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時代の子たる折口信夫の〈悲恋〉一一書評:加藤守雄『わが師 折口信夫』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時35分37秒
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 時代の子たる折口信夫の〈悲恋〉

 書評:加藤守雄『わが師 折口信夫』(朝日文庫)

 初出:2022年1月7日「note記事」

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折口信夫は「〈情〉の人」であると、私は以前のレビューに書いた。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/nddcf77ffa224

これは間違いない事実であると思う。
しかし、「情が濃い」というのも良し悪しで、「情が濃い」からこそ「可愛さ余って憎さ百倍」という、私自身まったく他人事ではないことにもなってしまう。すなわち、「情が濃い」から、人並み以上に、可愛がりもすれば憎みもする。「常識の範囲」を逸脱する。

折口信夫の弟子であった加藤守雄により書かれたこの「自伝」は、折口の「情の濃さ」が災いした物語だと言えるだろう。ただ、「可愛さ余って憎さ百倍」というわけではなく、「残酷な片恋の物語」であり、まるで『源氏物語』の描く「六条御息所」を地でいく、あまりに哀れな、折口の「悲恋物語」なのである。

 ○ ○ ○

周知のとおり、折口信夫は同性愛者であった。だから、彼の弟子になるということは、折口の同性愛の対象となりかねないということでもあった。無論、折口が、見境もなく弟子たちに手をつけたとか、お稚児さん候補を弟子にしたとかいうことではないのだけれども、人間、誰でもそうであるように、同じ内容の人間なら、見かけの良い方を選ぶだろう。これを、いわゆる「ルッキズム」だとは言えないはずだ。

そして、女性を生理的に嫌悪した「観念的に潔癖症」な折口は、生涯独身であったし、決して実生活において器用な人ではなかったから、身の回りの世話を弟子にさせることが多く、弟子を同居させもしたのである。
その結果、同居の弟子は、折口の同性愛の対象となる。また、そうなることがどうしても嫌な弟子なら、そもそも折口と同居までしようとはしなかっただろうし、同性愛に嫌悪を覚えるような人なら、そもそも、折口の弟子にはならなかっただろう。

まして、当時の「弟子」とは「親を捨ててでも、師に尽くす」というような「全身全霊の帰依」めいたものが求められた。そこまでして初めて、「師の学問」の真髄を継承することができるのだと、そういう、今で言う「精神主義」が、当たり前に生き残っていた時代であった。
だからこそ、折口の弟子になった段階で、すでに事情を知る「周囲」からは、その弟子は「折口のお稚児さん」だと見られても仕方がなかったし、そのくらいの覚悟がなくて、カリスマ的な学者であった折口信夫の弟子になど、なれる道理もなかったのである。

したがって、同居の弟子になることを受け入れた、若き著者が、やがて折口にキスを迫られるシーンで、その「思いもかけぬ展開」に衝撃を受ける、という「描写」はいささか「カマトト」ぶっていて、疑わしいと感じられた。
そのくらいの展開は、最初から予想されたことではなかったのか、と思うのだが、著者は、そのような認識はなかったし、だから深く傷ついた、というような書き方をしている。

無論、折口と加藤(本書著者)の「どちらが悪い」のかと言えば、もちろん折口の方である。
折口の加藤にしたことは、今で言うなら「セクハラ」「パワハラ」「アカハラ」の合わせ技であり、要は「学問上の地位を利用して、性的な嫌がらせをした」ということになるから、言い訳の余地など、まったく無い。

しかし、加藤の方に「尊敬する有名学者の折口先生なんだから、迫られるくらいのことが多少はあっても、是非とも特別な弟子になりたい」という思惑や下心がまったく無かったのかといえば、客観的には、極めて「疑わしい」のである。

加藤は、折口が彼を一方的に寵愛し、望んでもいないのに、就職の世話をし仕事上の便宜を図り、彼を引き立てることで囲い込もうとした、というような書き方をしている。
たしかに折口は、そのようなことをしたのだろう。だが、そうなることだって、加藤は最初から半ば予想できていたのではなかったか。

加藤がこの「自伝」を書いた時点で、折口信夫はすでに故人である。
なのに、このようなスキャンダラスな内容を含むものを、一方的に公にするというのは、「死人に口なし」で、あまりにアンフェアではないか。

無論、加藤は、折口を心から尊敬していたと書いているし、それでも同性愛を迫られることは耐え難かったから「逃げた」と書いているが、ことは「内面の問題」なのだから、これが当時の加藤の「本音」そのものであるという保証など、どこにもない。
実際のところ、加藤は上手に折口の懐に入り込んで、首尾よく良い仕事を世話してもらったのだが、思った以上に、折口が本気で鬱陶しかったから、やっぱり「割りに合わないや」と逃げ出した、という蓋然性だって十分にある。

本書にも登場する兄弟子たちは、加藤のこの自伝刊行について、どのような反応を示したのだろう。
私はそのあたりに詳らかではないが、普通なら、加藤を「恩を仇で返した、心ない恩師誹謗者」として断罪したことだろう。

だが、折口と加藤の場合、兄弟子たちは「こうなることが、あらかじめわかっていながら」、あえて加藤を「人身御供」として「神」に捧げたも同然なのだから、その「後ろめたさ」から、加藤がこのような自伝を書いたところで、表立って非難することは出来なかったはずだ。
そんなことをすれば「あなたがたは、こうなることがわかっていながら、そのあたりの事情を口に緘したまま、私を先生の下へ送り出したのではなかったのか。私を先生の犠牲にする気で、そうしたのではなかったのか」と反論されるのは目に見えているからで、そう言われた場合「こんなことになるとは、想像もしなかった」などという白々しい言い訳が、事情を知る、折口信夫周辺の学会で通用しないことも、明らかだったからである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、憐れなのは折口信夫である。

好きで同性愛者になったわけではないのだし、周囲も、折口が同性愛者であることを知っていて、それでも進んで近づいていった人たちである。
無論、折口の同性愛者の部分に近づいたのではなく、学者としての部分で近づいたというのは間違いないにしても、最低限「折口の同性愛に、一定の理解がある」人間として近づいたはずなのだ。
だから、折口の方だって「もしかしたら、私の愛を理解してくれるかもしれない」と期待したというのも、わからない心理ではないし、まして「魅力的な弟子」が目の前にいれば「性的な欲望」と、それに伴う「恋愛妄想」が駆動してしまうというのも、「脳科学」的に見て、致し方のないところであろう。「恋愛感情」や「性欲」というのは、自然本能であり、理性だけで完全にコントロールすることは不可能なのである。

それでも、異性愛であれ、同性愛であれ、相手のいることなのだから、相手の意思確認は必要であり、相手が拒絶するのなら、それ以上、無理強いするようなことは許されないし、事実、折口は加藤に、それ以上は迫っていない。最初に迫って拒絶された後は、師と弟子という距離で付き合おうと努力したのである。

だが、好きな相手と同居しておれば、そうした理性のブレーキが、いつまでも続くわけがない、というのも知れた話であろう。折口にしてみれば「あの時は、初めてのことだったから驚いたのであろうが、そろそろ私の気持ちをわかってくれて、受け入れてくれるのではないだろうか。そうでなければ、あの後も、今のようにずっと同居をしてくれるわけがない。きっと、憎からず思ってくれているはずだ。あの時は、世間の常識に反した同性愛に、恐れをなしただけだったのではなかったか」などと考えても、まったく不思議ではない。おおよそ「恋する者の心理」というのは、しばしばこのように「ご都合主義的」なのである。

じっさい折口信夫は、加藤が同居する前から、一部の弟子との肉体関係のあった実践的同性愛者なのだから、「お手つき」になるのをいったんは断ったとしても、折口の気持ちが変わらないということくらいは、大人ならわかるはず。それでも、ズルズルと同居を続けたのは、加藤の側にも非があるとは言えまいか。
どうしても嫌なら、出ていけば済むことだったのに、先生に頼まれると断れないとかなんとか、自身の「優柔不断な態度」を自己正当化して、全責任を、故人である折口に押し付けるというのは、あまりにも卑怯なのではないか。

だからこそ、私は本書著者・加藤の「言い分」を、とうてい鵜呑みにはできないのである。
アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』ではないが、本書は一種の『折口信夫殺し』なのではないかと疑うのだ。

 ○ ○ ○

折口信夫の時代とは違い、現在では「性的マイノリティー」に対する偏見は、かなりのところ是正されていると言えるのかもしれない。
しかし、それは「偏見はいけない」という良識が広まったというだけで、すべての人が「両性愛者」になったというわけではない。

ということは、同性愛者を、同性愛者であるという理由だけで忌避したり差別したりはしないけれども、だからと言って「同性愛の対象として見ることを許してくれる」というわけではないだろう。
本来ならば「同性愛の対象として見ること」自体は、その同性愛者の勝手なのだから、許すも許さないもないことで、ことが実際の「個人的な交際関係」を求められた段階で「それは、私の性的志向には合いませんから、そういう意味での交際はお断りします」というかたちになるべきであろうし、そうならなければならない。

しかし、現実の問題としては、「私は同性愛者を差別しませんよ。それは彼らの自由ですから」などという人の中にも、自分が「同性愛の対象として見られる」ことに「嫌悪」を覚える人は少なくないだろうし、「そのような目で見る」こと自体が「気持ち悪い」とか「セクハラだ」などという人も、決して少なくはないのではないだろうか。
つまり、「LGBTQ」への差別が社会的に批判されることで、「性的マイノリティー」への「偏見」は相対的に薄れたと言っても、やはり「生理的嫌悪」という部分では、大きな違いはないのである。

この、加藤守雄による『わが師 折口信夫』を読んでも、やはり折口信夫は「可哀想な異形」にしか見えない。

たしかに折口にも、自分の「学問的地位」に甘えて、それを利用した部分があるし、それは批判されてしかるべき部分ではあろうが、しかし、その時代背景を考えれば、折口のような態度も、ある程度はやむを得なかった、まさに「時代的な制約」だったのではないだろうか。

結局は、折口信夫ほどの「天才肌の学者」であり「非凡な知性」を持った人であっても、「性愛」という「脳科学的本能」には勝てなかった。勝てなかったが故に、その「感情」に振り回されたあげく、つらい思いをし、恥をかき、辱められることになってしまったのである。

もしも、折口信夫が「性的に淡白」であり「情に薄い個人主義者」であったなら、彼は、このように苦しみ、辱められることもなかっただろう。

だが、彼の「非凡な情の濃さ」が、彼の「非凡な学問」を支え、その抗いがたい「呪力」となっていたことも事実であろうから、「歴史にifはない」というのは、残念ながら、そのとおりなのであろう。


ともあれ、本書全体に漂う「偉大な折口信夫に、一方的に愛された私」という「ナルシシズム」が、私には気になってならない。
加藤が折口から「逃げた」のだって、それは追いかけられることを確信しての「その愛を確かめるためのポーズ」という部分があったのではないか。
だからこそ、折口が死んでしまい、決して追いかけては来ないことが確定すると、いつしかその「寂しさ」から、「追いかけられる私」という物語を、これ見よがしに公にしなければ、気が済まなかったということではないのか。

折口が同性愛者であったことは、周囲の者には周知の事実であり、そうした事実は、いずれ公になるだろうけれど、その個人的な部分を、「愛された私」という物語に仕立てて、いわば「折口信夫の愛」を独占するというのは、あまりに欲深く、思いやりに欠けるのではないか。
そこまでしたいのなら、生前に、折口の思いに応えるべきであったし、それをしなかったのなら、その個人的な思い出は、墓場まで持っていくべきだったと、私は非難を込めて、そう考えざるを得ないのである。



(2022年1月7日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

 

言葉のおろそかな〈文筆業者たち〉:綾辻行人・知念実希人の事例 一一書評:古田徹也『いつもの言葉を哲学する』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時34分36秒
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 言葉のおろそかな〈文筆業者たち〉:綾辻行人・知念実希人の事例

 書評:古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)

 初出:2022年1月6日「note記事」

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私はしばしば皮肉として、「読める読者なら」とか「文学の世界では」という表現を使う。

「読める読者」とは、「音読なり黙読なりで、文章を読むことができる(だけ)」の「読者」のことではない。「読める読者」の、「読める」とは「その言葉の意味するところを、ニュアンスまで読み取れる」ということを意味し、「読者」の方は、それ以前の「行為としての読む」をする主体、を意味している。
つまり「読める読者」とは、その言葉や文章を書いた、あるいは発した者が「意図したところ」をおおむね正しく「読み取れる」読者のことであり、決して、単に、その言葉を、音読なり黙読なりできる(形式的になぞるだけ)の者を指しているのではない。

こうしたことは、ここまで馬鹿丁寧に説明するまでもなく、「読める読者」にとっては、あまりにも分かりきったことなのだが、その「当たり前」のことのできる読者が、いったいどれだけいるのかというと、現実は、かなり心もとないものなのである。

例えば、私が皮肉で「あなたは、読めない読者だな」と言ったとすると、その「読めない読者」は、「そんなことはない。その言葉の意味は、こうでしょう」と「字づら」について語ったりする。「私はその言葉、現に読むことができますよ」と、切り返しの皮肉ででもあるつもりなのか、「ほら、読んだ」とばかりに「音読(字づらをなぞることを)」して見せたりするのだ。一一これが「読めない読者」。私の言う「馬鹿」である。

くり返すが、こんなことは「読める読者」には説明するまでもないことなのだが、このように懇切丁寧に説明しても、「読めない読者」には、やはり理解してもらえない。なぜなら、その人は「読めない読者=ニュアンスの読み取れない読者=頭を使わない読者」だからである。

だから、私はそういう「読めない読者」に対する皮肉として「それは、文学の世界で言うところの、読める、ということではないんですよ」と言ってみる。つまり、その人は「文学の世界」の住人ではなく、「読解力=意味を読み取る」というのが当たり前ではない、「文章読み上げ機能つき計算機」の世界、つまり「知能を持たない」に等しい世界の住人でしかない、という皮肉を差し向けるのだ。
だが無論、「読めない読者」には、こんな高度な皮肉など「理解できない」。ただし「ニュアンス」だけは伝わるから、それで十分なのである。

 ○ ○ ○

本書著者は、言語哲学でも有名なヴィトゲンシュタインの研究者だが、本書の内容はタイトルどおりで、「日常的な言葉」の問題を、ごく真っ当に懇切丁寧に検討したものである。

これも、言うまでもないことだが、『哲学する』とは、「ごく真っ当に懇切丁寧に検討」するということであって、「ジャーゴンを使って、小難しい議論めいたことをすること」が「哲学」なのではない。
例えば、「読めない読者」とは何か、という問いに対して、「音読や黙読ができない読者」であるとか「字づらの意味も取れない読者」である、といった説明で満足はせず、「読めない読者」という言葉が孕んでいる「皮肉」のニュアンスを、正しく読み取ろうとするような行為を、「哲学」すると言う。

この説明が難しければ、別のたとえをしてみよう。
「愛する」とは何かという問題について、「好きになる」とか「大切に思う」という回答は、間違いではないけれど、「愛する」を「哲学」したことにはならない。
「愛する」を「哲学」するとは、その言い換えである「好きになる」とは、そもそもどういう意味か、「大切に思う」とはどういうことなのか、あるいは、なぜ「好きになる」のか、なぜ「大切に思う」のか、といったふうに、単なる「言葉の置き換え」に満足するのではなく、徹底した「言葉の置き換え」によって「そうした多様な言葉たちの間」から浮上してくる意味、より深い次元での意味を、見出そうとする作業なのだ。

だが、こういう作業は、一般には「面倒くさい(だけ)」とか「無意味」とまで思われがちだ。
「好きは好きでいいじゃない。嫌いは嫌いでいいじゃない。面白いは面白いでいいじゃない。どうして、そんな小理屈をこねて、利口ぶる必要があるの」という反発は、ごく常識的な「俗情」だ。

どうして、こうした「反発」が返って来やすいのかと言えば、それは「哲学者ぶろう」として、無意味に難解な言葉を弄するだけの「哲学できない人」が少なくなく、おのずとそうした人は目に立つので、「哲学」に興味のない人、あるいは「哲学」ができないが故に「哲学コンプレックスを抱えている人」は、「哲学」を、そういう「無意味に難解な言葉を弄するだけ」の行為だと、敵意を持って誤解しているからである。

しかし、その結果は、多くの人は「言葉を吟味する」ということをしなくなってしまった。
「字づらの意味」だけで十分だ、と考えるようになり、さらには「字づらの意味」すら必要なく、ただ、形式的な記号の交換としての「コミュニケーション」さえ取っていればそれでいい、ということになってしまっている。
「言葉」に「意味」を必要としなくなっている人たちによる、「内容のないコミュニケーション」が行われ、むしろ「内容のないコミュニケーション」だからこそ「楽だし、安心だ」などと考えられてしまう事態に、すでに立ち至ってしまっているのだ。

言うまでもなく、これは極めて危険な兆候である。
だからこそ本書著者は『いつもの言葉を哲学する』必要を認め、それを実践して見せたのが、本書なのだと言えよう。

 ○ ○ ○

本書第二章「規格化とお約束に抗して」の第5節「「批判」なき社会で起こる「炎上」」の、「「炎上」という言葉ですべてを塗りつぶす前に」という見出しのところで、著者は次のように論じている。

『 同調と攻撃の間の中間領域が確保されにくく、「批判」という言葉が本来含んでいた「内容の吟味」、「物事に対する批評や判断」、「良し悪しや可否をめぐる議論と評価」といったものがおろそかになりがちな現状は、「炎上」という言葉の現在の用法にも通じているように思われる。
「炎上」はいま、各種のメディアで発信された誰か(特に有名人や公人)の言動に対して、ネット上で非難や誹謗中傷が殺到することを指す言葉ともなっている。問題は、当該の言動が筋の通ったものや正当なものであろうとも、逆に、筋の通らないものや不当なものであろうとも、どれも等し並みに「炎上」と呼ばれる、ということだ。ある差別を告発する勇気ある発言をターゲットに、差別主義者たちが罵詈雑言を集中させることも「炎上」と呼ばれるし、とても看過できないひどい差別発言に対して、その問題を指摘する真っ当な声が多く寄せられることも、同様に「炎上」と呼ばれる。そして、何であれ炎上してフォロワーが増えて良かった、チャンネルの登録者数やオンラインサロンの会員が増えて良かった、ということも平然と言われたりする。そこでは、火の手の大きさや、それに伴う熱量の多さが、物事の真偽や正否や善悪にとって代わってしまっている。
 マスメディアで頻繁に用いられている「賛否の声が上がっている」という類いの常套句も、問題になっている事柄の内容をさしあたり度外視して、熱量の上昇のみに言及できる便利な言葉だ。どちらかの道理に明らかに分がある場合にも、また、賛否どちらかの声の方が圧倒的に優勢である場合にも、「賛否の声が……」と表現しておけば、旗色を鮮明にせずに済むし、自分の言葉に責任をもつ必要もなくなる、というわけだ。
「炎上している」とか「賛否の声が上がっている」といった言葉によって物事をひとまとめにしてしまうのではなく、具体的な内容を「批判」する行為が、メディアでもそれ以外の場でも、もっと広範になされる必要がある。そして繰り返すならば、それは必ずしも否定的な行為だとは限らない。賛意を示すのであれ、あるいは難点を指摘するのであれ、人々がともに問題を整理し、吟味し理解を深め合っている場こそ、本来の意味で「批判」が行われている、建設的な議論の場なのである。』(P130~137)

例えば、先日来、再々採り上げている「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」による炎上事件も、この類いの話だと言えるだろう。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n404160e52e3c


この問題を採り上げた、上の記事「豊崎由美の〈正直さ〉を断然支持する。:飯田一史の「俗情との結託」をメッタ斬り!」にも書いたとおり、たしかに豊崎由美の「言いっ放し」的な批判にも問題はあるけれど、それに対してなされた「有象無象による批判」というのは、まさに「読めない読者」たちによる「字づらの批判」でしかない。
そして、これは何も「無名の有象無象」たちだけの話ではなくて、例えば、ミステリ作家の綾辻行人は、

『小説を読んだ。面白かった。それをみんなに伝えたい。TikTokで紹介した。興味を持って多くの若い人が読んでくれた。……出版界の損得の問題とは別に、これってとても素敵なことだと思うのですね。(2021-12-11 19:01:22)』

『若いころに読んで面白かった本は一生、心に残るものです。大人になってたくさんの本を読んで「物知り」になってからの読書とは、まるで鮮度が違う貴重な体験でしょ。そのきっかけが、同じ若い読者の視線で語られたTikTokの動画であることの、どこがいけないのかしら。……などと。(2021-12-11 19:08:19)』

まさしく「などと」いう、いかにも「何も考えていないポピュリスト」らしいツイートをしている。
『大人になってたくさんの本を読んで「物知り」になっ』たおかげで「より深い読書の喜びを知った人」にコンプレックスでもあるらしい「子供のまま=非・幼形成熟」の綾辻は、豊崎の「文学の今」をめぐる危機意識が、まったく理解できないのだ。

これは、綾辻行人という小説家自身が、単純に「読めない読者」の一人である、ということに他ならない。
つまり、綾辻としては「面白いものを面白いと言って、何が悪いの?」ということなのだが、この人は「面白いとは、どういうことなのか?」「面白い作品とは、どういうものなのか?」ということを、ろくに「考えたことがない」ということなのだ。

綾辻行人が「面白い」と思う作品を「つまらない」と思う読者もいるし、逆に綾辻行人が読もうともしない本を読んで、豊崎由美が「面白い」という場合なども当然想定され、そのような場合の「意味」も、当然吟味されてしかるべきなのだが、「向こう三軒両隣」に視野の限定された綾辻は、おのずと「面白いものは面白いでしょ」止まりなのである。
そして「売れっ子作家には、そうした自己中心的に呑気な横着さが許される」と、無自覚にも、そう思い込んでいるのだ。だから、適切に「他者」を想定できないのである(例えば、裕福なオリンピック参加選手が、オリンピック開催でコロナ死する人のことを気にしないのと同じである)

私が前記の記事で書いたとおり、「子供舌」でもわかるような「駄菓子のようなエンタメ小説」もあるけれども、「子供舌」では味わいきれない「繊細高度な小説」も、事実として存在するのであり、そうしたものの存在は、「流行りのTikTok」によって、にわかに注目され「理解」されるような、そんな「お易いもの」ではない(たとえば、筒井康隆の『残像に口紅を』は、にわかに売れたが、「理解」されたわけではない)。
だが、それが、綾辻行人という(昔で言う「勝ち組」の)「通俗小説家」には、まるっきり分からないのである。「売れる→理解された→正しい」という「幅のない一直線思考」なのだ。

他に、この件で豊崎由美を批判した作家に、綾辻行人が、その近作『硝子の塔の殺人』に推薦文を寄せた、ミステリ作家の知念実希人もいて、

『批評には最大限の敬意を払います。
しかし、読書の楽しさを試行錯誤しながら、無償で若い世代に伝えて下さっていた若者に対し、
いきなりプロの書評家が、彼が一生懸命語ってきた小説への愛を『杜撰』と切り捨て、心を傷つけて活動停止に追い込んだことを理解できるわけがありません。(午後0:32 ? 2021年12月12日)』

「などと」ツイートしているが、この『医師家系四代目』(https://career-lab.m3.com/categories/case/series/case/articles/62)の「人気作家」は『芥川賞を受賞した台湾の作家・李琴峰に対し、医師でミステリ作家の知念実希人が差別的発言をして謝罪するという事件が9月初旬に起こった。知念の謝罪を李が受け入れて和解が成立』(https://news.yahoo.co.jp/articles/48e4c7c404d144cb472014054660860587346d24)したとかの件で、話題になったばかりの、ネトウヨ「ミステリ作家」である。

下手をすれば作家生命にも関わる大騒ぎになったから、やむなく謝罪したも同然の(人権派弁護士の懲戒要求を日弁連に大量送付し、逆に提訴された途端に謝罪したネトウヨを想起させる)知念が、綾辻行人と同様に、けんごなどのTikTokerに褒めてもらう側の「エンタメ作家」として、豊崎由美をこのように批判したというのは、いかにも「読めない読者=物を考えていない人」らしくて、納得しやすいところだろう。

知念の場合、よくもまあ、自分のことを棚に上げて言えたものだと思うが、こういう「読めない読者」には、豊崎が「何を危惧し、何を批判したかったのか」なんてことを読む取る能力などカケラもないし、そういう人でも「エンタメ・ミステリ」なら、純粋に「技巧」の問題として書ける、ということなのであろう(要は、今どきのミステリは「売れてなんぼ」「ウケてなんぼ」なのだ。ミステリ作家には社会的責任なんて、あんまり無い、のであろう)。

ともあれ「売れっ子の、プロの小説家」にしてこれなのだから、その読者が、こうした「エンタメ小説家の小説」だけを読んで、加齢とともに「読める読者」になる、なんてことは、論理的にあり得ない。
それどころか「甘い駄菓子」ばかり食べていた読者は、虫歯で歯がボロボロになって、「咀嚼能力」すら失ってしまうのである。

そしてその結果が、先日書いた「一億総〈ぴえん〉化日本」における、それに見合った読書界、ということになろう。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n6fb42b796fcc

もう、この日本では、「読める読者」は絶滅危惧種であり、「読める読者」を育むことのできる「歯ごたえのある小説(文学)」に陽のあたる機会など、ほとんどない。だからこそ、豊崎由美のような書評家でも「焦った」のである。

しかしながら、ナチス政権下のドイツで「ヒトラーなんか賛嘆しているやつは馬鹿だ!」なんて、本当のことを言ってしまっては、袋叩きになるのは当然で、それこそ知念実希人ではないが「職業ライター生命の危機」とならざるを得ない。
また、だからこそ豊崎の方も、心にもない、形式的な「謝罪めいたこと」をツイートしたのであろうが、これが今の日本の「エンタメ読書界」の現実である。

いつも引用するシオドア・スタージョンの『SFの90パーセントはクズである。──ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』ではないが、小説読者の90パーセントは「読めない読者」であり、「小説出版の世界で食っている人」など、所詮は「読めない読者」に食わせてもらっているも同然なのだから、その「頭の悪い人々」に「あなたは頭が悪い」なんて「頭の悪い」ことを言うのではなく、(大森望のように)適当に煽てながら、本音を読まれないようにしつつ、読者を「教導」していくしかないのである。それが嫌なら、「馬鹿」に食わせてもらうような仕事などしないことだ。

事ほど左様に、「読める読者」は、この「終わっている世界」と、どう付き合っていくかを考えなくてはならない。
綾辻行人や知念実希人のように、「読めない読者」であり、かつ「成功者」は、何も考えなくても生きていけるだろうが、「読める読者」は「駄作を駄作」「駄菓子を駄菓子」「馬鹿を馬鹿」「醜いものは醜い」と、嫌でも読み分けてしまうのだから、その現実と否応なく格闘しなければならない。

無論、ナチスに加担した多くのドイツ国民のように、造作もなく大勢に順応することのできる者は、恥知らずにそうするだろうが、それがみっともない行為だと「読めてしまう読者」の場合は、この「終わっている世界」との距離を測りながら、際どく乗り切っていくしかないのである。

 ○ ○ ○

『いつもの言葉を哲学する』という場合に、この「いつもの言葉」が、おおかた「ロクでもないもの」にしかなっていない現状(例えば「エンタメ読書界の現状」)に、私たちは生きている。だからこそ、そんな「無内容かつロクでもない言葉」の奔流に、無自覚に巻き込まれて、感染しないように、「哲学する=言葉を吟味する」しかないのであろう。
すでに周囲は、ゾンビに囲まれているとしてもだ。

少なくとも私個人は、金輪際「脳の活動が止まったゾンビ」など、なりたくない。
だから「哲学」するのである。


『 今日の世のありさまは、ずっと昔、宗教が生まれかけたころのことを思い出させる。現代の社会は面白いほどに原始社会に似ているということじゃよ。たとえば民主主義の政府には同じような権力の集中がある。上部とコネがあると称する君たちの仲間の一部には支配階級にのし上がろうとする者もいるだろうがね。君たちは大昔と同じように、ありふれた名前や、平凡な血統に神秘的なたわごとをくっつけて偉人、傑人をつくり出す。性の問題では君たちの女も大昔同様に尊敬されすぎ、都合のいい神聖の檻の中にとじこめられ、重要な問題は男性の手ににぎられてしまう。君たちは節食やビタミンを崇拝して原始時代の食物のタブーに逆戻りさえしている」
 プロメテウスは、エラリイがガタガタふるえている夜明けの冷気も感じない様子でつづけた。
「しかし、もっとも興味ある類似点は君たちの周囲にたいする反応のしかただ。個人でなく、群衆が思考の単位だ。そして、昨夜の不幸な出来事で実証されたように、群衆の思考力はきわめて低い次元のものだ。君たちは無知でいっぱいだ、無知はひどい恐怖を生む。君たちはほとんどあらゆるものを恐れているが、いちばん恐れているのは現在の問題に直接向いあうことだ。だから、すぐに伝統という高い魔法の壁の中により集まって、指導者たちが神秘を勝手に操作するのを許すことになる。指導者は君たちと未知の恐怖の間に立つわけじゃ。
 しかし、ときには権力の司祭たちが君たちの信頼を裏切ることがある。君たちは突然、未知のものと直接、顔を合わせなければならなくなる。君たちが救済と幸運をもたらしてくれると頼りにしている指導者、生と死の不可思議から君たちをまもってくれる者は、もはや君たちと恐るべき暗黒の間に立っていない。周囲をかこんでいた魔法の壁は崩れ落ち、君たちは奈落のふちに取りのこされて立ちすくむ。
 そういう状態にあるときに、ただ一つのヒステリックな声が、ただ一つのおろかなタブーの叫び声が、何万もの人びとを震えあがらせ、逃げ出させたとしても何の不思議があろうか?」』
 (エラリー・クイーン『九尾の猫』』



(2022年1月6日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

 

ゴジラの海・ウルトラの星 一一書評:『ユリイカ 2021年10月号 特集◎円谷英二 特撮の映画史・生誕120年』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時33分15秒
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 ゴジラの海・ウルトラの星

 書評:『ユリイカ 2021年10月号 特集◎円谷英二 特撮の映画史・生誕120年』(青土社)

 初出:2022年1月4日「note記事」

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『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が監督を務めた『シン・ゴジラ』が公開され大ヒットしたのは、2016年のことだ。あれから、すでに6年。
一昨年公開予定だった、同じく庵野秀明監督作品『シン・ウルトラマン』の公開が、コロナ禍のために今年(2022年)にずれ込んだせいで、今年は『シン・ウルトラマン』に加えて、同じく庵野が監督を務めた『シン・仮面ライダー』も公開される(予定だ)。一一これで庵野秀明は「日本の三大特撮作品」を制覇したことになる。これはもう偉業と言っても過言ではないだろう。

さて、この「日本の三大特撮作品」のうち2作品、「ゴジラ」と「ウルトラマン」を創ったのが「円谷英二だ」と言っても、ひとまずは良いだろう。
「ひとまずは」というのは、「ゴジラ」にしろ「ウルトラマン」にしろ、円谷英二が一人で作った作品でもなければ、もとよりデザインしたわけでもないからだ。

ゴジラ映画の一作目である『ゴジラ』では、円谷英二の肩書きは「特殊技術(特技監督)」で、監督は本多猪四郎であった。また、『ゴジラ』のモチーフを大筋で決めたのはプロデューサーの田中友幸であり、この三者に小説家の香山滋が加わって、ゴジラはかたちを為していったと良いだろう。
ちなみに、ゴジラの「造形」は、複数スタッフによるものであり、そのため「デザイナー」という肩書きの人物は存在しなかった。

一方、『ウルトラQ』に始まる「ウルトラ」シリーズについては、円谷英二は最初から「監修」という肩書きであった。テレビシリーズであり、各話の担当監督が現場での制作を進めていたため、英二は統括的に作品のチェックをするという立場であったが、かなり細かくリテイクを出していたようだ。今なら「総監督」と呼ばれたのかもしれない。
もちろん、ウルトラマンの造形デザインは、成田亨である。

このように、「ゴジラ」や「ウルトラマン」を「円谷英二が作った(創った)」という表現は、あまり正確なものとは言えない。より正確に言うなら、円谷英二は、「ゴジラ」については「ゴジラという架空の生物に、命を吹き込んだ」という感じだし、「ウルトラマン」ついては「円谷英二ひきいる円谷プロが作った(創った)」ということになるのではないだろうか。

つまり、私たちが「円谷英二が、ゴジラやウルトラマンを創った」とか「ゴジラやウルトラマンを創ったのは、円谷英二である」などと言う場合には、円谷英二は「ゴジラ」や「ウルトラマン」を作った人々を「代表」し、さらに「象徴」する存在として語られているのであり、一人の(個人としての)「映画人」あるいは「クリエーター」として語られているのではない、と言えるだろう。
つまり、私たちは多くの場合、円谷英二を「特撮の神様」として、なかば神話化されたかたちでイメージしているのである。

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本誌『ユリイカ』2021年10月号「特集◎円谷英二 特撮の映画史・生誕120年」は、円谷英二という「人間(個人)」であり「クリエーター」を、記事執筆者それぞれの角度から、多角的に追った「個人」特集だと言えるだろう。
つまり、今回の記事の多くは、「特撮の神様」である円谷英二を紹介するものではなく、円谷が「特撮の神様」になるまでの「人間の軌跡」と、なってからの「人間の軌跡」を描いたものだと言えよう。

円谷英二その人を「研究」すれば、自ずと見えてくるのは「一人の人間」としての円谷英二であり、「特撮の神様」という側面を論じるにしても、それは「一人の人間」が「神様」とまで崇められるに至った、その「非凡な功績」を紹介し讃えるものであって、「特撮の神様」という「神話」を、そのまま「事実」として伝えるものにはなっていない。
だから、勉強にはなるし、円谷英二の「偉大さ」を改めて確認することもできる反面、「夢は夢であった」という一抹の寂しさも禁じ得なかった。

例えば、庵野秀明という「クリエーター」であり「個人」を研究した場合、そこには「非凡な才能を持ちながらも、創作の苦しみのたうつ、人間らしい弱さ」が見えて、そこにドラマティックな「人間的魅力」を感じることができる。

しかし、円谷英二の場合は「カメラマン」出身であり「どう見せるか」にこだわり続けた人で、必ずしも「一つの世界を丸ごと作り上げる」という意味での「作家」ではなかったようだ。
どこまでも「効果的に魅力的な絵」を撮るために努力し続けた「映像作家」であり「映像職人」であって、「作品世界の創造」そのものにおいて、庵野秀明のように悩んだという形跡は窺われない。あくまでも「面白い映像世界」をクリエイトしたかったのであって、「世界」を作るための「映像」ではなかった。

一一こう書くと誤解されやすいだろうが、要は、円谷英二は「作品世界」を「より効果的かつ魅力的に見せる」ために「絵を創った」からといって、それで「作品世界が主で、映像は従」だったということではない、という話だ。

たしかに「作品作り」においては、「作品世界」が主であり、それをいかに効果的に表現するかという観点から、円谷は「絵を創った」のだが、しかし、そもそも円谷は「魅力的な絵」を必要としないような作品には興味がなかったはずだ。円谷は、カメラマンとして普通映画を撮っていた時にも(映画以外の映像作品でも)「どのように見せるのが効果的か」ということを考え、その点であらゆる撮影技術の開発に余念がなかったのであり、それが後年の「特撮」へと発展していくのであって、決して映画作品の「作品世界」そのものを、丸ごとどうこうしたかったわけではないのである。そして、そうした意味では、円谷英二は、最初から、限定的に「絵の人」だったのだ。

したがって、円谷英二には「映像における技術的方法論を追求した職人」という性格が色濃く、その点で「(総合的な)作家」性の強い庵野秀明とは性格を異にしており、庵野のような「悩み方」はしなかった。円谷英二が悩んだとしても、それはもっと具体的で技術的な側面における悩みだったのである。「予算が少なくて、思うような絵が撮れない」といった悩みまで含めてだ。

だから、本特集号を読んで、円谷英二という「人」を知ることはできたが、正直「夢」を覚まされた(冷まされた)という感じがないでもない。
しかし、それでも円谷英二は、「作品」を通して「夢」を与えてくれた人なのだから、当人までが「夢の存在」である必要はないだろう。また、円谷自身、自分が「神」になろうとか「夢の存在」になろうなどと考えはしなかったはずだ。

彼はただ、自分の「美意識」に愚直に生きた人なのだろう。その熱意が「作品」にこもって、見る者をその「夢幻郷」へと誘い込み、勢い余って円谷本人まで、果心居士のごとき「夢」見の対象とさせるに至ったのである。

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さて、昨今の「ウルトラマン」や「仮面ライダー」のテレビシリーズを視ていて物足りないのは、どこまで行っても、それらの作品は「子供向け」であり、「大人が自分の美意識の全てをかけて撮っている」とはとうてい思えない、堅実なルーチンに堕しているように感じられる点だ。

たしかに、この商業主義の時代に「テレビシリーズ」を撮り続けるというのは極めて大変なことであり、数多くの縛りがあってのことなのだろうとは思う。それに、個々の作品には、それなりの「苦労」や「工夫」や「心意気」を感じる部分もあって、一概に否定する気はないのだけれど、しかし、今のままで良いとも思わない。

どうして、本来アニメ畑の人であった庵野秀明が「日本の三大特撮作品」を制覇する、などという「屈辱的」なことになってしまったのか。どうして、外から才能を招かなければ、現状を変えることができなかったのか。
中にいるからこその「縛り」が、きっとあったのだろうとは思う。しかし、庵野秀明という「黒船」の来襲があったればこそ、日本の「特撮」界は、変わるための契機を得た、とも言えるのではないだろうか。

もちろん、庵野秀明の『シン・ウルトラマン』『シン・仮面ライダー』には期待しているが、そこに止まるのではなく、庵野と同様「円谷英二が見せてくれた夢」を引き継ぐ才能が、特撮関係者の中からも陸続と産まれてくることを期待したい。
きっと、これまでにも、生まれ損ない潰れていった才能はいたはずだと、私は思う。だから、そうした才能が芽を吹かせ得る環境が、特撮の世界にも生まれてほしいのだ。

無論、そのためには、ゴジラの海やウルトラの星からやってきたような「小手先の才能だけではない才能」の登場が必要だとしてもである。
私は、大人になった今でもまだ、「人間の壁」を突き破ってくる、異形の姿を目の当たりにしたいのだ。



(2022年1月4日)

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一億総〈ぴえん〉化した日本 一一書評:佐々木チワワ『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時29分47秒
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 一億総〈ぴえん〉化した日本

 書評:佐々木チワワ『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』(扶桑社新書)

 初出:2021年12月31日「note記事」

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「ぴえん」という言葉が目を惹いた。見たことも聞いたこともない言葉だが、どうやら例によって、流行中の「若者言葉」らしい。で「ちょっと勉強に読んでみるか」と読んだところ、抜群に面白かった。

しかし、これは誰が読んでも面白いという話ではない。私が昨今、引っかかっていたこと、それに発する問題意識にピタリとハマった内容だったため、「目から鱗」の面白さだったのである。

どういうことかというと、例えば、今年「note」を始めてから何度か言及していることなのだが、「note」に「投げ銭」みたいなシステムがあったり、ど素人の文章に「課金」が設定されていたりといった、私に言わせれば「プロのライターごっこ」みたいなもの、あるいは「フォローをお願いします」みたいな「パトロン乞食」みたいなことを恥じない様子が、私にはじつに気持ち悪かった。

カネももらうのなら、プロになってからしろよ、というのが私の感覚だし、そもそもカネをもらうのなら、もらうに値する「中身のある文章」を書けよ(書けるように努力しろよ)と思うのだが、どうも「note」利用者の少なからぬ人が、そこに何の疑問も感じずに「どこかで聞いたような話(無料記事)の二番煎じ」を垂れ流していること、その域を出ていないことに、自覚もないから抵抗もないらしい。私は、そんなところに「違和感」を感じ続けていたのである。

じつは先日、フォロワーなのかそうでないのかも知らない方から、サポートとして500円を送ってもらったのだが、私はそもそも「サポート」というものがよくわかっていなかったし、ネットにアップした文章でお金をもらおうなんて思ったことがなかったので、その方へはお礼を述べた上で「でも、知らない方からお金をいただくのは落ち着かないので遠慮したいのだが、どうしたらいいのかな?」というようなレスポンスをお送りした。そしてあれこれ検索して、サポートを非設定に切り替えたのだが、はたしてこれは相手の方にも伝わっているのだろうか。
ともあれ、デフォルトでこんな設定になっていることすら私は知らなかったし、そもそも興味がなかったのである。

私はこれまでに何度か、文庫本の解説文など原稿料が発生する文章を書いたことがある。これは出版業界の友人が「これ、書いてみない」と、私好みの話を持ってきてくれたので引き受けたのだが、私はあくまでもアマチュアなので「原稿料はいらないけど、そのかわり好きに書かせてください」という条件で引き受けた。私にとっては、1回きりの数万円のカネよりも、自分の納得できる文章を書き、それを広く公けにすることの方が重要なので、そういう条件をつけたのである。要は、カネで買われて文章を書いたわけではない、ということだ。

それでも、原稿料をくれたところもあったし、あまり儲けが出そうにない本の場合は、原稿料の代わりにその本を10冊とかもらうことにした。そうすることで、少しでも売り上げに貢献できたようなかたちになるからだ。そもそも、売れてほしいと思わないような書籍に文章を書く気などないから、これは当然である。
「note」を始めた頃に、自己紹介がわりの文章として「私自身などどうでもいいんだけれど、書いたものは読んで欲しいので、自己紹介します。」というタイトルの記事をアップしたけれど、これは今も昔も変わらない、私の気持ちであり本音である。

とにかく、書いたからには、多くの人に読まれたい。これは「支持されたい」とか「褒められたい」とかいうことではない。「支持もされるし、反発もされる」で良いのだ。とにかく、多くの人に読まれ、多くの人の心に爪痕を残して、影響を与えたい、そのことで少しでも世の中を変えたい、というのが、私が文章を公けにする意図であり目的なのだから、カネのことなど、端から眼中にはないのだ。
万が一にも、端金に目が眩んで筆を曲げるなんて貧乏くさいことをすれば、それは恥ずべき本末転倒でしかなく、「カネなら本職で稼げばいい。文章書きは、徹底的に誇り高きアマチュアリズムでいく」というのが、私の考え方なのであった。

そして、そんな私には、「noteの多くのクリエイター」が気持ち悪く感じられた。
とにかく「読者に媚びまくり」「自分を売り込む」こと(つまり、風俗店の看板にも似たこと)を恥ずかしいとも思わないその感覚が、見ているだけでこっちが恥ずかしくなる、という感じだったのだ。

だが、本書『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』を読んで、そうした「今どきの気持ち悪さ」がどのようなところに由来するものなのかが分かり、かなりの部分で腑に落ちたのである。

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本書著者の佐々木チワワは、大学で社会学を学ぶ現役大学生だが、15歳の頃から「歌舞伎町」に出入りしており、現在は、そのホームベースとも呼べる「歌舞伎町」の文化を研究し発信している。また、そうした記事が編集者の目に止まって雑誌連載、そして第一著作となる本書の刊行となったそうだ。
つまり、著者自身が「歌舞伎町界隈に生息する、今どきの若者」の一人だったのだが、それがそのまま「研究者」を兼ねる存在となった「二重性」の人だと言えるだろう。

「ぴえん」というのは、歌舞伎町界隈に集まる「今どきの少女たち」に流行している言葉で、ちょっと前に流行った「卍」と同様の流行語だが、その意味するところは、例によって幅広く流動的である。
Wikipediaには、基本的な意味として、

『ぴえんは、泣いているさまを表す擬態語。泣き声の「ぴえーん」を省略し、SNS上やメールなどのやり取りで「(涙)」の意味でより汎用性の高い言葉として使われる。悲しい時にも嬉しい時にも使用され、深刻さは伴わない。目を潤ませた絵文字(Pleading Face〈訴えかける顔〉、?)とともに用いられることが多い。』

などと説明されているが、ここでも『汎用性の高い言葉』とされているとおりで、この言葉をつかう若者たちの気分次第で、その意味するところは、かなりの幅を持つにいたっている。

だが、それでもごくごく大雑把に言うならば「ちょっと情けなくてヤバイ(すごい)」みたいな感じだろうか。
基本的には、肯定的な意味の言葉ではないのだが、否定的というわけでもなく、あまり積極的・肯定的でないところに価値を見出しているというニュアンスがあるようだ。

ともあれ、この言葉の意味については、本書を当たってもらうとして、私にとっては、この言葉自体は、それまでの「若者流行語」と同様に、ふーん、こんなのが流行っているのか、というほどの意味しかなかった。
ところが、そんな、歌舞伎町に集まる「ぴえん」な少女たちの行動として注目されるのが、「ホストクラブのホストへの推し」だというところで、私との接点が出てきたのである。

こちらは多くの人も知るとおりで、「推し」というのは、自分が他者に「(これはすごいよ、素晴らしいよ、と)推薦する」対象、あるいはその「推薦的バックアップ」行為の、双方を指している。
平たく言えば、その推薦称揚対象としての「推し」と、それにカネを遣う(投資)行為が「推し」なのだ。

最近で「推し」の対象と言えば、まず「アイドル」ということになるだろう。だが、ネットとスマホの普及にともない、「推し」のアイドルのコンサートに行ったりCDを買ったりするだけではなく、同じCDを何十枚も買ったり、関連商品をすべて買ったりと、要はその過剰な「金銭的投資」において、自身のファンとしての「ステータス」を誇示する行動が、近年の「推し」の世界では広がっており、「見えない気持ちではなく、見える金銭的投資」というのが、もはや恥ずかしいものではなくなっているのである。

そして、歌舞伎町の「ぴえん」の少女たちは、その「推し」の対象をホストクラブのホストに求め、ホストに貢ぐために売春までもして、もはや「貢ぐためだけに生きている」ような者も少なくない、というのである。

さらに、これは貢がれるホストの方も同じで、ホストは客を見持ちよく飲ませてナンボという「接客業」と言うよりも、自分にカネを貢いでくれるファン(フォロワー)をどれだけ作れるかで、その「存在価値」が決まる、というようなふうになってきているのだそうだ。
要は、ホストが「神」であり、客の方が「奴隷的信者」といったような関係さえ発生しているのである。

「カネを貢ぐことで、特別扱いをされて、自分の価値を確認する客」と「多くのカネを貢がせて、カネを稼げる者(フォロワーの多い者)こそが勝者であると考えるホスト」。
両者は、そうした自分に満足し、そのような生き方に疑問を感じることもなく、そうした価値観の中で、喜んだ苦しんだりしながら生きているのである。

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一方、私はと言うと、彼らの世界とは、およそ真逆の価値観に生きていると言えるだろう。
そもそも、酒は飲めても、自分では進んでは飲まないから、飲み屋だの風俗店だのには、昔からトント縁がない。そんなものにカネを使うのは馬鹿らしいとしか思えないからだ。

また、私は昔から「興味本位で、誰もがやることをやる」ということはなかった。
例えばタバコも、ふざけて一度くらいは、親のそれをふかしたことはあっても、タバコを吸いたいとは一度も思わなかった。なぜなら「煙を吸って、どうするのだ。体に悪いに決まっているし、それにカネをかけるなんて、どう考えても馬鹿のすることだ」と、かなり早い時期から考えていた。

このように、私は「自分の価値観」というものを、かなり早い時期からハッキリと持っていたのだが、こうした私の根底にあるのは「他人と同じことはしたくない。人の真似はしたくない」という、「個性」崇拝である。
「俺は、俺でしかない、オンリーワンとしての価値ある人間になりたい」と思っていたから、安直に人真似をして「粗製濫造の複製品」になる気など毛頭なかった。流行歌の歌詞に慰められるまでもなく、私は、特定ジャンルにおける「ナンバーワン」ではなく、真の「オンリーワン」になりたかったのである。

だから、流行しているものについても、自分の「美意識」に照らして「これは面白い」「これは下らない」と判断した上で取捨選択してきた。
つまり、流行には、基本的に「懐疑的かつ警戒的」であり、流行っているという理由だけで飛びつくようなことはなかったし、それに価値を認めても、それは「世間のフィルター」を通しての評価ではなく、あくまでも「私個人のフイルター」を通した上での評価であって、その場合それは、すでに「私のもの」であり、「他人のそれとは違うもの」だったのである。

そして、私は、そんな自分を、特に「個性的」だとは思っていなかった。むしろ「これといった、誇るべき個性」が無いからこそ、世間に流されて「その他大勢」にはなりたくないと、常に考えてきたのである。

40歳くらいの頃だったか、高校3年時クラス会があった。卒業の翌年に開かれて以来の、二度目の同窓会である。
同窓会役員が、やる気のないやつだったので、そんな具合だったのだが、私自身は、高校生当時から、二人の親友以外には、ほとんど付き合いもなければ興味もなかったので、同窓会がなくてもぜんぜん平気だった。そもそも、その親友たちであっても、めったに連絡など取らなかったのである。
私は基本的に、「群れ」るのが嫌いで、祝祭などの「大騒ぎ」や「非日常」が好きではなかった。それは「逃げ=現実逃避」だと感じられていたのであろう。

ただ、20年も経てば「みんなどうなっているのだろう」という興味があって参加したのだが、端的にいって「つまらないオジサンオバサン」ばかりにしか見えず、うんざりしてしまった。
私の友人というのは、基本的に、選りすぐりの「濃い」人間ばかりなので、会話も普通に「濃い」。ありきたりの話題をありきたり話すなんて退屈なことはしなかったので、同窓会は、退屈きわまりなくて、つまらなかったのだ。

しかし、この同窓会でも収穫はあった。担任だった先生に「あの頃の私は、どんな子供でした?」と質問して「あんたはね、何って言うか、どーんとかまえてたわね」みたいな回答をもらえたことだ(こんな質問をする者も、めったにいないだろうが)。
自分としては「普通のオタクな男子高校生」のつもりだったから、「太々しい」なんて自覚など毛頭なかったのだが、たぶん、徹底したマイペース、(勉強も含めて)興味のないことには見向きもしないといったところが、そういう印象を与えたのではないかと、それなりに納得できた。一一やはり「栴檀は双葉より芳し」だったということであろう(笑)。

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で、そんな私からすると「他人に貢ぎ、そのおかげでチヤホヤされたって、そんなもの偽物なんだから、無意味だろう」としか思えないし、一方「カネなんか、欲しいものがそこそこ買える程度に稼げればいいのであって、カネを稼ぐために、すべての生活をそれに傾注するような生き方は、本末転倒だろう」とした思えない。そもそも「人間、カネだけでは幸せになれない」と本気で思っている(例えば、カネで本は買えても、読書する「時間」は買えないし、「読解力」も買えない)。

例えば、宇宙へ行った前澤友作なんかを見ていても「この殊更な幸せアピールは、満たされない人特有のものだな」という感想しか持てない。人間、本当に満たされれば、ことさら他人の前に出て、自分の存在価値をアピールするなんてことはしないと思うからだ。

つまり、私にすれば「ぴえんの少女たち」も、客に貢がせて大金を稼ぐ「ナンバーワンホスト」も、宇宙まで行ってバトミントンをする前澤友作も、同じように「寂しい人」に見えるのだ。
「なんでそんなに、他人からの承認が欲しいの? 自己承認できないの?」と。

人間、いかに他人から見下されようと馬鹿にされようと、自分が本気で満足していたら、それで完全に「幸せ」なのである。他人から、見下されているんじゃないかとか、馬鹿にされているんじゃないかなんて、殊更に気にするから、不幸になる。
他人の評価が気にならなければ、おかれた状況がどんなに過酷なものだろうと、人間は主観的には幸せなのだし、幸せとは、そもそも主観的なものなのである。

しかし、人は、どうしても「他人の目」を気にしてしまう。それは当然だろう。いくら「自分さえ幸せだと思えば幸せだ」などと言っても、まともな人間には、自分を客観視する能力があり、それがあるから生きてもいけるのだから、完全な自己満足は、主観的には幸せであろうが、それだけで生きていくことはできないのである。

つまり、幸せに生きるためには「適切な客観性を保持しつつ、自身を肯定できるメンタルの強度」が必要だということになるのだが、この両立というのが、なかなかうまくいかない。そのために、「客観的幸せ」を求めてひたすら「他人からの承認」を求め「地位やカネ」を追求して追い立てられるような人生を生きたり、逆に、主観的な幸せを求めて「宗教」や「薬物」に走って身を滅ぼす人もいる。

なんで、もう少し「普通」に「適度」に「バランスよく」やれないのかと思ってしまうのだが、結局のところ、その原因は、およそ選択不能な、「親ガチャ」的「生育環境」の問題に帰着してしまうようだ。
つまり、幼い頃に親からの愛情を十分に受けられず、基本的な「自己肯定感」を育めなかった人は、いくつになっても根本的な「不安感」を抱えているがために、他者からの「目に見える承認」を求め続けてしまうのである。

実際「ぴえん」の少女たちには、そうした「家庭環境に問題がある」子が多いし、「稼ぎやフォロワー数」がアイデンティティだといった感じの「ホスト」たちも、似たような問題を抱えている者が多いようなのだ。
つまり、彼女・彼らは、「共依存」関係にある、と言えるのかもしれない。

彼女・彼らにしろ、前澤友作のような「走り続ける社会的成功者」しろ、彼らに欠落しているのは「そこそこで満足する」という感覚である。
「そこまでやらなくても、すでにもう十分、幸せじゃないか」とか「あんまり頑張りすぎてもシンドイだけだし、楽しむ暇がないのでは意味がない」なんてことを、彼女・彼らは考えられないようだ。そういうのは「負け組の妥協」としか映らないのであろうし、そういう側面も確かにあるのだろうが、しかし「そこまで頑張るのは、やっぱりビョーキだよ」としか、私には思えないのである。

私が「宗教」や「哲学」を研究する中で到達した人生観とは、これまでにも何度か書いているとおり「この宇宙には、もともと意味はない。もともと善も悪もなく、美醜もない。ただ、生物として発生し、生き残っていく中で、その必要性から主観的な価値観が形成されただけである。しかしまた、そのような状況依存的な価値観や美意識だとは言え、それを持ってしまった以上は、その価値観において、美しいと感じる価値観に生きるのが、最も幸せという意味で、最も正しいのではないか」といったものである。

例えば「他人の幸せのために苦労をする」というのは、究極的には無意味だけれど、少なくとも自分自身には「満足」がある。さらにその満足とは「苦労という苦痛」を対価として支払っても余りある喜びであり、単なる「快感」などではないのだ。単なる「快感」は、「不快感」によって、容易に打ち消されるが、もともと「快感」ではなく「苦痛」を求める中での「喜び」は、そう簡単には打ち消せない強度を持っているからで、だからこそ人は「理想のため」「信仰のため」のために、死ねるのである。

私は、このような「幸福観」を持つ人間なので、だから「承認願望の強い人」というのは、あらかじめ「不幸になることの決まった人」としか思えない。要は「食べても食べても腹が膨れない、餓鬼地獄」に生きているようなものなのだ。

だから「なんで、そこまで求める」と思ってしまうのだが、しかし、それが「生育環境」によって「あらかじめ設定されていたもの(強迫的衝動)」なのだとすれば、それはもう救いようのない不幸としか言いようがないので、なんとも残念な気持ちになってしまう。
「そんなに頑張らなくてもいいんだよ」と諭してあげることで、その人が幸せになれるのなら、私は、喜んでそう言ってあげるのだが、どうやら、ことはそんなに簡単ではないようなのだ。結局のところ、彼女・彼らは「わかっちゃいるけど、止められない」という、言わば「呪われた人々」だからである。

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このように考えてくると、「note」において、ひたすら読者に媚びることで「承認」を求める人も、「私はこんなに役に立ちますよ」とアピールして「承認」を得ようとする人も、結局は、前澤友作に似ているとも言えるし、「ぴえんの少女たち」や「ホスト」たちと同じような、不幸な人たちだとしか思えない。

勝手に「不幸な人」呼ばわりするなというご意見も多かろうが、私にはそう感じられるからそう書いているだけで、何もそれが「客観的事実」だなどとまでは言わない。
だが、私のこの立論に「なるほど」と思う人もいるだろうから、参考までに書いているだけなので、「自分は違う(該当しない)」と思う人は、私のこの立論を無視すればいいだけの話なのである。

そんなわけで、話は「noteの人々」に止まらず、最近、私が話題にした「TikTokerけんごと、そのファン(支持者)」も同じだと言えよう。
要は、けんごのファンは、「推し」であるけんごのファンであることによって「安心」を得ているからこそ、けんごへの批判は、何が何でも許せないのである。

つまり、けんごとは、ファンたちのとっての「貢ぐべき、推しホスト」みたいなものなのだ。
具体的な金銭関係はなくても、本書にも書かれているとおり、歌舞伎町のホストの価値観である「ファン(フォロワー)を増やしてナンボ」というのと同様の価値観で、けんごは生きているのであり、ファンは、そんなけんごが「ナンバーワン」になることで、間接的に、社会に「承認」されていると感じられるのである。

言うまでもなく、これは「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」などで扱った、「SFプロトタイパー」でSF作家の樋口恭介や、そのファン、あるいは、広く「SFファン」や「本格ミステリファン」の問題にも通じる話であろう。

私は「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」を扱った記事の中で、「西野亮廣のオンラインサロン」などに見られる「新宗教」的な性格が、樋口恭介の価値観にも通じるところがある、と指摘した。
要は「夢を見させる推しホストと、その客であるぴえんの少女」あるいは「教祖とその信者」的な関係が、「西野亮廣のオンラインサロン」だけではなく、西野と同様「クラフトファンディングで制作資金を募るクリエーターとその支援者」はもとより「樋口恭介とその周辺のSFファン」や「TikTokerけんごとその支持者」にも当てはまる。
そして、そこに止まらず、そもそも「SF読み」であること「本格ミステリマニア」であることに、アイデンティティを賭けているような「マニア」たちも、基本的には「アイドル推しのファン」と、何の違いもないのではないか、と思うのだ。

要は、「ある特定の(ごく狭い対象としての)何か」を「特別なもの(選ばれて優れたもの)」だと信じ、それに執着することで、自分までもが「その価値がわかる、特別な人間」であると信じようとするような人たちだ。

だが、普通に考えて、この世界には「ありとあらゆる種類の価値」と「価値観」があって、「これは一番すばらしい」などと考えるのは、いかにも愚かなことだ。

普通にものを見ることができるのなら、嫌でも「いろんな価値の存在」に気付かざるを得ず、それに気づくならば、多様多数の価値の比較検証なしに「これが一番すばらしい」などと言えないのは自明であろう。
なのに、それが言えてしまう、分かりやすい「視野狭窄」は、その人が、他の価値から目をそらし続ける「あらかじめ自信のない人間」である証拠としか、考えられないのではないだろうか。

つまり、私が常々「気持ち悪い」と感じるものに共通するのは、その「承認願望の強さ」であり、さらには、それを生み出している「自信(自己肯定感)の無さ」であり、つまりは「本質的な救われなさ」なのである。

今や、右を向いても左を見ても、「世間から承認される」ことだけを願って、必死になっている人たちばかりである。
これは前述のとおり、インターネットとスマホの普及の問題が大きいのだろう。
知らないでもいい情報を知り、知りたくもない情報を知り、比較したくもないのに、比較し比較されてしまうといった状況によって、人々は駆り立てられ追い立てられているのではないだろうか。「世界の片隅で、平々凡々と生きる」ということが許されない、一種の「監視地獄」である。

この状況から降りられれば、かなりの部分、幸せになれると思うのだが、それがなかなかそうはいかない世界になってしまっているのだったら、多少なりともそうした世界の外部にいる「勝ち誇った負け犬=負け犬呼ばわりを恥じない勝者」の私にできることは、何もないということになるのだろうか。

「お前になんか言われたくない」というのは、よくわかる。だが、私は、言いたいのである。
相手にどう思われようが「あなたに、少しでも幸せになってほしいのだがなあ」と言わずにはいられないのだ。

今どきの「満たされない人々」の姿が、本書では「ホストと、押しホストに貢ぐぴえんの少女たち」というかたちで、見事に形象化され、「日本の象徴」にすらなり得ているのではないか。

だからこそ、「歌舞伎町の最先端文化」になんて興味がないよという人にも、ぜひ本書を読んでほしい。
ここには、今の日本の縮図があり、そしてそれは、決して他人事ではないからなのだ。



(2021年12月31日)

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ゴーリー・まどか・フィオリーナ 一一書評:三堂マツリ『ブラッディ・シュガーは夜わらう』第1、2巻

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時28分2秒
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 ゴーリー・まどか・フィオリーナ

 書評:三堂マツリ『ブラッディ・シュガーは夜わらう』第1、2巻(コアコミックス)

 初出:2021年12月29日「note記事」

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意外なほどに、安心して楽しめる、心優しいマンガである。

絵柄的には「カラフルでスタイリッシュな、エドワード・ゴーリー」という感じだし、その世界観も、小道具的なもののビジュアルも、一世を風靡したテレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を思わせるので、一見「これはどう見ても、ダークな話だろう」と思ってしまう。また、タイトルに「夜わらう」とあるとおりで、夜のシーンが多い。

しかしながら、実際に読んでみると、特殊なサイコ・セラピーを行う兄弟医師が、孤児院から引き取った「感情を持たない少女」バジルの感情を取り戻そうとして奮闘する、とてもわかりやすい「妹愛」の物語である。

チャーチとジェドのグリズリー兄弟は、慎重で冷静な兄とお調子者の弟という、好対照にわかりやすい兄弟医師だが、彼らの医術は、「サイコ・ダイブ」とか「サイコ・ディテクティブ」と呼ばれる種類のもので、要は「患者の心の中に入っていって、その深層に巣食う病巣を退治することで、患者を救う」といった「超能力」的なものだ。
これは、夢枕獏の伝奇SF『魔獣狩り』に始まる「サイコ・ダイバー」シリーズが最も有名なところだろうが、日本で最初にそうした手法を描いたのは、小松左京の『ゴルギアスの結び目』の「サイコ・ディテクティブ」あたりらしい(ちなみに、宗教学者の中沢新一は、土地の歴史的深層に潜る、自らの技法を「アース・ダイブ」と名付けている)。

「サイコ・ダイブ」は「心理分析のビジュアル版」みたいなものなので、「不思議で不気味な世界」を描くのにもってこいのSF的な設定であり、有名なところでは他にも、萩尾望都の『バルバラ異界』だとか、筒井康隆の『パプリカ』といった傑作がある。

で、本作の場合、サイコ・ダイブして患者を癒すのだが、グレゴリー兄弟の目的は、単に患者を癒すことではない。
グリズリー兄弟が専門とするのは「ネガ」と呼ばれる病で、これは通常の精神病のように、心が何らかのストレス的なものによって「内発的に病む」というのではなく、(とうてい生物的なものとは思えないのだが)病原体的に一種の物理的「実体」を持つものとしての「ネガ」が、人の弱った心に「とり憑く」ことで発症するものだ。つまり「ネガ」とは、「病名」でもあれば「病原体」をも指してもいるのである。

この「ネガ」には多種多様な種類があり、「個性」といって良いほどの個別的な特性と様々(に不気味)な象徴的形態を持っており、これ退治すると、「ネガ」は実体としての「死骸」を残すのだが、この「ネガの死体」の中に、バジルの「感情を回復する成分」を含んだ、未知の「個体」あるいは「種類」が存在する、とされている。

つまりグリズリー兄弟は、「ネガ」患者を治療しては、各話の最後では「ネガの死骸」を調理してバジルに食べさせて「どうだ?」と訊ねるのだが、バジルは「美味しかったよ。でも、これじゃないみたい」などと答えて、「感情」を取り戻すにはいたらず、兄弟は次の「ネガの死体」を求めて患者を探すという、本作はそんな物語なのである。

すでにお気付きの方もあろうが、これは手塚治虫の『どろろ』のパターンだと言えるかもしれない。要は、「失われた、人としての完全性」を取り戻すために、毎回、化け物を退治していく、という物語である。

このように本作は、お話自体としては、それほど目新しいところはなく、見かけによらないグレゴリー兄弟の「妹」への溺愛ぶりと、「感情」を表さないけれども、その飾らない言動が可愛く愛おしいバジルに存在によって、普通に楽しく読める作品になっている。

だが、それでもこの作品のユニークさは、やはりその「ダークな絵柄や世界観」と「心優しく可愛い物語」の「ギャップ」にあると言って良いだろう。
「この絵柄、この世界観で、これをやるか」と思わないではないけれど、逆にどちらかだけでは、よほど突き抜けたものにしないと、ヒット作にはならなかったのかもしれない。

以上、ここまで読んでくださった方は、薄々感じておられるだろうが、この作品は、いわゆる「傑作」といったものではない。ことさらに「すごい」と言うような作品ではないのだが、しかし、グレゴリー兄弟にとってのバジルがそうであるように、本作が「可愛く愛おしい作品」であるというのは間違いない。もちろん、趣味ではないという人もいるだろうが、この作品は、悪意評価の集まりにくい、独特の魅力を持った佳作なのである。


ちなみに、本稿のタイトルを「ゴーリー・まどか・フィオリーナ」としたが、無論、「ゴーリー」はエドワード・ゴーリー、「まどか」は『魔法少女まどか☆マギカ』なのだが、最後の「フィオリーナ」は、ちょっとマニアックに方向性が違う。「フィオリーナ」とは、高畑勲監督作品のテレビアニメ『母をたずねて三千里』のヒロインの名前である。

『母をたずねて三千里』は、イタリアのジェノバから南米アルゼンチンに出稼ぎに出た母に会うために、少年マルコがはるばると旅をする物語だが、この作品の準レビュラー的な存在として、旅芸人のペッピーノ一座(父と三姉妹)が登場し、このペッピーノの次女で、操り人形を芸を見せる「無口な少女」がフィオリーナである。

アニメのヒロインというのは、おおむね明るいものである。もちろん、おとなしかったり、オツに澄ましていたりする「優等生キャラ」とか、ギャグ要素のある作品なら、殊更な「陰キャラ」というのもあるだろう。だが、それらはいずれにしろ「誇張された性格」設定の「異色キャラ」なのだが、リアリズムの演出家である高畑勲の描いたフィオリーナは、「オーソドックスな明るいキャラの裏返しとしての、暗いキャラ」ではなく、自然に無口でおとなしく、しかし、心の中に優しさと強さを秘めたキャラクターとして、見事に造形されていた。一一私は、このフィオリーナが大好きだったのである。

で、ここで私が言いたいのは、無論、バジルがフィオリーナに似ている、ということだ。
バジルは「感情がない」とされているが、決してロボットのような「硬い」少女ではなく、その「感情」が外からは見えにくいだけ、にしか見えない。
そもそも、なぜバジルに「感情がない」のか、今のところその説明が、作中ではなされておらず、「バジルには感情がない」ということを大前提として、グレゴリー兄弟がバジルのために奔走する物語が描かれているのだ。

だから、これはもしかすると、いや、私の「読み」では、バジルに「感情がない」というのは、単なる誤認なのではないだろうか。実際、バジルは今のままでも、人に優しく、周囲を癒す存在であるのに、彼女に「感情がない」などということが、あり得るだろうか。

となると、この作品の最後に明示される主題とは、「人間的な感情」とは何か、ということなのではないだろうか。
ことさらに、泣いたり笑ったり怒ったり、あるいは、人に優しくしたり冷たくしたりするのが「物語的な感情」表現の常なのだが、それは所詮「作劇」上の必要性から求められる「見えやすい感情」なのであって、人間の「本当の感情=深い感情」というのは、そんなものではないのではないか。

だとすると「実体を持って見える心の病」としての「ネガ」と、「見えない感情」の持ち主であるバジルとは、真逆に対応していると言えるのかもしれない。
こう考えれば、バジルには「心がある」と、「ネガ」は存在しない、という対応で、この物語は締めくくられるのではないかと、私は今から、この物語をラストを、あれこれ想像して楽しんでいる。

少なくとも、最終回で、ついにバジルの感情を取り戻すための「ネガの死体」が手に入り、バジルが「感情」を取り戻して「普通の少女」になって「めでたしめでたし」といったような、陳腐な物語にはならないと、私はそう確信しているのである。



(2021年12月29日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

 

〈ムラ宇宙〉からの脱出速度は? 一一書評:飛浩隆『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時27分0秒
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 〈ムラ宇宙〉からの脱出速度は?

 書評:飛浩隆『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』(河出文庫)

 初出:2021年12月27日「note記事」

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飛浩隆は、若くして作家デビューしたものの、自身の個性を踏まえて、専業作家にはならず、勤め人をしながら、その傍らマイペースで作品を執筆発表してきた「日曜作家」である。しかしその彼も、一昨年の定年退職で、晴れて「専業作家」となった。
年齢のこともあるので、急に執筆ペースが上がるということもないだろうが、今後の一層の活躍が期待されるところであるから、私は期待している。している(繰り返し)。

なお、飛が定年退職した「職業」とは、本書所収のエッセイ「マザーボードへの手紙」に『私はこの三十年のあいだ、小説を書くかたわら、貧困や障がい福祉、精神保健の分野に携わる仕事をしてもきました。』(P294)とあるとおりであった。

さて、本書は、2018年に刊行された『ポリフォニック・イリュージョン 初期作品+批評集成』のうち、非フィクションの第二部と第三部をベースに、親本にはなかった文章を加えた、オリジナル文庫版である。

したがって、本書のタイトル『SFにさよならをいう方法』というのは、今回新たにつけたれたものであり、同タイトルの収録作があるというわけではなく、著者も「あとがき」にあたる「ノート」の冒頭で、

『いきなりお詫びをしますが、本書のどこを読んでも「SFにさよならをいう方法」は書いていないと思う。ですからそこを知りたくてこの本を手に取った方は、お手数だがどこか他所を当たっていただきたい。誠に申し訳ないです。』(P308)

と、少々おどけ気味に書いているとおりだ。

しかし、当然のことながら、作者のこのような言葉を真に受けるようでは、読書家を名乗る資格はないだろう。
作者が『SFにさよならをいう方法』などという、いささか挑発的なタイトルを、あえてつけた以上、当然そこには、明確か否かは別にして、何らかの「意図」はあったに違いない。

だから、作者がその意図を明確に「語れない」あるいは「語ろうとしない」のであれば、それを読み解くことこそが、作者から読者に与えられて「使命」でもあれば、「挑戦状」だとも言えるだろう。

作者から手袋を投げつけられながら、それに気づかないというのでは、あまりにも間抜けではないか。
当然、目の開いた読者であれば、この挑戦を堂々と受けて立ち、むしろ返り討ちにすべきであろう。SFファンの多くは「開きメクラ」なのだと作者が舐めていようと、「俺は、そんな奴らとは一味違うぜ」というところを見せるのが、「読める読者」の矜持というものなのだ。

しかしまた、その「読み」とは、単に「作者が、読者の目を惹くために、あえて挑発的に逆説的なタイトルを考案したのだろう」なんていった「マーケティング」レベルの回答では、つまらない。
飛浩隆の読者なのであれば、「作中人物」として恥じない「読み」の世界を開くべきなのだ。仮に、作者が「マーケティング」レベルのことしか考えていなかったとしても、私たちは、そんな作者の無意識にまでサイコ・ダイブして、その無自覚な欲望とその意志を、無理やりにでもサルベージして見せるべきなのである。

よって、このレビューは、飛浩隆自身が自覚しないところまで読み解くものとなり、場合によっては、飛にとって不本意な「読み」となるかもしれないが、そこは進んで「テキスト」を公開し、まな板の上に乗った魚として、覚悟していただくしかないだろう。私は、飛浩隆の中に秘められた「SFにさよならをいう方法」を、出刃包丁を使ってでもサルベージ(腑分け)するのである。したがって、これは「でっち上げ」などではない。

 ○ ○ ○

さて、脅しはこれくらいにして「読み」に移ろう。

本書には、心から共感できる意見を、いくつも見いだすことができる。
それは、飛浩隆という作家の個性や思考形式が、基本的に私の趣味と合致しているからで、その「小説作法」において同じような「文学観」を持つのも、ごく自然なことだと思う。

しかしながら、私は「小説」が書けない人間だし、本書は「評論随筆集」ということなので、ここでは「批評家としての飛浩隆」について考えてみたい。

まず、飛浩隆という人は、じつに真っ当な「大人」である。ダテに、世間に揉まれながら「職業人」として定年まで勤め上げたわけではないようだ。
飛の言葉は、きわめて率直でまっすぐなものが多く、つまらない「職業作家的レトリック」に逃げるようなことはしていないようである(樋口くん、読んでるか?)。


(1)『 いったいいつの間にここまで成り下がったのか。つい昨日も国民総がかりで、とあるお笑いの人に頭を下げさせていたが、貧すりゃ鈍すとはこういうことかとしみじみ理解した。しかしこういう世の中をつくる素因はつねにわれわれの裡にあった。とうとう日本は「風刺文学」が必須な一一それなしでは正常な精神さえ維持できない状況に追い込まれちまったようだ。
(中略)
 なにより怖いのは、俺たちの知力はとっくに「減退」しているんじゃないかということだ。小利口になればなるほど大事なところが抜けてきていたら? いつか破綻の日が来ても俺たちは「えーなんでだろう、こんなに正しくやってきたのに!」と思うだけなのだ。
「第六ポンプ」は救いのない苦いお話だ。だがわれわれは鼻をつまんでこの薬を呑み下さなければならない。
 少しでも馬鹿になる日を遅らすために。
 風刺小説は溜飲を下げるためにだけあるのではない。その刃が自分に向いているのだと想像する力をやしなうためにもある。』
(P88~89 「いつかみんなが愚かになる日のために 一一パオロ・バチガルビ『第六ポンプ』」より)

いきなり、本質的な問題に踏み込んできたが、この文章は「2012年」発表のものである。

「バブル崩壊」後の長い長いデフレが続く中で、私たちはその出口に到達できるという希望を見出せないまま、経済的な「中流」の没落によって、一部の金持ちと多くの貧乏人に二分される格差社会の到来に直面し、おのずと「憤り」や「妬み」を抱え込むことになった。
飛がここで言及しているのは、人気お笑い芸人の親が「生活保護」を受けていたということに対して、経済的に親の面倒を見ていなかった、息子であるお笑い芸人が、世間からの手酷いバッシングを受けたという事件である。

言うまでもないことだが、親から独立して別世帯を持った子供が、親の経済的面倒を見なければならない「義務」などない。親は親、成人した子供は子供でなのである。
無論、お互いに助け合うことが望ましいのは言うまでもないことだが、「望ましい」こととは、すなわち「理想」であって、「義務」ではない。見知らぬ「あかの他人」でも、困っている人がいれば助けてあげるのが「望ましい」のは言うまでもないが、それは「義務」ではないので、多くの人は、そこまではしないだろう。私だってしない。そんなことを個人的にしていたらきりがないので、どこで線引きするかは、個々が個人的な事情を自分なりに勘案して、自分で決めるしかないことであり、何の責任も負う気のない「あかの他人」が、とやかく言うことではないのである。

したがって、このお笑い芸人の件だって、同じなのだ。
この芸人さんを責めた人たちが、では、この芸人さんに代わって、その「可哀想な親」の面倒を見てやるのかといえば、無論そんなことは考えてもみなかったはずだ。要は、その程度の人たちなのである。

それに、私たちは、ダテに「税金」を払っているわけではない。いろんな理由で食い詰めれば、最後は「国」が国民を救うと言うのは、それこそ「義務」であり「使命」なのだ。つまり「生活保護」は、「国」の義務なのであって、それが出来ていないのなら、責められるべきは、子供である芸人さんではなく、「保護責任者」である「国」の方なのである。

だが、なぜ「国」ではなく、「息子であるお笑い芸人」が責められたのかと言えば、「彼が、人気芸人であり、金儲けをしているだろう」ということで「妬まれた」からだ。想像力貧困な人には、到底「国」は「妬み」の対象にはならないのだ。

つまり、彼の芸人さんを「責めた」人たちは、「親孝行的な人間倫理」において彼を責めたつもりなのだろうが、じつのところそれは、貧乏人の「妬み」でしかなかったのである。だから、飛浩隆はここで『貧すりゃ鈍すとはこういうことかとしみじみ理解した。』と書いていたのだ。

そんなわけで「金持ち」や「有名人」というのは、庶民から妬まれがちだ。
しかし、それは彼らが、その「カネ」や「有名性」を得るに値する「仕事=社会貢献」をしていない、と思われているからでもあろう。相応の努力が認められているのであれば、妬まれることもないだろうからである。

無論、その無知ゆえに、他人の「努力」を知らず、盲滅法に「妬む」ような馬鹿も多いが、そういう馬鹿は適切に反批判されて泣きを見させるべきであり、ここではそういう低レベルの人間は問題にしない。
問題なのは、批判されてしかるべき「汚い金持ち」や「汚い有名人」の方であり、私たちは、そういう輩を適切に「批判」しなければならない。批判するべき相手を間違えることによって、「批判すること」それ自体が間違いだと勘違いされるような状況を惹起すべきではないのである。

しかし、適切な「批評」「批判」というものは、そう簡単なものではない。
具体的に言えば、「批評」「批判」に当たっての「最低限のマナー」とは、反論に対する応答責任を果たすという「フェアプレイ精神」で、これがなくては話にならない。「斬れば、斬り返される。その覚悟で斬れ」ということだ。

だから、「匿名の陰に隠れて」批判したり、「公場対決」を挑まれた途端に逃げ出すとか、「そんなつもりはなかった」などという泣き言を言うような輩は許してはならない。そういう輩こそ、「見せしめ」にでも、斬り殺さなければならないのである。


(2)『 すると判断の分かれ目になるのは、この作品(※ 荒巻義雄『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』)に徹頭徹尾「作者」しか登場しないことを是とするかどうかだ。私はSFに「他者との激突が起こる場」であることを期待し、あるいは「だれも見たことのない他者を生みだす場」であってほしいと願う。あらゆる細部が作者の掌中にあることに安住した、あるいはカバーデザインが象徴するようにすべてが作者の脳の遍歴として収束してゆく本作を、私は大賞にふさわしいと確信できなかった。』
(P112「第38回日本SF大賞選評」)

全く同感である。
「世界は、私の頭の中にしかない」というのは、一面の「科学的事実」ではあるのだが、それは「一面の事実」でしかない。例えば、私が飛浩隆をいきなり殴って「これは、あなたの頭の中でのことだ。したがって、殴られたと思っているのは、あなたの主観であって、私には関係のない話だ」では済まない。「済ませられるものなら、済ませてみろ」って、わけだ。
私は、荒巻義雄の「時計台ギャラリー」で絵を買ったこともあるけれど、これも「脳内現象」ではなく、代金は、ちゃんと荒巻さんのところにも入ったはずである。
ことほど左様に、私は、わかりやすく親切な「他者」なのであるから、感謝して欲しいくらいなのだ。


(3)『すこしだけ憂慮しておきたい。ジャンルの規矩の中で書きつづけると、なんというのかな、とても自由に書いているはずがおのずと「許される範疇」「需要に応えること」におさまってしまう、ということが起こるのです。無限に高い天井の下で書いても、それはやはり天井の下なんですよね。もちろんSFにも一一つまり俺にも同じような限界がつきまとう。産みの苦しみ
ではなく「倦み」の苦しみ(笑)。「あまりにもSFである」ことの倦怠が。』
(P145「第3回ゲンロンSF新人賞講評(抄)」より、琴柱遥「父たちの荒野」講評部分)

そうなのだ。
残念ながら、人間というものは、すぐに「ムラの論理」に染まってしまうもので、それが当たり前になって「ムラの論理」が見えなくなってしまう。それが、自身の可能性を限界づける「柵」になっていても、そこまで行ったら、無意識に「回れ右をして帰ってくる」自分を、まったく認識できないようになってしまうのである。

だから、私たちは意識して「ムラの境界」を侵犯し、大いに顰蹙を買いつつ、ムラに貢献しなければならない。
いとうせいこうの『解体屋外伝』風に言えば「アンジノソトニデロ…オレタチニハミライガアル」というわけで、私は「デプログラマー(解錠屋)」なのである。


(4)『飛 (※ 飛の作品『グラン・ヴァカンス』の、ある部分が)残酷だ残酷だ、っていう感想がウェブでたくさんあった。もちろんそう読まれるように書いてある。その残酷さっていうのはゲストに担保されているわけで、当然読めばゲストは読者であるという図式が見える。
巽 人間であり、ね。
飛 読んでいて登場人物がひどい目にあっているというのは、それはあなたたちが読んでいるからで、その痛みは、誰にどの責任があるのでもないですけどね、読者もまた担うべきことなのかなあ、と。
巽 読者もまた加害者だ、というヴィジョンですよね。読むのをやめれば誰も死なないという、あたりまえのことではあるんですが。
飛 あなたたちもその残酷さを楽しんで読んでいるんでしょう、という。』
(P218~219「レムなき世紀の超越」)

私はよく「厳しい批判論文」を書くから、昔は「そんな言い方をしなくても」とか「もっと穏便に書けないか」というような助言をしてくれる人もいた。しかし、その人は、まったく分かっていない。

要は「あんたみたいな鈍感な人が多いから、ここまで書かなければならないのだ。ここまで書いても、まだあんたは、この批判が、あなた自身のことだと分かっていないようだが」ということなのである。


(5)『 私たちの世代は、公正で賢明な社会をあなたたちに受け渡すことに失敗した。この十年というもの公共の言説はけがされ、高官の嘘は糊塗さえされないまま、いまこのときも大手を振って罷り通っています。』
(P299~300「若い友人への手紙」)


まったく、同感である。
だから、私は子供を作らなかった。結婚はしなくても、子供なら欲しいような気もするが、この先の世界を考えれば、無責任に子供など作れるものではない。
世間では、まともに子供を育てられない馬鹿夫婦が、セックスばかりしては、子供をポコポコ作っていたりするが、子供にとっては良い迷惑。「親ガチャ」という言葉が流行るのも当然である。
私に言わせれば「ボーッと子供を作ってんじゃねえよ!」ってことになるが、それでも作ってしまったのであれば、せめて自分個人の生活努力とともに、今の日本の政治について、さらには地球の未来についても、責任を持って行動する義務があると思う。なにより自分の子供の未来のためにだ。


(6)『 記憶しておこう。なによりじぶんの愚かしい失敗や、心境や見解の変化を一一変節を。いまあなたの手にあるこの本も、たぶんそうした「手紙」の一通である。

 2021年11月
                     飛 浩隆』(P311「ノート」)

これは、要は「未来の自分への手紙」ということであろう。しかし、問題はそんなことではない。
なぜなら、飛浩隆はすでに「変節」しているからで、それを「今」問わずして、「未来」に先送りしているのでは、そんなものはクソの役にも立たない、保身のための「アリバイ工作」にしかないからである。

例えば、こないだ私がぶっ叩いた、樋口恭介の『異常論文』の問題であるとか、「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」なんかも、飛浩隆は、比較的、樋口に近い「大森望グループ」の一人(みたいなもん)なんだから、公に一言あっても良いのではないか?
身近な問題になると、いきなり口を噤むというのであれば、批評なんか辞めちまえ、ということにしかならない。

無論、実際問題として色々あるだろうが、作家というのは、書いてナンボなのだ。

どうせ「SFにさよなら」する気などないのだから、せめて、どうなったら嫌でも「SFにさよなら」しなければならないのか、その時にはどうするのか、そのくらいのことを「書いておく」べきではないか。そしてそれこそが「SFにさよならをいう方法」なのだ。SFという「見えない柵」を乗り越えていく方法なのである。

本書の「解説」で、東浩紀が、次のように書いている。


『小説家も批評家もじつはとても似た作業している。けれども目的がちがう。小説家は創作=分析で世界を完結させようとする。対して批評家は創作=分析で世界を開こうとする。』
(P313、東浩紀「解説」)

まさに、そのとおり。
「批評家」は、柵をぶち壊して(いや、可能なら解錠しよう)、世界を開くのが、その使命なのである。

そんなわけで、最後に、茨木のり子の有名な詩「自分の感受性ぐらい」からの引用を、期待すべき「専業作家」である飛浩隆に贈りたいと思う。


 初心消えかかるのを
 暮らしのせいにはするな
 そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 駄目なことの一切を
 時代のせいにはするな
 わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性ぐらい
 自分で守れ
 ばかものよ




(2021年12月26日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

 

〈自己権威化〉の神学 一一書評:若松英輔・山本芳久『危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時25分12秒
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 〈自己権威化〉の神学:通俗カトリックとしての、若松英輔と山本芳久

 書評:若松英輔・山本芳久『危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて』(文春新書)

 初出:2021年12月26日「note記事」

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『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』(「ルカによる福音書」より)

人はしばしば、自分が何をしているのか、どんな言葉を口にしているのかに、まったく無自覚なことがある。
ましてや、自分が「主流派」で「大勢の側」であってみれば、自信満々に「自己肯定的な言葉=他者否定的な言葉」を口にするのだが、それが、遠く離れた「第三者」から見れば、いかにも傲慢で愚かなものにしか映らないということに、まったく気づかない。

例えば、磔刑にされた十字架上のイエスを馬鹿にし、からかった人たちなどがそうだ。
彼らはその当時、自分が「主流派」で「大勢の側」であると確信して、自信満々に「自己肯定的な言葉=他者であるイエスを誹謗する言葉」を口にした。しかし今日では、それがいかに愚かなことであったかが、明白になった。

何もこれは、キリスト教や宗教の話ばかりではない。
ナチス政権下における「ユダヤ人迫害」に加担したドイツの一般市民、現人神天皇を担ぐ軍国日本において、反戦主義者や社会主義者や「天皇は人間である」とした学者などを迫害した人々も、その当時は「主流派」で「大勢の側」であってみれば、自信満々に「自己肯定的な言葉=他者否定的な言葉」を発したのだ。

『 本当にその通りで、引用をしませんでしたが、教皇フランシスコ自身、(※ 聖書の「善きサマリア人」の話における、強盗に襲われて道端に倒れている人の傍を)最初に取り過ぎた二人が、両方とも祭司とレビ人という神に仕える人だった点が非常に重要だと言うわけです。一見神に仕えているように見える人が本当に神に仕えているとは限らない。そうでないような人こそ神に本当に仕えていることはある、という言い方で、狭い意味でのキリスト教という枠を超えて、根源的なものとつながる生き方を説き直している。』(P273、山本芳久の発言)

少し解説しておこう。「善きサマリア人」の話とは、新約聖書に描かれたイエス・キリストの譬え話の中でも、最も有名なものの一つである。

ここに登場する『祭司とレビ人』は、キリスト教徒ではなく、ユダヤ教徒で、イエスの生前には、まだキリスト教は存在してはいないのだから、この話をしているイエス自身も、そのユダヤ教徒であることを忘れてはならない。
つまり、『祭司とレビ人という神に仕える人』というのは、ユダヤ教における「(旧約)聖書」の教えを厳格に守る、最も「正しい人=義なる人」だったのだ。
一方、サマリア人というのは、ほとんど同様の信仰を持ちながらも、教義上の微妙な違いなどもあって、信仰的に差別され、見下されていた少数派だった。

そして「善きサマリア人」の話とは、強盗に襲われ血まみれになって道端に倒れている人を見て、『祭司とレビ人という神に仕える人』たちは、その教義に従って「血穢」を怖れて、けが人を避けて通ったのだが、後で通りがかったサマリア人は、そんなことなど意に介さず、けが人を助けた、というお話である。
イエスは、彼が「正しい信仰」を持っているかどうかを試しに来た人たちに、この譬え話をして「どちらが(神の前において)正しい行いか」と問うたのだ。

同様に「教義や神学に精通して、立派な説教のできる、地位も立派な(祭司とレビ)人」であっても、本当のところ「信仰を誤っている」場合というのは、イエスの時代からすでに珍しいものではなく、むしろ「正統な信仰者ではなかった」人の方が、その自然な人間的善意において「神の意に沿う行動をし得た」という、これはそういうお話なのである。

そして、ここで何より皮肉なのは、この教皇フランシスコによる説教を紹介して『一見神に仕えているように見える人が本当に神に仕えているとは限らない。』などと言っている、カトリック神学者の山本芳久自身が、実は『一見神に仕えているように見える人が本当に神に仕えているとは限らない。』人である、という事実なのだ。

 ○ ○ ○

私は、本書の対談者である、カトリックの一般信徒(平信者)である若松英輔と、カトリックの神学者である山本芳久の著作を、これまでに何冊かずつ読んでおり、それぞれに、すでに批判を加えている。

また、そんな両者の、前の対談本である『キリスト教講義』(文藝春秋・2018年)についても、刊行当時に批判的なレビューを書いている。
だから、今回、本書を読むにあたっても、内容的に期待するところはなかったが、3年ぶりの対談で、二人の関係がどのようになっているかに興味があったので、読んでみることにしたのだ。

前記レビューを読んでいただければ、そこに詳述しているのだが、ここでも簡単に説明しておくと、前対談本『キリスト教講義』は、個人の「霊性」を強調する「霊性主義者(スピリチュアリスト)」である若松が、カトリック教会最大の「正統」神学者であるトマス・アクィナスの研究家である、カトリック保守派の神学者(神学研究者)の山本に対し、「教会の権威よりも、個人の霊性の重要さ」を訴え、一方、山本の方は、世俗的な人気知識人である若松の主張を、表面上はウンウンと物分りよく肯定しながら、教会の側に取り込もうとする、そんな両者の思惑が隠微に交錯する著作であった。

もともと、「文学」畑の人間である若松は、よく本を読んでいるし、評論家として「筆も立てば、弁も立つ」からこそ、人気評論家になり得た人物なので、世俗的な人気や説得力という点では、山本が若松に遠く及ばないのは明らかだ。
しかし、何と言っても、カトリックの信仰においては、山本は「正統」であり、若松の「個人主義的な霊性主義」というのは、世間的には人気はあっても、カトリック的には、きわめて「異端」に近いものでしかない。

したがって、山本が、カトリック的に、若松の「霊性主義」を批判することは、さほど難しいことではないなのだが、しかし「今は、そんな時代ではない」。つまり、今は「世俗」が力を持つ「世俗主義の時代=近代以降」であるからこそ、キリスト教信仰は「ジリ貧」の危機に見舞われている。

だから、内心では若松の信仰を「それは異端だよ」と思っていても、それで斬り捨てて済む問題ではない。
そうではなく、なんとか、この「世俗の人気者」を「教会」の側に取り込んで、利用しようというのが、山本の立場なのである。
つまり、本心は別にして、本書でも山本は、たいへん物分りが良く、一見したところ「リベラル」であり「庶民主義」的であり「フランシスコ支持派」のように振舞っているのだが、本音はそうではないのだ。

本書でも、若松英輔は、怪獣博士による『怪獣図鑑』ごとく、これでもかという調子で「いろんな著名人(権威者)」を次々と引き合いに出して、ペダンティックにその博識ぶりを開陳してみせる。無論このあたりは、とうてい山本の及ぶところではない。

しかし、若松の「北斗百烈拳」的な「手数」勝負のそれは、教養コンプレックスのある読者には通用しても、「教会正統の権威」の光背を背負っている山本には、本音のところでは、まったく効果のないものでしかない。
しかし、山本は、それが「世俗的には効果がある」と知っているから、「鋭い指摘です」とか「神学にも通じるところです」といったように、さも感心したかのごとく褒めて見せるのである。

私は、以前に書いた、若松に関するレビューで、若松の特徴を次のように紹介した。

『若松英輔の「霊性の哲学」とは、一種のシンクレティズムだと言ってよいだろう。
普通、シンクレティズムと言うと『相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること、あるいはさまざまな学派・流派の実践・慣習を混合することである。』(Wikipediaより)というようなことになるが、若松の独自性は、優れた個人(主に故人)を習合して、一種のマンダラに仕立てあげている点で、それは本質的に宗教的であると同時に、雑誌編集的であるとも言えよう。

若松の博捜によって呼び出された、聖人たちの居並ぶ姿は、白亜の神殿に勢ぞろいしたオリュンポスの神々にも似て豪華絢爛であり、それでいて親しみやすい。』
(若松英輔『霊性の哲学』についてのレビュー、「スピリチュアルな時代の「教祖の文学」」より)


今回の対談でも、二人がやっているのは「若松英輔が横に展開し、山本芳久が縦に権威づける」ということである。

前回は、若松の方に、暗に「教会権威主義ではなく、個人の霊性重視を」という「教会批判」の側面が隠されていたが、今回の対談では、そうした「教会権威主義批判」は完全に影を潜め、逆に、若松の方が「教会権威」へと、すり寄っている。

若松は、前回の対談では「霊性主義者」を「個人主義者」として称揚したのに対し、今回は「霊性主義者は教会主義者である」という方向へと、ご都合主義的に「合理化」しているのだ。

例えば、フランシスコの時代になって「復権」した神学者ロマーノ・グァルディーニが、保守派神学者であり保守派教皇として知られた、前教皇ベネディクト16世と親しかったかのように書いているが、これはその実際を意図的に隠蔽し、ごまかした説明だ。

グァルディーニが、フランシスコになってから「復権」したと言うのなら、それは、その前のベネディクト16世や、ベネディクト16世に保守路線を引き継いだ前々教皇ヨハネ=パウロ2世の時代には、冷や飯を食わされていた、ということに他ならない。

では、そんなグァルディーニが、ベネディクト16世と「親しかった」とは、どういうことか?
それは、のちにベネディクト16世になる、保守派神学者である、ヨーゼフ・ラッツィンガーが、1981年11月に教皇ヨハネ・パウロ2世により、教理省の長官に任命された「カトリック神学者のトップ」だったからである。

ラッツェンガーは『教皇位を受けるまでその地位にあった。教理省はかつて検邪聖省といわれていたもので、古くは異端審問を担当した組織である。』(Wikipedia「ベネディクト16世」)

これが意味するのは、ラッツェンガーに睨まれた「リベラル神学者」は、冷や飯を食わされ、下手をすれば「異端」認定されて、カトリック教会に居場所を失うことになる、ということである。

そして、事実、そういう神学者は、少なからずいた。

例えば、戦中ナチスドイツと協定を結んでいたバチカンが、敗戦後に大きくリベラルな方向に舵を切ったことで知られる「第二バチカン公会議」を主導した、若手リベラル神学者の一人であったハンス・キュンク(https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンス・キュング)は、この公会議では同じ「若きリベラル神学者」であったラッツェンガーが、保守派に転向した後、徹底的に嫌がらせ(辱しめ)を受けることになる。

そして、そうした歴史的事実は、ラッツェンガーの側から書かれた、「ベネディクトゥス一六世=ベネディクト16世」の評伝である、今野元『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』(東京大学出版会)にすら書かれている事実で、リベラルなキュンクは、教会が急激なリベラル化の後の反動で保守化した(ヨハネ=パウロ2世やベネディクト16世の時代を含む)長い時期には、カトリック教会の「外」で、「第2バチカン公会議」の掲げた理想たる「教会の一致(エキュメニズム)」の運動を進めざる得なかったである。

つまり、グァルディーニがいかにリベラルな神学者であったとしても、キュンクのような迫害に堪える強靭な精神の持ち主でないかぎりは、現代の「異端審問所のトップ」であったラッツェンガー教理省長官であり、のちの教皇ベネディクト16世と対立することなど、およそ不可能であり、少なくとも「表面上は仲良く」していなければならなかったのである。

そして、ラッツェンガー教理省長官、のちの教皇ベネディクト16世の「リアルな人間性」がどのようなものであったかは、彼を恐れないで済む立場の有識者には、明らかなものだった。

例えば、「ガリカニスム」の伝統により、バチカンの統制に抵抗できたフランスカトリック教会の神父で、多くの国民から「アベ・ピエール(ピエール神父)」の名で親しまれた、本名「アンリ・アントワーヌ・グルエ」は、教皇になったばかりのラッツェンガー(ベネディクト16世)について、忌憚なく次のように語っている。

『『 ヨハネ・パウロ二世の後、次の教皇がいったいだれになるのか、明らかに人々の関心は高まりました。そのなかで人々がたった一つ心配していたことがあります。ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿が教皇に選ばれることです。彼は以前の「教理省」(※ 引用者註・かつて異端審問を担当した、元「異端審判所」であり、元の「検邪聖省」)にあたる、信仰の教義を考える部門のトップでした。
 私はこの良識ある指摘を最初にした一人だと思っています。私たちはよく社会のいたるところで、大きな責任のある立場に就く人がそれに見あった人になっていくのを目にします。責任ある立場に就いた人がかえって威圧的にふるまうこともありますが、多くの場合は余裕ができ、温和になり、自分を律していくものです。つまり一度頂点をきわめると人は今までよりも寛容になり、開かれた人になっていくものです。
 ラッツィンガー枢機卿もベネディクト一六世となり、やはりこのように変わっていくでしょう。教皇選出当夜、彼のまなざしはすでに幸せそうで、穏やかでした。そして教皇として最初に述べた言葉は、他のキリスト教宗派(プロテスタント、英国国教会、東方正教会)や他宗教との開かれた対話を示唆するものでした。今後の彼の行動を待ちましょう。すでに変化の兆しが見られるのですから。

 ラッツィンガー枢機卿が、有利な材料ではない七八歳という高齢にもかかわらず教皇に選ばれたことはとりたてて驚くにはあたりません。枢機卿たちは実はお互いにほとんど知らないのです。ところがそんな枢機卿のだれもがラッツィンガーのことはよく知っていたのでした。さらに言うならば、枢機卿たちの最大の関心事は安定です。波風を立てる必要はなく、冒険もいりません。ラッツィンガーを教皇に選ぶことでヨハネ・パウロ二世の方針を継続していくことができるのです。ラッツィンガーが高齢のためにそう長くは教皇を務められないことも彼らはもちろんわかっています。これは都合のよいことであり、枢機卿どうしがお互いをよく理解しあい、次の次の教皇にはだれがもっともふさわしい人物かを落ち着いてじっくり考えることができるわけです。それが今回ラッツィンガー枢機卿が教皇に選出された大きな流れなのです。

 ベネディクト一六世が在位中に、リベラルと思える二つの方策をとったとしても私は驚きません。一つは再婚した人々に聖体拝領を認めることであり、もう一つはすでに子育てを終えた既婚の、つまり「年配の」男性の叙階を可能にしていくことです。これが聖パウロが言うあの「既婚聖職者」です。一方、女性が叙階され司祭職に就くことや同性愛の糾弾について、彼が立場を変えることはないと思います。』
 (アベ・ピエール『神に異をとなえる者』P36~39「ベネディクト一六世の即位」全文)』

https://note.com/nenkandokusyojin/n/nec31535ab056


あるいは、長年ドイツを率いてきた「キリスト教民主同盟(CDU)」のアンゲラ・メルケルは、プロテスタントではあれ、初めてドイツ出身のローマ教皇となったベネディクト16世とも面識はあったものの、心から親愛の情を覚えたのは、その次の南米出身の教皇フランシスコだった、ということが、メルケルの著書『わたしの信仰 キリスト者として行動する』(新教出版社)の原書の編者であるフォルカー・レージングが、「編者解説」で次のように紹介している。


『(※メルケルは)ヨハネ・パウロ二世の後継者であるベネディクト十六世とは、彼がまだ枢機卿だった時代にすでに知り合っている。彼の知性に強い印象を受けたとメルケルは親しい人々にくりかえし語っているが、ドイツ出身の教皇とドイツの女性首相とのあいだには個人的な親近感は生まれなかった。
 現教皇のフランシスコに対しては、メルケルは珍しく心を動かされたようだ。二人はこれまで何度もバチカンで面談している。難民危機が二人を精神レベルで兄妹にしたように見えるかもしれない。(中略)
 メルケルにとっては、フランシスコは神学者としてよりも、外側からヨーロッパを見ているアルゼンチン出身の教皇として興味を抱かせる対象である。』(P17~18)

https://note.com/nenkandokusyojin/n/ncccf0dd5642f


以上のようなことは、ベネディクト16世の時代に「神学者」になった保守派の山本芳久は無論、いくら若松英輔が「教会」について無知だったとは言え、おおよそのことは知っていたはずだし、教会「正統」権威にすり寄り始めた今なら、すでにはっきりと知っているはずだ。

だが、そんな若松は、本書において、グァルディーニとベネディクト16世を結びつけ、リベラルなフランシスコとベネディクト16世を結びつけて、世間では「リベラルと保守」という図式で見がちだが、カトリック教会の現実はそんなに単縦なものではなく、「神学的」に深いところでは、両者は継続しており、一つなのだ、などという「権威主義的レトリック」で、部外者を煙に巻こうとするのである。

したがって、「カトリック教会の歴史的現実」に無知な(カトリック信者を含む)読者は、若松英輔と山本芳久の「かけあい漫才」に乗せられて、すっかり騙されてしまう。

臆面もなく、両者がお互いに褒めあうことで、お互いの「権威」を保証しあうという、見え透いた手口でしかないのだが、「現実」を知らない読者は「きっとすごいのだろう」ということで、「すごい」と思わされてしまうのである。

しかし、本書で、若松英輔の「聖性(スピリチュアリティー)」という言葉が後退して、カトリック教会の「神学」という言葉が前面に出てくるのは、若松の立場が、「個人の神=イエス・キリスト」ではなく、「神の身体としての正統教会」に移動した、何よりの証拠でしかない。

そして、なぜそうなったのかと言えば、それは普通に考えて、若松英輔の「霊性主義」は、東日本大震災後の一時期を除けば、「オウム真理教事件」を経験した現代日本においては、どうしたって、その「うさん臭さ」は拭いきれなかったからである。

例えば、SF系の文芸評論家である岡和田晃は、小説家・倉数茂との対談「新自由主義社会下における〈文学〉の役割とは」(https://shimirubon.jp/columns/1696859)で、次のように語っている。


『私がしばしば、批評を表現として認めろと言っているのは、別に批評に権威を回復しろという意味じゃなくて、そもそも例えば小説を書いたりゲームを作ったりするのと同じような表現の一角としての批評的な知性というのが存在して、それによってしか得られない世界の輪郭の可視化の方法というのがきっとあるはずだということのつもりなのですね。
?そのため『反ヘイト』の冒頭に今の批評の三類型っていう非常に辛辣な文章を入れてるんですね。一つは極右(ネトウヨ)批評で、もう一つはオタク(サブカル)批評で、もう一つはスピリチュアルな批評っていう。なぜこういうのを思いついたかっていうと、文芸批評やってる時に、編集者と打ち合わせをしていて気づいたんですね、あ、状況として、そうなっているなと。
?ただ具体的な固有名を出して批判すると「岡和田は浜崎洋介を嫌いなのか」みたいな党派的な受け止められ方をすることが多いのですが、そういうレベルではなくて、もう完全に売れ線の批評というものが三つに分類されるような状況というのがあって、それはスピリチュアルな商品として流通するようなレベルのものからハイレベルと思われているような文芸評論までけっこう幅広くその分野に当てはまってしまう側面があると思うんですよ。』


『司会女性  他にご質問ある方はいますか? はい、そこの方、ありがとうございます。

参加者B(著名な作家・評論家) 極右の批評と、オタクの批評っていわれるとだいたい顔が浮かぶんですけど、スピリチュアル批評って僕はあんまりよくピンとこないんですけど具体的にはどんな人の――。

岡和田  具体的に?!(笑)

参加者B 名前言えないの――。

岡和田  いや、言えなくないですよ。若松英輔さんですね。だめですか?

参加者B いやいやいや(笑)。

岡和田  あのね、もうちょっと具体的に言いますと、若松さんの仕事にも、僕はいい文章たくさんあると思うんですよ。パスカル・キニャールの本の解説でご一緒したこともあります。
?若松さんは、たくさん批評の本を書かれているのですけど、やっぱりちょっと超越性に逃げるところがあるなぁと思っていて。
?あのね、具体例を一つだけ出すと、3.11の後に石巻市ではたくさんのタクシーの運ちゃんが幽霊を見つけたっていう社会学的な研究があるんです。幽霊を乗せちゃうんですよ。
?それを学生が実際に調査したっていう本が社会学と称してベストセラーになって(『呼び覚まされる 霊性の震災学』)。ゼミの先生が学生に聞き取り調査をさせたんですが、明らかにいろんな別々な運ちゃんが幽霊を乗っけてるんですね。乗っけて途中で消えるんですよ。
?それはやっぱり3.11の後の集合的なトラウマがあるっていうのが一つの解釈だと思うんですけれども、その研究書の目玉論文では、ある種のスピリチュアル批評を元にして、まぁ霊界的なものが存在するんじゃないかという結論になってたんです。
?つまり現世の後にスピリチュアルな世界というのが前提になっているような論文っていうのはけっこうあって、典拠として示された一番文学的に高度なものの一つが若松英輔さんの本なのです(『霊性の哲学』)。
?この件に限らず、より低レベルなものだと本棚のスピリチュアルコーナーにあるようなものもスピリチュアルな批評だと言えるように思うんです。
?それらの問題点はやはり、社会問題の一番重要な部分というのを「霊界」や「癒し」で逃げているという部分にあると思うんですね。そことは戦っていきたい……というのはお答えになってますか?

参加者B  それ今まで批評と思ってなかった(笑)。

岡和田  いやあのね、若松さんのお書きになる批評にはいい批評もありますよ。面識こそありませんが、ご本人のお人柄もいい人ではないかと思いますし、そういう意味では喧嘩をしたくないんですね。罵倒のやりあいみたいに彼となってもしょうがないんです。そのため、彼については『反ヘイト』では名指しをしていません。
?ただ実際にある種の霊的空間が存在してそこでタクシーの運転手がいろいろ幽霊を見ているみたいな言説の前提になっちゃってるという事実があるので、やっぱり、社会学が踏み越えてはいけない一線を踏み越えてるわけですよ。そういった言説の基盤の一つが、スピリチュアル批評が担保してると思うんですね。スピリチュアルな部分の支持基盤を崩したいと。構造を変化させたいんです。

参加者B  ありがとうございます。』


見てのとおり、岡和田晃は、若松英輔の批評が「スピリチュアル批評」であり「問題がある」と思いながらも、同業者から質問されなければ、その「本音」を口にするのを避けていた。これが「出版業界の現実」なのだ。

若松英輔を「うさん臭い」と思っている業界人や評論家は大勢いるのだが、なにしろ若松は「売れっ子」だから、それを批判して「損」をしたくない。
言わば、カトリック教会において『現代の「異端審問所のトップ」であった、ラッツェンガー教理省長官であり、のちの教皇ベネディクト16世と対立することなど、およそ不可能』だったほどではないにしても、やはり「売れっ子」は敵に回したくない。

私はなにも、『喧嘩』をしろとか『罵倒のやりあい』をしろ、などと言っているのではない。
文芸評論家として、普通に、「おかしいものはおかしい」という「評価を語れ」と言っているだけなのだが、若松英輔との接点がさほど多いわけでもない、SF系の評論家である岡和田にして「コレ」なのだから、若松に近い位置にいる小説家や出版業界人が、表立って若松を批判することなど、考えられなかったのである。

しかし、近年の若松は「霊性主義(スピリチュアリズム)」を強調しすぎていたし、またその「反・教会主義」「反権威主義」を、世俗的「人気」を後ろ盾にして強調しすぎた。
つまり、最初は若松の「霊性主義」と言う言葉の目新しさに惹かれた(カトリックの無知な一般信者を含む)一般人も、そればかり聞かされると飽きが来るし、だんだんと「ちょっと、うさん臭いんじゃなの?」と思えてくる。

実際、国分太一・美輪明宏・江原啓之が出演して、2005年から2009年までテレビ放映された人気番組『オーラの泉』の頃は、「スピリチュアリズム」が一大ブームを巻き起こしたが、その後は相応な落ち着きを見せている。
もちろん、このブームによって「スピリチュアリズム」が一般化し浸透したので、ブームは落ち着いた、とも言えるのだが、しかし、ブームが過ぎた後にも、同じ調子でやっていれば「ちょっとこの人、おかしいんじゃないの?」となるのは、「流行」現象の常なのである。

したがって、「文学」の世界において「霊性主義(スピリチュアリズム)」を主導した若松英輔も、そんなものばかり書いておれば、やがて岡和田晃のように「うさん臭い」と感じる人たちが出てくるというのは必然であり、そうなると、カトリック信仰の場においても、若松英輔の「後ろ盾」だった「世間の支持」が弱まったことになり、若松の立場そのものも弱まることになる。
そこで若松英輔は、従来の「反・教会権威」的な立場から「教会権威」の方へすり寄り始めた、というのが今回の対談『危機の神学』であり、前回の対談『キリスト教講義』との根本的な違いなのである。

 ○ ○ ○

じっさい、若松英輔という人は、その人当たりの良さそうな感じからは窺いにくい「強かな現実主義者」の側面を持っている。
つまり、いつまでも「反・教会」的な「霊性主義(スピリチュアリズム)」者であるのは「得策ではない」と判断し、手のひらを返して利口に立ち回るくらいの「要領の良い厚顔さ」は、持ち合わせているのである。

若松英輔は、2007年に「求道の文学――越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞を評論部門で受賞して、「文学」の世界に足がかりを得るが、本格的に売り出すのは、2011年に『井筒俊彦 叡知の哲学』を刊行して話題となり、その直後から「東日本大震災」に関わる「霊性主義(スピリチュアリズム)」的な著作である、『神秘の夜の旅』(2021)、『魂にふれる 大震災と、生きている死者』(2021)、『死者との対話』(2012)などの刊行によってである。
そのあたりから著述家として売れ始め、2016年に『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で第2回西脇順三郎賞を受賞して、「評論家」としての立場を確立したと言えよう。(※ Wikipedia「若松英輔」)

若松は、まだ無名だった2007年に『ミッチェル・メイ・モデル 「スピリチュアリティ」と「ビジネス」を高い次元で融合した男。』という、米国の有名なヒーラー(霊的な力で病いを癒す人)であるミッチェル・メイの書いた「ビジネス書」を翻訳刊行し、同書にメイを絶賛する文章を寄せている。
つまり、この頃の若松英輔は、とうていカトリックとは思えないほど、「霊性主義(スピリチュアリズム)」者どころか、ほとんど「神秘主義者(オカルティスト)」だったのである。

ところが、出版業界で「売れっ子」になった後は、この種の「超能力」的なものからは徐々に距離をおいて、あくまでも「精神的」なものとしての「霊性主義(スピリチュアリズム)」者であることを強調するようになる。端的に言えば、ミッチェル・メイのような「超能力者」については、言及しなくなるのである。
そして、このあたりに、若松英輔という人の「世俗的な立ち回りのうまさ」が、すでに窺えたのだ。

若松が著述家として「売れっ子」になる以前から、「ミッチェル・メイ・モデル」的なビジネスにおいて付き合いのあった大瀧純子は、若松英輔の公式ホームページ「読むと書く」(https://www.yomutokaku.jp/diary.html)に次のような文章を寄せている

『2020-09-25  ミッチェル・メイが与えてくれたもの

 あるマンションの小さな一室で、「読むと書く」の講座をほそぼそと始めた6年前、私たちの本業は米国のシナジーカンパニーが製造しているオーガニック・ハーブサプリメントを輸入し、販売することでした。
 52種類のハーブをブレンドした「ピュアシナジー」という製品が一番人気で、それなしに今の私たちは存在しないといっても過言ではないほど、多くの方に支持され、ご愛用頂いてきました。

 そのことと「読むと書く」の講座や若松さんの活躍はまた別のもののように感じてきたのですが、先日、そうではないことに気がつきました。なぜ、今までそこに思い至らなかったのか不思議なくらいです。

 「ピュアシナジー」の生みの親はミッチェル・メイ。60代のユダヤ系アメリカ人です。特別な才能を与えられ、ヒーラーとしての活躍ののち、今から30年ほど前に会社を創業しました。
 彼と若松さんとの出会いは今から20年以上前になります。その不思議な出会いのお話しはまた別の機会に、と思いますが、先日、久しぶりに彼と電話で話しをしました。

 若松さん、ダニエル(現CEO)も参加して、フランクな雰囲気のなか、互いの近況報告をするなかで、「読むと書く」の事業の話になりました。内容について詳しく話したのははじめてです。
 たどたどしい説明で、理解して貰えただろうかと不安を感じるなかで、自分でも思ってもみなかった言葉が口をついて出ました。

「私たちが今やっていることは自分たちの手でピュアシナジーを作って、人々に届けることなんです」
「植物のかわりにコトバを集めて・・・。こころやたましいを深いところから支えられるコトバを」と。
本当にそうだ、やっとそれに気がついた、という驚きと同時に、安堵の気持ちになっていました。

 しばしの沈黙が流れ、何かを深く考えているときの、瞑想中のような、静かなミッチェルの顔が画面に映っています。彼らしい、強さと威厳のある表情でもあります。
  数秒のことが永遠にも感じられるほど、濃密な時間でした。やがて彼はやわらかな笑顔を見せて、ゆっくりと口を開きました。
「あなたたちを心から誇りに思うよ。ほんとうにありがとう」。
気づけば涙が頬をつたい、エイスケも涙をこらえていました。

 続きは次回に・・・

※18年間にわたりシナジーカンパニー製品を販売させて頂きました。2019年、日本での輸入・販売は終了しています。』


『2020-10-30  信じること・・・若松さんとの出会い

 もうだいぶ前になりますが『女、今日も仕事する』(ミシマ社)という本をださせて頂きました。そのなかにも一部書かせて頂いたと思いますが、若松さんとは20年近く前にはじめて会いました。ナチュラルハウスというオーガニック関連商品を扱う会社の商談室で、若松さんは商品を売り込みに来たいわゆる「業者さん」、私は新米バイヤーでした。まだ二人とも30代前半で、息子は小学2年生でした。

 実際に顔を合わせたのはそれが初めてだったのですが、それ以前に、互いの会社が開発した商品(ハーブサプリメントのシリーズ商品)は知っていました。若松さんの方が先に販売していましたが、私はその半年ほどあとに商品を完成させ、アロマセラピーサロンや小売店などに卸し始めていました。その商品を見つけて、誰が開発したのだろう?とずっと興味をもっていたと若松さんはその時話してくれました。その少し前に当時の薬事法が改正され、メイドインジャパンのハーブサプリメントが製造・販売できるようになってすぐのことです。

  当時の若松さんは、とにかく早口で弁が立ち、エネルギッシュ。押しも強めで営業マンらしい印象でした。今も変わらないのは知識が豊富で行動力があるところ。まずは良い印象を持ちましたが、あるとき、仕事の打ち合わせを喫茶店で、という約束をしたさい、2時間も連絡なしに待たされたのは今も忘れられません(笑)。その後、一緒に仕事をすることになるのですが、ほんとうにいろんなことがありました。良いことばかりではありません。会社は何度も危機を迎えましたし、もうこの人とはやっていけないと不信感に陥ることもありました。若松さんも、そして私も、人間としても仕事人としても「未熟だった」のだと思います。

  けれどもここまで一緒にやってこられたのは、互いの可能性を信じられたからではないか、と思っています。まだ本も出されていませんし、仕事も会社も綱渡りで危なっかしかった若松さんでしたが、私にはないものを彼は持っていたし、逆もそうだったと思います。結果的に、会社の代表は私にかわり、同時期から若松さんは(今では多くの)著書を出すようになり、世に認められはじめ、「読むと書く」などの講師、そして大学の教授にもなりました。

  若松さんが言ってくれた今も覚えている言葉があります。「僕は会社をうまくやっていく能力は足りなかったけれど、大瀧さんを見つけてきたことが僕の最大の功績だよ」と。 私から言葉を贈るとしたら、「言葉そしてコトバの力を教えてくれてありがとう。今、この読むと書くの現場にともにいられることが本当に幸せで、誇り高いです。これからもよろしく」と言うかしら。面と向かっては照れくさくて言えないかも知れませんけれど。 そして、信じることで互いの能力を開花させることができる、その経験の重みと素晴らしさを今あらためて実感しています。』


つまり、大瀧と若松は、ミッチェル・メイの会社が販売していた「オーガニック・ハーブサプリメント」の輸入代理店をやっていたというわけである。
そして、その流れで、前記の『ミッチェル・メイ・モデル 「スピリチュアリティ」と「ビジネス」を高い次元で融合した男。』を刊行したのだ。
ミッチェル・メイが、どれだけすごい人物かを、日本人に知らせないことには、肝心の「オーガニック・ハーブサプリメント」も売れないからである。

ともあれ、旧友である大瀧純子の文章で注目すべきは、私たちの持つ「若松英輔のイメージ」とはちょっと違った、次のような部分である。

『  当時の若松さんは、とにかく早口で弁が立ち、エネルギッシュ。押しも強めで営業マンらしい印象でした。今も変わらないのは知識が豊富で行動力があるところ。まずは良い印象を持ちましたが、あるとき、仕事の打ち合わせを喫茶店で、という約束をしたさい、2時間も連絡なしに待たされたのは今も忘れられません(笑)。その後、一緒に仕事をすることになるのですが、ほんとうにいろんなことがありました。良いことばかりではありません。会社は何度も危機を迎えましたし、もうこの人とはやっていけないと不信感に陥ることもありました。若松さんも、そして私も、人間としても仕事人としても「未熟だった」のだと思います。』

つまり、かつての若松英輔は「やり手の営業マン」そのものだったのである。無論「機を見るに敏」な人であったことは間違いないだろうし、それが後に「出版業界」でも役に立ったというのも、想像に難くない。

そして、そうした「機を見るに敏」さというのは、当然のこと、カトリック教会との関係においても発揮されたであろう。それが『従来の「反・教会権威」的な立場から「教会権威」の方へすり寄り』なのではないかという「読み」は、ごくごく常識的なものだと思うのだが、いかがだろうか?

 ○ ○ ○

このようなわけで、本書『危機の神学』は、平たく言ってしまえば「無内容」である。

現教皇であるフランシスコを持ち上げて「弱者の側にあること」を強調して見せるわりには、では「これまでの自分たちはどうであったか」とか「これから自分たちは、具体的に何をなすつもりか」といった話は、完全に全く出てこない。

本書で語られているのは、「フランシスコは素晴らしい」「神学的思考は、深く本質的であり重要だ」「カトリック教会は、歴代教皇において一貫しており、保守だのリベラルだのといったことを超越している」といった、具体性のカケラもない話ばかりで、最後まで「自画自賛」に終始しているのである。

私にこの評価が、嘘だと思うのなら、本書を読んで、是非ともその目でお確かめいただきたい。

イエスの口真似ではないが『はっきり言っておく』(新共同訳)と、本書のような「無内容で口先だけの、権威主義的空言の書」をありがたがるのは、「現実逃避」したいだけの「権威主義者」だけであって、本書のようなものに最も嫌悪を示すのは、私ではなく、教皇フランシスコその人であろう。



(2021年12月26日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

 

〈承認と否認〉をめぐる葛藤の果てに… 一一書評:施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』第6巻

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時22分40秒
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 〈承認と否認〉をめぐる葛藤の果てに…

 書評:施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』第6巻(REX COMICS・一迅社)

 初出:2021年12月25日「note記事」

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施川ユウキの作品はほとんど読んでいるはずだが、その作品傾向を大別すると、内面性を強く反映した「叙情的な作品」と、生活的リアリズムをベースにした「自虐的ギャグ作品」の二つに分けられるように思う。
前者の代表作が『サナギさん』『ヨルとネル』『銀河の死なない子供たちへ』といった作品だとすれば、後者は『鬱ごはん』『がんばれ酢めし疑獄!!』そして、本作『バーナード嬢曰く。』もそうだろう。

もちろん、完全に二分されるというわけではなく、それぞれの作品が、どちらの性格を基調にしているかということであって、その割合こそ違っているものの、どちらの要素も含まれるのは、同じ作者の作品として、むしろ当然である。

例えば、本作『バーナード嬢曰く。』は「読書好きの、あるあるギャグ漫画」というのが基本ラインだが、その中で、バーナード嬢こと町田さわ子と、読書友だちである神林しおりとの「友情物語」という側面もあり、日頃は大ボケのさわ子は、時に、極めて繊細な心遣いと洞察によって、その「優しさ」を示し、神林の「孤独」を癒しもする。

このギャップが「グッとくる」ところでもあれば、「百合」だなどと言われたりもする部分なのだが、施川作品の通奏低音として流れるのは「孤独」であると考える私は、施川ユウキの描く「友情物語」に「恋愛」的な要素はほとんどなく、それはもっと根源的な「人間の本質的孤独からの救済願望」とでも呼ぶべきものの、洗練されたかたちなのではないかと考える。
だからこそ、神林を思いやる時のさわ子は、日頃のボケっぷりが演技なのかと思えるほどの「女神」のごとき「優しさ」で、神林を救うのだ。

そして本巻では、そうした側面がかなり強く出ているように思う。
これが何を意味するのか、無論、正確なところはわからないのだが、施川が「あとがき」で、次のように「コロナ禍」に言及しているところを見ると、その影響ということも考えられよう。

『 (※ 前巻)第5巻のあとがきを今読み返すと、切迫感あふれる筆致で新型コロナの話を綴っている。コロナ禍で一番混乱していた時期のようだ。一年半前、ずいぶん昔のような気もするし、つい最近のような気もする。』(P157)

つまり、前巻が刊行された頃は『コロナ禍で一番混乱していた時期』で、その切迫感に支配されていたが、コロナ禍の長期化で、その切迫感がだんだんと薄れていった時期に描かれたのが、この第6巻所収の作品で、徐々に緊張感が薄れきた時期だからこそ、それまでリアルな困難において押さえ込まれていた「人恋しさ」が、意識の表面に浮上してきたのではないか、という推測である。

 ○ ○ ○

本巻で、私が特に面白く感じたエピソード、二つについて書いておこう。神林との「友情物語」の部分ではない。

一つは、第98話(98冊目)「山月記」の回。テーマは「自意識」である。

さわ子と神林は、読んだ本に「点数をつける」という行為について、次のような議論を交わす。

さわ子「ふーっ なかなか面白かったよ」
神林 「そっか 貸してよかった」
さわ子「星3.8」(きっぱりと)
    (それを聞いた神林は、少し退いた感じ)
   「あれ低かった?」
神林 「というか 点数つけるなよ」
さわ子「神林は つけない派かー」
神林 「いやまぁ 読んだ人間の自由だからいいけど」
   「作品の良し悪しを数値化するなんて 自分にはできないな」
   「そもそも 未熟な私がプロの作品を採点するとか… 傲慢じゃないか」
   (そう言った、神林の肩を、さわ子はポンと軽く叩いて、諭すように言う)
さわ子「神林 未熟な私たちには 傲慢になるチャンスが与えられている…!」
   「若さ故の万能感から 傲慢に振る舞い やがて己の未熟さに気づいて自己嫌悪に陥る」
   「それが青春!」
   「傲慢を恐れていたら 成長するきっかけすら失っちゃうよ!」
神林 「屁理屈にしか聞こえないが 堂々と言われると一理ある気がしてきた…」

中島敦の名作短編「山月記」が、言わば「潔癖な自意識過剰」を描いているという点で、ここでは神林の「潔癖な自意識過剰」と対応している。
そして、「山月記」の語り手主人公が、その「潔癖な自意識過剰」の故に「虎(人外)」となってしまう不幸に対し、神林の場合は、その「潔癖な自意識過剰」を、日頃いい加減なさわ子が相対化し「中和」して、結果として神林を救済することになる。要は「人間、失敗してナンボだから、気にするな」という楽天主義である。

さわ子の楽天主義的な意見に、神林は完全に納得したわけではない。当然である。
さわ子は「間違った評価表明は、人を傷つける」という側面を見落としており、あくまでも「自分」の問題としか考えていないからだ。

しかし、問題は、神林が感じているような「間違ったことを言ってはいけない」「それで他人を傷つけてはいけない」というのは、「原則」として正しい「人間倫理」だとは言えるのだけれど、しかし「現実」としては、人間は神様ではなく「完璧」ではあり得ないから、必ず「間違い」をしでかす存在なのだ。
言い換えれば、さわ子も言うとおり、人間は最初から「完璧なかたちで生まれてくる」のではなく、未熟不完全なかたちで生まれてきたものが「試行錯誤の経験」を重ねることで、徐々に「完成」を目指していく存在である(でしかない)というのが「事実」。
したがって、この場合、さわ子と神林の、どちらか一方が「完全に正しい」ということではなく、正解は、その「兼ね合い」の中にしかない、ということなのである。

だから、あえて「正解」風にまとめてみるならば「人は生涯、成熟を目指して、できるかぎりの最善を尽くしつつ、しかし失敗を恐れることなく、経験を積み重ねていくべきものである」ということにでもなろう。

そんなわけで、厳密に言うならば、人は「傲慢であって良い」のではなく「傲慢に見えるくらいで、ちょうど良い」ということになる。
と言うのも、本当に「傲慢」な場合は、自身の「未熟性」に無自覚なのであり、そのために「失敗を失敗と認めない」から、それが成長の妨げになってしまう。
しかし人間が成長するためには、失敗の経験が是非とも必要であり、同時に、その失敗を失敗だと認め得る「謙虚さ」も必要となって、ここで初めて、神林の意識する「謙虚さ」が重要となってくるのだ。

つまり、「謙虚さ」というものは、「保身」のためにあるのではない、ということである。
そうではなく、「謙虚さ」とは、自分が「未熟」であることを認めて、「成長のための努力」の必要性を認めるためのものでなくてはいけない。

ところが、神林の「謙虚さ」は「潔癖な自意識過剰」に由来するものであり、「潔癖な自意識過剰」というのは、言うなれば「自分は完璧であり得る」と考える、ある種の「傲慢」でもあって、その「過剰な自意識」を傷つけないための「防衛意識」でもあるのだ。だからこそ、神林は、しばしばそんな自分に気づいて「顔を赤らめる」て恥じるし、自己嫌悪にもなる。
言い換えれば、無意識的にではあるが、すでに「完璧な自分」に、少しでも傷がつかないようにと、ビクビクしているというのが、神林の「謙虚さ」における「過剰さ」の正体なのである。

したがって、さわ子の「抜けっぷり」が、神林に示すのは「私たちは未熟だし、もともと傷(欠点)だらけの未完成品なんだよ」ということであり「だから、他人との接触の中で、切磋琢磨して、自分を磨かなきゃならないんだ」ということなのである。そしてこれを言い換えるならば「摩擦を恐れるな」ということであり、声高に「傷つけられた」とアピールしたがる人の目立つ昨今の日本人には、殊のほか重要な認識なのだと言えるだろう。

さて、次の興味深かったエピソードは、第101話(101冊目)の「レコメンド」。
「レコメンド」とは、要は「おすすめ」のことであり、例えば「おすすめ本」なんかもそうである。

この話題で思い出すのは、またしても先日の「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」である。
けんごは、豊崎由美に「まともな書評が書けるのか」と言われて、

『書けません。僕はただの読書好きです。

書けないですが、多くの方にこの素敵な一冊を知ってもらいたいという気持ちは誰にも負けないくらい強いです。

読書をしたことがない方が僕の紹介を観て「この作品、最高でした」「小説って面白いですね」と言ってくれることがどれだけ幸せなことか知ってますか?』

と、このように、読解力のない一般読者向けの「泣き落とし」を綴っているが、本の「おすすめ」をして喜ばれた時の喜びなど、読書家なら誰でも知っているに決まっている。なぜなら、それは「相手を喜ばせる」のと同時に「自分の価値観が追認される」ことでもあるからだ。

平たく言えば、「共感」されて「幸せ」な気分にならない人間など存在せず、それは豊崎由美でも私でも当然同じであり、『どれだけ幸せなことか知ってますか?』なんて問いは、「愚問」である以上に「自分だけは、よく知っている」という「傲慢(エリート意識)」の証でしかないのである。

まあ、このような「読み」は、それなりの「文学読み」には容易なことでしかないが、けんごの上のツイートの、「成心」丸出しの露骨な「お涙頂戴の意図」すら読み取れないような未熟な読者が、けんごのリコメンドを喜ぶのは「身の丈にあった選択」として、仕方のないことなのではあろう。

しかし、第98話(98冊目)「山月記」の回の感想として書いたように、「自分の未熟さを反省できない」人間は、成長できない。
未熟さを、未熟だと指摘されて、それをいつまでも認められないような人間は、いくら歳をとっても未熟なままで終わるのだ。決して「時間の経過とともに、自然に成長」したりはしない。
某氏が『認めたくないものだな……自分自身の、若さ故の過ちというものを』と語って、「反省」の必要性を認めていたとおりで、人間は「反省」が無いままでも、歳をとれば、おのずと相応に「読解力」がつく、なんてことはないのである。

したがって、私としては、町田さわ子が語ったように、けんごとそのファンには、「若さ故の万能感から 傲慢に振る舞い やがて己の未熟さに気づいて自己嫌悪に陥る」という「反省経験」を、いつかはして欲しいと願わずにはいられない。しかし、そのためには「失敗を失敗、未熟を未熟だと教えてくれる、大人の存在」が、是非とも必要なのである。

ともあれ、この第101話(101冊目)「レコメンド」は、単純に「とにかく承認されれば良い」という内容ではないことを、多くの読者に読み取ってもらいたいところである。

若者よ、承認コジキにだけはなるな。
未熟だが、成長を目指し続ける者こそが、そのままで、真に素晴らしい人間なのだから。



(2021年12月25日)


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〈宗教〉の問題は、人間の諸事万般に通ず。一一書評:『宗教問題 2021年秋季号 大特集 ネットが宗教を食荒らす!』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時21分22秒
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 〈宗教〉の問題は、人間の諸事万般に通ず。

 書評:『宗教問題 Vol.36 2021年秋季号 大特集 ネットが宗教を食い荒らす!』

 初出:2021年12月24日「note記事」

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誌名どおり「宗教問題」を扱った雑誌だが、表紙タイトルの上に『宗教の視点から社会をえぐるノンフィクション・マガジン』とあるとおりで、「学術誌」ではなく、「ノンフィクション誌」である。
したがって、個々の宗教宗派についての「教義教学的な検討」といったものはほとんどなく、ごく常識的に「言ってることとやっていることが、バラバラじゃないか」という社会的常識レベルで「実際問題」に対する検討と追求のなされている記事が多い。

私は、興味のある特集の号だけを買っており、前回買ったのは「創価学会と選挙」を扱った号だったと思うが、今回は「ネット」ということで購入した。バックナンバーを見てみると二つ前の34号の特集が「神社本庁が溶ける!」となっているので、これも読んでみてもいいなと思っている。
150ページほどで定価も900円と、『ユリイカ』や『現代思想』のように、やたら分厚かったりしないのも、気楽に読めて助かるところだ。個々の記事が短めで、その点はやや物足りないものの、広く新しい話題に触れられるのが便利な雑誌と言えるだろう。

さて、今号の「大特集 ネットが宗教を食い荒らす!」だが、インターネットの出現によって、各宗教宗派が大きな影響を受けているというのは想像に難くない。宗教宗派においても、時代に取り残されるか、逆に時代の波の乗れるかは、今やネットを使いこなせるか否にかかったいると言っても、あながち過言ではないだろう。
だが、具体的なことは、当事者ではないので、いまいちピンと来ない。それで今号を手に取ってみたのだが、色々と興味深い事実を知ることができたし、さすがに「ネット」特集というだけあって、これまでに著作を読んだことのある執筆者が何人も登場していた。

例えば、「幸福の科学」大川隆法総裁の長男でありながら、「幸福の科学」を離れてYouTuberに転身し、その後「幸福の科学」の内幕を描いた『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』(文藝春秋)を刊行して注目された、「宏洋」のインタビュー記事が載っている。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n46f3473f4d16

また、宗教系YouTuberとして著名な「えらてん(えらいてんちょう)」こと「矢内東紀」へのインタビューも掲載されている。
ほぼYouTubeを見ない私が、たまたま矢内の「宗教系リポート」を視て感心し、その後に刊行された著作『「NHKから国民を守る党」の研究』(ベストセラーズ)も読んだ。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n49e0500f64a0

この他に見知った名前としては、たまたま今回は最終回だったのだが、連載記事「日本のカトリックに未来はあるか」を書いている「広野真嗣」の「独占直撃! 高見三明大司教」も、攻めた記事で面白かった。
私は、広野の著書で「小学館ノンフィクション大賞受賞作」の『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」--長崎・生月島の人々』(小学館)を読んでいる。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n1c1e49c21bfe

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しかし、こうした言わば「人気者」の記事だけが面白い、というのわけではない。
むしろ、大した稼ぎにはならないであろう「宗教ネタ」を、使命感を持って地道に追いかけているノンフィクション・ライターたちの文章は、短いながらも熱のこもった充実した内容で、それぞれに面白く読むことができた。

個人的に、いちばん興味深かった記事は、真鍋厚の「オンラインサロンは新時代の宗教か」で、昨今流行の「オンラインサロン」が、「非宗教」ではあっても、「新宗教」的な色彩の極めて濃いものである点を、鋭く指摘している。
私も、「SFプロトタイピング」という手法を売り物にしている「ビジネス・コンサルタント」で、SF作家でもある「樋口恭介」を批判する書評の中で、真鍋文の次の部分を引用している。


『 筆者は以前、オンラインサロンが人々を訴求する要素は、主に「コミュニティ」「物語性」「自己啓発」の3つのキーワードに求められると分析した(「オンラインサロンに金を払う人が満たす心の奥底」2020年9月3日付、東洋経済オンライン)。具体的に説明すると、「〝選民感〟をくすぐる集団への帰属」「魅力的な物語への持続的な参加と貢献」「成長や成功が期待できる役割と任務」と表現できるだろう。』
(前同P29)


『 現在流行っているいくつかのオンラインサロンに共通する傾向として興味深いのは、実践主義的な色彩を強く打ち出しながらも、リーダーのキャラクターとその「物語性」を重視しているところだ。
 世間との軋轢を抱えるカリスマ的な人物が、新規事業を起こしたり、芸術作品をつくるといった困難な課題に挑戦し、人々は自己の資源を投入して下支えするとともに、コミュニティの一員としてその物語を生きることができる。ここにおいてとりわけ注目すべきなのは、オンラインサロンの主催者に立ちはだかる「外敵の存在」だ。
 これも新宗教の教団にありがちな試練とそっくりである。マスコミだけでなく、ソーシャルメディアでたたかれることが多いカリスマ的な人物は、むしろその苛烈な攻撃が教えの正しさを証明しているように思われるがゆえに、支持者の忠誠心はより強固なものとなり自分たちの正当性を確かなものにする。これはイエス・キリストの時代から連綿と続くお馴染みの構図である。
 毀誉褒貶の激しいオンラインサロンの主催者は、時に勃興期の新教団を率いる若き教祖のように振る舞ったりもするが、そのことに驚くほど無自覚であったりする。彼らは古の伝道という文脈ではなく、双方向性によって評価が常に可視化され、収益に直結するエンターテインメントの観点から理解を深めているのであり、洗練されたビジネスモデルに仕立て上げようとしている。例えば西野亮廣は、オンラインサロンの将来像をどう考えるかと聞かれて、次のように答えている。
「これまでは世間的に知られている人の声が大きかったですが、今後はファンを持っている人が強くなると思います。自分のファンをいかにつくるかという点で、大事なのは物語です。僕のオンラインサロンでも、うまくいこうが失敗しようが、挑戦しているときに会員が増えます。漫画やドラマと一緒で、1回上がって、ピンチや失敗があって下がって、そこから再起する。このN字形を自分の人生でもやらないといけません。完璧な事業計画書を作っても、あまりファンは生まれません。あえて負けやピンチを作ることも大切なんです」(「西野亮廣、知名度よりファン大切 オンラインサロンの秘訣を語る」2019年8月17日付、福井新聞オンライン)
 ここで言及されている「あえて負けや失敗をつくること」は、自作自演でも構わないことを示唆している。リアリティ番組がやらせに満ち満ちていても、少しも人気が衰えないことからもその威力は立証されている。10分ごとにクリフハンガー(盛り上がるシーン)を組み込む海外ドラマのように、真に重要なことは「物語を興ざめさせないこと」なのだ。負けやピンチが計画されたものか判別できないほどの迫真性を持ち、危機感を共有するメンバーが進んで出費や奉仕に努めること、それがエンターテインメントとしての圧倒的な強度を生み出すのである。』
(前同P31~32)

つまり、「ビジネス」の世界に、「オンラインサロン」という新たな形で、「宗教的なもの」が蔓延り始めているという話なのだが、これは本来の意味での純粋な「ビジネス」の世界には止まらない新事態だ。

例えば、保守派評論家の古谷経衡がその小説『愛国奴』(文庫版では『愛国商売』と改題)で描いた「保守業界」においても、「オンラインサロン」による「信者的ファンの囲い込み」が見られ、「保守思想」と「宗教」の親近性が、わかりやすく窺われる。

また、前述の通り、およそ「宗教」とは真逆であることを売りにしている「SF小説」の世界ですら、同様のかたちで「顧客の囲い込み」を考える者が出てきているという事実を、樋口恭介らによる「SFプロトタイピング」という「商品展開」の事例などが示しているとも言えよう(「SF的発想は、SF小説にとどまらず、未来を拓くその発想において、ビジネスにも役立つ」といった感じで宣伝をされるビジネスモデル)。
(※ ちなみに「SF」とは、一般には「サイエンス・フィクション」の略称と理解されているが、SFマニアの世界では「スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)」の略称という意味も付与されている。つまり、自分たちの「SF」は、科学的かつ思弁的である、という「選民感」の色濃い自称である)

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n08813591d380

このように、「宗教」とは、一見したところ真逆だと考えられ、当事者もそのように自負し喧伝しているジャンルにおいてすら、「宗教性」というのは、その自覚を欠いたまま蔓延るものであり、だからこそ、そこに危険性もあると言えよう。

もちろん「宗教はアヘンである」としたマルクスの思想でさえ、結果としては「アヘン」として働いた部分があったのだから、人間の「思想」的な産物は、ひとつ「宗教」に止まることなく、その多くが、知性を眠らせる「アヘン」として働くことがあっても、なんら不思議な話ではないだろう。

極論すれば、「正義」も「理想」も「夢」も「希望」も、実体を持たないにも関わらず、強く人を惹きつけて、その「ヴィジョン」において、人をひきづり回す力を持つという点では、「宗教」の一種と言えないこともない。
だから要は、それが「実体のない」虚構・幻想・観念の類いなのだという認識を持った上で、その「実態なきもの」を、自覚的に「道具」として利用できるかどうかが、「(無自覚な)アヘン濫用」となるか「(自覚ある)道具的観念の利用」となるかの分かれ目になるのである。

したがって、私に言わせれば、「理想の宗教」とは「実体としての宗教を解体して、実効性のある理想を構築するところに存在する」と言えよう。「理想の宗教」とも呼ぶべき「理想」や「信念」を持つからこそ、「現実逃避としての宗教」を批判し、その解体を目指すと同時に、それに替わるものの提示提供を目指すのである。

無論、これは言うほど簡単なことではないのだが、基本的な方向性としては、こうしたものでなければならないと考えている。

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さて、この他にも、今号では、いま流行りの「簡素型葬儀」を商品とする葬儀業者の「商業主義的実態と問題点」が、業者名を示しての具体的なトラブル事例として紹介されており、たいへん参考になる。
彼らにとっては「葬儀の簡素化傾向」も「ビジネス・チャンス」に過ぎず、前述のように「ビジネスが宗教化する」一方で「宗教行為がビジネス化する」という方向性もあるのだ。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/nf3d141ac9d2c


大浦春堂の紹介する「ネット上での御朱印高額転売」問題などは、ゲーム機やマスクの転売問題で耳新しいところであり、「転売問題」が「宗教」の世界をも侵食している現実を示す。

特集記事ではないが、「「ソニー神社」と出雲大社教の内情」(本郷四朗)などは、斎藤貴男の古典的ノンフィクション『カルト資本主義』で提示された問題が、いまだに尾を引いている現実を示して興味深い。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n45a9eea90595

さらには「特別読み物」の「公明党議員の違法融資斡旋疑惑「私は遠山清彦議員と金の話をした」」(中山雄二)という記事も、公明党に限らない「政治とカネ」の問題だとは言え、結局は「宗教」が、汚職に対する「ブレーキ」にはなり得ていない現実を伝えている。
公明党が「政権のブレーキ」になれないのも当然なのだ。「人間の欲望は、宗教より強い」からである。

そもそも、人間が「宗教」を求めること自体が「欲望」に発するのだから、「宗教」よりも「欲望」の方が「本源的」であるというのは、当然と言えば当然なのである。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n156081141d6f

一方、鈴木貫太郎のレポート「クラスターを出したブラジル系宗教」は、タイトルから連想される「ありがちな偏見」を排して、マイノリティの心の支えとなっている弱小教団への温かい視線が印象的であった。



(2021年12月24日)

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〈2.0〉は転けたらしい『サルまん』ラシュディ 一一書評:相原コージ、竹熊健太郎『サルでも描けるまんが教室』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)22時18分41秒
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 〈2.0〉は転けたらしい『サルまん』ラシュディ

 書評:相原コージ、竹熊健太郎『サルでも描けるまんが教室』全3巻 (Big spirits comics)

 初出:2021年12月23日「note記事」

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1990年代前半に大ヒットした名作マンガ、通称『サルまん』こと『サルでも描けるまんが教室』である。

なんで今ごろ、こんな「古典的名作」を読んだのかと言えば、(一一最近よく書いていることなのだが)定年間近になったので、新作を読む数を減らして、読み残した名作を少しずつ片付けているためである。

では、なぜ大ヒット当時に本作を読まなかったのかと言えば、当時すでに私は「活字派」になっており、意識的にマンガは読まないようにしていたのと、当時は「新本格ミステリ」の勃興期で、そっちにのめり込んでいたため、マンガにはあまり興味がなかったせいだ。

それでも、アニメの方は見ていたし、「活字」本として、アニメ評論やサブカルチャー論なども読んでいたから、その中で何度も名作『サルまん』の名を目にはしていた。
しかしまた、それでも読む気にならなかったのは、私はマンガであれアニメであれ、小説であれ映画であれ、基本的には「ギャグもの」「喜劇」「お笑い」「ユーモアもの」の類いを、積極的に鑑賞する気がなかったからである。端的に言って私の好みは、「硬派」な「男性的」作品だったのだ。

その上、『サルまん』の場合は、どうにもその「絵柄」が好きではなかった。
幼い頃から絵を描くのが好きで、中学では美術部、高校ではあった漫画部員だった私は、マンガやアニメに関しては「シャープでスッキリした、しかし柔らかさと強さを兼ね備えた描線による、流麗な絵柄」を理想としているから、「デッサンが狂っている(デッサン力がない)」とか「描線にシャープさがなく、線が整理されていない、暑苦しいだけの絵柄」というのが大嫌いなのである(したがって「ヘタウマ」系マンガや、泥臭い「劇画」も、絵柄的には好きではない)。

そうなると、『サルまん』の表紙絵や、作中の「劇画調」の絵柄は、最悪に私の「嫌いなパターン」だった。
まして「下ネタギャグ」など論外で、私は、少年マンガをかたっぱしから読んでいた子供の頃でも、『がきデカ』派ではなく、『マカロニほうれん荘』派であり『ストップ!! ひばりくん!』派だったのである。

そんなわけで、長らく気にはなりながらも、ブックオフで手に取っては、表紙を見て「やっぱり無理だ」と棚に返すということを繰り返してきた『サルまん』だったのだが、歳をとった今なら、「絵柄」には目をつむって読むこともできるのではないかという気になってきたので、今頃になってチャレンジし、なんとか読了することができたという次第である。
(とは言え、本当は、第1巻を読み終えた段階で「この調子で続くんなら、もう止めようかな」と、いったんは考えた。だが、すでに買ってあった第2巻をめくってみると、第1巻ような露骨に「マンガ批評ギャグ漫画」ではなく、いちおうは「ストーリー漫画」的な形式に軌道修正(?)したようだから、これなら読めそうだと思い、読み続けることにしたのだ)

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前述のとおり、第1巻は、第1章の「まんがの描き方(テクニック)」検討から始まり、第2章以降は「各種ジャンルまんがの描き方」を紹介したもので、要は、ジャンルまんがのジャンル的特徴を剔抉し、その独特の「癖」を誇張して際立たせ、ギャグに仕立てる、というのが『サルまん』という批評マンガであった。

だが、こういう「メタフィション形式の批評」作品というのは、当時こそ斬新であったからウケたのだろうが、いま読むと「こんなに同じパターンを延々とやるなよ」と言いたくなってしまう。端的に言えば、飽きるのだ。
ギャグ漫画とはそういうものなのかも知れないが、私はもともとギャグものは好きではなく、また「批評」として読めば、この繰り返しは、冗漫以外のなにものでもなかったのである。

それに第1巻で、鼻についたのは、この『サルまん』(第1巻)がどのように「批評」されるかまで事前予想し、『サルまん』書評をタイプ別に実例を書いて示していた点だ。
それらは『サルまん』批評としてあながち間違いではないものであって、「メタ批評」作品としては「そこまでやる」ところが大したものだとは思う一方、ある意味では、これは「先回りの予防線」だとも感じられたので、この「批評」を寄せつけまいとでもしているかのような態度には、あまり好感は持てなかったのである。

ただ、第1巻とは違って、第2巻、第3巻は、第1巻の内容を「作中の、相原コージと竹熊健太郎」が描いていた作品と明確に位置付け、作中の彼らが、その後、本格的に作家デビューして、こうした「批評マンガ」ではなく、実際に「ウケるマンガ」を目指して連載を始めるという「実践編」的な展開になる。つまり「作中作」の部分が、連載マンガの体をなすようにように描いた上で、その連載作品を描いている「作中の、相原コージと竹熊健太郎」の作家的苦労が「裏話」風のマンガとして、批評的に描かれるのである。

前述のとおり、第1巻では既成のマンガのパターンを誇張してギャグにし、それを高みから批評しているようなマンガだと感じられる部分があったけれど、第2巻以降は、「リアルの相原コージと竹熊健太郎」が、自分たちで実際にストーリーマンガとして連載まんがを描きつつ、それをネタにしてギャグ漫画を描くという困難な「二重性」を、全面的に引き受けることになったのだ。

これは、傍目にも極めて困難な作業であるというのが窺われ、第1巻のスタンスがあまり好きではなかった私でも、第2巻以降の「セルフ・ツッコミ」的なパターンには好感が持てた。作者たちが、本当の意味でのマンガ創作の苦労を引き受けているのがわかったからこそ、その「実験性」や「新しさ」よりも、その当たり前の「創作の苦労」に共感したのである。

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ただ、全体として言えば、もともとギャグ漫画は好きではないので、マンガ作品として十全に「楽しめた」とは言い難いし、さらに批評作品としては、マンガの形式を採ったがために、(その範囲内でよく頑張ったとは言え)特別に感心もしなかった。

私の「好み」が、本書作者たちのそれと相反するものではなく、その上でさらに、本作を連載当時に読んでいたら、もっと楽しめたのかも知れない、とは思う。

しかし、「私が別人だったら、もっと楽しめたかも知れない」といった想定は、批評においては意味を持たない。そんなことを言ったら、どんな作品だった「傑作」だと考える人はいて、その人なら傑作だと評価するだろう、といった話になってしまうからである。

たしかに当時においては「マンガ批評のギャグ漫画」というのは、「新しい」し「刺激的」でもあったろう。何よりも、世間も「バブル経済の末期」で、まだ元気な頃だったから、こうした作品で大笑いする余裕もあったのであろう。
だが、2010年代も後半になってから『サルまん 2.0』が描かれても、それはウケなくて当然だったと思うし、私も今更、そこまでお付き合いする気にはなれない。

と言うのも、仮に『サルまん 2.0』が、同時代のマンガを的確に批評したマンガ作品であったとしても、しかし、その『サルまん 2.0』が、同時代の若い読者にはウケないということを、あらかじめ見抜けなかったところに、作者の「マンガ批評」の限界があったのではないかと、そう考えざるを得ないからである。


(※ 「まんが」「マンガ」「漫画」の表記は、あえて統一しなかった)



(2021年12月23日)

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嘘つきによる嘘つき批判を〈偽善〉と言う。 書評:池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1970』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)21時55分5秒
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 嘘つきによる嘘つき批判を〈偽善〉と言う。

 書評:池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書)

 初出:2021年12月22日「note記事」

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『 被害額285億円で確定 昨年の特殊詐欺、警察庁調べ

警察庁は24日、昨年1年間の特殊詐欺統計の確定値を発表した。被害額は2月公表の暫定値より7億4千万円多い285億2千万円、認知件数は24件多い1万3550件だった。被害額は6年連続で減少した。

摘発件数は51件多い7424件で過去最多となり、摘発者数は37人少ない2621人で確定。警察庁の担当者は「高齢者を中心に被害が多く依然深刻な状況だ。注意喚起を進めるとともに、取り締まりを徹底する」としている。』
(2021年5月24日 20:38、『日本経済新聞』nikkei.com)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE248DP0U1A520C2000000/


昔から、ずっとウンザリさせられてきたのは、特殊詐欺の被害者(あるいは、飲酒運転など)がいっこうに減らないという現実が象徴する「愚かな人ほど自信過剰(自分を知らない)」という事実だ。

高齢者が特殊詐欺の被害に遭ってカネを騙しとられたという話を耳にすると、若い人はもとより、すでに高齢に達している人ですら「歳をとって呆けたからだろう」とか「欲の皮を突っ張らせた年寄りが多いんだろう」などと考えがちであり、これはあながち間違いではないと、私も思う。

しかし、呆けていたり、欲の皮を突っ張らせているのは、何も高齢者だけではない。
若くても「呆けた」人などいくらでもいるし、欲の皮を突っ張らせてない人間の方が、むしろ珍しいだろう。

実際、各種のコマーシャル・メッセージによってでっち上げられた「流行」に、手もなく踊らされるような人間が、どうして「呆けていない」などと言えようか。
コロナ禍の最中に、莫大な予算を投入してまで強行された「国際大運動会」に熱中したような愚民が、どうして「呆けていない」などと言えようか。愚民でなくて、どうして、ひとつ間違えれば、自分の親や子供が入院もできないまま死んでいたかも知れない状況に置かれながら、それでも、やれ「卓球だ」、やれ「スケボーだ」、やれ「金メダルがいくつ」だとかいった、持て囃される当事者以外は、何の「儲け」にもならないことに熱中できたのか(愛国心? 笑わせるな)。

一一それは無論、その人が「呆けて」いるからである。きっと、生まれてからこれまで、ずーっと呆けていたのであろう。

したがって、本書によって、まんまと騙される読者が大勢いたとしても、なんの不思議もないことだ。
きっと、その読者は、この程度の本を読んでいる自身を、「思想」なり「歴史」なりに一家言のある「市井の知識人」だとでも勘違いしているのだろう。こういう人たちが大勢いるからこそ、特殊詐欺の被害者も、後から後から供給されて、詐欺犯たちが「カモ」の減少を憂慮する必要もないのだろう。

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『 前著の『真説 日本左翼史 戦後左翼の源流 1945-1960』では、太平洋戦争後の左翼の歴史を扱うのに独特の枠組みを据えた。それは日本社会党と日本共産党の対立と競争を軸に据え、社会党という傘の下で新左翼諸党派が発展してきたという枠組みだ。この枠組みについては、日本共産党を宗教的に信奉する一部の読者を除いて、好意的に受け止められた。』(P3)

これは、佐藤優による本巻「はじめに」の冒頭部分だが、ここで引っかからない読者は「呆けている」と言っても過言ではない。

なぜなら、佐藤はここで『日本共産党を宗教的に信奉する一部』の人たちを「盲信者」として見下しているが、その本人が正真正銘の「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」なのだから、「目糞鼻糞を笑うなのに、よくも臆面もなく言うよな」と思うのが、まともな(=論理的な)読者だからである。

もちろん、佐藤優が「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」であることを知らないとか、「キリスト教」のことや、ましてや「プロテスタント」や「カルヴァン派」のことなど、まったく知らない「ウブな読者」だったら、その「無知」の故に、佐藤を「盲信」しても、あるいは仕方がないのかも知れない。
そういう人は、自分が「無知」であることにすら、気づかないほど「呆けた」人だからで、将来の特殊詐欺被害者候補なのである(いや、すでに被害に遭ったことがあるかも知れないし、そのことに気づいていないだけかも知れない。なにしろ、呆けているのだから)。

しかし、佐藤が「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」であり、元「ロシア担当の外交官」で「インテリジェンス(情報活動)」にたずさわっていた人であると知っていながら、それでも佐藤が『日本共産党を宗教的に信奉する一部』の人たちを「盲信者」呼ばわりすることに、何の引っかかりを覚えない人というのは、「呆ける」以前に、そもそも「知性を欠いている」のであろう。平たく言えば、単なる「馬鹿」なのである。

さらに言えば、佐藤優は「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」でありながら、「創価学会・公明党」の絶賛提灯本を書いて、印税をがっぽり稼いでいるような、極めて「いい加減で無節操な人間」だし、評論家の佐高信(社民党支持者)が指摘したとおり『2016年3月2日付け『東奥日報』の電気事業連合会の『全面広告』に出て、『エネルギー安全保証の観点から原子力発電の必要性を強調』している。』ような人間である。
一一これはどういうことを意味するのか。

無論、佐藤優は「与党(自民党・公明党)」の側の人間であり、だからこそ、その「原発行政」も応援するし、そのおかげで、がっぽり稼いでいるような人間だ、ということである。
当然「共産党」敵視も、この文脈上のものであり、現在の「自公政権」にとって、馴れ合えないが故に最も面倒な「敵」とは、「共産党」なのだ。

佐藤優とは、要は「節操のない、私利私欲に生きる、権力の幇間(たいこもち)」だということである。

実際、佐藤自身も「歳を取ってきたし、そろそろ保身に走っても悪くはない」という趣旨の本音を漏らしてもいる。

『 50代からは消極的に生きろ 佐藤優さん「人生は逆算」
                  (聞き手・岡崎明子)

 今年、還暦を迎えた作家の佐藤優さん(60)は、50代からは残り時間を逆算し、安易に新しいことには挑戦しない「消極主義」を主張する。人生100年時代。国は「いくつになっても新しいことにチャレンジできる社会を」と、一億総活躍を掲げてきたが、なぜ積極的に動いてはいけないのか。今年、50歳になった記者が聞いた。

新規プロジェクトは片道切符?(※ 見出し)

 一一後半人生を豊かなものにするためにも、様々なことにチャレンジすべきだと思っていたのですが……。

 「50代以降や定年後の生活に向けたメッセージの多くは、『まだ若いんだ、頑張れ』という方向のものです。でも頑張ると、無駄なところへのエネルギーの投入が過剰にされてしまうんですね。これは非常にまずいと思います。今は、頑張れと言われなくても頑張らざるを得ない。体がきく限り、働き続けなければならない状況だと、みなわかっています。そういう状況の中で、現実に近づくためには消極主義が必要なんです」

 一一具体的にはどういうことですか。

 「たとえば、会社などで、これまで全く関わったことがない分野のプロジェクトを任されそうになったら、うまく逃げることです」

  一一抜擢(ばってき)されて、任されたのではないのですか。

 「自分に合っている分野で、業績も伸びているなら別です。でも全く新しいプロジェクトって、会社も成功すると思っていないんです。うまくいかなかった時の責任を取らせる要員として、送られる可能性もありますからね。組織というのは狡猾(こうかつ)です。生き残った人だけを登用し、後は整理すればいいわけで、討ち死にする消耗品として使われる可能性もある。そういうところに自分が送られて、喜ぶな、ということです」

 一一でも断ったら、もっと条件の悪いところに飛ばされるのでは、と考えてしまうのがサラリーマンの性です。

 「自分の力がある程度あれば、適性から著しく乖離(かいり)したところには行かないでしょう。日本の組織というのはピラミッド構造なので、代表取締役や事務次官など、基本的に1人しか幸せにならないつくりになっています。椅子取りゲームから降りざるを得なくなったときに何が起きるかというと、心理学でいう『合理化』、つまりイソップ物語の『酸っぱいブドウ』です。自分はこの物語のキツネのようになっていると、突き放して見ればいいんです」

 一一人間関係はどう考えればいいですか。

 「選択と集中で、仕事関係の人脈は仕事において役立つか、役立たないかで割り切る。有益な人に絞り込むことです」 』
(2020年12月17日 18時00分、朝日新聞デジタル)https://www.asahi.com/articles/ASNDG5DVBNDGULBJ00T.html


佐藤がここで何を言っているのか、お分かりだろうか?

要は「背伸びして無理なんかするな」「直接的な利益をもたらしてくれるやつとだけ付き合って、自分を守れ。何も恥じることはない」という、「保守のススメ」である。

つまり、佐藤は「50歳にもなれば、もう自分の力量はだいたい分かっているはずだから、無理に頑張って今の立場を危うくするようなことをしてはいけない」と、「他人に助言する」風に見せかけて、じつは「守り」に入り始めた自分、これまでの「ご立派な意見」を捨てようとしている自分を、「自己正当化」するための「アリバイ作り」をしているだけなのだ。

だからこそ、これまでは「左右両派」に良い顔をしてきたけれど、これからは無理に「左」につきあう必要はないと考えている。
例えば、沖縄出身者として「普天間基地反対(辺野古沖埋立反対)」を口で唱えるだけならするけれども、「行動」で示して見せろなどと要求してくるような、面倒な「左翼」とつきあわなくてもいい。「昔は昔、今は今」で、若い頃の自身の「放言」になど、いちいち責任など取らなくていいと、そう言いたいのである。

だからこそ、佐藤としては「創価学会・公明党」の絶賛提灯本を書き、印税をがっぽり稼いで「何が悪い」。『電気事業連合会の『全面広告』に出て、『エネルギー安全保証の観点から原子力発電の必要性を強調』して』、がっぽりとカネをもらって「何が悪い」となる。

また、そうした「不都合な事実」をバラした佐高信に対し、言論人として「反論」するのではなく、「名誉毀損罪(事実の告示でも成立)」で「スラップ裁判」を起こして「口封じ」することの「どこが悪い」と、そう言いたいのである。

そもそも、そうした「背教者」でなければ、「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」たる佐藤が、創価学会の「池田大作SGI会長」を「再偶像化」するための提灯本を、いまさら書いたりなどしないだろう。
旧約聖書に描かれた「モーセの十戒」にある「偶像=偽の神」崇拝の禁止では、自分がそうした「偶像」を崇拝することだけではなく、他人に「偶像」を与えることだって、「罪」になるのは言うまでもないことなのだ。

だが、佐藤のやっていることは「池田大作の再偶像化」なのである。
当然、カルヴァン神学からすれば、こんなことをする佐藤優は、最初から天国へ入れないことが「予定」されていた、ということになるだろう。
佐藤自身も、もはや「神の国」入りを諦めているはずだ。だからこそ、「この世」での安寧に、しがみつくのである。

したがって、ここまで「証拠の揃ったペテン師」である佐藤を、それでも、その「有名性」や「物知りぶり」に感心して「信じてしまう」というのは、その人(読者)が相当「呆けている」からに他ならず、最早そこでは、年齢などは関係はない。その人はきっと、生まれてからずーっと「呆けた人」だったのだ。

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無論、本書で語られている「左翼の歴史」が「事実無根のでっち上げ」だということではない。
「巧妙な嘘」というものは「99パーセントの真実と、1パーセントの嘘」によって出来ているからで、だからこそ、多くの人を騙すこともできるのだ。

だから、「ほとんど真実」を語っていても、それで人を騙すことは容易にできるし、詐欺師はみんな、そうしたことを当たり前にやっている。人を「騙す」のに、「嘘」は少ないに越したことはない。その方が「ボロ=破綻」が出にくいからだ。
そして多くの人は、99パーセントに惑わされ、99パーセントに紛れた「1%の嘘」を、見抜く力など持っていないのである。

例えば「こんな素晴らしい事業があって、目端の利く人はすでに投資をして儲けている。今がその最後のチャンスだ」という投資話があったとして、この投資話が「すべて真実」だとしても、その話を持ち込んできた人が、その事業の関係者を装ったペテン師であったなら、結局のところそれは「詐欺」でしかなくなるのと同じことなのだ。

また、芥川龍之介が「藪の中」で描いたように、「事実」というものは「語り手」の「視点」によって、如何様にも変形するものであり、ある人にとっては「イエス・キリストは神である」のと同様、ある人には「池田(大作)先生は日蓮大聖人の生まれ変わりであり、本仏だ」ということになるし、それぞれの信者たちにとっては、それが「当たり前の真理であり現実」だということになってしまう。

したがって、佐藤優という、明らかに「偏った人」による「偏った左翼史観」も、その信者には「現実」として、「盲信」的にありがたがられることにもなるのだし、「理想主義的で理論的だったはずの左翼が、いつの間にかテロリズムに転じてしまうのは、彼らが、人間とは理屈では割り切れない部分を抱えた存在だという事実を、理解していなかったからだ」(P209)などという「常識的議論」にまで、いまさら感心してしまうのである。

本書が「佐藤優による意図的なバイアス」のかかった、党派的な「左翼」観である、と分かって読むのなら良い。
そして、佐藤の「左翼」理解と対立する、別の立場の「左翼」理解の書を、読み較べるくらいのことをする人なら良いのだが、「呆けた」人たちというのは、そこまで「反省的」ではなく、目の前にぶら下げられた「エサ」に食いついてしまうような、カエル脳しか持っていないというのが、残念ながらおおかたの事実なのだ。

例えば、本書の前巻について、Amazonのカスタマーレビューには、現時点で「222」の評価が与えられいるが、この222人の評価者から「日本共産党の支持者」を除いた、残りの大半の人々の中で、「宮本顕治」や「不破哲三」の著作を読んだことのある者が、いったい何人いるだろうか。

たぶん、一人もいないのではないかと私は思う。

例えば、私自身が創価学会員だった昔、敵視していた「日本共産党」側の本を読んでいる人は、皆無だった。創価学会員は、「宮本顕治」や「不破哲三」の本を読んでいる暇があれば、池田(大作)先生の本を読むのが当然だし、他宗派の「教学書」を読んだことがなくても、創価学会が刊行していた『折伏経典』だけを頼りに「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」などと決めつけて批判することに、何の疑問も持たなかった。
そしてこうした「盲信」による知的怠惰は、創価学会員や共産党員だけではなく、キリスト教徒や、佐藤優信者とて、まったく同様なのだ。

したがって、本書の内容を「鵜呑み」にするような人は、「思想」や「政治」というものを全く理解していない、きわめて「ナイーブ」な人である、と言えるだろう。平たく言えば、「馬鹿」であり、「呆けている」人なのである。

そんなわけで、警察だって『私は詐欺に引っかからない! そんな確証バイアスが最も危険!』(https://moc.style/world/keishicho-yokushi-01/)なんていうメッセージを、長らく繰り返して発し続けているが、それでも「カモ」は、後から後から、引きも切らせず生まれてくる。

こんな、わかりやすく胡散くさい「著者」によって書かれた本の内容を、それでも著者の「有名性」において「鵜呑み」にするような読者は、詐欺被害者の予備軍に違いない。
よって今後も、おまわりさん達にはご苦労をかけるが、頑張ってもらうしかない。

最後に、ついでながら書き添えておくと、佐藤優の「役に立つ友人」である池上彰も、本質的には信用ならない人物と考えるべきだ。「わかりやすければいい」というものではないのである。


(2021年12月22日)

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愛嬌のある〈ホラ吹き怪獣〉:R・A・ラファティについて 一一書評:牧眞司編『町かどの穴』『ファニー・フィンガーズ』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)21時52分30秒
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 愛嬌のある〈ホラ吹き怪獣〉:R・A・ラファティについて

 書評:R・A・ラファティ著、牧眞司編「ラファティ・ベスト・コレクション」全2巻:1巻『町かどの穴』、2巻『ファニー・フィンガーズ』(ハヤカワ文庫SF)

 初出:2021年12月20日「note記事」

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初めてラファティを読んだ。もともと、小説はミステリを中心に読んでいたから、読みたいという思いはあっても、SFはあまり読んでいない。内外ともに、個人的な好みに合致するSF作家については集中的に読んでもいるが、SF史的に「当然読んでおくべき作家」の多くについては、まだまだ読めていないのだ。

いくつか読んだ上で「この人は、まったく合わない」とわかって読まないのはいいのだが、試しに読んでみたいと思いながら、その試しがなかなか読めないというのは、「宿題」を抱えているようで、どうにもスッキリしない。
だから、定年の近づいた年齢になって、いろんなジャンルの読み残し作家を読んでいるわけだが、昔ほどではないにしろ、新人の新作だって気にはなるので、なかなか昔の作家の昔の作品は、思うほどには読めないのが実情である。

さて、今回ラファティを読めたのは、ひとえにこの「ベスト・コレクション」のおかげと言えよう。
飛び抜けた代表作がある場合は別にして、まったく読んだことのない作家については、どの本から読み始めるかが重要かつ難しいところだからなのだが、「ベスト・コレクション」なら「ひとまず、これを読んでおけば安心だ」と考えたのである。

ちなみに、なぜこれまでラファティを読まなかったのかと言えば、それは、以前にハヤカワ文庫刊行されていた『九百人のお祖母さん』などの表紙画が、マンガっぽいタッチのものであり、いかにも「ユーモアもの」だという印象を与えたからである。
別に、ユーモアものが悪いわけではないし、気難しい小難しい小説が偉いと思っているわけでないのだが、私の好みは「硬派」な「男性的」作品ということになるので、どうしても「ユーモアもの」は敬遠していたのだ。無限に時間があるのならばともかく、読みたい本の方が無限にあるのだから、原則として、軽いノリのものや女性作家のものは、どうしても後回しにせざるを得なかったのである。
ちなみに、ミステリを読んでいた頃もそうで、私は女性作家のものをほとんど読んでいなかったのだが、例外的に、ほとんど唯一好きになった女性作家は、デビュー当時、その重厚な作風で男性作家と間違えられることの多かった、高村薫だった。

ともあれ、ラファティの場合は、日本語版著書の表紙画から推して、作風が「軽いのではないか」と思えたから、これまでは後回しにしてきたのだが、そのラファティを、なぜ今頃になって読むのかと言えば、それは30年も前、古本友達だった、今はミステリやSFなんかの評論を書いている友人がまだアマチュアだった時代に、ラファティを熱心に読んでいたという記憶があったからだ。
「何を読んでるの?」「ラファティです」「それ面白い?」「ラファティはすごい作家ですよ」といった程度の会話だったが、彼はとにかくたくさん小説を読んでいて、一家言ある人だったから、私も「読まずに、ラファティを軽んじてはいけないな」と、ずっと気になっていたのである。

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さて、今回刊行された「ベストセレクション」2冊に収められた短編39作を読んでの感想だが、牧眞司による解説に、あえて付け加えるほどの、独創的な見解は示せそうにない。まったく「あ~あ、やんなっちゃった」という感じだが、私の感じたところを率直に書いておこう。

まず、ラファティは、いわゆる普通の「SF作家」ではない。SF的な舞台設定やアイデアが使われる作品が多いとは言え、「科学的」というわけでもなければ、「思弁的」というわけでもない。
いわゆる、物事を「哲学的」に考えるタイプでもなければ、ましてや「リアリスト」などでもなく、「神話的」な世界に魅せられていて、それを表現することのできる「変な」作家であり、言ってしまえば、「この世界」よりは「あちら側の世界」に惹かれ、その間にあって「あちら側の世界」を引っ張ってくる「霊媒」的な作家、とでも言えるかもしれない。

その表現は、深刻さを避けて、あえて陽気な「ホラ吹きぶり」を見せる点で、「ユーモア」作家という印象を読者に与えるのだが、しかし彼は、本当に「陽気な作家」なのだろうか?

私は「違う」と思う。
彼の「陽気さ」には、本来自分のいるべき故郷から流刑にあった人の「寂しさ」が、にじんでいるように思う。彼の小説における、にぎやかさやユーモアの陰には、「こちら側の世界」に順応しきれない者が、酒で酔っ払って、ことさらにぎやかに騒いで見せているような感じが、どことなくするのだ。

もしかすると、彼は「あちら側の世界」に帰りたいのではないだろうか。
だが、帰れないことを知っているからこそ、せめて陽気に騒いで「この世の憂さ」を晴らそうとするし、「ホラ話」めかして「あちら側の世界」って語って見せるのではないだろうか。

だからこそ、彼の作品には、牧眞司も指摘するように、「二重性」があり「可愛らしさ」があり、この二つが重なるところでの「悲劇性」もある。

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ちょっと、突拍子もない喩えになるだろうが、ラファティの作風とは、特撮ドラマ『ウルトラマン』(初代)の第35話「怪獣墓場」(監督:実相寺昭雄、脚本:佐々木守)に登場した、亡霊怪獣シーボーズみたいなところがある。

この回を視たことがある方ならご承知のとおり、シーボーズは「亡霊怪獣」と言われるだけあって、骸骨がむき出しになった、「グロテスク」と評してよい外見を持つ怪獣だ。
しかし、シーボーズは決して、人類に仇なすために地上に現れたのではない。人類が宇宙に向けて発射したロケットが、「怪獣墓場」に漂っていたシーボーズを、誤って連れ帰っただけなのだ。

この「怪獣墓場」の回では、どこへ行っても嫌われ者でしかない怪獣たちの、最後の「安息の場所」が怪獣墓場ではなかったかと語られ、事実、シーボーズも怪獣墓場に帰りたいのだろう、空を見上げては、悲しげに吠えるのである。

このように、シーボーズは外見こそグロテスクなものの、その行動所作は、作中でも語られているとおりで「宇宙の孤児」とも呼ぶべき、寄る辺なく哀れな、まるで「迷子」のような怪獣で、シーボーズが寂しそうにうなだれて歩く姿や、石ころ(?)を蹴ろうとして空振りをし、ひっくり返るというその様子は、明らかに「子供」を意識した「カワイイ」ものだった。

だから、シーボーズが、「怪獣墓場」から心ならずも「地上」につれ来られた「グロテスクだけれども、カワイイ怪獣」であるのと同じように、ラファティの描くキャラクター(のいくつか)も、そしてラファティその人も、「あちら側の世界から、こちら側の世界に、心ならずもつれ来られて怪獣」だと言えるのではないだろうか。

無論、ラファティは「大人」の外見を持っており、だから「酔っ払いのホラ吹きオヤジ」という、あまり一般には歓迎されない外見(イメージ)をまとってはいるが、彼の中にいるのは「一匹のシーボーズ」なのかもしれないと、私はそんな風に感じたのである。


(2021年12月20日)


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セピア色の写真と〈失われしもの〉一一書評:野呂邦暢(著)、岡崎武志ほか(編)『野呂邦暢 古本写真集』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)21時48分29秒
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 セピア色の写真と〈失われしもの〉

 書評:野呂邦暢(著)、岡崎武志、古本屋ツアー・イン・ジャパン(編)『野呂邦暢 古本屋写真集』(ちくま文庫)

 初出:2021年12月19日「note記事」

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野呂邦暢は、1945年に長崎市に生まれた。今では珍しくはないが、作家になったのちも上京することなく、同じく長崎県の諫早市を拠点に活動した地方在住の小説家で、1974年(昭和49年)に、自らの自衛隊経験を基にした作品『草のつるぎ』で芥川賞を受賞している。
野呂は古本屋が好きで、後年には『愛についてのデッサン 佐古啓介の旅』という、ミステリ要素のある『古書店を舞台に人間模様を描く「古本青春小説」』も刊行している。

今回、刊行された『野呂邦暢 古本屋写真集』は、2015年に刊行された単行本の文庫化だが、この元版が500部限定、定価2500円の売り切りであったため、刊行即完売となり、一時は古書価が1万円近くにまで高騰したそうだ。
内容は、野呂の没後に見つかった「古本屋を撮った写真」をメインに、野呂の古本がらみのエッセイを収録し、それに編者らの対談や解説を付したものである。

やはり、本書の圧巻は「古本屋を写した写真」の数々。撮影されたのは1970年代で、野呂が仕事で上京した際、神保町を中心とした東京の古本屋を撮ったものが多い。
編者らも語っているとおり、古本屋好きは多くとも、古本屋の写真を撮っていた古本屋好きというのは、ほとんど聞いたこともないくらい珍しいため、今となっては、野呂の写真は大変に貴重な資料だと言えるだろう。

なにしろ1970年代と言えば、スマホ以前の携帯電話は無論、使い捨ての簡易カメラすらなかった時代(富士フイルムが発売した、レンズ付きフィルム「写ルンです」は、1986年(昭和61年)の販売開始)で、写真を撮るためには、かさ張り、持ち重りのする写真機を持ち歩き、安くはないフィルムを装填して撮影しなければならず、撮ったフィルムも、カメラ屋に現像に出し、印画紙に焼き付けをしてもらわなければならないという面倒な時代だった。
今のように小さなスマホで、何枚でも好きなだけ撮影し、それをモニター上で見て、不必要なものは消去すれば良い、という便利さしか知らない世代には、この説明でも、きっとピンと来ないのではないだろうか。
ともあれ、写真というのは、よほどのマニアでないかぎりはやらない、手間とお金のかかマニアックな趣味だったのである。

しかし、そんなマニアックな人達の多くが撮ったのは、やはり風景と人物であり、後に鉄道列車などを撮る、今で言う「撮り鉄」なんかも出てきたとは言え、趣味で、古本屋の写真を撮る人など、およそいないと言っても過言ではなかったのだ。

だが、そうした希少性やマニアックさを抜きにしても、本書に収録された「古本屋写真」はとても魅力的だ。
「芸術写真」的に素晴らしいということではなく、その色褪せ具合や素人くさいピンぼけ具合まで含めて、あの時代の空気を見事に写し取っている。いや、封じ込めていたのである。

同じ時代の、同じような街頭風景写真でも、それはそれなりにノスタルジックな作品になっていただろうが、普通は誰も撮らない古本屋を撮っている点で、野呂の「古本屋写真」には独特の魅力がある。

無論、それは「古本屋好き」には、特に強く働きかけてくる魔力なのだろうが、「古本屋写真」の独特の魅力とは、古本屋というものが、言うなれば「小さなバベルの図書館」であるという特異性に発するものなのではないだろうか。つまり、写真の中の古本屋は、ただ「本を売っている店」ではないのだ。
そもそも「本」自体が「小宇宙」と呼ぶべきものだが、古本屋の場合、店ごとに品揃えが違い、その棚にはその独自の品揃えで「当時の古本」がずらりと並べられ、共鳴しあっている「階層宇宙」なのである。

したがって、「古本屋」の写真は、おのずとその店内の様子を想像させずにはおかず、その棚を、棚に並んだ本を、想像させずにはおかない。
そして、そのちょっと薄暗い店内の棚の片隅には、今では考えられないような稀覯本が、当たり前のように挿されていたりする。……なんて妄想を、ついついたくましくしてしまうのだ。
つまり「古本屋写真」は、そこには写っていない「奥の奥」までをも、強く想像させるのである。

実のところ、1970年代では、私もまだ子供だったので、古本屋に興味はなかった。むしろ、幼い頃の記憶にあるのは、近所の小さな「貸本屋」の方で、私が古本屋巡りを始めたのは、社会人になってからの1980年代も後半のことでしかない。
そんなわけで、1970年代の古本屋の写真を見て「懐かしい」と感じても、それは実際にそれを知っているから「懐かしい」というわけではないのだろう。たぶん、子供の頃に見た貸本屋と、後年に見た古本屋の記憶を無意識に合成し、それを過去に投影して、一種の既視感にとらわれている、といったことなのではないだろうか。

例えば、野呂の写真を見ていて「この頃の古本屋は、木枠ガラス引き戸の店構えで、中には土間の店もあった」ような気がするのは、昔見た貸本屋や駄菓子屋などの記憶が渾然一体となって、記憶のごときイメージを形成し、それを「懐かしい」と感じているのであろう。実際には見ていない、景色風景としての古本屋であり、そして古本屋の棚である。

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編者二人による対談では「古本屋の時代的な変化」が語られている。

『岡崎 あとは怖い店主のイメージもあるね。昔は通路に本が積んであるお店が多くて、それを触ると「触るな!」と怒られる。店の中にある本を触って怒られるって(笑)。「これ商品じゃないの?」となる。
小山 まだ値がついていない未整理の本ってことですね。独特のルールで一見してわからない。「触っちゃっいけない」「丁寧に扱わないといけない」、だから、普通の商店とちょっと店内のルールが違っている。古本屋の店主は王様、一国の主だった。
岡崎 売れるまでは自分のもの、ということだな。だから昔の古本屋は客をよく怒ったね、買わへんなら帰ってくれと。京都の古本屋で怒られている客を何度も見た。そんなことも知らんのかと説教されて。おいおい、そこまで言うかって。
小山 逆に、最初は怖そうに見えて、本の話をすると店主が乗ってきて、私なんか帰してもらえないをお店もあった(笑)。そういう状況が変わってきて、近年のニューウェーブ系の古本屋が出てきて、いわゆる「ふつう」の商店として機能するようになってきたから、女性の進出も始まるということですね。』(P191~192)


『岡崎 (略)かつての古本屋とふつうの小売業との間には独自性があった。ブックオフはそれを解放し取り込んだ。
小山 特殊性に馴染めない人の支持を得ましたね。スーパーで「ものを買う」のと同じ。家族でも楽しめる。悪口を言う人も多いけど、ブックオフが果たした功績も大いにあると思います。
岡崎 ただ、ブックオフやファミレスなんかの大型チェーン店が、客を持ち上げ過ぎた気はしている。すべて客の言いなりで受け身でしょう。もし、今の古本屋が客に怒ったら、びっくりするだろうね。物を買ってるのに怒られるって。でも、それも楽しいかもしれない。怒られたこともよく覚えているし、なぜ怒られたのか考える。一軒一軒、その店主の個性と棚、並べ方、売り方が違う。それは図書館や新刊書店ともまた違うんですよ。さっき言った、同じものが店によって違うという値段のゲームもある。だからぼくは古本屋でいろんなことを知ったな。たくさんのことを勉強させてもらった。これまで古本を買って、ほとんどのものは後悔したことはないし、一冊一冊しっかり思い出がある。』(P194~195)

私も最初は「未整理本」に触るなと注意されたけれど、それでもそれ以降も店主の目を盗んでのチェックはしたし、欲しい本があれば、無理を承知で交渉もした。たいがいは売ってくれないのだが、後日「おたくには、これこれという本はありませんか?」などと素知らぬ顔で電話して、うまくいけば購入することもできた。このあたりが「駆け引き」であり、勉強なのだ。

そもそも、古本屋で怒られる人というのは、本の扱いを知らない、日頃あまり「まともな本」を読まない人が多かったはずだ。
例えば、本の扱いがぞんざいだとか、抜いた本を元の場所に戻さないとか、やたらと棚から本を抜き差しするだけで買わないとか、立ち読みするとか、値引き交渉をする、とかいった人である。

例えば、最後の「値引き交渉」の問題だと、外国ではよく「値引き交渉は当たり前」だというので、その真似をしたがる人が多い。しかし、それは文化の違いを無視した、短絡的模倣でしかない。
特に古本屋の場合、「値付け」は店主の見識を示すものであり、相場より高くつけていれば、それはその本にはそれだけの価値があると、店主が考えているからなのだ。つまり、店主の価値観や思想の反映だと言っても良いだろう。
それを高々数百円くらいのために、ケチな交渉を仕掛けてくるんだから「お前には、この本を買う資格などない。帰れ」となるのは当然なのである。
また逆に言えば、その本に不相応な値段をつけていれば、客の方が心の中で「この店主は、この本の値打ちがわかってないな」と馬鹿にして、安ければ買い、高ければ「いつまでも売れないだろうよ。値下げしたら買ってやるから、せいぜい頑張ってね」と、買わなければいいだけの話なのである。

要は、本の値打ちのわからない素人が、単純に「値段」だけで本を買おうとすることに、古本屋の主人は抵抗していたのである。
そもそも、古本屋というのは「古いから安く売る」という単純な価値観では成立していない業種だったから、「本の中身」や「その本の来歴」といった「中身」には興味がなく、ただただ「商品」として本を見るような客を、古風な古本屋の主人は嫌い、その悪しき「資本主義経済的あるいは新自由主義的な価値観」に抵抗していたとも言えるだろう。

そんなわけで、私には、古本屋の店主に「怒られた」という経験が、ほとんどない。少なくとも、記憶にはまったく無い。
むしろ「話し相手(聞き役)をさせられて、ウンザリした」経験の方が、山ほどあるくらいで、どちらかと言えば、古本屋の主人には可愛がられた方だと思う。

例えば、神戸の元町商店街には「黒木書店」という有名な古本屋があったが、私はそこが有名だとは知らないで、しばしば立ち寄っていた。

『古い話になるが、日本古書通信1990年6月号の「往信 返信」欄に背広・ネクタイ姿の神戸黒木書店 黒木正男氏とラフな格好の東京石神井書林内堀宏氏の御両名が写真入りで登場している。
小生の大学時代の昭和40年代前半には、神戸元町の「黒木書店」には時にお邪魔していたが、10坪もない広さの店に少し気難しい印象を受ける黒木さんが座っていたように記憶している。

  黒木書店が「近代文学」に関する品揃えでは第一級の店であったと知ったのはかなり後の、谷沢永一氏の文等を通じてであり、当時、本に関する基礎知識のない20歳前後の小生(今も知らないことばかりだが)には、同店の凄さは分からなかった。また、もともと小遣いの少ない学生のことで購入できる本もしれてはいたが、時に詩集などを同店で購入していたように思う。
(中略)
この古書通信での対談で両氏の古書店経営に対する真摯で厳しい態度には、古本屋一年生の小生としては、若干の違和感の残る部分もあるが、見習わねばと思う。』(ブログ「古本屋的日常」、2005年8月5日付「神戸元町 黒木書店のことなど」より)(https://furusino.exblog.jp/405826/

たしか、この黒木書店で、客が叱られている現場を見たことがあったと記憶する。怖い店主が多かったとは言っても、客を叱りつけたり説教したりするような豪の者は、そんなに多くはないから、記憶に残っているのだろう。

その時のことだったかどうか、記憶は定かでないが、黒木書店の主人から「本の値打ちが分からない奴には売りたくない」とか「本を買うのにケチってはいけない。自分の頭にはカネをかけるべきだ」といった趣旨の話を聞かせてもらった記憶がある。
「主人の話がとにかく長くて困り、捕まらないようにこっそりと棚をチェックして、逃げるようにして帰った古本屋」というのは、大阪市旭区の千林にあった(今もあるかどうかは知らない)某古書店の若い主人だったから、黒木書店の主人の話が長かったという記憶はなく、ただ頑固なまでに古風な古本屋なのだと、今もどちらかと言えば好意を持って記憶している。

そんなわけで、岡崎武志の語る『ブックオフやファミレスなんかの大型チェーン店が、客を持ち上げすぎた気はしている。すべて客の言いなりで受け身でしょう。』というのは、とてもよくわかる話だ。そんな事情だからこそ今は、「お客様は神様」であると思い込んでいる、「甘やかされた客」が多いのである。

だが、物の売り買いというのは、本来は売り手の買い手の「対等取引」であって、アプリオリに「客が偉い」などということはない。
ただ、客を「おだてて」持ち上げたほうが「売りやすい」ということでしかないのだが、それが分からない、頭の悪い人たちが「買ってやるんだから、客の方が偉いに決まっているだろう」などという、浅はかな「勘違い」をするのである。
売買交渉は「売ってやる人」と「買ってやる人」の交渉。あるいは「売ってくれる人」と「買ってくれる人」の対等取引。また、だからこそ、その駆け引きの中で「学ぶこと」も少なくなかったのである。

話は変わるが、先日の「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」の問題も、言わばこれと同じで、「本を売る」「本を紹介する」というのは、「売れれば良い」というだけのことではない。だからこそ、古風な豊崎は、つい「怒った」のだろうが、今の「客」たちには、そんな説教は通じなかった。

「けんごの紹介から入って、本を読むようになる人も少なくないのだから、頭ごなしに否定すべきではない」といった「今風に物分かりのよい意見」が大勢を占めるが、そんなところから入った読者の多くは、そんなところ止まりになるのが関の山、とまでは言わないが、そうなる蓋然性の方が、はるかに高いだろう。むしろ「その程度で満足するな。おまえなんて、本のことを何も知らないんだから」と言ってくれる「頑固な古本屋の主人」のような言葉を耳にして、自分の立ち位置について「考えた」人の方が、深く「書物の世界」に踏み入っていくのではないだろうか。
例えば「TikTokerけんご」が、この先「売れにくい専門書」を紹介するようなことのできるレベルに成長するだろうか、という話である(ましてや、そのファンが)。

ともあれ、古本屋が変わったように、読書の世界も変わっていくのは必然で、おのずと、その「波に乗り遅れまい」とする者が大半だという現実は、今も昔も変わらないだろう。

そして、そうした中で、若者が「新しいもの」に目を奪われるのは仕方がないし、年寄りが「失われゆく古いもの」を惜しむのも仕方がない傾向だ。
だが、それを「老害」などという「年齢差別」で排除し続けていれば、年寄りの「経験」は活用されることもなく廃棄され、ただ「消費者である若者」に媚びる者だけが、搾取されている当の若者から「感じの良い人」として活躍することになるだろう。

『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり』
(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)

私がしばしば引用する、大岡昇平の言葉だが、ここでのポイントは『いやなこと』を言う、というところだろう。今は、こうした言葉が「商品にならない」からと忌避される時代なのである。

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ともあれ、昔には昔の「美点と難点」があり、今には今の「美点と難点」があるというのは間違いなく、昔をむやみに持ち上げるのも正しくない、というのは確かである。

ただ、セピア色に変色した「昔の写真」のようになった過去は、その難点を洗い落として懐かしまれるその一方で、もう決して取り戻すことはできないのである。


(2021年12月19日)


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〈読書〉は、娯楽か? 一一書評:アラン・ベネット『やんごとなき読者』(白水Uブックス)

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)21時46分27秒
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 〈読書〉は、娯楽か?

 書評:アラン・ベネット『やんごとなき読者』(白水Uブックス)

 初出:2021年12月16日「note記事」

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「読書は、娯楽なのか?」という問いに対して、「娯楽である」とか「娯楽ではない」といった回答は、無意味である。なぜなら、「読書には、娯楽の側面もあるが、それがすべてではない」というのが、明らかな事実だからである。

「読書は、娯楽なのか?」という問いを示された時、多くの人は、その「読書」の対象として「小説」を思い浮かべるだろう。なぜなら「小説」には、「娯楽」提供の意図がハッキリと込められているからだ。

しかし「娯楽」と言っても、ピンからキリまであるのは言うまでもない。
つまり、私が言うところの「(娯楽でしかない)駄菓子のような小説」もあれば、読むのに苦労し、理解するのに苦労するけれども、そこに秘められたものを読み取れた時には、目の前でパーッと新しい世界が開けるような「文学作品」もある、ということだ。

そして、「読書」と言えば、何も「小説」だけを指すわけではなく、「哲学」「思想」「歴史」などの人文系、「物理学」「数学」「天文学」といった理数系など、各種の「学術書」や「専門書」がある。
これらは一般に、「娯楽」として読む本ではないけれども、しかし、好きな人なら、これらの本を「娯楽」としても読むし、事実「小説本などとは到底代えがたい魅力的な書物」として楽しむことができる。そして、そんな読者も、一定数は確実に存在する。

だが、「純文学」を含めた各種「専門書」と「娯楽書」との間には、確実に「違い」がある。それは、読者の側に、相応の「能力」が求められるのか否か、だと言えるだろう。

駄菓子なら、誰でも、それなりに美味しく食べられるように作られているけれど、私などのように「舌の訓練」が出来ていない(子供舌の)人間には、その「(複雑微妙で深い)味がわからない」上質な料理というものも確実に在って、その事実は否定できないし、否定する必要もない。人間は万能ではないし、「能力差」というものは厳然として存在するからである。

「読書」でも「食道楽」でもそうだが、人間には「能力差」というものがある。
人間としての「権利」は「平等」でも、「能力」というのは「平等」ではないのだ。

もちろん、「能力」には「先天的なもの」と「後天的なもの」があって、人の努力とは、もっぱら「後天的なもの」についてということになるわけだが、いくら「先天的なもの」を持って生まれてきても、まったく努力しなければ「能力」は伸びず、結果として、何者にもなれない。

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本作『やんごとなき読者』は、エリザベス女王が「読書にハマったら、こうなったかも」というお話である。

日本でもそうだが、世間の注目を浴びながら、しかし、どの方面にも角が立たない存在であることが求められる「ロイヤル・ファミリー」は、あまり「才気煥発」であったり「個性的」であったりしては、政府が困る。「個性的な人」「才気煥発な人」「自己主張をする人」を嫌う国民は、少なくないからだ。
ましてや、「思想」を持ったり「忌憚のない意見表明」などされては困る。こうした人たちは「すべての国民」から愛されるような、「無難な存在」でなければならないのだ。だからこそ、日本だと、天皇や皇位継承者が、大学まで行って研究しているのは、「草花」とか「古典文学」とかいった、「党派性」などないに等しい「無難な研究対象」になってしまう。そうせざるを得ないのである。

本作の中でのエリザベス女王も、当初はそういう「無趣味」な人であった。それは彼女が「女王」として、公務に専念しなければならない人だったからであり、それを宿命づけられた人間だったからである。

しかし、そんな彼女が、ひょんなことから「娯楽としての読書」にとり憑かれてしまう。そして、それまでの「単調で広がりのない生活」に疑問を持つようになる。

無論、だからと言って、女王を辞めてしまうわけにはいかないのだけれど、ただ公務を果たし、責任を果たすだけの生活の中で見てきた「世界」は、あまりにも広がりや深みの欠けたものであったことを、書物は彼女に教えてくれた。
実体験は貴重だが、あまりにも多くの制約がある。だが、読書による頭の中での体験は、自分という一個の人間という小さな枠を軽々と超えて、より広い世界を教えてくれる。そのことを、彼女は知ったのだ。

しかし、周囲は、そんな彼女の「変化」を喜ばない。自分たちの「政治的思惑」の中で無難に動いてくれる「女王様」であることを期待するからだが、一度、読書の喜びを知ってしまった彼女は、もはや元の「ロボット」に戻るわけにはいかなくなり、彼女なりの抵抗を始め、内面の自由を取り戻そうとする「普通の人間」へと、成長していく。

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と言っても、本書は決して堅苦しい作品ではない。

むしろ、読書家の「あるある」が散りばめられており、クスクス笑いながら読める作品である。
例えば、それまでは(日本で言う)「園遊会」などで、そこに集まった「選ばれた人たち」に声をかけるのも「どちらから、いらしたの?」というのが、決まり文句だった。なぜなら、それは誰に対しても使えるし、いちばん無難な話題だからだ。
ところが、本にとり憑かれるようになった女王は、そんな「中身のない会話」が嫌になってきて、「今、どんな本を読んでらっしゃるの?」などと質問しては相手を困惑させたり、周囲の宮殿職員にも同様の質問をして、はかばかしい返事が返ってこないと、オススメ本を貸し与え、さらには数日後に「読んだ?」「どうだった?」などと質問しては、相手を困らせるなんてことを始めたのだ。

けれども、女王は馬鹿ではないから、やがて、そうしたことの無理や限界を理解して、そうしたことはしなくなる。
しかしその一方、彼女は単に「好きな作家の小説」を読むだけではなく、その小説家についての「評伝」や「作家論」も読み、それからそれへと読書の幅を広げ、読書家としての「能力」と「喜び」を深めていく。
最初は、かったるくて仕方がなく、読みながら、つい「さっさと先に進みなさいよ」などとつぶやいてしまった、ヘンリー・ジェイムス晩年の小説についても、その「味」を堪能できる「読み巧者」にまで成長していく。そして、そうした中で、「人間」に対する理解を深め、自立した人間として、成長していくのである。


『「今日は何のご用?」
 サー・クロードが用件を思い出そうとしているあいだに、女王は彼のコートの襟の下にふけが薄く積もり、ネクタイには卵のしみがつき、垂れた大きな耳の穴には垢が溜まっているのに気づいた。昔だったらこのような欠点には気づかなかったはずだが、なぜかいまは目に飛びこんできて、心が揺さぶられ、胸の痛みさえおぼえた。かわいそうに。第二次世界大戦中は激戦地のトブルクでも戦った人なのに。書いておかなければ。
「読書ですよ」
「何ですって」
「陛下は読書を始められたそうで」
「違うわ、サー・クロード。前から読んではいたの。ただ最近になって読む量が増えたのよ」
 いまや女王には彼が来た理由とそれを仕組んだ者の正体が見えてきた。彼女の半生に立ち会ってきたこの老人は、ひたすら気の毒な存在から彼女を迫害する側の一員になった。同情は吹き飛び、女王は落ちつきを取り戻した。
「本を読むのは何も悪いことではありません」
「それを聞いてほっとしたわ」
「やり過ぎが問題なんです。そうすると困ったことになる」
「読書を控えめにした方がいいということ?」
「陛下は実に模範的な生活を送ってこられました。たまたま読書がお気に召しただけでしょう。なんであれ同じように熱中すれば、顰蹙を買うことになったはずです」
「そうかもしれないわね。でも私はこれまで人の顰蹙を買うことなく生きてきたのよ。それはたいして自慢できることでもないような気が時々するの」』(P117~119)


『「私はこれまでに大勢の国家元首に会い、さらには彼らをもてなしてきましたが、中にはとんでもないいかさま師や悪党もいて、夫人も似たようなものでした」少なくともこれには何人かが浮かぬ顔でうなずいた。
「白い手袋をはめた私の手を、血塗られた手に与えたこともあれば、みずから子どもたちを殺戮した男たちと礼儀正しく話を交わしたこともあります。私は汚物と血糊のなかをくぐりぬけてきました。女王に必要不可欠な装備は、腿まである長靴なのではないかとよく思ったものです。
「私はよく常識に富んでいると言われますけど、裏を返せば、それ以外のものはたいして持っていないということで、そのせいでしょうか、歴代の政府の要請に応じて、無分別な、往々にして恥ずべき決定に、消極的ながら関わらざるをえなかったのものです。時おり、自分が体制の香りづけのために、あるいは政策の臭いを飛ばすために送りこまれた香りつきの蝋燭のような気がしたものです一一近頃の君主制は政府支給の脱臭剤にすぎないのではないかしら。
「私は女王であり、イギリス連邦の元首ですが、この五十年のあいだには、そのことに誇りよりも恥を感じざるをえないような出来事が数多くありました。でも」
一一と言って立ち上がる一一「優先順位を忘れてはいけないわね。なにしろ今日はパーティーですから、話を続ける前にまずシャンパンを飲みましょうか。』(P147~148)


女王は「読書」を通して「私には声がない」(P127)ということに気づいた。

無論、それまでも、彼女には彼女なりの考えがあり、女王論があって、彼女なりに女王の務めを立派に果たし、その中で必要な「声」を発してきた。しかし、その「声」は、彼女の声ではなかった。

彼女は「読書」を通して、いかにそれまでの自分が、何も知らず、何も考えていなかった、空っぽな人間であったかに気付かされたのだ。彼女は、空っぽだからこそ、無理なく「役割としての女王」の「声」を、台本に書かれたセリフのように発してこれたのだ。そして、それを自分の声だと思い違えていたのである。

どうして、多くの人の「声」は、「紋切り型(ありきたり)」であり「無難」なのだろうか。
エリザベス女王の場合は、女王というその「特別な立場」のせいであったと言えようが、しかし、そんな重大な「しばり」など与えられていないはずの「一般大衆」の声だって、実に「紋切り型」に「無難」で「似たり寄ったりの正論」を出るものではないのは、どうしたことか。

ことに、右見て左見て、空気を読んで、それに感染してから、やっと自信を得て発言するといった気味のある日本人(マスクが「顔パンツ」にすらなりかけている日本人)は、それが顕著なのではないだろうか。

例えば、アメリカ人やフランス人のように「俺は俺」「みんながどう言おうと、俺はこう考える」と平気で自己主張することが、なぜ日本人にはできないのだろうか。

また、そんな日本の国民性だからこそ、現在ベストセラーとなっている、鈴木忠平の『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』で描かれた落合博満は、その「オレ流」ゆえに、多くの国民から嫌われたのではなかったか。
同様、戦時中に「戦争反対」「人殺しはしない」と主張した者は、「赤」だ「非国民」だと排斥されたのではなかったか。袋叩きにされ、村八分にされたのではなかったか。

本作の中で女王は、「読書」を通して「自身を耕し、自分を成長させる」ことで「自分の声」を、初めて手にした。これこそが、「単なる娯楽」ではない、「読書」の効用である。

この作品を「読書小説」として「楽しく読む」だけでは、十分な「読書」ではない。
本作には、「痛み」を伴いながらも、しかし「人を開かせる」力が秘められている。一一そこまで読んでこそ、この作品を「読んだ」と言えるだろう。
だが、そんな読者は、決して多くはないはずである。

イエス・キリストは言った。

『求めよ、さらば与えられん。 尋ねよ、さらば見出さん。 門を叩け、さらば開かれん。 すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。』(マタイによる福音書)

一一しかし、人々は、すぐに「娯楽」の中に眠り込んでしまうのである。


(2021年12月16日)

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本当は、この世界に〈意味〉は存在しない。一一書評:前野隆司『霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)21時45分26秒
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 本当は、この世界に〈意味〉は存在しない。

 書評:前野隆司『霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』(講談社+α文庫)

 初出:2021年12月13日「note記事」

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少々うさん臭さの漂うタイトルだし、著者の経歴も微妙なので、もしかすると(選書に)失敗かなと思いながら読み始めたのだが、かなり面白かった。

本書巻末の著者紹介は、こんな感じである。

『まえの・たかしー1962年、山口県生まれ。東京工業大学卒。同大学大学院修士課程修了。キャノン株式会社入社。カリフォルニア大学バークレー校客員研究員、ハーバード大学客員教授、慶應義塾大学理工学部教授などを歴任。現在、慶應義塾大学院システムデザイン・マネジメント研究科委員長・教授。博士(工学)。ロボットや脳科学の研究を経て、「人間にかかわるシステムならばすべて対象」「人類にとって必要なものを創造的にデザインする」という方針のもと、理工学から心理学、社会学、哲学まで、分野を横断して研究。幸福学の日本での第一人者として、個人や企業、地域と各フェーズで活躍。著書には、『脳はなぜ「心」を作ったのか 私の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫)、『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』(講談社現代新書)、『実践 ポジティブ心理学 幸せのサイエンス』(PHP新書)ほか多数。』(※ 本書刊行の2017年現在)

私と同い年である。経歴的には申し分なく立派な人で、高卒の私とは月とスッポンだ。
それでも『人間にかかわるシステムならばすべて対象』というのは私と同じで『理工学から心理学、社会学、哲学まで、分野を横断して研究』というのも、専門性のレベルは違うものの、傾向としてはとても似ている。

しかし『人類にとって必要なものを創造的にデザインする』とか『幸福学』といったところには、私は、どうにもうさん臭さを感じてしまう。
私の場合は「徹底して現実を直視すれば、選ぶべき道は自ずと明らかになる」と考えるので、ことさらに「幸福」になる方法、などといったことは考えない。そういうのは、「宗教」臭くて、いかにもうさん臭いと感じるからだ。

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だが、読み始めてみると、著者の「人間」の捉え方は、徹底して「科学的」であり、その点で、とても共感できたし、学ぶところが多かった。

ことに、「心」に関する著者の捉え方は、徹底的に科学的な見地からする「心とは、幻想(錯覚)である」というもので、その理論の中核をなすのは、人間が「心=魂=私」と考えているものは「進化的に脳が獲得した、効率的記憶装置としてのクオリア(https://ja.wikipedia.org/wiki/クオリア)による、認知情報の編集構成作品としての現実、という幻想を受けたかたちでの、二次的な錯覚だ」というもので、これには、これまであれこれ考えながらも、うまく言語化できなかった部分を補ってもらえたという感動があった。

で、著者のこの理論を正しく理解したい向きには、本書を読んでいただくしかないのだが、ここでは便宜的に、この理論を、不正確ではあれ、ごくごく簡便に説明をしてみよう。

まず、私たちが「現実」と思っている「認識の外部にあるもの(と思っているもの)」は、人間の感覚器官を通して得られた情報を、脳で「クオリア」として構成したものだ。
つまり「赤いもの」の「赤」色とは、それが実際に「赤い」のかどうかは別にして、脳の中で「赤」とされた「色」として「映像化」されて認識される。この時、認識されている「赤い色」が「クオリア」である。
「クオリア」には「色」だけではなく「味」や「音」や「感触」など色々あるが、これらはすべて、脳で構成されて、初めて存在するものであり、いわば脳の中にしか存在しないから「幻想」なのである。「脳の外」にある「それ」とは、違ったものだからだ。

で、こうした「クオリア」は、程度の差はあれ、他の生物にもおおよそあるのだけれど、同じようにあるわけではない。脳の機能が低ければ、「クオリア」の質も低下して、限定的で単純なものにならざるを得ないからだ。
で、問題は、人間の脳が発達して「クオリア」が高度化すると、どうなるかというと、それが精緻な「記憶」として保存され、行動が精緻化されるのである。

ところが、この「クオリア」によって精緻化された「記憶」とは、所詮「認知」や「行動」の後(や先)に構成された「幻想」でしかないのだが、人間はそれを「同時的に作動している意識=心」だと、受動的に錯覚している(幻想としての判断主体)。なぜそのようなことが起きるのかといえば、そのように「誤認」する方が、システムとしては効率的かつ安定的だからである(例えば、人間の視覚には、構造的な盲点があるのに、脳がその部分の情報を補うことで、盲点を消しているのと同じようなことだと言えよう。本来は存在しない情報を、在ると錯覚しているのである)。

つまり、下等生物から人間にいたるまで、「刺激」に反応して、生存のための行動をする、というのは、まったく同じなのだが、人間の場合は、その機能を、進化的に高度化した結果、高度な「記憶」装置を持つようになった。
だが、他の動物にも程度の差こそあれ存在している「記憶」システムを、それが高度であるがゆえに「心=意識」だと効率的に誤認している、というのが、人間の人間たるところで、それこそが本書著者の言う「受動意識仮説」なのだと、そう大筋で考えてもらえばいい。
きっと、著者からすれば「そこは違う」といったところがあるはずだが、私が理解しえたところでは、だいたいこんな感じだったと思っていただければよいだろう。

で、私が面白いと思ったのは、著者の「受動意識仮説」によれば、人間は、「意識=心=私」を持った「特別な生物」ではなく、あくまでも「生物の一種」であり、さらに言えば「よく出来たシステム」の一つであって、要は「ロボット」とも、本質的な違いはない、ということなのである。
言い換えれば、ロボットが、十分に複雑・高性能化すれば、「自意識という幻想」を持つようになるはずだ、と考えることが(論理的には)正しい(つまり、無機物と有機物に、本質的な断絶はない)、と考える点で、私は深く共感したのだ。

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ところが、本書終盤の「幸福学」の部分に入ってくると、やっぱり、基本的に納得できない。

著者は「人間の、生物としての現実を正しく知るならば、死を恐れる必要などなくなり、おのずと死を恐れなくなるはずだ」と主張し、本書の趣旨もそこにある。

著者が延々と「人間は機械である」「意識は幻想である」みたいな科学的説明を行うのも、それは「だから、この世界における生死とは、本当は連続的なサイクルのようなものであり、その意味で、死は特別なものでも終わりでもないのだから、恐れる必要はないのだ」ということを教え、納得してもらいたいからで、ここまでは私も納得できる。
しかし、著者が、そんな「生死観」に立った上での「幸福学」の見地から、(禅に代表される)仏教のような哲学的「宗教」の効能を語り始めると、そこからはまったく納得がいかず、むしろ、それは「主張に一貫性のない、誤魔化しだ」としか思えないのだ。

無論、著者は、宗教の「教義」を信じているわけではなく、「宗教」を「(誤った)こだわりなく生きるテクニック」としてなら利用可能であり、科学的認識とも共存可能だ、と考えているようなのだが、私は、そうは思わない。

所詮「宗教は、フィクションであることを否定するフィクション(幻想でしかない「意味」の存在を認めるフィクション)」でしかないのだから、私の場合は「フィクションと自覚できる、個人的なフィクションに生きよ(無い「意味」を、あるかのように生きよ)」と考えるのだ。
つまり、「宗教」のように「他(自分の外部)に権威を求める」ことをしないで、ただ、自分だけに有効な「(個人的な)フィクション」を、「フィクション(個人的なものであり、普遍的な実在ではない)」と自覚しつつ「自己コントロールのための、自覚的な道具的イメージ(虚構)」として活用せよ、と言いたいのだ。

そして、私の考える「自己コントロールのための、自覚的な道具的イメージ(虚構)」とは、例えば「理想」的な「観念」「信念」「生き方」「偉人的人物(イメージ)」「キャラクター」などといったことになる。
例えば、「人のために汗を流す人間になりたい」とか「仮面ライダーのように生きたい」といったことだ。

「人のために汗を流す人間になりたい」というのは、その人個人の「理想」としての「観念」や「信念」であり「イメージ」であって、それを実行できるか否かは、その人個人に全てがかかっていて、他の誰も保証してくれるものではない。また「仮面ライダーのように生きたい」という「理想」は、「仮面ライダーは実在しない」という前提的認識があった上で「それでも私は、そのように生きたいのだ」という「個人」の意志がすべてであって、他の誰も、その生き方の「成功」を保証してなどくれないものなのだ。しかし、そんなものでも「無いよりはマシ」なのである。

ところが「宗教」というのは、いくら「仏教は、宗教ではなく、哲学である」などと言っても、やはり「既成の権威」として、どこかで「保証」を与えている部分があり、そこが結局は、自らが否定したはずの「虚構=フィクション」でしかないと私は考えるので、本書著者の「科学的ニヒリズム(本当は、善も悪もない。意味もない)」という立場からしても、矛盾していると思えるのである。

つまり、簡単に言えば「死は幻想であるから、恐れる必要はない」と言うのであれば「幸不幸も幻想であるから、恐れる必要なない」というところまでいかなければ、論理的には「矛盾」であり、実のところは「実用的妥協による不徹底」なのだ。

だから、私は「本当は、生死もないし、幸不幸もない。だから、自己責任において、なるべく、美しいと感じられる、生と幸福を虚構して、それを生きるべきだ」と主張するのである。
したがって私は、本書著者の言う、一般性はあっても画一的でしかない「幸福学」もまた、妥協の産物的「無自覚な幻想」だとしか評価できない。

そして、著者と私のこうした「違い」は、たぶん、本書著者には「文学」がなく、私にはそれがあった、ということなのではないかと考えている。


(2021年12月13日)

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「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集」中止問題について

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)21時44分21秒
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 「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集」中止問題について

 初出:2021年12月10日「note記事」

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「殴ったね。(中略)親父にも打たれたことないのに!」
 (矢立肇・富野由悠季『機動戦士ガンダム』より)

「〝虚無〟へ捧ぐる供物にと/美酒すこし/海に流しぬ/いとすこしを」
 (P・ヴェレリィ、中井英夫『虚無への供物』より)

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「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」

これが、SF作家でSFプロトタイパーの樋口恭介が、「SFマガジン」編集部に提案した、特集企画である。

これを読んで、「こんなことをしても問題ないの?」と感じる人は多いだろう。それがまともな感覚だ。
しかし、こんなことを提案した「ビジネス・コンサルタント」でもある樋口自身は無論、樋口に近い作家たちや、「SFマガジン」の編集長らは、この企画案がツイッター上に公開にされて、外部からの批判が巻き起こるまで、これが「非常識」なものだということがわからなかったらしい。
要は、小説家だ、編集者だ、といっても「そのレベルの人間が、大勢いる」ということだ。
ここでも、私がよく引用する、SF作家シオドア・スタージョンの言葉、

『SFの90パーセントはクズである。──ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』

は、当を得ていたと言えるのではないだろうか。

この企画は、「SFマガジン」側からの依頼を受けて、樋口が案出したもののようだ。
「SFマガジン」側が、どうして樋口に、特集アイデアの提案を依頼したのかと言えば、それは樋口の持ち込み企画として実現した「異常論文」特集が当たり、特集号(2021年6月号)が売れただけではなく、それに書き下ろし作品を増補して文庫化した『異常論文』(2021年10月刊)が、短期間で増刷を重ねるヒット商品となったからである。

つまり、「SFマガジン」(早川書房)としては、樋口の「ビジネス・コンサルタント」としてのアイデアマンぶりを高く評価して、「柳の下の2匹目のドジョウ」を狙ったわけなのだが、それが今回は「大炎上」してしまったのである。

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「SFマガジン」が、この企画を中止した、というネットニュースが、本年(2021年)12月6日に流れた。
私も、その2日後の同月8日に、この報道で、今回のトラブルを知ったのだが、ツイッター上での樋口恭介による「企画案の公開」から、それへの「批判」、そして「中止決定」まで経過は、同年12月2日の、その日うちの短時間でのことであったようだ。

「絶版本の中身を勝手に空想 「作品への冒涜」SFマガジン企画に批判、編集部が中止決定」
(2021年12月06日20時08分「J-CASTニュース」)
https://www.j-cast.com/2021/12/06426469.html?p=all

「異常論文」の企画が進められた際もそうであったらしいが、樋口は自身のツイッターアカウントに、こうした自分のアイデアをアップし、友人である作家たち(つまり、将来、その企画に参加して執筆者になるであろう人たち)の意見や提案を受けながら企画を練り上げ、それを執筆予定メンバーまで含めて、かなり具体的な提案として、「SFマガジン」側に示すかたちを採っていたようだ。

これは、樋口恭介自身、自著の『未来は予測するものではなく創造するものである ―― 考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』などでも書いていることだが、要は、「小説書き」のように、一人ですべてを作り上げる孤独な作業よりも、仲間とワイワイ言いながら作り上げていく集団作業の方が好きだ、ということもあったようだ。

だが、このように、複数のメンバーが参加していても、その内部からは「今回の企画は不見識だ」というような意見は出なかったようである。
それは無論、『異常論文』がヒットしたので、メンバーたちも「柳の下の2匹目のドジョウ」を狙って盛り上がっていたからだろうし、人というのは(大西巨人が『迷宮』で書いていたとおり)「成功者」には媚びる(し、落ち目になれば、去っていく)ものだからである。
つまり、少々疑問に思っても「樋口恭介が面白いと言っているんだから、何とかなるんだろう。ここで、真面目くさった後ろ向きの意見を言って嫌われても、損だ」という「打算」も働いたのではないだろうか。

しかし、こうした「やりとり」が、樋口を起点とした、ツイッターの個人アカウントによって「公開」で行われたため、樋口恭介の取巻きや信者ではない者からは「それはマズイだろう」という意見が、当然のごとく出たようだ(「出たようだ」というのは、私自身はツイッターアカウントを凍結されており、この半年ほどツイッターを使用していないので、そのあたりの事情は、あまり詳しくないからである)。

だが、こうした「批判的な意見」に対し、当初の樋口の対応は「真摯」とは言いがたいものだったようである。
と言うのも、樋口はこれまで、ツイッター上では「ケンカ(炎上)上等」のスタンスを採っており、自覚的に「焼け太り」を狙っていた、という見方もあったからである。

つまり、批判されたからと言って、そこで「いったん立ち止まって、考えてみる」という「旧来の良識的」姿勢ではなかったようなのだ。
だからこそ、今回のように、本人の予想を超える「炎上」となってしまい、「SFマガジン=早川書房」が「企画を中止した」だけではなく、「謝罪」しなければならないところまで、火の手が広がってしまった。

樋口個人やその仲間が、ネット上で「バトル」を繰り広げるだけなら、それも「話題作りの一環」であり得るくらいのことは、当節の「ビジネス・コンサルタント」である樋口恭介なら、当然、意識してやっていたはずだ。
あまり上品なやり方ではないとは言え、「目立ってナンボ」「儲けてナンボ」の、シビアな「ビジネスの世界」で生きてきた樋口としては、そのくらいの「演出」は当然のことであって、「物書きの品格」の問題だとは考えなかったはずである。
なぜなら、こうした傾向は、樋口個人に止まるものではなく、今や、一種の「成功事例」として、ビジネスモデル化されてすらいるからだ。

例えば、評論家の真鍋厚は「活況を呈するオンラインサロンは新時代の「宗教」になれるか」(『宗教問題』2021年秋季号所掲)で、「オンラインサロン」を次のように紹介している。

『「オンラインサロン」の歴史は浅い。ここ10年ほどで急速に普及してきたインターネットを介した月額制のコミュニティサービスだ。ジャンルは、ビジネスや起業、スキルアップ、美容、ファッション、恋愛など多岐にわたる。代表的なオンラインサロンとしては、西野亮廣エンタメ研究所、PROGRESS(中田敦彦 onlain community)、HIU(堀江貴文イノベーション大学校)などがある。
 オンラインサロンの利用者数は堅調に増加しており、ICT総研によれば、日本国内におけるオンラインサロン利用者の総数は2019年末で25万人、20年末で53万人と1年で倍増しており、今後も成長を続けるとの見方である。利用者数は21年末で74万人、25年末には145万人に達すると予測している。年間の利用総額(会費の年間合計)は20年で74億円、21年で98億円、25年には183億円に達する見込みだ。(「2021年オンラインサロン費用に関する調査)。
 オンラインサロンのプラットフォームを含めて、その市場動向が世間の耳目を集める一方で、コミュニティサービスという形態に特有のトラブルも多い。』(『宗教問題』2021年秋季号、P28~29)

ビジネスコンサルタントである樋口恭介ならば、この辺りの事情については、当然承知しているだろう。

『 筆者は以前、オンラインサロンが人々を訴求する要素は、主に「コミュニティ」「物語性」「自己啓発」の3つのキーワードに求められると分析した(「オンラインサロンに金を払う人が満たす心の奥底」2020年9月3日付、東洋経済オンライン)。具体的に説明すると、「〝選民感〟をくすぐる集団への帰属」「魅力的な物語への持続的な参加と貢献」「成長や成功が期待できる役割と任務」と表現できるだろう。』(前同P29)

樋口恭介との関連で、ここで注目すべきは「コミュニティ」と「物語性」という要素であり、それに対応する「選民感」と「魅力的な物語」への「参加と貢献」であろう。

言うまでもなく「SF作家」である樋口恭介は、「ユートピア」や「ディストピア」といった両極のイメージを含めて、「魅力的な(未来の)物語」を提供することを生業としている。
ただし、「SFプロトタイピング」という手法をひっさげた「ビジネスコンサルタント」であり「SFプロトタイパー」を自称する樋口は、単に「小説」を書くだけではなく、「魅力的な物語」というイメージやアイデアを「商品」として売る「コンサルタント業者」でもあり、「SFマガジン」誌への「異常論文」特集という「企画」も、今回「炎上」した「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」という「企画」も、この延長線上にある「商品」と見て良いだろう。

そして、こうした流行りの「オンラインコミュニティ」の「選民感」に関わる部分として、真鍋は次のような指摘をしている。

『 現在流行っているいくつかのオンラインサロンに共通する傾向として興味深いのは、実践主義的な色彩を強く打ち出しながらも、リーダーのキャラクターとその「物語性」を重視しているところだ。
 世間との軋轢を抱えるカリスマ的な人物が、新規事業を起こしたり、芸術作品をつくるといった困難な課題に挑戦し、人々は自己の資源を投入して下支えするとともに、コミュニティの一員としてその物語を生きることができる。ここにおいてとりわけ注目すべきなのは、オンラインサロンの主催者に立ちはだかる「外敵の存在」だ。
 これも新宗教の教団にありがちな試練とそっくりである。マスコミだけでなく、ソーシャルメディアでたたかれることが多いカリスマ的な人物は、むしろその苛烈な攻撃が教えの正しさを証明しているように思われるがゆえに、支持者の忠誠心はより強固なものとなり自分たちの正当性を確かなものにする。これはイエス・キリストの時代から連綿と続くお馴染みの構図である。
 毀誉褒貶の激しいオンラインサロンの主催者は、時に勃興期の新教団を率いる若き教祖のように振る舞ったりもするが、そのことに驚くほど無自覚であったりする。彼らは古の伝道という文脈ではなく、双方向性によって評価が常に可視化され、収益に直結するエンターテインメントの観点から理解を深めているのであり、洗練されたビジネスモデルに仕立て上げようとしている。例えば西野亮廣は、オンラインサロンの将来像をどう考えるかと聞かれて、次のように答えている。
「これまでは世間的に知られている人の声が大きかったですが、今後はファンを持っている人が強くなると思います。自分のファンをいかにつくるかという点で、大事なのは物語です。僕のオンラインサロンでも、うまくいこうが失敗しようが、挑戦しているときに会員が増えます。漫画やドラマと一緒で、1回上がって、ピンチや失敗があって下がって、そこから再起する。このN字形を自分の人生でもやらないといけません。完璧な事業計画書を作っても、あまりファンは生まれません。あえて負けやピンチを作ることも大切なんです」(「西野亮廣、知名度よりファン大切 オンラインサロンの秘訣を語る」2019年8月17日付、福井新聞オンライン)
 ここで言及されている「あえて負けや失敗をつくること」は、自作自演でも構わないことを示唆している。リアリティ番組がやらせに満ち満ちていても、少しも人気が衰えないことからもその威力は立証されている。10分ごとにクリフハンガー(盛り上がるシーン)を組み込む海外ドラマのように、真に重要なことは「物語を興ざめさせないこと」なのだ。負けやピンチが計画されたものか判別できないほどの迫真性を持ち、危機感を共有するメンバーが進んで出費や奉仕に努めること、それがエンターテインメントとしての圧倒的な強度を生み出すのである。』(前同P31~32)

無論、今回の「幻の絶版本」企画の中止が、「やらせ」でないことは明らかだ。
そもそも、西野亮廣の言う『ピンチや失敗』は、西野のように、それに耐え売る「体力」をつけてから、相応に「起こす」べきものであって、それに潰されてしまったのでは、お話にならないからである。
したがって、今回の樋口恭介の失敗は、明らかに樋口の「想定外」あるいは「想定以上」の『ピンチや失敗』だったはずなのだ。

ともあれ、「ビジネス・コンサルタント」である樋口恭介は、ビジネスにおける「成功例」としての西野亮廣パターンに倣い、『たたかれる』教祖を演じるために、自覚的に「迫害してくる外敵」に「応戦」して、「煽って」見せていたのであろう。世間から無視されるよりは、派手に叩かれる方が、目立つことができるからだ。

ただ、そのツイートからも伺えるとおり、見かけによらず、負けん気の強い樋口は、「バトル」においても、あえて「負ける」つもりはなかったのではないだろうか。
別に、ことさら負けなくても、「教祖」が迫害されるだけで「信者」たちは、その逆境にある「選民感(のヒロイズム)」によって結束を強めるだろうし、論戦に勝ったかのような体裁を整えられれば、これまたこれで「信者」たちは、「さすがは、わが教祖」と、誇りに思うことだろう。
そして、事実としてこうした共感的な「ファン」を、ツイッター上での「半自作自演の物語」において生み出し得たからこそ、樋口の「企画」した『異常論文』などという、普通なら、なかなか売れない「前衛文学形式」のアンソロジーが、瞬く間に「3刷」もしてしまったのではないだろうか(昨日時点の、書店頭での確認)。

しかしながら、やはり樋口恭介の場合は、必要な「慎重さ」を欠いていたと言えよう。
樋口は、若くして作家デビューして注目されただけではなく、『異常論文』所収の短編「SF作家の倒し方」で、小川哲が書いていたように、「わが世の春」を誇る「SF界」の、現在の主流たる「大森望グループ」に食い込めたことで、一定の「お座敷」を確保することにも成功していたからである。
つまり、平たく言えば、これまでは「とんとん拍子にうまくいっていたので、つい調子に乗ってしまった」ため、「慎重さ」を欠いてしまったということだ。
またそのために、樋口の目には、西野亮廣のような「成功事例」しか見えていなかったのではないか。

お笑いコンビ「キングコング」のツッコミ役漫才師でもある西野亮廣は、逆に、世間から叩かれながらも『映画 えんとつ町のプペル』という劇場用長編アニメを製作して一定の評価を得るとともに、それ以上に「支持者」を増やすことができた(これは、作品の出来は違っても、片渕須直の監督作品『この世界の片隅に』を、クラウドファンディングを含め、手弁当で支えた多くのファンの心理に近いように思われる)わけだが、同様に、小説家であるはずの樋口恭介は、「異常論文」という「企画」において、規模は小さくても、同様の成功を収めたと言えるのではないだろうか。

だからこそ、あまり好きではないと言う「一人で小説を書くこと」よりも、周囲を巻き込んだ「物語性のあるビジネス」にこそ、魅力と大いなる可能性を見出したというのは、想像に難くないだけではなく、今時の若者の「起業ブーム」を勘案すれば、ごく凡庸な選択だとさえ言える。そもそも、出版社に依存する小説家の稼ぎなど、たかが知れているのだ。

しかし、前述のとおり、樋口恭介は「大きな可能性」に目が眩んで、同時に伏在しているはずの「大きな危険性」に対する配慮が足りなかった。
「大きなビジネス」におけるリスクヘッジの意識が不十分であったために、今回のような「企画中止」だけではなく、「世間的イメージの悪化」、(本人がnoteに、恨み言を書いた)「仲間からの敬遠」、「早川書房からの評価下落」などを、多かれ少なかれを招くことになったのだ。

 ○ ○ ○

樋口亮介が、自らの「ビジネス」において、リスクヘッジの観点から、配慮していてしかるべきこととは、どのようなことだったのか。
端的に言えばそれは、「東京オリンピック2020の開幕式」の演出における、各種のトラブル事例であったろう。

つまり、樋口の「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」という「企画」は、自身の著作が不本意にも「絶版」になっている作家や、同様の出版関係者への「当然の配慮」を欠き、その神経を逆撫でしたことにおいて、タレントの渡辺直美に「ブタの仮装をさせる」という「演出」を「面白い」と思って提案した、「東京五輪・パラリンピック開閉会式の演出の統括役」で、この件で辞任に追い込まれた「佐々木宏」と同質なものだと言えるからである。

そして、「絶版本」の著者とその関係者を「愚弄した」に等しい、樋口恭介のこの企画は、ある意味では「敗者(弱者)へのイジメ(追い打ち)」という側面もあるから、その意味では、同じく「東京五輪・パラリンピック開閉会式担当」で、過去の「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」漫才問題で解任になった「小林賢太郎」や、同じく過去の「イジメ自慢」で「開幕式の音楽演出担当」を外された「小山田圭吾」などとも、同質だと言えるだろう。
その「違い」と言えば、「SF雑誌の特集」と「オリンピックの開幕式」という、「イベント規模の違い」だけなのである。

今回の「批判」を受けて、樋口恭介は、いったんは次のようなコメントを公表して謝罪をした。

『『SFマガジン』「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」ですが、複数の方から不快感を示されています。真摯に受け止めさせていただきます。』(午後0:00 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

『特に、当事者である絶版本の著者の方からの言葉は重く受け止めました。私は加害性に対して無自覚でした。これはひとえに私の未熟さ・認識不足に起因するものです。実在する具体的な個人としての被害者の方への配慮、その存在、その感情に対する想像力が足りておりませんでした。申し訳ありません。』(午後0:00 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

そして、この企画の担当編集者であった、早川書房の塩澤快浩とも相談した上で、「企画の中止」がすぐに決まったので、塩澤も即座に、

『SFマガジンで予定しておりました「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」は、企画者の樋口恭介氏とも相談の上、中止を決定いたしました。』(午後0:16 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

『絶版の書籍が生まれている状況に対して、あまりにも無自覚で、配慮が足りませんでした。出版社の人間として、ご不快に思われた方々に深くお詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした。すでに依頼させていただいた作家の方々にもお詫び申し上げます。』(午後0:24 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

と謝罪した。

しかし、この段階で樋口恭介は、自らの企画への「批判」も、「中止」の決定についても、完全には納得はしておらず、かなり不満を持っていたようで、この「謝罪」の後にも続いた自身への「批判」に対し、4日後の12月6日に『謝罪して中止・撤回されたものをいつまでもネチネチと叩くな』と、自らの「note」アカウントに書いて「炎上」に油を注ぎ、その樋口のコメントを受けて、早川書房が再度「謝罪」した上で、樋口との距離を明確にしたことで、結局は、樋口も再度「謝罪」するという、醜態を晒すことになる。


「絶版本企画への批判に「いつまでもネチネチ叩くな」 SF作家「逆ギレnote」に波紋も...版元苦言で結局謝罪」
(2021年12月08日18時27分「J-CASTニュース」)
https://www.j-cast.com/2021/12/08426652.html?p=all


『 SFマガジン「幻の絶版本」特集の中止について (2021/12/07)

 SFマガジンでは、今年6月号の「異常論文特集」の発売後に、前編集長の塩澤快浩から作家の樋口恭介氏に第2弾の特集企画を依頼しました。それに対して樋口氏から、「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」という企画案が寄せられ、既存の書籍タイトルから内容を想像する短篇という切り口の面白さから、当特集の内容を塩澤が承認しました。

 12月2日、当特集を予定していることを樋口氏が自身のツイッターアカウントで告知したところ、絶版書籍の著者や読者の方などから不快感が示されました。絶版の書籍が生まれている状況に対して、出版社としてあまりにも無自覚で、配慮が足りなかったと判断、樋口氏と相談のうえ、企画の中止を塩澤の個人アカウントで発表、謝罪いたしました。

 12月7日朝、樋口氏が、弊社の見解とは異なる内容のnoteを、こちらへの事前通告なく公開しました。すぐに塩澤から、特定の方々への加害になりかねない内容の不適当さを指摘した上で、いったん取り下げられないか申し入れましたが、樋口氏には聞き入れられず現在に至っております。(12月8日追記:7日夜に同noteは削除され、樋口氏による謝罪が表明されました)

 今回の特集企画に関して、ご不快に思われたすべての方々に謝罪した弊社の姿勢は、まったく変わっておりません。樋口氏のnoteでの見解はあくまで樋口氏個人のものですが、今回の事態の責任は、ひとえに樋口氏に特集企画を依頼した弊社にあります。note内で樋口氏の批判を受けた大野典宏氏、北村紗衣氏、そして読者の皆様に、深くお詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした。

 早川書房 SFマガジン編集部』
https://www.hayakawa-online.co.jp/new/2021-12-07-180928.html

上の「12月8日追記」の中で補足言及されているのが、樋口恭介による、下の「謝罪」ツイートである。


『頭に血が上っていたこと、ずっと炎上状態で精神的に緊張状態にあったことから、視野狭窄になっていました。少し頭を冷やして考えて直しました。樋口の一連の投稿は、拙速な言動でした。不快に思われた方々、申し訳ありませんでした。謝罪します。もう、いかなるかたちでも言い返すこともしません。』(午後7:30 ? 2021年12月7日?Twitter Web App)

『昨夜は眠れず、一晩深く考え、自分の言動や行動の不適切さについて反芻しておりました。あらためて、今回傷つけてしまった方々、ご迷惑をおかけした方々、不快に思われたすべての方々に対して深くお詫び申し上げます。今回の過ちは、今後の仕事で挽回していくしかないと思いますので、精進いたします』(午前8:29 ? 2021年12月8日?Twitter Web App)

 ○ ○ ○

話は簡単である。
樋口としては、「絶版本の内容を、勝手に想像して語る」という「企画」は、一種の「メタ・フィクション的なお遊び」であり、目くじら立てて批判するようなことではない、と感じられていたのだ。
それに「この企画が成功して、『異常論文』のように話題になれば、そこで扱った絶版本にも光が当たって再刊されるかもしれず、そうなれば誰も損はしないじゃないか。むしろ、感謝してほしいほどだ」くらいのことを考えていたのかもしれない。

しかし、樋口のこの「感覚」は、ほとんど「同人誌」の「ノリ」である。
実際、同人誌でこの企画をやったなら「勝手なことやってるなあ(笑)」という程度で大目にも見られたであろうし、「面白い企画だ」と積極的に評価した(鈍感な)人も、より多くいたことだろう。

だが、言うまでもなく、『SFマガジン』は、同人誌ではない。
同誌は「公刊文芸誌」であり、社会性を持ち、社会的責任を負った「公器」の一つである。

そのことに、「調子に乗った青二才」であった樋口恭介は、まったく気づけなかったのだ。
「オリンピック」と「SFマガジン」では、たしかに規模は違っても、「社会的責任を負う」という点では、まったく同じだということを、完全に忘れてしまっていたのである。

 ○ ○ ○

しかしながら、樋口恭介の「社会意識の希薄さ」は、当然のことながら、今回のトラブルだけに限られた話ではない。

そもそも、最初の謝罪(2021年12月2日)における『真摯に受け止めさせていただきます。』という「定型句」には、「文筆家」としての誠実さが、まったく感じられない。

前記の謝罪ツイートに続く、

『私は私の企画によって誰かを傷つけたいわけではありません。また、その気持ちは本企画に賛同していただいた執筆者や編集者も同様だと思います。本企画が、具体的な個人、実在する固有の人間に対する加害性を帯びているとわかった以上、執筆者や編集者の方々も巻き込むわけにはいかないと考えます。』(午後0:01 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

というツイートに滲んでいるのは、要は「自分の周囲の者には、迷惑をかけられない」から、不本意ながら「謝罪」するのだ、という意識である。

今回の「絶版本を、読みもせずに勝手に語る」といったような、フザケた「企画」が、当該書の著者や関係者を「不快にさせるかもしれない」といったことくらい、小説家や評論家でなくても、他人の指摘や批判を待つまでもなく、普通に気づくことである。

しかし、それが気づけないほど、樋口恭介という男には、そもそも「他人の気持ちに対する想像力」が欠如していた。
また、だからこそ、その点を指摘されても、その「批判」に関して「配慮すべき対象」として想起されるのは、その敵対的な「批判者」と、迷惑をかけてはいけない「自分個人の利害関係者」でしかなく、肝心の「当該書の著者や関係者」ではなかったのだ。

換言すれば、樋口恭介の頭の中にある、ここでの葛藤とは「他者への配慮」という「人倫の問題」ではなく、「ビジネスにおける成功と失敗」であり、所詮は「利害の問題」でしかないのだと言えよう。

だからこそ、出版界における、自身の現在最大の勧進元と言ってよい「早川書房」が、「企画を中止する」と言えば、それに無抵抗で従い、早川書房が「謝罪」すれば、嫌々ながら自分も謝罪をする。
つまりこれは、「傷つけた相手」に謝罪しているのではなく、自身の「勧進元」である早川書房から見放されないよう、打算的に、早川書房の方を向いて「謝罪した」ということに過ぎないのである。

 ○ ○ ○

樋口恭介の言葉で、もう一つ注目すべきは『私は加害性に対して無自覚でした。』という「反省の弁」における、「加害性」である。

樋口は、自らの「加害性」について『無自覚でした。』と言うけれども、これも『真摯に受け止めさせていただきます。』と同様、所詮は、無難にやり過ごすための「定型句」でしかなく、端的に言えば「嘘」である。
なぜならば、自らの好んで「ネットバトル」を繰り広げていたような人物が、自らの「加害性(とその効果)」に、無自覚なはずなどないからである。

実際、私自身も、何十年もネトウヨとバトルを繰り返してきたけれど、自身の「加害性」については、当然意識してきた。と言うか、「加害」するためにネトウヨを批判しているのだから、意識していないはずもなく、事実として私は、何度か「筆で殺す気で書いている。私に批判されたことで、相手が傷ついて自殺しても、それは、望ましいことではなくとも、結局は仕方がないことであり、あらかじめ織り込み済みの、残念な事態でしかない。私は、あとで言い訳がましく、そんなつもりではなかった、みたいな、みっともないことを言うつもりはない」という趣旨のことを書いている。

そんなわけで、当然、「心神喪失」や「心神耗弱」の状態で「バトル」をしているわけではない、『異常論文』を企画できた「正常人」であるはずの樋口恭介が、自らの「加害性」にまったく「無自覚」であったはずもなく、実際に「無自覚」にそんなことをするような人間なのだとしたら、彼には「公的な発言」を辞めてもらうべきであろう。つまり、作家など辞めるべきだ。


このように、私の場合は、当然のことながら、樋口恭介への「加害性」を意識して書いている。
無論、今回だけではない。これまで書いた樋口恭介に関わる幾つかのレビューも(中には褒めたものもあるけれども、批判したものについては)、樋口の「肺腑をえぐる」つもりで書いており、「樋口くんが、これで反省してくれることを信じる」みたいな、甘いことを考えて書いていたわけではない。
「反省すれば良し。しなければしないなりに、痛い目を見させてやる」と、自身の「加害性」を自覚しながら、それでも「批判」をした。なぜなら、それが「物書きの責任の取り方」だからである。

 ○ ○ ○

実際、樋口恭介は、「敗者」や「弱者」に関して、本質的に鈍感であり、「上ばかり見ている」ヒラメ人間なのではないかと思う。
それは、樋口の『未来は予測するものではなく創造するものである ―― 考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』についての私のレビュー「コンサルタント〈口調〉が、鼻につく。」(https://note.com/nenkandokusyojin/n/n5ea3a241b04c)で、次のように論じたとおりである。


『さらに言うと、本書の本質的な問題は、本書はビジネスコンサルタントによる「ビジネス書」であって、そこには「文学」性など無いに等しい点だ。
その「語り口」は、いかにも「お客様に成功の夢を売るためのもの」であって、「人間の現実と深く格闘するもの」ではないのだ。

樋口は、本書の中で、「明るい未来を信じている」という趣旨のことを繰り返し語っているが、それは、そういう「タテマエ」に立たないことには、そもそも「ビジネスにおけるイノベーション」の探求なんてことに、限定的な興味を持ち続けることなどできないからだろう。
つまり、「現在の悲惨な現実」については、無視しないまでも、ひとまず脇に置いておいて、ともかく「われわれ」は、そうしたものが無くなる「希望ある未来」を構想しましょうよ、という提案しかなされていないのだ。

そしてそれは、樋口が本書において、すでに伝説的な立志伝中の「起業家」と呼んで良いピーター・ティール(決済サービスを提供するアメリカの巨大企業「PayPal」の創業者)を絶賛しているところにも、よく表れている。

たしかにティールは、偉大な起業家であり、人類の未来を開くための一翼を担っている「成功者」だと言えよう。だが、その影に「多くの犠牲者」が確実に存在する、という事実を忘れてはならない。
そうした犠牲が「人類の未来」のためには「必要だ」と考えるのであれば、犠牲者の存在を無視するのも、それはそれで合理的ではあるけれど、そうした「ホンネ」を隠した上で語られる「キレイゴトのご託宣」には、心底うんざりなのである。』

また、樋口のこの「敗者や弱者への鈍感さ」に発する「加害性」についても、私は、樋口の編んだアンソロジー『異常論文』のレビュー「真説・異常論文」(https://note.com/nenkandokusyojin/n/n31bcee486a23)で、

『本書『異常論文』における、異常なほどに節操のない「馴れ合い」と「身内ぼめ」を、自覚的に破る作品とは、本書の掉尾を飾る、伴名練の短編「解説 一一最後のレナディアン語通訳」と、その後にくる神林長平の本書解説「なぜいま私は解説(これ)を書いているのか」の2本だ。』

として、「読者不在(=読者に対する、客観的な説明責任の放棄)」の、身内同士の「馴れ合い」と「身内ぼめ」を批判した。

その上で、伴名練の短編「解説 一一最後のレナディアン語通訳」の中で批判的に描かれる(作中の)『榊美澄というSF作家は、本アンソロジーの編者である樋口恭介同様に、悪い意味で「レトリック巧者」だったのではないだろうか。』と、少女に対する監禁虐待者である「榊美澄」が、「弱者に対する鈍感さ」において「樋口恭介の似姿」であると婉曲に指摘し、さらに神林長平の解説文の趣旨を敷衍して、次のように書いておいた。

『私の言葉に言い換えれば、小説は「自他に誠実な嘘」でなければならない、「真実を描くための嘘」でなければならない。
自己を偽り、他者を侮って、その小器用な三百代言的口八丁で、読者をたらし込めれば「こちらの勝ちだ」というような「ペテン師的な不誠実さ」では、レトリックに幻惑された「被催眠状態の読者」を生むことはできても、時を経て残るような「優れた小説」は遺し得ない。』

つまり、前記のビジネス書『未来は予測するものではなく創造するものである』や、アンソロジー『異常論文』での樋口の「巻頭言」は、『その小器用な三百代言的口八丁で、読者をたらし込めれば「こちらの勝ちだ」というような「ペテン師的な不誠実さ」』による「悪しきレトリック」に過ぎない、と厳しく批判しておいたのである。

 ○ ○ ○

私の、この批判論文を読めば、樋口はきっと、腹の中で『謝罪して中止・撤回されたものをいつまでもネチネチと叩くな』と思うことだろう。
性格というものは、そう簡単に変わるものではないし、変に「お勉強」ができて頭の良い、そのぶん自尊心の強い人間は、そう簡単に「反省」などできるものではないのである。
まして、樋口は「真摯に受け止める」などと、「心にもないことを、平気で口にできる」人間なのだから、反省などしているはずもないのだ。

だが、私にすれば、この程度(二、三度程度)の批判で、「ネチネチ」などとは言われたくない。
私は、かつて「笠井潔葬送派」を名乗って、笠井を10年以上にも渡って、徹底的かつ執拗に批判してきた人間だからで、そのことは、かつてミステリ界にも関わった大森望だって知っているくらい、斯界では有名な話なのだ。

したがって私は、樋口恭介の今後を見守り、「反省」して「何がどう、どの程度、変わったのか」をチャックするだろう。つまり、口先だけの「反省」では「済まさせない」ということだ。
と言うのも、私は、樋口の、

『今回の過ちは、今後の仕事で挽回していくしかないと思いますので、精進いたします』

という言葉にも、うそ寒さしか感じられず、まるで信用していないからだ。

これではまるで、不祥事を起こして「反省の弁」を述べながら、しかし臆面もなくその「利権的な地位」にしがみつく、最近の例で言えば「東京都議会・木下富美子元議員(無免許ひき逃げ→書類送検→議会欠席→都議会の辞職勧告→都知事による批判的圧力コメント→やっと辞職)」などの、厚顔無恥な「政治家」たちと、まったく同じではないか。

なにが『今回の過ちは、今後の仕事で挽回していくしかないと思いますので、精進いたします』だ。

そんな「不祥事政治家」並みの「紋切り型のニセ謝罪」など、そもそも「物書き」として恥ずかしいと思ってしかるべきであり、仮に「嘘」をつくにしても、作家なら作家らしく、もう少し「曲のある嘘」をつけ、とさえ言いたいほどである。

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ともあれ、この程度の「薄っぺらな人間」の書いたものが、その表面的な華やかさ(レトリック)だけにおいて持て囃されるのが、今の「日本のSF界」の現状だと、そう「真摯にうけとめて」おくべきであろう。
いくら樋口個人に問題があったとは言え、それを見抜く力も、指摘する力も、正す力も無かったのが、作家、編集者、読者を含めた、今の「日本のSF界」だというのも、また事実だからである。

前記の樋口書『未来は予測するものではなく創造するものである』の帯には、

『「ここではないどこか」への想像力を解放せよ。』

との、いかにも「SF」らしい「煽り文句」が刷られている。
無論これは、間違った言葉ではないのだが、SF作家や読者に、是非とも押さえておいていただきたいのは、『「ここではないどこか」への想像力を解放』する前に、「当たり前に、他人の痛みを想像できる人間になれ。」ということである。

樋口も参加した「大森望グループ」の「ネット会議」を書籍化した『世界SF会議』についてのレビューを、私は「SF作家だからといって、何も〈特別〉ではないのだから、もう少し頑張ってほしい。」(https://note.com/nenkandokusyojin/n/n59413a3486b3)と題したが、これは「SF作家だからといって、ことさらに優れた未来ビジョンが示せるみたいなハッタリをかますのなら、そのハッタリに多少は見合った中身を提供しろ」という意味であった。

もちろん、エンタメ作家は「夢を売る」のが「商売」だから、時には「大ボラを吹く」ことも許されるだろう。だが、それは「一人の人間としての、最低限のモラル」は押さえた上でのものでなくてはならない。自分が、外れても責任を問われない「大ボラを吹くことを許された、エリートだ」などという思い違いをしてはならないのだ。

そして、それでも、「人気者」になって「高いところに登った」結果、調子に乗って思い上がった「勘違い」人間になると、今回の樋口恭介のような失敗をしてしまうのである。樋口恭介のような人間を生んでしまうのだ。

人々に向けて撒き散らされ、そして一部の人が染まってしまった「幻想」を打ち砕くには、「調子に乗って思い上がった青二才」あるいは「人の痛みへの想像力を欠いた、〈SFプロトタイパー〉の想像力」などの「皮肉」では、きっとまだまだ足りないであろう。それは、これまで「宗教批判=盲信批判」を行ってきた私の、否応なく理解させられた現実だからだ。

しかし、それでも「宗教批判」は、なされなければならない。
それを「商売」とし「生活の糧」としている人が、現にいるとしても、度を越して、社会に害悪を垂れ流すようなものを黙認してはならない。それが「オリンピック」であれ、たかが「SF」であれだ。


これからも、樋口恭介は批判されるだろう。書くものが変わらなければ、そんなものは「作家の反省」にはならないからだ。
したがって、樋口恭介の書くものが、上っ面の綺麗事ではなく、心の底から出た「弱者への思いやり」を感じさせるものになるまで、下の企画は続くことになるだろう。

「読みたくもないけれど話題沸騰のSFプロトタイパーでSF作家の樋口恭介を、読んだことのない人が、Amazonに出ている著作の内容紹介と、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」

もちろん、「反省自戒」を込めて、樋口恭介自身がこの企画を「SFマガジン」に持ち込んでも、当方はパクリだなどと苦情を言い立てることはしないから、安心してほしい。

私が望んでいるのは、「真っ当な作家が、真っ当に評価される読書界」。ただそれだけなのである。


(2021年12月10日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

 

「小林秀雄の伝統主義」を解説する〈伝統主義者〉一一書評:浜崎洋介『小林秀雄の「人生」論』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)21時43分1秒
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 「小林秀雄の伝統主義」を解説する〈伝統主義者〉

 書評:浜崎洋介『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)

 初出:2021年12月9日「note記事」

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「権威者」の解説者には、よくよく注意しなければならない。なぜならそれは、客観的解説のふりをして、じつは自身の考えを権威づけようとするものでしかないことが、少なくないからだ。

そうした場合の「着眼点」としては、どれだけ解説者(論者)の個性が、そこに「正直」に表現されているからである。つまり、一見したところ「公正中立」的に「謙虚」に論じているかのような「体裁」のものは、かえって「怪しい」と考えるべきで、おおよそ「詐欺」の類いとは、そういうものなのである。

実際、本書で論じられている「小林秀雄」という批評家は、きわめて「個性的」な書き手であったというのは、彼の支持者であれ批判者であれ、一致した評価であったし、それは本書の著書とて同じである。
なのに、そんな「小林秀雄」を肯定的に論じている解説者自身が、自分の「個性」を隠して、読者受けの良い「公正中立」的に「謙虚」な姿勢を採っているとしたら、それこそ、その点を怪しんでしかるべきだというのは、理の当然であろう。

だが、多くの読者は、「わかりやすい(「そうそう、そうだ」と感じる)」という点で「自分の考え」が追認されていると感じられるものを、飛びつくようにして是認してしまいがちである。そこでは、「正しい説明だ」というのと「同意見だ」というのが、簡単に同一視されてしまっているのだ。

「大筋においては同意見だったとしても、論者の語り方には、何か引っかかるところがある」といった、文学的「直観」を働かせるような読者は、ほとんどいない。また、だからこそ、多くの「通俗解説者」は、いかにも「公正中立」的かつ「謙虚」に、「わかりやすい」解説をして見せるのである。

だが、この「わかりやすさ」にこそ罠があると、「文学」読者は、そう考える「感性=直観」を持っていなければならない。「文学作品を読む」とは、「パズルを解く」のとは違うのだということを、「文学」作品に向き合うことの中で感じ取るべきなのだ。

以前、現代思想家・國分功一郎の著書『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』を論じて、私は同趣旨の書評「「わかりやすい」という〈陥穽〉」を書いた。
この本のAmazonレビューを読んでもらえば明らかだが、レビュアーの多くが、國分書を高く評価するポイントは「わかりやすい」ということである。つまり、レビュアー自身の思考努力はほとんど必要なく、この本を読めば、スピノザの思想の基本的な部分が「わかった」ように思えるという点において、同書をほとんど手放しに、高く評価しているのである。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n8705e4eb8fd0

そして、こうした点において、浜崎洋介に手になる本書『小林秀雄の「人生」論』の評価も、まったく同じなのだ(同じ肯定的レビュアーもいる)。

本書もまた、小林秀雄の「考え方」をわかりやすく解説するものとして、高く評価することができる良書である。ただし、ここで語られていることが、本当に「小林秀雄の考え方」であるという保証などはない。事実、本書の中で著者の浜崎は「批評対象を通して、自分を語ることが、批評の真髄である」という趣旨の「小林秀雄の考え方」を、肯定的に紹介しているのだ。

だが、そんな「小林秀雄の中に自身を見出す」ことのできる浜崎自身の書き方は、前記のとおり、小林秀雄的ではなく、「公正中立」的に「謙虚」に論じているかのような「体裁」のものなのだ。
だから、私は、本書における「小林秀雄論」を、その大筋において「的確な読解力」だと認めつつも、その「小林秀雄論」を「梃子」にして語られた、見えにくい浜崎自身の考え方のほうは、きわめて怪しいと考えるのである。

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その「怪しい」部分とは、端的に言って、文学、あるいは思考における「伝統」の重要性の強調である。
つまり、小林秀雄の、そして浜崎洋介の「伝統主義」だ。

もっとも、老獪な「伝統主義者」である浜崎は、単純に「小林秀雄が伝統の重要性を語っているから、伝統は重要だ」などというような、幼稚な説明はしない。

小林は「伝統」の重要性を語ったけれども、それは「イデオロギー=様々なる意匠」の一つとしての「伝統主義」ではない。無根拠な「私(主体)」を根底で支えている「選択不可能な事実としての伝統」だ、という具合に語って、マルクス主義をはじめとした、外来の「近代主義」のいろいろを「イデオロギー=様々なる意匠」だとして、日本人には否定しがたい「日本の伝統」である「日本語」を差異化し、それこそが「伝統」であると定立して見せるのである。

これは、いかにも巧みで説得的な論法であり、こうしたことは、メディアにしばしば登場するような、頭の悪い「棒読み伝統主義者」には真似のできないことだ。だが、だからこそ危険であるし、取り扱いに注意すべきものであり、その点で「文学」的に読まれなければならない。「1+1=2」的な読みでは、その「レトリック」によって、簡単に「洗脳」されてしまわざるを得ないだろう、ということなのである。

考えても見て欲しい。本書を読んで、一般的な読者が最終的に「得るもの」、あるいは「与えられるもの」とは何であろう。一一それは、われわれは日本の「伝統」を学び、その「根底」に支えられて「思考」すべきである、といったようなことであろう。
言い換えれば、そこでは、すでに私たちの血肉になって久しい「西欧」や「近代主義」との真剣な対決が、免除免責されている。それは、すでにペンディング(保留・先送り)ですらなく、私たち日本人は、「西欧」や「近代主義」との対決を、実質的に免除されてしまっているのである。だから「楽」なのだ。

だがこれは、小林秀雄の正宗白鳥との「論争」と、その後の小林の正宗白鳥再評価を通して、浜崎自身も否定していることなのだ。
「近代主義=人間主義」を正直に輸入して受け入れた「自然主義文学」者たちは、「舶来好き」の安易な「主義者」だと理解して否定すればよいといった、そんな単純な存在ではない。彼らは、拒絶し得ない「時代の波」としての「西欧」や「近代主義」を、その身をもって受け止め、対決した人々だと評価することもできるからである。
そして、このことは、小林が対決し続けた「マルクス主義」についても言えることなのだ。

したがって、本書の難しいところは「小林秀雄」の解説として語られている「小林秀雄の考え方」と、著者である浜崎洋介の考え方が、必ずしも同一ではないという点であり、それがわかりやすく、正直に表明されていない(隠されている)点であると言えるだろう。

ところが、多くの読者は、そこまで本書を読み込もうとはせず、ただ「字面を追って満足する」に止まっている。
それが著者の狙い(読者コントロール)であったとしても、しかし喩えて言うなら「物語の筋しか追えず、そこに秘められた思想に無頓着な読者」というのは、決して「読める読者」とは呼べないだろう。

言うまでもなく、「文学」というのは、「筋」を追うだけでは、まったく不十分なのだ。
娯楽小説(エンターティンメント)なら、それで良いのかもしれないが、そうした読み方は「文学」的ではない、ということを、私たちは、小林秀雄をはじめとした、優れた批評家に学ぶべきだろう。
テキストに「筋以上のものを読み込む」彼らは、間違いなく「個性的」だし、その個性を隠そうともしない。なぜならば、彼らの「個性」は、「筋以上のもの」としての「真理」に通づるための「鍵=個性」だからである。

そして、私のこの主張(読解)は、決して本書の主張と、矛盾してはいないはずである。

(2021年12月8日)

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人恋うる〈小さきもの〉への愛:安野モヨコと庵野秀明 一一書評:安野モヨコ『監督不行届』『オチビサン』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)21時41分33秒
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 人恋うる〈小さきもの〉への愛:安野モヨコと庵野秀明

 書評:安野モヨコ『監督不行届』(祥伝社)『オチビサン』(朝日新聞出版)

 初出:2021年12月6日「note記事」

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言わずと知れた庵野秀明との出会いは、『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズであった。
当時すでに私は、テレビアニメとも距離を取っていたから、本放映でちゃんと視たわけではない。テレビを点けた時にたまたまやっていた回を、2、3回視ただけだったと思う。
私は、当時すでに読みきれないほど所蔵していた未読の活字本を読むために、シリーズ物のテレビ番組は、ドラマ無論、大好きだったアニメさえ、自主規制して視なかったのだ(だから、劇場用アニメだけは視ていた)。

私がテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』を通してみたのは、友人から揃いで貸し与えられた「録画ビデオ」によってである。その当時すでに『エヴァ』はブームになっており、再放送くらいはされていたのかもしれない。

当時の私は、「新本格ミステリ」ブーム下、同人誌に評論を書いていた。関東に手塚隆幸という同人誌作りに熱心な男がいて、評論の書けそうな全国のミステリマニアに声をかけて、月に1冊くらいかも知れないほどのハイペースで、『綾辻行人研究』や『竹本健治研究』『清涼院流水研究』『天城一研究』といった「ミステリ作家研究本」、あるいは『御手洗潔研究』『牧場智久研究』『鬼貫警部研究』といった「名探偵研究本」を次から次へと企画し、そのたびに「書いてくれ」「書けないか」と手紙が届いたのである。

しかし、手塚はそれに飽き足らず、アニメや特撮番組なども好きだったせいで、ミステリとは関係のない、そういったジャンルの「研究本」同人誌も企画刊行した。私が協力したものとしては『仮面の忍者赤影研究』などがあったが、そうした企画の一つとして『新世紀エヴァンゲリオン研究』への原稿執筆依頼が来たのである。

だが、その当時の私は、『エヴァ』を通しで視てはいなかったし、まだ「レンタルビデオ」も出ていなかったくらい時期だったので、その旨を記して「書けない」と返事を送ったところ、手塚から「録画ビデオを送るから、それを視て原稿を書いてくれ」という返事が来たので、私もそこまでしてくれるのなら、気になっている作品ではあったし、この機会に視てもいいかと思い、原稿執筆依頼に応諾したのである。

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その当時すでに、庵野秀明は、一部マニアの間では、『王立地球軍 オネアミスの翼』(作画監督)や『ふしぎの海のナディア』(総監督)などの作品で注目された存在であった。

一方、私の方はもともとプラモ趣味もあったから、庵野がアニメ監督としてデビューするずっと前に、大阪・桃谷にあった、ガレージキットやオリジナル工具などを製造販売していた「ゼネラルプロダクツ」(「ガイナックス」の前身)で行われた、自主制作作品「ダイコンフィルム」『八岐之大蛇の逆襲』『愛國戰隊大日本』『快傑のーてんき』、そして、若き庵野秀明が主演した『帰ってきたウルトラマン』などの上映会に足を運んでおり、それが庵野を庵野と意識せずに見た、庵野との「すれ違い」だった。ちなみに、庵野秀明は、私の二つ年上である。

つまり、私はかなり早い時期に庵野秀明の関わった作品に接してはいたのだが、作品名こそ知ってはいても、まだ庵野秀明個人については全く意識しておらず、アニメ雑誌などで『王立地球軍 オネアミスの翼』が大きく取り上げられた頃にも、そのキャラクターデザイン(『エヴァ』の貞本義行)が「いまいち垢抜けしない」という理由で興味を示さなかった。

そもそも『王立地球軍 オネアミスの翼』にしろ『ふしぎの海のナディア』にしろ、その「ウケ方」が、いかにも「オタク」的だったので、私はそこに嫌悪感を感じていた。
そうした作品の評判とは、曰く「この作品は、あれやこれを押さえた作品だ」「あれこれのパロディーだ」といったもので、そんな「マニアックかつ瑣末主義的な知ったかぶり」が大嫌いだったのだ。だから、よけいに作品の方も、食べず嫌いならぬ「見ず嫌い」だったのである。

アニメファンとしての当時の私の自己認識は「ハードな人間ドラマ派」とでも呼べるものだった。
私が一番好きだったアニメ演出家は出崎統であり、アニメーターは杉野昭夫だった。つまり、「虫プロ」出身で「東京ムービー新社」を経て「あんなぷる」を設立した、かの黄金コンビ「出崎統・杉野昭夫ペア」の熱心なファンであり、『あしたのジョー』『あしたのジョー2』『エースをねらえ!』『宝島』『家なき子』といった二人の作品と、杉野がキャラクターデザインと作画監督をつとめた『マルコ・ポーロの冒険』や『ユニコ』『坊ちゃん』といった作品に惚れ込んでいたのだ(ちなみに、私は当時、杉野昭夫のファンクラブ「杉の子会」にも入会していた)。
そして、そんな私だから、「マニアックな瑣末主義的知ったかぶり」が大嫌いだった。私は今も昔も、「力石徹」のストイックさに惚れ込むタイプの人間なのである。

私は今でも、アニメやマンガやプラモが好きだから、世間的には「オタク」ということになるのだろうが、厳密に言えば、私は「オタク」(や「マニア」)ではなく「熱心なファン」であって、瑣末な情報蒐めなどには興味がなかった。情報とは、あくまでも作品をより深く理解するためのものであって、それ自体が目的ではない。無駄に情報を山ほど集めても、そんなものはゴミでしかなく、そんな知識をひけらかすような奴ら(オタク)はバカだと思っていた。また、今も、こうした思いに大差はない(だから「現代思想」オタクなどにも嫌悪感を感じる)。

当時の私の思いを代弁するようなマンガがあった。かの「スタジオぬえ」に属していた頃の、若き細野不二彦が描いた『あどりぶシネ倶楽部』(1986年)という1巻本の作品で、映画作りを志す、大学の映画研究会メンバーの活躍を描いた青春マンガである。
学祭用にクラブでSF映画を撮ることは決まり、主人公が監督に選ばれる。ところが、個性派の揃った部員たちを、うまく束ねることができない。中でも、抜群に絵の上手い男性部員がいて、彼は宇宙空間や惑星など、宇宙船の模型による特撮シーンの背景画を担当したのだが、もともと実写映画のファンではなくアニメオタクだったから、リアルな宇宙空間を描こうとせず、趣味に走ってアニメ的な背景画を描いてしまう。そうしたことに、監督である主人公は頭を悩まされるのだが、そんなある日、その美術担当の部員が自作の背景画の片隅に「バルキリー」描いて、その「遊び心」を自慢をしている。無論、映画本編とは全く関係のない「お遊び」である。主人公側の先輩が、こうした制作に取り組む真摯さに欠けた態度に切れて、このあまり協力的ではなく、自分勝手な男性部員とぶつかってしまう。一一といったような展開だったと記憶している。

細かいところは記憶違いもあるかも知れないが、この自分勝手な男性部員が「関西弁」だったのは、いかにもなことなのでハッキリと記憶しているが、いずれにしろ、私は主人公の方に、完全に感情移入していた。
と言うのも、私が高校2年で漫画部の副部長をしていた頃、部で「文化祭」用に「スライドストーリー」を作ろうと決まったのだが、絵の上手い後輩にかぎって、自分の好きなところだけに好きにこだわって時間をかけ、全然、全体のスケジュールも何にも配慮しない、自分勝手な手合いだったのである。そのため、監督ならずとも実質的なまとめ役兼進行係をだった私は、絵も人一倍枚数をこなせば、ドラマ音声の録音や編集、効果音やBGMとのミキシングなども一手に引き受けなければならず、大変な苦労を強いられる経験をしていたのだ(このへんで『映像研には手を出すな!』には懐かしさを感じる)。

そんなわけで、私は『あどりぶシネ倶楽部』の主人公に感情移入したし、この作品も、主人公の肩を持つ内容となっており、自分勝手な「オタク」は、最後は皆と協力するようになるものの、いったんはギャフンと言わされる、明らかな憎まれ役だった。

そして、私の「一般的なオタク」のイメージも、おおむねこうしたものだった。要は「知識や技量は豊富に持っているが、基本的に視野が狭く、独りよがり」というものだったのである。
そして、そうした「オタク」観を持っていたから、『王立地球軍 オネアミスの翼』や『ふしぎの海のナディア』の盛り上がりについては、実に冷ややかに距離をおいていたその結果、庵野秀明との本格的な出会いは、『新世紀エヴァンゲリオン』にまで持ち越されることになったのである。

もっとも、こんな私であったからこそ、のちに『新世紀エヴァンゲリオン研究』に書いた原稿は、「問題の最終2話」を肯定するものだった。

それまでの「マニアックなドラマ展開」で、『エヴァ』の評判はうなぎ上りに高まっていた。ところが、庵野監督は、そのドラマをぶち投げるような「メタ的オチ」を付けて、ファンの期待を大きく裏切り、その結果、熱心な「オタク的ファン」たちから、可愛さ余って憎さ百倍の、激しいバッシングを受けていたのだ。

一方、「オタク嫌い」で「メタ好き」「批評性好き」の私は、「あのぶち投げ方は痛快だ」と感じていたので、オタクどもがが腹を立ててキレれば切れるほど「ざまあみろ」という感じしかなかったし、庵野がインタビューなどで漏らした「オタクの閉鎖性への嫌悪」には、まったく同感した。

その当時、そもそも自身が「オタク」であったはずの庵野秀明が、どうして「オタク」を嫌悪するようになったのか、などといったことまでは詮索する気もなかったが、私はテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』の最終2話によって、庵野秀明と本格的に出会ったのである。

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したがって、その後の劇場版には「気長に」付き合った。
そして、劇場版が公開されるたびに観ては「たしかに映像的には凄いけれども、作品としては、何かが足りない」という印象が付きまとい、とうてい満点を与える気にはならなかった。最初の劇場版シリーズである『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』全4作については、気に入ったのは、一番最後の、アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」だけであった。

だから、劇場版の第2シリーズ全4作には、さほど期待もせず付き合い続け、これも最後の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ』で、この意外にも「ぽかぽかして、収まるところに手堅く収まったような終わり方」だけを評価した。
偉大な作品の最後にしては、ややまとまりすぎの印象もあったが、だが、少なくとも「同じことの繰り返し」を脱して、一つの結末に達したという感じはあったので、「これはこれでよかったのだろう」と納得したのである。

そして、今回だけは、私と世間の評価もおおむね一致したようであった。
たぶん、もう「オタク」的な評価の仕方は、良くも悪くも主流ではなくなっていたのだと思う。庵野秀明が変わったように、すでに、時代の方も変わっていたのであろう。

 ○ ○ ○

そんなわけで、刊行後16年にして、やっと、安野モヨコの『監督不行届』を読む気にもなった。
これまで読まなかったのは、こういう「楽屋裏もの」は、あまり好きではないからである。

しかし、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ』で、庵野が変わったことを確認し、そこに興味を惹かれて、NHKで放送されたドキュメンタリー「さようなら全てのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~」を視るに及んで、この機会に『監督不行届』も読もうと思ったのだ。

で、『監督不行届』はどうであったか。
感想としては「さもありなん」「なるほど、そんな感じだろうね」という感じで、マンガ本編からは、特に強い印象を受けなかったのだが、印象に残ったのは、本書の「解説」に当たるのだろう、巻末に収録されたインタビュー「庵野監督 カントクくんを語る」での、妻・安野モヨコへの率直な評価と愛情の吐露であった。

『 嫁さんはただのオノロケマンガにならないよう、読者サービスを主体にいつも真摯に考えていましたね。読者が面白いと感じてくれそうな逸話だけ厳選してマンガにしてます。自分もそれにできるだけ協力していた感じです。

 嫁さんは自分を美化できないんですよ。自分達をすごくストイックに描いている。これがいいとこでもあるんですが、弱点でもあるんです。登場人物があまり自己陶酔の世界に行かないと、読者のナルシスな部分を触発しないので、そこのところで本来の面白さが伝わらず、誤解されてしまう感がありますから。』(P141)


『 嫁さんのマンガのすごいところはマンガを現実から避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう。嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。嫁さんが本人がそういう生き方をしてるから描けるんでしょうね。『エヴァ』(※ 2005年時点。テレビシリーズと劇場版の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』全4作)で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。
 流行りものをすぐに取り入れる安直なマンガが多い中で、自分のスタイルやオリジナルにこだわって、一人頑張って描き続けている。そんな奥さんはすごいと思います。自分よりも才能があると思うし、物書きとしても尊敬できるからこうして一緒にいられるんだと思います。

 『エヴァ』以降の一時期、脱オタクを意識したことがあります。アニメマンガファンや業界のあまりの閉塞感に嫌気が差してた時です。当時はものすごい自己嫌悪にも包まれましたね。自暴自棄的でした。
 結婚してもそんな自分はもう変わらないだろうと思っていました。けど、最近は少し変化していると感じます。脱オタクとしてそのコアな部分が薄れていくのではなく、非オタク的な要素がプラスされていった感じです。オタクであってオタクではない。今までの自分にはなかった新たな感覚ですね。いや、面白い世界です。
 これはもう、全て嫁さんのおかげですね。
 ありがたいです。

 嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいと思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出す事も出来なかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとめなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取っていると感じます。だからこそ、自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先ずっとです。』(P142~143)


あの庵野秀明にここまで言わせるというのは、相当なものなのだが、それでも『監督不行届』だけ読んだ印象では、安野モヨコがそこまで凄い作家という印象もない。内容が内容だけに表現が抑制されているとしても、庵野がここまで言うほどのものとは思わなかったのだが、しかし、私は安野モヨコの作品をろくに読んでいないから、そのあたりで安野モヨコの凄さがわかっていないだけかもしれない、とここまで考えたときに、そう言えば、昔、好きで安野モヨコの『オチビサン』を読んでいたというのを思い出した。
たしか、当時の既刊は全部読んで、年1冊の新刊待ちしている間に遠ざかってしまった作品だ。今でも、かなり気に入っていた「可愛いマンガ」という印象だけはあり、まただからこそ、それ以外の「女性向けマンガ」作品には見向きもしなかったのだが、私は『オチビサン』のどこに、あれほど惹かれていたのだろうと思い、この機会に再読しようと、ひとまず第3巻までを入手したのである。

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『オチビサン』は『『朝日新聞』に2007年4月から2014年3月まで連載され、2014年4月から2019年12月まで『AERA』(朝日新聞出版)に移籍して連載された。単行本は全10巻。』(Wikipedia「オチビサン」)の、カラー1ページもののマンガである。

登場人物は、主人公の「オチビサン」は、「鎌倉のどこかにある豆粒町」で一人暮らししている(たぶん)少年。いつも、赤白の横縞のシャツに黒パンツ、白いぼんぼんのついた赤白横縞のニット帽をかぶっている。
主な登場人物(?)は、同じ町内に住む、黒犬の「ナゼニ」。彼は、物事に興味を持って、それを本で律儀に調べるのが趣味の、本好きの真面目な犬。
もう一人(?)は、茶色のモフモフ犬「パンくい」。名前のとおり、パンが大好物で、いつも食べ物のことばかり考えている、マイペースの犬である。

この3人を中心に、四季折々の生活を面白おかしく描いたのが『オチビサン』という作品だと、いちおうはそう説明できるだろう。
しかし、この作品は決して「楽しい」だけの作品ではない。この作品に通奏低音として流れるのは「人恋しさ」だということを、私は今回の再読で確認することができた。そして、ここに、庵野秀明の言う、

『 嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいと思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出す事も出来なかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとめなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取っていると感じます。』

が、ハッキリと表れていた。

言うなれば、主人公「オチビサン」は、安野モヨコの内面の投影されたキャラクターであり、真面目な「ナゼニ」も、安野モヨコの性格を反映したキャラクターだろう。
一方、マイペースな「パンくい」は、この作品が、庵野秀明との結婚(2002年)後の2007年に始まった作品であることを知るなら、「好きなことしか考えていない」、ある意味傍若無人な「オタク」である庵野秀明を反映したキャラクターだと見ることも、十分に可能だろう。
そして、「オチビサン」と「ナゼニ」だけでは、その「孤独癖」から、ややもすると「しんみり」とした感じになるストーリーに、「パンくい」の、春のお日様のような温かさと陽気さが加わって、救いをもたらすことになるのである。

だから、『オチビサン』を読み返してみて思ったのは「庵野秀明と安野モヨコは、お互いに最高のパートナーを見つけたんだな」ということである。

『オチビサン』を読んでいてわかるのは、「オチビサン」や「ナゼニ」は、お互いに仲の良い友達がいるのに、いつもどこかで「人恋しさ」を抱えて生きている。しかし、それは単なる「寂しさ」ではない。単に、友達を大勢つくって、にぎやかな生活ができれば、それで満足できるようなものではない。

むしろ、「オチビサン」にしろ「ナゼニ」にしろ、「人恋しさ」を感じながらも、「一人でいることの静けさ」の中に、何か「大切なもの」を感じ、それが「大切なもの」だと理解して、そうした「寂しさ」を大事にしているし、「好き」だとまで言っている。

それは、まるで、人は「一人で生まれてきて、一人で死んでいくもの」だということをいつも実感しながら、しかしまた、それは単に「悲しむべきこと」ではなく、人間の生とは、死んでいくことも含めて素晴らしいものだと感じるからこそ、今この瞬間を大切にして、その時その時を精一杯に味わわなければならないのだと考える、そんな「人生観」や「生命観」の反映であり、その実感的基礎のようでもあった。
だから、オチビサンは、一人でいると「人恋しさ」を感じつつも「でも、これも生きているからこその、大切な実感なんだ」とでも思っているようであり、そんなあまりにも真面目で繊細な「生の肯定性」を、彼は生きていたのである。

そして、そんな繊細で真面目な人柄を、安野モヨコという女性に見ているからこそ、庵野秀明は「俺が守ってやりたい」と思ったのであろう。それほど、安野モヨコの中の「オチビサン」は、健気で愛おしい存在だったのである。

一般には、庵野の『自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先ずっとです。』というキッパリとした宣言は、少々嘘っぽく感じられるかもしれない。しかし、私には、この感情が、とてもよくわかる。
と言うのも、嫌悪すべき対象に向かっては、すべてを振り捨ててでもその嫌悪を示してしまうような、それを隠せないような「過剰な人間」というのは、その「攻撃性」の裏返しとして、自分こそが「守るべき存在」、自分にしか守れないと思える「弱いけれど、純粋で美しい存在」を求めているところがあって、少なくともそのあたりは、私は庵野秀明と似ていると思うからだ(庵野秀明の「師匠」の一人である宮崎駿にも、そうしたところがある)。

だから、私は、そんな庵野秀明は、安野モヨコと結ばれて、本当に幸せになったのだと思うし、その意味で、非常に羨ましい。
一方、「私は一人でも生きていける」と考えるようなタイプの安野モヨコが、庵野秀明という「パンくい」みたいな、ずうずうしい伴侶を得たことは、とても幸福なことだったはずである。安野モヨコのような繊細で遠慮がちな人間には、どんどん愛情を押し付けてくるくらいの存在が必要だったのだろう。だが、そんな人との出会いは、そうそうあるものではないからだ。

安野モヨコと庵野秀明は、良い意味で「巨大な、割れ鍋に綴じ蓋」だった。私は心から、そう羨ましく思うのである。


(2021年12月6日)

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小松左京〈利権〉を確保せよ!一一書評:『現代思想 2021年10月臨時増刊号 総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年』

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月12日(水)21時38分50秒
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 小松左京〈利権〉を確保せよ!

 書評:『現代思想 2021年10月臨時増刊号 総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年』(青土社)

 初出:2021年12月4日「note記事」

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『(※ 小松左京の自伝的エッセイ集『やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記』の)「ニッポン・ 七〇年代前後」(一九七一)(※ の章)では、小松が大阪万博にどのようにして参画することになったか、万博や未来学会にどういう形でかかわっていたかの様子が詳細に描かれる。オリンピックに対する批判的目線を持ちつつ、万博の課題や意義について考えていた姿勢もうかがえ、その冷静な立場のとり方には感服させられる。「お国のため」ではなく「人類のため」に仕事を引き受けたというセリフは、なかなか簡単には言えないものだろう。』(P289、宮本道人「小松左京ブックガイド 最初にして最大のSFプロトタイパー」より)


もしもあなたが、色々と問題(弊害)のあることを知っているオリンピックや万博について、政府から「有識者会議」に参加して「色々、ご意見をいただけませんか、先生」などと言われたら、どうするだろうか?

当然のこと、たんまりと謝礼ももらえれば、肩書き的にも「箔が付く」(その後の人生で、何かとお得)というのがわかっているわけだが、その場合、あなたも『「お国のため」ではなく「人類のため」に仕事を引き受けた』い、くらいのことは、平気で言えるのではないだろうか?

私は、そんな「白々しいこと」は到底言えない(宮武外骨的に)残念な性格なのだが、多くの人は「カネと名誉」のためなら、それくらいのことは平気で言えるだろう。そうではないだろうか?

それなのに、これを『なかなか簡単には言えないものだろう。』などと言って、殊更に小松を持ち上げてみせる「SFプロトタイパー」の宮本道人は、きっと、こういう白々しいセリフを平気で吐ける人なのだろうし、政府からのお誘いには「待ってました!」とばかりにホイホイと応じて、その不相応な謝礼が「国民の血税」から支払われることにも、何の疑問も痛痒も感じない人に違いない。
ちょうど、オリンピック代表選手が、コロナウィルスで何人の(無名の)死者が出ようと、オリンピックは開催してほしいと言って憚らなかったのと同じで、要は、これすべて「利権」やら「既得権益」やらの話なのである。

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本特集号の執筆者を大雑把に分ければ、故・小松左京の「擁護派」と「批判派」に区分できる。

「擁護派」とは、要は、小松左京の「功績」を強調する人たちであり、多くは「日本のSF界」周辺で禄を食んでいる著述家である。その典型が、前記の宮本道人や、SF小説家で「SFプロトタイパー」の一人と言ってよい樋口恭介、あるいは「フェミニズムSF評論家」の小谷真理などである。
一方「批判派」の方は、社会学者や科学史家といった学者で、小松左京を批判しても、仕事上の差し障りなどない人たち。例えば、酒井隆史や塚原東吾などがその代表である。

もちろん、本誌『現代思想』の基本的な立ち位置は、「擁護派」に近い。だが、「擁護」が目的ではなく、小松左京は「(金儲けの)ネタになる」という意味で、「肯定派」と言うべきかもしれない。

周知のとおり『現代思想』誌は「現代思想における知の対象たるテーマや人物」を採り上げて特集を組む評論誌だが、「テーマ」については「批判的特集」を組むことはあっても、「人物」については、おおむね「人気者」を採り上げており、「人物」に関する「批判的な特集」というのは、ほぼ見当たらない。

無論これは、営業上の問題で、例えば「ドナルド・トランプ特集」をやらなかったのは、他誌との差別化のためであって、「ドナルド・トランプ(現象)が、現代思想における、知の検討には値しない」という理由からではないはずである。トランプ元米国大統領についても、考えるべきこと、検討すべきことはあるし、そのテーマで、それなりに読むに値する原稿も集まるだろうけれども、そんな「俗っぽい」特集をやっても、「知のエリート」を自負する読者には「ウケない」と分かっているから、『現代思想』誌は、「知の最前線(流行)」か「文化の最前線(流行)」に関わる、「人気者(流行)」の特集をするのである。

今回の「総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年」も、小松左京の没後10年ということで、代表作『日本沈没』のドラマ化や小松の著作の再刊フェアなどが行われて、出版業界的に話題が盛り上げられるのは既定路線であるから、それに翼賛的に参加したということである。
言うまでもなく、没後10年だからといって、にわかに小松左京の「新たな価値」が見出されるわけもないのだ。

したがって、出版業界、特に小松左京の所属した「SF業界」に属する者は、小松が開拓した「市場」をしぼませることのないように、小松の仕事の価値を称揚し、さらにその「今日的な価値」を語って、その「市場」を受け継ごうとするだろう。SF業界関係者が、小松左京を持ち上げるのは、そういう「打算」があるからで、単純な「ファン」意識や「後輩」意識や「党派」意識などではない。

殊に宮本道人にように、自身の肩書きである「SFプロトタイパー」を、偉大な先達に冠して見せるというのは、要は自身の肩書きに対する「箔付け」に他ならない。
「自分のやっているSFプロトタイピングという仕事は、小松左京が先駆的にやっていたことの今日的な形である」だから「小松が偉大なら、SFプロトタイパーである我々の仕事も偉大である」ということであり、要は、自分たちも小松左京のように、「「政府」や「経済界」筋からお座敷がかかるような有名人になりたい(高い所に登りたい)、ということなのだ。それで、テレビ番組のレギュラーコメンテーターにでもなれれば、なんてことだって頭の片隅にくらいはあるだろう。

だから、宮本道人や、そのお仲間の樋口恭介などは、ことあるごとに「SFプロトタイピングが流行している」とアピールするが、これは「我々は流行の最先端にいる」という、臆面もない「自家宣伝」でしかない(「流行っている」と連呼すると、それに食いついてくる、無定見な馬鹿は少なくないからだ)。
「SFプロトタイピング」というのは、「SF的発想術を援用した、ビジネスにおけるイノベーションの惹起法」であり、要は「ビジネスコンサルティング」の一種で、まんま彼らの「商売=稼業」なのである。

そして、そんな「今を生きる」彼らにとって、小松左京も今や「活用すべき資源」であって、素朴に「尊敬する作家」だとか「先輩」だとかいった話ではない。
星新一や半村良や眉村卓や光瀬龍や筒井康隆なんかがいくら好きで、そうしたSF作家をいくら持ち上げたところで、「没後何十年」かの特集号でも出れば、それに原稿料十数万円くらいの原稿を書かせてもらえることはあっても、「政財界」からお呼びがかかって、たんまり謝礼がもらえることなど、絶対に無い。
その点において「小松左京」は、どんな「日本のSF作家」とも違って、そうした意味での「別格」的資源なのである。

本号の内容を知りたければ、私がここに挙げた5人、小松左京「擁護派」の宮本道人、樋口恭介、小谷真理の3人と、「批判派」である酒井隆史や塚原東吾の文章を読めばいい。
私がここで書いたことが、身も蓋もない「業界的現実」であることを、多くの読者は(嫌でも)認めざるを得ないだろう。

要は、「小松左京ヨイショ派(擁護派=SF的新自由主義者)」と「小松左京がナンボのもんじゃ派(批判派=アナクロ庶民派)」の攻防が、「現代思想」編集部の「両論併記」の中立性アピールとして並んでいるのが、本号なのである。

一一まったく、ウンザリだ。


(2021年12月4日)

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今年は年男で、誕生日が来れば目出度く〈還暦〉!

 投稿者:園主メール  投稿日:2022年 1月 3日(月)19時39分25秒
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タイトルに記しましたとおり、私も今年で「還暦=60歳」でございます。
昔は「笠井(潔)さんも、60歳かあ~。デビュー当時の写真のイメージが強いんだけどなあ」とか、一時期、実物に毎年のようにお会いしていた竹本健治さんにしても「竹本さんも還暦かあ。二十歳で作家デビューした『タバコを吸う少年』だったのに、それから40数年とはなあ」なんて思っていましたが、そんな私も「還暦」でございます。いやはや…。

とか申しておりますが、実際のところ、歳をとったことは、それほど嫌ではございません。
もともと、若さを誇るべき、美貌も体力も知能もございませんでしたから、若い頃に夢見たような何者かにはなれなかったものの、本だけは倦まず弛まず読んできましたので、それなりに「ものを考えられる人間」にはなれたと、自分なりに満足はしているからでございます。
つまり、いつまでも、何の取り柄もない若者であるよりは、歳相応の知恵だけはついた現状に、それなりに満足しており、この先、何者にならなくても、本を読みながら好き勝手なことを書きつつ、自宅で孤独死できればいいと思っているのでございます。

無神論者である私の場合、死んだ後のことを心配する必要はなく、孤独死が恥ずかしいという感覚もございません。したがって「終活」なんてものは、生きて動ける時間の無駄遣いでしかなく、商業宣伝に踊らされているだけとしか思えません。人は死んだら、意識は失われ、あとはゴミになるだけ。そして、ゴミが腐敗するのは当たり前のことでしかございません。
無論、腐乱死体の後片付けをしてもらうためのお金くらいは残しておこうと思っておりますが、それも実際のところ、なるようにしかならないでしょう。
ともあれ、少々の蓄えと、図書館並みに溜め込んだ蔵書を売り食いしながら、働かないで何とか10年くらいは「楽隠居」したいなどと、反時代的なことを考えております。

無論、売る本も無くなりお金も無くなれば、「生活保護費をよこせ! 税金をどれだけ払ってきたと思っているんだ、ばっきゃろー!」という勢いで、生活保護を受給するつもりでございます。
と申しますか、生活保護を受給する経験も、一度くらいはしたいと思っているのでございますね。何でも経験してみて悪いことはございませんし、どうせ老い先も短いのなら、そのくらいのことは、まったく、どうってことないからでございます。

ちなみに、この機会に、久しぶりの説明をしておきますと、この掲示板のトップに掲げさせていただいております「画像」は、ショタコンマンガ家の星崎龍さんに描いていただいた線画に、私がお粗末な着色をさせていただいたものでございます。
で、なぜトップに、このような「カワイイ絵」を掲げているのかと申しますと、当初、この「アレクセイに花園」は、園主である私・アレクセイと、二人の美少年助手であるナイルズとホランドの三人の管理による、「耽美系」掲示板、という設定だったからでございます。

しかしながら、いつまでも設定に沿ったことばかり書いているのは窮屈で、半年と保たずに地金が出てしまい、議論をするか、評論を書くか、喧嘩をしているかという、私らしい掲示板になってしまったのでございます。
ですが、せっかく星崎さんに描いていただいたものを、むざむざ下ろすに忍びず、直接言われたことは無いものの、「内容にそぐわない」という真っ当な批判もございましょうが、意地でもトップイラストとして掲げ続けてきた、というわけでございます。

で、このイラストに描かれているのは、中央の「黒衣の美青年」が、当然のことながら私で、両脇がナイルズとホランドの両君でございます。
私に愛想を尽かしてずいぶん昔にこの花園を去ったままのナイルズくんも、よもや、あの「園主様」が、今や還暦とは、という感じでしょう。ですが、まあ、私も昔は、トップイラストのごとき「美青年」だったということで、ご了解いただければと存じます(笑)。


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オロカメンさま

あけましておめでとうございます!

年末に続いて、早速のご挨拶をいただき、誠にありがとうございます。

>  旧年中もたいへんお世話になりました! 昨年もいろいろと学ばせて頂きまして、今年もぜひ仲良くして頂けましたら幸いですm(_ _)m

こちらこそ、どうぞよろしく。

>  これからもどうぞ末永くご健全にこの「花園」を続けて頂ければと思いますよ♪

まあ、20年の継続というのは、なかなかなものだと自負してはおりますが、切りの良いところで50年を目指すというのは、さすがに無理なので、最低でもあと10年。できれば、あと20年を目指して「まだ続いていた電子掲示板」として、ネット史に名を残してから、きっぱりと終わりたいものでございます。

>  さて、ぼくの新年のご挨拶の恒例となってきましたが、去年2021年に読んだ本の読書記録をご紹介したいと思います☆彡

>  ――――――――――――――――――――――――――――――
>   ・2021年に読了した本の冊数(漫画を除く)……100冊
>   ・小説の冊数…………………………………………………29冊
>   ・小説以外の冊数……………………………………………71冊
>  ――――――――――――――――――――――――――――――

>  2019年の読書数は138冊、2020年は105冊読んでいたので、少しずつ読書量が減って行っているような気がしないでもない……(^^;)

>  しかし、小説と小説以外の本の冊数の割合は昨年とほぼ変わっていない感じです。

>  最近はどうも、あまり小説を読む事に若い頃ほどの価値を感じなくなってきているのか、特に昨年の前半あたりなんかは「まったく小説を読む気がしない」という感じでした。

哲学書を読んでいるのですから、冊数が減るのは仕方ございませんよ。
ただ、歳をとって、小説が読めなくなるというのは、ひとつの「老化」ではございますから、お気をつけくださいまし(笑)。

若い時分というのは、小説の「世界」にどっぷりと浸りこむことができるのですが、歳をとってくると、それができなくなってしまいます。ちょうど「年寄りは、眠りが浅い」というのと似ているかもしれませんが、ともあれ「小説読みの快楽」が薄れるというのは間違いございません。そのせいでしょう、「没入」の必要がない「知的」な読み物の方に、どうしても興味が移っていきがちなのでございますが、しかし「文学」というものは、「没入的快楽」だけが目的ではなく、むしろしばしば「知的」な読み方が求められるものですし、そうでなければ味わえない作品というのもございます。ですから、歳をとってからは、そうした「含蓄の深い小説」を読めば良いのだと存じます。
また、そうした「文学」作品は、決して「哲学書」より、易しくも浅くもございません。だからこそ、哲学者は「古典文学」を好んで分析対象にするのでございましょう。本当の意味で「小説をナメてはいかんぜよ」ということなのでございます(古)。

>  小説ならば1日以内に読み終わる事のほうが多いので、小説ばかり読めば1年の「数量」的な読書量は確実に増えるんですけども、「数量」自体に最近あまり意味を感じなくなったってのが大きいでしょうか。

>  ぼくの中では、最近はやはり「読書量」よりも、「読書の中身」のほうを大事に思う傾向が強くなってきましたんで、その質をどう上げるかというほうに気をかけてる感じです。

たしかに「冊数のための読書」では、中身が薄くなってしまいますよね。
それに、その人の読書速度というのは、だいたい決まっていて、早く読もうとして読めるものでも、早く読めるようになるわけでもないようでございますから、あくまでも自分のペースで、良い本を読むことが重要かと存じます。

>  例えば、小説でしたら「どんな内容だったのか忘れてしまった」というのでしたら、再読して改めて楽しむというのも悪くないでしょうが、学術書だったり論文だったりを時間かけて苦労して読んだのに「何が書かれていたか内容を忘れてしまった」っていうのは、さすがに時間がもったいないなァと思うようになったのもあります。

なるほど。
しかし、私の場合は、どんな内容であれ「記憶しようとする」読書は諦めました。もともと記憶力が弱いからでございますが、単なる「暗記」に終わっては意味がない、と考えるからでもございます。

つまり、内容を理解していれば、「そのまま暗記」してはいずとも、「理路」として脳に刻まれており、必要な時に「自分の言葉として」自然にアウトプットできるものでございましょう。したがって、それで読んだ価値はある。
ですから、所謂「思い出せない」といったことは気にせず、理解できたところは残り、そうでないところは自然に消えていくということで構わないのだと考えております。

Amazonレビューなどでも、しばしば「よく読んで、よく暗記しており、それをそのまま書いて、説明できる」人というのがいますが、こういう人の書くものは、たいがい「つまらない」。
そんなことは「Wikipedia」などにだいたい書いてあることであって、その人がわざわざ、大差のないことを暗記して、中途半端な説明文を書く必要などない、と思うのでございます。当たり前の説明的理解なら、今や「ネット上の集合知のハードディスク」に外化されれば、それでいい。

したがって、人間がすべきこと(クリエイティブな行い)として大切なのは、自分なりに理解して、自分なりの思考を深めることであり、不出来なハードディスクになることではない。
思い出せないことは、無理に思い出す必要はなく、そんなことは気にせずに、再読でもいいし、次の本でもいいから、どんどん読めばそれでいいと存じます。
無論、これは「読書ノート」を否定するものではございません。それも、自分を耕すための一つの手法であるからで、ただ「暗記」のためのものではないと考えるからでございます。

>  そのために、本を読んだ後には必ず自分の言葉でその本の内容を要約してしっかりと総括して評価するほうに力を入れるようになりました。
>  これによって「読んで終わり」ではなく、読んだ後に自分の言葉で本の内容を振り返って読んだ内容を自分の中に定着させ、更には後日、細かい内容を忘れてしまっても自分の書いた要約を読む事によって記憶を呼び覚ます事ができる……という効果を狙っています。

ですから、「ノート」を書くというのは「復習」であり、「記憶を定着させる」というのは、実際のところは「十分には理解していなかった部分の理解を補いつつ深める」ということなのだと存じます。
そもそも、あらかじめ頭に入っていないものは「ノート」に書くことはできませんし、記憶していないものは「ノート」を読み返しても「想起」できません。頭のどこかに収まっているからこそ、「ノート」に書かれた部分に刺激されて、記憶が蘇るのでございます。

したがって、オロカメンさまの場合、「記憶」ということを、すべて「短期記憶」的なものとして理解なさっており、「深層記憶」的な「長期記憶」の重要さに、十分気づいておられないのではないかと思われます。

人間にとって大切なのは、インプットしたものを「そのまま」アウトプットすることではございません。それでは、そこに何の価値も発生しておらず、単なる時間と労力の無駄でございましょう。
つまり、人が「学び」において重視すべきなのは「暗記」ではなく「理解」であり、それは「他人のものを、自分のものにしてしまう」ということなのでございます。
そして、それができたのであれば、他人の言葉をそのまま暗記しておくというのは「二度手間」でしかないということになるのでございますね。

>  まあしかし、昨年はその「内容の要約」の作業がけっこう骨の折れるという事に気づきまして、このプロセスを毎回行う事で、「読む時間」のほうが侵食されていってしまっているんじゃなかろうか……って所が、いまの悩ましい所ですねぇ(^^;)

確かにそうでございますねえ。私も、レビュー書きが習慣になっており、それに相当の時間を取られ、その分、読める冊数は減っております。しかし、だからと言って「書くこと」が無駄だとは思っておりません。書くことは「再読以上の再読」だと思っているからでございます。

ともあれ、再読を含めて、1冊1冊に時間をかけるか、それともどんどんと次のものを読んでいくかは、所詮は「好み」の問題であって、どちらが正しいということではないように存じます。
無論、両方できるのが理想ですが、それは物理的に無理でございますから、結局は、自分に合ったやり方を選ぶしかないのだと存じます。

>  昨年アレクセイさんにご指摘頂いた「むしろ大切なのは、その「哲学者を理解する」ことではなく、その哲学者が書いていることと「対決する」ことではないでしょうか」というのは、ぼくもまったく同感なんですよね。
>  しかし、 最近は哲学に関しては「読むからには、中途半端な付き合い方にはしたくないな!」って所にこだわってしまうんですよねぇ。
>  出来ればその思想家が、いったいどういう人生を送って、何に影響を受けて、どういう性格で、どういう仕事をしてきた人で、どんな生活をしていて……といった「人」としての思想家のイメージを持っておきたい。そこから最終的に、その人の思想の本丸となる主著を読んで決着をつけたい、というのがあります。
>  「けっきょく分かんないや」って感じで終わらせたくないので、毎回入門書やら解説書やらを大量に読んでるわけです。

それぞれの対象を「軽くひと撫で」するだけでは納得できないので、もっと「総合的に把握したい」というのは、とてもよくわかります。
しかしながら、結局のところ、それをするには、100冊読めば良いのか、1000冊は読まなくてはいけないのか、1000冊どころか、そもそも本を読むだけではダメなのか、といったことになり、どこまで行っても「完全な理解」というのは不可能、ということになりましょう。
ということは、元から「完全な理解はない」ということを大前提として、どういうところをどの程度学びたいのかということにしか、原理的には、なり得ないのではないかと存じます。

例えば、研究対象に生涯を賭けた専門家や研究者という人たちがいますが、その人が書いたものでも、人それぞれなのは、誰もが「自分の視点」から研究対象を「切り取っているから」であり、その意味で、どこまで行っても「一面的」なものであり、「完全」ではあり得ません。

また、その研究者が、研究20年目に書いたものと、研究50年目に書いたものがあった場合、20年目に書いた「旧著」は、無価値なのかといえば、そんなことはございません。これが意味するのは「知識が増えれば、理解が深まる」というわけではない、ということを意味します。
また同様に、昔の研究者の著書と、今の研究者の著書では、今の研究者の著書の方が自明に価値があるとは言えないのも、「知識の蓄積」と「理解の深まり」は、必ずしも合致しないからでございましょう。

このように考えていきますと、物事を「正しく理解する」ためには「より多くの情報を得る」と同時に「より深く吟味する(思考する)」ということの両方が必要なのですが、人間には時間に限りがございますから、どっちを優先するかは、その人の個性や好みの問題、あるいは、おかれた状況に帰するしかございませんでしょう。
つまり、考えるのが得意な人は、少ない資料を深く読み込みことで真相に至ろうとする、一点突破の「哲学者」タイプ。また、それが苦手で、物量作戦が得意なら、とにかく「知識」をたくさん集めて、そこで勝負する「研究者」タイプ、ということになりましょう。そして、すべての人は、この両方の性格を兼ね備えており、その中で、その兼ね合いを考えながら、結局は自分に合ったアプローチをするしかないのであり、決まった「正解」はないのだと存じます。

>  あと、ぼくが誤読するときは、もう全く愚にもつかないアサッテの方向に誤解しているんじゃないかと不安になる事も多いので(自分の「読み」に自信がないんでしょうねぇ(^^;) )まずは、学者の間で共通見解になってる所は何なんだろう?という「普通の読み方」的なものを理解しておかないと、何だか自分の中で安心してその思想に向き合えないというのもあるんじゃないかとも思っています。
>  スタンダードな読み方(っていうのは無いんでしょうが)との差がどれくらい開いているかというのがわかると、やっと安心して「いや、自分なりの解釈では、こうだと思います」と言えるようになる、と。
>  何しろぼくは学生時代に友達に勧められた古谷実のギャグマンガ『僕といっしょ』と『グリーンヒル』を読んで、全く笑えず、笑うどころか主人公に共感しすぎて「とっても泣けるマンガだった」と完全に「悲劇」としての感想を熱心に述べたら、友人全員から「お前は、ヘンだ。こんなに笑えるギャグマンガなのに」と笑われて「あれ~?」となった経験もあるので、どうしても気になっちゃうんでしょうね(^^;)

ここは、非常に重要なところでございます。

何が重要かと申しますと「人とは違う感想を持ってしまう」というのは「才能」だということでございます。
言い換えれば、教科書どおりの「正解」しか思い浮かばないような人は、そもそも「存在価値が無い」に等しいとも申せましょう。
そこで、問題なのは、オロカメンさまの場合、みんなと違っていることに「自信が持てない」というところなのでございます。

もちろん、単純な「誤読」というのはございます。肝心な部分を読み飛ばしていたために解釈を誤ったとか、そういう場合でございますね。
しかし、ほかの人と同程度に、同じように読んだはずなのに「解釈が違う」というのであれば、それはオロカメンさまの中の「解釈格子」が独特だからであり、これは他人には決して真似のできない「才能」なんだと申せましょう。

しかし、せっかくそんな「才能」を持っていても、みんなと違っていると気づいた途端に「私が間違っていた」と引っ込めてしまえば、それは「間違い」ということで、おしまいになってしまいます。

ですが、「普通じゃない解釈」にも、それなりの「理路」というのは、必ずございます。例えば、狂人には「狂人の論理」がありますように、統合失調症には統合失調症の論理があり、夢には夢の論理がある。つまり、どんなに「奇妙な解釈」にも、それなりの「ユニークな理路」というのは、確実に存在しているのでございます。

ですから、その「ユニークな理路」を、上手に「常識的理路」に翻訳することができれば、それは「あっと驚く、ユニークな解釈」となって、その「非凡」さが際立ち、高く評価されもするのでございます。

ところが、「普通じゃない解釈」を「ありきたりで平凡な解釈」と比べて「間違っていた」と決めつけ、そこでその解釈を捨ててしまえば、その人の目指す解釈は、当然のことながら「ありきたりで平凡な解釈」以外にはあり得ないということになってしまいます。

ですから、オロカメンさまの場合、ご自分の「解釈」が「普通とは違う」と思うのであれば、それは「才能」なのですから、むしろ喜ばなければなりませんし、それがなぜそうなのかを追求して、それを「説明」できるようにならなければ、勿体ないのでございます。

芸術家や哲学者というのは、自分の「感覚」が「普通ではない」と気づけば、大概の場合、喜ぶのではないかと存じます。なぜなら「他の人には見えていないものが、自分には見えている蓋然性が高い」からでございます。
無論、他の人が見えないものが自分には見えている反面、他の人が当たり前に見えているものが見えていない蓋然性も高うはございますが、非凡でなければ「存在価値」がない、芸術家や哲学者は、「当たり前の欠点」よりも「非凡な長所」を求めるのは、むしろ当然のことでございましょう。

例えば「デッサン力はあるけれど、平凡な絵しか描けない」のと「デッサンは歪んでいるけれど、不思議に惹きつけられる絵が描ける」のとでは、後者に価値があるのは言うまでもございません。
また、哲学者にしても、「とても人柄の良い、誰からも愛される常識人だけれど、言うことは陳腐」な人と「人格的に問題はあっても、ときどき常識に縛られない、ユニークな発想を示してみせる」人とでは、どっちが哲学者向きかは、言うまでもありません。

このようなわけで、オロカメンさまが、本当に「普通からズレている」部分をお持ちなのであれば、そこを引っ込めることは、単に「角を矯めて牛を殺す」ことにしかなりません。
だからそうではなく、「どうして自分は、人とは違った、物の見方をしてしまうんだろう」というところを追求すべきで、そこに「正解」を見出した時、初めてオロカメンさまは、欠点も含めて「非凡」になりうるのでございます。

「哲学」を学ぶというのは、そもそも単に「知識をつける」のが目的ではなく、人並み以上に「深く考えられるようになる」ことが目的でしょうから、だとすれば、「人並み」に合わせていてはいけない。
むしろ、人が見向きもしない「変」なものを見つけた時がチャンスであり、そこを深掘りしてこそ「人並みではない」ものが得られ、「人並みでない」ないものになれるのでございます。

ですから、是非とも、その「普通ではない感性」を大事にし、それを研ぎ澄ませて、誰もがその「稀少価値」に気づくように、手を掛けて仕上げてくださいまし。「哲学」の知識というのも、そうしたことのためにあるのでございますから。

>  あと、最近は『美学』という分野に興味を持ってまして、できれば古典のA・G・バウムガルデン『美学』(講談社学術文庫)を読んでおきたいと思っているんですが、これが文庫本で800頁以上もある「辞書サイズ」の学術書で、けっこう難しい。
>  しかし、冒頭を読む限りでは書き方が滅茶苦茶ロジカルで面白い。読みたいんですが、これまた時間がかかりそうで悩ましい所です(^^;)

ああ、それも買ってありますが、すでに積ん読の山に埋もれてしまい、行方不明でござますねえ。
さて、死ぬまでの読む機会があるのやら…。

>  ……ということで、いつも拙い内容ではありますが、今年も読書感想文や、本やマンガの紹介、映画のレビューなんかを投稿させて頂ければと思いますm(_ _)m
>  あと、ホランドさんからお願い頂いたんで、これは本以外の話題なんかも投稿しなきゃならないなぁ、なんて思ってます☆( ´艸`)

期待しておりますので、是非ともよろしくお願いいたします。

>   今年は、出来ればもうちょっとこちらに顔を出す機会を増やしたいと思いますよ!

この「出来れば」と「思います」が、いかにも弱うございますね。
「今年は、もうちょっとこちらに顔を出す機会を増やしますよ!」でお願いいたします(笑)。

>  アレクセイさんも、本年が素敵な一年となりますようお祈り申し上げます。

>  どうぞ本年も、よろしくお願いいたします☆彡

ありがとうございます。
こちらこそ、本年もどうぞよろしくお願いいたします。( ̄▽ ̄)



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