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フォン・ノイマンという〈善悪の彼岸〉 Amazonレビュー:高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月 5日(金)23時29分46秒
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 フォン・ノイマンという〈善悪の彼岸〉

 Amazonレビュー:高橋昌一郎『フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RPXONBPEQKWSM

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もうすっかり忘れてしまっている人もいるはずだ。そんな人はきっと、わが菅義偉総理が「私には任命権があるのだから、任命するかしないかを判断する権限がある」と、そう言い放った言葉に「なるほど」と思ったのではないだろうか。

だが、それは「日本学術会議」という団体についての「無知」に由来する、大きな心得違いである。
「日本学術会議」は、科学者たちが、「学術」の、先の戦争における国家権力との癒着、国策としての戦争利用を、反省したところから出発した団体である。
そのことを知っておれば、政治権力者に「(人事)選択権」などないのは、自明な話なのだ。あるのは、従来の解釈どおり、形式的な任命権だけで、それ以上ではない。それ以上であってはならないのである。

そして「日本学術会議」が強調して言う「学問の自由」とは、「学者個人の自由」の話ではなく、「学問そのものの自由」ということだ。
「学問」は、国家権力や個人の欲望に縛られて、恣意的に利用されてはならず、人間社会において、相応の責任を負った知的探究の成果として、すべてに開かれていなければならない。それが「学問の自由」。だからこそ、研究成果の秘匿を前提とするような、兵器の開発研究など許されないのである。

そして、フォン・ノイマンの問題も、こうした点において「今ここの問題」だ。

本書は、きわめて「良識的」な観点から、ノイマンという「異形の天才」の生涯を紹介し、論じている。
それは、著者が、責任ある日本の哲学者であり論理学者として、「科学」や「科学技術」のあり方に関わってきた人であることを考えれば、当然のことだ。

「日本学術会議」には、「理系」ではなく「文系」が多い、などと非難がましく言う人がいるが、これ(文系が多く含まれるの)は当然なのだ。
周知のとおり、科学研究には多大な「お金(研究費)」がかかる。しかし、銭儲けに直結しない研究については、国家がこれを助成するしかないのだが、そこで科学技術研究は、しばしば国家のヒモ付きとなってしまい、科学技術バカの研究者なら、自分の好きな研究さえできるのなら、その研究成果がどのように使われようと「そんなこと知ったこっちゃない」と、そんな人も必ずいるだろう。もちろん、そう公言することは憚られるが、本音はそうだという人は少なくないはずだ。

そして、科学技術研究者には、そういう「研究バカ」も決して少なくないからこそ、原水爆などの科学・化学兵器が作られてしまったのだし、ノイマンが関わった「マンハッタン計画」なんかが、その象徴的事例なのだ。

「科学バカ」にだけ任せてはおけないからこそ、「文系脳」も必要となる。だから、「日本学術会議」は、「科学者」中心に設立されながら、今では多くの文系学者を抱えることになったのである。

私たち日本人が、フォン・ノイマンの問題を考える場合、彼を「倫理的」に批判するだけでは不十分だし、無論、彼の「天才ぶり」を賛嘆するだけというのは、論外である。
まして、天才ノイマンについての「豆知識」をひけらかす事で、自分も偉くなったように勘違いする自己満など、話にもならないのだが、ニーチェだハイデガーだ、ドゥルーズだデリダだといった文系知識人では新味に欠けるから、ノイマンだチューリングだゲーデルだと理系知識人の方が、ひけらかし甲斐もあってありがたいという人も、じじつ大勢いるだろう。
だが、そんなことで満足できる人というのは、「ノイマンというアポリア」について、何も考えていないし、何も学ばなかった、ということなのではないだろうか。

例えば「自分がノイマンのような頭脳を持って生まれてきたとしたら、果たして、他の人間がどのように見えるか」とか、「倫理や人道主義といったものが、どう見えるだろうか」と、それくらいのことも考えないでは、ノイマンという人と「読書を通じた対決」をしたことにはならないだろう。

つまり「あれは確かに天才だけれど、魂を欠いた悪魔だ」とか「いくら頭が良くても、人の心を持ってないんではねえ」などと、ほとんど何も考えていない「紋切り型の正論」だけで、何やら自信満々に、ノイマンを斬って捨てられると勘違いをしている人というのは、ノイマンに、その人当たりの良い笑顔とジョークの陰で、見下されてもしかたのない、「議論するに値しない人間」ということになるのである。

本書著者は、ノイマンを「人のフリをした悪魔」と呼ばれた男として批判しており、その批判はまったく正しいのだけれども、決してそれで十分とは言えない。
そもそも「悪魔」は論理的であり、ノイマンもまた徹底的に「論理的」だったからこそ、「悪魔」になってしまった、とも言えよう。言い換えれば、私たちは「頭が悪いから」悪魔にならずに済んでいるだけ、なのかもしれないのだ。
一一それくらいの自己懐疑は、持っていいはずだ。

そして人は、「論理」的であること「明晰」であることを求めながらも、しかし、そうした欲望とは矛盾する、「割り切れなさ」への「執着」というものにおいて、「人間らしい人間」でいられるのではないか。
多くの文学者たちが描き出した「偉大なる魂」というものは、決して「シンプルに論理的」なわけではなく、むしろ「引き裂かれた魂」だったのではなかったか。つまり、善かれ悪しかれ「人間」は、矛盾した存在であり、そうあらざるを得ない存在なのではないだろうか。

そんなふうに考えていけば、フォン・ノイマンという人を、一言の下に肯定したり否定したりするというのは、間違いであろう。彼は、その「たぐいまれなる知性」によって、呪われ狂わされた、不幸な人だったのかもしれないではないか。
そして私たちは、たまさか「頭が悪い」から、その内なる「悪魔」の発現を見ていないだけだと、そう考えるべきではないだろうか。

多くの人が「地位や権力」を手にした途端、傲慢に他の人々を見下して、私利私欲に走る「悪魔」になってしまう。しかし、そんな彼らも、何も持たなかった時には、きっと「普通の人」だったに違いないのだ。

だから、私たちは「所詮、ノイマンは頭が良いだけ(だが、私は違う)」だなどと、ノイマンを、自分の「うぬぼれ鏡」として使うのではなく、「もし私に、ノイマンのような頭脳があったなら」と、そう問うべきなのである。「それでも自分は、愚かな人々の側につけるのか?」と。

私たちは、フォン・ノイマンという〈異形の鏡〉に、自身を映してみるべきなのだ。

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感想文。一一amazonレビュー:あずまきよひこ『よつばと! 15』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月 5日(金)23時27分54秒
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 感想文。

 amazonレビュー:あずまきよひこ『よつばと! 15』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R34P5WMYAZ1O7W

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なかなかよかった。

ただ、ひとつだけ注文がある。

138ページのカットで、よつばが乗ってるイルカは、ぜったいに白くないとダメ。
あずま、大失敗。

でも、やっぱり、風香る、ふーかが最強。

( ̄▽ ̄)

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 【補記】(2021.2.28)

昨日は「わかる人にはわかる」という暗示的な書き方に止めましたが、少し思いついたことがあるので、補足しておきます。

『138ページのカットで、よつばが乗ってるイルカは、ぜったいに白くないとダメ。』としたのは、このカットでの、よつばの衣装が『海のトリトン』(原作 手塚治虫)のトリトンのものであり、トリトンがいつも乗っているのは「ルカ」という名の、白いイルカだったからです。
つまり、トリトンを踏まえたイラストであれば、イルカも白にすべきだった。あずま、抜かったな、という指摘でした。

でも、そのあとで気づいたのですが、よつばとトリトンには、他にも面白い共通点があります。
まず、本巻でも語られているとおり、よつばは海の生き物が好き。次に、髪の色が「鮮やかな緑色」で表現されている。もちろん、よつばの場合が「四つ葉のクローバー」を踏まえたものですが、それにしても、緑の髪の主人公って、そんなに多くないのでは。
また、本巻では「石拾い」のエピソードが語られていますが、『トリトン』で石と言えば連想されるのが、かの謎の金属「オリハルコン」です。さらに、よつばの出生に含みが持たされているところも、トリトンに似ていると言えるかも知れません。

以上は単なる偶然の蓋然性が高いのですが、でも、1968年生まれで、アニメ好きだった作者であれば、幼い頃にテレビアニメ『海のトリトン』を視ていたのは間違いありませんから、何らかの影響や連想がはたらいたのかも知れません。半分は無意識だとしてもです。

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もし日蓮が〈現代〉に生きていたならば 一一Amazonレビュー:佐藤賢一『日蓮』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月 5日(金)23時24分38秒
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 もし日蓮が〈現代〉に生きていたならば

 Amazonレビュー:佐藤賢一『日蓮』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1MNCZFXUZAPN8

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出世作となる直木賞受賞作『王妃の離婚』がそうであったように、佐藤賢一は、日本人としては珍しく、フランスを舞台にした歴史小説を中心に書いてきた作家だが、新潮社での刊行作品は、日本を舞台にしたものとなっている。『新徴組』や『遺訓』といった幕末を描いた作品がそれだが、これは幕末小説が売りやすいという版元の判断による要請に従ったものなのかもしれない。
ともあれ、決して日本を舞台にした歴史小説に積極的とは言いがたい佐藤が、幕末小説ではない、日本の歴史小説の主人公として最初に選んだのが、日蓮であったという事実は、注目していいポイントではなかろうか。
(※ ちなみに『女信長』は仮説フィクションであり、歴史小説ではなく、時代小説に分類されるべきだろう)

と言うのも、日本における仏教の「宗祖」と言えば、近年では空海や親鸞(あるいは「中興の祖」としての蓮如)といった人の方が人気が高く、お世辞にも日蓮に一般的な人気があるとは言えないからだ。

しかしながら、現在、日蓮にあまり「人気がない」というのには、いくつかの理由がある。
もともと、明治の代表的知識人で(クリスチャンでも)ある内村鑑三の著書『代表的日本人』で、その一人に選ばれるほど、広く人気のあった日蓮だが、先のアジア太平洋戦争において、日蓮主義を報じた人たちが戦争を鼓吹したために、日蓮は「戦闘的」という印象を持たれてしまい、戦後の「平和主義日本」においては、特に知識人の間で敬遠されるようになったということが、まずある。
もう一つは、日蓮の「法華至上主義」による他宗破折による弘教を、戦後の日本において推進しようとした創価学会による折伏攻勢が、その強引さにおいて世間大方の顰蹙を買ってしまった、ということもある。

このたび、佐藤賢一が日蓮を選ぶにあたっては、もちろん今年が「日蓮生誕800年」の、いわゆるアニバーサリー・イヤーであり、日蓮系の各宗派による記念行事も増えれば、日蓮信者による注目の集まる蓋然性が高いといった、マーケティングの問題も当然あっただろう。けれども、佐藤は、フランスを舞台にした多くの歴史作品の中で「政治と宗教」の問題を何度も扱っており、日蓮についても、そうした観点から興味を持ったのではないだろうか。

日本で「政治と宗教」の問題を扱う場合、国家権力を真正面から対峙した仏教宗派というのは多くはないし、まして宗祖自身が時の権力者と対峙したなどという例は、日蓮をおいて他にはない。だから、佐藤賢一が、日本の宗教者として、日蓮を最初に採り上げたのは、ある意味で必然的なことだったとも言えるのではないか。

さて、かく言う私は、元創価学会員で、公明党と創価学会がアメリカによる「イラク戦争」を支持し加担したことを内部批判し、結果としては創価学会を脱会した人間である。
私の場合、創価学会を「諫言」したのは、ネット時代のことゆえ、「三度」と言わず、半年以上も「日蓮大聖人が、こんなことを認めるわけがないだろう」「大聖人こそ、一閻浮提の平和を願った、真の平和主義者ではなかったのか」「イラクの地に立って、迫り来るアメリカ軍に向かい、南妙法蓮華経と獅子吼する者はいないのか」といった批判をぶつけ続けた。
しかし、そんな批判もむなしく、イラク戦争は推定50万人もの犠牲者を生むものになってしまい、私はこの悲惨な現実を目の当たりにして「この仏法には、力がない。この信仰は、間違っていた」と断じて、創価学会を去り、信仰を捨てたのである。

そんなわけで、日蓮の生涯については、創価学会時代におおよそのことは学んでおり、今回は「懐かしく」読ませてもらった。
竜の口の刑場へ向かう道すがら、通りかかった八幡神社の前で、八幡大菩薩を叱責する名シーンは、当時、創価学会が「本山」として担いでいた「日蓮正宗では、史実と見なしていなかったな」などと思い出しながら読んだのである。
それでも、比較的真面目ではあれ、それほど熱心な創価学会員ではなかった私は、日蓮の遺誡文をろくに読んではおらず、「教学」についてはまったく詳しくはなかった。だから、本作における「教学」的な部分が、どのあたりを「教派」のものを参考にしているのかといったことまではわからなかったのだが、純粋に「小説」として楽しむことはできたのである。

 ○ ○ ○

ただ、今の私は「宗教」そのものを積極的に批判し「宗教とは、願望充足的フィクションに過ぎない」と断じている、無神論者である。

そして、ただ感情的に否定しているのではなく、そのためのわざわざ宗教研究を始めたような人間なので、日蓮についても、人としては好感を持っているものの「彼の信仰は間違っていた」と考えている。さらに言うなら、彼、日蓮の考えが間違っていると言うよりも、「仏教」すべてが、所詮は、良くて「寓話文学的哲学」であり、実質的には「願望充足的フィクション」に過ぎないと考える。生きるための「哲学」が必要ならば、それは「宗教である必要はない」と言うよりも、「宗教の形態をとってはならない」と考えている。

だから、日蓮の「他宗批判」も、「他宗は皆、間違っている」というのは、結果的には正しかったものの、「法華経だけが正しい」という認識も、また間違っていたという点において、ほとんど悲劇的な誤ちを犯していた、と評価する。

こうした誤ちは、日蓮が勉強した大乗仏典を「皆、釈尊の説いた教え」だと信じていた点にある。
当時としては最新の「哲学」であり「科学」であり「宇宙論」でもあった「大乗仏教」を、日蓮が信じたのはやむを得ないことではあるものの、仏教研究が進んだ「現在の知見」からすれば「大乗仏典は、釈迦滅後500年も経ってから書かれたもので、原始仏教たる上座部仏教(小乗仏教)の伝えるところとは、まったく違う」ということになる。

なにしろ、釈迦自身は書き物を遺しておらず、その教えを最初に記録したとされる原始仏典すら、釈迦滅後に直弟子の口から語られたものの記録であって、当然のことながら、その教えとは「弟子の解釈」であり「弟子の理解」でしかなく、実際のところ、釈迦が何を考えていたのか、確かなことは伝わってはいないのだ。
ましてや、釈迦滅後500年にして、上座部仏教を「小乗仏教」と批判するものとして成立した「大乗仏教」を、「釈尊の、真の教え」だとするのは、二重に無理のある話だというのは論を待たないであろう。

したがって、くりかえすが、日蓮が鎌倉時代の日本人であったことを考えれば「仕方がない」とは言え、やはり歴史的に明らかになった「客観的事実」としては、日蓮の「法華至上主義」は間違っていた、と断ぜざるを得ないのだ。

その上で、現代に生きる私たちが、日蓮から学ぶべきことがあるとしたら、それは何だろうか。
無論それは、「法華経」でもなければ「仏教」でもない。
私たちが日蓮から学ぶべきは「どこまでも真実を探求して、その真実に徹して生きる、信念の純粋さ」といったものなのではないだろうか。

本作でも描かれているとおり、日蓮は徹底して仏典を読み込み、そこに真実を見出そうとした。また、いったんはそれを掴んだと思っても、常に学び、読み直し、読みを深めるということを止めなかった。だからこそ、彼の法華経理解は、変化し深まっていったのである。もともと、その法華経自体が間違っていたとしてもだ。

つまり、もし「日蓮が現代に生きていたならば」、彼は「大乗仏典」の研究に自足などしなかっただろう、ということだ。日蓮が、「(大乗)仏教」に止まったのは、鎌倉時代の日本においては、それが「最先端の知」であったからに他ならない。

したがって、日蓮が現代に生まれていれば、彼は「最先端の知」としての「科学」や「哲学」を学び、この世界の真相を極めようとしたに違いなく、女々しくも「捨てるべき権教」としての「宗教」になど、固執しなかったに違いない、ということになるのである。

「宗祖日蓮・生誕800年」も結構ではあろう。しかし「もし日蓮が、生きていたならば」という問いの前に立った時、日蓮信者はもとより、時代がかった「権教」たる「宗教」に執着している人たちは皆、日蓮の「開明性」に、もっと目を向けて学ぶべきなのではないだろうか。現代の法華経(妙法蓮華経=白い蓮の花のような、正しい教えである経典)に帰依し、それを探求すべきなのではないだろうか。
「南無妙法蓮華経」とは、現代においては「宗教という誤った幻想を捨てて、この世界の現実を直視した上で、それでも、白蓮のごとく人間のあるべき清浄な生を生きよ」ということなのではないだろうか。

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時に人を傷つけてでもなお… 一一Amazonレビュー:相澤冬樹『真実をつかむ 調べて聞いて書く技術』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月 5日(金)23時23分29秒
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 時に人を傷つけてでもなお…

 Amazonレビュー:相澤冬樹『真実をつかむ 調べて聞いて書く技術』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1NRT6T0KFBESO

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本書著者の相澤冬樹は、長年NHKの記者として、信念を持って現場取材に駆け回ってきた人だが、「森友学園」問題でスクープを連発したがために、結果として、左遷人事により現場を外されてしまう。そこで彼は自ら、身分の保障されたNHKを退職して民間の新聞社に勤め、現場に戻ってきた、そんな硬骨漢だ。

当然のことながら、NHK時代には、伝統的な記者根性を継承する熱い記者として活躍した反面、しばしば上からは危険人物として睨まれていたようだ。だがまた、そんな彼だからこそ、支持してくれる同僚後輩や、彼を守ってくれる奇特な先輩上司もいてくれた。

しかし、「森友問題」については、安倍晋三政権下における官邸から、直接、NHKの上層部に圧力がかかった。と言うか、それ以前から、各省庁・関係機関への人事介入を強めていた内閣府は、すでにNHKの会長人事にすら介入していたので、安倍首相の進退に直接関わるであろう「森友問題」の追求で、相澤はとうとう決定的に「虎の尾」を踏んでしまったというわけである。
無論これは、許されざる「政治権力のメディアへの介入」だが、この問題はまだまったく解決していないことを、私たちは肝に銘じておかなければならない。

ともあれ、そんな相澤が、NHK退職後にスクープしたのが、「森友問題」に関わる「近畿財務局の文書改ざん問題」で、その改ざん作業をやらされた結果、自殺しなければならなかった「近畿財務局職員だった赤木俊夫さんの手記の公表」だった。

故・赤木さんの妻である赤木雅子さんは、「文書改ざん問題」で加熱したメディアスクラムのせいで、すっかりメディア不信になっていたために、当初は、この「告発手記」の公表を考えていなかった。
「手記」を公表したところで、夫は帰ってこないと諦めていたからだし、当然のことながら、財務局関係者からは「手記を公開しても、誰のためにもならない。傷つく人が増えるだけだ」といったような、善意ぶった「口封じ」がなされていたからであろう。最愛の夫を亡くした奥さんが、夫の自殺後、呆然として、すぐに告発に動けなかったのは、当然のことである。

しかし、そんな赤木雅子さんとの信頼関係を築き、メディアへの不信感を解いて、「手記」の公表の必要性を理解させたのが、相澤だった。
本書で語られているのは、そうしたことの核心となる「他者への思いやりと社会正義の実現」という問題である。

相澤は本書で、繰り返し「人間関係構築の重要性」を説いている。
しかしそれは、言うなれば「敵としての取材対象」についても同じだ。「敵だから、鼻も引っ掛けない」では済まされない。それでは「敵」を知ることができず、スクープを取ることなど、できる道理がないからである。

しかしまた、「敵」との人間関係だからと言って、本音を偽り「仮面」を被ったままでの付き合いでは、相手だって馬鹿ではないのだから、本音を聞きだせるような関係にはなれない。
つまり、敵味方に関係なく、最後に問われるのは「人間性」だということになるのであろう。そうだからこそ、時には「敵」も「これは、こっちに損な情報だけど、おまえには託すよ」と貴重な情報を預けてくれるし、それに誠実に応えるからこそ、「社会正義のためのスクープ」も得られるのである。

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『 他人に迷惑をかけない、嫌われないようにする、というのは美徳である。だけど記者の仕事、取材というのは、事実に迫ろうとすると、どうしても誰かに迷惑をかける、あるいは人の心に踏み込んで、悲しませたり嫌われたりする部分がある。そんな時「迷惑をかけるから」「嫌われるから」と言って取材をやめていたら、事実に迫れるだろうか?』(P160)

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ここが、本書の肝であろう。
「人間関係が大切」だとか「思いやり」だとか「フォローが必要」だとかいった話なら、誰でも賛成し支持してくれる。だが「時に人を傷つけてでも、やらなければならないことがある」と言った時に、実際には多くの人は「それは独善でしょう」「一度傷ついたものは、元には戻らない。その責任をどう取ると言うのですか」と厳しく責任追及をしてくるはずだが、事実、実際のところ、「責任」など取りきれるものではないのである。だが、それでもやらなければならないことはあるし、やらなければならない時もある。

言い換えれば、それをやらない「傍観者」だけが、安全圏から、自分に跳ね返ってくることのない「無難な非難」だけを(選択的に)することができるのである。

例えば、こうした「書評」だって、著者の意見を、そうだそうだと支持しているだけの「提灯持ち書評」なら、誰でも書けるし、嫌われることもない。
しかし、そんな書評を読まされ、つまらない本を買わされる読者の立場を少しでも考えれば、そんな無責任な書評など書けるわけないのだ。だが実際には、「読者の利益」よりも「自分の利益」のために、「著者(や出版社)の利益」に加担して、提灯持ちをする者が、プロアマを問わず大半なのである。

じっさい、今時のメディアにおける書評で「これはくだらない」「買う価値はない」などという書評を目にすることがあるだろうか?
そんなものはもはや存在しない。そんな「正直な書評」は、掲載してもらえないからである。
つまり、本書著者の「左遷」と同じことが、あらゆる商業メディアでは、常識常態と化していて誰も疑わず、本書著者の左遷に反対するような書評家や編集者だって、実は同じようなことをやっている。これが現実なのだ。

それでも「駄作は駄作」だと言い切れるか? 書かれた作家も編集者も喜ばないような書評を、それでも「見えない読者」のために「それは駄作だから買わなくていい」と、自分の立場を危険にさらしてまで書ける人が、一体どれだけいるだろうか。

無論、貶すだけならバカでもできるだろうし、貶すだけでは作者にも失礼だろう。だからこそ、貶す者には、根拠を示して論理的に「批判」し、「仁義を通す」だけの力量が必要になる。
多くの読者や批評家が気づかないその作品の欠点について「これは、ここがこれこれだから、駄作である」と説得的に論じられる人は、倫理的にだけではなく、能力的にも多くはないのだが、やはり、そんな人は「社会のために」は必要なのだ。

「犯罪者」だって「汚職政治家」だって「駄作作家」だって「事なかれ編集者」や「上司」だって、人間である。彼らだって、頭のてっぺんから爪先まで「悪人」「無能」だということではないから、よくよく見ていけば、同情すべき点は多々あるし、「自分は、彼らを責められるほど立派な(有能な)人間なのか」という疑問も出てきて、筆が鈍る。完璧な人間なんていないのだ。
だが、そこで筆を止めてしまったら、「提灯持ち」だけが「事なかれ」だけが横行して、世の中に害悪を垂れ流す「忖度」社会、「ヒラメ」社会になることだろう。

だからこそ「時に人を傷つけてもなお」書かなければならないことがあるし、時には、自身の命を賭けてでも書かねばならない時もある。
そして、そんな人は、日頃から、そんなものを書いているであろうし、そんな「嫌われ者」がいるからこそ、この世の中は、なんとか回っているのだということを、私たちは日頃から気に留めておくべきだろう。そうでないと、私たちは容易に、「多数者の正義」を振りかざして、迫害者の側に回ってしまうというのが、「歴史的な事実」なのである。

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仏典と対座する〈真剣勝負の書〉一一Amazonレビュー:末木文美士『増補 仏典をよむ 死からはじまる仏教史』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月 5日(金)23時22分0秒
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 仏典と対座する〈真剣勝負の書〉

 Amazonレビュー:末木文美士『増補 仏典をよむ 死からはじまる仏教史』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2G35Q5EIYG2X0)増補角川ソフィア文庫版
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1VM7MW0HWZXR8)新潮文庫元版

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すごい本である。
最近、仏教関連書を読み始めたのだが、著名なわりにはぜんぜん大したことのない「仏教学者」が多くて、正直「日本の仏教学とは、このレベルなのか?」と失望しかけていたところだったのだが、本書を読んで、希望をつなぐことが出来た。これからも、本書著者の著書を読んでみたいと思う。

私は元創価学会員で、イラク戦争というリアルに直面して、(戦争を実質支持した)創価学会を内部批判したあげく脱会したような人間である。だから、信仰者の「自己正当化」というのには心底うんざりさせられているし、宗教というものが社会に垂れ流す害悪についても、決して抽象的なものとは考えていない。したがって、「信仰は大切」とか「いろんな宗教があって良い」などという、日本人らしい無知の故の無責任な「物分かりの良さ」には怒りすら覚える。

だからこそ、私は「信仰を捨てる」だけではなく「真の信仰とは何か(そんなものはあるのか)」を問うために、「宗教」の研究を始め、何から始めたら良いかと考えた末に、「宗教らしい宗教」としての「キリスト教」の勉強を始めた。「仏教は、どこから手をつけて良いかわからないので、まずキリスト教から」と考えたのだ。

で、「キリスト教」研究の方は、それなりに進んでいる。もう、相手が神父さんでも牧師さんでも、あるいは神学者でも、ぜんぜん平気で議論できるだろう。「あなたは、この無神論者の容赦のない一太刀を受ける覚悟はあるか」と。
そんなわけで、最近は回帰的に、仏教の方にも研究の手を広げ出した。その少し前から着手した「天皇制の日本史」の問題と関連してきたからでもある。

だが、やはり「仏教」は、どこから手をつけて良いのかが難しい。
「キリスト教」なら、まず「聖書」を通読し、それから「教父文書」や「聖書外典」を読み、「教会史」を読み「神学書」を読み、カトリック、プロテスタントなど各教派の理論家の本を読み、といった具合に進めることができる。しかし、仏教の場合は、仏典が膨大であり、それを「ひととおり読んでから」などと言っていたら、それぞれを比較検討し、批判するという段階に達するには、「仏教」専門でやっても数十年かかってしまうから、そんなことはもうとても出来ない相談だ。
だから、評判の良さそうな日本人著者の「仏教入門」をいろいろ読んで、あたりをつけてみたのだけれど、それらの著書が、キリスト教学者と比較しても、明らかにレベルが低くて、心底うんざりさせられたのである。

例えば、仏教学会において「碩学」とか言われてる、渡辺照宏の『仏教 第二版』(岩波新書 1974)を読んでみたら、これが「隠れ真言信徒」の著作でしかなく、「学者」としての客観性を根本的に欠いていた。
昔、日本人カトリック神父の本に、「プロテスタントの信仰は認める」と(第2バチカン公会議の方針に従って)書きながらも、「プロテスタンの牧師の自殺が多いのは、カトリックには教会があるけれども、プロテスタントの場合は、個人として神と向き合わなければならない、信仰上の困難さがあるからではないか」などと、陰険な誹謗を並べていた。それと同種の党派的下劣さを、渡辺は感じさせたのだ(詳しくは、同書レビューを参照されたい)。

また、『別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版、2015)の著者・佐々木閑については、NHKのテキストを書くくらいだから一流の学者かと思いきや、これまた「奥歯にものの挟まったような、おかしな物分かりの良さ」を示しており、何かあるなと思って、さらにその著書を3冊ほど読んでみたら、やっぱり「生半可な信仰ゆえの学問逃避者」でしかなかった(こちらも、詳しくは上記『集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』のレビューをご参照ください)。

こんな「レベル」人たちが、語学勉強をして仏典を原書で読んで研究したから「大学者」扱いにされるのだから、私が日本の仏教研究界に失望したのも、仕方がないのではないか。
だが、そう思いながらも、まだまだ読んでいない人の方が多いのだから、面白そうなところから手当たり次第に読もうとしていたところ、本書『増補 仏典をよむ 死からはじまる仏教史』に当たって、「これは面白い。この著者は本物だ」と感心させられたのである。

 ○ ○ ○

どこが「本物」なのか。それは、著者が「仏典著者の権威に盲従せず、同じ人間として、仏典テキストに向き合う、その真剣さ」である。

本書著者は、明らかに「反骨・反権威」の人だ。「僕は」などと、物言いは非常に柔らかいし、ぜんぜん威張ったところはないけれど、切り込む際には何の遠慮も手心もなく、まるで「学者なら当然のこと」だと言わんばかりに、スラリと切り込んで見せる。
こんな「まともな学者」は、めったにいるものではない。ご立派そうなことを口にするだけなら簡単だが、それを自然体で実行できる人など、百人に一人もいはしないのだ。

例えば、本書著者は、冒頭から「仏教学界」の常識に、挑戦してみせる。

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『 個人的な思い出から書き始めることをお許しいただきたい。
 僕はいろいろ若い頃の精神遍歴の末に仏教を専門とするようになったが、大学院で少し本格的に研究を始めるようになっていちばん困ったのは、漢文の仏典が読めないということであった。近代の仏教研究は、インドのサンスクリット語(梵語)やバーリ語の仏典を読むことにおいて輝かしい成果を挙げてきた。それ故、仏教を専門としようとすると、まずサンスクリット語を叩き込まれる。サンスクリット語の仏典に関しては、欧米の研究の蓄積があり、不十分ではあっても辞典や文法書もあって何とか読んでいける。ところが、漢文の仏典を読もうとすると、適当な辞典も文法書もなく、手のつけようがない。『国訳一切経』というシリーズがあるが、「国訳」と銘打ちながら、実際にはいわゆる漢文書き下し体のスタイルで、読んでもさっぱり分からない。諸橋轍次の『大漢和辞典』を調べても、仏典に出てくる語彙など、まず採録していない。サンスクリット語をきちんとやれば、漢文は自然と分かるものだ、などという暴論さえもまかり通っていた。三十年以上も昔の話である。
 それでも、僕はサンスクリット語やバーリ語の仏典ではなく、漢文の仏典にこだわりたかった。というのも、日本の文化が伝統として学んできた仏典は漢文を基礎とするものだから、それをきちんと押さえなければ、自分の拠って立つ基盤が分からないではないか、という思いからだった。』(『増補版』P18~19)

本書著者・末木文美士にとっては、「どの仏典が、釈迦の説いた教説に近いか」などといったことは、本質的な問題ではなかった。重要なのは「私にとって、最も重要な教えとは何か」ということだったのである。

そもそも、インドのサンスクリット語(梵語)やバーリ語の仏典であろうと、「原始仏教」の最古の仏典であろうと、それらに記されているのは「(釈迦が語ったのを)私はこのように聞いた」という「弟子による伝聞情報」か、それを「模したもの」でしかない。釈迦は、文書を残さなかったし、釈迦が何を考えていたのかなんてことは、正確には直弟子にさえ分からなかったはずである。残っているのは、良くて「個人的解釈」、たいがいは「想像的創造」でしかない。
ならば、すべての仏典は通時的には平等であり、重要なのは「中身(テキスト)」だ。「中身」の最も優れたものが、優れた仏典であり、古ければ良いなどという「権威主義」は、「権威依存」以外のなにものでもないのである。

しかし、前述の佐々木閑などは「最も古い経典が、オリジナルだから有難い」という立場である。だから「原始仏教」たる上座部仏教(小乗仏教)の立場に立って『大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』なんて本を書いたのだ。自身は(大乗仏教の)浄土真宗の世襲住職として録を食みながらである。
しかし、そんな佐々木閑からすれば、いくら仏教学の大家だ碩学だと言っても、(大乗仏教の)真言宗の僧侶である段階で、渡辺照宏などは「偽仏教」を担いでいる、基本を違えた学者に過ぎない、ということにもなる。自分が「浄土真宗」の僧侶であるのは「身過ぎ世過ぎの方便」だが、渡辺の真言信仰は「本気だからこそダメなのだ」ということになってしまうのだ。

いずれにしろ、このような二人が、日本を代表する仏教学者づらをしているのだから、私が失望するのも当然なのだが、そうした憂いを、末木は本書で一蹴してくれたのである。

 ○ ○ ○

ともあれ、末木は、自身が「日本人」であり、日本人にとっての「仏典」とは、まず漢文漢籍であるという「歴史的民族的現実体験」に即して、「仏典」の価値を認めた。自分に縁遠い書物ではなく、私たち日本人の風土と血の中に生きてきただろうものの解明にこだわった。手応えのある現実が問題だったのである。だからこそ「著者が誰か」ではなく「何が書かれているか」が問題にもなったのだ。

したがって、末木の読みは「教条的」なものではなく、客観的に「哲学的」なものである。「テキスト」が語りかけてくるところと向き合って、その語ろうとするところと対決し、摂取し、発展させる。そんな読み方だ。

だから、「宗教としての仏教」を知らない人には「哲学書」として読める反面、実際の「宗教としての仏教」の現場での「慣習的な読み(正統教学的読解)」を知らないと、末木の読みのすごさを理解することはできないだろう。それほど、各宗派教派の読みというのは、一般に「吾が仏尊し」で、「手前味噌」かつ「ご都合主義的」なものなのである。

しかし、誰が書いたにせよ、今に残る優れた仏典を書いた著者というのは、それぞれに「非凡性」を持っていたし、その一方で「人間としての不完全性」も当たり前に持っていた。
だから末木は、「同じ人間」として、釈迦に、智顗に、圜悟に、景戒に、最澄に、空海に、親鸞に、道元に、日蓮に、そして(仏典を書いたわけだはないが、仏教とキリスト教の間で揺れ動いた人)ハビアンにも向き合い、少しの遠慮もなく、長所と弱点を指摘し、世間の誤解を解き、彼らの思考努力が今のこの時代に持ち得る価値を語る。その姿勢は「同時代の思想家どうしの対決」と、何ら選ぶところはないのである。

ただし、私もその驥尾に付して、著者に注文をつけさせていただくと、「なぜ仏典でなければならないのか」ということはある。別に、向き合うべき「思想的遺産」は、「仏典」でなくてもいい。私に言わせれば、「聖書」でもいいし「海外文学」でもいい。

もちろん末木は、自身が現に「日本人」である事実にこだわるからなのかもしれないが、こだわりどころは、何もそこだけではないだろう。
「日本人」であることよりも、「同時代性」の方が重要だと思う人は「昔の仏典より、現代の哲学」だと考えるだろうし、「日本人」であることよりも「同時代性」よりも、もっと大切なことは「目の前の苦しむ人の存在」であるとか「人類の未来」であるとか、そうした軽々には無視できない、論点がいろいろとあるはずなのだ。

だから、末木が「仏典」にこだわるのは、結局は「成り行きと趣味」だということなら理解できる。誰でも、偶然の出会いと成り行きの中で、何かを選択しながら自分を作っていくものであり、「すべて」を押さえてから、おもむろに「最重要なものを選ぶ」なんてことは出来ないからである。

したがって、末木が、その限られた時間の中で「仏典」と出会い、向き合い、そこで自らの生を展開するというのは、まったく正しいのだけれど、しかし、そうした彼の著作を読む読者に「仏典が最重要」だという、誤った印象を与えるとしたら、それはやはり不適切だ。
だから、あえて「仏典」を選ぶことの「消極的な意味」を、もう少し語ってもいいと思うし、「飾らない強さ」が魅力である末木ならば、今からだってそれができると考えるからである。

とにかく、また一人、尊敬できる先達に出会えたことを、心から嬉しく思う。

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ラノベのような〈バーチャルな風景〉一一レビュー:Akine Coco 写真作品集『アニメのワンシーンのように』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月 5日(金)23時20分42秒
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 ラノベのような〈バーチャルな風景〉

 Amazonレビュー:Akine Coco 写真作品集『アニメのワンシーンのように。』
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「アニメのワンシーンのように」美しいという事実を否定する気など、さらさらない。事実「美しい」と思ったから買ったのだ。
書店に積まれていたその表紙見て「こういうアングル好きなんだよな」と見本を手に取り、めくってみると、まさに「こういう写真を撮ってみたい」と思わせる、ストーリー性のある素敵な風景作品が並んでいたので、迷わず購入した。
ところが、家に戻ってから、ひととおり繙いてみると、何か引っかかるものがあって、「この感覚は何だろうか?」と考え始めた。

一一これから書くのは、そういう話なので、「そんな個人的な考察には興味がない」「美しければそれいいよ」(石川智晶)という人は、ここで読むのを止めていただきたい。私としては、むしろ作者にこの意見をぶつけてみたいという感じだから、それでかまわない。

まず、最初に思ったことは、タイトルにもあるように、この写真作品は、アニメ作品に描かれた「背景美術の美しい世界」を写真で「再現」した作品だ、ということである。
つまり、これは「自然」を写しているのではなく、「作品」を写した作品であり、言うなれば一種の「メタ・フィクション」なのだ。そこに写されている「風景」は、作品を作るための「道具」や「素材」であって、それ自身を描こうとか、それを対象として、その中から「作者の美」を抽出しようとしたような作品ではない、ということだった。「これが、この風景の中に私が見出した、私の美だ」というのではなく「この作品を通して、あのアニメに描かれていた世界の情感(※ 「情景」ではない)を思い出してください」という、入眠のためのスプリングボードのような間接性を持つ作品なのである。

喩えて言えば、「ラノベ」のような作品だ。
伝統的な「文学作品=小説」というのは、この世のあらゆるものを含む「自然」の中から、作者がその世界観にしたがって抽出し再構成した物語、だと言えるだろう。一方、「ラノベ」は、少し事情が違う。
「ラノベ」は、「ライトノベル」の略称ではあるし、たしかに「ラノベ」には「軽い」作品が多いのだけれども、しかし内容的には「重い」作品だってあるだろう。ならば、「ラノベ」はすでに「ライトノベル=軽い小説」ではなく、「ラノベ」なのだ、と考えるべきではないか。
そしてその場合、「ラノベ」の軽さとは、「自然」的存在が強いられている「重力」からの解放を意味するのではないか。つまり、「ラノベ」の「軽さ」とは、「自然」の「重さ」から解放されているということであり、アニメやマンガに描かれた世界と同様に、そうした「重さ」としての「拘束」が、ほとんど排除されているということなのではないか。だからこそ、主人公たちは、「自然」の人間にはできないことを、当たり前のようにやってしまうのではないだろうか。

そして、そうした「重さ」を、形式的に欠いたアニメやマンガが当たり前に存在するこの世界の中で育ってきた人間が、もはやそれが「非自然」とすら感じなくなった(つまり「第二の自然」になった)世界こそが、大塚英志が言ったところの「まんが・ アニメ的リアリズム」の世界であり、その「第二の自然」の中でこそ完結する小説形式が「ラノベ」なのではないだろうか。

同様に、この写真集に描き出された「風景」とは、「まんが・ アニメ的リアリズム」によるものであり、だからこそ、通常の風景写真が「これが、この風景の中に私が見出した、私の美だ」というものであるのとは違って、「この作品を通して、あのアニメに描かれていた世界の情感を思い出してください」というスタンスになるのではないだろうか。

「芸術」というものを、どう定義するかは、人それぞれだろう。正解があるわけではない。
ただ、一般的には、これまでは「これが、この風景の中に私が見出した、私の美だ」といったものであり、言い換えれば「私と世界(第一の自然)の戦いでは、私に味方せよ」の世界だったのだが、本作品集の世界は「私と世界(第二の自然)の戦いでは、セカイに味方せよ」という、そう「セカイ」の世界なのではないだろうか。

作者が何を目指し、鑑賞者が何を求めようと、それはその人の勝手である。
ただし、私には、彼らが求めていることが「何なのか」ということが気になる。そこに引っ掛かりを覚えるかぎり、その「世界」に、無条件に我が身を委ねる気にはならない。それはちょうど(古い喩えで恐縮だが)ウォシャウスキー兄弟による映画『マトリックス』の登場人物たちのおかれた「気分」と似たようなものなのではないか。つまり「気持ちはいい。だが、何か違和感がある。これで本当にいいのか」という感じだったのだ。

「心地よい夢」なら、醒めない方が良いのか、それとも醒めないではいられないのか。
私としては、いったん目を醒ましてから、その夢見の状況に危険性がないと確認できれば「二度寝すれば良い」というような立場なのだと思う。

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石田徹也をめぐる〈優しさ〉の問題 一一Amazonレビュー:『石田徹也全作品集』『石田徹也遺作集』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 3月 5日(金)23時17分54秒
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 石田徹也をめぐる〈優しさ〉の問題

 Amazonレビュー:『石田徹也全作品集』『石田徹也遺作集』
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 (※ 本稿は、『石田徹也全作品集』のレビューとして書かれたものの、転載です。)

石田徹也の絵は、一見してそれとわかる個性と、独特のインパクトを持っているから、基本的に、一度見たら忘れることはない。決して、押し付けがましさはないのに、人の意識の無防備なところに食い込んできて「これがあなたの中にもある心象風景ですよ」と言われているようで、いささかギクリとさせられてしまうのだ。

今回、『石田徹也全作品集』を購入したのは、古本で見かけたからである。
定価は8500円と決して安くはないが、全作品画集としては、特別に高いというわけでもないだろう。それが古本で、定価より1000円ほど安く購入できた。
石田の画集については、石田が鉄道事故で亡くなった翌年の2006年に刊行された、『石田徹也遺作集』を購入している。当時、NHKの『日曜美術館』での特集番組も視たはずだ。それで、石田の絵に興味を持ったのだと思う。

しかし、その当時の私は、石田の作品について、特に何かを書こうとは思わなかった。
2001年に電子掲示板を初める以前から、すでにほとんど習慣のように批評文を書いてきたが、私の批評の対象は、ほぼ活字作品か社会問題で、美術作品を論じることは少なかった。
美術作品に興味がなかったというのではない。もともと私は絵を描くのが好きで、中学生の頃には、美術部に在籍していたし、絵の才能にすでに限界を感じていた高校生の頃には、漫画部に在籍していた。絵だけではないところに、可能性を見出そうとしていた部分があったのかもしれないが、第一義的には、アニメに入れ込んでいたからである。私は、石田より11歳年上の1962年生まれで、高校生時代といえば、あの『機動戦士ガンダム』が放送された時期である(ちなみに、中学生時代に『宇宙戦艦ヤマト』体験をしている)。

さらに言うと、私の絵画趣味は、社会人になって金銭的余裕が出てくると、ささやかとは言え、絵画収集というかたちも採った。無論、高価な有名画家の作品ではなく、主に若手作家の新作による画廊の企画展に出かけて、気に入った作品を購入していたのである。

私が、購入した絵画は、主に「青木画廊」系(あるいは「ヴァニラ画廊」系)の幻想絵画だと言えば、わかる人にはわかるだろう。もっとも、私は関西在住だったので、「青木画廊」の作家の絵を中心に買っていたというわけでもないのだが、そうした関東在住作家の作品も、いくらかは購入して所蔵している。

したがって、『日曜美術館』で有名になる以前であろうと、石田徹也の展覧会が関西で開かれていたならば、きっと購入していただろう。
私は、自分が面白いと思う絵画なら、人前では飾れないような作品でもコレクションしていたから、石田徹也の作品が一般には「少々うす気味悪い」と感じられるものだとしても、それに臆することなど、まったくなかったからである。(ちなみに、人目につくところに飾れない画家とは、例えば、林良文や亡月王(西村望)、あるいは佐伯俊男などである)

このようなわけで、石田徹也の存在を知った時には、彼はすでに若くして亡くなっていた。惜しい作家を亡くしたと思うし、コレクターとしては、入手の時期を逸したという残念さも、正直あった。だから、彼の『遺作集』という画集を手にしても、批評的に何かを書こうという気にはならなかった。石田に直接なにかを訴えることはできないし、すでに石田は広く評価されていたから、その魅力を世間に訴える必要もなかったからである。
言い換えれば、亡くなった石田に向けてまで語りたいことはなかったし、世間に訴えるほどのこともなかったのだ。ただ、今回は、石田が亡くなってひさしく、彼の画集が古本屋に出回る時期になったという事実から、つまり石田が一般には忘却されつつある時期になって初めて、書いておいてもいいことが思いついたのだと言えようし、当時の私ではなく、今の私なら、何か意味のあることを書けるのではないかとも思ったのである。

 ◯ ◯ ◯

この『全作品集』には、石田徹也に関する4つの文章が収録されており、それぞれの「石田徹也論」において語られていることは、おおむね誰もが納得できるものだろうし、私もそう思う。
石田徹也という人は、「真面目」「繊細」「潔癖」「優しさ」「傷つきやすさ(ヴァルネラビリティー)」「対社会性」「批評性」といった言葉において、おおよそその個性を語ることのできる作家であろう。そして、そうした点において、多くの人々からの「共感と支持」を受けたというのは、わかりやすいところである。
つまり、彼は「虐げられた弱者の側に立って、そうした人々を虐げる社会の歪みに対峙した作家」だと言えるし、その点において、彼自身が「多くの弱者から、共感され、労られ、支持された」のである。

そこで私が、あえてここで指摘したいのは、彼の「攻撃性の無さ」である。
前述のとおり、彼は「社会批評的」な作家であり、その意味では「社会批判」を行ったのだが、彼の作品には「攻撃性」というものが、ほとんど感じられない。だからこそ「優しい」という印象を残すわけだが、単に「優しい」と言うよりも、むしろ「被害者的」と呼んだ方がいいような、「受動的」な批評性をその特徴としている。
つまり、加害者を責めるのではなく、被害者の心情を描くことで、結果として加害行為を批判するというかたちになっているのである。

だから、彼の描く人物には、ほとんど「怒り」の表情が無い。たいがいは「無表情」で、たまに「悲しみ」や「怯えを伴う驚き」といった表情がある程度だ(初期にだけは「笑み」がある)。
彼の場合、「弱者としての被害者の側につこう」という意識はハッキリとあったものの、「加害者と闘おう」という明確な意志は、ほとんど無かったようである。
また、だからこそ、彼の作品には「風刺はあっても、批判はない」とも言えるのではないだろうか。

他の論者も指摘しているとおり、石田の場合、子供の頃には明確な「正義感」というものがあり「批判」の意志もあったようだ。初期の彼を象徴する作品としてしばしば引き合いに出される、小学5年生時のコンクール入選作品「いじめダメ」のポスターには、子供らしい、迷いのない積極性としての「正義感」や「批判の意志」が感じられる。

しかし、そうしたものを根底に持ちながらも、石田の作品は少しずつ「受動性」を強めていく。「加害者批判」ではなく、自らを含めた「被害者性」の強調に傾いていく。敵を攻撃するのではなく、周囲への理解の呼びかけに重点が移されていく。きっと、だからこそ彼の絵は愛されたのであろう。
少々きつい表現を使えば、彼の作品は、この社会における「被害者意識」と「共依存」関係を構築していったのだ。だが、だからこそそれは、「消費」の対象にもなり、「ウケ」もしたけれど、「忘れられる」ことにもなったのではないだろうか。

石田徹也の作品は、その後、どんどんと「内向」を深めていき、わかりやすい「社会批評性」は、ほとんど見られなくなってしまうのだが、これは彼の方向性からすれば、ほとんど必然的なものだったと言えるだろう。
そして、こうした後期の作品は、あまり人々の印象に残っていない。世間が「石田徹也」と聞いて思い浮かぶ作品は、中期とも呼ぶべき「社会的被害者性」のテーマが、割合わかりやすく表現されていた時期の作品である。

例えば、2010年刊行の星野智幸の小説単行本『俺俺』の表紙を飾るなどして、今もときどき大型書店などで見かけるのは、本書『石田徹也全作品集』の表紙を飾っている、1996年の作品「燃料補給のような食事」。
この作品は「経済的効率性のために、人間が阻害されている」社会状況を批判する「社会派作品」として、とてもわかりやすいのだが、いわばこの作品が「石田徹也」という作家の、パブリック・イメージなのだ。

石田徹也自身は、そんな「わかりやすい、社会派のメッセージ作家」で終わることに、満足してはいなかった。だから、彼は「内向の度を深め」「わかりやすいメッセージ性を消し」「人々のためではなく、自分のための絵を描く」方向へと進んでいった。その結果、必然的に「ポピュラーな(わかりやすい)絵描き」ではなくなっていったのである。

だから、彼が現在「知る人ぞ知る」作家であること(でしかないこと)は、必ずしも悪いことではない。彼自身、そんな作家であることを望んでいたはずだからである。

しかし、彼にとってはそれで良くても、果たして、かつて「石田徹也ファン」であった人たちは、それでいいのだろうか。
結局のところ、かつての「石田徹也ファン」は、石田を体良く「消費」した後に、こっそりと古本屋に処分し、なんの痛痒も後ろめたさも感じない、この「資本主義消費社会の冷徹な主体」だったということなのではないだろうか。
そして、そうした現実は、皮肉にも、石田が描いた「ベルトコンベアー」的モチーフと、そっくりなのではないだろうか。

石田は、決して「冷徹な資本主義社会」を批判しなかったのではない。単に「被害者意識」に駆られて「泣き言」を表現していたわけではない。似たような被害者たちに対して「傷の舐め合い」を求めていた作家でもない。たしかに彼は、主体的に「冷徹な資本主義社会」に対峙しようとしていたのである。

だが、そんな彼が、「冷徹な資本主義社会」によって、ごく短期間で「消費」されてしまったのだとしたら、やはりそこには「弱点」があったと考えるべきではないか。
そして端的に言えば、彼の弱点とは、「攻撃性」を持てなかった、ということなのではないだろうか。

被害者も含めた「社会全体」に対する違和感を表現し得なかったところに、彼の弱点があったのではないか。「社会」を「敵と味方(仲間)」に分けてしまい、「味方(仲間)」を批評しきれなかったところに、彼の「甘さ」があり、彼の作品が「芸術」を志向しながらも「芸術」に徹しきれなかった、その理由があったのではないだろうか。

石田徹也は、きっと、「資本主義的な商品」として、自分の作品が「消費」されることを、良しとはしなかっただろう。
ならば、私たちは、彼の作品を「商品価値の高い」「社会的受容度の高い」作品として「褒め讃える」だけではなく、彼の作品をも「批判」しなければならないのではないだろうか。それこそが、彼の「遺志」を生かすことなのではないだろうか。

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〈民意無視〉の維新の会と「日蓮の教え」一一Amazonレビュー:高寄昇三『脱法的〈大阪市廃止〉と「大阪市」形骸化の危機』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月25日(木)14時33分45秒
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 〈民意無視〉の維新の会と「日蓮の教え」

 Amazonレビュー:高寄昇三『脱法的〈大阪市廃止〉と「大阪市」形骸化の危機』
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コロナ禍の最中、昨年(2020年)11月1日に、「大阪維新の会」の代表である松井一郎大阪市長と、吉村洋文大阪府知事の主導によって、いわゆる「大阪都構想」の是非を問う「2回目の住民投票」が強行された。「大阪市を4つの特別区」に分割して、大阪市の下部機構として組み込み、府市一体の体制を作ろうとしたものだが、事前の「賛成」優勢という大方の予想にもかかわらず、結果としては、辛くも僅差で「反対」多数の否決となった。

松井市長と吉村知事が「敗戦の弁」において「半数もの反対意見には、真摯に耳を傾けたい」と言った、その舌の根も乾かぬうちに、松井市長は「大阪市を8つの特別区に再編する」という「簡易版都構想」とも呼ぶべき政策を打ち出した。
今度は、住民投票で民意を問うのではなく、議会において過半数を占める「数の力」で、議決によって事実上の「大阪市廃止」を図ろうと企てているのである。
2回にわたって示された「民意」は、あからさまに蔑ろにされたのである。

もはや、「維新の会」を止めるには、知事、大阪市長の両方を「維新の会」が独占し、府議会・市議会を「維新の会」とその従属政党となり果てた「公明党」とで過半数を占める現状を、選挙において変えるしかないだろう。
しかし、当面、選挙がない以上、私たち「大阪市廃止反対派」は、「維新の会」の策動を監視し、タイミングを逸することなくカウンターを当てていかなければならない。

だが、それをするにも、「維新の会」の新たな策謀の中身を正しく知る必要があるし、さらに言うなら、私たちのこれまでの戦いの不十分なところを反省検討して、さらなる戦線の強化を図らなくてはならない。

昨年の「住民投票第2ラウンド」の戦いは、たしかに皆がそれぞれによく闘った。だが、それに満足して「肩の荷」を下ろしてしまったら、私たちはいずれ、蛇のごとく執念ぶかい敵手に、敗れることになるだろう。「大阪市」は解体され、無用の府市一元化による「独裁体制」によって、大阪の生活基盤を決定的に傷つけられることになってしまうのだ。

「二度の住民投票」を経ても、まだヌケヌケと「大阪市の特別区化」を行おうとするような政党を、どうして信じることなど出来よう。
もとより彼らは、「民意」など尊重してはいないのだ。ただ、住民投票で勝てるという自信があり「勝てば自分たちのやりたいようにやれる」と思っていたからやっただけで、「民意」は、利用するためのものではあっても、尊重するためのものではなかったということなのだ。

だから、府市が一体化して独裁体制が築かれれば、後に待っているのは、「維新の会」の本領である「新自由主義」的な「金儲け政治」である。
「大阪万博」であり「カジノを含む統合型リゾート」の実現。一一もちろん、そうしたことで、大阪市民や府民の生活が潤うのならいい。しかし、そんなことには絶対にならないと断言しよう。

なぜなら、安倍晋三前内閣において進められ、現・菅義偉内閣によって継承されている「新自由主義」的「大企業保護」政策(法人税を下げ、累進課税を緩め、消費税を上げるなど)が、国民の生活を、少しでも豊かにしただろうか?
「労働者に自由な働き方を」などと聞こえのいいことを言ったあげく、企業が安く自由に使い捨てられる「非正規労働者」を大量に産んで、なるほど「企業」は儲けただろう、株価はバブル景気以来という空前の高値を更新したが、では、私たち庶民の生活は、少しでも潤っただろうか。
それでも、こんな政権を信じてついていけば、この先はきっと潤うだろうなどと、お人好しに信じることができるだろうか。

「大阪維新の会」の「大阪万博」や「カジノを含む統合型リゾート」などといった「新自由主義」的な「金儲け政治」も、まったく同じことである。
なるほど、それで「大企業」は儲かるから、協力するだろう。だが、儲けるのは、潤うのは、そういう「上級府民」だけだと断じていいのではないか。これでもまだ、あなたは「大阪の企業が潤えば、大阪の府民全体が潤う」などという、甘い絵空事を信じるのだろうか。

「維新の会」が「大阪市の廃止」を目論むのは、前回の住民投票でも明らかにされたように「大阪市の豊かな税収」を「大阪府」が巻き上げて、「大阪万博」や「カジノを含む統合型リゾート」に注ぎ込むためである。
地下鉄の延長だのといったことも、「府民サービス」が目的ではなく、「大阪万博」であり「カジノを含む統合型リゾート」に向けての、「観光客」向けの「地ならし」に過ぎない。

なるほど、観光客が戻って来れば、観光関連業者や繁華街で営業している一部の飲食店などは潤うだろう。
だが、それも結果論であって、「維新の会」は、そんな「小規模事業主」たちを喜ばせるために「大阪万博」や「カジノを含む統合型リゾート」をやろうとしているのでないことは明らかだし、「維新の会」による府市一体の独裁体制下で、むしろ「中小企業」の倒産が(コロナ禍以前から)増えているのが事実なのだから、仮に「大阪万博」や「カジノを含む統合型リゾート」などの「金儲け事業」が成功しても、その余禄にあずかれる「一般住民」など、ほとんどいはしないのである。

だから、私たちは、止まることを知らない「維新の会」の策動に、対抗し続けなくてはならない。
彼らのやっていることの「実態」を暴いてその「虚像」を剥ぎ取り、勢力を削ぎ、好き勝手をやらせず、次の選挙では、「嘘つき維新の会」を叩き潰さなくてはならない。
そうでないと、私たちの大阪は、いずれ「搾り取られるだけ搾り取られて、捨てられる」だろう。

そのためにも、まず「勉強」しよう。

「二重行政の弊害」などという、使い古された「嘘」を、いつまでも使わせていてはいけない。
例えば、府と市で同じようなハコモノを作ったのは、どっちもカネ余りで、どちらも勝手にやったからで、大阪市だけが悪いのではない。大阪府も勝手にやっていたのである。
そもそも、金が無くなれば、金をどう使うかで、府と市は真剣に戦わなければならなくなるだろう。手前味噌な政策や、間抜けな政策など、当然許されなくなる。お互いに問題点を指摘し合うことになるからだ。
しかし、今のように、知事と大阪市長が「グル」になっていたら、そうした「相互監視」は不可能となってしまう。それが「府市一体の独裁体制」というものの現実なのだ。
だから、絶対にそんな独裁体制を許してはいけない。「大阪市」には大阪市のやりたいことがあり、「大阪府」には大阪府のやりたいことがあるのなら、それを両者が持ち寄って、府民市民の前で堂々と論戦して、どちらのやり方が正しいのかを判定してもらうという、そんな「健全な政治体制」を構築しなければならない。

また、10億もの予算を投じて「住民投票」を行なったにもかかわらず、そうした「民意」が無視される「住民投票」の現行制度を改めなければならない。
つまり、「住民投票」に、相応の政策拘束力を持たせなければならない。
また、重大議案について行われるのが「住民投票」であれば、「賛成過半数」ではなく「賛成3分の2以上」などにすべきである。そうすれば「賛否は伯仲していたから、半数の指示は得た」などという「維新の会」の臆面もない「投票結果無視」が許されることもなくなるだろう。また「過半数でも勝てれば、強行できる」という安易な発想から、「住民投票」が繰り返される危険性も無くなるだろう。

 ○ ○ ○

以上のようなことを、本冊は専門家の立場から、詳しく教えてくれる。
だから、私たちは、出口の見えない闘いに懲りることなく、また気持ちを新たにして立ち上がらなければならない。そのためには、まず「勉強」が必要なのだ。
たかだか100ページほどの小冊子も読めないで、戦いに勝とうなどと虫のいいことを考えてはいけない。そんな心がけでは、勝てる戦いも勝てないからである。

 ○ ○ ○

そして最後に、「元創価学会員」として、ひと言つけ加えさせてもらおう。

「2回目の住民投票」において、「公明党支持者の半数以上が、都構想に反対票を投じた」という事実は、本当にうれしかった。
反対票を投じてくれた人がいたからこそ、創価学会員が「盲信者ばかりではない」ということを証明した、「脳みそのない集票ロボットばかりではない」ことを証明してくれた、そして「日蓮の仏弟子も生き残っている」ことを証明してくれたと、そう感じたからである。

創価学会員は「地湧の菩薩」であるはずだ。人々を救うために、末法濁悪の世界で、困難な菩薩道に励む存在であるはずだ。決して「政治権力=世俗権力」のために、それを得るために働いているのではない。

だから、組織が間違っていれば組織を批判し、幹部の指示が間違っていれば幹部を批判し、それで「法難」に遭うのであれば、大聖人のように堂々を、その「正法流布の証」を引き受けようではないか。広布の天地に、一人立とうではないか。

『月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。』(『聖人御難事』)

正法流布の戦い、すなわち衆生救済の戦いとは、それを妨げようとする「魔」との戦いである。だから「魔」の競い起こらないような「イエスマンのロボット的活動」など、真の姿ではないと知るべきであろう。
庶民の側に立ち、庶民のリアリティーを持って、現実を直視し、庶民を虐げる魔の働きに向かって戦いを挑み続けるのが、日蓮の末弟子の、あるべき姿である。

『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし』(『開目抄』)

久遠の同志たちよ、日蓮とその仏弟子たる我々の戦いとは「逆風に向かって獅子吼する」戦いであることを、決して忘れてはならないのだ。

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あくなき〈資本の顎〉に噛み砕かれ… 一一amazonレビュー:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月25日(木)13時59分56秒
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 あくなき〈資本の顎〉に噛み砕かれ…

 amazonレビュー:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』
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私たちはあまりにも深く「資本主義リアリズム」に取り込まれて、牙を抜かれてしまっている。そうした現状に対する怒りと無力感に苛まれながらも、フィッシャーはそれへの抵抗を訴え続けた。「まだ希望はある」と。

一一しかし、結果として彼は自死してしまう。彼がうつ病を患っていたとしても、それ自体が「資本主義リアリズム」の彼に強いたものであるのだから、やはり彼は、自身が必死に訴えた希望を見失って、「資本主義リアリズム」に殺された、あるいは、敗れたのだと言ってもいいだろう。

この、あまりにも残酷な生涯を目の当たりにしてもなお、その「重み」を実感できない人が多い。「少なくない」のではなく「多い」のだ。
つまり、本書を読んでも、「資本主義リアリズム」の残酷さを理解できない人が多いのだが、それはフィッシャーが本書でも語っているように、多くの人が「資本主義リアリズム」に侵されて、人間性を麻痺させてしまっているからである。

「うつ病の思想家が、資本主義社会の度し難さに絶望して、自殺したって? ありそうなことだね。でも、それは結局のところ、彼が頭の病気だったってことだよ。だって俺は、全然平気だからね」で済ませてしまえるのは、その人の「生物的な感覚」が麻痺しているが故に「冷笑的」でいられるということに他ならない。言い換えれば「そうでなければ生きられない」という無自覚な防衛反応だ。
現代は「弱くなければ生きられない。冷たくなければ生きる資格が与えられない」とされる。つまり、私たちに「ひ弱でバラバラな存在」であることを強いる、「資本の論理」という残酷な神の支配する時代なのである

「資本主義リアリズムの閉塞感」などと言ってみても、それに囚われている者は、頭では「そうかもね」くらいは思っても、それを実感することができない。何しろ、麻痺しているのだから、その人に「君は麻痺しているんだよ」と告げても、その麻痺が実感できないのは当然なのだ。
だから、卑近な例を少しだけ挙げてみよう。

例えば、現在のコロナ禍における「マスク着用」について、先日「マスクの二重着用が有効」だなどということを、わざわざテレビニュースで何度も採り上げ、暗に推奨していた。
「そんなことわかっているよ」と多くの人が思ったことだろう。そりゃ1枚よりは2枚、2枚よりは3枚、3枚よりは10枚の方が、ウィルスの飛散は防げるだろうが、現実問題として、どこで手を打つかというのが「大人の判断」だというのに、こんなに「子供にものを教える」ような程度の低いことを、素面で訴えることができるのも、ひとえに「資本主義リアリズム」の麻痺ゆえなのである。

しかし、この程度なら、多くの人は、まだ認識もでき、ささやかながらの抵抗もできるだろうが、果たしてどれだけの人が「毎日シャワー&シャンプー」「毎日ノリの効いた真っ白なカッター」といった「10枚のマスク」論を自覚し、それに抵抗できるだろうか。
マンガ家・松本零士は『男おいどん』において「1ヶ月くらい風呂に入らなくても、人間は死ぬことはない」といった趣旨のことを、主人公に語らせていた。要は、貧しく陽の当たらない人生を歩む主人公には、綺麗に着飾るような生活は望むべくもなく、風呂なんて滅多に入らなくてもいいものだ、ということだったのである。
しかし、今の多くの日本人なら、彼のそんな生活に思いを馳せたり同情したりする前に「迷惑だ」と非難することだろう。昔なら「男の汗の匂い」は、カッコいいものだったのだが、今だとそれも「スメハラ(スメル・ハラスメント)」だなどと非難される。「風呂くらい入れよ」ということだ。

一一こうした感覚は、私たちが「資本主義リアリズム」に、すっかり飼い馴らされてしまい、麻痺し、無自覚になっている、何よりの証拠なのだが、そのことに自覚的な人が、本書の読者の中にだって、いったい、どれだけいるだろうか。

『 ジレットが男の髭を剃る習慣をつくり、コダックが誕生日や卒業式でスナップ写真を撮る習慣をつくった。ナショナル・ビスケット社(ナビスコ)とハーシーが子供たちのピクニックに袋入りのビスケットやチョコレートをもたせ、コルゲートが家族みんなに朝晩の歯磨きをさせた。』(松岡正剛『サブカルズ』P12)

これは、松岡がスーザン・ストレッサー『欲望を生み出す社会』の内容を紹介した部分だが、私たちは、こうした「欲望」が「資本主義リアリズム」によって「誘導」的に生み出されたものであることに、はたして自覚を持っているだろうか。
そして、自分が望むなら「いつでも、そんな習慣は捨ててやる。何も考えずに、牧畜獣みたいに飼い馴らされて生きているやつらとか、自覚しても反抗できない奴らみたいにはなれないし、ならない」などと公言できる人が、いったいどれだけいるだろう。

ことほど左様に、私たちは「資本主義リアリズム」が生む出したものに取り巻かれ、もはやその「外部」に出ることなどできないという「諦観」にとり憑かれている。また、「諦観」にとり憑かれているという事実に気づけなくなるほど、麻痺させられている。
その結果、私たちは、自身の無自覚と無為から目をそらして生きるために、「冷笑的」な人間に堕してしまう。「牧畜獣の諦観」である。

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『ニーチェは、彼のもっとも予見的な文章のなかで、「歴史の過剰によって飽和する時代」を描いている。「ある時代は、自己自身に対する皮肉という危険な気分に陥り、そこからしてより一層危険な冷笑主義(シニシズム)的気分にはまりこむ」と彼は『反時代的考察』で述べた』(P21)

本書には、こうした「資本主義リアリズム」の、度し難い「どん詰まり」状況が描かれている。

『カート・コバーンとニルヴァーナほど、この膠着状態を体現した(またそれと闘った)類例はない。その凄まじい倦怠感と対象なき怒りにおいて、コバーンは、歴史の後に生まれた世代、あらゆる動きが事前に予測され、追跡され、購入され、売却される世代の声となって、彼らの失望と疲労感をあらわすと思われた。自分自身もまたスペクタクルの延長に過ぎないことを知り、MTVへの批判ほど、MTVの視聴率を上げるものはないということを知り、そんな彼の身振りはすべて予め決定された台本に従うクリシェに過ぎない、という自覚をもつことですら、陳腐なクリシェに過ぎないのだと、コバーンは全てわかっていた。コバーンを麻痺状態に追い込んだこのような行き詰まり感は、ジェイムソンが描いた状態そのものである。ポストモダン文化について一般的にも言えるように、コバーンは、「様式の革新がもはや不可能となった世界、過ぎ去った様式の模倣と、想像の博物館の中にあるいくつもの様式という仮面と声を通してしか語ることのできない世界」に立たせられていた。そこにあっては、成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることにすぎないからだ。ともかくも、コバーンとニルヴァーナが抱えた激しい存在論的不安は、今や過去のものになった。彼らを継承して現れたのは、不安を感じずに過去の形式を再生産する、パスティシュ・ロックなのだ。
 コバーンの死は、ロック・ミュージックが抱いたユートピアとプロメテウス的野心の敗北、そしてその消費文化への包摂を告げる決定的な瞬間だった。』(P27~29)

コバーンのような「真っ当な感受性」を持てない人とは、どのようなものとならざるを得ないのか。

『 一九六〇年代や一九七〇年代の学生とは対照的に、今日のイギリスの学生は政治的に無関心だという印象がある。フランスでは学生がいまだに街頭で新自由主義に対する抗議デモを行っているなかで、それと比較にならないほど過酷な状況におかれているイギリスの学生は、その運命を諦めて受け入れてしまっているかのように思われる。しかし、これは無関心でも冷笑主義でもなく、再帰的無能感の問題であると私は主張したい。彼らは事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっているのだ。けれども、この「了解」、この再帰性とは、既成の状況に対する受け身の認識ではない。それは、自己達成的な予言なのだ。』(P60)

この「自己達成的な予言」は、どのように達成されたのか。

『 これまで出会った十代の学生の多くは、鬱病的快楽主義と名づけられるような状態にあったと思う。通常なら、鬱病は非・快楽〔anhedonia〕の状態が特徴だとされるが、ここで述べる状態は、快楽を感じることができないわけではなく、むしろ快楽を求める以外何もできないというのが特徴だ。「何かが不足している」という感覚はあるが、しかし、この謎めいた不在の喜びを快楽原則の彼岸でしか享受できないことは理解されていない。』(P61~62)

例えば「次々と、新しい情報(あるいは、物語刺激)を求めて本を読み、それに、面白かった、つまらなかった、などとコメントをつけて消費していく」といった(被)強迫的な行動が、これだ。
Amazonレビューの上位ランク者で、この「資本主義的な強迫神経症」に侵されていない者など、皆無だと断じても良いだろう。

『 学生に数行足らずの文章を読むように指示したとしよう。そうすると彼らの多くは一一それも成績優秀な学生なのだが一一「できない」と反発するだろう。教員がもっとも多く耳にする苦情は「つまらない」である。ここで問題になっているのは書かれた文書の内容ではない。むしろ読むという行為そのものが「つまらない」とされているのだ。私たちが目前にしているのは、昔ながらの若者的なアンニュイではなく、「接続過剰のせいで集中できない」ポスト文字社会の「新しい肉」〔New Flesh〕と、衰退していく規律制度の基盤となっていた閉鎖的かつ収容的な論理の不釣り合いなのだ。「つまらない」と感じることは単純に、チャット、YouTube、ファストフードからなるコミニュケーションと感性的刺激の母胎に埋め込まれた状態から離脱させられ、甘ったるい即時満足の果てしないフローを一瞬だけでも遮られることを意味している。まるでハンバーガーをほしがるような感じでニーチェを読もうとする学生もいる。彼らは、この消化のしにくさ、この難しさこそがニーチェであるということを把握しきれないのだが、消費システムの論理もまたこの勘違いを招いてしまうのだ。』(P66~67)

『まるでハンバーガーをほしがるような感じでニーチェを読もうとする』読者の、何と多いことか。
まるで、テレビやネットで宣伝しているそれを食べるのが「カッコいい」と感じられ、そのことが「美味しい」に変換されて理解される。さらに流行りのものを食べれば、自分が「最先端の存在」になれると思い込んでしまう。
歯ごたえのある食べ物を咀嚼する力もついていないからこそ、幼児向けの流動食めいたものを求め、自覚のないまま「子供の当然の権利」のごとく、それらの「幼児食」を要求して、「新しく」て「わかりやすい」読み物ばかりを「高く評価」してみせる、ガルガンチュアの群。
一一それを生み出したのが「資本主義的リアリズム」なのだが、こうした告発は「資本主義的リアリズムに骨抜きにされた、幼児大人」に理解されることなく、ただ消費され(ウンコとして排泄され)てしまう。この「やり場のなさ」をどうすれば、突き崩せるのか。

そこに、単純な「正解」などないだろうし、ましてや私ごときが提示することなど出来はしない。
ただ、「資本主義リアリズム」に取り巻かれてしまった現状にあっては、それが構成するものを「全て完全に拒否する」というかたちでの闘いは、不可能であろう。ハンガーストライキの果てに餓死して、誰にも顧みられないというのが関の山である。それが「資本主義リアリズム」の社会なのだから。

であるなら、残されるのは、敵の武器を奪ってこちらの武器としながら、しかし、そのことで「敵の論理」に取り込まれないようにする、したたかで直感的な戦術が必要となるだろう。それは、それができる個人的な地力のないかぎりは不可能なことなのだから、万人に適用できる「正解」などない。だからこそ、自分の闘い方を、人に教えてもらうわけにはいかないのだ。

ただし、「絶望」は負けである。これだけは確かだ。
たとえ、客観的に見て「負け戦」であると思えても、それでも「希望」を持たないかぎり、私たちは絶望するしかない。しかし、「あり得ないもの」を「あり得るもの」として、無理に呑み込んで「希望する」ことは「ニヒリズム」をおのずと抱えることにもなるから、これも危険だ。では、どうするか。

私個人の戦略は、「私一個の美意識」において「しぶとい撤退戦の果てに死ぬ」というものだ。
結果としては「負け戦」なのかもしれないが、それに易々と従いはしない、という「反骨者の抵抗戦」の「美学」である。だから、私はこれまで何十年も、繰り返して、大岡昇平の次の言葉を引用してきたのだ。

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『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり』(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)

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〈金剛界曼荼羅〉的なありがたい世界:松岡正剛論 一一amazonレビュー:松岡正剛『サブカルズ』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月25日(木)13時58分45秒
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 〈金剛界曼荼羅〉的なありがたい世界:松岡正剛論

 amazonレビュー:松岡正剛『サブカルズ』
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松岡正剛という人については、ずいぶん昔から気になってはいたものの、その著書を手に取る機会はなかなかなかった。
今回、初めて読んだつもりだったが、確認してみると、1995年7月刊行の『フラジャイル 弱さからの出発』を、刊行時に読んでいる。四半世紀も前の話とは言え、『フラジャイル』という本を読んだという記憶はあったのだが、松岡正剛の著作だとは記憶していなかった。いずれにしろ、私にとっては、長く印象に残るような作品ではなかったということだろう。

松岡正剛の存在を知ったのは、伝説的な雑誌『遊』の編集長としてである。
私が、その豪華かつ個性的な雑誌を知ったのは、すでに廃刊になった後ではあったものの、『遊』は、あちこちの古本屋で、その特別な存在感を誇示していたのだ。

当時の私は、澁澤龍彦や稲垣足穂などのファンとして、初版本蒐集のための古本屋巡りを趣味としていた。だから『遊』も、足穂がらみで注目したのだと思うし、『遊』の版元である工作社が刊行した『人間人形時代』は無論、同時期に刊行された豪華な箱入り3巻本の『タルホ・クラシックス』(松岡正剛編、読売新聞社刊)も、古書店で入手している。

松岡正剛が作った本は、とにかく豪華かつ「カッコいい」。だから、コレクションに加えたくなるのだが、しかし、その版で読みたいとは思わなかった。
『遊』もそうだが、版面が凝りすぎていて、展示したり眺めたりする分には良いのだが、テキストを読むには、いささか余計な情報が多すぎて、落ち着かないのである。だから、読むのは主に文庫本で、工作社の本は飾っておく(あるいは、書庫の奥深くに秘蔵する)ということになりがちだったのだ。

で、当然のことながら、松岡正剛自身の著作にも、こうした傾向がある。
『遊』誌や松岡が編集した工作社の本ほどではないとしても、松岡正剛の著書は、多かれ少なかれ「造り(編集造本)」が凝っていて、カッコいい。そして、中身も同様の意味で「カッコいい」のだか、それは「テキストの中身」としてカッコいいと言うよりも、「見た目の文体」がカッコいいのである。喩えて言うならば、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』のペダンチックな文体のように、見た目がカッコよく、まず「見た目」に酔わされてしまうのだ。

しかし、じっさい「テキスト」を読んでみると、「見た目の印象」ほどの、力がない。凄みがない。
たしかに、博識の人らしく、幅広く紹介検討して、しごく真っ当な見解を提示してくれるのだが、「この人にしか書けない」というものが感じられない。わかりやすい例えで言えば、ドストエフスキーや夏目漱石などの文体に感じられる、個性的かつ深い力が無い。
先ほど喩えとして出した小栗虫太郎の文体だって、単なる「鬼面、人を嚇す」的な「見かけの迫力」には止まらず、またとない独自の世界を現出させる力を持っていたし、そんな小栗の文体に憧れて、真似をした作家は何人もいるが、小栗のような異界を現出させる文体を、にわかに弄することのできた作家など、一人もいなかった。

つまり、こうした「作家」としての「文体の力」が、松岡正剛の文章には無い。「形としての個性的な文体」はあっても、二つとない世界を立ち上がらせて見せる「力としての文体」が、松岡正剛の文章には無いのである。

だからこそ『フラジャイル』は、印象に残らなかったのだ。
たぶん、それなりに「読ませるだけの中身」はあったのだろう。かなり評判になった本のはずだ。しかし、勉強にはなっても、読者の魂に食い込んでくるような、爪痕を残すようなものではなかったからこそ、個性としての印象を残せなかったのではないか。

今回、ひさしぶりに読んだ松岡の著書『サブカルズ』も、印象は同じである。

読んでいる最中は、何かと目先が変わって楽しいのだが、読み終わった後に何かが残ったかというと、そうしたものがない。せいぜい「勉強になった」とか「参考になった」というくらいの感じで、松岡正剛からでなければ得られないものを得た、という感じが無いのだ。よく出来た「参考文献リスト」あるいは「カタログ」を読んだような、フラットな印象しか残らないのだ。

松岡の文体は、見た目にもハッキリわかるとおり、博識者らしいデコラティブな文体であり、それも個性だから、それ自体を否定するつもりはない。
問題は、そうした「かたち」の如何ではなく、「力」の有無なのだ。

「クリエイターとしての文筆家」にとっての命とは、文章の「力」であり、「個性的かつ力のある文章」のことを、かつての文士たちは「文体」と呼び、その有無を問題にした。
かつて言われた「文体のある作家」とは、「見た目に個性的な文章を書く作家」のことではなく、「その人にしかない世界が立ち上がってくる(匂い立つような)文章の書ける作家」を言ったのだ。そうした意味において、作家の「文体」とは、その作家の「実存のかたちであり、重みであり、深さ」の謂だったのである。

そして、残念ながら、松岡正剛にはそれが無い。
彼の文章は「他者の文章を寄せ集め、切り貼りしたもの」の域を出ない。それをよく言えば「編集的」文体とも呼べようが、それは「作り出す人=生み出す人」としての「作家」の文体ではない。

松岡正剛の文章は、バラエティーに富んで目も彩な豪華さに満ちているが、「厚み」に欠ける。
読む者を呑み込むような「深み」や、逆に食い入ってくるような「切先」が無い。見えているもの以上のものとしての「奥行き」あるいは「厚み」が無い。「陰影」に欠けるのだ。だから、悪い意味で「軽くて薄い」。

松岡正剛の文章には、切実さが無い、生活も無い、良くも悪くも当事者性が薄く、軽やかではあるけれど、実存の重みを欠いて、読む者と切り結ぶところが無い。
要は「作家(文章家)」の文章ではないのだ。
松岡正剛はやはり、良くも悪くも、素材を集めてきて、見栄えよく配置し、結びつけて、読者に提供する「編集者」でしかない。

言うまでもなく、松岡正剛は「一流の読書家」であり「一流の知識人」である。
だが、それがそのまま「一流の作家」であることを意味しはしない。「一流の文章家」であることと、イコールではないのである。

松岡正剛という人は、現在「押しも押されもしない特別な立場」に立っている。それは、彼が、人と人、才能と才能を結びつける結節点としての特別な(編集的)才能を持っているからであり、孤立しがちな「作家」たちにとっては、彼は大変ありがたい存在だからであろう。

だが、そうした「編集者」としての立場を、本人が思い違いをしている部分も、残念ながら見受けられる。

例えば、本書『サブカルズ』の第三章「「おたく」と「萌え」」は、世代的に言っても、松岡の守備範囲とは言いがたいのだが、たぶん彼は「全てを押さえて見せる人」という自らのセルフイメージに縛られて、無理をしている。
というのも、この章で扱われている「美少女ゲーム」や「ラノベ」や「アニメ」をいったものを、彼自身は、語りうるほど鑑賞していないというのが明らかなのに、なかば「借り物の理解」で知ったかぶりをしてしまっているのだ。
松岡正剛ほどの人でも、「偉く」なってしまうと、「読んでもいない作品を論評する」の愚を冒してしまっているのである。
ひとつだけ具体例を示しておけば、こんな具合だ。

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『 これについては《エヴァ》の主人公のパイロット、碇シンジが敵の使徒と戦うたびにキレていたことと関係があるらしい。シンジは十四歳の設定だが、シンジがキレることによってロボットが暴走し、敵を倒してもその暴走はとまらず、ついにシンジはロボットと完全融合がはたせる。逆にいえば、キレないかぎり攻撃性は生まれないし、未来との合体もない。
 「萌え」であって、かつ、キレていく。この「モエ」と「キレ」の出会いはかなり異様な取り合わせであるが、このような縫合こそオタクの「逆ギレ」という言葉もつくっていったのだった。しかもこの「キレる」にはつねに「癒し」が対応しつづけた。』(P376)

この文章の、恥ずかしいまでの独り合点ぶりは、もはや解説の必要もなかろう。
要は「知らないことにまで、知ったかぶりで講釈を垂れたがる人の見苦しさ」としか呼びようのないものが、ここには残酷なまでに露呈している。

こうした行為が、どれほど見苦しいことかということくらい、松岡正剛ほどの人なら当然知悉しているはずなのだが、それでもやはり「やらかして」しまっているのである。

これは、きっと「編集者」という立場から、不用意に「文筆家(言論人)」に世界に誘い出され、踏み外してしまったが故の過ちなのであろう。
どんなにすごい人でも、人間である以上、万能ではありえないし、だからこそ自らの身の程を弁えなければならない。「編集物」とは「適切なフレーム」の中に収められてこその作品なのである。

なお、本稿のタイトルは、松岡正剛の文章が「外見的」に与えるイメージの比喩である。

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「事実」を探求する〈研究者スピリット〉一一amazonレビュー:工藤隆『女系天皇 天皇系譜の源流』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月25日(木)13時57分31秒
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 「事実」を探求する〈研究者スピリット〉

 amazonレビュー:工藤隆『女系天皇 天皇系譜の源流』
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まず初めに紹介しておきたいのは、このAmazonのレビューにおいても、自分の気に入らない(「自己愛史観」に合致しない)「説」を唱えている本については、最後まで読むこともしないで(あるいは、内容紹介文だけ見ただけで)悪口を書き連ね、評判を落とすことで、少しでも「一般の目」に触れさせないようにしよう、などという姑息きわまりないことを平気でやっている、倫理観の欠如した「ネトウヨ」レビュアーが、現に存在するという事実である(つまり「愛知トリエンナーレ2019」の『表現の不自由展、その後』について、いやがらせや脅迫の電凸を行なったような人たちだ)。

当然のことながら、そんな彼らのレビューには、批判するにあたっての「具体的な根拠提示」が、まったくない。
日頃から硬い本、例えば学術書など読んだこともなく、情報の入手先がネットオンリーの「ネトウヨ」が、好き勝手なことを書いているだけだから、そもそも「根拠提示の必要性」など、考えたこともないのであろう。
昔の「ネトウヨ」は「ソースを示せ」というのが口癖だったが、今の「ネトウヨ」には、それすらない。論述能力は無論、論理的な思考能力も無いのに承認欲求だけは強い人たちらしい、まことに呆れた行状だ。

一方、著者は生粋の「学者」である。「研究」によって史実を明らかにしたいと願う人だ。だからこそ、自己中心的な願望だけで、歴史ファンタジーを歴史だと思い込みたがるような、馬鹿者に対する嫌悪と怒りは相当のもので、本書には、次のような学者くさくない直裁な言葉も綴られている。
(「※」は引用者補足、引用にあたっては、適宜、漢数字をアラビア数字に置き換えた)

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『この(※ 天皇家が「二千年以上」続いていると言った、安倍前首相)ような非科学的な皇国史観的天皇観は、安倍晋三政権時代の閣僚のあいだではかなり常識のように共有されていたようである。
 たとえば、平成期の天皇の「退位」問題が、天皇自身の言葉で提起された結果(2016年8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」)、政府主導の「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(2016年10月17日に初会合)が発足した。この有識者会議の「最終報告」(2017年4月)は、「おわりに」の中に「皇族数の減少に対する対策について速やかに検討を行うことが必要であり」という一節を入れた。その結果、2017年6月9日、天皇の退位を実現する特例法案が、衆議院に続いて参議院でも可決され、成立した。同時に、「女性宮家の創設等」を明記した安定的な皇位継承をめぐる付帯決議も採択された。しかし、その二日前の参院特別委員会の審議では、菅義偉官房長官(当時)が、「女性天皇」については「男系継承が古来例外なく維持されている重みをしっかり踏まえつつ、引き続き検討していく」と明言していた。やはりこの官房長官も、男系継承は「古来例外なく維持されている」と断言していた。』(P45~46)

『 このように、「二千年以上」という数字や、男系継承が「一つの例外もなく続いてきた」ということが、呪文のように発せられ続けると、いつのまにか、これが真理だと思い込む人々が多数派になってしまうことになりかねない。ましてや、政権を掌握している側が、確かな証拠と他者からの批判に耐えうる論理とで思考する態度を放棄し、日本列島民族(ヤマト少数民族)のマイナス面の文化的伝統である「こうあって欲しい願望」(工藤『深層日本論』)に流され続けていると、その緩んだ思考回路が習い性となり、戦争・原子力発電所事故・大災害・感染症拡大といった肝腎な時に、決定的な判断ミスを犯すことになる。これは、代表的には、1945年の破滅的敗戦と2011年の福島第一原子力発電所の深刻事故で実証済みである。』(P48~49)

「非科学的思考」がまかり通っている日本の現状への、学者としての腹立ちは、しごくもっともなことである。

ちなみに、『「二千年以上」という数字や、男系継承が「一つの例外もなく続いてきた」』といった、安倍晋三や菅義偉のような政治家の歴史認識が「非科学的」だと断ずるのは、日本の古代史研究者の、次のような「常識(通説)」を根拠としている。

『 この安倍の論理でまず違和感を与えるのは、「二千年以上にわたって連綿と続いてきた皇室の歴史」という部分である。というのは、今から「二千年」前というのは、考古学が明らかにしてきたことからいえば弥生時代の中期であり、この時代にすでに「皇室」が存在していたというのは、ありえないことだからである。『魏志』倭人伝が伝える邪馬台国(クニ段階)の女王卑弥呼の登場でさえも、紀元後180年位であるから、それより180年以上前にすでに「皇室」が存在していたなどとは、少なくとも(※ 敗戦によって「現人神たる天皇を担ぐ、皇国史観」が否定された)1945年以後の、科学的客観性が重視されるようになった日本の学問水準からすれば、ありえないことである。』(P41~42)

また、「女性天皇」については、現在の「皇室典範」の規定とは違い、『日本書紀』や『古事記』などにも、推古天皇(33代)、皇極天皇(35代)、斉明天皇(37代)、持統天皇(41代)、元明天皇(43代)、元正天皇(44代)、孝謙天皇(46代)、称徳天皇(48代)、明正天皇(109代)、後桜町天皇(117代)と、おおぜいの存在が記されているのだし、7世紀に成立したこの「紀記」二書において、「ヤマト朝廷」が朝見した先進強国「唐」の「男系男子継承」に似せようとして、「女系」隠滅の「歴史的事実の改ざん」を行なっているにも関わらず、古代史学者らの綿密な研究から、それが十二分にあり得たことも判明しているのである。

だから、本書著者が研究している「日本古代史」について、基礎資料たる『日本書紀』や『古事記』すら読まずに、ネット検索による偏頗な知識だけで「こっちに賛成、あっちに反対」などと言っていれば、自分がいっぱしの「歴史通」だなどと勘違いしてしまうような、脳内お花畑的「日本ファンタジー」に浸っているだけの「ネトウヨ」(安倍晋三周辺や「日本会議」なども含む)が、身の程も弁えずに、あれこれ利いたふうな口をきくのを目にすれば、研究者である著者が、うんざりさせられるは、当然ことなのだ。

だがまた、本書著者と「ネトウヨ」とでは、そもそも「次元」が違いすぎるのであるから、「話にならない」というのも、致し方のないことなのではあろう。
『日本書紀』や『古事記』も読まないで、古代史を語るような人とは、わかりやすく言い換えれば、デュパンもホームズも読んだことのないど素人が、知ったかぶって「名探偵とは」などと、ミステリ(推理小説)を語るようなもの。クラークやディックを読まずに、SFを語るようなものなのだ。
私なら「おまえら(ネトウヨ)は『転生したら古代日本の天皇だった件』でも読んでろ」とでも言いたくなるところなのである。

ともあれ、日本最古の「歴史に関する文字資料」である『日本書紀』や『古事記』とは、地方豪族を平らげて、「クニ」を形成した「ヤマト族」が、自らの権威を確立すべく、7世紀になってから「後付け」ででっち上げた「血統と歴史の書」であり、「伝承の神と自分たちの血筋を結びつけた、壮大なフィクション」でしかない。

さらに、「邪馬台国の卑弥呼」の存在からもわかるように、もともとは「女王」や「女系王」が存在したにもかかわらず、先進強国の「唐」から、地方(辺境離島の)蛮族だと見下され(武力制圧され)ないように、漢民族の伝統たる「男系男子継承」が「ヤマト国」の伝統ででもあるかのように歴史を改ざんして、体裁を整えてみたのだが、それが今ではあだとなり、天皇制存続の危機を招来しているのである。

したがって、著者としては、「文字資料が無いから、それ以前については、なんとも言えない」といった「文字資料」至上主義(完結主義)では、現今のような「証拠がないのなら、何でもあり」みたいな事態を許すことになってしまうので、「文字資料」以前の「日本の現実」を解明するために、広く東アジアにおいて同型の文化を有する民族についての「文化人類学」の知見を縦横に駆使して、学問的に説得力のある「仮説」を立てて見せたのである。

つまり、過去の「ヤマト朝廷の歴史捏造」に対して、現在の「人類学的な仮説」を対峙させることによって、未来に「文化財としての天皇制」の存続可能性を開こうとしたのだ。

 ○ ○ ○

著者の「仮説」の詳細については、是非とも本書にあたって確かめてほしい。読めば、その説得力が、『日本書紀』や『古事記』といった「あからさまな政治文書」などの比ではないことが(ネトウヨ以外には)明らかとなろう。

ちなみに私個人は、「天皇制」など無くせば良いという立場であり、「文化財として遺したい」という本書著者の立場よりも、ずっと強硬な、反「天皇制」論者である。

しかしながら、本書著者を「天皇制」支持者だなどと誤解してはならない。
本書著者は、あくまでも「無形文化財としての天皇祭祀」を遺したいのであって、「神権政治制度としての天皇制」を残したいわけではない。それには、真っ向から反対しており、現憲法の「象徴」という表現すら、天皇の神秘性を延命させるための(敗戦時の)レトリックだったと鋭く批判しているほどなのだ。

本書著者の言う「文化財」とは、例えば「法隆寺」や「出雲大社」の建物について、その宗教性とは別に「文化財としての価値」を認める、といったことだ。日本の津々浦々に今も残される「盆踊り」が、「宗教儀礼」としてではなく「文化財」として残れば良いように、「天皇祭祀」も「無形文化財」として残ってほしい、ということなのである(そうなると、天皇家は、茶道や華道の「家元」みたいな位置づけになる)。

ともあれ、女性天皇の歴史的な実在とその実績を認めず、所詮は「明治維新後」のものでしかない「男系男子天皇」に固執する「ネトウヨ(系の、自称「保守」)」というのは、先進制度として日本に輸入された「唐の皇帝制度」(に内在する、中国漢民族の伝統である、王権の男系継承観念)を、その無知ゆえに後生大事にありがたがる、自覚なき「中華思想」の持ち主(無自覚な、中国の猿まね愛好者)だと言っても、決して過言ではないのである。

本書における著者のメッセージとは、「現実を見よう。そして現実の日本を愛そうではないか」ということだ。
「学問」とは、そのためにこそあるのである。

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現代日本における、巧妙な〈キリスト教布教の書〉 :山本芳久『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』レビュー

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月25日(木)13時56分14秒
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 現代日本における、巧妙な〈キリスト教布教の書〉

 amazonレビュー:山本芳久『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』
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本書は、見事な「宗教勧誘の書」である。
無論、この場合は「キリスト教」の勧誘であり、「カトリック」への勧誘だ。

仏教の布教手法にも「折伏と摂受」の2種類があって、ごく簡単に言うと『折伏が相手の間違いを厳しく責めて「破折屈伏」させることに対し、摂受は相手の間違いをいったん容認して、穏やかに説得しその間違いを正していくことをいう。』(Wikipedia「摂受」)ということになる。

つまり、「折伏」というのは、かつて日蓮が「国主諫暁」といったかたちで実践して、各種の「法難(正法を弘教するが故の迫害)」に遭ったり、戦後の創価学会が実践して、たいへん評判の悪かった手法である。
現在の日本では、創価学会でさえ「折伏」の実践を行なっていない。「折伏」というのは「白黒はっきりつけようぜ」という考え方に発するものなので、「曖昧に当たり障りなく、なし崩し的に馴れ合うのが好きな日本人」には、そもそも体質的に合っていないのである。西欧人のように「さあ、デイベート(討論)しましょう!」ということにはならないのだ。

だから、現代日本における宗教布教の手法というのは、すべて「摂受」式だと言っても過言ではない。
それは何も、仏教だけではなく、キリスト教だって、イスラム教だって同じだろう。「あなたの信仰は間違っていますよ。そんなもの拝んでいたら、地獄に堕ちますよ」などと言ったら、水をぶっかけられても文句は言えないのだ。

したがって、もともとは「異端審問だ」「焚刑だ」「十字軍だ」などと言って、自らの正義を遺憾なく振りかざしていたキリスト教も、今日では、近代的理性主義が幅をきかせているだけではなく、「まあ、そんなキツイ言い方はやめましょうよ。どっちも良いところはあるんだから、粗探しなんてやめて、尊重し合いませんか。その方が、お互いに気持ちいいでしょう」というのが「良識」たる我が国においては、折伏以上に強引な、かつてのような「三光作戦」めいた布教を行うことなど論外であって、その実践(福音宣教)にあたっては、なるべく「布教の意図」が見抜かれないように、世間話のような感じでやんわりと接近して、だんだんと引き寄せていく、という手法が採られることになる。
かの「オウム真理教」が、世間知らずの大学生に向けて「ヨガは健康にいいよ。君も一緒にやらない?」というところから、信者獲得を目指したのと同じ手法である。

つまり、本書もそういう本なのだ。

まず最初に「トマス・アクィナスって、日本ではマイナーだけど、すごい哲学者なんだよ」というところから入る。「キリスト教神学者」ではなく、「哲学者」だと、無難な紹介をから入るのだ。
無論、これは嘘ではない。トマスは中世の人であり、まだ「哲学は神学の婢(はしため)」だなどと言われ、哲学がキリスト教神学に従属していた時代の人だから、「神学者=哲学者」であり、決して嘘にはならないのである。

また、トマスが何者なのかをよく知らない一般の日本人に「トマスっていう偉大な哲学者がいてね、西欧では研究者が大勢いるんだよ」なんて言う。
これも、嘘ではない。ただ、西欧は基本的に「キリスト教圏」であり、キリスト教信者が多く、学者にもキリスト教徒が多いのだから、キリスト教を代表する「神学者」であるトマスの研究者が多いのは、理の当然。西欧は、キリスト教の「地元」なのだ。西欧に比べ、日本には夏目漱石や三島由紀夫の研究者が多いのと、まあだいたい似たような話なのである。

で、トマスを「哲学者」だと無難に紹介した後、それでもまだ宗教に警戒心を持っているかもしれない一般日本人(読者)に対しては、トマスの神学の中でも一番「神学くさくない」部分たる「(人間)感情論」を、一般的な「人間哲学」のごとく紹介して「どうです。人間を鋭く分析しているでしょう」といったかたちで感心させる。
この段階では、「神」という言葉は一切つかわない。そんな言葉を使うと、途端に「勧誘か!?」と警戒されて、敬遠されてしまうからである。

だから「感情論」という一般的な話で感心させて、「どうです、中世の人だけど、今でも十分に通用する人間論哲学でしょ?」と、そういう方向で話に引きずり込み、徐々に「人間の感情とは、どういうものか」から「人間にとって大切なものとは何か」という話にズラしこんでゆき、悩んでいる人が多いこのご時世において「あなたが、いま求めているものとは何か?」とか「あなたは、何か思い違いをしていないか?」「あなたが、真に求めているものとは何か?」そして「あなたが、真に求めるべきは何か?」という具合にズラしていって、その「結論」としての「あなたが求めるべきは、神なのですよ」とは言わずに「寸止め」にして、「まずは、トマスに興味が湧いたら、そこから少しずつ学んでいき、何を求めれば良いのかを考えてみては、いかがですか?」と、押し付けがましさを一切出さずに、「暗示誘導」するのである。
一一現代日本における「布教手法」として、これはまさに、完璧ではないか。

本書は、「哲学者」と「学生」による「架空対話」のかたちで書かれており、「哲学者」とは「トマス研究者の大学教師」であり、一方「学生」の方は、ごく当たり前に「宗教に多少の警戒感を持っている若者」として描かれている。

つまり、「哲学者」の方が、トマス哲学を「一般哲学」的に見せようとすると、学生の方は「でも、トマスは神学者なんだから、結局は、キリスト教の神を肯定するための議論を展開しているんでしょう?(だから、鵜呑みにはできない)」と、何度も警戒感を露わにするのだが、「哲学者」の方は「トマスの神学は、そんな結論ありきの、薄っぺらな哲学ではない」というかたちで、「学生」の鋭い追及をかわす。
しかし、ここで注目すべきは、「哲学者」は決して「トマスの哲学は、神のためのものではない」とまでは言わないことだ。それを言ってしまうと、完全に「嘘」をつくことになるからである。

つまり、「哲学者」が言うのは「トマスの神学は、結論ありきで、神の正義を立証しようとするものではない(けれども、結果として、神の正しさを立証することになるだろうと信じてなされた、論理的な哲学である)」ということなのだ。
言い換えれば、「哲学者」は、トマスの「哲学=神学」は、「演繹法ではなく、帰納法だ」と言っているだけで、最終目標が「神の正義の論証(弁神論)」であることを否定しているわけではない。見る人が見れば、すぐに「嘘」だとバレるような「嘘」はつきたくないだけなのだ。

要は、トマスは、心から「神」を信じていたからこそ、「神は正しい」という結論に、無理やり持ち込む必要など、毛ほども認めていなかった、ということだ。だから、真っ当にこの世界を分析検討していけば、おのずと必然的に「神は正しい」という結論に行き着くと信じていたので、真面目に「この世のあらゆること」を論理的に分析したのである。

無論これは、トマスが「この世の客観的分析を目指していた」ということではない。
現にトマスの主著たる『神学大全』は、文字どおり「神学書」であり「神についての本」であって、その中に含まれる「感情論」を含む「人間論=被造物論」は「神についての研究の一部=神の作りしものとしての人間」についての研究でしかなかったのである。

本書中にも紹介されているとおり、『神学大全』は極端に大部の書物であるし、トマスの神学書は膨大な量になる。なぜそうなったのかと言えば、それはトマスが、アリストテレスの体系的学問を理想とした、「体系的研究」を好む研究者だったからであり、要は、端から端まで漏れなく論じて、統一的な「神の論理的分析体系」を構築したかった人だったのだ。
とにかく「すべて」を抑えたかったから、当然のごとく「神の被造物たる人間」についても分析的に論じたのであって、今の哲学者のように「人間を目的として、人間を分析的に論じた」わけではないのである。トマスは、あくまでも「神を徹底的に信じて、誰よりも体系的に、神を分析したかった人」なのである。

一一だが、そのトマスが、最晩年に、聖ニコラウス礼拝堂でのミサ中における見神体験から『神学大全』の執筆を放棄してしまい、その理由を尋ねたレギナルドゥスに対し「私が見たものにくらべれば、私がこれまで書いたものはすべてわらくずのように見えるからだ」と言ったことの意味は、トマス神学を中心神学に据えるカトリック教会には、たいへん「不都合な事実」ではあろうとも、やはり無視否定できない「重い事実」である。
なぜなら、トマスにとって「神の真実」とは、『神学大全』を含む彼の膨大な著作すべてが「わらくず」にしか見えないほどのものだと言うのだから、『神学大全』に含まれた、彼の「(「感情論」を含む)人間論」など、それこそ「わらくずの中のわらくず」に過ぎないというのが、信仰者トマス自身の、率直な評価だったということになるからである。

したがって、トマスがそれほど高く評価し崇めた「神の真実」の方を語ろうとはせずに、「わらくずの中のわらくず」たる「トマスの人間論」を、「客寄せ」のために、ことさらに有り難がって強調して見せるというのは、トマスに対する「背信」にも等しい「欺瞞」だと言うべきなのだ。

ちなみに、そんな「欺瞞的」な本書における「誘導的議論」の肝は、「愛と憎しみ」という「感情」分析において、「愛が最も根源的な感情であり、憎しみすら、愛を前提として存在する感情でしかない」といった説明である。

これは、結局のところ、本書後半で「感情論の紹介は、トマス神学についての、取っつきやすい導入部に過ぎなかった」と、本書の真相(当初隠していた、著者の狙い)が明かされた後に、やはり「愛が根本」だということを語らなければならなかったからなのだ。「トマスの神学は、確かに、神のためのものであったけれど、そこで語られる、愛が根本だという洞察は、信仰の有無にかかわらず、真実だ」という理屈を展開するためである。
そして「愛が根本(最重要)」という理屈から「神への愛が根本(最重要)」だという本音には、あと半歩の距離しかないのである。

しかしながら、「愛がすべての動因であり、憎しみさえ、その愛への障害として(の影として)しか存在し得ない」という「愛が根本」論は、本当のところは、なにも「愛だ、憎しみだ」などという「倫理的」で「宗教くさい」語り方をしなくても済むものである(でしかない)。
一一つまり、すべての根本は「物質的な生々流転」であると、「科学的」に言えば、それで済む話なのだ。

平たく言うと、すべての生命の根源には「無限に等しい、時間と空間」が前提としてあり、その中ではおのずと、あらゆる「変化」が生ずる。元素が化学反応を起こしていろんな物質を作り、やがて有機物を作り、生命を生み出し、膨大な時間をかけての進化によって、人間が生まれた。この「膨大な時間と空間における(においてのみ可能な)変化」というのを、文学的あるいは比喩的に言い換えれば「神の愛」ということになる。

「神が、自身の似姿として人間を生んだ」というのは、「あらゆる変化生成の可能性を内在した、膨大な時間と空間(時空=宇宙)」こそが「神」の正体だ、ということを意味する。
ただ、そんな「神」は、「人間」を生もうとして生んだのではなく、「あらゆる変化(生成と崩壊)の可能性を内在した、膨大な時間と空間」としての、膨大な「作品」の中の一つとして、たまたま「人間」を生んだだけなのだ。そこに「意志」や「意味」など当然ない。

ともあれ、人間は「確率論的必然」として生まれた。いや、その前に、原始的な「生命」が生まれた。
生命は「確率論的変化」の結果として「進化」した。その進化の過程で、たまさか「種の拡張」という方向性が生まれてきた。本書における『自己拡張性』(P237)の正体とは、たまたま進化論的に生まれた「種の拡張」傾向のことなのだ。そういう生物だけが生き残れるし、生き残ったというだけの話だ。

また、本書において「愛」と対比的に語られる「憎しみ」もまた、その本質は「生命に仇なす苦痛」のことだ。
生命を危険にさらすものに「苦痛」を感じて、それを回避するという能力を持った生物だけが、おのずと生き残った。自然淘汰による「進化」の結果だ。その「苦痛回避能力」の一つの進化形態が「憎しみ」という感情に他ならない。人間は、自身の生命を危険にさらす可能性のある存在に対して「憎しみ」や「嫌悪」を抱くよう、プログラムを発展させた「知的」生命体だったということである。

つまり、本書で語られたことは、「トマス哲学」など持ち出さなくても、「神」などという胡乱なものを持ち出さずとも、当たり前に説明できることを、「(キリスト教の)護教的」に、持って回って「表現(レトリック)」していただけなのである。

 ○ ○ ○

そもそも、宗教書における「対話形式」というのは、しばしば「ご都合主義的に欺瞞的」なものが多い。
私が最近読んだ、仏教学者・佐々木閑の『別冊100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』なんかも、その好例であった。(拙レビュー乞参照)

「対話形式」というのは、読みやすいし「読者の立場を代弁する(はずの)客」の側(本書では「学生」)の発言を、著者が都合よくコントロールすることができる。
「客」に、「作者の立場を代弁する主人」(本書では「哲学者」)に対して、読者が常日頃から抱えているであろう「疑問」について質問させることで、読者を満足させるのだけれど、当然のことながら「客」の発する「鋭い質問」は、決して「真の急所」を突くものではなく、その手前で「寸止め」されるものでしかない。

作者は、読者が持っているだろう疑問を先回り的に「客(学生)」に提示させて、読者の満足をさせながら、手慣れた手つきで、その追求を、誤魔化しで、かわす。素人が思いつくような「鋭い質問」など、彼らにとっては、何度もなされた「よくある質問」に過ぎないから、その上手な回答については、遠の昔に練りこまれて準備されていたのである。
だから、読者は騙される。最後の急所まで突き進めずに、著者に体良く、煙に巻かれてしまうのだ。こうした「対話形式」による「斬り込みと切り返し」とは、作者が読者に仕掛けた「肉を切らせて骨を断つ」式の、巧妙な欺瞞なのである。

つまり、「読者を代弁する客(学生)」とは、所詮は「作者による、主客一人二役の片割れ」でしかない。
したがって、「客(学生)」の正体とは、著者が「哲学者」に、

『ここで誤解しないでいただきたいのですが、トマスが紹介する「異論」というのは、わざとしょぼい「異論」を用意して、後でそれをボコボコにやっつけるといった感じの、藁人形のようなものではありません』(P184)

と語らせている、著者の「藁人形」そのものなのだ。

最初のうちは読者の側に立って「トマスも所詮は宗教家だ」と警戒しているけれども、だんだんと「哲学者」の口車に乗せられてゆき、最後はトマスの哲学に敬服して、もっと研究してみたいなどと、少し先の「洗礼(入信)」を匂わせるような、「素直な」存在に飼い馴らされてしまう。

現実の「客」であれば、一般的な哲学の話ならば警戒しながらも耳を傾けただろうが、話が「愛が根本」だみたいなことになってきたら「そろそろ、お出でなすったな」と警戒することだろう。
だが、作者の「藁人形」でしかないこの「学生」は、最後は「人間は完璧なものではあり得ないので、愛されるもの(=魅力的なもの)に出遭えば、それを受け入れて愛するという受動性も必要」だなどという「筋書きどおり」の作者の甘言に呑み込まれていくのである。
(オウム真理教の高学歴信者たちも、きっと、この「学生」のように「悩み(弱み)」を抱えた、世間知らずの、ナイーブな人たちだったのであろう)

そんなわけで、本書は、「読める人」にとっては、絵に描いたような「宗教勧誘の書」なのである。

 ○ ○ ○

さて、そんな本書に、著者と東大で同窓だった國分功一郎(一つ年下)が「東大話法」的な「提灯持ち推薦文」を書いており、「権威」が大好きな人は、これですっかり騙されるかもしれないが、この程度のものに騙されるからこそ、いつまで経っても、人は盲目的に宗教を信じたり、うまい話に騙されたりするのであろう。

ちなみに私は、國分功一郎の著書『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)のAmazonレビュー(「わかりやすい」という〈陥穽〉)を書いて、そこに、同書から、

『 もしもあなたがスピノザ本人に会いに行ったとして、「スピノザ先生、あなたの考える確実性とはなんですか?」と訊いたとします。あなたの懇願に負けてスピノザは一生懸命に説明してくれるかもしれませんが、どれだけ本人から説明を受けたところで、そのように説明を受けただけではスピノザの考える確実性を理解することはできないでしょう。なぜならば、確実なものを認識してみなければ、確実性とは何かは理解できないからです。』(P144~145)

という、國分の言葉を引用して、

『本書は、一読、平易で「わかりやすい」という印象を与える。だから「初心者向け」だとか「入門書」だと評する人もいるだろう。「わかりやすい」から、そのように考えるわけだが、しかし、著者の訴えるところは、それとは真逆である。』

という「警告」を発しておいた。
國分の著書『はじめてのスピノザ』で「スピノザをわかったつもりになるのは(著者である國分自身も書いているとおり)間違いだ」という警告である。

しかし、では、著者である國分自身は、同書でスピノザの「何を説明したつもり」だったのだろうか?
スピノザ本人にも説明が困難なスピノザの認識を、スピノザではない他人の國分が「わかりやすく説明」できるはずがない。にも関わらず、多くの人が「わかりやすいスピノザ入門書」だと「勘違い」してしまう本を書いた國分は、いったいそこに「何を書いたつもり」だったのか。

ともあれ、そうした「わかりやすい」謎の本を書いてしまうところは、本書『世界は善に満ちている トマス・アクィナス哲学講義』の著者と國分は似ており、もしかすると「似た者同士」の共感から、「推薦文」を書いたのかもしれない。
無論、國分が「隠れカトリック」だったというのなら、話もわかりやすくなろうが、そうでないとしたら、こんな見るからに「宗教勧誘の書」を、その点に触れることもなく、しれっと推薦して見せる、哲学者・國分功一郎の方にこそ、私は不気味なものを感じるのである。

ともあれ、「宗教」に無知な読者は、宗教家の「物分かりの良さそうな、猫なで声」には、本書の「学生」なんかよりもずっと強く警戒心を持つべきだし、まして「満たされない心」という「弱点」を抱えている人は「感動的な良い話」には、くれぐれも用心すべきである。

カトリック信者なら、トマスの権威にこだわるのも仕方はないが、哲学するのに、なにも今どき「トマスを再評価」する必要など、まったくないのだ、ということを、非クリスチャンの読者は、冷静になって思い出すべきである。
なぜなら、「トマスが考えたこと」を考え、検討し、それを乗り越えようと思考努力してきた、近代以降の立派な「世俗哲学者」は大勢いるのだから、そっちを学べばそれでいいだけの話なのである。

カトリック信者やトマス研究者は、自分たちの商品価値を高めるためにも「トマスの現代的価値」を高めなければならないのだろう。だが、私たち非クリスチャンは、そんなキリスト教の「売り込み活動」に付き合う必要など、まったくないのである。

「お人よし」は騙されやすい。よくよくご警戒を。

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〈客観的で柔軟な私〉という陥穽 一一amazonレビュー:中村隆文『世界がわかる比較思想史入門』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月25日(木)13時54分21秒
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 〈客観的で柔軟な私〉という陥穽

 amazonレビュー:中村隆文『世界がわかる比較思想史入門』
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私の場合はこれまで、「宗教」の素人研究(宗教の批判的研究)として、キリスト教に取り組んできたから、キリスト教とユダヤ教についてはおおよそのことを知っていたが、イスラム教はかじった程度だったので、その部分はとても参考になったし、面白かった。また、これもごく最近になってだが、「仏教」の勉強も始めたので、「インド思想」や「日本思想」の章は、大まかな見取り図(今後の叩き台)として、とても参考になった。一方、まったく手をつけていなかった「中国思想」の章は、ぼんやりとしたイメージしかなかったものについて、明確な整理を与えられて、とても興味深かった。「西洋哲学」についても、ひとつの見取り図としてわかりやすく、とても良かった。

つまり、これまでバラバラに(非体系的に)勉強してきたことに、大まかな見取り図として関連づけてもらえ、とても面白く、ありがたい一冊だった。これが、私個人の率直な感想である。

一一ただし、注文をつけておきたい点もある。

まず、本書を「入門書」として読んだのでは、あまり面白くないのではないか、ということだ。
入門書というのは、平易だが、だいたい面白くない。というのも「神は細部に宿る」と言うとおりで、本当に面白いのは、簡単には整理することのできない、細部であり、矛盾を孕んだ複雑微妙な部分だからだ。

例えば、キリスト教であれ仏教であれ、「この宗教は、こうだ」という大筋での説明は、わかりやすいし間違いではないのだけれども、それだけではぜんぜん面白くない。
同じキリスト教と言っても、いろいろな教派があり、意見の対立矛盾があるからこそ、その矛盾点において、その宗教宗派の「(絶対神の真理ならぬ)人間的な側面」が浮かび上がり、その隠された本質も浮かび上がってくる。

だから、これから、宗教を含む思想というものを勉強しようという人は、こうした入門書から入ろうとするのではなく、ひとつ狙いを定めて、それをある程度研究した後に、それとは立場を異にする思想を対比的に学び、それから本書のような「見取り図」本を読むと、きっと面白いだろうし、研究対象の理解も深まるのではないだろうか。
一番いけないのは、こうした「入門書」で、全体的な「本質」をいっきにつかんだ気分になってしまうことなのだ。「便宜的な簡易図式」が、その後の研究の「先入主」となってしまうことなのである

さて、そうした観点から、本書で注目すべきは、それまでの各種思想を紹介した本章とは違って、著者自身が前面に出てくる最終章「おわりに」と「あとがき」における、著者の「思想」である。

著者はこの二つの章において、「比較思想史」を学ぶことで、どのような視界が開けたかを紹介し、自身の「思想」を語っている。
簡単に言えば、「おわりに」では、

(1)色々な思想的立場を、フラットに俯瞰することで、思い込みや偏見から自由になる。
(2)特定の思想に依り頼んでそれを護持するのではなく、そこから自由になることで、自分の思想が持てる。
(3)「私の思想」とは、他者の価値観に縛られない、自身の見出した価値を信じる(かと言って、独善でもない)思想だと言える。
(4)そうした「私の思想」を生きることこそが、そのまま「行」なのだ。

といった、著者の考える「思想における生き方」が、ハイデガーの「死に先駆する」という考え方に準拠して語られる。

そして「あとがき」では、その具体的な姿として、自身の「父親の死」という体験を通して知った、「特権的な、私個人の体験に生きる」という、著者の「思想」を語っている。

だが、私は、この「あとがき」で示された、「著者の思想」に引っかかった。
一一「えっ、最後はそこなの?」という、どこか裏切られた感じがしたのだ。

結局、本書著者が言うのは、色々な立場を俯瞰して独善を排するならば、「独善にならない個人主義」が最も正しい、というような話になのではないか。しかし、その立場には、どうにも無理が感じられる。

と言うのも、著者はいろんな「思想(宗教を含む)」を研究し、その一長一短を比較考量した上で、どれにも没入(全肯定)しないかわりに、どれも否定しない、という「バランスのとれた立場」を選択した。ここまでは、常識として誰もが納得できるだろう。
しかし、そのあとに、「どれでもないから、残るは、私個人の思想」一一というのは、おかしいのではないか。

というのも、どんなに偏頗な信仰や思想に凝り固まった人でも、その人本人の主観としては「私は、客観的かつ公正に判断した結果として、この立場を選んだ」と感じているだろうからだ。つまり、そうした「無自覚に依存的な立場」もまた「私の立場」と主観されているのである。

では、こうした「主観的に、客観的かつ公正に選択された(と信じている)立場」と、本書著者の「全体をフラットに鳥瞰した上での、客観的かつ公正な判断としての、私個人の思想」とは、どれだけ違っているだろう。

例えば、著者は、自身の「父の死」を普遍化し得ない「特権的な(私的)体験」として、そのような「特権的な体験」に生きることこそが「正しい」と主張してしまっている。また、そうした立場から「他者の生にも関与する」と言っているが、これでは「個人的に神の啓示を受けた私は、その立場から、他人に関与している」というのと、どれだけ違うと言えるだろう?
一一私は、同じだと思う。

つまり、著者の「全体をフラットに鳥瞰した上で」というのは、実際のところ、極めて「個人的なアリバイ作り」にしかなっておらず、そんなことは、どんな宗教者や思想家でも、多かれ少なかれやっていることなのだ。ただ、それに「比較思想史」という学問形態が与えられていないだけなのである。
だが、本書著者は、その見えやすい「形式」に、自ら目を眩まされ、そこに安住してしまったのではないか。

著者が、在籍する「神奈川大学」のホームページに「神大の先生」というページがあり、本書著者はそこで、自身の考える「哲学」の意義と学びの姿勢を、学生に向けて、次のように語っている。

『現在の担当講義「哲学」では、さまざまな観点から人間や生き方について掘り下げ、自分を知ることの重要性を考えていきます。哲学に難解なイメージを持つ人もいますが、哲学は、自分の中に生じたさまざまな「問い」について、深く考えることで答えを導き出していく学問です。私自身の経験から言えば、その過程で多くのことを勉強しながら知見を重ね、柔軟な思考力を身に付けられたように思います。』

という部分があるのだが、ここには著者の考え方が、とてもよく表れているように、私には思えた。
特に『さまざまな観点から』『多くのことを勉強しながら知見を重ね』『柔軟な思考力を身に付け』られた、としている部分だ。

言うまでもなく、ここに表れているのは「全体をフラットに鳥瞰した上でなら、既成の何物にも縛られない(反硬直=柔軟)で、穏当な「私の思想」を手にすることができる。これが正解だ」という「哲学」観である。
しかし私は、ここに「比較思想史」という「鳥瞰視」に立つ人の、「虫の視点」あるいは「細部に宿る神」という視点のへの軽視、ハンデガー風に言えば「投企」の軽視を感じずにはいられない。
またその結果として、著者は「特権的な私の経験」の思想という、ごく「当たり前に主観的な思考」の、個人的な自己正当化に陥ってしまったのではないかと感じずにはいられないのである。

繰り返すが、どんな「権威」に寄りすがっているように見える人の「(党派的な)思想」だって、その人の主観では「私が、私の実感に従って、客観的かつ公正に選んだ、私の思想」なのだし、その意味で本書著者は、安易に自分の立場(だけ)を、特権化しているだけにしか見えないのである。「自分は、比較思想史をやっており、客観的で公正に判断し(え)ている」と。

つまり、私が言いたいのは、「客観的で公正」であるように努めるというのは「当たり前」のことであり、誰しもそれなりにやっていることでしかない、ということなのだ。
しかし、それでも、そうしたものの多くは、客観的には(他者から見れば)しばしば「主観的・独善的」に見えてしまうという事実があるし、だからこそ「比較思想」なんてものだって可能になる。

したがって、ここで必要となるのは、人はいくら「客観的かつ公正」であろうと努力しても、他人から見れば、それは「その人の(個人的)思想」でしかない、という事実を認め、それを「他者の(そして自身の)現実」としてその重みを引き受けた上で、それでも是非善悪「判断」を語るという「責任」を引き受けなければならない、ということなのだ。

主観的に「公正中立」であろうとすることと、客観的に「公正中立」であることとは、同じではあり得ないということを、我がこととして肝に命じていれば、著者のような「比較思想史」をやってますから「客観的で公正」であり、だから「私の思想は、(他の人たちとは違って)独善ではない」といったような語り方にはならない、ということである。

そして、こうした著者の「独善的」な「私の思想」が、なんとなく成り立っているようにも見えるのは、結局のところ、著者が「自身を特権化して、結果的に他者の立場を下げる」ことはしても、他者に向かっては「それもいいですね」みたいな、無難な物言いに終始するからであろう。
「どの立場にも、一長一短がある」という主張は、どんな立場もすべて「不完全だ」と内心ではそう思いながらも、口では「どれも素晴らしい長所を持っていますね」などと耳障りのいいことを言える、世渡り上手な(ずるい)立場だとも言えるのである。

しかし、そんな「安全圏からマニュピレーターを使って、無難に研究する」ような態度(鳥瞰的観察評価)で得られるものとは、所詮は「解説屋の思想」にしかならないのではないか。
「自分の(個人的)立場」というものを、さも選択していないかのごとく語って、「個人的立場の責任の引き受け」を回避しているような者の思想とは、自ずと、その程度のものに止まらざるを得ないのではないのか。「遠巻きにして感想を語る」ような思想が、「参考」にはなっても、実存の重みを欠いた、軽い思想にならざるを得ないのは、理の当然なのではないだろうか。

「神は細部に宿る」というのは、「細部にまで没入する」危険に、一度は身をさらす覚悟において、真に「私の思想」というものが得られる、ということなのではないか。
著者自身の「無難かつ優等生的で、ごく当たり前の思想」に、良くも悪くも「魅力」がないのは、そういうことなのではないだろうか。

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〈消された少女〉と執念の追跡調査 一一amazonレビュー:榊原崇仁『福島が沈黙した日 原発事故と甲状腺被ばく』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月18日(木)22時32分48秒
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 〈消された少女〉と執念の追跡調査

 amazonレビュー:榊原崇仁『福島が沈黙した日 原発事故と甲状腺被ばく』
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「またか…」という思いしかない。
日本政府は、いや、日本の為政者たちは、自身の保身のために、「不都合な情報」を国民に隠し、そして湮滅をする。

東日本大震災での「福島第一原発事故」に関わる、被災者の「甲状腺被ばく」状況のデータもまた、隠蔽された。
いや、正確に言うならば、被害状況を隠蔽するために、「甲状腺被ばく」に関するデータを「採らなかった」のだ。初めから、データを残そうとはしなかったのである。

本書著者は、東京新聞の記者として、「福島第一原発事故」による「甲状腺被ばく」問題に関わり、部署が変わっても、私費を使ってまで、この問題を継続的に取材し続けた人である。その長年にわたる労苦の結果として明らかにされたのが、この「許されざる事実」であったのだ。

事故後の対応に当たった、原発を管轄する文部科学省の役人、専門家集団として政府の負託を受けて活動した「放射線医学総合研究所(放医研)」のメンバー、あるいは地元福島県の役人たちは、被災者の「事後救済」に備えるために「被災者の被ばく状況を適切に測定をし、記録し、証明書を交付する」といった作業の実施に、それぞれの立場から責任を負っていた。
だが、事前の想定を超える高濃度被ばく者が多数発生した恐れが発覚した時、彼らは「被災者のため」という口実において、本来の測定基準をなし崩しにして、結局、内部被ばくの証拠を隠滅してしまった。手間のかかる「記録」を取らないでいいように、作業の大幅簡略化の「工夫」をしたのである。

私も、原発事故後に、何冊かの関連書を読んで「きっと、10年後、20年後には、福島で内部被ばくした子供たちの中から、甲状腺がんを発症する者が大勢出てくることだろう」と思っていた。
ところが、今にいたるまで、そんな私の予想を実証するような話はまったく出てこない。政府の見解としても「そんなことが起こることを示すデータはない」と言う。私も、だんだんと当初の素人予想に自信が持てなくなり「やっぱり、被ばく被害を過大に見積もりすぎていたのだろうか。それならそれで、結果としては喜ばしいことではあるのだが…」と、いささか弱気に考えるようになっていた。

だが、原発事故問題とその被ばく被害については、持続的に興味を持っていた。時間が経ってから明らかになることもあるだろう、と考えていたからだ。だからこそ、本書を手に取った。
「決して、原発事故とその教訓を風化させてはならない。少なくとも、私個人は、そうした時間の経過に抗わなくてはならない」という、なかば意地と義務感とで、本書を手に取ったのである。
だから、まさかここまで「露骨な真相」が明らかにされていようとは思いもしなかった。

その真相に驚いたと言うよりは、むしろここまで真相が明らかにされたことに驚いた、と言った方が良いかも知れない。
そして、その真相自体についての感想は、「またか…」だったのである。

以下に、本書の肝となる部分を引用して、読者の用に供しよう。
本書は、著者が真相を追求していく経過を時系列に沿って紹介した、まるで推理小説のようにドラマチックな展開を描いた作品なのだが、事の真相については、すでにご紹介したとおりであり、多くの読者が興味を持つのも、きっとそのあたりであろうからだ。

こうした、肝の部分を知った上で、それでも読者が本書を手に取り、自分の目でその真相を確かめてくれるのが、ベストである。
だが、そこまではいかないまでも、多くの人に、この驚くべき真相を知らせるためなら、私の「過剰引用」を、作者も大目に見てもくれようかと期待している。

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『 少女の測定結果はその後、放医研の会議で扱われ、甲状腺内部被ばくの程度がどれだけになるか、等価線量で報告されたようだ。そして、一連の経過が記録されたのが(※ 著者が入手した)「朝の対策本部会議メモ」と言えそうだった。
 メモの記述で注目すべきは、少女の甲状腺内部被ばくの状況、つまり「甲状腺等価線量で100mSv程度」だった。
 詳しくは後述するが、「甲状腺等価線量で100ミリシーベルト」は特別な意味を持つ数字だった。甲状腺被ばく測定は事故後、政府が実施しており、(※ 数値が)そこに達する人はいないと周知されてきた。しかし、政府とは別に測定が行われたようで、放医研の会議では「11歳の少女が100ミリシーベルト程度」と報告されてされたという。公表も報道もされてこなかった話だ。』(P15~16)

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『 放医研では当時、衝撃が走ったはずだ。
 普通の流れなら、事実関係の確認に動くだろう。政府に先駆け、本当に徳島大学チームが測っていたのか、少女が高値だったのかを調べるはずだ。実際にそうだったなら、まずはこの少女の体を心配するだろう。多く被ばくした結果、がんになるかもしれないと考え、少女を特定した上で健康状態を見守ろうとするはずだ。
 当然ながら、「高値の測り漏らし」が他にもあるかもしれないと意識するはずだ。測定から外れた人の中で100ミリシーベルトの人が一人でもいたら、そう考えるはずだ。半減期を踏まえてもまだ甲状腺被ばく測定が実施できるなら改めて行い、多くの人を調べようとするだろう。
 ところが、放医研の会議で「11歳の少女が100ミリシーベルト程度」と報告されたことも、その後に取られた対応も公表されてこなかった。これをどう捉えたらいいのか。』(P21~22)

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『 保田氏はSPEED1の推計結果が出た時の胸中をこう振り返った。
「『やっぱり100ミリシーベルトを超えてるじゃん』って思いました。図示されたインパクトが強かったですよね」』(P106)

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『「明石センター長」は、放医研の緊急被ばく医療研究センター長だった明石真言氏のことだろう。情報開示請求で得た放医研の体制表を見ると、福島原発事故の対策本部では「本部長補佐」とされ、本部長の米倉義晴理事長に次ぐ役職に就いていた。積極的に子どもたちを守ろうとした保田氏に対し、「軽々しく動かないように」と釘を刺したようだった。』(P113)

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『 勤め先の動物園に電話を入れ、牧氏につないでもらった。「一度お会いして、文科省の官僚として事故対応に当たった際のことをうかがいたい」と取材を申し込むと、牧氏は「どういう件か聞かないことにはお話しできない」と警戒を強めていた。
「悪事を暴くんでしょ。隠し球、メールで送ってください。全然違う分野に転職しているし、もう縁遠いとこにいます。足抜けしたのに、ヤクザ時代の話ですか。ヤクザは言い過ぎか。動物園にも迷惑かかるし、取材を受けません」
 かつて牧氏がいた霞ヶ関や原子力業界はヤクザの世界か、と思いつつ、「甲状腺被ばく測定の話なんですが……」「ヒアリング記録に書かれている内容だけ……」と根気強く水を向けると、電話口で何とか応じてくれた。』(P124)

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『 床次氏のグループ以外で甲状腺被ばく測定に取り組もうとした専門家はいなかったようだ。その点についてはどう感じていたのか。
「統制が敷かれていたからじゃないですか。暗黙の了解というか。よく当時はね、『寝た子を起こすな』だとか、『化け物が出たらどうする』って、聞いていましたよ」
 余計なことをするな、深刻な被ばくに見舞われた人を探し出すな、ということだったのか。』(148P)

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『 原発近くからの避難者は、政府の測定の対象外だった。第一原発がある双葉町から避難した少女は測定から漏れた公算が大きかった。「いないはずの100ミリシーベルトの人がいた」「政府の測定は線量が高い人を対象外にしてしまった」という問題を示唆するのが少女の(※ 甲状腺等価線量の)計算結果(※ が意味するもの)だった。しかし放医研は特別な対応を取らず、公表も見送った。』(P178)

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『 (※ 原発事故以前に作成されていた)福島県のマニュアルが甲状腺内部被ばくを強く意識していたこと、原発近くから避難した人たちの甲状腺内部被ばくを複数の手法で把握しようとしていたのは明らかだった。測定結果を記録として残す意味もよく理解していた。
 にもかかわらず、政府事故調(※ の調査報告書)はそう(※ した事実を、世間に)伝えなかった。避難してきた人に対して行うスクリーニングは(※ もっぱら)「除染のため」と説明し、その後に予定されていた甲状腺被ばく測定についても言及しなかった。その影響を受けてか、県のマニュアルの内容が詳しく報道されることもなかった。
 これは大きな過ちだった。詳細は後述するが、県のマニュアルに照らせば、原発近くから避難してきた人たちの中には甲状腺被ばく測定を受けるべき人たちが少なからずいた。しかし彼らに対し、甲状腺被ばく測定は実施されなかったようだ。本来なら、県のマニュアルから乖離した住民対応を問題視しなければならなかった。』(P204~205)

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『 より深刻な状況が伝わる文章も、放医研に対する情報開示請求で入手していた。
 その文書はA4判1枚で、一三日の未明に作成されたようだった。具体的には、「3月13日(日) 4:49 鈴木 敏和氏より」とあった。政府の現地本部に派遣された鈴木敏和氏から派遣元の放医研に連絡があり、その内容を書きとめた文書とみられる。ここでは「県、保健所長+総括保安院課長」などの記述に続き、「10万CPM程度多数(12万人規模の汚染者発生)」「原発北側(双葉地区)が高線領域である。(10万CPM)」と記されていた。
 似た記述は別の文書にもあった。やはり情報開示請求で得た。「現地 総括保安院課長、県の保健所長、放医研(鈴木)との話」という表題の文書で、「サーベイ対象 12万人」「そのうち真刻(註:原文ママ)な対象は1万人」とあり、一三日午前五時四八分に放医研から文科省へ送られた形跡が残っていた。』(P210)

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『 深刻な状況があったという。
「サーベイメータが振り切れるのが10万CPM。基準値をそれより下げると、たくさん除染が必要な人が出て対応できなくなる。非現実的ということで10万cpmを受け入れていた」
近藤氏も「基準値が1万3000cpmだと、みんな引っかかる。とにかく10万CPMじゃないと、ということになった」と語り、「早く避難できるよう、できるだけ引っかからないような基準にしたんですか」と尋ねると「そう、そうそう」と述べた。』(221P)

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『 放医研の電子掲示板「緊急被ばく線量評価情報共有・伝達システム」を見ると、一六日午後七時ちょうどに浅利氏に関連した投稿がなされていた。
「スクリーニング班長・浅利先生、文科省の牧さん、原さんより放医研・吉田さんに対して下記の依頼がありました。お忙しいところ大変申し訳ありませんが、資料作成をご検討いただけないでしょうか」
「スクリーニング対象者が急増し、特例として(※ 基準値を、1万3000 CPMから)10万CPMに上げた(※ つまり、緩和した)。現場の状況を考えると適切な判断だったと考える」
「一方、今後10万CPMの意味を問われることは間違いない」
「住民に対しての理論武装は必須となる。『何故自分は10万という高い値でOKとされたのか』、『調子が悪いのは10万という値のせい』という声が必ずでる」
「放医研でヨウ素、セシウムについて10万CPMでの被ばく線量を計算し、今回の措置が健康に影響を与えるものではないことを説明するための材料出しをして頂けないか」』(P232~233)

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『 匿名で取材に協力してくれた放医研関係者がいたため、その人に(※ 10万CPMで大丈夫とする根拠となった)計算式を読み解いてもらった。この文書の存在は知らなかったようで、目を通してもらうとこんな言葉を漏らした。
「無茶苦茶な計算をやっていますよ。こういうことが放医研の名前で行われていたんですか。ショックです。これはひどい。いや、本当に。夢に見そうです。多分、専門家がチェックしていない文書ですよ。専門家が見ていたら、外に出ていかない書類です。それぐらいひどい」』(P238)

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『「放医研の会議で(※ 私[藤林]がまとめた、測定基準値引下げの根拠となる理論を紹介した文書を)見ていただいた。(※ 専門家の)皆さんにお目通ししていただいた覚えがあります」
 その時反応はどうだったのか。
「特に何もなかったと思いますけど。是とか非とか」
 (※ 10万CPMどころか)1万3000CPM相当の汚染が体に付いていると、甲状腺等価線量で100ミリシーベルトになり得るという考え方を知らなかったのか。そうぶつけると、藤林氏は「それはどこで定められているのですか。事故が起きる前からあったんですか」と逆質問を投げかけてきた。
 事故前年の原安委でも確認されています、と返した。
「僕はそうした情報を持っていなかったです」
 藤林は続けて「知らなかった。申し訳ない。僕は専門家じゃなくて」と述べ、「なんでこんなことが起きたんですかね、そうしたら」と漏らした。こちらが聞きたかった。』(P247)

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『 放医研が原安委に提出した「スクリーニングレベル100,000CPMについて」のうち、最もわかりやすい欠陥は、「皮膚の等価線量限度五〇〇ミリシーベルトと比べて十分低い」という部分だった。
 被ばく防護の議論でよく引用されるのが、国際放射線防護委員会(ICRP)が定める基準値だった。ICRPの一九九〇年勧告や二〇〇七年勧告を見ると、「皮膚の等価線量限度が年間五〇〇ミリシーベルト」と定めていたのは「職業被ばく」についてだった。原発で働く作業員らを対象に「線量限度が年間五〇〇ミリシーベルト」と定めていた。その一方、一般公衆、つまり住民の線量限度は「年間五〇ミリシーベルト」だった。被ばくしやすい環境にいる作業員は高めに設定され、そうではない住民は低く抑えられていた。
 放医研は住民の線量限度を引用すべきだった。住民の話をしているのだから当然だろう。しかし作業員の線量限度を引用し、「線量限度を下回るのなら問題ない」と論理展開した。

 明石氏に「文書の中に書いてある線量限度って、一般公衆の値じゃないですよね。ICRPの一九九〇年勧告や二〇〇七年勧告に書いてある数字と違いますよね」とぶつけた。
「そういう目で見たら、これは」
 等価線量限度で五〇〇ミリシーベルトというのは職業被ばくのケースではないのか。なぜこんな書きぶりにしたのか。
「だから多分、その時の、今っていうか、ええと……」
 どういう意図があったのか。
「意図は多分、計算した時に、われわれの中で、一応……」
 同じ質問を繰り返すと、こう返ってきた。
「どう考えたらいいか分からないけど、この文章で書かれているのは、不十分なことがいっぱいあったということになると思います」
 なぜそんな文章まとめたのか。
「ちょっと僕はその、当時のことは分かんないですけど。どういう議論になったかは覚えていない。職業人と一般人が一緒にされているところに問題があると。冷静に見ればそういうことになると思います」』(P251~253)

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『「だから、あの、多分、そうやって作ったレベルだったものが、他の、別の……」
 10万CPMの汚染が体に付く場合、単純計算なら等価線量で八〇〇ミリシーベルト近くになるかもしれない。なぜその点に言及しなかったのか。
「本来のなれそめはそういうところから出てきた数字なんだけど、もうあの、この。内部被ばくのことを多分、ここで議論をしたわけではないので。そういう議論はしないで、こういう数字になったんだと思います。』(P257)

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『 あまりに罪深いと感じた。「1万3000CPMがたくさん」「甲状腺等価線量で100ミリシーベルトになり得る人がたくさん」「甲状腺被ばく測定を受けるはずの人がたくさん」という状況ではなかったのか。そうぶつけると、明石氏は文書の中身について改めて非を認めた。
「(※ 原発事故の被災者が)(放射性ヨウ素を)吸っているということは確かに考慮していないです(※ だから、内部被ばく=甲状腺被ばくを測定をしなかった)。(※ 放射性ヨウ素の吸入量を、まったく)評価しないで、(※ 外部被曝だけを問題にして)これを決めたのは事実です。きちんとできていなかったのは、言われた通りです。」
 明石氏は「悪事に手を染めている」という意識があったはずだ。』(P258~259)

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『 何度も繰り返すが、甲状腺被ばく測定を受けたのは一握りの人たちだけだった。大多数の人たちは、自分がどれだけ被ばくしたのかよく分からない。今から測ることもできない。「望まない被ばくを受けた」「がんになったのは被ばくのせい」と訴えようにも、測定を受けておらず、「被ばくした」という証拠が残っていないため、聞き流される構図ができている。医療的な支援や補償を求めたくても、泣き寝入りを強いられる状況が生じている。
 政府には、被ばくから住民を守る責務があった。避難指示の遅れなどで被ばくさせてしまった場合には厳しい追及にさらされる可能性が高かった。「被ばくさせた」という証拠が残っていない今、政府は追求から逃れている。
 これが事の顛末だったようだ。』(P261)

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「甲状腺等価線量で100ミリシーベルト」の値が検出された、当時「11歳の少女」は、政府機関による甲状腺被ばく測定がなされないまま、内部被曝がなかったことにされてしまった。そして、何のフォローもなく放置され、今も日本のどこかで生きている、のかもしれない。

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〈ネトウヨ〉が大喜びする「嫌中本」一一amazonレビュー:楊海英『内モンゴル紛争 危機の民族地政学』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月18日(木)22時31分32秒
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 〈ネトウヨ〉が大喜びする「嫌中本」

 amazonレビュー:楊海英『内モンゴル紛争 危機の民族地政学』
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著者は、日本在住のモンゴル人であり、日本におけるモンゴル学の専門家だと見ていいだろう。つまり、中国における「内モンゴル問題」については、モンゴル人として「被害当事者」と言って良い立場の人でもあり、まさにその視点から、本書は書かれている。

読者は、著者のそうした「被害者」としての立場に配慮して読むことを、著者自身から求められるに止まらず、かつての戦争で、モンゴルまで侵攻した、元「宗主国」つまり「侵略占領国」の国民であることの自覚を持ち、その反省に立って読むべきだとも、求められている。つまり、本書は「政治的イデオロギー」の明確に込められた、「地政学」的な見地に立って書かれた、政治的文書なのである。

したがって、こうした生々しい「現在進行形のリアル」を踏まえずに、「大国の横暴に翻弄された、少数民族の悲劇」といった紋切り型の「情緒的な読み方」をするだけでは、本書の読み方としては全く不十分だということを、まずは踏まえるべきであろう。
事実、著者は、次のような、強固な考え (政治的イデオロギー)に立つ人である。

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『 二〇二〇年は、戦後七五周年を迎えた節目の年でもある。これほど光陰が過ぎても、日本は未だに戦争の呪縛から解脱できていない。
 筆者がいう呪縛とは二つある。一つは、いかなる戦争も絶対悪だという偏った見方が根強く残り、日本人の思想的源泉を枯渇させていることだ。もう一つは、現実離れした非武装論が蔓延り、国家としての日本の現状を悪化し、将来を暗くしていることだ。世界史的に見て、この二つの呪縛を解かない限り、先進国から転落するのも時間の問題だろう。
 我々人類、ホモサピエンスという種は誕生してからずっと戦争をしてきた。人類の拡散史はすなわち戦争史だと表現しても言い過ぎではない。先に形成し、定着していた集落を襲い、征服し、自らの領土と財産にしていったのが、ホモサピエンスの地球占領史である。その過程で、戦いに歯止めをかけようとして、さまざまな思想が生み出された。近代以降に出現したのが、正義と非正義の戦争観だろう。
(中略)
 戦争は資本主義の悪で、社会主義国家はそれを行使しないという神話もあった。しかし、一九七九年に中国とベトナムは戦火を交えて、その神話を粉砕した。両国の背後にはソ連とアメリカもいたので、イデオロギーによる正義と非正義の区別は無意味だと証明された。従って、日本だけが非正義の戦争を起こし、「侵略」された側にすべての正義があるという見方は成立しない。
 実は、この「戦争絶対悪」論、すなわち正義対非正義の戦争観が、その次の徹底的非武装論の温床となっている。敵に戦略されても、隣人が強盗化しても、丸腰で対応しようという天真爛漫な見方だ。敵が侵入してきて、強盗の隣人が暴力を振るった後に何が生じるかを想定しようとしない、思考停止した人たちの夢物語だ。敵に占領され、強盗に狼藉された後は国民の奴隷化、エリート層の殺戮だということを知らないからである。この真実の最たる実例がモンゴルである。』(P198~200)

私がどうして、本書のレビューに『ネトウヨが大喜びする〈嫌中本〉』という、身も蓋もないタイトルを冠したのか、その理由は、本書の最後の最後、その「エピローグ」で明かされる著者の、このいかにも「ネトウヨ」が喜びそうな「政治イデオロギー」を見るならば、容易にご理解いただけると思う。

著者は、本書において、「地政学」的見地に立って、次のように語っていく。

(1)モンゴル人の住む中央アジアは、「地政学」的に見て、東西をつなぐ政治的要衝である。
(2)しかし、そこに住んでいた遊牧民たるモンゴル人は、草原の自然を愛する平和な民族であった。
(3)中国は長らく、覇権的実力を持たない劣等感から、ことさらに文化的優位を誇る「中華思想」の国であったが、覇権的な力を手にすると、劣等感に基づく「中華思想」という「偏見」をそのままに、周辺地域への侵略を始め、先住民族を暴力的に蹂躙していった。
(4)日本は、先の戦争において、モンゴルにまで侵攻し、モンゴルを日本が中国に設立した「満州国」を支える国と位置づけて、短期間だが「宗主国」として比較的寛大な統治を行ったものの、戦争に負けて敗走したまま、その占領責任は取らなかった。
 日本は、元「宗主国」としての責任を思い出して、中国の横暴を批判し、モンゴル民族を支えるべきである。

ごく大雑把な要約だが、こうした内容だ。
著者が、モンゴル人であり、国を追われて、日本で活動している人であれば、こうした内容になるのは、ごく自然なことだと言えるだろう。要は「日本は、モンゴルの側に立って、中国と敵対せよ。そうでないと、いずれ日本も、モンゴルのような目に遭うぞ」ということである。

著者の書いていることは、大筋では正しいだろうし、事実でもあろう。テレビニュースやニュースバラエティー番組を視る程度の人であっても、中国の独善的な「覇権主義の横暴」くらいは、嫌でも知っているだろう。
ちょっと知識のある人なら、それはかつてのアメリカが、南米諸国にやったことに類似して、決してそれに劣る残虐さではない、といった連想も働くはずだ。
つまり、「経済力と軍事力を兼ね備えた大国」というのは、「民族」に関係なく、「覇権」を求めて「非人道的な行為」も辞さなくなってしまうものなのである。悲しいかな、それが「人間」なのだ。

だから、中国批判なら大いにけっこうである。
中国が、国内外で行っている横暴は、中国自身以外は、誰も正しいことだとは思っていないだろうし、心ある中国人だって、口には出せなくとも、心を痛めていることだろう。
中国人の全員が「中華思想」に染まっていて、他人の土地を奪うことを恥じない「強盗気質」の人間などではないという事実は、「大日本帝国の日本国臣民」のすべてが、天皇の「現人神」神話を盲信していたわけでもなければ、「五族協和」や「王道楽土」といった金看板による東アジアへの侵略行為の正当性を鵜呑みにしていたわけでもなかったのと、まったく同じことである。

当然、誰でも自民族を「良く言いたがる」ものだが、どんな民族にも、良い人もいれば悪い人もいる。まさに、ザ・ブルーハーツが『ここは天国じゃないんだ/かと言って地獄でもない/いい奴ばかりじゃないけど/悪い奴ばかりでもない』(「TRAIN-TRAIN」作詞・真島昌利)と歌ったとおりであり、「一面的な描き方」には、「偏見」か「政治的イデオロギーによる恣意的偏向」が練り込まれていると見るのが、冷静な知的理解というものであろう。

言い換えれば、政治的な意図を隠した「一方的な言い分」を鵜呑みにするのは「極めて危険」だ、というくらいの慎重さが、国際政治を考える上では、必須なのである。

だが、「ネトウヨ」には、それがない。
「自分好みの情報」には、無条件に飛びつき、有り難がって「我が正義」の「ソース(論拠としての出典)」としてしまうのが、ネトウヨのネトウヨたるところなのだ。

くりかえすが、中国が極めて危険な覇権国家であり、人道に反する行いを各地で繰り広げている事実を、否定する者はいない。
しかしながら、では、中国を非難する言説が「すべて真実」かと言えば、無論そんなことはありえない。
中国に敵対している国は、当然のことながら、中国に負けず劣らず、プロパガンダ(政治的宣伝)を垂れ流すのだから、「敵対者の言説」を鵜呑みにするのは、いかにも愚かなことなのだ。

だが、この程度のことも考えないで、本書著者も言うとおり「こっちが正義で、あっちは悪党だ」などと思ってしまうネトウヨ同様に、薄っぺらな認識しか持てない人は、決して少なくない。また、だからこそ、お易い「嫌韓中本」なんかも売れるし、たくさん刊行されもするのだ。

その点で本書は、見るからに「政治的な意図を秘めた嫌中本」ではないところが「タチが悪い」と言えるのだが、決してそれは、見抜けないほど巧妙なものでもないというのも、上に引用した著者の「人類観」の表明に明らかだろう。
人類の歴史が「戦争=殺し合いによる覇権闘争」だとシンプルに考えられるのであれば、要は「力が正義」であり「勝てば官軍」であり、「?も方便」となってしまうのは、理の当然なのである。

要は、普通の読解力さえあれば、本書が「政治的に偏った本」であり、その分、眉に唾しながら読むべき本だというくらいのことは、見抜けて然るべきなのである。

そしてさらに言えば、著者の文章(文体)には、独特の「臭み」がある。
ありていに言えば、ルサンチマン(恨みつらみ)に発する怨念の、押し付けがましさが凝っているのだ。

もちろん、中国に酷い目に遭わされた人なのだから、恨みつらみがあるのは当然なのだが、しかし、同じような目にあった人が皆、本書著者と「同じような文体=思考形態」を持つわけではない。
モンゴル人にも、冷静な人、客観的たらんとする人、中国の横暴を憎みながらも「恨みつらみに身を任せても、解決はしない。われわれだって、力を持てば、同じようになるかもしれない」と考える謙虚な人も大勢いて、そういう人の文体は、本書著書のようなものにはならないのだ。

著者自身が「正義と非正義の戦争観」は、人間世界の多面性を隠蔽するための「一面的で一方的な図式化」でしかない、という正しい主張をしているのであれば、本書著者の立場もまた「正義でも非正義でもない」、その混交物だと理解するのが、本書の正しい読み方だろう。

読書人ならば「わかりやすい図式」にそのまま乗ってしまうような読み方にならぬよう、相応の冷静さが求められるのである。

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誠実な信仰における〈学知〉の輝き 一一Amazonレビュー:青野太潮『どう読むか、新約聖書 福音の中心を求めて』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月18日(木)22時30分9秒
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 誠実な信仰における〈学知〉の輝き

 Amazonレビュー:青野太潮『どう読むか、新約聖書 福音の中心を求めて』
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私は、「宗教」を批判的に考察するために、わざわざキリスト教の素人研究を始めたような人間なので、基本的には、キリスト教を含むすべての宗教は「現実に傷つけられた自己を慰撫のための(阿片的な)フィクション」だと否定的に考えているし、当然のことながら、その信者にも厳しい。
有名なキリスト教学者や神学者の著作であろうと、遠慮なく、根拠を示して徹底的に批判してきた。まさに「反論できるものなら、して見せてみろ」という調子で、真っ向から彼らの「偽善的詭弁」を批判してきた、そんな無神論者である。

では、なぜ「宗教」を批判するのかと言えば、それはしばしば宗教が「社会的な害悪を垂れ流す」からである。
無論、宗教が「生きる支え」になることもあるし、信仰によって「人格の陶冶」がなされることもあるだろう。しかし、そうしたことも、「信仰でなければならない」ということはない。「信仰」という「幻想」にすがったほうが、なるほど「お手軽」ではあろうけれども、そのお手軽さのゆえにこそ、宗教は「社会的な害悪を垂れ流す」のである。

しかし、そんな私ですら、本書著者である青野太潮については、基本的に肯定的な評価を与えている。「キリスト教信仰」は否定しているけれども、「キリスト教信仰に真正面から取り組む信仰者」としての青野太潮という「人」は、高く評価しても良いと思っているし、彼の生き方が反映された、彼の「聖書学」も高く評価している。

今回、ひさしぶりに青野の著作を読んだのだけれども、キリスト教についての知識がかなり増えた現在においても、以前に読んだ時と同様、その真摯な信仰姿勢と探究心には、感心させられたのである。

青野太潮の「神学研究」とは、一言で言えば「盲信批判」である。
「神の実在」を信じるのであれば、「おかしなことはおかしい」と認めて「なぜ、このようなことが起こるのか」と疑問を持ち、その疑問の解消に取り組むのは、信仰者として当然の「知的誠実」だ。だが、そんな人は滅多にいない。

ろくに聖書も読まないような「不信心者でありながら、敬虔な信者ヅラをしたがる一般信者」は無論のこと、キリスト教学者として名が通ったクリスチャン知識人であろうと、その信仰に、芯から「誠実」な人は滅多にいない。しばしば、彼らは、そのなまじの頭の良さから、「信仰的懐疑の隠蔽」を自他に試みて、成功してしまう。つまり、「これはおかしい」と思った瞬間に、そこから目をそらし「それは大した問題ではない。他にもっと重要な問題がある」などと、自己欺瞞の知的正当化する。また、頭が良いから、さも自身の信仰には、一点の曇り(懐疑)もない、といった「振り」をするのがとても上手だし、素人を煙に巻く小理屈をひねり出すくらいの芸当は、お茶の子さいさいだ。
一一だが、こんな「ニセ信仰」こそ、彼らの「神への冒涜」だと言うべきであろう。こんな人たちには「信仰者としての誠実さ」という根底が抜けているのである。まただからこそ、良心の咎めもなく「信仰の優等生」を演じて見せることが得意でもあるのだ。

その点、青野太潮という人は、非常に「不器用に真面目」な人だ。だからこそ、信用することができる。

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『 私は、何を「リアル」と考えていくかということが、私たちの信仰においても、極めて重要なことだと考えています。「信仰のゆえに当たり前だと思っていることがら」のなかに、いかに多くの「アンリアル」なことがらがあることか、「イエスさまは死ぬために生まれてきた」などという理解は、そして「イエスさまは、自分は死ぬために生まれてきたのだということを知っていて、その上で事実そのように生きてくださったのだ」などという理解は、その「アンリアル」の最たるものではないだろうか、と私は考えています。イエスは全き人間として生まれ、そして生きられたのだ、という「受肉」の真理と、それは大きく矛盾しているのではないか、と私は考えています。』(P130)

例えば、ここなどは、キリスト教では当たり前(正統)の「教義」として教えられている「贖罪論」を批判した部分だ。「贖罪論って、普通に考えたら、おかしいでしょう。ぜんぜんリアルじゃないじゃないですか」と。

私は、このレビューを、クリスチャン以外の読者に向けても書いているので、簡単に説明しておくが、キリスト教の「贖罪論」というのは、要は「すべての人間は、すべての人間の祖先であるアダムとイブが、神との約束をやぶって犯した罪を、ずっと引き継いでいる。これが原罪。人間は、原罪を帯びて生まれてくるから、何も悪いことをしなくても、生きていく上で、何かとひどい目に逢うのだが、これは原罪を有するすべての人間が、当然受けるべき罰なのだ。しかし、神は、そんな人間を憐れんで、自分の息子であるイエスに、人間の肉体を与え(受肉させ)て、人間を救う救世主(キリスト)として地上に派遣した。そして、人間となったイエスは、全人類が地上で犯した罪を一身に引き受けて、十字架に架けられた、人間代表としての犠牲の子羊として死ぬことで、すべての人間を救ったのである。だから、我々はイエスを主である神として信仰し、罪を犯さない人間にならなければ、せっかくイエスが贖ってくれた罪をまた犯すことになる」といったお話の中の「イエスが、すべての人間の罪を、その身代わりとなって贖って(買い戻して)くれた」という「説」を言うのである。

こう、ごく簡単に説明しても、細かいところを見ていけば、引っかかるところはあるはずだ。たとえば「イエスが贖ってくれたのは、原罪なの? それとも、人間が生まれてから犯した罪の方なの? 両方なの?」といったことだ。
言うまでもなく、イエスが「原罪を含むすべての罪を贖ってくれていた」とすれば、それ以降に生まれた人間は、生涯「罪」を犯さない天使のような生物になっているはずなのだが、現実にはバンバン罪を犯しているし、そもそもキリスト教徒の神父だ法王だといった人でも、大いに人殺しすらしているのだから、イエスが贖ったのは、どうやら「個々が生まれてから、個々に犯した罪だけ」であり「原罪」はそのままのようなのだ。しかし、これは、おかしい。

そもそも、人間が(原)罪を犯して自業自得の罰を受けているとしても、直接、罪を犯したわけでもない「アダムとイブの子孫」まで罪を負わせるのは(やっぱり)可哀想だと、(そもそもそれを科した)神が人間に憐れみをかけて、イエスを派遣したのなら、イエスは「原罪」まで全部きれいに贖ってしかるべきなのだ。だが、実際には「原罪」は残しておいたようで、神のやることは、なんとも中途半端である。
無論、こうした「無理矛盾」を正当化する理屈など、いくらでもひねり出されている。たとえば「人間はできるかぎり努力して、自分の力で罪を克服しなければならない」とかいった理屈などだが、それなら「イエスの派遣」や「贖罪」など、そもそもしなければいいという話にもなって、どっちにしろ「贖罪論」というのは「無理のある理屈」なのである。

それに、キリスト教では「神は唯一」であって、何人もいてはいけない。二人目が出てきたら、片方は「偽物」ということになるはずだ。しかし「父なる神」に派遣された「子なる神(イエス)」って、何? と普通は考えるが、そこはキリスト教的には「触れてはいけないヤバイ部分」であり、つまりは「おかしい」部分、「アンリアル」な部分なのだが、だからこそ「頭のいい神学者たち」は、そこで「父なる神は、子なる神でもあり、聖霊でもある。三つの位格は一つにして、別のものではない。これが三位一体の聖なる真理なのだ。どうだ恐れ入ったか!」と、「三位一体論」なんて屁理屈をひねり出して正当化してしまうのだ。

だが、青野太潮がここで問題としているのは、「原罪」問題でも「三位一体」問題でもない。他にも、大事な問題がある。それは、イエスが「神なのか、人間なのか、両方なのか?」という疑問(「神-人」性の問題)である。
これについての、キリスト教会の公式見解(正統教義)は、「イエス・キリストは、完全なる神にして、完全なる人間である(半神半人みたいな、気味の悪い不完全なものではない)」ということになっているのだが、「完全なる神にして、完全なる人間である」なんてことが、果たしてありえるのか、というのが、当たり前の疑問なのだ。

たとえば、イエスが「父なる神」と意識を完全に一致させた人間、つまり「万能の認知能力をもつ、神である人間」であるとしたら、そんな意識を持っている「人間」は、「完全な人間」であるわけがない。良くて「超能力者」、悪く言えば「バケモノ」であって、どっちにしろ「完全な人間」ではなく、完全に「人間」ではなくなってしまう。

それに、「父なる神」と意識を完全に一致させていたとしたら、「父なる神」による「子なる神」の派遣ってのも、いわば「死後の復活昇天という結末を完全に知った上での、人間だましの白々しい一人芝居(出来レース)」だということになってしまう。
イエスが、ユダの誣告で官憲に捕まる前に、自分の運命を思って苦しみ、ゲッセマネの園での祈りで「この(※ 苦しみの)杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈るも、最後は「しかし、わたしの願うようにではなく、(※ 父なる神である)あなたのみこころのように、なさってください」と、神に運命を委ねたというのも、あるいはその結果、十字架に架けられて「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、人間的な絶望と嘆きの言葉を発したのも、ぜんぶ、予めわかった上でやっている、見せかけだけの「一人芝居」だった、ということになってしまう。(「※」は引用者補足)

一一しかし、そんな神あるいはイエスを、我々は信じることができようか。そもそも、そんな神の意識を併せ持つイエスは「完全な人間」などではないではないか、というのが、青野太潮の「リアル」であり、彼は、この「リアル」が無理なく成立する信仰理解を「聖書の中に見出し得る」と信じて、それに生涯を賭けた「聖書学者という信仰者」なのだ。

無神論者である私からすれば、青野太潮の信仰は、なんとも真っ正直で、哀れをさえもよおさせるものではあるが、しかし、その誠実で真摯な信仰態度には、心底敬服させられる。キリスト教を信仰していること自体は誤りではあるけれど、その人間としての態度は尊敬に値するものなのだ。

そして、結局のところ、あることを「信じるか信じないか」というのは、ジル・ドゥルーズなども書いているとおり「選択」であり「決断」でしかない。ならば、私は、すべての信仰者に対して「信仰するんなら、このように真面目に信仰しろ」と言いたいのである。
ツイッターでやりあった「カトリックのネトウヨ」に対し、私が「信仰してると言うのなら、聖書くらい通読しろ」と言ったのも、「聖書を読んでいれば偉い(立派な信仰だ)」ということではなく、真摯な信仰を持っているのなら、聖書くらい喜んで通読できるはずだ、という意味なのである。それを「聖書だけが信仰ではない」なんて言い訳するのが、カトリックの底辺群なのだ。

だが、聖書を喜んで読み込むような信者は、意外なほど少ない。カトリックだけではなく、プロテスタントの中にさえ大勢いる。「大切なのは聖書に通じることではなく、神を信じる純粋な信仰心だ」云々。

多くの信者は、「宗教」をやってはいても、「信仰(心)」を持っていない。まともな「信仰」を持ってもいないくせに、「私は敬虔な信徒である」などという顔をする「偽善者」だからこそ、彼らはその「信仰を口実」にして、自分を売り込みたがるのであり、その結果「世に害悪を垂れ流す」のである。

閑話休題。ともあれ「まともな信仰者」というのは、滅多にいないというのが現実で、ここでもSF作家シオドア・スタージョンの箴言「SFの90パーセントはクズである。一一ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである」(スタージョンの法則)は、的確に現実を捉えていると言っていいだろう。そうした意味でも、青野太潮の信仰は、もっと注目され、見習われて良いものなのである。

本書には、青野のこうした「誠実な信仰」に発する、明晰かつ「真っ当な言葉」が、いくつも見出せる。(「※」は引用者補足)
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『 実際、パウロのこのような認識は、極めて合理的で、現代的ですらあると思われます。なぜならそれは、問題の所在を知らない者にはその問題の解決の糸口すら与えられることはなく、むしろその解決の道は、ただその問題について真剣に問う者に対して初めて示される、という一般的な事情にもよく似ているからです。一橋大学在学中に洗礼を受けられた経済小説の開拓者と言われる作家の城山三郎さん(2007年に79歳で逝去。晩年は東南アジアへのシルバーボランティア活動などに熱意を注がれた)の、「人生は挑まなければ、応えてくれない。うつろに叩けば、うつろにしか応えない」との言葉は、その消息を見事に物語っています。

 ここで私は、聖書の学びに関してもまったく同じことが言えるのではないかと、自分の神学部における教師としての経験を振り返りながら思わずにはおられません。なぜならば、鋭い問題意識を持って学べば学ぶほど、その人はますます豊かに祝福されていくのですが、ただ漫然と、聖書に書かれていることをそのまま信じていればそれでいいのだ、それで十分なのだ、別に学問など信仰とは関係ないのだから、などと思って神学部に在籍している人は、ますますやせ細っていくからです。「(※ お金でも信仰心でも)持っている人はさらに与えられ(て豊かにな)るが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」とのイエスの言葉は(中略)ある意味で実に過酷な言葉ですが、しかし、ほんとうに真実を言い当てている言葉だなぁと、私はつくづく思わざるを得ないでいます。』(P35~37)

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『 私がしているような歴史的・批判的な聖書の読み方を批判して、「自分は聖書に書かれていることを、すべて素直にそのまま信じています」と言われる方が時々おられます。しかし、ほんとうに誠実に「そのまま」読んでいるのでしたなら、現にそこには大小さまざまの(※ 矛盾にしか見えない)相違が明確に存在しているのですから、むしろこうした「学問」的な疑問を、実際には「素直に」持たざるをえないのではないか、と私には思われます。

 学問の必要性ということはさらに、新約聖書のギリシャ語原典を確定する作業との関連において明確に言えるでしょう。新約聖書のギリシャ語の原典オリジナルは、世界のどこにも存在しておらず、むしろ約6000の、大小さまざまな聖書写本(※ 要は、断片群)だけが存在しています。そしてそれらの写本の厳密な比較検討を通して、オリジナルはきっとこうだったにちがいない、という「学問的で緻密な再構成の作業」をしなくてはなりません。その結果として、ギリシャ語校訂本を私たちは持つことができています。しかしそれでもなお、それは決して最後決定的なものではありえず、そのような厳密な本文確定作業は日進月歩ですので、その校訂本は、最近ではおよそ20年に一回くらいの頻度で、新しい版に更新されていかなくてはなりません。つまり「原典」が動いているのです。』(P39~40)

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『 恩師エドアルト・シュヴァイツァー先生は、しばしはこんな話をしてくださいました。

「つまらない説教を聴くよりもひとりで山に登って大自然のなかで神と対話するほうがはるかにましだ、などと言う人が時々いますが、しかしその場合には人は、自分の聞きたい声しか聞こうとしないのが常です。ですから、どんなに退屈であっても自分の思いに逆らった、思いがけない内容を語ってくれる可能性のある説教を、やはり人は大切にしなくてはならないのです。」』(P61~62)

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『「青野先生はキリスト教の『常識』にいつも挑戦されているのですね」といった類のことを言われることがあります。しかし私が挑戦しているのはむしろ、少しでも新約聖書学の「常識」を日常のキリスト教信仰のなかに取り入れたい、ということです。しかしそれらふたつの「常識」は、多くの場合、厳しく相対立しているので、ことはやっかいです。』(P66)

最後に、私の言葉。

「真の信仰は、知の光を怖れない。むしろ、知の光を求めるだろう。そして私は、真の神を怖れはしない。偽の神をこそ怖れるがゆえに、それを退治せんとしているのだ」。

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DEATH REVIEW あるいは「Cキラ」としてのネトウヨ :小畑健、大場つぐみ『DEATH NOTE 短編集』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月18日(木)22時28分39秒
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 DEATH REVIEW あるいは「Cキラ」としてのネトウヨ

 Amazonレビュー:小畑健(著)、大場つぐみ(原著)『DEATH NOTE 短編集』
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「キャラクターの面白さ」で作品を読まない私にとって、『DEATH NOTE』とは、

 (1)高度な知的駆け引きを犀利に描いた、その優れたミステリ性
 (2)「正義とは何か」という重厚なテーマ性

という2点において、傑出した作品であった。
だから、今回の短編集は、(1)の点では、物足りなかった。短編集なんだから仕方がないとは言え、それほど期待が高かったのである。

しかし、(2)の点で、面白いと感じたのは、冒頭に収められている「Cキラ編」だ。

この短編は、デスノートを手に入れた何者かが、キラを気取って「安楽死を望む高齢者」を殺していくというストーリーで、この「新たなキラ」に対しては、当然のことながら、世間の評価が大きく分かれることになった。

一方は、「否定的評価(安楽死殺人否定論)」としての「それは所詮、人殺しでしかない」という「正論」。
そしてもう一方の「肯定的評価(安楽死殺人肯定論)」としては、「苦しいだけの生を安楽に終えたいと、いわば自分から死を切実に願っている人たちを、苦しませずに死なせてあげるのだから、ぜんぜん悪いことではないじゃないか」というのと、もう一つは「生きていても、どうせ社会のお荷物にしかならない高齢者には死んでもらった方が良い。これは、若者を中心とした、皆の本音だろ」と、肯定的評価の中での「タテマエとホンネ」両面からの支持である。

デスノートによる「安楽死希望の高齢者」の殺害を支持する若者たちの中からは、やがて「若い自分だって死にたい」と望む者も出てきて、「新しいキラ」は、この望みまで叶えてやる。彼の「安楽死」理論からすれば、年齢は本質的には問題とならないからだ。
しかし、「新しいキラ」のこうした選択は、はたして肯定できるものなのだろうか?

それこそ、「ホンネ」で言えば、肯定できる人は大勢いるだろう。だからこそ、大場つぐみは、アクチュアルな問題として、この「安楽死」問題を採り上げたのだと思う。

しかし、この作品は、単に「安楽死問題」で終わるものではなく、いわば「ネトウヨ」問題とも深く絡んでいると言えよう。
どういうことかと言えば、本作は「たまたま得た強力な(数の)力によって、自分はネット上の匿名の陰(安全圏)に隠れたまま、独りよがりな正義を振り回し、神を気取りたがる」人たちの問題、を描いているからだ。

エルを継いだニアが、この匿名の犯人を「Cキラ」と呼んでバカにし、興味を示さなかったのは、この犯人が、このように「頭の悪い、独りよがりの小心者」でしかなかったからに他ならない。
一人では何もできないくせに、デスノートという「強力なツール」を与えられたことで、自分が「神」になったがごとく振舞うことを恥じない、身の程知らずのバカ。こんなバカは、バカだからこそ手に負えない存在ではあるのだけれど、こんなバカの相手は、「知的な闘争」に魅力を感じるエルの仕事でないことは、明らかだったからである。

では、ニアはどうしたか。
やっとのこと重い腰を上げたニアがやったのは、世間に向かって「私は、この事件に関与しない」と、まず公言すること。これが何を意味するのかというと、犯人への「お前は自分を、神のごときキラの後継者だなんて思っているのかもしれないけど、それはとんでもない勘違いだ。キラの好敵手であったエルに言わせれば、お前なんて、単に頭の悪いクソ野郎でしかない。だから、お前のことなんか、エルは相手にしない」という、最大限の「侮辱」表明である。

だからニアは、最後に犯人へのメッセージとして、一言「この人殺し」という、侮蔑の言葉を投げつける。
言うまでもなくこれは「お前なんか、頭が悪いからこそ、つまらない理屈で自分の犯罪を正当化しているだけの、どこにでもいる人殺しでしかない。つまりお前は、偽キラなんだよ。このクソ馬鹿が」という意味である。

なぜ、ニアが「この一言」の「心理攻撃」を「エルらしくない」と考えたのかと言えば、それは無論「高度な知的闘争」ではなく、敵がバカであることを前提とした「感情的な関与として攻撃」だったからである。先代のエルなら、本当にまったく興味を示さず、目もくれなかっただろうと考えたからだ。

本書で描かれた「Cキラ」が、「ネトウヨ」を象徴する存在であるというのは、彼の「顔」が描かれないことでも明らかだ。
彼は「個人」ではない。「群体としてのネトウヨ」を象徴する存在だからこそ、彼には「顔」が与えられていない。
そして、彼が「ネット」にこだわるのも、本件犯罪の必然性というよりも、彼の「武器」が「ネット(の匿名性)」であることを示している。「ネトウヨ」という存在が生まれえたのは、「ネット」という「デスノート」を手にし得たからなのである。

「Cキラ」は、ニアの一言、「この人殺し」という断定によって、自殺した。それは、キラと同様の神的存在と認めるエルが、彼を「新しいキラ」とは認めず、単なる勘違いのバカだという評価を下して、その「自己幻想」と打ち砕いたからである。

しかし、現実の「Cキラ」は、もっと頭が悪いから「お前は、単に利口ぶっているだけの、頭の悪い勘違い人間だ」と指摘したところで、決して自身の「バカさ=勘違い人間ぶり」に気づくことはないだろう。彼らは、それほどまでにバカであり、『DEATH NOTE』の世界のバカよりも、現実世界のバカの方が、数等「頭が悪い」のだ。

それに現実世界には、「ネトウヨ」を反省させるほどの、「神」のごとき存在は、実在しない。
仮に「ネトウヨ」が「神」と呼ぶような存在がいたとして、その彼らが「ネトウヨ」に対して「君たちは、単なるバカだよ。勘違いするな」などと「本当のこと」を言ったとしても、「ネトウヨ」たちは、それで反省するどころか、逆に、彼らをバカにした「神」たちの方こそ「神ではなかった」と格下げにして、自己防衛をするだけであろう。
事ほど左様に、「本物のバカ」とは「頭が悪く」て「自省」のかなわない(自己批評性を持てない)存在であり、私たちは、そんな現実を生きなければならないのである。

だが、それでも「言葉」は決して、無力ではない。
「正しい(的を射た)言葉」は、一種の「呪い」であり、必ず「人の心に爪痕を残す」ものである。即効性は無いとしても、決して無力ではないのだ。だからこそ私も、このように「デスレビュー」を書いているのである。

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ブルーハーツの遺した〈重い荷物〉を 一一amazonレビュー:陣野俊史『ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月18日(木)22時26分13秒
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 ブルーハーツの遺した〈重い荷物〉を

 amazonレビュー:陣野俊史『ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説』
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本書は、音楽評論ではなく、ザ・ブルーハーツ(以下「ブルーハーツ」と略記)の楽曲の歌詞を「文芸批評」の形式で論じた、半評伝的な長編評論となっている。
これは著者が「文芸評論家」だからなのだが、端的に言って、本書は「文芸評論」として駄作であり、著者の文芸評論家としての力量も二流だと断じて良いだろう。したがって、本書は読むに値する作品ではなく、その理由をくどくどと書く価値さえないのだが、理由を示さないで完全否定するのは、さすが著者に申し訳ないので、その理由を簡記した上で、ブルーハーツについての私見を述べたいと思う。

本書著者の「文芸評論家」としてのつまらなさは、おおむね次の3点にまとめられよう。

 (1)分析の凡庸陳腐さ
 (2)もったいぶった言い回しと、無駄なペダントリー(衒学)
 (3)批評家としての覚悟のなさ

(1)については、例えば「リンダリンダ」(作詞・甲本ヒロト)を象徴する「ドブネズミの美しさ」とは、いったい何を意味するのかという、著者自ら掲げた「設問」の回答が、(さんざ持って回ったあげくに)結局は「甲本の実体験に基づく、本物のドブネズミに対するリアルな美的実感だろう」という、何のひねりもないところに落とし込まれてしまったり、「手紙」(作詞・真島昌利)に登場する「ヴァージニア・ウルフのメノウのボタン」とは何なのかという設問については「ウルフの全集を読んでみたが、結局、瑪瑙が一度だけ登場するけれども、それでこの歌詞の謎が明確に解けたわけではない」といった締まらないオチになったり、といったことである。つまり、結論としては何の解明もなく、わざわざ分析してもらうまでもない「当たり前の話」にしかなっていないのだ。
言うまでもなく、「文芸批評」とは「解釈」であり、それは「絶対客観的な正解」を提示しうるものではない。あくまでも、作品と評者の対決において見出される「秘められた可能性の説得力」でなければならない。ところが、本書著者には、そうした能力が皆無なのだ。

(2)については、(1)で示したように、要は、本書著者には「文芸評論家」としての分析能力(読解能力)がないので、「いかにも評論家でございという、勿体ぶった言い回し」や「衒学」でもないことには、評論作品としての体裁すらなさないレベルだ、ということである。
実例を上げれば、前述の「ウルフ全集を全部読みました」とか、必要のない「太宰治風と坂口安吾風」とか「ユダヤ人哲学者レヴィナス」の無駄に長々とした引用とか、「小説家ばかりではなく、詩人も挙げておきます」とか、こんなものは「文学ファン」や「文芸評論の読者」にとっては、幼稚な「虚仮威し」にしかならない。こんなもので感心するのは、あまり「文学」や「哲学」の本を読まない、音楽ファンだけだろう。

(3)については、結局のところ、本書著者は、編集者の意向を忖度し「ブルーハーツを褒める」ことを前提にして、本書を書いている、ということだ(その方が売れる。今さら批判論を書いても、売れないに決まっているからだ)。
つまり、本書著者は「対等の同じ人間」として「ブルーハーツ」に向き合ってはおらず、「信者をおおぜい持つ、神話化されたロンクバンド」として、その「信者向け」に本書を書いている、ということである。
これも言うまでもないことだが、評論家というのは「提灯持ち売文芸人」ではなく、批評対象と自身の実存を賭けて対決し、その結果として、賛嘆したり批判したりする者でなければならない。それなのに、本書著者には、その覚悟が、あるいは、その自覚が全くなくて、実に軽薄なのである。

以上のようなわけで、必然的に本書は「薄っぺらなブルーハーツ論」にしかなっていないので、一般読者は無論、ブルーハーツファンにとっても、読むに値しない一冊だ、ということになる。
ただし、何がなんでも「ブルーハーツを、褒めてくれば嬉しい」とか「ブルーハーツを、批評用語や権威筋の言葉で飾り立て、権威づけてくれれば嬉しい」というような、ブルーハーツの盲信者向けにはなるかもしれないが。

 ◯ ◯ ◯

さて、ここからは「私のブルーハーツ論」を可能なかぎり簡単に紹介したい。また、そのことで、本書著者を批判した意味も、より鮮明になると思う。

私は「ブルーハーツのファン」というほどではなく「けっこう好きだ」くらいの人間である。もともと私には音楽を聴く習慣がほとんどなく、もっぱら「活字と画像」の人間なのだ。
「ブルーハーツ」を知ったのも、実質的には、一時期ハマった「カラオケ」で、友人が「リンダリンダ」を熱唱したのがきっかけだった。音楽を聴く趣味はなくても、歌うことは子供の頃から好きだったので、友人が熱唱するのを聞いて、歌って気持ち良さそうな曲だと、軽い気持ちで興味を持ち、二枚組のベストアルバムを買って聞き込み、そこでやっと「ブルーハーツ」というバンドの全体像を初めて知ることになる。
そしてそれは、ブルーハーツが解散した、ずっと後の話である。

そんなわけで、私自身、ブルーハーツの「音楽性」を云々できるなどと思ってはいない。だが、歌詞から読み取れるその思想性(政治イデオロギーの話ではない)ということについては、おのずと感ずるところもあり、その点で「好感」を持ったのだ。
ちなみに、私がブルーハーツに出会う以前、唯一気になっていた曲が「青空」であったと、後でわかる。つまり私は、「元気なバンド」としてブルーハーツと表面的に出会ったけれども、実はそれ以前に「悲しみをかかえたバンド」として出会っていたのである。

本を一冊書くわけではないので、早速、「神様」の問題からブルーハーツを論じよう。
本書でも、ブルーハーツの「解散」問題とからめて語られながら、結局は甲本ヒロトの供述どおりに「それが解散の主たる原因ではない」だろうと本書著者も是認している、かの「信仰問題」である。

本書でも指摘されているとおり、ブルーハーツの楽曲においては「神様」は、讃嘆や信仰の対象ではなく、むしろその絶対性や超越性に対する、水平性からの反発や揶揄、からかいの対象となっている。ところが、メンバーの一人が「幸福の科学」の信者となり、真剣に「神を賛嘆する信者」の立場に立ってしまった(垂直性を受け入れた)。当然のことながら、そこで「絶対者」に対するスタンスの違い、による対立が生じた。

だが、問題は「意見の対立」「立場の違い」などではなく、ましてやメンバーの入信したのが「幸福の科学」という胡散くさい新興宗教だった、といったことではない。
問題の核心は、人間集団の中で当然起こりうる「意見の対立」「立場の違い」に対して、ブルーハーツは正面から向き合いそれと「対決」することを避けて、「解散」という逃避を選んでしまった事実なのである。

本書著者である陣野俊史の指摘を待つまでもなく、ブルーハーツファンの誰もが知っているとおり、ブルーハーツの魅力は「抑圧的な権威や権力に対する、威勢のいい反抗」であり、その一方での「弱者に対する共感と連帯の意志」だと言っても良いだろう。ブルーハーツの魅力は、極めてシンプルでわかりやすいものだ。
だが、もう一つ見落としてならないのは、ブルーハーツには「孤独」や「自己嫌悪」といった「負の感情」を表出したものも決して少なくないという事実であり、これがあるからこそ、ブルーハーツは単なる「元気な跳ねっ返り(陽)」では済まない、人間的な「陰影の深さ」という魅力をも持ちえていたのである。

しかし、こうした「陰陽の両義性」が突き詰められることは、決してなかった。
例えば、「チェインギャング」(作詞・真島昌利)で『僕の話を聞いてくれ/笑いとばしてもいいから/ブルースにとりつかれたら/チェインギャングは歌いだす/仮面をつけて生きるのは/息苦しくてしょうがない/どこでもいつも誰とでも/笑顔でなんていられない』という歌詞が、いったい何を意味するのか。
多くのファンは、それを突き詰めることを怖れながらも、真島昌利の、あるいはブルーハーツの「正直さ」を賛嘆することで、満足していたのではないだろうか。

だが、言うまでもなく、この歌詞における『仮面』とは、ブルーハーツの、「元気者」であり「優等生(優しい弱者の味方)」でもあるという、広く認知された「セルフイメージ」のことに違いなかろう。
ブルーハーツの作品から、ファンはそうしたイメージを持つし、それは当然、ブルーハーツ自身が、自分たちをそうしたものとして歌ったからこそ、そのように受け取られたのであって、決して不本意なものではなかったはずだ。みんなから「あいつらは、優しい反抗者だ」という一種の「文化ヒーロー」的なイメージを持たれ、愛され賛嘆されて、悪い気がするはずなどないし、そうした肯定的なイメージが広く受け入れられたからこそ、彼らは人気バンドとして「売れ」もしたのである。
しかし、そうした「金ピカのヒーローの仮面」は、当然のことだが、「普通の人間」には重荷である。

昔『レインボーマン』という子供向け特撮テレビドラマがあって、そのエンディングが、主人公の青年の想いを歌った「ヤマトタケシの歌」(作詞・川内康範)で、こんな歌詞だった。
『どうせこの世に 生まれたからにゃ/お金もほしいさ 名もほしい/自分のしあわせ 守りたい/ぼくだって人間だ/ぼくだって若いんだ/けれども その夢 すてさせる/この世の悪が すてさせる』

こうした想いは、ブルーハーツのメンバーだって、基本的には同じだったはずである。
この「ヤマトタケシの歌」では、主人公が「悪の組織と戦う変身ヒーロー」だったから、やむなく自分の「青春の喜び」を犠牲にしたけれども、もともと「好き」でロックバンドを始めたブルーハーツのメンバーは、「命を賭けて悪と戦うヒーロー」でなどあり得ないし、「聖人君子」でもあり得ない。
それこそ『あれもしたい/これもしたい/もっとしたい/もっともっとしたい』(「夢」作詞・真島昌利)で、女の子も引っ掛けたいし、金も名誉も賛嘆も欲しいだろう。しかし、それを露骨に語ることはできない。ファンの女の子を片っ端からベッドに引っ張り込んでいたとかいった週刊誌ネタにでもなれば、ブルーハーツのイメージは地に堕ちてしまう。

しかしまた、だからこそ彼らは、自身で予防線的に「俺たちは、そんなご立派なもんじゃないよ。聖人君子なんかじゃない」と、その作品の中で語り、そういう「いい加減さ」もあるんだと、日頃の態度の中で精一杯、しかしイメージを壊さない程度に、アピールをしていたのである。
そのことで少しでも『息苦しくてしょうがない』拘束を緩めようとしていたのだ。

しかし、それはまた、あくまでも「イメージを壊さない範囲での、アリバイ作り」でしかなかった。
ファンたちは「あんなこと言ってるけど、あいつらの本質は、優しさであり、真面目さであり、自由なんだよ」と思ってくれ(フォローしてくれ)るから、その「夢(イメージ)」を壊してしまわない範囲での、ささやかな「抵抗」でしかなかったのだ。
そして、これが、私の言う「ブルーハーツは、正面から問題に向き合うことを避け続けた」ということの意味なのだ。

彼らは(主に、甲本と真島かもしれないが)、自分たちの「二重性」あるいは「両面性」を、「裏表二面性」のようにも感じれば、「偽善」のようにも感じていたことだろう。「俺たちは、そんな立派なもんじゃないし、じっさい歌詞にして発表することなんかできないような、弱さや汚さも持っているんだよ」と思っていただろう。そして、そうしたジレンマに発する苦悩を、「チェインギャング」のように『息苦しくてしょうがない』という弱音として吐き出したり、また気を取りなおして『ブルースをけとばせ』(「ブルースをけとばせ」作詞・真島昌利)と自身を叱咤したりもしたのだろう。
だが、いずれにしろそれは、己の矛盾と徹底的に向き合う、ということではなかった。矛盾葛藤を止揚合一するのではなく、言わば「双極性障害(躁うつ病)」的に表現して、その場をしのいでいたに過ぎないのだ。

だが、そうした「モラトリアム(宙吊り)」状態が永続することはなく、やがて否応のない「決断」を突きつけられた。「お前たちの〈神〉とは何か?」という、根源的な問いである。

これは単に「メンバーの一人が、新興宗教にハマって困った」という話ではない。
問われているのは「ブルーハーツの神は、本物なのか?」という問いなのだ。「自由」や「優しさ」や「反権威」というのは、「商品(のレッテル)」ではなく、ブルーハーツが命をかけることのできる「神」だったのか、という問いだ。

無論、甲本や真島には「そうだ。自由や優しさや反権威が、俺たちの信じるものだ」とは、言い切れなかっただろう。なぜなら、彼らは、それに憧れながらも、それを「重荷」とも感じていたし、その意味では「仮面」でしかないと思っていたからだ。
つまり「俺たちは、自由や優しさや反権威の、ニセ信者だった」のだという「やましさ」があるからこそ、素朴に「超越的な神に、全てを委ねることを決めた」メンバーを、説得したり論破することなど、できる話ではなかったのだ。自身の「信仰」に疑いを持っている者が、どうして「他人の信仰的確信」と、真正面から「対決」することなどできようか。

だから、最後のアルバム『PAN』で、甲本は『天国なんかに行きたくねえ』(「ヒューストン・ブルース」作詞・甲本ヒロト)という「独り言」を、自身を守る呪文のように繰り返すしかなかったのである。
ブルーハーツの「神」は、「幸福の科学」の「神」と「対決」して、仲間を救い出すほどの力を持っていなかったのだ。そして、そんな「弱さ」すらも「押しつけない優しさだ」と自己弁護するしかなかったのである。

つまり、「ブルーハーツの解散」とは、彼らの「神」が「半端もの」であったことを、決定的に暴かれてしまった結果だ、と言うことができよう。
もう、彼らは「彼らの神様」をナイーブに信じている「振り」をすることが出来なくなったから、彼らは「ブルーハーツの神様」を葬るしかなかったのであり、「極めて倫理的な信仰(という神)」を葬送した後のメンバーたちは、晴れて「普通の弱い人間」として生きることができるようにもなったのである。

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もちろん、以上は、私の「解釈」に過ぎない。こうした「解釈」に同意できないファンは、大勢いるだろう。だが、これは「多数決」の問題ではない。「多数者の専政」は許されない。それは、誰よりも「ブルーハーツの神様」が許さない「醜態」でしかないだろう。

だから、私たちは「独りで」立たなければならない。そして「ブルーハーツの神様」を引き受けて、ブルーハーツが終焉を迎えた地点から、彼らの遺志を継ぎ、その「ブルーなハート」を抱えながら、また走り出さねばならないのだ。

私が、陣野俊史の『ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説』が、「ブルーハーツ論」としてお話にならない駄作だと評価するのも、同書が「ブルーハーツ」との「真剣な対決」試みることもなく、薄っぺらな「神話の追認」に明け暮れるものでしかなかったからである。
「ブルーハーツ」が私たちに遺していったものは、決してそんなお易いものではない。そんなに「軽い荷物」ではないのである。

ちなみに、私の誕生日は、真島昌利と甲本ヒロトの間の、1962年10月だ。
この本を読むまで、彼らの生年を気にしたこともなかったし、音楽に興味のなかった私は、彼らとは全く違った人生を歩んできたのだが、「もう一人の同世代」として、私は、「猫なで声の賛嘆」ではなく、彼らのケツを蹴とばしてやりたいと思ったのである。「ガンバレ!」と。

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彼らは、私たちの〈似姿〉である。一一amazonレビュー:中西嘉宏『ロヒンギャ危機 「民族浄化」の真相』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月18日(木)22時24分58秒
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 彼らは、私たちの〈似姿〉である。

 amazonレビュー:中西嘉宏『ロヒンギャ危機 「民族浄化」の真相』
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「ミャンマー国軍による、ロヒンギャに対する虐殺行為」があったらしいというのは、4年前の話だから、その当時にも耳にしていたはずだが、当時の私は、ミャンマーが民主化されているのか、まだ軍事政権のままなのかもよく知らなかったので、国軍が少数民族を虐殺したと聞いても「可哀想だけど、ありそうな話だ」と思っただけで、さほど気には止めなかったと思う。

私が「ロヒンギャ問題」を意識し始めたのは、「セーブ・ザ・チルドレン」(子ども支援活動を行う、民間・非営利の国際組織)による寄付募集のテレビ広告がなされ始めた、1年ほど前からだったか? あるいは、もっと前からだったのか。
それすら定かではないが、とにかく「幼い弟を連れて、虐殺を逃れ、必死の思いで難民キャンプにたどりついた」という「ロヒンギャの少女」の姿が、あまりにも印象的だった。この時初めて「ロヒンギャ」は、生身の存在として、私の前に立ち現れた、と言ってもいいだろう。きっと、多くの日本人にとってもそうだったのではないだろうか。

その一方、ミャンマー民主化の象徴であり、ノーベル平和賞受賞者のアウンサン・スーチーが、「ロヒンギャ虐殺問題」について問われたが「国軍を責めなかった」というので、国際社会から「失望した」「スーチーは変わったのか」と非難されているというニュースも、何度か耳にしていて、スーチーに好印象を持っていた私は「真相はどうなのだろう」という引っ掛かりを覚えていた。

そんな時に、本書が刊行された。2021年の1月の末、奥付だと「2021年1月25日」付である。
その時、読んでいた何冊かの本を読了して、本書を読み始めた途端に「ミャンマーで軍事クーデター発生」というニュースが飛び込んできた。「ああ、そうか。ミャンマーはいちおう民主化されていたけれど、まだ軍が強い力を持っているというような話だったな。ということは、また軍事政権に逆戻りしたのか。これではロヒンギャ問題も後回しになってしまうだろう。スーチーが、ロヒンギャ問題で、軍を厳しく非難しなかったのも、こうなる恐れがあったからなんだろうな」というくらいのことは、すぐに察しがついた。

そういう前提で、私は本書を読み進めることになった。まず知らなければならないのは「ミャンマーの歴史」であり「民族問題」であることは明らかだ。
そもそも私は「ミャンマーとは、昔のビルマ」だということもハッキリとは認識していなかったし、ニュースによく出てくる「ヤンゴンとは、昔のラングーン」だということも知らなかった。当年58歳の私には「ビルマ」「ラングーン」の方が耳慣れている。しかし、「ビルマと言えば、中井貴一が主演した竹山道雄原作映画『ビルマの竪琴』のビルマであり、黄色い袈裟を身に付けた仏教僧侶の国だ」くらいの印象しかなく「アウンサン・スーチーのミャンマー」とは繋がっていなかった。また、「ヤンゴン」であれ「ラングーン」であれ、どこの国の町なのかも理解していなかった。
結局、「ミャンマーというのは、スーチーの民主化運動と軍事政権の国」であり、それに最近になって「少数民族ロヒンギャへの虐殺問題」が加わった、そんな国という印象しかなかったのだが、たぶん、多くの日本人にとっての「ミャンマー」とは、その程度のものだったのではないだろうか。「聞いたことはあるけれど、ほとんど知らない国」だったのである。

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本書で「ミャンマーの歴史」を学び、そこに「戦争を遠因とした、宗教がらみの民族紛争」のあることを知って、「これは容易な問題ではないな」と理解した。
ミャンマーは、ビルマ(族)人を多数派としながらも、多くの少数民族を抱えた国だ。それだけでも、地域による民族の偏りによって、民族問題の絡んだ「中央と地方」の問題が存在している。その上に、国民として認められていない「不法難民としてのロヒンギャ」が存在するのだ。つまり、ミャンマーは、多数派ビルマ人(国民)と少数派ビルマ人(国民)の間にも対立があり、その外に、さらにロヒンギャの問題がある。

また、そうした対立には、宗教が深く絡んでいる。ミャンマーは圧倒的な仏教国だ。
たまたま先日、日本の仏教学者で浄土真宗の僧侶である佐々木閑の著作を4冊読んだのだが、そこで「理想的な仏教=釈迦の教えの忠実な仏教」の形式として語られていたのが、ミャンマーもそうである、上座部仏教(小乗仏教)による出家僧侶集団(サンガ)である。
サンガの出家僧侶たちは、もっぱら修行をする脱俗の存在であり、自分たちの生活を支えるための仕事(労働)をしてはならない。彼らにできるのは、修行の一環としての「托鉢」だけであり、彼らの生活は、「托鉢」や「寄進」などによって在家信者から「施されたものだけ」で支えられているのである。しかも、ミャンマーでは全人口の1パーセント弱が出家者である。彼らの場合は、日本の生活保護とは違い、若くして出家し、そのまま一生、信者の施しで生涯を終える出家者も多いのである。つまり、こうした「サンガ」が成り立つのは、それだけ国民の信仰心が強く、僧侶への尊敬の念が強いということであり、裏を返せば、他の少数派宗教とは、縁が薄く、理解にも乏しいということだ。
そして、問題のロヒンギャは「イスラム教徒」なのである。

歴史的経緯のからんだ「民族と宗教」両面からの「怨恨」と「偏見」。これだけでも、ミャンマーを統一的で民主的な国民国家として運営していくのは、容易なことでない、というのがわかる。
しかも、ミャンマーは、イギリスの植民地支配から「独立闘争」によって生まれた国(スーチーの父親は、建国の英雄である)なので、「実力行使」は「悪」ではなく、だから「軍隊」が強い。「力のない正義は、正義に非ず」という感覚が、軍人たちの中には、きわめて正当なものとして生きているのである。だからこそ「民主化」は容易なことではない。

2017年の「ロヒンギャ虐殺問題」というのも、もとは差別迫害されている少数民族ロヒンギャの権利のために戦う、ロヒンギャの(自衛的)武装勢力が、ミャンマーの警察や軍の施設を数度にわたって攻撃したことに、端を発したものだ。つまり、国軍にすれば、テロリストの攻撃に対して、自衛的に掃討作戦を実施しただけなのだ。だが、そうした作戦行動の中で、ロヒンギャ側の「武装勢力」と「民間人」の区別が厳密になされなかったために、もとからあった「差別的な偏見」のせいで、無差別的なロヒンギャ虐殺が起こり、大量の難民を発生せしめてしまった、(らしい)のである。

つまり、私たちは「少数民族ロヒンギャへの虐殺事件」と聞くと「ミャンマー国軍が、無抵抗なロヒンギャの(民間)人たちを、国内からの排除目的で一方的に虐殺した」と、そうイメージしがちだが、ことはそんなに簡単ではない。ここにも歴史的な民族対立による「暴力の連鎖」があったのであり、国軍は国軍なりに「被害者意識」を持っていたのであるし、死者も出しているのである。つまり、ミャンマー国軍のやったことは、かつての日本軍やアメリカ軍も「戦地」でやったことなのだ。

だからこそ、すでに民主政権に移行して、最高指導者となっていたスーチーが、「民主主義ヒューマニズム」だけを持って「国軍を非難」しなかったのは、むしろ当然だとも言えよう。
本書でも紹介されているとおり、スーチーは、決して「虐殺はなかった」「国軍の行動に問題はなかった」などと(日本の保守政治家のようなことを)言っているのではない。「個々の問題はあったし、それは事実関係を明らかにして、処罰すべきは処罰しなければならない」と認めた上で、しかし「国軍の行為は、西欧世界が非難して言うような、民族浄化を意図して行われたジェノサイドには、当たらない」と言っただけなのだ。一一これは国政を預かる者の発言として、非常に真っ当な「正論」であると、私は思う。

まして、ミャンマーでは「平和裏に民政化」するにあたっては、当然のことながら「国軍の権利は、手厚く保証された」。保証されなければ、国軍が「民政化」を受け入れなかったのは明らかだし、国軍の地位を保全してでも、ひとまず民政化を実現するという選択は、決して間違ってはいなかったと思う。まずは、民政化して、国民の声が反映される社会体制を「徐々に構築」し、その上で「徐々に」国軍の政治的な力を削いでいこうと考えた、アウンサン・スーチー率いる「国民民主連盟(NLD)」の現実的な選択や判断を、責めることのできる者など、世界のどこにもいないだろう。

だが、国軍が力を保持したままの状態で民主化を進め、徐々に「国軍の力を削ぐ」というのが、容易なことでないのは言うまでもない。軍人だって馬鹿ではないのだから、自分たちの立場があやしくなれば、いつでもクーデターを起こす準備はあったのだ。そのための「民政化時の地位保全」だったのである。

だから、スーチーが「国際世論」からバッシングを受けるのを覚悟の上で、「ロヒンギャ虐殺問題」で「国軍」を一方的に責めることをしなかったのも当然で、そのスーチーを責める「国際世論」の方が、むしろ非常識なのだとさえ言えるだろう。
もちろん、「国際世論」は、ロヒンギャについて尋ねられたインタビューで、スーチーが「ロヒンギャは国民ではない」と冷たく断じたという事実をして「スーチーもまた、もともとロヒンギャに偏見を持っていたから、国軍の暴挙を黙認したのではないか」と疑い、そのせいで「スーチーには失望した」「裏切られた」という思いから、スーチーを責めてしまったのだろうとは思う。
しかし、再び軍事クーデターが起こって、民主政府が転覆してしまえば、もはや「少数民族問題」では済まなくなるのは、状況的に明らかだったのだから、やはり、スーチーを責める「国際世論」というのは、あまりにも「ミャンマーの現実について、無知だった」と言うほかないだろう。

そして、案の定、危惧された「軍事クーデター」が現実のものとなってしまい、「ロヒンギャ虐殺問題」の解明解決などは、完全に吹っ飛んでしまったのである。

今日のテレビニュースでも報じられていたが、ミャンマー国民の多くはスーチーを支持している。逮捕されたスーチーの解放を求めて、抗議運動をしている。つまり国民の多くは、民主化を望んでおり、軍事政権に批判的である。
しかし、そんなミャンマー国民の多くが、「仏教徒」であり、少なからぬ者が、今も「ロヒンギャ」に差別意識を持っている、という現実を忘れてはならない。

「ミャンマー」の問題は、単なる「軍事独裁政権 VS. 民主主義を望む国民」の問題では済まない。
スーチーを支持する「民主主義者」の中には、本書でも紹介される、差別的で過激な保守主義「仏教僧侶」を支持する者、つまり「イスラム教徒であるロヒンギャは出て行け」と叫ぶ者もいる、という事実を忘れてはいけない。
「民主化」されただけでは「ロヒンギャ問題」か解決されない、と言うよりも、民主化を望む国民の多くに「ロヒンギャ」に対する差別意識があるからこそ、スーチーも「表立ってロヒンギャを擁護することができない」という蓋然性だって低くないのだ。なにしろ「民主主義」なのだから、国民から嫌われてしまっては、政権は担えないからである。

このような、複雑かつ困難な問題を、ミャンマーは、今回の「軍事クーデター」以前から抱えているのである。
だから、私たち「外野」は、「ミャンマーの現実」をよく知らないままにヤジを飛ばして、民主化の脚を引っ張ったりしないようにしなければならないだろう。そのためにも必要なのは「最低限の知識」であり、本書で提供されるものとは、まさにそれなのだ。

私たち一般の日本国民が「ミャンマーの厳しい現実」「ロヒンギャの悲惨な現状」を知ったところで、できることは多寡が知れているだろう。だが、だからと言って、そうした現実から目を背け、知らん顔を決め込むことほど、非人間的なことも、また無いのではないだろうか。

だから、せめて「この現実」を知って、痛みを分かち合うことくらいはしていいのではないか。
そして、せめて、わが国において、同じようなことをする「加害者にならない」よう自戒するくらいのことは、すべきではないか。
私たちの国においても「少数者差別」は横行しているし、「力の正義」を振り回す政治家も少なくない。そしてそれを黙認しているも同然の私たちが、どうして、他国のことだからといって、安心して、偉そうに注文をつけることなどできよう。

私たちは、もしかすると「民主主義化を望むミャンマー国民」や、それに応えようと努力する「スーチーら」と同じであると同時に、「ミャンマー国軍の軍人」たちや「ロヒンギャを差別するミャンマー国民」とも同じかも知れず、またそれでいて、「ロヒンギャ」と同じ扱いを受けかねない「存在」なのかも知れないのである。

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我〈闇の時代の騎士〉たらんとす 一一Amazonレビュー:江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 2月18日(木)22時23分28秒
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 我〈闇の時代の騎士〉たらんとす

 Amazonレビュー:江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』
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とても面白く読ませてもらった。オススメである。
本書についての総合的な評価は、先行「蛸」氏のレビューが、過不足なく当を得ているので、そちらを是非ともお読みいただきたい。
一一したがって、私のレビューは、個人的な観点から、本書の「存在価値」について考えてみたいと思う。

当読書会の4人のメンバーに共通するのは「生きづらさ」を感じている、ということであろう。「蛸」氏も『4人の参加者の議論の根底には、「このどん詰まりの社会から如何にしてEXITするか」という問題意識があるように思える。』と指摘しているとおりである。
彼ら4人が感じている「生きづらさ」は、単なる「個人的」なものではなく、「社会」的なものであり、「時代」的なものだということだ。

ところが、この4人のメンバーの「親世代」に当たる私には、そうした「生きづらさ」が無い。「生きづらさ」を感じていないのだ。
もちろん、この同時代に生きており『このどん詰まりの社会』に生きているのだが、だからと言って、個人的には「生きづらい」とは感じていない。むしろ、生きることは基本的に「楽しい」ので、死にたいなどとは思わない。「この社会」が今のままで良いとは思わないけれど、かと言って「EXIT」を求めるというのは、私には「ちょっと違う」と感じられる。

「EXIT」というのは、「この世界」を、このまま置き去りにして、個々に「脱出する」という感じであり、ありていに言えば「逃避」である。当然のことながら、全員が、あるいは大半の人が「EXIT」できるわけではなく、あくまでも才能ある、選ばれた個々が「EXIT」できるだけだ。だから、私としては、それでは物足りない。残されたものの方が気になるのだ。

無論、だからと言って、4人を責めたいのではない。なぜなら、彼らは、他人のことをかまっている余裕の無いほどに、追い詰められているからだ。
その点、私の場合は「生きづらさ」を感じていないと自己表明できるほどの余裕があるから、他人のことまでかまえるのであろう。要は、彼らと私では「装備」が違うのだから、同じように戦えないのは仕方がないことだし、「装備」に恵まれている私が、彼らを責めるのだとしたら、それは烏滸がましいと非難されても仕方がないのである。

私は「弱者」の味方でありたいと思っている。「弱者」に寄り添いたいと考える。一一こうした物言いは、当然のことながら「偉そうに」「何様」「上から目線」だと批判されやすいだろう。私は、それを承知の上で、あえてこういう書き方をしている。

私は、これまで「弱者」の立場にありたいと願ってきた。これもあえて言うが、「弱者」でしかあり得なかった、とは言わない。「弱者」であることを自ら選んだのだ。だからこそ、「学歴」も「社会的地位」も「資産」もない「無名者」なのである。
ただし、自分で自分の生活すら支えられずに、他者の助けを必要とするような弱者であっては、「弱者の味方」なのではなく、「弱者」そのものでしかない。「弱者」を助けることなど、できる道理がない。だからこそ、その意味で私は「強者」であろうと努力してきたし、その結果かどうかはわからないが、ひとまず人の助けを必要としないで済み、「生きづらさ」を感じないで済む立場に立ち得ている。

私のような、「学歴」も「社会的地位」も「資産」もない「無名者」が、「強者」だなどと名乗れば、ひと昔前なら「負け犬の遠吠え」だと嘲笑されたことであろう。今だって「社会的な成功者」から見れば、私など「弱者」の一人でしかないはずだが、それでも比較的「意気軒昂」に生きていられる私は、今の多くの若者たちからすれば「恵まれた強者」ということになるはずなのだ。

だから、私は、自身を「弱者」だとは言わない。弱者に対して「私も、あなたと同じ弱者ですよ」などと耳障りの良い言い方で、取り入ろうとは思わないのだ。それで「弱者」から「あいつは所詮、恵まれた人間であり、その余裕から、弱者に上から憐憫を視線を送っているに過ぎない」と言われても「それはそのとおりだ」と認めるだろう。前にも書いたとおり、自分が生きるのに精一杯であれば、他者に手を差し伸べることなどできないし、そんなことができるのは「超人的な人」だけであり、私はそんな「超人」や「聖人」などではないからだ。

したがって、私と本書著者の4人とは、立場は違う。彼らは「弱者」として、この「弱者にとっての闇の時代」の読者に語りかけているのであり、私は「強者」として「闇の時代」に抵抗している。無論、私にできることなど多寡が知れているのだけれども、かと言って、私は「実効性」を高めるために「社会的強者」になりたいとは思わない。「権力を得てから、その権力を善用したい」などという、ナイーブなことは考えない。そういうナイーブさを持たない「したたかさ」があったからこそ、今日まで「権力のある強者」になろうとして「闇落ち」もしなければ、「弱者」の側に立って潰されもしなかったのだ、と思っている。

だから、究極的には、私は「今ここの世界」と心中するつもりである。個人的に「EXIT」が見つかったとしても、そこから個人的に出て行くつもりがないのであれば、勝負は「この世界」でつけるしかないし、それで負ければ、それまでのことと、そう考えるしかないからだ。

つまり、結局のところ私は「自分の美意識」に生きているのだろう。私の「弱者の側に立つ」というのは、「美意識」的な選択であり、私の基本にあるのは「ディレッタンティズム(趣味人趣味)」だと言ってもいいだろう。
そうした意味では、「この世界」の中で「力ある立場に立って、良い目を見よう」としているような、セコい「権力志向的な強者」よりも、よほど「贅沢」に生きている人間だと自負し、自慢しても良いのではないだろうか。

そんなわけで、私と本書著者の4人の立場は違う。私は、彼ら「弱者」を救う立場の人間であり、彼らが「この世界」から脱出せずともよい世界を作るための努力をしなければならない立場の人間である。
しかしながら、それが失敗した時は「個々に、うまく逃げてください」と言うしかないと考えているので、彼らの「EXIT」志向を、いちがいに否定したりはしないのだ。

「この世界」を覆う「生きづらさ」。それが、彼らがしばしば言及する「加速主義」「思弁的実在論」「新反動主義」、あるいは、ニック・ランド、マーク・フィッシャーといった人たちと彼らをつなぐ、時代の紐帯なのであろう。
「今ここ=この世界」がたまらなく「生きづらい」ものだからこそ「ここではないどこか」への「EXIT」を求めたり、いっそ「この世界」(例えば、マーク・フィッシャーなら「資本主義リアリズム」の世界)を(極限まで加速するなどして)「ぶっ潰したい」とまで考えるのだろう。
その「絶望的な破壊欲動」もまた、この世界の「闇」をさらに濃くしているのであろう。

そうした「闇の世界」の中で、それでも「破壊欲動」に身を任さず、ひとまず自分の「生きる道」を模索して実践する彼ら4人の姿は、じつに「けなげ」である。
しばしば、いささか「優等生的に過ぎる前向きさ」は「世間むけの方便」なのではないかと疑われないでもないけれど、ともあれ「闇の中で、闇の技法を援用しながら、闇からの脱出を試みる」彼らの努力には期待したいと思う。

正直なところ「こんなに頭の良い若者たちでも、やっぱりそうなのか」という、凡俗ゆえの思いもないではないが、やはり、頭が良いだけではどうにもならないのが、この世界なのだろう。
つまり「頭が良い」だけでは、この世界の「闇」と戦うことはできない。しかし「光を求める知性」は「生きる力」になる、とは言えるのではないだろうか。

「知は光」なのかもしれない。それは単に「迷妄の闇」を照らして「真相」を明るみに出すだけではなく、「迷妄の闇」を照らして、私たちの「進むべき隘路」の存在を照らしてくれる、そんな光であり力なのではないだろうか。

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