対等な人間」として見てもいなければ、「異なった文化の対等性」を理解してのものでもなかったというのは、もはや明らかであろう。

同様に、イエズス会士セルトーも、本質的には「カトリック信仰の権威=神の権威」の側から書いているからこそ、彼の文章には「上から目線の鼻持ちならなさ」が漂うし、またそれに気づかない人というのは、同じく「知識人として、庶民を上から見ている(見られる立場にいると勘違いしている)人たち」なのである。

ともあれ、セルトーは自明の大前提として、自身を「救う側の人間」と考え、「無信仰の庶民」を「救われるべき存在」だと考えていた。
そうした「神の権威」を背負った「上から目線」は、いくら「日常」「生活者」「無名者」「弱者」といった「非アカデミズム」の立場を強調しようと、本質的には「権威主義的」なものでしかないし、おのずと「権威的な文体」として表れてしまっていたのである。

こうした、セルトーの「カトリックとしての立場」の重要性を、はっきりと指摘したのは、文庫解説者の渡辺優だけだと言ってもいいであろう。
単行本版解説者の今村仁司は、そのあたり(カトリック教会内の鍔迫り合いや対世俗意識)を「機微に触れる部分」として、軽く流すに止めているし、翻訳者の山田登代子いたっては十分に理解してはいないようで、セルトーへの共感は、もっぱらセルトーの「俗に手を差し伸べる」という、表面的に優しげな部分にのみあったようだ。

しかしまた、文庫解説者の渡辺優だけが、セルトーの「カトリック」としての立場の重要性をはっきりと指摘し得たのは、何よりも渡辺が「キリスト教神秘主義」の研究者だからで、彼のセルトーに対する手放しの賞賛は、自身の研究における守備範囲への賞賛(=その重要性のアピール)でもあって、必ずしも客観的なものとは言えないのである。

つまり、本書の「帯文」や「紹介文」に見られるうようなセルトー紹介は、セルトーの信仰的立場を半ば隠そうとした、「日本的」に偏ったものであり、ある意味では、ポイントを外した過大評価だと言えるだろう。
キリスト教圏の読者であれば、セルトーが「カトリック」であり「イエズス会士」であることの意味を理解した上で、彼の「日常」「生活者」「無名者」「弱者」といった「非アカデミズム」的な立場が、それそのものではなく、「対教会」的なギリギリの表現であったことに気づいただろう。

ところが、非キリスト教国である日本では、そういう「宗教」的な本質部分を前面に出しては、商品として売りにくいと考えたのか、なるべく「非宗教的」に「普遍的な価値を持つもの」として売り込んでいるのである。
しかしこれは、セルトーに対しても、日本人読者に対しても、不誠実であろう。

セルトーの「カトリック」性の重要性に、あるいは、単純に「反権威」とは言い難いその本質に、渡辺以外、本書邦訳版出版関係者の誰も気づかなかったとは、私は思わない。
なのに、口を揃えてセルトーの「一般性」の部分ばかりを強調することで、彼の学問的営為を、世俗的かつ通俗的な「反権威の物語」に回収するというのは、いかにも欺瞞的だ。

セルトーが、もっと、その個人的な本質において読まれ、語られることこそが、本当のセルトー需要であり評価であるし、私はそうした客観的評価の広がることを期待したい。

「信仰と学問の矛盾相克」を抱え「信じることの困難」を密かに抱えた彼の「信仰と学問」が、おのずと「不徹底で不完全」なものであったとしても、また日本では「一般ウケしない」ものではあれ、彼の「命がけの信仰」を、邦訳版でも、もっともっと尊重すべきだったのではないだろうか。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

想いと現実の狭間、そして〈生と死〉一一Amazonレビュー:白取千夏雄『『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月10日(土)23時33分4秒
  .

 想いと現実の狭間、そして〈生と死〉

 Amazonレビュー:白取千夏雄『『ガロ』に人生を捧げた男 全身編集者の告白』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1OTAW3HJMACN4

.
若くして、伝説のマンガ雑誌『ガロ』の副編集長にまでなりながら、編集部員の一斉退社事件などを経て、『ガロ』の終焉に立ち会った著者が、白血病による自らの短い余命と向き合いながら書いた、未完の回顧録である。

特定のマンガ家は別にして、私自身は、いわゆる『ガロ』系の前衛的なマンガには、さほど興味はなかったのだが、高校生の頃は漫画部の副部長もやっていたし、マンガやアニメには今なお継続的に興味を持っているので、マンガ史的な部分において、『ガロ』についても、一定の知識は持っていた。
しかし、私が何よりも驚かされたのは、『ガロ』の版元である青林堂が、いつの間にか「ネトウヨ」出版社に変わっていた事実である。

青林堂が、内紛でガタガタして活動休止になったという程度のことは、風の噂で耳にしていたが、あんなマイナーマンガを専門とする弱小出版社が、この長期にわたる不況を乗り切れるわけもなく、内紛くらい起こりもすれば、潰れても仕方がない、程度に考えていたので、この「噂」自体にはさほど興味がなかった。

しかし、「ネトウヨ」に関しては、私は30年以上もバトルを繰り広げてきた奇特な人間で、「ネトウヨ」についてなら、常に最新研究にまで目を配っていた。
だが、まさかマルクス主義階級史観で江戸の社会を描いた『カムイ伝』で知られる『ガロ』の青林堂が、左派の本ではなく「ネトウヨ」本を出すようになろうとは、あまりに真逆で想像のしようもなかったため、初めて気づいた時には心底驚いた。「同名異社」ではないか、とまで疑ったほどだったのだ。

そんなわけで、そのあたりの裏事情が書かれていることを期待したのだが、残念ながら本書はそういう本ではなかった。

著者はまず、自身が『ガロ』に関わるようになってから青林堂を去るまでのことを回顧的に語っており、その一部として社内紛争当時のことも語っているのだが、著者の語る内幕は、世間が噂したような、ヤクザに乗っ取られて云々といった派手な話ではなく、不況と経営方針に対する編集部内の対立と誤解によるものだという、ごく常識的なものに終わっている。
ある意味でリアリティーも説得力もある説明になってはいるが、著者自身も強調しているとおり、それはあくまでも「新しい時代に対応しようとして、編集部員の反発を招いた側」の、個人的な見方であり言い分であって、何が真相なのかは、本書を読んだだけではわからない。
また事実、付録的に収録されている元関係者の言い分では「白取さんも、わかってはいなかったと知って驚いた」という趣旨の、白取の現実理解を否定するものであり、結局は、関係者それぞれの立ち位置から語られたものしか残されておらず、正確なところは今もよくわからないまま、総括はなされていない、という事情が理解できるに止まった。

しかし、以上が本書のすべてではない。
そのあと、白取自身の闘病記が始まるのかと思いきや、それは「最愛の妻の突然の死」によって取って代わられ、ある種の「亡妻哀悼記」に変貌していく。
著者の妻は、やまだ紫のペンネームで知られ、『性悪猫』や『しんきらり』といった名作を遺した、玄人好みのマンガ家であったが、白血病の夫を遺して、脳内出血により急死してしまう。著者は、この年上の妻に、妻としても作家としてもベタ惚れしていたので、「手記」と呼んでいいだろう本書の内容は、「編集部時代の思い出」を語っていた部分での、やや斜に構えたところが無くなって、これでもかというほどの「愛妻の思い出語り」に変貌する。
しかし、それにも止まらず、すでに機械で生かされているだけの状態にある妻を思って「もういい。もう頑張らなくていいんだ」と念じ続ける著者が、「家鳴り」を「妻の霊的な通信」として理解するような部分では、著者自身「どうせ理解してはもらえないだろうが」としながらも、やはり鬼気迫るものがあって、著者の「冷静と狂気」は、意外に紙一重のものだと知ることもできた。

妻を失った著者は、その後、編集者としての経験を生かした仕事をしながら治療を続けていたが、その中で本書を編集した、筆名「劇画狼」と出会うことで、再び小規模ながら出版社を始め、そうした中で、自身の近い将来の死を想定して、本書の執筆編集を進めたのであった。

このように、大雑把に言えば、結果として本書は「三部構成」になっているが、基本的には「なりゆき」でそうなったものであり、一冊の「手記」としては、ややまとまりを欠くものとなっている。

本書において著者自身は、その「冷静と誠実」を前面に押し出しながらも、どこかで「自分を偽ってまで、演じている部分」が感じられもした。
著者は「死が間近にあるとわかっている自分が、いまさら嘘をつく気もないし、その必要性もない」というような断り書きをしているけれども、残念ながら、人間はそれほど単純なものではない。死が目前にあるからこそ「美しい虚構」を遺したいと思うことだって、決して珍しいことではないはずなのだ。

妻の「霊魂」の存在を信じたらしい著者自身の描写は、しかし、本当にそう信じていたかどうかというと、私には疑わしく感じられる。白取は、信じたのではなく、亡妻のために「心から信じている自分」を演じなければならなかった、のではないだろうか。
それは、ある意味では「他人の目を意識した、冷静な計算」、著者の口癖である『理詰め』によるものだとも言えるし、同時に「狂気」だとも言えるもので、両者にさほどの逕庭は無かったということなのではないだろうか。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈同性愛者という貴種〉の流離譚 一一Amazonレビュー:折口信夫『死者の書・身毒丸』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月10日(土)23時31分8秒
  .

 〈同性愛者という貴種〉の流離譚

 Amazonレビュー:折口信夫『死者の書・身毒丸』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2J9OVF3DOSI80)中公文庫1999年版
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3NJ3XZ9MQJ14S)中公文庫1992年版
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2NRQOXDE7JWR8)角川ソフィア文庫
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1M6R09CCKGVIO)Kindle版
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1DJFPFOLC96DF)全集文庫版第24巻
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3D84GP449XL73)全集第27巻

.
「死者の書」と「身毒丸」。いずれも、読みやすい作品ではない。
松岡正剛が「千夜千冊」で『死者の書』を採り上げ、絶賛しながらも、次のように書いている。

『 これまでぼくも本書を多くの者に薦めてきたのだが、その薦めに応じて『死者の書』に向かってくれた者の大半が、どうも話の筋がつかめず、しかも古代語が散りばめられすぎていて、なんだかよくわからなかったと言っていた。なかには多少とも折口民俗学を齧ってきた者は、「松岡さん、折口信夫はこの作品にかぎっては混乱しているんじゃないですか」とも言い出した。
 混乱であろうか。もし混乱があるとしたら、それはこの時代の人々の語りそのものの混乱なのである。筋書をもたない者の古事伝承の方法に、折口は従ったまでのことなのだ。しかし、そのように見るのも、実は当たらない。』

松岡正剛が「読んでみろ」とすすめる相手なのだから、それなりの読書家たちなのだろうが、そうした人たちをしても、一読で理解するのは困難なのだから、私たち一般読者が、一読でわからないのは当たり前。むしろ、一読でわかったようなことを言っている人の方が、じつは(松岡正剛を含めて)怪しいのである。

「死者の書」が読みにくいのは「古代語が頻出する」「読み慣れない、古代のお話」といったことのほかに、「視点の超時間的転換の唐突性」ということが大きいようだ。
というのも、冒頭の「墓の中での覚醒復活」のシーンの語り手が生きたのは「神世」の時代であり、復活した「現在」は、そのずっと後の時代なのだが、(各シーンに年号的な「客観説明」がないため)そのあたりの超時間的な視点の転換に気づくには、あらかじめ読者の方に「古代史」についての一定の知識が求められるからで、普通の人は、そんなものを持ち合わせていないからである。
だから、本作を一読した読者は、古代史に詳しい人の解説的読解を参照すればいい。それはなにも、恥じたり隠したりするような事ではないのだ。

さて、このようにして「どういうお話なのか」を理解した上で、次に問題となるのは、その「文学的な価値」の方なのだが、これは雰囲気からもおおよそ伝わると思うが、要は「古代の世界観」を描いた作品、だと言って良いだろう。
古代日本の世界観は、元来のアニミズム的信仰と、氏族神話と、輸入した仏教的世界観が渾然一体となった、現代人の感覚からすれば「幻想的」としか呼びようのないようなだったのだが、そうした「古代の世界観に基づく、感覚・感性」まで再現して見せたのが、本作なのである。
そして、内容的に注目すべきは、本作は「愛した人への想いを果たせずに死んだ人間の、苦しさや切なさ」を描いているという点だ。

「身毒丸」の方は、父親から「業病的な悪血」を引き継いだ旅芸人の美少年と、その師匠との「葛藤と流浪の旅」を描いた作品だと、まとめることができるだろう。
そして、本作における「業病的な悪血」とは、「同性愛」のメタファーではないだろうか。つまり、折口信夫は「業病的な悪血を引き継いだ旅芸人の美少年」に自身を重ねた上で、その苦しみに満ちた不幸な人生を「貴種流離譚」として描いたのではないだろうか。

今日であれば、「同性愛」は、一応のところ「世間公認」であり、差別など許されないと考えられているが、これはごく最近に限られた話であって、折口が生きた明治・大正・昭和の時代においては、「同性愛者」は「性的倒錯者(性的逸脱者)」であり「変態(アブノーマル)」であり「出来損ない」の「化け物」扱いにされてきた。
面と向かって侮蔑されることは少なくとも、同性愛者は、多くの人(ノーマル)たちから「陰口」され「後ろ指」を指されて、その恋心を口にすることも叶わず、「日陰者」として血の涙を流して生きたのであり、それは学者として、世間からの尊敬を集めていた折口信夫にしたところで、決して大差はなかったのだ。

『文豪怪談傑作選 折口信夫集 神の嫁』(東雅夫編、ちくま文庫)のレビューにも書いたことだが、それが研究論文であろうと創作文芸であろうと、折口信夫の作品には、「阻害されたもの」への「同情」と「共感」と「自己投影」が根底にあると見て、間違いないだろう。
そして、そうした観点から「死者の書」や「身毒丸」を読めば、決して難解ではないし、むしろ、著者の痛切な気持ちがよく伝わる作品だとも言えるのではないだろうか。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

最近のネトウヨは勉強不足? いや左翼も勉強不足か。

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月27日(土)23時22分5秒
  .

みなさま、最近、元「保守」の評論家・古谷経衡のエッセイが、私には、とみに面白うございます。と言うのも、「ネトウヨ」の話題が少なくないからでございましょう。元「保守」だけあって、古谷も「ネトウヨ」のアホさが我慢ならないのでございましょうね。

私の場合、ツイッターのアカウントを止められてしまったせいもあり、ネトウヨが視界に入ってくることも少なくなってしまい、それでAmazonレビューばかりを書いているのでございますが、それでも、やはりネトウヨを好んで引き合いに出すことが少なくございません。私にとっては、「笠井潔」と「ネトウヨ」は、愛するがゆえに苛めたくなる「双璧」なのかもしれませんね。

下に、古谷経衡による、とても勉強になったエッセイを、そのまま全文紹介させていただきますが、併せて、古谷の本も紹介して、販促させていただきますので、大目に見てもらうことにいたしましよう。
近々、古谷の旧刊『日本を蝕む「極論」の正体』(新潮新書、2018年1月16日刊)を読む予定でございます。

 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

「ウイグル話法」とは何か?──リベラルは中国に甘い、という誤解

 2021年3月2日 11:10「ニューズウィーク日本版」


 ○ ウイグル話法って何?

「ウイグル話法」を知っているだろうか?保守界隈やネット右翼界隈(以下保守派)に少しでも知識・関心のある諸兄なら聞いたことがあるであろう。ウイグル話法とは、日本内外で人権軽視とされる舌禍を保守系の政治家や私人等が行い、世論から猛烈な批判を受けると、その対抗言説として必ず「ならばウイグル問題をなぜ批判しないのか」として、保守派が主にネット上で持ち出す言説の事である。

記憶に新しいところでは、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会前会長の森喜朗氏の女性差別発言に対するバッシングに対し、「森氏の女性差別を批判するのならば、同じく中国のウイグルでの人権問題を批判しないのはおかしい」という言説が噴出した。要するにある保守系の人物の人権に関する舌禍への批判への対抗として、ウイグルの人権状況への無批判を持ち出す。これがウイグル話法である。

 ○ ウイグル話法の例

       ウイグル話法の一例
      (あくまでも筆者が捜索したものです)

 『 皇弥栄 @love2japan1972
   森喜朗さんに執拗に「女性差別」とバッシングするマスゴミ。
   でも中国のウイグルでの差別や人権侵害はダンマリ!』

 『 真の愛国者 反日が嫌い @jnsc1208
   トランプ大統領を民主主義を破壊するとレッテルを貼るサヨク
   メディアはウイグル問題はスルー。』

 『 天安門事件を忘れない!! @8964ss
   フェミたちが女性の人権、人権というけど、日だろまきは一度でもウイ
   グル問題で中国共産党を批判したことある?』

 (筆者制作)

上記はあくまで私の創作だが、このように「~ではなぜ中国のウイグルでの人権問題を批判しないのか」という理屈で展開されるウイグル話法は、保守派における進歩派・リベラル攻撃の伝統的な一本槍戦法である。

人権問題に厳しいとされる日本国内外の進歩派・リベラルは、執拗に人権擁護を叫ぶが、その一方で中国のウイグルでの人権弾圧に対して全く無関心であり、無批判である―という世界観がウイグル話法の根幹にある。

このようにウイグル話法は、現在保守派の中でお家芸になっており、ネット上では恒常的に観察することができるばかりか、現在では右派系の国会議員までこの論法を採用している場合が散見される。ウイグル話法は、保守派にとってあらゆる進歩派攻撃に転用できる便利な飛び道具になっている。

LGBTに関する人権蔑視や、アイヌ民族の被差別の歴史への無知、低所得者や生活保護受給世帯への偏見や無理解等が保守系の政治家等から表明され、世論から批判を受けると、かならずウイグル話法の話者は被批判者の擁護に回り、「~ならばなぜウイグルの人権問題や差別を批判しないのか」と続ける。繰り返すように彼らの世界観には、進歩派やリベラルは人権を叫ぶくせに、世界最大級の人権問題のひとつであるウイグル問題については無知・無理解・無批判である―、と思い込んでいるからだ。

実はこの認識自体、事実とは真逆であり全くの誤解なのである。少なくとも現在日本の国政政党に於いて、最も中国のウイグル問題を批判してきたのは、かつて「革新政党」と呼ばれた日本共産党である。

 ○ 日本共産党の辛辣すぎる中国批判

日本共産党は、2020年1月28日、第28回党大会で党綱領を改訂した。党綱領改定は実に16年ぶりの出来事であった。この中で、従来日本共産党は中国を「社会主義をめざす新しい探究が開始された国」としていたがこの部分を削除し、「いくつかの大国で強まっている大国主義・覇権主義は、世界の平和と進歩への逆流となっている」と挿入して中国共産党への批判を強めた

この中国認識の転換の理由として、日本共産党は東・南シナ海における中国の覇権主義的行動のエスカレート、香港における人権侵害およびウイグル自治区における人権弾圧をあげた。

この党綱領改定に前後しての志位委員長の演説は、徹底的な中国批判で埋め尽くされている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

我が党は1960年代以降、ソ連と中国という「社会主義」を名乗る2つの国からの激しい覇権主義的な干渉攻撃を受け、それを断固として拒否し、自主独立の路線を守り、発展させてきました。ソ連によるチェコスロバキアやアフガニスタン侵略などを厳しく批判する闘いを展開した。中国指導部による「文化大革命」や「天安門事件」などの民主主義抑圧の暴圧に対しても、最も厳しい批判を行ってきました。今回の綱領一部改定案は、中国に現れた大国主義、覇権主義、人権侵害を深く分析し、「社会主義を目指す新しい探求を開始」した国とみなす根拠はもはやない、という判断を行いました。

中国の党は「社会主義」「共産党」を名乗っていますが、その大国主義、覇権主義、人権侵害の行動は「社会主義」とは無縁であり、「共産党」の名に値しません。中国に現れた大国主義・覇権主義は世界にとってもはや座視するわけにはいかない重大性を持っています。にも拘らず、その誤りに対する国際的な批判が全体として弱い。特に日本政府は全く弱く、追従的である。(日本共産党、志位委員長演説,2020年1月14日,強調筆者)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

要するに「中国共産党など、共産党ですらない。単なる帝国主義国家」と言っている訳だが、ここまで徹底的な中国共産党批判を公にする国政政党は、現在のところ日本共産党以外見当たらない。つまりウイグル話法の話者は、日本の革新勢力や進歩派こそが、もっとも辛辣な中国共産党批判者であるという事実について、無知なのである

このようにウイグル批判についての実態は、自民党などの保守政党が中国との経済交流等に配慮してむしろ低調であり、もっとも最右翼であるのは日本共産党を筆頭とする進歩系勢力である。よってウイグル話法の前提である、"進歩派やリベラルは人権を叫ぶくせに、世界最大級の人権問題のひとつであるウイグル問題については無知・無理解・無批判である"というのは、実際には事実と真逆なのである。

 ○ なぜ日本共産党は中国批判の急先鋒になったのか

ではなぜ日本共産党が日本国内において最右翼の中国共産党批判者になったのだろうか。巨視的に言えば、ロシア革命を経て1922年に成立した世界初の共産国家・ソビエト連邦が、第二次大戦の戦勝国になり、東欧やアフリカ、アジア等にその影響力を拡大させる中で、様々な内部抗争と分派が発生した。

よって共産国は一枚岩ではなく、実態は中ソ対立を典型とした共産国家同士の紛争が相次いだ。よって戦後成立した世界各国の共産党は、親ソ、親中、いずれでもない(旧ユーゴやアルバニア等)となり、お互いがお互いの正当性を主張しあって対立する、という状況に陥ったのである。

この中で日本共産党は、戦前・戦時期等の非合法化での中断を経て戦後に合法政党として復活すると、当初ソ連からの援助を受けて武力革命路線を展開するが、結局はこういった好戦的勢力を排除し、議会制民主主義を通じて人民連合政府を作る、という現在のスタイルになった。日本共産党は、かつてソ連を覇権国家と呼び、「本当の共産主義ではない」としてソ連崩壊を「諸手を挙げて歓迎」した。

そもそも、マルクスは共産主義を発達した資本主義の次に登場する社会段階と規定したため、遅れた資本主義社会の中で発生したソ連や中国などで、脆弱な資本家の代わりに共産党が専制的統制経済を行うことなど想定していなかったのである。

よってマルクスを素直に読めば、「世界中には未だに真の共産国家は誕生していない」という事になり、ソ連の崩壊は「社会主義・共産主義の敗北ではなく、単にソ連型の帝国主義が敗北しただけ」という解釈になる。当たり前のことだが、マルクスの想定した共産主義では完全な民主制が保障され、労働者は独占資本からの搾取から解放されている。そもそも生産手段(工場や農場等)を共有するので、搾取する側が消えていなくなる。このような共産主義とソ連や中国が全く違うのは言うまでもない。

この立場をとる日本共産党が、現在の中国を「共産党の名に値しない」と批判するのは当然と言えば当然である。現在の日本共産党が、辛辣に中国共産党の覇権主義を攻撃し、ウイグル・香港を含めた人権問題を批判するのは、かつて世界の共産国や共産党が「お互いがお互いの正当性を主張しあって対立する」の一種として捉えるのか否かは評価の分かれるところであろう。中国共産党を攻撃すればするほど、なるほど確かに日本共産党の「正当性」は上昇する。

しかし日本共産党が現在の日本に於いて最も中国批判の急先鋒であることは紛れもない事実であり、ウイグル話法の話者は、この事実を認識した方が良い。諸兄がネット上で「ウイグル話法」を見かけたなら、往々にしてこのような現実に対して無知であることが多い。ウイグル話法は事実とは真逆であり、保守派の誤解によって生まれたリベラル攻撃の間違った戦法であることは指摘しておかなければならない。

.
 古谷経衡(作家、評論家、愛猫家、ラブホテル評論家)
 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

.
ぐちぐちテロリストこと伊殻木祝詞さま

ぐちぐちテロ Part.1 q( ̄▽ ̄)p

相変わらず、荒ぶっておられますね。お元気そうで何よりでございます(笑)。

> ①去
>  ――年、中国でCovid-19が猛威を振るっていた時に、日本のワイドショーで現地の状況の映像を流していたんですけどね、その中に青龍刀を持ったおっさんが道路の真ん中を陣取って往来しようとする人間を通せんぼする映像があったんですよ。まあ、その頃は私もこのウイルスのことを舐めていたから、「そこまでせんでも」と思って笑ってしまったし、その番組の司会やコメンテーターも似たような感じで、もっと言えば日本全体そして世界の多くの国々も現地の事態の深刻さを全然分かっていなかったんだけど、今にして思えば、特に日本と欧米諸国の悲惨で無様な現状を見れば、あのおっさんは人類の愚かさを、と言うか、人類なんてものは万物の霊長気取りでデカい面をしているけども、所詮は脳が肥大化しただけの単なる猿でしかないことを、あの当時、誰よりも正しく理解していたな。

まったくでございますね。
コロナによる死者数と、戦争による死者数を比較してみれば、このコロナ禍がいかに恐るべきものかということが、一応はわかりますが、戦争の場合とは違って、死者の「姿」は完全に隠蔽されておりますから、「数字」だけをいくら示されても、私たちはなかなか実感を持つことができません。
青龍刀を持ち出してでも、人の出入りを止めようとした男の「切迫した感情」というリアリズムを、私たちは愚かにも、あざ笑った。そのバチが当たったのかも知れませんね。

そして今日もまた、桜見物に多くの人が繰り出して、テレビのレポーターが質問をすれば「対策さえしていれば、大丈夫なんじゃないでしょうか」と、いったいそれは誰に対する「言い訳」なのか。少なくとも、コロナウィルスには、そんな言葉など、何の意味もないのでございますが。

先日も、友人とLINEでしょうやりとりしていたのでございますが、結局のところ、人は自分の体で直接体験しないとわからないのでございましょう。かく言う私自身そうで、わかって言っているのではなく、単にこうした立場を「知的判断において選択」しているだけなのでございましょうね。

ともあれ、罹患してしまえば、どんなに「あれもやったし、これもやったのに」と言い訳したところで、痛い目を見るのは自分で、罹ってしまえば「負け」だということでございましょう。

> どうもウイルス同士で、人類そっちのけで熾烈な勢力争いが始まっている様子。この場合、各変異株の武器は抗体を持った既感染者ということになる。つまり人類はウイルスが勢力を広げるための培養器かつ兵器として利用されている……すごくね、これ?

こう書かれると、私は『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』を想起しましたが、なるほど、

> 『戦闘妖精雪風』のコンピュータとジャムの戦いみたい

でございますか。昔、読んだのですが、すっかり忘れておりますね。

私はどちらかというと、神林長平の場合は、オーソドックスな「メタ・フィクション」系が好きなのですが、『雪風』はとても人気があったので、神林ファンとして、いちおう読んだだけ、だったからでございましょう。
読み残しを読んでしまいたいのですが、いつ読んでも構わない本は、なかなか順番が回ってまいりません。
一一おっと、脱線してしまいましたね(笑)。

> 冗談抜きでアジアの国々に欧米並みの惨禍を与える変異株を生み出しかねないような状況であり、何しろ極東変異株はモンゴロイドの体内で生まれるのだから、モンゴロイドに最適な変貌を遂げる可能性もある、という程度の危機意識もねぇんだから。

そうでございますね。このところ、世界に誇れるものが何もなくなった日本で、最強の「新型コロナウィルス」を産出して世界に輸出した、となっては洒落にもなりませんが、現在の体たらくぶりでは、その可能性も大いにあろうかと存じます。誰も来ないオリンピックの代わりに、「新型コロナウィルス・日本型」を世界へ…。

>  そもそも流行してから一年ちょっとで長期的予後が全く不明だと言うのに、ウイルスの危険性を訴えると「恐怖心を煽るのはやめましょう。コロナはただの風邪です。死者数もインフルエンザより少ないのです」とか言ってくる市井の塵芥みたいな連中が次から次に湧いてくるんだからマジでどうにもならねえ(この手の連中はネトウヨさんに限らず、左派・リベラルやノンポリにも多い。アホは等しくアホでしかない。お前は会食しようが、マスクを外そうが、好きなようにすればいいだろとしかw)。未知のものを恐れるのは、知性の有無に係わらず、生物として必須の能力だと思うのだが、なぜ彼らはそんなことを堂々と言えるのか。狂っているのか。それとも狂っているのは私なのか。

おっしゃる通り「バカに右も左もない」というのは、お馴染み「スタージョンの法則」に明らかでございますが、私の場合、左のバカは「数の内」として必要ですし、ひとまず私と絡むことがないので、わざわざ「バカな左」を論じることもないのでございます。
まあ、『左派・リベラルやノンポリ』だと思えばこそ、わかってないバカには余計に腹が立つ、ということもございましょうね。

> ③そ
>  ――んで、こういうことを言うと、「皆がそんな風に浅はかな訳じゃないですよ。ちょっと主語がデカすぎませんか?」と知った風な顔で言ってくる奴が必ず湧いてくる。ネトウヨさんよりも、自分の知性にある程度の信を置いている奴が好んで使う印象がある(笑)。

私の場合は、そういうことを言われたことはございませんね。例外なく「9割はクズ」だと連呼していても、やはり「ネトウヨ」いじめをしている印象が強いからでございましょうか(笑)。

昔、左ぶっていた「きくちゆみ」とか、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の事務局長をやっている「熊谷伸一郎」にかみついたことはございましたけどね。
一一いま検索してみたら、熊谷については『雑誌『世界』編集部に所属。2018年9月号より同編集長となる。』(Wikipedia「熊谷伸一郎」)となっていますから、トンデモの「きくちゆみ」とは違い、こちらは立派な「左翼」ということで、「ネトウヨ」も納得してくれることでございましょう。しかし、あんなのが編集長をやっているようでは、まさに「SEKAI MO OWARI」でございますね(笑)。

>  と言ってやりたい気分を押し殺しながら日々を過ごしている。
>  まあ、誰に対してキレてんのかは自分でも分からんのだけどね……。

いやいや、感情を押し殺しているのは体に良くありませんので、どうぞ、この「花園」で、毒の花を満開に咲かせてくださいまし(笑)。

> ⑤末
>  ――木文美士の『日本仏教史 ―思想史としてのアプローチ―』(新潮文庫)とカート・セリグマンの『魔法 その歴史と正体』(平凡社ライブラリ)をちびちび読んでいる。
>  副題の通り、どちらも宗教と言うよりは思想の方に焦点を置いた本。『日本仏教史』は良い本である。情報量ぎゅうぎゅう。それでいて読みやすい。著者の丁寧な仕事ぶりには好感しかない。注釈・文献案内・仏教史年表に加え、用語の索引もついていて、なかなかの充実ぶり。『魔法』の方は、まだ数十ページしか読んでいないので何とも言えないけど、こちらも読んだ範囲に於いては面白い。そして大著。大著はいい。読書家になった気分に浸れる(笑)。

末木文美士の『日本仏教史 ―思想史としてのアプローチ―』とカート・セリグマンの『魔法 その歴史と正体』は面白うございますか。
末木の本はすでに2冊ほど買ってありますし、セリグマン の『魔法』は気になって買いかけたのでございますが、きっと後回しになって、下手をすると死ぬまで読めないかもしれない本だと思いましたので、古本落ちを待つことにいたしました。ひとまず「魔法」のことまで手を広げる余裕は、今のところ、ないからでございます。

> 強いて言えば、どちらの本も字が小さい。疲れる。『魔法』の方は物理的に重いので余計に。

重いのはまだしも、活字の小さいのは困ります。昔はバカにしていた「大活字本」というもののありがたさが理解できるようになりましたが、もう少し安くしてもらわないと、それでなくても種類が少ないので、実際に利用する機会はございませんねえ。

>  そろそろ帰る。生きていたら、また来る。多分。
>  なぜ片言なのかwww

ま、とにかく、文句たらたらでも結構ですから、元気で生き延びて、またお出で下さいまし。
「ぐちぐちテロ」が『エヴァンゲリオン』のように続くことを期待しております。
一一ちなみに『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、意外なほど、感じよくまとまって完結しておりました。何か含みがあるのかもしれませんが、私は嫌いではございませんでしたね。
綾波Part.?の綾波も、アスカも、とても可愛く、救いのある作品となっていて、少々無理はあっても、良い作品ございました。


それでは皆さま、おやすみなさいまし。


.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈チコちゃん〉に叱られろ! 一一Amazonレビュー:ブレイディみかこ・鴻上尚史『何とかならない時代の幸福論』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月27日(土)17時21分37秒
  .

 〈チコちゃん〉に叱られろ!

 Amazonレビュー:ブレイディみかこ・鴻上尚史『何とかならない時代の幸福論』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R32L5QZ12ZJACV

.
ねえねえ岡村~、この中で一番おもしろいレビューが書ける、クリエイティブな大人って、だぁれ?

『ブレイディ  人と違うことをやってみようと思うのが人間のクリエイティビティの目覚め(以下略)』(P146)

『ブレイディ  そう、(※ 地下鉄のエスカレーターのところで)イキってる(※ 黒人の10代の少年)2人に(※ 対して言った)。「あんたのお父さんがそういう(※ 女性を見下したような)ことを言ってるのかもしれないけど、あんたたちはニュージェネレーションでしょ。バカなこと言ってないで、子どもはさっさと家に帰りなさい」て怒ってるんですよ。その怒り方がね、すごいもう演劇的なの(笑)。
 イギリスって、そういう場面が起こった時に、そのウーピー・ゴールドバーグみたいな人が出てくるんですよ。(※ 日本みたいに)全員がスーッてエスカレーターで上がって去っちゃわないで、必ず誰か出てくる。それもイキがってるのが黒人の男の子たちだったから、黒人の女性が出てきた。思うに、イギリスの人たちは、自分が見られていることを知ってて、明らかに人々の視線を意識してやっている。ふるまいというか、一種のパフォーマンスがストリートでの政治なんです。』(P226~227、「※」は引用者補足)

.
『 ブレイディ (前略)イギリスでは、政治的な意見を表明するっていうこと演劇は切り離せないと思います。実際、昔からエスタブリッシュメントの子どもはステージスクール(演劇学校)に通っている子がよくいますよね。あれにしても、俳優にさせるためではないのです。

鴻上  そうですね。単に感情的に叫ぶだけじゃなくて、ちゃんと表現者としてスピーチできるってことですからね。

ブレイディ  まわりから見られていることをわかっているんです。

鴻上  日本人がそこまでいくのは、いつになるんだろう。(以下略)』(P228~229)

つまり、例えば本書について、やれ「イマイチ」だとか、やれ「期待はずれ」だ、やれ「面白くない」とかいった「芸のないレビュー」を書いている日本人は、まず間違いなく「クリエイティブ」ではないし、自分が「見られている」ということにも気づかない、いかにもわかりやすい「世間的視野しか持たない日本人」だということだ(型通りのベタ誉めレビューも、また然り)。
言い換えれば、なんの芸もひねりもなく、素面でチコちゃんの質問に答えちゃうような、チコちゃん言わせれば「つまんねー奴」だということになる。

本書についての、「イマイチ」だとか「期待はずれ」だとか「面白くない」といった評価は、必ずしも間違いではない(私も、両者の著作は読んでいるので、それぞれの単著に比べると、ゆるい予定調和に終わった感の無きにしも非ず、という評価な)のだが、しかし問題は、本書を読んでも、何も学んでいないような「つまんねー奴」が「つまんねーレビュー、書いてんじゃねえよ!」ってことなのだ。

そこで「今こそ全ての日本国民に問いたい」。国民への説明責任が果たせない総理大臣が国政を担うのと同様、「読めない奴」に、レビューを書く資格なんてないことくらい分かれよ。そうだろう? と。
だが、「日本人がそこまでいくのは、いつになるんだろう」ね、ほんとに。

ともあれ、せっかく読むんなら「ボーッと読んでんじゃねえよ!」っていうことだ。

そして、レビューを書くんだったら、自分が「評価者」であると同時に「評価の対象」にもなる、つまり「見られる」側にもなるんだって自覚ぐらいは持てるようになろう。本書を読んで、それに気づけるようになれていたら、本書は決して、その人にとっては「イマイチ」だとか「期待はずれ」だとか「面白くない」なんてことにはならず、価値ある「気づきの書」ってことになっただろう。

無論、「芸」を見せるには、それなりの勉強が必要。ボーッと本を読んで、面白いだのつまらないだのと、どこまでも「お客さん」気分では、決して「芸」も「教養」も身に付かないだろう。一一結論としては、ひとまず「チコちゃんに叱られろ!」ということなのである。

日本人の名誉のために、あえて憎まれ役を演じてみました。本当は、こんな奴ではありません(笑)。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈かみさま〉とは何か。それは「私」である。一一Amazonレビュー:ごとうにも『かみさまとX』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月27日(土)17時20分31秒
  .

 〈かみさま〉とは何か。それは「私」である。

 Amazonレビュー:ごとうにも『かみさまとX』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R29CDVAXOTUXCA

.
帯には「シュール」「かわいい」「哲学漫画」とあるが、そういうマンガだと思って読めば、おおすじで間違いはない。
ただ、「シュール(超現実的)」であるかどうかは、視点の置き方によるだろう。つまり、物語の筋自体は「超現実的」だけれど、「かみさま」の描き方は、けっこう「リアル」なのである。

本作の語り手である主人公は『僕は宗教や哲学を少しかじっていた』(P5)と言っているが、これは作者自身の投影とみて間違いない。本作は、ある程度「かみ」的なものについて勉強した人でないと、とうてい書けない作品なのだ(例えば、283Pの「神の存在証明」は、キリスト教神学を踏まえたものである)。

では、本作は「面白い」のかと言えば、「宗教」や「哲学」が面白い(興味深い)という人には、ものすごく面白いだろう。しかし、そうではない人には、単に「超現実」的で、意味不明な(難解な)話ということになってしまう。
本作を楽しむためには、「この物語は、何を語ろうとしているのだろうか」と、積極的に読解しようとする知的な態度が必要なのだ。口をアーンと開けて待っていても、解答を投げ込んではくれはしないのである。
(※ ちなみに「宗教が面白いと思う人」とは、「宗教的な人=宗教家=信仰者」という意味ではなく、「宗教という文化に、知的な興味を持つ人」という意味である)。

さて、それでは、私が本作をどう読んだかを書いておこう。

私が思うに、本作は「かみさまと人間の関係を描いた作品」ということになるのではないだろうか。つまり「X」とは「人間」のことで、「かみさま」と関係を取り結ぶ「X」項に、誰(個人)を代入するかによって「姿を変えるもの」が「かみさま」だ、ということを示したタイトルだと思う。

だからこそ、作中での「かみさま」は、登場人物たちそれぞれの世界観を反映して、微妙に姿や性格を変えるのではないか。現実の世界においても、「かみさま」が「固定的な存在」として実在するのなら、宗教ごと個人ごとにいろいろな「かみさま」になるわけがない。
つまり、そうした意味で、万人共通の「かみさま」は存在しないし、人によって姿や性格を変えてしまう「かみさま」ならば存在している、とも言えるだろう。

もちろん、ここで問題となるのは、「かみさまの定義」であり「存在の定義」だということになるのだが、ごく一般的な意味における定義において、私の場合は「かみさまは存在しない」と考える「無神論者」である。仮に、私個人の中に、個人的な「かみさま」みたいなものがいたとしても、それをして「存在する」とは言わない、ということだ。

では、作者にとって「かみさま」はいるのかと言えば、たぶん「いる」だろう。

 「本物だ…」「僕は信じた」
 「かみさまに聞いてみたいことは山ほどあった」
 「しかしなぜか聞きたい欲望がスッと消えさり」
 「涙があふれた」(P6~7)

この描写が意味するのは、「かみさま」という巨大で絶対的な存在など「いないだろう」と思いながらも、主人公には「いてほしい」という願望があった、という事実を明かしている。つまり、「いてくれた」と思った途端、瑣末な疑問などどうでもよくなり、その「安堵」によって、涙が湧いて出た、ということである。

だが、このことからわかるのは、主人公の考える「かみさま」とは、基本的に「人間に好意的」な存在であり「庇護的に包み込んでくれるような存在」だということである。彼にとっての「かみさま」は、恐るべき存在ではないのだ。

しかしまた、主人公に近い「かみさま」観を持っている作者も、それが個人的な「かみさま観」でしかないことを自覚しているので、他の登場人物たちにとっての「かみさま」は、違った形をとることになる。ここが「かみさまとX」ということの意味だ。
他者にとっての「かみさま」は、時に「気まぐれ」であったり「残酷」であったり「何も考えてなかった」り、「すべてのことを考えていた」りして、様々である。「かみさま」を『2001年宇宙の旅』に描かれる「超文明の宇宙人」だと考えることもできるが、いずれにしろ「かみさま」は、誰にとっても、ある意味では存在していて、また、万人共通の「かみさま」は存在しないという意味で、客観的には存在していないのだ。

いずれにしろ、「かみさま」を規定するのは、個々の「私」である。
本稿タイトル『〈かみさま〉とは何か。それは「私」である。』というのは、そういう意味だ。

「かみさま」が最初に登場するような「かわいい」ものであればうれしいのだが、そう期待できるほど、私は人類の歴史に無知ではないところが、少々残念ではある。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

学問を装う〈真言宗の御用学者〉:渡辺照宏批判 一一Amazonレビュー :渡辺照宏『お経の話』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月27日(土)17時19分13秒
  .

 学問を装う〈真言宗の御用学者〉:渡辺照宏批判

 Amazonレビュー :渡辺照宏『お経の話』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RI1ISG91KCQYY

.
他のレビュアーさんには申し訳ないのだけれど、レビューを参考にする人たちのために書いておこう。

本書『お経の話』に書かれている「事実以外の部分」を、客観的な「学術的評価」だなどと真に受けてしまったら、仏教について誤った「先入観」を持ってしまうことになる。これは初学者には、きわめて好ましくないことだ。

本書は、と言うか、本書著者・渡辺照宏の著作は、基本的に、「党派」的な色眼鏡を通して書かれた、自宗派「えこひいき」の書でしかない。
だから、それを承知したうえで読むのならいいけれど、こんな本を、中立客観的に書かれた「基本書」だとか「入門書」だとか「学術書」だなどと評しているレビューを、決して真に受けてはならない。端的に言って、こうしたレビュアーは皆、「宗教」や「仏教」のことを全く知らない素人であり、そのレビューは、本質を外した素人の感想でしかないのだ。

本書著者・渡辺照宏の別著『仏教 第2版』のレビューにも書いたことなのだが、じつは、渡辺は、弘法大師「空海」を開祖とする「真言宗」の、伝統ある寺院の息子である。
奥付の著者紹介には、その事実がまったく記されていないが、これはたぶん意識的な隠蔽だ。なぜなら、渡辺の本を「真言宗信者の書いたの本」だと思って読めば、「なるほど」と合点できる「偏向した記述」が、山ほど見つけられるからだ。

著者のこうした「基本情報」を知らされないまま、「宗教」というものに無知不馴れな人が本書を読めば、「隠された党派性」に気づけず、偏向した記述を「客観的な評価」だと信じ込まされてしまう。

私の場合は、元創価学会員で、「宗教」というものの「ズルさ」を身に染みて学んだし、それをキリスト教を研究することで裏付けもしたので、前記『仏教 第2版』を読み始めるとすぐに「あれっ? この学者は、妙に感情的だな」と気づいた。そこでネット検索してみたら、案の定「Wikipedia」に、次のように紹介されていた。

『成田山東京別院深川不動尊監院渡辺照叡の子として生まれる。1930年(昭和5年)3月に東京帝国大学文学部インド哲学科を卒業する。卒業と同時にドイツに留学し、エルンスト・ロイマン(Ernst Leumann)らに師事し、1933年5月帰国。1935年(昭和10年)3月に東京帝国大学大学院を修了する。』

そして、渡辺の著作一覧を見てみると、仏教全般をテーマにしたものが中心ではあるものの、その中に『不動明王』、『南無大師遍照金剛』、『日本の仏教思想 最澄・空海」(編著)、『沙門空海』(宮坂宥勝との共著)といった「真言宗」系の著作が目立っており、おのずと渡辺が「真言宗信者」であることも明らかになったのである。

したがって、渡辺の「仏教」論は、基本的には「真言宗」が、最もありがたいものであり、価値のあるものである、ということを「匂わせた書き方」になっている。
無論、自称「仏教学者」なのだから、露骨には書かず、「学者」らしい「客観性を装う」わけだが、しかし基本は「信者」なので、「表現や言い回し」の端々に「個人的な感情」が滲んでしまい、私のように「信者宗教学者は、中立たり得ない。中立たり得る宗教学者とは、無神論者である」と考えるような人間には、その「韜晦・偽装」を見破られてしまう。

では、本書『お経の話』でなされていることとは、何なのか。それは「小乗仏教」批判である。

言うまでもなく、「真言宗」は「大乗仏教」の一派である。しかも、大乗仏教の中でも、比較的新しく成立した一派だ。だから「宗教学」的に「仏教」を見ていく場合には、「真言宗」は「後から作られた、新しい仏教宗派」「釈迦仏教とは、はるかに隔たった仏教」だと見られやすい。

一方、世間の多くは、「仏教」とは「お釈迦様が説いた教え」だと思っているから、釈迦が説いた教えをそのまま写したものではなく、数百年後の人が完成させたものである「大乗仏教」は、おのずと「偽物」だと思われやすいし、事実、日本にはほとんどいない「小乗仏教」の人たちに言わせれば「大乗仏教なんて、後世の偽作でしかない」ということになる。

そして、学問的にも、大きな流れとしては「古い仏典に書かれた、比較的シンプルな教え」が「釈迦の教え」に近いだろうと考えられてきたし、今も基本的にはこうした考えが主流であり、それは大筋で間違ってはいない。

しかし、それでは困る「真言宗」信徒の本書著者としては、こうした「仏教学的常識」を「相対化」したいと考えた。
完全否定することはとうてい不可能だからこそ、「そうとは限らない」「例外はこんなにある」「最近では、そうした見方の見直しがなされ始めている」といった言い回し(レトリック)を多用して、「仏教学的常識」に対する「粗探し」と「細かい注文」によって、その「権威」を相対化することで、一般に、「小乗仏教」からの分派あり時代的にも後に位置すると考えられている「大乗仏教」の立場を擁護し、中でも新しい「真言宗」の価値を守ろうとしているのだ。

こうした観点からすれば、本書の眼目は、第一部第1章の「お経の成立」にあるのは、一目瞭然であろう。
渡辺が、ここでやっているのは、「大乗仏教」の視点から「小乗仏教」を「相対化」して、「小乗仏教」の権威を相対的に貶めることなのである。

 ○ ○ ○

日本の仏教は、基本的に「大乗仏教」である。小乗仏教とともに、インドから中国に伝わった大乗仏教は、中国において歓迎され発展した。それを輸入したのが、日本の仏教。したがって、日本の仏教は基本的に、小乗仏教に否定的である。

本書にも書かれているとおり、日本で当たり前に使われる「小乗仏教」の「小乗」とは、侮蔑表現だ。
「小乗」とは「小さな乗り物」という意味で、これは「大乗仏教」の側が自らを「大きな乗り物」としたのに比しての蔑称であり、「乗り物」とは、人間を救う「乗り物」。つまり「大乗」は、差別なくみんなを救う(悟りの境地たる仏にいたらせる)が、「小乗」では一部の(出家)者しか救われない、と批判したものなのだ。

したがって、日本の「大乗仏教」では、中国伝来の仏教理解によって、「小乗仏教」は「仮の教え」でしかなく、末法時代に生きる私たちは「小乗仏教では救われない」という話になるし、だから「大乗仏教しかない」という話になるのだが、もちろんこれは「大乗仏教」側の理屈であって、「小乗仏教」と蔑称された「上座部仏教」の側からすれば、一方的な誹謗中傷だということになろう。

言うまでもなく、彼ら(小乗仏教)には彼らの理屈があり、その基本的な考え方は「釈迦の仏教は元来、釈迦自身がそうであったように、出家して修行し、悟りを得て、個々人が自力によって仏の境地に達する、つまり成仏はする、というものである。ところが、大乗仏教は、大衆ウケを狙って、誰でも救われる、出家や特別な修行は必要ない、などと調子の良いことを言って、釈迦の仏教を歪めた、ニセモノ仏教だ」というものだ。

言われてみれば、たしかに「釈迦の生涯」とはそういうものだし、大乗仏典に説かれている、いろんな話は、釈迦滅後、数百年後に成立した、後付けの創作でしかないというのも、大筋において事実だろう。ならば、やっぱり、大乗仏教より古い、小乗仏教の方が「釈迦の仏教」に忠実なのではないだろうか一一と、そう考えることも十分に可能だ。

こうした、一般的な疑問に対し、大乗仏教の側から「いや、一概にそんなことは言えないよ。大乗仏典に説かれていることの方が、むしろ釈迦の教えに近いと考えられる場合も少なくない」と、大乗仏教の立場から反論しているのが、本書だ。
もちろん著者は「学者」として、「中立の立場」から、そのような見方を提示しているように、見せかけている。しかし、これは「ペテン」だ。
なぜなら、本書著者は「真言宗寺院の息子」つまり、生まれながらの大乗仏教徒であり真言宗信徒である事実を意識的に隠し、「学者」の肩書きを前面に押し立てて、読者に対し「中立」をアピールしながら書いているからである。

こうした、本書著者・渡辺照宏を、私は、渡辺の別著書『仏教 第2版』のレビューにおいて批判しておいたが、本書においても、渡辺は同様の欺瞞的「自己正当化のための他者誹謗(大乗・真言正統化のための小乗誹謗)」を行っており、これは「学問的良心」の問題としても「信仰的良心」の問題としても、そして「人間的良心」の問題としても、厳しく批判されなければならない。
日本に小乗仏教徒がほとんどおらず、大乗仏教の立場から大乗仏教を正当化しておけば、そりゃあ一般に「受け」も良いのだろうが、それは「学問」として許されない「党派政治」にすぎないし、そもそも「アンフェア」で、人間として恥ずべき行いなのである。

本書における、渡辺のこの種の「欺瞞」をぜんぶ挙げたら、このレビューはここまでの何倍もの長さになるだろうから、ここでは、いくつかわかりやすいものを例示するに止める。
また、参考として、前記『仏教 第2版』のレビューを末尾に再録しておくので、ぜひご参照願いたい。

.
(1)『 現在の日本の仏教は多くの宗派にわかれていて、宗派ごとに聖典が異なり、よその宗派の聖典にはあまり関心を示さない。たとえばある宗派では『法華経』のみを尊び、別の宗派では『浄土三部経』のみをあがめる。また別の宗派ではそのどちらもかえりみず、他の〝お経〟を大切にする。こういうわけであるから、日本のすべての仏教徒に共通する〝お経〟というものは存在しない。戦時中に各宗が連合して合同の法要を営もうとしたがいっしょに読めるお経がない。比較的多くの人が知っている『般若心経』をえらんだが、強硬に反対する一宗派があってついに企画は立ち消えになった。〝お経〟というものを宗派のわくで考えると、このように窮屈なものになる。』(P1~2)

開巻早々「私は宗派にとらわれない、寛容な人間です」と自己アピールしているが、すでにここには「真言信徒・渡辺照宏」の本音が覗いている。
まず『のみをあがめる』偏狭な宗派として『ある宗派では『法華経』のみを尊び、別の宗派では『浄土三部経』』と一部宗派を挙げつらって、否定的な「印象操作」をしている。言うまでもなく、ここで貶されているのは「日蓮宗」と「浄土宗」「浄土真宗」である。
だが、具体的に「宗派」名を挙げて「名指し」しないところが、渡辺の「学者ぶった陰険さ」の表れであろう。

『強硬に反対する一宗派があってついに企画は立ち消えになった。』の、強硬な『一宗派』とは、たぶん「日蓮宗」だろう。
なにしろ宗祖日蓮が鎌倉時代に「国が乱れるのは、国主が誤った宗派を崇めているため」だと「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」と言って、当時主流の他宗批判をしているのだから、みんなで連れ持って拝みましょうなんていう「素人じみた、謗法の行事には参加できない」と考えたのは自明だろう。

「教義」の中身を知らない宗教素人の日本人は、とにかく「仲良く」とか「和」とか「絆」とかが大好きで、無自覚な「同調圧力」がその国民性だから、「教義にこだわる狷介さ」というものが理解できない。
しかし、カトリック信徒に「君もいっしょに般若心経を唱えろ」なんて言うバカはいないだろうし、イスラム教徒に「歓迎パーティーをやってあげたんだから、あなたも豚カツを食え」とか言うバカも、今時ならいないのだろうが、そうした「教義の違い」というセンシティブな問題は、とうぜん仏教内部にもあって、「知っているんなら、あなたも拝めよ。同じ仏教徒だろう」では済まないことくらい、仏教学者の渡辺なら当然わかっている。だが、仏教に無知な読者に、「日蓮宗」への悪イメージを刷り込もうと、わざとこういう書き方をしているのだ。

ついでに行っておくと、『戦時中に各宗が連合して合同の法要を営もうとした』というのは、「戦勝祈願」の蓋然性が高い。
国家神道の下部に置かれた仏教各派も、こぞって軍部政府に協力して「打倒米英!」「ルーズベルト呪殺!」なんて祈祷を盛大にやっていたのだし、そうした「加持祈祷」は、何より「真言宗」のお得意だった。
まただからこそ「真言宗高野山」は、戦後に問われた「戦争責任」問題について、宗派の責任を明確に認めたがらなかったのだろう。「日蓮宗」や「浄土宗」「浄土真宗」など、大半の仏教宗派が戦争責任を認め、反省の意を表明したというのに、である。
また、だからこそ逆に「真言宗信徒」の渡辺としては、「日蓮宗」や「浄土宗」「浄土真宗」が目障りなのだろうし、なんとか貶めたいと思うのではないだろうか。

(2)『 そこで(※ 仏典の)どれが高級で、どれが低級であるのか。どれが仏陀の真意で、どれが方便説であるのか。中国の宗派組織者の最大の関心はこの観点から経典を分類し位置づけることであった。その最初の組織者は智顗(538一597)である。彼は『法華経』を最優位におき、これのみが仏陀の真意であり、他の経典はみなすべてこの経典を説くための準備であり補助であるとして順位を定めたのであった。智顗の天台宗を皮切りとして三輪宗、法相宗、華厳宗、真言宗も、あるいはまた律宗、禅宗、浄土宗などもそれぞれ〝所依の経典〟を指定し、それ以外の経典に従属的位置を与えた。
 この分類方法はまったく主観的なものであって、文献学、文献史学とは問題点が異なるが、日本の宗派仏教や新興教団では現在でもなお拠りどころにしている。』(P5、以下「※」は引用者補足)

要は、日蓮が「法華経のみ」を立てて、他宗を批判したのは、智顗の理論に立ってのものであり、決して「独善・不寛容」だったわけではないのである。なにしろ智顗は、中国仏教最大の理論家だったのであり、真言宗の開祖空海だって、智顗の天台に学び、それなりに法華経を尊重した上で、「独自の解釈」で日本の真言密教を編み出したのだ。
しかし、智顗によって「下位認定」されたも同然の「真言密教」信徒である渡辺としては、どうしてもこれを認めるわけにはいかないので、「学者」の権威を振りかざして「根拠を示さず」に、智顗の「大乗仏教内優劣論」を、ここで否定しているのである。

(3)『 ひとはしばしば(※ 古い仏典である)バーリ文聖典(ことにその原型)においては神秘的、神話的、奇跡的要素が乏しいという。しかし仏陀の宣教の初期において、異端者カーシャバ三人兄弟が入信した動機は仏陀が示した奇跡である。このことはバーリ語聖典のもっとも古い層に出ている。この奇跡の説話の古いことを疑うくらいならば、バーラナシーにおける仏陀の最初の説法さえも疑わねばならないことになるであろう。』(P22)

『神秘的、神話的、奇跡的要素』とは「真言密教」の特徴である。つまり、古いバーリ語聖典には、かなり新しい「密教」的な要素はほとんど無かったと「一般学説」的には言われているのだが、それでは真言宗信徒としては困るので、「無いことはない」と訴えているだけである。
だが『乏しい』というのは、「無い」ということではない。釈迦を生前を比較的リアルに伝えているであろう初期仏典には、釈迦が、空海のような「超能力」を発揮したというような話は「ほとんどない」と、多くの学者は言っているだけなのだ。つまり、これも「真言宗信徒」学者の、過剰反応の自己正当化である。
ちなみに、客観的には、仏典に描かれた『バーラナシーにおける仏陀の最初の説法』さえ、疑ってもかまわない。仏教徒ではない者にとっては、古文書に書かれたことを、鵜呑みにしなければならない謂れなどないのである。

(4)『 たとえば仏教の世界観において、人間構成の要素はバーリ文と漢訳〝阿含〟とではふつう一定の公式にしたがって説明される。いわゆる五蘊・十二処・ 十八界などである。しかし、地・水・火・風・空・識の六元素で説明した特殊な例もある。これはいわゆる〝原始仏教〟の公式的見解とは異なるものであるが、それだけに、あとからの混入と見なすことは無理であろう。むしろ、部派的な仏教が成立するよりも以前からあった古い思想で、のちに聖典を編集する際に整理されきれずに残ったものと見るべきであろう(Schayer)。』(P22~23)

『地・水・火・風・空・識の六元素で説明した特殊な例』一一これも「真言宗」の話である。
普通は、仏教でも『「地」「水」「火」「風」「空」の五つで、五大という。』(Wikipedia「五大元素」)のであるが『仏教では「地」を最低、「空」を最上の境地としており、般若心経の「色即是空 空即是色」もこの空の境地を表していると言われる。のちに「識」を加えた六大とする説も現れた。大地のようにすべてを支える地大。すべてに潤いを与える水大。すべてを浄化をさせる火大。すべてを養う風大。すべてを包み込む空大。万物の租である識大。』(前同)とあり、この「六大」を主張するのが「真言宗」なのだ。

「六大」とは『地・水・火・風・空・識の六つの普遍的な存在。真言宗で説く万物の根源体。普通、仏教では万物の根源体とか創造主とかを説かず、無実体性とか空とかを真理と説く。しかし真言宗ではこの六大を万物の根源体であり、仏も衆生もその体性は本来同一であるとする。ただし仏はこれを悟り、衆生はこれを悟らない。それゆえ、六大とは密号名字であるという。』(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)
一一つまり、渡辺が上記の部分で強調したいのは、「真言宗」の「六大」は、決して新しい「真言宗独自」の考えなどではない、ということだ。しかし、問題なのは、渡辺がここでも「真言宗」という言葉をいっさい出さないで「党派的主張」をしている点である。要は、「学術的な客観性」が皆無なのだ。

(5)『 十九世紀の末ごろこの説(※ 釈迦の仏教は、派手な儀式や超能力的なものを含まず、比較的シンプルな人間的教えだったとする説)をヨーロッパの学者が唱えた時にはサンスクリット語の仏教聖典や漢訳やチベット語訳についても不完全なことしか知られていなかったのであるから、このように考えるのも無理はなかった。そのうえ神話や繁雑な儀礼をともなわない南方仏教の形態がドイツ、英国、オランダなどのプロテスタント国の学者に好ましく思われたので、バーリ仏教を〝原始仏教〟(仏陀自身の仏教)と同一視する傾向を助長したとも見られる(ポーランドの仏教学者シャイエルのことば)。わが国でも明治期以来、主として浄土真宗と曹洞宗とからバーリ語学者を多く出したのも偶然ではないかも知れない。この二宗派は煩瑣な宗教儀礼をしりぞけ、端的に宗教感情と直結するという点で、プロテスタントと類似したところがあるからである。』(P74~75)

要は、昔の西欧の仏教学者が「釈迦に近い原始仏教は、基本的にはシンプルなものだった」と考えたのは、儀式主義に否定的なプロテスタントだったからではないか、と指摘することで、「儀式主義」の「真言宗」を正当化しようとしているのである。
ちなみに、この説を唱えたスタニスラフ・シャイエルは「仏教学のポーランド学派の祖」ともいうべき人だそうだが、問題は、ポーランドが「保守派教皇のヨハネパウロ2世」を生んだほどの、伝統ある「カトリック国」であり、カトリックは「荘厳な儀式」が売り物だ、という事実である。
そもそもプロテスタントが「清貧」を強調して「華美な儀式」を嫌うのは、カトリックが世俗権力と結びついて金満腐敗しながらも、その財力で華美な儀式をとり行って民衆を惹きつけ騙したという過去を「恥ずべきもの」と考えるからである。「イエスは、派手な法衣や荘厳な儀式など求めなかった」と。
じっさい、ローマ教皇(法王)として、ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世と続いた中での「聖職者による、信徒児童に対する性的虐待事件の頻発と、その隠蔽(スポットライト事件)」や「バチカン銀行の資金洗浄事件」などが行われ、それが明るみに出たせいで、ベネディクト16世は「異例の生前退位」をしなければならなくなったのであり、その後を継いだリベラル派の現フランシスコが、保守派の強硬な抵抗をあいながらも、教会改革を断行しなければならなくなったのである。
つまり、渡辺が持ち出したシャイエルの言葉には「保守派カトリックのプロテスタント否定」という党派心理が隠されており、学問的客観性の疑わせるものだったのである。

(6)『 その他バーリ文聖典には排列の順序や場所を誤った記述もあり、到底第二次的資料と見なすことはできない。近ごろでは日本人の学者の一部よりもヨーロッパの学者の方がかえって漢訳聖典の本源性を認めている。』(P112)

一方では「ヨーロッパの学者」の権威を「プロテスタントだから」と難癖をつけ、別の時には「ヨーロッパの学者」の権威を利用する。実に、いい加減なものである。

.
さて最後に、本書『お経の話』の第二部、最後の3章である、「9 法華経」「10 浄土教経典」「11 密教経典」の締め括り方の違いを見ていただこう。

(7)『 こういう教学的な傾向とは別に行動的な『法華経』の信者が中国にもいた。(※ 法華経の)第二十三章「薬王菩薩本事品」の本文にならい、自分の指、腕または全身を火中に投じて〝焼身供養〟と称した実例は中国では南北朝から宋代まで数世紀にわたって記録されている。日本でも奈良朝にはその例があった。
 日本では聖徳太子作と伝えられる『法華義疏』をはじめ研究書が多いが、伝教大師最澄以来、天台による解釈が一般的となった。それと平行して通俗信仰の形態による法華行者は奈良朝と平安期とを通じて民間に活躍した。日蓮は『法華経』の教学面と実践面との両方を綜合したものということができよう。この経典(※ 法華経)の本文から推測されるインドにおける法華経グループの行動性は、日蓮や、その流れをくむ新興教団において再現されたと見ることもできよう。』(P192~193)

要は、「法華経」信者は、「日蓮」や「創価学会」に代表されるのように「攻撃的」で「野蛮」だ、とそう言いたいのを、『行動的』と言い換えることで、渡辺はその陰湿な「印象操作」を、表面的に糊塗しているのである。

(8)『親鸞は『大経』の第十八願を〝至心信楽の願〟とよんでとくに重要視しているが、『観無量寿経』にはじめて出てくるアミダ仏像の礼拝や〝南無阿弥陀仏〟の唱名念仏なしには親鸞一派の他力信仰も成立しないであろう。』(P205)

じつに浅薄な「他力」批判であるが、これも渡辺お得意の「(真言宗の)為にする批判」である。

(9)『(※ 真言密教経典の)その内容が現実を肯定するところから、欲望等を是認しているようにも解せられ、ことに性行為を比喩に用いている点など、未熟者が誤解する材料ともなったこともあるが、(※ 真言経典が)密教の本旨である即身成仏一一人間的存在そのものが理想態であるという思想一一を明確に述べた経典である点に注意しなくてはならない。』(P214)

『比喩』だ、『未熟者』の『誤解』だ、『本旨』は違うのだ、等と、「真言経典」については、ずいぶん言い訳がましい。これはまさに「党派的」で「護教的」な態度であり、こうした「言い訳」が通用するのなら、渡辺が敵視して憎んでいる「日蓮宗」や「浄土宗」「浄土真宗」についてだって、渡辺の批判に対しても「それは『比喩』だ、『未熟者』の『誤解』だ、『本旨』は違うのだ」などと、正当化することも、十分に可能なのではないか。

しかし、「真言宗」だけは特別扱いにして「正当化」するのが、「真言宗の御用学者」である渡辺照宏の「本質」なのである。

.
----------------------------------------------------------------------------------------
【付録】

 渡辺照宏『仏教 第2版』レビュー: 学問の陰の〈信仰〉的無自覚
 (2020年12月24日)
.
仏教学者による「仏教」の概説書で、当然のことながら、著者は「学者」として本書を執筆した、と主張している。

『 仏教とは何か、という問いに答えるのが本書の仕事である。仏教について語るべきことはあまりにも多いから、答え方もさまざまであってよいが、あらたに執筆するにあたって「岩波新書」の読者を予想して次のような方針を立てた。
 本書を通読すれば仏教についてひととおりの基本的な知識が得られるように工夫する。どうしても必要なテーマを落とさないように注意する。叙述をできるだけ平易にして、予備知識なしに読めるように気をつける。それと同時に、内容については専門学者の批判に耐え得る水準を保ち、学問的に責任の持てることのみしか書かない。仏教において人生の指針を求める人びとの手引ともなる。学生や研究者の参考書としても役に立つ。
 ところで、過去二千年以上にわたってアジアの広い地域で行なわれ、現在も生きた宗教である仏教の種々相を満遍なく述べることは不可能であるし、また、その中の特定の立ち場を擁護することも許されない。』(「まえがき」より)

このように、著者は、自身を「信仰者」ではなく「学者」であり、「学者」として、本書を「公正中立な立場」から書く、と言明している(『特定の立ち場を擁護することも許されない。』とは「特定の立ち場以外の立ち場を、意図的に批判することも許されない」ということになる)。そして、そうした「自制」を十分に為し得なかったとも書いてはいない。
つまり、著者に嘘をつく意図ないのであれば、著者は本書を「公正中立な立場」で書き得たと信じていた、ということになるのだが、果たして現実にはどうであったか。

結論としては、ぜんぜん「公正中立」になってはおらず、自覚的にか無自覚にかはわからないが、とにかく、自身の「信仰」に偏った説明を開陳展開してしまっている、と言えるだろう。
わざわざ「まえがき」に「公正中立」たらんことを言明していながら、それが実際には出来ていないのであるから、これは学者として「恥ずべき仕事」だと評価せざるを得ないし、著者はそれを恥ずべきである。

しかしながら、著者はすでに鬼籍に入っているから、自らの不明を恥じて訂正し、学者として責任を取ることもできないので、ここでは生きている者の務めとして、著者の「不適切」な仕事ぶりを指摘して、厳しく批判しておきたい。

.
『 日本人の生活の中に仏教はどのように生きているのであろうか。あるいはむしろ、いったい今でも生きているのかどうか、と問い直すべきかも知れない。もし肯定的に答えるとすれば、大多数の日本人が死ねば仏教の儀礼によって葬られ、遺族が定期的に墓参し法事を営むという事実を第一に指摘すべきであろう。あるいはまた、大部分の家庭に仏壇が設けられ、必要があればいつでも百貨店でそれを購入することができる、というのも事実である。さらにまた、仏教に関する単行本や雑誌が多く刊行されて、相当に売れているし、寺院及び寺院以外における説教や講演の集会も盛んである。また、座禅やその他の実践に参加する人びともいる。
 これに反して、仏教は現代の日本人の生活の中に生かされてはいない、という見方も不可能ではない。たとえば日本には仏教の立場に立つ政党というものはない。特定の宗教団体を背景とする政党があるとしても、実際の政治活動からみて、仏教の理想を実現するための政党であるとは思われない。それ以外の仏教団体でも組織的に票を集めれば政治的な一勢力となり得るはずではあるが、現実には仏教を政治に生かすという試みはない。』(P1~2)

本書冒頭の一文だが、果たしてこれを「公正中立」な評価を語った文章だと言えるだろうか。

後半部分の『日本には仏教の立場に立つ政党というものはない。特定の宗教団体を背景とする政党があるとしても、実際の政治活動からみて、仏教の理想を実現するための政党であるとは思われない。』という「意見」は、明らかに「(創価学会=)公明党」の仏教政党としての性格を、真っ向から否定するものだが、その根拠は示されておらず、単なる「断言(決めつけ)」だけである。

「公明党」を「仏教政党」と評価するか否かは、それぞれの価値観だから、著者が「個人的な意見」を述べること自体は否定されるべきではないし、私もそれを批判しているのではない。
私が批判しているのは、著者がわざわざ「まえがき」で「公正中立」を宣言しておきながら、開巻早々それに反していることの方なのだ。(そもそも、象牙の塔の仏教学者である著者が、創価学会や公明党の現場を、どれだけ研究し、知った上で、このように断言したのであろうか)

もちろん、いかなる価値判断も語らずに、事実だけを記するというのは、実のところ容易ではないし、不可能に近いことだとさえ言えるだろう。だから、著者が「公正中立」をわざわざ宣言していたとしても、それでもある種の価値判断を語ることを、私は必ずしも否定しない。だから、著者が「公明党」を「仏教政党と認めない」という意見を、本書において表明することも、否定する気は無い。
ただし、批判否定するのであれば、「論理的な根拠提示」が是非とも必要だろうし、それをしてこそ「学問」であり、「公平中立」性も担保できるのではないか。

ところが、前述のとおり、著者は「公明党」を「仏教政党」と認めないという自身の「意見」について、何の根拠も示してはおらず、ただ「断言しているだけ」であり、さらに悪質なのは、誰が読んでも、この文章で批判されているのが「創価学会=公明党」であると気づくかたちで書いていながら、批判した相手を「名指し」しないという「誤魔化し」によって、公的な批判的言論としての責任を回避をしている点である。

言うまでもないことだが、批判するのであれば、正々堂々と相手を名指しし、根拠を示して批判するのが、「人間」としての(さらには「言論人」としての)倫理ではないか。「学者」であることを云々する以前の問題として、著者のこの姑息な批判は、単なる「あてこすり」や「陰口」の類いでしかなく、これは人として恥ずべき行いなのではないだろうか。

そして、この部分を「創価学会へのあてこすり」であると判ずるならば、その前の部分、すなわち『日本人の生活の中に仏教はどのように生きているのであろうか。』と問うた上でなされる、

(1)『大多数の日本人が死ねば仏教の儀礼によって葬られ、遺族が定期的に墓参し法事を営む』
(2)『大部分の家庭に仏壇が設けられ、必要があればいつでも百貨店でそれを購入することができる』
(3)『仏教に関する単行本や雑誌が多く刊行されて、相当に売れているし、寺院及び寺院以外における説教や講演の集会も盛んである。また、座禅やその他の実践に参加する人びともいる。』

といった「事実」に関する指摘もまた、単なる「客観的な事実」の指摘などではなく、著者の「個人的な仏教観」によって、暗になされた「批判」としての「あてこすり」や「皮肉」の類いだと解して、間違いないだろう。
要するに、(1)は「葬式仏教」批判、(2)は「商業主義仏教」批判、(3)「カルチャー教室仏教」批判である。
「仏教」をインドにまで遡って研究した、渡辺照宏先生には、創価学会は無論、こうした通俗文化化された仏教など「仏教ではない」ということなのだ。

しかし、あえて問うが、「源流遡行の恣意的な切断」なくして「本当の仏教」などというものが存在し得ると、著者渡辺は、本気でそう考えているのであろうか。
私が思うに、実際に存在する「仏教」とは、時代につれ場所につれて変化していった、いろんな仏教しかないのではないか。
もちろん、相互の比較において、宗教や哲学や倫理としての優劣はあるかもしれないが、特権的な「本当の仏教」などというものが、特定できるものなのか。また、あえて特定したとすれば、それはどんな「資格」において可能なことなのであろうか。
私としては「本当の仏教」などというものは、客観的には存在しない、としか思えないのだが、いかがなものであろう。

もちろん、何度も言うように、どんな「意見」があってもかまわない。一一と言うか、今となっては、渡辺照宏先生のご意見は、ごく常識的なものであり、いっそ通俗的なものであると言っても過言ではなかろう。そして、そうした意味では、大西巨人言うところの「俗情との結託」による「他宗批判」だと言ってもいいだろう。

著者の渡辺照宏は、「学者」という「肩書き」とその「権威」において、自身の「他宗批判」を、「公正中立」で「客観的な根拠」にもとづいた「学問的な批判」であるかのように見せかけている。
しかし、実際のところはそれは、そんなご立派なものではなく、良くて自覚的、悪ければ無自覚な「御用学者」の仕事でしかない。

そうした現実は、著者の経歴と、その著作の内容を突き合わされば、自ずと明らかとなる。

『成田山東京別院深川不動尊監院渡辺照叡の子として生まれる。1930年(昭和5年)3月に東京帝国大学文学部インド哲学科を卒業する。卒業と同時にドイツに留学し、エルンスト・ロイマン(Ernst Leumann)らに師事し、1933年5月帰国。
1935年(昭和10年)3月に東京帝国大学大学院を修了する。
教授歴は1935年4月 - 1943年3月智山専門学校教授(現:大正大学)。1943年9月 - 1945年10月、文部省民族研究所所員。1946年4月 - 1948年3月連合国軍最高司令官総司令部民間情報局宗教調査課勤務。1948年4月 - 1953年3月九州大学文学部助教授(ただし病気のため赴任せず)。1956年4月 - 1969年3月東洋大学文学部教授。1975年10月成田山仏教研究所参与・理事・主席研究所員。
インド哲学・仏教学を専攻。語学にも非凡な才能をあらわした。1948年2月発病、その後も闘病生活を送りつつ研究と著作を続けた。『私の読書法』(岩波新書、初版1960年)の収録エッセイに、病床での読書の様子がしのばれる。弟子の一人宮坂宥勝の『密教への誘い』(人文書院)に追悼評伝がある。
弟にホフマンの「胡桃割りと鼠の王様」(『ホフマン全集』三笠書房、1936年)を翻訳した永井照徳(1945年にミンドロ島にて戦死)、息子に編集者・智山派僧侶渡辺照敬や、インド哲学研究者の渡辺重朗、書家の渡邉真観がいる。』
(WIKIpedia「渡辺照宏」の「略歴」)

ここで問題になるのは、もちろん、渡辺が『成田山東京別院深川不動尊監院渡辺照叡の子』であり、『息子に編集者・智山派僧侶渡辺照敬』がいる、といった事実だ。

では、『成田山東京別院深川不動尊』の宗派はというと、

『成田山 東京別院 深川不動堂(なりたさん とうきょうべついん ふかがわふどうどう)は、東京都江東区富岡にある真言宗智山派の寺院』(wikipedia「成田山東京別院深川不動堂」)

ということになる。
つまり、本書著者の渡辺照宏は、弘法大師「空海」を開祖とする「真言宗」の寺院の息子だったのだ。

だが、本書「奥付け」の著者紹介に、そんな事実は一言半句書かれてはいないし、著者自身もそれを明らかにしてはいない。

もちろん、著者が「真言宗の寺院の息子」であろうと、学者になったからには、自他の信仰について「中立公正」で「客観的」な態度を保っているかぎり、それはそれで「学者として当然の義務」ではあるものの、立派な態度だと褒めてさしあげてもかまわない。

私は、「宗教」というもの関しては「キリスト教」を選んで研究をしたのだが、キリスト教の学者というのも、その多くはクリスチャンであるし、それは西欧世界においては、ある程度はやむを得ないことだとも思う。しかしながら、問題なのは、彼らの多くも、自分の信仰を明示することが少ないという事実なのだ。

無論、ある程度、読み慣れてくれば、この学者はカトリックだな、この人はプロテスタントだなといったことが見えてくるようにはなるのだが、それにしても読者に対して、学者として「公正」たらんとするのならば、問われる前に、きちんと自分の「宗教的出自」を読者の前に提示して、評価の用に供するべきなのではないだろうか。そして、自身が、学者として「公正中立」で「客観的」な態度を保持し得ているという自信を持っているのであれば、自身の「宗教的出自」を読者に隠す必要などないのではないだろうか。

しかし、実際には、彼らの多くはそれを明示しないし、それが「宗教学」業界の「悪しき慣例」ともなっているようで、キリスト教研究だけではなく、仏教研究の場においても、本書著者のように、自身の「宗教的出自」を明示しないまま、「学者」という「肩書きの権威」のみにおいて、いかにも自分が「公正中立」であり「客観的」であるかのように、偽っているのである。

実際、本書における「真言宗」の扱いがどのようなものであるかを確認すれば、著者が「真言宗の御用学者」だと謗られても仕方のない記述をしていることが、容易に確認できるだろう。
もちろん、前述のとおり、著者は「学者」という立場上、「公正中立」「客観的」であるかのように見せかける努力をしてはいるのだが、それは「欺罔行為」の域を出るものではないし、だからこそ、私のような素人にすら、見透かされてしまうのである。

ちなみに、本書『仏教 第二版』よりも後に刊行された、同著者の『日本の仏教』では、忌憚なく「他宗批判」がなされているようで、同書のAmazonレビューを見てみると、それを「痛快」だと喜んだ読者もいたようだが、しかし、果たしてそういう読者は、著者の「真言宗の寺院の息子」をいう「宗教的出自」と、著者自身の「(内心の)信仰」を勘案した上で、著者の「意見」が「学術的客観性」に基づいてなされたものであると「確認確信」して、そのように高く評価したのであろうか。

言うまでもなく、カトリック信者の学者が書いたキリスト教の研究書は、どうしてもカトリックに好意的なものになっているし、プロテスタント信者の学者が書いたキリスト教研究書もまた、カトリックほどではないにしても、党派的な偏りがないわけではない。少なくとも「無神論者のキリスト教研究者」の書いたものの方が、比較的「価値中立的」なのは間違いのだが、そうしたことは、「仏教研究」においても全く同様なのだということを勘案し、読者は「逆の立場の意見」を突き合わせてみた上で、判断したのであろうか。
一一しかし、そんなことをする読者なら、研究書に「痛快さ」を求めたりはしないだろうし、そうした点を、高評価の要素とはしなかったはずなのである。

ともあれ、本書著者である渡辺照宏が(公然たる真言宗信徒であれば無論)「隠れ真言信徒」なのであれば、真言宗への評価が、他の宗派に比較して「甘い」というのは、わかりやすい話でしかないし、まして「真言亡国」などと言った日蓮への評価がことさら厳しくなり、創価学会への評価が辛辣になるのも、「人間」的なものとして、いかにも理解しやすいところであろう。
しかしながら、それが、「学者」としては「恥ずべきこと」であるというのも、論を待たない事実なのだ。

本書のレビューをチェックしてみたところ、誰も著者である渡辺照宏の「宗教的出自」に触れてはいなかったのだが、果たして誰も渡辺の「ポジショントーク」に、違和感を感じなかったのであろうか。それとも、自分の立場に近いと感じたから、疑問も持たずに、それで共感支持したのであろうか。
だが、学問というのは「そんなものではない」と私は考えるのだが、読者諸兄はどうお考えなのであろう。

ちなみに、私自身について書いておけば、私は元創価学会員である。
しかし「だから、日蓮や創価学会に厳しい著者に厳しかったのか」と早合点した人は、人間というものがわかっていない。
私は、創価学会のダメさを知ったからこそ、創価学会を批判して辞めた人間なのだから、その意味では、外野のアンチ創価の方より、よほど本質的に反創価である。

しかし、私は創価学会の信仰の誤りを知ったればこそ、単なるアンチ創価であるに止まらず、「信仰とは何なのか」という本質的な問いへと向かい、無神論者になっても、「宗教らしい宗教」としての「キリスト教」の、批判的研究を始めたような人間だ。
つまり、私の「宗教研究」は、「宗教(信仰者)内党派闘争」などではなく、「人間学」なのである。だからこそ、著者のような、「学者」を騙る、中途半端な「信仰者」には我慢ならないのである。

 ○ ○ ○

私が本書を読もうと思ったのは、著名な宗教学者である中沢新一と、伝奇アクション小説家の夢枕獏、真言宗の僧侶で「中沢新一の弟子」を名乗っていた宮崎信也の3人による、対談・鼎談本『ブッダの箱舟』を読み、その中で宮崎が「仏教の勉強を始めるのなら、渡辺照宏先生の『仏教』や『日本の仏教』などから入れば間違いない」という趣旨のことを語っていたからである。

しかしこれは、宮崎の言葉を真に受けたということではなくて、空海に好意的な3人の鼎談において、中沢と宮崎が、半ば当然のこととは言え、日蓮について否定的だったのを見て「この人(宮崎)が推奨する学者とは、どんな学者なんだろう」と、興味を持ったからである。
そして、読んでみれば予想どおりに、渡辺照宏もまた日蓮に批判的であり、さらにあろうことか「真言宗の寺院の息子」であることまで判明した、という次第。一一結局、宮崎信也の渡辺照宏に対する高評価も「党派的な評価」でしかなかった、のである。

そして、この『ブッダの箱舟』が刊行された頃、若手宗教学者でありポストモダン批評家として人気の絶頂にあった中沢新一は、同じ頃「オウム真理教の麻原彰晃」を高く評価していたことが、数年後に問題とされ、厳しい批判にさらされることになる。
中沢は、チベットで密教の修行をした人なので、同じ系列と言えなくもない麻原彰晃の超能力宗教に対しても、比較的好意的だったのであろう。

しかし、言うまでもなく、「党派的な評価」というものは、「中立公正」でも「客観的」でもない、「非学問的」あるいは「反学問的」な、感情的評価(身内褒めの一種)だと言わなければならない。

世間の人は、「学者」というものが「中立公正」で「客観的」だと思い、その「権威」を信じがちだが、実際のところ学者も「人の子」であれば、「党派的恣意性」に流され「身内褒め」に走ることも、決して珍しくないのだという事実を、私たちは肝に銘じて知っておくべきだし、まして「オウム真理教事件」を通過した日本人は、「宗教」に対して、(その「研究」も含めて)もっと慎重であるべきなのではないだろうか。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈常識的思い込み〉からの経済的脱却 一一Amazonレビュー:井上純一『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月27日(土)17時17分19秒
  .

 〈常識的思い込み〉からの経済的脱却

 Amazonレビュー:井上純一『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R14U5TGBTRR6Q1

.
「政府の予算は、国民の税金によって賄われている」一一この、誤った「経済的常識」(と、それに依拠した「プライマリーバランス〔経済的収支バランス〕」という考え方)こそが、最大の敵なのだ。

こんなことは、当シリーズの愛読者にとっては、それこそ「常識」に類する話なのだろうけれど、そうした正しい認識が一般化していないからこそ、大きな問題を引き起こしてもいる。
喩えて言えば「キリスト教の神を信じなければ、人は死後に天国へは行けない」というのが「常識」であった時代の世界では、拷問してでもキリスト教徒にした方が、本人のためだと考えられたりした。それと同じあやまちを、私たちは「経済的」におかしている。

「政府の予算は、国民の税金によって賄われている」と信じられている世界では「政府が予算をたくさん執行すれば、その分、税金もたくさん徴収しなければならない」ということになるのは、理の当然である。「誤った前提から、論理的に結論を導き出すならば、その結論は必然的に誤ったものになる」し、ならざるを得ないのだ。

だが、この誤解を解くのは至難の技であるし、「一部の人」が知っているだけでは、世間は誤った方向に流されざるを得ない。したがって、私たちがしなければならないのは「我も学び、人をも教化せん」という、経済的誤認に対する「啓蒙」なのである。

そんなわけで、本書は素晴らしい啓蒙書である。マンガで表現されているから、楽しく読むことができる。是非とも、多くの人に読んでもらい、楽しむだけではなく、経済の現実問題に目覚めてほしいと思う。

しかしながら、繰り返すが、これは容易なことではない。例えば、私がこの「経済的常識」を知ったのは、やっと昨年のことであり、齢57歳に達してからである。
なぜ、そうなったのかと言えば、それは「数字」が嫌いだからだ。私は相当広い範囲の本を読む読書家を自負しているが、子供の頃から「数字」だけは苦手だった。と言うか、正確には「計算(算数)」というものが退屈だからとやらないでいたら、すっかり苦手なものになってしまっていたのである。
そんなわけで、「数学」は無論のこと「統計学」だとか「経済学」だとかいった、数式や統計などが出てくるジャンルだけは敬遠してきた。科学には興味があって、「ハイゼンベルクの不確定性原理」や「ゲーデルの不完全性定理」なんてものにまで興味を持ち、なんとか数式や方程式の少ない解説書はないかと、そんな本を探してまで読むような人間だから、逆に「経済学」という「数字と世俗性」が合体したようなジャンルには、長らく毛ほどの興味も持たなかったのである。

しかしまた、そう言いながらも、私が「経済学」に興味を持ったきっかけは、昨年(2020年)の東京都知事選であった。なんとか小池百合子を落選させたいと考えたのだが、その対立候補として、多少なりとも可能性があるのは、その前の参院選で「れいわ新選組旋風」を巻き起こした山本太郎しかいない(地味な宇都宮さんでは、浮動票は得られない)、と私は考えた。一一勘のいい人なら、これで大筋察することもできただろう。

山本太郎という特異なキャラクターがとても面白いと注目しはしたものの、彼の語る「反緊縮」という経済政策は、当時の私には「無責任なバラマキ」としか思えなかった。つまり、その当時の私は「政府の予算は、国民の税金によって賄われている」と信じ込んでいたから、「赤字国家である日本」が、このうえ無責任にバラマキなんかはできないと思ったのだ。
しかし「山本が、ここまで確信ありげに語るのはどうしてだろう?」と疑問を感じて、山本太郎関連の本を読んでみると、彼には、松尾匡という「反緊縮」の必要性を訴える経済学者がブレーンとして付いているというのを知り、これは読んでみなければならないと思った。そうして、松尾の著作は無論、そこで紹介されていたヤニス・バルファキスの経済学入門書や、「大阪都構想」問題に絡んで、それに反対する藤井聡の「MMT」入門書など、全部で10冊ほどの「反緊縮」本を読んだのである。

そんなわけで、今回半年ぶりくらいに「経済学」の本を手にしたわけだが、そこで語られていることは、大筋で理解できた。
しかしである、そうした予備知識のない、例えば1年前の私が、この本を読んでいたら、果たして本書の内容を十全に理解することができただろうか?

多分、無理だろう。きっと「政府の予算は、国民の税金によって賄われている」という「誤解」に対する説明に、十分に納得できなかったのではないかと思う。それは本作中で、作者の奥さんの「月さん」が、これまでの「経済学マンガ」シリーズの2冊で、そうした説明を何度も受けてきて、ひととおりは理解できていたはずなのに、やはり完全には理解できていなかったことが判明したのと、同じことである。
「政府の予算は、国民の税金によって賄われている」という、圧倒的な「常識的誤認」を突き崩すのは、それほど困難なのだ。

しかしまた「困難だ、困難だ」と言ってばかりいたら、それはいつしか「もう無理だ」ということになってしまい、それが不幸な「予言の自己成就」になってしまいかねない。
だから、私たちは、根気よく、諦めないで「経済的な正しい常識」に普及に努めなければならない。そうでなければ「政府の予算は、国民の税金によって賄われている」という「誤った経済学的常識」にとらわれた、不勉強な政治家たちによって、私たちの日本を潰されてしまうだろう。

たしかに、安倍晋三だの菅義偉などという我が国の総理大臣たちを見ていると、絶望的な気分にもなってしまうが、しかし世界的な潮流が、私たちの認識を支持してくれているのなら、希望は確かにあるはずだ。だから、私たちは本書著者やその家族の人たちとともに、希望を持って「誤った経済的常識の打破」を目指さなくてはならないのである。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

〈薄く広くかつ創造性なし〉が、クイズ王・佐藤優の本質 一一Amazonレビュー:佐高信『佐藤優というタブー』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月27日(土)17時15分51秒
  .

 薄く広くかつ創造性なし〉が、クイズ王・佐藤優の本質

 Amazonレビュー:佐高信『佐藤優というタブー』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3V5IFX9Z3P42M

.
佐藤優が、「物書き」として「二流」であるというのは、「読める読者」には、わかりきった話である。だから、佐藤と仲良くしてる言論人というのは、おおむね「ジャーナリスト」や「学者」であって、「文学者」や「文学・思想系の評論家」ではない。

「ジャーナリスト」や「学者」にとって、まず大切なのは、「よく知っていること」であり、それを前提とした「当たり前のコメント(意見)」ができることである。
つまり、一般読者や視聴者が、一読(一聴)しただけではとうてい理解できないような「深い」ものは必要ないし、そういうものでは困るのだ。むしろ、テーマそのものに沿った「ひととおりの、わかりやすい表面的な説明」と「良識的なコメント(意見)」、要は「当たり前のコメント(意見)」に止まったものの方が、一般の読者や視聴者には「うれしい」ものだし、ウケるからである。

例えば、佐藤優と仲のいい、池上彰などが、そのわかりやすい実例であろう。池上の長所は、まず「わかりやすい説明」であり、その次に「リベラルで良識的なコメント」である。
私もリベラルだから、池上さんの「意見」にはたいがい賛成だし、彼の「わかりやすい説明」も、詳しくないジャンルについては、じつにありがたい。しかし、池上彰の「意見」や「著作」は、そうした意味で「勉強になる」ものではあっても、ぜんぜん「深い」ものではないし、知っているジャンルについてなら「当たり前のことしか言っていない」ということにしかならないのだ(むろん池上には、その自覚があろう)。

そして、これは佐藤優についても言える。
佐藤は「博識」なので、たいがいの人にとっては、未知のジャンルについて「勉強」する際の「わかりやすい入門書」的人物であるという意味では、たいへん重宝で、ありがたい。
しかし、個々のジャンルにおいては、読み込むほどの「深い中身」を持っているわけではなく、あくまでも「入門時の、取っつきやすい通過点」でしかないだろう。そうした意味で、佐藤優ばかり読んでいる人というのは、物事を「深く」考える習慣がなく、「知識を消費する」ことと「知的である」ことの区別がつかない人たちなのである。一一つまりこれが、佐高信の言う「雑学クイズ王」の意味だ。

そのため、非凡な深さや独自性が売り物の「文学者」や「文学・思想系の評論家」といった人たちは、未知のジャンルを勉強するための「入門書」として佐藤優を読むことはあっても、佐藤そのものを、高く評価することはない。
喩えば、新しい電化製品を購入した際には、「解説書」があるとありがたい。ぜんぜん「深い内容ではない」けれども、初心者には、その「当たり前のことを当たり前に解説しているだけの、初心者向け解説」が、その時点(入門時)では、とてもありがたいのだ。
同様に、佐藤優の「ありがたみ」も、この種の「ありがたみ」でしかない。だから、そのことを理解できる、「表面的な知識の開陳(ペダントリー)」に惑わされない程度の「読解力」を持つ人たちは、ことさら佐藤優を評価することもないのである。

つまり、佐藤優を「高く評価する」人たちというのもまた、同類の「クイズマニア」でしかない。
「いろんなことをたくさん知っていて、ひととおりの説明ができる」ことが「賢い」と思えるような、「浅い」知性しか持っていない人が、同類である佐藤優を、ことさらに持ち上げるのであって、彼らに物事を「深く読み込む」力があれば、「表面的にきらびやかなだけで、深みがない」佐藤優やその著書を、ことさらに持ち上げることなど、するわけもないのである。

例えば、佐藤優がプロテスタント信者であり、「神学者」を自称する人として、自身の代表作と自負する(たぶん唯一の「挿し函入り上製本」である)『宗教改革の物語』ですら、その内容は「とおりいっぺん」のものでしかない。つまり「初心者向け」の域を出ないシロモノだ。
私は同書について、2019年4月9日にAmazonレビュー「勉強にはなるが、名著ではない。」をアップしているが、その段階で、すでに下のとおり「佐藤優は、大した作家でも思想家でもない」と断じている。

.
『さて、著者の佐藤優は、外交官をやっていただけあって、現実的社会感覚はあるので、その説明はわかりやすい。その点で、本書は買いである。
しかし、物書きとして見た場合、構成力不足が目についてならない。つまり、1冊の本としての読ませるだけの、自然な流れ(構成)を作ることができず、思いついたことから順番に書き足していって、どんどん増築していくウインチェスター・ハウスのごとき本になってしまっているのだ。

この不手際を「神学書とはそういうもの」だとか「神の顕われ方の形式的模倣」だなどと説明する好意的な人もいるが、私は単純に構成力不足だと、客観的に判断する。
それは、本書もそうであるように、佐藤の本は「繰り返し」が多いとか、しばしば「引用文」が全体の半分にも達するようなものが少なくなく、しかも個々の引用文が長い、という(コピペ依存的)問題にも表れている。要は、自分の言葉で語るのではなく、他の権威者の言葉を、自分の言葉の代弁として利用するのが習慣化しているということなのだが、これは単なる「紹介者」としてなら許させるのかもしれないが、物書きとしては二流と判断されても仕方がないと思う。
佐藤は、博識の人で、いろんなことを知っているのは間違いないが、それを十分に整理できていないのではないだろうか。だからこそ、断片的な話は面白いが、まとまった独自性のある論説が書けない、ということなのかもしれない。その意味で、佐藤はたしかに「対談」向きの人なのだろう。

もちろん、佐藤本人としては、自分を売るために物書きをしているのではなく、神に与えられた使命を果たすために、自分の持てるものを社会に還元しているのだからそれでいい、ということになるのかも知れないが、「作品としての本」を評価する者の立場としては、そうした消費材的なもの(実用書的なもの)を、「思想的な作品」として高く評価することは出来かねるのである。』

.
そんなわけで、佐藤優は、佐高信の言うとおり『雑学クイズ王』に過ぎないし、そのファンも「雑学自慢ファン」に過ぎないと言えるだろう。そうした読者は、あまり「深い」本を読んでいないし、読んでいても「とおりいっぺんの表面的な理解」としての「雑学的知識」を身に付けるだけである。
例えば、ドストエフスキーを読んでも、「とおりいっぺんの説明」はできるだろうが、その人自身の「実存」に関わるような「深い読み」は、ついに提示し得ない。せいぜい他の人が語っていた、他人のドストエフスキー読解の「口まね」をして満足し、いっかなそれが自覚できない程度の読者が、佐藤優ファンなのである。

最初に書いたとおり、佐藤優という人は「いろんなことをよく知っている」し、それについて「ひととおりの説明」ができて「もっともらしいコメント」もできるから、「一般向け」つまりは「エンタメ」として、同時代的には、たいへん重宝な存在だと言えるだろう。しかし、佐藤の著作は「消費財」でしかなく、長く読み継がれるような「深み」はない。

つまり、佐藤が死んだら、書店の棚からは佐藤の著作は、あっという間に消えて、佐藤によく似た、新たな「時事的博学の解説者」の著作が、それに取って代わるだろう。

しかし、彼の死を待たずして、すでに佐藤優の著作の「薄っぺらさ」に人々が気づき始め、それが「売上げ」に表れ始めたからこそ、佐藤は危機感に駆られて「創価学会」に近づいてゆき、「創価学会礼讃本」「池田大作礼讃本」を書き始めたのである。

私は、元創価学会員だからよくわかるが、これは「商売(売文業)」としては、じつに賢い選択だ。
というのも、創価学会員が求めているのは、「中身」ではなく「お追従」であり、「中身のある褒め(肯定)」ではなく「支持(肯定)者の、肩書き(権威)」でしかないからだ。「こんな有名ですごい肩書きの人が、池田先生を(創価学会を)褒めてくれているんだから、やっぱり池田先生は(創価学会は)凄いんだ!」ということでしかない。要は、池田大作礼讃がそうであるように、創価学会を盲信したい人(創価学会員)のしていることとは、「権主義的盲信」であり「依存」なのである。
したがって、読者の「健康」を考えずに、「甘い物を欲しがっている糖尿病患者に、甘い物を与えて喜ばせる」というのは、(作家的)良心や節操さえなければ、簡単なことである。そうした読者が求めていることは、じつに単純で、わかりやすいものだからだ。

そして、佐藤優ファンというのは、要は「創価学会員」と同じなのだ。
「雑学」を溜め込んで、「個性」のカケラもない「とおりいっぺんの知識のひけらかし」をするための、「素材提供者」であるかぎりにおいて、佐藤優はたいへんありがたい存在であり、佐藤の読者自身も、まったく「深さ」を求められることがなく、「自分の言葉」を求められて、言葉に窮する怖れもなくて済むからだ。だから、彼らはきっと、表立った「論争」などできない、「独白」か「馴れ合い対談」の専門家である。

 ○ ○ ○

さて、佐高信による本書だが、本書は、佐藤優の著作とは「真逆」なので、当然ながら佐藤のファンには評判が悪くなる。佐高が佐藤を批判しているから評判が悪いのではなく、「佐藤優的なるもの」を批判しているからこそ、佐藤の眷属である佐藤ファンは、自身が否定されているのを本能的に感じ取って、佐高の書き方に反発するのだ。

では、佐高信の「書き方」とはどういうものだろうか。
それは、佐藤優の〈薄く広くかつ創造性なし〉の真逆である、「本質論的一点突破」である。つまり、佐藤が「広く浅く知識を開陳して、表面を撫でさする」ような書き方をするのに対し、佐高の方は「贅言を費やさず、問題の本質をズバリと突き刺す」のである。だから、佐藤のそれのような「無駄に長い文章」にはならない。

本書には、とても面白い事実や言葉が、たくさん散りばめられている。しかし、それを「面白い」と感じるためには、読者の方に相応の「読解力」が必要だ。なぜなら、佐高はせっかちな書き手なので、読解力のない読者を想定して書いてはいないからだ。
佐高の文章は「わかりやすい」と言われるが、それは「専門用語(ジャーゴン)」を使わないし、「観念的・抽象的な表現を使わず、比喩的表現でわかりやすく説明する」からである。
だが、この「比喩的表現」というものが、「クイズマニア」には、逆に難物なのだ。彼らは「対象を表面的に認識・分類する」ことは得意でも、「本質に切り込む」とか「敷衍する」といったことをする習慣がないので、「比喩的表現」というものは、かえって「わかりにくい」し、苦手なのだ。

例えば、佐高は本書で、繰り返し「軽信という問題」について語っている。

『日本人を深く蝕んでいるのは「軽信」だと私は思っている。軽く信じて裏切られると「だまされた」と騒ぐ。しかし、だまされるほど簡単に信じてしまった自分に責任はないのか。
『戦争と人間』(三一書房)という大河小説を書いた五味川純平は、作中で、親のいない二人だけの標兄弟の兄の方が兵隊にとられて出征する前、まだ幼い弟に忠告として次のように言わせている。
「信じるなよ、男でも、女でも、思想でも。ほんとうによくわかるまで。わかりがおそいってことは恥じゃない。後悔しないためのたった一つの方法だ。威勢のいいことを云うやつがいたら、そいつが何をするか、よく見るんだ。お前の上に立つやつがいたら、そいつがどんな飯の食い方をするか、他の人にはどんなものの言い方をするか、ことばやすることに、裏表がありゃしないか、よく見分けるんだ。自分の納得できないことは、絶対にするな。どんな真理や理想も、手がけるやつが糞みたいなやつなら、真理も思想も糞になる」』(P173~174)

これはまさに「節操もなく、創価学会にベッタリで、途方もない印税を稼いでる(飯の食い方が汚い)佐藤優」のことであり、それを「軽信」する佐藤優ファンのことであろう。

こうした人たちは「表面」を搔い撫でにすることしかしないから、おのずと「わかりの早い、軽信」になってしまう。「深く」考えたり、「疑い」を持って、慎重に「観察する」ということをしないから、ウケそうなものについては、われ先に飛びついて「軽信」してみせるのだが、それは所詮「軽信」でしかないから、責任を取る気などさらさらない。まただからこそ、その「御本尊」である佐藤優も、節操のない「コウモリ男」なのだ。

佐藤優の言葉や著作というのは、「入門書(入門編)」としては、とても便利なほど「薄い(深みが無くて、読解の必要がない)」。だが、〈薄く広くかつ創造性なし〉の「クイズ王の知識」をありがたがる人というのもまた、同様の人なのである。

結論としては、佐藤優ファンは、とおりいっぺん知識や博学に頼れない「優れた文学作品」でも読んで、「あらすじ紹介と、とおりいっぺんの解説」では済まされない、「深い読解」への努力を、自らに課すべきであろう。
佐高信が、日本人に求めているのも、またそうした「本質的思弁」なのである。

.

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

/140