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電子掲示板「アレクセイの花園」が本年8月1日で、二十年余の歴史に幕を閉じます。(1)

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 3月 7日(月)19時27分59秒
  2001年1月1日に開設した、私(田中幸一・アレクセイ・年間読書人)の電子掲示板(BBS)「アレクセイの花園」を、本年8月1日をもって閉鎖することにしました。

私としても、急な話なのですが、運営会社「teacup.byGMO」の事業撤退により、本年(2022年)8月1日13:00をもって「サービス終了」になるという告知が、先日(2022年3月4日)夕刻、いきなり掲示板のトップに貼り付けられるかたちで、なされたからです。

長年愛用してきた掲示板ですので、もちろん愛着も思い出もたくさんありますから、新たに掲示板を借りて継続するという選択肢だってないわけではありません。
ですが、この先、掲示板を積極的に活用する機会もないでしょうし、なにより今年は私自身が還暦で、来年春には定年退職するというこの年、偶然にもこうした通知が届いたことに、何やら運命的なものを感じ、その意味で「切りが良い」かも知れないなと思ったので、この機会に、利用期限いっぱいをもって、「アレクセイの花園」を閉鎖することを決断した、というわけです。

前記のとおり、今のところ「本年8月1日13:00」までは利用するつもりですが、実際のところ、きっちりその日まで利用できるかどうかは定かではありませんので、それまでに、突然「利用停止」になっていたら、どうぞご勘弁ください。
まあ、そのあたりの事情については、現在の主たる活動場所である「note」の方でご報告いたしますので、そちらをご確認いただければと思います。

・ 年間読書人の「note」(https://note.com/nenkandokusyojin/

 ○ ○ ○

「アレクセイの花園」は、元々は、江戸川乱歩研究家である中相作氏が、自身のウェブサイト「名張人外境」の掲示板に、頻繁に書き込みをしていた私のために、別に立ててくれた掲示板で、「アレクセイの花園」というのも、中氏の命名です。

当時すでに私は「論争家」でしたから、「名張人外境」の掲示板に書き込まれた、いろんな方の意見について、例によって忌憚のない感想や反論を書き込みました。そして、それが喧々囂々の議論・論争に発展することも珍しくなかった。
さらに、私の文章は、とにかく「理詰めで長い」ものでしたし、考えたことは、ぜんぶ書かないと気が済まない。また、批判や反論にあたっては「十分に根拠を示さなければならない」と当時から考えていましたから、その分、どうしても長くなってしまう。さらに、私の批判反論の仕方は、しばしば「逐語的」になされたので、どうしても文章が長く長くなってしまったのです。一一で、のちに付いたあだ名が「塗り壁」。

これは、その最初の(第1期)「アレクセイの花園」が「黒地で白文字」という表示形式になっており、しかも当時の私はネット馴れしておらず、書籍の版面同様の、ほとんど改行のない長い文章を書いていたので、その見た目が、まるで「闇夜に、白い塗り壁」状態だったせいです。

当時(2000年代初頭)はまだ、レンタル掲示板というものさえあまり普及しておらず、個々がCGIソースを書いて、それをサーバにアップするというかたち(このあたりは今でもよくわかってないので、間違っているかもしれません)が主流でしたから、そんなことなど到底できない私は、自分の掲示板を与えられて、純粋に大喜びしたのでした。

私が「名張人外境」の掲示板に、煙たがられるほどの書き込みをしたのは、それ以前だと、紙媒体の「同人誌」に原稿を書いたり個人誌を作るくらいしかなく、文章が読者の手に届くまでに様々な手間と時間がかかって、「好きなだけ書く」などということは、到底できなかったからです。

今日まで、倦まず弛まず、途切れることなく文章を書いてきたことからも明らかなとおり、私は書く場所さえ与えられれば、いくらでも書けるような人間でしたし、まして当時は若かったので、半日以上パソコンに向かいっぱなしで文章を書くなんてことも、ぜんぜん平気でした。私にとってのネットは、読むものではなく、読ませるものであり、そんな私にとっては、量的な制限がかからないネット掲示板は、まさに「自由な遊び場」でした。だから、誰にも遠慮することなく書ける、私の名を冠した掲示板を与えられ、本当にうれしかったのです。

 ○ ○ ○

ただ、掲示板を与えてくれた中氏としては、たぶん、下手な「掲示板荒らし」も斯くやというくらいの頻度と量の書き込みをしてくる私の扱いに手を焼いたあげく、「別に掲示板を作って、そこで(隔離的に)遊ばせておいた方が、話が早い」と考えての措置だったのだろうと、今は思います。

なにしろ、中氏が管理人の掲示板なのに、書き込みの回数や量が、最も多いのも私なら、悪目立ちであろうがなんであろうが、とにかく一番目立っていたのも私でしたから、なんとかしたくなっても不思議ではない。
しかし私は、当たり前に書き込みをし、人の意見に積極的に感想を言い、時に批判もするという、ある意味では非常に真っ当な「意見交換」をしていただけで、決して掲示板を「荒らす」意図などなかったから、中氏としても「出禁」にする口実がなく、困ってしまったのでしょう。

ですから、もしかすると「黒字に白文字表記」という表示形式も、「座敷牢」的なイメージが中氏にはあったのかも知れませんし、「アレクセイの花園」というネーミング自体「そこで勝手に、おめでたく遊んでいなさい」という含意があったのかも知れない(当時すでに、「花園」という言葉を否定的に使う用法があったかどうかは、よくわかりません)。
しかし、その意図がどうあれ、私は自分専用の掲示板を与えられたのがうれしくて、それ以降は、この第1期「アレクセイの花園」が、私の活動拠点となったのでした。

それから数年後、どういう理由だったか忘れましたが、とにかく中氏から、一方的に掲示板閉鎖の通知を受けました。
当然、この最初の「アレクセイの花園」に大変な愛着を持っていた私は、中氏の決定に激しく抵抗したものの、技術的な裏付けをまったく持たない私は、最終的には自分でレンタル掲示板を借りるという選択をせざるを得ませんでした。
当時のレンタル掲示板は、無料であるかわりにデザインのパッとしないものが多く、一度の書き込みに字数制限があるなどの難点も多く、私としては使い勝手の良い、慣れた掲示板で「できれば、このままずっと」と願っていたのですが、そうもいかなくなったのでした。

ちなみに、掲示板の移行に伴い、それまでのログの扱いで、中氏と一悶着あったのですが、これも両者の認識と技術の隔たりによって、解決しないまま、失われてしまいました。
現在のteacup.byGMO有料掲示板のログが、2005年からしかない理由はよくわかりません。teacupの無料掲示板から有料掲示板に乗り換える際に、データの移行ができなかったためだったかも知れません。
一一とにかく、昔の細かいことは、すっかり忘れてしまいましたし、確認のためにわざわざ昔のログを読み返そうとも思いません。今現在でも、読みたい本が山ほどあり、読めば書きたいこともあるので、昔のログなど読んでいる暇はないからです。

 ○ ○ ○

時代はすぐに、「電子掲示板と自作ホームページ」から「ブログ」へと変わり、さらには「ミクシイ」や「Twitter」などの「SNS」の時代へと変わっていきました。

「レンタルブログ」は、試してはみたものの、気に入ったものに出会えなかったため利用はせず、「アレクセイの花園」を中心に活動していた私でしたが、やがて、時代の流れに応じ、主たる活動の場所を移行させざるを得ませんでした。
技術的なことに興味がないため、ネットでの表現形式に関して極めて保守的な私が、「アレクセイの花園」から出て、最初に試してみたのは、当時、世間で評判の「ミクシイ」。そしてその次が「Twitter」でした。「Twitter」は「短文」ということがネックとなって、長らく意識的に無視してきたのです。
ともあれ、時代遅れにともなって閑散としてきた「アレクセイの花園」に比べ、動きの激しく、刺激的なそれらへと、徐々に活動の中心は移ってゆき、「アレクセイの花園」は、年末年始の書き込み以外は、ほとんど更新が止まっているといった時期が10年ほど(これも「だいたい」表記)も続いたと思います。

話は前後しますが、「アレクセイの花園」では、かなり早い時期から頻繁に「荒らし」との喧嘩をしました。私は、大雑把に言えば「左翼リベラル」ですので、そうした意見の気に入らない人たちが、「掲示板荒らし」に来たのです。
当時の掲示板は「投稿即反映」だったので、望まない書き込みが、掲示板上にどんどん反映されました。「ネトウヨの巣窟」と呼ばれることもある、今の「yahoo!ニュースのコメント欄」をイメージしてもらえば良いかと思います。あれが、個人の掲示板において、「荒らし=炎上」目的でなされたわけです。

ちなみに当時はまだ、かの右派ヘイト団体「在特会」も存在していなかったし、「ネット右翼」という言葉も一般化していなければ、その略称としての「ネトウヨ」という言葉もなかったので、匿名で「掲示板荒らし」をする彼らは、もっぱら「掲示板荒らし」あるいは「荒らし」と呼ばれ、当時はそれが通常の名称でした。

で、私は、新たに進出した「ミクシイ」や「Twitter」でも、同様の人たちと喧嘩を繰り返すようになります。
なぜ「議論」ではなく「喧嘩」なのかと言えば、それは「ネトウヨ」には、「政治的意図」はあっても「意見交換」や「議論」の意図がなかったので、「無視(スルー)」するのでなければ、「喧嘩」するしかなかったからです。

したがって、喧嘩が目的で「ミクシイ」や「Twitter」を始めたわけではないものの、さんざ「アレクセイの花園」を荒らされて恨み骨髄の私でしたから、「ミクシイ」や「Twitter」などでも、彼らの舐めた言動が視野に入ってくると、直接私には関係のないことでもあって、放っておくことができなかったのです。

しかし、「個人の掲示板」と「SNS」との違いは、「SNS」には企業としての運営管理者がいたことでした。
そのため、「ネトウヨ」と徹底的に喧嘩した私は、やがてネトウヨたちからうるさがられ、逆に組織的な「管理者通報」を繰り返されて、アカウントの停止に追い込まれました。
もちろん、管理者からは何度か事前警告も受けたのですが、私はこれに「反論と質問」を返しました。無論、それに対するまともな応答などはなく、結局は、当事者のやりとりの内容を問おうとはしない、「ことなかれ主義」の管理を承服できなかったので、ある時期からは意識的に、アカウント停止になるまで徹底的にやったのでした。

そんなわけで、「ミクシイ」と「Twitter」では、2度ずつアカウント停止となって、現在はどちらもそのまま。
最初のアカウント停止による「再登録の停止」は、何年かして、いつの間にか解除されていたので、再登録して利用し、どちらも、ほとんど前回と同じ成り行きで、2度目のアカウント停止となりました。
利用を再開するときは「ネトウヨと喧嘩したって時間の無駄なので、今度はやめておこう」と考えはしたのですが、結局「好きなことを書くのを自制するより、好きに書いてアカウントを強制的に止められる方が、まだ納得できる」と、前述のとおり、開き直るようになっていったからです。

「ミクシイ」と「Twitter」のアカウントが凍結されて、しばらくはあまり文章を書かず、もっぱら読書に励んでいましたが、ある時「Amazonのカスタマレビューなら、読んでくれる人も多いのではないか」と気づいて、それ以降は、もっぱら「Amazonカスタマーレビュー」を利用するようになりました。

「Amazonカスタマーレビュー」に書くようになった理由がこのようなものであったため、他のレビュアーとは違い、私の書くレビューは、「評論」や「エッセイ」を意図したものになりました。Amazonが期待する、「本の紹介」や「感想」ではなく、その本を読んで「考えたこと」を書いたのです。

したがって、つまらない本については「なぜつまらないのか」を論じ、内容の「ひどい本」には「なぜ、どのようにひどいのか」を論じて、決して「面白かった・くだらなかった」といった「感想」では済ませなかった。だからこそ、著者の支持者には嫌がられ、ネトウヨからは管理者へ「削除要請」のなされるレビューになったのです。

そんなわけで、ここでも、私が求めるような「言論の自由」はありませんでした。
なにしろ、所詮、大企業が金儲けのためにやっている「サービス」なので、「言論の自由」を守ろうとか、道義的に筋を通そうなどという気持ちなどまったく無く、ただ「タテマエ」としての綺麗事があるだけ。私が「こちらがテキストを無償で提供し、そちらはそれを掲載するかわりに無料で商用利用するという、これは対等の契約関係だ」という私の理屈など、聞く耳を持つ相手ではありません。
つまり、もっともらしい「利用規約」はあっても、それは、運営者の都合で「利用者の権利を制約するため」にだけ設けられたものなので、「規約に反した書き込みなので、掲載できません」といった通知はあっても、「どの部分がどう規約違反になるのか」という説明などまったく無くて、言わば、管理者の一方的な決めつけで、すべては「片づけられた」のでした。

無論、こうした「弾圧」に対しても、私は可能なかぎりの抵抗をしました。しかし、最後は力づくで「利用停止」にされるというのも、経験上よく知っていたので、そろそろやばいかなと感じはじめた昨年6月に、Amazonにアップしたレビューのデータの移行先として、その頃にその存在を知った、人気のSNS「note」の利用を決めました。
そして、逐次、データ移行作業を行なっていたところ、昨年10月15日に突然「Amazonカスタマーレビュー」がすべて削除され、1週間以上遅れて利用停止の通知があったのでした。

過去に「アレクセイの花園」で「ログを失う」という経験して以来、ログはすべて採ってあったので、Amazon上のレビューが削除されても、データの移行に問題はありません。
そんなわけで、「Amazonカスタマーレビュー」の利用停止以降は、「note」への書き下ろし書評のアップと併せて、Amazonレビューの転載を進め、9割がた転載は済んだ、というのが現況です。

 ○ ○ ○

これまでの、20数年のネット経験により、私は「掲示板」や「SNS」などが、いきなり利用停止になるという経験を、何度もしてきました。そして、そこで出会った人たちとの繋がりも、その瞬間にほとんどが消滅しました。
こんな経験は、一度だってしたことのない人の方が多いでしょうし、私も当初は、その不測の事態に相応のショックを受けましたが、懲りずに同様の経験を繰り返すことで、やがて「今あるものも、いずれは消えて無くなる」という事実を、実感として学ぶことができました。

人間というものは、「今の日常」が「この先もずっと続く」ように、何となく感じているものです。
理屈では、1時間後に車に跳ねられて死ぬかもしれないし、数ヶ月後に災害や急病で死ぬかもしれない。自分が死ぬかもしれないし、家族や友達が死んでいなくなるかもしれないと、そう頭ではわかっていても、いま目の前にあるものが、ある瞬間に、突然消えてなくなってしまうとは、なかなか思いにくいもので、なんとなく「このまま、ずっと続く」ような錯覚に捉われているのです。そしてたぶん、そうした錯覚があるからこそ、人は日々を安穏として暮らせるのでしょう。

もちろん、これは私だって大筋では同じで、自分が、数時間後に死ぬかもしれないなどと、本気で思って生きているわけではありません。日蓮が言った『臨終只今にあり』という言葉は知っていても、それはあくまでも「その気持ちで、今を大切に生きる」という「心がけの言葉」でしかなく、文字どおりに受け止めているわけではない。

しかし、私の場合は、ほとんどの人が経験したことのないであろう「大切なものが、ある日突然消え失せる」という経験を、幸いなことに、いきなり「身近な人間を失う」という経験ではないかたちで、経験することができました。そのせいか、大好きな父を失った時も、子供の頃に想像したほどのショックは受けず、死に顔を見ているのに、なんとなく「いなくなっただけ」「長らく会っていないだけ」という感じが今もします。
むかし親しくしていて、ずっと連絡を取っていなかった年長の友人も、年齢的にすでに亡くなっているはずですが、わざわざそれを確認する気もありません。今更わざわざ連絡をとる気もないので「もう死んでるはずだけど、なんとなく生きてるような感じ」で済ませているし、それでかまわないと思っているのです。

そして、こうしたことは、今は生きている母にも近い将来に起こることだし、下手をすると私自身だって、どうなるかわからない。そんなふうに考えることに、抵抗がなくなりました。
まあ、こんなだからこそ、結婚したら、子供ができたら「成り行き任せで、勝手に死ぬ訳にはいかない」ということにもなって、「それは大変だな」と感じるようになりました。そこまで責任は持てない、などと先回りして考えるようになったのです。
死ぬときは、人に迷惑をかけないで、ただ消えていくように死にたい。そのためには、わが身ひとつ以上の責任は負えないと、そんな感じになったのです。

 ○ ○ ○

しかし、そんな私にとっても、特別に愛着ある「アレクセイの花園」だからこそ、文章を書く気力が衰えて、なんとなく放置している間に私が死んでそのまんま、というような、うやむやな終わり方にはしたくないと思いました。
すでに数年来、動きがないに等しく、ログ置き場状態になってもいたのだから、この機会に「アレクセイの花園」にケジメをつけて、きれいに「完結」させようと、今回の閉鎖を決めました。

現在でも、ときどき書き込みに来てくださる方が2名いらっしゃいますし、この奇特なお二方(オロカメンさん、伊殻木祝詞さん)には申し訳ない気もするのですが、お二人だけなら、今後は個人的にメールやLAINのやり取りをすればいいと、それで許していただくことにしました。

現在と同様、かつて「アレクセイの花園」でも、私は多くの方と議論し論争し、「ネット右翼」とその前身である「掲示板荒らし」とも、数え切れない喧嘩をしてきました。
無論、そればかりではなく、楽しいやりとりも数多くさせていただきしましたが、申し訳ないことに、そっちの方が、むしろ印象に残っていないというのは、私の性分の故とお許しいただきたいと思っています。

 ○ ○ ○

残すところは、半年弱。
まずは、掲示板に残っているログを、すべて回収する作業を進めなければなりません。
原稿としてのログ(テキストデータ)は採っていますが、ゲストの書き込みデータや、掲示板に反映された「日時」の記録などはありませんので、やはり、掲示板画面から直接ログを採取する必要があるのです。

そんな過去のログを採って保管しても、自分自身、読み返すこともないのだし、ましてや他人様が読む機会もなく、残しても意味がないのはわかっていますが、まあ、これは私の記録癖の故なのでしょう。
中学生の頃、戦車のプラモデル作りに凝ったのですが、その頃作った模型の「説明書」を今もぜんぶ残してあるとか、アニメファン時代に買っていた『アニメージュ』誌を、創刊号から購入をやめた200号まで、揃えて今でも仕舞い込んであるとか、それが私に性分なのですね。そう言えば、『アニメージュ』も「切りの良いところで止めた」のでした。

「三つ子の魂、百まで」ということなのでしょう。


(2022年3月7日)


(※ なお、この記事については、「アレクセイの花園」閉鎖まで、随時、追加の予定です。)




 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

 

申し訳ありませんが、閉鎖を決めました。ご理解ください。

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 3月 7日(月)19時25分39秒
  .

伊殻木祝詞さま

どうしましょう?

>  teacup.byGMOのサービスが終わるようですね。
>  今後どうしましょう?

次の記事「電子掲示板「アレクセイの花園」が本年8月1日で、二十余年の歴史に幕を閉じます。(1)」に詳しく記しましたとおり、掲示板のサービス停止に合わせて、ここ「アレクセイの花園」を閉鎖することにいたしました。どうぞ、ご理解くださいまし。

こちらを閉じましても、「note」の方や、個人的におつきあいを継続していただければ幸いと存じます。
前回、リンクを貼っておきましたメルアドの方へ、ぜひご連絡くださいまし。


.

https://note.com/nenkandokusyojin/

 

どうしましょう?

 投稿者:伊殻木祝詞  投稿日:2022年 3月 6日(日)21時39分35秒
   teacup.byGMOのサービスが終わるようですね。
 今後どうしましょう?
 

『模造クリスタル作品集・スターイーター』をめぐって

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 3月 4日(金)13時16分32秒
  .

オロカメンさま

◆レビュー.《模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』》

いつもお書き込み、ありがとうございます。

オロカメンさまも、お元気そうで何よりでございます。
読書も、健康あっての物種でございますから、くれぐれもコロナの感染予防にはご配慮下さいまし。コロナで死ななくても、まだまともに治療が受けられない状態が続きそうでございますから。

>  今年に入ってから何気なく読んだ澤田直『新・サルトル講義』がけっこう面白かったのでこれに乗じて一気にサルトルの本も読んじゃおうかといつも通りにサルトル解説本を4~5冊ほど読んでから前期サルトル思想の主著『存在と無』を読み始めたら全三巻あるうちの1巻目読むだけで半月以上かかってしまって今年も読書冊数が大幅に減りそうな予感が今からしているオロカメンでございます……(;´Д`)

そうでございますか。私も、サルトルはしんどそうなので、ずっと敬遠しておりますが、ジュネには興味がありますので、ジュネの作品とサルトルの『聖ジュネ』だけは買ってあります。ただし、どれも読んではおりません(汗)。

>  さて、それはそうとアレクセイさんからメールでお知らせ頂いた模造クリスタル先生の新刊!『模造クリスタル作品集・スターイーター』、ぼくもゲットして読みましたよ!
 もぞクリ先生の本は近くの書店では扱ってないのでご連絡頂かなかったら危うく見逃してる所でした……(^^;)アブナイアブナイ

私も紀伊国屋書店の梅田本店に買いに行ったのですが、ざっと見ても見つからず、店員に探してもらいました。きっと部数が少なく、平台や面陳はなしで、棚に何冊か挿してあった程度だったのでございましょう。もう、すでに売り切れている可能性も十分ございますね。

未読の『深き淀みのヘドロさん』(KADOKAWA・全2巻)も、第2巻が品切れ状態であり、ブックオフ・オンライン、アマゾン中古、まんだらけのいずれも、在庫がございませんでした。
KADOKAWAだと、売れないとなかなか増刷はしないし、特にこのタイトルでは熱心なファンしか買わないでしょうから、なかなか中古市場に出ないのかもしれませんね。もしかすると、第2巻だけ、初めてkindleで読むことになるかもしれません…。

>  で、今回はその模造クリスタル先生のマンガ短編集『スターイーター』のレビューを書かせて頂きました!
>  アレクセイさんもnoteのほうで既にレビューを上げてらっしゃいますが、こちらのほうでは僭越ながらぼくのほうのレビューを先に書きこませて頂きますよ♪

ええ、「note」にアップした、私の『スターイーター』のレビューも、近々こちらに転載の予定でございますが、ひとまず、下にリンクを貼っておきたいと存じます。

他の皆様には、オロカメンさまのレビューと読み比べていただき、視点と個性の違いを感じていただければと存じます。

>  ってな事でさっそく以下ご笑覧いただきますと幸いですm(_ _)m

※ちなみに、今回も本作の内容についてある程度のネタバレがありますので、模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』をお読みになっていない方は、その点をご了承のうえご覧になって頂ければと思いますm(_ _)m


>  本書収録の『カウルドロンバブル毒物店』や『ネムルテインの冒険』を見ると一見、ごく普通のファンタジー作品のようにも思える。
>  しかし、最近マンガ業界にもアニメ業界にもあふれかえって飽和状態になってしまっている安易なファンタジーRPGパロディ作品とは確実に違う、このざわざわとした読後感は何だろうというのがぼくの中での大きな「謎」で、それを解決しない事には本作の評価というのは下せないと思ったのである。

>  この謎を解く重要なキーとなったのは本書の3つめ短編『ザークのダンジョン』であった。

オロカメンさまのレビューでまず感心したのは、私が触れられなかった「ザークのダンジョン」に注目し、憧れの地上にたどり着き、そこで自分が思っていたようには本が大切にされていないことを知った時のグウナの反応を、詳細に分析している点でございました。
正直、私はグウナの反応がいまひとつピンと来なかったのでございますが、オロカメンさまの分析は、たいへん説得力のあるものだと存じます。

そして、こうした視点から個々の作品の分析した上で、オロカメンさまは全体的な評価を、次のように語っておられます。

>  「安定的な人間の関係性」「安定的な日常サイクル」「安定的な仕事」……これらに訪れる変化というものは、いずれも成長と喪失が隣り合わせで、不安とワクワク感がないまぜとなった複雑な感情を喚起させる。

>  本書の4つの物語には、こういった「安定的な関係性に訪れる変化」によって、登場人物たちは何かを「喪失」する……という特徴がないだろうか?
>  ……これは、本書だけでなく『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』にも同様にみられる構造であった。

>  という事でぼくは今回、本書『模造クリスタル作品集・スターイーター』の4つの短編の構造を《「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かを「喪失」する物語》であるという視点で読み解いてみようと思ったわけである。

《「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かを「喪失」する物語》であるという評価も、適切なものだと存じます。
そして、オロカメンさまは、ここに、作者である模造クリスタルの世界観や個性を見出したわけであり、それは全く正しい評価だと存じます。

ただ、私の模造クリスタル評価、特に今回の作品集『スターイーター』の対する評価の、ニュアンスの違いは、たぶん私の場合は、「そこから先」を強調しているからではないか、と思いました。

つまり、「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かを「喪失」し、しかし、何かを喪失する経験において、新たな関係性を築く勇気を得ることを学んだのではないか。いや、模造クリスタルは、そのように「考えようと望んでいる」のではないかと私は感じ、その方向性を支持するレビューを書いたのだと存じます。

・ 自己憐憫ではなく:模造クリスタルの魅力
  一一書評『スターイーター 模造クリスタル作品集』
 (https://note.com/nenkandokusyojin/n/nbae3e40dac4a

私が、このレビュー最後を、

> もちろん、困難な旅ではあろうけれど、励ましあいながら「まよえるひとの みちしるべに… 」。

> 一一作者は、そう呼びけている。

としたのは、私にとっては、模造クリスタルが「どういう作家か」ではなく、「何を望んでいるのか」ということが重要であり、それが肯定的なものであるのならば、及ばずながら、それを支援したい、ということだったのでございます。


ともあれ、多くの方に、模造クリスタルという稀有な作家の作品を知ってもらい、読んでもらいたいと存じますし、その上で、私やオロカメンさまのレビューを読んでいただければと期待いたしております。


それでは、本日はこれにして失礼いたします。


.

https://note.com/nenkandokusyojin/

 

◆レビュー.《模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』》

 投稿者:オロカメン  投稿日:2022年 3月 1日(火)16時18分9秒
   アレクセイさん、こんっちゃーーーっす!\(^o^)/
 オロカメンでございます(´ω`)

 今年に入ってから何気なく読んだ澤田直『新・サルトル講義』がけっこう面白かったのでこれに乗じて一気にサルトルの本も読んじゃおうかといつも通りにサルトル解説本を4~5冊ほど読んでから前期サルトル思想の主著『存在と無』を読み始めたら全三巻あるうちの1巻目読むだけで半月以上かかってしまって今年も読書冊数が大幅に減りそうな予感が今からしているオロカメンでございます……(;´Д`)

 さて、それはそうとアレクセイさんからメールでお知らせ頂いた模造クリスタル先生の新刊!『模造クリスタル作品集・スターイーター』、ぼくもゲットして読みましたよ!
 もぞクリ先生の本は近くの書店では扱ってないのでご連絡頂かなかったら危うく見逃してる所でした……(^^;)アブナイアブナイ

 で、今回はその模造クリスタル先生のマンガ短編集『スターイーター』のレビューを書かせて頂きました!
 アレクセイさんもnoteのほうで既にレビューを上げてらっしゃいますが、こちらのほうでは僭越ながらぼくのほうのレビューを先に書きこませて頂きますよ♪

 ってな事でさっそく以下ご笑覧いただきますと幸いですm(_ _)m

※ちなみに、今回も本作の内容についてある程度のネタバレがありますので、模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』をお読みになっていない方は、その点をご了承のうえご覧になって頂ければと思いますm(_ _)m

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ぼくは本書『模造クリスタル作品集・スターイーター』を読んで、しばらくのあいだこの作品をどう評価するべきなのか考えあぐねていた。

 ぼくはこれまで模造クリスタルを『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』のように「悲劇を描く作家」だと思っていたので、本書のように明確に「ハッピーエンド」とも「バッドエンド」とも悲劇とも喜劇ともつかない話ばかりが来たというのはなかなか意外だったのだ。

 この作品集は『スペクトラルウィザード』の胸の内をひっかき回してくるような感性の物語とも違えば、『ビーンク&ロサ』の人を食ったような寓話や挿話の数々を入れてくる挑発的なスタイルとも違っている。

 本書収録の『カウルドロンバブル毒物店』や『ネムルテインの冒険』を見ると一見、ごく普通のファンタジー作品のようにも思える。
 しかし、最近マンガ業界にもアニメ業界にもあふれかえって飽和状態になってしまっている安易なファンタジーRPGパロディ作品とは確実に違う、このざわざわとした読後感は何だろうというのがぼくの中での大きな「謎」で、それを解決しない事には本作の評価というのは下せないと思ったのである。

 この謎を解く重要なキーとなったのは本書の3つめ短編『ザークのダンジョン』であった。

 ぼくがこの短編集の中で最も好きな一コマで、ヒリヒリとするような、悲しみとも痛みとも不安ともつかない、途方に暮れてしまうような寄る辺なき感覚を覚えたのがP.201の最初のコマだった。

 「驚くべきことに地上では本は大して役に立たない紙切れだった」

 『ザークのダンジョン』で主人公「グウナ」は、人から「ザーク」と呼ばれる地下に住むアリのモンスターの少女だった。

 グウナはずっと地下ダンジョンで生活しており、彼女の好きな本の中に出てくる地表の世界に憧れを募らせていた。

 そんなある日、グウナはダンジョンに迷い込んできた人間の冒険者から地表への地図を貰い、それを頼りにして遂に地表に出るのである。
 彼女が初めて地表に出た時の一コマは非常に印象的だ。

 ――「空だ!上に何もない!」

 地表に出たとたん、コマの枠線は消え去ってしまう。
 ここには、今まで彼女の行動を制約していた壁も天井もない、どこまでも広がる空間があったのだ。
 だが、枠線を失ってしまったコマは、どこかふわふわとしていて、まるで夢の中のように掴み処のないような、不安定な感じがしないでもない。

 彼女は地下から一生懸命持ってきた数冊の本を地表へ上げる。

 するとしばらくして、彼女は自分が一生懸命に持ってきたこれらの本が、地表では全く価値のないものだと知る事となる。

 「驚くべきことに地上では本は大して役に立たない紙切れだった」

 いまいち表情の読み取れないザークだが、その時のグウナは呆然としているようでもあった。
 そこからの彼女の内面は推測するよりない、が……。

 グウナにとって本とは、自分に夢と希望を与えてくれる「使用価値」があり、それを物とも交換できる貨幣的な価値も備わる「交換価値」もある、特別な価値を持つものであった。

 グウナにとって本は、自分の生活の中心となって存在している特別なものだったのだ。
 グウナが数冊の本を大事に抱え、一生懸命地表にまで持ってきたのは、それが地表でも同じように「特別な価値」があると信じていたからだった。

 だが、彼女が自分の人生の中で最も特別な価値を感じていた本は、地表では「紙切れ」でしかなかった。

 希望をもって訪れた地で最初に気づいたのは、今まで自分が重要だと思っていた物の価値を根底から否定されたという現実だったのである。

 その事を知った彼女は何をしただろうか?

 本の世界に書いてあった森だ!小川だ!草原だ!と心躍らせて広大なる世界に足を踏み出す……となれば、ごくごく普通の少年マンガ的なストーリーで、間違いなく「ハッピーエンド」と呼べる終わり方になっていただろう。
 そのように「書を捨て街へ出よう」だったならば、まだ希望の残る終わり方だったかもしれない。

 だが、彼女はいったん自分の好きな本の世界に戻るのである。

 グウナは自分の持ってきた本の一冊を手に取り「ああ……これは私が一番好きな本。小川を超えて緑の森に向かう少年の物語だ……」と独白する。
 グウナのすぐ目の前には、彼女があこがれた現実の小川や森が広がっているのに、その目の前で彼女は森へ向かって冒険する「物語」の世界に没頭するのである。

 ぼくは、このグウナの「弱々しさ」をひしひしと感じて、悲しくて仕方なくなるのだ。

 本が地表では「紙切れ」でしかなかった事を知ったこの時のグウナは、この急激な価値の転換に、自分の感情や思考がついていけずにキャパオーバーになってしまっているように見える。

 全くの未知の価値観が支配する世界。自分が急に一人ぼっちになってしまったかのような心細さ。この寄る辺なき不安感。

 グウナが現実の小川や森を前にして「小川を超えて緑の森に向かう少年の物語」に戻ったのは、かつての自分の安住の地であった「ダンジョンの世界の価値観」に戻って心を落ち着かせようとしたのではないだろうか。

 例えるならば、全く価値観も言語も違った外国に一人で移住してきた少女が、心細くなって故郷の日本で大好きだったマンガを読み返して心を落ち着かせようとするような感覚に似ているかもしれない。

 安住の地を去り、新しい生活に身を投じようとする時の気持ちというものは「わくわくする」とも「不安だ」とも言える両義的な感覚だと言えるのかもしれない。

 これは、安定的な生活や安定的な関係性に訪れる変化には付いて回る両義性ではないかと思う。

 例えば、「卒業」などはそういったものの代表例だろう。
 学園生活という安定的な生活サイクルが終了するという事は、自分を縛っていた決まりが無くなって生活を一新できる「解放感」を意味しているポジティブなものであると同時に、それまで仲良くしてきた仲間や慣れ親しんできた校舎やいつも楽しみにしていた年間行事との「別れ」を意味しているネガティブなものでもある。
 「卒業」によって人は一つ成長を遂げるかもしれないが、それによって何かしら「喪失」しているものもあるのである。

 「安定的な人間の関係性」「安定的な日常サイクル」「安定的な仕事」……これらに訪れる変化というものは、いずれも成長と喪失が隣り合わせで、不安とワクワク感がないまぜとなった複雑な感情を喚起させる。

 本書の4つの物語には、こういった「安定的な関係性に訪れる変化」によって、登場人物たちは何かを「喪失」する……という特徴がないだろうか?
 ……これは、本書だけでなく『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』にも同様にみられる構造であった。

 という事でぼくは今回、本書『模造クリスタル作品集・スターイーター』の4つの短編の構造を《「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かを「喪失」する物語》であるという視点で読み解いてみようと思ったわけである。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◆『カウルドロンバブル毒物店』

 この短編では二段階の「安定的な関係性に訪れる変化」が発生する。

 最初の変化は「ゴーレムの召喚」である。
 閑古鳥のなく店の状況を変えるために、このお手伝いゴーレム「インゴット」は召喚される。

 この段階で訪れる変化には、店の主人・ウェザリンの生活を活性化させる事が期待されるワクワク感を伴っていた。
 だが、この期待は「役立たずのゴーレム」によって挫折させられる。
 これによって失われたものは、ウェザリンの静かなお店でお菓子を食べるだけの静的で閉塞的な生活である。

 そして二段階目の「安定的な関係性に訪れる変化」は、インゴットの消失と再召喚である。
 これによって失われたものは、インゴットの記憶であった。

 しかし、インゴットがいったん消失し、その記憶がなくなってしまってからウェザリンが気づいた事は、あのゴーレムとのドタバタした日常は「静かなお店でお菓子を食べるだけの静かな生活が失われてしまった」のではなく、その実、そのドタバタした毎日も新たなる掛け替えのない「安定的な関係性」だったという事だった。

 この2回の「安定的な関係性に訪れる変化」は、いずれも「インゴットの召喚」によって訪れているのである。

 この短編で反復される「安定的な関係性に訪れる変化=インゴットの召喚」では、一段階目と二段階目で、いずれもウェザリンが違った受け止め方をするのが印象深いし、そこに作者の描きたかったものがあったのではないかとも思う。

 一段階目では「ワクワク感とその失望」があった。
 二段階目では喪失感を抱くが、その喪失感によってウェザリンがインゴットの存在を大切なものだと実感するのである。

 ウェザリンはインゴットとの関係を再構築するために、記憶を失う前にインゴットに言った「あんたとは話が合いそうね…」という言葉を、ラストにもう一度つぶやくのである。

 因みに、ぼく的には「あーあ、私は一生懸命やってるのにどうしてうまくいかないのかしら」と嘆くウェザリンは、仲間のために一生懸命に頑張っているのにどんどんと自らが不幸になっていく事に嘆く『スペクトラルウィザード』の魔女・スペクトラと同じ遺伝子を持ったキャラクターなのだと感じる。
 グランマから仕事の事を尋ねられ「なんだかいろいろあって自信なくしちゃった。昔は好きだったのに今ではよくわからないみたいな……」というウェザリンの嘆きは、昔は「今よりずっと元気」で「生活も生き生きしていた」のだが「最近はどうにも体が重くて力が出ない」というスペクトラの嘆きと同じテーマを生きているキャラクターなのだろうと思う。
 この共通性は、やはり模造クリスタルにおける好みが反映されているのであろう。



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◆『スターイーター』

 本作はぼく的には最も「模造クリスタルらしい作品」だと思った一編である。

 ナイーブで傷つきやすい内面を持った少女。
 可愛らしい見た目なのに目に光はなく、世の中の全てが彼女を傷つけるようでもある。
 世間や世の中といったものからの乖離感。
 寄る辺なき孤独感。
 「普通の人」からは否応なく浮いてしまう、この人生の行き辛さ。
 ――そういった彼女の悲しみというのは、やはり『スペクトラルウィザード』や『ビーンク&ロサ』にも共通する特徴でもあると思う

 彼女は物語の冒頭から既に葛藤を始めている。
 「私は変わるの……」と決意し、その決意も数瞬後には「やっぱり無理なの……」と挫けてしまいそうになる。
 彼女は水無月さんという知り合いと(おそらく初めて)会う事で「変わる」事が出来ると考えている。しかし、水無月さんから「会うなんてやっぱりできないよ……」と断りの電話が来て、その決意は結局挫折に終わる。

 きりんちゃんは落ち込みながらも「これでよかったの……これでまた何もかももとどおりなの……」と独白する。

 本編における「安定的な関係性/安定的な状況」というのは、きりんちゃんが自分の殻に引きこもり、根暗な自分のまま「変わらないでいる」という事なのである。

 そんなきりんちゃんにおける「安定的な関係性」に訪れる変化というのは不安ちゃんという友人が出来たという事であった。
 それは、たまたま知り合いになったアイドル・アリカちゃんから言われた「落ち込んでいる時にこそ他の落ち込んでいる人をはげましなさい」という助言に従った、小さな一歩であった。

 しかし、それによって彼女の根暗な性格は変わらなかった、が、確実に彼女の「安定的な関係性」は変化を起こしていたのである。

 ガミガミ言ってはくるが、不安ちゃんは確実に、きりんちゃんに声をかけて話してくれるようになった。
 彼女は内心、はげまそうと声をかけてくれたきりんちゃんに感謝していたのである(その証拠に、のちに彼女はきりんちゃんに「はげましてくれたお礼」としておまじないをかける事となる)。

 彼女はすぐに諦め、気落ちしてしまうが、彼女が「変わろう」と思って行った小さな行動は、何かしらの変化を起こしていた。

 そんな彼女の少しずつの「変化」によって、最終的に「喪失」したものは何だったのか?

 彼女は友達の不安ちゃんとお別れする事となる。

 月橋きりんちゃんにとって「安定的な関係性に訪れる変化」とは、勇気を出して明るく振舞い、落ち込んでいる人を励ます事であった。それによって得たものは「不安ちゃん」という友人であった。

 ただし、新たに友人を得るという事は、その友人を失う可能性をも得る事でもあったのだ。
 きりんちゃんが最終的に「喪失」したものは、その「不安ちゃん」だった。

 逆に、不安ちゃんにとっても「安定的な関係性に訪れる変化」というものはあった。
 それは魔女の才能を開花させ、人里を離れて暮らす事である。
 不安ちゃんは人里を離れて暮らす事によって「人から嫌われる事」が減って、彼女の感じる「寒さ」から解放される。
 それによって「喪失」したものは友人であった「きりんちゃん」であった。

 不安ちゃんは「人から嫌われる/人からの悪意を感じる」機会をなくすために人付き合いを絶つことにする。
 きりんちゃんは、友人ができる事で初めて友人から嫌われる可能性も友人とお別れする可能性も出てくるのだと知る。

 不安ちゃんにとっての「変化」は、人から離れる事で「人から嫌われる可能性」を避ける事であった。
 きりんちゃんにとっての「変化」は、人に近づく事で「人から嫌われる可能性」をも自らに引き受ける事になるという事であった。

 こうして見てみると、彼女二人の「変化」は、表裏一体の関係にあったようにも思える。

 学校でのきりんちゃんは、また再び根暗な一人ぼっちの女の子に戻ってしまったようである。
 だが、その「喪失」は必ずしもネガティブなものばかりではなかったと思う。
 きりんちゃんの元から「友人」は去ってしまったが「友情」はその手元に残るのだから。

 「おちこんだときにはほかの人をはげましなさい。それでもおちこんだときはスターイーターがあなたをはげます」



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◆『ネムルテインの冒険』

 所々に詩が入ったり、「やみくも谷」や「嘆きの地底湖」などどこか象徴的とも思えるような地名が出てきたり、と何かを象徴しているかのような寓意的な話なので、何か深い意味があるのではないかと勘繰りたくなるような話である。

 だが、ぼくが思うに本作は本書の中で最もシンプルな構造の話なのではないかと思うのだ。

 これまで説明してきた3篇の短編は全て《「安定的な関係性に訪れる変化」によって登場人物たちが何かを「喪失」する物語》であったのに対して、本作は「安定的な関係性に訪れる変化」を拒絶する物語なのである。

 本作で「安定的な関係性に訪れる変化」を拒絶しているのは龍のネムルテインである。
 本書の表紙の絵を見ても、本作の「主人公」となるべき焦点が当たっているキャラクターは「勇者サグテ」ではなく、龍のネムルテインである事は明白である。

 彼女はサグテに懐いて「どこまでも行こう!二人で地球の反対側まで!」と、いつまでもどこまでも冒険がしたいと希望するのである。

 彼女のこの思いはやや一方的で、しばしばサグテの思いも無視して暴走する。
 それどころか、サグテの健康が思わしくなくなったとしても、「サグテとの冒険」が続けられるのならばそんな事はあまり気にならないとさえ思っているふしが見られるほどなのである。

 サグテはこの冒険の目的はグレーワイバーン・キリの救出だと言うが、ネムルテインはそれを不満に思うのである。
 「ねえその子が見つかったらさ、私との冒険はどうなるの」と彼女は明確な不満を漏らすのだ。

 普通の冒険は、何かの目的を達するための手段であるにすぎない。
 だがネムルテインにとって冒険は、それ自体が目的になってしまっているのである。何故冒険するのか、冒険するために冒険するのである。言わば冒険する事が自己目的化してしまっているのがネムルテインというキャラクターであった。

 彼女のこの不満は「サグテの冒険の目的」が達する――キリとの再会のシーンで爆発する。
 彼女はサグテが救出したワイバーン・キリに襲い掛かるのである。

 キリはすぐに「なるほど。連れてきたんじゃないのね。この荒地で……あなたの最も恐れたものに出会ったというわけね……」とネムルテインの意図に気づいて反撃し、彼女を制圧する。

 ネムルテインは「どうして私が冒険しちゃいけないの……?これじゃ……これじゃ私の冒険が終わっちゃう……」と嘆く。

 ネムルテインが望んだものは、永遠に終わらない「安定的な関係性」だったのである。
 永遠にゴールにつかない冒険。
 心躍るような冒険が、未来永劫延々と続く、冒険のための冒険。

 ネムルテインは「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かしら「喪失」するものがあると分かっていたのだ。だから、彼女はその「喪失」を拒絶したのである。

 果たして、彼女の努力によって再びサグテとの冒険は続けられる事となり、物語はラストを迎える事となる。
 彼女はサグテとこの後も永遠に冒険を続けられるだろうか?
 それは、おそらくありえないのではないか。
 「永遠に変わらない状況」「永遠に変化しない生活」「永遠に変わらない関係性」というものは、現実的にはどこにも存在しない。
 無理にでも続けようとすれば、恐らくそれは「破綻」という形で悲劇的な終わり方を迎えてしまうだろう。

 だからこそ人は皆、人生の節々ですっぱりと「卒業」という事で自らの変化を迫られて生きざるをえないのである。ウェザリンも、きりんちゃんも、グウナも。

 「卒業」とは、両義的な価値のある節目なのだと言えるだろう。
 ポジティブな変化だとも言えるし、ネガティブな変化だとも言える。
 その節々で、人々は何かしらを「失って」きたのである。

 本書のラストを、このような「永遠に変わらない状況」「永遠に変化しない生活」「永遠に変わらない関係性」を夢見る主人公の物語で締めくくるというのは、非常に印象的に思える。

 このために、ぼくにはこの作品のラストの締めくくり方には「ハッピーエンド」とも「バッドエンド」ともつかない、妙にざわざわした奇妙な読後感を抱いたものである。
 この一編のために、ぼくはこの作品集の評価を決めあぐねていたと言っても過言ではない。

 しかし、ぼくは模造クリスタルの作品を読んでいてしばしば感じられるこういったざわざわした感覚が好きである。



◆<結論>◆
  編集者に提案されたアイデアや原作があるような商業出版ではなく、基本的には「自分の好む世界観/物語/テーマ」を選択できる個人誌というスタイルで描かれてきた模造クリスタルの物語世界において、このように《「安定的な関係性に訪れる変化」によって、登場人物たちが何かを「喪失」する》というモティーフが反復されるのは意図的であれ、無意識的であれ、何かしら作者の心理傾向が表れていると言って良いだろう。

 このモティーフは本書だけでなく『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』にも共通する構造なのである。

 ――つまり、そこに模造クリスタル個人が執着しているものがあるのではないか。

 模造クリスタルは「安定的な関係性に訪れる変化」というものに何かしら感性が働き、そこに自分なりのテーマ性を置いている作家なのではないかと思うのである。

 上にも書いたように「安定的な人間の関係性」「安定的な日常サイクル」「安定的な仕事」といったものに訪れる変化というものには、いずれも成長と喪失が隣り合わせで、不安とワクワク感がないまぜとなった複雑な感情を喚起させる。

 そして、これらは誰の人生にも何らかの節目に訪れる機会だと言えるだろう。

 「卒業」する自分がこれからどうなってしまうのだろうか?

 ある人はそれにワクワク感を抱き、希望を胸にし、無限の可能性を見るだろう。
 またある人は、自由過ぎる選択肢の中で途方に暮れ、不安定な状況に投げ出される不安におびえ、仲間たちとの別れに胸を痛めるだろう。

 だが、どちらにしても彼らは、何かを「喪失」しているのだ――というのが、模造クリスタルの作品群の深層に横たわっている感覚なのかもしれない。

 新しくて、開放的で、希望に満ちた卒業、だが、それは反面、怖くて、不安で、そして悲しくて仕方がない変化なのだ。

 

薄暗くも懐かしい〈異界〉の入り口:藤田新策の世界 一一書評:『藤田新策作品集 STORIES』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)23時02分2秒
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 薄暗くも懐かしい〈異界〉の入り口:藤田新策の世界


 書評:『藤田新策作品集 STORIES』(玄光社)

 初出:2022年2月15日「note記事」

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『 藤田新策さんの絵は物語であり、幻想世界である。
  観た者の想像を何処までも掻き立てる。
  唯一無二の作品でありながら、
  これほど小説と相性のいい画家はいない。

           ゲームクリエーター
                小島秀夫  』


帯に剃られた推薦文である。
この推薦文のポイントは、「物語」「幻想世界」「想像を掻き立てる」「唯一無二」「小説と相性がいい」ということになる。

画家自身の「まえがき」では、特に「物語」という点が強調されている。現代の日本では「物」ではなく「物語」が求められている、と。
そして画家は、本書に収められた「装画」を描くにあたって、原作を読み込み、その世界を想像しながら、その『物語世界を表現するように心がけています。』としている。

また、書き下ろしエッセイ「スティーブン・キング」では、キング作品の舞台たるアメリカの田舎町を描くにあたっての基本姿勢を、次のように語っている。

『 キング作品は地方のスモール・タウンを舞台にしたものがほとんどなのですが、これをイメージするのに18歳まで暮らしていた静岡で見た風景や得た体験と記憶が大いに役立ちました。
(中略)
資料を見て描くことも出来るかもしれませんが、空気感や水に浸かったとき足から感じる冷たさ等、体験から得た感覚と記憶にまさるものはありません。』

つまり、画家が装画を描くにあたって大切にしているのは、小説の「作品世界」であり「物語」であると同時に、自身の「体験」に裏付けられた「空気」や「感覚」といった、「個人的な実感」だったのだ。

だからこそ、藤田新策の絵は、藤田の個性を反映した「唯一無二」の作品でありながら、しかし、どんな作品とも無理なく溶け合うことができるのであろう。無理に作品世界に合わせようとすれば、逆に「似せきれなかった」部分に、読者は違和感を覚えるが、藤田の描く世界は「普遍的な実感」に支えられているから、作り物に対する違和感といったものとは無縁であり得たのである。

藤田の絵の魅力は、そこから入っていく世界が、「スティーブン・キングの世界」でもなければ「江戸川乱歩の世界」でもない点にあろう。
誰某の「作家固有の世界」ではなく、普遍的な「読者のために開かれた異界」であり、「薄暗くも懐かしい、秘密めいた場所」の「入り口」なのである。


(2022年2月15日)

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寄る辺なき〈世界の縁〉に立つ:『ビーンク&ロサ』論 一一書評:模造クリスタル『ビーンク&ロサ』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時59分38秒
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 寄る辺なき〈世界の縁〉に立つ:『ビーンク&ロサ』論

 書評:模造クリスタル『ビーンク&ロサ』(イーストプレス)

 初出:2022年2月14日「note記事」

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『スペクトラルウィザード』に続いて、模造クリスタルの第1著作たる『ビーンク&ロサ』を読んだ。
この作家は、絵柄の可愛らしさに似ず、とても「文学的」だ。ここで言う「文学的」とは、「内面性の重視」ということである。

したがって、『スペクトラルウィザード』(の、特に第2巻「最強の魔法をめぐる冒険」)にあったような「物語らしい物語」を本作に求めると、見当違いの期待はずれに終わってしまうだろう。
と言うのも、『スペクトラルウィザード』のレビューでも指摘したことだが、『スペクトラルウィザード』であれ本作であれ、模造クリスタルの主人公たちは、その物語の「設定」世界からは「浮いた存在」であり、その物語世界においては、ある意味で「模造主人公」なのである(つまり、物語世界の方が「模造世界」だとも言えるのだが、要は、どちらを基準とするか、でしかない)。

そして、こうした特徴が(実際の制作時期は詳らかではないものの)第1著作である本作にはとてもよく出ており、本作における「物語的設定世界」たる「人類対怪人」の物語は、主人公たるビーンクとロサにとっては、ほとんどどうでもいいような「背景」と化している。

したがって、その後の『スペクトラルウィザード』において、第1巻では「物語性」が薄かったのに、第2巻で大きく物語が動き出したのは、作者がファンの要請に従って、意識的に物語性を強めたのだと理解していいだろう。言い換えれば、著者・模造クリスタルの本領は、実のところ、そうした「物語らしい物語」性にではなく、むしろ、他の登場人物たちが当たり前に生きている「物語世界」に安住できない、「主人公たちの孤独」の側にあると見るべきなのではないだろうか。

このような観点からすると、本作の「背景世界」が「背景のための背景」として、どうにも緊張感を欠いている理由が、素直に理解できる。
基本的に、そうした「背景世界」の方に住んでいる登場人物たちは、主人公たちとは「違う世界の住人」であり、主人公たちの孤独を癒すことが、どうしてもできない存在なのだ。また、そうだからこそ、主人公たちの孤独は、あまりにも生々しく、救いのないものとして、読者の胸を抉るのであろう。

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本作で、私にとって最も印象的だったのは、少年ビーンクが、怪人仲間との仕事の打ち合わせに行くために、同居人である年下の少女ロサと一緒に、電車で出かけるエピソードだ。
行く先を知るビーンクにロサがついていったところ、結局、目的の駅にはたどり着かず、終点の駅に行き着いてしまう。家を出るまでは、やけに自信満々だったビーングだが、そうした自信あり気なそぶりが、もともと鬱ぎみのビーンクには不似合いであったから、この結果は、ロサにとっては予感的中で「やっぱり」という感じだったろう。

終点駅に降り立ったビーンクは、自分のダメさにすっかり落ち込んでしまい、ホームのベンチに座り、「もう家には帰れん…」「ここに骨をうずめる…」などと言って、頭を抱えてしまう。
しかし、そうしていても埒はあかないし、打ち合わせ場所にいけないので、ロサは「反対の電車に乗るのです、ビーンク」「恥ずかしがらずに駅員にも聞くのです」「ここが目的地でない以上、引き返す以外、道はありません」と、ごく真っ当な助言をして励まし、ビーンクもなんとかベンチから腰を上げ、反対の電車に乗って、目的地に向かうことになる。一一いわば、それだけのエピソードだ。

ここには、物語らしい物語はない。ただ、ビーンクの世界に対する「恐れと不安」の深さだけが伝わってくる。彼にとって電車は、単なる「目的地までの移動手段」なのではなく、「自分の意思にかかわりなく、自分をどこかへと無理矢理に運び去る暴力的な機械」なのだ。

無論、ビーンクだって、頭(理性)では、電車が「目的地までの移動手段」でしかなく、小学生だって平気で乗りこなせるものでしかないことくらいはわかっている。
だが、理屈ではそうでも、彼には電車が「自分の意思にかかわりなく、自分をどこかへと無理矢理に運び去る暴力的な機械」のような「脅威」に感じられ、それに連れ去られていった場所は「二度と戻れぬ放擲の地」のようにしか感じられない。だから彼は、その実感に即して「もう家には帰れん…」「ここに骨をうずめる…」など口走ってしまうのだ。
彼が駅員に、目的地の駅を尋ねることさえできないのは、駅員が「不気味な鉄道の一部」として、よそよそしい存在だと感じられているからだろう。

しかし、そんなビーンクの実感が、ロサにはどうしても理解できない。ただ、ロサはなんとかしてビーンクを助けたいし、しっかりしてほしい。頑張ってほしい。誰よりもビーンク自身のためにである。だから、彼女は、懸命にビーンクを励ましながら、現実的な助言を与え、ビーンクを見守り続けるのである。

しかしながら、そんなロサの思いは、ビーンクには届き切らない。たしかにビーンクも、ロサが自分のために厳しいことを言ってくれているのだということを理解してはいる。しかし、彼の住む「恐れと不安に満ちた世界」を、ロサが理解していないことも知っている。その意味で、ロサはどこまで行っても「別の世界の住人」でしかないのだ。

つまり、ロサのビーンクに対する「こちらの世界に引き戻すことで救いたい」という心からの愛情は、虚しく空転している。それは、ビーンクの世界には届いていないのだ。そして、ロサ自身そのことを薄々感じている。だからこそ、物語の終盤で、


『ビーンクはこの春から(※ 怪人の)新人の研修があるので(※ ロサと二人で暮らしていた、廃キャンピングカーのある)ゴミ山を離れることに
 私(※ ロサ)はひとり ここに残るわけにもいかないので(※ 怪人の仲間である)シャドウクロールの実家に預けられることになりました』(P232)

となり、ロサはビーンクを見送った後、シャドウクロールの実家へ行き、シャドウクロールの両親に、実の娘が帰ってきたかのように、温かく迎え入れられる。
与えられた私室に入った途端、ロサがこれまでずっと付けていた、羊のツノの羊のツノのカチューシャを外すカットは印象的だ。それは、「親」がわりが与えられて、もはや自分が「しっかり者」の「ビーンクの保護者」である必要がなくなったことの、寂しい自覚の表れのように見える。

ロサとシャドウクレールの両親が、夕食のためにリビングでテーブルを囲んでいると、テレビに「怪人たちの大移動」というニュースが流れた。ロサはその報道映像にビーンクの姿を見かけて、思わず「あ、今… ビーンクがうつった…」と小さく漏らす。
それを聞いたシャドウクロールの父親が「え…誰?」と聞きかえすと、ロサは、こんなふうに、その思いを語るともなく語るのだ。


『ビーンクっていうのは…
 なんか…毎日花に水をやったりしているような人で…

 数字とカタカナの区別もつかない…

 私のお兄さん…

 もう二度と会えない…

 たぶん私は捨てられちゃったんだ…』(P245)

そう言って、涙ぐむ。

ビーングといる時は、しっかり者で、頼りないビーングに腹を立ててでもいるかのように口うるさく叱咤していたロサが、ビーンクと離れた途端に「寄る辺ない孤独な少女」になってしまう。
そして、研修に行っただけのはずなのに、つまり、いずれは再開できるはずに、なぜか自分はビーンクに捨てられたのだと感じ、もう二度と会えないのだと感じている。一一これはどうしたことなのだろうか。

結局のところこれは、ロサのビーンクに対する愛情が、どこまで行っても届いていなかったことを、彼女自身が痛いほど感じていたということだろう。
「私がビーンクを必要だと思うほどには、ビーンクは私を必要とはしていない。ビーンクにとっては、別に私でなくてもかまわないのだ」一一そんなふうに感じており、その感情に蓋をしていたからこそ、実際にビーンクから引き離されてしまうと、「ああ、やっぱり、こうなった。もうおしまいなんだ」と感じたのではないだろうか。
そして、この感じ方は、目的地に着けず、終点駅に降り立ったビーンクの絶望と、同種のものなのではないか。

同じような「恐怖と不安」。たぶんビーンクは「一人で置いてけぼりにされたような、孤独と不安」、そしてロサは「置いてけぼりにされそうな、孤独と不安」を抱えていたのではないか。
だからこそ、ロサはビーンクに惹かれ、ビーンクの力になることで一緒に居られると、そう思ったのではないか。だが、その表には出せないロサの孤独を、ビーンクはついに理解することはできなかった。彼はすでに「一人の世界」に生きていたからである。

二人の住んでいる世界は、似てはいるけれども、結局は違っていた。別物だった。
だから、ロサは、ビーンクに「置いていかれた=捨てられた」と感じたのではないだろうか。

実は、私も幼い頃、ビーンクと似たような経験をしたことがある。
小学校の中学年くらいだった頃、私は小児性慢性中耳炎のため、電車で一駅の隣町にある耳鼻科医院に通っていた。幼い頃から親に連れられて何度も通っていたので、その頃には一人で電車に乗って通ったのだ。
しかしある時、帰りに電車を乗り誤り、急行列車に乗ってしまった。
いつものように、自分の住む町の駅に停まると思っていたら、電車はそのまま駅を通り過ぎてしまい、私は半ばパニックになった。自分の駅よりの先の方向には、一人で電車に乗って行ったことがなかったからだ。降りるべき駅を越え、さらに見知った沿線の町が通り過ぎてゆき、やがて知らない街に入っていく。早く降りたい。早く降りて、引き返したいと焦っているのだが、電車はいくつもの駅を素通りして、進んでいく。「いったい、どこまで連れていかれるのだろう」。一一この時の、あまりにも強烈な「寄る辺ない不安感」があったからこそ、私はビーンクの気持ちが、いくらかは理解できたのだと思う。

降りるべき駅を通過し、見知った街並みが流れていくのを車窓から見たとき、その町並みは、どこか私によそよそしかった。私を助けてはくれなかった。あるいは、受け入れを拒否されてしまった。一一そんな感じだっただろうか。

この時の私の感じたものにしろ、ビーンクやロサが感じた「寄る辺なさ」にしろ、それは所詮「実体のないもの」でしかないとは言えるだろう。だが、そうした理解では、この「寄る辺なさ」を解消することはできない。それはなぜか。

もしかすると、この「寄る辺なさ」こそが、この世界の「実相」であり、私たちが日常的に感じている「安定した世界」とは、もしかすると「生きるために設定された、心理的な虚構世界」なのかもしれない。そんな不安が残るからだ。
ハイデガーが「私たちは通常、日常の中に「頽落」した状態に生きている。真の世界に直面することを避けて、手垢にまみれた繭の中で生きている」といったようなことを言ってはいなかったか。

このハイデガー理解は、まったくの間違いかもしれないが、しかし、いずれにしろ私たちの見ている「日常」が、いかに「幻想としての安定感」に支えられたものでしかないかというのは、事故や災害などの突発的な悲劇経験を考えれば、あながち「考えすぎの誤認」とも言えないだろう。

つまり、すべての人は、実のところ、ビーンクとロサ同様に、個々別々の世界に住んでいながら、同じ「一つの世界」に住んでいるという「幻想」を持つことで生きている。この「日常」がそのまま続くという「幻想」の中で安住している。
しかし、そうした「幻想」構成能力を失った時、私たちはこの「世界」を、「背景世界」のようなものとして、よそよそしく感じるのではないか。そして、その時に感じたものの方が、むしろ「むき出しの現実世界」に近いのではないか。

ビーンクとロサが感じている「寄る辺なさ」の闇は、あまりにも深く、その意味で恐ろしい。
私たちは、できればその「深淵」を覗き込みたくはない。

けれども、その縁に立っているビーンクとロサを救うには、やはり一度は、自分もその現実の縁に立たねばならないのではないだろうか。


(2022年2月14日)

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また、つまらぬものを斬ってしまった…。:ネトウヨ「照ZO」さんの憤死

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時57分53秒
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 また、つまらぬものを斬ってしまった…。:ネトウヨ「照ZO」さんの憤死

 初出:2022年2月13日「note記事」

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昨日(2022年2月12日)ひさしぶりに、飛んで火にいる冬の虫ケラたるネトウヨから、私の記事にコメントがあったので、相手になってあげました。

小森田秋夫『日本学術会議会員の任命拒否 何が問題か』(花伝社)のレビュー「愚かな王と〈賢い道化〉:日本学術会議論」のコメント欄です。

ネトウヨというのは、自民党という「勝ち馬に乗るしかない負け犬」政党の支持者だからこそ、「日本学術会議問題」では、日本学術会議を誹謗したがるのでしょうが、もちろん、それだけではなく、彼らのカリスマ・安倍晋三がそうであったように、なにより彼らには「知的コンプレックス(劣等感)」があるからこそ、社会的に認められた「知識人」が嫌いなのです。
またそれでいて、百田尚樹とか櫻井よしことかいった、エセ保守雑誌『諸君!』『正論』『HANADA』などに登場するような「三流知識人」は好きなんですよね。雑誌自体は読まない人が大半でも。

さて、今回コメントをくれた「照ZO」さんは、自己紹介文で、自身を「ネトウヨ」だと認めています。

『今や完全なるnote民ですなwww ドーモ!ネトウヨですwww #最近オカルト話出来て無いすね #因みに反カルトです #オカルトからオの字を取り外す様な行為や言動や思考や思想は許さない派 #Twitter時代から誰もブロックしない事をポリシーとしてます #反ポリコレ #反リベラル』

(※ 「照ZO」のトップページ画像)

とこんな感じですが、わざわざ名乗るまでもなく、どこから見ても典型的な「ネトウヨ」です。

アイコンは、有名なホモ漫画のキャラクターとチェ・ゲバラの有名な画像をかけ合わせたもの。もちろん、どこかからの拝借でしょうが、これはネトウヨ特有の「同性愛者差別」と「反左翼」を表したもの(あるいは、露呈したもの)でしょう。

紹介文に、やたらと「www」と「草」を生やすのも、高齢者ネトウヨの特徴。私と同世代か、もしかすると年上かもしれません。
下にご紹介したコメント欄でのやり取りでも「年齢」について突っ込んでみましたが「無回答」。やっぱり、高齢者なんですね。下手な嘘をついて、墓穴を掘りたくなかったんでしょう。
ものの本によると、カネにもならないのに、今も活動的なネトウヨというのは「2チャンネル」(現在は「5チャンネル」)の時代から活動している、他に芸のない高齢者が多いそうです。

この自己紹介文によると「照ZO」さんは『オカルト』がお好きなようですね。さもありなんで、ネトウヨというのは「被害者意識」が強いので、「オカルト」や「陰謀論」に惹かれやすい。
トランプ前大統領を支持する「Qアノン」も、「ゲーム設定の陰謀論」好きという、知的レベルが低くく、それなのに政治参加によるエンパワーメントを求める、世間の狭いオタクです。

ちなみに、「照ZO」さんは『反カルト』だと主張していますが、これは「ネトウヨ」が「カルトの一種」と言って良いくらいに近いものだからこそ、ことさらに、そう言わなければ気が済まないといったところ(近親憎悪)でしょう。要は「目くそ鼻くそを嗤う」というやつです。
そもそも『オカルトからオの字を取り外す様な行為や言動や思考や思想は許さない派』も何も、ネトウヨであるご自分がそれそのものなのに、否定さえすれば、他人もそう思ってくれると考えているところが、いかにも自己相対化のできない、頭の悪さの証。

『Twitter時代から誰もブロックしない事をポリシーとしてます』というのも、馬鹿丸出しですね。そもそも、自分が他人に絡んでブロックされ、それで「勝った」とか思っている、幼稚な人間ではないかぎり、こんな馬鹿なこと、わざわざ公言したりはしません。もう(たぶん)六十代か七十代なのに、頭の中は「小学生」並み。しかも、ボケて退化したのではなく、小学生レベルから進歩成長しなかった人だということです。

『#反ポリコレ #反リベラル』これも、わかりやすく「ネトウヨ」ですが、言うまでもなく「ポリコレ」の意義など知らず、とにかく「弱者・少数者を思いやって、言葉づかいに気をつけよう」とうるさく言われるのが嫌だという、幼稚な反発から、知ったかぶりで『反ポリコレ』とか言っているだけ。喩えて言えば、親からうるさく「勉強しなさい」と言われた子供が、「勉強だけが人生かよ!」とか反論して見せるのと同レベル。それで当人は、賢いつもりなのです。

当然「反リベラル」と言っても、実質的に「リベラル」と「左翼」の区別もついていないでしょうし、そう言われたら、慌てて「WIKIpedia」を検索して、知ったかぶりをするのが関の山でしょう。知的に幼稚で、気の散りやすいネトウヨには、物事を根本から考えてみるということができないのです。
自覚はないでしょうが、一種の知的障害かもしれませんので、専門医への相談をお薦めしたいと思います。

このように、ネトウヨというのは「知ったかぶり」で「賢ぶって」見せるのですが、本質的には、自分が「頭が悪くて、これといって取り柄のない凡人」であることを知っていますし、実生活ではパッとしない人たちなんですね。だからこそ、ネット上では、やたらに「www」などと「草」を生やして、「余裕があるフリ」を誇示するのです。

しかし、「賢いフリ」は出来ても、自分が「賢いという証明」は、(能力が無いから)絶対にできない。
ネトウヨの言説がどれも似たり寄ったりなのは、彼ら個人には思考能力がなく(弱く)、その点で個性もないから、仲間内での「エコーチャンバー」による低レベルで偏狭な言説を、自分の意見だと思い込んで、オウムのように語るしかないからです。

そんなわけで、典型的な高齢者ネトウヨ「照ZO」さんとのやり取りは、前記のとおり、拙レビュー「愚かな王と〈賢い道化〉:日本学術会議論」のコメント欄でご覧いただけますが、記録として、下にも画像で収録しておきましたので、どうぞ、ご笑読ください。

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(※ コメント欄画像)

(2022年2月13日)

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〈ルッキズム〉と美醜判断の根源性 一一書評・『現代思想 2021年11月号[特集]ルッキズムを考える』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時53分32秒
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 〈ルッキズム〉と美醜判断の根源性

 書評・『現代思想 2021年11月号[特集]ルッキズムを考える』(青土社)

 初出:2022年2月12日「note記事」

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「ルッキズム」とは、要は「見た目(外見)差別」のことだ。
日本人の記憶に新しいところでは、「東京オリンピック2020」開閉幕式で「タレントの渡辺直美をブタに変身させるような演出案が検討されていた(https://www.chunichi.co.jp/article/219745)」と報じられ、当該演出家が辞任するという騒動があった。この場合は、ルッキズムの一種である「肥満者差別」ということになる。

言うまでもないことだが、本人の責めに帰することにできない身体的特徴において、人を差別することはできない。つまり「人を外見で差別してはいけない」ということに一一なりそうなのだが、ことはそれほど簡単ではない。

例えば、ここにスタイルの良い人と肥満の人が並んでいたとして、スタイルの良い人に「あなたはスタイルが良いねえ」と言い、肥満の人には何も言わなかった場合、これは「差別」なのか、それとも「差別」には当たらないのか。

少なくとも、私がその肥満の人だったら(事実、私は肥満体だ)、あまり良い気がしないというのは間違いない。「それを言うんなら、俺のいないところで言えよ」くらいのことは考えるだろう。口には出さないとしても、である。

しかし、人前でおおっぴらに言えないようなことを陰で言うというのは、人品(品位)の問題であったり、倫理的な問題であったりする、ということにもなりそうだから、やはりそこには「ルッキズム」の問題があるようにも思える。

しかしまた、「ある特定の人を、不愉快にする表現だから」と言って、その言葉を「公私ともに使ってはいけない非倫理的な表現」だとするのは、行き過ぎの感を否めない。いわゆる「言葉狩り」にもなろうし、何よりも「表現の自由」を「著しく制限する」ことにもなろう。

つまり、「ある特定の人を、不愉快にする表現」というのは、それを言われた当人には間違いなく「不愉快」ではあろうが、だからと言って「不愉快なものは、すべて禁止」すれば良いのだろうか。無論、そうではない。

例えば、「非難」「批判」「批評」といった行為は、社会の健全性を保つには是非とも必要なものなのだが、「非難」「批判」「批評」をされた(差し向けられた)当人は、確実に「不愉快」であろう。だが、だからと言って、「非難」「批判」「批評」を禁止するわけにはいかない。
そもそも「非難」「批判」「批評」する人は、「非難」「批判」「批評」される人が「不愉快にさせられて当然」なことをやっているのだから、その「問題点=他者を不愉快にさせている事実」を指摘認識させられ、その結果として「不愉快」にさせられるのは「当然(自業自得)だ」と考えて、「非難」「批判」「批評」をしているのである。
したがってここで問題になるのは、「非難」「批判」「批評」をするための「正当な理由」の有無ということになるのだが、これが難しい。「価値判断」というものは、絶対的なものではないからである。

実際、ひと昔前は「肥満は悪」に近い認識があった。要は「健康に良くない」「見苦しい=他人の目に迷惑=自分も恥ずかしい」「一般に動きが鈍く、仕事にも差し障る=人に迷惑をかける」「自己管理ができていない=だらしない・無責任」といったことがあると考えられたからだ。

しかし「黒人差別反対運動」において「肌の色による差別」に疑義が呈せられ、その意味で「見かけのよる差別」は「偏見=社会的に構成された、偏った価値観」によるものでしかなく「黒い肌が醜い=白い肌が美しい」とする価値観を「客観的に正当化し得る論拠はない」とされ、世間の多くもこれに納得したから、「肌の色による差別」は「倫理的に許されないもの」だと認識されるようになった。
だとすれば、当然「太っていて、何が悪い」ということにもなったわけである。

この意見に対して「いや、肌の色は、持って生まれたもので、当人の罪ではないが、肥満は当人のせいだろう」と反論する人もあるだろう。しかし、この反論に再反論するのは、きわめて簡単である。
例えば「私の家系は、明らかに肥満体質である。したがって、私の肥満体質は遺伝的なものであり、私の責任とは言えない」、あるいは「私の置かれた社会環境が、私に肥満に陥る生活を強いたのであり、その意味で私個人の責任とは言えない」等といったことになるからだ。

言うまでもなく「細い方が美しい」というのは、社会的に構成された「ひとつの価値観」でしかない。したがって、太っているのは「見苦しい=他人の目に迷惑=自分も恥ずかしい」というのは、誤った認識だということになる。
そして「一般に動きが鈍く、仕事にも差し障る」「自己管理ができていない=だらしない・無責任」といった点も、ある種の「遺伝的な障害者に対する差別」や「社会における階層差別」といったことになるであろう。
一一このようにして、「肥満者差別」は正当化し得ないものになったのだ。

だが、例えば「遺伝的な障害」は、本人の責任ではないから、本人を責めを負わせることはできず、不利益を負わせることもできないとすると、例えば「遺伝的な問題性格者」はどうだろか?

「親ゆずりの無鉄砲」(夏目漱石『坊ちゃん』)だとか「親ゆずりの短気」「親ゆずりの鈍感」「親ゆずりの共感性欠如」とかいったことだ。
これらは、犯罪につながりやすい傾向性を持っており、現に犯罪を結果することもあるだろう。だが、その場合「親ゆずり」の「遺伝的性格」だから「当人の責は問えない」ということには、ならないだろう。事実として、そんな「判決」など聞いたことがなく、「生まれ持った性格」のコントロールについては、当人に責めが負わされているのである(生まれた後の「生育環境」は考慮されるとしても)。

では、「生まれ持った外見」なら、どうなのか?
「生まれ持った性格」は本人の責任だが、「生まれ持った外見」は本人の責任ではない、ということで「筋が通る」のだろうか。これで、誰もが納得するのだろうか?
無論、これでは論理的一貫性を欠いていて、納得しろというのは無理な話である。

つまり、「差別」の問題というのは、「抽象原理的な正しさ」と「現実問題としての対処必要性」との間に「ギャップ」が存在していて、私たちは、その「バランス」を取りながら、その場その場をしのいでいるに過ぎないのである。それが現実なのだ。だから、「どこにも問題が起こらない、完全に正しい原則」というのは、まず間違いなく、存在しないと考えていいだろう。
しかしまた、そんなものは「存在しない」としても、「存在しないから、どうでもいい」ということにはならず、常に「近似値的な正しさ」を求めながら、私たちは「現実問題」に対処していくしかないのである。

そして、これは「ルッキズム」についても同じなのだ。
実際、「ルッキズム」と一口で言っても、その範囲はいくらでも拡大していく。

『 現代社会においては、広い意味での「見た目に関する差別(appearance discrimination)」が「ルッキズム」と総称されている。ルッキズムの中には、美醜の社会的通念にもとづく差別、肌の色・身長・体格などの身体的特徴についての差別、当該社会において一般的ではない服装に対する差別など、さまざまなかたちの差別が含まれる。年齢や障害の有無も、それらが外見から判断されがちである以上はルッキズムと無縁ではない。』
 (P226、鈴木崇志「現れる他者との向き合い方」より。出典註記略)

「見た目」というのは、単なる「物理的差異」の問題ではない。「物理的差異に対する価値づけ」の問題であるから難しい。
要は「頭の中」の問題であり、「思考」あるいは「感覚」の問題であるからこそ、「それは間違いだ」と評価される以前に、常にすでにそれは「為されているもの」なので、その「為されたもの」を無かったことにはできないし、たいがいは「為さないでいる」「為さないようにする」というようなこと(理性によるコントロール)は、きわめて困難なのである。

しかし、だからと言って「仕方がない」では済まされない。

同様に、本誌の特集記事を読んで「スッキリした解答が与えられない」と注文をつけているだけでは、ダメなのだ。その読者が、ダメだということである。

本誌今号の特集タイトルが「ルッキズム」ではなく「ルッキズムを考える」となっているのは、今のところ「ルッキズム」の(丸ごとの)解決など、とうてい不可能だと認識されているからで、だから「考えなければならない」ということなのだ。
そして、その難問について「考えるべき主体」とは、特集原稿執筆者たちだけではなく、今号を読んだ読者を含む、すべての人なのである。

さて、あなたは「ルッキズム」を定義し、その解決案を提示できるだろうか?

無論、「不可能だ」とか「出来っこない。考えるだけ無駄だ」などというのは、解答になっていないし、社会人としての責めを果たしていない。一一そういうことになるのである。


(2022年2月12日)

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ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉:ラファティのカトリック性 一一書評:R.A.ラファティー『とうもろこし倉の幽霊』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時51分55秒
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 ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉:ラファティのカトリック性

 書評:R.A.ラファティー『とうもろこし倉の幽霊』(早川書房)

 初出:2022年2月11日「note記事」

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昨年刊行された、ハヤカワ文庫の「ラファティ・ベスト・コレクション」(全2冊)に続いて、私にとっては3冊目となった、ラファティの新刊短編集である。

一口にラファティ作品と言っても、これが意外に作風に幅があって、好きでなければ、非常に読みにくいと感じられるだろう作品もあれば、比較的読みやすく、その意味で「普通」の「奇妙な味の小説」もある。要は、けっこう文体を変えてくる作家なのだ。
無論、その上で「一貫した個性」があり、そこが「ラファティらしさ」ということになるのだが、それはどういうところなのだろうか。

私は、前記「ラファティ・ベスト・コレクション」(全2冊)のレビューを「愛嬌のある〈ホラ吹き怪獣〉:R・A・ラファティについて」と題したが、ここで言わんとしたのは、要はラファティは「ユーモアがある」「悪戯っ子のようである」「庶民的である」「威張らない」「にぎやかだが、一面、淋しさや孤独感のようなものをにじませる」「SFというジャンルには収まりきらない作家である」といったことだった。

無論、これは何も私だけが言っていることではなく、ラファティファンの多くが認めるところなのではないだろうか。
ただ、ラファティの作品発表の場がSF小説誌に偏っており、その発表媒体に合わせて、SF的なガジェットを使って書かれた作品が少なくなかったため、当初は「SF作家」として読まれざるを得なかった、ということなのだと思う。

だが、ラファティをSFファンだけに読ませておくのはいかにも勿体ないことだし、実際のところ、ラファティはSFの世界でも「変わり種」作家の一人であって、決してメインストリームを歩む作家だとは評価されていないだろう。
言い換えれば、SF界においてだって、ラファティは評価の分かれる、あるいは好悪の分かれる作家なのではないか。個性的な小説家としては認めても「この人は、もともとSF作家と呼ぶべき作家ではないのではないか」というSFファンも、決して少なくないはずだ。
そして、その評価は、たぶん間違ってはいない。ラファティは、「純然たるSF作家」なのではなく、「SF作家でもある作家」なのではないだろうか。

したがって、私としては、ラファティはもっと多くの人に読まれ、その上で個人的に「合う・合わない」が判断されるべきだと思う。まず、広く読まれた上で、評価されなければ、ラファティにとっては無論、読書家一般にとっても、勿体ないことだと思うのだ。

どちらにしろ、ラファティという作家は、極めて個性的であるために、読者によって「好みの分かれる作家」であり、結果として「読者を選ぶ作家」なのだ。そんなラファティの強烈な個性が、ある人には「中毒性」を持つのに対し、別の人には「なんだか騒々しくて、よくわからない小説」という感じで忌避されるのではないだろうか。
喩えて言うなら、落ち着きのない悪戯っ子を「子供らしくて可愛い」と思う人と、「子供はうるさくてかなわない」と思う人の違いだと言えよう。どちらも、間違ってはおらず、あくまでも「趣味の違い」なのである。

そんなわけで、私としてはラファティを「SF作家」と呼ぶのではなく「変な小説を書く作家」くらいに呼びたい。本当は、広義の「幻想小説家」と呼びたいのだが、この呼称にはこれで「マイナー」なイメージが付いていて、読者を限定してしまうから、残念ながら適切だとは思えない。
したがって、前回に続き、ラファティの個性を比喩的に伝えるなら「ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉」ということになる。

「ポルターガイスト」というのはもともと、家具をガタガタいわせたり、ラップ音立てたりする「騒々しい霊」という意味なのだが、ラファティはただの「ポルターガイスト」ではなく「ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉」なのだ。
だから、滅多にいないという意味では面白いし、うるさいのが苦手な人には、きっとダメだろう、ということなのである。

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ちなみに、本書所収の短編「さあ、恐れなく炎の中に歩み入ろう」における「神学的知識」から窺えるとおり、ラファティはクリスチャンであり、本書翻訳者によると「カトリック信徒」なのだそうだ。
そして、そう言われてみると、ラファティはいかにもカトリックらしい「匂い」がする。

と言うのも、前記のとおり、ラファティには「庶民的である」「威張らない」「にぎやかだが、一面、淋しさや孤独感のようなものをにじませる」といった個性があり、これはいわゆるピューリタン(プロテスタント)的な「知的で禁欲的な狷介孤高」とは、真逆な個性だと言えるからだ。

2015年に刊行された、プロテスタント神学者の森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』は、トランプ旋風に象徴されるアメリカの「反知性主義」というものが、どういうところから、どのように生まれてきたものであったを紹介しており、ここで紹介される「反知性主義」というのは、決して「頭が悪いこと万歳」主義ではなく、言うなれば「小理屈が嫌い」「知的エリート嫌い」「上から目線嫌い」「気取った奴が嫌い」といったものなのだ。

アメリカはもともと、信仰の自由を求めてメイフラワー号で新天地に移住した、イギリスのピューリタン(清教徒)である「ピルグリム・ファーザーズ」に発する国ということになっている。
で、この「ピューリタン(清教徒)」というのは、その名のとおり「清く正しく美しい論理感を掲げた、教養あるプロテスタント」であり、そうした「近代理想主義」的な信仰が、イギリスでは「反教会的」でもあれば「原理主義的」でもあると危険視され、迫害を受けたため、信仰の自由を求めて新大陸に移住した、というわけだ。

つまり、アメリカ合衆国のキリスト教は、もともとはプロテスタント的な知的エリートが中心であったのだが、その後の「開拓時代のアメリカ」の庶民には、こうした「知的で堅苦しい信仰」はだんだん忌避され始め、やがて「理屈よりも信仰心。知解よりも神がかり」の熱狂的な巡回説教師たちによる「反知性主義」的なプロテスタント(今でいう「ペンテコステ」派)が、アメリカでは主流となっていくのである。

それに対し、移民のよって遅れてアメリカに持ち込まれた「カトリック」というのは、その伝統主義において、アメリカではマイナーな存在ではあったけれど、「ピューリタン」ほど「知性主義のエリート主義」でもなければ、ゴスペルを歌って盛り上がるといった熱狂的な「ペンテコステ」派的な「反知性主義」でもなく、その間を行く、伝統主義的であるがゆえに「落ち着いた神信仰」を持ったものだったと言えるだろう。

もちろん、「カトリック」も上の方に行くと、悪しき伝統主義や権威主義が渦巻いていて、決して「プロテスタント」の「極端さ」を見下せるような立場ではないのだが、少なくとも「庶民におけるカトリック信仰」は、極端に走らない「素朴の美徳」を持っていたと言えるのである。

で、ラファティの作品には、こうした「庶民派カトリック」の美徳が、たしかに息づいている。

本書の表題作は「とうもろこし倉の幽霊」で、要は「幽霊話」なのだが、カトリックの正統神学では、無論「幽霊」の存在など認めていない。
人間は死んだら、土の中で「最後の審判」の時まで眠り続け、魂はその体の中にあって、魂だけが地上をウロウロしたりはしないのだ。一部例外的に、死んですぐに「肉体ごと」天に(神の座の横に)上げられたりする人もいるようだが、基本は地下で寝て待つのである。
したがって「幽霊」なんてものは、存在しない。カトリック信仰で存在するのは「三位一体の神(父と子と聖霊)」と「天使」と「(堕天使としての)悪魔」と「人間」と「その他の生物」であり、「幽霊」なんてものの存在は認められていないのである。

だが、庶民の信仰というものは、それほど正統神学に忠実ではないし、堅苦しいものではないので、民間伝承的な「幽霊」だの「怪物」だのも、当たり前に信じられたりしている。
そして、カトリックは、そうしたものにも意外に寛容である。なにしろ「聖人」などという「半神半人」めいたものを、後付けで認めてしまうくらいなのだから(日本の神道や仏教だって、その融通無碍さにおいては大差はない)。

で、ラファティの「カトリック信仰」というのも、こういう「庶民派カトリック」的なものであって、「バチカン的正統信仰」的なものではない、と言えるだろう。彼の信仰は、「ローマ教会=ローマ法王庁=バチカン」的な「唯一正統」を掲げる「権威主義的な信仰」ではなく、もっと「庶民的」な、「土着化したカトリック信仰」なのである。

そして、ラファティの「SF」が、どこか「SFらしくない」のは、この「庶民派カトリック」的な性格にあると見て、まず間違いないだろう。
と言うのも、「正統派SF」というのは、おおむね「近代主義」における「科学信仰」の筋から出てきた、きわめて「プロテスタント」的な性格のものであり、その意味で「庶民派カトリック」的な「土着性」や「庶民性」が薄く、当たり前のように「コスモポリタン」的であり「反地上的」なのだ。

だが、「庶民派カトリック」であるラファティには、そうしたものとはハッキリと違った「土の匂い」がする。だからこそ「SFっぽくない」のであり、どこか「ラテンアメリカの文学」と共通するものを感じさせるのだ。

そんなわけで、ラファティを「ラテンアメリカの文学」の中においてみると、実にしっくりくるのではないか、というのが私のラファティ観であり、したがって、そうした「世界の文学」を読んでいる読者に、是非ともオススメしたいのだが、さていかがなものであろうか?


(2022年2月11日)

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いじめにおける〈日本的な労働環境要因〉一一書評:坂倉昇平『大人のいじめ』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時50分20秒
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 いじめにおける〈日本的な労働環境要因〉

 書評:坂倉昇平『大人のいじめ』(講談社現代新書)

 初出:2022年2月10日「note記事」

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本書著者は、労働問題を扱うNPO法人「POSSE」の理事を務める人物である。つまり、労働問題の専門家だ。

では、その「労働問題の専門家」が、どうして「いじめ」という、一見「畑違い」にも思える問題についての本を書いたのか。それは、殊に日本の場合、「大人のいじめ」に関しては、労働環境の問題が大きく影響しているからである。
つまり、「子供のいじめ」がしばしば「教育環境」や「学校における教育現場環境」から生まれてくるように、「大人のいじめ」においても「職場環境」あるいは「労働環境」が、無視し得ない大きな発生要因となっているのだ。

本書著者が示した労働問題という視座から、私なりに本書の「大人のいじめ」論を整理してみると、大筋で次のようなものになる。

(1)「自発的」な労働管理システムとしてのいじめ
(2)長時間労働の「ガス抜き」としてのいじめ
(3)対抗的な労働者に対するいじめ

次に、上記のような「いじめ」を生む、日本の労働現場の状況として、次の2点が大前提となる。

(A)企業の側に「労働条件の改善をしたくない」という本音の思惑がある
(B)労働者の側に「自分が苦労をしておれば、他人にも同じ苦しみを味わってもらわなければ、不公平だ」という「足の引っ張り合い体質」がある(逆に、西欧の場合は「蹴落とし合い体質」が強い)。

そして、この(A)と(B)が重なったところに、最初に示した(1)~(3)が、おのずと発生する、というわけである。

以上の説明で、大筋はご理解いただけたであろうが、以下に簡単に説明を加えておこう。

(1)について。
要は、理由がどうあれ「仕事ができない人間(男並みではない女性、障害者、仕事の遅い人、家庭の事情で皆と同じように働けない人など)」をいじめて、無理にでも仕事をさせたり、追い出したりするということだ。
これは(B)によって、労働者が「自発的」にやってくれることだから、企業側はアリバイとしての「いじめはいけませんよ」くらいの建前を語っておき、あとは労働者に勝手にやらせておくのである。そのため、このいじめは、企業が「公式には禁止」していても、無くならないことになる。そして、企業は「よく働く社員だけ」を「低賃金」で雇うことができるというわけである。

(2)について。
これも、長時間労働によって溜まったストレスを、(B)によって、労働者が勝手に仲間内で「ガス抜き」をしながら働いてくれるので、労働者の「福利厚生」などに配慮する必要がなくなり、企業側には好都合。
言い換えれば、長時間労働の職場は、おのずといじめも多い、ということになる。

(3)について。
企業側は、「労働組合員」に代表される、企業に「物言う労働者」に対するいじめを、黙認する。
では、どうして「物言わない労働者」たちは、労働条件の改善運動をしてくれる組合員や「物を言う労働者」をいじめるのだろうか?
それは、会社にアイデンティティを委ねきって一体化した「会社人間」であったり、「労使強調の、和をもって貴しとなす」といった体質が、日本人労働者にはありがちだからだろう。
ネット右翼などがそうであるように、自分が「弱者として権力者から虐げられている」という現実の直視が苦しいために、逆に権力の側と心理的に同一化して、「権力者目線(会社目線)」となり、強くなったという勘違いによって、安心を得ようとするのだ。

また、組合員が組合活動に時間を取られていると、「サボっている」「あいつだけ楽をしている」といった「妬み」が出てくる。これも、いかにも日本人らしい「隣の芝は青い」でしかない。
たしかに、御用組合のように、会社と結託することで「労働者の権利ために闘うこと」をサボるのが仕事のような社内組合も多いだろうが、そんな「組合員は(会社の仕事を)サボっている」というのが問題なのではなく、「組合が組合の仕事をしていない」というところが問題でなのあり、組合員を十把一絡げにして敵視するのは、レッテルに欺かれた、いかにも愚かな見当違いでしかない。

そして、このようなあれこれが重なった結果、とにかく「毛色の変わった奴」は「不愉快」だという、日本人らしい「盲目的な感情」が発動して「出る杭は打たれる」という状況になり、いわば自分の首を自分で締めることによって、さらに職場は息苦しくなっていくのだ。

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総論として、日本の職場におけるいじめというのは「悪しき労働環境に対する、見当はずれのはけ口」という側面を持っているが、こうしたいじめが最も多いのは「保育・介護」の職場だという。
これは、端的に言えば、給料が安く、それでいて過重な労働が強いられる職場だということだ。つまり、一人だけやる気を出してもいじめられるし、やる気がなくてもいじめられる。要は、どちらにしろ、その職場の空気を読んで、それに合わせられないかぎり、いじめの対象として「和を乱す存在」だと認定されてしまうということである。

同様に、日本の職場では、障害者に対するいじめも目に見えて増えているのだが、もはやその理由の説明は不要であろう。

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では、こうした理不尽ないじめに対して、労働者はどう対処すればいいのであろうか?
無論、答えは、「いじめる側に回る」か、「いじめられる側になる」か、「いじめと闘う」か、の三者択一である。

「あなたならどうする?」と問われて、「いじめる側に回る」と答える人など、無論多くはないだろうが、日本人の特性である「和を以て貴しとなす」「空気を読む」「長いもののは巻かれろ」といったことからすれば、実際のところ、多くの人は、「いじめる側に回る」でしかあり得ない。

「いや、私はいじめには加担しない」という人も、良くて「傍観者」でしかなく、実質的には「いじめの黙認者」であり、その意味では「共犯者」に近いと言えよう。
子供のいじめの問題では、しばしば「見て見ぬふり」こそが問題となっていて、「声をあげよう」とか「大人に助けを求めよう」といったことが教えられるが、これは大人の場合だって同じはずなのだ。
だが、むしろ子供よりも大人の方が、これをしないことが多い。理由は、子供と同じく「告げ口をすると、今度は自分がいじめの標的にされるかもしれない」と怖れるからだ。

先の問いに対し「いじめられる側になる」と答える人は、まずいないだろう。わざわざ職場でいじめられたい人などいないからだ。
しかし、前述のように「いじめる側に回る」こともせず「黙認する」こともしないのだとすれば、それはおのずと「いじめと闘う」側に回るしかない。そしてその意味で、あえて「いじめられる側になる」、言い換えれば「いじめられる側に立つ」ということになるだろう。
したがって、いじめの問題においては「責任を問われない、中立的立場」というのは、ありえないのだ。「いじめる側に回る」つもりがないのであれば、おのずと「いじめと闘う」しかない、ということになるのである。


『 平穏無事に働きたいだけなのに、なぜ自ら事を荒立て、波風を立てるようなことを勧められなければならないのか。会社に自分の名前を明かさないで救済してもらえる手立てではないのか一一。これらは、筆者がいじめ・ハラスメントの労働相談に受けるときに、よく向けられる言葉だ。
 本書を読んで、同じような疑問を抱いた方もいるかもしれない。望ましい法制度や対策を、行政や政治家、会社に提言してくれるのではないのかと期待していた読者もいるかもしれない。
 だが、本書が提示する「対策」は、労働者による権利の行使である。
 不平を口にせず、求められるままに忠実に勤務していれば、誰かがいじめを取り締り、安定した働き方を用意してくれるのだろうか。いずれ国や会社がなんとかしてくれると他人任せにしてきた結果が、この現状なのではないだろうか。』
(P257「おわりに」より)

つまり、いじめの問題を解決するには、まず当人が動くしかない、ということである。

自分が動かなくても、『行政や政治家、会社』が、その窮状を察して、動いてくれるはずだ、いや動くのが仕事だろう、と考えたくなる気持ちはよくわかるが、それはあまりにも考えが甘い。

力のある者は、自分のためにその力を使うことはしても、他人の面倒までは見きれない。しかし、他人の面倒も、見なければならないところに追い込まれれば、嫌々ながらではあれ動くだろう。
だから、私たち弱者は、『行政や政治家、会社』を動かすためのアクションを、まず自分の方から起こさなければならないのである。

このように書くと『平穏無事に働きたいだけなのに、なぜ自ら事を荒立て、波風を立てるようなことを勧められなければならないのか。』と思う人が多いのだろうが、それで済まないからこそ、このように勧めるしかないのである。

無論、あなた自身が「いじめる側」であったり「黙認する共犯者」であったりするのであれば、こういう面倒なことはしなくて済むだろう。
だが、不本意にもあなたが「いじめられる側」に置かれた場合、闘わないのならば、それはおのずと、いじめを甘受するしかなく、心や体を病んで仕事ができなくなったり、不本意にも職場を去ったり、自殺したいと考えるようなことにもなるだろう。その場合、もはやあなたには、選択の余地などないのである。
つまり、むざむざ殺されるか、立ち向かうか、の二者択一なのだ。

私たち大人は、子供に対し「いじめはいけない」「いじめを見たら、止めなくてはいけない。それが無理なら、大人に助けを求めよう」などということを、なかば「当然の正義」として教えているだろう。だが、その当の大人が、じつはそれをまったく実行できてはおらず、実際には、目の前のいじめに加担し、あるいは黙認しており、それを都合よく、意識の外へ追いやって「幸い、私の周囲には、いじめがない。でも、あれば闘う」などと、お目出度いことを考えているのである。

本書には、ここまで厳しいことは書かれていないが、実際のところ「闘わなければ、いじめる側になるしかない」からこそ、本書では「具体的な闘い方」を教えているのだ。

だから、本書に教えを乞う必要のない人というのは、現にいま、本書が教える現実的な仕方で闘っている人たちだけである。それ以外の人は、多かれ少なかれ、いじめを黙認しており、その事実を意識の外に追いやっているのだと自覚すべきであり、一一無論、私だってその一人なのだ。

いま、私たちはちょうど、映画『マトリックス』第1作で、「不思議の国」の導き手であるモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)から、「青い薬」と「赤い薬」の、どちらを飲むかと選択を迫られている、主人公ネオ(キアヌ・リーブス)と同じ立場に立たされていると言えるだろう。

『これは最後のチャンスだ。先に進めば、もう戻れない。青い薬を飲めば、お話は終わる。君はベッドで目を覚ます。好きなようにすればいい。赤い薬を飲めば、君は不思議の国にとどまり、私がウサギの穴の奥底を見せてあげよう』

「君はどちらを選ぶ?」

もちろん、売れ行きは圧倒的に「青い薬」の方なのだろうが、この選択には、あなたの「人としての尊厳」が賭けられているのだ。


(2022年2月10日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

 

この平凡な現実:「小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 SF作家、哲学と遭遇する」」を視聴する。

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時48分29秒
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 この平凡な現実:「小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」」を視聴する。

 初出:2022年2月5日「note記事」

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結論から書いておくと、この鼎談で語られていることは、実に平凡である。

・「小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」」
https://genron-cafe.jp/event/20211110/

面白くないとは言わないが、その面白さは、三人の「人柄」やら「人間性」が窺えたという点にあって、特別に面白い話や深い話が聞けたわけではない。

酒の入った三人が、それぞれの「意図」を持って、自らの人間性の一部を世間(視聴者)に晒し、視聴者としては、そうした「公式の場では普通は見られない、人間らしい部分」を見られたような気になって「面白い」ということであるし、録画に残っているライブコメントも、大筋でそういう部分を楽しんでいるようだった。日頃見られない「作り込まれていない、生な部分」に接することができたという、ある種の「特権的な体験」をしているという満足を、ライブの視聴者は感じていたのであろう。
しかしながら、こうした鑑賞者たちの受け取り方は、いかにも浅いと思う。

この鼎談では、かなり早い段階から飲酒が始まるのだが、当初、樋口恭介だけは「酒に飲まれるので、奥さんから飲むなと言われている」と固辞するが、座長である東浩紀がしきりに、樋口に飲ませようとする。
小川は、樋口に近いと言うか、「友人」関係にあると認めているSF作家だが、自分は酒を飲んでも大丈夫だと言って飲酒し、側面から東を支援する。

なぜ、東がしきりに、樋口に酒を飲ませようとするのかというと、それは樋口の応答が、いかにも「公式見解」的に無難なものであり、東が期待する「本音」の部分を出さないからである。
そのため東は当初「どうしたの、樋口くん。いつもの感じじゃないじゃない」みたいなことを言い、樋口の方は「いや、僕は意外といつもは、こんな感じですよ」みたいな言葉を返し、鼎談は、ひととおりのやりとりが交わされるものの、まるで「書店イベント」でのそれのように、フックに欠け盛り上がりに欠けるものとなっていた。
(※ ちなみに、本稿内の「」で括った鼎談者による発言は、もっぱら私の記憶による大筋の再現である。内容的な、間違いがあれば、ご指摘願いたい)

その後、ライブを視聴していた樋口恭介の奥さんから、樋口に電話が入り「飲酒OK」の許可が下りた。
東や小川の危惧したとおり、樋口がその身を鎧ったまま、保身的に「無難な公式見解」ばかりを口にしていたのでは、イベントが盛り上がりを欠いて失敗に終わるし、その敗戦責任者として樋口の評価も下がってしまうと、奥さんもそう危惧して、飲酒OKサインを出したようだ。

奥さんからOKが出た途端、樋口恭介は飲酒を始めるのだが、そのピッチは三人のうち最も早い。これはもう、いかにも危うい酒飲みぶりだ。要は、奥さんが止めなければ、自制などできないダメ人間であることが、容易に窺えたのである。

案の定、樋口はどんどん「単なる酔っ払い」と化してゆき、他の二人のやりとりを無視した不規則発言で、悪い意味でのクロストークを頻発させる。人がしゃべっているときに、いきなり何事かを喚きはじめて、視聴者は発言の内容が聞き取れなくなってしまうのである。

しかし、これは東浩紀の望んだ展開だ。
東は最初から「いつもの樋口くんじゃないね」「ツイッターの樋口くんとは違う」「もっと、いつもの感じでやってほしいな」といったことを繰り返し、「このままではつまらないよ」といったことまで言う。だからこそ、樋口の奥さんも「まずい」と思って電話までしてきて、樋口の禁を解いてしまったのだ。

 ○ ○ ○

私がこの鼎談の存在を知ったのは、つい最近のことだ。Googleの検索欄を表示した時に表示されるネットニュースに、この鼎談を紹介する記事が出ていたのだ。

それは、東浩紀が主催する「ゲンロン」のメンバーである、若手作家・名倉編(※ 名前である)による、

・異常と批評の奇妙な邂逅──小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」イベントレポート
https://www.genron-alpha.com/article20220125_01/

である(2022/01/25)。

この記事だけを読むと、鼎談タイトルに恥じない、何やら難しくも深い議論がなされたかのように見えるが、実際の内容で言えば、そうした議論は、全編9時間にわたる大鼎談のうち、酒が入るまでに交わされた、最初の2、3時間のものでしかない。

しかし、この鼎談の真価であり面白さは、東浩紀が鼎談後半で「6時間かかって、やっと樋口くんの本音が聞けるようになった」といった趣旨の発言をしているとおりで、樋口恭介が、完全な「酔っ払い」状態になった後にこそ存しており、名倉編がレポートにまとめたような内容は、実際のところ、この鼎談の「タテマエ」部分でしかないのである。

例えば、「異常論文」という名称の意味についての、名倉のまとめはこうだ。

『つまり異常論文は「小説でありかつ論文でもある」ような、双方の重なる作品を指すのではない。この定義を聞いた小川は、それはむしろ小説や論文といった既存の言葉では定義されてこなかった名前のない領域に与えられた名前なのではないかと応答した。樋口もこれに同意し、「異常論文」は批評にもまた近いジャンルでもあると付け加える。』

要は、これまで適切な名称が与えられなかったがために、見落とされがちだったユニークな作品に「新しい名称」を与えることで新奇さに訴えて、人々の目を惹こうとした、ということだ。

しかし、いまさら言うまでもないことなのだが、もともと「文学は何でもあり」である。
これは、まともに文学を読んできた者には常識に類する話でしかないが、小説は読んでも、「文学とは何か」を考えたことのない多くの人にとっては、「文学」とは「文学だと(権威から)名指されたもの」のことでしかなく、そこからはみ出してしまうものは「文学」だと認知されず、「見えない存在」と化してしまいがちである。

しかし、このような視野狭窄ほど「非文学的」な態度もなかろう。権威ある存在から「これは文学ですよ。だから安心して読みなさい。きっと面白いはずですから」などという「保証」を与えられないと、自分でひとりでは読むものも決められないような読者とは、そもそも「文学」とは無縁の衆生でしかないからである。

だが現実には、「SFファン」であれ「本格ミステリファン」であれ、その「わかりやすい肩書き」にアイデンティを委ねて安住しているような者に、「文学」そのものを考えてみる姿勢などないのは当然だろう。彼らは、権威に保証されたものを追認することで、安心を得ているだけの読者なのだ。

一方「文学」とは、形式的な保証を与えない、むしろそれを脱構築し、ズラしながら展開していくものなのだから、そうしたものと、「特定ジャンル」ファンやマニアとの折り合いが悪いのは、むしろ理の当然なのである。

例えば、今回「異常論文」と呼ばれたものの、所詮はひと昔前に「前衛文学」「実験小説」「ポストモダン小説」などと呼ばれたものでしかない。
しかし、そうしたものは「(わかりやすく)定義されないもの(し得ないもの)」であるがゆえに、「安心できる小説」を読んで「安心」を得たい読者、読んで「よし、私はこの作品の素晴らしさが理解できたぞ。私は優れた読者なんだ」と自己肯定がしたいだけの読者には、当然のことながら喜ばれない。
こうした作品を読んだ者の多くは、それをこれまでの「読みのパターン」に落とし込めず、「何がやりたいのかわからない」「何が面白いのかわからない」となり、「わからない私は、能力が低いのではないか」という不安にかられることになってしまうからである(そしてしばしば、感情的な否認に走る)。

したがって、「前衛文学」「実験小説」「ポストモダン小説」といったものは、一部のコアな文学ファンにしか読まれない。「一読でわからない作品」だからこそ「挑み甲斐もある」と、そんな風に感じる、ややマゾヒスティックで打たれ強い読者だけが、こうした作品を喜んだのだ。

つまり、こうした作品は「読まれなかった」というわけではない。読む読者を、好むと好まざるとにかかわらず、選んでしまっただけなのだ。
誰もがこうした作品の存在を知らなかったわけではなし、その存在価値を認めなかったわけでもない。ただ、「多数の読者」を得る「商品」としての価値を、獲得し得なかっただけなのである。

そんなわけで、「異常論文」というキャッチーな名称が読者に保証するのは「どうせ異常なんだから、あなたが理解できないのも当然なのだ。ただ、その異常ぶりを楽しめれば、それが理解したということなのだ」といったことだった。
そのおかげで、これまでは「前衛文学」「実験小説」「ポストモダン小説」といったものを敬遠していたSFファンも「安心」して、「面白がって見せた」というわけである。「私は異常論文が、理解できる」と。

名倉は、「異常論文」という「ネットミーム」由来の造語の反響について、次のように書いている。

『ネットミームから生まれた『異常論文』は、刊行されるとSFやアカデミズムの外まで届く大きな反響を呼び、スタニスワフ・レムの訳者である沼野充義からも激賞されたという。』

これは、一種の「ハッタリ」である。
『SFやアカデミズムの外まで届く大きな反響』などと言っているが、そんな「反響」について語っているのは、「異常論文」関係者に限定されており、昔の言葉で言えば、これは「自己喧伝」であり「提灯持ち」であり「(営業的)プロパガンダ」でしかない。
要は、狭い業界内であろうと、ちょっと反響があったなら、それを何倍にも増幅して、大声で「流行っている! 流行っている!」と連呼すれば、世間の狭い田舎者が「流行りもの」に飛びついてくる、という仕掛け(友釣り)だ。

さて、このように書くと、私が「悪意」を持って、ことさら「扱き下ろしている」かのように受け取られるのだろうが、そうではない。
例えば、樋口恭介自身も「SFプロトタイパー」を名乗って喧伝し、ちょっとした「ブーム」になっているらしい「SFプロトタイピング」について、この鼎談の中で、東浩紀は「所詮は、薄っぺらな新しいもの好きブームの焼き直し」ではないかという趣旨のことを語っているし、小川哲にいたっては、酒が入る前は「まったく興味がない」と言い、酒が入ってからは「詐欺みたいなものだと思っている」とまで言っているのだ。
これが「SFプロトタイピング」に近いところにいて、しかし、自分はそれに関わっていない人の「醒めた見方」であり「本音の評価」なのである。

さらに小川哲は「異常論文」についても、「特に新しいもだとは思っていないけれども、こうした新しい器を作ってもらうことで、これまで作品発表の場が与えられなかった作家や作品の受け皿になるというのは、単純に良いことだと思う」という、実に正直な「職業小説家の都合」を語っている。一一「レッテルを貼り変えるだけで、売れる商品になるのなら、それは職業作家として有難いことだ」という、身も蓋もない話だ。

事ほど左様に「異常論文」などというものは、「文学」読者には、何ら「新しい」ものではない。
それを過剰に喜ぶのは「盆地の中に安住して、視野の限定されていることにも気づいていなかった、文学的田舎者」の読者でしかないのである。
そもそも『スタニスワフ・レムの訳者である沼野充義』に激賞されたからといって、それがどれほど「広範な評価」を保証するものだと言うのか。
沼野の名がここで挙げられるのは、彼が「レムの翻訳者」であり、レムが「SFマニアの、いまどきの偶像」(原語からの新訳刊行中)だからでしかなく、『SFやアカデミズムの外まで届く大きな反響』と言うのなら、普通の読書家が知っているような「有名人」の名を50人くらい列挙して見せろ、という話でしかない。つまり、所詮は「田舎」で語られる「都会でも大ブーム」言説でしかないのである。

このように、名倉が「レポート」で仰々しく報告しているようなことは、大した内実を持つものではない。ただ、「ゲンロン」のメンバーとして、この鼎談の価値を喧伝したいがための「営業トーク」でしかないのである。

そんなわけで、名倉がピックアップしている、鼎談での他の話題に関しても、いちいち解説する価値はない。本稿読者は、安心して「そんな大層なものではなかったのか」と思ってもらって結構。
前述したとおり、「見世物」としては面白いし、視聴料が千数百円なら安い。ただ、それに9時間を費やすのは、やはり時間の無駄だと、読書家である私は評価する。なぜなら、その隙に、もっと中身のある本が読めるからだ。

 ○ ○ ○

この鼎談で、私が唯一「面白い」と感じた話題は「ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス=political Correctness=PC)」つまり「社会の特定のグループのメンバーに 不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策を表す言葉であり、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性とも言われる。」(Wikipedia「ポリティカル・コレクトネス」)と「批評」をめぐる問題だ。

しかし、これも難しい議論がなされているわけではない。要は「なにかというと、言葉尻を捉えては叩いてくるので、下手なことが言えず、言論が萎縮してしまう」という、ありふれた「問題提起=不満表明=愚痴」の類いでしかない。

東浩紀は、現実的問題として、ポリコレが、悪い意味での「アイデンティティ・ポリティックス=アイデンティティ政治」になってしまっている、とおおむね正しく指摘している。「ポリコレ」の「負の部分」である。

『ジェンダー、人種、民族、性的指向、障害などの特定のアイデンティティマイノリティーに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動。外部の多数派には分からない特定の集団独自のアイデンティティ-の数が増える一方、集団の垣根を超えた見解・感情が共有が急速に失われている。国内外の左派はマルクス主義や社会民主主義の限界が明らかになる中で、新たな主義としてアイデンティティ政治を受け入れた。これ自体は必要な一方で、格差是正のやり方を考えることよりもエリート内での議論に関心が向かった。そのため、古くからあるマジョリティー抱える問題、アメリカならば白人労働者層の貧困の問題からは注意が逸れ、理性的な対話を脅かしかねないようになった。
アファーマティブ・アクション(積極的優遇措置)はアイデンティティ政治がアイデンティティマイノリティーから社会的不公正とされているモノを是正するために推進された法的改正の一つである。一定の成果を上げているが、逆差別やマジョリティの弱視無視・皺寄せが起きていることへの批判の声も存在する。』(Wikipedia「アイデンティティ政治」)

簡単に言えば「党派権益政治」である。
自分たちの「マイノリティー性」を強調し、「弱き強者=裏返しの特権階級」として「ヘゲモニー」を握り、権益を確保しようとするような、「公正さ(フェアネス)」や「他者への思いやり」を欠いた、身も蓋もない「我利我利亡者」的な考え方であり態度が、「ポリティカル・コレクトネス」という建前の下に横行して、「議論」が成立しなくなっている、という悪しき現実。

たしかにこれは重大かつ喫緊の問題であり、何よりも「言いたい放題」なほどに「自由」を重視する、リベラルの一人である私としても、こうした問題を看過するわけにはいかない。私自身「弱者の味方」を自負しているからこそ、「弱者の味方」という立場にドロを塗るような、誤った「ポリティカル・コレクトネス」は、とうてい容認できないのである。

しかしながら、「ポリティカル・コレクトネス」の「問題」は、「ポリティカル・コレクトネス」自体を批判否定して、無くしてしまえばすれば良い、というような簡単な問題ではない。言うまでもなく、「ポリコレ」は、「必要」な「弱者への配慮」であるからこそ、その「濫用」が問題なのである。
そして、この「ポリティカル・コレクトネス」の必要性と、その弱点としての「アイデンティティ・ポリティックス」の問題は、どちらか一方を採れば良いということではないからこそ難しい。逆に言えば、難しい問題を難しい問題のままに、バランスを取りながら取り組まねばならない問題である、という点に難しさがある。

ところが、東浩紀の場合は「プロの言論人」の「保身」の問題として、「ポリコレ」批判をしているようにしか見えない。要は「営業がしにくくて困る」といった程度の問題意識でしかなく、本気で「ポリコレ」の二面性問題に取り組む気構えが見られないまま、わかりやすい不満だけを口にしているのである。

これも「酒が入っているから」言えた「本音」なのかもしれないが、しかし、誰にも判定し得ない「本物の弱者」にとっては死活問題である「ポリコレ」について、所詮は「物書き業者に対する営業妨害」といった程度の問題意識で、迂闊に「ポリコレ」を攻撃するというのは、言論人としては「不見識」であると言うほかないだろう。

「ただのおっさん」の意見としては「気持ちはわかる」のだが、東浩紀は「ただのおっさん」として発言しているのではない。「言論人(批評家)の東浩紀」として発言しているのだから、これは、いくら「酒が入っているから」という「アリバイ工作」をしたって、許されることではないのだ。
それに、東自身(小川もそうだが)「酔ったからと言って、(後で記憶が飛ぶことはあっても)心にもないデタラメを言うことはない」と自信満々に語っているのだから、「酒を飲んだ上での放言」ということにはできず、おのずと「公的な発言」としての「有責性」を引き受けないわけにはいかないのである。

したがって、この鼎談で語られた「ポリティカル・コレクトネス」あるいは「アイデンティティ・ポリティックス」の問題は、切実な「社会問題」として考えなければならない難問であり、その意味で興味深くはあったものの、東を中心とした鼎談者の「ポリコレは問題だよね」レベルの議論は「まったく下らない」ものでしかなかった、と言えるのである。

 ○ ○ ○


そんなわけで「鼎談の中身」自体は、特段なにもないに等しかった。だが、最初に書いたとおり、三人の「人柄」やら「人間性」が窺えたという点でなら、「エンタメ」として大変面白かった、とも評価しえよう。その意味でなら、視聴する価値はあった。

だが、その部分を楽しんだ「東浩紀ファン」「ゲンロンファン」などの、大半の視聴者は、本当の意味での、三人の「人柄」やら「人間性」を楽しんだ、というわけではない。

なぜなら、酔っ払って、ほぼ自己コントロールを失った樋口恭介は別にして、東浩紀と小川哲は、前述のとおり「酒が入っていた」とは言え、自己コントロールを失ってはおらず、所詮は、視聴者に対して「見せたい自分」を「演技」的に見せていたに過ぎないからである。
したがって「酒が入ったから、本音が出て、素の人間性を窺わせ始めた(から面白い)」などと思って、この「鼎談」を視ていた者は、東浩紀と小川哲に、まんまと手玉に取られた、ということなのである。

では、具体的に、東と小川は、自身をどのように「プロデュース」していたのであろうか。

東の場合は、樋口恭介に厳しい注文をつけながらも、最終的には樋口の「可能性」を信頼して評価し、その後押しをする「懐の深い大人」一一を演じたのだと言えよう。

一方、小川の方は「困ったちゃん」である樋口を、それでも「友人」として愛し、その愛のゆえに「否定すべきことは否定し、言うべきことは言って」軌道修正させながら、樋口の成功を願っている「頭のいい、ものの見えた、それでいて本質的に優しい人」一一を、馬鹿な樋口をダシにして、演じ切ったのだ。
そもそも小川は、樋口とは違い、東の設えた舞台の上で、自身を「見せる」ことに慣れた人なのである。

この「読み」もまた「悪意」が籠っていると評価する人が大勢いるだろう。だが「世の中はそんなに甘くない」ということをもう少し骨身に刻んだ方が、身のためである。

「人前」で、見るからに「(面倒見の)いい人」だからといって、その人が本当にそういう人であるかなど、まったく当てにならないというのは、「まともな社会人」なら経験的に知っていなくてはならないことだ。

例えば、上司先輩が「優しくなった」のは、その人が「優しくなった」のではなく「パワハラ」が問題視されるようになったので、保身のために「優しい人」を演じるようになっただけ、という蓋然性が高い。この場合、その上司先輩は、あなたのことを思って「優しくなった」のではなく、自分の「保身=利益」のために、あなたをダシに使って「優しい人」を演じているに過ぎない。

この程度のことは、当たり前の問題意識と「人を見る目」があれば、誰にでもわかることだ。そもそも人間は、そう簡単に変わるものではなく、変わったとすれば、変わらざるを得ないように「環境」が変わった、に過ぎないのである。

また「見るからに、親切そうで優しい人」だからといって、いちいち信用するようなら、あなたは特殊詐欺のいい「カモ」であること間違いなしだ。今は大丈夫でも、もう少しボケたら、詐欺被害に遭うこと間違いなしと、私のこの言葉を肝に銘じておくべきだろう。

事ほど左様に、最初から「公開」することを前提とした「ゲンロンカフェ」における鼎談なのだから、よほどの「馬鹿」か、よほどの「酔っ払い」でもないかぎり、自分の「素の顔」をそのまま見せたりはせず、多少とも、世間に褒めてもらえるような人間を演ずるだろうというのは、当たり前に推測できることなのである。それを、そんなことすら疑いもしないのなら、それはよほど「ボケている」と言うべきなのだ。

実際、前記のように、東浩紀も小川哲も「酒を飲んでも、飲まれることはなく、自分の言っていることは、ちゃんと理解しており、自己コントロールできる」と言っているのだから、それが「素の顔」であるわけがない。
事実、動画を見ればわかるとおり、酒が入ってから語られる「本音」も、「ゲンロン視聴者」の顰蹙を買うようなことは決して言わず、前述の「ポリコレ批判」のように、「ゲンロン視聴者」が喜ぶような「本音」を選んで語っているにすぎない。要は「我々は、メタレベルに立ってるが、ツイッター・リベラルの奴らは、自分たちの正当性のアピールしか眼中にない、多様な他者を思いやれない二次元思考の人間だ」という、視聴者の「エリート意識」と「仲間意識」をくすぐるだけの、実質的には「身内褒め」に過ぎない。

東浩紀は、今どきの「ポリコレ」に問題があると言いながら、では、言論人として体を張って「悪しきポリコレ」と戦うのかというと、そうではない。「馬鹿を相手にするのは、やるだけ無駄」とばかりの捨て台詞を「ゲンロン視聴者」向けに語った上で、自分たちの「閉鎖空間」に自己監禁すると言い、それが「ゲンロン」という場所だ、と言うのである。

したがって「ゲンロン」というのは、「戦いの場」ではなく、基本的には「避難場所」であり「安心して陰口の叩ける場」でしかないのであり、これは言わば、自己監禁の「ひきこもり」戦略なのである。

ともあれ、この鼎談での東浩紀と小川哲の「身振り」が、所詮は「お見物衆」の前での、樋口恭介をダシにした「泣かせのお芝居」でしかないというのは、例えば「アイドルの世界」を少しでも知っている人には明白であろう。
文筆家であるにも関わらず、わざわざ自分の姿をモニター上に晒して、それで日銭を稼ごうとか、売名しようとかする者が、何も考えずに「素の自分」を晒すわけなどない。彼らはすでに「舞台の上の、プロの演者」だからである。


『「どういう関係性でいきましょうか、私たち」
 初めまして、に続いて梅染真凜が私に投げかけた言葉は、単刀直入を通り越して失礼なほど、急ぎ足かつ土足で踏み込んでくるような内容だった。
 (中略)
 返事できないでいると、おかっぱ髪の少女は畳みかけてくる。
「プランの一つ目はオーソドックスな『敵対から尊敬へ』というものです。まず私は努力を否定し効率的に人気を稼ごうとして、愛星さんの保守的なやり方に異を唱え、私たちは険悪なムードになりますが、やがてあなたのひたむきな姿勢にほだされて、徐々に尊敬の念を向けるようになっていく」
「ちょっとちょっと、待ちなさい」
「ご不満なら一段階捻りましょうか。最初私は愛星さんにおべっかを使ってすり寄っていきますが、腹の底では旧世代呼ばわりして見下している。そのことが露見して私は本性をむき出しにしますが、あなたのパフォーマンスにプライドを叩き折られ改心する。つまり私がまずヒールを務めるというものです。単純な仲良し営業やケンカップル営業では飽きられるのも早いですが、段階を踏んでストーリーを作れば長持ちするかと」
「そういう話をしてる訳じゃなくて」
 (中略)
「ちょっと初めから説明しなさいよ」
「愛星さんがグループでデビューされた明治時代と違って、最近ではユニット結成前から物語を織り込んだ関係性を用意するのが常識です。成功確率が高いのは先ほどあげた二つのテンプレですよ」
 (中略)
「設定とか言うのをやめなさい。それになんでもかんでも劇的なヤラセを組み込もうとするのはやめて。あなたと話していると本当のことが全部嘘になっちゃうから」
「演出と言ってください。それも、人気を獲得するための正当な手段としての。これまで演出ゼロなありのままのキャラでやってきた訳ではないでしょう。アイドルとして自分を長生きさせたくないんですか?」』
(大森望編『ベストSF2021』所収、伴名練「全てのアイドルが老いない世界」より、P242~246)

「メタレベルに立つ能力」とやらがカケラでもあれば、「アイドルの世界」において、この程度の「演出」が現に為されていることくらいは、容易に想像がつくはずだ。
そして今どきは、「評論家」だ「小説家」だと言っても、それはまさに「アイドル=偶像」であって、その「権威という幻想」を読者に与えて喜ばせる、芸人の端くれなのだ。
ましてや、わざわざ「新しい放送プラットフォーム」である「シラス」まで作って、そこで自分たちを売り込んでいる東浩紀やそのお仲間(小川哲を含む)が、「アイドル=偶像」を目指していないわけなどないのである。

したがって、この鼎談においても、東が視聴者に売り込もうと狙っていたのは、「面白い物語」であって「批評的な中身」ではない。後者はあくまでも「ネタ」であって、そこが眼目ではない。「批評」の世界も、今や「資本主義リアリズム」に毒されて、そんな「ベタ」な話(批評は中身だ)では済まないのである。
(なお、この鼎談で東浩紀は「資本に取り込まれなかったがゆえに、批評家として生き残っているのは自分だけ」みたいなことを言っているが、東が今でも目立って活躍しているのは、若手批評家たちに『ゲンロン』誌や「ゲンロンカフェ」などの露出の場を提供しているからで、筆一本だったなら、ここまで周囲から持ち上げてはもらえず、他と地味な批評家たちと、大差などなかったはずである)

ところで、この鼎談の中で、『異常論文』への寄稿者の一人である伴名練への言及は、小川による「驚いたことに、伴名練はSFしか読まないで、自分の文学世界を構築してきた人だ」と紹介する箇所だけである。

だからこそ、伴名練は「SF小説アンソロジー」の編者として、適任でもあれば有能でもあるわけで、その意味では、ここで小川は、伴名練を「文学的教養を欠いたSFオタク」だと言っているのではない。一一と、そう好意的に解することもできるが、普通に読めば「文学的教養を欠いたSFオタク」と取られてしまうであろう、これはいかにも片手落ちな紹介であった。

しかし、私に言わせれば、「文学的教養を欠いたSFオタク」であろうと、伴名練は、現実に対する鋭い洞察力を持った作家である。

樋口恭介編の文庫版『異常論文』を、私が批判的に論じた際も、このアンソロジーの中で『異常論文』の問題性を、鋭く洞察し得たのは、伴名練の短編小説「解説 一一最後のレナディアン語通訳」と、その後にくる神林長平の本書解説「なぜいま私は解説(これ)を書いているのか」の2本だけだと指摘して、伴名作品を引用紹介した。


『『 レナディアン語の評価が、「言語SFを得意とする作家の創造した魅力的な架空言語」から滑り落ち「監禁言語」「犯罪者の言語」といったものに固まるのは、中国語によってAが自身の性的被害を語り始めてからのことである。
 レナディアン語とは、レナディアン人であるAにとって、「アル(=榊)が神であり父であり母であり恋人である」と予め定義された支配のための言語だったのである。
 異常な多義性を持っているのは、Aにとっての、発話によるコミニケーションと、自身が受けている性虐待とを認識上で混同させ、その境界線を心理的にも溶解させるためだった。
 語彙や文法が変わっていくのは、言語という意思表示のための道具が榊が司っていることを誇示し、榊に従わねば意思疎通さえ不可能という状態を作って、洗脳を強化するためのものだった。』(P666)

『「榊は、言葉は剣であるべきではないと語りました。綿のように無数の対象を包み込むものでなくてはならないと教えました。
 けれど私は、言葉は時に剣でなくてはならないと思います。安らぎと恐怖、快楽と苦痛、親切と悪意、事実と解釈、愛と支配、あなたと私、それを言葉が切り離すことができると知った時に、私は本当にこの世界に生まれたのだと感じます。もし剣と呼ぶのが危ういのならば、暗闇の中に浮かぶ光だと思います。
 たとえば夜の道で人の足元を照らし、行く先を示す暖かな街灯の光のような」(A)
 (原文は中国語、生田志穂訳)』(P676)

どうであろう。
榊美澄というSF作家は、本アンソロジーの編者である樋口恭介同様に、悪い意味で「レトリック巧者」だったのではないだろうか。』(拙論「真説・異常論文」より)


つまり、私はここで、伴名練の当該短編の中で悪しき「監禁作家」として描かれているカリスマ作家の榊美澄を、「樋口恭介の似姿」と見ることが十分に可能だ、と指摘したのだが、今回ここで注目すべきは、もちろん「監禁」という言葉である。

本稿において、すでに指摘しているとおり、東浩紀の「ポリコレ」に対する身振りは、まさに「自己監禁」であり、他者から一方的な「倫理的非難」を浴びない、心地よく安全な場所(仲間内の島宇宙)への「ひきこもり」だったわけだが、伴名練が描いた「監禁作家の榊美澄」もまた、まったく同じ身振りを示した作家だったのだ。

なお、このことについて、名倉編の鼎談レポートには、こう書かれている。

『 小川は(※ 「東浩紀と倒し方」としては)ウェブでの炎上を仕掛けることが有効ではないか考えたが、東はこれを否定する。炎上はこれまで何度も経験しており、対処もできるためだ。一方、樋口がひねり出したのは「監禁」という方法だったが、それが現実的にむずかしいのは言うまでもないだろう。これらを受けて東自身の口から語られた「東浩紀の倒し方」はじつにシンプルなものだった。曰く。それは東と対話をしないことである。』

しかし東浩紀には、樋口恭介の「監禁」という手法を否定して、「自分は戦える」などと言う資格があるのか?
無論、そんなものはない。東浩紀が戦える相手とは、せいぜい「ネトウヨ」や一本調子の「ツイッター・リベラル」レベルの有象無象で、相手にしなければ済む程度の相手に限定され、決して「ポリコレ知識人」と正面切って(カネにもならない)バトルができる、というわけではないからである。

そもそも東浩紀は、この鼎談でも、酔っ払って大口を叩き始めた樋口恭介を、ちょっとカマして縮み上がらせる、なんてこと外連味たっぷりにして見せていたけれど、東がそれをできるのは、明らかに、自分より「社会的地位(業界的影響力)が低い(格下)」とか「年下」であるとかに限られ、「社会的地位が高い」「年長者」について「不満」を口にするときは、その当の本人のいないところで「泣き言」のように語って周囲の同情を惹く、といった程度のことしかできない。

これは柄谷行人や浅田彰は無論、昔、笠井潔が先輩ヅラで擦り寄ってきたときにも、取り込まれまいとして逃げ腰にはなったけれど、決して、笠井を正面から批判して「だから、貴方とは組めない」と言ったわけではない。「泣き」の入った「正論」で、笠井を拒絶しただけなのである。
(ちなみにこの時、笠井潔は、東浩紀の正論を、言論人として「市場のヤスリに掛かっていない」脆弱なものだといったようなかたちで否定していたはずだが、今ではすっかり、東の方が「市場のヤスリ」を掛ける側に変貌している。一一『動物化する世界の中で 全共闘以後の日本、ポストモダン以降の批評』)

そんなわけで、私が言いたいのは、伴名練の「洞察力」はすごい、ということだ。

樋口恭介編『異常論文』所収の短編小説「解説 一一最後のレナディアン語通訳」にしろ、大森望編『ベストSF2021』所収の短編小説「全てのアイドルが老いない世界」にしろ、ごく身近にある「リアルな問題」を、「小説」の中で説得的に描き、剔抉してみせるのだから、その「社会派に見えない社会派」ぶりは、「読めない読者」には評価不能であるにしろ、もう少し評価されるべきだと私は、そのように強く訴えたいのである。

まして、伴名練は、小川哲の言を信用するならば「SFしか読んでこなかった人」なのに、ここまで「人間」を洞察できるというのなら、それは、これが伴名練の本質的な才能であり、だからこそ彼は、ことさらに深刻ぶった書き方をせずとも、読者を感動させる、「人間が描ける」作家なのであろう、ということにもなる。

私みたいな嫌われ者に褒められても、迷惑なだけかもしれないが、伴名練の実力と人気は、私が誉めたくらいでは揺るがないと信じるので、読者は、私の評価など気にせずに、伴名練の描く「人間」たちを味わっていただきたい。伴名練は、決して「単なるエンタメ作家」ではないということが、必ずや感じ取れるはずである。

 ○ ○ ○

繰り返しになるが、結論としては、小川哲・樋口恭介・東浩紀による鼎談「『異常論文』から考える批評の可能性──SF作家、哲学と遭遇する」」は、「平凡な現実」の再演でしかなかった。

それは「会社の飲み会」でもよく見かける光景の変奏でしかなく、「人気商売の世界=アイドルの世界」では当たり前に演じられる「きれいごとの三文芝居」でしかなかった、ということだ。

そうした意味で、東浩紀と小川哲の演技力は、なかなかのものであり、それなりに評価に値するものだとは言え、まとも酔っ払ってしまい、「イキったヘタレ」の本性を衆目に晒すことになった樋口恭介には、心から同情する。
結局のところ、東と小川という年長者二人に良いように利用され、「道化役」を演じさせられて、多くの人に「これが樋口恭介の本性か」と見下されることになっただけなのだから。

そして、そうした意味では、私なんかより、東浩紀や小川哲の方が、よほど残酷な「樋口恭介批判者」だったと言えるのではないだろうか。

まあ、千円ちょっとで9時間も楽しめるのだから、暇な方は、私の書いていることが事実かどうかを確かめるためにも、ぜひ、この鼎談の録画をご覧あれ。
しかしまた「中身が無いのなら、千円ももったいない」という方は、youtubeでの再放送をお待ちいただければと思う。

「刮目せよ! 春の到来せる日本SF界隈の現実がここにある」という「煽り文句」を、私からも適当に捧げておきたい。


(2022年2月5日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

 

書物における「データ還元主義」の錯誤

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時45分19秒
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 書物における「データ還元主義」の錯誤

 初出:2021年1月27日「note記事」

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先日、友人と交わした「LINE」でのやり取りをご紹介する。それ自体は、ごく短いものだ。

友人が送ってきた、記事リンク「"玉袋筋太郎、「古本の売り時」騒動で持論 「大手では買わないようにしている」ワケ"」に関して、「ブツとしての本」好きの立場から、「本は中身だ」という立場について、批判的に語り合ったものである。

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(2022年1月22日収録)


https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/21/kiji/20220121s00041000579000c.html


SmartNewsで記事を開く "玉袋筋太郎、「古本の売り時」騒動で持論 「大手では買わないようにしている」ワケ" https://share.smartnews.com/385KV
Webで読むなら https://share.smartnews.com/aiwhz

『 玉袋筋太郎、「古本の売り時」騒動で持論 「大手では買わないようにしている」ワケ
  [ 2022年1月21日 22:25 ]

 お笑いコンビ「浅草キッド」の玉袋筋太郎(54)が21日放送のTOKYO MX「バラいろダンディ」(月~金曜後9・00)に出演し、大手の古本販売店に苦言を呈す場面があった。

 番組では、17日放送のNHK「あさイチ」の「知ってます?いまどきリユース」というコーナーについて取り上げた。そこでは、家具や家電、本や洋服などを中古品店やフリマアプリで高く売るテクニックや、不用品をうまく手放す方法などを紹介していた。

 この番組の内容を受けてか、同日に作家の水野良氏はツイッターで「NHKの朝の番組で小説や漫画の『売り時』なるものを『解説』していて怒りを覚えた。消費者にとってのお得情報かもしれないが、作家と出版社にとっては最悪の利益妨害を推奨していたからだ」と、持論を展開。この投稿に様々な意見が寄せられている。

 この件について、玉袋は「俺は大手の古本屋とかでは買わないようにしてるのよ。大手はさ、買い叩くじゃない。作品の価値とかなく100円とか10円とかでさ」と苦言を呈す。「いくら新しくても、売れた本だけとかさ。昔からあった古本屋さんとかの『プレミア本』とみたいなものは無くなっちゃったよね」と、話していた。』


友人「売り時ねぇ。。。」

私「売れてる本を早く買って、すぐに読んで、即売れば、高く引き取ってもらえる、って理屈でしょうね。
そうなると、作家は、ますます新刊を買ってもらいにくくなる。すぐにブックオフとかに並ぶんだから。」

友人「ですね。いま、そうなってます。新古書店は高値買取りセールとかでベストセラーを買ってます。」

私「すぐに手放していいような、何の愛着も湧かないような本は、そもそも読む価値もない。」

友人「そうなんですがねえ\(//∇//)\」
友人「永遠という幻影を夢見させてくれないとねぇ。。。」

私「昔の人は言いました。「損して得とれ」」
私「時間潰しに本を読む段階で、その人の人生ののものが無駄。」

友人「いまはなんでもデータに還元できると思ってるから」
友人「だから装幀とか紙質とか函とか帯が意味が出てくるとおもうのです。」

私「そうですね。
でも、それ(※ データ還元主義)は「お前自身がデータに過ぎないってことだよ」ってことなんですがね。」
私「身体性を欠いたら、人間は生きている意味がない。本だって同じ。」

友人「御意(^^)」

私「同じ遺伝子を持つ人間を、複製して作ったら、古い方のオリジナルはいらない、ということになる。「あなたは最早存在価値のないゴミです」となる。」

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ここでは、友人との気の置けないやり取りゆえの気楽さから、冗談めかして、やや極端な議論を展開しているが、基本的には、私の本音である。

無論、私だって「本は中身が大切」だと考えている。だが、いわばそれは「当たり前の話」であり「大前提」でしかない。つまり、本とは「中身が面白く」かつ「ブツとしての魅力を持つ」べきだし、読書家は「そこまで楽しめる感性」の涵養が、本の未来のためにも望ましい、ということだ。
言い換えれば、「美しい本」の魅力がわからない者は、「読書好き」ではあっても「本好き」ではないし、「本の味方」でもない、ということである。

私たちは、このやり取りの中で「データ還元主義」と「身体性の重視」という議論をしている。
例えば、人間を「心身二元論=霊肉二元論」的に捉えて、「心=霊」が主であり「身=肉」は従だとするような「精神主義=霊性主義」的な考え方は間違っており、それらは人間の実存というものを、あまりにも観念的に捉えすぎている。

そして、そうした「観念的な錯誤」と同様、本についても「テキスト(中身)」と「書籍(形態)」を分けて考えるのは、便宜的には必要なことではあれ、一定の「錯誤的な見落とし」を伴うものだということを、ここで示唆している。
つまり、同じ「テキスト」であっても、「器=形態」が変われば、「味わい」も変わる、という当たり前な話の再確認だ。

比較的わかりやすい例をひとつ紹介しておこう。それは「絵と額縁」の関係である。
どんなに素晴らしい絵(中身)であっても、合わない額縁に収められていたら台無しだ。また、額縁のない絵というのは、その世界観が完結しきらない不完全性を伴う。
一方、絵(作品)に合った額縁に収められると、絵は、額縁の無かった時には発し得なかった魅力を輝かせて、額縁の無い「絵そのもの」に倍する魅力を発しはじめる。つまり「絵と額縁」は、一体のものなのである。
一一そしてこれは、絵画愛好家には、常識に類する「事実」なのだ。

また、しごく俗っぽい例を挙げれば、「馬子にも衣装」という事実がある。
例えば、「顔貌」としては「どこにでもいるお爺さん」であっても、「ローマ法王の衣装」を身につけて、それらしく澄ましていれば、多くの人は、彼を「ありがたい法王さま」のように誤認するだろう。衣装によって彼は、偽物のオーラを(見る者の「偏見」として)発しはじめるのである。

つまり、「中身」が優れていればいるほど、それを収める「器」は相応に立派なものあるべきであり、そうでないものは、それ相応の「器」でかまわない、ということである。

そしてさらに言えば、「貧相な器」で十分な「中身=テキスト」などは、最初から読む価値はなく、そもそもそこでは「器」を問題にする必要もない。重要なのは、「優れた作品=中身」には「優れた器」が与えられるべきだ、ということなのである。

しかし、現実としては、「優れた中身に貧相な装い」「粗末な中身に不相応に豪華な装い」といった「不整合」が、世にはあふれている。だからこそ、そんな時に必要なのは、「器」に惑わされない「目利き」の力なのだ。
例えば「今は〈異常論文〉というのが流行っているよ」などと「電通文学」的に宣伝されると、「原発安全神話」と同様に、すっかりそれに乗せられてしまうというのではなく、「器」に惑わされないで「中身」を冷徹に評価できる、例外的な目の必要性である。

そして、「中身」に対する適切な評価ができれば、おのずと「優れた中身に貧相な装い」「お粗末な中身に不相応に豪華な装い」という「不整合」状況が歓迎すべきものではないと感じられるし、「優れた中身に相応に優れた装いを」あるいは「お粗末な中身にそれなりの装いを」ということにもなるだろう。
これは、「美の擁護者」ならば、当然の要求ではないだろうか。

そんなわけで、私は「中身」と「器」は切り離して考えるべきではない、と考える。「中身」に価値があればこそ、なおさらそれは、優れた「器」を盛られてしかるべきなのだ。

だから、「本は中身だ」などという、わかりきったことを、さも「ひとかどの読み手」ぶって言うような人は、実のところ「中身は無いが、言うことだけは一人前」と「不整合的存在=見掛け倒し=頭の空っぽな饒舌」でしかないのである。

「人間」でも「本」でも、頭の悪い「データ還元主義」を採用すると、まずは「身体性」を損ない、ついには「データ」そのものを見失うだろう。その意味で、「器」は決して軽んじてはならないものなのである。

ここでの友人とのやりとりには、以上のような意味合いが込められている。


(2022年1月27日)

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〈普通の人〉の生きづらさ:孤独のスペクトラ 一一書評:模造クリスタル『スペクトラルウィザード』全2巻

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時22分12秒
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 〈普通の人〉の生きづらさ:孤独のスペクトラ

 書評:模造クリスタル『スペクトラルウィザード』全2巻(イースト・プレス)

 初出:2022年2月2日「note記事」


私の場合、読書は活字本が中心で、あまりマンガは読まないから、この作家の名も、友人のオススメがあって、初めて耳にした。
ずいぶんヘンテコなペンネームだし、タイトルからすると「ファンタジーもの」みたいなので、私の好みではないのではとも思ったのだが、まあ、大長編でもなさそうだし、ブックオフ・オンラインに安く出てたので、試しに読んでみようかと購読することにした。

第1巻にあたる『スペクトラルウィザード』の冒頭で、いきなり、ぎゅっとハートを掴まれてしまった。

黒っぽいゴシックファッションに身を包んだ少女が、家具のほとんどない、がらんとしたアパートらしき畳敷きの一室に帰宅するシーンだ。

部屋は薄暗く、帰宅した少女の表情は、それ以上に暗い。
怒っているわけではない。眉根を寄せた少女の表情は、まるで生きるのに疲れてしまった人のような、ある種の諦観に満ちたものだ。
部屋の真ん中には、黒っぽいちゃぶ台がポツンと置かれており、少女はその上に、コンビニで買ってきたカップラーメンなどの入ったレジ袋を、放るようにして置く。
簡単な食事を終えた少女は、そのままの格好で、畳の上に横になっている。
やはり、一人暮らしのようだ。そして、と心の中で、ポツリと漏らす。

「ぬいぐるみでも ほしいな…」

クマの出来損ないのようなぬいぐるみと踊っている、自分の姿を思い浮かべる。

「そうすれば毎日楽しくて…私も少しは元気が出るかも…」

そう考える。

この、なんとも侘しいシーンに、私は胸が締めつけられるような思いがした。
この少女を何とかして幸せにしてやることができないものかという、差し迫った衝動だ。
無論、作中人物の人生を、読者でしかない私にどうできるわけもないのだが、湧き上がった感情は、理屈を超えているのである。

翌日、少女はぬいぐるみを買いにデパートに出かける。

「近年まれに見る いい考えだな…」
「わが孤独な心は 救いを求めているのだ…」
「魂の伴侶を見つけるぞ…」

少女は、おもちゃ売り場で売られていた、流行りのぬいぐるみを見つける。

「これにするか…」

ズールーラビットという商品名で、ウサギもどきの変なぬいぐるみだ。色は何種類もある。

「色は そうだな…」

たまたま、水色のズールーラビットと目が合ってしまい、

「目が合ってしまったではないか…水色ちゃん」
「お前にしよう」
「運命の出会いだな…」

水色ちゃんをレジへ持っていくと、店員が「ギフト用にお包みしましょうか?」と問うた。「え?」と思わぬ問いにたじろいで、つい「そ…そうだな。たのもうか…」と答えると、店員は「お名前は?」とギフトの宛名を尋ねた。
それに答えて名乗った名前が、

「スペクトラルウィザード」

店員は、その名前にたじろいだ。「スペ? スペ…」
少女は繰り返す。
「スペクトラルウィザード カタカナだ」

 ○ ○ ○

この紹介では、少々鬱っぽい少女魔術師が主人公の「ギャグ漫画」ではないか、という印象を受けた方も少なくないと思う。実際、絵柄的には、頭の大きな4頭身の可愛いキャラクターで、ギャグ漫画向きだし、登場人物の行動ややり取りにはギャグ漫画っぽい部分も多々あるのだが、お話自体はいたってシリアスで、「魔術を使う超能力者と人類との抗争」を描いた作品である。

主人公の少女スペクトラルウィザード(愛称スペクトラ)は、魔術師の一人であり、身体を無実体化(ゴースト化)させて、壁抜けをしたり、銃で撃たれても弾丸が通り抜けるだけで傷を負うこともない、といった超能力を持っている。魔術師は、魔術を使う特別な才能を持って生まれ、それを訓練によって開花させる種族なのだ。

当初、地球には、普通の人間と魔術師の種族が共存していたのだが、魔術師たちはその生き方として「魔術」を極める「純粋魔術」の探求に重きを置いていた。つまり、魔術は実用であるよりも、自分たちのアイデンティティを保証するものだった。
だが、「純粋魔術」の探求において、地球を滅ぼすほどの力を秘めたものが開発されだすと、魔術師たちにそれを使う意図がなくても、普通人の方は落ち着いてもいられず、結局は、魔術師たちをテロリスト認定し、科学兵器を装備した「騎士団」を組織して、魔術師たちを狩り出したり、時に殺害したりし始めた。
一方、そんな人間たちと、真正面からことを構える気のない、生き残りの穏健な魔術師たちは、追われる身となって、人間社会の片隅に身を隠しながらの逃亡生活を続けることになった。スペクトラも、そんな魔術師の一人だったのである。

第1巻では、スペクトラは、魔術師を追う騎士団の少女ミサキと、敵対的ではあるものの、なぜか友人に近い関係であり、ミサキを電話で呼び座して、水色ちゃんを見せびらかしたりする。きっと、他に友人がいないので、自分を追っているミサキを友達扱いにしているのだろう。

そんなある日、スペクトラは、ある魔術師の遺した、世界を破滅させる力を持った魔道書の複製データを、騎士団が保管していると知る。スペクトラは、騎士団による魔道書の悪用を防ごうと、データを破壊するため騎士団のサーバへと赴き、ミサキと対決することになる。
ゴースト化能力によって、スペクトラはミサキとの戦いに勝ったかに見えたが、ミサキに水色ちゃんを、人質ならぬ「ぬいぐるみ質」に取られ、降参し、敗北を認める。

このあと、スペクトラのかつて友人知人だった個性的な少女魔術師たちが次々と登場することで、物語が動き出すが、相変わらず、半分ギャグ漫画のようなノリである。
だが、第2巻にあたる『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』に入ると、物語は長編的な展開を見せ、やがて物語は、切ないラストを迎えることになる。

もともと、主人公からして、鬱っぽくて暗いとはいうものの、まさかこんな終幕を迎えるなんてと、多くの読者はショックを受けた。そして、できればこの悲しいラストをひっくり返す続編が描かれないものかという儚い希望を「Amazonカスタマーレビュー」で語るレビュアーも少なくなかった。

本書は、このように「鬱系のギャグ漫画」かと思って読んでいたら、いつの間にか本格的な冒険マンガへとずれ込んで行き、最後は、近来まれに見るほどのつらいラストを迎える作品になっている。
本作を読み終えた読者は、決して「ああ、面白かった」とはならず、ズーンと重いものを腹のなかに置いていかれたまま、それでも物語の力に圧倒された事実を否定できない自分を持て余すことになる。

 ○ ○ ○

このマンガの、一体どこが、これほど読者を胸を打つのだろうか。

少なくとも、ストーリーそのものではない。ストーリー自体は、それほど目新しくもないものだと言ってもいいだろう。
では、悲劇的なラストが、読者の心に響くのかというと、それだけではない。こうした悲劇的なラストを持つ作品も、決して珍しいものではないから、そこがポイントではないのだ。一一では何がこの作品の特異性であり、力なのか。

それは多分、主人公の「主人公らしからぬ性格」である。

最初に紹介したように、主人公のスペクトラは「鬱」めいた、疲れ切った孤独な少女である。
スペクトラは、ぬいぐるみの水色ちゃんに、向かって独り語りをする。昔は「今よりずっと元気」で「生活も生き生きしていた」のだが「最近はどうにも体が重くて力が出ない」と語り、そして「元気だったあの頃に」「戻りたい…」と。

しかし、どうして彼女がこうなってしまったのか、その説明はなされず、彼女自身、その原因がわかっているのか否かも定かではない。とにかく今の彼女は、疲れ切っており、希望のない孤独な生活を送っているのだ。

しかしまた彼女は、そんな現状にあっても、基本的には真面目な常識人であり、真っ当な頼み事や要望を断ることができず、そのために、望まぬ事件に巻き込まれていってしまう。
断る元気もないということもあるのだろうが、彼女は、友達に頼まれると嫌とは言えない「弱い性格のお人好し」なのだ。そして、その結果、悲劇的なラストを迎えてしまう。彼女は、特殊な能力を持つとは言え、こんなにも弱く、ごく普通の、孤独な少女であったのに。

私が思うに、この作品の、感情に食い入ってくるような「非凡な魅力」とは、前記のとおり、このような、主人公の「主人公らしからぬ性格」にあると思う。

作品世界は、典型的な冒険ファンタジーの世界であり、彼女の周囲の人物は、いかにもマンガ的に個性的なキャラクターを持っているというのに、主人公のスペクトラだけは、なぜか、つまり理由もなく「疲れた人間」であり、描かれた世界の世界観から浮いて、一人だけ奇妙に「リアル」なのだ。

本来このような物語世界にいるべき存在ではないのに、この世界に置き去りにされてしまった、というような独特の疎外感が、彼女にはある。
そしてそれが、普通の物語にはない、奇妙に切実な感情を読者に喚起させるのだ。まるで、読者自身が、現実の世界の中で、スペクトラ同様の乖離感を感じて生きているような錯覚を覚えさせて、なんとも言えず、わだかまったような、つらい感情を喚起するのである。一一これは一体、何なのであろうか。

私はこの感覚が、ある種の「私小説」に感じられるものと同質なのではないかと思った。
主人公は頑張って生きているのだが、どうしても空回りをして、うまく生きていくことができない。そんな主人公のつらさをリアルに描いた「私小説」的作品に漂う、ある種の「やるせなさ」や「孤独」、あるいは「乖離的な絶望感」。

なぜ、作者である模造クリスタルが、このような作品を描いたのか、描くのか、それはわからない。
ただ一つ言えることは、こうした主人公の感覚や性格設定が、作者には避けられないものだということだ。いくら、物語らしい物語を作り、それらしいキャラクターを周囲に配しても、やはり主人公は、こうでなければ感情移入できないといった切実さ。
そして思えば、作者の「模造クリスタル」というペンネームも、なんとも自己否定的なものではないか。

先日読んだ、言語哲学者・古田徹也の著書『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)に、「かわいい」という言葉の語源に関する記述があった。

『「かわゆい」が変化した語である「かわいい」は、元々は「顔映ゆし(※ かはゆし)」、つまり、顔が赤らむ、見るに忍びない、といった意味の言葉に由来し、中世以前は、小さい者や弱い者を不憫に思う心境を表す言葉として用いられていた。それが中世後半に至ると、同じく小さい者や弱い者に対する情愛の念や愛らしいと思う気持ちを示すようになり、次第にこの種の意味合いが優勢になっていく。そして、近世の後半以降は「不憫」の意味が次第に消失し、専ら「愛らしい」という類いの意味で用いられるようになった(日本国語大辞典 第二版)。「かわいい」は、いまや世界各国で通用することになったが、そうした国際語としての「カワイイ(※ 外国語表記は省略)」も小さなものの愛らしさのみを表す言葉として流通していると言えるだろう。
 ただ、「かわいい」がいまは表立った仕方では「かわいそう」とか「不憫」といった意味で用いられることはないとしても、やはり、「かわいい」と「かわいそう」は深いところで結びついているように思われる。つまり、私たちが子どもを「かわいい」と思うとき、そこには、子どもを単に愛らしく感じるだけではなく、子どもを憐れみ、胸を痛め、後ろめたく感じる、苦い感覚が入り交じっているのではないだろうか。』(P58)

私を含め、多くの読者が、この物語、あるいはスペクトラに感じるものとは、これではないだろうか。
つまり「かわいい」と深いところで繋がった「かわいそう」や「不憫」の情であり、スペクトラを『憐れみ』、彼女の弱々しさに『胸を痛め、後ろめたく感じる、苦い感覚が入り交じった』複雑な感情。

私は柄にもなく「かわいい」ものが好きな人間だが、その裏には、この世界に絶望的なほど存在する、「弱く」「かわいそう」な存在に対する、このような感情があるように思える。
そして、それを直視することの辛さゆえに、日頃はそれを、単なる「かわいい」で覆い隠して生きているのだが、模造クリスタルは、そんな「かわいい」という覆いを、剥がした世界を描いてしまう、異能の作家なのかもしれない。


(2022年2月2日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

 

アンソロジストの深き思惑:大森望・樋口恭介・清涼院流水 一一書評:大森望編『ベストSF2021』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時17分44秒
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 アンソロジストの深き思惑:大森望・樋口恭介・清涼院流水

 書評:大森望編『ベストSF2021』(竹書房文庫)

 初出:2022年1月30日「note記事」


『ベストSF2021』と聞いて、読者はこの本に、どんな作品が蒐められているとか考えるだろうか?

普通の人なら「2021年に発表された短編SF小説の中で、もっとも優れた作品が集められている、精選作品集」だと考えるだろう。だが、それでは間違い。本作品集には「国内作品」限定である。一一というのは、冗談。

しかし、真面目な話、冒頭に掲げた「問い」の答として「2021年に国内で発表された短編SF小説の中で、もっとも優れた作品が集められている、精選作品集」という答でも、正解にはならない。
なぜなら、その「優れた作品」というのは、「誰にとっての、どう優れた作品」なのかについて、そこではほとんど何も考えられてはいないからであり、そこに重大は「見落とし」があるからだ。

言うまでもないことだが、本書『ベストSF2021』において、収録作品の「優劣(良し悪し)」判断をするのは、基本的には、編者である、大森望である。
しかし、これも厳密には正しくない。と言うのも、大森が「編集後記」で「編集者の意向で、収録作品が若干変わった」という趣旨の報告をしているからだ。

『本書のラインナップが確定したのは二〇二一年五月末。最初はもう少し内輪向け(SFファン向け)の路線でまとめていたところ、竹書房編集部の水上志郎氏から、「それは前巻の序で宣言した《ベストSF》の基本方針(一年間のベスト短編を十本前後選ぶ)に反するのではないか」という趣旨の鋭いツッコミをいただき、いやまあ、それを承知のうえで軌道修正したんだけど……と思ったものの、「(SFファンとしての)予備知識がなくても、なぜこれがここに入っているのかが読んでわかる作品でかためてほしい」という要望はなるほどもっともだと考えた結果、いくつかの作品を入れ替えて、最終的にごらんのとおりの収録作が決定した。こうしてみると、たしかにこの方がよかったし、『ベストSF2021』のタイトルに恥じない陣容になったと思う。初心に返れと諭してくれた水上氏にあらためて感謝したい。』(P446~447、「編集後記」より)

ここで注目すべきは、編集者の要求は『ベストSF2021』というタイトルからすれば、しごく真っ当であり、私たちがイメージする『ベストSF2021』に近い、という点であろう。
言い換えれば、大森望が前巻で自ら示した編集方針を、わざわざ「マニア向け」に軌道修正しようとしたところに、私たちは注目すべきなのだ。一一なぜ、わざわざ読者を減らすことにもなりかねない「マニア向け」でいこうと、大森は考えたのであろうか。

その答は、たぶん「その方が、結果として売れる」と大森が判断したからではないだろうか。
そう考えていいだろうヒントは、大森望による本書「序」文にある。

『 新たな日本SF短編年間ベストアンソロジー《ベストSF》シリーズの第二巻となる『ベストSF2021』をお届けする。二〇二〇年(月号・奥付に準拠)に日本語で発表された新作の中から、「これがこの年のベストSFだ」と編者が勝手に考える短編十一編を収録している。
 なによりも、本書は〝SF〟という概念の開発と拡張を目的として制作された一一というのはウソですが(元ネタは樋口恭介編のアンソロジー『異常論文』の巻頭言、結果的に、SFという概念の開発と拡張がなされていることは、おそらく否定できない事実である。
 実際、作品を選んだ時点から半年以上経ったいま、あらためて収録作を読み返してみると、作品のジャンル的な幅の広さに驚かされる。
 エッセイのように始まりエッセイのように終わる(ただし、真ん中がエッセイかどうかはよくわからない)円城塔「この小説の誕生」でスタートし、〝異常論文〟ブームの火付け役となった柴田勝家の記念碑的異常論文「クランツマンの秘仏」を経て、ある論文(学会発表)を核とする柞刈湯葉「人間たちの話」が、地球外生命探査について(あるいは小説とは何かについて)根源的な疑問をつきつける。』(P6~7)

ここからわかるのは、大森が「異常論文」ブームの最中において、この「序」を書いている、という事実であり、本書が編まれたのは、ネット上において、SFマニアの間で、「異常論文」が徐々に注目され始め、盛り上がりを見せていった時期だと見て、大筋で間違いではないだろう点である(『SFマガジン』異常論文特集は、2021年6月号。刊行は同年4月24日)。

樋口恭介編の文庫版『異常論文』(2021年10月19日刊)所収の、小川哲の短編「SF作家の倒し方」の中で、パロディー的にではあれ、樋口が『大森望率いる裏SF作家界』の有力な若手として描かれているとおりで、大森望と樋口恭介はSF業界内で近しい間柄であり、事実、小川哲らと共に『世界SF作家会議』(単行本:2021年4月24日刊)にも参加している仲である。だから、この時期、大森と樋口は、「異常論文」という潮流を盛り上げる側として「共闘していた」と考えられるわけだ。

したがって、大森が本書の中に、樋口恭介に近い「異常論文」関係者や、自分が目をつけている若手作家の作品を、意識的に集めようとしたというのは、ほぼ間違いのないところであろう。
その意味で「アンソロジー=精選作品集」というのは、「一般的読者」にとってのそれではなく、「編者」にとって「好ましい」と考えられる「方向性を持った作品」の中からのそれであった、ということなのだ。

大森は、ネット上で「異常論文」で盛り上がっていたコアなSFマニアたちを喜ばせるような作家や作品、さらには勢いのある若手メンバーを本書にも集めて、側面支援の形で、「異常論文」的なものを含む日本SFの最新潮流を、樋口恭介らと共に作り上げようと考えたのではないか。その企みのせいで、仮に本書が一般的な意味での「年間ベストSFアンソロジー」にはならなかったとしてもである。
その証拠に大森は、本アンソロジーの選定基準について『「これがこの年のベストSFだ」と編者が勝手に考える短編』だと、周到に予防線も張っている。他の人がどう思うかは知らないが、私は「これがこの年のベストSFだ」と勝手に考えてますんで悪しからず、という意味である。

しかし、竹書房の編集者は、そうした意味での「SFマニア」でもなければ「ムーブメント作り」に加担する気もなく、当たり前に「SFマニアではない人が読んでも楽しめる、一般的に優れた作品を集めて、読者の裾野を広げたい」と考えて、「普通にベスト作品を選んでくださいよ」と、大森に注文をつけたのであろう。
大森としても、自らが前巻で掲げた「基本方針」を勝手に変更して、自分たちの「戦略」に竹書房を巻き込むのは、ある意味では契約違反の独走とも言えるので、そこはある程度の妥協した結果、本書のような内容になった、ということなのではないか。
実際、作品が収録されているわけでもない「樋口恭介」の名が、本書では何度もあがっていて、本書における「異常論文」ムーブメントの影は、とうてい否定し難いものなのである。

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私は、樋口恭介の文庫版『異常論文』や、明らかに大森望が中心となって開催され単行本化された『世界SF作家会議』を、「仲間内の馴れ合いぶりが気持ち悪い」との趣旨で批判した。

特に、樋口恭介については、『異常論文』だけではなく、「SFプロトタイピング」を紹介した『未来は予測するものではなく創造するものである 一一考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』や『現代思想 2021年10月臨時増刊号 総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年』などでの態度も批判したし、その後に発生した「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」についても「それ、言わんこっちゃない」という感じで批判した。

だが、大森望個人については、ほとんど批判しなかった。一一なぜか。
それは、私が大森望の「新本格ミステリ」ブーム当時の活動を見ており、また、当時一度だけ酒席をご一緒したこともあって、大森の人柄を、おおむね肯定的に評価していたからだ。

無論、これは大森と「面識があったから、私の筆が鈍った」ということではない。
私は、面識がある作家であろうと、批判すべきと考えれば、まったく容赦はしない。一一というのは、笠井潔や綾辻行人などの実例でも明らかだろうし、これは個人的な友人であっても同じである。
私に論破されるのが嫌なら、私の友人ではいられなくて、おのずと遠のいていくことになる、とそのくらいに、私は相手を選ばず、仮借のない「議論」や「批判」をしてきたし、それがアマチュアであれプロであれ「言論人(文筆家)としての倫理(公正さ)」だと考えているからだ。

さて、ここまでは、言わば「前置き」。私がこのレビューで書こうと考えたのは、アンソロジスト大森望についての評価だ。
前々から、ぼんやりとしか捉えていなかった評価を、本書を読んで、かなりクリアに整理することができたと思えたので、ここでは、本書の収録作品ではなく、編者である大森望の方を批評しようと、考えたのである。

 ○ ○ ○

大森望という「読者」は、端的に言って「変なもの・好き」(「変な、物好き」ではない)なのではないかと思う。もちろん、オーソドックスな活劇SFなどもお好きなようだが、その一方で「目新しいもの」「前例のないもの」「変わったもの」が大好きで、そうした新人の「可能性」を高く評価する傾向があるようだ(その端的な実例が、酉島伝法)。

これは、「SF冬の時代」に、大森が「新本格ミステリ」に接近して、解説を書いたり、推薦文を書いたりしていた当時、大森の作品評価が、およそ「オーソドックスな本格ミステリ=スタイリッシュな本格ミステリ」からは、大きくズレていたことからも窺えた。

当時、「新本格ミステリ」ブームの渦中にあった私は、初期の「メフィスト賞」受賞作品なども読んでいたが、この玉石混交の公募新人賞は、その玉石混交のゆえに「大きな可能性を秘めた賞」だったと言えるだろう。
実際、この賞からデビューして、人気作家に育っていった者は少なくないのだが、そうした受賞作の中で、おおよそ「正統派」に近い受賞作に対して推薦文を書くのは、「新本格」の生みの親である島田荘司とか、「メフィスト賞」以前の初期「新本格」作家である綾辻行人、北村薫、有栖川有栖、山口雅也といった面々であったのに対し、ちょっと「キワモノ」っぽい受賞作に推薦文を書くのは、「変格ミステリ作家」である竹本健治やSF系の大森望で、この二人が推薦文を寄せたのが、かの伝説的な「問題作」、清涼院流水の『コズミック』であった。

そんなわけで、当時はまだ、一応の「本格ミステリ」ファンであった私は、竹本健治の大ファンではあったものの、新人作家の推薦者としては、竹本と大森望は「信用できない推薦者」だと評価していた。
「なんで、あんな変なものばかり推薦するのか。無論、変でも面白ければ良いし、よく出来ていればいいのだけれど、単に変なだけで、単純に未熟不出来な作品ではないか」と、彼らが推薦する作品の多くを、否定的に評価していたのである(それでも、一般的なミステリファンよりは、よほど好意的ではあった)。

しかし、今になって思うと、竹本健治や大森望は「オーソドックスに完成された作家や作品」を評価するに吝かではないけれど、しかし、それよりも「未完成でも、新しい地平を開いてくれる作家を世に出したい」という気持ちが強かったのではないかだろうか。要は、推薦作そのものの出来ではなく、その作家の「将来性」と「可能性」に期待したのである。

もちろん、そんな「未熟未完成な作品」を、さも傑作ででもあるかのように推薦された一般読者の方は、いい迷惑でしかなく、推薦者が批判されるのも当然のことなのだが、竹本や大森は、読者に一時的な犠牲を強いてでも、その可能性に投資してもらおうとしたのであろう。「そのくらいのこと」なら、やる(実験主義的な)人たちなのである。

例えば、二人の推薦でデビューした清涼院流水は、デビュー後、ミステリ界でバッシングを受け、二人の推薦者も、公言はされないものの「趣味が悪い」という評価を「新本格ミステリ作家」たちからも受けていたことだろう(そもそも、清涼院の「京都大学ミステリ研究会」の先輩である綾辻行人たちも、清涼院をまったく評価していなかった)。当時としては、清涼院流水の受賞やデビューは、明らかに「間違いだ」という評価だったのである。

ところが、その「正統派本格ミステリ」から大いにズレた清涼院流水の作品は、「ミステリマニア」とまでは言えない若い世代の読者からは一定の評価を得たし、のちに人気作家に成長する西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉といった「メフィスト賞」作家たちは、清涼院流水へのリスペクトを惜しまなかった。

そして、清涼院流水がいつしかミステリ界から姿を消したのと揆を一にするかのように、この三人の有力作家もミステリ界から去っていったことを考えると、清涼院流水がいなかったなら、この三人も、もしかすると作家デビューしていなかった蓋然性だって、無くはないのである。

つまり、清涼飲料水のデビューが発したメッセージとは「本格ミステリは、必ずしも、謎と論理の精緻なパズル小説でなくても良いんだよ。名探偵が事件を解決する、キャラクター小説でもかまわないんだ。要は、面白ければなんでもアリなんだ」というものだったのではないだろうか。
そして、こうした「ユルさ」が、西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉といった、「従来の本格ミステリ」べったりではなかった作家たちを、「メフィスト賞」へと導いたのではなかったろうか。

このように考えると、結果的には、清涼院流水自体は小説家として大成しなかったとしても、彼をデビューさせたことの意味は、とてつもなく大きかったと言えるだろう。
もしも、当時の「講談社・文芸第三出版部」の宇山日出臣以下の編集者(太田克史など)が、「新本格ミステリ第1世代」の作家たちのように「ゴリゴリのミステリマニア」で、清涼院流水的な「逸脱」や「偏向」を許容し得ない人たちであったなら、西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉といった「本格ミステリ」という枠を超えた才能や、「メフィスト賞」というユニークな賞を、歴史に遺すことだってできなかったはずである。
そして、こうした意味合いにおいて、竹本健治や大森望は、「新本格ミステリ」あるいは「ミステリ」という枠を超えて、文学の世界に大きな貢献を果たしたと言えるのだ。

だからこそ、大森望が、本書『ベストSF2021』において、オーソドックスな意味での「年間ベスト作品」を選ばず、権威ある「大家」や「人気作家」の中に、「若手の意欲作」を紛れ込ませて、「新しい潮流」に加担した、その編集方針の「狙い」も、おのずと理解できる。
要は、大森は「現時点でのベスト作品」ではなく「新しい潮流を生み出す可能性を秘めた作品」を出来るだけ多く収録することで、SFマニアたちに「(大森望の考える)目指すべき最前線」を示し、意図的に煽ることで、その流れを「加速」しようとしたのである。

無論、前述のとおり、こうした「先行投資」的な作品選びに、知らずに投資させられる一般読者は、たまったものではなく、なかば詐欺みたいなものなのだが、大森からすれば、こんな高い文庫本(税込1650円)を買うのは、どうせマニアが大半だろうし、そうしたマニアは、「最先端」に加担するのを、むしろ喜びとする「エリート指向」の持ち主たちなのだから、「マニア向け」に特化したところで、売り上げが極端に下がるわけではない、一一くらいの読みはあったはずだ。
しかしまた、こうした「自分の趣味」に都合の良い「読み」を、そうした趣味を共有しない編集者に、おおっぴらに押しつけるわけにはいかず、理解を求めるというわけにもいかなかった、ということだったのであろう。

で、どうして私が、「身内に甘い」大森望を批判しないのかといえば、それは、このように、彼の「党派作り」的な動きが、よくある「文壇政治」とは一線を画して、「趣味の実現」を目指すもののように感じられるからだ。
そもそも大森が、笠井潔のように「文壇政治」的に「党派」を作ろうとするような人物ならば、「新本格ミステリ」時代にだって、「新本格ミステリ」主流の神経を逆なでするような作家ばかりを、わざわざ後押しするようなことはしなかったはず(だし、笠井潔にだって擦り寄ったはず)だからである。

つまり、大森望のような「変なもの・好き」は、基本的には「保守的(形式重視の伝統主義)」な「本格ミステリ」業界には合わず、時代に応じて「前衛」が登場しては形式的な拡張と更新のなされてきた文学ジャンルとしての「SF」の方が、やはりその性向にも合致していた、ということなのであろう(ここで「形式的な拡張と更新」と評するのは、文学とはもともと「なんでもあり」であり、その意味では「本質的な拡張や更新」など存在し得ないからである。つまり、すべては不易流行である)。

現在では「特殊設定ミステリ」なども歓迎されるようになり、以前に比べればずいぶんと「寛容になった」かのように見える本格ミステリ界とは言え、「本格ミステリ」の世界は「謎と(形式)論理」という一線だけは、決して譲らない。
それに対し「SF」というのは、競って「前例のないビジョン」の提示を求めるジャンルであるからこそ、大森望の「党派作り」は、「文壇政治」ではなく「SF更新運動」としての意味を、正当に持ちうるのである。

したがって私は、大森望について「身内に甘い」と苦言を呈しながらも、その「意図や目指す方向」自体は否定しない。私は樋口恭介が大嫌いだけれども、彼が結果として「SF更新運動」の駒として活躍すること自体は否定しない。

私自身、「勘違いに生意気」と評して良いだろう清涼院流水の人も作品も嫌いだったが、しかし、清涼院流水が体現する「逸脱」を排除しようとした「新本格ミステリ第1期」作家たちの「エリート主義」を批判して清涼院を擁護したように、大森望(や東浩紀)が樋口恭介を「SF界の清涼院流水」としてプッシュしようとすることに、不満はないのである。

「ゲンロンカフェ」での鼎談(2021年11月10日開催、私は3日前の2022年1月27日に録画を視聴)で東浩紀が、樋口恭介に「もっとイキれ(本性を出せ)」を要求していたように、私も、樋口に同じことを求めたい。どうせ「イキったガキ」なのなら、小賢しく保身になど走らず、ツッパリ切れ、と言いたい。
無論、それで樋口恭介が潰れても、私としてはぜんぜん惜しくない。樋口が「SF界の捨て石」になってくれたなら、その時はきっと、私は心からの哀悼の意と感謝を捧げるはずである。

だから、まだまだ「清涼院流水の域」に達していない小粒な樋口恭介には、単なる「イキったガキ」に終わることなく、本物の「大馬鹿者」になり「馬鹿力」を発揮して、SF界を更新して欲しい。その場合「SFプロトタイピングなんて、子供騙しのヌルいことなど言ってる暇はないぞ」ということなのだ。

そして大森望も、樋口恭介に、大筋で同様の期待をしているはずである。だからこそ私は、大森望を批判しないのだ。


(2022年1月30日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

 

共感し得ない主人公としての〈あなた〉を描く:けんご小説紹介には紹介できない小説 一一書評:遠野遥『破局』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時15分48秒
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 共感し得ない主人公としての〈あなた〉を描く:けんご小説紹介には紹介できない小説

 書評:遠野遥『破局』(河出書房新社)

 初出:2022年1月26日「note記事」

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「第163回 芥川賞受賞作」である。本作は間違いなく「純文学」だ。どこが「純文学」なのかと言えば、読者を「楽しませない」ところであり、「頭を使えない読者」には、到底ついていけない作品だからである。

本作の「面白さ」は、一人称の語り手である主人公「私」が、とうてい共感し得ない「変な奴」であるにも関わらず、本作を読んでいる読者も含めた「今どきの若者」の「ある一面」を、見事に象徴して見せている点だ。

当然、そんなものが「当人」たちに喜ばれるばずもない。本作の「面白さ」とは、「興味深さ」を意味するのであり、自分の理解できることにしか興味を持てないような「視野の限定された」それでいて「その自覚もない」ような読者には、到底「楽しめるような代物ではない」のである。だから「純文学」なのだ。

 ○ ○ ○

本作の主人公は、とても「真面目」な青年である。「真面目」ではあるのだが、たしかに「変」なのだ。何が「変」なのかと言えば、「バランス感覚」というものが、およそ欠如している点だ。

例えば、こんな具合である。

『 近頃、私たちには時間がなかった。麻衣子は政治塾に通い、時々父親のつてで知り合ったという議員の手伝いもしていた。何年か社会人経験を積んだ後は、自分もどこかの議員に立候補するつもりだという。大学の講義やゼミも手を抜いている様子はなく、最近は就職活動も始め、私の相手をしている暇はいよいよなさそうだった。最後にセックスをしたのは、一ヶ月以上前だったか。付き合っているのだから、私は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したいけれど、勉強もしたいから、二日に一度くらいが適当だろうか。しかし麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることはできない。無理にセックスしようとすれば、それは強姦で、私は犯罪者として法の裁きを受けるだろう。それに、私は麻衣子の彼氏だ。麻衣子の嫌がることはできない。麻衣子が目標に向かって頑張っているのなら、それを応援するのが私の役目だろう。』(P35~36)


見事な「描写」である。この一説で、主人公の人柄であり、その「特異性」が見事に描出されている。
ミステリなどでよくあるような、わけのわからない妄想や被害者意識にとり憑かれている(「ウヘヘ…」といった感じの)人物とか、わかりやすく独善的な世界観にとらわれている人物とか、そういった「紋切り型」の「サイコ」ではなく、世間の「良識」を語らせつつ、その「偏向=変さ」を的確に描いている。

彼の言うことは、まったく「お説ごもっとも」であり、決して間違っているわけではない。しかし、「理屈としては、そうだけど、君の本音はそうではないだろう?」と問えば、彼ならきっと「いや、これが俺の本音です」と答えるだろう。
実際、上の部分は主人公の「心内語」であり、「口頭」での主語は「俺」なのに、「心内語」の主語が「私」という、無自覚な不自然さも含めて、そこに「意識的な嘘」はあり得ないのである。。

しかし、「だからこそ変」なのだ。
普通の人間なら「何が正しいことなのかを、頭ではわかっていても、感情がそれを否定する」といったことが、往往にしてある。つまり、「葛藤」である。それが、この主人公にはない。実質的に「内的な葛藤が無い」のである。
だから「変」であり、どこか「ロボットの心内語」めいた、フラットな印象なのだ。本人は「葛藤」しているつもりでも、そこには、形式的な葛藤はあっても、感情的な葛藤がない。

例えば、上の引用部分を「普通の人間」風に書き換えてみれば、こんな具合になるだろう。

「 近頃、俺たちには時間がなかった。麻衣子は政治塾に通い、時々父親のつてで知り合ったという議員の手伝いもしていた。何年か社会人経験を積んだ後は、自分もどこかの議員に立候補するつもりだという。大学の講義やゼミも手を抜いている様子はなく、最近は就職活動も始め、俺の相手をしている暇はいよいよなさそうだった。たしかに麻衣子は頑張っていると思う。それは否定しないし、喜ばしいことだと思う。でも、……俺としては、やっぱり寂しい。麻衣子が俺を軽んじているとは思わない。思いたくもないが、もう少し、俺のために時間を取ってくれてもいいのではないか。彼氏である俺と、もっと一緒にいたいと思うのが、普通の彼女なんじゃないのか。麻衣子は、本当に俺を愛しているのだろうか。それとも、形ばかりの便利な彼氏に過ぎないのだろうか。最後にセックスをしたのは、一ヶ月以上前だったか。付き合っているのだから、正直、俺は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したい。もちろん、勉強もしなくてはならず、毎日セックスばかりしているわけにもいかないが、でも、若い恋人同士なんだから、二日に一度くらい、しても当然で、したくなるのが自然なのではないだろうか。でも、麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることはできない。無理にセックスしようとすれば、それは法律的には強姦であり、麻衣子の気持ち次第では、俺は犯罪者として法の裁きを受けることになるかもしれない。そんなことはないと信じたいけど、今の麻衣子を見てると、ちょっと不安になってしまう。いずれにしろ、俺は麻衣子の彼氏だ。麻衣子の嫌がることはしたくない。麻衣子が目標に向かって頑張っているのなら、それを応援するのが俺の役目だろうと思う。でも……」

と、こんな感じだろうか。ずいぶん「人間らしく」なったはずで、読み比べれば、主人公による「原文」の異常さが、際立つはずである。

 ○ ○ ○

しかしながら、この主人公の「変さ=異常さ」は、ある意味では「今どきの若者の真面目さ」を極端化したものでしかなく、これと似たような人など、いくらでも実在するし、それでいて、この主人公と同様、その自覚がないようだ。

こうした「歪んだ(本気の)正論」というのは、例えば、こんな具合である。

『結局、人を傷つけたってことなんだから、謝罪すべきだろ』

とこれは、記憶で書いているのだが、どういったシチュエーションで発せられた言葉かというと、先般、炎上事件として話題になった「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」事件で、豊崎由美のツイッターアカウントに寄せられた、けんご支持者による豊崎批判コメントのひとつだ。
ちなみにこの人物は、自分が豊崎由美を「傷つけ」ようとしていることに、完全に「無自覚」である。

豊崎由美は、けんごについて、

『正直な気持ちを書きます。わたしはTikTokみたいなもんで本を紹介して、そんな杜撰な紹介で本が売れたからって、だからどうしたとしか思いませんね。そんなのは一時の嵐。一時の嵐に翻弄されるのは馬鹿馬鹿しくないですか?
あの人、書評書けるんですか?』
(豊崎由美、午後10:58 ? 2021年12月9日?Twitter for Android)

とツイートした。これに対して、けんごは、次のように応答した。

『書けません。僕はただの読書好きです。

書けないですが、多くの方にこの素敵な一冊を知ってもらいたいという気持ちは誰にも負けないくらい強いです。

読書をしたことがない方が僕の紹介を観て「この作品、最高でした」「小説って面白いですね」と言ってくれることがどれだけ幸せなことか知ってますか?

 (午前1:18・2021年12月11日)』


『TikTokの投稿をお休みさせていただきます。各方面で様々な企画等控えているのに、本当に申し訳ないです。

僕はTikTokを仕事にしてません。PR動画を1本もあげたことないです。純粋楽しかったのですが、これからは楽しめそうにありません。

動画も含めて、Instagramでの小説紹介は続けていきます。
 (午前8:49・2021年12月10日)』


見てのとおり、本当か嘘かは別にして、「純粋な」カマトトのけんごは、豊崎由美の「心ない言葉=適切な評価」に傷つけられたと自己申告しており、けんごの支持者は、それを「真に受けて」、豊崎由美を「加害者」認定し、「加害者=悪=謝罪すべき」と考えて、上のツイートを「匿名」で行ったということだ。
無論、同レベルの豊崎批判者は山のようにいて、だからこそ、こんな幼稚な批判でも「バッシング」を構成し、一定の影響力を行使することができたのである。

で、問題は、この「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」という、実にわかりやすい「子供の論理」である。

上に「再現」して紹介した豊崎批判のツイートを放ったのは、もしかすると(けんご曰く)『読書をしたことがない』ような未成年の「子供」かもしれない。だが、似たようなツイートは山ほどあったので、20代、30代は当たり前で、下手をすると「還暦」を過ぎたような人でも、似たようなコメントをしていた蓋然性は十分にある。
なにしろ事実として、還暦を過ぎたミステリ作家の綾辻行人が、豊崎を「名指し」しないで、けんごを支持する豊崎批判のツイートをしていたのだから、「子供の論理」を弄するに、年齢は関係がないようだ。

ともあれ、綾辻行人のような高齢者は、あくまでも例外だと思いたいが、そんな綾辻世代の人たちよりも、下手をすると、その「孫の世代」である、今どきの(本物の)若者たちの中に「理由はどうあれ、やっちゃいけないことは、絶対にやっちゃいけない」という「変に真面目=硬直した思考」の持ち主が増えているのではないかという疑いが、28歳で本作『破局』を書いた、遠野遥にも共有されているようだ。「真面目だけど、どこか変な奴が増えている」という危機意識が遠野にあって、本作を書いたのではなかろうか。

ともあれ「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」とか「理由はどうあれ、やっちゃいけないことは、絶対にやっちゃいけない」「(いつでも)1+1=2」などというロジックは、つまらない「本格ミステリ」でなら通用しても、「文学」では通用しない。文学においては、人間の心理は「単純ではない(形式論理では済まない)」からで、

『付き合っているのだから、私は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したいけれど、勉強もしたいから、二日に一度くらいが適当だろうか。しかし麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることはできない。無理にセックスしようとすれば、それは強姦で、私は犯罪者として法の裁きを受けるだろう。』

などと考えてしまうような「シンプルなロジック」は、「異常」なものとして提示されるしかないのである。

一一と、こう書いても、たぶん「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」とか「理由はどうあれ、やっちゃいけないことは、絶対にやっちゃいけない」「(いつでも)1+1=2」などと考える単細胞な人には、私が何を問題にしているのかが、きっと理解できないだろう。だから、先の「豊崎批判者」のツイートを例題として、その「問題点」を解説しておこう。

「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」

というのが「豊崎由美批判者」の主張だが、例えば「ナイフを持って襲いかかってきた襲撃者から、もみ合いの中でナイフを奪い、逆に襲撃者を傷つけてしまった」という場合、「被害者」は襲撃者の方となり、悪いのは(加害者は)、襲撃者を傷つけた被襲撃者の方だ、ということになるのだろうか? 現に「加害した者」となった被襲撃者の方が、結果的に「害を被った者」となった襲撃者に対し、「謝罪」して、罰せられるべきなのだろうか? 一一無論、そんなことはない。

もちろん、場合によっては「過剰防衛」が問われる場合もあるのだが、ナイフを持って襲いかかってきた襲撃者から我が身を守るためのもみ合いの中で、結果としてやむなく襲撃者を傷つけたのなら、それは「正当防衛」であり、当たり前に、襲われた方が「被害者」であり、襲った方が「加害者」となる。仮に、加害者の方が、結果として死んだとしても、である。

では、けんごの「小説紹介」は、「加害行為」だろうか。無論、そうではない。単に「レベルは低いが、大衆ウケした小説紹介」に過ぎない。
では、豊崎由美の「けんご批判」は、「加害行為」なのだろうか。無論こちらも「加害行為」ではない。単なる「批評」である。「駄作は駄作」「駄評論家は駄評論家」「書けない奴を書けない奴」と評したに過ぎない。

つまり、もしも自分自身が「批評の対象」となるのが嫌なのなら(その覚悟が無いのなら)、「社会に対して影響力を行使」しようなどとしてはならない、ということなのだ。

「社会的発言(行為)」には、それ相応の「責任」が伴い、おのずとそれは評価され、支持してくれる人もいれば、批判してくる人もいて当然。
それが「大前提」なのだから、「発言責任」者として、そうした「批判」を受け止められないのであれば、最初から仲間内で(影響の少ない範囲で)「小説紹介」をしていればいいだけであり、それならば「その(大きな)影響力に見合った、レビューが書けるのか」などと問われることもないのである。
要は「ウケれば(フォロワーさえ増えれば)何でも良い」というわけではない、ということなのだ。

そんなわけで、「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」事件の「本質」とは、「プロの書評家である豊崎由美が、けんごに(プロの)言論人としての、責任とその自覚を問うた」ということなのだ。
だからこそ、けんごの方は『僕はTikTokを仕事にしてません。PR動画を1本もあげたことないです。純粋楽しかった』だけだと、その「発言責任」の引き受けを拒否し、「誤魔化して逃げた」のである。

言うまでもないことだが、けんごは「アマチュア」として「小説紹介」や「動画投稿」をやっているのではない。目的は「フォロワーを増やし」「有名になって」「皆にチヤホヤされ」「金も稼ぐ」ことで、それは『各方面で様々な企画等控えている』という言葉にも明らかだ。
けんごが、この『様々な企画』を、奇特にも、すべて「無報酬」やっているというのならば、「アマチュア」と認めてやってもいい。私も、紀伊国屋書店などで現に目にした「けんご大賞」なるものも、すべて「無報酬」で、無料で「名前を使ってもらい」やってもらっているというのなら、立派に「アマチュア」であろう。だが、決してそうではないはずだ。(一一違うかい、けんごさん?)

 ○ ○ ○

というわけで、自分の好きなけんごが、わざとらしい三文芝居で「傷ついて見せた」ら、それをそのまま「鵜呑み」にして、けんごを「傷つけた」豊崎由美を「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」などと責める、けんごファンというのは、端的に本書『破局』の主人公と同質の「単細胞人間」でしかない。

しかし、なぜ、今どきの若者に、こうした「破局シンドローム」を見ることができるのだろうか?

無論、昔から、こういう人間は存在した。しかし、問題は、そんな「単細胞人間=ロボット人間」が増えている、と感じられる現状である。

多くの人の間でこのような「問題意識」が共有されるのは、事実として、そういう人間が増えているからかもしれないし、あるいは、昔は「バカ扱いにされるので、表には出てこなかった」ような人が「バカにバカと言っちゃいけません」という世間の「正論」に押されて、自覚を欠いたまま前面に出てくるようになった、ということなのかもしれない。

あるいは、日本社会における「建前」主義が、外圧によって強化された結果、多くの若者が「建前を建前」と気づけないままに、社会に出てきた結果なのかもしれない。

私は、石田光規著『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』のレビュー「さびしい〈ムレの時代〉」で、次のように書いた。

『今も昔も若い人は「本音と建前」の区別がつかない。しかし、昔なら、十代も半ばになれば、その「欺瞞」に気づいて「大人はずるい」と批判し始めるのだが、今の大人は、もっと巧妙だから、若者は「本音と建前」の使い分けに気づかないまま社会に放り出されて、「隠された本音社会」の中で、あくまでも教え込まれた「建前」を生きようとして苦しむのである。』

そう。若者は「建前」だけを教えられ「それさえ守っておれば、あなたは正しく生きられ、人から非難されることもなく、幸せに生きられる」などと「嘘っぱちの保証」を信じて世に出てきたため、その「建前」が万能ではあり得ない複雑な現実の中で、やがてその「矛盾」に苦しむことになる。

そして、自分が教えられてきた「建前=紋切り型の正論」が「絶対的な正義」などではないと気づくまでの間は、件の「豊崎由美批判者」のような「単細胞な正論」を、不用意に振り回したりするのだろう。
だが、そんなものがいつまでも通用するほど、世の中は甘くなく、早晩、彼あるいは彼女は、正当に「バカ」扱いにされて批判され、屈辱に塗れることになるのである。

しかし、そのような「適切な屈辱」を与えられることで、彼あるいは彼女が「大人の思考」を適切に身につけられれば、本作『破局』の主人公のような「破局」を迎えなくても済むだろう。
本作の主人公の最後の姿は、「フランケンシュタインの怪物」にも似た、まさに「憐れまれるべき狂人」ともいうべきものだが、そんな彼を作ったのは、間違いなく「建前」しか教えなかった、無責任な大人たちなのである。

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ともあれ、本書の価値がわからず「楽しめない」という「正論を吐く、未熟な読者」の多くは、まさに本書主人公の「似姿」だと言ってよいだろう。彼らは、こんな風に言うはずだ。

「小説家というのは、読者を楽しませるために小説を書き、それを売っている食べているのだから、作品の狙いがどんなものであろうと、ジャンルが何であろうと、結果として読者を楽しませることができなかったのなら、その小説は無価値であり、それを書いた作家は批判されてしかるべきである」

「お説ごもっとも」なのだが、例えば、こういう「単細胞読者」は、私が「しかし、ドストエフスキーを持ってしても、犬猫を感動させることはできないよ」という「真理」を語っても、納得してくれないだろう。その場合の彼らの理屈(反論)は「私たちは人間で、犬猫ではない」。

無論、そんなことはわかっている。私の持論は「犬猫は犬猫でしかあり得ないが、人間の場合、神に等しい人もいれば、犬猫以下の者も大勢いる。人間というのは、そういう可能性の幅において秀でた生き物なのである」というものなのだ。
ただし、無論この理屈も「犬猫以下の知性しか持たない人間」には理解できないだろう。私としては、理解する努力をして欲しいのだが、それができないところが「犬猫以下」なのである。

というわけで、本作『破局』は、「今のアクチュアリティ」を描いた作品であるから、今読まれるべきであり、10年後にはその価値を失っている蓋然性は十分にある。
ただし、「今のためにだけある作品」であっても、ぜんぜん問題はない。いずれにしろ、人類は永遠に生きるわけではなく、永遠に残る作品など皆無だからである。


(2022年1月26日)

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さびしい〈ムレの時代〉一一書評:石田光規『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時13分27秒
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 さびしい〈ムレの時代〉

 書評:石田光規『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書)

 初出:2022年1月25日「note記事」

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「人それぞれ」という言葉がよく口にされ、妙に物わかり良い「個性尊重=個人尊重」の時代であるはずにも関わらず、わが国の現実は、あいかわらず「無難に右へ倣え」である。

こんな状態では、とうてい「個性尊重=個人尊重」などとは言えず、私はしばしば、顔の見えない「非個性的な群(例えば、ネトウヨなど)」に対し「お前ら、『ムーミン』に出てくるニョロニョロみたいな群棲動物か」などという悪罵を投げつけたりしている。

そんなわけで、昨今よく口にされる「人それぞれ」というのは、実際には「個性尊重=個人尊重」を意味しはしない。おおよそ「私は私で勝手にやるから、あなたはあなたで勝手にやってください。私のことには口出ししないでね」というほどの意味で、基本的に「他者の個性の尊重」という意味合いはない。
ただ「自分が尊重されたいだけ」であり、「その限りにおいて、交換条件的に、あなたの言動も尊重して、干渉しないことにしましょう」というほどのことだ。だから、この「人それぞれ」という言葉には、「思いやりが無く」「うそ寒い」印象があるのだ。

本書のタイトル『「人それぞれ」がさみしい』というのも、おおむねそういうことで、我が国において昨今頻用される「人それぞれ」という言葉の「人」というのは、ほとんど「私」のことでしかなく、「他人=他者」のことではない。「他者」に積極的かつ肯定的に働きかける「個性尊重」つまり「あなたはそれで良いのだ=私や他のみんなに合わせなくても、全然かまわない」というようなニュアンスは、まったく無い。そうではなく、まるで真逆に「私に干渉するな」という、消極的な「守りの姿勢」なのである。だから、結果としては「さみしい」関係にしかならない。

サブタイトルにある「「やさしく・冷たい」人間関係」という「矛盾」も、本当は、その「やさしさ」が、自己防衛のための「やさしさ」、つまり「他者へと向いていない、偽のやさしさ」でしかないからこそ、実際には「冷たい」ものでしかなくなってしまうのである。

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以下は、本書の流れに沿って、著者の意見を引用しつつ、補足的に私の「実践」について語ることにする。

(1)『多少自分の意見をまげても、友人と争うのは避けたい』(P45)

(2)『「人それぞれ」という言葉が発せられると、それ以上に話を掘り下げるのは難しくなります。討論の事例も同じです。「人それぞれ」という言葉が発せられると、あまり議論は深まっていきません。
「人それぞれ」という言葉には、一見すると、相手を受け入れているような雰囲気があります。しかし、この言葉は、一度発せられると、互いに踏み込んでよい領域を区切ってしまいます。それに加え、それぞれが選択したことの結果を、自己責任に回収させる性質もあります。
 主義・信条を率直に表明できる「個を尊重する社会」を目指した私たちは、いつの間にか、それぞれの人たちを不透明な膜で仕切った「人それぞれの社会」をつくりあげてしまいました。「人それぞれ」の横行する社会で、対立や批判をも含んだ強靭な関係や、共感をともなう関係をつくることは難しいでしょう。
 このような状況は、友人といると却って疲れてしまう、という皮肉な結果をもたらします。先ほどあげた「青少年研究会」の調査では、「友達といるよりひとりで一人が落ち着く」という質問への回答も求めています。この質問に「よくある」「ときどきある」と答えた人は、二〇〇二年の四六%から、二〇一二年には七一・七%にまで上がりました。今や友人関係は、「気の置けない」ものではなく、「人それぞれ」の優しさに包まれた気遣いの関係に転じたのです。』(P50~51)

これは、現代の日本人として、誰もが実感できることだと思う。たしかに、一見したところでは、みんな「優しく」なった。上司、先輩、先生であろうと、頭から人の意見を否定する、なんてことはなくなった。
しかし、それは「パワハラ」になるのを恐れるだけであったり、そもそも「嫌われ者になりたくない」だけで、「嫌われてでも、言うべきことは言う」という、人間関係における責任感が失われただけだろう。要は「自由放任による責任回避」である。

皆がそのようにして「我が身可愛さ」のゆえに「優しい人」「物分かりのいい人」を演じるのだが、実際のところ、他人や社会のことなど気にはしておらず、要は、我が身可愛さの「保身と人気取り」でしかないから、自ずと、そんな空疎な人間関係には「虚しさ」だけがつのって、疲れてしまうのだ。

(3)『高まる孤立の不安』(P51)

(4)『しかし同じ調査で、「友達と連絡を取っていないと不安」と答えた人は、なんと八四・六%もいます。つまり、若い人たちは、「友達といるより一人が落ち着く」にもかかわらず、「友達と連絡を取っていないと不安」と考えているわけです。
 この結果には、「人それぞれの社会」で形成される友人関係への不安と疲労の色合いがにじみ出ています。互いに傷つけないよう、あるいは、場を乱さないよう配慮する関係性は、高度なコミニケーション技術を要するため疲れます。だからこそ、多くの若者は、「友達といるより一人が落ち着く」と考えます。
 しかし、その一方、人と人を強固に結びつけてきた接着剤は弱まり、友人関係とはいっても、切り離される不安がつきまといます。だからこそ、人びとは、関係から切り離されないよう、高度なコミニケーション技術を駆使してでも、「友達と連絡をとって」いるのです。』(P53~54)

先日私は、佐々木チワワ著『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』のレビュー「一億総〈ぴえん〉化した日本」に、次のように書いた。

『40歳くらいの頃だったか、高校3年時クラス会があった。卒業の翌年に開かれて以来の、二度目の同窓会である。
同窓会役員が、やる気のないやつだったので、そんな具合だったのだが、私自身は、高校生当時から、二人の親友以外には、ほとんど付き合いもなければ興味もなかったので、同窓会がなくてもぜんぜん平気だった。そもそも、その親友たちであっても、めったに連絡など取らなかったのである。』

要は、連絡なんか取らなくても、彼ら(親友)とは「今でも繋がっている」という自信や安心感があるから、わざわざ「ご機嫌伺い」なんかはしなかった、ということである。
ところが、今日の友人関係というのは、これの真逆なのだ。

(5)『寂しい日本人』(P54)

あまりにも古い議論だが、今でも「本気で(腹を割って)議論することすらできない日本人」という、こうした評価は生きているだろう。いや、統計的に見ても、日本人が「寂しい」人間関係しか持てていないというのは明らかなのだ。

(6)『ケンカしてしまうと友情が修復できない』(P59)

あえて言ってしまえば、「友情コジキ」「友達コジキ」であり、結果として「追えば逃げる」の典型である。

こうなってしまうのは、無論「個の確立」がなされていないからであり、そうなるのは「ぴえん」たちと同様、生育環境的に仕方のない部分もあって同情に値するのだが、しかし、同情しているだけでは、何も改善されないだろう。
体力がなければ、体力をつけるしかないし、体力がつけられないのなら、他の部分で強くなるしかない。なにしろ「冷たい人間関係」であり「他人には干渉しない」「自己責任」の国なのだから、弱いままでは、死の中に放置されるだけなのである。

(7)『 つまり、親友のよさや友情の素晴らしさを訴えかける記事が増えたのです。これらの記事では、人間性のなかから、批判、愚痴、ねたみ、利己性、あきらめ、放棄などの暗い部分を抽出・除去した、「無菌化された友情」の物語が展開されています。
 新聞は、世論を作り出すと同時に、世相を色濃く反映しています。この点を考慮すると、二〇〇〇年代以降の「友情の物語」を題材とした記事の増加は、人びとが「友情の物語」を望んでいる事実を表している、と言えます。』(P61~62)

今も昔も若い人は「本音と建前」の区別がつかない。しかし、昔なら、十代も半ばになれば、その「欺瞞」に気づいて「大人はずるい」と批判し始めるのだが、今の大人は、もっと巧妙だから、若者は「本音と建前」の使い分けに気づかないまま社会に放り出されて、「隠された本音社会」の中で、あくまでも教え込まれた「建前」を生きようとして苦しむのである。

(8)『不平等を見過ごす冷たい社会』(P84)

自分のことで精一杯の「心の貧しい」人たちは、他の「貧しい」人たちの「当たり前に恵まれた部分」を妬んで、自分と同じ位置にまで引きずり下ろし、同じ苦しみを味わわせようとしてしまいがちだ。

それこそが「平等」だというのが、「在日特権は許さない」などと「ゆがんだ被害者意識」を振り回していた「在特会」だが、多くの「心の貧しい人」たちも、本質的には、こうした「ネトウヨ的な心性」を、多かれ少なかれ共有している。

(9)『 現状に息苦しさを覚える私たちは、「昔はもっと大らかだった」、「昔はもっと豪快な人がいた」などと言って、「人それぞれ」ではない社会の気楽さを懐かしみます。「生きづらさ」は、現代社会を象徴するキーワードのひとつになっています。その背後には、キャンセルや迷惑センサーをちらつかせて、萎縮によって人びとを統制しようとするシステムの存在がほの見えます。
 かつて私たちは、農村社会を集団的体質の残る息苦しい社会とみなし、批判の対象に据えました。現代社会は、人びとを統制する方法がキャンセルや迷惑センサーに転じただけで、集団的体質そのものは変わりません。このような社会で「生きづらさ」を感じるのは、むしろ必然と言えます。以上のような状況を勘案すると、日本社会の集団的体質は未だに健在だと思わせられます。』(P126~127)

「キャンセル」とは、要は「相手にしない」「無視する」「村八分にする」といったことであり、「迷惑センサー」とは「マスク警察」などに見られる「偏狭な倫理観を、他人にまで強要する人たちの感覚」のことだ。

(10)『身近に「異質な他者」がいない社会』(P159)

これは、例えば先日の「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」に対する、豊崎由美バッシングがその典型だろう。けんごのような「お子様向けレビュアー」など、いくら人気があっても「そんなものは認めない」という「少数意見」を、「お子様世間」は決して認めないのだ。
要は、批評家が「駄作は駄作だ」と言うことを許さないのである。なぜなら、その駄作を駄作とわからない自分も、駄作だと言われているに等しいからである。

しかし、事実、その読者自身が「駄作」とまでは言わなくても、「未熟」極まりない「お子様」ではないのか。「お子様」が、「お客様は神様です」で、建前だけの「大人」扱いをされて、勘違いしているだけではないのか。そんな「未熟な大人」が、「正当に評価」されたことをして「傷つけられた!」と被害者ヅラの自己防衛によって、「未熟なままでいたいだけ」ではないのか。

(11)『 ここまで、「人それぞれの社会」はどのような性質をもち、また、そこでは、どういった問題が生じたのかみてきました。
 さて、本書には、「人それぞれの社会」をテーマとしていること以外に、もうひとつの共通点があります。皆さんお気づきでしょうか。
 共通しているのは、いずれの章でも、「自分とは異なる、あるいは、批判的な意見をもった他者の存在感がうすい」ということです。本章では、「自分とは異なる、あるいは、批判的な意見を持った他者」を「異質な者」、このような人びとの「存在感がうすい」ことを「異質な他者の不在」と表現します。』(P159)

「異質な者」一一これが私である。
もちろん、私は、それを意識的に、範を示さんとしてやっている。

「それもわかるけど、こうじゃないの?」などという、当たり前に「腰の退けた(予防線を張った)」物言いではなく、「それは間違いだよ。なぜならば、これこれこうだからだ。反論できる?」という言い方をして、挑発的に「思考を促している」のである。

(12)『 このように書くと、「いやいやその意見は極端すぎる、自由にしつつも頑健さを保証する道はあるはずだ」という意見が聞こえてきそうです。しかし、私は自らの考えが極端だとは思いません。
 識者と呼ばれる人たちは、必死になって対話や相互理解の重要性を訴えています。しかし、現実の社会は、呼びかけとはほど遠い状況にあります。
 個人レベルでいうと、人は「それぞれ」の殻に閉じこもり、おたがいに深く関わろうとしません。孤立や孤立死も問題になっています。社会レベルでは、分断や対立の火種が広がっており、格差も拡大しています。
 私は、相互理解をうながす深い対話は、つながりの頑強さの保証とセットでなければ実現し得ない、と考えています。「『それぞれ』人の意向には配慮しましょう。でも、時には深く話しましょう」などというムシのいい言葉で、人が集まるとは思えません。
「人それぞれ」や多様性を重視する論者は、「人それぞれ」や多様性という考え方じたいに、対話を阻害する作用があることも意識するべきでしょう。自主性と個の尊重ばかりに目を向けるのではなく、社会としてつながりに頑強さをいかに取り込むか。そのことをもっとしっかり議論すべきだと私は思います。』(P178~179)

まったく同感である。
「自分で戦わなければ、相手の好きにされてしまう」「声のデカイ奴が勝つ」「頭の悪い多数派がゴリ押しをする」ということになるのが、残念ながら、この社会の、一面の真実なのだ。いつでも「他人が何とかしてくれる」などと思っていたら、いいように排除されるだけなのである。

だから、戦わなければならない。そして、傷つき苦しむ中で、自分を鍛えていくしかない。
この私だって、そうだったし、今もその最中だから「本を読んで、自分を鍛えている」のである。娯楽小説ばかりを読んで、現実逃避しているような甘ちゃんが、私の相手にもならないのは、理の当然なのだ。

これは、「作家」だ「小説家」だ「知識人」だなどといっても、まったく同じである。
彼らは「作品の中という安全圏」においてだけ「ご立派」だが、そこから一歩外に出て、「平等の対論」の場に立つことなどできない。「先生」として「下駄を履かせてもらい」「相手が手加減してくれる」ような場でないと、怖くて出てこられない者が大半なのだ。その伸びきった「ピノキオの鼻」をへし折られるのが、怖くて仕方ないのである。

(13)『 迷惑をかけないよう、あるいは、場の空気を乱さないよう自らを律することのできる人は、たしかに立派です。しかし、それと同時に、おたがいに迷惑をかけつつも、それを笑って受け容れられるつながりも同じくらい大事だと思いますし、私は、後者のほうに居心地のよさを感じます。
 このようなつながりは、おたがいが相手の持つ異質さを受け容れることをによって初めて得られるものです。
 私たちは豊かになったからこそ、「一人」になるだけでなく、相手の前にあえてとどまり、「ただつき合う」ということをもっと意識した方がよい。そこから得られる多様性もあるのではないかと考えています。』(P186)

シンプルな言い方をすれば、いつだって「生きることは戦い」(出崎統監督『家なき子』)なのだ。
ただ、そうした真剣な戦いの中でこそ、真の友情だって生まれるのである。「百円ショップの友情(=イイね)」なんかを買い占めようとするのは、もうやめようではないか。
よほどのバカでなければ、いずれその虚しさに、気づかざるを得ないのだから。


(2022年1月25日)

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〈象る力〉と飛浩隆の変容 一一書評;飛浩隆『象られた力』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時11分18秒
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 〈象る力〉と飛浩隆の変容

 書評;飛浩隆『象られた力』(ハヤカワ文庫)

 初出:2022年1月24日「note記事」

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本書は、『グラン・ヴァカンス 廃園の天使』(2006年刊)で「復活」を遂げるまで、その寡作さゆえに「伝説の作家」と化していた飛浩隆の、「復活」以前の作品を収めた、いわば「初期作品集」である。
収録作は、中編の「ディオ」、長めの短編の「呪界のほとり」と「夜と泥の」の2篇、そして表題作の長編「象られた力」だ。

「象られた力」では、突然消滅した惑星「百合洋」で発達した独自の図形言語が、惑星消滅の鍵となるのだが、この「図形言語」こそが、まさに「象られた力」つまり「形を与えられた力」そのものだった。

言うまでもなく、飛浩隆という作家にとっては、「言葉」こそが「象られた力」であり、「言霊」などというオカルトめいたものを持ち出すまでもなく、「言葉」は、物事を動かす「力」に相違ない。ただ、飛浩隆の場合、言葉の「造形力」という側面に、フィティッシュなまでにこだわる作家であるからこそ、普通の意味での「言葉使い師」(神林長平)であるに止まらず、「言葉による、具象の造形家」とでもいった個性を持った小説家だと言えよう。

さて、私はこれまで、やや変則的に『自生の夢』『零號琴』『ポリフォニック・イリュージョン 飛浩隆初期作品集』『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』そして本作品集『象られた力』という順に飛作品を読んできたのだが、本作品集に感じたのは、今回の収録に当たってかなり加筆されたらしい「象られた力」が、いかにも(最近の)飛浩隆らしい作品であるのに対し、その前の3作は、意外に「当たり前に面白いSF」だということであった。

最近の作品は「作られた世界」について問題意識が前面に出ているけれど、「ディオ」「呪界のほとり」「夜と泥の」の3作は、その点へのこだわりは今ほどではなく、むしろ当たり前に「作られた世界」についての「謎解き」興味が前面に出ていて、例えば(SFファンではなく)ミステリファンでも、それなりに楽しめる作品になっているのではないかと、少々意外の感にとらわれたのである。

もちろん、作家が自分の「より本質的な部分」を掘り下げ深めていくというのは当然であり、基本的には好ましいことだと言えよう。それが飛浩隆の場合、本人の好むと好まざるとにかかわらず、より「マニアック」な方向性であり、読者を限定することになりかねないものだとしてもだ。

ただ、飛浩隆のこうした方向性が、専業作家になったがゆえの先鋭化であったとすれば、それは悪い意味での「アマチュアリズムの喪失」という側面を含むものとも考えられるから、用心すべき点ではあるかもしれない。

と言うのも、ミステリの世界で「言葉の呪力」を語る作家として名高い京極夏彦的に言うならば、言葉は「憑き物」であり、人を破滅させる力も持っているから、「言葉」の使用にあたっては、「言葉」は使っても、「言葉」に憑かれて使われないようにしなければならない、という側面もあると思うのだ。つまり「ミイラ取りがミイラ」になりがちなように、「言葉を駆使する言葉使い師が、いつの間にやら、言葉に操られて、我を失っている」と言ったことだって、往々にあると思うし、そうした事例は、先日のSF作家・樋口恭介による「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集」中止問題といった、ごく身近な事例にも、生々しく見られることだからである。「言葉」は、「滑る」に止まらず、「暴走する」のだ。

こうした「言葉の呪い」から逃れるには、どうしたらい良いだろうか。
その、一つの答えとして、私が推奨したいのは、良い意味での「アマチュアリズム」の保持である。

マニアというのは、しばしば「業界用語という言葉の権威」に憑かれているだけ、といった人が少なくない。
例えば、飛浩隆を評するのに「伝説の作家」などという、プロの解説者や評論家に与えられた言葉(レッテル)をおうむ返し繰りに返すだけで、何事か語ったような気になる人も少なくなく、自分の言葉で飛浩隆を語れる人が少ないというのは、飛のSF界における人気のわりには、例えば「Amazonカスタマーレビュー」に、長めのレビューを投じる人が、片手に収まるという状況にも窺うことができよう。

同様に、そうした「型に嵌った形容=言葉」の「沼」に、どっぷり嵌ってしまった場合、そうした言葉どもに纏いつかれて、自由を失い、溺れてしまう(=思考停止・視野狭窄)といったことだってあるのではないだろうか。

そうした観点から、私は「業界という沼」にどっぷりと浸からない、「いくつかの他の世界」を保持している「アマチュアリズム」の軽快さというのは、「作家」のためにも悪くはないと思うのだ。
無論、SF界の中で「権威」と化すのも悪くはないが、「言葉の桎梏」に捕らわれたのでは、「言葉の造形師」たる飛浩隆の名が泣くのではないか。

京極夏彦の描いた主人公・中禅寺秋彦は「言葉は呪」であると言い、「憑き物落とし」とは「言葉による言説の解体(脱構築)」であることを示して見せたのだが、飛浩隆にも、そうした方向があっても良いのではと、この好ましい「初期作品集」を読みながら、そんなことを考えた次第である。


(2022年1月24日)

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神ではなく〈人〉としての、エラリー・クイーン 一一書評:飯城勇三『エラリー・クイーン完全ガイド』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時09分52秒
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 神ではなく〈人〉としての、エラリー・クイーン

 書評:飯城勇三『エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書)

 初出:2022年1月22日「note記事」

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本格ミステリーを代表する作家の筆頭に挙げられるのが、エラリー・クイーンである。
少なくとも、日本においてはそうであり、その日本における不動の地位の礎を築いた一人が、本書著者の飯城勇三であるというのは、業界筋においては異論の出るところではないはずだ。

事実、今日の日本におけるエラリー・クイーンの特権的な地位を、一般認識の場で確定したと言えるであろう「新本格ミステリ」の作家たち、その中でもエラリー・クイーンの影響を隠さない、新本格第一世代の作家の中には、作家になる以前に、飯城勇三の主催する「エラリー・クイーン・ファンクラブ(EQFC)」の会員であった者もいる。

また、新本格第一世代前後のミステリマニアの場合、本格ミステリの二大巨頭として、エラリー・クイーンと並べて、ジョン・ディクスン・カーの名をあげる者も少なくなかった(例えば、二階堂黎人)が、今日、エラリー・クイーンの一人勝ちに近い印象があるのは、新本格第一世代の作家たちの働きというよりも、ファンダムにおける飯城勇三の「理論的活動」の影響だと言っても、決して過言ではないだろう。
クイーンを論ずる人は多いのに、カーを論ずる人が少ないのは、カーが論じにくい作家であったと言うよりも、クイーンの場合、飯城勇三の過去の仕事によって、理論的な議論の下地ができていたからなのである。

このように、皮肉でもなんでもなく、ほとんど「日本におけるエラリー・クイーン教の教祖」と呼んでいいほど、クイーンの紹介に長年取り組んできた飯城勇三が、いまだに本書のような入門書を書くというその情熱は、まったく持って尋常一様なものではない。
これだけの長きにわたり、クイーンについて書いていれば、嫌でもパターン化が起きてしまって、書くものに情熱が感じられないといったことになるのは、ほとんど避け難いところだろう。だが、飯城勇三の場合、エラリー・クイーンを語る筆に込めた熱量が、四半世紀を軽く超えても下がらないというのだから、まさに怪物だと言ってもいいくらいである。
したがって私は、飯城の書いたものの、内容や出来不出来を議論する以前に、この枯渇しない熱量に敬服しないではいられないのだ。

今日、エラリー・クイーンファンの多くは、エラリー・クイーンという、すでに完成した「権威」を担いで回っているだけだが、飯城勇三の場合は、一人の「本格ミステリ作家」であったエラリー・クイーンを、その豪腕で「本格ミステリの神」という「権威」にまで担ぎ上げたのだから、同じ「ファン」とは言え、両者の大きな違いは、正しく認識されなければならないのではないだろうか。

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さて、本書だが、私の場合、本書のようなガイドブックは、滅多に読まない。というのも、作品を読む前にそういうものを読んでしまうと、読みがそちらに引っ張られてしまう蓋然性が高いので、なるべく真っ新な目で作品を読めるよう、ガイドブックの類は意識して避けているのである。

そんなわけで、若い頃なら、このような本は読まなかった。エラリー・クイーンを読みたいのなら、作品の内容にまで踏み込んだガイドブックなど読まなくても、読むべき代表作くらい、ちょっと調べれば簡単にわかることだからだ。
しかし、自分の年齢と読書における守備範囲の広さを勘案し、自分にとっての「本格ミステリ」あるいは「エラリー・クイーン」の重要度を考えれば、すでにその代表作の多くは読んでいるので、いまさら残りの作品にまで手をのばす蓋然性は低い。
クイーンに限らず、本格ミステリ作家のめぼしい作品は「全部読みたい」という気持ちはあっても、すでにそれが不可能であることを、嫌でも意識しなければならない年齢になってきた。だから「もう、残りの作品については、このガイドブックで、最低限に知識を得るに止めよう」と考え、本書を手に取ったのである。

だが、本書を読んだ結果として、やはり、新たに興味の開かれるところがあった。それは、作者エラリー・クイーンの「宗教(信仰)問題」である。

かつても「後期クイーン的問題」には興味を持ち、そこから柄谷行人を読んだり、不完全性定理に関する入門書を読んだりしたし、この問題の背景として無視できない「宗教問題」にも興味は持った。
しかし、当時の私は、「宗教問題」自体に、それほど突っ込んだ興味を持っていたわけではなかったし、ましてや「宗教」を研究していたわけでもなかったから、「操りの問題は、神と人間の関係に絡んでくるんだろうな」というくらいの認識はあっても、それ以上に突っ込んで考察することはしなかったのである。

しかし、素人なりに「宗教」問題に取り組み、特に「キリスト教」を研究して、神父や牧師と議論できるくらいの知識と経験を持った今なら、エラリー・クイーンの「宗教問題」について、飯城勇三や新本格ミステリ作家のように「本格ミステリ」の側からではなく、「宗教」の側から、より深いアプローチができるのではないか、と考えた。

昨年(2021年)読んだ、飯城勇三の長編評論『数学者と哲学者の密室 天城一と笠井潔、そして探偵と密室と社会』のレビューで、私は、飯城勇三に関する思い出話として、次のように書いた。

『飯城の評論文については、SRの会の会誌「SRマンスリー」に載ったものや、その後だいぶ経ってからの単発同人誌『天城一研究』などで、いくつかは読んでいるが、当時の私の興味を惹くことはあまりなかった。
当時も、飯城の評論は「アナロジー」を駆使したユニークなもので、たしか、これもご一緒した同人誌『新世紀エヴァンゲリオン研究』だったかに「エラリー・クイーン作品と『新世紀エヴァンゲリオン』の類似性」を論じた文章を投じているのを見て「本当に器用な人だな」と感心したり呆れたりした記憶がある。

つまり、私にとっての飯城勇三という評論家は、「ユニークかつ有能な評論家」ではあるけれど、当時すでに私の方向性となっていた「人間の内面」の問題を扱う「文芸批評」や「社会批評」「思想哲学」といったところには踏み込まない、「オタク評論家」だとして、あまり興味を持たず、目にしても読まないことが多かったのだ。』

このとおり、本書『エラリー・クイーン完全ガイド』を読むまで、私は、飯城勇三が「エヴァンゲリオンとエラリー・クイーンを結びつけたのは、少々強引なアナロジー思考によるもの」だと思っていた。
ところが、本書にはこのあたりの事情を紹介する、「エヴァンゲリオン」と題した次のようなミニコラムがあった。


『 今年完結したアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の最初のTVシリーズ(1995~96年)を観た時、私は『十日間の不思議』との類似点が多いので驚きました。シリーズはその後も続き、変わった点もありますが、面白い指摘だと思うので、TVシリーズとの類似点を記しておきましょう。
 何と言っても、登場人物の設定と配置がそっくりです。精神を病み、父の支配から逃れられないハワードは碇シンジ。ハワードの母親にして恋人のサリーは綾波レイ。すべての計画者ディートリッヒは碇ゲンドウ。その脇にいつもいるが目立たないウルファートは冬月。ハワードの保護者であり、何者かに操られている感じを抱くエラリーはミサト。
 さらに『エヴァ』は「使徒(聖書から採っている)を一体ずつ倒していく」というプロットも『十日間』とよく似ています。『エヴァ』のファンの方は、ぜひ『十日間』を読んでみてください。
 また、シンジがエヴァのパイロットやめようとして加持に諭されるシーンは、『九尾の猫』のラストシーンと同じ。TVシリーズ最終回は、クイーンの『孤独の島』のラスト(人類の一員に加わったことを感じている主人公のまわりに町中の人々が集まって祝福し、さらに作者も祝福して終わる)とよく似ています。こちらも比較して、時空を超えたシンクロを味わってみませんか?』(P125)

つまり、飯城勇三のよる「エラリー・クイーン作品と『新世紀エヴァンゲリオン』の類似性」を論じた文章は、それほど突飛でもなければ牽強付会なものでもなく、クイーン作品を細部まで記憶しておればこそ可能だった、ユニークな「類似性」の発見だったわけである。

ともあれ、飯城勇三が「エラリー・クイーンから宗教問題を扱った」のだとすれば、私は「宗教問題からエラリー・クイーン」を扱うことも可能なのではないだろうか。

エヴァマニアによって詳しく分析された、『新世紀エヴァンゲリオン』と「ユダヤ神秘主義」との関連の方は、それをさらに犀利に分析した大瀧啓裕(H・P・ラヴクラフト、フィリップ・K・ディック、コリン・ウィルソンなどの翻訳などで知られる翻訳家で、神秘学に詳しい)の『エヴァンゲリオンの夢 使徒進化論の幻影』などには及ばずとも、「ユダヤ・キリスト教とエラリー・クイーン」の方なら、付け加えることのできる部分が、まだ私にも残されているのではないかと思うのだ。
それに、日本の方が、本場アメリカよりも、エラリー・クイーンの研究が進んでいるのだとすれば、作家エラリー・クイーンの「宗教」の問題は、アメリカでもさほど進んではいないはずだと思えば、やりがいもある。

ユダヤ系アメリカ人である、エラリー・クイーンが「ユダヤ教とキリスト教の間」で、アイデンティティの問題に直面せざるを得なかったというのは、容易に推察できるところで、だとすれば、エラリー・クイーンが「本格ミステリ」という極めて「自己完結性が強く、帰属性の高い文学」形式を選んだという事実は、そのまま「宗教」の問題と考えることだって可能なのである。

本書を読むことで、私は「宗教」という側面から、「人間エラリー・クイーン」に興味を持つことができた。
したがって今後、未読作品を穴埋め的に読むようなことはしないけれど、昔とは違った観点から、エラリー・クイーンの作品を再読することならあるだろう。ひとまず、近いうちに『十日間の不思議』を、新訳で読んでみるつもりである。

本書によって、私にとってのエラリー・クイーンは、「本格ミステリの神様」ではなく、「人間」として、初めて立ち上がってきたのである。


(2022年1月22日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

 

戦後を生きた〈凛とした女〉たち 一一書評:中央公論新社編『少女たちの戦争』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 2月23日(水)22時08分11秒
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 戦後を生きた〈凛とした女〉たち

 書評:中央公論新社編『少女たちの戦争』(中央公論新社)

 初出:2022年1月21日「note記事」

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強く強くオススメしたい、真に「精華集」と呼ぶに値する1冊だ。

『【太平洋戦争開戦80年企画】
「サヨナラ」も言えぬまま別れた若き兵士との一瞬の邂逅、防空壕で友と感想を語り合った吉屋信子の少女小説、東京大空襲の翌日に食べたヤケッパチの〈最後の昼餐〉……戦時にも疎開や空襲以外の日々の営みがあり、青春があった。
太平洋戦争開戦時20歳未満、妻でも母でもなく〈少女〉だった27人の女性たちが見つめた、戦時下の日常。すぐれた書き手による随筆を精選したオリジナル・アンソロジー。 』

とのことで、企画としてはそんなに目新しいものだとは思えない。しかし、書き手が素晴らしい。

瀬戸内寂聴 、石井好子 、近藤富枝 、佐藤愛子 、橋田壽賀子 、杉本苑子 、武田百合子 、河野多惠子 、茨木のり子 、石牟礼道子 、森崎和江 、馬場あき子 、田辺聖子 、津村節子 、須賀敦子 、竹西寛子 、新川和江 、向田邦子 、青木 玉 、林 京子 、澤地久枝 、大庭みな子 、有吉佐和子 、黒柳徹子 、吉田知子 、中村メイコ 、佐野洋子

私は女性作家の本をあまり読まないのだが、それはたぶん女性作家の作品には、私好みの「強靭さ」「過剰さ」といったものが、あまり期待できないと感じていたからだろう。私の好みというのは、わかりやすく「マッチョ」だったのである。

しかし、長年、文学に親しんできた者として、このアンソロジーに収録された書き手たちの名前はいろんなところで目にしているし、皆それぞれに一本筋の通った人だという印象があって、女性だからと甘く見たら、きっと痛い目に遭わされるだろうと、そんな認識を持って、一定の距離を保ってきたように思う。

昨年(2021年)暮れ、書店の平台でたまたま本書を見かけ、こうの史代のカバーイラストに惹かれて手に取り、カバー背面に刷られた27人の執筆者名を見て、これは、これまで読んだことのなかった女性作家たちの文章に触れるのに最適な本だと直感して、迷わず購入した。そして、その結果は、期待以上のものであった。

まず何より、すべての文章が素晴らしい。
普通、アンソロジーというものは、10作収録されていたら、そのうちの2、3作に惹かれれば、まずまず買った値打ちがあったという感じなのだが、本書に収められた27本のエッセイは、本当に、すべて素晴らしいのだ。

一流の人たちの仕事の中から「戦争という稀有の体験」を綴った文章を採ったのだから、どれも素晴らしくて当然だと言われるかもしれないが、アンソロジーを愛好する読者なら、実際のところ、そう理屈どおりにはいかないことの少なくないのを、知っているはずだ。
なぜ、傑作ぞろいであるはずのアンソロジーでありながら、しばしば楽しめた作品が集中のいくつかだけ、などということになりがちなのか。その理由のひとつは、読み手の「幅の狭さ」ということなのであろう。

このアンソロジーだって、若い頃に読んでいたら、きっとここまで関心しなかっただろうし、その凄みを感じ得なかっただろう。
しかし、いつまでも子供のような私でも、それなりに齢を重ねて、世の中のあれやこれやを見聞きし、悲喜こもごもを体験してきたからこそ、それぞれの文章の行間に秘められた「語られざる思い」を、ある程度は読み取れるようになったのではないだろうか。

私はこれまで、男性的な「重厚」な作品の中から、効率的に「濃い中身」を求めてきたけれど、やっと女性作家的な「抑えた筆致の中に秘められた思い」や、その「強さ」というものを、少しは読み取れるようになったのではないか。また、そう感じられてことが、とても嬉しかった。

本書巻末には、編者による次のような、紹介文が添えられている。

『  この本について

『少女たちの戦争』は、一九四一(昭和十六)年十二月八日の太平洋戦争開戦時に、満二十歳未満だった女性によるエッセイを著者の生年順に収録したものです。全二十七名のうち最年長は、一九二二(大正十一)年五月生まれの瀬戸内寂聴さんで当時十九歳、最年少は三八(昭和十三)年六月生まれの佐野洋子さんで三歳です。一九三一年九月に満州事変があり、三七年七月には日中戦争が始まり、四五(昭和二十)年八月十五日まで、十五年間戦争が続きました。彼女たちが物心ついたときにはすでに日本は政治家にありました。
 非常時が日常となった日々のなかで、幼少期・青春期を送った彼女たちは何を思い、どう過ごしたのか。ここに収められた文書は必ずしも戦争をテーマにしたものばかりではありません。むしろ従来の戦争の記憶からはこぼれ落ちてしまいそうな、戦時下の何気ない日常が垣間見えるものを選んでいます。
 少女たちには、少女たちの戦争があり、日常がありました。〈男たちの戦争〉から最も遠く、弱く小さき者の声に耳を傾けていただきたいと思います。

 中央公論新社編集部 』(P221)

このように、編者の意図としては『戦時下の何気ない日常が垣間見えるもの』『少女たちの戦争』『弱く小さき者の声』を伝えたい、ということだったのがわかる。

しかし私は、そんなふうには読まなかった。
私は、本書のそれぞれに、「戦争体験」そのものよりも、「戦争体験を抱きしめて、戦後の日本を生きぬいてきた女たちの、凛とした美しさ」を読み取って感動した。
そこには確かに「男たちの戦争」とはまた違った、戦後における、女たちの「戦争の記憶との戦い」があり、その戦いを生きぬいてきた人間の、静かな強さが、その文体に表れていたのである。

今の私には「持てるものの全てをふりしぼり、なりふり構わずに、時代と戦わなければ負ける」という気持ちがあって、彼女たちのような美しく抑制された文章を書くことはできない。「今は、そんな時ではない」という気持ちが抑えられないのだ。
だが、あと20年くらいやりたい放題をやった後でなら、このように美しく抑制された文章を書けるようになりたいとは思う。それは無論、技術的な問題ではなく、自分のすべき最低限のことはやりきったという余裕の上に立った、静かな文章でありたいのだ。

ともあれ、本書を多くの人に読んでほしい。これを読まないのは、読書人生の損失だ。

本当なら、本書を、中学高校の「国語」の副読本にでもしてほしいところだが、しかし、その年代では、まだこれらの文章を味わうことは難しいだろう。しかしまた、これだけの文章なのだから、その時はわからなくても、心の何処かに生き続けて、その人の人生に少なからぬ影響を与えるのではないかと、そんな気がしないでもない。

ともあれ、ここには間違いなく、誇るべき「日本の、強く優しく美しい心」がある。


(2022年1月21日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

 

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