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『幽霊はここにいる・どれい狩り』読書会(第15回KAP)

 投稿者:アレン  投稿日:2018年 6月 6日(水)21時31分32秒
返信・引用
  お世話になります。アレン(岡)です。
10/28(日)13:00に高槻市立文化会館(集会室301号)にて、
『幽霊はここにいる・どれい狩り』読書会を岡田さんとともに開催します。

安部公房は、小説家でもあり劇作家でもありました。KAPで戯曲作品を取り上げるのは、今回が初めてで運営側としても新鮮な気持ちで臨みます。「幽霊はここにいる」は、戦友の幽霊を信じ込んでいる青年が、事情があり町を離れていていた詐欺師に出会うことから始まる「喜劇」です。しかし、同時に色んな周辺の問題や怖さも感じさせてくれる作品だと思います。皆さまの様々な感想に触れたいと思っています。

開催要項の詳細は、以下をご覧ください。
http://w1allen.seesaa.net/article/459489077.html

初参加大歓迎です。課題本を読んでいただければ、誰でも参加申し込みいただけます。
「KAP読書会の紹介」や以前の読書会報告を参考にしていただければ、幸いです。
http://w1allen.seesaa.net/
から読めます

貴方の来訪を心よりお待ちしております。
近くの餃子の王将で二次会もあります。こちらもお気軽にご参加ください。

今回はネット中継はありませんが、録画したものを後日公開します。
映りたくない方にはマスクをご用意します。マスクをお持ちくださっても結構です。

過去の録画は、
https://www.youtube.com/user/w1allen/videos
でご覧になれます

ー読書会という舞台装置が、他者への通路を開くキッカケになることを夢見てー
http://w1allen.seesaa.net/

http://w1allen.seesaa.net/

 
 

改定

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 5月21日(月)15時16分25秒
返信・引用
  前のを破棄して後の投稿に改定します。  

Re: 劇団風斜公演『絶対零度』(鐘下辰男作)を観て

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 5月21日(月)15時11分55秒
返信・引用
  神戸の劇団風斜公演『絶対零度』を観てきました。この公演についてはすでに大熊氏の劇評が出ているので、筋も分かりやすくまずそちらを参照していただきたい。
http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs/8613?TEACUPRBBS=16dde05706fb1949b84c2cb84418e7df

《吉田佳奈さんの白熱の演技》
この劇は娘の里美を中学教師宮田に殺された母親の恵子とその夫瀬川、という関係で恵子、宮田、瀬川の3人による劇である。まず特筆すべきは母親役吉田佳奈さんの緊迫の演技で、全身全霊を賭した入魂の演技であった。それは最初にゆっくり登場し観客に向かった時からぐっと引き付けられ、最後に舞台を去っていくまでの90分、途切れぬ緊張感に貫かれているのは見事である。その緊張感の中でも怒りに高揚する気迫の時だけでなく、悲嘆と失望に暮れる沈鬱の底へと、さらに教師宮田との対話の中で常に笑みを浮かべる間も、その振幅の中でずっと緊張を保つというのは、相当な精神力である。もちろん他の二人の共演者もその緊迫感を維持するに貢献しているわけではある。だがこの劇の成功の大部分は吉田さんの心魂傾けた力強い体当たりの演技によるものであろう。

《二つの対立軸》
娘を殺された母・恵子は直接拘置所へ乗り込む。最初のこの場面で、奥に便器が見える。これはあとで各種の排泄物を飲み込むという重要な役割を果たす。恵子は教師の宮田に一審判決の死刑を受け入れ、控訴しないよう要求する。なぜ恵子は直接教師のところへ来なければならなかったのか。それは娘を殺された怒りを、社会のシステムを通してはぶつけて解消することはできないからだ。いわば社会のシステムからはじき出されているのだ。娘も「教師の指導に従わなかった」として非難され、殺されて当然のように言われる。宮田も、死刑になるということは、社会から排除されることなのだ。こうしてまず社会からの排除と隔離と抹殺が、個人の前に立ちはだかる。「個人」と「社会」の対立構造がまず根底にある。
> 恵子は殺された娘の「存在の否定と抹消」の無念を、娘の名誉をかけて怒りを持って宮田にぶつける。それに対して宮田はいろいろな論理でもって拒絶する。ここには「感情」対「論理」の対立がある。ふつう多くは「論理」が正統性を主張し、それに屈服しないものとしての「感情」があることが多い。だがここでは逆で、「感情」が「論理」を屈服させようとしている。けれどもそれも折り合えない対立なのである。「感情」と「論理」はいつもそんな関係である。そしてこの劇ではやがて「感情」が「論理」を追い詰めていく。

《四人目の登場人物》
この劇には登場しない四人目の人物がいる。娘の里美である。私は長年学習塾をして中学生と接してきたので、この娘「里美」はどうしても気にかかる。生活指導の教師の指導に従わなかった、ということで観客にも「しようもない不良少女」とか「あばずれ」とか思われてしまったであろう。本当にそうだろうか?私の経験では、中学生のルール違反もよく接して話を聞けば、それなりに理由があることが多い。それは単に家庭の責任とは言えないものである。そして宮田の生活指導に従わなかった、という。だがここに香水のエピソードが述べられる。里美は香水を持っていたことが校則違反とされたのだった。けれど母親によれば、それは以前に母がつけていた香水を「いい匂いね」と里美が言ったため、同じものを娘に持たせたのだった。つまり母と娘の絆を象徴するものであった。それをルールだからと一概に否定して社会的に抹殺してよいであろうか?そんなわけはない。娘は学校という小さな社会で、その恣意的なルールから外れたという理由だけで殺されてしまった。ところで社会のこういった排除のルールは社会にとっても自らを縛るくびきである。そのようなルールで狭く一色にまとめられた社会はそれだけ脆弱であることは、先の戦争でのファシズムやナショナリズムのしたことを考えれば容易に理解できることである。私の敬愛する安部公房はまず国家の言う「正統」を疑え、と言った。そして「異端」が社会を進歩させる意味を問うた。つまり「ルール」の幅の大きさはその社会の変革の可能性への大きさであり、それはその社会の未来を開くものである。そうみれば「里美」の、世間から嘘とデマで色づけられた異端の意味は、本質的にルールを超えて社会の中にそのままで存在意義を持っていると言えよう。「里美」の成育歴と何を思っていたか、これは恵子役をされた吉田さんがたぶんサブストーリーとして想像し、吟味し、恵子への内面化をされていたと思う。一方、教師の宮田にとっては「里美」はあくまで指導制圧すべき「外部」でしかなく、恵子にとっては「里美」は自分の分身であり片身であるという「自己の内部」である。その違いが折り合いがつくことは決してないのである。

《恵子と瀬川・宮田》
恵子の再婚の相手、瀬川は、世間の風を恵子にもたらし、恵子にとって世間となる。その性(さが)は世の男性の、夫のタイプを表す。恵子への愛情がないわけではないが、里美をめぐっては実子でないこともあって恵子と断絶が大きくなっていく。その修復が上手くいかずに爆発して暴力で屈服させようとする。ここでは私は自分の父親からの、母へのあるいは自分への暴力を想起していたたまれなかった。R15とあるが、私はすべての暴力場面に拒否反応を示すことを公言しておく。劇では暴力を表することで夫婦関係は破たんせざるを得ないことになる。
恵子と教師の宮田との対面はスリリングである。宮田を責める恵子の表情には常に笑みが見えて、それはすごく凄惨な感じ、凄みを感じさせる。だがそれは後に共感への笑みに意味が変化していくのである。この展開は私には予想されたものであった。なぜなら拘置所に出かけて宮田との面会をたびたび求めたのは恵子であり、二人の間には攻撃と反発の立場の違いはあれ、交流の場と相互依存関係、すなわちラポールが形成されるからである。それは容易に同情と共感に転移する。「生きてもらう」「私のためにも」と恵子が宮田に言う時、それはもう愛情表現である。これには私の倫理観は拒否反応を示した。予想される展開だからこそなおさらに。救われるのは、そのあと宮田がついに精神のバランスを崩したか、記憶をなくしてしまい、恵子が誰だかわからなくなっていることだ。だがそのあとも恵子が宮田を訪れることが示される以上、これは私の倫理観にはそぐわない。

《絶対零度とは》
ここまでに展開された三人の関係、そこにはそれぞれの個の立場があり、その間には越えられない断絶がある。これが絶対零度と言われるのであろう。安部公房において、ゲマインシャフトたる農山村的共同体から、「個人」は都市へ彷徨し、真の「個人」を形成した者が相互にコミュニケーションすることによって新しい共同社会を作っていく、という「他者への通路」が示されているが、その意味ではこの劇での「個の断絶」すなわち「絶対零度」は出発点である。この劇では個の確立に不十分さはあるが、それがさらに次の「他者への通路」を目指すには、さらにもう一つのストーリーが必要となろう。

《便器その他》
部屋の隅に置かれた便器は、本来人間の排泄物を受け入れるものである。が、劇の中では宮田とのやり取りに苦しんだ恵子がその苦悩があふれ出る嘔吐を便器に吐き出す。あるいは便器が受け入れる。瀬川とのやり取りでも同様の嘔吐をなす。また宮田に向けられた保護者たちの減刑嘆願書も破棄されて便器に捨てられる。人は自分が処理できず心情からあふれ出たものを受け入れてくれる物(者)が必要なのであろう。
仕切りのない場所での、一幕もののような舞台で、恵子が服を着て靴を履いて拘置所に出かけ、それは拘置所の場面となり、服を脱いで靴も脱げばそれは自宅の場面となる。三人が初めは入れ替わって対話する場を形成するがすぐに三人が同時に存在して、恵子を軸として瀬川と会話し、宮田と対することで、場面転換を想像させているのは、よく工夫されている。演技についても宮田の大きな笑い声は当初から発現されるが、それは狂気を含んでいることを思わせる。宮田が時々歌う「テルテル坊主」の歌もまだ幼さの残る里美らを想起させる、と見てもいいかもしれない。音楽音響や照明の微細な操作も場面によく沿って見事であった。
この劇団風斜の公演において、特筆すべきは、三人だけの出演で、拘置所に対話に出かけるという普通にはあり得ない話なのだが、それが対話と演技そのものの力によって十分なリアリティが現出されていることである。その演出の構成と想像と努力は素晴らしく、構想された場面を実際に役者とその演技でそれに近づけていく、その指導はとても大変なものであったろうと想像されるのである。もちろんそれに体当たりで臨まれた役者さんたちの努力の積み重ねの苦労も偲ばれる。そのあたりのことを演出の日下部先生に直に教えていただくことができたのも無上の喜びでした。
 

劇団風斜公演『絶対零度』(鐘下辰男作)を観て

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 5月20日(日)23時05分9秒
返信・引用
  神戸の劇団風斜公演『絶対零度』を観てきました。この公演についてはすでに大熊氏の劇評が出ているので、筋も分かりやすくまずそちらを参照していただきたい。
http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs/8613?TEACUPRBBS=16dde05706fb1949b84c2cb84418e7df

《吉田佳奈さんの白熱の演技》
この劇は娘の里美を中学教師宮田に殺された母親の恵子とその夫瀬川、という関係で恵子、宮田、瀬川の3人による劇である。まず特筆すべきは母親役吉田佳奈さんの緊迫の演技で、全身全霊を賭した入魂の演技であった。それは最初にゆっくり登場し観客に向かった時からぐっと引き付けられ、最後に舞台を去っていくまでの90分、途切れぬ緊張感に覆われているのは見事である。その緊張感の中でも怒りに高揚する気迫の時だけでなく、悲嘆と失望に暮れる沈鬱の底へと、さらに教師宮田との対話の中で常に笑みを浮かべる間も、その振幅の中でずっと緊張を保つというのは、相当な精神力である。もちろん他の共演者もその緊迫感を維持するに貢献しているわけではある。だがこの劇の成功の大部分は吉田さんの心魂傾けた力強い体当たりの演技によるものであろう。

《二つの対立軸》
娘を殺された母・恵子は直接拘置所へ乗り込む。最初のこの場面で、奥に便器が見える。これはあとで各種の排泄物を飲み込むという重要な役割を果たす。恵子は教師の宮田に一審判決の死刑を受け入れ、控訴しないよう要求する。なぜ恵子は直接教師のところへ来なければならなかったのか。それは娘を殺された怒りを、社会のシステムを通してはぶつけて解消することはできないからだ。いわば社会のシステムからはじき出されているのだ。娘も「教師の指導に従わなかった」として非難され、殺されて当然のように言われる。宮田でさえ、死刑になるということは、社会から排除されることなのだ。こうしてまず社会からの排除と隔離と抹殺が、個人の前に立ちはだかる。「個人」と「社会」の対立構造がまず根底にある。
恵子は殺された娘の「存在の抹消」の無念を、娘の名誉をかけて怒りを持って宮田にぶつける。それに対して宮田はいろいろな論理でもって拒絶する。ここには「感情」対「論理」の対立がある。ふつう多くは「論理」が正統性を主張し、それに屈服しないものとしての「感情」があることが多い。だがここでは逆で、「感情」が「論理」を屈服させようとしている。けれどもそれも折り合えない対立なのである。「感情」と「論理」はいつもそんな関係である。そしてこの劇ではやがて「感情」が「論理」を追い詰めていく。

《四人目の登場人物》
私は長年学習塾をして中学生と接してきたので、この娘「里美」はどうしても気にかかる。生活指導の教師の指導に従わなかった、ということで観客にも「しようもない不良少女」とか「あばずれ」とか思われてしまったであろう。本当にそうだろうか?私の経験では、中学生のルール違反もよく接して話を聞けば、それなりに理由があることが多い。生活指導に従わなかった、という。だがそれで社会的に抹殺されてよいであろうか?そんなわけはない。娘は学校という小さな社会で、その恣意的なルールに従わなかったという理由で殺されてしまうことになる。ところで社会のこういった排除のルールは社会にとっても自らを縛るくびきである。そのようなルールで狭く一色にまとめられた社会はそれだけ脆弱であることは、先の戦争でのファシズムのしたことを考えれば容易に理解できることである。私の敬愛する安部公房はまず国家の言う「正統」を疑え、と言った。そして「異端」が社会を進歩させる意味を問うた。つまり「ルール」の幅の大きさはその社会の変革の可能性への大きさである。そうみれば「里美」の、世間から嘘とデマで色づけられた異端の意味は本質的にルールを超えて社会の中にそのままで存在意義を持っていよう。「里美」の成育歴と何を思っていたか、これは恵子役をされた吉田さんがたぶんサブストーリーとして想像し、吟味し、恵子への内面化をされていると思う。一方、教師の宮田にとっては「里美」はあくまで指導制圧すべき「外部」でしかなく、恵子にとって「里美」は自分の分身であり片身であるという「自己の内部」である。その差が折り合いがつくことは決してないのである。

《恵子と瀬川・宮田》
恵子の再婚の相手、瀬川は、世間の風を恵子にもたらし、恵子にとって世間となる。その性は世の男性の、夫のタイプを表す。恵子への愛情がないわけではないが、里美をめぐっては恵子と断絶が大きくなっていく。その修復が上手くいかずに爆発して暴力で屈服させようとする。ここでは私は自分の父親の、母へのあるいは自分への暴力を想起していたたまれなかった。R15とあるが、私はすべての暴力場面に拒否反応を示すことを公言しておく。劇では暴力を表することで夫婦関係は破たんせざるを得ない。
恵子と教師の宮田との対面はスリリングである。宮田を責める恵子の表情には笑みが見えて、それはすごく凄惨な感じをもたらす。だがそれは後に共感への笑みに意味が変化していくのである。この展開は私には予想されたものであった。なぜなら拘置所に出かけて宮田との面会を求めたのは恵子であり、二人の間には攻撃と反発の違いはあれ、交流の場、ラポールが形成されるからである。それは容易に同情と共感に転変する。「生きてもらう」「私のためにも」はもう愛情表現である。これには私の倫理観は拒否反応を示した。予想される展開だからこそなおさらに。救われるのは、そのあと宮田がついに精神のバランスを崩したか、記憶をなくしてしまい、恵子が誰だかわからなくなっていることだ。だがそのあとも恵子が宮田を訪れることが予想される以上、これは私の倫理観にはそぐわない。

《絶対零度とは》
ここまでに展開された三人の関係、そこにはそれぞれの個の立場があり、その間には越えられない断絶がある。これが絶対零度と言われる。安部公房において、ゲマインシャフトたる農山村的共同体から、個人は都市へ彷徨し、真の「個人」を形成した者が相互にコミュニケーションすることによって新しい共同社会を作っていく、という「他者への通路」が示されているが、その意味ではこの劇での個の断絶すなわち絶対零度は出発点である。個の確立に不十分さはあるが、それがさらに次の「他者への通路」を目指すには、さらにもう一つのお話が必要となろう。

《便器その他》
部屋の隅に置かれた便器は、本来人間の排泄物を受け入れるものである。が、劇の中では宮田とのやり取りに苦しんだ恵子がその苦悩があふれ出る嘔吐を便器に吐き出す。あるいは便器が受け入れる。瀬川とのやり取りでも同様の嘔吐をなす。また宮田に向けられた保護者たちの減刑嘆願書も破棄されて便器に捨てられる。人は自分が処理できずあふれさせたものを受け入れてくれる物(者)が必要なのであろう。
仕切りのない場所での、一幕もののような舞台で、恵子が服を着て靴を履いて拘置所に出かけ、それは拘置所の場面となり、服を脱いで靴も脱げばそれは自宅の場面となる。三人が初めは入れ替わって対話する場を形成するがすぐに三人が同時に存在して、恵子を軸として瀬川と会話し、宮田と対することで、場面転換を想像させているのは、よく工夫されている。演技についても宮田の大きな笑い声は当初から発現されるが、それは狂気を含んでいることを思わせる。宮田が時々歌う「テルテル坊主」の歌もまだ幼さの残る里美らを想起させる、と見てもいいかもしれない。
特筆すべきは、三人だけの出演で、拘置所に対話に出かけるという普通にはあり得ない話に、対話そのものの力によって十分なリアリティが現出されていることである。その演出の構成と想像と努力は素晴らしく、構想された場面を実際に役者とその演技でそれに近づけていく、その指導はとても大変なものであったろうと想像されるのである。

 

『人間そっくり』(2)精神病院のトポロジー

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 3月30日(金)23時13分18秒
返信・引用
  さて【20】節の精神病院である。気がつくと主人公はここに入れられて、「狂気の法廷」の証人席に立たされている。
一体に、精神病院で自分が精神病でない、「正常な人間」であることをどう証明すればよいのでしょう?
それが出来ないこと、証明不可能であることは、「正常な人間」と「精神病者」との間にトポロジー的に同位な関係があることが現れているのではないでしょうか。この逃れられない恐怖が、安部公房がこの小説で作り上げた状況であると思います。

自称火星人とその妻とは、一方が「正気」なら他方は「精神病」で、二律背反のように思わされてきた。だが「自分も火星人でないという証拠はどこにもない」と言ってしまったとたん、二人は「先生は、火星人なのよ」「ぼくらの友達さ」と一致し、ぼくは狭窄衣にからめとられる。そして「地球病にかかった火星人」として浴室から火星に送られたのである。
送られた精神病院は「火星の精神病院である」。32人の先に地球に送られた火星人の一人として「地球病」にかかったまま火星に送られたのだ。
この精神病院を地球のものと思っている人は、真の恐怖に近づけない。地球の精神病院でも「正常」であることを証明するのは困難である。まして火星の精神病院では、主人公は何と言明すればよいのでしょう?
怖いのは、そこが地球なのか火星なのか、知らされていないことにもある。彼は地球の病院だと思って弁明を試みるが、受け入れられない。そのうちに「火星なのでは?」と疑い始める。そうするとどういうことになるのであろうか?何と答えればよいのだろう?ここでも二律背反に陥って答えることは不可能なのだ。
「自分は人間だ」と言いつのればそれは「地球病にかかった火星人」と見なされ、解放されない。かといって「自分は火星人だ」と偽って答えることが出来るのか?

「いまあなたが立っている、その場所は、はたして実話の世界なのでしょうか、それとも、寓話の世界なのでしょうか・・・」と最後の問いがある。「実話の世界」に生きる人にとっては、このお話はせいぜい寓話でしかない。「寓話の世界」に生きると思う人は、この小説は抜け出すことのできない実話である。

この小説の現代的意義については、まず近頃一部で猛り狂っているレイシストたちが、非難する人種・民族への差異を明らかにすることがトポロジー的に不可能であることを示している。「火星人」は「人間」との差異として「両目の間が開きすぎている」ということしか示されない。これは区別する基準として十分ではない。むしろトポロジー的には同位(ホモロジー)であることを示している。人種・民族もすべて「人間」としてトポロジー的に同位であることは明らかである。
また現代の「精神病院」の意義がその根拠を揺るがされているのも、読書会で報告された「東日本大震災で明らかになった精神病院の入院不要な患者の発見」にも示される通りである。患者の側から見た精神科医療の問題点については、読書会に来られたことのある白井京月さんのブログ記事があります。http://blog.livedoor.jp/mds25/archives/23174460.html

戻って考えると、「正常」と「精神病」は二項対立ではない。それは単にどちらが正常でどちらが精神病か、または精神病から見ればこちらが正常で正常者が異常である、とかいう問題ではなく、「正常≒精神病」という関係性の表現でしかないのではないかと思います。
 

『人間そっくり』(1)名付けられない世界とトポロジー

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 3月26日(月)23時39分55秒
返信・引用
  まことさんの投稿に元気づけられて『人間そっくり』の感想を書かせていただきます。読書会では十分に表現できませんでした。
まことさんは「この話におけるトポロジーはなぜ成立しているのだろう?」とおっしゃっているのは、この小説においてトポロジーは成功している、という見方なのだと思われます。でも評価されない方は、トポロジーが成立していない、またはそこがわからない、という方なのだろうと思います。私は成立している、と見ていて、そこにこそ、この作品の構成の深さと怖さが立ち現れてくると思っています。

まず【1】節は重要な節で、最後の【20】節から続く循環構成になっています。まことさんは
(1)(……どうかあなたが、(中略)≪人間)であってくれますように!)と
(2)(……だからと言って、(中略)ぼくと同類の存在であってくれますように!)
をとりあげられていて「≪人間≫であることの証明不可能性を「あなた」へ向けて投げかけています。」と私たちに向けられたものと捉えられています。
もちろんその通りですが、これはもともと主人公自身が突き付けられた不可能性ですね。
私たちは「人間である」というアプリオリな認識に立っていますが、そこに「人間そっくり」の「火星人」が現れたとき、「人間とは?」という概念規定を求められるのですが、それは不可能だというわけです。これは安部公房において原初的に世界認識をする「名付け」が不可能ということです。この世界=地球はここにおいて「無名性」の世界となるわけで、このことは【19】節に部屋から出た外の光景(現実の世界)を「そう、今でもまざまざと思い出すのだ、(中略)ぼくにとっては、最後になった、あの無名の現世の光景を―ー」と書かれているのにも現れています。ついでながら火星人の部屋はそのあとに「固有名詞をもった世界」と対照させられています。この意味は、「もう自分が概念規定をする必要のない、外部からすでに規定されている世界」ということだろうと思います。
これらのことは、少なくとも主人公の意識において、彼のいるところは「火星」であることを示しています。
【1】節にはこれを暗示するもう一つの表現があります。もし主人公が火星にいるなら、この手記がどうして私たちの目に触れることになったのかについて「どんな経路であなたの手にとどいたものか、それさえまるで見当もつかない」とその疑問への予防線が張られているのです。

この小説は、「人間」「地球人」「地球病(火星人から見て地球人に感化されてしまった火星人)」「火星病(地球人から見て火星人に感化された地球人)」「火星人」それらに通底していて、「人間」と「火星人」を区別不能にする「人間そっくり」というトポロジー的に同位(ホモロジー)である概念によって構成されている。その構成は【20】節の精神病院(狂気の法廷)において頂点に達し、結実する。(続く)


 

『人間そっくり』と狂気の法廷

 投稿者:嘘月まこと  投稿日:2018年 3月26日(月)02時19分58秒
返信・引用
  こんにちは。「笑う月」読書会などに参加しました、まことです。今回の読書会は都合がつかず、参加できませんでした。
今回とりあげた作品、『人間そっくり』について、割と参加者の方々からは不評だったということを目にして、その理由はなぜなのか、気になっていたので、自分なりに掘り下げてみようと思いました。

欠席代わりといってはなんですが、ここの掲示板に感想を書こうと思います。


さっそくですが、僕はこの小説の主題をあえて挙げるとしたら「共犯関係」なのではないかと思いました。
この作品の軸となるテーマ(作者に言わせてみれば、それは作品の後から出てきたものにすぎないもの)が「トポロジー」であることは、登場人物の台詞からも再三ヒントのように説明されているため、言うまでもない事でしょう。

僕が注目したのは、「この話におけるトポロジーはなぜ成立しているのだろう?」という点です。
ある位相と別の位相が本来つながるはずのない地点から反転して結びつくというトポロジーが成立するためには、登場人物同士の思惑が二律背反的である必要があると思います。あえてこの部分を強調しておき、主人公と自称火星人の男のやりとりを哲学的な「信念」を導入して読み込んでみると、トポロジーの外殻が分かると思います。

①主人公は自身を「人間=地球人である」ことを疑わず、それを信念としている。
②その一方で、自称火星人の男は、自分が「火星人であること」を信念としている。

ここで重要なのは、「男が正真正銘の火星人」かどうかの議論はどうでもよくて、
「異なる信念を持つものが2人存在している」ことに目を向ける必要があると思います。
加えて、このトポロジーを難解(らしく)見せている要因として、冒頭での主人公の独白が重要になってきます。
主人公は冒頭で、読者(「あなた」)に向け、2回にわけて懇願をしています。
初めは、

(1)(……どうかあなたが、(中略)≪人間)であってくれますように!)

と、「あなた」へ向けて語りかけています。

その後続けて、

(2)(……だからと言って、(中略)ぼくと同類の存在であってくれますように!)

と、先ほどの≪人間≫であることの証明不可能性を「あなた」へ向けて投げかけています。
この2つの懇願によって、実は読者(あなた)は、主人公の平行線(あるいは狂気の法廷)の論理に参加させられてしまう、二重のトポロジーのワナが仕掛けられていると解釈しました。
①と②が虚構内のアポステリオリ(後天的)な平行線であるとするなら、(1)と(2)はアプリオリ(先天的)な平行線を呼び起こす「まくら」として、読者と主人公の間でお互いが≪人間≫としての信念を持っていることを暗黙の内に了解させています。

おそらく、この作品に対する不評の要因は、この「2つの懇願」の部分だと僕は思いました。
「火星人なんか存在しない」という信念は、確実性を問い直す前にグーグルでわかる(かのように)強固な内在的条件として現在の私たちは環境が整備されている。
言いかえると、それほど私たちは現実を自分で論理的に問い直さなくとも、信念として持つようになった、ある意味では不信を不信として発見できない時代になったとも言えるでしょう。(いちおうですが、僕は別に「火星人が存在する」というオカルトを擁護しようとしているわけではないです(笑)。)

僕はこの作品のテーマを「共犯関係」だと解釈しました。
2人の人物が異なる信念を持つがゆえに、「共犯関係」が成り立つだろうか。
「共犯関係」が成り立つには、お互いが犯行内容を理解していなければならない。
【10】の終盤で、男が主人公のために考えたペンネーム「甲田申由」が真ん中を二つ折りにした際に、ぴったり一致するというのは象徴的です。(山口果林さんのお名前のエピソードを思い出します。)
読者から見れば、主人公は完全に狂人によってどこかへ連れ去られた被害者に見えますが、主人公は自身も気がつかぬうちに、「人間そっくり」という論証不可能な詭弁を作り上げてしまったという点において、トポロジカルな共犯者に陥ってしまったのではないでしょうか。

ちなみに、野暮な読み方ですが、個人的に「自称火星人の男」は普通の人間(ただし狂人)であると思って読んでいました。主人公から何度も「やっぱりただの人間じゃないか!」と呆れられると、極度に暴力性を発揮したり、殺気を漲らせたりすることから、彼は「(不信の時代の)人間として自分が断定されることを恐れていた」のではないかと感じました。おそらく、それが狂人の彼にとってのトポロジーな狂気の法廷に立たされる道だったのではないでしょうか。

読書会で奥さんの対応が実は正解なのでは、という指摘がありましたがあの部分は僕も本当にそうだと思い、笑ってしまいました。
 

『人間そっくり』読書会

 投稿者:アレン  投稿日:2018年 1月 8日(月)18時55分17秒
返信・引用
  お世話になります。アレン(岡)です。
3/11(日)13:00に高槻市立文化会館(集会室203号)にて、
『人間そっくり』読書会を岡田さんとともに開催します。

1967年に早川書房から出版された本作は、打ち切り間近のラジオ番組の脚本家の家に自称火星人がやってくるところから始まるという、何とも滑稽な設定です。しかし、話が進んだように見えては、いつの間にか原点に戻ってくる執拗さもあり、滑稽だとばかりも言えません。終盤では、いつしか笑えなくなってくるという怖さもある作品だとも思います。みなさんのご感想をお聞かせください。

開催要項の詳細は、以下をご覧ください。
http://w1allen.seesaa.net/article/456067706.html

初参加大歓迎です。課題本を読んでいただければ、誰でも参加申し込みいただけます。
「KAP読書会の紹介」や以前の読書会報告を参考にしていただければ、幸いです。
http://w1allen.seesaa.net/
から読めます

貴方の来訪を心よりお待ちしております。
近くの餃子の王将で二次会もあります。こちらもお気軽にご参加ください。

また、ネット中継もします。
http://www.ustream.tv/channel/9p4MS4HaSRf

過去の録画は、
https://www.youtube.com/user/w1allen/videos
でご覧になれます

ー読書会という舞台装置が、他者への通路を開くキッカケになることを夢見てー

http://w1allen.seesaa.net/

 

『笑う月』読書会

 投稿者:アレン  投稿日:2017年10月18日(水)13時58分2秒
返信・引用
  お世話になります。アレン(岡)です。
11/5(日)13:00に京都市右京ふれあい文化会館(第二会議室)にて、
『笑う月』読書会を岡田さんとともに開催します。

新潮文庫の裏表紙には「夢のスナップショット」と銘打たれています。いろいろな毛色の変わったエッセイなどが散りばめられていますので、それぞれ参加者の好きな作品を紹介していただいて、それに他の方の感想も重ねて、興趣の深い会話をしていきつつ、作品が読者に与える不可思議なイメージをそのまま共有していきたいと思っています

開催要項の詳細は、以下をご覧ください。
http://w1allen.seesaa.net/article/453534805.html

初参加大歓迎です。課題本を読んでいただければ、誰でも参加申し込みいただけます。
「KAP読書会について」や前回の読書報告を参考にしていただければ、幸いです。
http://w1allen.seesaa.net/
から読めます

貴方の来訪を心よりお待ちしております。
近くの餃子の王将で二次会もあります。こちらもお気軽にご参加ください。

また、ネット中継もします。
http://www.ustream.tv/channel/9p4MS4HaSRf

過去の録画は、
https://www.youtube.com/user/w1allen/videos?
でご覧になれます

ー読書会という舞台装置が、他者への通路を開くキッカケになることを夢見てー

http://w1allen.seesaa.net/

 

『城塞』の「こわれてしまうんだ!」の意味

 投稿者:hirokd267  投稿日:2017年 5月 1日(月)23時38分11秒
返信・引用
  新国立劇場の安部公房原作「城塞」の公演が終わりました。私は4月21日に観ましたが、基本的に安部公房の脚本に忠実なせりふと、深い解釈に基づく、そのうえでの創造的な舞台構成と、5人の俳優さんの熱演、に感動しました。その主な感想はtwitterで#城塞を付けて述べてきました。

そのラストシーンは踊り子役のストリップシーンと急激な背景展開でクライマックスを迎えつつ終わる。
その熱情に流されて見逃されやすいが、そのストリップシーンはそもそも息子である「男」が仕掛けたものである。「男」は抑圧されてきた父親に、仕組んだ劇の種明かしをしたり、自分の方がより事業を発展させた、などと追い詰めていく。そして最後に踊り子にストリップをさせて父親にそれを見させ、「さあ、お父さん、こわれてしまうんだ! こわれてしまうんだ!」と叫ぶ。父親はそれから目を逸らせ逃げようと身もだえる。男もそれまで手を触れることさえ出来なかった踊り子にキスをし、ストリップの腰をのぞき込み、壊れてしまうのだった。

ここでなぜ「こわれてしまうんだ!」と父親に見せつけ、父親はなぜそれから逃れようとするのか?
ストリップを見ることで何が壊れるのか?それがどんな意味を持つのか?

私は1968、9年の学生のころ、友人たちを語らって「平和を考える会」を開いていた。そのころの私の前の戦争への関心事は「あの時代にいかにして戦争に参加しないで自分を保持できるか」ということで、「次の戦争には参加しない」ということでは他の者も一致していた。2歳下のYはあるとき「感情とか欲望を抑えてはいけない」と言ったが私はそこまで共感できなかった。もう1歳下のMは後に団塊の世代と呼ばれる年代だが、私に「ストリップの話になるとスッと身を引きよる」と言うくらい倫理的なこだわりは持たなかった。

さてこのYの言葉だが、彼は「欲しがりません。勝つまでは」という掛け声に「欲望を抑えられた」のではなく「欲望を我々が抑えたのが戦争を推進した」と言うのだ。それをすぐ受け入れられなかった私には倫理的な殻があった。Мの言葉にも私の殻を指摘する意味があった。

「こわれてしまうんだ!」はこのような倫理的な殻とそれに守られた建前と世間への同化、すなわち心の「城塞」を破壊せよ、という叫びであり、ストリップを見る、という欲望によってそれをなし、欲望を解放することによって戦争への力を無にすることが出来るはずだ、という叫びであろう、と思う。

もちろん「城塞」は自分たちの心にあるだけでなく、国家という城塞をも意味することは、ラストシーンの日の丸と岩壁が象徴し、それに向かって裸の踊り子が立ち向かう、それによってその城塞も破壊されるだろう、というのは、この劇の演出が安部公房の意図を解釈し、表現しえたものであると考えます。
 

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