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【至急・注意喚起】悪質危険運転車両情報【横浜530ち9968】

 投稿者:日高市・下鹿山抜作  投稿日:2020年 3月23日(月)20時43分54秒
返信・引用
  【広域警戒】悪質犯罪車両 ホンダインサイト【被害届提出済】

【あおり運転常習犯】ホンダインサイト【横浜530 ち 9968】
  各地であおり運転を繰り返しています。ご注意ください!

※特に埼玉、東京の方は全域に渡り十分警戒して
  ください。型落ち中古のホンダインサイトで色は
  シルバーです。被害にあわれた方は至急最寄りの
   警察署まで通報してください。

 ・あおり運転の他、当たり屋的な行為もあり大変危険
 ・各地に神出鬼没、泣き寝入り被害者多数と思われる
  ・任意保険未加入の可能性あり  ・モラル欠落、虚言癖あり
 ・情性欠如者(反社会性人格障害)・サイコパスの兆候顕著
  ・警察による危険運転取締り強化・交通規則等は完全無視
  ・自己の楽しみであおり行為を繰り返し、罪悪感は全く無し

東京・中目黒の山手通りでヤバすぎるあおり運転の
ホンダ・インサイトが当て逃げ!蛇行に幅寄せと危険運転の
オンパレード 【横浜 530 ち 9968】  ※被害届提出済

東京都目黒区中目黒の山手通りで、かなり危険な幅寄せ
アタックや急ブレーキを繰り返し、あおり運転をする乗用車
「ホンダ・インサイト(横浜 530 ち 99-68 / 9968)」に突如絡まれる
ドラレコ動画が話題になっています。動画最後の方でインサイトの
幅寄せアタックにより接触したと思われるシーンもありますが、
インサイトはそのまま逃走してしまいました。
 
 

読書会中止のお知らせ

 投稿者:アレン  投稿日:2020年 3月13日(金)07時19分4秒
返信・引用
  【中止のお知らせ】新型コロナウイルス感染症予防の一環とのことで、利用予定だった会議室が使用できなくなりました。そのため、3/22に予定していた「砂の女」読書会の開催を延期します。
既に参加表明されていた方や検討されていた方には申し訳ありません。
http://w1allen.seesaa.net/article/472863438.html

http://w1allen.seesaa.net/

 

『砂の女』読書会(第18回KAP)

 投稿者:アレン  投稿日:2020年 1月 2日(木)18時26分16秒
返信・引用
  お世話になります。アレン(岡)です。

2020/3/29(日)13:00に高槻市立文化会館(集会室301号)にて、第18回関西安部公房オフ会(略称KAP)の読書会を岡田さんとともに開催します。課題本は『砂の女』です。

言わずとしれた安部公房の代表作です。砂丘に昆虫採集にきた教師が、村人にはめられ、過酷な砂掻きを強要されることになる。様々な脱出の試みがことごとく失敗に終わるうちに、教師の内面にも変容を来す。いろんな解釈ができると思います。みなさまと感想を意見交換したいと思います。

開催要項の詳細は、以下をご覧ください。
http://w1allen.seesaa.net/article/472863438.html

初参加大歓迎です。課題本を読んでいただければ、誰でも参加申し込みいただけます。
「KAP読書会の紹介」や以前の読書会報告を参考にしていただければ、幸いです。
http://w1allen.seesaa.net/
から読めます

貴方の来訪を心よりお待ちしております。
近くの餃子の王将で二次会もあります。こちらもお気軽にご参加ください。

今回はネット中継はありません。主宰者だけを映したものを後日公開します。

過去の録画は、
https://www.youtube.com/user/w1allen/videos
でご覧になれます

ー読書会という舞台装置が、他者への通路を開くキッカケになることを夢見てー
http://w1allen.seesaa.net/

http://w1allen.seesaa.net/

 

『友達・棒になった男』読書会(第17回KAP)

 投稿者:アレン  投稿日:2019年 7月15日(月)14時03分30秒
返信・引用
  お世話になります。アレン(岡)です。
2019/9/29(日)13:00に高槻市立文化会館(集会室301号)にて、
『友達・棒になった男』読書会を岡田さんとともに開催します。
取り上げる作品は、「友達」と「棒になった男」の二作品です。

最近でも「友達」はよく上演されています。平凡な男の部屋にある日闖入してくる9人の家族。主人公の生活を平然と蹂躙する彼らは一体何者でしょうか?不条理性と普遍性が繰り返し上演される理由なのではないでしょうか?本読書会で、その理由に迫れたらと思います。

※なお、その次以降の課題本は、メジャー作品に戻すことを予定しています。

開催要項の詳細は、以下をご覧ください。
http://w1allen.seesaa.net/article/467754706.html

初参加大歓迎です。課題本を読んでいただければ、誰でも参加申し込みいただけます。
「KAP読書会の紹介」や以前の読書会報告を参考にしていただければ、幸いです。
http://w1allen.seesaa.net/
から読めます

貴方の来訪を心よりお待ちしております。
近くの餃子の王将で二次会もあります。こちらもお気軽にご参加ください。

今回はネット中継はありません。主宰者だけを映したものを後日公開します。

過去の録画は、
https://www.youtube.com/user/w1allen/videos
でご覧になれます

ー読書会という舞台装置が、他者への通路を開くキッカケになることを夢見てー
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『榎本武揚』読書会(第16回KAP)

 投稿者:w1allen  投稿日:2019年 1月17日(木)21時43分20秒
返信・引用
  お世話になります。アレン(岡)です。
2019/3/24(日)13:00に高槻市立文化会館(集会室301号)にて、
『榎本武揚』読書会を岡田さんとともに開催します。

幕臣であり、明治時代には様々な大臣を歴任した榎本武揚は一体どのような人物でしょうか?勝者とも悲運の者とも見做されない榎本武揚を敢えて題材にしたところに、安部公房の密かな企みすら感じます。時代の変革期にこそ読みたい一冊で、安部公房の隠れた名作のような気がします。皆様のご参加をお待ちしております。

開催要項の詳細は、以下をご覧ください。
http://w1allen.seesaa.net/article/463692187.html

初参加大歓迎です。課題本を読んでいただければ、誰でも参加申し込みいただけます。
「KAP読書会の紹介」や以前の読書会報告を参考にしていただければ、幸いです。
http://w1allen.seesaa.net/
から読めます

貴方の来訪を心よりお待ちしております。
近くの餃子の王将で二次会もあります。こちらもお気軽にご参加ください。

今回はネット中継はありませんが、録画したものを後日公開します。
映りたくない方にはマスクをご用意します。マスクをお持ちくださっても結構です。

過去の録画は、
https://www.youtube.com/user/w1allen/videos
でご覧になれます

ー読書会という舞台装置が、他者への通路を開くキッカケになることを夢見てー
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http://w1allen.seesaa.net/

 

『幽霊はここにいる・どれい狩り』読書会(第15回KAP)

 投稿者:アレン  投稿日:2018年 6月 6日(水)21時31分32秒
返信・引用
  お世話になります。アレン(岡)です。
10/28(日)13:00に高槻市立文化会館(集会室301号)にて、
『幽霊はここにいる・どれい狩り』読書会を岡田さんとともに開催します。

安部公房は、小説家でもあり劇作家でもありました。KAPで戯曲作品を取り上げるのは、今回が初めてで運営側としても新鮮な気持ちで臨みます。「幽霊はここにいる」は、戦友の幽霊を信じ込んでいる青年が、事情があり町を離れていていた詐欺師に出会うことから始まる「喜劇」です。しかし、同時に色んな周辺の問題や怖さも感じさせてくれる作品だと思います。皆さまの様々な感想に触れたいと思っています。

開催要項の詳細は、以下をご覧ください。
http://w1allen.seesaa.net/article/459489077.html

初参加大歓迎です。課題本を読んでいただければ、誰でも参加申し込みいただけます。
「KAP読書会の紹介」や以前の読書会報告を参考にしていただければ、幸いです。
http://w1allen.seesaa.net/
から読めます

貴方の来訪を心よりお待ちしております。
近くの餃子の王将で二次会もあります。こちらもお気軽にご参加ください。

今回はネット中継はありませんが、録画したものを後日公開します。
映りたくない方にはマスクをご用意します。マスクをお持ちくださっても結構です。

過去の録画は、
https://www.youtube.com/user/w1allen/videos
でご覧になれます

ー読書会という舞台装置が、他者への通路を開くキッカケになることを夢見てー
http://w1allen.seesaa.net/

http://w1allen.seesaa.net/

 

改定

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 5月21日(月)15時16分25秒
返信・引用
  前のを破棄して後の投稿に改定します。  

Re: 劇団風斜公演『絶対零度』(鐘下辰男作)を観て

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 5月21日(月)15時11分55秒
返信・引用
  神戸の劇団風斜公演『絶対零度』を観てきました。この公演についてはすでに大熊氏の劇評が出ているので、筋も分かりやすくまずそちらを参照していただきたい。
http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs/8613?TEACUPRBBS=16dde05706fb1949b84c2cb84418e7df

《吉田佳奈さんの白熱の演技》
この劇は娘の里美を中学教師宮田に殺された母親の恵子とその夫瀬川、という関係で恵子、宮田、瀬川の3人による劇である。まず特筆すべきは母親役吉田佳奈さんの緊迫の演技で、全身全霊を賭した入魂の演技であった。それは最初にゆっくり登場し観客に向かった時からぐっと引き付けられ、最後に舞台を去っていくまでの90分、途切れぬ緊張感に貫かれているのは見事である。その緊張感の中でも怒りに高揚する気迫の時だけでなく、悲嘆と失望に暮れる沈鬱の底へと、さらに教師宮田との対話の中で常に笑みを浮かべる間も、その振幅の中でずっと緊張を保つというのは、相当な精神力である。もちろん他の二人の共演者もその緊迫感を維持するに貢献しているわけではある。だがこの劇の成功の大部分は吉田さんの心魂傾けた力強い体当たりの演技によるものであろう。

《二つの対立軸》
娘を殺された母・恵子は直接拘置所へ乗り込む。最初のこの場面で、奥に便器が見える。これはあとで各種の排泄物を飲み込むという重要な役割を果たす。恵子は教師の宮田に一審判決の死刑を受け入れ、控訴しないよう要求する。なぜ恵子は直接教師のところへ来なければならなかったのか。それは娘を殺された怒りを、社会のシステムを通してはぶつけて解消することはできないからだ。いわば社会のシステムからはじき出されているのだ。娘も「教師の指導に従わなかった」として非難され、殺されて当然のように言われる。宮田も、死刑になるということは、社会から排除されることなのだ。こうしてまず社会からの排除と隔離と抹殺が、個人の前に立ちはだかる。「個人」と「社会」の対立構造がまず根底にある。
> 恵子は殺された娘の「存在の否定と抹消」の無念を、娘の名誉をかけて怒りを持って宮田にぶつける。それに対して宮田はいろいろな論理でもって拒絶する。ここには「感情」対「論理」の対立がある。ふつう多くは「論理」が正統性を主張し、それに屈服しないものとしての「感情」があることが多い。だがここでは逆で、「感情」が「論理」を屈服させようとしている。けれどもそれも折り合えない対立なのである。「感情」と「論理」はいつもそんな関係である。そしてこの劇ではやがて「感情」が「論理」を追い詰めていく。

《四人目の登場人物》
この劇には登場しない四人目の人物がいる。娘の里美である。私は長年学習塾をして中学生と接してきたので、この娘「里美」はどうしても気にかかる。生活指導の教師の指導に従わなかった、ということで観客にも「しようもない不良少女」とか「あばずれ」とか思われてしまったであろう。本当にそうだろうか?私の経験では、中学生のルール違反もよく接して話を聞けば、それなりに理由があることが多い。それは単に家庭の責任とは言えないものである。そして宮田の生活指導に従わなかった、という。だがここに香水のエピソードが述べられる。里美は香水を持っていたことが校則違反とされたのだった。けれど母親によれば、それは以前に母がつけていた香水を「いい匂いね」と里美が言ったため、同じものを娘に持たせたのだった。つまり母と娘の絆を象徴するものであった。それをルールだからと一概に否定して社会的に抹殺してよいであろうか?そんなわけはない。娘は学校という小さな社会で、その恣意的なルールから外れたという理由だけで殺されてしまった。ところで社会のこういった排除のルールは社会にとっても自らを縛るくびきである。そのようなルールで狭く一色にまとめられた社会はそれだけ脆弱であることは、先の戦争でのファシズムやナショナリズムのしたことを考えれば容易に理解できることである。私の敬愛する安部公房はまず国家の言う「正統」を疑え、と言った。そして「異端」が社会を進歩させる意味を問うた。つまり「ルール」の幅の大きさはその社会の変革の可能性への大きさであり、それはその社会の未来を開くものである。そうみれば「里美」の、世間から嘘とデマで色づけられた異端の意味は、本質的にルールを超えて社会の中にそのままで存在意義を持っていると言えよう。「里美」の成育歴と何を思っていたか、これは恵子役をされた吉田さんがたぶんサブストーリーとして想像し、吟味し、恵子への内面化をされていたと思う。一方、教師の宮田にとっては「里美」はあくまで指導制圧すべき「外部」でしかなく、恵子にとっては「里美」は自分の分身であり片身であるという「自己の内部」である。その違いが折り合いがつくことは決してないのである。

《恵子と瀬川・宮田》
恵子の再婚の相手、瀬川は、世間の風を恵子にもたらし、恵子にとって世間となる。その性(さが)は世の男性の、夫のタイプを表す。恵子への愛情がないわけではないが、里美をめぐっては実子でないこともあって恵子と断絶が大きくなっていく。その修復が上手くいかずに爆発して暴力で屈服させようとする。ここでは私は自分の父親からの、母へのあるいは自分への暴力を想起していたたまれなかった。R15とあるが、私はすべての暴力場面に拒否反応を示すことを公言しておく。劇では暴力を表することで夫婦関係は破たんせざるを得ないことになる。
恵子と教師の宮田との対面はスリリングである。宮田を責める恵子の表情には常に笑みが見えて、それはすごく凄惨な感じ、凄みを感じさせる。だがそれは後に共感への笑みに意味が変化していくのである。この展開は私には予想されたものであった。なぜなら拘置所に出かけて宮田との面会をたびたび求めたのは恵子であり、二人の間には攻撃と反発の立場の違いはあれ、交流の場と相互依存関係、すなわちラポールが形成されるからである。それは容易に同情と共感に転移する。「生きてもらう」「私のためにも」と恵子が宮田に言う時、それはもう愛情表現である。これには私の倫理観は拒否反応を示した。予想される展開だからこそなおさらに。救われるのは、そのあと宮田がついに精神のバランスを崩したか、記憶をなくしてしまい、恵子が誰だかわからなくなっていることだ。だがそのあとも恵子が宮田を訪れることが示される以上、これは私の倫理観にはそぐわない。

《絶対零度とは》
ここまでに展開された三人の関係、そこにはそれぞれの個の立場があり、その間には越えられない断絶がある。これが絶対零度と言われるのであろう。安部公房において、ゲマインシャフトたる農山村的共同体から、「個人」は都市へ彷徨し、真の「個人」を形成した者が相互にコミュニケーションすることによって新しい共同社会を作っていく、という「他者への通路」が示されているが、その意味ではこの劇での「個の断絶」すなわち「絶対零度」は出発点である。この劇では個の確立に不十分さはあるが、それがさらに次の「他者への通路」を目指すには、さらにもう一つのストーリーが必要となろう。

《便器その他》
部屋の隅に置かれた便器は、本来人間の排泄物を受け入れるものである。が、劇の中では宮田とのやり取りに苦しんだ恵子がその苦悩があふれ出る嘔吐を便器に吐き出す。あるいは便器が受け入れる。瀬川とのやり取りでも同様の嘔吐をなす。また宮田に向けられた保護者たちの減刑嘆願書も破棄されて便器に捨てられる。人は自分が処理できず心情からあふれ出たものを受け入れてくれる物(者)が必要なのであろう。
仕切りのない場所での、一幕もののような舞台で、恵子が服を着て靴を履いて拘置所に出かけ、それは拘置所の場面となり、服を脱いで靴も脱げばそれは自宅の場面となる。三人が初めは入れ替わって対話する場を形成するがすぐに三人が同時に存在して、恵子を軸として瀬川と会話し、宮田と対することで、場面転換を想像させているのは、よく工夫されている。演技についても宮田の大きな笑い声は当初から発現されるが、それは狂気を含んでいることを思わせる。宮田が時々歌う「テルテル坊主」の歌もまだ幼さの残る里美らを想起させる、と見てもいいかもしれない。音楽音響や照明の微細な操作も場面によく沿って見事であった。
この劇団風斜の公演において、特筆すべきは、三人だけの出演で、拘置所に対話に出かけるという普通にはあり得ない話なのだが、それが対話と演技そのものの力によって十分なリアリティが現出されていることである。その演出の構成と想像と努力は素晴らしく、構想された場面を実際に役者とその演技でそれに近づけていく、その指導はとても大変なものであったろうと想像されるのである。もちろんそれに体当たりで臨まれた役者さんたちの努力の積み重ねの苦労も偲ばれる。そのあたりのことを演出の日下部先生に直に教えていただくことができたのも無上の喜びでした。
 

劇団風斜公演『絶対零度』(鐘下辰男作)を観て

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 5月20日(日)23時05分9秒
返信・引用
  神戸の劇団風斜公演『絶対零度』を観てきました。この公演についてはすでに大熊氏の劇評が出ているので、筋も分かりやすくまずそちらを参照していただきたい。
http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs/8613?TEACUPRBBS=16dde05706fb1949b84c2cb84418e7df

《吉田佳奈さんの白熱の演技》
この劇は娘の里美を中学教師宮田に殺された母親の恵子とその夫瀬川、という関係で恵子、宮田、瀬川の3人による劇である。まず特筆すべきは母親役吉田佳奈さんの緊迫の演技で、全身全霊を賭した入魂の演技であった。それは最初にゆっくり登場し観客に向かった時からぐっと引き付けられ、最後に舞台を去っていくまでの90分、途切れぬ緊張感に覆われているのは見事である。その緊張感の中でも怒りに高揚する気迫の時だけでなく、悲嘆と失望に暮れる沈鬱の底へと、さらに教師宮田との対話の中で常に笑みを浮かべる間も、その振幅の中でずっと緊張を保つというのは、相当な精神力である。もちろん他の共演者もその緊迫感を維持するに貢献しているわけではある。だがこの劇の成功の大部分は吉田さんの心魂傾けた力強い体当たりの演技によるものであろう。

《二つの対立軸》
娘を殺された母・恵子は直接拘置所へ乗り込む。最初のこの場面で、奥に便器が見える。これはあとで各種の排泄物を飲み込むという重要な役割を果たす。恵子は教師の宮田に一審判決の死刑を受け入れ、控訴しないよう要求する。なぜ恵子は直接教師のところへ来なければならなかったのか。それは娘を殺された怒りを、社会のシステムを通してはぶつけて解消することはできないからだ。いわば社会のシステムからはじき出されているのだ。娘も「教師の指導に従わなかった」として非難され、殺されて当然のように言われる。宮田でさえ、死刑になるということは、社会から排除されることなのだ。こうしてまず社会からの排除と隔離と抹殺が、個人の前に立ちはだかる。「個人」と「社会」の対立構造がまず根底にある。
恵子は殺された娘の「存在の抹消」の無念を、娘の名誉をかけて怒りを持って宮田にぶつける。それに対して宮田はいろいろな論理でもって拒絶する。ここには「感情」対「論理」の対立がある。ふつう多くは「論理」が正統性を主張し、それに屈服しないものとしての「感情」があることが多い。だがここでは逆で、「感情」が「論理」を屈服させようとしている。けれどもそれも折り合えない対立なのである。「感情」と「論理」はいつもそんな関係である。そしてこの劇ではやがて「感情」が「論理」を追い詰めていく。

《四人目の登場人物》
私は長年学習塾をして中学生と接してきたので、この娘「里美」はどうしても気にかかる。生活指導の教師の指導に従わなかった、ということで観客にも「しようもない不良少女」とか「あばずれ」とか思われてしまったであろう。本当にそうだろうか?私の経験では、中学生のルール違反もよく接して話を聞けば、それなりに理由があることが多い。生活指導に従わなかった、という。だがそれで社会的に抹殺されてよいであろうか?そんなわけはない。娘は学校という小さな社会で、その恣意的なルールに従わなかったという理由で殺されてしまうことになる。ところで社会のこういった排除のルールは社会にとっても自らを縛るくびきである。そのようなルールで狭く一色にまとめられた社会はそれだけ脆弱であることは、先の戦争でのファシズムのしたことを考えれば容易に理解できることである。私の敬愛する安部公房はまず国家の言う「正統」を疑え、と言った。そして「異端」が社会を進歩させる意味を問うた。つまり「ルール」の幅の大きさはその社会の変革の可能性への大きさである。そうみれば「里美」の、世間から嘘とデマで色づけられた異端の意味は本質的にルールを超えて社会の中にそのままで存在意義を持っていよう。「里美」の成育歴と何を思っていたか、これは恵子役をされた吉田さんがたぶんサブストーリーとして想像し、吟味し、恵子への内面化をされていると思う。一方、教師の宮田にとっては「里美」はあくまで指導制圧すべき「外部」でしかなく、恵子にとって「里美」は自分の分身であり片身であるという「自己の内部」である。その差が折り合いがつくことは決してないのである。

《恵子と瀬川・宮田》
恵子の再婚の相手、瀬川は、世間の風を恵子にもたらし、恵子にとって世間となる。その性は世の男性の、夫のタイプを表す。恵子への愛情がないわけではないが、里美をめぐっては恵子と断絶が大きくなっていく。その修復が上手くいかずに爆発して暴力で屈服させようとする。ここでは私は自分の父親の、母へのあるいは自分への暴力を想起していたたまれなかった。R15とあるが、私はすべての暴力場面に拒否反応を示すことを公言しておく。劇では暴力を表することで夫婦関係は破たんせざるを得ない。
恵子と教師の宮田との対面はスリリングである。宮田を責める恵子の表情には笑みが見えて、それはすごく凄惨な感じをもたらす。だがそれは後に共感への笑みに意味が変化していくのである。この展開は私には予想されたものであった。なぜなら拘置所に出かけて宮田との面会を求めたのは恵子であり、二人の間には攻撃と反発の違いはあれ、交流の場、ラポールが形成されるからである。それは容易に同情と共感に転変する。「生きてもらう」「私のためにも」はもう愛情表現である。これには私の倫理観は拒否反応を示した。予想される展開だからこそなおさらに。救われるのは、そのあと宮田がついに精神のバランスを崩したか、記憶をなくしてしまい、恵子が誰だかわからなくなっていることだ。だがそのあとも恵子が宮田を訪れることが予想される以上、これは私の倫理観にはそぐわない。

《絶対零度とは》
ここまでに展開された三人の関係、そこにはそれぞれの個の立場があり、その間には越えられない断絶がある。これが絶対零度と言われる。安部公房において、ゲマインシャフトたる農山村的共同体から、個人は都市へ彷徨し、真の「個人」を形成した者が相互にコミュニケーションすることによって新しい共同社会を作っていく、という「他者への通路」が示されているが、その意味ではこの劇での個の断絶すなわち絶対零度は出発点である。個の確立に不十分さはあるが、それがさらに次の「他者への通路」を目指すには、さらにもう一つのお話が必要となろう。

《便器その他》
部屋の隅に置かれた便器は、本来人間の排泄物を受け入れるものである。が、劇の中では宮田とのやり取りに苦しんだ恵子がその苦悩があふれ出る嘔吐を便器に吐き出す。あるいは便器が受け入れる。瀬川とのやり取りでも同様の嘔吐をなす。また宮田に向けられた保護者たちの減刑嘆願書も破棄されて便器に捨てられる。人は自分が処理できずあふれさせたものを受け入れてくれる物(者)が必要なのであろう。
仕切りのない場所での、一幕もののような舞台で、恵子が服を着て靴を履いて拘置所に出かけ、それは拘置所の場面となり、服を脱いで靴も脱げばそれは自宅の場面となる。三人が初めは入れ替わって対話する場を形成するがすぐに三人が同時に存在して、恵子を軸として瀬川と会話し、宮田と対することで、場面転換を想像させているのは、よく工夫されている。演技についても宮田の大きな笑い声は当初から発現されるが、それは狂気を含んでいることを思わせる。宮田が時々歌う「テルテル坊主」の歌もまだ幼さの残る里美らを想起させる、と見てもいいかもしれない。
特筆すべきは、三人だけの出演で、拘置所に対話に出かけるという普通にはあり得ない話に、対話そのものの力によって十分なリアリティが現出されていることである。その演出の構成と想像と努力は素晴らしく、構想された場面を実際に役者とその演技でそれに近づけていく、その指導はとても大変なものであったろうと想像されるのである。

 

『人間そっくり』(2)精神病院のトポロジー

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 3月30日(金)23時13分18秒
返信・引用
  さて【20】節の精神病院である。気がつくと主人公はここに入れられて、「狂気の法廷」の証人席に立たされている。
一体に、精神病院で自分が精神病でない、「正常な人間」であることをどう証明すればよいのでしょう?
それが出来ないこと、証明不可能であることは、「正常な人間」と「精神病者」との間にトポロジー的に同位な関係があることが現れているのではないでしょうか。この逃れられない恐怖が、安部公房がこの小説で作り上げた状況であると思います。

自称火星人とその妻とは、一方が「正気」なら他方は「精神病」で、二律背反のように思わされてきた。だが「自分も火星人でないという証拠はどこにもない」と言ってしまったとたん、二人は「先生は、火星人なのよ」「ぼくらの友達さ」と一致し、ぼくは狭窄衣にからめとられる。そして「地球病にかかった火星人」として浴室から火星に送られたのである。
送られた精神病院は「火星の精神病院である」。32人の先に地球に送られた火星人の一人として「地球病」にかかったまま火星に送られたのだ。
この精神病院を地球のものと思っている人は、真の恐怖に近づけない。地球の精神病院でも「正常」であることを証明するのは困難である。まして火星の精神病院では、主人公は何と言明すればよいのでしょう?
怖いのは、そこが地球なのか火星なのか、知らされていないことにもある。彼は地球の病院だと思って弁明を試みるが、受け入れられない。そのうちに「火星なのでは?」と疑い始める。そうするとどういうことになるのであろうか?何と答えればよいのだろう?ここでも二律背反に陥って答えることは不可能なのだ。
「自分は人間だ」と言いつのればそれは「地球病にかかった火星人」と見なされ、解放されない。かといって「自分は火星人だ」と偽って答えることが出来るのか?

「いまあなたが立っている、その場所は、はたして実話の世界なのでしょうか、それとも、寓話の世界なのでしょうか・・・」と最後の問いがある。「実話の世界」に生きる人にとっては、このお話はせいぜい寓話でしかない。「寓話の世界」に生きると思う人は、この小説は抜け出すことのできない実話である。

この小説の現代的意義については、まず近頃一部で猛り狂っているレイシストたちが、非難する人種・民族への差異を明らかにすることがトポロジー的に不可能であることを示している。「火星人」は「人間」との差異として「両目の間が開きすぎている」ということしか示されない。これは区別する基準として十分ではない。むしろトポロジー的には同位(ホモロジー)であることを示している。人種・民族もすべて「人間」としてトポロジー的に同位であることは明らかである。
また現代の「精神病院」の意義がその根拠を揺るがされているのも、読書会で報告された「東日本大震災で明らかになった精神病院の入院不要な患者の発見」にも示される通りである。患者の側から見た精神科医療の問題点については、読書会に来られたことのある白井京月さんのブログ記事があります。http://blog.livedoor.jp/mds25/archives/23174460.html

戻って考えると、「正常」と「精神病」は二項対立ではない。それは単にどちらが正常でどちらが精神病か、または精神病から見ればこちらが正常で正常者が異常である、とかいう問題ではなく、「正常≒精神病」という関係性の表現でしかないのではないかと思います。
 

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