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〈初学者〉にも読みとれること 一一Amazonレビュー:仲正昌樹『現代哲学の最前線』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月12日(水)21時53分9秒
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 〈初学者〉にも読みとれること

 Amazonレビュー:仲正昌樹『現代哲学の最前線』
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本書は、現代哲学を広く見渡した上で、その流れの中心にあって、いまも最前線にあるテーマを紹介したもの、だと言えるだろう。したがって、個々の議論を正確に追っていける人はそう多くはないだろうし、ましてや哲学の〈初学者〉ですらない私には、そんなことは出来るわけもないので、ここでは哲学にも興味を持つ〈門外漢〉が、本書をどのように読んだかを示すことで、多くの一般読者の用に供したい。

本書の具体的な内容については、「yasuji」「mountainside」両氏による先行レビューを参照していただくとして、著者が描き出した現代哲学の中心にあるテーマは、人間の「心」や「思考」といったものは、はたして「科学的」に正確に記述することが可能なのか、という根本問題なのではないか。
哲学的営為においていろんな立場の哲学者が、それぞれの観点から「真理」を追い求めていく中で、避けて通ることのできないのが、この問題なのである。

「人間の心や心理は、科学的に記述可能なのか」とは「哲学は、厳密な学であり得るのか」ということでもあり、言い変えれば「哲学とは、文学的な世界把握を超え出られるのか否か」という問いでもあろう。
哲学の伝統に反して、「科学的」に正確な記述が可能だと考え(それを目指すべきだと考え)て、そちらに突き進もうとする人たちがいる一方、そうしたやり方の無理や弊害に注目して、そこにそうしたやり方の根本的な思い違いを見る人たちもいる。そうした人たちは、そもそも「科学的」であるということ自体が、ある種の限界を孕んでいるのであり、そうした「人間的限界」の真相をも突き詰めていくのが哲学の使命なのだから、哲学が「科学的」に正確であり厳密であるべきという発想自体に、根本的な誤りがあるのではないか、といった具合に疑っていく。

つまり、哲学の難問とは「観察し考察する主体そのものが、観察し考察すべき対象に他ならない」という「自己言及」の困難さにつきまとわれる、ということだ。
人間は「人間とは何か(を考える人間)」「心とは、思考とは何か(を考える心、思考)」といった具合に、観察対象の「外部」に出ることの不可能性につきまとわれるのだが、これは原理的な「客観視」の不可能性を意味しているのではないか。

しかし、それでも人間は、思考を止めることは出来ない。だから、どんな問題に取り組むにしろ、その根本部分にある、この問題と、いつでも何度でも対峙しないではいられないのであろう。

例えば、「哲学を学ぶ人」「哲学に興味がある人」は、「哲学」的な知見を得ることによって、いったい何を求めているのか、という問いは、意外になされていないように、私は思う。
それを「真理探究の欲望」だと言ってしまうことは簡単だが、それはしばしば自己欺瞞の「タテマエ」でしかなく、人は「哲学」というものの持つ「権威」を、「神」の代わりに崇めることで、しばしば安心立命(承認欲求の充足)を求めているのではないだろうか。

「哲学」とは、むろん単純な「人生論」などではないのだけれども、それとしばしば混同され誤解されてきたのは、「哲学」を求める人の少なからぬ部分が、「自分」についてだけは、決してつきつめて考えようとはしなかったからこそ、物事をつきつめることと自分をつきつめて考えることの関連性が無視できなかったのではないか。

どんな物事を対象に「哲学する」にせよ、その主体についての厳密な検証は避けて通れない。はたして人間は、「哲学する私」に対して、冷酷なまでに「科学的」に、厳格であり得るだろうか。

哲学者たちが「科学的に厳密」であることにこだわり、その可能性と不可能性の中で真剣に議論を戦わせつづけるのは、そうした「自己批評」を失った時、哲学は「単なる文学」に堕してしまうと怖れるからではないだろうか。

しかし、哲学に「興味を持つ」私たちは、はたしてそこまで真剣に考えているだろうか。
私たちは、私たち自身の「最前線」が見えているだろうか。
単に「哲学の後方」のそのまた後方で、呑気に、他人事のように、戦況報告を楽しみながら、自身も「戦士」であると思い違いしているだけなのではないだろうか。

本書には〈初学者〉にも学ぶべきものがあると私の感じた所以は、こうした点にあった。

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笑い飛ばすと殺されかねない〈この時代〉に 一一Amazonレビュー:『モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月12日(水)21時51分41秒
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 笑い飛ばすと殺されかねない〈この時代〉に

 Amazonレビュー:テリー・ジョーンズ監督『モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RWET6JLITYXIQ

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『モンティ・パイソン(Monty Python)は、イギリスの代表的なコメディグループ。グレアム・チャップマン、ジョン・クリーズ、テリー・ギリアム、エリック・アイドル、テリー・ジョーンズ、マイケル・ペイリンの6人で構成される(ただし、ニール・イネスとキャロル・クリーヴランドを「7人目のパイソン」と表現することもある)。明らかにモンティ・パイソンを話題にしている場合、単にパイソンズと言うこともある。
1969年から始まったBBCテレビ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』で人気を博し、その後もライブ、映画、アルバム、書籍、舞台劇等で活躍の場を広げ、その爆発的なインパクトはメンバー個人をスターの座に押し上げた。そのスケッチとスケッチの境界線をなくした革新的な構成と完成度の高いスケッチの数々は、アメリカのコメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』をはじめ様々なジャンルのポップ・カルチャーに大きな影響を与え、「コメディ界におけるビートルズ」と表現された。その不条理なスタイルは「Pythonesque」という造語で表され、『オックスフォード英語辞書』にも収録されている。』(ウィキペディア)

いきなり、ウィキペディアの引用で恐縮だが、もはや「モンティ・パイソン」を知らない世代の方が多かろうから、基本的な紹介をウィキペディアの引用で済まさせていただいた。

『空飛ぶモンティ・パイソン』の日本でのテレビ放映は1976年であるから、私が中学生の頃なのだが、当時の私は「モンティ・パイソン」の「笑い」には、ついていくことができなかった。おなじようなものなら『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』や『8時だョ!全員集合』の方が、子供心に素直に楽しめた。
それで「モンティ・パイソン」には、なんとなく「合わないなあ」という印象があって、長らく視ようとしないまま、今日に至った。

今回、本作『ライフ・オブ・ブライアン』を見たのは、本作が「キリスト教」を笑いのめして、公開当時たいへんに物議をかもした作品である、と聞いたからだ。
私は、ここ10年ほど、趣味でキリスト教の研究をしていたので、「あのモンティ・パイソンが、キリスト教を扱ったのなら、そりゃあ、ただでは済まないだろう」と思い、そうした観点から興味を持ったのである。

結論から言えば、やはり「モンティ・パイソン」の「笑い」は、私の趣味ではなかったので、この作品も、映画として特に面白いとは思わなかった。
だが、これは、この映画がダメな作品だという意味ではなく、あくまでも「趣味の違い」だという意味である。

簡単に言えば、私の好みは「重厚長大」で「正面突破」。私は「無神論者」として、キリスト教を完全論破し否定するために、わざわざ「聖書」を通読し「神学書」まで読む、といったタイプである。

ところが、「モンティ・パイソン」は、そうではない。
彼らは、いかにもイギリス人らしく、私のような「野暮」な態度を採らない。つまり「マジにならない」「ムキにならない」「怒らない」。あくまでも「紳士的」な「アイロニー(皮肉)」と「おちょくり」と「ブラックユ-モア」と「哄笑的な朗らかさ」に徹するのである。

言い変えれば、彼らは、敵に対して「裸のお尻を向けて、自分でお尻をペンペンしてから逃げていくという、おちょくり」で戦うタイプなのだが、私の場合は、敵を「正面から斬りつける」のが趣味なのだ。
これでは、趣味の合おうはずもない。ただ、私は「戦い方にもいろいろあって良い」と思うので、「モンティ・パイソン」の「イギリス紳士流」のやり方にも、心から敬意を表したいと思う。手法はどうあれ、たしかに彼らは、とても巨大で危険な相手に挑んだからである。

しかし、本作で注意しなければならないのは、本作は「イエス・キリスト」を批判しているわけではなく、「キリスト教(信者や教会)」をからかい、批判しているだけだ、という点である。

本作の冒頭に近いところで、イエスによる「山上の垂訓」のシーンが描かれるが、イエスが映るのは、ほんの一瞬で、あとは集まった群衆の後ろの方で、イエスに対して「もっと声を出せ、聞こえないぞ!」などとヤジを飛ばしている、あまり行儀の良くない民衆たちの姿が描かれている。

普通の「キリスト教」映画であれば、イエスは主人公か、主人公の信ずる「神」という重要な役どころとして描かれるのだが、この映画でイエスが登場するのはここだけで、あとはもっぱら「キリスト(救済者)」と間違えられた男・ブライアンのドタバタ悲喜劇を描いている。

ブライアンは、とても真面目で優しい男なのだが、その性格が災いして、彼は、旧約聖書によって予言された「キリスト」だと間違われてしまう。
ブライアンは、神だなどと崇められたくなんかないのに、勝手に彼を「キリスト」だと思い込んだ「妄信者たち」が彼を追い回したあげく、彼は不幸にも十字架に掛けられ、殺されてしまうのである。

だから、悪いのは「イエス・キリスト」でも「ブライアン」でもなく、さしたる根拠もないのに、ただの人であるブライアンを「神」だと信じて奉り、それに依存しようとした「妄信者としてのキリスト教徒(ユダヤ教キリスト派)」たちだったと言えよう。
その意味で本作は、「イエス・キリスト」を批判してはいないが、「キリスト教」批判であり、それに止まらず、すべての宗教信者に共通するものとしての「妄信」批判であった。
そしてパイソンズは、このテーマを「自分の頭で考えよう」だと語ったのである。

本作で印象的なのは、最期の十字架刑のシーンだ。
正確には、十字架にかけられ、さてこれから2日間放置されるというシーンで、ブライアンと一緒に十字架に掛けられた十人ほどの罪人たちが「Always Look on the Bright Side of Life(いつも人生の明るい面を見よう)」(作詞作曲・テリー・ジョーンズ)という歌を、みんなで歌いだすところだ。
刑死という、どうしようもなく悲惨で暗い場面で、彼らは陽気に「いつも人生の明るい面を見ようよ」と歌うのだが、「その人生が終っちまうんだよ!」という正当なツッコミを笑い飛ばしてしまうところが、彼らの持つ「アイロニカルな笑い」の、比類ない力だったのであろう。

現代は、イスラームの復権以後、宗教を笑い飛ばせない雰囲気が蔓延しているから、宗教を批判するとしても、私のように「真正面から論破」という形を採るしかないのだが、しかし、これはあまり健康な状態だとは言えないだろう。

理屈はどうあれ、ひとまず「そりゃ、おかしいだろう」と、まさに腹を抱えて笑い飛ばすことのできる状態こそが、本当の意味での「人間的に自由な状態」なのではないだろうか。
そして、そうした意味で「モンティ・パイソン」の「笑い」は、けっして軽んじることの出来ないものなのである。

一一と、こんな具合に「重厚」に論じてしまうところが、私の弱点なのだ。
きっと、パイソンズは、こんな私をも茶化して、笑い飛ばすことだろう。それはまことに、本望である。

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大正デモクラシーの〈幻影〉一一Amazonレビュー:萩原朔太郎(文)、金井田英津子(絵)『猫町』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月12日(水)21時46分56秒
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 大正デモクラシーの〈幻影〉

 Amazonレビュー:萩原朔太郎(文)、金井田英津子(絵)『猫町』
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本稿は、萩原朔太郎の短編小説「猫町」そのものを評することが目的ではなく、朔太郎の小説と、金井田英津子の絵が、どの程度マッチしており、合作「絵本」としての効果を上げているか、という点について論じるものである。

まず、朔太郎の「猫町」が、とても面白い「幻想小説」であるというのは、論を待たないだろう。
朔太郎は『1913年(大正2年)に北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の詩を発表、詩人として出発』(Wikipedia)した、詩人であり歌人だが、戦前の1921年(大正10年)に本作「猫町」を発表している。

「大正10年」と言えば、おおむね「大正デモクラシー」の最期の時期である。
ちなみに「大正デモクラシー」とは、

『何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。』(Wikipedia「大正デモクラシー」)

ということになる。
つまり、すでに『1918年(大正7年)7月12日にシベリア出兵宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人による米の買占め、売惜しみが発生し米価格が急騰』(Wikipedia)して「米騒動」が勃発するなど、内外ともにキナ臭くなってきてはいたものの、まだ国内の文化的側面では自由が謳歌されていた時代であり、それを象徴するのが、この時期に始まる「モボ・モガ」(モダンボーイ・モダンガール)の文化だと言えるだろう。

萩原朔太郎の「猫町」にも、そんな「大正デモクラシーの光と影」が滲んでいるし、これは「モボ・モガ」的なセンスがあってこそ、書かれえた作品だと言えるだろう。
つまり、オシャレな作品だが、どこかに「不穏さ」を抱えた作品、だということである。

さて、私は詩歌には興味がないので、おのずと朔太郎にもほとんど興味はなく、本書ももっぱら「金井田英津子の作品」として手に取ったので、問題は、朔太郎の「猫町」そのものよりも、「猫町」が金井田英津子の個性に合った作品か、彼女の魅力を充分に引き出し得る原作であったか、という点にある。

そして、そうした点から言うなら、たしかに金井田英津子は達者な絵描き(版画家)なので、朔太郎のモダンで不穏な世界をうまくビジュアル化しており、十二分に及第点を超える「絵本」に仕上げているのだが、ただ、欲を言えば、金井田特有の「古き日本の原像=幻像」的なものを十二分に発揮する余地のなかったところや、そうした風景の中に生きる「ユーモラスな庶民」を描く余地のなかったところが、やや不満であった。
つまり、金井田英津子の魅力が十二分に発揮されるには、萩原朔太郎は「バタ臭すぎた」のである。

とは言え、幻想の猫町の洋風な町並みは、宮沢賢治のそれを思わせるほど、オシャレで魅力的なものに仕上がっていた。
しかしまた、私がいちばん気に入った絵は、76~77ページの「床屋の風景」だったのも、否定できない事実であった。こっちの方が、やっぱり金井田英津子らしいと思うのだが、さていかがだろうか?

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文章が読めない人は〈カモ〉られる:新井紀子批判 一アマゾンレビュー:新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月12日(水)21時45分33秒
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 文章が読めない人は〈カモ〉られる:新井紀子批判

 amazonレビュー:新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』
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なかなかショッキングなタイトルです。
「AI」は世間の注目が集まっている研究分野ですし、本書の後半では、ぐっと身近な「教科書が読めない子どもたち」の問題が取り上げられており、そこが多くの読者の危機感を煽り、その一方で共感を得る要因ともなっているようです。

これは何を意味するのか。
要は、自分自身は「教科書が読めない子ども」でも「文章を読めない大人」でもなく、ひたすら「基本的読解力のない人たち(他者)」の存在を「危惧する側の人間」だ思い込んでいる(思い込まされている)人たちが少なからずいて、そういう人たちが、本書に説得される、ということではないでしょうか。

しかし、「本書に説得される人」たちが、本当に「まともに文章が読めている」のかと言うと、私には大いに疑問です。
本書に即して、具体的に説明しましょう。

例えば、本書の前半は、「AIが人間を超えた知能を持つようになって、人間に反逆するようになるかもしれない」とか「シンギュラリティが間もなく訪れて、善かれ悪しかれ世の中がすっかり変わる」なんていう話で盛り上がっている学者がいるが、「そんなもんは訪れない」という、本書著者の議論です。
これは、世間が、AIに関する「派手な話題」で盛り上がっている今だからこそ、そうした意見に「逆張り」の批判をくわえる(冷や水を浴びせる)ことによって、目立っているだけで、言っていること自体は、ごく「常識的に平凡」なことでしかありません。

「AIが人間を越えた知能を持つようになって、人間に反逆するようになるかもしれない」とか「シンギュラリティが間もなく訪れて、世の中がすっかり変わる」なんて話は、SF小説や映画の中ではありふれていても、現実にはなかなか訪れそうにないからこそ、多くの人はそれに興味も持って、それを話題にしたがるだけであり、実際のところ、そんな事態が「明日にでも起こる」なんて考えている人はほとんどいませんし、ましてや学者においても同じことなのです。

学者が、殊更に「明るい未来」を語るのは、今の社会が「暗い」からでしょうし、学者が「暗い未来」を語るのは「今のうちに正しく対応しないと、酷いことになるよ」という警鐘の意味があるのでしょう。これは、それが良いものであれ、悪しきものであれ「シンギュラリティ」についても言えることです。

つまり、こうした「極端な未来」を語る学者は、そうしたものを文字どおりに信じているのではなく、「未来のために、いま考えて行動するべきことがある」ということを訴えるために、少々「派手な未来図」を描いて見せているというのが、大半の学者の現実なのです(「地球温暖化の脅威」なども同じでしょう)。

ところが、本書著者は、そうした学者たちを、上記のような「極端な未来図」を丸まま本気で信じている「頭のわるい狂信者」扱いにし、自身を「常識人」の立場において「そんなバカなことはありませんよ」と、一般読者向けに、自身の「堅実さ」や「誠実さ」をアピールしているだけなのです。
現に、本書著者の物言いは、次のような形式になっています。

「当面、あり得ない」
「このままでは、あり得ない」
「余程の事がないと、あり得ない」
「この定義からすれば、あり得ない」

つまり、著者は「いかなる意味でも、AIが人間の能力を超えることは、あり得ない」とか「いかなる意味でも、シンギュラリティは、到来しない」と断言している、わけではないのです。

「当面は」とか「このままで行けば」とか「余程の事がないかぎりは」とか「この(自分の)定義からすれば」とかいった、勝手な「条件」を一方的に付して、抜かりなく「アリバイ工作」をした上で、「それはあり得ない」と妙に威勢よく断言し、他の学者をバカ扱いにしているだけなのですね。
具体的に示すと、こんな具合です。

『 AIは神に代わって人類にユートピアをもたらすことないし、その能力が人智を超えて人類を滅ぼしたりすることはありません、当面は。』(P2)

『残念なことに、私の未来予想図はそうではありません。シンギュラリティは来ないし、AIが人間の仕事をすべて奪ってしまうような未来は来ません』(P3)

『 人工知能と言うからには、人間の一般的な知能とまったく同じとまでは言わなくても、それと同等レベルの能力のある知能でなければなりません。』(P12)

『 そのようなわけで、今後も、遠い未来はともかく、近未来に人工知能が誕生することはありません。』(P14)

287ページもある本書の冒頭部分だけでも、こんなふうに、著者独特の「姑息なレトリック」が目につくのですが、本書を読んで感心した読者というのは、きっとこういう「レトリック」の存在を「読みとれなかった」人たちなのでしょう。これが読み取れていたならば「こんなことなら、誰でも言える」と気づいたはずだからです。

著者が、本書前半の「AIを可能性をめぐる議論」で主張しているのは「当面は、SF映画みたいな世界にはならない」という、ただそれだけの話ですし、そうした「当たり前の話」を、自身の「経歴」や「肩書き」で、ことさら意味のあることのようにアピールしているに過ぎません。

こういう「当たり前」の主張というのは、当然のことながら、専門的な知識のない人の「俗耳に入りやすい」。
一般読者が漠然と感じている「不安」を、「専門家の権威」において否定することで「安心感」を与え、彼らに「専門的なことはわからないけど、私もだいたいそんなことだろうと思っていたんだよ」という「安直な共感」を持たせているのです。

そして、本書著者のこういう態度こそが、小説家・大西巨人が「俗情との結託」と呼んで批判したものの、典型です。

大した裏づけがなくても、多くの読者が期待し求めている「回答」を、専門家の権威だけで投げ与えて、「ウケ」に走る、偽善的な態度を「俗情との結託」と言います。

その意味では、本書が「ベストセラー」になったのも、ある意味では当然で、本書を持て囃した読者の大半は、他の科学者が書いた「AI=人工知能」や「シンギュラリティ」に関する本など、まともに読んだことがない人たちでしょうし、ましてそうしたジャンルの「専門書」など、手に取ったこともない人たちでしょう。
本書自体、その書かれ方からしても、典型的な「ビジネス書」であって、決して「専門書」ではありませんしね。

本書著者の、こうした「本質的不誠実さ」や「偽善」というのは、他にもいろいろあって、「文章が読める読者」なら、それを容易に見抜くことができなす。
本書から読みとれる、著者の「表面的に糊塗された、本当の性格」とは、おおむね次のようにまとめられます。

(1)著者の文章は、主観的(感情的)であって、冷静さや公正さを欠いている。そのため、敵味方二元論的な書き方になっており、自分の協力者には賛美を惜しまず、立場を異にする人に対しては、さしたる根拠も示さずに平然と誹謗する。

(2)自分は「身の程を知った人間」であり「謙虚」である、また「善意」だけで本書を書いていると、臆面もなく書ける、下手なビジネスマンも顔負けの、厚顔さや図太さを持っている。

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(1)について証拠となるのは、次のような文章です。
(a,b,c)は、否定的に評価すべき相手についての記述。
(d,e)は、肯定すべき相手についての記述です。

(a)『 某新聞社の論説委員から経産省の官僚まで、なぜか(※ 誤答である)グルコースを選ぶので驚きましたが、正解は(1)のデンプンです。』(P204)

(b)『この事実を伝えたところ、とある新聞社の記者が「57%の正答率ではダメですか?」と聞いたのです。「100点満点で57点というのは、平均点としては悪くないのではないですか?」と。』(P206)

(c)『 実際に、一流企業の社会人の方、学校の先生、あるいは「読む」ことが仕事の編集者や記者の方に試しにしていただいても、意外に間違えたりします。そういう方たちは、読むのに自信があるので、最初は「教科書の書き方がよくない」とか「問題に曖昧性がある」とかさまざまな批判を口にします。』(P245)

見てのとおり、ここで否定的に言及されているのは、『新聞社の論説委員』『経産省の官僚』『新聞社の記者』『一流企業の社会人』『学校の先生』『編集者』『(※ 雑誌などの)記者』といった、一般に「知的エリート」とされている職業人です。
つまり、一般に「知的エリート」とは認められていない「一般の社会人」たちの「妬み嫉み」を買いやすい人たちであり、こういう人たちを扱き下ろすと、一般ウケしやすい。これが、「俗情との結託」に秘訣です。

そもそも、こういった「知的エリート」と見られる職業人たちが「簡単な読解力テストで誤答した」と言っても、そうした職業の人の「大半が誤答した」わけではなく、「誤答した人もいた」という話に過ぎませんし、どんな職業の人であれ「ピンからキリまでいる」のは当然で、キリの人がいたからと言って、その職業の人が「全体に無能だ」ということにもなりません。
また、「簡単な読解力テストで誤答した」人であっても、「すべて間違う」わけでもなければ、「つねに間違う」わけでもない。

それなのに、ある「失敗」を捉えて、これ見よがしに「この人たちだって、このとおり大したことはないんですよ」といった調子で、失敗を挙げつらって書くというのは、およそ感情先行であって冷静な記述ではないし、「公正な記述ではなく、恣意的な誇張の入った記述」だと言えるでしょう。

その一方で、

(d)『 なるほど。学校というところは、本当に大変な職場です。どこかの学校でいじめなどの不祥事があるたびに、全国一斉に「アンケート調査しろ」というようなお達しが下ります。調査調査の明け暮れです。中教審の委員の思いつきとしか思えない、プログラミング教育とかアクティブラーニングとかキャリア教育とか持続可能性社会教育とかを突っ込まれ、さらには小学生から英語教育。いい加減にしてくれ! と多くの先生たちは内心、思っていたのかもしれません。子どもたちが好きで教えるのが好きで教員になった彼らです。「教えたら、わかる」という手応えこそが最大のモチベーションになるのでしょう。』(P225~226)

(e)『 現場の教員の方々は、それを皮膚感覚で感じておられます。私たちが実感しているRST(※ リーディングスキルテスト)は、文科省や教育委員会などがスケジュールを確保して上位下達で実施する学力調査ではありません。そのような調査に(※ 行事過密で忙しい)学校が協力することは、とても異例なのだそうです。(中略)東大や京大の教育学部でさえ、なかなか学校現場には調査依頼に協力してもらえないそうです。ところが、私たちのRSTにはわずか1年半の期間に、全国で100以上の学校や機関が協力してくださいました。奇跡だと言われました。協力していただけたのは、このテストで問おうとしていることが、現場の危機感を体現していたからだと思います。現場の教員や教育委員会の方々も、「生徒は本当に読めているのか」を知りたかったのです。』(P241~242)

と、「現場の先生」をやたらに褒め讃えています。

これではまるで、『新聞社の論説委員』『経産省の官僚』『新聞社の記者』『一流企業の社会人』『学校の先生』『編集者』『(※ 雑誌などの)記者』あるいは『中教審の委員』はすべて、現場知らず、苦労知らずであり、一方「現場の先生」は、苦労ばかりしている、献身的な「聖人君子」であるかのような「書き方」です。

しかし、このような「ヨイショ」には、とうぜん「裏」がある。
その「裏」とは、「現場の先生」が、著者の事業である「RST」を採用してくれる、実質的な「顧客」だということです。古い言い方ですれば、商売人なら「お客様は神様」扱いにするものだ、ということでしょう。

一方(2)の部分ですが、著者は自身を、まるで「純粋無垢な学者バカ」であり、かつ「無私の聖人」であるかのように、自己賛美します。

(f)『私が科学者として肝に銘じていることがあります。それは、科学を過信せず、科学の限界に謙虚であることです。』(P158)

なるほど「正論」ではありますが、「正論」を口にするだけなら、詐欺師なども大いに得意です。
そもそも「謙虚」な人は、自分で自分を「謙虚」だなどとは語らないもので、このあたりでも、著者の「自分語り」はう、極めてうさん臭いと言えるでしょう。

(g)『 コンピューターが数学の言葉だけを使って動いている限り、予見できる未来にシンギュラリティが来ることはありません。そう言うと、「夢がない」とか「ロマンがない」と批判されることがありますけど、来ないものは来ないと言うしかありません。
 数学者はロマンチストです。数百年かかっても解けない問題に平気で挑んだりします。数学者にとって、自分が生きているうちに問題が解けないことは当たり前のことです。だからこそ、数学者は自分のロマンのために他人の財布をあてにしたりしません。ロマンを追い求めるために、他人を巻き込むのは変ですから。』(P163)

『数学者は自分のロマンのために他人の財布をあてにしたりしません。』とのお言葉ですが、そんなことはないでしょう。

数学者だって、人間なんだから、好きなことだけをやって生きていければ、それに越したことはないという「欲望」を持っていますし、その場合、「他人の財布」を当てにするくらいのことは、当たり前にあるでしょう。

「数学者」の著者が、「数学者」をここまで「偶像化」するというのは、結局のところ「自己偶像化」であり「自己賛美」以外の何ものでもありません。

(h)『 もし、今回の本を「数学者が考案! 世界初のAIに基づく読解力向上法」と銘打って、「こういうドリルにすれば、こういうことをすれば、あなたの読解力は劇的に向上します」というものにしたならば、とても売れるに違いありません。ドリルを作ってタイアップで売ったら何億円も儲けられたかもしれません。
 でも、ごめんなさい。私はそんなことはしません。科学的に検証されてもいないことを「処方箋」として出版するほど倫理観は欠如していません。』(P244)

もし、ここで仮定しているようなタイトルで本書を出していても、決して『何億円も儲けられ』はしなかったでしょうね。だって、いかにも「金儲け目的」なのが、正直に見え見えだからです。

しかし、実際には、露骨に「金儲け目的」を表には出さす、一見したところ「警世の書」であるかのようにしたからこそ、本書はベストセラーになり得たのではないでしょうか。

ちなみに、本書著者の「性格」である「韜晦的な自己賛美」が、最もよく現れているのが、「ことのついで」を装って書かれた、次の文章です。

(i)『 ところで、私自身の話で恐縮ですが、読書は苦手なほうです。大学時代から、多くても年間5冊くらいしか本は読めません。活字を読むのは好きなのですが、そんなに早く読めないのです。でも、自分でない赤の他人が何年もかけて書いた本を理解するためには、著者が書くのに要した時間の倍はかかって当たり前だと思いませんか? 数学の本や哲学書を1年に3冊以上きちんと読める人は本当にすごいなと思います。デカルトの『方法序説』は大変薄い本ですが、大学時代から20回は読んで、自分の科学的方法のほとんどをそこから学びましたが、それでもまだわからない部分があります。
 もしかすると、多読ではなくて、精読、深読に、なんらかのヒントがあるのかも。そんな予感めいたものを感じています。』(P246)

著者はここで「私は読書家ではありません」と「謙遜」しているのではありません。
そうではなく、「私こそが、本当の読書家である」と「自慢」しているだけです。

彼女が言いたいのは「私みたいにちゃんと読んでいたら、そんなにたくさん読めるわけがないのだから、たくさん本を読んでいるという人は、いい加減な読み方しかしていないと理解すべきだ。世に言う読書家なんて、そんなもんでしかない」という、他者批判であり、謙虚さの欠片もない「自己正当化」なのです。

ちなみに「多読家」として言わせてもらえば、私は読んだ本を頭から最期まで完璧に理解したなどとは思っていません。特に、本書著者のいう学術書でそれをやろうとしたら、書くのにかかった時間の「倍」どころか、「一生」をその本に捧げる「研究者」にでもならなければならないかもしれません。歴史的名著の研究者というのは、そういうことをやっている人たちなのです。
だから、「倍」とか「3倍」だとか「20回」読んだからなどというのは、自己満足に過ぎません。もちろん、より多く読んだ方が良いのですが、問題は、かけた時間や回数では測れない、ということです。

また、本というのは、なにも「完璧に読まなければならない」というものではありません。
そもそも、どこまで読めば「完璧」なのかという、基準も答もありません。だから、300ページの本を通読して、本当に腑に落ちたのが「たった1行」であっても、その読書は無駄ではないし、間違いでもない。例えば、そういう読書でも、300冊読めば、300行の確実な理解と知恵が身につくのだと考えて、どんどん読んでいくという読書法もあります(これが、私の読書法です)。

それに、1冊に固執して、それに徹底的に時間をかけて読むというのは、それはそれで深い知見を得られるでしょうが、下手をすれば「偏頗なものの見方」に染まる怖れだってあります。
それに対し、広く浅くの読書は、「専門的な深さ」は得られなくても、当然「多様な視点」を身につけやすいし、その「多様な視点が響き合って、深い真理にいたる」ことだって、珍しい話ではありません。

事実、名著古典を研究している研究者だって、その本だけを繰り返し読むのではなく、その本を書いた著者が読んだ本にまで遡って読むし、著者の同時代の文献図書も読むし、自分と同じテーマを研究をしている他の研究者の本も読みますし、参考とするために他ジャンルの本も読みます。つまり、けっこういろいろたくさん読むものなのです。

だから、本書著者のように、自分が「年間3冊しか読まない」のは、『精読、深読』しているからだ、などという「自己正当化」は、いかにも虚しいものでしかありません。

言うまでもなく、「たくさん読んでいない」ということと「精読、深読している」ということは、イコールではありません。また、本人が「精読、深読している」と言うことと、実際に「精読、深読できている」ということも、同じではありません。一一それは所詮「自己申告」でしかありませんから。

私が思うに、本書著者が、もっと若い頃に、「数学書や哲学書」ばかりを少しだけ読むのではなく、「文学書」などにも手を広げて読んでいたならば、こんなに簡単に見透かされるような「糊塗された自己賛美」の言葉(つまり「薄っぺらいレトリック」)など、恥ずかしくて書けない、というくらいの「知恵」はついていたと思います。
本書著者のこうした「弱点」は、それだけが原因ではないにしろ、「幅の狭い読書」しかして来なかった「偏頗さ」のせいなのかも知れません。

ちなみに、本書における、著者の「本音」は、次の部分に明らかでしょう。

(j)『 この事実を見ないふりをして、今のまま突き進むと、日本の企業の利潤率はさらに下がり、生産効率は上がらず、非正規雇用労働者が増え、格差が拡大し、一世帯あたり収入の中央値 一一 平均値ではなく中央値です 一一 は下がり続けます。そして、日本を代表する企業が一つ、また一つと消えていきます。』(P270)

(k)『 私は、2017年7月、RSTを提供するための社団法人「教育のための科学研究所」を起業しました。リーディングスキルテストで中高校生の読解力を診断する体制を作るのが第一の理由です。さらに、入試が多様化した大学において入学後の授業についていけるかどうかをチェックする手段として、また、十分に読解力がある人材を企業が採用するための手段として活用していただくことも目標です。そして起業したなによりの理由は、多くの人が、そのことに困っていることを知ったからです。』(P280~281)

要は、(j)で脅しつけ、(k)で「私は個人的な欲で言うのではありません」と言い訳をした上で、「私の事業に投資してください」と訴えているわけです。

このような著者の「タテマエ」を、字面のままに真に受ける人は、最初に書いたとおり「文章が読めない人」だと評されても、仕方ないのではないでしょうか。

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いかにもユング派的な〈絵解き〉一一Amazonレビュー;河合俊雄『NHK100分de名著 ミヒャエル・エンデ『モモ』』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月12日(水)21時43分1秒
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 いかにもユング派的な〈絵解き〉

 Amazonレビュー;河合俊雄『NHK100分de名著 2020年8月 ミヒャエル・エンデ『モモ』』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RV8XVR335X80W

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著者による、いかにもユング派心理分析医らしい『モモ』読解が、間違っているとは言わない。ただ、いかにも「ユング派」らしい、あるいは「河合隼雄」の息子らしい、非常に無難に優等生的な読解が、いささか「つまらない」と感じた事実は、とうてい否定のしようがない。

無論これは、私が文学趣味の持ち主であり、フロイトよりもユングの方が「ひとまず面白い」と感じる程度にはユングもフロイトも読んでおり、河合隼雄をはじめとして、『季刊へるめす』などで活躍した人たちの著作にも、ある程度は親しんだ人間だからであろう。
つまり、若い頃の私なら、こういう「絵解き」に「なるほど」と感心したのだけれど、そういうものをいくつか読んできた身としては、「また、これか」という退屈さは否めないのだ。

たしかに『モモ』を、ユング派的な「心理構造の図式」に当て嵌めることはできるし、それはそれで「正しい読解の一つ」だとは思うけれど、これで何か「片づいた」つもりになるのだとしたら、それはあまりにも罪で貧しい「絵解き」なのではないだろうか。

かつて、その種のものが歓迎されたのは、それが通常の「文芸批評」とは違った角度からの「読みの試み」だったからであり、だからこそ、そこに「新しさ」があった。「蒙が啓かれる」感動があった。
しかし、今またそれをやられても、無難に「定石どおりの読解」を示されたという印象しかない。これは「河合隼雄の優等生読者による、優等生的模範解答」という印象しか受けないのだ。

「心理分析」が与えてくれる「自己解釈」とは、無論、ひとつの「解釈」であり「物語」にすぎない。けれどもそれは、その「治療的有効性」において、価値を有するものであった。
そのため、それは、患者個々に応じて、千変万化する「物語」であったはずなのだが、それが、このような「図式主義」的な解釈法として「型」になってしまったのなら、そんなものに左程の価値があるとは思えない。

もっと読者個々を触発し、その個性に応じた「読解」を引き出すような「解釈=物語」を、著者は示すべきではなかったか。

『作者のエンデは、あるインタビューで「私の本は、分析されたり解釈されたりすることを望まない。それは体験されることを願っている」(子安美智子『エンデと語る』朝日選書)と語っています。』(P6)

無論、作家の手を離れた作品と読者の関係に、作家があとからあれこれ口を挟むことはできない。それは、しようとしてもできない。しきれないのだ。

だが、ここでエンデの言いたかったことは「小説とは、元来、分析したり解釈したりするためのものではなく、作品世界に没入し、体験するためのものなのだ。そのことを忘れないでほしい」ということなのではないだろうか。

「解説者」や「評論家」は、「分析したり解釈したり」するのが仕事だから、それは避け得ないことなのかもしれないが、そうしたものの存在の故に、多くの読者が「小説とは、分析したり解釈したりするため(感想を持つため、教訓を得るため)の、素材である」などと勘違いしたとしたら、その次点で、すでにその「読み」は、本質的に誤った方向に向かっていると言えるのではないだろうか。

結局のところ、「小説」の読解においては、「正解」はない。作品は、読者個々との関係の中に開かれており、おのずと多様なものであらざるを得ない。
ただ、「読解」という点に注目すれば、その無限の多様性の中にも、やはり個々の「読み」の間に「浅深」の差はあるという、それだけの話なのだ。

だから、「浅い解釈」はいらない。「型通りの解釈」ではつまらない。
読者が、真に目を開かれるような「読解」とは、その読者にしか語り得ない「読解」なのであり、その点において、本書の読解は、かなり物足りないのである。

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【付録】

  モモの瞳に映った〈私〉 一一 レビュー:ミヒャエル・エンデ『モモ』

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本作が「時間に追われて、人間らしい生活を見失った現代人」批判であるというのは、間違いないのないところだろう。それを読みとれない「大人の読者」は、ほとんどいないはずだ。
本稿では、子どもにとっての本作『モモ』ではなく、私を含めた「大人の読者」にとっての、『モモ』という作品の意味を考えてみたい。

子供たちにとっての本作は、起伏に富んだ展開と不気味な敵との闘いによって、ワクワクしハラハラさせられる、最高に「没入できる物語」であろう。ところが、「大人の読者」にとっての本作は「身につまされ、反省させられるところの少なくない物語」なのではないだろうか。

なぜなら、本書で描かれるのは、自分たちなりに充実していた「自分たちの生活」と、そこに流れていた「大切な時間」の存在に気づかなかったがために、まんまと「灰色の男たち(時間泥棒)」の口車に乗せられて、「豊かな時間」を捨てて、「貧しい時間」に生きるようになってしまった「これはわれわれ自身の物語」だ、と感じるからではないだろうか。

作品中でも指摘されているとおり、「灰色の男たち(時間泥棒)」たちは、決してどこか他所からやってきた「侵略者」などではなく、言わば、人間の心の貧しさが生んだ「病い」のようなものだと言えるだろう。
だから、彼らが「加害者」で、私たちが「被害者」だと考えるのは、適切ではない。
本当は、私たち自身が私たち自身を攻撃しているのであり、私たち自身が「被害者」であると同時に「加害者」でもあるのだ。この物語は、私たち自身の「加害者」性を思い出させるが故に、私たち「大人の読者」には「身につまされ、反省させられるところの少なくない物語」となっているのではないだろうか。

例えば、本作の中で、子供たちから「自由な時間」をうばったのは、「灰色の男たち(時間泥棒)」たちだったのだが、現実には、私たち大人が、子供たちから「自由な時間」を奪っている。
私たち大人は、私たちの中にいる「灰色の男たち(時間泥棒)」の命ずるままに、子供たちに対し「これはお前の(将来の)ために、良かれと思って言うのだ」などと自己正当化しながら、子供たちを「塾に行かせたり」「習い事をやらせたり」「スポーツをやらせたり」している(「みんな、やってるじゃないか」と)。また「そんな幼稚なマンガなんか読んでないで、この本はとても良い本だから、これを読みなさい」などと、世間で評判の良い「良書」を読ませようとしたりはしていないだろうか。

私たちは、本作『モモ』を読んで、身につまされたり反省させられたりはするだろうが、しかし、それで、それまでの生活を改めるようなことはしない。そう断言しても良いだろう。
この小説を読んでいる間、そしてその余韻に浸っているしばらくの間は、なにか「大切なことを教えられた」と思い「これからは生活を改めないと」などと殊勝なことを考えたりもするのだが、そんな「気分」は、持って二日間くらいのものだろう。

そもそも、本書の作者であるエンデ自身が、本書で描かれたような「自由な時間(理想的な時間)」を生きているだろうか。
「地位も名誉も多くの稼ぎもいらない。ただ、ゆったりとした人間らしい生活を、慎ましく生きたい」というような生活をしているだろうか。

モモの親友であるジジは、物語作家として社会的に成功したがために、時間に追いまくられて、自分を見失ってしまったのだが、成功したエンデは、はたしてジジと同じ轍を踏んではいないと、そう言い切れるだろうか。
例えば、彼が「有名作家」として来日した場合、予定はびっしりと詰まっており、「効率的に日程を消化しなければならない」なんてハメに陥ってはいなかっただろうか。行く先々で、多くのファンに取り囲まれてサイン攻めにあって、疲労困憊、内心ではウンザリしながらも、ファンサービスのために笑顔を作って、サインに応じ続けなければならない、などという、いかにも「灰色の男たち(時間泥棒)」たちが喜びそうな人気作家生活を送ったりはしなかっただろうか。はたして、『モモ』を書いたエンデだけは、当たり前の「人気作家」とは、本質的に異なった、非現代的な生活を、悠々と送っていたのであろうか。
一一私は、そんなことはないと思うし、そんな「ファンタジー」を信じたりもしない。

私は何も、ここでエンデに「偽善あり」などと責めたいのではない。
そうではなく、エンデの描いた問題は、単純に「昔に返れ」では済まない難問であり、エンデ自体がそれを打ち負かしたわけではない難問なのだから、私たち読者が、本作を一読しただけで、途端に変われるほど、それはお易い問題ではない、ということを言いたいのである。

つまり「もっと人間らしい、ゆったりとした時間を過ごさなければならない、と思いました」というような感想は、「感動しました」というような決まり文句と同様に、作品から何も受け取ってはいない証拠でしかないし、「この作品は、現代の問題を描いている」などという社会派の感想も、自分が評論家になって、批判されている現代的主体としての「個人責任」を回避しているだけだ、と評されてもしかたないのではないか。
私たちは『モモ』を読んで、なにかしらの「ありきたりな感想」を抱いたら、そして、それを表明すれば、もうそれですっかり免責されてしまって、変わらなければならないなんてことも、すっかり忘れてしまうのである。

そしてこれは、たいへん「効率的な物語(娯楽)消費」ではあるものの、それこそ、これも「灰色の男たち(時間泥棒)」たちの思いどおり、狙いどおりなのではないだろうか。

私たちが『モモ』を読んで考えなければならないことは、私たちがモモになることではないだろう。そんなことは無理なのだ。では、どうすればいいのか。

それはたぶん、私たち読者の一人ひとりが、自分のおかれた現実の舞台において、自分を主人公として、モモに恥じない生き方を実践するしかない、ということである。
だから、読者全員に通用する答(正解)はない。読者それぞれが、自分で考えて、選択し、行動するしかない。そして、時に間違えるかもしれないが、たぶんそれしかないのである。

ただ、この物語が、私たちに何かしらの力を与えてくれるとしたら、それは、私たちが思わず何かをしようとした時、あるいは、ある考えにとらわれた時に、モモを思い出して、「こんなことを思いついたんだ。どうだ素晴らしいだろう」と、想像の中で、モモに話してみることができる、という利点にあろう。

モモは、あなたの選択や考えを、頭から否定したりはしないだろう。だが、彼女の澄みきった瞳は、あなたにこう語りかけているはずだ。
「それがすばらしいと、あなたが本気で思うのなら、私もきっとそうなんだと思うわ」
でも、その時、私たちもきっと「ちょっと待って。もういっぺん考えてみるよ」と言いたくなっているはずだ。

あわてて答をだす必要はない。話を聞いてくれる人に話しかける時間は、きっと無駄ではない。
そのとき私たちは、時間を「効率的に消費」するのではなく、多少なりとも「豊かな時間」を取り戻していると言えるのではないだろうか。

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https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA

 

モモの瞳に映った〈私〉一一amazonレビュー:ミヒャエル・エンデ『モモ』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月12日(水)21時40分39秒
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 モモの瞳に映った〈私〉

 amazonレビュー:ミヒャエル・エンデ『モモ』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3IZ3XQOS0JQOB)文庫
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本作が「時間に追われて、人間らしい生活を見失った現代人」批判であるというのは、間違いないのないところだろう。それを読みとれない「大人の読者」は、ほとんどいないはずだ。
本稿では、子どもにとっての本作『モモ』ではなく、私を含めた「大人の読者」にとっての、『モモ』という作品の意味を考えてみたい。

子供たちにとっての本作は、起伏に富んだ展開と不気味な敵との闘いによって、ワクワクしハラハラさせられる、最高に「没入できる物語」であろう。ところが、「大人の読者」にとっての本作は「身につまされ、反省させられるところの少なくない物語」なのではないだろうか。

なぜなら、本書で描かれるのは、自分たちなりに充実していた「自分たちの生活」と、そこに流れていた「大切な時間」の存在に気づかなかったがために、まんまと「灰色の男たち(時間泥棒)」の口車に乗せられて、「豊かな時間」を捨てて、「貧しい時間」に生きるようになってしまった「これはわれわれ自身の物語」だ、と感じるからではないだろうか。

作品中でも指摘されているとおり、「灰色の男たち(時間泥棒)」たちは、決してどこか他所からやってきた「侵略者」などではなく、言わば、人間の心の貧しさが生んだ「病い」のようなものだと言えるだろう。
だから、彼らが「加害者」で、私たちが「被害者」だと考えるのは、適切ではない。
本当は、私たち自身が私たち自身を攻撃しているのであり、私たち自身が「被害者」であると同時に「加害者」でもあるのだ。この物語は、私たち自身の「加害者」性を思い出させるが故に、私たち「大人の読者」には「身につまされ、反省させられるところの少なくない物語」となっているのではないだろうか。

例えば、本作の中で、子供たちから「自由な時間」をうばったのは、「灰色の男たち(時間泥棒)」たちだったのだが、現実には、私たち大人が、子供たちから「自由な時間」を奪っている。
私たち大人は、私たちの中にいる「灰色の男たち(時間泥棒)」の命ずるままに、子供たちに対し「これはお前の(将来の)ために、良かれと思って言うのだ」などと自己正当化しながら、子供たちを「塾に行かせたり」「習い事をやらせたり」「スポーツをやらせたり」している(「みんな、やってるじゃないか」と)。また「そんな幼稚なマンガなんか読んでないで、この本はとても良い本だから、これを読みなさい」などと、世間で評判の良い「良書」を読ませようとしたりはしていないだろうか。

私たちは、本作『モモ』を読んで、身につまされたり反省させられたりはするだろうが、しかし、それで、それまでの生活を改めるようなことはしない。そう断言しても良いだろう。
この小説を読んでいる間、そしてその余韻に浸っているしばらくの間は、なにか「大切なことを教えられた」と思い「これからは生活を改めないと」などと殊勝なことを考えたりもするのだが、そんな「気分」は、持って二日間くらいのものだろう。

そもそも、本書の作者であるエンデ自身が、本書で描かれたような「自由な時間(理想的な時間)」を生きているだろうか。
「地位も名誉も多くの稼ぎもいらない。ただ、ゆったりとした人間らしい生活を、慎ましく生きたい」というような生活をしているだろうか。

モモの親友であるジジは、物語作家として社会的に成功したがために、時間に追いまくられて、自分を見失ってしまったのだが、成功したエンデは、はたしてジジと同じ轍を踏んではいないと、そう言い切れるだろうか。
例えば、彼が「有名作家」として来日した場合、予定はびっしりと詰まっており、「効率的に日程を消化しなければならない」なんてハメに陥ってはいなかっただろうか。行く先々で、多くのファンに取り囲まれてサイン攻めにあって、疲労困憊、内心ではウンザリしながらも、ファンサービスのために笑顔を作って、サインに応じ続けなければならない、などという、いかにも「灰色の男たち(時間泥棒)」たちが喜びそうな人気作家生活を送ったりはしなかっただろうか。はたして、『モモ』を書いたエンデだけは、当たり前の「人気作家」とは、本質的に異なった、非現代的な生活を、悠々と送っていたのであろうか。
一一私は、そんなことはないと思うし、そんな「ファンタジー」を信じたりもしない。

私は何も、ここでエンデに「偽善あり」などと責めたいのではない。
そうではなく、エンデの描いた問題は、単純に「昔に返れ」では済まない難問であり、エンデ自体がそれを打ち負かしたわけではない難問なのだから、私たち読者が、本作を一読しただけで、途端に変われるほど、それはお易い問題ではない、ということを言いたいのである。

つまり「もっと人間らしい、ゆったりとした時間を過ごさなければならない、と思いました」というような感想は、「感動しました」というような決まり文句と同様に、作品から何も受け取ってはいない証拠でしかないし、「この作品は、現代の問題を描いている」などという社会派の感想も、自分が評論家になって、批判されている現代的主体としての「個人責任」を回避しているだけだ、と評されてもしかたないのではないか。
私たちは『モモ』を読んで、なにかしらの「ありきたりな感想」を抱いたら、そして、それを表明すれば、もうそれですっかり免責されてしまって、変わらなければならないなんてことも、すっかり忘れてしまうのである。

そしてこれは、たいへん「効率的な物語(娯楽)消費」ではあるものの、それこそ、これも「灰色の男たち(時間泥棒)」たちの思いどおり、狙いどおりなのではないだろうか。

私たちが『モモ』を読んで考えなければならないことは、私たちがモモになることではないだろう。そんなことは無理なのだ。では、どうすればいいのか。

それはたぶん、私たち読者の一人ひとりが、自分のおかれた現実の舞台において、自分を主人公として、モモに恥じない生き方を実践するしかない、ということである。
だから、読者全員に通用する答(正解)はない。読者それぞれが、自分で考えて、選択し、行動するしかない。そして、時に間違えるかもしれないが、たぶんそれしかないのである。

ただ、この物語が、私たちに何かしらの力を与えてくれるとしたら、それは、私たちが思わず何かをしようとした時、あるいは、ある考えにとらわれた時に、モモを思い出して、「こんなことを思いついたんだ。どうだ素晴らしいだろう」と、想像の中で、モモに話してみることができる、という利点にあろう。

モモは、あなたの選択や考えを、頭から否定したりはしないだろう。だが、彼女の澄みきった瞳は、あなたにこう語りかけているはずだ。
「それがすばらしいと、あなたが本気で思うのなら、私もきっとそうなんだと思うわ」
でも、その時、私たちもきっと「ちょっと待って。もういっぺん考えてみるよ」と言いたくなっているはずだ。

あわてて答をだす必要はない。話を聞いてくれる人に話しかける時間は、きっと無駄ではない。
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気になる〈彼〉と、私の違い。一一Amazonレビュー:吉村萬壱『うつぼのひとりごと』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月 5日(水)16時29分8秒
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 気になる〈彼〉と、私の違い。

 Amazonレビュー:吉村萬壱『うつぼのひとりごと』
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吉村萬壱は、私にとっては、とても気になる存在である。

最初に注目したのは、評判作『ボラード病』を読んで、とても感心したからなのだが、私の『ボラード病』評価は、今となってみれば、やや的外れだったかもしれない。
と言うのも、当時の私はこの作品を、一種の「叙述トリック」的な技法の冴えた「社会的テーマ」の生きた作品だ、と評価していたからだ。

同作を、そのように読んで高く評価した人は少なくなく、その意味では、読みとしては決して間違ってはいないのだが、少なくとも「作者の意図」は、そこにはなかったのではないかと、吉村萬壱の著作をいろいろと読んで、今はそう考えるようになったのである。
要は、吉村萬壱にとっては「描写にこそ本質があり、テーマは偶有的なものでしかない」のではないかと評価するようになったのであり、当然それは『ボラード病』についても同じことだったはずなのだ。

私が、テクニカルで意図的なものであろうと評価した、『ボラード病』における「グロテスクな描写」は、決して「テーマ」を物語終盤まで隠しておくための「意図的な技法」だったのではなく、むしろこちらこそが「吉村萬壱の本質」だったのではないか。だとすれば、私は吉村萬壱を誤解していたことになるのだが、では、私が惹き付けられた『ボラード病』の魅力とは、吉村萬壱のいったい何に由来するものだったのだろうか。
一一このようにして、吉村萬壱は、私にとって「気になる存在」であり、惹き付けられる「謎」となったのだ。

私は、吉村萬壱が好む「グロテスクなもの」や「汚れたもの」が、好きではない。
むしろ、その真逆で、私は「硬質で乾いたもの」が好きであり、「洗練されたもの」が好きなので、「汚れたもの」は好きではない。むしろ嫌いだ。

その一方、私は「過剰なもの」が大好きである。
たしか、奥泉光が、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』などを評して言っていたと思うのだが、「過剰なものこそが面白い」という意見には大賛成で、私は、小栗虫太郎や大西巨人、ドストエフスキーといった、過剰で濃厚な作風の作家が大好きである。
だから「グロテスク」も「不潔」も興味がないわけではなく、例えばネットで「スカトロ」画像を検索してみて「なるほど、これは強烈で興味深い」とは思ったものの、それで抜けるようになったわけではなく、ひととおり確認すれば、納得して興味を失ってしまった。やはり、本質的に、そういうものは「趣味ではない」のである。

ここでの大切なポイントは、私の場合「趣味ではない」ものについても、いちおう「ひととおりは確認」しないでは気が済まない、という事実である。つまり、好き嫌いに関係なく、よく知らないもの、わからないものを、知らないまま、わからないままに放置しておくことがなかなか出来ず、最低限、ひととおりは確認して、それなりに納得しないでは気が済まない性格なのだ。
だから、吉村萬壱についても「この吉村萬壱という、よくわからない人とは、いったいどういうものなのか」と、その著作のほとんどを読んでまで、確認せずにはいられないのだ。

このような点では、吉村萬壱が本書で指摘している、

『 小説を書くとは、ひょっとすると何か新しいものを付け加える作業ではなく、気になることをこの世界から一つ一つ消していく作業なのではないかと。文字に置き換えることで、気になる事柄を塗り潰しながら消していくこと。確かにその方が、文字に意味を求めない自分にはふさわしい気がして、私はこの発見に大いに嬉しくなった。』(P29)

という言葉には、大いに共感できた。

吉村萬壱は、ここでそれを「小説を書くこと」に限定して語っているのだが、私の場合は「知ること」「理解すること」「書くこと」の根源にあるのは、すべて『気になる事柄を塗り潰しながら消していくこと』なのではないかと思うのだ。そして、私にとっては、吉村萬壱という存在もまた、そういう存在なのであろう。

思えば、私には「整理癖」が強くあった。未整理のまま、そこいらへんにあれこれが放置されている状態が、私は好きではないので、そうしたものを一つ一つ採り上げては分類し、整理棚の適切な位置に収めて、部屋を整理整頓した状態にする。それが私のやっていることの本質なのではないかと思えるのである。

このように、吉村萬壱と私には、似たところもあるけれども、真逆に近いところもある。
多くの場合、人は「似たもの」に惹かれる傾向が強いし、無論そうした傾向は私にもあるのだが、私には強い「整理癖」があるので、「似ていないもの(理解しにくいもの)」を、そのまま放置して無視するということが、なかなか出来ない。

例えば、私が「時間の無駄」だと理解しながらも、長年にわたってネット右翼とのケンカを繰り返すのも「なんでこいつら、こんなにバカなの?」という「謎」があって、それをどうしても解消できないからではないだろうか。
「バカは、バカだからバカなんだよ」というのは、なるほど正論だとは思うものの、そういう「トートロジー(同語反復)」では、どうしても納得ができないせいで、目の前に彼らが現れると、昆虫を目の前にした子供が、それをどうしても無視できないのと同様に、つい手を出して、かまってしまうのではないだろうか。

ネット右翼と一緒にするわけではないが、私が吉村萬壱に惹き付けられるのも、それは、彼がどうしても理解しきれないからであって、彼が惹かれるものに惹かれるからなのではない。
私は、「グロテスクなもの」や「汚れたもの」に惹かれはしないが、そんなものに惹かれてしまう人としての吉村萬壱という「謎」には、どうしても惹かれてしまい、彼の小説作品にしばしば不満を表明しながらも、やはり懲りずに、彼の新刊を手に取ってしまうのである。

しかし、これはこれで、吉村萬壱の言う『気になることをこの世界から一つ一つ消していく作業なのではないかと。文字に置き換えることで、気になる事柄を塗り潰しながら消していくこと。』なのではないだろうか。

吉村萬壱は、まだまだ私にとっては解消しきれない「好みではなくても、魅力的な謎」でありつづけそうだ。

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8人目は〈市民運動家〉一一amazonレビュー:山口泉『世界のみなもとの滝』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月 5日(水)16時27分52秒
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 8人目は〈市民運動家〉

 amazonレビュー:山口泉『世界のみなもとの滝』
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本書は、1989年に開催された「第1回日本ファンタジー大賞」の「優秀賞」受賞作品である。
この時の「大賞」受賞作は、酒見賢一の『後宮小説』で、本作は言わば次点作品であった。

今から約30年前、私は開催当時の「第1回日本ファンタジー大賞」に注目していたので、受賞作が刊行されると、さっそくこの2作を購入した。大賞受賞作『後宮小説』の方は、すぐに読んでたいへん感銘を受けたものの、本作『世界のみなもとの滝』の方は、積読の山に埋もれさせてしまい、気にはなりつつも今日まで読むことがかなわなかった。
今回、本作を読むきっかけとなったのは、本作著者のtwitterでの発言に触発された私の友人が、先日、本作を読んで褒めていたからである。ちなみに、友人の高評価のポイントは「著者は本気で世界を変えようと考えている」という点であり、そうした強い想いが、本作にも反映していた、ということのようであった。

 ○ ○ ○

さて、私の評価なのだが、残念ながら、あまり高くは評価できなかった。
小説としては、一定の魅力もあるものの、やはり友人が指摘した著者本人の「姿勢」に発するものを、私はむしろ、否定的にしか評価できなかったのである。

著者の山口泉は、作家であり、いわゆる「市民運動家」と呼んでいい人である。
その20冊に及ぶ著作を見ると、

『吹雪の星の子どもたち』 1984
『世の終わりのための五重奏』 1987
『宇宙のみなもとの滝』新潮社、1989
『悲惨観賞団』1994
『「新しい中世」がやってきた! 停滞の時代の生き方』1994
『テレビと戦う』 1995
『ホテル・アウシュヴィッツ 世界と人間の現在についての七つの物語』 1998
『宮澤賢治伝説 ガス室のなかの「希望」へ』 2004
『原子野のバッハ 被曝地・東京の三三〇日』 2012
『避難ママ-沖縄に放射能を逃れて』 2013
『辺野古の弁証法??ポスト・フクシマと「沖縄革命」』 2016
『重力の帝国??世界と人間の現在についての十三の物語』 2018

という具合に、その半数以上が、この世界を「暗い」ものとして「批判的に見ている」のが窺える。
平たく言えば、「反体制左翼」的なスタンスであることが、容易に窺えるのである。

もちろん、私の立場も、大雑把に言えば「左翼リベラル」ということになるし「反権力」でもあるから、「弱者」に寄り添おうとしている、本書著者・山口泉のスタンスについては、基本的に肯定的であり好意的であると言えよう。
ただし、私と山口の大きな違いは、「運動」というものに対する距離感なのではないかと思う。

山口は、この「世界の不条理」と戦うためには「連帯」が必要だと考え、そうした「運動」の中に入っていく人なのであろうと思うのだが、私の場合は、そもそも「集団」や「組織」といったものが大嫌いなので、否応なく「個人」としてのスタンスを選んでいる。良き目的のためには「連帯の力」も必要だろうが、私は「成果主義」者ではないのだ。

大西巨人が、

『果たして「勝てば官軍」か。果たして「政治論争」の決着・勝敗は、「もと正邪」にかかわるのか、それとも「もと強弱」にかかわるのか。私は、私の「運命の賭け」を、「もと正邪」の側に賭けよう。』(「運命の賭け」)

と言っているとおりであり、あるいは、

『 伊藤辨護士も、「〈連帯〉の重要性」を十二分に認識・尊重する。ただ、彼の確信において、〈連帯〉とは、断じて、〈恃衆(衆を恃むこと)または恃勢(勢を恃むこと)〉ではない。彼の確信において、「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の〈連帯〉ではないところの「衆ないし勢を恃むこと」でしかなく、真の〈連帯〉とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことであり、それこそが、人間の(長い目で見た)当為にほかならず、「連帯とは、ただちに〈恃衆〉または〈恃勢〉を指示する」とする近視眼的な行き方は、すなわちスターリン主義ないし似非マルクス(共産)主義であり、とど本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない。』(『深淵』上巻 P283~284)

とも言っているとおりで、実際には多くの場合でこのような「連帯」でしかあり得ない「運動体の悪癖」には心底ウンザリなので、「個人」としてやれることだけやらせてもらう、というスタンスに、私は徹しているのである。

たぶん、私のこのような「個人主義」的スタンスは、山口のような「実践家」としての「運動家」には、物足りなかったり、欺瞞的に映るのだろうが、私から見た場合、「運動体の現実」というのは、しばしば、ほぼ確実にウンザリさせられる側面が少なくないので、敵視まではしないものの、敬して遠ざけさせていただいているのである。
(運動体を、著名人が上から見下ろす場合、そのあたりが隠されやすく、見えにくいのかもしれないが、地べたに近い内部から見た場合には、組織の悪癖はたいへん見えやすいものなのだ。そして私は、内部批判を遠慮できない人間なのである)

そして、私がウンザリさせられる「運動体の悪癖」的な側面が、本作『宇宙のみなもとの滝』にも窺え、著者である山口泉にもプンプン臭う。だから、どちらも高くは評価することができないのである。

 ○ ○ ○

私が、本作を、そして「小説家としての山口泉」を、高く評価できない理由は、ハッキリしている。
それは、その「思想」や「物の見方」が、「左翼紋切り型」の域を出ていないからである。

百歩譲って、単なる「運動家」であれば、そういうものも、その「効率性」や「成果主義」によって、ある程度は容認できるし、評価もできよう。つまり「運動家は、あれこれ考えたあげく動けなくなっては元も子もない。だから、多少は思い込みが激しいくらいの人の方が、運動家としては有能であろう」というような評価である。
しかし、「小説家」の場合は、こういった評価はできないのだ。

本書の登場人物を大雑把に分類すると、

(1) 不当に虐げられ差別される主人公と彼に同情的な仲間
(2) 独善的な正義を振り回す、世の「善人」たち
(3) 宇宙の延命の賭けた旅に、主人公たちを誘う、世界の精霊的存在

とまあ、こんな感じになるだろう。
本作では、SF的な「作中の現実世界」と、その世界の中で演じられる「作中作としてのファンタジー劇」という二重構造になっているが、どちらの登場人物であるにしろ、本作の本質は(1)と(2)の対立であり、この世界を(無自覚ではあれ)破滅に追いやろうとしているのは(2)であり、それを救えるのは(1)だけだ、という作者の「世界観」である。

私がまず引っかかったのは、作者自身が、(1)の「不当に虐げられ差別される主人公」に感情移入して、ほとんど「同一化している」点である。

こうした主人公は、当然のことながら、読者の「同情を引く」存在であろう。しかし、だからこそ、作者は「可哀相な主人公」べったりとなって、作者自身が「被害者意識」に酔い「可哀相な私(同情されて然るべき私)という自己像」に酔ってはいけないはずだ。
主人公が読者の同情や共感を得るのは「主人公自身がそのように自己規定しているから、そうなるべき」なのではなく、同情共感されて然るべき「客観的事実」があるから、同情共感されてしかるべきなのである。
だからこそ作者は、主人公を「客観的」に見ていなければならないのだが、本作においては、それが充分にできていないのである。

もちろん、作者が主人公と同一化することによって、その感情に強いリアリティが宿るといった「小説的なメリット」もあるだろうし、現に本作の主人公の独白的な語りには、文学的な叙情性があると評価しても良いだろう。しかし、それは多分に「気分的なもの」であって、強靭な世界認識の裏づけがあってのものではない。だから、文学として「弱い」のだ。

次に、よりハッキリとした「問題点」は、敵役と言っても良いであろう、主人公をいじめ苛む(2)の存在の「描き方」である。
本作において彼らは「みんなのキンポウゲ市を美しくし、キンポウゲ市民の幸福を考える会」のメンバーである、「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」の7人として登場する。
この7人が、主人公を「差別し、いじめる」とても「鼻持ちならない嫌なやつら」として描かれているのだが、作者の山口泉が「市民運動家」であることを勘案すれば、この7人の描かれ方がどのようなものになっているかは、容易に想像がつくのではないだろうか。

たしかに、「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」といった人たちは、しばしば「独善家」「鼻持ちならない選良」「世間を知らない頭でっかち」「権力の走狗」であったりすることが少なくないだろう。
かの「福島第一原発の事故」の事例を持ち出すまでもなく、政治家や有識者といった人たちは「信用ならない」ことが少なくないし、そもそもこれらの人たちは「自分たちの狭い了見の中だけで、世界を見ている」場合が、意外に少なくない。
そのため、「差別されている人たち」「虐げられている人たち」「最下層の人たち」、つまり「少数者」や「弱者」である人たちの存在が、彼らの視野には充分に入っていない場合が少なくなく、逆に「少数者」や「弱者」にこそ強く配慮する「市民運動家」のような人たちには、この7人のような人たちが「無自覚で鼻持ちならない差別者・抑圧者」だと映ってしまいがちなのだ。
だが、それはあまりにも一面的かつ「党派的」な見方であり、偏頗な評価なのではないだろうか。

言うまでもないことだが、「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」といった人たちの中にも「立派な人」は大勢いるし、「弱者のために闘っている人」だっている。
それを専門としている「市民運動家」ほどの比率ではないにしろ、そういう「善意の人」たちが含まれているにもかかわらず、その「左翼紋切り型」的な「偏見」によって、彼らを、このように嫌らしい「紋切り型」で描くこと自体が、そもそも「差別」ではないのか。

じっさい、作者が「市民運動家」でなかったならば、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」の8番目のメンバーとして「市民運動家」を登場させ、他の7人に負けず劣らず「鼻持ちならない独善家」として描いて見せたとしても、読者の多くには、何の無理も不自然さも感じさせないのではないだろうか。

本作の問題点は、主人公の側には「個人名」があるのに、この7人には「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」という「肩書き」しかなく、「個人」としての「人格」を剥奪され、無視されている点である。
「この手のやつらは、総じて、こういうもんだ」という、作者の「独善的な決めつけ」、つまり「偏見」によって、ご都合主義的に「憎まれ役」としてのみ造形されている点が、私にはとうてい無視し得ないのである。

作者自身は、自身を「差別された者・虐げられた者」つまり「被害者」の側に立つ者として自己規定しているから、自分の「偏見差別」については、完全に無自覚なのであろう。
言い変えれば、本作作者には「他者に対する想像力」が欠如している。そこが、決定的に問題であり、弱点なのだ。

本作のクライマックスは、作中劇の「世界のみなもとの滝」の山場、人間の独善的な業のはたらきによって、もはや崩壊の瀬戸際にある世界を救うために、世界のみなもとの滝の前で、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」メンバーと主人公たちの10人が、つぎつぎと世界を延命させるに足る理由を、滝に向って訴える劇中シーンであろう。

ここで注目すべきは、最後に決定的な「世界を延命させるに足る理由」を示す主人公の、いわば「前座」として、それに挑み、失敗する「キンポウゲ市民の幸福を考える会」メンバーらの語る、個々の「世界を延命させるに足る理由」が、決してつまらないものでも、どうでもいいものでもない(大切なものである)、という事実だ。
つまり、彼らの「正義」にも「一理ある」のだが、しかしそれは、人間によって破壊された「世界を延命させるに足る理由」にはなっておらず、十分な理由とは「認められない」のである。

では、最後に主人公の示した「世界を延命させるに足る(十分な)理由」とは、どのようなものだったのであろうか。
世界の〈声〉は、主人公が「体現」したそれを、次のように評価する。

『 この世界をほんとうに救うことができるのは、ただ、この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られ……この世界を追放されようとしている者だけなのだ。そして一一
 そして、その彼らが、この力を発揮して世界を救うかどうかは、ただ彼らの判断に任されている。それは、彼らの《自由》だ。』(P262)

「最も差別された者こそが世界を救う(資格を有する)」というのは、もっともらしい理屈だ。
それは、ロールズの「無知のベール」にも似ていて、容易には反対しづらい。

(※「無知のベール」とは、大雑把に言えば「人は、自分がどのような境遇に生まれてくるのかわからない場合には、最低の立場におかれる場合を想定して、そういう立場の人でも人間らしく生きられる、最低限の生活の保証された社会の構築を目指すだろう」という「思考実験」的な仮説のこと)

しかし、それでもロールズの「無知のベール」が批判されたように、例えば、「脳死者」を最も悲惨な境遇にある人だとした場合、多くの人々は、はたして、そこに基準をおいた社会を望むだろうか。人々は、そこまで基準を下げられず、そうした「重荷」の切り捨てを考えはしないだろうか。

つまり、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」とは「はたして(具体的には)誰なのか?」ということなのだが、少なくともそれは「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」の、自称「代理人」や自称「代弁者」などでないことは、確かなのではないだろうか。
なぜなら、そういう人ならば、掃いて捨てるほどに多いからである。

言い変えれば、自身を「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」と「同一化」させ、その同じ(特権的な)場所に位置づけて、「他者」を見下して断罪する態度に、はたして「欺瞞」はないのか、ということなのである。

そもそも、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」とは、固定されたものなのだろうか。
逆に言えば、「すべての人」が例害なく、何らかのかたちで、彼らを「辱め、虐げ、忘れ去る者」なのではないか。

だとすれば、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」という特権的な立場に立って、一方的に「他者」を断罪できる人など、いないのではないか。
一片の迷いもなく、それが出来ると考えられる人というのは、相手が一方的に「純粋無垢な加害者」であり、自己が同情されるべき一方的に「純粋無垢な被害者」である、という誤った自己意識を囚われているのではないか。

つまり、本書著者による「断罪」は、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」のメンバー7人の描き方にもよく表れているとおり、あまりにも一方的であり、「善悪二元論」的に過ぎはしないだろうか。
あまりにも、自身の「正義」を、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」つまり「被害者」の名において、絶対化しすぎてはいないだろうか。

また、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」を救うことさえできれば、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」のメンバー7人や主人公の友人の2人の語った、「次善の正義」は、どうでもいいのか。

いや、そもそも、達成されるべき理想を「たった一つに限定する」ことに、本質的な無理と、欺瞞があるのではないだろうか。

「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」が救われることは、無論大切だし優先事項ではあろう。だが、それだけではないはずだ。
つまり、理想にも優先順位はあるにしろ、やはりあれもこれも必要であり、それらに「不合格」の烙印を押して、「こちらこそが最優先事項だから、君たちは遠慮しろ」で済ませるわけにはいかないのではないだろうか。

ほかに私が気になったのは、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」としての主人公の、自信なげにおどおどしているかと思えば、逆に、いきなり切れて猛然と反発するという、その極端な不安定ぶりである。
無論それは「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」としては、やむを得ないことなのではあろうが、しかし、それでも、そこに「相手(他者)と話し合おうという構え」を見いだすことが出来ない、というのは、「弱者のための運動」が「独善的なテロ」といったものに反転してしまう原因ともなり得る、きわめて危険な様相なのではないだろうか。

本作『世界のみなもとの滝』に感じる不満とは、怜悧な「自己批評の目」の不在である。

「自己懐疑の回路を断った、その独善的正義」とまでは言わないまでも、「敵」に対する「憎悪に目の眩んだ、一方的な批判」が、本作では露骨かつ居丈高なまでに表現されており、そのような「無自覚な偽善」を高く評価することなど、私にはとうてい出来なかったのである。

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(※ 本稿初出は、ネット掲示板「アレクセイの花園」2020年8月2日付けの記事「真夏に読んだ『宇宙のみなもとの滝』」です。)

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コロナ後も〈学ばない人〉に進歩はない。一一Amazonレビュー:大野和基編『コロナ後の世界』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月 5日(水)16時26分16秒
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 コロナ後も〈学ばない人〉に進歩はない。

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歴史的な「コロナ禍」を経験したとしても、自身が罹患して苦しみでもしないかぎり、普通の人は、そこから何も学びはしない。同様に、本書を読んでも、読みたいことしか読みとれず、何の進歩もない読者が少なくない、というのは、本書のレビュー欄を一瞥しただけでもよくわかる事実だろう。
しかし、これはこれで、良い教訓とできる(人はできる)のかもしれない。

たしかに、独裁国家である中国は酷いけれども、中国が酷い酷いとわかりきったことを言いつのったところで、わが国の政治が良くなるわけでもなく、PCR検査実施率の低さにおいて、先進国では最低レベルの検査実施率後進国であるいう事実などが変わるものでもない。

言うまでもなく、大切なことは、わが国の現状であって、よその国のことではない。
よその悪口を言っていれば、ひとまず安心してられるというのは、単なる「現実逃避」であり「知的怠惰」でしかないのだが、そんな人たちには、世界有数の知識人たちの言葉も、自らの現実逃避を強化するネタにしかならないようだ。

こうした観点からすれば、多少なりとも「自己相対化=自己批評」の可能な読者が注目すべきは、スティーブン・ピンカーの提案であろう。

『 インターネットやSNSにおいては自分が見たい情報しか、見えなくなりがちです。それを「フィルターバブル」と言います。我々は、自分と異なる意見を持つ人々に対して「彼らはフィルターバブルに入っている」と一蹴してしまいますが、私たち自身もフィルターバブルの中にいることには気が付いていません。
 自分が正しいと思わせてくれるストーリーや記事を読むのは楽しいものです。反対に、自分の見方に批判的な内容に触れることは不快です。しかし、健康に過ごすため、食べすぎずに運動を心がけるように、自分とは異なる意見も傾聴すべきです。
 普段から、自分と意見の異なる人と積極的に意見交換した方が良いでしょう。
 教育を受けたはずの科学者でさえ、この落とし穴の例外ではありません。私が「バイアス・バイアス」と呼ぶ誤謬があります。自分もバイアスに囚われているということを忘れ、自分とは意見の違う人こそがバイアスを持っていると思いこむことです。
 あるリベラルな三人の社会科学者は「保守はリベラルより敵対的かつ攻撃的である」と言う論文を発表しました。しかし、実はデータの分析を誤っており、本当はリベラルの方が敵対的かつ攻撃的だということに気が付き、論文を取り下げたのです。』(P129~130)

最後の「三人のリベラルな社会科学者による誤謬」の部分を読んで、「そうれ見ろ」と溜飲を下げた「保守」または「右派」の人は、ピンカーの話を、まったく理解できなかった人、だと言えるだろう。
つまり、自身の「フィルターバブル」について無自覚で、無反省な人だということである。

「リベラルが、保守よりも、敵対的かつ攻撃的である」というのは、しごく「当たり前」の話であり、恥じる必要もないことである。
と言うのも「リベラル」というのは「自由と平等のために、既成の不完全な体制と戦うスタンス(改革的立場)を採っている人たち」であり、「保守」とは「既成の体制を保守擁護しようとする人たち」のことなのだから、「リベラルが、保守よりも、敵対的かつ攻撃的である」というのは、当然の話なのだ。

それを「人間は、友好的かつ融和的であるべきだ」という「原則論」しか眼中になく、時と場合によっては「敵対的かつ攻撃的である」必要もあるという「現実」を見られない人たちが、無闇に自身を「友好的かつ融和的である」と規定したがり、敵を「敵対的かつ攻撃的である」と規定したがるだけなのである。
人間は、そんなに簡単で一面的なものではあり得ないというのは、すこし考えればわかりきった話なのだが、考えない人は、そのことにいつまでも気づけないのだ。

ともあれ、ここでピンカーが提案していることは、きわめて常識的なことであり、誰もが一応は「わかってはいる」ことでしかない。
しかし、それが実行困難なことであるからこそ、私たちは何度でも、この「反省点」に立ち返らなければならない。自分の意見に凝り固まるのではなく、広く他者の意見に耳を傾けるべきであり、その上で、自身の意見を練り上げるべきなのだ。
考えを練り上げることと、凝り固まることとは、決して同じではないのである。

このようなわけで、いろんなジャンルの知識人の提案が詰込まれた本書は、他人の意見を傾聴できる人には、きわめて有意義な一書となるだろう。
だが、そうでない人は、本書の中の「自分好みの意見」しか楽しめないので、全体としては効率が悪く、自ずと「本書に良い点数は与えられない」ということになるのである。

日本では昔から、これを「猫に小判」「豚に真珠」と言ったりしたことを、読者は思い起こすべきであろう。これは決して、目新しい現象ではないのである。

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キリスト教圏における啓蒙書と〈平均的日本人〉一一Amazonレビュー:リチャード・ドーキンス『さらば、神よ 科学が導く』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月 5日(水)16時24分47秒
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 キリスト教圏における啓蒙書と〈平均的日本人〉
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 Amazonレビュー:リチャード・ドーキンス『さらば、神よ 科学が導く』

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先行のレビュアー「小河沢」氏が、何気なさげに書いている次のような言葉に、本書を深く味わうためのポイントが隠されている。

『特に日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方にこそ読んで頂きたい。』

これが何を意味するのか、ピンと来た人が、いったいどれくらいいただろうか。

私と違い、「小河沢」氏は、とても繊細な方である。それは、ドーキンスの『神は妄想である』についての、次のような感想によく表れている。

『(※ ドーキンスは、宗教批判の本を)世界各国へ発行しているため、著者には様々な宗教家、神学者、有神論者、または占い好きや霊能力者(自称)、死後の世界の信奉者など、専門家や一般を問わず大勢の神秘論擁護者から数え切れない批判の手紙が届いたそうです。
あまりのストレスに私だったら気が狂うかもしれません。』

つまり、「小河沢」氏は、批判的な意志を持ってはいても、ドーキンスのように「事を荒立て」られるほど、神経の太い人間ではない、ということだ。
で、そんな氏が『特に日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方にこそ読んで頂きたい。』と書いているのだから、その含意するところは、「特に日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方こそ読んで、我が事として考えてほしい。」ということなのである。

だから私は、その点について、より具体的に、突っ込んで書こうと思う。
「日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方」たちが読んで、「嫌なことを言う奴だな」と思うようなことを、あえて書こう、ということだ。
やんわりと書いたのでは伝わらないであろうことを、ハッキリと書くことで、思考を促そうと思う。それが私の個性だからであり、それを書いてこそ、私が「小河沢」氏の後にレビューを書く意味もあるからである。

 ○ ○ ○

本書の「凄み」を実感できる、日本人読者はそう多くないはずだ。
だから、本書は、日本人には過小評価されやすい。

本書が、日本人読者に「過小評価」されやすいのは、キリスト教徒ではない日本人読のに多くにとっては、本書に書かれていることは、言わば「当たり前」のことだからである。
だが本書は元来、著者ドーキンス自身がそうであるように、主にキリスト教圏の(中でも、原理主義者の多いアメリカの)読者を想定して書かれたものだということを忘れてはならない。キリスト教に「人生」を賭けている人たちが大勢おり、そんな人たちの、ある場合には「命よりも大切な信仰」を、あえて批判し否定するのだから、生半可な気持ちでできることではないのである。

明確な信仰も持たない人の多い日本で、明確な信仰を持たない日本人が、お気楽に「信仰批判」するのとは、わけが違う。
信仰批判をしたために、命まで狙われるというのは、なにも(サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』翻訳者殺害事件の例に見るような)イスラム教ばかりの話ではない。狂信的なキリスト教徒だって大勢いるのだから、ドーキンスのような呵責のないキリスト教批判は、当然、命の危険だって、頭の片隅に置いてなされているのである。

本書もまた、生まれたときから、聖書の教えやキリスト教の慣習の中で生きてきた人たちに向けて書かれたものだ。だから、そうした読者が読むのと、私たち非キリスト教徒の日本人が読むのとでは、その「重み」が、まったく違っていよう。

本書の本来の読者である、キリスト教圏の多くの読者にとっては、たぶん、この一見「語り口の平易な、若者向けの啓蒙書」の文章は、その印象に反して、どすっ、どすっ、どすっと打ち込んでくる、ストマック・ブロー(腹部打突)のように「嫌なもの」なのではないだろうか。
ボクシングにおける「テンプル(こめかみ)」への被打は、脳が麻痺して意識を失うため、感覚的にはむしろ「気持ちがいい」くらいだそうだが、それとは対照的に、ストマック・ブロー(腹部打突)の被打は「地獄の苦しみ」と言われている。
それと同様に、本書における、ドーキンスの「平易な語り口」は、むしろ、地味だがじわじわと相手を追い詰めていく、ストマック・ブローに似ており、攻撃されている者には、とても嫌な、「堪える」攻撃なのである。

本書は、キリスト教についての最低限の知識、例えば「聖書」の中身をある程度は知っていることを前提としているため、聖書の「構成」がどうなっているのかすら知らない普通の日本人には、ピンと来ない部分、「当たり前の批判」としか読めない部分が少なくないはずだが、キリスト教圏の人が読めば、ずいぶんキツい皮肉だとわかる部分が少なくない。

この点を、すこしわかりやすく紹介しよう。
例えば、本書で紹介されている、聖書外典である「トマスによるイエスの幼時物語」における、少年イエスによる「呪殺」のエピソード。
少年イエスが歩いていると、走ってきた少年がイエスの肩に当たって、そのまま走り去ろうとした。腹を立てたイエスが「君はここで終わりだ」と言うと、その少年はいきなり倒れて死んでしまった。

この少年イエスが、いかに一般的なイエス像から遠いかは、誰にでもわかることで、多くの日本人にとっては「へえ、そんなキリスト教文書があったのか。面白いなあ。まるでダミアンじゃん」と笑ってお終いだろう。

しかし、当然のことながら、神学者や、神父、牧師は無論のこと、キリスト教のことをすこしでも勉強した人なら、この外典のエピソードは、あまりにも有名なものであり(講談社学術文庫『新約聖書外典』にも収録されている)、だからこそ、キリスト教徒としては、これは「触れてほしくない部分」なのだが、ドーキンスはそこに容赦なく触れてくる。
できれば「トマスによるイエスの幼時物語」の存在を無視したい、学のあるキリスト教徒にとって、こうした批判がどれだけ嫌なこと(腹立たしいこと)かは、想像に難くあるまい。

日本人読者が読めば「ダミアンじゃん」という笑い話で済ませる話が、キリスト教圏のクリスチャンにとっては「イエスを、ことさらに悪魔の子呼ばわりする、許しがたい行為」になってしまう。しかも「(キリスト教の)歴史資料に基づいて」なのだから、タチが悪いと恨まれるのは、必然なのである。
だが、こうしたドーキンスによる批判の「凄さ」が、日本の多くの読者には、ピンと来ない。

そこで私は、日本の読者にも、ドーキンスのやっていることに「凄さ」を、すこしでも「実感」してもらうために、話を日本に置き換えてみたいと思う。

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例えば、あなたは、自身を「無宗教」であり「宗教を批判的に見られる、科学的知性を備えている」と思っているかもしれないが、テレビニュースでも紹介される、天皇家にかかわる「大嘗祭」や、20年に一度行なわれる「伊勢神宮の式年遷宮」などの「宗教儀礼」について、果たして「批判的」であるだろうか。それとも、「文化だから」と、ぼんやりと容認しているだろうか。

後者だとすれば、あなたは、ドーキンスが体現するような「無神論者」でも「科学的思考の持ち主」でもなく、「自覚のない、半端な信仰者」であるにすぎない。

天皇の代替わりににともなって行なわれた「大嘗祭」には、27億円もの税金が投入されており、それに反対する人たちのデモもあったし、秋篠宮も「税金の過剰な投入」には疑義を呈したというのは、記憶に新しいところである。

また、20年に一度行なわれる「伊勢神宮の式年遷宮」は、最近の回では550億円もの巨費が投じられている。
無論、現在は伊勢神宮の自己財源で賄われているのだが、伊勢神宮は宗教法人であり、各種の非課税措置を受けているからこそ、こんなことも出来るのであり、結局のところ、この予算の少なくない部分が「税金(的補助)」だと考えることもできるわけだ。

「宗教法人」に対する各種非課税は、なにも「神道」教団ばかりではないのだが、もしも日本が「国家神道」の歴史を持っていなかったなら、つまり「神道」という宗教集団がなかったなら、はたしてこのように極端な「宗教団体に対する優遇税制」がなされていただろうか。
じっさい「宗教法人への非課税をやめろ」という声は少なくないのだが、これを阻んでいるのが「宗教は文化だから」という、日本人一般の、きわめて「ヌルい宗教観」なのである。

周知のとおり、アジア・太平洋戦争時における「国家神道」は、「宗教」ではなく、「国体」の礎であった。それは、日本の「国柄」の一部であり、それは「宗教」以上の、もっと本質的なもの(歴史であり伝統であり文化)であると、政治的に「設定」されていたからこそ、「国家神道」は、他の宗教と同列の存在ではなく、特別扱いされ、優遇され得たのである。

そして、この政治宗教的慣習が、戦後も生き残ったのが、天皇家の宗教的慣習だ。
本来なら、秋篠宮も言ったとおり、天皇家の予算や財産のなかでそれを「家族の宗教」として私的に行なうべきものなのに、今もそれを「宗教」ではなく「(日本の)文化」であるという理屈で、巨額の税金を投じることが正当化されている。

これは「靖国神社」の問題も同じで、同神社の「国家護持」運動こそ廃れてしまったものの、それが目指していたのは「靖国神社は、単なる宗教施設ではなく、国家のために戦争で死んだ英霊のための鎮魂施設という国家的事業なのだから、国家によって護持されなければならない(つまり、税金で運営されるべきである)」といったものだった。
これは「運動」としては失敗したものの、考え方としては生き残っており、「靖国神社は、公的な施設だ」という主張が、今も公然となされている。

「無神論者」の冷徹な論理からすれば、「誰を、何を祀ろうと、それはその人や組織の、個人的な趣味や考え方の問題でしかなく、国家だ税金だと言うのは、身の程知らずで、厚かましい話だ」ということにしかならない。
だが、要は、「無神論者」を自称している日本人の中で、そこまで考えて(合理的思考に徹して)、きちんと批判している人が、いったいどれだけいるであろうか、ということなのである。

本書でも紹介されているとおり、出自・教義的に、まったくお話にならないモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の、その「壮麗な神殿」を嘲笑うことのできる日本人は少なくないだろう。
しかし、基本的に彼らは、自分たちの浄財でそれを建てているのだから、一宗教宗派(つまり、天皇家の神道儀式)に莫大な税金を注ぎ込んでいるという事実を批判したこともなく、疑問に思ったこともない日本人が、彼らモルモン教徒を嘲笑う資格など、まったくないのである(つまり「目くそ鼻くそを嗤う」の類いなのだ)。

こうした、ある種の専門的な話ばかりではなく、「お守り」だの「七五三」だの「宗教的結婚式」だの「受験合格祈願」だのといったことを、「文化」だと言って疑問にも思わないような人は、決して「無神論者」ではなく、単なる「無自覚な、ヌルい信仰者」に過ぎない。

つまり、レビュアー「小河沢」氏が望んだ『特に日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方にこそ(※ 本書を)読んで頂きたい。』という言葉の裏には、こうした「批判」が秘められていたのである。

しかし、日本人読者の大半は、そんなことには、まったく気づかず「あんな荒唐無稽な神話を信じて生活してるなんて、キリスト教徒って、知的レベルが低すぎるよね」などと言っているのであり、そんな読者には、金輪際、本書の「凄さ」はわからない、ということになるわけである。

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真夏に読んだ『宇宙のみなもとの滝』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月 2日(日)10時43分4秒
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みなさま、梅雨が明けて本格的な夏が到来し、35度以上の真夏日が増えております。
もう数年も前から、私の書斎のエアコンは故障しており、真夏の昼間は、扇風機では到底しのげない惨状でございます。
たぶん毎年書いていることでございましょうが、なぜエアコンを修理しないのかと言えば、それは部屋の中が本で埋め尽くされており、エアコンを修理するためには、この本の大移動が必要で、その作業は「想像しただけで即断念」の理由になっているからでございます。

しかも、私は無類の暑がりであり汗っかきなのに、まだコロナ禍は終結しておりません。それどころか、大阪は第二波に突入したばかりで、終結などいつのことやら見当もつかず、外出時のマスク着用は、拷問以外の何ものでもございません。
政府などは「2メートル以上の距離の保てる場所では、マスクを外して熱中症対策を」などと言っておりますが、職場への出勤のために市街地に出ていく場合には、継続的にそんな距離が保てる場所などほとんど存在しないのでございます。

ともあれ、私は、さほどコロナに脅えてはおりませんが、それにしても、罹患したら何かと大変で面倒なのはわかっておりますので、ひとまず「罹ったら負け」だとは理解して、最低限の自己防護はしております。

それにしても、これからの夏日には本当にウンザリ。
どんな季節であろうと、用事がないかぎり、家にこもって読書や物書きをしている私ではございますが、しかし、やはり本質的には、私は「冬が似合う男」なのでございましょう。一一なにしろ、アレクセイなだけに(笑)。


オロカメンさま

◆感想.《山口泉『宇宙のみなもとの滝』》

いつもお書き込み、ありがとうございます。

今回は、私の未読であった、山口泉『宇宙のみなもとの滝』のご感想でしたので、同作を読ませていただいてから、以下のとおり、感想のレビューを書かせていただきました。

結果は、見てのとおり、かなり厳しい批判となっておりますが、またご感想なりご異論なりをお聞かせいただければ幸いでございます。

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  8人目は〈市民運動家〉 一一レビュー:山口泉『世界のみなもとの滝』

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本書は、1989年に開催された「第1回日本ファンタジー大賞」の「優秀賞」受賞作品である。
この時の「大賞」受賞作は、酒見賢一の『後宮小説』で、本作は言わば次点作品であった。

今から約30年前、私は開催当時の「第1回日本ファンタジー大賞」に注目していたので、受賞作が刊行されると、さっそくこの2作を購入した。大賞受賞作『後宮小説』の方は、すぐに読んでたいへん感銘を受けたものの、本作『世界のみなもとの滝』の方は、積読の山に埋もれさせてしまい、気にはなりつつも今日まで読むことがかなわなかった。
今回、本作を読むきっかけとなったのは、本作著者のtwitterでの発言に触発された私の友人が、先日、本作を読んで褒めていたからである。ちなみに、友人の高評価のポイントは「著者は本気で世界を変えようと考えている」という点であり、そうした強い想いが、本作にも反映していた、ということのようであった。

 ○ ○ ○

さて、私の評価なのだが、残念ながら、あまり高くは評価できなかった。
小説としては、一定の魅力もあるものの、やはり友人が指摘した著者本人の「姿勢」に発するものを、私はむしろ、否定的にしか評価できなかったのである。

著者の山口泉は、作家であり、いわゆる「市民運動家」と呼んでいい人である。
その20冊に及ぶ著作を見ると、

『吹雪の星の子どもたち』 1984
『世の終わりのための五重奏』 1987
『宇宙のみなもとの滝』新潮社、1989
『悲惨観賞団』1994
『「新しい中世」がやってきた! 停滞の時代の生き方』1994
『テレビと戦う』 1995
『ホテル・アウシュヴィッツ 世界と人間の現在についての七つの物語』 1998
『宮澤賢治伝説 ガス室のなかの「希望」へ』 2004
『原子野のバッハ 被曝地・東京の三三〇日』 2012
『避難ママ-沖縄に放射能を逃れて』 2013
『辺野古の弁証法??ポスト・フクシマと「沖縄革命」』 2016
『重力の帝国??世界と人間の現在についての十三の物語』 2018

という具合に、その半数以上が、この世界を「暗い」ものとして「批判的に見ている」のが窺える。
平たく言えば、「反体制左翼」的なスタンスであることが、容易に窺えるのである。

もちろん、私の立場も、大雑把に言えば「左翼リベラル」ということになるし「反権力」でもあるから、「弱者」に寄り添おうとしている、本書著者・山口泉のスタンスについては、基本的に肯定的であり好意的であると言えよう。
ただし、私と山口の大きな違いは、「運動」というものに対する距離感なのではないかと思う。

山口は、この「世界の不条理」と戦うためには「連帯」が必要だと考え、そうした「運動」の中に入っていく人なのであろうと思うのだが、私の場合は、そもそも「集団」や「組織」といったものが大嫌いなので、否応なく「個人」としてのスタンスを選んでいる。良き目的のためには「連帯の力」も必要だろうが、私は「成果主義」者ではないのだ。

大西巨人が、

『果たして「勝てば官軍」か。果たして「政治論争」の決着・勝敗は、「もと正邪」にかかわるのか、それとも「もと強弱」にかかわるのか。私は、私の「運命の賭け」を、「もと正邪」の側に賭けよう。』(「運命の賭け」)

と言っているとおりであり、あるいは、

『 伊藤辨護士も、「〈連帯〉の重要性」を十二分に認識・尊重する。ただ、彼の確信において、〈連帯〉とは、断じて、〈恃衆(衆を恃むこと)または恃勢(勢を恃むこと)〉ではない。彼の確信において、「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の〈連帯〉ではないところの「衆ないし勢を恃むこと」でしかなく、真の〈連帯〉とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことであり、それこそが、人間の(長い目で見た)当為にほかならず、「連帯とは、ただちに〈恃衆〉または〈恃勢〉を指示する」とする近視眼的な行き方は、すなわちスターリン主義ないし似非マルクス(共産)主義であり、とど本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない。』(『深淵』上巻 P283~284)

とも言っているとおりで、実際には多くの場合でこのような「連帯」でしかあり得ない「運動体の悪癖」には心底ウンザリなので、「個人」としてやれることだけやらせてもらう、というスタンスに、私は徹しているのである。

たぶん、私のこのような「個人主義」的スタンスは、山口のような「実践家」としての「運動家」には、物足りなかったり、欺瞞的に映るのだろうが、私から見た場合、「運動体の現実」というのは、しばしば、ほぼ確実にウンザリさせられる側面が少なくないので、敵視まではしないものの、敬して遠ざけさせていただいているのである。
(運動体を、著名人が上から見下ろす場合、そのあたりが隠されやすく、見えにくいのかもしれないが、地べた近い内部から見た場合には、組織の悪癖はたいへん見えやすいものなのだ。そして私は、内部批判を遠慮できない人間なのである)

そして、私がウンザリさせられる「運動体の悪癖」的な側面が、本作『宇宙のみなもとの滝』にも窺え、著者である山口泉にもプンプン臭う。だから、どちらも高くは評価することができないのである。

 ○ ○ ○

私が、本作を、そして「小説家としての山口泉」を、高く評価できない理由は、ハッキリしている。
それは、その「思想」や「物の見方」が、「左翼紋切り型」の域を出ていないからである。

百歩譲って、単なる「運動家」であれば、そういうものも、その「効率性」や「成果主義」によって、ある程度は容認できるし、評価もできよう。つまり「運動家は、あれこれ考えたあげく動けなくなっては元も子もない。だから、多少は思い込みが激しいくらいの人の方が、運動家としては有能であろう」というような評価である。
しかし、「小説家」の場合は、こういった評価はできないのだ。

本書の登場人物を大雑把に分類すると、

(1) 不当に虐げられ差別される主人公と彼に同情的な仲間
(2) 独善的な正義を振り回す、世の「善人」たち
(3) 宇宙の延命の賭けた旅に、主人公たちを誘う、世界の精霊的存在

とまあ、こんな感じになるだろう。
本作では、SF的な「作中の現実世界」と、その世界の中で演じられる「作中作としてのファンタジー劇」という二重構造になっているが、どちらの登場人物であるにしろ、本作の本質は(1)と(2)の対立であり、この世界を(無自覚ではあれ)破滅に追いやろうとしているのは(2)であり、それを救えるのは(1)だけだ、という作者の「世界観」である。

私がまず引っかかったのは、作者自身が、(1)の「不当に虐げられ差別される主人公」に感情移入して、ほとんど「同一化している」点である。

こうした主人公は、当然のことながら、読者の「同情を引く」存在であろう。しかし、だからこそ、作者は「可哀相な主人公」べったりとなって、作者自身が「被害者意識」に酔い「可哀相な私(同情されて然るべき私)という自己像」に酔ってはいけないはずだ。
主人公が読者の同情や共感を得るのは「主人公自身がそのように自己規定しているから、そうなるべき」なのではなく、同情共感されて然るべき「客観的事実」があるから、同情共感されてしかるべきなのである。
だからこそ作者は、主人公を「客観的」に見ていなければならないのだが、本作においては、それが充分にできていないのである。

もちろん、作者が主人公と同一化することによって、その感情に強いリアリティが宿るといった「小説的なメリット」もあるだろうし、現に本作の主人公の独白的な語りには、文学的な叙情性があると評価しても良いだろう。しかし、それは多分に「気分的なもの」であって、強靭な世界認識の裏づけがあってのものではない。だから、文学として「弱い」のだ。

次に、よりハッキリとした「問題点」は、敵役と言っても良いであろう、主人公をいじめ苛む(2)の存在の「描き方」である。
本作において彼らは「みんなのキンポウゲ市を美しくし、キンポウゲ市民の幸福を考える会」のメンバーである、「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」の7人として登場する。
この7人が、主人公を「差別し、いじめる」とても「鼻持ちならない嫌なやつら」として描かれているのだが、作者の山口泉が「市民運動家」であることを勘案すれば、この7人の描かれ方がどのようなものになっているかは、容易に想像がつくのではないだろうか。

たしかに、「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」といった人たちは、しばしば「独善家」「鼻持ちならない選良」「世間を知らない頭でっかち」「権力の走狗」であったりすることが少なくないだろう。
かの「福島第一原発の事故」の事例を持ち出すまでもなく、政治家や有識者といった人たちは「信用ならない」ことが少なくないし、そもそもこれらの人たちは「自分たちの狭い了見の中だけで、世界を見ている」場合が、意外に少なくない。
そのため、「差別されている人たち」「虐げられている人たち」「最下層の人たち」、つまり「少数者」や「弱者」である人たちの存在が、彼らの視野には充分に入っていない場合が少なくなく、逆に「少数者」や「弱者」にこそ強く配慮する「市民運動家」のような人たちには、この7人のような人たちが「無自覚で鼻持ちならない差別者・抑圧者」だと映ってしまいがちなのだ。
だが、それはあまりにも一面的かつ「党派的」な見方であり、偏頗な評価なのではないだろうか。

言うまでもないことだが、「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」といった人たちの中にも「立派な人」は大勢いるし、「弱者のために闘っている人」だっている。
それを専門としている「市民運動家」ほどの比率ではないにしろ、そういう「善意の人」たちが含まれているにもかかわらず、その「左翼紋切り型」的な「偏見」によって、彼らを、このように嫌らしい「紋切り型」で描くこと自体が、そもそも「差別」ではないのか。

じっさい、作者が「市民運動家」でなかったならば、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」の8番目のメンバーとして「市民運動家」を登場させ、他の7人に負けず劣らず「鼻持ちならない独善家」として描いて見せたとしても、読者の多くには、何の無理も不自然さも感じさせないのではないだろうか。

本作の問題点は、主人公の側には「個人名」があるのに、この7人には「市会議員」「婦人会会長」「TVの女性レポーター」「医師」「原子物理学者」「哲学者」「刑事」という「肩書き」しかなく、「個人」としての「人格」を剥奪され、無視されている点である。
「この手のやつらは、総じて、こういうもんだ」という、作者の「独善的な決めつけ」、つまり「偏見」によって、ご都合主義的に「憎まれ役」としてのみ造形されている点が、私にはとうてい無視し得ないのである。

作者自身は、自身を「差別された者・虐げられた者」つまり「被害者」の側に立つ者として自己規定しているから、自分の「偏見差別」については、完全に無自覚なのであろう。
言い変えれば、本作作者には「他者に対する想像力」が欠如している。そこが、決定的に問題であり、弱点なのだ。

本作のクライマックスは、作中劇の「世界のみなもとの滝」の山場、人間の独善的な業のはたらきによって、もはや崩壊の瀬戸際にある世界を救うために、世界のみなもとの滝の前で、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」メンバーと主人公たちの10人が、つぎつぎと世界を延命させるに足る理由を、滝に向って訴える劇中シーンであろう。

ここで注目すべきは、最後に決定的な「世界を延命させるに足る理由」を示す主人公の、いわば「前座」として、それに挑み、失敗する「キンポウゲ市民の幸福を考える会」メンバーらの語る、個々の「世界を延命させるに足る理由」が、決してつまらないものでも、どうでもいいものでもない(大切なものである)、という事実だ。
つまり、彼らの「正義」にも「一理ある」のだが、しかしそれは、人間によって破壊された「世界を延命させるに足る理由」にはなっておらず、十分な理由とは「認められない」のである。

では、最後に主人公の示した「世界を延命させるに足る(十分な)理由」とは、どのようなものだったのであろうか。
世界の〈声〉は、主人公が「体現」したそれを、次のように評価する。

『 この世界をほんとうに救うことができるのは、ただ、この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られ……この世界を追放されようとしている者だけなのだ。そして一一
 そして、その彼らが、この力を発揮して世界を救うかどうかは、ただ彼らの判断に任されている。それは、彼らの《自由》だ。』(P262)

「最も差別された者こそが世界を救う(資格を有する)」というのは、もっともらしい理屈だ。
それは、ロールズの「無知のベール」にも似ていて、容易には反対しづらい。

(※「無知のベール」とは、大雑把に言えば「人は、自分がどのような境遇に生まれてくるのかわからない場合には、最低の立場におかれる場合を想定して、そういう立場の人でも人間らしく生きられる、最低限の生活の保証された社会の構築を目指すだろう」という「思考実験」的な仮説のこと)

しかし、それでもロールズの「無知のベール」が批判されたように、例えば、「脳死者」を最も悲惨な境遇にある人だとした場合、多くの人々は、はたして、そこに基準をおいた社会を望むだろうか。人々は、そこまで基準を下げられず、そうした「重荷」の切り捨てを考えはしないだろうか。

つまり、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」とは「はたして(具体的には)誰なのか?」ということなのだが、少なくともそれは「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」の、自称「代理人」や自称「代弁者」などでないことは、確かなのではないだろうか。
なぜなら、そういう人ならば、掃いて捨てるほどに多いからである。

言い変えれば、自身を「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」と「同一化」させ、その同じ(特権的な)場所に位置づけて、「他者」を見下して断罪する態度に、はたして「欺瞞」はないのか、ということなのである。

そもそも、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」とは、固定されたものなのだろうか。
逆に言えば、「すべての人」が例害なく、何らかのかたちで、彼らを「辱め、虐げ、忘れ去る者」なのではないか。

だとすれば、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」という特権的な立場に立って、一方的に「他者」を断罪できる人など、いないのではないか。
一片の迷いもなく、それが出来ると考えられる人というのは、相手が一方的に「純粋無垢な加害者」であり、自己が同情されるべき一方的に「純粋無垢な被害者」である、という誤った自己意識を囚われているのではないか。

つまり、本書著者による「断罪」は、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」のメンバー7人の描き方にもよく表れているとおり、あまりにも一方的であり、「善悪二元論」的に過ぎはしないだろうか。
あまりにも、自身の「正義」を、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」つまり「被害者」の名において、絶対化しすぎてはいないだろうか。

また、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」を救うことさえできれば、「キンポウゲ市民の幸福を考える会」のメンバー7人や主人公の友人の2人の語った、「次善の正義」は、どうでもいいのか。

いや、そもそも、達成されるべき理想を「たった一つに限定する」ことに、本質的な無理と、欺瞞があるのではないだろうか。

「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」が救われることは、無論大切だし優先事項ではあろう。だが、それだけではないはずだ。
つまり、理想にも優先順位はあるにしろ、やはりあれもこれも必要であり、それらに「不合格」の烙印を押して、「こちらこそが最優先事項だから、君たちは遠慮しろ」で済ませるわけにはいかないのではないだろうか。

ほかに私が気になったのは、「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」としての主人公の、自信なげにおどおどしているかと思えば、逆に、いきなり切れて猛然と反発するという、その極端な不安定ぶりである。
無論それは「この世界で辱められ、虐げられ、忘れ去られた者」としては、やむを得ないことなのではあろうが、しかし、それでも、そこに「相手(他者)と話し合おうという構え」を見いだすことが出来ない、というのは、「弱者のための運動」が「独善的なテロ」といったものに反転してしまう原因ともなり得る、きわめて危険な様相なのではないだろうか。

本作『世界のみなもとの滝』に感じる不満とは、怜悧な「自己批評の目」の不在である。

「自己懐疑の回路を断った、その独善的正義」とまでは言わないまでも、「敵」に対する「憎悪に目の眩んだ、一方的な批判」が、本作では露骨かつ居丈高なまでに表現されており、そのような「無自覚な偽善」を高く評価することなど、私にはとうてい出来なかったのである。

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チョムスキーは非実証的。

 投稿者:木村弘一(こういち)メール  投稿日:2020年 8月 2日(日)07時52分52秒
   チョムスキーは徹頭徹尾、非実証的です。
 まず、彼の言語理論の大前提である、意味構造の入力なしに出来る、無意味だが文法的な文の実例とされる文、たとえば、
Colorless green ideas sleep furiously.
などは、どの言語資料にも実在しない、Linguish (「言語学屋さん」の作文でしかない擬似「イングリッシュ」)として批判されて久しいものです。
 また、チョムスキーは、政治学的にも、アナルコ・サンディカリズムを信奉していますが、どこにも其の正当化の論拠など述べていません。論拠が有り得ないからです。無政府主義など、マルクス教徒でさえもが、ちゃんと批判してくれていますので。(其のマル教の基本的な哲学および革命論の批判は、小弟のアマゾン書評を御高覧ください。
 

〈日本人の国民性〉が問われる問題 一一Amazonレビュー:内田雅敏『元徴用工 和解への道 ――戦時被害と個人請求権』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月 1日(土)22時33分28秒
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 〈日本人の国民性〉が問われる問題

 Amazonレビュー:内田雅敏『元徴用工 和解への道 ――戦時被害と個人請求権』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2V9QLWSM8D7KK

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「徴用工問題」の本質的論点とは、レビュアー「寸鉄」氏が、正しく指摘しているとおり、『はたしてこれは歴史認識や外交の問題だろうか?』という点にある。
日本側には「加害の事実」があるのだから、それを「どう償うか、償わなくて良いのか」という話なのだ。

「償うべきだ」と考える人の意見はわかりやすい。要は、条約だの判決だのがどうであろうと、加害のあった事実は変わらないのだから、加害者は被害者に対し、その「良心」において償うべきである、というものである。

一方「償わなくてもいい(償うべきではない)」という主張する人の意見とは、要は、条約や判決で、すでに「賠償義務はない」となっているのだから「償う必要ない」。なのに「償え」と要求してくるのは不当である、というものだ。

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本書での、落としてはならない「法律論議」としては、国家間の条約においても「個人の請求権」は放棄されておらず、あくまでも「外交保護権の放棄」でしかない、という「法的な常識」論であろう。

「外交保護権の放棄」とは、要は「国家が国民に代わって、その被害からの保護救済にあたる権限、の放棄」である。つまり「わが国政府は、国民個人の被害について、他国に対し、なんら要求することはしませんよ」という約束であって、被害者個人が他国を訴える権利までは、その条約においても、破棄や放棄はなされていないのである。

では、韓国の裁判所が「個人の請求権」を認めたのは、こうした国家間条約における「外交保護権の放棄」に反する行為なのだろうか。
一一そうではない。なぜなら、まともな民主主義国家における裁判所は、政府からは「独立して判断を示す権限」を持っているから、国家間条約にも縛られないのである。
言い変えれば、国家間条約に縛られて、自由に判断も示せないような裁判所は「御用裁判所」だということなのだ。

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だが、こうした「法律論議」は、「人間の普遍的な正義と倫理」においては、本質的なものではない。
前述したとおり、大切なのは「加害の事実があれば、償いをするのは当然」という、当たり前の「人間倫理」なのだ。

無論、現実問題としては、その「例外」というのも、少なくない。例えば、前記の「条約」や「法律・判例」といったものがそうだ。
具体的に言えば、「未成年は罰せられない」とか「心神喪失者は罰せられない」といったものがその典型で、犯罪行為を現に為し、他者に被害を与えたにもかかわらず、罰せられない、償いを求められない場合というのはある。彼らには、そもそも「責任能力が無い」ので、加害と被害の事実があるにもかかわらず、「法的」には、罰することも償わせることもしないし、させないのである。

で、話を「徴用工」に戻すと、彼らが「不当な仕打ちを受け、被害にあった」というのは、日本政府自身も認めている「歴史的事実」である。

しかし、日本の現政府は、「条約」によって「すべて片がついた」と強弁して、被害者の「個人の請求権」まで無視拒絶しようとしている。だがこれは、百歩譲って「合法的(合条約的)」ではあるかもしれないが、国際的に客観的な目で見れば、「反倫理的・反道徳的」だと評されざるを得ないだろう。
「法的に責任を問われない」ということと「自身の加害についての償いをしない」ということとは、決して同じことではないからだ。

例えば「未成年犯罪者」に対し、被害者や被害者家族が「せめて謝罪してください」と要求した時に、当該未成年犯罪者が「そんなことしなくていい(する義務はない)んだよ」と被害者家族をせせら笑ったり、「あんたがたの要求は、法治国家の原則をくつがえすものだ」と逆批判したとしたら、客観的な第三者は、どう思うだろうか。

この「未成年犯罪者」も、じつは内心では「加害の事実はあるのだから、謝罪してもいいんだけど、しかし、謝罪したら、次は金銭的賠償を求められるかもしれないし、そうなるとこれは自分ひとりの問題ではなく、他の犯罪者も同じことを求められるようになるだろうから、自分ひとりが良い子になるわけにはいかない」などとあれこれ考えた末に、謝罪も賠償もしないのかもしれない。
したがって、こうした「打算」も、現実問題としてはまったく理解できない話ではないのだが、しかし、自身の「加害の事実」について、被害者や被害者家族を蔑ろにするような彼の態度は、やはり「非論理的・非道徳的」なものとしか評価し得ないだろう。

そしてこれは「徴用工」問題に対する、現日本政府の態度ついても、まったく同じことなのだ。

その条約が、「外交保護権の放棄」に過ぎなかったのか、それとも「個人の請求権」の放棄・消滅まで含むものであったのか、といった問題は、事の本質ではない。あくまでもそれは(「人間的な本質問題」ではなく)テクニカルな「法的・政治的問題」にすぎないのだ。

だから「条約で、もう責任を取らなくていいとなってるんだから、おまえら、今更グズグズ言ってくるなよ」という、現日本政府とその論法の支持者の言い分や態度は、客観的な視点に立てば、かなり「恥ずべきもの」なのである。
右派・保守派的な言い回しをすれば、「国辱」的な態度だということになるのだ。

やはり「日本人」は、もっと「他者に対して、思いやりのある、心優しい国民性」を持っていて然るべきであろう。たとえ多少の金銭的な損をしてでも、守るべき道義や名誉というものは、確かにあるのだ。

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大阪市民は〈犠牲〉になるだけ 一一Amazonレビュー:『「大阪都構想」ハンドブック 「特別区設置協定書」を読み解く』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月 1日(土)22時32分9秒
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 大阪市民は〈犠牲〉になるだけ

 Amazonレビュー:大阪の自治を考える研究会 編著『「大阪都構想」ハンドブック 「特別区設置協定書」を読み解く』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1AMIZO9ET2NUH

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大阪市民がこれを読めば、「都構想」に賛成票を投じることなど、とうていあり得ないだろう。

本册は、「大阪都構想」の問題点を、大変わかりやすく、かつ具体的に紹介しており、パッと見ほどに難しい内容ではないので、大阪市民ならば、自身の「死活」にかかわることなのだから、ぜひ本册を手に取ってほしいし、手に取るべきだ。
でないと、あとで悔やんでも、悔やみきれないといったことになるかもしれない。

本册で紹介されている、「大阪市を、四つの特別区に分割する」という「都構想」の問題点を、おもいっきり簡単に紹介しておくと、次のようになる。

(1)「税収」は大阪府に召し上げられ、それに見あっただけの仕事を負担してもらえない。
(2)「厄介な仕事」は特別区に任され、行政的な「権限」は大阪府に召し上げられる。
(3)四つの特別区に分割されることにより「スケールデメリット」が多数発生して、住民サービスが低下する。

(1)は、要は「大阪市の税収の4分の3」が大阪府に移管され、そこから「財政調整交付金」が特別区に公布されるという面倒な仕組みによって、特別区は経済的自立性を失い、大阪府の意のままに犠牲を強いられることになる、ということ。

(2)は、大阪府が欲しいのは「財源」と「権限」なので、「面倒な仕事」は、そのまま特別区の自助努力にお任せすることになる、ということ。

(3)は、自治体のスケールが小さくなる(細切れにされる)と、実質的に人員不足が発生して、住民サービスが低下する、ということ。
なぜ、実質的に人員が減るのか。例えば、これまでは大阪市として運用していた人員を四つに分割すると、個々の特別区の人員は4分の1になるけれど、「必要な職種(住民サービスの種類)」は決して、4分の1にはならない、からだ。
つまり、すべての職種を、特別区それぞれで、これまで同様に揃えようと思えば、人員を増やさなければならない。しかし、もともと「都構想」は、整理統合による効率化が目的なので、人員を増やす気などないから、維新の会が牛耳る大阪府は、特別区の住民がいかに求めようと、新たな人員用の予算はつけない。その結果として、特別区の職員は、一人で複数の仕事を掛け持つ「兼職」状態になる。当然、そこでは「専門性」が失われ、効率は低下し、あれもこれもはできないので、結果として、市民サービスが低下する、ということになるのである。

さて、維新の会の支持者たちは、本册に書かれていることを、きっと「否定」するだろう。しかし「反論」はしないはずだ。
なぜなら、ここに書かれていることは、「特別区設置協定書」を検証した上での、事実に即した批判だからで、実際には「都構想」の細かい内容など理解してはいない、維新の会支持者の「都構想」推進派には、反論などできる道理がないからである。

だから、大阪市民の方は、「都構想」のメリットばかりを強調している「維新の会の説明」をそのまま信用する(鵜呑みにする)のか、それとも「本册で紹介された問題点」を自身で確認した上で、どちらに説得力があると判断するのか、そのどちらかを選ぶしかない。

当然、肯定否定双方の意見を知った上で判断するのが「賢明」だというのは、論を待たないだろう。

だが、それでも「おいしい話」に、思わず飛びついてしまう人が少なくない、という現実もある。
しかし、そういう人が、どういう犯罪被害(例えば、投資詐欺)に遭っているかを少し考えれば、「都構想のデメリット」を知らないまま、賛成票を投じるなどという愚挙にはおよべないのではないだろうか。まさに「後悔先に立たず」なのだから。

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〈私〉が、政治部記者であったなら… 一一Amazonレビュー:南彰『政治部不信 権力とメディアの関係を問い直す』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月 1日(土)22時29分57秒
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 〈私〉が、政治部記者であったなら…

 Amazonレビュー:南彰『政治部不信 権力とメディアの関係を問い直す』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R25ALQOX0G7LTW

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「菅官房長官の定例記者会見」における望月衣塑子記者の活躍と、それに対照的な各社政治部記者たちの姿。そんな映像を見せられた上に、社会的注目の最中だった黒川弘務検事長と、政治部記者たちとの「賭け麻雀問題」。
こんなものを続けざまに見せられて、私たちの多くは、政治部記者と取材対象との馴れ合い的な関係を、嫌でも意識せざるを得ず、思わず「おまえらは権力を監視するのが仕事だろう。それなのに取材対象と馴れ合うとは言語道断だ。それは、ひと昔前の暴力団担当刑事が、暴力団員とつきあって、犯罪情報を取ってたって話と、まったく同じじゃないか」といったような批判の言葉を発してしまう。
言うまでもなく、この批判自体は、なにも間違っていないし、必要なものでもあるのだが、しかし、このような「正論」による批判だけで、果たして、この「悪習」を改めることができるものなのだろうか。

本書で描かれている「政治部記者」の問題は、言うなれば「取材慣習」の問題であり、その根底には「日本的な職場慣習」の問題があるのではないか。
つまり、「人間関係」を構築した上で、仕事をスムーズに進めるとか、「本音と建前」を使い分けた上で、そこについては、見えていても、お互いに突っ込まないとか、そんなことである。

私自身を含め、職業人の多くは、こうしたことを「当たり前」のこととして、なかば無意識的に行なっているはずなのだが、それと同じことを「政治部記者」たちも行なっていただけなのではないか。
そしてそれが、これまでは通ってきたのだが、近年はこうした「実務的慣習」が通用しなくなってきたのではないか。そして、そのようになってきた最大の理由は、やはりネットの普及によって、誰もが広く社会に対して発言できるようになったからではないだろうか。
要は、「本音と建前の使い分け」が、機能しなくなってきたからではないだろうか。

なぜなら、社会的発言がこれまでのように、ごく一部の人たちの特権であった時代には、その人たちの間での「暗黙の了解」として「そこはお互いに突っ込まないことにしましょうよ」という認識が共有できた。ところが、ネットの普及によって、言わば「発言責任を一切負わない外野」から、遠慮も加減もない「正論的批判」が寄せられ、公開されるようになった。
こうなった時に、これまでの言論独占階級のエリートだった人たちに、反論ができただろうか。
一一 無論できなかったのだ。

彼らはエリートとして「本音と建前」を使い分けて、「建前」をこそ誇らかに語ってきたからこそ、世間の「建前」に反論することができず、公然と「本音」を語ることもできなかった。本音を語ることは、そのまま自身の築いてきた「建前としての、立派な言論人」としての立場を揺るがすものになるからである。

例えば近年、問題となった、教育現場での「暴力的指導」の問題も、ひと昔前には「やって当たり前」であり、生徒本人や保護者からさえ、決して手を上げない先生は「優しい先生」だなどと、殊さら肯定的に評価されていたりもした。
いや、そもそも「親が子供を殴ってしつけする」という行為も、昔は「当たり前」であった。だから、先生たちの「暴力的指導」を批難するような空気は醸成されなかった。

もちろん、刑法における「暴行罪」や「傷害罪」は、昔から存在しており、親や教師であっても「やりすぎたら、捕まり罰せられる」ことになっていたのだが、それでも裁判においては、その「責任を負うべき立場」が考慮され、情状酌量されていたし、その適用範囲が縮小されたとは言え、今も「親や教師」という「責任を負うべき立場」については情状判断の対象となっており、基本的には変わっていないのである。

つまり、私たち「一般人」が「正しいことは正しいし、間違っていることは間違っている」と、単純に考えている問題に関しても、社会を回していく現実の局面においては、それはいまだに、そう「単純な話」ではないし、たぶん今後も基本的には同じなのであろう。
「責任を一切負わない第三者」の立場での発言も、「原則」として尊重されるが、しかし「神ならぬ、生身の人間」の運営する「(原理的に)完璧ではあり得ない社会」においては、「原理原則」は、どこまで行っても「建前」を完全に脱却することはできず、どこかに「本音」を隠し持ち、温存しつづけることになる。

そして、言うまでもなく、こうしたことは「政治部記者」や「政治家」や「親や教師」たちに限った話ではない。
それは「私たちすべて」に、例外なく当て嵌まることであり、言うなれば、私たち誰一人として「建前と本音の使い分け」という桎梏から、今も現に逃れ得ていないし、たぶん完全に逃れ出ることは、原理的に不可能なのであろう。

無論、私は、以上の議論において、「政治部記者」や「政治家」や「親や教師」などなどを「免責」しようというのではない。「完璧ではない(悪しき)現状」を「容認」しようというのでもない。
「理想」というものは、そもそも「達成できるもの」ではなく、「常に目指されるべき目標」なのだから、私たちは「理想」を掲げて、一歩でもそちらへと進む努力をしなければならない。

しかしである、そのための大前提として、この「建前と本音の使い分け」という「人間の本質的な難問」に、決して「例外的人間は存在しない」という意識を持つ必要がある。それを持たなければ、「建前」で他人を批判している人が、自覚もなく同じ過ち、別の局面で犯すことになるからである。

例えば、私自身は「政治部記者」でも「政治家」でも「親や教師」でもない。けれども、法的責任を免除されている未成年でもない。つまり、生きていく上で、各種の責任を、否応なく担わざるを得ない存在である。そして、それはすべての大人がそうなのだが、それを自覚し、その責任の重さにおののいている人が、いったいどれだけいるだろうか。

「政治部記者」を批判し、「政治家」を批判し、「親や教師」を批判している人の、いったいどれだけが、返す刀で、自分自身を呵責なく斬りつけているだろうか。

残念ながら、そんなふうに自覚的に責任を負っている人は、ごく稀であろうと思う。だからこそ、私はここで、直接のテーマである「政治部記者」という問題から離れて、「すべての人の責任」への「自覚」を促しているのである。

繰り返すが、私は「政治部記者」や「政治家」や「親や教師」といった「責任ある立場の人々」を免責しようというのではない。
そうではなく、私たち「すべての人間が、責任ある立場の人間なのだ」という自覚を促しているのであり、それなくしては「政治部記者」や「政治家」や「親や教師」といった「責任ある立場の人々」の問題も、決して改善されることはないだろう、ということなのだ。

例えば、あなたが「政治部記者」や「政治家」であったとして、その「特権と責任」の大きな職場環境において、「本音と建前」を使い分けずに済ませる自信があるだろうか。あなたが「親や教師」であった場合、子供に対して、一度でも「手を上げたり、手を上げようとした」ことすらなかったり、あるいは「声を荒げた」こともない、で済ませる自信があるだろうか。
「建前」として「ありますよ」と無責任に公言するだけではなく、「本音」として「やれる」と考えられるだろうか。もし、そう考えられるとしたら、あなたは、その「短慮」という無責任さにおいて、批難される蓋然性の高い人間だとは言えないだろうか。

事程左様に、他者を、その立場の「建前」において批判することは、容易でもあれば、本質的には極めて困難なことでもある。
「そういうご立派なことを言っている、お前自身はどうなのか」と、自身に問える「良心的な人」であればあるほど、それは困難な行為になってしまうという「ジレンマ」。他人を責めることは、そのまま自身を責めることにもなるからだ。

しかし、それでも「他人を責める」ことは必要である。なぜなら、より以上に「自身を責める」必要があるからだ。
言い変えれば、「自身を責める」ことのできる人が増えないかぎり、この世の中は、決して本質的に改善されることはないのである。

だから私たちは「涙隠して人を斬る」ことをしなければならない。しかし、その時、自身も「返り血」を浴びているということに自覚的でなければならない。つまり、「涙」を流せなくてはならない。

ほぼ誰も自覚してはいないだろうが、多くの現実的局面においては、私たちは、望月衣塑子記者ではなく、彼女を見殺しにしたり、あまつさえ憎んだりする「社会部記者」に近い人間なのである。

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夢と理想と現実とSF 一一Amazonレビュー:山本弘『プロジェクトぴあの』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 8月 1日(土)22時27分38秒
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 夢と理想と現実とSF

 Amazonレビュー:山本弘『プロジェクトぴあの』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3MQZJ8KCVBBL3)単行本
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2I71MMXJ94BD9)文庫上巻
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3N0RH1JE53WKY)文庫下巻

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(※ 本稿は、文庫版『プロジェクトぴあの』についてのレビューの転載です)

『これは "ハードSF作家・山本弘" の遺書だと考えてください。』

何かをネット検索していて、この言葉が目に飛び込んできた。

『多くの方がすでにご存じでしょうが、僕は二年前に脳梗塞を患いました。本当に突然の発病でした。現在、いくらかは回復してはいますが、依然として計算能力や論理的思考力は低いままです。』

だから、もうこの作品のような、科学理論を駆使した「ハードSF」は書けないだろう。そのため、本作は『"ハードSF作家・山本弘" の遺書』になるだろう、と言うのだ。

山本の作品はいくつか読んでいて、中でも『アイの物語』は、そうとう愛着のある作品だ。
また、私は「宗教」批判のために、わざわざキリスト教の研究を独学で始めたような、自覚的な「無神論者」なので、『神は沈黙せず』なども面白く読んだし、山本の「と学会」活動にも一定の興味は持っていて、そこから副島隆彦『人類の月面着陸は無かったろう論』なんて本も、わざわざ古書で入手して読んでみたりもした。

つまり、山本の熱心なファンというわけではないけれども、山本を「ちょっとユニークで、書けるSF作家」だと思っていたので、そんな彼が脳梗塞に倒れ、思うように書けなくなっていたというのを知って、なんとも言えない感情(あえて言えば、同情をともなった残念さ)を憶えた。
そして、山本のこのエッセイが、文庫版『プロジェクトぴあの』の「あとがき」の転載だと知って、それならば同作を読まねば、と思ったのである。

 ○ ○ ○

『プロジェクトぴあの』は、単行本刊行時に目にしていたが、「アイドルもの」という点で興味がなかったのでスルーしていた。また先日、文庫版が刊行されているのも、書店頭で見かけて知っていたが、その時点では、山本の、このエッセイを読んでいなかったので、その時もまったく興味がなかった。
では今回、作品本編を読んでみて、どうであったか。

一一 面白かった。
本作は、「古き良きSF」的な、リリシズム溢れる佳品であったのだ。

私は典型的な文系人間だから、物理法則や宇宙論についても、文系的に興味を持ってはいたものの、決して詳しいわけではないし、正しく理解しているわけでもないので、山本が本作で描いてみせた「航宙動力理論」の面白さや斬新さも、十全に理解できたわけではない。その意味では、私は本作の良い読者ではないのだが、それでも本作は、とても面白く、記憶に残る作品となった。

どこが良かったのかと言えば、それは主に、主人公の「ぴあの」のキャラクターであり生き方であった。
「重力の桎梏から逃れて、外宇宙にまで行ってみたい」という幼い頃からの夢を持ちつづけ、そのために、独学で科学を勉強するかたわら、アイドルになって資金集めまでした、ブレることを知らない、ぴあの。天才的な頭脳を持ちながらも、宇宙以外のことには基本的に興味がなく、他人の感情にもかなり鈍感で、おのずとそうとうな「変人」である、ぴあの。
そんなぴあのが、外宇宙へ旅立つまでの姿を、彼女に恋していた青年の目を通して描いた「片恋物語」が、本作でもある。

つまり、著者の山本が強く意識した、アイデア勝負の「ハードSF」というだけではなく、本作は「切ない片想い」を描いた「青春恋愛小説」でもあったのであり、たぶんかなり多くの読者が、そうした側面に惹きつけられたのではないだろうか。

私が本作に特別に惹きつけられた点は、ぴあのの性格設定にある。つまり、その「変人」ぶりだ。
自慢するわけではないのだが、私もかなり「ぴあの的な変人」なので、彼女の生き方には、深く共感できた。いかんせん、彼女のような「天才的頭脳」は持ち合わせていないので、彼女のような派手な人生を歩むことはできなかったのだけれども、それでも平均的な人生からはかなりズレているし、私の変人ぶりは「知る人ぞ知る」程度のものにはなっていると思う。

例えば私は、徹底した「趣味人」であり、その趣味人的な生活の水準を維持するために、結婚はせず、子供も作らなかった。子供は嫌いではなかったし、異性を好きになることもあったが、結婚しなければならないとか、子供を作らなければならないとは思わなかったし、それで「世間体が悪い」とは少しも思わなかった。そんな世間の目など、屁とも思わなかったのだ。
結婚については、例外はあろうものの「恋愛感情は脳科学的な現象でしかなく永続はしないから、結婚という制度的拘束はリスクが高い」とそのように考えていたし、子供については「結婚すれば子供が欲しくなるだろう。子供を作れば、きっと可愛くて仕方がなくなり、自分の趣味人的人生を犠牲にさえするだろうが、現時点の感情として、わざわざそんな人生を選びたいとは思わず、今の生活を守りたい」と考えた。かなり恵まれていると思える現在の生活の「現状追認」である。
また、性欲処理については「今どきオカズには困らないのだから、マスターベーションで済ませた方が、時間的にも金銭的にも無駄がない。性交は、あえてしなければならないものではない」と考えた。
一一 つまり、私はこれくらい「割り切った考え方」のできる人間であり、これは傍から見れば、たぶん「変人」の範疇であろうと、自覚しているのである。

そして、こんな私だからこそ、ぴあのの徹底した生き方には共感ができた。
私の場合、宇宙には興味はないけれど、世間的な価値観に縛られず、一直線に自分の求めるものを追い続けた、ぴあのの徹底した生き方に共感したのである。

そして、その一方、ぴあののような「天才」を持たない私は、彼女に「片想い」をするしかなかった、本編語り手の青年・昴(すばる)の「切ない感情」にも共感できた。それは「届かないと知りながらも、思い続けずにはいられない」という感情への共感である。

私の場合、「一切知の夢」が、それであった。
この言葉は、博覧強記の天才・南方熊楠を評するために使われた言葉だが、私はこの熊楠よりもさらに広い範囲に興味を持ち、それらを全部「ひととおりは知りたい」という感情を持っているのだが、しかしこれは、たかだか百年しか生きられない人間には「とうてい届かない夢」であることは明らかだ。
例えば私は、もう20年近く前には、すでに死ぬまでかかっても読み切れないだけの本を所蔵していた。それを読んでいるだけで、もう1冊も買う必要はなくなっていたのだが、しかし、私の興味は、日々広がりつつ重点を移していくために、欲しい本が途切れることはなく、その後も、1冊読む間に3冊買うという度しがたい読書人生活を続けてきた結果、自宅は、『子供より古書が大事と思いたい』という著書のある鹿島茂の自宅よりも、すごいことになっている。鹿島のような邸宅に住んでいるわけではないものの、独身生活の故に、ほぼ4室が本で埋め尽くされるような生活をしているのだ。
あまり見栄えのするものでないのは無論だが、しかしこれもまたやはり「届かないと知りながらも、思い続けずにはいられない」もの、つまり私の場合「一切知の夢」への、言わば「片想い」の結果だからこそ、本編語り手の青年の「切ない片想い」にも、実感をともなって共感できたのではないかと思う。
そして「畢竟、人生とは、夢を追う旅路の半ばで終えるもの(つまり、片想い)である」というのが、私の現在の人生観なのだ。

こうした点からしても、すべてではないにしろ、優れた能力を失ってしまった山本には、痛ましさをともなった同情の念を禁じ得ないし、空疎な励ましの言葉などかけられはしないのだけれども、ただ私がここでお世辞抜きで言えることは、本作『プロジェクトぴあの』は「ハードSFの部分を抜きにしても、十二分にすぐれた片想い小説になってますよ」ということであろう。

この評価に、山本自身は満足しないかもしれないが、すべてではないにしろ、彼の作品が残っていくことは確かだ。それは、彼が物理的に死んでからも、である。

また、変人的に非常識な褒め方をするようだが、小説家は小説を残すことこそが、その生きた証であり、山本はそれをなし得た稀有な作家のひとりであると、私は高く評価するのである。

だから、多くの読者に、本作『プロジェクトぴあの』を読んでほしいと思う。
夢には届かなくても、夢を追いつづける人間の姿は、きっとあなたを励ますはずだからである。

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【補記】

本作について「人間に対する絶望が貼付いており、その意味で救いのない作品となっているのだが、SFは人類への希望を語るべきである」とする批判もあるようだ。
その気持ちもわからないではないけれども、私はそうは思わない。

というのも、無根拠かつ無責任に「希望」を語るだけなら容易だが、人類の「度しがたい愚かさ」に挑みつづけるという「実体験」のある人間には、観念的でイデオロギー的な「キレイゴトの理想」など、とうてい語れるものではない(例えば、ネトウヨなどへの説得を試みる、普遍的な人類愛のある人が、どれほどいるだろうか?)し、そんな空疎なものを語るのは「文学ではない」とすら思うからだ。
「文学」が語るべき理想とは「絶望の彼方にこそ見いだす、微かな希望」であって、「安価な希望」などでは、決してない。

山本弘が、人類に絶望するのは、彼が人類の「理性」に期待して、本気で人々を啓蒙しようとしたからに他ならず、それが「と学会」の根本思想でもあった。
しかし、いくら諄々と理屈を説いても、面白く語っても、「妄信者」は決してその「妄信」を捨てようとはしなかった。そうした経験を、嫌というほど積んだからこそ、山本は人類に絶望したのであろうし、本作『プロジェクトぴあの』が「人間的欲望を捨てきれない、愚かな人類への訣別の物語」とも読めてしまう部分もあって、それを残念と捉える向きもあったのであろう。

だが、私にとっては、人類の「悪しき欲望」と戦ったこともない人間の「お気楽な理想主義的イデオロギー」よりは、山本のそれのように「現実を格闘した末の絶望」の方が、まだしも共感できるし、価値もあると思う。

というのも、「現実との格闘を抜きにした、空疎な理想主義」は、どこまでも無責任なものであり、かつ「人類への、本物の愛」を欠いたものであるのに対し、「現実との格闘の末に傷ついた理想主義、としての絶望」は、まだしも、その先に進む可能性としての「人類への愛」を残していると信じるからだ。

悪い意味での「まんが・アニメ的リアリズム」における、うすっぺらな人類愛(や正義)よりも、私は失望や絶望、そして憎悪の感情さえ知っている「大人の愛」こそが、「文学」の描くべき価値のあるものだと考えるので、『プロジェクトぴあの』が理想的な達成ではないとしても、それをいちがいに責めるつもりもないのである。

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研究者と〈批評眼〉一一Amazonレビュー:津堅信之『京アニ事件』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 7月24日(金)11時14分11秒
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 研究者と〈批評眼〉

 Amazonレビュー:津堅信之『京アニ事件』
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あまりの中味の無さに驚いた。
中味の的外れさに立腹させられて積極的に批判してしまう本なら、たまにあるのだが、本書にはそれすらない。

「京アニ事件」について、そこそこ広く浅くまんべんなく知りたいという向きにはちょうど良いのかもしれないが、すこしは著者なりの突っ込んだ見方や見解を知りたいと思う向きには、本書は完全に的外れである。

この「中味の薄さ」は、著者自身が強調する、その肩書きである「研究家」という立場に帰することができるかもしれない。
つまり、「研究家」とは、「研究」してさえいれば、その物の見方や判断力、言い変えれば鑑識眼や批評能力が「凡庸」でもかまわない、ということを意味しかねない。「研究家」には、「独自の視点」も「鋭い分析能力」も無くていい、ということを意味することになりかねないのだ。

じっさい、著者による次のような、本書の結びの言葉には驚かされた。

『 今回の事件で、私が衝撃を受けたことの一つは、ほとんどブランド化していると信じていた京アニが、一般には意外に知られていなかったことである。まだまだ、京アニの存在や、京アニが制作したアニメの素晴らしさを知らない人たちが多いことの証左でもある。
 アニメファン、そして京アニファンは、底知れず美しく、そして限りなく気品に溢れた京アニ作品を楽しむ喜びを、もう少し周りの人たちが「ふっと」気づく程度のバランス感覚で伝えながら、ともに京アニ作品を見て楽しみ、京アニの復興を応援していきたい。』(P204)

まず驚くのは、京都アニメーション(以下「京アニ」と略記)制作のアニメが『一般には意外に知られていなかったこと』に『衝撃を受けた』という、その「常識のなさ」である。

たしかに、「京アニ」は『ほとんどブランド化している』のだが、それはあくまでも「アニメファンの間で」の話であって、「アニメも視ますよ」程度の「世間の人々」が、(ジブリは例外だが)制作会社の名前まで意識していると考えるのは、あまりにも世間の狭い、早計な物の見方である。

例えば、若者の間で流行っていて、彼らにとっては常識の「ファッションブランド」などでも、私のようなおじさんは、まったく聞いたこともないし、「常識」でもなんでもないというのと、それは同じことなのである。
そしてこの程度の「類推判断」は、多少なりとも「批評眼(そして、その要としての自己批評性)」のある人ならば、容易に可能なことなのだが、すでに若くもない著者は、そんな常識的な「批評眼」すら持ってはいないのだ。

また、『底知れず美しく、そして限りなく気品に溢れた京アニ作品』とか『もう少し周りの人たちが「ふっと」気づく程度のバランス感覚で伝え』といった、「過剰形容」や「ズレた形容」にも、著者の「批評眼」と「言葉のセンス」の欠如と感じざるを得ない。

前者について言えば、たしかに京アニ作品には、『美し』さがあるし、ある種の『気品』もある。しかし『底知れず美しく、そして限りなく気品に溢れた京アニ作品』などという「過剰形容」は、いくら犯罪被害にあった会社の作品だからと言っても、研究者の語る「論評」としては「公正さに欠ける」と言わざるを得ない。
どうして『底知れず』とか『限りなく』などという、殊更に「大仰な」形容詞をしか浮かばなかったのか。それは無論、「言葉のセンス」に欠けており、言葉に鈍感だからに他ならない。

著者は、殊更に問題になるようなことは書いていない。それは「ごく当たり前のこと」しか書いていないからでもあるのだが、あえて疑義を呈するならば、著者があえて、この中身の薄い本を書いたのは、多くのアニメ関係の評論家や関係者が、「京アニ事件」に関するマスコミの取材に対して口を閉ざしたのに対し、当初こそ取材を断りはしたものの、しばらくして取材を積極的に受けるようになった著者自身の態度について、その「立場説明(つまりは、言い訳)」をしたかったからではないだろうか。

多くのアニメ関係の評論家や関係者が、「京アニ事件」に対するマスコミの取材に対して口を閉ざしたのは、著者自身も推定するとおり、それが被害者やその家族に益するものになろうとは思えなかったからであろう。また、まだ真相究明が始まったばかりの段階で、傍の者がマスコミに露出して、知ったかぶってあれこれ論評することの軽薄さと無神経を、彼らが嫌悪したからに違いない。
無論、彼らだって、マスコミ取材に応じた人たち(本書著者を含む)について、「そんな立場もあり」だとはするだろうが、それにしてもやはり、感情的には「あまり良い印象は受けない」人も多かったはずで、それは著者自身も、明言こそしないものの、感じてはいたはずである。

だからこそ著者は、「私がマスコミの取材を受けたのは、京アニの、そして日本のアニメ界の未来に益すると考えたからである」と、その「公益性」をアピールしたかったのであろう。

それ自体は、嘘ではないだろうし、間違いでもないのだが、しかし、そうした条件を織り込んだ上で、それでも口を閉ざした人たちを説得できるほどの説明を、著者は本書で為し得てはいない。
「まあ、そういう意見もあるでしょうし、あなたがそこに意味を見いだすことも間違いではないのだけれど、しかしそれは、一つの立場でしかないでしょうから、それに説得されない人も多いでしょうね」というのが、著者の「立場表明」に対する私の意見であり、そしてごく常識的な反応なのではないだろうか。

ともあれ、本書著者は、「研究者」ではあっても、優れた「批評家」でないことは確かであり、「批評」的な、鋭く独自性のある「見方」を期待する向きには、本書を手に取るべきではないと助言したい。
結論としては、本書及びその著者は、きわめて「凡庸陳腐」なのである。

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〈文学〉でも「歴史」でもない。一一Amazonレビュー:福永武彦訳『現代語訳 古事記』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 7月24日(金)11時13分7秒
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 〈文学〉でも「歴史」でもない。

 Amazonレビュー:福永武彦訳『現代語訳 古事記』
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昔から、ネット右翼とは数えきれないほど、やり合ってきた。
彼らはよく「日本の伝統」ということを口にするけれど、では、その伝統にそった生き方をしているのかと言えば、そんなことはまったくなくて、ネットにへばりついた生活をしている者が少なくない。

だが、それはまだいい。彼らも現代人なんだから、現代の生活をすれば良いと思うし、そのなかで「伝統」を生かせば良い。
しかし、彼らの多くは、肝心の「歴史」を知らない。なにしろネットにへばりついていて、ろくに本も読まないからである。

私がネット右翼との数々のケンカ(と言うのも、彼らの場合、「議論」というものが出来ないのだ。彼らは「日本の伝統」について考察・検証したことはなく、ただネット上で得た、好みの情報を妄信しているだけなので、おのずとケンカになる)のなかで、特に印象に残っているのは、二十年も前、私が、あるネット右翼に「神武天皇は実在しない」というのを「常識」として告げたところ、彼が「神武天皇が実在しないという話は初耳だ」という趣旨の返答をしたことだった。

その彼は、ネット右翼の中では、ごく例外的に素直な性格の持ち主だったので、私が「歴史学的には、それが定説だそうだ」と告げたところ「知らなかった」と応えたのだが、たいがいのネット右翼なら、そう説明されても「その定説が、正しいという保証はあるのか」とか「それは左翼学者の売国的陰謀だろう」などといった、反論にもならない反論を返して、意味のない抵抗を試みるだけである。

とは言え、私とて特別に「歴史」が好きだったわけでも詳しかったわけでもない。当時の私は、教科書で習った「歴史」を、ぼんやりと憶えている程度で、神武天皇の非実在説については、「昭和天皇の戦争責任論議」や「天皇制の是非論」のなかで、たまたま目にしたにすぎなかった。
私にとって「昭和天皇の戦争責任」や「天皇制の問題」は、「同時代のリアルな問題」として無視できないものであり、それを考えるために必要な知識とは、「明治以降の歴史」で、おおむね事足りるものだったのである。

もちろん「歴史」という「暗記もの」の学校教科が好きではなかった私は、「明治以降の歴史」についても、「昭和天皇の戦争責任」や「天皇制の問題」を議論するための「基礎知識」として、必要にかられるかたちで、社会人になってから本を読んで学んだものであり、そうして「歴史」を学んだからといって、愛国主義者になるとか、好きな学説にしがみつく、などということはなかった。

もともと私は「文学」好きなので、物事というのは「事実確認(読み込み)と適正な解釈とその蓋然性の検討」の問題だと考えていたから、ネット右翼的な「自分に好都合な歴史学説を妄信する」という態度には、嫌悪しか感じなかった。
彼らは「教祖の本しか読まないで、それにしがみつく妄信者」と同じなのだが、私にすれば「他の宗教の本も読んでみろよ」とか「批判的な意見にも耳を傾けてみて、どっちにリアリティーがあるか考えてみろよ」などと思うのだが、ネット右翼と呼ばれる人たちは、そういう自己検証はまったくせず、自説を強化する同信者と群れて、そのタコツボの中で、妄信を強めていくだけだったのである。

私とっては、「歴史」は趣味でもないし、「反天皇制」もイデオロギーの問題ではなく、ただ「真相(事実)は何か」が問題であった。

「文学」ならば「好み」でも良いが、「歴史」は「好み」で選ぶようなものではない。
むろん、目の前に実在するわけではない「過去の世界」については、研究検証し解釈し、そしてまたそれを研究検証し解釈するという行為のくり返ししかあり得ない。だからそこに、おのずと「好み」の混入してしまうのも避けられないことなのだが、しかし、避けようとして避けられないのと、初めから「自身の好みの正当化」を避ける気もないというのとでは、大違いだというのは、わかりきった話のはず。だが、「妄信者」たちには、それは当たり前ではないのである。

「ネット右翼は、本を読まない」というのを、私は経験的に知っているので、時々、「あなたはそんなことを言うが、いったい何を読んでそう言うのか」と尋ねることがある。
彼らが「ソース」として「ここに書いてある」示すものは、たいがいはネット上にアップされている「保守派論壇人」の語るところのものだ。彼ら(保守論壇人)は、しばしば「学者」であったりするから、ネット右翼は、彼らの意見を「信じるに値する論拠」とするのだが、しかし、では、その学者自身が論拠としているものや、その解釈が本当に正当なものなのかまでは、ネット右翼たちは検証したりはしない。その学者の意見を構成する、原資料や論文にまで当たろうとはしないのだ。
つまり、彼らが「論拠」として示すものは、「自身で検証した学説」ではなく、単なる「好みの学説」にすぎない、ということなのである。

似たような話を、もうひとつ。
ネット右翼の多くは、決して自身を「ネット右翼」とは認めない。「ネット右翼」とは「蔑称」だと感じているのか、その呼称は「信用ならない人たち」という意味で使われていると思っているのか、そのあたりは定かではないにしろ、千人ちかくとやり合っても、自らを「ネット右翼」だと認める者は、ただの一人もいなかった。で、彼らがしばしば(特に近年)好んで自称するのが「保守」である。

そこで私は、あるネット右翼に「あなたは保守だそうだが、最近では、どんな保守思想家の本を読んでいるのか?」と質問したところ、彼は「ケント・ギルバート」だと応えた。
たぶん彼も、「小林よしのり」や「山野車輪」と答えては、格好がつかないと考えてのことなのだろう。彼らとしても、ネット以外は「マンガしか読まない(活字の本を読まない)」「マンガで済ましている」と思われるのは、論争上、好ましくない、くらいのことは考えた上で、そう答えたのだろうと思う。しかし、そこまで配慮しても、その回答が、「外国人弁護士」のケント・ギルバートなのだから、あとは推して知るべし、である。

そこで私は彼にこう返した。
「バークやオークショットまで読めとは言わないが、日本人なんだから、小林秀雄や福田恆存くらいは読んだ方がいいですよ。でないと、何の「保守」思想かということになるから」と。

 ○ ○ ○

事程左様に、「日本の歴史と伝統」などといったことを訳知り顔で語る人の「多く」が、じつはそれについて、ろくに勉強もしていない。そしてこれは、何も「ネット右翼」にかぎったことではない。

もちろん、「古代史」ファンだとか、「古典文学」研究家などは、『日本書紀』や『古事記』を、基本文献として読んでいるだろうし、「好き」だからこそ、読んでも「面白い」のであろう。
しかし、そうした「歴史文献」は、一般の日本人にとっては、決して、読んで「面白い」ものでない。「原文」は無論のこと、現代語訳で読みやすかったとしても、そこに描かれた「物語」は、現代の「歴史小説」や「時代小説」のようなエンターティンメント(娯楽作品)ではないのだから、そういうものと同様の「面白さ」を求めるのは、どだい無理な話なのだ。

そんなわけで『日本書紀』や『古事記』は、「文学として読もうと思えば、読めないこともない」文献ではあるけれども、基本的には「文学」ではない。
それは、勝ち組の「大和朝廷=天皇家」が、自分たちを正当(正統)化し権威づけるために、「神話」と「歴史的事実」と「フィクション」をこき混ぜて作った、「政治的歴史文書」なのである。

この事実は、『日本書紀』や『古事記』を、読む人が読めば明らかなことなのだが、読んでもわからない人が少なくないというのも、また事実だろう。そもそも「権威ある歴史文学」だと思い込んでいるから、「醒めた目」で、それ以外の読み方をすることのできない人が少なくないのである。

例えば、本書の解説者である山本健吉は、〈先の大戦時において『日本書紀』や『古事記』が、戦争遂行のためのイデオロギーたる「国家神道」の「論拠」であり「聖典」とされたがために、その反動で戦後はすっかり読まれなくなってしまったが、しかし、そこには、原「日本人」の心が描かれているのだから、先入観を持たずに読むならば、きっと得るものも少なくないはずだ。本居宣長は、そのことをよく教えてくれた人である。〉という趣旨のことを書いている。

しかし、読めばわかることだが、『日本書紀』や『古事記』に描かれている「日本人」とは、「天皇とその周辺の、支配者階級の人たち」だけであって、「当時の日本人」のごくごく一部でしかない。
つまり「庶民」の「心」などは、どこにも描かれていないどころか、朝廷に従わなかった人たちは、「蝦夷」だの「土蜘蛛」だの「熊襲」だのと、良くて「蛮族」で、少なからず「妖怪」「化け物」扱いにさえされたのである(歴史的なものとは言え、「女性蔑視」の酷さも特筆すべきだろう)。

つまり、『日本書紀』や『古事記』に「日本人の心」を求める姿勢というのは、きわめて偏頗なものだと言うしかない。『日本書紀』や『古事記』を「文学」として見るから、そこに有り難い「心」を読みとろうとするのだが、その前に必要なのは、これらが「政治的歴史文書」なのだという「醒めた目」なのである。

 ○ ○ ○

本書は、福永武彦による、たいへん親しみやすく読みやすい現代語訳となっており、『古事記』という書物が「いったいどのようなものなのか」を知るのに、最適な手引き書となっている。

『古事記』を、「学問」として研究する人や、「文学」として楽しみたい人は、「原文」で読むべきであろうが、「天皇家の歴史」あるいは、そうした意味での「フィクショナルな日本の歴史」が、どのようにして捏造されたのかを知るためならば、この現代語訳で充分であろう。

現代語訳でもいいから『日本書紀』や『古事記』を読んでいたならば、そして当たり前の判断能力がある人なら、「神」の血をひいた神武天皇が、実在したなどとは思わなかったであろう。
資料に当たり、事実を確かめようとしないからこそ、「願望充足的妄想」が際限もなく広がって、「宗教的な妄信」になってしまうのである。

安倍晋三・現総理も所属している「日本会議 国会議員懇談会」の政治家なども、その多くは『日本書紀』や『古事記』を読んでいるわけではないだろう。それほどの読書家は滅多にいないし、「日本の歴史」をろくに知らなくても、彼らは平気で「日本の伝統」を口にして、それを「子供たちに教えよ」などと知ったかぶりで提言したりするのである。

「げに恐ろしきは無知」と言うべきなのだ。

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自己美化という〈麻薬〉一一amazonレビュー:ヘルマン・ヘッセ『地獄は克服できる』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 7月24日(金)11時11分55秒
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 自己美化という〈麻薬〉

 amazonレビュー:ヘルマン・ヘッセ『地獄は克服できる』
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初めて、ヘッセを読んだ。だから、先入観や偏見のたぐいはほとんど無いはずなのだが、これはあまりに酷い、としか評価のしようがない。
ヘッセが、現在の読書界からは、ほとんど忘れられた存在なのも宜なるかな。けっして故なきことではないのだろう。
このように断ずる理由については、「読めばわかる」で済ませたいところだが、わからない人も少なくないようだから、多少は具体的に指摘しておこう。

ヘッセのダメな点を端的に指摘するならば、それは「最も苦しんでいる私は、最も心豊かだ」という、逆説的な「自己正当化」であり、その「ナルシシズムに由来する自己劇化」だと言えるだろう。
およそ「自己批評(自己相対化の視点)」というものを欠いた、彼の身も蓋もない「自己美化」は、めったにお目にかかれないほどのシロモノなのである。

『 人生全体を、たんに観念的にとか、何らかの文学的・美学的悲観主義からではなく、具体的に、そして実際的に、苦悩と苦痛として感じるという運命を背負った人間は少なくない。残念ながら私もそういう人間のひとりなのであるが、このような人間は、快楽を感じるよりも苦痛を感じる能力のほうが強い。呼吸と睡眠、摂食と消化といったこの上なく単純な動物的活動でさえも、彼らには満足感を与えるよりも、むしろ苦痛と疲労を味わわせるのである。けれど彼らは、それにもかかわらず、自然の意志に従って人生を肯定し、苦痛を是認し、意気阻喪をしてはならないという衝動を心に感じるので、このような人びとは、わずかにでもよろこびをもたらし、心を陽気にし、自分を幸せにし、温めてくれるものになら何にでも異常なほど夢中になる。そしてこのようなありがたいものに、普通の健康で正常な、仕事好きの人たちが与えないような高い評価を与えるのである。』(文庫版P237)

私が『「最も苦しんでいる私は、最も心豊かだ」という自己正当化』とまとめた、ヘッセの基本的な「構え」が、ここには露骨に表れているし、本書には、こんな「自己賛美」とその裏返しである「他者への見下し(ルサンチマンに由来する報復)」が、ウンザリするほどちりばめられている。いや、こんな調子が「通奏音」であり、「通奏低音」ですらないのだ。

たしかにヘッセは、苦労をしてきた人なのだろうと思う。だからこそ、その「苦労」や「苦痛」体験に、殊更な意味や価値をみずから見いだすことによって、逆説的に、実は自分こそが並外れて恵まれた「特別な人間」だと思おうとしたのであろう(観念的自己回復)。

その気持ちはわからないではないのだけれど、「苦労自慢」が恥ずかしいと感じる人間には、とうていヘッセの自制心を欠いた、鼻持ちならない「自慢話」の垂れ流しを、褒める気になどなれはしない。
こんなものを褒められるのは、会社の飲み会で若い部下を捕まえて「イマドキの若者は、苦労を知らない。苦労は買ってでもするものだし、そうすることで豊かな人間へと成長できるのだ」なんてことを臆面もなく説教したがる、今や「パワハラ親父」としか呼びようのない、度しがたく無自覚な老人たちだけであろう。
彼らは「自分のした苦労を、若い人たちにさせてはならない」というような発想を、金輪際、持つことのできない人たちなのである。

実際、こういう人たちの「鈍感さ」とは、こんな具合なのだ。

『 下準備ができたばかりのカンバスの前に立つ画家は、描きはじめるために必要な精神集中と、心の中から湧き上がる勢いがまだ不足しているのを感じる。それでも制作にかかりはじめ、疑いはじめ、いじくりまわしはじめる。そして結局、腹を立てるか悲しみのあまりすべてを投げ捨てて、自分には才能がなく、誇らしい使命をなしとげる能力がないのだと感じ、自分が画家になった日を呪い、アトリエを閉めて、気楽な仕事をしながら良心にやましさを感じることなく日々を過ごしているすべての道路掃除人をうらやましく思うことになる。
 詩人の場合、ある構想をもって仕事を始めてから、その構想に疑いを抱き、当初から感じていた偉大さがその中にないことをに気づいて不満を感じ、いくつもの言葉や何頁もの文章を線で消して書き直し、そのあげく書き直した新しい言葉や文章をまもなく火の中に放り込み、書きはじめる前にははっきりと見えていたものが突然ぼやけて、灰色の空のかなたに漂っているのを見、突如として自分の情熱と感情を、けちくさく、まがいもので、偶然のものにすぎないと思って、その仕事から逃げ出し、画家と同じように道路掃除人をうらやましく思うのだ。そして他の芸術家の場合も同様である。』(P25~26)

ヘッセはここで、画家や芸術家の「独り善がり」を責めているのではない。あえて「苦しみを引き受ける」画家や詩人といった「芸術家」を、積極的に肯定して、そんな「芸術家」の一人である自身を間接的に賛美して、「道路掃除人の苦しみや哀しみ」など、毛筋ほども想像できないでいるのだ。

そして、そんなものでしかないこの文章を読んで、それでもヘッセの、無神経でエリート意識丸出しの人間性に、なんの疑いも抱かないでいられる人というのは、もはや「どうかしている」としか、私には言いようがない。
だが、ヘッセファンはこんなものを読まされても、それでもヘッセは、彼らにとっては「権威ある、文学の神様」であり続け得るのだ。

もちろん、ヘッセに文学者としての才能がないと言っているのではない。「面白い文学」を書く人が、必ずしも人間的に優れているわけではないというのは、「当たり前の事実」でしかない。

ダメな奴だからこそ、ダメな奴の内面を、何の抑制もなく生々しく描けるというのは、確かにある。また、ダメな奴だからこそ、抽象的な理屈と観念的な理想主義で自分を美麗に飾りたて、世間の人々を「俗物」として見下し、自分を慰めるなんてことは、掃いて捨てるほどある話だ。

ヘッセのエッセイは、そうしたものを一歩も超え出ていないし、それは、彼の「悲劇的な美」を描いた小説や詩が、じつは自身を正当化し、自身を「救う」ために、止むに止まれず生み出されたものでしかないことを証し、裏づけるものともなってるのである。

無論それは、ある意味では、やむを得なかった「自己救済のための産物」だし、それで救われる人がいるのも事実だろう。しかし、芸術というものは「効用」がありさえすれば、「感動ポルノ」であっても良いとか、「感情マスターベーションの具」であっても良いとまでは言えないものなのだ。そうしたものの存在が容認され得るとしても、それは決して望ましいものではないのである。

実のところ、(前記引用の言葉に反して)ヘッセの描く、自身の「苦悩」や「苦痛」には、具体性が皆無だ。なぜならば、彼のそれは、多くの場合、その「被害者意識」に発したものであり、だからこそ「道路掃除夫」も「金持ち」もひとしなみに「能天気な俗物」として見下すことができる。

ヘッセは、「苦しんでいる人たち」や「弱い人たち」の味方などではない。彼は「苦しんでいる私」「弱い私」の味方であり、その自身の「弱さ」を逆張り的に「特権化」することで、自分を慰めている「弱い人」なのだ。
だから、いかに「人に優しく」とか言っても、実際には「愚痴」や「恨み言」に類した、他者批判ばかりが目立つのであり、だからこそ、多くの人から批判されることにもなったのである。

じっさい、医師も彼の苦しみの原因は「外にではなく、内にある」と指摘し、彼もそれを受け入れたかのような口ぶりではあったけれど、彼のそうした「受け入れ」も、結局は「自身の弱さを受け入れる私が、じつは誰よりも強い人間なのだ」という、いつもの自己正当化に転倒してしまう。

そんな彼を哀れむのなら良い。しかし、そんな彼を「立派」だなどと賞賛したがる人とは、じつのところ、著名人である彼に自分を重ねて、自分を「立派」だと自己賞賛したいだけなのではないか。

ヘッセの読者こそ、真剣に「自己懐疑と自己抑制」を考えるべきではないかと、生意気を承知であえて書かせていただいた次第である。

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『君は、自分のことを無私の革命家だと信じているだろう。確かに君は殉教の聖女を思わせる。しかし、とんでもない話だ。君の魂は傷ついた自尊心から流れ出す血と膿で溢れ返っている。なぜ君は人民を、生活者を、普通の人間たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されねばならないのだと君はいう。嘘だ。君はただ、普通に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。(中略)殉教者こそが高利貸よりも計算高く自分の所有物にしがみつくのだ。高利貸が積みあげた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫で回まわすように、殉教者は自分の正義、自分の神を舐めまわすのだ。高利貸が、財産を奪うならむしろ火刑にしてくれと騒ぐように、殉教者は自分の財産、自分の所有物である正義の方がよほど大切なんだ。喜んで火刑にもなるだろう。ギロチンにもかかるだろう。守銭奴が一枚の金貨にしがみつくように、君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ。(中略)君はなぜ怖いんだ。ほんとうの勇気があるなら認めてしまうんだ。君が、いや僕たちが、彼ら以下であるという事実を。彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。それを認めてしまうんだ。その時にこそ、微かな希望が、救済の微光が君を照らすだろう。そう、希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、バリケードの日々を昏倒するまで生きることだ。太陽を直視する三秒間、バリケードの三日間を最後の一滴の水のように味わいつくすことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬだろう。しかし、怖れを知らぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい。』(笠井潔『バイバイ、エンジェル』より)

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知らないことは恥ではない。学ばないことが恥なのだ。一一Amazonレビュー:『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』

 投稿者:園主メール  投稿日:2020年 7月24日(金)11時10分42秒
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 知らないことは恥ではない。学ばないことが恥なのだ。

 Amazonレビュー:ブレイディみかこ、松尾匡、北田暁大『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう レフト3.0の政治経済学』
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反省させられる点が多くて、とても良かった。
私は文系人間なので、とにかく数字や数式といったものが苦手で、おのずと「経済学」も敬遠しつづけてきた。しかし、政治を考え語るには、日本や世界の未来を考え語るには、そして弱者の生活について考え語るには、「経済学」の知識が必須なのは、言わば、当たり前の話に過ぎない。
しかし、そうしたものを語るのに、経済学を学ぶ人は、決して多くはない。

文系人間のご多分に漏れず、私も、社会学や歴史学や哲学や現代思想といったものについては、素人なりに勉強させてもらったのだが、こと経済学だけは敬遠してきた。
以前、数学基礎論の初歩を勉強するのに、可能なかぎり数式の出てこない解説本を探して、なんとか雰囲気くらいは掴むことができた、なんてこともあったのだが、言わばそれが私の精一杯だった。

今回本書を手に取ったのも、言わば泥縄式である。
安倍晋三政権に象徴されるとおり、現在の日本の政治的危機は、きわめて深刻である。しかし、では、安倍晋三や彼が象徴する日本の政治的現状のあれやこれやを、ただ「道義的」に批判すれば、それで現状を変えることができるだろうか? 事足りるだろうか?

ただ批判していれば満足な人は、それで良いかもしれない。しかし、それではダメだと思う人ならば、どうしたら現状を変えることができるのかを、具体的な方策として考えずにはいられないだろう。しかし、これが困難なのだ。

現在の政界を見ても「この政党なら変えてくれる」と思えるほどの存在が見当たらない。
決して、彼らの努力を軽視したり、注文を付けたり馬鹿にしたりするだけで満足しているわけではない。彼らの努力には最大限の敬意を表したいと思ってはいるのだが、しかし、彼らが今の日本の政治を変えてくれるとまで、高く評価することはできない。
現政権よりは、ずいぶんマシだろうとは思うから、支持はするけれども、彼らに任せれば安心というほどの評価をしているわけではない。相対的な評価として、彼らを選ぶしかないから、彼らを支持してきたというのが、正直なところだと言えるだろう。

そんな中、面白い存在が登場した。
それが、山本太郎という異色の政治家であり、彼が立ち上げた「れいわ新選組」という異色の政党だ。

『ele-king臨時増刊号 山本太郎から見える日本』についてのAmazonレビュー「希望としての〈山本太郎〉」に詳述したから、ここでは繰り返さないが、山本太郎の魅力とは、その「よくわからなさ」にあり、その「よくわからなさ」が、現状を変える起爆剤となる可能性を、私は彼に見た。
既成政党的な「頭数」政治ではなく、一色に染まってしまわない「個性」に力点をおいた「れいわ新選組」という政党を組織し得た、山本太郎の懐の深さと、その「異色性」に期待をしたのだ。彼なら「既成政党」的な袋小路を突き破ってくれるのではないかと感じたのである。

しかし、彼の具体的な政策案に対し、私が不安を感じたのは、「バラまき」と批判されることの多い、経済政策におけるその「財源的裏づけ」である。
たしかに、経済的困窮にある人たちを助けるのは、まずお金が必要だから、何をおいても彼らにお金を届けなければならない。しかし、この先の経済的成長が期待できそうもない日本において、本当にそんな「バラまき」をして大丈夫なのか? ウケの良いことばかり、調子の良いことばかり言ってても、いざ政権を取るなりした時に、あっさりそれが頓挫したり、撤回したりすることになれば、民主党政権への失望によって希望を失っている人たちの心に、決定的な致命傷を与えることになるのではないか。

たぶん、このくらいのことは、彼、山本太郎だって百も承知のはずなのだが、彼にはどのような「裏づけ」があるのだろうか。一一そんな疑問と懸念が、私にはあった。

そんな折、大石あきこの対談本『「都構想」を止めて大阪を豊かにする5つの方法』が、目に留まった。
大石あきこという人は知らなかったが、山本太郎との対談が収録されている。それに、私は大阪在住なので、以前から「都構想」には興味があったし、橋下徹・松井一男・吉村洋文に代表される、いかにも威張りくさった「維新の会」が大嫌いだったので、帯に刷られた「橋下知事に噛みついた元大阪府職員、初の対談集」という惹句にも惹き付けられたのだ。
購読してみると、本書には、山本太郎の経済面におけるアドバイザーである、経済学者・松尾匡との対談も収められており、松尾はそこで、山本太郎の経済政策案を支える理論を語っていた。そしてそれが、私の「常識」をくつがえすトンデモないものだったので、「もっと知りたい、知らなければならない」と思い、大石も影響を受けたと語っていた、松尾の経済政策理論を語った本書『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』を購読することにしたのである。

本書で語られるのは、これまでの日本の「経済的常識」をくつがえす理論だと言えるだろう。
正確には、「経済的常識」をくつがえして、これまで誤解の多かった「経済学的常識」を紹介するものだと言うべきかも知れない。

松尾がここ訴えている理論と、それに基づいた経済政策は、決して前代未聞のアイデアなどではなく、すでに欧米では広く訴えられており、一定の成果をあげているものである。
欧米の経済政策について詳しくない人でも、アメリカの左派で大統領候補者の一人でもあるバーニー・サンダース上院議員と言えば、知っている人も少なくないだろうし、また『ニューヨーク市ブロンクス区出身で、ブロンクス生まれの父親とプエルトリコ出身の母親を両親に持つ』『史上最年少の女性下院議員』(Wikipedia)となった、オカシオ=コルテスの名前くらいは聞いたことがあるはずだが、彼らの訴える経済政策は、松尾が語る経済政策とほぼ同じものなのである。
もちろん、彼らの政策は、アメリカにおいては実現されていないものの、同様の政策が、経済的な危機に瀕しているEUのいくつかの国では、実行に移され、実際に成果を上げているのだ。

もちろん、本書はあくまでも、政治に関わる経済学の「入門書」であり、私はあくまでも経済学の素人だから、松尾の語る理論と政策が、どれほど確かなものなのかを完全に正しく判定することなどできない。しかし「これしか残されていない」というのは、たぶん確かなことなのだと思う。

経済成長を断念したままで、経済的危機に瀕している弱者を救う道は、たぶん無い。
であれば、私たちは、この可能性に賭けてみるべきではないかと思うのだが、しかし、盲滅法にジャンプすれば良いというのでは、無論ない。
私たちは、謙虚に学びつつ、しかし、勇気を持って歩を進めなければならない。

本書には、その「第一歩」の勇気を与えてくれる、驚くべきヒントがつまっているのである。

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