投稿者
 メール
  題名 ※管理者の承認後に掲載されます。
  内容 入力補助
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


すべて「人間的問題」

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年12月 6日(木)00時13分58秒
  みなさま、今年は「mixi」で二度目のアカウント凍結をくらって以降、あちらで再燃したネトウヨ的問題について問題意識から、保守思想や右翼思想というものを勉強するようになりました。そして、従来から取り組んでおりましたキリスト教だけではなく、神道をはじめとした「宗教一般の問題」へと興味が広まりますとともに、それが保守思想や右翼思想というものと(極めて宗教的な)天皇崇拝を介してつながってきて、最近はそれぞれをバラバラの問題ではなく、関連した「人間の問題」として考えられるようになってまいりました。
そうしたこともあってか、今年は後半に入ってAmazonレビューの執筆数が増え、その転載ということで、ここ「アレクセイの花園」も書評サイトのようなかたちではございますものの、妙に動きが出てまいりました。以前は「対話」に重点を置いておりましたが、今は少数であれ、拙文を読んで下さる方を増やすための掲示板であってもかまわないと、そう思うようになった今日この頃でございます。


オロカメンさま

感想.《マルクス=エンゲルス『資本論』全三巻》

>  マルクス=エンゲルス『資本論』全三巻、やっと読み終わりました!
> 『資本論』は、ぼくの中で今年の課題図書としていた本だったのですが、流石に歴史的な大著、時間がかかっちゃいましたあ……。

とうとう読了なさいましたか。いや立派でございます。
「全三巻」と書かれていますが、エンゲルスも入っていますから、これは「全三部」という意味でございますよね。岩波文庫で言うなら「全9巻」。
『資本論』と言えば、誰でも知っているけれども、通読した人は滅多にいない。それなのに、知ったかぶりで語る人の多い書物として、『聖書』や『失われた時を求めて』等と共に有名でございますが、後の2冊とはちがって学術書である『資本論』の通読は、なにより大したものでございます。

私も読みたいとは思うものの、優先順位を考えると、たぶん死ぬまで読めないのではないかと思っております。
読みたい本は数々あれど、人が一生のあいだに読める本は、たかだか1万冊。誠に、読書家にとって人生は短すぎますね。

>  マルクスはもともと経済学は専門でなく、大学でも法学と哲学が専攻だったため『資本論』を書くにあたって大英博物館の図書室に入り浸って随分と勉強したそうです。

そうですね。いや、ぼんやりとひっかかっていた部分ですが、マルクスはもともと経済学者ではなく、哲学者だったんでございますよね。マルクスをヘーゲル左派だか中央派だとか呼ぶのをときどき目にしますし、マルクスの思想を論じる時に出てくるのは、経済学者よりも哲学者の名でございます。今さらですが、ああそうか、という感じで腑に落ちました。

>  昔キリスト教では高利貸しが禁止されていましたが、それは「汗水たらして働いてもいないのに、貧者の弱みに付け込んで利子でお金を稼ぐ」というのが道徳的に良くないという考え方だったからだそうです。キリスト教徒ではないユダヤ教徒はその高利貸しをやっていたからキリスト教徒から嫌われていたとも言われているくらいです。

ここはちょっと誤解があるように思いますので、すこし補足を。
『聖書』では「金貸し」は賎業とされており、それはおっしゃるとおり「額に汗して働く」仕事ではなかったからでございましょう。ただ「金貸業者が多かったから、ユダヤ人がキリスト教徒に差別された」というのは、順序が逆でございます。

『聖書』には、イエス・キリストの処刑が描かれておりますが、イエスを殺したのは、彼と同じユダヤ教徒のユダヤ人でした。
しかし、イエスの復活を信じ、復活したイエスをキリスト(救世主・主)と信じるようになったのが、ユダヤ教の一派であった、すなわち「キリスト教徒」です。やがてキリスト教は、ユダヤ教のような「民族宗教」に止まらず、「異邦人宣教」を始めました。つまり、ユダヤ人以外の外国人に布教を始め、しだいにユダヤ人だけの宗教ではなくなり、やがてユダヤ人以外の信者が増えていくなかで、そんな異邦人信徒からユダヤ人は「イエスを殺した、呪われるべき民族」として差別されるようになるのでございます。
そして、その結果、キリスト教が支配したヨーロッパでは、キリスト教徒が忌み嫌う賎業である金貸し業にユダヤ人が就くようになり、そのせいで彼らは経済的に力をつけ、それでまたキリスト教徒の妬みを買い、さらに差別を受けるという歴史を歩んできた、というのが「キリスト教と金貸しユダヤ人の歴史」なのでございます。

> 資本主義のシステムだけでは、この社会でお金持ちに対して労働者は圧倒的に不利な立場になってしまう。
> だからこそ民主主義が労働者の意見を吸い取って、最低賃金法や労働基準法や累進課税など、労働者を保護する法律を作ってバランスを取って来た。
> だから、もし政府がお金持ちの味方になってしまったら、本来の資本主義のシステムがむき出しになって、弱い立場の労働者はたいへん苦しくなってしまうことになるのです。

そうでございますね。近年の問題としては、グローバリズム経済の問題が、この問題と直結します。
それまで経済というのは、基本は国単位の経済活動だったのが、やがて輸入輸出という概念を超えた、国家に属さないグローバル企業というのが出てきて、国家の縛りから自由になりはじめてきた。そうなると、国家も企業をコントロールできないから、国民のために企業に高い税金を課すというようなことがし難くなった。それをすると、税金を落としてくれる優良企業が、拠点を外国に移してしまうなんてことが起こってきたからでございます。つまり、国家が資本家・金持ちをしばって「冨の再分配」を行おうとしても、そう簡単にはいかなくなった。

するとまた、今度は政治家の方も、そんな企業に媚を売って、あっさり長いものに巻かれる者も出てきた。
例えば現在の安倍政権は、表面上、米トランプ政権の方針とは真逆の「自由な国際経済活動」をもっともらしく語っておりますが、これは守るべき国家国民の利益を、外国に売り払ってしまうような危険なものであり、その甚大な弊害を見た後にもまだグローバリズム経済を推し進めようとするような、危険な政権だと、私は斯様に評価しております。

> 資本主義のシステムだけでは、この社会でお金持ちに対して労働者は圧倒的に不利な立場になってしまう。
> だからこそ民主主義が労働者の意見を吸い取って、最低賃金法や労働基準法や累進課税など、労働者を保護する法律を作ってバランスを取って来た。
> だから、もし政府がお金持ちの味方になってしまったら、本来の資本主義のシステムがむき出しになって、弱い立場の労働者はたいへん苦しくなってしまうことになるのです。

いまの日本人は「国民は平等だ」というのを、当たり前のごとく信じております。しかし、平等というのは「理念」であって「自然」ではございませんから、放っておけば「不平等」になる。そのことを忘れれば、権力者は、自身に都合のよいように「不平等」に加担して、自身を「資本家・金持ち」の側に定位するでしょう。ですから、労働者国民の側も、黙っていては自分の首を絞めるだけだということを肝に銘じる必要があろうかと存じます。

時あたかも、フランスでは激しい反政権デモが勃発しております。たぶん多くの日本国民は、それを冷ややかに見ているのでしょうが、あれをやれないからこそ、日本の庶民は政治家のやりたい放題を止められず、「森友学園問題」のような政治家による「権力の私物化」を許してしまうのでございましょう。
マルクスが指摘した「階級闘争」の必然性は、今でもたしかに生きているのだと存じます。


K・V・シュトッシュ『神がいるなら、なぜ悪があるのか 一一 現代の神義論』

> アレクセイさんの今回のレビューを読んで「これは勉強になったな」と思わされたのは「現代の神義論」がどこまで来ているのか、という点でした。

「現代の神義論」というサブタイトルは、たぶん原書には無いものを、翻訳の際に、本書の内容が分かりやすいようにと、日本で付け加えられたものでございましょう。シュトッシュの神義論は、たしかに「神義論の最前線」という意味で「現代の神義論」と呼ぶべきものでございます。

ただし、気をつけなくてはいけないのは、キリスト教神学というのは、通常の「学問」とは違い、必ずしも「学知が積み重ならない」という点にございます。

どういうことかと申しますと、普通の学問ならば、ある問題について突き詰めた研究結果が提出されると、他の学者はその成果をふまえて、さらにその先を研究し深めていくのが当たり前なのでございますが、キリスト教神学の場合は、それが「異端的な態度による研究」だと判断されると(判断する人には)無視黙殺されて、議論が昔のレベルに逆戻りするなどといったことが、歴史的に繰り返されてきたのでございます。

元外交官で、神学を学んだことのなるプロテスタント信者の佐藤優が、しばしば「キリスト教というのは、昔から同じような論争を何度もくりかえしている」というような指摘をしておりますが、これはキリスト教神学においては、先に「真理」が確定している(正解・結論が決まっている)ために、議論が一方的に深まるとは限らないという現実を指摘したものなのでございます。

ですから、シュトッシュのそれは確かに「神義論の最前線」であり「現代の神義論」ではございますが、キリスト教界がこぞって、この水準から議論を進めるつもりがあるかと言えば、残念ながらそんなことはないと断じて良いでしょう。ただ、心ある神学者やキリスト教徒はシュトッシュの取り組みに呼応してその先を目指すその一方で、多くの凡庸な神学者や、まして一般信者たちは、十年一日の議論をくりかえして満足するだけなのでございます。

また、だからこそ私は、そうした人たちに向けて「本気で信じているというのであれば、貴方がたもシュトッシュの真摯な取り組みに学べ」というメッセージを込めて、あのレビューを書いたのでございます。

> アレクセイさんの批評に共通するのは、書評であっても宗教論であっても、他人に対してちゃんと納得のできる「合理的な根拠」を提出して説明ができなければ、理解されないのは当たり前だし、誠実でさえもない、という部分ではないかと思っています。

そうですね。自分の思い込みを語るだけなら、それは「説明」という言葉にも値しないし、なにより「伝えることの努力」をしていないと申せましょう。

> 信仰心のないぼくなどは、宗教に興味があれど「外側」から観察するしかなく、ぼんやりと「宗教は宗教なりの理屈があるのだろうなあ」という意識があるのですが、アレクセイさんの批評方法は宗教に対しても変わりなく適用できる点が力強く、信仰のない人間でも「論理」をもちいて十分に宗教的な理屈の優劣を判定できるという事に気づかせてくれるものだと思います。

言うまでもなく、すべての事象を合理力に説明できるわけでも割り切れるわけでもない。科学はすべてを解明しているわけではございませんし、世界は不規則性に満ちております。ですから、宗教においても「非合理的な現実」というのは、当然ございます。それは、いまだ解明されていないものなのか、原理的に解明できないものなのか、それもハッキリと断定することはできませんが、現実の宗教において「合理的に説明できないものがある」というのは事実であり、その点については「合理的に説明できません」と説明するのが「合理的な態度」だと申せましょう。

ところが、キリスト教の場合「全知全能の神を、人間が理解説明しきれるわけはない」と言いながら、「では、信じるしかないということか? 正しいか間違いかは不確定だが、それを信じろと言うのか?」と問えば、「いや、神は絶対に正しい。これだけは間違いない」などと「断定」してしまうのが、キリスト教なのでございますね。

この自信満々の断定だけを聞くと、キリスト教に詳しくない人は「なにか我々が知らない、確たる根拠があるのだろう」と思ってしまいがちで、それがオロカメンさまのおっしゃる『ぼんやりと「宗教は宗教なりの理屈があるのだろうなあ」という意識』なのでございますが、そんな「理屈」は存在しません。
そこに存在するのは「理屈ではない確信(啓示)」であり、悪く言えば「根拠薄弱な思い込み(妄信)」なのでございます。

ただ、人は、他人の信仰になんか、あまり興味はございませんから、その根拠を徹底的に追及したりはしないために、そこになんとなく「亡霊としての根拠」を見てしまいがちなのでございます。

しかし問題は、自分の信仰に興味を持たない人の信仰でございます。
本気で信仰しているのなら、どうしてその信仰がどういうものなのか、それを知ろうとしないのか? ただ、なんとなく良いと言われるものをそのまま信じ、それで自分が救われるつもりになっていれば、それで満足だという、そんな薄っぺらな信仰態度は、元来「この世界の真理」を説いているはずの信仰に対して、あまりにも失礼ではないのか?

恋愛に喩えれば、好きになればこそ、人はその人のすべてを知りすべてを所有したいと願ってしまう。それが当たり前ではないのか?
それは「世俗の愛=エロス」であって、「キリストの愛=アガペー」ではない、などといった小理屈は一蹴するにしても、キリスト教が本当に「世界の真理」ならば、そこには「汲めども尽きぬ真理」があるはずなのに、どうしてそれを汲もうとはしないのか?

「あなたは、キリスト教が〈枯れ井戸〉かもしれないと、怖れてでもいるのか?」

私は、そう問わずにはいられないのでございます。



それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA?ref%5F=cm%5Fcr%5Frev%5Fdetpdp&

 

感想.《マルクス=エンゲルス『資本論』全三巻》

 投稿者:オロカメン  投稿日:2018年12月 5日(水)17時24分27秒
   アレクセイさん、こんにちは!
 前回の投稿からちょっと時間あいちゃいました。
 気が付けばもう今年も今月を残すのみですね。ホント近ごろ時間の進み方が速くなってきたように感じます。

 さて本日は、ぼくの今年の最大の課題図書だったマルクス=エンゲルス『資本論』全三巻を読み終わりましたので、その感想を投稿させていただきたいと思います。

 それと、今回はアレクセイさんとキリスト教のお話もしたいと思いましたので、先日あげておられましたK・V・シュトッシュ『神がいるなら、なぜ悪があるのか 一一 現代の神義論』のレビューについての感想も書かせていただきました。

 ということで、今回もけっこう長々しい投稿になってしまいました……すいません、ちょっと図々しかったですかねえ…… (^_^;)
 ご笑覧いただけますと幸いですm(_ _)m

――――――――――――――――――――――――――――――
 マルクス=エンゲルス『資本論』全三巻、やっと読み終わりました!
『資本論』は、ぼくの中で今年の課題図書としていた本だったのですが、流石に歴史的な大著、時間がかかっちゃいましたあ……。

『資本論』はどんな本だったか一言で言えば「資本主義社会の抱えている矛盾や問題点を明らかにして、それを批判するための本」だったと思いました。
 そのためにマルクスは資本主義社会の経済の謎を詳細に分析しなければならなかった訳です。

 マルクスはもともと経済学は専門でなく、大学でも法学と哲学が専攻だったため『資本論』を書くにあたって大英博物館の図書室に入り浸って随分と勉強したそうです。
 それもこれも全ては資本主義社会の抱えている矛盾や問題点を、誰でもわかるように理路整然と示した上で批判するためであったわけです。
 マルクスは根っから批判が好きな人だった(笑)。

『資本論』を読んだ、という人はけっこう一巻までしか読んでなかったり、2~3巻で挫折したりする人が多いようですが、それは少々勿体ないとも思いました。
 一巻までしか読んでいない人の特徴は「搾取(=剰余価値)」という言葉が『資本論』の最大のポイントとして出てくるところだと思いますが、ぼくが思うに搾取構造というのは、さほど決定的な批判とはなりえないのではないだろうかと思っています。
 というのも、そこら辺は柄谷行人さんが『マルクスその可能性の中心』でも詳しく書いているとおり、「どういう性格の労働を何時間したら幾らの賃金がもらえるのか」という労働賃金の価値というのは非常に相対的なもので、柄谷さんが剰余価値の正体は不払労働(=賃金の搾取)ではなく「労働の生産性の上昇による潜在的価値体系の創出にある」と主張するのも一理あるのではないかと思います。

 ただ、マルクスが批判する「資本主義の問題点」というのは『資本論』の2~3巻でも更に詳細に展開していくので、その部分を見逃してしまうと言うのが、勿体ないと思う点です。

『資本論』の全巻を通して重要だと思った点は、資本主義社会のメカニズムというのは、昔から資本家や地主らのようなお金持ち(=ブルジョワジー)が有利に稼ぐことができるシステムであり、そのためにお金持ちはずっとお金持ちの地位に固定され、労働者はずっと労働者の地位に固定されてしまうというところでした。

 昔キリスト教では高利貸しが禁止されていましたが、それは「汗水たらして働いてもいないのに、貧者の弱みに付け込んで利子でお金を稼ぐ」というのが道徳的に良くないという考え方だったからだそうです。キリスト教徒ではないユダヤ教徒はその高利貸しをやっていたからキリスト教徒から嫌われていたとも言われているくらいです。
 それと同じように資本主義社会の資本家や地主も同じく「汗水たらして働いていない」のに自動的にお金を稼いでいるわけです。
 古典派経済学では「資本が利子を生む」や「土地が地代を生む」といった言い方があるので、いつのまにか「資本は自動的に価値を増やす」かのように思えてしまいますが、マルクスは「そう思えてしまうのは資本主義の魔術である」と批判したうえで、そうではなくて結局は労働者が働かなければ価値は生まれないと言っています。
 資本や土地は存在するだけでは決して価値を生まず、価値を生むのは労働者が働くことで初めて価値というのが発生する。マルクスから言わせれば、資本家や地主は労働者が生んだ価値を自分たちにも配分しているだけで、直接生産過程には関与していない。なのに資本や土地そのものが価値を生んでいるかのように見えてしまう。マルクスから言わせると、資本家や地主は、労働者が汗水流して働いて生み出した価値を、かすめ取っていると考えた訳です。

 ここで重要なのは、資本や土地が本当に価値を生むかどうかという議論よりも、そういう「投資の配当」や「高利貸しの利子」や「土地を貸して地代を得るやり方」などの、資本主義に特有の稼ぎ方というのは、貧しい人たちであり「持たざる人々」は参加できない稼ぎ方だという点にあると思います。

 資本主義にはそういう、お金持ちだからこそ稼げるやり方が多くある。

 そういう「お金持ちしか参加できない稼ぎ方」があることこそが、お金持ち(=ブルジョワジー)の地位を安定的なものにしていて、労働者が労働者の地位に固定されてなかなか抜け出せないという「階級」をハッキリと分ける事につながる。
 そういったお金持ちと労働者との条件の差が、「階級間闘争」の土台を作っている……という、そういう資本主義システムの不公平な点を批判するのが、マルクスの意図の一つと言ってよいかと思います。

 資本主義のシステムだけでは、この社会でお金持ちに対して労働者は圧倒的に不利な立場になってしまう。
 だからこそ民主主義が労働者の意見を吸い取って、最低賃金法や労働基準法や累進課税など、労働者を保護する法律を作ってバランスを取って来た。
 だから、もし政府がお金持ちの味方になってしまったら、本来の資本主義のシステムがむき出しになって、弱い立場の労働者はたいへん苦しくなってしまうことになるのです。

『資本論』は1巻目の重要なキーワードである「搾取構造」だけではなく、そういう資本主義社会の様々な問題点を扱っているという点で、2巻と3巻ももっと読まれて良い内容を持っていると思います。
 そして、百年以上も前からこういう資本主義への問題点を警告していたという点でも、マルクスの『資本論』は現代でも十分に再読される価値のある本ではないかと思いました。

――――――――――――――――――――――――――――――

> K・V・シュトッシュ『神がいるなら、なぜ悪があるのか 一一 現代の神義論』

 僭越ながら、アレクセイさんのレビューの感想を書かせていただきますm(_ _)m


 ぼくは宗教学には以前から興味を持っていて、ちょこちょこと宗教学系の本も集めてはいるのですが、いかんせんなかなか手を付けられずに後に回してしまっています。……先に哲学と美術について詳しくなりたいというのがあるのが理由かもしれません。

 そんな中アレクセイさんのキリスト教系の本のレビューを拝読させて頂いているといろいろと気付かされることが多く、面白いのでまたあれやこれやと本を揃えて準備しちゃおうかなとも思っちゃいます(まあ、時間もお金もまだ足りないんですが (^_^;))。

 アレクセイさんの今回のレビューを読んで「これは勉強になったな」と思わされたのは「現代の神義論」がどこまで来ているのか、という点でした。

 アレクセイさんが書いておられるとおり「神義論」が、しばしば「キリスト教の自己弁護論」になっているのは、キリスト教が現代とてつもない信者数と権力を持っており、信者全員が「ただ素朴に神の存在をただ信じればいい、信じていられる」という状況にないためなのだろうと思いました。
 また、そういう状況になっているのは、現実というのがいつの時代も悪の存在が幅を利かせ、堪えがたい人間の悲劇が幾度となく繰り返されており、そういう苦しい状況の中にいる子供や貧民が救われない事について、当然のように湧きおこる「神を信じることの合理性」への疑問が、「神義論」ではじゅうぶんに答えられていないのかな、とも感じます。
 そして、「自己満足的な議論」を繰り返すのではなく、そういう疑問も誤魔化さずにしっかりと考えていかなければならない地点に来ているのが、これから求められるべき「現代の神義論」の状況なのだと。

 そういう状況を踏まえたうえで「これまでになされてきた多くの神義論の不十分さを、自ら仮借なく検討批判した上で、それでも可能な神義論とは何かということを真摯に追及している」というK・V・シュトッシュの神義論が「現代の神義論」たり得ているというご説明、確かにアレクセイさんが以前たびたび批判していた「価値の無い、凡庸な「神義論」の書」を乗り越えて優れているのだと理解できました。


 アレクセイさんの批評に共通するのは、書評であっても宗教論であっても、他人に対してちゃんと納得のできる「合理的な根拠」を提出して説明ができなければ、理解されないのは当たり前だし、誠実でさえもない、という部分ではないかと思っています。

 信仰心のないぼくなどは、宗教に興味があれど「外側」から観察するしかなく、ぼんやりと「宗教は宗教なりの理屈があるのだろうなあ」という意識があるのですが、アレクセイさんの批評方法は宗教に対しても変わりなく適用できる点が力強く、信仰のない人間でも「論理」をもちいて十分に宗教的な理屈の優劣を判定できるという事に気づかせてくれるものだと思います。
 

失われた日本人の美徳 一一 谷本真由美『世界がバカにする日本人』

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年12月 3日(月)23時17分12秒
  '

 失われた日本人の美徳

 Amazonレビュー:谷本真由美『世界がバカにする日本人』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1BY2XY1QBVDJI

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

相応の年齢に達した日本人ならば、当然知っていて然るべき格言だが、「自画自賛」が大好きな、イマドキの無教養な日本人でならば、当然、この言葉を知らないか、知っていても意味を理解できていないのであろう。
私は何も「教養」自慢したいわけではない。大切なのは知識ではなく、「自画自賛」「自慢話」はみっともない、と感じる感性と知性の有無なのである。

そして、そんな当たり前の感性と知性のある人ならば、昨今の「日本はすごい!」ブームは、同じ日本人のやっていることとして、恥ずかしくて仕方がないはずだ。
本書の著者も、そんな感情に駆られて、やや強過ぎるようにも思えるタイトルを選択したようだが、内容はいたって良識的である。
だが、過激性や新奇性ばかりを求めてしまうような頭の悪い読者には、本書はやや物足りなく感じられるかもしれない。彼らの場合、子供舌ならぬ「子供頭」なので、良識的意見というものの重みを味読することができないのである。

しかし、そんな読者がいればこそ、今の日本では、

 『世界は日本が大スキ!』(和田政宗・青林堂)

などという、およそ正気を疑うようなタイトルの本が、恥ずかしげもなく刊行されるのである。

こういう本の読者層は、当然のことながら、美醜のあざなえる日本の歴史だって「自賛」することしか考えないから、日本の恥ずべき歴史について必要な反省をする気もなく、逆に、すべき反省する人をマゾヒスト呼ばわりし、そんな歴史認識は「自虐史観」だ、などと大騒ぎしたりしたりもした。
だが、現実はその逆で、彼らの好きな日本の歴史は、正しく「自賛史観」でしかない。彼らは、自分で描いた絵(歴史)を自賛・自慰しているにすぎない、まことに哀れな人たちなのである。

「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるが、自身に自信とプライドがあるならば、「自画自賛」や「自慢話」の垂れ流しといった「評価乞食」にはならないだろう。内実があれば、黙っていても、いずれ人は評価をしてくれるであろうし、またそれを信じることもできるのだ。
「貧すれば鈍する」と言うが、経済が行き詰まってくると、人の心まで貧しくなり、「自画自賛」「自慢話」を始めるというのは、まことにまことに嘆かわしい醜態である。

よその国のことならいざしらず、これが同じ日本国民のことだと思うと、いやでも面伏にならざるを得ない。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1BY2XY1QBVDJI

 

至高者を信じる者だけが ーー K・V・シュトッシュ『神がいるなら、なぜ悪があるのか 一一 現代の神義論』

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年12月 3日(月)23時02分1秒
  '

 至高者を信じる者だけが

 Amazonレビュー:K・V・シュトッシュ『神がいるなら、なぜ悪があるのか 一一 現代の神義論』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RLZ4984IB0LFG


素晴らしい神学書である。
「神義論」とは、もともと「神の正しさを弁ずる議論」であり、要は「キリスト教の自己弁護論」であるから、キリスト教徒ではない私にとっては、その「ご都合主義的に、結論ありきの非論理的議論」は、しばしば痛罵の対象にしかならず、「神義論はクソだ」と吐き捨てたくなるようなものばかりが目についた(例えば私は、英国国教会を代表する新約学者で主教のN.T. ライト著『悪と神の正義』について、その自己満足的な議論を「価値の無い、凡庸な「神義論」の書」と題し、批判するAmazonレビューをすでにアップしている)。

しかし、本書は違う。著者シュトッシュは、現実の悪や堪えがたい人間の悲劇から目をそらすことなく、それでも神を信ずる者として、神の存在を問うている。
したがって本書では、私のような門外漢による批判ではなく、これまでになされてきた多くの神義論の不十分さを、自ら仮借なく検討批判した上で、それでも可能な神義論とは何かということを真摯に追及している。だからこそ、本書は「現代の神義論」たり得ているのだ。


『神のすることに同意するにせよ抗議するにせよ、神を信じることがいかに総合的に合理的で正当なものとして説明できるかということが問題なのです。神を信じることの正当性を説明できなければ無神論に決定的な反論を行うことができませんし、それでは神を信じることは不合理なことだと思われてしまいます。』(P7)


このように真っすぐな言葉を語り得たキリスト教神学者が、いったいどれだけいただろう。
しかし、本気で神を信じているのであれば、たとえ神が人の言葉では完全には語り得ないものだとしても、可能なかぎりそれを追及しただろうし、現にシュトッシュはそれをしている。逆に言えば、このような言葉を語り得ない一般信徒は無論、神学者たちもまた、じつは自身の神やそれへの信仰に、内心で「不安」を抱いていたのではないかと、私などは疑いを持たざるを得ない。すでに持ってしまった信仰という支えが「幻想に過ぎなかったらどうしよう」という「怯え」を密かに抱えているからこそ、それと世界の現実との矛盾と見えるものに、真正面から向き合うことを避けるのではないか。

シュトッシュは、キリスト者が向き合わなくては済まされないはずの現実的悲劇として、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』のなかで描いた、イワン・カラマーゾフによる「神への告発」に繰り返し言及している。「罪も無い子供たちの悲劇と、その不幸の最中の死」というものを、「正当化する理屈」などあり得ないという観点から、これまでは自己弁護的な正当化にあけくれていた神義論の、乗り越えの必要性を提唱する。


『苦しみに意味を見出すことができるのは、苦しんでいる当事者だけです。理屈だけの神学が他者の苦しみを機能的に処理しようとすると、苦しんでいる当事者の尊厳を許しがたい方法で即座に傷つけてしまうことになるのです。ですから「機能化」の観点から苦しみを「善化」できるという意見に対する決定的な反論は、自分自身の苦しみに意味を見出せない当事者に、苦しみが「機能的」に良いものとして働くことなどあり得ない、というものです。確かに、当事者がその意味を納得できていない生き方や苦しみに何かほかの善なる目的があるとみなす考え方は、人間を何かほかのものの手段として扱われてはならず、人間そのものが目的でなければならない、というカントが提唱した道徳的命題に矛盾してしまいます。』(P25)


平たくいえば、最終的に「神の偉大さ」を示すための道具として「悲劇の中で死んで行く子供たち」の存在があったのだから、それはそれで良いのだという理屈は許されないし、そんな正当化論を神も望んではいないだろう、ということだ。

だが、現代においても、このレベルの神義論が懲りずに再生産されているという事実は否定できない。
かって、ナチスの引き起こした悲劇を目の当たりにし、ヨハン・ハブティスト・メッツが繰り返して言ってきたとおり『我々はアウシュビィッツ以降、アウシュビィッツを考慮に入れなければ、神についても神に対しても、何かを語ることは許されない』(P233)はずなのだが、実際には多くの人々、そしてキリスト教神学者にとってすら「喉元すぎれば」アウシュビィッツも「厄介なエピソードの一つ」と化してしまい、そこで失われた命の尊さ、悲劇の重さは失われてしまっている。
だが、世間の無神論者がそのようなニヒリズムに犯されたとしても、愛の神の僕たるキリスト者に、どうしてそのようなことが許されよう。キリスト者は、誰よりも重い十字架を引き受けつづける存在でなければならなかったのではないのか。

シュトッシュは言う。

『 神学の目的は、神義論を解決してしまうことでもなければ、「なぜ」私たちはこの世界で苦しまなければならないのかという問いに回答をすることでもありません。こうした問いはおそらく神にしか答えられないでしょうし、そもそもこうした問いはいつも神に向かって発せられているのではないでしょうか。同時に、神は神にしかできない働きかけで、慰めと救いに満ちた回答をすでに先取りして実現しているのかもしれません。神学とは、神がそうした慰めと救いを働きかけていることを示唆するものであって、苦しみの意味を説明したり、それによって神に対する抗議をなだめたりするためのものではないのです。』(P200)


言うまでもなく、人間でしかない神学者に「神の代弁者」は務まらない。彼にできることは、人間として真摯に他者の苦しみと現実の悲劇に向き合い、それでも神を信じる者として、政治的なハッタリ的言説を退け、誠実に「悪と悲劇の実在」の意味を問い続け、それを語り得る範囲で語ることなのではないだろうか。


『(※ ヨブ記におけるのと同様)神との(※ 正当な)言い争いを最も意味深く表現しているのは、ペルシャの神秘主義詩人であるファリードゥッディーン・アッタール(1145ー1221)の『苦しみの書』です。それは「神と言い争う過程ばかりではなく、イスラーム的敬虔による中道の歩み方をも教えるもの」です。アッタールの神への挑み方の特徴は、神にとらわれた者がそれを語るという形式となっている点です。「至高者を信じる者だけが、天国まで届く石を投げることができる」。
 ここでは、無神論者による抗議の仕方が批判されているというよりも、それを超える抗議の仕方に取り込まれているといえるかもしれません。むしろ抗議は神との対話に統合され、有神論的な観点に結びつけられるのです。神へ全幅の思いを寄せているとしても、また、あまりにもひどい運命をすべて受け入れたとしても、それでもなお他者のために神に訴え、また問いかけずにはいられません。「絶望している人々は、むしろ神をたたえる信仰者たちよりも宗教的である。しかし信仰者たちの目は、神による被造物の現実の状態に対して閉じられてしまっている。普通の仕方を超えて愛する人は、神が自己を啓示したように、敢えて神に向かって訴えかけるのである」。神に向かって反抗することこそが、神を信じることに最も迫る瞬間として明らかになるといえるでしょう。』(P258~259)


イワン・カラマーゾフは、しばしば無神論者と呼ばれるけれども、そうではない。
彼は、神の存在を信じればこそ、子供たちの悲劇を黙認している神を「許せない」と、熱涙を流して神に抗議しただけなのである。彼にとって神とは、彼を支えるために彼の中にだけ存在していれば事足りるという利己的な必要性に基づく存在などではなく、この世界に実在しているものだからこそ、彼は、神の、他者の悲劇に対する不作為を黙認することができなかったのだ。
そして彼の言葉が、今も多くの善意の人々の胸を打つのは、それがニヒリストの言葉ではなく「至高者を信じる者だけが、天国まで届く石を投げることができる」ことを証明しているからであろう。

「現代の神義論」は、ここまで来ている。それを保身的に虚弱な信仰心によって「アウシュビィッツ以前」に後戻りさせてはならない。
人なればこそ、究極の答を知りそれを語るなどといったことはできないだろうが、それでも誠実に神に問い、対話を続けることは、その信仰的確信において、できないことではないはずなのである。

是非とも、本書を読んで、自身の「信仰の強度」を確かめていただきたい。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RLZ4984IB0LFG

 

右翼が失った「弱きを助け」の志  Amazonレビュー:安田浩一『「右翼」の戦後史』

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年11月23日(金)22時04分7秒
  '

 右翼が失った「弱きを助け」の志

 Amazonレビュー:安田浩一『「右翼」の戦後史』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2S1Q7Y54MUX2C


昭和三十七年生まれの私にとっての「右翼」とは、まず「街宣右翼」のことであった。
紺や黒の車体に白文字の団体名を大書し、日の丸をはためかせ、スピーカーからガンガン軍歌を流しながら走りまわる、傍迷惑なバスのご一行。乗っているのは、紺色の戦闘服に編み上げ靴、ソリコミの入ったパンチパーマにサングラスをかけていたりして、いかにも柄が悪いヤクザもの。そんな印象だった。
だから「右翼」が思想を意味する言葉だなどというは、完全に後知恵。私にとっての、右翼は「柄の悪い、暴力的な、ヤクザ者」として最初に認識された。

たしかに、街宣車には「愛国」だとか「反共」だとか「国体護持」だとかいったようなことは書かれているが、この人たちは「本当にそんなこと勉強してるの? 理解して言ってるの? たんなる歳くった暴走族あがりなんじゃないの?」というのが、正直な印象だった。で、この印象が大筋で間違ってはいないことも、後知恵で知ることになる。
要は「彼らは、本物の右翼ではなく、暴力団の隠れ蓑に過ぎない。だから、暴走族あがりの、左右の区別もつかないようなチンピラをリクルートしたりもしているんだ」という話を聞かされて、なるほどと納得したのである。

そこで私は「本来の右翼とは」どういうものかと思い、戦前の右翼を調べてみると、「街宣右翼」とは大違いで「弱きを助け、強きを挫く」男たち、反権力的で庶民を愛した男たちであり、そうした「心意気」「侠気」において共感できるところが多々あった。それが、どうしてこんなふうになってしまったのか?
戦前右翼の流れを汲む「真正右翼」も生き延びてはいるようだが、今やわれわれ一般人の目にはまったく触れ得ない存在であり、下劣な「街宣右翼」ばかりが大手を振って「右翼でござい」と名乗っているのは、いったいなぜなのか?

その後、戦前右翼のイメージに近い「新右翼」という存在を知り、その一方で「在特会」のような存在も知って、それぞれの関連文献をかじり、それぞれについてはそれなりに知識を持ったものの、やはり、このあまりにも印象のかけ離れたものが、どうして「右翼」と呼ばれるのか、いまひとつハッキリしなかった。

だが、右翼の通史である本書を読んで、そのあたりをかなりスッキリと整理することが出来た。
「右翼とは何なのか?」「右翼の本質とは、どのあたりにあるのか?」という私の長年の疑問に対する本書の答は、


『時代とともに右翼の姿も変わる。「変わらぬこと」を心の支えとし、「変わること」を嫌悪してきた右翼だが、時代の波は否応なしに価値観を洗い流し、プレイヤーを入れ替える。』(P202)


そう、永遠に変わらぬ「本質」など無いのだ。
いくつかの基本的要素を不完全に共有しながらも、右翼はその都度、ある要素を棄て、またある要素を再評価したりして、力点を移しながら、時代の流れの中で変貌してきた。

戦前の右翼が持っていた「弱きを助け、強きを挫く」という思想は早々に棄てられたし、「反共」もあれば「反米」もある。「愛国」や「天皇制護持」といったものでさえ必ずしも絶対的なものではなく、「愛国」は単なる「国家権力への迎合」となり下がり、『(平成)天皇は左翼』だなどといった言説まで現れる始末だ。
つまり、それぞれに「右翼」を名乗りながらも、「右翼」という思想運動そのものには「中心的信念」が存在せず、それは多分に「気分」的なものでしかないのである。

だがいずれにしろ、私が戦前の右翼に感じた魅力である「弱きを助け、強きを挫く」は、もう「右翼」からは失われてしまったと言ってもよいだろう。そういうものを今も残している人は、今や「右翼」ではなく「左翼」と呼ばれてしまう、そんな時代になったのだから。

「弱者の側に立つ」という信念が「左翼」のものでしかないと認識されるにいたって、「右翼」は完全に「強者の犬」に成り下がってしまったのである。まことに残念なことに。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2S1Q7Y54MUX2C

 

ネトウヨでもパヨクでも楽しめるロリコン漫画

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年11月22日(木)22時44分39秒
  '

ネトウヨでもパヨクでも楽しめるロリコン漫画

 Amazonレビュー:小林拓己『愛国少女ウヨ子ちゃん』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1OFY563QZM0S2

昔からネトウヨに「売国奴」だ「在日」だ「パヨク」だと憎まれ口を叩かれ続けてきた私でも、ニコニコしながら読める、楽しい漫画である。

というのも、これはネトウヨの自虐ネタ漫画だからで、ネトウヨの「脳内お花畑」ぶりや「被害者意識」の強さを、とてもよく描いているからだ。

本書の後半には、著者によるエッセイ(P105~155)が収められているが、パヨクの読書家である私からすると、そちらで表明される著者の「無条件の天皇制崇拝」や「実態に即さない神道信仰」、さらには安倍晋三を「外交上手」と評価してしまう「安倍幻想」には、「自称保守」の能力の限界を感じないではない。

だが、「自称保守」つまり「ベタなネトウヨではない」という著者の自負が「ベタなネトウヨ」を相対化し、批評的に見ている部分はそれなりに評価でき、楽しむことも出来るので、ネトウヨの諸君には、せめてこのエッセイくらいは読んでね、とお願いしておきたい。

漫画の方は主人公のウヨ子ちゃんがカワイイから読むだろうけど、活字の読めないネトウヨは多いので、その点が心配なのだ。著者もそれを踏まえて、噛んで含めるように平易な文章で書いているので、まずはこのあたりから活字に馴染んでいくのも悪くないだろう。

ネトウヨに、エドマンド・バーグを読めとか、小林秀雄や福田恆存を読めと言っても、それは無茶というものなので、まずはウヨ子ちゃんから入って、著者のエッセイを読み、ラノベ以外の小説も読めるようになって、という段階を踏むのがいいのではないかと思う。

ともあれ私には、ネトウヨのレビュアーが「パヨク本」にするのとは違って、読みもせずに「星1つ」をつけて悪口を連ねるような、恥ずかしい真似はできない。なぜなら「日本人として、恥を知っている」からだと、ここで一言申し添えておこう。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1OFY563QZM0S2

 

「八百万の神々」VS「稲作神官の家系的神話」  Amazonレビュー:島田裕巳『神社崩壊』

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年11月20日(火)22時47分27秒
  '

 「八百万の神々」VS「稲作神官の家系的神話」

 Amazonレビュー:島田裕巳『神社崩壊』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R24ZTOWAIX23MC


これまで私にとって、もっとも縁遠い日本の宗教が「神道」だった。

両親は仏教系の宗教に帰依していたので、その雰囲気は子供の頃から何となく身近に感じてきたが、その分、どこか面白みのない「慣習」のようにも感じられた。
結局、私はそうしたものの「理論的無根拠性」に失望して無神論者になるものの、各種「宗教」を鵜呑みにして信じられる人たちの存在を不思議に思い、そうした人間の非理性性の研究材料をキリスト教に求めた。キリスト教は、理知的な研究の歴史と量において最先端をいく宗教だし、仏教的な「比喩」ではなく、神を「実在する」ものとして信じるスタンスにおいて、もっとも「メジャーかつ典型的な宗教」だと判断したからだ。

そんなわけで、私の場合、神道は「つかみどころのない宗教」として長らく脇に追いやられていたのだが、近年の日本政治問題のエポックである「安倍晋三政権」「日本会議」「神社本庁」との関わりにおいて、いちおうの知識は持っておかなければならないものとして注目するに到った。
この問題については、すでに藤生明『徹底検証 神社本庁』(ちくま新書)を読んで一定の理解を得たが、それを非政治的な宗教学の立場から補完する入門書として本書を読み、本書で、神道の基本的なところを「客観的に教えられ」て、裨益されるところ多大であった。(※ 当掲示板内リンク

さて「神道は宗教なのか?」という基本的な問題については、「定義による」としか言いようがないようだ。
ただ、神社本庁も言うとおり、神道には尊崇の対象である「教祖」がおらず、おのずと「本来」は「教義がない」。
しかし「教義がない」はずなのに「伊勢神宮(を本宗とする)神道」「敬神尊皇の教学」という「限定的教義」を、かってに立てた段階で、著者・島田裕巳の言うとおり、「神社本庁の神宮神道」は「新興宗教(新興神道)」、新たに成立した「宗旨」として理解した方が、非政治的評価であり、客観的であろう。

そもそも、神道というものは、民衆の「一木一草に魂が宿る」というアニミズムに発するもので、その意味では、全世界に存在する素朴な(擬人化による)自然理解の一形態だと言えるだろう。つまり、西欧でも「森の精霊」や「妖精」といったものが信じられたように、日本でも、山川草木や動植物それぞれの中に「神」を見、それらとの適切な関係を結ぶための儀式として、わが神道は「形式的」に形成されていったのである。
だから、そこには「唯一神」も無ければ「教祖」も「教義」も無かった。そして、その意味では、神道は「宗教ではなかった」と言って良かったと思うし、今もそんな神道は生きている。

しかし、そんな民衆の素朴な感情が、政治利用され「国家神道」となった時に、神道は決定的に歪められてしまった。いや、歪められた神道こそが、神道(の王道)だとされてしまったのだ。

もちろん、その際に用いられたのが「天皇の政治的権威」である。
「天孫降臨の神」の末裔とされる天皇は、同時に「稲作を司る神官」の末裔だともされているが、事実関係としては「稲作を司る神官」家系の根拠・権威付けとして「天孫降臨の神の末裔というフィクション(神話)」が捏造されたと見るのが自然だろう。

言い変えれば、実際問題としては、膨大に存在する神々の中から「稲」の神様が「最も偉い」としてしまったのが「国家神道の教義」だと言い換えてもいい。もちろん、その「選択」は、極めて経済的・政治的なものであり、その意味でハッキリと「人間の都合」によるものであって、神の位格に基づくものではない。人間の都合で、人間の捏造した「神話」によって、かってに「稲作の神官(神話の神の末裔としての人間)」を「すべての神々(自然神)」の上に据えてしまったのである。

したがって「国家神道」は「政治的下克上の神道内派閥」とでも呼ぶべきものであり、そんな「栄光よ、もう一度」と画策する「神社本庁の伊勢神宮神道」は、おのずと政治的なものにならざるを得ない。そして、神道内部においても、政治的軋轢を生まないではいないのである。

しかし、神道の感情とは、本来はそういうものではなかったはずである。
神道は、自然と人間の関係を調停する、素朴な感情的システムであったのに、そこに「政治権力闘争」という「人間らしい嫌らしさ欲望(穢れ)」を持ち込んだものが「国家神道」であり「神社本庁の伊勢神宮神道」なのではないか。だからこそそこには、人間を浄化する「自然の神」が存在しない。

私は「宗教」に対しては、極めて厳しい立場に立つ者だが、もしも神道が「自然と人間の関係を調停する、素朴な感情的システム」であり続けるのならば、これをあえて「宗教」と呼ぶ必要はないと思うし、その素朴な感情をむしろ歓迎したいとも思う。
だが、政治政策としてのかつての国家神道に倣って「神道は宗教ではない」と主張する神社本庁の「宗教でなければ、政治的制約を受けない(特権が得られる)」などという「卑しい人間的魂胆」など、とうてい是認できるものではないのである。

人間的な欲望としての「権勢欲」にまみれた「人間至上主義的神道」が、郷土を汚す「原発政策」等と結びつくのも、また理の当然なのだろう。「人間の欲望を体現した宗教」は「自然(の神)」とは敵対しがちなのだ。

そうした意味では、キリスト教と同様「政治と宗教」は無縁ではあり得ない。
だが、人間の都合だけで立てられた神道は、もはや「神の道」でも何でもなく、純粋な「政治的フィクション」に過ぎないのである。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R24ZTOWAIX23MC

 

「何なの、この下らない世界は」 一一 Amazonレビュー:吉村萬壱『前世は兎』

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年11月 8日(木)23時06分51秒
  '


 「何なの、この下らない世界は」

 Amazonレビュー:吉村萬壱『前世は兎』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R17530UBBSCKX3


最初に読んだ『ボラード病』にすっかりいかれたものの、私は、吉村萬壱の良い読者ではなかったようで、『回遊人』以外の単行本化された小説はすべて読んでいるが、必ずしも趣味に合うわけでもなければ、ピンと来るものがあったわけでもなかった。しかし今回は「どうせ今回も合わないだろう」と思いながらも、ひさしぶりに読んでみる気になった。結果としては、けっこう面白かった。
まず、以前の作品ほどの抵抗感がなく、作品の世界にすっと入っていけた。その世界とは、少し狂っていてグロテスクではあるものの、どこか静謐さをたたえた、薄暗い悪夢のような世界だった。

登場人物たちは、多かれ少なかれ、狂っていたり歪んでいたりする。だが、そんな彼らを取り巻く世界は、もっと狂っており、彼らの世界に対する嫌悪や批判は、しごく真っ当なもののように感じられて、抵抗はない。
しかし、それにしても、この狂った世界は、私たちのこの世界より異常であるかと言えば、そうとも言えないのではないか。我々の住むこの現実の世界の方が、よほど狂っているように思えるし、その世界のなかで平然と生きている私たちは、作中の語り手たち以上に狂っているのではないかとも思える。

本書の前に読んでいた本は、クラウス・フォン・シュトッシュという、キリスト教神学者の書いた『神がいるなら、なぜ悪があるのか 一一現代の神義論』(関西学院大学出版会)という神学書だ。私はクリスチャンではないのだが、趣味でキリスト教を研究している。「なぜ人は、神の存在を信じることなど出来るのか?」という疑問からだ。
同書のタイトルにある「神義論」とは「神の正しさを証する議論」という意味であり、タイトルどおり「神がいるなら、なぜ悪があるのか」というクリスチャン、非クリスチャンを問わない当然の疑問に対して、神の正しさを立論しようとするものである。
「神義論」というものは、もともと「キリスト教の自己弁護論」であり「護教論」であるから、非クリスチャンの呵責のない視点から読むと、感心できる本というのは滅多にないのだが、シュトッシュの議論は、そうした過去の「神義論」のどうしようもない部分を乗り越えようとする誠実な努力に貫かれており、めずらしく感心でき好感の持てる本だった。
だが、それでも本書を読みながら思ったのは、人は「意味」に憑かれた生き物だという点だった。

表題作「前世は兎」の語り手は、人間に生まれ変わりながら、兎であった前世の記憶を持つために、人間の「分節化され意味化された世界認識」に違和感を表明するが、たしかにすべての生物の中で、人間の世界認識ほど異様なものはないであろう。その異様さの中心にあるのが、たぶん「意味」だ。
人間は、進化の過程で世界を分節化して意味化し、詳細に把握することで世界を効率的に利用できるようになった。そして、この地上の覇者になった。「意味」こそ、人間の生み出した、最大の武器であったのだ。だが「意味」とは「実在」するのだろうか?

シュトッシュは大胆にも、神の実在を理性的な思考によって証明することは出来ないと言う。しかし、神のいなければ、人間はこの世界で「正しく生きる」根拠を失うのではないか。この世界は元来無意味であり「善も悪もない」という認識を持つしかないのではないか。ならば、人はどのようにして希望を持って生きていけよう。そう考え、そこにこそ神の存在の神義論的突破口を探ろうとしている。

たしかに、そうだ。この世には「善も悪もない」「意味などない」と言ってしまうことは簡単だが、だが、それでは「力によって意味をでっち上げた者が勝ちだ。即ち正義なのだ」という考えが当然出てくるし、現に今のこの世の中は、そのとおりになっている。

だが、そんな世界は狂っている。「意味」に憑かれた我々も狂ってはいるだろう。だが「意味」に憑かれていながら「意味」を見失った世界は、もっと狂っている。そんな世界に、私たちはやり切れなさを感じるのだが、本書に収められた作品には、この度しがたい世界への押し殺された嫌悪と諦念にも似た怒りが満ち満ちている。

やはり、吉村萬壱という作家は、今の時代と誠実に対峙している作家なのだ。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R17530UBBSCKX3

 

「政治と権力と金」が大好きな神職たちの覇権主義団体:神社本庁

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年11月 2日(金)10時56分19秒
  '


 「政治と権力と金」が大好きな神職たちの覇権主義団体:神社本庁

 Amazonレビュー:藤生明著『徹底検証 神社本庁』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R21H6TIM50YB78


宗教の世界ほど「タテマエとホンネ」の乖離が激しい世界はない。
宗教に限らず、高い精神性や倫理性を掲げる集団というのは、かならず「陰の部分」「負の部分」を隠し持っている。
「高度な理想や倫理」というのは、所詮ごく一部の優れた「個人」によってのみ、ようよう担い得る個人的美質なのであって、「ある集団の構成者全員」が持ち得るようなものではない。したがって、「高度に倫理的な集団」という自称には、初手から「欺瞞」があるのだ。
しかしまた、宗教とは、信者に対し「われらこそが唯一、真理と正義を知り保持しているのだ」という「幻想」を植え付け、自分たちの掲げる「偽善的欺瞞」を疑うことのできない妄信状態に至らしめる、極めてタチの悪い「病い」でもある。

もちろん、これはキリスト教やイスラム教のような世界宗教だけではなく、わが「神道」においても何ら変わるところはない。
例えば、神道の理論家たちはしばしば「神道は宗教ではない」などと言うが、その意味は「神道は、日本民族にとっては、宗教以上のものだ」という「日本における特権性」を自己アピールするものでしかない。つまり「うちは、お隣(他の宗教)とは家柄が違うの。だから一緒にしないでちょうだい」という、鼻持ちならない自慢話でしかないのだ。神道の宮司や崇敬者は知らないのかもしれないが、もちろんこんな理屈なら、キリスト教だって言っている。曰く「キリスト教の信仰は、いわゆる宗教ではない(人類普遍の真理だ)」と。
第三者から見れば、山を拝むのも神を拝むのも天皇陛下を拝むのもイワシの頭を拝むのも、ぜんぶ「宗教・信仰」という非理性的信念であることに何ら変わりはないのに、である。

そもそも、神道を「宗教ではない」とする主張は、歴史的に見れば、神道を「特別扱い(国家神道)」にした戦時日本の「政治的意図(超国家主義)」に由来するものであり、敗戦によってその特権的地位を奪われ、逆境に立たされた「神社神道」がその失地を回復して「過去の栄光をもう一度」と目論むところに、今の「戦略的意図」も隠されてている。

戦時日本同様、神道が「宗教」でないのならば、神道は「政教分離」の原則の適用外となり、ふたたび国家から特別な地位を保証されるチャンスを窺うことも可能となる。
それでなくても、神道は今も続く天皇制と密接にからんでいるのだから、天皇制が続くかぎり、神道はいつでも「特別な宗教」でありえるのだ。だから、神道にとっては「そこらの宗教」と同じにされるのは、事実はどうあれ、政治的に得策ではないのである。

さて、ここで本書の検証対象となった「神社本庁」に話を絞ろう。
神社本庁が掲げるタテマエである「神社本庁憲章」は、次のようになっている。


『 第十一条 神職はひたすら神明に奉仕し、祭祀を厳修し、常に神威の発揚に努め、氏子・崇敬者の教化育成に当たることを使命とする。2 神職は、古典を修め、礼式に習熟し、教養を深め、品性を陶冶して、社会の師表たるべきことを心掛けなければならない。3 神職は、使命遂行に当って、神典及び伝統的な信仰に則り、いやしくも恣意独断を以てしてはならない。』(本書P30)

じつにご立派なタテマエである。これが半分でも出来ていれば、誰からも尊敬されて、どこからも批判されず、内部で訴訟沙汰を含めたいざこざや、まして殺人事件や汚職といったことなど、金輪際起こりはしないだろうし、またそんな暇もないだろう。だがこれは、「人間の現実」から乖離した「理想」や「タテマエ」であって、こんな現実など、あろうはずがない。
そのあろうはずがないものを、あたかもそのまま在るかのごとく主張している段階で、今の「神社本庁」は「嘘」をつき「神社本庁憲章」に違背している「非・神職的団体」だと断じざるを得ないのである。


『 (※ 目撃者によると)旧皇族を出迎える側のために用意された席に先に座ったのは神社本庁総長だった。ところが、後からやってきた明治神宮宮司が、中央の席に(※ 当たり前のように)座っていた神社本庁総長を下座に移動させたというのである。その様子を近くで見ていた神社関係者は、「そちら(神社本庁)は民社(旧社格で府県社以下の神社)の集まり。こちら(明治神宮)は官社(戦前、国家が運営した官国幣社の総称)の宮司だというプライドがあったのでしょうか」と解説する。
 その後、しばらくして、明治神宮が神社本庁を離脱するという騒動が起きた。
 きっかけは天皇ご夫婦が二〇〇四年に明治神宮を訪れる「参拝式」に際して、「両殿下」と敬称を誤ったまま、明治神宮が案内状を関係先に配布してしまったことにある。明治神宮側はわび状を添えて関係先に再送付し、宮内庁にも謝罪した。だが、それでも謝罪が足りないとしたのが神社本庁だった。
 神社本庁は、明治神宮の外山勝志宮司に対し進退伺の提出を求めたが、明治神宮は始末書で決着を図ろうとしたため、対立が激化。神宮側は、二〇〇四年四月二七日の責任役員会で本庁離脱を決めた。明治神宮が離脱を公告したのち、新総長に就任したばかりの矢田部正巳(三嶋大社宮司)と外山の会談が二度もたれたが、明治神宮が翻意することはなかった。』(P227~228)

まさに「子供のケンカ」である。
「大人げない」こと甚だしく、およそ『祭祀を厳修し、常に神意の発揚に努め、氏子・崇敬者の教化育成に当たる』人、『教養を深め、品性を陶冶して、社会の師表たるべきことを心がけ』ている人のすることではない。しかも両者は「日本の神社界を代表するトップ宮司」なのである。
だが、これが「現実」なのだ。まさに彼らも、そこらの爺さん婆さんと同じ「人間だもの」(相田みつを)なのだ。

もともと神社本庁は、敗戦によって特権を剥奪され、没落の危機に直面していた全国の大小神社をまとめ、連携し助け合うことを目的とした、一種の「連絡共助組織(包括宗教法人)」であり、決して全国の神社を束ねる「上位権力機関」ではなかった(神社本庁は、役所ではない)。そしてそのことは、戦後の神社界を理論的に支えた葦津珍彦が主張したとおりである。
だが「人の世の習い」として、あるいは「俗物根性の発露」として、人は「威張りたがる(人の上に立ちたがる)」「権力を振るいたがる」もので、当然、神社本庁もその例外ではなかった。

前記の「明治神宮の神社本庁離脱」事件も、上部機関のつもりでいる神社本庁の総長と、神社本庁を連絡事務機関としか見ていなかった大神社である明治神宮の宮司との「鞘当て」の結果であった。簡単にいえば「俺の方が偉い」という権威主義意識に由来する「席次争い」である。
すでに戦後の混乱期を乗り越えてひさしい、財力のついた明治神宮にすれば、神社本庁の上部機関づらは不愉快だったが、業界のつきあいとして、いわば義理で神社本庁のメンバーに止まって多額の負担金を支払っていた。にもかかわらず、こういうことがあったので「では離脱だ」となったのだが、そうなると減収が堪える神社本庁側があわてて明治神宮に慰留を求めたものの、当然、明治神宮側に止まる理由はなく、離脱とあいなったのである。
つまり、きっかけは「どっちが偉いか」という子供のケンカであり、後半は「カネの問題」という大人の事情でしかなく、そこには終始、人としての「品格」など欠片もなかったのだが、前述のとおり、これが「神社本庁と神社界上層部の現実」なのである。


『 (※ 神道に厳しく当たった)占領軍が日本を去り、やがて神社の結束(※ の必要性が低下して、その結束)がゆるむと、神社本庁の人事権は弱まるどころか、上命下服させるための「神職操縦」の切り札となった。現実には葦津が展望したような(※ 平等な連携組織という)方向へと進まず、中央集権強化が一段と進んでいるように思えてならない。
 ここ最近、神社界の中央では富岡八幡宮での惨殺事件、職員宿舎売却に端を発した神社本庁内のゴタゴタが起き、地方では大分・宇佐神社における天下り宮司と地元神職の壮絶な争いが表面化。それらは属人的な問題だけではなく、神社界の構造的な問題も浮き彫りにした。エピローグで、政治団体として解散届を出し、ステルス化(隠密化)した神道政治連盟のカネの問題にふれたが、不離一体の神社本庁もほめられたものではない。』(P257)

これが、「美しい国・日本を取り戻す」と訴える「安倍晋三政権」を支える保守運動組織「日本会議」と一体化して、政治運動に邁進する「神社本庁」の素顔である。
当然、彼らには「美しい」という言葉を理解するだけの、品性や教養は無い。それに、政治運動に必要なのは「結果」であると葦津珍彦も言ったし、そのとおりに今も彼らは「結果を出すための」運動を続けているのである。そしてその結果が、コレなのだ。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R21H6TIM50YB78

 

宮崎賢太郎批判(3)一一 鈍感と傲慢

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年10月29日(月)20時25分11秒
  '


 宮崎賢太郎批判(3)一一 鈍感と傲慢

 Amazonレビュー:宮崎賢太郎著『カクレキリシタン 現代に生きる民俗宗教』
 (https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R33NZFKN7SAPNE


すでに私は、宮崎賢太郎の著作『カクレキリシタンの実像 一一日本人のキリスト教理解と受容』(吉川引文館)と『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店)の2册について、Amazonレビューとして、

「宮崎賢太郎批判 一一 現代の異端審問官によるプロパカンダ」
「宮崎賢太郎批判(2)一一カトリック的ダブルスタンダード」

をそれぞれアップしており、宮崎の著作の問題点について、基本的な部分は指摘済みである。
その上で、今回は宮崎の「読解力」や「批評能力」という、より根本的な部分での問題点を、文芸批評的に分析批判しておきたい。事実をありのままに扱うことが建前となっている学者と言えども、こうした物書きとしての基本能力が乏しければ、おのずとその著作(意見表明)は「誤った認識」を開陳するものとならざるを得ないからだ。
総じて、今の日本の研究者は、実務能力こそ高くても、物事を徹底して考えるという批評能力に乏しいように思えてならない。「銭になる研究を求める大学改革」の弊害なのかどうかは知らないが、ともあれそんな悪しき実例の一人として、今回は宗教学者である宮崎賢太郎を批判しておきたい。


長崎純心大学教授・宮崎賢太郎教授の30年にも渡る「隠れキリシタン」研究は、地道な現地調査による極めて有意義なものであることは論を待たない。しかしまた、その研究を利用してなされる「隠れキリシタン」についての、宮崎の「判断・評価・意見」に対する批判も少なくない。
端的に言えば「カトリックを、キリスト教のスタンダード」だと思いこんでいる宮崎の、カトリック信者であるが故の価値観の偏向が、当然のことながら、学問的客観性を欠いているからである。

私は現段階で宮崎の著書を、『カクレキリシタンの実像』、『カクレキリシタン』(本書)、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』の3冊読んでいるが、その中で宮崎の出自・経歴が明示されているのは『カクレキリシタンの実像』の、次のような記述のみである。

『著者は、父方が長崎県の外海の、母方が浦上の復活キリシタンの血につながるキリシタンの末裔の一人として、長崎市内に生まれました。生後三日目にカトリック教会で洗礼を受け、その後、典型的な長崎のカトリック信者のコースをたどりました。大学院在学中イタリアに渡り、三〇歳のときに帰国して長崎にあるカトリック系の大学に奉職しました。その後三〇年にわたり、主として長崎県下に現存するカクレキリシタンの調査研究に従事してきました。』
(宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』P4「はじめに」より)

言うまでもなく(5年以上のバチカンに留学していた)宮崎は、べったりのカトリック信者であり、カトリック信仰の相対化などまったく出来てはいない。それが出来ていれば、自身の認識的偏向を自己分析して語ることをするだろうし、「隠れキリシタン」評価の前提としての、自身の立場を律儀に明示しもしただろう。
だが、自身がカトリック信者であるという基本情報を書いたり書かなかったりするのは、宮崎に自身の「立場」と「批評という行為」についての認識が極めて薄いからだ。「自分はカトリックだけれど、学者だから、当然客観的に評価している」などと単純に思いこめるほど、浅薄な自己認識しか持っていない証拠なのである。

さて、そんな宮崎のどうしようもなさは、本書の冒頭付近の、次のような言葉にも明らかである。

『 私のカクレキリシタン研究の結論である、「彼らは隠れてもいなければ、キリシタンでもない」という見方からすれば、すっきり片仮名で「カクレキリシタン」と表記するのが最善であると思う。残念ながら百科事典や新聞記事を依頼してくる編集者はいまだに隠れキリシタンに拘泥している人が多い。私の説明には充分納得しても、辞典の項目は是が非でも「隠れキリシタン」でなければ困るらしい。項目名さえ「隠れキリシタン」で揚げるのを認めてくれたら、説明文はカクレキリシタンを使用いただいて結構ですという。困ったものである。
(中略)
 小説家はほぼ一〇〇%「隠れキリシタン」だ。芥川賞を受賞した青来有一氏の『聖水』にも私の本を参考文献として揚げていただいているが、やはり「隠れキリシタン」だ。理屈はともあれ、みんな隠れることが好きなのかもしれない。隠された秘密を垣間みるのが好きなのではないか。カクレキリシタンには隠れていて欲しいという、ひそかな願望がその表記法にも投影されているように思われてならない。宗教とは本来ミステリアスな存在であって、神秘的であればあるほど強く心ひかれるものである。』(P27~28)

「隠れキリシタン研究の権威」である大先生は、周囲の無理解にいささかお冠である。
「なんで私の言う道理が理解できんのだ。本当に脳内ファンタジーの馬鹿ばかりで『困ったものである。』」と。
だが、編集者や小説家が「隠れキリシタン」という言葉に拘泥するのは、それ相応の理由があってのことだ。それを宮崎先生が理解できない(察することが出来ない)だけなのである。

宮崎の言う「カクレキリシタン」という表記の正しさの根拠というのは、極めて即物的な「彼らは隠れてもいなければ、キリシタンでもない」という認識にある。
日本でキリスト教への禁教令が解除された後は、それまで隠れていたキリシタンたちも隠れている必要がなくなったので「隠れてもいない」というのが事実である。また、禁教時代のキリシタンも含めて彼らはまともにキリスト教の教義を知らないまま、神道や仏教をベースにキリスト教のガジェットが混じり込んだ民俗宗教を信じていただけなのだから、そもそも彼らはキリシタンではない、というのが宮崎の意見だ。だから、潜伏キリシタンの末裔である、禁教令解除後の隠れていないキリシタンたちについては「隠れキリシタン」ではなく、音だけをを引き継いだ「カクレキリシタン」と表記した方が誤解が無くていいと、ただそれだけの話なのである。

宮崎も言うとおり、多くの部外者は「隠れキリシタン」に対し「美しきファンタジー」を見ているというのは事実であろう。「でも、カクレキリシタンは、到底キリシタンと呼べるようなもの、あなた方が無知なまま勝手にイメージするようなものではないんですよ。あれはキリスト教とはとうてい呼べない代物なんだ」と、そう宮崎は嘆き苛立っているのだ。
だから「カクレキリシタンはキリスト教徒だ」という世間のファンタジー(誤解)が貼付いた「隠れキリシタン」という言葉ではなく、自身がカトリックの立場から「キリスト教性を漂白した」言葉としての「カクレキリシタン」という言葉を「布教」したいのである。

しかし、言葉の専門家である編集者や小説家は「言葉」というものを、そんな風に単純には捉えてはいない。
言葉とは「歴史を背負った」ものであり、「語義」という意味での「実用性」だけのものではないのである。
つまり「隠れキリシタン」という言葉には「キリシタンと呼ばれて迫害された人たちの、言語に絶する過酷な運命の歴史が、血文字として刻まれている」のである。だから、それに連なる信仰者(末裔)たちは、たとえその信仰が「カトリック」のそれと似ても似つかなくても、すでに隠れる生活をしていなくても、やはり「隠れキリシタン」なのである。
そのことが「キリスト教の正統信仰」を自称するカトリック教会の信者である「権威主義者」の宮崎には、どうしてもはわからない。

じっさい、宮崎が思うほど、編集者も作家も馬鹿ではない。「隠れていてくれた方が夢があっていい」なんてお気楽なことだけを考えているわけではない。もちろんそういう人も中に入るだろうが、少なくとも「イエスは処刑後、三日目に復活した」とか「マリアは無原罪で生まれ、処女懐胎し、肉体を持ったまま天に登った、普通の人間である」なんて「わけのわからないファンタジー」を信じている(はずの)宮崎から、「脳内ファンタジー」呼ばわりされたくはないだろう。

編集者が、宮崎教授の『説明には充分納得しても、辞典の項目は是が非でも「隠れキリシタン」でなければ困る』と言うのは「カクレキリシタンという新造語は、貴方(宮崎)の個人的な考えに基づく特殊用語でしかありませんから、貴方の理屈は分かりますが、まだ一般用語としては使えませんよ。そもそも私が貴方に原稿を依頼したのは、実際のところ、貴方の肩書きに原稿依頼しただけなんですし」と率直に言うことを、職務上の配慮として遠慮しているだけなのだ(学者を「先生」呼ばわりしている編集者や小説家が、学者を心から尊敬していると思うのは、愚かである。会社で「馬鹿でも社長は社長」なのと同じことだ)。
そして、この程度のこともわからないのは、宮崎が、人の心が分からない、純粋培養で世間知らずのカトリック信者であり、かつ権威主義者の「大先生」だからである。
そして、宮崎賢太郎の著作は、こういう「読解力」や「批評能力」の上に書かれたものなのである。


なお、東大の助教である岡美穂子が「宮崎先生への批判について考える」という文章を書いているが、これもおよそ中味の無い浅薄な擁護論で、これが今の学者の「素顔」や「学者間のおつきあいのあり様」を示している。岡のそれが、多くの「宮崎賢太郎批判」への反論になっているか否か、ぜひ参照願いたい。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R33NZFKN7SAPNE

 

宮崎賢太郎批判(2)一一 カトリック的ダブルスタンダード

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年10月27日(土)18時33分21秒
  '


宮崎賢太郎批判(2)一一 カトリック的ダブルスタンダード

Amazonレビュー:宮崎賢太郎著『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R269VNMZMMNSDF


キリスト教について、ある程度の知識がある者にとっては、本書における著者・宮崎賢太郎教授の「ご意見」は、およそ穴だらけで、お話にならない代物である。

本書には書かれていないが、宮崎は、

『父方が長崎県の外海の、母方が浦上の復活キリシタンの血につながるキリシタンの末裔の一人として、長崎市内に生まれました。生後三日目にカトリック教会で洗礼を受け、その後、典型的な長崎のカトリック信者のコースをたどりました。大学院在学中イタリアに渡り、三〇歳のときに帰国して長崎にあるカトリック系の大学に奉職しました。その後三〇年にわたり、主として長崎県下に現存するカクレキリシタンの調査研究に従事してきました。』
(宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』P4「はじめに」より)

という経歴の持ち主である(※ 「イタリア」とは、もちろんバチカンのことである。つまり宮崎は、総本山がえりのエリートだ)。
この明白な、しかし、いささか屈折した出自と経歴を考え合わせれば、宮崎の主張の一貫性の無さや感情論的傾向の存在も、自ずと理解できる。

宮崎の「偏見」「屈折」の理由は、彼が一貫したカトリック信者であり、その中で職を得て、今の立場を確立したという「現実」が、まず大きい。
次には、彼が「正統カトリックの信仰とは程遠い、異端と呼ぶにも値しないほどに変容した信仰しか持たなかった隠れキリシタンの末裔であり、その隠れキリシタンの信仰を捨てて、権威あるカトリック教会に転宗した(転んだ)者の末裔」であるという事実にある。

つまり、彼は「客観的な学者」の振りをしており、本人も半ばそのつもりなのだろうが、実際には、彼の根底にあるのは「カトリック信仰は、何よりも素晴らしい」という「信仰者特有の主観的(手前味噌な)価値判断」と「主流の中の傍流出身者としてのコンプレックス」なのである。

後者「主流の中の傍流出身者としてのコンプレックス」について簡単に説明すると、これは「外様意識が嵩じて、生まれながらの主流者よりも、強く主流・正統派であろうと忠誠を尽くす」強迫心理的態度だ。
さらに噛み砕いて言えば、生まれながらの王様なら、自分が王様であることを殊更にアピールする必要など感じないだろうが、成り上がり者はいつ周囲から脚を引っぱられるかわからないという不安があるので、ことさらに自分の正統性をアピールしたがる、といったものだ。そうした態度が「正統カトリック信仰とは程遠い、異端と呼ぶにも値しないほどに変容した信仰しか持たなかった隠れキリシタンの末裔であり、その隠れキリシタンの信仰を捨てて、権威あるカトリック教会に転宗した(転んだ)者の末裔」である、宮崎の「屈折した身振り」にはよく表れている。

だが、宮崎の「非論理性」をわかりやすくに示すのは、やはり「カトリック信仰は、何よりも素晴らしい」という信仰者特有の主観的価値判断を内心で持ちながら、それを隠して、ことさらに「学者的客観性」の持ち主であることを自己アピールしている点にある。

『なにが「事実(fact)」であり、何が作られた「物語(stiry)」であるかをしっかりと再確認する必要がある。事実は信仰を危うくすることはない。危ういのは、事実から目をそらし、夢とロマンの物語の世界から抜け出そうとしないことにある。』(P87)

『「夢とロマンの幻想世界」から目を覚まし、常識という偏見にとらわれない自由な眼差しで、実像の歴史を明らかにしていくことの大切さ』(P287)

と、このように立派に宣言した上で、本宮崎は、カトリック教会で語られる、日本での「信徒発見の奇跡」について、内容的に全くリアリティーないとし、「謎の日本人伝道師バスチャン」についても、

『 この話は少々できすぎているような気がしないではない。まず、バスチャンという日本人伝道師と、その師ジワン親父が実在の人物かどうかは、資料の上では確認できない。外海で活動したジワンという神父が実在の人物であったならば、その動向がまったく記録に残されていないということはありえない。
 またジワンをめぐる多くの話も、「海上を歩いて遠くの波間に消え失せてしまった」とか、「指で椿の幹に十字を印すと、幹に十字の印が浮き出た」といった荒唐無稽な伝承である。』(P160)

と、カトリック的な伝承を、学問的に否定して、日本における「信徒発見の奇跡」は、

『日本のキリシタンたちを、真正なキリスト教徒として再生させるために、プチジャン(※ 神父)が創作した自作自演のドラマと見るのが至当であろう。』(P172)

と適切に断じて見せもする。

しかし、誰もが気づくとおり、このように『なにが「事実(fact)」であり、何が作られた「物語(stiry)」であるかをしっかりと再確認する必要がある。事実は信仰を危うくすることはない。危ういのは、事実から目をそらし、夢とロマンの物語の世界から抜け出そうとしないこと』だと主張するのならば、どうして宮崎は「カトリックの信仰」自体が「事実(fact)」ではなく「物語(stiry)」に過ぎない、ということを当たり前に直視できないのか?
それをしたところで『事実は信仰を危うくすることはない。』のではなかったのか?

だが、宮崎のこの「心にもない奇麗ごと」に反して、実際には「事実は信仰を危うくする」。

宮崎は、日本でキリスト教の教勢が伸びないという「事実」の理由を、もっぱら「日本人の舶来ロマン主義」が、キリスト教の変容土着化を妨げ、その結果、

『キリスト教徒になるには、それまでの自堕落で、いい加減な、ご都合主義的な生活態度を改めなければ、「敬虔なクリスチャン」になれないとしたら、敬遠したくなるのもむりはない。』(P252)

といった「日本人の側の特殊事情」に求める。
しかし、二昔前もならいざしらず、現在でも日本でキリスト教信者が増えないのは、こんなカトリック教会に都合のよい理由だけではないだろう。

今の日本人ならば、高学歴者ではなくても「キリスト教の胡散臭さや偽善性」は、多少なりとも知っている。
異端審問や十字軍による虐殺行為をまったく聞いたことがないという日本人は多くはないだろうし、カトリック教会の世界伝道が、かつては帝国主義的植民地開拓と一体化したものであったという話も耳にしたことがあるだろう。また最近では、カトリック司祭による「性的な児童虐待」といったニュースにも接しているかもしれない。
つまり、クリスチャンと言えば「敬虔」だという紋切り型のイメージは、日本人にとっても、ことの一面であって、それがすべてではないのに、宮崎は『カトリック教会に都合のよい理由だけ』を語りたがるのである。

『事実は信仰を危うくすることはない。』と主張する宮崎は、なぜカトリック教会に不都合な「事実(fact)」を語ろうとしないのだろうか?
それは無論『事実は信仰を危うくすることはない。』なんてことを、自身も信じてはいないからである。

本気で『事実は信仰を危うくすることはない。』と信じているのであれば、宮崎は『ジワンをめぐる多くの話も、「海上を歩いて遠くの波間に消え失せてしまった」とか、「指で椿の幹に十字を印すと、幹に十字の印が浮き出た」といった荒唐無稽な伝承』を否定するだけで、イエスやマリアに関する『荒唐無稽な伝承』の方は無条件に信じる「正直で敬虔なカトリック教徒」などといった「一貫性を欠いた」人間でいられるものであろうか?
なぜ「そんな荒唐無稽な話、あり得ないでしょう?」と、宮崎は言えないのか?

それは、最初に書いたとおり、宮崎がカトリックとして生まれ育ち『その中で職を得て、今の立場を確立したという「現実」』を背負って、今の現実を生きているからである。
つまり、今更「カトリック信仰は、荒唐無稽な物語(stiry)に過ぎず、それを信じるのは「夢とロマンの幻想世界」に耽溺することでしかない」と正直に言ってしまうと、「今の地位と信用を失うから」に他ならない。

それは、宮崎が、カトリックに「帰正」しなかった「カクレキリシタン」の「やめたくても、周囲の目があるのでやめられない」という趣旨の発言を紹介して、それが本音だろうなと理解共感を示していることからも容易に窺うことが出来る。

『「(略)カクレをやめればたたられるとかもしれない、自分だけやめれば仲間外れにされるかもしれないなどと考えてやめられなかったが、全員がやめることによってやっと解放されたという気持ちである。なにはともあれ行事が大変すぎた」
 この言葉には解散した彼らの気持ちがよくあらわれている。』
(宮崎賢太郎『カクレキリシタン』P131)

『多くの信徒は早く解散したいと思っていても、長く役職を務めた長老が絶対にそれを許さないので、仕方なく続けているケースもあります。現職の役職者として、テレビや新聞紙上で、本音は早く解散したいなどと立場上言えないこともあります。』
(宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』P193)

隠れキリシタンだけではなく、どんな宗教宗派でも、そのコミュニティーの中に入って地位を築いてしまえば、その宗教宗派の教義を「荒唐無稽な物語(stiry)」に過ぎないなどと断じることは、現世的な損得勘定としても出来なくなってしまうし、いきおいそういう人は「敬虔な信者」を演じ、自分でもそうなのだと「自己暗示」をかけてしまいがちなのである。
しかしそれは、宮崎自身が批判した『事実から目をそらし、夢とロマンの物語の世界から抜け出そうとしない』態度であることは、論を待たない。

『 このようなたとえ話は噴飯ものかもしれないが、ある宗教がキリスト教に対して、次のようにいったとしたらどうであろうか。返答は断固ノーであろう。
「十字架にはりつけにされたような罪人が、死んで三日目に生き返ったなんて話は真っ赤な嘘で、マリアの処女懐胎というのも荒唐無稽な作り話である。進化論や地動説など、聖書も誤っていることが、科学によって証明されており、キリスト教は偽りの宗教である。ゆえにあなたは十字架やマリア像や聖書などをただちに焼き捨て、こちらの宗教に改宗しなければ救われません」
 キリスト教はこれと真逆のことを、自分で気づかないうちに、日本の諸宗教に押しつけてはこなかっただろうか。』(P277~278)

このたとえ話が『噴飯もの』となり得るのは、キリスト教にこう問うたのが「他の宗教宗派」だった場合であって、こう問うたのが「非信仰者」や「無神論者」であったならば、決して「噴飯もの」では済まされなくなる。

つまり、似たような『荒唐無稽な作り話』を信じている「宗教信者」同士だからこそ「目くそ鼻くそを嗤う」といった類いの批判は「噴飯もの」でしかないのだが、宗教が語る教義や世界観を「それは、事実(fact)ではなく、物語(stiry)にすぎない。現実を直視し、自己欺瞞でしかない信仰を捨てよ」と追及する「非信仰者」や「無神論者」に対し、カトリック信者である宮崎は、決して『返答は断固ノー』だけでは済まされない。
なぜならば、そうした態度は、自らが主張した『「夢とロマンの幻想世界」から目を覚まし、常識という偏見にとらわれない自由な眼差しで、実像の歴史を明らかにしていくことの大切さ』を無視黙殺した、非理性的に頑な「妄信者」的態度に他ならないからである。

宮崎は、こうした自己矛盾や「カトリック的ダブルスタンダード」批判に対する予防線として、次のように書いている。

『奇跡を信じ、そのような(※ カクレキリシタンについてのような、非現実的な)歴史を称えるのは、信仰の立場からは認められるが、実証的な学問の立場からは受け入れられない。』(P170)

つまり宮崎は、自身についてもまた「信仰者の立場」としてなら『十字架にはりつけにされたような罪人が、死んで三日目に生き返ったなんて話は真っ赤な嘘で、マリアの処女懐胎というのも荒唐無稽な作り話』も「嘘でも作り話でもないと信じられるし、そうした妄信は許される」と言いたいのであるが、これが手前味噌な「ダブルスタンダード」であることは論を待たない。

そもそも『十字架にはりつけにされたような罪人が、死んで三日目に生き返ったなんて話は真っ赤な嘘で、マリアの処女懐胎というのも荒唐無稽な作り話』を「嘘や作り話ではないと信じられるし、そうした妄信は許される」と主張することは、じつはその人が(この場合、宮崎自身だが)「イエスの復活やマリアの処女懐胎」あるいは「(人間)ローマ教皇の無謬性」などを、本音では「信じていない」ということにしかならないのである。

だからこそ、その後ろめたさと社会的保身の故に、宮崎は「カトリックの教勢」の心配をし、多少は妥協してもいいから土着化を進めろなどという、教義に反した「政治的(現実的)助言」までして見せる。自論とも齟齬があるにもかかわらず、コニュニティーにおける責任を果たしているというポーズを採りたがるのだ。
しかし、そこにあるのは「学者」の姿ではないし、純粋な「カトリック信者」の姿でもない。

このようなわけで、宮崎賢太郎の「隠れキリシタン」を対象とした「事実関係に関する調査研究」についてなら、それを高く評価するに吝かではないけれども、その成果を利用した、彼の「判断・評価・意見」は、彼の「党派性」や「政治性」によって、まったく信用できない代物だと、私は厳格に評価せざるを得ないのである。

宮崎賢太郎のやっていることは、研究成果を利用した、いかにもカトリックらしい「宗教的党派政治」にすぎないのである。



【補記】
私は現段階で、宮崎賢太郎の著作を『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』(吉川引文館)、『カクレキリシタン 現代に生きる民俗宗教』(角川ソフィア文庫)、『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(角川書店)の順に3冊読んでいる。
そして、最初の『カクレキリシタンの実像』を読んだ段階で、Amazonレビューとして「宮崎賢太郎批判 一一 現代の異端審問官によるプロパカンダ」と題する文章をアップしているので、併せて読んでいただければ幸いである。
なお、3冊読んだ現段階でも、先のレビューを修正する必要は感じていないという事実を申し添えておこう。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R269VNMZMMNSDF

 

SF的舞台の特殊性と人間問題の普遍性

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年10月24日(水)22時19分10秒
  みなさま、本日はSF的要素のあるマンガを中心に、いろいろ書かせていただきました。
いずれも、SF的なアイデアやプロットの斬新さが売りの作品ではなく、SF的に特殊に誇張された世界だからこそ、よりくっきりと浮かび上がる人間の問題を描いた作品のように思います。

私は結構『アイデアやプロットの斬新』な作品を求める傾向があるのでございますが、しかし、そうした部分で私を満足させてくれる作品はそう多くはなく、結局は「人間」の部分で魅力のある作品が、満足を与えてくれることの方が多いように存じます。
これは、歳を重ねていろんな作品に接し経験を積んでいけば、おのずと大概の作品には驚かなくなるということでございましょうし、そもそも斬新さというのは先端のごく一部分でしかないということもございましょう。
その点、人間の問題は、歳を重ねるほど理解が深まるものであり、なにより普遍的なものでございますから、作品の数の問題として、こうなってしまうのも当然のことではございましょう。
したがいまして、私は今後もきっと、斬新さを求めつつ、人間的な部分を掘りさげた作品を楽しんでいくことになるのではないかと、斯様に考えている次第でございます。


オロカメンさま


感想《漫画『銀河の死なない子供たちへ』と『どこか遠くの話をしよう』》

いつもお書き込み、ありがとうございます。

> 施川ユウキの最新SF長編マンガ『銀河の死なない子供たちへ』上下巻読みました!

楽しんでいただけたようで、オススメした甲斐がございました。

ところで、オロカメンさまは『ギャグ漫画家であり結構なSF者である施川ユウキ』と書いておられますが、私には施川ユウキが『ギャグ漫画家』という認識が、ほとんどありません。
と申しますのも、私の「施川ユウキ観」は「根底にあるのは心寂しい叙情性であり、それを韜晦するものとしてのギャグ」だという認識があるからでございます。つまり、施川のギャグは「煙幕」であって本体ではないので、施川を「ギャグ作家」と呼ぶのは抵抗があるのでございます。

私がこのような施川ユウキ観を持ったのは、デビュー作の『サナギさん』からで、その後も一貫しております。
終末後の世界を描いたSF作品『オンノジ』や『ヨルとネル』などの場合、施川の叙情性はわりとわかりやすく表出しておりますが、一般にギャグ漫画と分類されるであろう『サナギさん』も、やはり「孤独と友情=友といることの温もり」みたいなものがしばしば登場します。そして、そうしたものが照れくさいからこそ、施川は作品をギャグ的にしたり、SF的な設定を借りたりするのではないかと考えます。

しかしまた、『サナギさん』や『バーナード嬢曰く。』のようなギャグ漫画のなかで時折表出される施川の叙情性が印象的なのに対し、『銀河の死なない子供たちへ』以前のSF作品は、ややそうした叙情性に表出に流されてしまっており、作品としての骨格を欠くという弱さが否定できなかった。
ところが『銀河の死なない子供たちへ』は、しっかりとしたSF的プロットの上に、施川らしい叙情性が盛られたので、傑作になったのではないかと、私は評価しております。

ですから、オロカメンさまがご指摘なさっている「ありがちなSF設定」というのは、まったくそのとおりだと存じますが、それがこの作品の本質にかかわる部分ではなく、むしろ「借景」的なものであるからこそ、そうしたSF的オリジナリティの部分が問題にはならず、施川らしい傑作になったのだと存じます。

> 須藤真澄さんの長編マンガ『どこか遠くの話をしよう』をご紹介したいと思います!

さっそく読ませていただきましたが、たいへん良い作品でございました。
この作品も、SF的な仕掛けの部分は、上巻の帯文だけでだいたい想像できてしまう態のものでございましたが、それが欠点にはならない作品になっていたと存じます。
と申しますのも、本作の良さというのは、やはり「人物描写の的確さ=人間が描けている」点にあって、アイデアや意外性にあるからではないからでございます。「子を想う親の気持ち」「親を思う子の気持ち」というものが的確かつ魅力的に描かれていたからこそ、この作品は傑作になった。

ちなみに、プロット的仕掛けについて『だいたい想像できてしまう』と書いたのは、完全に当てたわけではなく、すこし考え過ぎたからでございます。つまり私が予想したものより、実際にはかなりシンプルなプロットでしたが、それは決して弱点にはなっておりませんでした。前述のとおり、そこはもう読みどころではなかったからでございます。

> 花沢健吾の漫画『ルサンチマン』

前回のお書き込み
感想《花沢健吾の漫画『ルサンチマン』》」
でオススメいただきました、同作も読ませていただきましたよ。

こちらは、絵柄がうるさくて私の好みではありませんでしたが、お話としては良く出来ていたと存じます。
しかしまた、どこかで読んだ(視た)ことがあるような話だなという印象も拭えませんでした。

例えば、モテない男が疑似現実やセクサロイドで欲望を満たそうとして、様々なトラブルに巻き込まれるというお話なら、前にも言及いたしました桂正和の『電影少女』など多数の前例がございますし、後半の人工生命の人類への反逆といった部分では、手塚治虫の原作をりんたろう監督が長編映画化した『メトロポリス』も、ほぼ似たようなお話でございました。

映画そのものを視ていないので詳しくは存じませんが、手塚治虫の『メトロポリス』は、フリッツ・ラング監督による1927年の実写映画『メトロポリス』の影響を受けた作品だったはずで、その映画に大きな影響をあたえたのが、たぶん、1886年に発表されたヴィリエ・ド・リラダンによるSF小説『未来のイブ』ではなかったかと記憶いたします。
で、先日、友人とのLINEのやりとりで、友人が最近刊行された光文社の新訳文庫版『未来のイブ』が面白かったというので、『未来のイブ』を未読だった私も、この機会に読むことを決意いたしました。
もっとも、その友人も「創元ライブラリの齋藤磯雄訳の方が趣があって良いのでは」ということでしたので、中井英夫ファンとしても、中井が絶賛した齋藤磯雄の訳書をこの機会に読もうかと創元ライブラリ版を購入し、近々これを読む予定なのでございます。




それでは、みなさま、お休みなさいまし。

http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

 

〈論点整理〉非在の神への信仰に正誤なし 一一広野真嗣『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」長崎・生月島の人々』

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年10月24日(水)17時39分57秒
 


  〈論点整理〉非在の神への信仰に正誤なし
   一一広野真嗣『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」長崎・生月島の人々』評
    (https://www.amazon.co.jp/review/R5IG43PPHR58D


近年の「隠れキリシタン」研究を主導してきた、長崎純心大学教授・宮崎賢太郎の著書が、カトリック信仰の正統性や優等性という手前味噌な「党派制」を内面化した、偏頗なものでしかない、という点を鋭く指摘した点において、本書は「隠れキリシタン研究」に重要な一石を投じる作品として、極めて高く評価できる。

にもかかわらず、amazonレビューにおいて、本書の評価が大きく二分される理由は、キリスト教と一口に言っても、カトリックとプロテスタントでは、信仰に対する考え方がまったく違っており、決して相容れない部分があるからだ。
その違いの意味を理解せずに、原理原則と現実適応のいずれが大切なのかと議論しても、初歩的な水掛け論にしかならない。

そもそも「宗教」というのは「文化的フィクション」に過ぎないと考える「無神論者」にとっては、「カトリックとプロテスタントの、どちらの考え方が正しいのか?」という設問自体が、無意味である。
なぜなら、どちらも根本的に間違っており、間違った者同士が「こちらが正しい」と言い合う、不毛な争いに過ぎないからだ。

しかし、キリスト教を始めとした「宗教」が、所詮は「願望充足的フィクション」に過ぎなかったとしても、それが人間文化に多大な影響を及ぼし、文化発展の原動力にもなったという事実は、誰にも否定できない。
つまり「宗教」は「実効性のあるフィクション」であり、そうした有力な「人間文化」の一つとして、宗教は一定の敬意と尊重を持って遇せられるべきものでもあるのだ。

「宗教」とは「現実理解(認識)としては間違い(虚妄)ではあるものの、結果としては人間文化に大きな力をもたらしたフィクションである」というのが、平均的な非信仰者の「信仰」理解であると言えるだろう。自分では信じないが、他人の信仰(宗教)を頭ごなしに否定しはしない、という態度である。

したがってここには、

(1)科学的な非宗教的(一般的)世界観と宗教的(信者的)世界観との対立の位相
(2)宗教の社会に対する実効的価値を認めた上で、宗教宗派の文化的優劣を論ずる(文化論的)位相
(3)宗教教義を絶対的真理と前提して、その上で優劣正邪を論ずる(宗教内的)位相

の、三つの位相が絡まり合って存在する。

本書で論じられるのは、もっぱら(2)と(3)の混交した位相においてである。
そして、その曖昧さによって、本書は「一般的人情に訴える作品」にはなっているものの、「宗教の存在(価値)論」を突き詰めるような本質的価値までは持ち得ていないのだ。

何故そうなるのか。
それは、本書の著者の立場が、「いちおうプロテスタント」に止まる自称『ペーパークリスチャン』でしかないからだ。
つまり、どこまでキリスト教の教義を信じているのかが、読者には不分明(例えば「イエスは処刑後3日目に肉体を持って復活し、肉体を持ったまま天に昇った」なんてお話を信じるのか、かなり疑問)だし、また本人にとっても「いい加減」に放置されたまま、カトリック的(宮崎賢太郎的カトリック絶対主義)立場の是非を否定的に論じてしまっているようにしか見えない。

だが、人の絶対的立場を批判する時に、批判者の側の立場が定まらず、時に都合よくクリスチャンであったりなかったり出来る「非信者に極めて近い信者」という「中途半端で無責任な立場」を採るというのは、批評的にフェアなものだとは到底言えまい。

著者・広野真嗣のこうした立場、つまり前記(2)と(3)の曖昧に混交した立場から書かれたものだからこそ、本書の評価は、自ずとハッキリ分かれざるを得ないのである。
つまり、(2)の位相において本書は、非信仰者や非クリスチャンの「判官びいき的人情」に訴えて高く評価される一方、(3)のキリスト教信者の位相においては、自身の信仰的立場(教義的真理)に責任を負っているカトリック信者からは当然の反発を受け、おのずと対立せざるを得ず、そうした強信者たちと、「信仰は厳格であるべきか、そこそこ寛容にやればいいのか」という点で対立せざるを得ないのだ。

私はすでに、本書でも批判的に言及されている宮崎賢太郎の著書『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』について、「宮崎賢太郎批判 一一 現代の異端審問官によるプロパカンダ」と題したamazonレビューで、その傲慢かつ陰険な「隠れキリシタン」誹謗を批判している。
宮崎の宗教民俗学的研究については、もちろん高く評価するに吝かではないが、その研究成果のカトリック的「政治利用」を容認することは出来ず、もっぱらその点において「星1つ」という評価を与えた。

それとは逆に、本書に対しては、上記のような本質的不満を抱きながらも「星5つ」という高い評価を与えたのは、本書の宮崎賢太郎批判の立場がもっと注目され、宮崎によって隠微なかたちで毀損されてきた「(カトリックに帰正しなかった)隠れキリシタン」の信仰的尊厳と名誉が回復されなければならない、と考えたからである。

私は、基本的に非信仰・無神論の立場に立つ者であり、宗教やオカルトはすべて「虚妄」だという立場である。
そしてその上で、しかし人間という存在はそうした「幻想」無しでは生きられないという「弱さ」の実在をも直視するからこそ、常に宗教的現実を厳しく検証していかなければならないと考えている。
言い換えれば「宗教なんて所詮は幻想なんだから、相手にする必要はない。あれは馬鹿のすることだ」などというお気楽な現実認識をも批判する立場なのである。

だからこそ、「隠れキリシタン」というものの現実を客観的に評価すると同時に、メジャー宗教たるキリスト教もまた、同じ意味で厳格に評価されなければならない。

宗教の本質的無実態性において宗教を論じるに値しないものと考える宗教全否定論も批判するし、宗教的実効性の故に宗教を大雑把に高く評価したりする安直な宗教肯定論も批判する(カトリックもオウム真理教も同じ宗教であり、新旧の問題ではない)。

そのようなわけで、著者・広野真嗣には「ペーパークリスチャン」などといういい加減な免罪符で、無責任な宗教論を語って欲しくはない。
宗教をめぐる発言を公にするのであれば、まず自身の足下をしっかり踏み固めた上で、責任ある発言をして欲しいと要求したいのである。

よって、本レビューは、個別宗教論の側面よりも、その前提となる、言論人の責任論を語ったものだと理解してもらえれば幸甚である。

https://www.amazon.co.jp/review/R5IG43PPHR58D

 

宮崎賢太郎批判 一一 現代の異端審問官によるプロパカンダ

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年10月23日(火)21時37分7秒
 


宮崎賢太郎批判 一一 現代の異端審問官によるプロパカンダ

Amazonレビュー:宮崎賢太郎著『カクレキリシタンの実像 一一日本人のキリスト教理解と受容』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R262MBWI6Z092Q?


いかにもカトリックらしい、慇懃無礼で陰険な、異端誹謗の書である。

キリスト教のことをほとんど知らない日本の読者は無論、聖書の通読すらままならない不勉強なクリスチャンなら、この程度でも説得されるのだろうが、カトリックの歴史と教義史を多少なりともかじった者には、あちこちに欺瞞の手つきが透けてしまう。

信教の自由が保証されたこの時代になっても、先祖伝来の信仰を捨てようとしない頑迷固陋な隠れキリシタンたちなど、はっきり言えば、許さざる「異端」でしかない。
しかし、第2バチカン公会議を経た今の時代、仮にも洗礼を受けた者の末裔の真面目な信仰を、頭ごなしに「異端」だ、取るに足らない野蛮な「土俗宗教」だと呼ぶわけにもいかない。
しかしまた、あんなものを我々正統なるカトリックと同じキリスト教だなどと思われては迷惑千万。したがって、隠れキリシタンがキリスト教徒などではないということを、非クリスチャンの方にも、とっくりと理解してもらおうではないか。
?? これが、本書の趣旨である。

本書は、著者・宮崎賢太郎が長年研究してきた隠れキリシタンの習俗を紹介しつつ、宮崎の「見解主張」を紹介した本だが、ここに表れているのは、信仰心が「学者としてと客観性」を失わせしめ、その判断評価をカトリックの信仰に都合よく偏向せしめられたという、憐れむべき事実である。

宮崎はなぜ、ここまで隠れキリシタンの信仰がキリスト教信仰とは似ても似つかないものだと強調したがるのか?

それは、隠れキリシタンとしての伝統と先祖への連帯を捨てて、世界に冠たるカトリック教会という「正統権威」に「転向したというやましさ」が、「帰正」信徒の子孫である宮崎自身にあったからではないか。

異端審問や十字軍といった「血まみれの歴史」を後ろ手に隠す正統教会。その継続的な教導を受け得なかった隠れキリシタンたちの中にこそ息づく素朴な「信仰心の真髄」を見ず、所詮は歴史的に創作構築されたものでしかない「正統教義」と比べて、隠れキリシタンのそれが形式的にいかに違ったものかを、否定的に問題にしなければならないのは、カトリック教会に「帰正」した宮崎たちこそが一種の「転び」で、隠れキリシタンの伝統を守る者たち、カトリック教会に再回収されなかった者たちへの「負い目」があり、滅びを受け入れてでも信仰を変えようとしない彼らが、なんとも目障りな存在だったからではないのか。

もちろん、こうした負い目や無意識的なコンプレックスに促されて、宮崎が隠れキリシタンたちを否定的に評価したというだけなら、学者としてはお粗末な無自覚的言動であったとしても、盲信的信者としてはやむを得ないと言えないこともない。

だか、隠れキリシタンの信仰は現世利益の曖昧な俗信であり、イエスやマリアに祈り捧げる高尚な信仰とは大違いだという「手前味噌なイメージ」を読者にむけて執拗に繰り返し、信仰としての「貴賎差別」を露骨に語っておきながら、最終章では、日本ではキリスト教がいっかな広まらないという周知の問題にからんで、それまでの主張に反する「キリスト教の土着化」の必要性に訳知り顔で言及したかと思えば、キリスト教徒は増えなくても「キリスト教精神」の方は日本人にも広く根付いているのだから、別に洗礼を受けた信者が増えないことばかりを問題にする必要はないなどと、非クリスチャンの日本人読者向けには耳障りがいいが、カトリックの根本教義を軽んずるような極めて無責任な発言をするところなどを見ると、宮崎の欺瞞性はとうてい無自覚なものと見るわけにはいくまい。
「教会の外に救いはない」し、洗礼を受けなければ、無垢な赤子ですら天には召されない、神の国には入れないというのが、カトリックの売りではないか。(※ D・I・カーツァー『エドガルド・モルターラ誘拐事件』を参照せよ)

原発ムラ学者の抜け目のない物言いを「東大話法」と呼んだりするが、さしづめ宮崎のそれは、偽善的なダブルスタンダードを弄する「カトリック話法」とでも呼ぶべきだろう。

それでも、第2バチカン公会議において主導的な役割を果たした、リベラルな神学者カール・ラーナーは「無名のキリスト者」という概念を用いて、他宗教信者への神の救いの可能性を示唆したが、宮崎の場合は、やむなく司祭の教導を受け得なかった隠れキリシタンたちを、キリストの名における救いの対象とは考えないようだ。
だが、そこに自ら語ったキリスト教の精神が、イエスの教えが生きていると言えるだろうか。
世が世なら宮崎は、隠れキリシタンたちを、ボゴミル派やカタリ派と同様に遇して躊躇わないカトリックだとしか、私には見えない。

アドルフ・アイヒマンが凡庸な官僚であったように、宮崎賢太郎もまた、無自覚かつ凡庸なカトリック信者なのである。


『それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。 』
(マルコによる福音書 9章33-37節)
 

感想.《漫画『銀河の死なない子供たちへ』と『どこか遠くの話をしよう』》

 投稿者:オロカメン  投稿日:2018年10月21日(日)17時15分56秒
   アレクセイさん、こんにちは!
 「読書の秋」とも申しますが、ほぼ一年中読書ばっかりのオロカメンでございます。

 気温も涼しくなってきて、本格的に秋っぽい感じになってきましたね♪

 さて、本日は以前アレクセイさんにオススメいただいた漫画、施川ユウキの『銀河の死なない子供たちへ』をやっと読むことができましたので、そちらの感想と、あとぼくが最近読んだ中でのオススメの漫画、須藤真澄の『どこか遠くの話をしよう』のふたつの作品をご紹介させていただきたいと思います!

 例によってまたMIXIで呟いた内容をまとめたものになります。
 漫画二冊ぶんのレビューとなりましたので、ちょっと分量が多すぎたかもしれません…… (^_^;)
 ご笑覧いただけますと幸いですm(_ _)m

――――――――――――――――――――――――――――――

 施川ユウキの最新SF長編マンガ『銀河の死なない子供たちへ』上下巻読みました!

 アレクセイさんからお勧めいただいてから書店などでずっと探していたんですが、ほとんど見かけず、ネット販売など見てみると値段が吊り上がっていたりしたので、入手するのに時間がかかってしまいました……。どうやら品薄になっていたようですね。

 アレクセイさんはご存知かもしれませんが、一応あらすじを。

<あらすじ>
 人類が滅んでから1万年くらい経過した地球。そこには手つかずの自然と、不死の家族が住んでいた。ラップを作るのが趣味の天真爛漫な女の子π(パイ)、読書好きのマッキ、愛情深く超然とした存在のお母さんの三人。
 ある日、宇宙服を着た瀕死の女性が空から降って来る。彼女はπとマッキの前で女の子の赤ちゃんを産んでから死亡する。πとマッキは赤ちゃんを「ミラ」と名付け、お母さんに内緒でこの子を育てる事に決める。
 不老不死のπとマッキにとって「時間」も「生と死」も、考えるだけ意味のない概念だったのだが、ミラと一緒に生活し、ミラを育てていく事で、いやおうなく不老不死の彼らにもそれら普通の人間が抱えている難解な謎について考えざるをえなくなってくるのだった。

<感想>
 ギャグ漫画家であり結構なSF者である施川ユウキがほぼギャグを封印して本格的にSF物語に取り組んだ長編マンガ。完全に「SFを分かっている人」が描いたSFだと思う。

 本作はWeb連載と言う事もあって、コマ割りが単調で大ゴマが多い形式になっているのだが、逆にこの不思議な淡々としたテンポと、おとぎ話的な雰囲気を強くしているのだろう。

 物語の最初のほうは不老不死の家族による「普通じゃない生活」を描き、ほぼ「おとぎ話」的な感覚なのだが、普通の人間の子供「ミラ」が出てきて、普通の人間の生活に寄り添って生きる事で、どこかノンキだった主人公・πも段々と現実的な普通の人間の生と死を考えていくようなシリアス展開になっていく。

 施川ユウキは、言語感覚が非常に鋭い作家だと思うのだが、本作の特筆すべきところは、その施川ユウキの言語感覚がセリフ作りの上手さとして結実している所ではないだろうか。
 不老不死の一族が生と死について考えると言うシチュエーションはさほど珍しい設定でもないと思うのだが、そういう設定についての施川ユウキなりの考え方が、キャラクターらの口からさまざまな形で提示される。
 本作は他のマンガに比べてもさほどセリフ数は多いとも思えないのだが、それらキャラクターらのセリフには、いちいちハッとさせられたり深いなあと思わされたりと、かなり名言のオンパレードだと感じさせられる。

 無表情なマッキの「みんなどこへ行ったんろう? どうして僕らはそこへ行けないんだろう」というセリフだけで、この不老不死の一族の孤独さがしみじみ分かるし、そんなマッキが珍しく真剣な表情で、死にゆく人間の女性に対して「死ぬって、どんな気持ちだ?」と尋ねるシーンなども、絵はカンタンなのに思わずグッときてしまう。
 こういうセリフの積み重ねがあってこそ、最後のπとマッキの選択も、多くを書かずとも納得してしまうのだろう。

 本作は「このマンガがすごい!Web2017年11月度オトコ編」の第1位に選ばれるほど多くの支持を受けた、恐らく施川ユウキ作品の中でも最も多くの人が共感するであろう名作だと思う。――ギャグ抜きのシリアス展開でぜんぜんいけますね施川さんは。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ……で、今回はもう一冊、須藤真澄さんの長編マンガ『どこか遠くの話をしよう』をご紹介したいと思います!
 ちなみにこちらも、書店にほとんど置いてなくて、入手するのに随分と時間がかかってしまいました……。

<あらすじ>
 南米高地の小さな村に住む少女・チロは、物に触れるとその物と会話をすることができる不思議な能力を持つ少女だった。彼女は口のきけない祖母と二人で幸せに暮らしていた。
 ある日、突如彼女の家の納屋に、異国の言葉を喋る謎の男性が現れる。
 彼は怪我をしていて、さらに記憶を失っているらしい。
 チロはこの男に「プラティーノ」という名前を付け、彼の持ち物と対話しながら男が何者なのか確かめ、プラティーノとのコミュニケーションを試みる。


<感想>
 ぼくは本作について「須藤真澄さんの久々の長編マンガ」という情報以外、一切の前知識を入れずに読んだんですが、それは正解だったと思いました。できれば前知識なしで読んでもらいたい作品ですね。
 つまり、この作品には「謎」があるわけです。

 この物語は南米高地の村の、美しい自然に囲まれて素朴だが幸せな生活を送っている人々の前に、突如記憶喪失の男性が現れ、まずはその男性と村人たちとの心温まる交流を描くことになります。
 そういった交流の裏では、村人たちの不安と好奇心が入り混じった複雑な心境が隠れています。
 一体彼は何者なのか?どこの国の人なのか?善人なのか悪人なのか?何故この辺鄙な村に突如として現れたのか?……その謎の解明が物語のひとつの軸になっていきます。

 また、チロはプラティーノに幼い頃に死んだ父を重ね、必死になって世話をします。プラティーノが何者であろうと守ろうと決めるチロと、プラティーノとの心の交流ももう一つの軸になっています。

 やがてプラティーノは記憶を取り戻していくにつれて、どうしようもない自分の悲しい運命を思い出していく事になります。それを知ったチロは何を思い、どうしようとするのでしょうか。

 本作は基本的には終始ほのぼのとした雰囲気で物語が展開していきます。
 詳しいことは書けませんが、作者の須藤真澄さんが、この「謎の男」をこの自然豊かな南米高地の村に出現させたのは、いまは当たり前にそこに存在している「自然」と「人間」というものが、いかに愛おしいものなのか、いかに貴いものなのか、それら全てを本当に愛おしいと思う気持ちがあったのではないかと思うのです。


 本作は「ヘンテコな感覚のファンタジー」を得意とする須藤真澄さんの久々の力の入った感動作で、ぼく的にもオススメの一作ですよ!
 

「右でも左でもなく下」でしかない、山崎行太郎の批評一一 山崎行太郎『ネット右翼亡国論』のお粗末

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年10月16日(火)00時07分14秒
  :

  「右でも左でもなく下」でしかない、山崎行太郎の批評
  一一 山崎行太郎『ネット右翼亡国論 桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点』のお粗末
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2QP885L0JXTEI


あまりにも酷い内容なので、落胆を通り越して「これはきちんと批判しておかないといけない」と考えるに到った。
数年前に読んだ『保守論壇亡国論』は「イマドキの保守言論人(=ネトウヨ的言論人=非本来的保守言論人)」を事実に即して批判したものとしてとても参考になったので、今回の『ネット右翼亡国論』も大いに期待して読みはじめた。しかし「桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点」というサブタイトルに感じた一抹の不安が、最悪の形で的中してしまった。
本書は、事実としてぜんぜん『ネット右翼亡国論』にはなっておらず、実質は著者の「文学的存在論重視の名を借りた、軽薄な自己存在アピール」本でしかなかったのである。

したがって本書に帯に記された、佐藤優の『存在論的に徹底的に掘り下げて現象を考える山崎哲学の真髄がここにある。「ネット右翼」の耐えられない軽さを暴いた傑作。現下日本社会を憂うるすべての人に読んで欲しい。排外主義、自己陶酔的な日本礼賛を愛国の立場から斬る。日本の現在を深く知るための必読書である。』という推薦文は、本書所収の論文を「読まずに書かれた、無責任な提灯持ち文」だと断じて良い。

そもそも、山崎は「ネット右翼には興味がない」と何度も明言していて、ネトウヨ言論をろくに読んでもいないのだから、それをまともに批判できる道理など無いのである。

推薦文に見られる佐藤優のこうした無責任な態度というのは、本書に対するレビューとして、本書をまともに読みもせず『ネット左翼の戯言でしかなかった。』などと書いている、ネトウヨレビュアーの党派的無責任さと、基本的に同質のものである。

たしかに佐藤は頭の良い人ではあるが、決してフェアで正直な言論人ではなく、まさに「外交官」的に狡猾な人である。
つまり、自分から敵をつくることはせず、利用できそうな相手は煽て上げて味方に付け、いずれは利用しようという魂胆を隠しもった策士なのだ。だからこそ、池田大作創価学会名誉会長や公明党を創価学会員の期待どおりに褒め上げる本(『「池田大作 大学講演」を読み解く』『佐藤優が教える、池田大作『人間革命』の読み方』『創価学会と平和主義』『いま、公明党が考えていること』等)を書くことを、なんら恥じない。
佐藤にとっては、故郷沖縄と日本を害する国家権力に対抗するために是非とも必要な「中間団体」として創価学会や公明党は、利用価値が極めて高い存在なので、それとの良好な関係を構築しようと、意図的にヨイショをして接近し、それを恥じもしないのである。

当然、流行作家である佐藤に擦り寄ってきた、山崎のような三流の文筆家でも、わざわざ否定批判するような、無駄なことはしない。
だが、わざわざその著作を1冊読むのは「時間の無駄」なので、『ネット右翼亡国論』というタイトルへの当て書きで、上記のような推薦文を書いてみせたのである。もちろんベストセラーになるような本でないのは目に見えていたからであろう。

さて、本書の内容が『ネット右翼亡国論』でもなければ『「ネット右翼」の耐えられない軽さを暴いた』本でもないということをまず押さえた上で、では本書になにが書かれているのかというと、それは山崎が『世の中には情勢論的言説が蔓延している。(中略)しかし私は、彼らの言説には何かが足りないと思う。それは、原理論と存在論である。特に存在論である。』(「あとがき」より)と書いている、「存在論的言説こそ大切であり、自分はそれをやっている」という自己主張でしかない。

「情勢論・原理論・存在論」などと言うと何やら難しげに聞こえるが、ぜんぜんたいした話ではない。
「情勢論」とは「現実社会の(主に政治的)情勢についての分析的批評」であり、「原理論」とは「個々の現実的情勢の底に潜む、問題の本質を剔抉して論じる本質論」であり、「存在論」とは「現実情勢や客観的分析による本質論ではなく、問題を自己の存在における主体的問題として考える」ことだ。

山崎は『哲学者・文芸評論家』と称しているが、この肩書きが意味するのは「物事を文学的に、つまり存在論的に読んで、それを徹して考える人間である」という意味であって、決して、哲学にも文学にも専門的な(あるいは基礎的な)知識や教養を持っているというわけではない。なにしろ、ご本人曰く『素人』なのである。

つまり、山崎は「自分は、専門的研究をしておらず、その意味では素人だが、そこらの学者や評論家がやっているような知識偏重の軽薄な自慢話ではなく、自分の存在を賭けて思考している。その意味では本質的な哲学者であり、その点で存在論的に考える文芸評論家なのだ」と自己アピールしているのだ。

しかし、言うまでもなく、この「厨二病」的自己認識を臆面もなく垂れ流せるという段階で、山崎の思考の底の浅さは、すこし文章の読める人には明らかなことで、こんな山崎やその文章を絶賛できるのは、「コネを付けた有名人」については臆面もなく絶賛することのできる山崎と同類の「擦り寄り俗物」に過ぎないのも明白だろう。

「看板に偽りあり」の本書『ネット右翼亡国論』中心となる論文は、主に書き下ろしの第1章「ネット右翼亡国論」だが、ここで書かれているのは「在特会元代表の桜井誠は、その思想内容が酷いとしても、少なくとも口先だけではなく、命がけで反在日特権運動に取り組んでいる点で、立派に存在論的思想家として評価されるべき」というものである。
そして、そんな桜井は「生涯、革命を意識しながら学問を貫いてきた廣松渉」や「単なる口先知識人ではなく、その思想を生き方に体現した佐藤優」と「存在論的に通底する」と評価されるべきだと、故事付けがましい「薄っぺらな本質論」を語っているだけなのである。(それにしても、山崎の議論は念仏のごとき繰り返すが多く、およそ論理展開というものが無い。そのお粗末さは、およそ『素人』の同人誌レベルだ)

もちろん、こうした無理のある議論は、世間から差別主義者・排外主義者として「罵倒される桜井誠」のなかに、自己の似姿を(勝手に)見たからこその揚言でしかない。

山崎の自覚としては「自分は世間的な評価に抗して、損を承知で、桜井を存在論的・本質的に論じ擁護した」つもりなのだろうが、それを廣松渉や佐藤優といった「権威」と結びつけることでしか出来ないところに、山崎の評論家としての無能と、山崎が本質的には「権威主義者=権威大好き俗物」でしかないことを露呈させる。

山崎の本質が「独り善がり」「承認願望の塊」「無反省な自己愛者」でしかないというのは、「思い込みだけで断言する」その態度に明らかだろう。
山崎は『佐藤優のマルクス主義論やキリスト教論は、かなり専門的であり、素人の雑談レベルをはるかに超えている。佐藤優のマルクス主義研究やキリスト教研究は、専門家たちより広く深いことが少なくない。これは、佐藤優が存在論の人だからであることと無縁ではない。』(P59~60)などと褒めちぎっているが、まともに日本語の読める人なら、このロジックの酷さは明白だろう。

そもそも『かなり専門的』と『素人の雑談』を比較して並べるところがデタラメだ。
また『専門家たちより広く深いことが少なくない。』という判断を語るためには、判定者である山崎自身が相当の『マルクス主義研究やキリスト教研究』をやっていなければ、判断のしようがない。ところが、山崎自身は『マルクス主義研究やキリスト教研究』をやったことのない『素人』なのだ。

あとの清水正との対談で何度も自己暴露しているように、「存在論」の人である山崎行太郎が本を読む基準は「好き嫌い」でしかなく、「人の研究成果はどうあれ、自分はこう感じた」といったことを書いているのであろう「存在論」タイプの著述家(と、山崎が勝手にシンパシーを感じた著述家)の本しか、まともに読みはしないのである。
したがって、自称「保守」である山崎は、マルクス主義の基本文献も読んでいないし、ましてや(佐藤優のもの以外)キリスト教神学や聖書学の本など手に取ったこともないはずで、知ったかぶりに「又聞き」で聖書に言及してみせてはしても、たぶん聖書の通読すらしていないだろう(でなければ『僕は、モーゼの『出エジプト記』を思い出す。』(P107)などと書いたりはしないだろう)。

ともあれ、なにしろ自称『素人』だから、「興味のないもの」を読み込む気などさらさらないのだ。また、それでいて「知ったかぶりで断言的評価」を語って恥じないのが、山崎行太郎という人なのである。

山崎が、絶賛する人物というのは、小林秀雄やドストエフスキーのような「過去の大権威」か、江藤淳や清水正や佐藤優といった「コネのついた有名人」か、桜井誠のような「自己投影を出来る不遇者」でしかない。
言い変えれば、山崎が絶賛するのは「自分を珀付けするための権威者」「コネによって自分に利する有名人」「自己賛美のための代替的人物」でしかないということだ。

こんな下らない「俗物」に、ドストエフスキー研究家の清水正は、何を思って手を差し伸べたのかはわからないが、ともあれ山崎は、それまでまともにその著作を読んだこともなかった清水を、お近づきになった途端、その著作を「読んでみたら、存在論的でスゴイ研究だった」と、何とかの「一つ覚え」で絶賛し始める。
しかし、こんな軽薄な山崎と対談する清水は、こんな「太鼓持ち」に煽てられて喜んでいるだけの粗忽者かと思いきや、やはり山崎の「自意識過剰の中学生」並の酷さは、黙過するに余りあるものがあったのだろう、対談の中で何度となく、山崎の「独り善がりな存在論的独断」に注文をつけている。


『(※ 説明は出来ないが、存在論的にわかると主張する山崎に対し)説明できないとまずいんじゃないですかね。』(P171)
『(※ ドストエフスキーをろくに読んでもいないのに、断言的に評価ポイントをかたる山崎に対し)僕は恥ずかしくて(※ ドストエフスキーの)墓の前に立てなかった。ドストエフスキーはやり尽くしたなどと思った自分の傲慢が恥ずかしくてならなかった。』(P182)
『(※ ネチャーエフ的独善を批判する譬え話として)自分の目の前に三つの道があるとして、その三叉路を前にしていったいどの道を選んで行ったらいいのか。AもBもCも同じ価値を持っていたとしたら、例えばAの道を行く人は他のBとCを否定することは出来ない。』(P187)
『(※ 山崎が否定的に「ありがち」だと言うような研究手法について)あんまりそういうことを徹底してやってる人はいないんじゃないかな。』(P191)
『(※ 細かく読み込まなくても、本質はわかると言う口吻の山崎に対し)いずれにしてもラスコーリニコフの理論と、生きていた時代状況をきちんと踏まえた上で批評した人はいないかもしれない。』(P195)
『(※ 理論的なものは、本質的ではないからどうでもいいと言う山崎に対し)理論は理論としてきちんと分からないとだめだけどね。』(P199)
『(※ 山崎の独断的な決めつけに対し)そういう言い方をしちゃうとあまり面白くないんですよ。』(P200)
『(※ 説明は出来ないが、存在論的にわかると主張する山崎に対し)批評家はきちんと言葉で表現できないとだめなんです。』(P200)
『(※ ドストエフスキーに関する他の論者を、読んでもいないのに撫で斬りにする山崎に対し)山崎さんはこれからどういう仕事がしたいと思っているんですか?』(P201~202)
『(※ 殺される側の悲しみに興味はなく、殺す側の悲しみに興味があるという山崎に対し)殺す側の悲しみは、殺される側の悲しみが分かった上でやって十分間に合うんです。』(P203)
『(※ 細かく読み込まなくても、問題提起はわかると言う山崎に対し)細部がきちんと見えてこないと、小説の面白さは見えてこないんじゃないの?』(P216)
『(※ 細かく読み込まなくても、ドストエフスキー作品を正しく理解できると言う山崎に対し)騙されているんですよ。ドストエフスキーくらいの作家になると、読者をたぶらかすことなんか簡単なんです。』(P224)


このように清水は、「自分は表面的な細かい理屈には興味はないが、本質は洞察している」と主張する「ツッパリ盛りの中学生」を宥めるように、粘り強く「常識」を説いて指導するのだが、無論そんな言葉が「自尊心をこじらせた、七十男」をいまさら矯正することはない。まさに「人を見て法を説け」である。
いや、2本目の対談で最後の方で、山崎は一度だけ、

『そうですね。僕も、知ったかぶりはやめて、もっと真剣にまた読み返そうと思っています。』(P228)

と答えてはいる。
しかし、「影響を受けた作家」として片手の数に含まれるドストエフスキーについてさえ、これまで『知ったかぶり』でしかなかったのだから、いまさら山崎行太郎から『知ったかぶり』を奪ったら、はたして何が残るのか?

答は、安倍晋三や麻生太郎や櫻井よしこといった「ネトウヨ系有名人」を批判するくらいの、批評的には「簡単な仕事」だけなのである。

そもそも「存在論」的思考に価値があるのは、その存在に語るべき「中身」のあることが大前提で、桜井誠や山崎行太郎のような「不遇意識をこじらせただけの無内容な人」の「存在」など、語るに値するものではないのである。つまり「形式ではなく、中身を充実させてから語れ」ということなのだ。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2QP885L0JXTEI

 

なぜ「常識人」は啓蒙を軽視するか 一一 松尾貴史『なぜ宇宙人は地球に来ない? 笑う超常現象入門』

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年10月15日(月)03時57分58秒
  :

  なぜ「常識人」は啓蒙を軽視するか
  一一 松尾貴史『なぜ宇宙人は地球に来ない? 笑う超常現象入門』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2SJ5AUZB4XXTS?


本書の感想として『ただ常識的なことを書いた本。』という否定的評価をなさっているAmazonレビュアーがいらっしゃる。
そういう評価は、半分正しいけれど、半分は間違いだ。

著者がわざわざこのような「(科学的に)常識的な考え方」を示した本を書いたのは、こうした考えは、必ずしも「常識的」ではないからで、そこを読み取らないことには、本書を理解したことにはならないからだ。

例えて言えば、本書を理解できない人というのは「私は絶対にオレオレ詐欺になんか引っかからないと自慢げに語る高齢者」のようなもので、要は「自分を過信している(信じたいものを盲信しているだけの)粗忽者」だということになるからである。

本書は、扱っているのが、UFOやらお化けやらオカルトやらといった、わかりやすい「B級」カルチャーが中心なので、そこでまず軽視されがちだし、著者もそれらB級カルチャーへの愛情から、ユーモアを交えながらも、あえて警鐘を鳴らしているので、決して一般読書家がタイトルを見て感心してくれるような本の作りにはなっていない。
しかし、本書は間違いなく、現代にもまだまだ必要な、真っ当な啓蒙書である。

「俺はそんな幼稚なもの、興味ないよ」なんて思ってる貴方。
そういう貴方が、いちばん危ないんですよ。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2SJ5AUZB4XXTS?

 

親子を引き裂いた「神の真理」という美しき妄想 一一 D・I・カーツァー『エドガルド・モルターラ誘拐事件』

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年10月15日(月)03時55分39秒
  :

  親子を引き裂いた「神の真理」という美しき妄想
  一一 デヴィッド・I・カーツァー『エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一』
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1N6QSUT0WXPBW


識者と呼ばれる人の中にも「プロテスタントは理論先行で融通が利かない(そのために際限なく分裂する)が、その点カトリックにはいろんな人を受け入れる寛容がある」というような半可通を語る人が少なくない。

しかし、カトリックは「寛容」なのではなく「ご都合主義のダブルスタンダード」なのだ。
つまり、カトリック教会の権威を認めるかぎりは、いくらでも融通を利かせてみせるが、それに反する態度を見せる者に対しては、いきなり「原理主義」的な態度になる。

前者の好例が、俗信の追認でしかない聖母マリア信仰や聖人信仰であろう。
逆に、カトリックが本来持っている権威主義的な頑なさを示す後者の好例が、この「エドガルド・モルターラ誘拐事件」だ。

本書にも描かれているとおり、社会の近代化に伴い、カトリック教会も否応なく(ある程度は)「寛容」とならざるを得なかったし、もちろんカトリックの司祭にもいろんな人がおり、現法王(ローマ教皇)フランシスコのようにリベラルで、民衆の側、平信徒の側に立つ人も稀にはいただろう。
だが、教会そのものの本質は、本書の主要登場人物の一人である、ローマ教皇ピウス9世のように、基本的に「自分たちの権威=神の権威」というものだったのであり、そこに、人間の平等や弱者の権利などは無い。
全ての人は、神の国への鍵を委ねられた公同の教会の教導に従うが良い。一一 これが基本中の基本、原理中の原理である。

だから、彼らの権威や強権を制限するように見える存在は、たとえフランシスコ法王であろうと、神に抗する存在として(隠微に)敵視されてしまうことになる。
フランシスコ法王治世だからこそ進展中の、「司祭による児童への性的虐待」の告発さえ、さも現法王の管理責任であるかのように言い募って脚を引っ張る、現実を見ようとはしない「保守派」が存在する。
こうした「カトリック保守派」の眼には、性的虐待を受けた子供たちは、教会政治的な利用価値こそあれ、「救うべき弱者」とは映っていないのである。

「エドガルド・モルターラ誘拐事件」もまた「児童への性的虐待事件」と、本質は同じである。

こうした教会に不都合な問題を扱う場合、まず優先されるのは「教会の権威=教会の正義」である。それを押し通すためならば、子供たちの親を恋い慕う気持ちも踏みにじられ、手間暇かけた虚偽と隔離洗脳で正当化を図って、なんら恥じるところがない。

神の意志を体現し、それを実現するための彼らの行動は、よく知られるとおり「宗教殺人としての異端審問」すら教会法に基づく「正義」とされてしまう。
そんな「狂気」の事実が、本書に余すところなく描かれている。

宗教が政治権力を握り、しかもその権力が揺らぎ出した時に、彼らがどのようなことを始めたのか、私たちはしっかりと知っておく必要がある。
先述した「カトリック保守派」の事実にも明らかなとおり、こうした「妄想」は、過去の話ではなく、今もこの日本においても、生きてある現実だからだ。

仮に今、カトリック教会に絶大な統治権力を与えられたならば、彼らはその信仰の正義において、今でも誇りを持って、異端審問所を再開して見せるだろう。
時代を渡り行く「旅する教会」には、そうした危険性が密かに生き続けているのである。

信仰のグロテスクさは、何より、成人したエドガルド・モルターラの姿に象徴的である。

そして全ての人は、エドガルドのこの「変容」に直面すべきだ。
善かれ悪しかれ、これが「信仰」の力なのである。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1N6QSUT0WXPBW

 

暗い時代だからこそ

 投稿者:園主メール  投稿日:2018年 9月24日(月)23時34分43秒
  みなさま、西日本豪雨の際に、二階の天井が雨漏りをし、その直後、修理しなくてはなあ思い、屋根屋に見積もりを取らせました。「築30年の木造二階建てだが、私が死ぬまで屋根を保たせるなら、どのような工事になるだろうだろうか」と相談したところ、あと20年30年保たせようと思えば、屋根を吹き替えて土台からやらないといけないとのことで、費用を聞くと、足場代だけで50万かかり、瓦も軽いものに変えると、総額200万円かかると言われました。
工期も1週間くらいはかかるとのことで、職人さん2、3人が1週間来るのなら、そのくらいはかかるかなと思いながらも、やはり急に200万と言われても、じゃあやりましょうとはならず、しばらくは好天が続いたため、どうしようかと思いながら、しばらく放ったらかしにしておりました。

すると、今度は地震があり、さらに屋根が傷んだのではないかと心配していたところ、友人が他の業者にも見積もりを取らせて比較したほうが良いというので、他の業者に見積もりを取らせることにしました。
ところが、次の屋根屋が来てみると、二階の屋根に普通の梯子では登れないことが判明。うちの家は一階の屋根から二階の屋根に登れるような構造になっておらず、簡単に言うと、二階建ての直方体の上に瓦葺きの三角屋根が乗っているかたちであるため、普通の梯子では屋根には登れなかったのでございます。
そこで、後日三段式の梯子を持参するということになったのでございますが、そうするうち今度は台風が関西を直撃して大きな被害を出しました。
幸い我が家は目に見える被害がなかったのですが、屋根屋からの連絡がなく、たぶん相当忙しいのだろうと推測し、しかし、そうだからこそ急かしたほうが良いと再連絡をしてみると、予想どおりの状況でしたが、連絡が遅れて申し訳ないと謝罪をうけ、近々に来てもらうことになりました。

そして、再びやってきた屋根屋は、今度は屋根に登ることもなく「ひとまず雨漏りの原因になっている部分と、他にいたんでいる部分があればそこを修繕するということで、18万円でどうでしょうか」と言ってきました。私が「屋根に登らなくてもいいのですか?」と訊ねると「下から見てもおおよそはわかりますし、これ以上いただくことはありません」という返事でした。
私は、屋根屋の仕事がにかわに忙しくなったものだから、屋根の葺き替えといった大きな仕事は受けられないので、ひとまず問題の部分だけをなおすという方針にしたのだなと推察できましたし、現状ではそれは当然だろうと理解もしました。ですから、今回は本格的な葺き替え考えず、いたんだ部分を修理するしかなく、18万円なら出せない額ではないので、それで手を打つことにしました。
実際、どれだけ屋根が傷んでいるのか正確なところは、屋根屋も分からないでしょうが、一見したところわかるような大きな破損がなかったので、屋根屋としては、それで損をすることはないとそろばんを弾いたのでございしょう。

詳しい説明は省くとして、結局は屋根屋の踏んだとおり、18万円もかかるような工事ではなかったのですが、大きな被害を出した、地震と台風に見舞われながら、直接的な被害がなかったのは、大変ついていたと申せますし、まあ、この時期に雨漏りの問題をさっさと片づけられたのは良かったと、私自身はそう考えております。


Coelian Pantherさま

こんばんは^^;

お書き込み、ありがとうございます。

> あちゃぁ・・・遂に、mixiのアカウント、凍結されてしまいましたか^^;

まあ、二度目ですし、いずれこうなることは想定の範囲内でしたから、前回ほど悔しくもなく、運営にしつこく噛みついたりもしませんでした(笑)。

> それにしても所詮は出来レースとは言え、やはり安倍が三選しましたねぇ・・・
> 馬鹿なコメントは、サイトに近づかなければ読まずに済みますが、テレビではあの安倍の『ヨーダ面』をあと3年も見続けなければならないのかと思うと、もう怒りしか無いですね!

私の場合、怒りと言うよりも、うんざりといった感じでございます。
そしてそれは、安倍晋三個人に対するよりも、安倍を支持する人々に対し、そう感じるところが大きゅうございますね。

> そもそも何故、総理大臣の任期が何故『連続3期9年』も可能になったのか、3期目当選も見越して決めたのだとしたら、そのうち金正恩の様に「永年制も可能」とか言い出しそうですね^^;
> それでいて、野党に政権を奪取されたら、「3期は長い、改正すべき!」とか言い出しそうな・・・

安倍晋三なら、それくらいのことは言うでしょう。

> とにかくもう、あの不愉快な面は、一日でも早く、メディアから消えて欲しいです><

まったくでございます。
ただ、私は、安倍政権による、このどうしようもない時代の日本を経験できたことは、必ずしも悪いことではないと思っております。

と申しますのも、私は若い頃から、反体制的な性格ですので、独裁権力下や戦時中などの自由が制限された時代に、それでもそれに抗った勇敢な人たちの歴史に接して、憧れの念をもっていました。
しかし、私の世代は、先の大戦も戦後の焼け跡も経験せず、高度成長期の日本に生まれて、言わば日本がもっとも豊かで幸福な時代に生きてきたと申せましょう。バブル崩壊後、日本の経済は長期低落期に入ったとは言え、私個人はお金に困ったことはなく、これまで何不自由なく幸せに恵まれた(中流)生活を送ってきましたから、かえって「自分が、先人が経験したような不幸な時代に生まれていたら、はたして時代の風潮に流されたり、権力に迎合して保身をはかったりはしなかっただろうか?」という疑問とも後ろめたさともつかぬ感情が、心の片隅にいつもありました。
ですので、先人が経験したほど厳しい状況ではないにしろ、安倍政権による日本のこの不幸な時代は、私自身の真価を試すのに好都合だと感じられもするのでございます。「俺は、平和で恵まれた時代に威勢の良いことを言ってるだけで、いざとなったら権力に迎合するような、そんな人間ではないぞ」ということを、何よりも自分自身に示す、良い機会が与えられたと感じているのでございますね。
もちろん、大きいことは出来ませんが、この暗い時代の日本を、時代に迎合することなく、理想を棄てずに生きてみせようと、そのように考えているのでございます。

人間、最後は、金や地位や名声といったものは意味を失って、自分に誇りを持てる生き方が出来たか、という一点に「生きた価値」を見出せるのではないかと思うのでございます。ですから、幸福な時代だけではなく、こんな時代の経験できたことも、あながち悪くはないと思っているのでございます。



それでは、みなさま、お休みなさいまし。

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGMUSJ6KNMQ2DS44MESN2HLTV2TA?ref%5F=cm%5Fcr%5Frev%5Fdetpdp&

 

こんばんは^^;

 投稿者:Coelian Panther  投稿日:2018年 9月24日(月)21時18分29秒
  あちゃぁ・・・遂に、mixiのアカウント、凍結されてしまいましたか^^;
自分もネトウヨ連中の馬鹿な戯言を読んでると、突っ込んでは居られない性分だったので、よく解ります^^;
ブラウザのトップを『Yahoo!』から『Google』に替えてから、『Yahoo!ニュース』も読まなくなり、アホなコメントも見なくなったので、最近ではもうすっかり落ち着いています^^;

それにしても所詮は出来レースとは言え、やはり安倍が三選しましたねぇ・・・
馬鹿なコメントは、サイトに近づかなければ読まずに済みますが、テレビではあの安倍の『ヨーダ面』をあと3年も見続けなければならないのかと思うと、もう怒りしか無いですね!
そもそも何故、総理大臣の任期が何故『連続3期9年』も可能になったのか、3期目当選も見越して決めたのだとしたら、そのうち金正恩の様に「永年制も可能」とか言い出しそうですね^^;
それでいて、野党に政権を奪取されたら、「3期は長い、改正すべき!」とか言い出しそうな・・・
とにかくもう、あの不愉快な面は、一日でも早く、メディアから消えて欲しいです><
 

/109