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劇団風斜公演『絶対零度』(鐘下辰男作)を観て

 投稿者:hirokd267  投稿日:2018年 5月20日(日)23時05分9秒
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  神戸の劇団風斜公演『絶対零度』を観てきました。この公演についてはすでに大熊氏の劇評が出ているので、筋も分かりやすくまずそちらを参照していただきたい。
http://6823.teacup.com/kumagoro/bbs/8613?TEACUPRBBS=16dde05706fb1949b84c2cb84418e7df

《吉田佳奈さんの白熱の演技》
この劇は娘の里美を中学教師宮田に殺された母親の恵子とその夫瀬川、という関係で恵子、宮田、瀬川の3人による劇である。まず特筆すべきは母親役吉田佳奈さんの緊迫の演技で、全身全霊を賭した入魂の演技であった。それは最初にゆっくり登場し観客に向かった時からぐっと引き付けられ、最後に舞台を去っていくまでの90分、途切れぬ緊張感に覆われているのは見事である。その緊張感の中でも怒りに高揚する気迫の時だけでなく、悲嘆と失望に暮れる沈鬱の底へと、さらに教師宮田との対話の中で常に笑みを浮かべる間も、その振幅の中でずっと緊張を保つというのは、相当な精神力である。もちろん他の共演者もその緊迫感を維持するに貢献しているわけではある。だがこの劇の成功の大部分は吉田さんの心魂傾けた力強い体当たりの演技によるものであろう。

《二つの対立軸》
娘を殺された母・恵子は直接拘置所へ乗り込む。最初のこの場面で、奥に便器が見える。これはあとで各種の排泄物を飲み込むという重要な役割を果たす。恵子は教師の宮田に一審判決の死刑を受け入れ、控訴しないよう要求する。なぜ恵子は直接教師のところへ来なければならなかったのか。それは娘を殺された怒りを、社会のシステムを通してはぶつけて解消することはできないからだ。いわば社会のシステムからはじき出されているのだ。娘も「教師の指導に従わなかった」として非難され、殺されて当然のように言われる。宮田でさえ、死刑になるということは、社会から排除されることなのだ。こうしてまず社会からの排除と隔離と抹殺が、個人の前に立ちはだかる。「個人」と「社会」の対立構造がまず根底にある。
恵子は殺された娘の「存在の抹消」の無念を、娘の名誉をかけて怒りを持って宮田にぶつける。それに対して宮田はいろいろな論理でもって拒絶する。ここには「感情」対「論理」の対立がある。ふつう多くは「論理」が正統性を主張し、それに屈服しないものとしての「感情」があることが多い。だがここでは逆で、「感情」が「論理」を屈服させようとしている。けれどもそれも折り合えない対立なのである。「感情」と「論理」はいつもそんな関係である。そしてこの劇ではやがて「感情」が「論理」を追い詰めていく。

《四人目の登場人物》
私は長年学習塾をして中学生と接してきたので、この娘「里美」はどうしても気にかかる。生活指導の教師の指導に従わなかった、ということで観客にも「しようもない不良少女」とか「あばずれ」とか思われてしまったであろう。本当にそうだろうか?私の経験では、中学生のルール違反もよく接して話を聞けば、それなりに理由があることが多い。生活指導に従わなかった、という。だがそれで社会的に抹殺されてよいであろうか?そんなわけはない。娘は学校という小さな社会で、その恣意的なルールに従わなかったという理由で殺されてしまうことになる。ところで社会のこういった排除のルールは社会にとっても自らを縛るくびきである。そのようなルールで狭く一色にまとめられた社会はそれだけ脆弱であることは、先の戦争でのファシズムのしたことを考えれば容易に理解できることである。私の敬愛する安部公房はまず国家の言う「正統」を疑え、と言った。そして「異端」が社会を進歩させる意味を問うた。つまり「ルール」の幅の大きさはその社会の変革の可能性への大きさである。そうみれば「里美」の、世間から嘘とデマで色づけられた異端の意味は本質的にルールを超えて社会の中にそのままで存在意義を持っていよう。「里美」の成育歴と何を思っていたか、これは恵子役をされた吉田さんがたぶんサブストーリーとして想像し、吟味し、恵子への内面化をされていると思う。一方、教師の宮田にとっては「里美」はあくまで指導制圧すべき「外部」でしかなく、恵子にとって「里美」は自分の分身であり片身であるという「自己の内部」である。その差が折り合いがつくことは決してないのである。

《恵子と瀬川・宮田》
恵子の再婚の相手、瀬川は、世間の風を恵子にもたらし、恵子にとって世間となる。その性は世の男性の、夫のタイプを表す。恵子への愛情がないわけではないが、里美をめぐっては恵子と断絶が大きくなっていく。その修復が上手くいかずに爆発して暴力で屈服させようとする。ここでは私は自分の父親の、母へのあるいは自分への暴力を想起していたたまれなかった。R15とあるが、私はすべての暴力場面に拒否反応を示すことを公言しておく。劇では暴力を表することで夫婦関係は破たんせざるを得ない。
恵子と教師の宮田との対面はスリリングである。宮田を責める恵子の表情には笑みが見えて、それはすごく凄惨な感じをもたらす。だがそれは後に共感への笑みに意味が変化していくのである。この展開は私には予想されたものであった。なぜなら拘置所に出かけて宮田との面会を求めたのは恵子であり、二人の間には攻撃と反発の違いはあれ、交流の場、ラポールが形成されるからである。それは容易に同情と共感に転変する。「生きてもらう」「私のためにも」はもう愛情表現である。これには私の倫理観は拒否反応を示した。予想される展開だからこそなおさらに。救われるのは、そのあと宮田がついに精神のバランスを崩したか、記憶をなくしてしまい、恵子が誰だかわからなくなっていることだ。だがそのあとも恵子が宮田を訪れることが予想される以上、これは私の倫理観にはそぐわない。

《絶対零度とは》
ここまでに展開された三人の関係、そこにはそれぞれの個の立場があり、その間には越えられない断絶がある。これが絶対零度と言われる。安部公房において、ゲマインシャフトたる農山村的共同体から、個人は都市へ彷徨し、真の「個人」を形成した者が相互にコミュニケーションすることによって新しい共同社会を作っていく、という「他者への通路」が示されているが、その意味ではこの劇での個の断絶すなわち絶対零度は出発点である。個の確立に不十分さはあるが、それがさらに次の「他者への通路」を目指すには、さらにもう一つのお話が必要となろう。

《便器その他》
部屋の隅に置かれた便器は、本来人間の排泄物を受け入れるものである。が、劇の中では宮田とのやり取りに苦しんだ恵子がその苦悩があふれ出る嘔吐を便器に吐き出す。あるいは便器が受け入れる。瀬川とのやり取りでも同様の嘔吐をなす。また宮田に向けられた保護者たちの減刑嘆願書も破棄されて便器に捨てられる。人は自分が処理できずあふれさせたものを受け入れてくれる物(者)が必要なのであろう。
仕切りのない場所での、一幕もののような舞台で、恵子が服を着て靴を履いて拘置所に出かけ、それは拘置所の場面となり、服を脱いで靴も脱げばそれは自宅の場面となる。三人が初めは入れ替わって対話する場を形成するがすぐに三人が同時に存在して、恵子を軸として瀬川と会話し、宮田と対することで、場面転換を想像させているのは、よく工夫されている。演技についても宮田の大きな笑い声は当初から発現されるが、それは狂気を含んでいることを思わせる。宮田が時々歌う「テルテル坊主」の歌もまだ幼さの残る里美らを想起させる、と見てもいいかもしれない。
特筆すべきは、三人だけの出演で、拘置所に対話に出かけるという普通にはあり得ない話に、対話そのものの力によって十分なリアリティが現出されていることである。その演出の構成と想像と努力は素晴らしく、構想された場面を実際に役者とその演技でそれに近づけていく、その指導はとても大変なものであったろうと想像されるのである。

 
 
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