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萩尾望都への〈依存と自立〉一一Amazonレビュー:小谷真理ほか『別冊NHK100分de名著 時をつむぐ旅人 萩尾望都』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 6月 7日(月)10時17分2秒
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 萩尾望都への〈依存と自立〉

 Amazonレビュー:小谷真理、ヤマザキマリ、中条省平、夢枕獏『別冊NHK100分de名著 時をつむぐ旅人 萩尾望都』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2RJ1G9QE6FHUD

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4人の論者が、程度の差こそあれ「異口同音」に語っているのは、「自立」の問題である。

萩尾望都という作家が、「親の愛」を求めながらも、最後は「ひとり行く」覚悟を選んだ人だという事実を、代表作の中からそれぞれに読み取りつつ「だから読者も、萩尾が身を切り血を滴らせながら描いた作品から、その切実な生に関わる重い問いを、それぞれに引く受けてほしい」と、4人(のうち、少なくとも3人)はそう語っているのだ。

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(1)『 醜さのなかに美を見出すのは、とてもエネルギーの要ることで、だからみんな短絡的でわかりやすく美しいとされるもののほうに行く。けれどもそれがほんとうに美しいのか、もしかするとそうではないのではないか、と見抜くためには、これも相当な想像力を稼働させなければいけない。結局人々は怠惰だから、その想像力を稼働させるのが面倒で、周囲の大多数が「きれいだ」と評価するものを、単純にきれいだと思いたい。
 『半神』もそうですが、女の子は内部のクオリティがどんなに優れていても、かたちが悪かったら、評価されない。頭がいいことより、可愛いほうが世間にとっては優先順位が上。そこには太刀打ちできない。頭が少々おバカでも、きれいなほうがいいという、女性に対する一般的な世間の見方が表れています。』(P70~71、ヤマザキマリ)

(2)『萩尾作品には、人間はいかに生きるべきかという根本的な問いかけがあります。つまりはそうした倫理的な側面をもっているんですね。たとえば『ポーの一族』という作品のもつ普遍的なメッセージは、主人公のエドガーが体現した「人は最終的に孤独を引き受けて、ひとりで生きるほかない」という、ゆるぎない倫理性です。それに対して『バルバラ異界』の場合は、孤独を引き受けて生きようとする人間と、みんながつながり合って、ひとつになって生きようというもうひとつの欲望とが対比されています。』(P98、中条省平)

(3)『自分がいまいる現実の世界と似ているけれど、ちょっとだけ可能性が異なる世界。少しでも人間が解放されるとか、少しでも正しい行動ができるようになるとか、少しでも美しいものに近づけるとか。そんなパラレルワールドを作り出すことが、マンガにせよ小説にせよ映画にせよ、その究極の目的なのではないでしょうか。
 したがって、たんなるSFの意匠としてではなく、むしろ人間の想像力の普遍的なあり方自体がパラレルワールドを夢想するものだと考えれば、萩尾望都の描く『ポーの一族』の世界も、『バルバラ異界』の世界も、それ自体がわれわれの現実に対するパラレルワールドです。そのパラレルワールドによって、むしろ現実が相対化される。
 それはキリヤや青羽が作った架空のバルバラのように、精神の逃避場所にすぎないかもしれません。でも彼らの場合がそうであったように、そこにも危険は襲ってきます。そうなると現実からの逃避場所であったものが、今度は冒険の場になっていく。ただぬくぬくとそこに安住しているだけでは物語ははじまらず、そこで終わってしまうわけですから、パラレルワールドとは冒険の場でもある。そのことがとても重要だと思います。
 その世界でわれわれが少しだけ解放されたり、慰められたり、「現実の自分はちっぽけでどうしようもない人間だけれども、エドガーやキリヤみたいに、孤独を引き受けていく生きていこう」と思う勇気を、少し与えてもらうだけでもいい。』(P113~114 、前同)

(4)『 萩尾さんの描いてきた作品には、自分はここにはいられない存在なのだというモチーフが繰り返し登場します。特に、家族の中での異分子であるという意識を常に纏っているように感じます。先にすこしふれた『ポーチで少女が小犬と』という初期の作品では、幼い少女がいつも空や窓や花のつぼみのことを眺めたり考えたりして楽しんでいるのですが、それを異端視する家族によって抹殺されてしまいます。
 萩尾さんも特殊な才能をもって生まれてきてしまった人なので、エドガーとシンクロするような気がします。マンガを描くことで、ほかの人々が暮らす社会から別の社会へと旅に出たのだという覚悟が、「ひとりではさびしすぎる」というシーンに現れていると思います。
 そのときから萩尾さんはひとりで旅をしていて、そして今も旅の途上なのではないでしょうか。』(P135、夢枕獏)

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以上の3人によって語られているのは「萩尾望都がそうであるように、『ここではない、どこかへ』(P2)と赴くのは、悪くないことだ。だがそれは、多数派たりうるユートピアとしての「安住の地」を目指すことではなく、むしろ孤独な終わりなき旅路であることを覚悟しなければならない」ということである。

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(5)『 では、女性に貼りつけられた被害者を責める価値観から、どうやって逃れたらいいのでしょうか。それが、トーマがユーリに示してくれた、許す神の世界なのだと思います。SFでいうならば、その世界の後ろに隠されていた、もうひとつの世界です。そしてユーリはトーマとともに生きることを決めて、罰する神に縛られた世界から、許す神が迎えてくれる世界へと移行していくのです。』(P40、小谷真理)

(6)『 厳格な宗教的抑圧からの解放を象徴するルネッサンスのイメージは、まさにサイフリートらの奔放な性愛の解放と重なるものです。これがある種女性への暴力的な抑圧を含む男性らの性愛を示していた一方、それを象徴する書物の中に、密かに挟まれたトーマの詩は、ルネッサンスの可能性が、女性のそれにも、密かに開いていたことを示しているようでした。イタリアのあかるい陽光のもとで色彩豊かに描かれたルネッサンス絵画のイメージを伴って、抑圧されてきた女性たちの解放、「死んでいるも同然」の魂の復活への期待が、この本にこめられているように思います。』(P43、前同)

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見てのとおり、小谷の議論も、他の3人と同様に『ここではない、どこかへ』赴いていいんだよ、ここがすべてではないんだ、ということを語っていると言えよう。
しかしながら、そこが「必ずしも楽園ではない」ということまでは、語っていない。そこへと旅立つためには、むしろ「孤独」を引き受ける勇気が必要なのだ、ということまでは、語ってはいないのである。一一なぜだろうか?

それは、小谷真理の視点が「女性の解放」に限定されているからで、男女をひっくるめた「人間」全体を問題とはしていない、「限定的な助言」に止まっているからである。
小谷のここでの「助言」は、「ひたすら抑圧する性」だと見なされているかのような男性には、あまり届かないものとなってしまっているのである。

たしかに、女性は今もなお男性から抑圧されているだろう。その不当な抑圧を受け入れる必要などさらさらなく、さっさとここから出て行けばいいのである。
一一だが、出て行くと言っても、それはスタスタと歩いていくようなわけにはいかず、自分の力でその行き先を開拓していかなければならない場合の方が、むしろ多いのではないか。
「かまわないよ、出ていっちゃいなさい」という「助言」も必要なものだが、実際のところ、出てゆく先の目星もないままに飛び出したら、野垂れ死ぬかもしれないというのが、特別な才能を持たない人間の、男女を問わない現実なのではないのか。

だからこそ、他の3人は「孤独は自由への代償」だと言い、「多数派に安住することは、無自覚に少数派を抑圧すること」にもなるから、自ら自由を求めて「究極の少数派たる、ひとり」になる覚悟が必要だ、とも語っているのではないだろうか。

例えば、「少女マンガなどの興味のない(あるいは萩尾望都に興味のない)世間」に向かって「萩尾望都讃美」を語る行為は、「ひとり」であることを引き受ける態度だろう。
いくら声を枯らしても、誰も振り向いてくれないどころか「そんなもの」と鼻で嗤われて、それでも「萩尾望都讃美」を語る行為は、真の意味で『ここではない、どこかへ』と旅立つ行為だと言えるだろう。

一方「萩尾望都ファンに向かって、萩尾望都讃美を語る」場合の、彼女あるいは彼の行いは、どうだろうか?
彼女あるいは彼は『ここではない、どこかへ』赴いているのだろうか。それとも『みんながつながり合って、ひとつになって生きようというもうひとつの欲望』に身を任せた「バルバラ的一体化」を目指すものなのだろうか?

答は明白だろう。

「萩尾望都語りの萩尾望都知らず」という言葉は存在しないかもしれないが、そういう人なら「大勢」いるはずである。
「萩尾先生、バンザイ!」と言っていれば「仲間」であり体制翼賛した「群の一員」と遇するが、「彼も人間だ=彼女も人間だ」と言えば、途端に「敵視」し「排除」しようとするような人たちは、「萩尾望都語りの萩尾望都知らず」なのではないだろうか。

萩尾望都の作品を読むということは、萩尾望都という「偶像にしがみつく」ことではない。その権威に依存することではない。
「孤独を引き受けよ」という言葉は、そのまま萩尾望都から「自立」を意味するのではないだろうか。
「ベタ誉め」競争をすることだけが「ファンの証明」ではない、のではないだろうか。
「いま」こそ必要なものは、そうした意味での「批評」なのではないだろうか。

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『彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。 』(「ヨハネによる福音書」01章 23節)

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〈二律背反〉する欲望の果てに 一一Amazonレビュー:萩尾望都『バルバラ異界』(全4巻)

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 6月 7日(月)10時14分35秒
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 〈二律背反〉する欲望の果てに

 Amazonレビュー:萩尾望都『バルバラ異界』(全4巻)
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1GBWR21MQKIX3)初版単行本1
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R17DXFNIV3TB7Z)文庫版1
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3VLI5Y6BWCENI)初版単行本4巻セット
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2RW8YDUXJ75FK)文庫版4巻セット

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いくつかの仕掛けが複雑に交錯して、まったく先の読めない作品でありながら、もうこれ以外はないという見事な着地点に到達する、「迷宮」のごとき作品である。

作者は、『いつもは最後まで構想を練って描き始める』し、本作も当初は4回連載で完結するつもりで構想していたものの、第1回を描き終えた段階で、このまま残り3回分を描いても面白くならないと、そう判断し、スケッチ帳に絵を描きながら想を練りなおしてところ、それまでメイン扱いではなかったキャラクター・キリヤが立ち上がってきて、自身の物語を語り出したので、それに導かれるようにして、物語の展開を改変し膨らませていった結果、現在あるような作品になった、と語っている(『別冊NHK100分de名著 時をつむぐ旅人 萩尾望都』所収「萩尾望都スペシャルインタビュー」より)。

よく言われることだが、長編作品を描く(書く)場合に、次の「2つのパターン」がある。

(1) 頭から最後まで、設計図をひいてから、そのとおりに描く(書く)
(2) 描き(書き)ながら、物語を作っていく

(1)のパターンの典型的なジャンルは「本格ミステリ」であり、いわゆる「謎解き小説」だ。物語の冒頭に「不可解かつ魅力的に謎めいた犯罪」が発生(謎の提示)し、それを名探偵が最後に「論理的に解き明かす」(謎の解明)というパターンの作品である。

この場合、提示された「謎」がいかに魅力的であっても、「謎解き・真相解明」が凡庸であったり無理があったりしては、失敗作にしかならない。
つまり、「魅力的な謎」と「魅力的な真相解明」の両方が揃っていなければならないのだが、この両立はきわめて難易度の高いものであるから、通常は、「最後で腰砕け」にならないように、最初から最後まで、きっちりと「設計図」を引いた上で書かれるものなのである。

ところが、このパターンには弱点がある。「決定された筋」に「登場人物」が従属させられるために、キャラクターの魅力や内面描写が犠牲にされがちなのだ。設計図どおりに着地させるには、登場人物の「好きにさせる」わけにはいかないのである。
また、だからこそ「本格ミステリ」は、しばしば「人間が描けていない(生きていない)」と評され、だから「文学ではない」「つまらない」と批判されることも少なくないのだが、要は「本格ミステリ」の場合、「人物」や「エピソード」ではなく、それを犠牲にしてでも、「作品全体の構成美(機能美)」を優先するジャンルだと言えるのである。

そして本作『バルバラ異界』の場合、当初は(1)のパターンで構想されたけれども、連載が始まってすぐに、このままでは膨らみに欠けて面白い作品にならないと作者が気づき、想を練り直していたところ、幸いキャラクターが予定外の自己主張を始めたので、そちらに賭けることにして(2)のパターンに切り替えられ、その結果、本作の「複雑な豊かさ」が生まれたのだと、そう言うことができるだろう。

言うまでもなく、(2)の描き(書き)方は、一種の「博打(賭け)」である。下手をすれば、キャラクターの暴走に作者が引き回されたあげく、まとまりのつかない破綻した作品になってしまう怖れがあるのだ。
一方、うまくいけば、本作がそうであるように、「設計図による制作作品」には望めない「面白いノイズ(あるいは、倍音)」が含まれた「幅のある作品」になる。

そして本作が、このような「賭け」に勝利し得たのは、無論、作者の非凡な「統制的表現力」のせいだと言えるだろう。「キャラクターが、勝手に立ち上がってきて動き出す」とは言っても、それはキャラクターがデタラメに自己主張しはじめるということではなく、あくまでも作者の「無意識」の反映として動きはじめるからこそ、キャラクターが自由に暴れまわっても、結局のところ、物語は「作者の掌の中」に、きちんと収まるのだ。
そしてこれは、作者が、「理性(的判断)」として表面化しないその「無意識」においても、広範かつ強固な「世界観(に基づく判断力)」を持っていればこそなのである。

そしてまた、本作が「夢の中に入る」「夢と現実がつながる」「夢が現実を改変する」物語であることを考えれば、作者が「無意識」の力を借りたというのは、まったく正しい選択だったと言えよう。
「無意識」とは、何が隠れているかわからない場所だからこそ「無意識」なのだが、だからこそそこには「理性による設計図(判断)」を超える「欲望のマグマ」が潜んでいるのであるし、その「秘められた力」を適切にコントロールしたからこそ、真の意味での「夢と現実=無意識と理性」を貫く物語が書き得たのだと言えよう。本作の「傑作」性とは、そのような「割り切れない要素の豊饒さ」を、「物語の枠」の中に引き入れたところにあったのである。

 ○ ○ ○

さて、以上は、本作が「傑作」である所以を説明したものだが、ここからは「本作のテーマ」と作者の関係について、論じてみたい。

本作で、読者の誰もが問われるのは、中条省平が前掲の『別冊NHK100分de名著 時をつむぐ旅人 萩尾望都』所収の『バルバラ異界』論「現代の巫女が生みだしたSFの枠を超える傑作」の中で語ったところの「原初の海一一孤独の論理VS.つながる論理」の問題である(P109)。
簡単に言えば、『新世紀エヴァンゲリオン』で描かれた、「人類補完計画(=全人類の融合一体化)」を是とするか否とするかだ。

私は、本作『バルバラ異界』を読む以前に書いた、萩尾望都の長編エッセイ『一度きりの大泉の話』のAmazonレビュー「残酷な神が支配する…」(2021年4月23日)の中で、萩尾望都を評して、次のように書いた。

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『「自立」するとは、どういうことだろうか。
少なくともそれは、他者との「一体化」ではないし、その意味では「馴れ合い」でもない。「自立」を勝ち取るには、他者と「一定の距離」をとって「客観的観察」し、状況に対処しなければならない。
しかし、こうした「リアリズム」ほど、「少年愛」的な「一体化=融合願望」と遠いものはない。例えて言うなら、それは「人類補完計画」に対するアスカ・ラングレー(庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン)の「気持ち悪い」という「吐き捨てるような評価」に似ているだろう。そう、萩尾望都は、意外にも「母親からの承認を求めて、自立しようともがいた」アスカに似ているのだ。

そんな彼女にとって「少年愛=人類補完計画」的なものは「理解不能」だし、理解したとすれば「気持ち悪い」としか評しようがなかったので、萩尾はそれを「わからない」と誤魔化したのである。「あんたバカぁ?!」と言い捨てたアスカほど、萩尾は「女性」として自由ではなかった。』

萩尾は『一度きりの大泉の話』の中で「少年愛というものが、自分にはよくわからない」ということを繰り返していたが、「少年愛」というものが、竹宮惠子の考えるようなものだとすれば、それは萩尾望都には、たしかに理解不能だっただろう、ということである。
これについては、小谷真理が前掲書『時をつむぐ旅人 萩尾望都』所収の『トーマの心臓』論「究極の愛と、解放される魂」の中で、次のように語っている。

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『 そんな現実の世界には共存しえない女の子たちのふたつの欲望(※ 純愛と性愛)がともに存在することができるのが、BLの世界なのです。とすると、『トーマの心臓』は純愛のほうに焦点をあてて描かれた作品と言えるかもしれません。一方で、やはりBLの元祖と呼ばれ、『トーマの心臓』と並べられることの多い竹宮恵子さんの『風と木の詩』は、セクシャリティのほうに焦点が置かれていて、性愛と純愛がどう共存するかということを探求した作品だと思います。』(P26、※は引用者注)

つまり、萩尾望都には、竹宮惠子が考えていたような、「性愛」要素を濃厚にを含む「少年愛」というものが、理解できなかった。
萩尾は、それ以前の「親子」関係において「密着型」の経験から疎外されていたための、「密着型」のひとつである「(オーソドックスな)竹宮惠子型の少年愛」というものが理解できなかったのだ。

無論、萩尾望都の中にも「密着型愛(情)」に対する欲望があり、その成就への欲望はある。だが、それが生育環境において満たされなかった萩尾の場合には、「性愛」という限定的テーマ以前に、「親子関係」や「友人関係」に代表される一般的な「他者との繋がり」という問題として、否応なく探求されざるを得ず、そうした「願望」の究極的かつ象徴的な形が「全人類の融合一体化」だったのである。

つまり、本作『バルバラ異界』で問われたのは、萩尾の中にもあった「孤独の論理VS.つながる論理」の葛藤であり、萩尾個人の選択的回答は、前者の「孤独の論理」であったけれども、それを「作品の結論」とはせず、読者個々に対して「どちらを選択する?」と、あえて問うて見せたのが本作であり、本作の「豊かさ」だったのだ。

前掲論文で中条省平も書いているとおり、人間というのは「孤独の論理」と「つながる論理」の、どちらか一方を選択しただけでは済まされない、「個人的」かつ「社会的」な存在である。
しかしまた、「同調圧力が強い」と言われる私たち日本人の場合は、萩尾望都ファンであっても、萩尾望都のファンであることにおいて「同調圧力」を働かせてしまうような、「反・萩尾望都的」な傾向を色濃く持った民族だ、と言えるのではないか。

だからこそ、そうした意味で私たちは、本作『バルバラ異界』の発する問いに、真剣に向き合わなければならないだろう。
そして、それに真剣に向き合うとは、「どちらかを選択して、それでおしまい」ということではなく、常にこの「選択による完結を許さない問い」を、自身に突きつけ続けることなのではないだろうか。
そしてその意味で私たちには、やはり「原初の海への回帰」は許されてはいないのだ、と考えるべきなのではないだろうか。

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https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

『トーマの心臓』から『一度きりの大泉の話』を貫く本質 一一Amazonレビュー:萩尾望都『トーマの心臓』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 6月 7日(月)10時12分46秒
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 『トーマの心臓』から『一度きりの大泉の話』を貫く本質

 Amazonレビュー:萩尾望都『トーマの心臓』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R14TMQUMU81LY8)小学館文庫
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R34KXF0V3I8RRE)初版3巻セット
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1TUFE7XQDCQ7W)perfect selection版
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RNGMDFYLLWJJ4)初版コミックス
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R16VYSOLPOF92M)小学館文庫(旧版)
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2PRXX9R0MLXFT)作品集11巻

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萩尾望都の長編エッセイ『一度きりの大泉の話』が、2021年4月に刊行されて以来、少女マンガ界隈は騒然としている。

萩尾望都や竹宮惠子といった少女マンガ界の「レジェンド」級の作家たちが、若い頃に東京都練馬区の大泉のアパートに集まって、今日の少女マンガの可能性を開く創作実験がなされた事実を、近年、手塚治虫を中心としたマンガ界の伝説「トキワ荘」になぞらえて、高く評価しようとする動きが出てきたのだが、そうした動きを牽制するために、萩尾望都の放ったのが、この『一度きりの大泉の話』だった。

『一度きりの大泉の話』で語られているのは、要は「大泉サロン」と呼ばれたものの「現実」は、人々が「夢想」する「若き天才たちの梁山泊」物語のような、単純な「綺麗事」ではなかったということであり、少なくとも萩尾個人にとっては「終生消えない傷」を残した「イヤな思い出」の場所であり時間であったから、それを「美化して弄ぶ」ようなことはしないでくれ、という趣旨のものであった。

そして、そこで初めて明かされる「イヤな思い出」とは、萩尾が、竹宮惠子と増田法恵が考えていた「少年愛マンガ」のアイデアをパクって『トーマの心臓』(の初期エピソード)を描いたと竹宮らが疑い、萩尾を呼び出して難詰した後、ハッキリとした決着をつけないまま、萩尾に「距離を取ろう」と提案し、呼び出しと難詰についても「なかったことにしてくれ」と申し出た、という一連の「事件」である。

もちろん、萩尾にとっては、一方的に心外な嫌疑をかけられたのだし、それまで友達だと信じていた人たちからのそれが、彼女を深く傷つけたということなのだが、だからこそ萩尾の方も、この問題と向き合うことを避けて、以降、自身の「心」に封印をして、今日に至ったと言うのである。

しかし、近年にわかに盛り上がってきた「大泉サロンをテレビドラマに」などという軽薄かつ執拗な動きに、もはや黙っていることは不可能だと覚悟して、萩尾は「一度きり、大泉の真相を語ろう」としたのが『一度きりの大泉の話』だということになる。

だが、私は「竹宮惠子と増山法恵」を完全に「悪役」扱いにした『一度きりの大泉の話』を、鵜呑みにする気にはなれなかった。同書は、あまりにも「当方には、いっさい罪はない」とする「勧善懲悪」の物語であったからだ。

無論、萩尾は同書で「私は、鈍感だった」とか「物事をはっきりさせようという勇気がなくて、逃げてしまった」というような、一見「反省」とも見える言葉を綴っているが、「第三者」である私には、これは体のよい自己正当化にしか見えなかった。要は「私は、純朴で人を信じやすく、繊細で傷つきやすい人間です。だから被害者になりました」と、自分で言っているようなものであったのだ。

 ○ ○ ○

そんなわけで、今回はひさしぶりに『トーマの心臓』を再読してみた。
再読と言っても、前回読んだのは30年ほど前のことであり、しかもその時の印象は「私の趣味じゃないな」というものである。つまり、ピンと来なかったし、面白いとも感じなかった。
この作品を面白いと感じる人が少なくないであろうことは了解できたのだけれども、私の「趣味ではない」と感じられたから、その時点で萩尾望都は、私にとっては「読まなくていい作家」に位置づけられたのである。

しかし、私は必ずしも「少女マンガ」がわからない人間、というわけではない。その昔、萩尾望都を読んだ頃、同時に、竹宮惠子の『風と木の詩』、木原敏江『摩利と新吾』、山岸涼子『日出処の天子』などの作品を読んで、いずれも面白かったからである。

しかしまた、だからこそ「なぜ萩尾望都だけは、楽しめなかったのだろう。どこが合わなかったのか?」という疑問の小骨が、喉元に突き刺さったままになってもいた。
だから、NHKで『100分de名著スペシャル 100分de萩尾望都』(2021年1月放映)をたまたま視たのをきっかけに、萩尾望都に再チャレンジしてみようと考え、同番組で紹介されていた、未読の短編集『半神』、『バルバラ異界』、そして昔読んだ萩尾の代表作である『トーマの心臓』を購入して、まずは『半神』を読んだ段階で、同書のAmazonレビュー「保護被膜の生んだ〈乖離感〉:私的・萩尾望都論」(2021年1月11日)を書いたのである。

その後、他の本に浮気して『バルバラ異界』と『トーマの心臓』を読まないうちに、『一度きりの大泉の話』が刊行され、なんの予感もなく同書を読んだところ、前記のとおり「これは酷い」と思い、同書のレビューとして「〈残酷な神〉が支配する…」(2021年4月23日)を書き、さらに翌日、補論「汝、頑ななる者よ」を追加した。

これには、たいへんな反響があった。要は、明敏な人なら気づいてはいても「天下の萩尾望都について、こんな身も蓋もないことを指摘することはできない」といった厳しい評価を、私が与えていたからであろう。
同論考の要旨とは「萩尾望都も人間であるから、間違うこともある。竹宮らへの恨みもわからないではないが、もう許すべきだ」という、「対等な人間」としての助言だったのだ。
一一だが、無論こうした私の「(身も蓋もない)常識的な意見」には、肯定的評価と同時に、「憎しみ」の刃を向けられることにもなった。要は「(被害者である)モー様を傷つけるものだ」という(セカンドレイプ批判的な)批判である。

そしてその結果、突き放して言うなら、萩尾望都の「信者」というのは「繊細さ」と「優しさ」をアピールする人が少なくないと、私には十二分に確認できたのである。

 ○ ○ ○

さて、やっと『トーマの心臓』である。
ほとんど、内容を忘れていたが、再読してみて、本書にはすでに、おおよそ半世紀後に刊行される『一度きりの大泉の話』の基本構造が、しっかりと畳み込まれているのが確認できた。
どういうことかと言うと、本作『トーマの心臓』は「呪いと愛による再生の物語」であり、これは萩尾望都という人が「憧れた」物語だろうということである。

本書の構造を簡単に説明すると、本作は、心を閉ざした少年ユーリ(ユリスモール・バイハン)をめぐる「献身的な愛の物語」である。
「ある理由」で、ユーリは他者からの愛を拒絶して、自身の中に立て籠もろうとする。しかし、そのせいで、彼を愛した少年トーマ・ヴェルナーは自殺してしまう。それでも、トーマの再来かと思われるような少年エーリク・フリューリンクが転校してきて、ユーリの態度に困惑しながらも、だんだんユーリに惹かれていくし、トーマの同室の友人であるオスカー・ライザーも、内心は明かさなかったものの、ユーリを深く愛して、ユーリの心の傷が癒えるのを見守っていた。

つまり、ユーリは、他人の愛を拒絶しながらも、周囲の皆から「愛される存在」であった。
これは無論、彼が元々は、とても素敵な少年であったからだけれども、このモテかたは、やはり「少女マンガ」の主人公(の一人)だったからだと言えるだろう。そして、今回再読して、はっきりわかったのは、ユーリというのは、作者である萩尾望都の「理想化された自己像」だということである。

『トーマの心臓』という作品を読んで、読者はどこに惹かれるのだろうか?
それは多分、自身をユーリに重ねられる人が、この作品に惹かれるのである。つまり、自身は心を閉ざしていても、先方から、その心の傷を察してくれて、積極的かつ献身的に愛してくれる人が現れる、という夢のような展開である。

よく萩尾望都の作品は「少女マンガを超えた」とか「文学の域に達した」などと言われるが、上の「自身は心を閉ざしていても、先方から、その心の傷を察してくれて、積極的かつ献身的に愛してくれる人が現れる、という夢のような展開」というのは、いかにも「少女マンガ」的に御都合主義的なものであって、これは「コンプレックスを持つ平凡な女の子の前に、いきなりイケメンの転校生があらわれ、なぜか彼女を愛してくれる」という展開と、構造的には、まったく同じだと言えよう。
読者は「本来ならモテないはずの主人公」に自己投影し、その主人公が「なぜか」やたらに愛される、恋愛物語に酔うのである。

しかし、こうした「遠慮のない分析評価」というのは、「文学」の世界では「当たり前」のことでも、「少女マンガ」の世界ではご法度だ。なにしろ読者は、「批評」といったものに縁のない「若いエンタメ読者」なのだから、こうした「遠慮のない分析評価」には「耐性」がなく、ただ「傷つけられた」と騒ぐのが関の山だからである。

しかしながら私は、そういう読者を喜ばせるために「評論」を書いているのではない。そういうのは、「萩尾望都ファン」や「業界ライター」が、頼まれなくても書くだろうから、私は私にしか書けないものを書くし、これはこれで私の「マンガ」への愛のかたちなのである。

話を『トーマの心臓』に戻そう。
この物語を牽引する「謎」とは、主に次の二つである。

(1)なぜトーマは自殺したのか
(2)ユーリは、どのようなことから、心に深い傷を負ったのか

物語の展開としては(1)(2)に順になるが、物語中の時制からいえば(2)(1)の順になる。つまり、ユーリが負った「心の傷」を癒すために、トーマは「自殺」したのである。

ここで、種明かし(ネタバラシ)をして説明すれば、ユーリが心に傷を負ったのは、敬虔なクリスチャンだった彼には、ちょっと「悪」の匂いのする上級生サイフリート・ガストに惹かれる部分もあって、うっかりその魔手に落ちてしまい、サイフリートに鞭打たれながらとはいえ「神さまよりも、僕(サイフリート)を信じると言え、愛していると言え」と迫られて、その言葉を口にしてしまったためである。
つまり、ユーリはこのことで「神を裏切った」「僕は、悪魔の誘惑の手に落ちた、堕落した人間だ」「天使の翼を失った」と考えるようになった。だから「僕は、人から愛される価値のない人間だし、愛されてはならないのだ」と、心を閉ざすようになったのである。

そして、そんなユーリをトーマは愛し、ユーリをその「信仰的葛藤」から解放するために、あえてキリスト教では許されない「自殺」をしたのである。「あなた(ユーリ)が神を裏切ったと苦しむのなら、僕も神を裏切ろう。そして、僕が失った翼をあなたに与えよう」と。

だが、トーマの自殺の意図は、ユーリに正しく伝わることはなく、ただユーリは「自分のせいでトーマを死なせてしまった。僕を愛してくれ、本当は僕も愛していたトーマを死なせてしまった」という罪悪感にとらわれて、さらに心を閉ざすことになったのだが、そこに現れたのが、トーマに生き写しの転校生エーリクであり、だからこそユーリはエーリクを避け、エーリクは逆にそのことでユーリに惹かれていくことになり、最後は、トーマやエーリク、オスカーらの愛によって、ユーリはふたたび「神の愛=神は罪人を許し、その罪を我が身で贖う」を見出して再生するのである。

私は、このような「キリスト教思想」の部分が、萩尾望都ファンの少女たちに、正しく伝わったとは思わない。私自身、30年前に読んだ(初読)時には、キリスト教の教義のことなど知らなかったから、そのあたりは「雰囲気」だけで流していた。

しかし、キリスト教について、かなり勉強した今の目で見ると、『トーマの心臓』における「キリスト教」の扱いは、決して深いものではなく、「ユダの裏切り」だとか「自殺」問題、あるいは「罪人を許す神(イエス)」そして「贖罪論」というキリスト教的な仕掛けは、キリスト教に詳しくない読者にこそ有効に機能するものだったとわかるからだ。
つまり、「キリスト教」には「厳格な教条主義のキリスト教」と「寛容な愛の宗教としてのキリスト教」の「二面性」があり、本作を駆動するのも、まさにこの「二面性」についての、読者の「無知」なのである。

ユーリは、敬虔なクリスチャンで「聖書」を読み込み、「教義」にも詳しいかのように見える。
しかし、彼が、「厳格な教条主義のキリスト教」だけではなく、「神の愛=神は罪人を許し、その罪を我が身で贖う」を正しく理解していたならば、そもそもトーマは死なずに済んだわけで、この物語は成立しなかった。
無論、ユーリはまだ十代半ばの少年なのだから、彼の教義的無知は罪ではないのだが、『トーマの心臓』の作者が、読者に対して、ユーリの「教義的未熟さ」を、見かけ上で隠蔽していたのは事実であり、これは一種の「叙述トリック」だと言えるだろう。ユーリは「理由はよくわからないが、ともかく深く癒えない傷」を負っていると、読者がそう思うからこそ、この「切ない」物語は駆動するのである。

だが、こうした手法は、「純文学」的ではなく、「エンタメ」的なものでしかない。例えば、カトリック小説家である遠藤周作が背負った「重み」が、本作にはない。

遠藤が「転教者(転び)」の問題を扱った『沈黙』で、踏み絵に描かれたイエスに「踏みなさい」と語らせたことは、ほとんど「背教」を覚悟しての「厳格な教条主義のキリスト教」に対する「神の再解釈」であり、ほとんど「異端の説」を唱えるに等しい「重み」が、そこには込められていたのである。
だが、『トーマの心臓』には、そうした「重み」がない。それは、萩尾望都が遠藤のような筋金入りのカトリックではなく、初めから「厳格な教条主義のキリスト教」と「寛容な愛の宗教としてのキリスト教」の「二面性」という「切り札」を、隠し持っていたからに他ならないのだ。

『トーマの心臓』を、安易に「文学的だ」などと言ってはいけない理由は、他にもある。
それは、「悪役」サイフリートの扱いだ。

前述のとおり、『トーマの心臓』を無条件に楽しめる読者は、自身を「愛される人・ユーリ」に重ね、時に「無償の愛を捧げるトーマやエーリクやオスカー」に重ねて、自身が「繊細」で「思いやり」がある「愛」の人だと感じていることだろう。

だが、それは違う。(傷ついて後の心を閉ざした)ユーリが「鼻持ちならない優等生」に見えないのは、作者が「そのように描いているから」であって、読者が「繊細」で「思いやり」がある「愛」の人だからではない。

その証拠に、読者は、ユーリには心を閉ざすに値する「正当な理由」があると頭から考え、その線での「真相解明」を毛ほども疑わない反面、サイフリートが「悪魔主義の嫌なやつ」という「典型的な悪役」になった(育った)理由など、一顧だにしなかったはずである。
放校になって、読者の目から遠ざけられたサイフリート他4人の「不良」たちは、「憎むべき存在」であり「排除すべき存在」であって、萩尾望都ファンの「愛の対象」ではありえなかったのだ。彼らの「過去」は問題とされず、彼らは「一方的に、悪魔化されて、排除された」だけだったのである(そしてこの「図式」は、『一度きりの大泉の話』でも、そのまま繰り返されている)。

だが「文学」は違う。「文学」は、こうした単純な「善悪二元論」や、「愛される(感情移入しやすい)主人公」と「憎まれる(感情移入しなくていい)敵役」といった、安易な「二分法」を採用したりはしない。
「文学」は、一人の人間の中に「善と悪とが共存する」ものとして捉え、その上で「自身の中にもある悪」と、どう闘うか、あるいは、どう折り合いをつけるべきか、とリアルに問うものなのである。
だが、『トーマの心臓』は、そういう「重荷」を引き受けてはおらず、ひたすら読者を「私も愛の人」だと酔わせるだけのエンターティンメントなのだ。

もちろん『トーマの心臓』という作品は、「マンガにしては」繊細な心理を描いて、優れた作品だと言えるだろう。
しかし、だからと言って、ろくに「文学作品」も読んでいないような読者が、「文学的な作品」だとか「文学を超えた」などと評するのは、身内での愚かな盛り上がり(自己満足)でしかない。

もちろん、「文学関係者」にも、萩尾望都の熱心なファンが大勢いることは承知しているが、それならば、彼らは、私のこのような批判を乗り越えるような、文学ファンをも納得させる「萩尾望都論」を書くべきであろう。
言い換えれば、現役の「神様作家」を当たり前に持ち上げるだけなら、評論家あるいは文筆家という肩書きを恥じるべきである。

萩尾望都が死んでから、初めて「客観的な評価」を語るような評論家は、萩尾望都ファンの名に値しないし、もとより素人と大差のない「紋切り型の褒め」を語るしか能のないような「提灯持ち評論家」は、「少女マンガ」を腐らせ、作家を腐らせる存在でしかない。所詮は「マモンという悪魔に、魂を売った人間」なのだ。

はたして、私のこの批判は、エーリク的に過ぎようか?

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〈中立的第三者〉など、ここにはいない。一一Amazonレビュー:佐高信『池田大作と宮本顕治 「創共協定」誕生の舞台裏』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 6月 7日(月)10時11分11秒
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 〈中立的第三者〉など、ここにはいない。

 Amazonレビュー:佐高信『池田大作と宮本顕治 「創共協定」誕生の舞台裏』
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「創価学会(含む公明党)」に興味を持つ人も、「日本共産党」に興味を持つ人も、決して少なくはないはずだが、本書が広範に読まれるとは考えにくい。
なぜならば、「創価学会」や「日本共産党」に興味を持つ人というのは、創価学会員か共産党員、あるいは、その熱心な「アンチ」でしかない蓋然性が高く、そうした人たち多くは、すでに、好意的であれ敵意的であれ「私は、その実態をよく知っている」と思い込んでいるので、いまさら「一般書」を読んでまで、勉強しようとは考えないからだ。

言い換えれば、「中立的第三者」の立場で、「創価学会」や「日本共産党」について、その実態を知りたいと考えるような人は、ほとんどいないと考えていいだろう。
現時点で、本書のレビューを書いているのは、私を含めて3人だけだが、この3人は、いずれも何からのかたちで、創価学会か共産党に関係した人、あるいはその熱心な「アンチ」だと考えていいだろう。レビュアーは、決して「無邪気無縁な第三者」ではない、のである。

つまり、本書を「読むな」「読む価値がない」と評している人は、まず間違いなく、本書で批判されている「創価学会」か「日本共産党」の関係者と見ていいだろう。
そうした人たちは、本書を読まれたくないから、第三者を装って、本書を「つまらない」と決めつけるのだが、実際のところ、本書を読んですらいない蓋然性がきわめて高い。

一方、本書を「読め」「読んだ方がいい」と薦める人は、基本的に「創価学会」や「日本共産党」を、批判的に見ている人、だと考えていいだろう。
日本における「創価学会」や「日本共産党」の存在が、今なお無視できない影響力と存在感を持っているという事実を認めており、だからこそ「批判的な検証が必要」だと考えている人だと言えるだろう。つまり、無視して済む問題ではない、と考えている人だ。

ただし、本書を「読め」「読んだ方がいい」と言う人は、基本的に「創価学会」や「日本共産党」を批判的に見ている人ではあっても、「創価学会」に対する「顕正会」とか、「日本共産党」に対する「ネトウヨを含む右翼・保守団体」といった「敵対集団」に所属するような人、つまりは「アンチ」ではない。

「アンチ」というのは、ある意味では、「創価学会」や「日本共産党」の裏返しであり「陰画」的な存在、だと言えるだろう。批判をしているけれど、あるいは、方向性こそ真逆であっても、体質的には非常に似通ったところのある存在であり、だからこそ「近親憎悪」が激しいのである。

そして、そんな「創価学会憎し」「共産党憎し」に「凝り固まった人たち」というのは、いまさら佐高信の本を読んだりはしないのだ。

彼らには、彼らの中だけで流通する、「反・創価学会」あるいは「反・共産党」的な憎悪を煽るための「内部資料」が豊富にあって、彼らはそうしたものしか読まない。
例えて言うなら、創価学会員が「池田大作の著作」と「聖教新聞」と「大白蓮華」を読むので精一杯で、一般書籍をほとんど読まないのと同じことであり、元の本山であった「日蓮正宗」をこき下ろす「身内向けの日蓮正宗批判本」しか読まないのと同じことだ。創価学会員は、一般的な「仏教の歴史(仏教史)」とか「日蓮宗の歴史」なんてことを勉強しようとは、つゆほども考えないのである。

一一そして、このような「視野狭窄的盲信性」というのは、「アンチ」についても、そっくりそのまま言えることであり、どっちにしろ「凝り固まった人たち」というのは「きわめて視野が狭く、本を読まない」人たちなのである。

では、かく言う私は、どうなのか?

私は、元創価学会員であり、創価学会を批判しているだけではなく、宗教そのものの問題を批判している、「無神論者」である(例えば、リチャード・ドーキンスやダニエル・デネットなどと同じ立場だと言えよう)。
つまり、創価学会に限らず、宗教教団というものには、多くの問題や「偽善」「欺瞞」が存在していることの事実を指摘して批判し、当然のことながら、元は会員であった創価学会についても、同じように批判をする、という立場だと言えるだろう。言い換えれば、私は「創価学会批判者」ではあるけれど、「アンチ創価学会」ではない。

「信仰」や「思想」の問題に興味のない人は、こうした違いがピンと来ないかもしれないが、この違いはきわめて大きく、それは批判の仕方にも如実に反映してくるのである。

例えば、まともな「批判者」というのは、「批判対象」に「批判すべき(改善されるべき)点」があると考えるから、その点を批判し、そこが改められれば、それで良いと考える。いわば「改善指導」を行おうとしているわけだ。

ところが「アンチ」というのは、端的に「批判対象」を「敵」だと認識しており、感情的に「抹殺したい」と考えているから、「論理的批判」ということができない。
無論、彼ら自身は、自分が「論理的」に批判しているつもりなのだが、客観的事実を知ろうともせず、自身の「思い込み」を追認するような偏頗な情報しか集めようとはしないような(エコーチェンバーな)人(例えば、ネトウヨがその好例)は、決して、客観的でもなければ、論理的でも、合理的でもないのである。

そんなわけで、本書の著者・佐高信は「創価学会批判者」「日本共産党批判者」ではあっても、「アンチ」ではない。認めるべきところは認め、協力できるところは協力するけれども、是々非々での批判は、必要なものとして容赦なく行うという、そんな立場だと言えるだろう。

だから、「創価学会批判者」「日本共産党批判者」あるいは「アンチ」の人たちにとっては、本書は、まだまだ「手ぬるい」と感じられるかもしれないが、問題は「事実において、適切に批判する」ということであり、本書で目指されているのもそういうことなのだ。逆に言えば、「過激」「派手」であれば好ましいというのは、頭の悪い「アンチ」的発想でしかないのである。

創価学会にしろ日本共産党にしろ、漏れ出てくる「内部情報」や「告発」といったものが、どの程度の信憑性を持つものなのかの判断は、なかなか難しい。「忠誠と裏切りの世界」というのは「狐と狸の化かしあいの世界」だからだ。
しかし、だからこそ、豊富な情報を持っていてこそ、そうしたものとの比較考量の中で、情報の信憑性を適切に判断することもできるのである。

したがって、大切なことは、まず「知る」ことだ。「知る」ことなくして、「知らず」して、正しい判断などできないというのは理の当然で、「根拠薄弱な思い込みによる批判」は「読まないで、レビューする」のと同様の行いなのだと言えよう。
知的に幼い人ほど、自身の「好み」や「直感」を過信し、それに依存してしまうものであり、知的な人ほど「自己懐疑の慎重さ」を手放さないという事実を、少なくとも「読書家」ならば、明記すべきであろう。

「(十分に)知らないことは、正しく論じられない」というのは、知的な人間には、自明な大前提なのである。

だから「本書くらいは読むべき」である。創価学会や日本共産党の問題を論じるのに、ここに書かれていることくらい知らないようでは、その人が「当事者」としての「創価学会員」であろうと「日本共産党員」であろうと、あるいは、その「アンチ」であろうと、創価学会や日本共産党を論じる資格などないと、そう断じても、決して過言ではないのである。

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政治的フィクションに汚されない〈生活に発する信仰心〉 一一Amazonレビュー:瓜生中『よくわかる山岳信仰』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 6月 7日(月)10時10分2秒
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 政治的フィクションに汚されない〈生活に発する信仰心〉

 Amazonレビュー:瓜生中『よくわかる山岳信仰』
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日本の信仰は「山」に始まると言っても過言ではないだろう。成り上がった一地方豪族である「ヤマト国朝廷=天皇家」を権威づけるために、7世紀にもなってから、紀元前にまで遡る「神の血をひく一族の系譜物語」として制作され成立した『古事記』や『日本書紀』。一一それ以前、制度化以前の「日本の信仰」のことである。
つまり、今の「神道」ではなく、「原始神道」とでも呼ぶべきもののことであり、「天孫降臨」という部族神物語を押し付けられる以前、すでに私たちの先祖は「死者の魂が山に登り、その頂上から天に昇っていく」とする、実に感覚的な信仰を持っていたようなのである。その意味で「山」は、「(浄化された祖先の霊魂としての)神に近い場所」であり、そこから「神の住まう場所」と観念されたり、「山」そのものが「神」として信仰の対象になったりもしたのだ。

そうした「原始神道」の上に、力づくによる「ヤマト朝廷神道」が被さって、より近世的な「神道」が徐々に形成されていき、そこへさらに、大陸から輸入された最新知としての「仏教」が、政治的党派権力上の優位に立って、「本地垂迹」(仏教の仏や菩薩が本地で、神道の神は垂迹=仮の姿)という考えに基づいた「神仏習合」を推し進めた。
また、すでに輸入されていた「道教」由来の「神仙術」や「陰陽道」などの影響を受けた民間の「山岳修行者」たちが、神道や仏教の美味しいとこ取りをして、ほとんど成り行き的に形成されていった「修験道」が絡んで一一というのが、日本の宗教なのだ。

これでもずいぶん簡略化し図式化した説明であり、現実にはもっと複雑に絡み合った相互関係の中で、お互いにその時代の信仰形式が、流動的に形成されていたと言えよう。そのために「日本の宗教」はややこしいし、すべてが多かれ少なかれ「山」に関係してくる。
日本の宗教で、「山」に無縁な宗教などないと言ってよく、だからこそ本書『よくわかる山岳信仰』は、実際のところ、日本の信仰形式全般をカバーするものであり、否応なく内容豊富で、決して「修験道」などの典型的な「山岳信仰」だけを扱ったものではないのである。

私は当初、このタイトルから「修験道」的な部分を勉強しようと思って購入したのだが、結果としては「山」を起点とした「日本の宗教」全体を、広く相関的に知ることができて、これまでごちゃごちゃになっていた部分を、かなりスッキリと整理することができた。本書は、タイトルこそ軽っぽいが、内容の充実した、実にありがたい一冊だったのである。

また、それでいて本書は、決して「情報の寄せ集め」ではなく、著者の一本筋の通った「日本の信仰」観に貫かれており、読んでいて、とても気持ちが良かった。
著者は、あくまでも「権力者のでっち上げた、覇権的な信仰形式」ではなく「人々の生活実感に根ざした、自然な信仰」を重視して、その観点から「日本の宗教」を理解し整理しているので、時に「あるべき信仰」像を熱く語る部分もあった。例えば、次のような部分だ。

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『 ここで「神道」ということについて一言しておきたい。小著のテーマからは少し外れる感があるが、日本民族の原初的信仰、いわば宗教以前の信仰としての山岳信仰を理解する上では重要な問題である。
 最近は「神道」という言葉が極めて無神経に使われており、神道の中にこそ日本民族の「心」のルーツがある、といった短絡的な物言いをする人が少なくない。「神道」という言葉はすでに『日本書紀』の用明天皇(聖徳太子の父)の項に「(用明)天皇、仏法を信けたまひ、神道を尊びたまふ」と記されている。つまり、用明天皇が仏教とともに神道も尊重したというのである。
 しかし、この場合の「神道」という言葉は、(※ 後の時代に、理論的に形成された)伊勢神道や吉田神道、国家神道とは似て非なるもので、日本古来の神々に対する信仰という程の意味である。そして、伊勢神道や吉田神道といった場合の「神道」は、自己の権威を高めるための極めて政治的、政策的に組織化されたものなのである。だから、そこには日本民族の心のルーツといった側面は見られない。
 精神的な拠り所としての原型は、今も地方の山村で行われている素朴な神事や催事、そして、神社を中心とする村人たちの素朴な信仰の中に見られるのである。敢えてこのような信仰形態に名前をつければ「神社を中心とする日本固有の神々に対する素朴な信仰」とでもいうことができるだろう。どちらかというと『日本書紀』に見える「神道」という言葉に近いニュアンスで、「伊勢神道」や「吉田神道」、ましてや「国家神道」とはまったく異なる概念であるということができる。』(P84~85、※は、引用者補足)

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『 つまり、平城京の都市機能はすでに完全に麻痺していたのであり、その惨状を招いたのは元祖箱物行政を推進した聖武天皇だった。そして、聖武天皇の跡を継いだ孝謙天皇も父親に負けず劣らずの浪費家だった。孝謙天皇は、一度退位した後に再び即位して称徳天皇となった。称徳天皇は破綻した財政を横目に、西大寺や新薬師寺といった大掛かりな寺院を建立して人々の顰蹙を買った。それと同時に弓削道鏡を寵愛して彼が天皇の地位を窺うきっかけまでつくった。
 その称徳天皇も宝亀元年(七七〇)には崩御し、弓削道鏡も失脚して下野の薬師寺に流されて同じ年にその地で亡くなった。そして、称徳天皇の跡を継いだ光仁天皇は、腐敗堕落して破綻した仏教界の粛正と平城京の復興に力を注いだ。
 その一環として、光仁天皇が先ず着手したのは山林抖藪(※ 山林修行)の解禁だった。「僧尼令」にあった事実上の山岳修行の禁令を削除したのである。これによって、それまで吉野や熊野など各地の霊山に潜伏して修行していた行者たちは、心置きなく修行に専念することができるようになったのである。
 光仁天皇が山岳修行者に活路を与えたのは、奈良の大寺で権勢だけを誇示している堕落した僧侶よりも、深山幽谷で厳しい修行に打ち込む若くて無名の僧侶の方が求道心と信仰心に富んでいると見たからである。
 周知のごとく、このころ最澄や空海は比叡山や四国の室戸岬などに籠って厳しい修行に専念して仏教の奥義を体得しようとしていた。彼らは用意されたエリートコースを自ら外れてアウトロー(※ 山岳修行者)の仲間入りをしたのであり、当時の世間の人々にとっては理解しがたい行動であった。しかも、律令制の下では山岳修行者は捕縛されて流罪に処せられる危険もはらんでいた(※ 役の小角[役行者]にも、流罪されたという記録がある)。
 もし、最澄や空海が聖武天皇の時代に生きていれば、運よく罪に問われずに済んだとしても、重用されることは決してなかっただろう。』(P106~107)

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『 しかし、明治になると神仏分離政策によって(※ 記紀神話の神のみを祭神とするために)本地仏は廃され、(※ 出羽)三山はそれぞれ神社となって祭神も改められ、羽黒山は倉稲魂命(伊氏波神)、月山は月読命、湯殿山は大山祗命、大己貴命、少彦名命とされた。
 ちなみに現在、各地の神社に祀られている祭神は、出羽三山のように、明治初年に急ごしらえで定められたものである。しかも、祭神を選定したのは仏教嫌いの右傾した神道家や、歴史や宗教についての知識を全く持たない無知蒙昧な明治政府の役人たちだった。その結果、千年以上に及ぶ伝統を無視して、いい加減な祭神が割り当てられたのである。
 例えば、羽黒山は(※ 山そのものが)古くから農耕の守護神として信仰されていたことから、単に穀物の神である倉稲魂命に定められた(※ 新たに、祭神として勧請された=実質的には、力づくで押し付けられた)。月山は「月」という字のつながりで月読命が定められた。湯殿山の大山祗命は山の神の総元締め(※ というだけの理由)であり、また湯殿山が温泉の湧き口を御神体としていることから、温泉開発の神とされる大己貴命(大国主命)も祭神とした。少彦名命は出雲で大己貴命の国造りを手伝った神である(※ ことから、抱き合わせで勧請された)。要するに、きわめて短絡的な理由で祭神が定められ、長きにわたって培われてきた地域の信仰や伝統は全く無視され(※ 押し潰され、隠蔽されていっ)たのである。』(P236~237)

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著者の、人々の生活に根ざした信仰への愛情が、よく伝わってくると思う。
日本の信仰も、当然のことながら、最初は自然の中における生活の中から、それこそ自然に生まれてきた「実感=感情」なのだが、それがやがて、権力者による「統治の道具」として利用され、歪められていく。それでも、その中には、本来の自然な信仰心が生き延びているというのも、また事実なのだ。

私たちは「日本の宗教や信仰心」というものを考える時に、やはりその成り立ちについて、真摯に学ぶ必要があり、そうした敬虔な態度なくして、信仰を語る資格などないし、「罰当たり」なのだと、そう心得るべきなのではないだろうか。

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カジノも消えて、夢洲は〈悪夢洲〉となる。一一Amazonレビュー:西谷文和『安倍、菅、維新。8年間ウソを暴く』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 6月 7日(月)10時08分54秒
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 カジノも消えて、夢洲は〈悪夢洲〉となる。

 Amazonレビュー:西谷文和『安倍、菅、維新。8年間ウソを暴く 路上からの反撃、倍返しだ! 』
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世界の紛争地を取材するフリージャーナリスト西谷文和がパーソナリティーをつとめる『西谷文和の路上のラジオ』で放送されたインタビューをまとめたものに、西谷による現地レポートとして「万博/カジノ&官邸/維新/吉本」が追加収録されている。
本巻収録インタビューのゲストは、内田樹、佐高信、小出裕章、平松邦夫、矢野宏の6名。

本巻の刊行は「2020年10月」なので、半年ほど遅れて読むことになったが、これは先日、書店で初めて見かけて、その存在を知ったせいだ。
内容的には、昨年の「東京都知事選挙」の後、2回目の「大阪都構想住民投票」の前、といった時期のインタビューで、やや読む時期を逸した感はあるものの、少なくとも日本社会の問題について勉強している人にとっては「豪華なメンバー」が並んでおり、かつ大阪在住の私も知らなかった大阪関連情報もいくつか勉強できて、とても良かった。
YouTubeでも放送されているそうだから、興味のある方は是非そちらもチェックしていただきたい。

さて、私が本巻で初めて知ったのは、2025年開催予定の「大阪万博」終了後の大阪夢洲に建設予定となっている「カジノを含むIR(統合型リゾート施設)」の目玉である「カジノが頓挫している」という事実である。

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『平松  そのカジノも万博も夢洲でやるでしょう?

一一そこにはまだ地下鉄が通っていない。カジノと万博をするには鉄道が絶対に必要。そして吉村知事と松井市長はカジノ&万博がやりたくて仕方がない。

平松  夢洲のへの地下鉄について言えば、地下鉄延伸の費用200億円をカジノ業者に負担させる、という計画でした。

一一そうそう、カジノ業者は気前がいいから、出してくれると。

平松  気前がええというのはコロナ前の話。かつて、日本進出に前のめりだったラスベガス・サンズのアデルソン会長は、コロナ後に「日本進出をあきらめました」と言いました。これは東京、横浜を含めて。だってラスベガスはどこ6月初旬まで全部閉鎖してましたから。

一一最初、ラスベガス・サンズは「大阪ほどいい場所はない」と言って松井さんと握手してたのに、横浜が手を挙げたら、すぐに大阪を振って「横浜でやります」(笑)。松井さんもよくウソをつくけど、ラスベガス・サンズはウソつきの親玉(笑)。そんなところをあてにして200億円、絶対信用でけへんわ。

平松  カジノ業者をアテにして万博会場へのアクセスへの資金を作るとしていたけれど、コロナで世界の航空需要も移動する人も激減。いつになったら元に戻るか全然見通しが立たない中で、巨額の税金を投入して夢洲を埋め立てて、そこに鉄道通す計画と工事だけが進んでいく。万博は25年の5月から半年で2800万人が世界からやって来るという想定。ホンマに想定通りやるんかい! 大赤字になるぞ、と。

一一中東取材の拠点都市として、よくドバイに行くんです。ドバイは20年の万博予定都市でしたが、1年延期が決定。同じカタールのドーハにも行くのですが、こちらは22年サッカーワールドカップの開催都市。ドバイもドーハも好景気で、あちこちに高層ビルや高速道路が建設中です。石油と金融で国民一人当たりの所得も世界トップクラス。だから万博やワールドカップを誘致した。一方大阪は大不況の中で倒産、失業する人が急増して、高齢化も進むし、石油が出ないし、コロナだし。計画通り万博を開催するのは無謀だと思います。

平松  東京オリンピックもできるかどうかわからない。大阪万博にも赤信号が灯り出す。そしてカジノ業者はほぼ撤退。大阪でやろうとしているのはオリックスと組んだMGMグループだけ。

一一そのMGMグループもコロナで赤字。だからみんなオンラインカジノにシフトしてますよね。』
          (P141~142「第3章 維新と大阪都構想にノー!」より、「一一」は西谷)

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そう言えば、つい先日、この夢洲への地下鉄工事で、軟弱地盤が見つかったために工事費用が、当初の想定より相当増えるというようなニュースをやっていた。
まあ、これは、公共事業の「いつものことだから」と思って聞き流していたが、もしかするとカジノ業者をあてにしていた「200億円」も、税金から支払わせるための伏線なのではないだろうか?

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『 大阪メトロ中央線の延伸工事費が40億円程度増える見通し
   2021年5月22日 07時48分「NHK NEWS WEB/関西 NEWS WEB」

2025年の大阪・関西万博に向けて、大阪メトロ中央線を会場の夢洲まで延伸する工事の費用が、軟弱地盤への対策が新たに生じたことから、当初の想定より40億円程度増える見通しであることが大阪市の試算でわかりました。
大阪市は、2025年の大阪・関西万博に向けて、大阪メトロ中央線を会場の夢洲まで延伸する方針で、これまでに、夢洲までの海底トンネルなど全体のおよそ3分の2が完了しています。
現在、夢洲の地下に設置する新駅の工事が進められているほか、今後、夢洲内のトンネルの掘削工事も行われる予定で、市では、これらにかかる費用を、およそ250億円と試算していました。しかし、駅の工事で地中を掘り進める中で軟弱な地盤が見つかり、土砂の崩落を防ぐためのコンクリートの壁を、より地中深くまで作る必要が生じたため、建設費用が40億円程度増える見通しになったということです。増加分の一部は国が補助しますが、およそ30億円は市の負担になるということです。松井市長は「計画段階での試算が少し甘かった。全体の計画の中で、経費をさらに抑えていくよう指示をしている」と話しています。』

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あれっ? ここでは総額が「250億円」になってて、それに「想定外」の「40億円」が加わるって話のようだが、きっとこの先も「想定外」は起こって、総額「300億円」は下らないだろう。
このうち「200億円」をカジノ業者に持たせる予定だったのに、「300億円」が、まんま「(大阪市民、大阪府民、国民の)税金」ということになるのか。
大阪に関して言えば、よくぞ昨年の「都構想住民投票」で勝ったものだ。あれで負けてたら、そっちだけでも『大阪都構想とは・実現なら初期費用最大561億円: 日本経済新聞』(1回目時の試算)と、とんでもない予算が必要となっていたところなのだ。

やはり、いずれにしろ、オリンピックも万博もIRも、全部やめさせなくてはならない。
大阪のコロナ死者数は、本日現在の累計で「2,163」人に達している。

このまま行けば、コロナ終息までに、3,000人もの「帰らぬ人」を出した上で、やれ「万博」だ、やれ「IR」だとバカ騒ぎすることのなるのである。

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内容充実の〈ロングセラーの名著〉一一Amazonレビュー:坂本勝監修『図説 地図とあらすじでわかる! 古事記と日本書紀』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 6月 7日(月)10時06分57秒
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 内容充実の〈ロングセラーの名著〉

 Amazonレビュー:坂本勝監修『図説 地図とあらすじでわかる! 古事記と日本書紀』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2BZVOWFPZ8T2G)文庫
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RZ3REVWS7PYUK)新書
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書店の新刊文庫の棚で見かけて、本書を初めて知ったのだが、このレビューを書こうとした検索したところ、本書は、元版である「ソフトカバー単行本」(2005年)、「新書版」(2009年)、この「文庫版」(2021年)と、判型を変えながら、三度も刊行されているロングセラーであることを知った。

じっさい、それに値するほどの「名著」と呼んでさしつかえない本だと、私も思う。

タイトルに『図説 地図とあらすじでわかる!』という、いささか軽い「冠」書きが付いており、本を開くとタイトルどおりに「図説」が多いことから、一見したところ「軽い参考書的入門書」という印象は否めないだろう。
事実、本書は「専門家」にために書かれたものではなく、「初学者」のために書かれたものなのだから、「入門書」と呼んでも決して間違いではない。

しかし、まったくの初心者が、この本から『古事記』や『日本書紀』に入ろうとしたり、日本の古代史についていきなり知ろうとしたら、きっと、ついてはいけないはずだ。じじつ、新書版のレビューに、

『図説でわかりやすいのかと思いきや、やはり歴史物初心者には難解な一冊でした。あらかじめ予備知識があれば、入りやすいのかも知れませんが・・・。』(かすみそう)

と書いている人がいたが、まったく正直な感想だと思った。

私自身、現代語訳とは言え、事前に『古事記』や『日本書紀』を読んでおり、古代史関連の本を数冊読んでいたからこそ、本書が「すっごい、わかりやすい!」と感動さえしたのだが、事前にそうしたものを読まずに、いきなり本書を読んでいたら、その「情報量の多さ」に圧倒されて、何がなんだかわからなくなっていたことだろう。

したがって、私としては、本書を読む前に、最低限『古事記』と『日本書紀』の現代語訳は読んでおくべきだと思う。
それらを、現代語訳でありながら「なんだよ、これ!?」などと、うんうん唸りながら読んだ後に、本書を読んだら「ああ、こういうことだったのか! なんてわかりやすく説明してくれる本なんだ」と、感謝感激すること間違いなしなのである。

「ソフトカバー単行本」や「新書版」のレビューを見れば分かるとおり、本書に対する評価は、ほぼ「絶賛」状態だと言って良いだろう。
もちろん、中には低評価を与えている人もいるが、それらは「思想的偏向による党派的な意見」であると見て、まず間違いない。例えば、

『初めての人には読みやすいと思います。しかし、内容に作者の意識があり、左翼的思惑を感じます。日本国の悠久たる歴史や、純然たる史実のみを伝えるべきと思います。途中で不愉快になり読むことを止めました。』(長門武尊)

という「長門武尊」氏のご意見などが典型的だが、実のところこの人は『古事記』と『日本書紀』を読んでいないんじゃないかと私は疑っているし、このハンドルネームは「長門有希+大和武尊」ではないかと推理したが、いかがであろうか?(したがって、長門武尊氏は、谷川流の『涼宮ハルヒ』シリーズは読んでいると思う。もちろん、私も読んでいる)

また、次のような(新書版)レビューは、本書の内容の濃さと、右派的な「お話」本ではないことを、よく示していると思う。

『「地図とあらすじでわかる」と有りますが、余り地図に関係の無い説明が多く、キャッチフレーズと異なる内容でした。古事記と日本書紀の何を際立って説明したいのか不明な感じの書籍でしたね。』(サンタプルルン)

「入門書」に、著者が『際立って説明』したいことを求めるというのは、そもそもお門違いで、そんな人は、百田尚樹の『日本国記』でも読んでいれば良いだろう。たった1冊で、著者が『際立って説明』したい、個性的な「日本の歴史」を教えてもらえるのだから、たとえ「パクリ」が多い本だとしても、お手軽で良いのではないだろうか。

ともあれ、「神代篇」で、後から後から登場してくる(生まれ出てくる)神様たちを、出生形式やその性質によって分類し、わかりやすく図説してくれただけでも、私のとってはありがたい一冊だった。
だが、無論それだけではない。
本書は、現時点での通説に沿って説明しながらも、ポイントポイントで「歴史学的異説」まで紹介してくれており、実に内容豊富なのだ(だから、予備知識がないと難しい)。

自身を「専門家」だと思っている人は、本書を手に取る必要はないし、また本書をわざわざ手にとって、わざわざケチをつけるような人が「専門家」でないことは明らかだろう。
本書は、日本の古代史を「学術的に学びたい初学者」のための「入門書」である。

是非とも『古事記』と『日本書紀』の現代語訳は読んでから、本書を読んで、優れた入門書の与えてくれる「感動」を味わってほしい。もっと日本の古代史を知りたいと思うようになること、請け合いだ。

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『ブラック霞ヶ関』→『ブルシット・ジョブ』→『新人世の「資本論」』 一一Amazonレビュー:千正康博『ブラック霞ヶ関』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 6月 7日(月)10時05分18秒
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 『ブラック霞ヶ関』→『ブルシット・ジョブ』→『新人世の「資本論」』

 Amazonレビュー:千正康博『ブラック霞ヶ関』
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著者は、元厚生労働相の官僚。本書のタイトルや帯文を見ると、中央省庁の「ブラックな労働環境」を告発した本かと思ってしまうが、そうではない。

本書は「なぜ、霞ヶ関(中央省庁)の官僚の仕事に、各種の問題が生じてきたのか」「その問題を解決するには、何が必要か」という観点から、中央官庁の労働環境の「積極的な改善案」を、現状の問題を紹介しながら、提案した本である。

つまり、「告発本」ではなく「前向きな提案本」であり、だから「物足りない」と感じられる部分もあるし、この、いかにも「優等生」的なスタンスに、まるっきりの嘘ではないにしろ、鵜呑みにできない部分を感じてもしまうのである。なにしろ、著者は官僚を辞めても生きていけるほど、きわめて優秀な人なのだから、これで済むと「本気で信じているわけではないだろう」と。

著者によると、近年、中央官庁の官僚たちは、その仕事量の極端な増加に忙殺されて、本来の仕事すらままならなくなっており、「国民のことを考える」時間としての余裕も失われている、と言う。
つまり、著者は「官僚が楽をするため」の提案しているのではなく、あくまでも「官僚が、本来の仕事である国民のための仕事ができるようにするため」に、本書における各種の提案をした、ということなのだ。

たしかに「無駄に仕事量が増えている」と、私も思う。しかし、著者が提案するような「現場的な具体的改善案」だけでは、いかにも不十分に思える。著者の提案の本質は、要は「無駄を省く」ということなのだが、それで十分だとは思えないのだ。

というのも、「資本主義」社会が進展すると「社会的な各種サービス」が増えていく。これは無論、良いことだし、私たちは日々、こうしたサービスの恩恵を受けており、しかもそれをほとんど「意識していない」。当たり前になって(享受して)いるのだ。
しかし、「サービス」が増える分だけ、労働力も増えなければならないのだが、中央省庁の官僚を含む「公務員」の人数は増えていない。むしろ、減っている。
もちろん、技術革新によって、必要な人的労働量が減っているとは言え、それでフォローしきれていないからこそ、人手不足の問題が生じてくる。

例えば、男女差別のない雇用・労働環境整備の問題だが、なぜ女性が差別されるのかと言えば、それは「出産休暇」を取るからであり、男は「出産休暇」など取らずに、ずーっと働くのが「当たり前」だったからだ。
だから、この問題を解決するには、男女ともに同じだけの「出産休暇」が十分に与えられなければならない。「なら、与えれば良いじゃないか」という話だが、問題は、そうして発生した「莫大な労働量の減少」を、どうやって「穴埋め」するか、である。

現実によくあるのは「残った者が、仕事量を増やして穴埋めをする(ただし、その分の給与は出ない)」というものだが、これをやると「出産休暇取得者」が憎まれるのは必然だろう。彼らに罪はないとは言っても、実際に「休んでいるやつの分まで余計に働かされて、何の見返りもない」となれば、つい「お前らはいいよな」となってしまうのは、人情として致し方のないことではないだろうか。

では、どうすれば良いのかといえば、もちろん労働者を増やすしかない。つまり、「出産休暇」などで足らなくなる分を見越して、あらかじめ労働者を雇っておくのである。しかし、無論、営利企業がこんなことをしたがらないというのは、理の当然であろう(公務員の場合だって、国民が許さない。その結果、コロナ禍で保健所職員が足らなくなった)。
では、臨時雇いにすれば良いのかといえば、そんな簡単な話ではない。臨時で雇われた「仕事を知らない人」に、抜けた人の穴埋めはできないからである。

ならば、どうすれば良いのか。
要は、企業が「儲けを減らす」しかない。儲けを減らして、一人当たりの労働量を減らすのだ。つまり、企業の営利を無限に拡大することを目指すのではなく、「適正労働」という前提に立った、「適正利益」を求める「適正規模」の営業形態を受け入れるのだ。
だが、これでは「資本主義」は成り立たないだろう。

「資本の拡大」を諦めて「適正規模経済」を目指すというのは、単に「企業」が頑張るという問題ではなく、国民全体が「より恵まれた社会」を諦めるということと、ほとんど同義語である。それこそ、現在、小ブームになっているマルクスの「共産主義」社会を目指すしかないのではないか。
もとよりそれは、現在まさに「贅沢な生活など望めない」人たちによって支持されているのだが、社会全体が「最小必要限度の贅沢に止める、平等な社会」を、はたして受け入れることができるだろうか。

もちろん、私は、やや極端な話をしているのだけれども、「男女雇用の均等化」という問題ひとつ取って見たところで、それを本質的に解決するには、社会の全的な変革が必要であり、小手先の誤魔化しではどうにもならないからこそ、この問題は一朝一夕には解決できないでいるのである。
だから、その他の問題だって、事は同じで、その根本的な解決を図ろうとすれば、官僚が頑張ればとか、役所が頑張ればとかいった話ではすまない。どうしたって、国民全体の意識改革であり、相応の「覚悟」が必要となってくる。それをしないことには、「必要な労働量」は増える一方であるのに、人口の減少によって「労働力」は減る一方のこの社会は、とうてい立ち行かないのではないだろうか。

だから、本書『ブラック霞ヶ関』が提示する問題は、著者の提示するような「現場的改善案」では、まったく不十分なのである。
無論、そうした改善は必要なものであるし、やらないよりはやったほうが良いに決まっているのだけれども、問題の本質は「霞ヶ関界隈」だけで片付くようなものではないのだということを、私たち「国民」一人ひとりが、我が事として認識する必要があるのだ。

私自身「無駄遣い」が大好きな「趣味人」であり、今日明日の生活に困っている人に対しては、後ろめたいという気持ちもないではない。だからこそ、気休めにでも「弱者」の側に立っているのだけれど、問題の解決はむしろ、そんな後ろめたさなど感じていない、大半の国民の「意識」にあるのではないだろうか。これは決して、私一人の責任回避の言辞とばかりは言えないと思うのだが、いかがだろう?

私たちが、これまでどおりの「経済成長」を求め続けるかぎり、評判になった経済学者デヴィッド・グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』で描かれた「ブルシット・ジョブ」は増え続けていくだろう。私たちのこの社会の方向性を改めることなく、対処療法的に「ブルシット・ジョブ」を減らそうとしても、限界があるのは明らかで、その意味において本書『ブラック霞ヶ関』における著者の提案は、明らかに限界があるとしか思えない。

では、これもベストセラーになった経済学者・斎藤幸平の『新人世の「資本論」』が示唆するように、私たちは今すぐ「資本主義」を捨てて「共産主義」へと移行し、「身の丈に合った」生活を受け入れるべきなのであろうか。

たぶん「そうなのだろう」と、私個人は思うのだが、そんなことが今の日本人に可能かと言えば「無理だろう」と思う。日本人の大半が「貧困層」に落ちるくらいまで行かないと、たぶん誰も「共産主義」などという不自由そうなものを選び取ったりはしないだろう。

となれば、日本はどうなるのだろうか。
私たちは、もはや「奇跡」を待望するしかないのだろうか。

しかし、その前に、日本だけではなく、地球規模で人類はダメになるだろうと思えてしかたない。つまり、それが人類自身の手になる「最終的解決」となってしまうのではないだろうか。

はたして、この未来予想は悲観的に過ぎようか?

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バブルに浮かれた〈エリートオタク〉の末路 一一Amazonレビュー:唐沢俊一『カルトな本棚』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 6月 7日(月)10時02分8秒
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 彼らの道を引き継ぐために〈エリートオタク〉の末路

 Amazonレビュー:唐沢俊一『カルトな本棚』
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いささか古い本である。「1997年刊行」のこの本を今ごろになって読んだのは、『本棚は 人の顔』という識語と署名の入った本書を先日ヤフオクで入手したからだ。この識語に共感したのである。一一ただし、この識語は、私個人については、ハズレているのだが。

本書に登場するのは、山本弘、睦月影郎、串間努、立川段之助、佐川一政、奥平広康、唐沢なをき、竹熊健太郎、そして唐沢俊一の8名。ゲストの7名は、いずれも唐沢俊一に近いマニアックな本好き仲間で、本書は、ホスト唐沢との対談を収録し、最後の章は「多重人格座談会」ということで、3人唐沢俊一の鼎談となっている。

ところで、私は本来、この種の本があまり好きではなく、ほぼ読まない。つまり、「本棚拝見もの」や「古本エッセイ」「古本屋探訪記」「書店エッセイ」の類である。
なぜ嫌いかというと、あまりにも「自慰的」だと感じられるからだ。自分とよく似た人たちの様子を見て、「あるある」といって喜ぶというのは、鏡に自分を映してオナニーしているような、そんな居心地の悪さを感じるのだ。たまに、少し硬そうな(批評性のありそうな)のは買ってしまったりもするが、それらも結局は積ん読の山に埋もれさせてしまう。荒俣宏や鹿島茂なんかの本などがそうである。

だから、本来なら読まなかった本なのだが、「識語署名入り」だったし安かったので、つい買ってしまい、さらに読んでしまった。
どうして買うだけではなく、今回は読んだのかと言えば、本書の登場人物はクセがあってそこが興味ぶかいし、その著書をすでに読んでいる作家も少なくなかったからだ。つまり、串間努、立川段之助、唐沢俊一の3人以外は読んだことがあり、山本弘、睦月影郎、唐沢なをき、竹熊健太郎の4人は、わりと好きな書き手だったのである。

個々の対談における個々の話題について、書きたいこともないわけではないが、長くなりそうなのでやめておく。要は「あるある」的感想になりそうだからだ。
そこを避けてでも書いておくべきことがあるとしたら、それは、本書から少しはみ出した部分になってしまう。

それなりに楽しんで本書を読了した後、ふと「皆さん健在なのだろうか?」と思った。
と言うのも、本書に登場する皆さんは、私のだいたい前後10歳に収まる同世代であり、かなり好きだったSF作家の山本弘などは、私の六つ上なのだが、先年、脳梗塞を患い「もうハードSFは書けない」だろうという悲痛なコメントを公表されていたりしたからだ。つまり、みんな本書刊行時(バルブ経済の余韻が残っていた時期)の意気盛んな頃とは違って、相応に歳をとってもいれば、この出版不況下では苦労している人もいるだろうと推測できたからである。

それで、なんとなく、Wikipediaで著者・唐沢俊一の「その後」をチェックしてみると、色々とトラブルがあった(あちこちと揉めたり、無断盗用問題や誤記述問題を起こして、あちこちから批判された)りして、2015年以降は文筆業から撤退している模様なのだ。
そこで、改めて気になったのは、本書における唐沢俊一の「上から目線」なのである。

要は、唐沢には自分たちを、一種の「エリート」だと考えている節があった。それは(睦月影郎のような)変わったものが好きな変人の、反語的な自己韜晦ではなく、本気で「私たちは、凡庸な書痴とは違うんですよ」という「知的エリート意識」を、本書でも半ばあからさまに垂れ流していたのである。

それは特に奥平広康との対談に顕著で、この対談で唐沢は『(※ 学生の頃に先生から)言われなかった? 「やればできるのに、なんでおまえは好きなものしかやらないんだ」』と問い、『そう、そう』と応じる奥平に、『大体、そこがオタクの特徴だよね。僕も昔、同じこと言われた。(笑)』(P96)と語っている。
たしかに、これは私についても「あるある」なのだが、自分から持ち出す話題ではないと思う。

また、右翼とか左翼(新左翼)とか宗教といった、普通の人なら敬遠するものを面白がり、あえてそれに近づく奥平について、唐沢は次のように絶賛している。

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『唐沢 (略)ちょっと聞きたいんですけど、僕なんかも、そういう所に行って集めたいなって思ったこともあるんだけど、例えば右翼の人達って、一応真面目にやってるじゃないですか。そこへのこのこと行って、「パンフレットください」とか、「ポスターを分けてくれませんか」とか興味本位で言ったら、怒られない?

奥平  う~ん、そうですね。たまたま、最初に行ったのが、鈴木(邦夫)さんの所ですから。一水会。それが良かったんでしょうね。

 (中略)

奥平 (略)で、それこそ選挙運動員やったりしてたんだよね。

唐沢  普通、そういうのって完全にハマった奴の行動なんだけど、奥平さんは完全にサメてるよね。ただ、おもしろいから参加しているって言うノリで……。

奥平  そう。面白い、面白い。

唐沢  普通の人は嫌うけど、ああいう人たちって、ちょっとメタな立場で見ると、なんでこんなにユニークな連中がいるんだろうって、面白くて仕方ない存在だよね。もちろん左翼もね。そこで、奥平さんの凄い所っていうのは、とにかくどこに行こうと、その思想にかぶれないっていう所だよね(笑)。』(P97)


要は「マジメ人間」「本気の人」を馬鹿にして、見下している「冷笑主義者」なのである。

こんな人だからこそ、他人を批判したりするときでも「根拠を示して理路整然と誠実に批判する」ことなどはしなかったのではないか。それではいかにも「唐沢俊一らしくない」からだ。
しかし、からかうような、あるいはナメた調子で「けなされた」方が本気で腹をたてるのは当然で、その「マジメな怒り」を、いかに唐沢が「知的にダサい」と見下そうと、それで済まないのは当然であろう。

また「無断盗用問題や誤記述問題」というのも、結局は「他者の人格の尊重」であり「平等意識」の問題だと言えるだろう。
つまり、他者に対して「誠実」であり、他者の作物を「尊重」する気があったなら、出典を明記しないで無断引用するようなことはしないだろう。こうしたことをやってしまうのは「面白く使っているんだから、かまわないだろう。こんなのお互い様だ」くらいの感覚しかないからであり、安易な誤記や、その誤記の放置といったことも、読者に対して誠実ではないからに他ならない。

本書では、当時はかなり親しかった人たちとの対談が収められているにもかかわらず、上の奥平との対談がそうであったように、唐沢の語り口には、どうにも「ヨイショ(世辞追従)」が鼻についてしまう。
唐沢は、佐川一政との「対談後記」で、

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『 これから「佐川一政」について、およびあの事件の真相を追求したいと考えてる人たちは、この、佐川さんの生き方、持っている人間性の使いわけという部分をちゃんと理解しておかないと、「佐川一政」の本当の狂気の部分には到達できないと確信しました。』(P92)

と、いかにも「理解者でござい」と言わんばかりの書き方をしているが、Wikipediaによれば、のちには佐川からも「絶交」されている。

これは、本対談集全体に漂う、唐沢俊一の「親しいはずなのに、やけに世辞追従が多い」という異様な特徴の裏に隠された、「仲間」に対してさえ隠し持っていたのであろう「上から目線」のせいなのではないだろうか。

つまり、本当は(肚の中では)「こいつも、まだまだだな」とか「まあ、面白いやつだ」などといった調子の評価を下していながら、しかし、それを正直に出してしまうと「友達が一人もいなくなってしまう」ということを半ば自覚しているので、「似たような変わり者」には、下から「友人づら」「理解者づら」で接近していた、ということなのではなかったろうか。

しかし、そうしてうまく仲間を作っても、そもそもが「人を小馬鹿にした人間」なので、有名になり、仕事も順調に進むと「メッキが剥げて、地金が出て」きて、その結果、あちこちと喧嘩になって浮いてしまい、物書き業を続けられなくなった、ということなのではないだろうか。

本書全体に漂う「斜に構えた」「自信満々」な「変則的なエリート意識」は、思うにバブル経済の余韻で、まだまだ世間にも出版界にも「余裕」があった時代の、ある種の「高慢さ」なのではないか。
「私らは、世間並みではありません」「いずれ、世間は私たちの非凡さを認めずにはいられなかったのですよ」「まあ、マニアックな本ですから、好き者が買ってくれればいいです。一見さんはお断り」みたいな「鼻持ちならない空気」が、本書には否定し難く漂っているのである。

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 【補記】(2021.05.22)

なお、『本棚は 人の顔』という格言が、私の場合にハズレなのは、うちの場合、本棚には本が収まりきらず、大切な本ほど箱詰めにして積んであり、見えるところにある本は、もっぱら「未読本」だからである。つまり、本棚自体もすでに見えないし、見えない本棚に並んでいたのも未読本なら、現在、見える位置にある平積み本も、未読本か処分待ちの既読本なので、私の本当の顔は、「本棚」ではなく、「文章」からしか見えない、ということになってしまうのである。

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天狗にさらわれ〈犬の聖地〉へ 一一Amazonレビュー:中沢新一『アースダイバー 神社編』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月28日(金)21時44分41秒
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 天狗にさらわれ〈犬の聖地〉へ

 Amazonレビュー:中沢新一『アースダイバー 神社編』
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中沢新一が、どうして「学問の世界」で評価されないのかが、とてもよくわかる一冊である(「マスメディアの世界」は、また別の話)。

たしかに「お話(個人的な仮説)」としては、夢があって面白いのだけれど、所詮はそれだけに過ぎず、これでは良くて「空想的歴史批評」、身も蓋もなく言ってしまえば「歴史仮説論文SF」に過ぎない。

本書での、古代精神史的な「仮説」は、今後、まったく新しい「歴史的物証」(例えば、遺物の遺伝子情報)などが出てきて否定されても、「情報が少なかったから仕方ないよね。仮説としては面白かったんだけど」で済まされるようなものでしかないし、たまたま「中沢新一仮説」の「傍証」となるようなものが出てくれば、「真相は、もうこれしかないだろう」とお祭り騒ぎされるだけのものでしかないのではないか。
地道な研究に基づきながらも「仮説は仮説だ」と断りながら学術的「仮説」を語る者からすれば、中沢の、いかにも門外漢らしい、無責任に自由奔放でにぎやかな仮説に、眉をひそめたくなる気持ちはよくわかる。

そんな「中沢新一の中沢新一たるところ」とは、例えば、本書で何度も強調される古代人の「アナロジー」思考ということであり、これは取りも直さず、中沢新一本人の際立った「個性」だと言えるだろう。
つまり、古代人を褒めているようでありながら、実際のところは、自分の「個性」を褒め、その重要性を強調しているのである。

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(1)『古代人は一般に、アナロジーを感知する能力が高く、そのためパターン認識が得意である。縄文人も倭人(※ 弥生人)も、おたがいの文化がきわめてよく似た深層パターンをもっていることに、すぐに気づいたはずである。』(P51、※は引用者註)

(2)『宗教の領域は、技術や生活の進歩の影響を受けにくいどころか、それを排除する傾向すらあるからだ。そのためアナロジー能力の退化している現代人からすれば、縄文人と倭人の宗教は、まるで違うものに見えてしまう。ところが、アナロジー思考の名人であった縄文人には、海の彼方からやってきた倭人たちの宗教の構造が、自分たちのものと基本は同じものであるということが、すぐに理解された。』(P64)

(3)『 縄文人は、別ジャンルの似ているもの同士を、「同じもの」として認識する、比喩の能力にすぐれていた。』(P168)

(4)『アースダイバーである私からすれば、二人の歴史家(※ 平泉澄と網野善彦)とも、日本人の中に潜む「ゾミア的特質」にひかれていたということになり、この点では皇国史観とマルクス主義も、言われるほどには違わないのことになる。』(P254)

(5)『 倭人系海人は、このようにいくつもの領域を横断する能力を持った者たちを、大いに尊重したのである。存在の諸領域を横断できる「アースダイバー」の能力を持つ者たちに、神話の中で重要な働きをさせた。』(P344)

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これで十分ではないだろうか。普通に文章を読める人なら、本書で展開されている「仮説」の基本構造が、いかに「自己賛美(自画自賛)的」なものであるかは明らかだろうし、さすがは「ナルシストの学説」だと感心するのではないか。

しかし、わからない人のために解説しておこう。

(1)について。
現代人と比較して『古代人は一般に、アナロジーを感知する能力が高く、そのためパターン認識が得意である。』というのは、当たり前である。なぜなら「古代人」は、「近代的叡智」である「科学的思考」や「実証主義的思考」を手にしておらず、その思考の多くの部分が、選択の余地なく、つまり否応なく「アナロジー」思考で占められていたからである。

(2)について。
ここでは、『アナロジー能力の退化している現代人』と『アナロジー思考の名人であった縄文人』という表現で、明らかに後者を高く評価しているのがわかるが、これは「科学的思考や実証主義的思考を手に入れた現代人」と「科学的思考や実証主義的思考を持たない縄文人」と言い換えることも出来、要は「一長一短」に過ぎないことを、「ウケの良い方」の肩を持って語っているだけのポピュリズムあり、同時に、自分の個性に近い方を褒めて、自己賛美しているだけである。

(3)について。
『 縄文人は、別ジャンルの似ているもの同士を、「同じもの」として認識する、比喩の能力にすぐれていた。』一一この「縄文人」と「私(中沢新一=アースダイバー)」は、容易に置換可能である。
つまり、中沢新一の、長所は「アナロジー思考」であり、弱点は「アナロジー思考の偏重と過信」である。

(4)について。
人間の考えることだから「似ているところ」があるのは当然だが、ここでの中沢の『この点では皇国史観とマルクス主義も、言われるほどには違わないのことになる。』という言い方は、典型的な「目立ちたがり屋の、奇を衒った逆張り」であろう。

(5)について。
つまり、「本質的(古層的)日本人性」を保持し得ている日本人ならば、中沢新一のような〈いくつもの領域を横断する能力を持った者を、大いに尊重したはずだ。存在の諸領域を横断できる「アースダイバー」の能力を持つ者に、神話の中で重要な働きをさせたはずだ。〉ということだ。
言い換えれば、中沢新一を「現実」において活躍させない者とは「近代合理主義に毒された人間」であり、そうではない「縄文人的アナロジー思考を保持している日本人」であるならば、中沢の「超越性」や「神話」的本質を認めないはずがない、ということになるのである。無論「中沢理論では」ということだが。

本書が、すべてダメだとは言わない。「エピローグ」で語られる、「ヤマト国」の手でなされた「神話の書き換え」による「神道の新層」の欺瞞性についての指摘は、意味のあるところだろう。だが、これも特別に新しい話ではなく、これまでも学問的に語られてきたことにすぎない。それでも、中沢新一が語ると、映えて聞こえるのだから、一般人向けに、中沢流に語り直す意味もあったとは思う。

だが、本書の問題点は、なによりも「軽信」の問題である。
簡単に言えば、事実関係を探求すべき学問において、安易に「面白ければ、それで良いじゃないか」という(書き手と読み手の)態度である。

例えば、本書冒頭の「犬の聖地」のエピソードだが、この「水木しげるの漫画」にでも出てきそうな「出来すぎたお話」を、何の疑いもなく「中沢新一の現実体験」だと信じられる人は、今後の人生において、自身が詐欺被害に遭う蓋然性の高さを、この機会に銘記すべきであろう。

この「犬の聖地」については、出来るものなら「写真」でも添えて欲しかったところだが、たぶん、もう誰もその「聖地」に足を踏み入れることはできないだろう。なぜなら、この聖地は、「縄文人的」な、あるいは「アースダイバー」的な資質を持つ者だけを、たまさか選んで呼び込む「他界」の様相を呈しているからである。

でなければ、今どき流行りの特殊詐欺の方が、よっぽど信憑性の高い、リアリティーのある「お話」を聞かせてくれるからだ。

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〈夏の時代〉のファンタジー 一一Amazonレビュー:城山三郎『官僚たちの夏』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月28日(金)21時43分45秒
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 〈夏の時代〉のファンタジー

 Amazonレビュー:城山三郎『官僚たちの夏』
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読書家を自認するだけあって、読む本の幅の広さには自信がある。もちろん、小説を読むだけではない。マンガも読めば学術書も読むし、そこに差別はない。だが、私が自覚的に読まないジャンルというのはある。それは経済小説や企業小説、時代小説、歴史小説などだ。
なぜ読まないのかと言えば、それらのジャンルは、基本的に「ヒーローもの」だという印象があるからで、そういうものはわざわざ活字で読みたくない。

無論、例外はあるけれども、読むのであれば、活字でないと書けないようなものを読みたい。テレビドラマなどの映像作品で十分なものであれば、むしろそっちを観れば良いと思うし、事実そうしている。
私は「ヒーローもの」や「勧善懲悪」が嫌いなわけではないのだ。「仮面ライダー」や「ウルトラマン」や「スーパーマン」「バットマン」「マーベル・ヒーロー」なども大好きなのだが、それを活字で読もうとは思わない。
活字作品は、あくまでも、人間の深い心理や思想や理論についての言及など、活字でないと表現しにくいものが含まれたものを期待する。だから、純文学や現代文学、あるいはロジカルな本格ミステリやSF(スペキュレイティヴ・フィクション)は読むのである。

そんなわけで、本来であれば、本作『官僚たちの夏』(1975年初刊)は、私の読まないジャンルの本であり、じじつ今日まで読まなかったのだが、昨今の「政権の言いなりになる官僚たち」の問題を考える上での参考書として、「かつての官僚」の「理想的なイメージ」を描いた象徴的作品として、本書を読んだ。
そして、読んだ印象としては、おおむね予想どおりで、私の趣味ではない「豪傑たちの活劇」小説であり、やはり「ヒーローもの」であったと言えるだろう。

読んで「スッキリしたい」エンタメ小説読者や、「こんな官僚たちが、今もいてくれたら」なんて思う人には、とても面白い小説だとは思うが、「人間の内面」を問題とする私としては、こうした「一面的なキャラクターの描き方=役割分担的なキャラクターの描き方」では、いかにも物足りないし、やはり「これはフィクションだな」としか思えない。

無論、本作の主人公・風越信吾には、佐橋滋という実在したモデル人物がいることは知っているが、あくまでも風越の描き方は「一面的」であり、言うなれば『三国志』に登場する「豪傑」のようなもので、風越の周囲の人物たちも、基本的には同じような「典型的キャラクター」の域を出ない。
だから「わかりやすい(感情移入しやすい)」し、エンタメ的に「面白い(楽しめる)」というのは、まったくそのとおりなのだが、「現実」の佐橋滋たちは「こんな、一面的な人間ではなかったはず」だし、だからこそ「彼らが現代の日本に生きていたら、何をやったことやら」とも思ってしまうのである。少なくとも、多くの人がすでに指摘しているであろうように、彼らは「現代」の中央官庁では「出世できないか、体制順応して堕落するか」しかないのではないだろうか。

もちろん、本作には今もなお「大人のファンタジー」としての価値があるだろう。主人公たちのようにはなれない、闘えない男たちや、むしろ主人公たちを嫌い弾圧する側の男たちが、「いっとき、その現実を忘れて」、物語の中の「ヒーロー」たちに同化し「癒される」のである。

だが、そういう読者が中心的な存在であるかぎりにおいて、本作の主人公たちのような人物が、現実に登場してくることはないだろうし、存在しても、活躍する機会は与えられないだろう。
だから、現実の「日本の社会」に不満があるのであれば「ヒーローを待望して、マスターベーションに耽る(逃避する)」のではなく、まずは「現実」そのものを知るべきなのではないか。そして、少しでも風越信吾のように「当たって砕ける」覚悟のある人間に近づきたいと、反省的に自己検討してみるべきではないか。

いずれにしろ「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言うとおり、「己(私の現実、私たち日本人の現実)」を知らないことには、負け続けることは必定なのではないだろうか。

私は、風越信吾が「職業人」だとは思わない。むしろ彼は「趣味人(ディレッタント)」だったのだ。だからこそ「やりたいことをやった」のだ。だからこそ「地位も名誉」もいらず、むしろそれは「やりたいことをやる」ための「使い捨ててもかまわない道具」にすぎなかったのである。

したがって、本作を「お仕事小説」だと考えれば、間違えるだろう。
本作は、「仕事」よりも大切なものを持っていた男たちの物語であり、今でも彼らのような人物が生まれ出るとしたら、それは「職業人」ではなく、徹底した「趣味人」として生まれてくるのではないかと思うし、それでこそ「(食うための)職業」という罠にはまらないための条件なのではないだろうか。
もはや「給料」を保障されながら「やりたいことをやる」という「二兎を追う」行為は不可能に近いし、その無理のある建前(安月給で、天下国家のために働いている)を演じる「官僚」は、結局のところ、最後は「天下り」をしたり「権力に迎合」したりして「元を取ろうとする」ことになるのではないか。

やはり、一番強いのは「好きだから、損得抜きでやる」「嫌なものは嫌だ」と言える、その地歩を固めることなのではないだろうか。それを「職業=仕事」の中に求めるからこそ、私たちは、間違ってしまうのではないだろうか。

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〈我が事〉ゆえの鋭さにおいて 一一Amazonレビュー:江藤淳『成熟と喪失 〝母〟の崩壊』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月28日(金)21時42分36秒
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 〈我が事〉ゆえの鋭さにおいて

 Amazonレビュー:江藤淳『成熟と喪失 〝母〟の崩壊』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2JF6JH76S6XW5)講談社文芸文庫
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R36JKTQIFL1M0M)単行本

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「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という成句があり、それは『《カニは自分の大きさに合わせて穴を掘るところから》人はその身分や力量にふさわしい言動をしたり、望みを持ったりするということのたとえ。』(goo辞書)という意味だそうで、ここで問題とされる「相似性」は、主に「大きさ」であって「形」ではないようなのだが、私はずっと「形」のことを言っているのだと思っていた。
つまり、「それぞれの研究テーマを見ると、本人が抱えている問題だと考えてまず間違いないわ。自分が困っているから、その分野の研究をするのよ。」(米心理学者ウォルター・ミッシェルの言葉、スザンナ・キャラハン『なりすまし』P368)ということである。本人が抱えている「問題」を他人に投影し、それを補助線とすることで、他人が隠し持っている問題に鋭く気づくことができる、というわけだ。

本書『成熟と喪失 〝母〟の崩壊』において、安岡章太郎『海辺の光景』、小島信夫『抱擁家族』、遠藤周作『沈黙』、吉行淳之介『星と月は天の穴』、庄野潤三『夕べの雲』といった小説作品における「母の喪失」の問題を、江藤が非凡に鋭く剔抉し得たのは、じつは彼自身が、深く「母の喪失」に苦しんでいたからであろうし、彼が「愛国的保守主義者」となって、一見「マッチョな保守理論家」の印象を与えながらも、じつのところ、自身の妻に「母の安らぎ」を求めたあげく、妻に先立たれた後は、すっかり気落ちし、その翌年には『自らを「形骸」とし、自宅で自殺した』(Wikipedia「江藤淳」)というのも、他人の内面の問題ゆえに安易に断定できないとは言え、何より本書を読んだ読者には、いかにも説得的な「江藤淳理解」となってしまうのではないだろうか。

私は1962年生まれだから、江藤の三十歳下で、言うなれば江藤の子の世代なのだが、それでも私が若い頃には「母子密着型」という問題が、よく語られた。「専業主婦」が当たり前の時代にあって、「母と子」、特に「母と息子」の密着ぶりが、例えば「教育ママ」などの問題などと関連して語られた。

しかし、私自身は、このタイプでは全くなかった。
私の両親は夫婦で寿司屋を営んでおり、正午すぎまで家で寝ていて、午後3時ごろに隣町の繁華街にある店に出勤し、日付の変わる頃に閉店して、午前2時過ぎに帰宅して就寝する、という生活をしていた。私と一つ下の弟の面倒を見ていたのは、同居していた母方の祖母であったが、この人が、きつい性格の人で、私たち兄弟は、父と母が店に出た後、祖母と三人でいる大半の時間は、いつも祖母の顔色を窺って生活していた。
つまり、両親と、私たち兄弟とでは、生活のサイクルがズレており、朝は両親ともまだ寝ているし、学校から帰宅した時にはすでに両親はおらず、私たちが寝てしまった後に帰宅したのだ。だから、両親に甘えられるのは、店が休みの水曜日だけだったのだが、そのぶん、休みの日には、両親は私たち兄弟を甘やかしてくれた。どういうわけだか、私は父親っこで、弟は母親っ子だった。
そしてそんな私には、父に愛されて育ったという確固たる自信があり、母に対するこだわりは、愛着も含めて、特にない。だから、「母子密着型」というのは理解不能だった。むしろ「みっともない」とか「恥ずかしい」ものだと、ずっと思っていた。私は、授業参観日に誰も来なくても、全然平気だったし、それが自慢でもあった。平気な自分が自慢だったのである。たぶん、親から自立しているという自負があったのだろう。
そして、今もなお私は「マッチョ」タイプであるとの自覚がある。「重厚長大」「硬質」「鋭利」「論理的」なものが好きで、「べったり」とか「ネチョネチョ」とか「甘ったるい」ものが好きではない。

そんなわけで、私は「母子密着型」の作品に興味を持つことがなかった。私が「第三の新人」作家に、興味を持たなかったのは、ほとんど直観的なものだったのかもしれない。読むのなら、教科書に載っているような、明治大正そして戦前からの昭和作家か、あるいは80年代以降の同時代作家にしか興味が持てなかった。「第三の新人」作家たちに興味が持てなかった理由は判然としないが、本書を読むと、少なくともこうした作家たちの抱えた問題を、私が共有できなかったからかも知れない。
ともあれ、私が最初に好きになった作家が夏目漱石であり、後年「師と仰ぐ」ほど惚れ込んだ作家が大西巨人だというのは、分かり易すぎるくらいに分かり易い傾向性だと言えるだろう。

私が、江藤淳を読み始めたのは、ごく最近のことで、それは優れた文芸評論家としてではなく、「反戦後民主主義的保守主義者」として、批判的な観点から「無視できない」と考えたからに他ならない。
私は「ネトウヨ」や「エセ保守」が大嫌いだから、彼らの担ぐ江藤淳とはどんな人物かと『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(1989年)を読んでみたのだが、正直「なんだ大したことないじゃないか。これじゃあ、ネトウヨに毛が生えた程度だ」という印象しかなく、文芸評論家としての力量まで眉唾なのではないかと疑ったのである。しかし、ただそれを確認しないままに江藤をつまらない評論家呼ばわりするのでは、無知なまま歴史を語る「ネトウヨ」と大差がないので、私は評判の高い代表作的な文芸評論書として、本書を読むことにしたのだ。

そして、その結果は、最初に書いたとおりで、たしかに本書は素晴らしい文芸評論書であり、評判になるだけのことはあると思った。しかし、その「すごさ」は、本書のテーマが、江藤の抱えた「中心的テーマ」を扱ったものであったからで、江藤が、何にでも鋭いわけではない、ということも、よく理解できたのである。

例えば、「講談社文芸文庫版」の解説者である上野千鶴子が指摘しているとおり、江藤がここで説明の道具として利用しているエリクソンの「フロイト派心理学」や、エリアーデ的な「大地母神」的「母性」理解は、時代の制約があったとは言え、いかにも紋切り型のペダントリーでしかない。こうした説明は、素人読者向けの「虚仮威し」としては有効だけれども、分析としては、やや図式依存にすぎて、安易であると言えよう。
と言うのも、フェミニスト上野千鶴子の指摘を待つまでもなく、「母性」を、「女性における自明な本質」のように考えるのは、歴史的な「憶断」に過ぎないからだ。私たちはしばしば、エリアーデやユング的な「原型論」的理解で「女性とは、本来本質的に、母性を持ったもの=大地母神的な存在である」と考えてしまうが、これは、いかにも男性的な「神話」に過ぎない。「女性=母性」ではないのだ。
「女性」が「母性」を持つのは、進化論的に構造化された「身体的な性別特質」と「文化」の相互作用において、初めて「発生」し「作動」するものであって、「文化」的側面においてその「必要性」が無ければ、「女性」にも「母性」は生まれないし、言い換えれば、「文化」のあり様においては「男性」にも「母性」は生まれ、作動するのである。つまり「母性」とは、「性別」と同様に「二者択一」ではなく、男女の別なく「グラデーション」的に存在するものなのだ。

だから、江藤淳が直面した「母性の喪失」としての「母の崩壊」というのは、「文化の歴史的変容」の結果であって、「女性」の「本質的変化」なのではない。だが、江藤は「母性」というものに執着するからこそ、それが「本来的本質的」なものであると思いたいし、それが失われていく時代への「哀歌」を、声をあげて歌わずにはいられなかったのである。

また、そんな「母子密着型」の江藤淳だからこそ、「国家」という「母像」にしがみつかなければならなかった。それを「父」だと強弁してでも、自身の寄って立つ「大地」を確保しなければならなかったのだが、それは所詮「自立できない息子」の「甘え」でしかなかったし、だからこその「雄々しさに欠けた終幕劇」だったのではないだろうか。

「ネトウヨ」が「フェミニスト」を嫌うのは、要は「甘やかしてくれないから」に他ならない。
「日本の伝統」を口にするわりには、『日本書紀』も『古事記』も読んではおらず、借り物の薄っぺらな理論で満足できるのは、彼らがしたいのは「自立」ではなく「依存」だからだ。「本当のこと」なんか、どうでもいいのである。

たしかに江藤淳は、「他人」の中の「母の影」を、その「共感」ゆえに鋭く見通すことはできた。だが、自分自身の中の「母の影」を直視することはできなかった。つまり彼は、ついに「母」から自立できなかったのである。

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生き物が苦手で、詩オンチで 一一Amazonレビュー:室生犀星『動物詩集』(龜鳴屋版)

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月28日(金)21時41分24秒
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 生き物が苦手で、詩オンチで

 Amazonレビュー:室生犀星『動物詩集』(龜鳴屋版)
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友人が、金沢の小出版社である「龜鳴屋」が刊行した、室生犀星『動物詩集』の新字新仮名の新版文庫本をプレゼントしてくれたので読んだ。私は、生き物は苦手で、本は大好きだが、詩は全くダメである。

子供の頃は、人並みに虫捕りをして遊んだのだが、私にとっての虫は、どこか「動くオブジェ」のような魅力を持っていたように思う。だからこそ、死んでしまうのは、とても残念だった。
拾った子犬を病気で死なせてしまったことや、飼っていたセキセイインコや金魚やあれやこれを死なせてしまったことが、なんだか後をひいたようで、いつからか生き物は飼わないことにしたし、あまり積極的かかわろうとしなくなった。「ペット」という言葉には、悪印象さえある。

そんなわけでというわけでもなく、せっかくプレゼントされた詩集だけれど、いまいちピンと来なかった。
ピンと来なかった主たる原因は、私の詩オンチのせいであろう。

私は、『虚無への供物』の中井英夫のファンなので、中井の短歌や詩集『眠る人への哀歌』を読んだり、中井が元は『短歌研究』誌の編集者で、かの寺山修司や中城ふみ子、春日井健、葛原妙子といった歌人を見出したというので、そのあたりの短歌についても、代表歌集くらいは読んでみたが、ピンと来なかった。
また、洋モノも『惡の華』や『マルドロールの歌』といったものを読んでみたが、いまいちピンと来なかった。ましては、ホイットマンとかもいまいちだし、宮沢賢治の詩も、詩というよりは掌編小説やエッセイ的に読んでしまった。例えば「雨ニモマケズ」なども、たぶん詩として味わったわけではないだろう。

そんなわけで、この「童詩」とでも呼ぶべき『動物詩集』所収の七十数篇についても、ほとんどピンと来なかったのだが、唯一よくわかったのは、下の「ふなのうた」だった。やはり、私と「動物」の関わり方が関係しているからに相違ない。

  ふなのうた

 ふなはさかなやの店さきの

 こおりついたおけの中で

 じっとかがんでいる。

 ふなはさむいのであろう、

 ふなはしんぱいがあるのだろう

 ふなはかなしいのにちがいない、

 ふなは川にかえりたいのであろう、

 ふなはけさからうごかない。

 きのうもうごかない、

 あすもうごかないのであろう、

 さかなやさん

 ふなをたすけてやって下さい。

             (P108~109)
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米国版・リアル『ドグラ・マグラ』 一一Amazonレビュー:スザンナ・キャラハン『なりすまし』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月23日(日)17時48分46秒
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 米国版・リアル『ドグラ・マグラ』

 Amazonレビュー:スザンナ・キャラハン『なりすまし  正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』
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正気と狂気の境界は曖昧である。一一と言うよりも、それはよく言って「揺れ動いて」おり、身もふたもなく言ってしまえば、そもそも「境界など存在しない」。

だからこそ、私たちは「狂気」というものに惹かれる。無意識にそこから目を逸らすという行動も含めて、私たちはそれに魅せられており、本当の意味では、それを無視することなどできない。
「正気の私」が「狂気の私」を判定することなどできないのだから、今の自分自身が「狂気」の中にあるとかないなどということは、誰人にも判定のしようがない。すでに、私は、そしてあなたは「狂っている」かもしれないのだ。だから、怖い。

夢野久作の名作、「怪奇幻魔の書」と呼ばれた探偵小説『ドグラ・マグラ』は、精神病院を舞台とした「狂人たちによる狂人たちのための狂人たちの探偵小説」であり、それは「脳髄の殺人としての狂気という犯行を、理性という名の脳髄探偵が謎解きを試みるミステリ」であり、言うなれば「脳髄世界における探偵小説」だと言えよう。

一方、本書は完全に、この「現実世界」を対象とした「ノンフィクション」である。一一ところが、本書は『まさに謎が謎を呼ぶ、ミステリー小説を読んでいるようなスリルをあたえてくれる』(P417「訳者あとがき」)、まるで『探偵小説のような説得力』(米『エコノミスト』誌評)を持った作品であり、本朝の『ドグラ・マグラ』を彷彿とさせずにはおかない「暗い迷宮性」を持っている。

またそれでいて、決して本書翻訳版の「装丁」や「惹句」から印象されるような「キワモノ」ではない。
本書は、きわめて誠実に「精神医療」の問題に向き合い、その現実を徹底的に探求した、元『ニューヨーク・ポスト』紙記者による『調査報道』の傑作なのだ。
「狂気」という捉えどころのない難問にかかわる「患者と医師」たちによる、底知れぬ「地獄めぐり」を描きながら、それでも希望を捨てようとはしない著者の姿が描かれた、稀有な金羊毛探求譚だとも言えるだろう。

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『 かつて自己免疫性脳炎という神経疾患を患い、正気と狂気のあいだを行き来するうちに〝精神疾患〟と誤診されそうになった経験を持つ著者は、スタンフォード大学心理学教授リチャード・ローゼンハンが一九七三年に発表した論文「狂気の場所で正気でいること」に興味を持つ。これは、「健常な」人々に患者のふりをさせて精神病院に送り込むという実験を通じ、正気と狂気の境界が、そして精神疾患の診断がいかに曖昧なものかを、科学的データをもとに暴くものだった。ローゼンハンのこの論文がきっかけで、精神医学の正当性に疑問が投げかけられ、たとえば精神医療に関するさまざまな法改正、全国的な精神病院の大量閉鎖、『精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)』の改訂といった、精神医学界の大改革につながったことは事実で、著者はローゼンハンに対する敬意を新たにするのだが、内容を精査し、関係者に取材するうちに、少しずつ論文のほころびが見え始める。ローゼンハン(※ 自身)が偽患者として入院したときのカルテを手に入れ、さらに(※ ローゼンハンが集めて、入院させた)偽患者だった人物を探し出し、ついに二人特定した(ただし一人は、ローゼンハンの定めたデータ収集方法に従わなかったことを理由に研究対象からはずされた)ところで、かの論文に大きな不正行為があったことが明らかになる。だが、話にはまだ先があったのだ……。』(P416~417、前同、※は引用者補足)

これは、あくまでも「ノンフィクション」である。だから、怖ろしい。
本書は一見したところ、「偽患者」が「精神治療」の現実を暴く、いかにもアメリカ的な、一種の「冒険小説」といった趣の印象を与えるかも知れない。しかし、本書が『探偵小説』という古くさい言葉で評されるのは、けっして故なきことではない。
本書の主人公は、「精神病患者」ではなく、まさに「精神科医(研究者)」だ(呉一郎ではなく、正木博士なのだ)。
「精神病院の闇」を暴いたとされた「伝説的な精神科医」の中に潜んでいた「闇」を暴く作品であり、その「闇」に巻き込まれていった「精神医学界」を描いた作品だとも言えるだろう。つまり「狂っているのは、どちらだったのか?」「癲狂院の鉄格子の、はたしてどちらが内側であり外側であったのか?」と問うているのである。
そして、それでも私たちは「狂気」と向き合いながら、「狂気」を乗り越えていかなければならない。それが紛れもない「現実」だからだ。

このように、本書はけっして「娯楽作品」ではない。40ページにも及ぶ「原註」を含む460ページの大部は、けっしてダテではない。本書が描き出すのは、いち精神科医の問題でもなければ、いち個人の「内面」の問題でもない。本書は、米国精神医学会の歴史を描出するものでもあれば、それはまた、私たち日本の精神医学界の歴史に反映した歴史でもある。

読者は、この「重くて暗い、それでいてサスペンスフルな地獄めぐりの物語=リアル『ドグラ・マグラ』」の洗礼を受け、一一いったんは自覚的に「発狂」すべきなのだ。

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〈読みやすさ〉とは何か。 一一Amazonレビュー:マルクス、エンゲルス(北口裕康訳)『高校生でも読める「共産党宣言」』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月23日(日)17時47分10秒
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 〈読みやすさ〉とは何か。

 Amazonレビュー:マルクス、エンゲルス(北口裕康訳)『高校生でも読める「共産党宣言」』
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本書のポイントは「読みやすさ」とは何か、である。
訳文の原文に対する正確さを重視する従来の翻訳による『共産党宣言』には手がのびないという人のために、本書は「あえて意訳」を試みたところに、その意義や価値を持つ。要は、まずは読んでもらうことを第一義として「読みやすくて、(大筋で)理解できる」ものを目指したものなのである。

ところが、先行のレビュアーのお二人の意見は、真逆に分かれている。
「Visioncrest」氏は『岩波文庫、平凡社ライブラリー、学術文庫の翻訳と読み比べてみたが、もっとも読みやすいのは本書である。』と本書を高く評価し、一方の「みちこ」氏は『噛み砕いて書きすぎて、本文の表現が未熟になり、とても読みづらい。』と完全に否定的だ。一一では、いったいどちらが評価が正しいのだろうか?

まだ、別訳の「共産党宣言」と「共産主義の諸原理」しか読んでいない「共産主義の初心者」である私の実感からすると、本書は間違いなく「読みやすい」。
ただし、「みちこ」氏のご意見がいちがいに間違っているとも思わない。要は、ある「テキスト」が読みやすいか否かは、「テキスト」そのものだけに起因するのではなく、テキストと読者の関係に起因するものだからである。

例えば、私は昔、日本ミステリの最高峰にして古典的名作、中井英夫の『虚無への供物』のジュブナイル化なんてことを考えたことがある。「『虚無への供物』の素晴らしさを、少しでも多くの若者に知ってほしい。しかし、『虚無』の華麗な文体は、今の若者には、逆に敷居が高いのではないか」と考えて、「あえてフラットな文体」に書き換えてみようとしたのだ。
ところが、これがどうしてもできない。ぜんぜんどうにもならなくて、早々に断念せざるを得なかったという経験が、私にはあった。


『 黒天鵞絨のカーテンは、そのとき、わずかにそよいだ。小さな痙攣のめいた動きがすばやく走りぬけると、やおら身を翻すようにゆるく波を打って、少しずつ左右へ開き始めた。』

知る人ぞ知る、『虚無への供物』の冒頭の一文。「サロメの夜」の開幕を告げる文章だが、これを「今風のフラットな文章」に書き変えられるだろうか?
「黒ビロードのカーテンが、小さくそよぐと、少しずつ左右に開き始めた。」と、こんな訳文に「意味(存在価値)」があるだろうか?

少なくとも、こんな調子で書かれた『超訳 虚無への供物』など、中井英夫ファンには「ゴミ以下のおぞましいもの」でしかないだろう。
一一ただし、初めて読む若者が「原文」と「超訳文」だけを読み比べて、どちらを手にするかは、にわかには断じ難いと思うし、少なくとも「原文」に「古臭さ」を感じて敬遠する人も少なくないだろうという予想は、容易に可能だろう。

だとすれば、問題は『高校生でも読める「共産党宣言」』が、誰のための「意訳」かということになるし、少なくともマルクスやエンゲルスの本をたくさん読んで、その「専門用語」に通じた人のための本ではない、というのは明白な事実なのだ。

そりゃあ、内容に正確な翻訳文を苦もなく読める人にとっては、変に意訳されたものより、内容に忠実な訳文の方が良いに決まっているし、感覚的にも「気持ちいい」。「意訳文」というのは「原(訳)文」に馴染んだ者には「それは、ちょっと違うだろ」という「違和感」がつきまとうのも、ごく自然なことなのだ。

しかし、本書の訳者は、そういう「マニア」に読んでもらうために、本書で「あえて意訳」を行ったのではないことを考えれば、本書の「意訳」に微視的な注文をつけるのは間違っている、と私は思う。

それに「文章の読みやすさ」というのは、極めて主観的なものだ。例えば、

『 伊藤辨護士も、「〈連帯〉の重要性」を十二分に認識・尊重する。ただ、彼の確信において、〈連帯〉とは、断じて、〈恃衆(衆を恃むこと)または恃勢(勢を恃むこと)〉ではない。彼の確信において、「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の〈連帯〉ではないところの「衆ないし勢を恃むこと」でしかなく、真の〈連帯〉とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことであり、それこそが、人間の(長い目で見た)当為にほかならず、「連帯とは、ただちに〈恃衆〉または〈恃勢〉を指示する」とする近視眼的な行き方は、すなわちスターリン主義ないし似非マルクス(共産)主義であり、とど本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない。』(大西巨人『深淵』)

この文章を「読みやすい」と言う人は、滅多にいないと思うし、大西巨人のこの「個性的な文体」は、しばしば「悪文」と呼ばれたりもする。
しかし、この「正確に表現する(意図を伝える)」ことを大前提とした「厳格主義」的文体を、大西巨人ファンは「気持ちいい」と感じるし、その意味では「読みにくくはない(読むに、苦痛は感じない)」のである。

そしてこれが『ある「テキスト」が読みやすいか否かは、「テキスト」そのものに起因するのではなく、テキストと読者の関係に起因するものだ』ということの意味なのである。

したがって、本書『高校生でも読める「共産党宣言」』の「意訳文」は、一般的には「読みやすい」と言って良いだろう。
ただし、「みちこ」氏がそうであるように、従来の訳文に馴染んで抵抗のなかった人の一部には『噛み砕いて書きすぎて、本文の表現が未熟になり、とても読みづらい。』となるのも仕方のないことだし、さらに言えば、わざわざそうした「個人的な感想」を「一般的な意味のある評価」として公表するのは、ややお門違いだと思う。

なぜなら、大の大人が、わざわざ子供用の「離乳食」を口にして「歯ごたえがなくて、気持ち悪いから、これは食物としてよろしくない」などと評するのは、明らかにその趣旨をはき違えた、筋違いの注文でしかないからである。

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フェミニズムにとっての〈理想の男性像〉とは? 一一Amazonレビュー:石川優実 責任編集『エトセトラ VOL.4』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月23日(日)17時45分55秒
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 フェミニズムにとっての〈理想の男性像〉とは?

 Amazonレビュー:石川優実 責任編集『エトセトラ VOL.4 特集:女性運動とバックラッシュ』
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本書のレビュアーは、良くも悪くも、見るからに、ほぼ女性に限られているようだ。かく言う私は、定年前の冴えないオジさんである。

私は私なりに、長らく「差別問題」に関心を持ってきた。そして、可能なかぎり関わりを持とうと努力してきた。私が、主にかかわった差別問題とは「部落差別」と「外国人差別」で、後者に関しては約20年にわたって、通算千人以上の「ネトウヨ」と(したくても、議論にはならないから)ケンカをしてきた実績がある(それで、Twitterやmixiのアカウントも凍結された)。

「あんな奴らとケンカしても、労力の無駄だ」とおっしゃる方も多いだろう。私も基本的には同じ考えで、できればくだらないケンカなどしたくはないというのは、「経験者(実践者・当事者)」としての偽らざる思いなのだが、目の前で、差別的かつ下品なことを書かれると黙ってはいられない性分なので、これはもう仕方がなかった。
それに、本誌の記事で、石川優実(P55ほか)、遠藤まめた(P71)、楠本まき(P75)の各氏が書かれているとおり、そうした「闘い方」は「誰にでもできることではないけれど、誰かがやらなければならないこと」なのである。
言い換えれば、自分にはできないから「あんなことは無駄だ」などと言うのは、イソップ寓話の「酸っぱい葡萄」理論にすぎないとも言えるだろう。
そもそも、世間の主流に反抗する運動において、「効率性」ばかり気にしていたら、打算的な悪しき政治性に巻き込まれる(闇落ちの)恐れも低くないだろうし、せっかく「切込隊長」をやってくれる奇特な人の意欲を削ぐことにしかならないのは、石川の、

『 ネットのバッシングについて、みんな「ほっておけばいいじゃん」って言われるのがいやだったんです。とくに味方だと思っていた人たちにそれを言われるのがきつかった。』(P55)

という言葉にも明らかで、そうした「親切のつもり助言」の問題性と、そうした「多くの助言者たち」の無認識がよく表れていると言えるだろう。

本誌を読むようなフェミニズムに関心のある女性なら、石川のこの言葉を読んで「そうだよね。せっかく頑張って抵抗しているのに、それを無駄みたいに言われたらキツイよね」と共感することだろう。
しかし、これが石川のような「身内の有名人」の言葉ではなかったら、果たしてそこまで物分かりの良い共感を示すことができただろうか。単に「言ってることは悪くないけど、あんな奴らとやり合おうなんて人は、もともと普通じゃないんじゃない」なんて、差別的に切り捨ててしまうのではないだろうか?

私が、こんな「イヤなこと」をいうのは、たしかに「虐げられた者どおしが励まし合う」ことも大切だけれども、同じくらい「自己批判としての内部批判」も大切だと考えるし、その必要がない「集団」や「運動」など存在しない、と考えるからである。

もともと私が、フェミニズムには、さほど関心を向けなかったのは、「女性差別」の問題が、「部落差別」や「外国人差別」とは違って、「男性」である私には「わかりにくい」側面があったのと、女性たちは「女性たちだけで運動をする」ことに満足しているように見えたからだ。
つまり、ろくに女性のことも知らない男が「私も、あらゆる差別は許されないと思うし、当然のこと、女性差別も許されない」などとヌルいことを言った日には、女性運動家たちから、かえって冷たい目で見られそうだと、そんな感じがあったので、なんとなく「一人で全部はやれないので、そちらはお任せしよう」という感じだったのだと思う。

今回本誌を読んだのは、他の本のレビューを読んでいて、他の人と、ちょっとニュアンスの違った感想を書いている人がいたので、どんな人だろうかとその人のホームをチェックしたところ、本誌のほか、フェミニズム関係の本を読み始めた女性だとわかり、そのあたりが評価の違いに現れていたのだろうと思ったので、本誌を読んでみることにしたのである。

私は、端的に言って「マッチョ」タイプだと自覚している。簡単に言えば「仮面ライダー」に憧れた人間で、影のある「孤独なヒーロー」に痺れ、「徒党を組んで、数に頼む」人間が好きではなかった。だから最近の仮面ライダーみたいに、複数のライダーが協力して、特別に強い怪人(1人)をやっつける図というのは、「袋だたきにしている」みたいで、あまり好きになれなかった(したがって「戦隊もの」は視なかった)。そんな人間だ(要は「高倉健」や「一匹狼」好きだとも言えよう)。
詳しくは書かないが、以前「パレスチナ」問題に関わる会合に何度か参加したこともあって、その時も、どこかその馴れ合いめいた(自己批評性を欠いた)盛り上がり方に、醒めるものを感じて、参加しなくなったということがあった。

もちろん、現実を動かすには「連帯」や「団結」が必要なのはわかっている。そのためには「効率性」や「妥協」や「馴れ合い(褒め合い)」も必要だろう。だが、だからこそ、その分「自己批判としての内部批判」が必要不可欠ではないのかと、私などは思うのだが、本誌にかぎって言えば「フェミニズム運動の初心者向け」ということもあってか、どうにもそのへんが弱いと感じられた。

本号において「フェミニズム」について自己批評的な視点を持ち得ているのは、飯野由里子の論文『フェミニズムはバックラッシュとの闘いの中で採用した自らの「戦略」を見直す時期にきている』(P85)くらいではないかと思うのだが、これとて「過去のフェミニズム運動」を批判するものではあっても、それが「自分自身の問題であった」という点を、どれくらい自覚しているのかは、いささかあやしい。
もちろん、「過去の誤ち」を反省して「今」に生かすというのは「必要」なことだけれども、その「過去に関する反省」において最も重要なのは「過去の誤りも、当時の当事者としては、決して間違っているとは思っていなかった。だとしたら、今の私たちもまた間違っている部分があるのかもしれない」と、当然そう考えてしかるべきだという点なのだ。だが、「過去の誤り」を、完全に「他山の石」にしてしまっている気味が、この論文にさえ感じられるのである。「彼女たちは」間違っていた、という「党派性」を滲ませて。

つまり、自分たちの掲げる「理想」を信じることは必要なことだし、仲間同士で「承認を与え合う(相互承認)」も必要だろう。だが、それだけでは不十分であり、それこそが「誤り」のもとなのではないだろうか。

「そんなこと、男のあなたに言われたくない」と言う人も、きっといるだろう。一一しかし、私の言っていることに「男も女もない」と思うのだが、いかがだろうか?
そして、もし私のこの認識が正しいかったとすれば、「そんなこと、男のあなたに言われたくない」と言った女性は、その無自覚な「性差別」を反省しなくてはならないはずだ。

私は何も「性差別は、男にも女にも有って、お互い様だ」などという、つまらない誤認をくり返したいのではない。男の方が、女性を差別してきたこと、今も差別しているという事実は、あまりに明らかなのだから、「おあいこ」だなどという情けない言い訳を「男なら(女だって)」するべきではない。

しかし、一人では何も言えない人も、仲間が大勢いれば、つい「強くなった気になって」、慎重に自己検討することもなく、数にものを言わせて大声を張り上げがちなのではないか。そこに、男も女もないのではないか。
だから、「仲間と励まし合うこと」は素晴らしいことだけれども、「運動誌」であるからか、本誌では決して語られない「徒党の罠」についても、もっと考えてもいいと思う。それを怠れば、結局はそこが「弱点」となって、敵に付け入られることにもなるのだから、「私たちは正しい」という自信を持つと同時に、自信があるからこそ自身を疑うこともできるという「強さ」を、本誌にも求めたいと思う。

本誌では、「男性」一般の持つ差別性やその歴史が語られるけれど、では、具体的にどんな男性が「正しい人間」なのか、その具体像を、もっと語っても良いのではないかと思う。
子供の面倒を見てくれる、洗い物をしてくれるというのも、もちろん良いだろうが、女性とともにフェミニズムを闘う男性の姿が、かけらも見えてこないことに、私は男として「物足りなさ」と「疑問」を感じたので、以上、思いつくままに感想を書かせてもらった。

私は、ネトウヨと20年もケンカしてきたような人間だから、もちろん、まともな議論なら尚更大歓迎であるし、必要ならケンカも辞さない。
人の選択をとやかく言う気はないけれども、その選択の是非については、遠慮なく意見を述べさせてもらう。私は「政治的」な損得打算がなにより嫌いで、男も女も、老いも若きも、国籍も肌の色も関係なく、ただ一対一の、忌憚のない対話を求めたいのである。

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谷岡一郎は〈ネトウヨ御用達(三流)学者〉であるか? 一一Amazonレビュー:谷岡一郎『悪魔の証明』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月23日(日)17時44分13秒
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 谷岡一郎は〈ネトウヨ御用達(三流)学者〉であるか?

 Amazonレビュー:谷岡一郎『悪魔の証明 なかったことを「なかった」と説明できるか 』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RLDGEAEBY15KO

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なかなかのトンデモ本だった。
この本を褒める人のプロフィールを確認したいので、ぜひレビューを投稿してほしい。きっと「右に傾いた人」だけだろうと予想している。

知らない著者だったので、タイトルだけを見て、うっかり「論理学者」の本だと思い購入してしまったが、著者は、自称「社会学者」で「ギャンブル学」「社会調査方法論」「犯罪学」が専門なのだそうである。Wikipediaで著作をチェックすれば、たしかに「ギャンブル学」を中心に、その種の本をたくさん出しているようだ。

それにしても、びっくりするのは、本書の内容にまとまりのないことである。
「論理学」の理路整然とした記述を期待していた者としての印象は「変なおじさんが、わあわあ言っている本」という感じである。まず「文体」が、「学者」のものとは到底思えない落ち着きのなさで、例えばこんな具合だ。

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(1)『ま、柔軟性ある姿勢と言うより、一種の○○師(ピー)だったと考えるべきかもしれない。』(P95)

(2)『具体的には、こちら側に「言ったのにない」という根拠を提示する手段がないのでやめておくが、確かにそういうことが複数回あったのだ(信じてくれ~!)。』(P152)

(3)『 これでもまだタニオカ先生はキリスト教を嫌いだと思っている人、オノレは餓鬼畜生ジャ!』(P211)

これを、御歳65歳の「大阪商業大学学長・総合経営学部教授」が書いているのだから、相当なものである。
ただし、この「大阪商業大学」というのは(Wikipediaによると)、「学校法人谷岡学園」が経営するもので、要は、著者・谷岡一郎のおじいちゃん、祖父の谷岡登が建学した私学であり、孫の一郎は、家族経営の大学の学長さん。つまり(学長としては何代目かは知らないが)「三代目のおぼっちゃま」学長であり、そう知ってしまえば、いかにもな「文体」だとも言えるだろう。

著者のWikipediaには、

『 略歴
 1980年 慶應義塾大学法学部法律学科 卒業
 1983年 南カリフォルニア大学行政管理学部大学院修士課程 修了
 1989年 南カリフォルニア大学社会学部大学院博士課程 修了
 1997年 大阪商業大学 学長就任
 2005年 学校法人谷岡学園 理事長就任』

とあるから、慶應大学を卒業した後、俗に言う「慶應ボーイ」だったお坊ちゃんはアメリカへ留学して、そこで学位を取得し、他の大学で先生修行をすることもなく、おじいちゃんの建てた大学の「教授」となり、そして「学長」になったようである。一一まことに「エリート」と呼ぶべき人で、うらやましいかぎりなのだ。

また、Wikipediaによると、

『SFファンでもあり、大阪商業大学でSF入門の講義も担当している。』

んだそうで、谷岡一郎には、本書と同じ版元の筑摩書房から刊行された『SFはこれを読め!』(ちくまプリマー新書、2008年)という、前記講義をまとめた本もある。
さすがは家族経営の大学の学長さん、個人的な趣味のSF好きが、そのまま大学での講義になり、しかも本にまでなるのだから、じつにうらやましい。きっと、書店での販促講演会みたいな内容で、学生さんたちも楽しめたのではないだろうか。

いささか脱線したが、こういう「恵まれた経歴」の人であるが故の「文体」なのだろう。文章が、自由奔放で、異様に若いのである(話題の方は、歳相応だとしてもだ)。
例えば、下のような文章は、著者の人柄をよく反映している。

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(4)『 このように自分の主張(特に誰かを非難する主張)の内容を変えていく(すりかえる)のは、みじめで醜悪である。往生際が悪く、性根が腐っているのである。間違いを認めることは恥ずかしいことではない。孔子様も言っているように、「過ちを悔い改めざるをすなわち過ちという」のである。開き直っていいがかりをつけるのはヤクザも顔負け。卑怯を悔い改めないのは卑怯と言う。』(P185)

基本的に、ごもっともなご意見なのだが、ここで注目すべきは、人柄のよく表れた、この「文体」だ。
本書著者の人柄のよく表れた文章は、他にもたくさん見いだせる。

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(5)『ここで言う「(ほとんど)皆が納得するレベル」の「皆」とは、「常識的な認知能力によって物ごとを客観的に判断できる人々」をさすことにしておいてほしい。でないと筆者が求めるレベルの知的な議論になりえないのだ。』(P60)

(6)『むろんここで言う「皆」とは、本書の言うところのまともな人々をさす。』(P79)

どんな本だって、読者の頭が悪ければ、内容の理解など不可能なのだから、「こんなこと」を著書の中でわざわざ繰り返す人など滅多にいない。無作為に1000冊の本を読んでも、発見できないほど、これは珍しいものなのではないだろうか。

しかも、著者はここで、要は「私は知的レベルが高い」「私はまともな人間だ」とおっしゃっているのであり、読者にも同様のことを期待なさっている。つまり(6)の『本書の言うところの』とは、「著者(谷岡一郎)が言うところの」という意味で、「そういう基準」で裁断されるのであれば、私は間違いなく「知的」でもなければ「まとも」でもないということになるだろう。

ともあれ、著者は、(5)(6)の記述で、読者に「私の文章を理解できる者は、知的でまともである」と主張しており、言い換えれば、著者の文章が「ちょっと変」だと感じる私などは「知的」でも「まとも」でもないのであり、「おまえの方が変なんだ~!」と評価されてしまうのだろう。残念なことだ。

また、著者・谷岡一郎の「自意識」が窺える、次のような殊更な文章も興味深い。

(7)『我々統計分析に携わる社会学者は、このような明白な因果関係を示されても常に「本当にそうか?」と考えるくせを持つ。』(P133)

(8)『我々研究者が疑り深くなったのは、過去にかなりアヤシゲな例を見てきたせいかもしれない。』(P139)

問題は、この「説明的な主語」である。
普通に「わたし」としても良さそうだが、著者は自分が「社会学者」であり「研究者」であることを、よほどアピールしたいように見えるのは、私のひが目だろうか。きっと、そういうことになるのだろう。

それにしても『明白な因果関係を示されても常に「本当にそうか?」と考えるくせを持つ。』というのは、いくら「社会学者」だからと言っても、ちょっとアブナイのではないだろうか。

と言うのも、「社会学者」であろうと『明白な因果関係を示され』たら、普通はうっかり信じてしまいがちで、しかし、それが自分の学問領域の対象である場合に限っては、「例外的に」慎重になって「疑ってみるということもする」という程度の話だろうと、私はそう思う。
例えば、哲学者が「私の目の前にあるリンゴは、本当に実在してるだろうか?」などと『常に』考えることなどしないはずで、そこは自身の認知能力を根拠として、日常では特段「疑わない」で、信じているはずだ。でないと、生活が成り立たない。
哲学者が「目の前のリンゴの実在」を疑うのは、あくまでも「学問的な方法」であって、『常に』そんなことをやっているわけではないのだから、自身の「一貫性」「整合性」にとてもこだわって『常に』そんなふうにやっているとおっしゃる本書著者は、「尋常な人ではない」と言えるだろう。

また、本書のユニークさは、たかだか200ページほどの新書本なのに、いわゆる「ネトウヨ」的なご意見が、網羅的に登場するところである。

・「中国」批判(P17ほか)
・「従軍慰安婦」問題批判(P43ほか)
・「黒川弘務検事総長をめぐる定年延長問題」批判者への批判(P45ほか)
・「森友学園問題における、安倍昭恵首相夫人の関与」問題を追求した野党批判(P51ほか)
・「安倍首相を追及した枝野幸男議員」批判(P55)
・「徴用工」問題批判(P125)
・「南京大虐殺」批判(P135)
・「上野千鶴子 東大名誉教授」批判(P150)
・「韓国海軍レーダー照射問題」追及(P167)
・「桜を見る会」問題での民主党政権批判(P171)
・「バイデン大統領候補を支持した、オカシオコルテス下院議員」批判(P171)
・「朝日新聞」批判(P183)

この他にも「中国のウイグル問題」批判や「中国のコロナウィルス疑惑問題」などなど、「ネトウヨ」がネットに書いているようなものが、そのまま網羅されている。
もちろん、話題が多すぎて、個々の内容は『「ネトウヨ」がネットに書いているようなもの』でしかないのは言うまでもない。

ちなみに本書は『悪魔の証明』をテーマとした本なのだが、こうなってくると何を書いた本だったのか、読んでいる方も、つい忘れてしまいようになる。
「論証」についての原理的な説明は、ひととおり「当たり前の説明」がなされている程度で、大半は著者好みの「非論理的批判の実例」とそれへの批判で埋め尽くされている。

さらに、本書の特徴的な記述は「キリスト教(おもにカトリック)批判」(と、その分量)である。
「おわりに」に書かれているとおり、著者は幼い頃に親とプロテスタント系の教会に通っていたことがあり、個人的には「キリスト教」には愛着があるそうなのだが、だからこそカトリックに露骨に見られる非論理性や独善に腹が立つそうなのだ。
私も、似たような「キリスト教」批判をしている人間だから、著者のキリスト教批判自体が間違いでないことは知っているが、問題は、本書における「キリスト教」批判の「分量」なのである。

本書はあくまでも「論証」問題の本であり、その中で「キリスト教」問題が出てくること自体は、ごく自然なことなのだが、問題は、その「分量」がアンバランスに多く、しかも「キリスト教批判」書からの引用や内容紹介が長々と続いて、明らかに、自制心に欠けて「趣味に走っている」のである。

「趣味に走っている」と言えば、本書に登場する、活字メディアは「産経新聞」「扶桑社」「Will」誌など、「敵」である「朝日新聞」を別にすれば、非常に偏っている。
前記のとおり「キリスト教」書においても、読んでいるのは「山本七平」や「キリスト教批判本」ばかりで、「教会史」や「聖書学」「神学書」などといった基本書を読んでいるとは思いにくい「趣味的」な内容で、「聖書」の通読すらあやしい(わりあい真面目なクリスチャンでも、聖書の通読をしていない人は少なくない)。

本書著者の、こうした「趣味的」で「独善的」な「思考パターン」は、例えば次のような部分にも明らかだろう。

(9)『 南京大虐殺の例で中国が日本を非難するにあたり、かりに虐殺があったとして、「なぜ」そんなことをやったかという納得のいく説明は存在しない。そんなことをして誰も得をしないばかりか、かえって損をすることは、普通の思考能力があればわかる。つまり、中国の非難は(ウソの)事実関係の主張だけで、まずもって妥当性のない非難と考えてさしつかえない。』(P135~136)

これが、著者・谷岡一郎の言う『普通の思考能力』によるご意見なのだろう。

だが、南京で日本軍による「虐殺」があっただろうというのは、むしろごく「ありきたり」な見方で、その理由なんて、いくらでも考えられるのではないだろうか。
そもそも、戦場においては「民間人虐殺」など、表沙汰にならないことはあっても、決して珍しいことではないはずだ。また、極限状態にある兵士たちが「論理的に損得を考えて行動する」とか「必ず命令どおりに動く」などと考える方が、むしろどうかしているように思える。

つまり、中国に侵攻した日本軍の兵士にとっては、中国人は憎むべき「敵」だったのである。
建前としては「西欧列強からの解放」だとか「守ってやる」だとか「五族協和」だ「八紘一宇」だ「大東和共栄圏」だなどと言っても、現場で戦う(殺し合いをする)兵士にとって、日本軍に抵抗する中国人は、兵士・民間人を問わず、すべて「敵」であり、いつこちらを殺しに来るかわからない「敵」なのである。
事実、中国民間人や民間人を装った兵士に仲間である日本兵を殺されて、「恨み骨髄」だった「復讐心に燃える」兵士も少なくなかっただろうから、「損得」は抜きにして、とにかく「殺してやる」と思っていた日本兵が大勢いても、決して不自然な話ではないはずである。
本書著者には、こういう「一兵卒の感情」など、想像できないのだろうか。一一いや、案外そうなのかもしれない。

ちなみに、前記の「上野千鶴子 東大名誉教授」批判において、著者は、

(10)『教員を雇う立場として考えるなら、「こんな(※ 上野のような)先生はイラン!」としか言いようがない。』(P150、※は引用者補足)

そうなのだが、本書著者が「学長」を務める「大阪商業大学」に雇われている先生方の気持ちを私がおもんぱかるに「おじいちゃんの七光りだけで、学長になった人(にしか見えない人)」、自分の趣味の「SF好き」を講座にしてしまうような、ワンマンな「学長」の下で、意見も言えず、思想信条も語ることもできないまま、学生たちと向き合わなければならないというのは、かなりキツイ状況であり、思わず「こんな学長はイラン!」と叫びたくなる人も少なくないのではないか。
できることならば、著者には「弱い立場の人」の気持ちにも配慮してほしいと、切に願うものである。

ともあれ、本書には「悪魔の証明についての、するどく論理学的な説明」など期待せず、「ネトウヨ的な話題」を総覧的に楽しむのぶんには、ちょうど良い、お手軽な本である。
なにしろ、本書本文の結論的な「結びの言葉」が、

(11)『 以上、いろいろとレトリックや不作為の例を見てもらったが、二〇世紀半ばを過ぎた学問の世界ですらこのありさま。ましてやマス・メディアやSNSにまともな論争を期待するのが、そもそもの間違いであることはおわかりいただけよう。』(P205~206)

というものであり、「おわりに」の「締めの言葉」が、すでにご紹介した、

(3)『 これでもまだタニオカ先生はキリスト教を嫌いだと思っている人、オノレは餓鬼畜生ジャ!』(P211)

なのだから、もはや何をか言わんやであろう。

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なお、蛇足しておくと、本書でも「カジノを作っても、ギャンブル依存症が増えるわけではない(依存者が統計的に浮上するだけだ)」(P18)といったことが語られているが、どうやら、著者は大阪の「カジノを含むIR(統合型リゾート)開発」に関わっている「利害関係者」のようで、

『菅官房長官の右腕もIR汚職企業と関係か  内閣官房IR推進本部の事務局トップが500ドットコムCEOと仲良くシンポジウム参加』(2019年12月29日 07:00 「LITERA」・exciteニュース)という記事には、次のようにある。

『 まず、依存学会の副理事長で、潘CEOや中川事務局長とともに問題のシンポジウムに参加していた谷岡一郎・大阪商業大学学長だ。谷岡氏はカジノやギャンブルについての著作を多数もつ「IR推進派」の学者。学長を務める大学の大学院にIRの専門コースまで設置している。谷岡氏はIR推進論客として「Hanada」(飛鳥新社)2017年2月号にも登場し、当時、審議中だった「IR法案」に反対する野党を批判。さらに〈カジノが新しく作られた地域でギャンブル依存症患者が統計上増えるのは、ほとんどが「ギャンブルをやめられないのが病気である」ことに気がついた人が増えるためと、もうひとつ、「相談窓口と治療施設が増えた」ことによると考えられる〉などの持論を展開していた。』

そうか。本書著者は「学長を務める大学の大学院にIRの専門コースまで設置」しているのか。なるほど「趣味のSF講座」を開設なさる方だけはある。
また、ネトウヨの愛読誌「Will」がお好きなだけではなく、双子のような「Hanada」誌にも登場なさっているのか。完全に納得である。

つまり、谷岡一郎「大阪商業大学学長」は、今や「右派の論客」と呼んでいい存在なのだろう。実に素晴らしい。

私などは、到底ついていけないけれども。

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〈怖さ〉を知らない「楽しい学問」 一一Amazonレビュー:小松和彦『聖地と日本人』(『誰も知らない京都聖地案内』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月23日(日)17時42分35秒
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 〈怖さ〉を知らない「楽しい学問」

 Amazonレビュー:小松和彦『聖地と日本人』(『誰も知らない京都聖地案内 京都人が能楽に込めた秘密とは』)
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日本において「聖地」と考えられている「宗教的トポス」と「能楽」に関する教養が身につく一冊ではあるものの、他の方も書いているとおり、個々の文章が短いせいもあり、食い足りない印象は否めない。一一しかし、それだけでもないように思う。

小松和彦を読むのは、実にひさしぶりだ。
最初に読んだのは、1991年に『新編・鬼の玉手箱』で、それから3年後の1994年から数年で『憑霊信仰論』など5冊ほどを読んでいる。
1991年に『新編・鬼の玉手箱』を読んだのは、その3年ほど前に馬場あき子の『鬼の研究』を読んでいるから、その頃すでに、鬼には興味を持っていたのだろう。
1994年以降にまとめて読んだのは、御多分に洩れず、京極夏彦のデビューを受けてのことであった。この時期に刊行された小松の初期著書はほとんど全て購入しているはずだし、第一著作である『憑霊信仰論』の初版である「伝統と現代社」版(1982年)まで、古本屋で手に入れたりしていた。

今回、たまたま『聖地と日本人』(旧題『誰も知らない京都聖地案内 京都人が能楽に込めた秘密とは』)を手に取ったのは、「聖地」という言葉に惹かれたからで、これは最近、佐藤弘夫『日本人と神』、岡本亮輔『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』といった「宗教学」書を読んで、日本における「聖地」というものに、少し興味を持ったからである。

最初に、小松和彦を読んだ頃には、たぶん私は「鬼」や「妖怪」や「幽霊」といったものに、子供の頃と同様の興味を持っており、それでいて「ちょっと学術書めいたものを読んでみよう」くらいの気持ちだったのだろうし、二度目に読んだときは、京極夏彦の影響と「民俗学」というものへの興味があったのだと思う。この頃には、柳田國男や南方熊楠も読んでいる。

そして、今回ひさしぶりに小松を読むまでの間に、私は「宗教」というものを、素人なりにかなり勉強して、筋金入りの「無神論者」になっていた。その上での、小松との再会だったのである。
今なら、小松よりも私の方が、少なくともキリスト教に関しては知識があるはずだ。私は「宗教」を批判的に研究するために、まず手始めとして「キリスト教」を選び、その素人研究が一段落して、今は「日本の宗教」に回帰してきたところだったのである。

で、こうした観点からすると、少なくとも今回読んだ『聖地と日本人』は、まったく物足りない。
小松は、本書のプロローグで、今の日本には「陰影」がない、「異界」に通ずる「奥」行きがなく、しらじらと平板である、といった趣旨のこと語っているが、私はこの言葉に「谷崎の『陰翳礼讃』の焼き直しか」と、思わず鼻で嗤ってしまった。

いや、谷崎の場合は、「日常生活における文化的陰影」の話だから、まあそういう面はあるよねくらいの共感を覚えることはできる。
しかし「宗教」「信仰」といった問題の「現実的重さ(暗さ)」を知った今となっては、そうしたものに関して「陰影が足りない」などと言うのは、いかにも呑気な趣味的学問だ、としか思えなかったのだ。「それでは日本でも、異端審問や魔女狩りの拷問でもやれば、さぞや闇の奥行きも広がることだろう」とか、「オウム真理教事件は、日本の日常に陰影をもたらしたよな」などと、そんな皮肉な実感があったからである。

だから、本書が「物足りない」のは、単に、個々の文章が短いからとか、小松がそれほどの「能楽」ファンではなかったから、といったことではなく、そもそも、小松の「宗教」や「信仰」への向き合い方が、「オタク」的なものだったからなのではないかと疑うのだ。

もちろん、小松は、学者であって、単なる「オタク」ではないのだけれども、その根っこにあるのが、どうにも無邪気な「好き」に止まっている気味があって、「宗教/信仰」問題の「闇」や「奥」と向き合ってきた者の端くれとしては、なんとも「軽い」し「薄味」なのだ。むしろ、「明るく健康的に過ぎる」のである。

小松とて「オウム真理教事件」を通過してきたはずなのに、それが小松に影を落とした形跡が感じられない。そもそも、この人なら「あれはちょっと、別ジャンル」だと済ませてしまいそうな印象すらある。またそれくらい、以前に読んだ小松の本は、勉強にはなったけれども、印象は薄いのである。

小松の読者の大半は『怪』とか『幽』とかを読んでいた、妖怪マニアたちなのではないか。と言うのも、そもそも民俗学マニアというのは、ごく少ないし、コアな民俗学マニアは、ことさらに「妖怪」や「幽霊」にこだわらないだろうと、容易に推察できるからだ。
無論、妖怪マニアが悪いというのではない。オタクがいけないというのではないが、そうした人たちの「闇」や「奥」との向き合い方に、私は「危うさ」を感じないではいられない。オウム真理教信者がそうであったように、自身が「リアルとフィクション」の区別を容易につけられると思っているだろう部分にこそ、「宗教/信仰」がらみの問題を扱う際の、不用意さを感じるのだ。

数年前、ひさしぶりに京極夏彦の新刊『虚実妖怪百物語』を読んだのだが、同作中で京極が「幽霊」だの「呪い」だのを本気で信じている人たちに対し、苦々しい思いを持っているらしいことを知って、共感した。
この作品は「小説家業界実名フィクション」だから、作中の京極夏彦の考えが、そのまま作者・京極夏彦の考えだとは決めつけられないだろうが、おおよそ同じようなものであろうことは、容易に看取できる。

つまり、そこでの京極夏彦の苦々しさとは、たぶん「フィクションを楽しんでいたはずの人が、フィクションに憑かれた」醜態への苦々しさなのではないか。それは、京極夏彦が長編エッセイ『地獄の楽しみ方』で、スポーツを楽しんでいたはずの人たちが、いつの間にか「オリンピック」だの「金メダル」だのという妖怪に憑かれているのを揶揄していたのと、同じようなことではないのか。

人々は、あまりにも「憑き物」に対して不用意であり、それは小松和彦の「学問」にすら感じられるのである。

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近い将来に絶滅する人類として〈誇りある撤退戦〉を 一一Amazonレビュー:小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月23日(日)17時41分6秒
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 近い将来に絶滅する人類として〈誇りある撤退戦〉を

 Amazonレビュー:小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』
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ユーモアを交えた軽い語り口だけれども、書かれていることは、実に「冷徹な事実」である。
問題は、その事実に、私たちが向き合うことができるか、あるいは、「面白いことを教えてもらった」と言いながら、実際には何もしないで、本書で語られた現実との直面を避けて、顔をそむけるか。この二つに一つである。

本書に語られているのは、

(1)生物は(人間は)なぜ死ぬのか
(2)人間はなぜ老化するのか

という2点について、「進化論」的に説明して、「死にたくない」「老いたくない」という人間的な感情を、少しでも理知的に「相対化」することだと言えるだろう。

では、本書で語られる「進化論」的な、「死」の理解、「老い」の理解とは、どういうものだろうか。

(1)については、生物(種)が適度に絶滅死しないと、入れ替わりが起こらず、生物全体が死滅することになるからである。つまり、進化論的に言えば、より優れた(環境に適応した)生物が生き残ればよいわけで、それが人間である必要はない、ということだ。
(2)については、複雑化した多細胞生物にあっては、細胞の老化による「小さな死」があってこそ、新しい細胞という「小さな誕生」が可能となり、総体的には、種の保存に必要な程度に、命を長らえることができるからである。

一一とまあ、これは私の理解だとしておこう。

著者は、こうした「進化論的な事実」を語ることによって、「死」というものの「必要性」を語り、「老い」の「意味」を語り、人類が絶滅すること、個々人が死ぬことへの、闇雲な恐怖を和らげた上で「それでも人間は、より良く生きることはできる」と説明する。いや、人間の生命の進化論的な意味を知れば、人間がいかに「正しく」生きなければならないかが理解できるはずだと、そう期待して本書を書いたのだと言えよう。
著者が言いたいのは、「種の存続のために」、要は「せめて子や孫の世代のために」、私たちは今の生き方を考えなおさなければならない、ということだ。後の世代に「ツケ」を回すような生き方は、「種」としての自殺行為である、と警告しているのである。

当然、その『ユーモアを交えた、軽い語り口』にも関わらず、著者の「未来予想図」は暗い。

『私は、何も(※ 少子化)対策を取らなければ、残念ですが日本などの先進国の人口減少が引き金となり、人類は今から100年ももたないと思っています。非常に近い将来、絶滅的な危機を迎える可能性はあると思います。未来への投資は簡単ではありませんが、手遅れにならないうちに真剣に取り組むべきです。』(P166)

つまり、今やっているような「少子化対策」などは、到底『真剣』な取り組みとは呼べない、まったく不十分なものであり、このままでは、たったの100年ほどで『絶滅的な危機を迎える』可能性は否定できないだろう、と言うのである。

私はこの「未来予想図」を、ことさら悲観的なものだとは思わない。ただし、私の考える、人類が『絶滅的な危機を迎える』主たる原因は、「少子化」ではなく、「地球温暖化」であり、その観点から「良くて100年」だと考えている。
だから、私は本書著者のようには、「実の子」を作らなかった。こんな世界に、子孫を残すのは「無責任」だと思ったからだ。

著者が、こんな「暗い未来予想図」を抱えながら、それでも『ユーモアを交えた軽い語り口』で、人々に「未来のために動こう」と訴えかけるのは、端的に言って、子や孫に対する「責任感」あるいは「負い目」のせいだと思う。
子供を作った以上は、子供たちが最低限「普通」に生きていけるような環境を遺してやらないことには、あまりにも「無責任」だと考えるから、著者は「親」としての最低限の務めを果たそうと、なかば「絶望的な撤退戦」だと承知していながらも、義務感から戦っているのではないだろうか。
そして、そんな「絶望的な撤退戦」であり「抵抗戦」だからこそ『ユーモアを交えた軽い語り口』ででも語らないことには、どこにも救いのない本になってしまうという自覚があっての、この文体選択だったのではないだろうか。

そんなわけで、私個人は、なかば以上「人類は、あと100年くらいで、実質的に死滅するし、それは進化論的には必然的なことで、良いも悪いもないことだ」と思っている。

だが、人類の最晩年に、それでも比較的「幸福」に生きさせてもらった者としては、せめてもの恩返しとして「絶望的な撤退戦」に手を貸すくらいのことはしようと思っている。つまり、残りの命を、自分の趣味快楽の追求だけに使うのではなく、残される人類子孫のために、少しは「義理を果たしておこう」と考えており、私がこのようにレビューを書いているのも、そうした活動の一つなのだ。
だから、私のレビューの多くは、「嫌なこと」を言い、「傍観者ではなく、当事者として動け」というメッセージが込められている。「どうせ言っても無駄だ」と思ってはいても、「無駄を承知の努力」をすることが「義理を果たす」ことだからである。

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『 ここからが重要ですが、次に子供たちに教えないといけないのは、せっかく有性生殖で作った遺伝的な多様性を損なわない教育です。ヒトの場合には、多様性を「個性」と言い換えてもいいと思います。親や社会は、既存の枠に囚われないようにできるだけ多様な選択肢を与えること、つまりは単一的な尺度で評価をしないことです。
 加えて、この個性を伸ばすためには親以外の大人の存在が、非常に重要になってきます。自分の子供がいなくても、自分の子供でなくても。社会の一員として教育に積極的に関わることは、親にはできない個性の実現に必須です。特に日本は伝統的に「家」を重んじ、しつけや教育をそこで完結させる文化があります。子供が小さいときには、基本はそれでいいのですが、個性が伸び始める中学・高校生くらいからは積極的にたくさんの「家の外のいい大人」と関わらせるべきです。私は、少子化が進む日本にとって社会全体で多様性を認め、個性を伸ばす教育ができるかどうかが、この国の命運を分けると思っています。
 他人と違うこと、違う考えを持つことをまず認めてあげないといけませんね。残念なことに日本の教育は、戦後の画一化したものに比べて良くはなっていますが、まだそこまで若者の個性に寛容ではありません。若者が自由な発想で将来のビジョンを描ける社会が、本当の意味で強い社会になります。
 正直言って、個性を伸ばす教育というものは、ともすれば型にはまらないことを良しとする教育なので難しいです。それを達成するための一番簡単で効果的な方法は、「本人に感じさせること」でしょう。親やコミュニティーが自ら見本を見せることです。また、親の世代も含めた社会全体で多様性(個性)を認め合うことが大切です。「君は君らしく生きればいいよ、私がやってきたみたいにね」という感じです。子供の個性の実現を見て、親はその使命を終えることができるのです。』(P176~177)

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端的に言って、これを「日本人」に期待するのは、極めて困難だということくらいは、著者も重々理解しているだろう。だが、『子供たち』への責任として、無駄を承知で、それでも言わないわけにはいかなかった、ということであろう。

それに、ここでは「子供たちの個性を認めてあげよう」と言っているが、実質的には「あなたがた大人が、他人の個性を認め、多様性を認めないことには、未来は無いよ」と言っているも同然なのだが、「和をもって貴しとなす」とか「絆」とか言いながら、その「同調圧力」で、「個性的な人間=毛色の変わった人間」を排除し、潰していくというのが、日本人の日本人たるところなのだから、普通に考えれば、こんな提案は「現実味のない理想」であり「絵空事」に過ぎないだろう。だが、それでも著者は、「親」の責任として、こう書かずにはいられなかったのであろう。まことに痛々しいことだと心より同情するし、また、だからこそ私は、せめてもの務めとして「家の外のいい大人」の役割を演じようと、こんな憎まれ口を叩いてもいるのだ。

私の、子供たちへの、ここでのメッセージは「言いたいことを言えよ。嫌われたって気にするな。言いたいことを言う奴がいるから、社会は硬直しないでいられるんだから、言いたいことを言う奴は、自己犠牲的なカッコイイ文化英雄なんだぜ」ということである。

私は独身で子供もいないから、遺伝子は遺せない。しかし、遺伝子を遺すとは、なにも子供を遺すだけではなく、固有の情報を遺すことでもあろう。いわゆる「ミーム」というやつだ。

『ミーム(meme)とは、脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報である。例えば習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報である。』(Wikipedia「ミーム」)

だとすれば、私がやっていることも、立派な「種」への貢献だと言えるだろう。たとえ、あと100年ほどしか生きられない種だとしても、私は私なりに、「本能」のままに、「種」に貢献しているのであろう。

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〈信仰心なき宗教〉の不気味さ 一一Amazonレビュー:岡本亮輔『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 5月23日(日)17時39分59秒
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 〈信仰心なき宗教〉の不気味さ


 Amazonレビュー:岡本亮輔『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』
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本書は、採り上げられる話題の多彩さとその個々の面白さに目が捕らわれがちなのだが、見逃してはならない本書固有の重要ポイントは、「信仰なき宗教」というものの「不気味さへの着目」である。

じつのところ、最初は私自身が、本書を舐めていた。「まえがき」から「第2章」までを読んでいる間は「方法論を力説するわりには、書いてることはありきたりだな。宗教を表面的に捉えすぎていて、宗教というものの怖さがわかっていないんじゃないか」と、そんな印象を受けて、いささか退屈だったのだが、我慢して読んでいくと「第3章」から「おやっ?」と気にかかる指摘が目に付きだして、著者の語り口も、にわかに「重み」を増していったのである。

本書は、決してわかりやすいものではない。
わかりやすい「部分」というのは、集められた「素材」の面白さであって、著者の問題意識の「重さ」は、見過ごされがちなのではないだろうか。それは著者による、次のような言葉にも表れている。

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『編集部につけて頂いた過分なタイトルからお察し頂けるかと思うが、テーマが明確だった前著(※『聖地巡礼』)と比べ、本書は扱う対象が大きく、構想段階での足踏みが長かった。何度も原稿を読み込み、本書を形にしてくださった同氏(※ 担当編集者)には御礼の申し上げようもない。』(「あとがき」P215~216より。※は引用者補足)

ここで著者が語っているのは、本書の売りは「個々の話題」ではなく、その背後に通奏低音のごとく存在する「日本人特有の宗教性」だということであり、その「固有性」を、これまでの学説の範囲で再説するのではなく、新たな言葉で語ろうとして悪戦苦闘した、という話なのだ。

したがって、著者の語りたかった「日本人特有の宗教性」についての「新しい理解」というのは、必ずしもうまく言語化できておらず、おのずと読者にも伝わりにくいものとなってしまっている。だからこそ私は『本書は、決してわかりやすいものではない。』と書いたのだ。著者が最も語りたかった肝心の部分については、読者が「楽しく読める」ような、わかりやすいものには出来なかった、ということである。

では、著者が語りたかった「日本人特有の宗教性」についての「新しい理解」とは、何か。
それは、著者が本書で繰り返す「信仰なき宗教」という言葉に、隠れているものなのであろう。

通常、「宗教」というものは「信仰(心)」を前提としている。「信仰」があってこその、「教義」や「教祖」や「教団」や「儀式」であって、肝心の「信仰心」がなければ、それらはすべて、その人に自覚があろうとなかろうと、「形骸化」した「宗教もどき」であったり「信仰ごっこ」にすぎない、ということになるだろう。
少なくとも、明確な「信仰心」を持つ人、(例えば、キリスト教の)自覚的信仰者であれば、「形だけの信仰」などというものはありえず、それは「偽物の信仰」でしかないし「宗教の名に値しない」ということになるだろう。

ところが、日本人の「宗教」というのは、もともと「信仰心」というほどの明確なものがなく、「形式」にすがることで「安心感」を得る類のものでしかなかった。だからこそ「厳格な形式規定」がなく、状況によって「ご都合主義的」かつ「融通無碍」にかたちを変えて、人々の「需要」に応えてきたし、人々も、そんな(ある意味で「いい加減」で「適当」な)「宗教」に疑問を持たないばかりか、むしろ、ありがたくそれに「依存」してきた。

実際のところ、「教義」や「教祖」や「教団」や「儀式」といった「宗教形式」にこだわりのない態度とは、「信仰」とは言い難い。「信仰」とは、それらをすべてひっくるめて「唯一の絶対真理」だと総体的に「信じている」という態度なのだから、それらが「どうでもいい」などということになど、なるわけがないのだ。
つまり「信仰心」とは、「宗教」が「主」であり、「私」は「従」である。「従である私」は、より素晴らしいものとしての「主である宗教」に、「私」のすべてを投企するのが当然で、それこそが「信仰」なのである(ということになる)。
一一ところが、日本人の「宗教心」とは、昔から、そして今もまた新たに、実は「そのまま」なのだ。つまり「信仰のない宗教」でしかないのである。

くりかえすが「信仰のない宗教」とは、元来「宗教」の名には値しないものだし、当然のごとく、そのように考えられてきた。それは「エセ宗教行為」であり「宗教ごっこ」でしかなく、その実態は、単なる「依存」でしかなかったと、そう理解されてきたのだ。

しかし、問題は、その依存対象が「宗教的な形式」を取っている場合、それがいかにこれまでの「宗教」的な内実を持っていなかったとしても、それはそれで「一種の宗教」なのではないのか、という疑問だ。
そして、私たち日本人の「宗教」とは、本質的な部分では、昔からずっと「信仰なき宗教」であり「依存目的の宗教的形式利用」という「奇妙な宗教」だったのではないだろうか。

明確な「信仰心」に基づく「信仰」というのは、わかりやすい「宗教」であり、それについては、その美点も難点も、研究的な蓄積がある。

しかし、そうした旧来の枠組みにおいて、これまでは「日本特有の宗教」を、誤って「エセ宗教行為」であり「宗教ごっこ」、所詮は「信仰なき宗教」であり「依存目的の宗教的形式利用」でしかないと、軽視してきたのではないか、舐めてきたのではないか。しかしそうした不用意な傲慢さは、果たして正しかったのだろうか。

くれぐれも言っておくが、私はここで、「日本には日本の信仰形式があり、それは西欧的な信仰観で正しく評価することはできない。日本の信仰には、日本の信仰固有の高い価値が存するのだ」などいう、ありきたりな「日本すごい」論を繰り返したいのではない。

私が言いたいのは、この「信仰なき宗教」「宗教らしからぬ宗教」という「奇妙な宗教」は、これまで見逃されてきた「宗教」として「危険なものなのかもしれない」ということなのだ。
一見「お遊び」めいていて「無害そう」なのだが、だからこそ「宗教らしい宗教」「明確な信仰心に支えられた宗教」とは違った、気づかれにくい「危うさ」を秘めたものなのではないか。

そして、著者が本書で言いたかったことも、これに近いことだったのではないだろうか。

例えば、近年流行の「(アニメの)聖地巡礼」など、見るからに「商業主義的」で、宗教的にはいかにも「無害」に見えるけれども、そういう「宗教に見えない宗教」の方が、かえって、気づかないうちに、人を害する「宗教性」を蔵してはいないだろうか。例えば、「現実」との関係を失わせる「新たな毒」といったものを有してはいないだろうか。

自覚的な「無神論者」である私は、これまで「宗教の害悪」を問題にしてきたけれど、本書に教えられたのは「宗教の名に値しないような宗教もどき、というメタ宗教」の危険性ということだったのである。

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