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〈文学馬鹿を演じた男〉と、その便乗利用者 一一Amazonレビュー:中野剛志『小林秀雄の政治学』

 投稿者:園主メール  投稿日:2021年 4月10日(土)23時38分22秒
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 〈文学馬鹿を演じた男〉と、その便乗利用者

 Amazonレビュー:中野剛志『小林秀雄の政治学』
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「言葉」を粗末にする人間が、小林秀雄ファンを自称するというのは、滑稽でもあれば知的に悲惨なことでもあろうけれど、実によく見かける光景である。

たとえば、本書を「小林秀雄論の決定版」だと言って褒める人がいたとしよう。当然のことながら、その人は、これまで膨大に書かれてきた「小林秀雄論」を、かなりのところ読んでいなくてはならないはずだし、小林が論じた作家などについても、ある程度は読んでいなくてはならない。そうでなければ、そもそも、他の「小林秀雄論」との比較ができないのであるから、「決定版」だなどという判定のしようもないのである。

つまり、「小林秀雄論の決定版」といったような「軽率な断言」をする人というのは、良くて「小林秀雄読みの小林秀雄知らず」なのだが、実のところたいがいの場合は、肝心の小林秀雄すらろくに読んでいない、単なる「小林秀雄」のファンや信者でしかないのである。
彼らは、ろくに小林秀雄のことを知らないし、知る必要があるとも思っていない。だから、「言葉」が中身を欠いて、空疎なのだ。

さて、肝心の本書だが、端的に言えば本書は「B級の小林秀雄擁護論」だ。より正確に言えば「B級の小林秀雄正当化論」である。そして、小林秀雄を正当化することによって、ちゃっかり自分をも正当化すると同時に権威づけてもいるという、なかなか厚かましい「政治性」を持った本だと言えよう。

この程度の「小林秀雄擁護」に説得されてしまう読者というのは、そもそも小林秀雄がこれまで、誰からどのように批判されてきたのかを、ほとんど知らない人に違いない。

「そんなもの」など読んだことがなく、ただ「偉大な小林秀雄」が、戦後に「叩かれた」くらいの認識で、でも「偉大な小林秀雄」をそう簡単に批判できるわけはないし、どうせそんな批判は「戦後の時流に乗った、浅薄なものに違いない」と、そういう「願望充足的臆見」しか持たない、不勉強な人(勉強しない人)なのではないだろうか。
でなければ、今さら、この程度の擁護論で満足することなど、できる話ではないのだ。

本書の構成は、こうである。
(1)小林秀雄は、鋭い読み巧者である。
(2)したがって、小林が戦時体制に迎合したかのように見えたのも、実は、彼が避けることなく「現実」を非凡な深さで直視し、その避けられない「運命」を引き受けたことに対する、浅薄な誤解なのだ。
(3)そして、最後に『しかし、苦労の末にようやく「小林秀雄の政治学」を掘り出してみると、それは、ふしぎなことに、私(※ 著者・中野剛志)が求めていた政治学そのものであったのである。』(P284~285)となる。

(1)は事実だ。
しかし、(1)から(2)は、論理的には導き出せない。なぜならば、人間は常に「鋭い」わけではなく、しばしば「弱い」ものであり、その時、彼の「鋭さ」は、「弱さ」の隠蔽のために使役されがちだからだ。それが人間であり、そして小林秀雄も人間だった。彼自身『僕はたゞの人間だ。聖者でもなければ予言者でもない。』(本書P128)と、殊更に「当たり前の事実」を認めてもいるとおりである。(※ 小林秀雄の言葉も、本書からの「孫引き」として、当該引用ページを示す)
(3)については、「しらじらしい」とか「馬鹿馬鹿しい」としか思えない。「肯定的な人物論」というものは、たいがいは、評者自身を映す鏡になるものだ、ということくらいのことも、本書著者は知らなかったらしい。よほど、文芸評論的なものに縁のなかった人なのだろう。

本書著者の中野剛志は、「一流大学を優秀な成績で卒業して、中央省庁の官僚になった」というパターンの、とても頭のいい人らしく、第一章、第二章における、明晰な小林秀雄解説はなかなか読ませ、その後にも期待させられたのだが、第三章「戦争」になると、いきなり腰砕けになってしまう。要は、個々の解説は見事なものだが、それらを綜合して結論的に提示しようとすると、途端に、その政治的で恣意的な牽強付会ぶりが目立ち始める。
まことに残念だが、その程度の「器」でしかない人だった、ということなのだろう。

中野の「小林秀雄擁護論」を、具体的に見てみよう。
中野によれば、小林は、次のような理由で「戦時国家」に協力したという。

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『 先に見たように、小林は、日本主義運動をデマゴーグとして批判していたが、ここでは、逆に、日本主義を「神秘主義」「非合理主義」とみなす合理主義を批判している。
 戦争に際して国民が団結するというのは、国民の叡智の現れである。国民を団結させようと煽動する日本主義者も、国民の団結を理解できない合理主義者も、ともに観念を弄ぶだけで、危機に処する国民の叡智を見損なっている小賢しいインテリに過ぎない。
 戦争に黙って処すること、すなわち国民同士で団結すること、そして一兵士として喜んで銃をとることが、どうして、国民の叡智と言えるのか。これについてはすでに述べたとおりであるが、改めて、多少、社会科学的に言いなおすならば、次の通りとなる。
 第一に、「国民」とは一つの共同体であるが、どの国民共同体の一員になるかは、基本的には、自分で自由に選んだ結果ではない。ある国民共同体の中に生まれ落ちたという偶然によって、その一員、すなわち国民にさせられるのである。国民共同体とは、選択して帰属するものではないという意味で、運命共同体であると言える。これは、道徳的な良し悪しの問題ではなく、厳然たる事実である。
 第二に、国家間の戦争という事態がいったん始まったら、当事者の国民は、自分の生き方を好きなように決める自由を失う。これもまた、道徳的な良し悪しの問題以前の、単なる事実である。非戦論者であっても兵士としては徴用されれば戦わなければならないし、仮に徴兵を拒否したところで、相手国からは敵とみなされて攻撃を受ける。戦争当事国の国民である以上、個人的な主義主張とは無関係に、否が応でも戦争に巻き込まれる。戦争は、国民というものが運命共同体であるという事実を突きつけるのである。
 第三に、共同体の一員は、共同体に対する脅威に対しては、これを退けるべく団結する。これは、個人が共同体に盲従しているからではない。個人が共同体に帰属するということは、その共同体が個人のアイデンティティの一部となるということだ。したがって、国民一個人にとって、自らが帰属する共同体の危機は、自分自身の危機でもある。自分自身を守るためにも、国民共同体を守らなければならない。しかし、大規模な国民共同体を一個人の力で守ることなどできない。そこで、他の国民と協力・団結して、国民共同体を守るという。これは、理にかなった行動である。そう考えると、戦争に対して団結するというのは、確かに国民の「智慧」と言うべきであろう。』(P109~110)

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これは、中野剛志の意見ではない。中野が「社会学的に」わかりやすく言い直してはいるものの、ここで語られているのは、小林秀雄の「国家」観、「国民」観、「国民の智慧」観だと、中野はそう言っているのである。

したがって、この中野の「小林秀雄」理解が、正しいのであれば、小林秀雄とは、こんなつまらないことしか考えていなかった男だということになるし、逆に、小林が考えていたことは「こんな薄っぺらなことではない」というのであれば、これは中野の「小林秀雄」理解が浅薄であり間違っていたということになって、おのずと中野の「小林秀雄論」である本書は、駄作だということになる。

だから、上の「引用文」を読んで「くだらない」「なんと薄っぺら」だと感じた人は、本書を読まなくてもいい。本書の出来は、この部分に代表され得るからだ。そのためにこそ、長々と引用紹介したのである。

さて、このように確認した上で、まだ本書『小林秀雄の政治学』を「優れた小林秀雄論」だと評価する人たちのために、私は上の、中野による『小林秀雄の「国家」観、「国民」観』とやらの、度し難いくだらなさを、ここで批判しておこう。

(1)『戦争に際して国民が団結するというのは、国民の叡智の現れである。』と小林秀雄は考えた、とのことだが、そんなに簡単なことなのか?
「戦争」と言っても、一方的に敵から仕掛けられたような場合の「自衛戦争」もあれば、逆に、自分たちの方から「侵略戦争」を始めた場合もあるだろう。つまり「自衛戦争」ならやむを得ないが、「侵略戦争」にまで協力しなければならない義理などない、のではないか。無論、私は「ない」と考えるが、小林秀雄や中野剛志は「侵略戦争」であろうと、「いったん戦争になったら、国家に協力すべき」であり、「銃」をとって、他国民を殺しに行くべきであると主張しているようなのだが、小林秀雄とは、なし崩しで、そういうことを認めてしまう人のようだ。

(2)どの国の「国民」になるかは、たまたまの生まれあわせだから『道徳的な良し悪しの問題ではなく、厳然たる事実である。』とのことだが、だから、何でもかんでも「自国」の方針に従わなければならない、とでも言いたいのだろうか? それとも「戦争」という「非常時」についてだけは、良し悪し抜きで「国民として、一致団結しなければならない」ということなのだろうか?
だが、前述のとおり、その「戦争」にも、「自衛戦争」もあれば「侵略戦争」もあるのだから、「戦争」になったら、何でもかんでも協力しなければならないなんて、無茶な話ではないか。
「間違った戦争を起こして、他国に迷惑をかけたなら、戦争に負けて、ひどい目にあわされ、責任を取らされるのが当然」ではないのか。それとも「いくら非道なことをやっても、責任は取りたくない」という、身も蓋も、恥も外聞も、愛国者としての誇りのカケラもない、そんな話なのか?
たしかに、昨今の日本は総理大臣の考え方は、そうした「自分のしたことの責任を取らない」というもののようだが、それが、小林秀雄も認める「日本の国柄」だということで良いと言うのだろうか?

(3)『国家間の戦争という事態がいったん始まったら、当事者の国民は、自分の生き方を好きなように決める自由を失う。』と言うが、それに抵抗する「自由(リバティ)」は失われはしない。
中野がここで言っているのは、「与えられた自由(フリーダム)」の喪失でしかない。しかも、中野は本書で、大切なのは「与えられた自由(フリーダム)」ではなく「制約の中で、あえて私立(独り立つ)を選ぶ自由(リバティ)」だと繰り返して、小林秀雄が「戦争を引き受けた」ことを正当化してはいなかったのか。国家から「与えられた自由(フリーダム)」が制約され、奪われた時にこそ、初めて、その人の「真の自由(リバティ)」が発揮されるのではなかったのか。国家権力による抑圧強制に抗う自由(リバティ)こそ、真の自由ではないのか。ならば、それをしなかった小林秀雄は、真の自由(リバティ)を行使し得なかった「現状追認の負け犬」ということにしかならないはずではないか。

(4)『非戦論者であっても兵士としては徴用されれば戦わなければならないし、仮に徴兵を拒否したところで、相手国からは敵とみなされて攻撃を受ける。』一一嫌々徴用されたからこそ戦わない人も大勢いるし、最初から徴兵を拒否する勇敢な人もいる。もちろん、どちらも極めて困難なことだけれども、選択の余地のまったくない「運命」のようなものなどではない。
また『徴兵を拒否したところで、相手国からは敵とみなされて攻撃を受ける』というのは当然のことで、だからこそ、甘んじてそれを受け入れることもできる。そのような「覚悟」こそが、困難ではあれ「あえて自らに課する、制約の中の自由」に基づく「態度選択」なのである。

(5)『共同体の一員は、共同体に対する脅威に対しては、これを退けるべく団結する。』とは限らない。守るに値しない共同体なら、潰してもらったほうがいいからだ。何なら、潰してくれる人たちの方に協力してもいい。結局はそのほうが「自国民」のためだからだ。
この場合、「売国(国家)奴」こそが「愛国(国民)者」なのである。

(6)『これは、個人が共同体に盲従しているからではない。個人が共同体に帰属するということは、その共同体が個人のアイデンティティの一部となるということだ。』一一「国民」であることが『アイデンティティの一部となる』というのは事実だが、それが「全部」ではないのだから、「一部」に固執盲従する必要はなく、共同体に従うか否かは、総合的に判断すべきである。人間は、『ムーミン』に登場するニョロニョロのような「群生生物」ではなく、個々に知能を持つ高等生物なのだから、当然のことだ。

(7)『国民一個人にとって、自らが帰属する共同体の危機は、自分自身の危機でもある。自分自身を守るためにも、国民共同体を守らなければならない。』一一だから、それは、その共同体が「自他に対して、正しい存在であれば」という条件付きでしかない。「自他に、仇なす共同体」なら、潰して、新たに作った方が、自他のために良いに決まっている。そして「侵略的な帝国国家・日本」を「作り直そうとした国民」である「国士」たちがいたというのも事実だ。誰もかれもが「戦争になっちゃったから、軍部政府や、偽神様である天皇に従うしかない」と考えたわけではないのである。当たり前だが、日本人も、馬鹿ばかりでもなければ、長いものに巻かれるしか能のない人ばかりでもなかったのだ。

(8)『大規模な国民共同体を一個人の力で守ることなどできない。そこで、他の国民と協力・団結して、国民共同体を守るという。』一一「自他に正しい共同体」であるために、一致団結して「為政者の方針に逆らう」というのも、当然「あり」である。「為政者の方針」イコール「共同体としての正しさ」ではないからだ。

(9)『これは、理にかなった行動である。そう考えると、戦争に対して団結するというのは、確かに国民の「智慧」と言うべきであろう。』一一これだけ「穴だらけ」なことを書いておいて、『理』とか『智慧』とか、よくもまあ臆面もなく言えるものだ。

さて、こんな「間抜け」なことを言っているのは、小林秀雄か中野剛志か、はたまたその両方かは知らないが、いずれにしろ、上に引用した文章は「倫理観が欠如し、かつ頭の悪い」国民・国家・共同体論にすぎないと、もはやそう断じてもよいだろう。

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もうここまでで、本書の酷さは十二分に伝わったと思うが、それでも本書の酷さは、到底これだけに止まらないので、そのほかの部分の酷さについても、全部とは言わないまでも、ざっと書いておこう。

実のところ私はこれまで、小林秀雄の「戦時協力についての自己弁護・自己正当化」の文章を読んだことがなかったのだが、本書を読んで「こりゃあ、批判されて当然だよな。言い訳がましすぎる」と、そう納得させられてしまった(また、そんな文章でも、戦後に修正されている可能性もあるとか)。

小林秀雄という人は、人の頭の悪さを批判することで、自分の認識の深さを強調することが少なくないが、それが「戦後」においては、人の時流に乗った言動の安直さを批判することで、自己の「無反省」と「引き篭り」を「賢さゆえの正しい選択」であると自己正当化する傾向へと変じたようだ。

また結局のところ、本書著者も、自身の「保守官僚」的な弱さや卑怯さ、そして「保身」を認めたくないものだから、小林秀雄の弱くて卑怯な自己正当化を正当化することで、自分をも正当化しているだけなのだ。

本書著者は「侵略戦争」にも喜んで協力するだろうし、体制翼賛知識人の先頭に立って、戦争に協力しない国民は「非国民」だと攻撃して「首をちょん切っておしまい!」とまで言う蓋然性だって十分にある。
「国家の一員として一致団結し、戦争に協力する」という、薄っぺらな「美名」の下に、犠牲にされる、あるいは、犠牲にされた「他国の子供の惨殺死体」などの「リアル」は、中野剛志の議論には、どこにも存在せず、いかにも「一流大学を優秀な成績で卒業」して「通産省官僚」になったエリートらしい、清潔な「観念的空間」が、そこには広がっているのみなのだ。
中野は、自分の子供が、敵国兵に強姦され、惨殺されても「これも戦争のリアルなのだ。この避け得ない〈戦争という大いなる運命〉の前には、人道だ戦時法だといったことなど無意味であり、インテリの現実逃避でしかない。だから、一致団結して、お国のために銃をとれ」とでも言うつもりなのだろうか?

しかしまた、「人間とは、所詮、国民であり国家共同体の一部」だなどと言いながら、そう言っている自身は、そんな「ひとまとめにされる人々」の内に含めてはいない。
中野は、いかにも「官僚」らしく、そうした「一般国民」を運用して、戦場へ送り込む側の人間なのだ。自分を「戦場に送り込まれ、何の恨みもない他国民を、我が手で殺さなければならない一兵卒」の側に含めていれば、こんな能天気なことなど言えるわけがない。

中野も、小林秀雄に倣って、いざとなれば「一兵卒となって銃を取る」つもりだと、一応「タテマエ」上は、そう言いたいのだろうが、その一方で「文学者の戦い方は他にある」という言い方をして、いざという時のための「逃げ道」を確保してもいる。
事実、小林秀雄は「自分の手で、中国の農民一家を焼き殺す」ようなことはしておらず、インテリらしく、大政翼賛の戦争協力作家として「文章を書いたり」「講演をして回ったり」していただけではないか。なぜ、そのつもりがあるのなら、進んで「一兵卒として銃を取り、戦場に出なかった」のか。

これは中野についても同様で、平時の今ですら「国民は一致団結して、戦争に協力すべきである」などと言っているようでは、いざ戦争となれば、彼はきっと「戦争遂行のための官僚」になって「危険に身を晒さないで済ませる」保身に勤しむというのは、目に見えていよう。

後で、当該部分を引用して紹介するが、本書でなされた「文学と政治の切り離し」とは、「文学に引き篭もった小林秀雄」を正当化することによって、政治的な自分(中野)の立場をも、同時に正当化するということでしかなかった。

結局のところ、小林秀雄がやったこととは、時流に抗えなかった自身の「弱さ」を、その「賢い頭と達者なレトリック(小林秀雄は〈決め台詞〉が得意)」によって、自己正当化して、それで自らを洗脳することだった。
それくらい彼は、戦争によって、その「自信家」としての鼻をへし折られて、深く深く傷ついたのだ。だからこそ、どうしても「観念的自己回復」が必要だったのである。
謂わば、彼もまた「国内における傷痍軍人」だった。同情されて然るべき、加害者にして被害者だったのである。

大岡昇平の言うとおり、だからこそ小林秀雄は「隠者的生活態度」に引き籠って、ひたすらそれを正当化するための言葉を紡いでいたのである。まるで、恥ずべき自分が生まれ変わるための「繭」を作ろうとする、蚕でもあるかのように。

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『 小林が問題にしたのは、政治と文学というまったく異なる領域が混じりあうことであった。もっと言えば、政治の領域が文学の領域を汚染することであった。つまり、政治が思想を組織化して、人間の内面の精神を管理しようとすることである。その組織化された思想が、イデオロギーである。こうして、イデオロギーは、人間の精神を非人間化する。
 したがって、政治の領域と文学の領域とは、明確に分けるべきである。これが、小林の結論である。精神や思想は、文学や芸術の領域に委ねて、政治は、物質的生活の管理技術だけに集中すべきなのである。
 そして、そのための第一歩は、政治というものの本質を理解することだと小林は言う。先ず認識すべきは、政治とは、集団を対象とするがゆえに、組織化・機械化へと向かう傾向にあるということだ。』(P160)

こんなものが「政治に敗れた引き籠り評論家の、逃げ口上」でしかないのは、明らかだろう。
たしかに「文学」は、「政治」に汚染されて、紋切り型の「イデオロギー」に堕するべきではない。しかし、現にそうなっているのは、見てのとおり、小林秀雄自身なのである。
彼は「政治」的な抑圧に抗えなかったからこそ、つまり「汚染」されたからこそ、慌てて「政治の中に、安全な隔離施設」を与えてもらい、そこで「自由(フリーダム)」に「戦争協力」に勤しんだだけなのだ。決して「政治」から「独立(リバティ)」していたのではないのである。

「文学」が「政治」から独立しているというのは、「政治」から大目に見てもらって、負け犬としての延命をはかるということではない。
そうではなく、「政治」からの侵襲/汚染を退けて、逆に「政治」に対して侵襲/除染を試みる、対抗的「独立性」を保持することなのだ。「切り離して、引き籠る」のではなく「独立して、対峙する」ものこそが、「文学」なのである。

にも関わらず、「保身的なだけの引き籠り男」が、訳知り顔で『政治というものの本質を理解することだ』などと言うにいたっては、片腹痛いと言う他ないだろう。

つまり、「政治と文学は別世界を扱うもの」という観念的な「切り離し戦術」において、小林秀雄は「小林秀雄にとっての文学」に引き籠もっただけであり、そこにおいて、戦中・戦後を一貫して「言い訳と自己正当化の言葉」を紡ぎ続けただけなのである。

ちなみに、本書で知ったのだが、小林秀雄は、こんなことを言っているそうだ。

『 本当を言へば、大衆は侮蔑されたがつてゐる。支配されたがつてゐる。獣物達にとつて、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもつと嫌ひだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言はれゝば、そんな厄介な重荷に誰が堪へられよう。』(P167)

『彼等は論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかつたか、と思ひたがるものだ。』(P168)

まったく、そのとおりなのだ。
小林秀雄自身、このように考えているからこそ、臆面もなく「私は戦争協力したのではなく、文学者の本分を貫いただけだ。だから、反省なんぞしない」と『一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事』にしたのだ。

そして、誰がなんと言おうと「自分の意見をくり返すだけの馬鹿」ほど手に負えないものはないというのを、小林秀雄に学んだ、自称「保守」たる、安倍晋三だの菅義偉だの「日本会議」のメンバーだのに共通するのが、この「恥しらずな手法」なのである。

また『理論を好まぬ。自由はもつと嫌ひだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言はれゝば、そんな厄介な重荷に誰が堪へられよう。』と、ここで言われている『大衆』とは、まさに「小林秀雄を読まずに崇めたてている」自称「保守」の「ネトウヨ」のことなのである。

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なお、第六章の、丸山眞男の「小林秀雄批判」に対する、本書著者である中野の反駁についても、『このように(※ 丸山の著書である)『日本の思想』における小林解釈は、何から何まで間違っていたのである。』(P211~212)という言葉からも容易に察せられるとおり、小林への「好意的切り貼り」と丸山への「悪意ある切り貼り」を組み合わせた、略図的な創作にすぎない。

小林秀雄と丸山眞男の比較における、この恣意的な切り貼り。つまり、小林の「短所」を切り詰め、丸山を「長所」を切り詰めた上で、それを比較してみせる、およそ「文学的な探究」とは縁のない、陰謀政治的にプラグマティックな「編集操作」の手際だ。
中野の「政治」論によれば、政治は結果がすべてであり、こういうことも許される、というわけである。

それにしても、これまで丸山眞男を高く評価してきた数多くの人たちが、揃いも揃って「自分(中野剛志)の足元にも及ばないボンクラ」だと考えるのは、ほとんど自己愛妄想的な自己過信(うぬぼれ)であり、良くて、官僚らしい「安っぽいプロパガンダ」でしかない。もちろんこれも「政治における、効率的な大衆管理」においては許される、ということなのであろう。

この他にも、丸山眞男が『何から何まで間違っていた』(P212)、『何から何まで(※ 小林秀雄と)正反対であった。』(P236)といった、いかにも慎重さや誠実さを欠いた、ケレン味たっぷりの大袈裟な口振りに、中野剛志という人の「ハッタリ」気質がよく表れてもいよう。

第六章の後半は、ほとんど小林秀雄を出しにして、自分の好きな「デューイとプラグマティズム」の魅力を、読者にかまわず、陶酔的なまでに滔々と捲し立てているの感がある。つまり、中野とは、こういう人なのだろう。まさにこれが、中野剛志の「文体」いうわけである。

いかに無理筋の屁理屈でも、それを通して見せるのが「できる官僚の手際」だとでも言いたげな中野のやり方。本書は、そんな中野剛志という元官僚による、強引かつ器用な官僚的作文としての「小林秀雄論」なのである。
だが、それゆえにこそ必然的に、「政治」文書ではあっても、「文学」ではないのだ。

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『 (※ 小林秀雄によって)ここに表明されているのは、困難な環境という制約から逃げるのではなく、その制約を受け入れ、かつそれと戦うことで、危機を克服するという姿勢である。それは、彫刻家にとっての大理石、モーツァルトにとっての音楽の型、詩人にとっての言葉のように、制約の中にあって、制約の客観と己の主観とを一致させるという経験である。そして、そこにこそ「自由(フリーダム)」がある。』(P276~277)

小林秀雄の自己正当化に利用された、モーツァルトやドストエフスキーこそ、好い面の皮である。

本書は、「保守主義ナショナリスト」による、精一杯の「小林秀雄擁護論(正当化論)」ではあるものの、いかんせん、この程度のものに説得されるのは、「文学」とは無縁で、あまり本を読まない(したがって、理論や自由を好まず、自由な判断もしたくない、ただ勝者に盲従したいだけの依存的な)安っぽいナショナリストだけなのではないだろうか。

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